Libo

景德傳燈錄 卷第三

宋 · 道原 · 第60巻 / 151

金州操禪師一日請米和尚齋。不排坐位。米到展坐具禮拜。師下禪床。米乃就師位而坐。師卻席地而坐。齋訖米便去。侍者曰。和尚受一切人欽仰。今日坐位。被人奪卻。師曰。三日若來即受救在。米果三日後來雲。前日遭賊(僧問鏡清。古人遭賊意如何。清雲。只見錐頭利。不見鑿頭方)。

金州操禪師一日米和尚を請じて齋す、坐位を排せず。米到りて坐具を展べて禮拜す。師禪牀を下る。米乃ち師位に就きて坐す。師却て地に席して坐す。齋訖りて米便ち去る。侍者曰く、和尚一切の人の欽仰を受く、今日坐位人に奪はれ却れたり。師曰く、三日若し來らば即ち救いを受くる在り。米果して三日後に來りて曰く、前日賊に遭へり。(僧、鏡清に問ふ、古人賊に遭ふ意如何。清曰く、只錐頭の利を見て鑿頭の方を見ず。)

朗州古堤和尚尋常見僧來每雲。去汝無佛性。僧無對。或有對者。莫契其旨。一日仰山慧寂到參。師雲。去汝無佛性。寂叉手近前應諾。師笑曰。子什麼處得此三昧。寂曰。我從溈山得。寂問曰。和尚從誰得。師曰。我從章敬得。

朗州古堤和尚、尋常僧の來るを見ては每に曰く、去れ、汝佛性無し。僧對無し、或は對へる者有れど其の旨に契ふ莫し。一日仰山慧寂到り參ず。師曰く、去れ、汝佛性無し。寂手を叉して近づき前りて應諾す。師笑ひて曰く、子甚麼の處にか此の三昧を得たる。寂曰く、我潙山より得たり。寂問ひて曰く、和尚は誰より得たる。師曰く、我章敬より得たり。

河中公畿和尚。僧問。如何是道如何是禪。師雲。有名非大道。是非俱不禪。欲識此中意。黃葉止啼錢。

河中公畿和尚。僧問ふ、如何なるか是れ道、如何なるか是れ禪。師曰く、名有れば大道に非ず、是非俱に禪ならず、此の中の意を識らんと欲せば、黃葉の啼を止むる錢。

景徳伝灯録巻第九 黄檗希運禅師『伝心法要』

河東裴休集

河東の裴休が編集した。

有大禪師號希運。住洪州高安縣黃蘗山鷲峰下。乃曹溪六祖之嫡孫。百丈之子西堂之姪。獨佩最上乘。離文字之印。唯傳一心更無別法。心體亦空萬緣俱寂。如大日輪升於虛空中照耀。靜無纖埃。證之者無新舊無淺深。說之者不立義解。不立宗主。不開戶牖。直下便是。動念則乖。然後為本佛。故其言簡其理直其道峻其行孤。四方學徒望山而趨。覩相而悟。往來海眾常千餘人。予會昌二年廉於鍾陵。自山迎至州憩龍興寺。旦夕問道。大中二年廉於宛陵。復禮迎至所部寓開元寺。旦夕受法。退而紀之十得一二。佩為心印不敢發揚。今恐入神精義不聞於未來。遂出之授門下。僧太舟法建歸舊山之廣唐寺。請長老法眾問與往日常所親聞同異何如也。時大唐大中十一年十月八日謹記(自後每段各紀歲月。今刪繁爾)。

大禅師で希運と号する方がおり、洪州高安県の黄檗山鷲峰の麓に住んでいた。曹溪の六祖の嫡孫であり、百丈の子、西堂の甥にあたる。ただ一人最上乘、文字を離れた印を佩び、ただ一心を伝えるのみで、他に別の法はない。心体もまた空で、万縁ともに寂している。大きな日輪が虚空に昇って照らすように、静まり返って一点の塵もない。これを証する者に新旧も浅深もなく、説く者は義解を立てず、宗主を立てず、戸牖を開かない。直下にそのままこれであり、念を動かせばそれに背く。そうして本仏となる。ゆえにその言葉は簡素で、その理は直で、その道は峻厳で、その行は孤高であった。四方の学徒は山を望んで駆けつけ、その相を見て悟った。往来する衆は常に千余人に上った。私は会昌二年に鍾陵の廉使となり、山から州に迎えて龍興寺に憩わせ、朝夕に道を問うた。大中二年に宛陵の廉使となり、再び礼をもって所部に迎え、開元寺に寓わせ、朝夕に法を受けた。退いてこれを記すに、十の一二を得たにすぎず、心印として佩び、あえて発揚しなかった。今、入神の精義が未来に聞こえなくなることを恐れ、ついにこれを出して門下の僧・太舟法建に授け、旧山の広唐寺に帰らせ、長老と法衆に問わせた――昔日つねに親しく聞いたものと、同異はいかがか、と。時に大唐大中十一年十月八日、謹んで記す。(これ以後、各段ごとに歳月を記すが、ここでは煩を省いた。)

諸佛與一切眾生。唯是一心更無別法。此心無始已來不曾生不曾滅。不青不黃無形無相。不屬有無。不計新舊。非長非短非大非小。超過一切限量名言蹤跡對待。當體便是。動念即差。猶如虛空無有邊際不可測度。惟此一心即是佛。佛與眾生更無差異。但是眾生著相外求轉失。使佛覓佛。將心捉心。窮劫盡形終不能得。不知息念忘慮佛自現前○此心即是佛。佛即是眾生。眾生即是佛。佛即是心。為眾生時此心不減。為諸佛時此心不添。乃至六度萬行河沙功德。本自具足不假修添。遇緣則施。緣息則寂。若不決定信此。而欲著相修行以求功用。皆是妄想與道相乖。此心即是佛。更無別佛。亦無別心。此心淨明猶如虛空。無一點相貌。舉心動念即乖法體。即為著相。無始來無著相。佛修六度萬行欲求成佛。即是次第無始來無次第佛。但悟一心更無少法可得。此則真佛。佛與眾生一心無異。猶如虛空無雜無壞。如大日輪照四天下。日照之時明遍天下。虛空不曾明。日沒之後暗遍天下。虛空不曾暗。明暗之景自相凌奪。虛空之性廓然不變。佛與眾生心亦如此。若觀佛作清淨光明解脫之相。觀眾生作垢濁闇昧生死之相。此人作此解。歷河沙劫終不得菩提。即是著相之故。唯此一心。更無微塵許少法可得。即是佛。今學道人不悟此心體。便於心上生心。向外求佛著相修行。皆是惡法非菩提道○供養十方諸佛。不如供養一無心人不可得。無心者無一切心也。如如之體。內外如木石不動不轉。內外如虛空不塞不礙。無能無所。無方所。無相貌無得失。趣者不敢入。此法恐落空。無棲泊處故望涯而退。文殊當理。普賢當行。理者真空無礙之理。行者離相無盡之行。觀音當大慈。勢至當大智。維摩淨名也。淨者性也。名者相也。性相不異號為淨名。諸大菩薩所表者。人皆有之不離一心。悟之即是。今學道人不向自心中悟。

諸仏と一切衆生は、ただこの一心があるのみで、他に別の法はない。この心は無始以来、生まれたことも滅したこともなく、青でも黄でもなく、形も相もなく、有にも無にも属さず、新旧を論ぜず、長でも短でもなく、大でも小でもなく、一切の限量・名言・蹤跡・対待を超えている。当体がそのままこれであり、念を動かせばすぐに外れる。虚空のようで、辺際がなく測ることができない。この一心こそがまさに仏であり、仏と衆生には少しも違いがない。ただ衆生が相に執着して外に求めるために、却って失うのである。仏をもって仏を求め、心をもって心を捉えようとして、劫を窮め形を尽くしても、ついに得ることはできない。念を息め慮を忘れれば、仏はおのずと現前することを知らないのだ。○この心がすなわち仏であり、仏がすなわち衆生であり、衆生がすなわち仏であり、仏がすなわち心である。衆生であるときこの心は減らず、諸仏であるときこの心は増えない。六度万行、恒河沙の功徳に至るまで、もとより具足していて、修め添えるを要しない。縁に遇えば施し、縁が息めば寂する。もしこれを決定して信じずして、相に執着して修行し功を求めようとするなら、すべて妄想であって道に背く。この心がすなわち仏であり、他に別の仏もなく、別の心もない。この心は浄明で虚空のようであり、一点の相貌もない。心を挙げ念を動かせば法体に背き、すなわち着相である。無始以来、着相の仏はない。六度万行を修めて成仏を求めるのは、それは次第である。無始以来、次第の仏はない。ただ一心に悟れば、少しも得るべき法がない――これが真の仏である。仏と衆生は一心で異ならず、虚空のように雑も壊れもない。大きな日輪が四天下を照らすように、日が照るとき明るさが天下に遍くが、虚空が明るくなったわけではない。日が没した後、暗さが天下に遍くが、虚空が暗くなったわけではない。明暗の景はお互いに凌ぎ奪い合うが、虚空の性は廓として変わらない。仏と衆生の心もまたこのようである。もし仏を清浄・光明・解脱の相として観、衆生を垢濁・暗昧・生死の相として観るならば、このような解をなす人は、恒河沙の劫を経てもついに菩提を得られない。それは着相のためである。ただこの一心があり、微塵ほどのわずかな法も得るところがない――これがすなわち仏である。今の学道の人はこの心体に悟らず、心の上に心を生じ、外に向かって仏を求め、相に執着して修行する。すべて悪法であって菩提の道ではない。○十方の諸仏に供養するより、一人の無心の人に供養するに及ばない。得ることはできない。無心とは、一切の心がないことである。如如の体は、内も外も木石のように動かず転ぜず、内も外も虚空のように塞がらず碍げられず、能も所もなく、方所もなく、相貌もなく、得失もない。趣こうとする者はこの法に入ることを敢えてせず、空に落ちて棲泊の処がないことを恐れ、涯を望んで退く。文殊は理にあたり、普賢は行にあたる。理とは、真空无碍の理であり、行とは、離相無尽の行である。観音は大慈にあたり、勢至は大智にあたる。維摩は浄名である。浄とは性であり、名とは相である。性と相が異ならないので浄名と号する。諸大菩薩の表すところは、人は皆これを具え、一心を離れない。悟ればそれである。今の学道の人は自らの心の中に向かって悟ろうとしない。

乃於心外求著相取境。皆與道背。恆河沙者佛說是沙。此沙諸佛菩薩釋梵諸天步履而過。沙亦不喜。牛羊蟲蟻蹈踐而行。沙亦不怒。珍寶馨香沙亦不貪。糞溺臭穢沙亦不惡○此心即無心之心。離一切相。眾生諸佛更無差殊。但能無心便是究竟。學道人。若不直下無心累劫修行終不成道。被三乘功行拘繫不得解脫。然證此心有遲疾。有聞法一念便得無心者。有至十信十住十行十迴向乃得無心者。有至十地乃得無心者。長短得無心即住更無可修。更無可證。實無所得真實不虛。一念而得與十地而得者。功用恰齊更無深淺。只是歷劫枉受辛勤耳。造惡造善皆是著相。著相造惡枉受輪迴。著相造善枉受勞苦。總不如言下自認取本法。此法即心心外無法。此心即法法內無心。心自無心。亦無無心者。將心無心心即成有。默契而已。絕諸思量。故曰。言語道斷心行處滅。此心是本源清淨佛。人皆有之。蠢動畜生與諸佛菩薩一體不異。只為妄想分別造種種業。果本佛上實無一物。虛通寂靜明妙安樂而已。深自悟認。直下便是圓滿具足更無所欠。縱三僧祇精進修行歷諸地位。及一念證時。只證元來自佛。向上更不添得一物。卻觀歷劫功用總是夢中妄為。故如來雲。我於阿耨菩提實無所得。若妄有所得。然燈即不與授記。又云。是法平等無有高下。是名菩提。即此本源清淨心。與眾生諸佛世界山河有相無相遍十方界。一切平等無彼我相。此本源清淨心。常自圓明遍照。世人不悟只認見聞覺知為心。為見聞覺知所覆。所以不覩精明本體。但直下無心本體自現。如大日輪升於虛空遍照十方更無障礙。故學道人惟認見聞覺知為動作。空卻見聞覺知。即心路絕無入處。但於見聞覺知處認本心。然本心不屬見聞覺知。亦不離見聞覺知。但莫於見聞覺知上起見解。莫於見聞覺知上動念。亦莫離見聞覺知覓心。亦莫捨見聞覺知取法。

それで心外に求め、相に執着して境を取る――すべて道に背いている。恒河沙とは、仏が説いたあの沙である。この沙を、諸仏・菩薩・釈梵・諸天が歩んで過ぎても沙は喜ばず、牛羊・虫蟻が踏みつけて行っても沙は怒らず、珍宝・馨香があっても沙は貪らず、糞溺・臭穢があっても沙は嫌わない。○この心とは無心の心であり、一切の相を離れている。衆生と諸仏には少しも差殊がない。ただ無心であれば、それがすなわち究竟である。学道の人がもし直下に無心でなければ、劫を累ねて修行してもついに成道せず、三乗の功行に拘繫されて解脱を得ない。ただしこの心を証するのに遅疾がある――法を聞いて一念に無心を得る者、十信・十住・十行・十回向に至ってはじめて無心を得る者、十地に至ってはじめて無心を得る者がいる。長短あれど無心を得れば即ち住し、更に修すべきも証すべきもなく、実に得るところがなく、真実にして虚ならず。一念にして得た者と十地にして得た者は、功用がちょうど斉しく、更に深淺がない。ただ劫を歴て空しく辛勤を受けたにすぎない。悪を造るも善を造るもすべて着相である。着相して悪を造れば空しく輪廻を受け、着相して善を造れば空しく労苦を受ける。すべて言下に自ら本法を認め取るに及ばない。この法はすなわち心であり、心外に法はない。この心はすなわち法であり、法内に心はない。心は自ずから無心であり、無心の者もない。心をもって心を無にしようとすれば、心はすなわち有となる。默��するのみで、諸々の思量を絶する。故曰く、言語道断、心行処滅。この心は本源清浄の仏であり、人は皆これを具えている。蠢動する畜生も諸仏・菩薩と一体で異ならない。ただ妄想・分別のために種々の業果を造るのである。本仏の上には実に一物もなく、虚通・寂静・明妙・安楽のみである。深く自ら悟り認めれば、直下にそのままこれで、円満に具足して更に欠くるところがない。たとえ三僧祇のあいだ精進修行して諸の地位を歴ても、一念に証するとき、ただもとよりの自仏を証するのみで、向上して更に一物を添え得ない。却って劫を歴た功用を観れば、すべて夢中の妄為である。ゆえに如来は説く――我は阿耨菩提において実に得るところがない。もし妄りに得るところがあれば、然灯はすなわち授記を与えなかったであろう。また説く――この法は平等にして高下なく、これを菩提と名づく。即ちこの本源清浄心と、衆生・諸仏・世界・山河・有相・無相とは十方界に遍く、一切平等にして彼我の相がない。この本源清浄心は常に自ら円明に遍照している。世人は悟らず、ただ見聞覚知を心と認め、見聞覚知に覆われているので、精明の本体を観ない。ただ直下に無心であれば本体は自ら現れる。大きな日輪が虚空に昇って十方に遍く照らし更に障礙がないようである。ゆえに学道の人はただ見聞覚知を動作と認める。見聞覚知を空しくすれば、すなわち心路は絶して入る処がない。ただ見聞覚知の処において本心を認めよ。しかし本心は見聞覚知に属さず、また見聞覚知を離れもしない。ただ見聞覚知の上に見解を起こすな、見聞覚知の上に念を動かすな、また見聞覚知を離れて心を求めるな、また見聞覚知を捨てて法を取るな。

不即不離不住不著。縱橫自在無非道場○世人聞道。諸佛皆傳心法。將謂心上別有一法可證可取。遂將心覓法。不知心即是法法即是心。不可將心更求於心。歷千萬劫終無得日。不如當下無心便是本法。如力士額珠隱於額內。向外求覓周行十方。終不能得。智者指之。當時自見本珠如故。學道人迷自本心不認為佛。遂向外求覓起功用行。依次第證果位。歷劫勤求元不成道。不如當下無心。決定知一切法本無所有亦無所得。無住無依無能無所。不動妄念便證菩提。及證道時只證本心佛。歷劫功用並是虛修。如力士得珠時。只得本額珠。不關向外尋求之力故。佛言。我於阿耨菩提實無所得。恐人不信故。引五眼所見五語。所言真實不虛是第一義諦○學道人勿疑。四大為身。四大無我。我亦無主。故知此身無我亦無主。五陰無我亦無主。故知此心無我亦無主。六根六塵六識和合生滅亦復如是。十八界既空一切皆空。唯有本心蕩然清淨。有識食有智食。四大之身飢瘡為患。隨事給養不生貪著。謂之智食。恣情取味妄生分別。唯求適口不生厭離。謂之識食。聲聞者。因聲得悟謂之聲聞。但不了自心。於聲教上起解。或因神通。或因瑞相語言運動。聞有菩提涅槃三阿僧祇劫修成佛道。皆屬聲聞道。謂之聲聞佛。惟直下頓了自心本來是佛。無一法可得。無一行可修。此是無上道。此是真如佛。學道人只怕一念有即與道隔矣。念念無相念念無為。即是佛。學道人若欲得成佛。一切佛法總不用學。惟學無求無著。無求則心不生。無著則心不染。不生不染即是佛。八萬四千法門對八萬四千煩惱。是教化接引門。本無一法。離即是法。知離者是佛。但離一切煩惱是無法可得○學道人慾得知要訣。但莫於心上著一物。言佛法身猶如虛空。此是喻法身即虛空。虛空即法身。常人將謂法身遍於虛空處。虛空中含容法身。不知虛空即法身。

即せず離れず、住せず着せず、縦横自在にして道場でないところなし。○世人は諸仏が皆心法を伝えると聞くと、心の上に別に証し取るべき一法があると思い、ついに心をもって法を求める。心がすなわち法、法がすなわち心であることを知らず、心をもって更に心に求めてはならない。千万劫を歴ても得る日は終わらない。当下に無心であるに及ばない――それがすなわち本法である。力士の額の珠が額の内に隠れていて、外に向かって求め十方を行き巡ってもついに得られないのに、智者がこれを指せば、その時自ら本珠を見て故の如くであるのと同じである。学道の人は自らの本心に迷ってこれを仏と認めず、ついに外に向かって求め、功用の行を起こし、次第に依って果位を証し、劫を歴て勤め求めてももとより成道しない。当下に無心であるに及ばず、一切法がもとより所有なくまた所得もなく、住なく依なく、能なく所もないと決定して知り、妄念を動かさなければ菩提を証する。および道を証するとき、ただ本心の仏を証するのみで、劫を歴た功用はことごとく虚修である。力士が珠を得たとき、ただ本の額の珠を得たのみで、外に向かう尋求の力に関わらないがごときである。ゆえに仏は説く――我は阿耨菩提において実に得るところがない。人の信ぜざらんことを恐れて、五眼の見るところ、五語の言うところを引く。言うところは真実にして虚ならず、これが第一義諦である。○学道の人は四大を身と為すことを疑うな。四大は我なく、我もまた主なし。ゆえにこの身は我なくまた主なしと知る。五陰は我なくまた主なし。ゆえにこの心は我なくまた主なしと知る。六根・六塵・六識の和合生滅もまたこのようである。十八界は既に空で、一切皆空である。ただ本心があって蕩として清浄である。識食あり、智食あり。四大の身は飢え瘡の患いあり、事に随って給養して貪着を生ぜしめず、これを智食という。情を恣にして味を取り、妄りに分別を生じ、ただ口に適うを求めて厭離を生ぜしめず、これを識食という。声聞とは、声に因って悟るを得るを声聞という。ただ自心を了せず、声教の上に解を起こす。あるいは神通に因り、あるいは瑞相・言語・運動に因り、菩提・涅槃あり、三阿僧祇劫に修して仏道を成ずと聞く――すべて声聞の道に属し、これを声聞仏という。ただ直下に頓ちに自心は本来仏であると了し、得るべき一法なく、修すべき一行なし――これが無上道、これが真如仏である。学道の人はただ一念に有ることを怕れる――すなわち道と隔たる。念々に相なく念々に無為なれば、すなわち仏である。学道の人もし成仏せんと欲せば、一切の仏法は総て学ぶを要せず、ただ無求・無着を学べ。無求なれば心は生ぜず、無着なれば心は染まらない。生ぜず染まらぬはすなわち仏である。八万四千の法門は八万四千の煩悩に対する、教化・接引の門である。もとより一法なし。離るればすなわち法なり。離るるを知る者は仏なり。ただ一切の煩悩を離るれば、これは法を得るところなし。○学道の人が要訣を知らんと欲せば、ただ心の上に一物を着くるな。仏の法身は虚空のようだという――これは法身がすなわち虚空、虚空がすなわち法身を喩えたもので���る。常人は法身が虚空の処に遍くと思い、虚空の中に法身を含容すると思うが、虚空がすなわち法身であることを知らない。

法身即虛空也。若定言有虛空。即虛空不是法身。定言有法身。即法身不是虛空。但不作虛空解。虛空即法身。不作法身解。法身即虛空。虛空與法身無異相。佛與眾生無異相。生死涅槃無異相。煩惱菩提無異相。離一切相即是佛。凡夫取境。道人取心。心境雙忘乃是真法。忘境猶易忘心至難。人不敢忘心。是恐落空無撈摸處。不知空本無空唯一真界耳○此靈覺性無始以來與空虛同壽。未曾生未曾滅。未曾有未曾無。未曾穢未曾淨。未曾喧未曾寂。未曾少未曾老。無方所無內外。無數量無形相。無色像無音聲。不可覓不可求。不可以智識解。不可以言語取。不可以景物會。不可以功用到。諸佛菩薩與一切蠢動眾生同大涅槃性。性即是心。心即是佛。佛即是法。一念離真皆為妄想。不可以心更求於心。不可以佛更求於佛。不可以法更求於法。故修道人直下無心默契。擬心即差。以心傳心此為正見。慎勿向外逐境為心。是認賊為子。為有貪瞋痴即立戒定慧。本無煩惱焉有菩提。故祖師雲。佛說一切法。為除一切心。我無一切心。何用一切法。本源清淨佛上更不得著一物。譬如虛空。雖以無量珍寶莊嚴。終不能住。佛性同虛空。雖以無量智慧功德莊嚴。終不能住。但迷本性轉不見耳○所謂心地法門。萬法皆依此心建立。遇境即有。無境即無。不可於淨性上專作境解。所言定慧鑑用歷歷寂寂惺惺。見聞覺知皆境上作解。暫為中下人說即得。若欲親證。皆不可作如此解。盡是境縛。法有沒處沒於有地。但於一切法不作有見。即見法○自達磨大師到中國。唯說一性。唯傳一法。以佛傳佛不說餘佛。以法傳法不說餘法。法即不可說之法。佛即不可取之佛。乃是本源清淨心也。唯此一事實餘二則非真。般若為慧。此慧即無相之本也○凡夫不趣道。唯恣六情乃行六道。即學道後。一念計生死。即落諸魔道。一念起諸見。

法身はすなわち虚空である。もし定めて虚空有りと言えば、虚空は法身でない。定めて法身有りと言えば、法身は虚空でない。ただ虚空の解を作さなければ、虚空すなわち法身。法身の解を作さなければ、法身すなわち虚空。虚空と法身は異相なく、仏と衆生は異相なく、生死と涅槃は異相なく、煩悩と菩提は異相なし。一切の相を離れればすなわち仏である。凡夫は境を取り、道人は心を取る。心と境とを双忘すれば、これが真の法である。境を忘れるはなお易く、心を忘れるは至難である。人が心を忘れることを敢えてしないのは、空に落ちて撈摸する処なしを恐れるからである。空はもとより空ではなく、ただ一真界あるのみと知らぬのだ。○この霊覚の性は無始以来、虚空と同寿で、未だ生ぜず、未だ滅せず、未だ有らず、未だ無らず、未だ穢れず、未だ浄めず、未だ喧あらず、未だ寂せず、未だ少ならず、未だ老いず。方所なく、内外なく、数量なく、形相なく、色像なく、音声なし。求むべからず、求むべからず、智識をもって解すべからず、言語をもって取るべからず、景物をもって会すべからず、功用をもって到るべからず。諸仏・菩薩と一切の蠢動衆生とは同じく大涅槃の性である。性はすなわち心、心はすなわち仏、仏はすなわち法。一念真を離れればすべて妄想である。心をもって更に心に求むべからず、仏をもって更に仏に求むべからず、法をもって更に法に求むべからず。ゆえに修道の人は直下に無心で默契せよ。心を擬すればすなわち差う。心をもって心を伝える――これが正見である。慎んで外に向かって境を逐わせて心としてはならない――これは賊を認めて子と為すである。貪・瞋・痴有るがために戒・定・慧を立つ。もとより煩悩なし、いずくんぞ菩提あらん。ゆえに祖師は説く――仏は一切の法を説く、一切の心を除かんがため。我に一切の心なし、何ぞ一切の法を用いん。本源清浄の仏の上は更に一物を着くるを得ず。譬えば虚空に、無量の珍宝をもって荘厳すれどもついに住すること能わざるがごとし。仏性は虚空に同じく、無量の智慧・功徳をもって荘厳すれどもついに住すること能わず。ただ本性に迷って、転じて見ざるのみ。○いわゆる心地法門は、万法は皆この心に依って建立す。境に遇えば即有り、境なければ即無し。浄性の上に於いて専ら境の解を作すべからず。言うところの定慧・鑑用、歴歴・寂寂・惺惺、見聞覚知は、皆境の上に解を作す。暫く中下の人に説かば即ち得。もし親証せんと欲せば、皆かくの如き解を作すべからず――尽くこれ境の縛なり。法に没処有り、有地に没す。ただ一切法に於いて有見を作さざれば、すなわち法を見る。○達磨大師が中国に到りてより、唯だ一性を説き、唯だ一法を伝う。仏をもって仏を伝え、余の仏を説かず。法をもって法を伝え、余の法を説かず。法は即ち説くべからざるの法、仏は即ち取るべからざるの仏にして、これ本源清浄心なり。唯だこの一実のみ、其余の二は則ち真に非ず。般若は慧と為り、この慧は即ち無相の本なり。○凡夫は道に趣かず、唯だ六情を恣にし、乃ち六道を行ず。即ち学道の後、一念に生死を計れば、即ち諸魔道に落つ。一念に諸見を起こせば、

即落外道。見有生趣其滅。即落聲聞道。不見有生唯見有滅。即緣覺道。法本不生今亦不滅。不起二見不厭不忻。一切諸法唯一心是。然後乃為佛乘也○凡人皆逐境生心。心隨欣厭。若欲無境當忘其心。心忘則境空。境空則心滅。不忘心而除境。境不可除。只益紛擾耳。故萬法唯心心亦不可得。復何求哉○學般若法人。不見一法可得。絕意三乘。唯一真實。不可證得。謂我能證能得。皆增上慢人也。法華會下拂衣而去者。皆斯徒也。故佛言。我於菩提實無所得。默契而已○凡人慾修證。但觀五蘊皆空四大無我。真心無相不去不來。生時性亦不來。死時性亦不去。湛然圓寂心境一如。但能如此直下頓了。不為三世所拘繫。便出世人也。切不得有分毫趣向。若見善相諸佛來迎。及種種現前亦無心隨去。若見惡相種種現前亦無畏心。但自忘心同於法界。便得自在○凡言化城者。二乘及十地乃至等覺妙覺。皆是權立接引之教。並為化城也。言寶所者。乃真心本佛自性之寶。此寶不屬情量。不可建立。無佛無眾生。無能無所。何處有城。若問此既是化城何處為寶所。寶所不可指。指即有寶所。非真實所也。故云在近而已。在近者。不可定量言之。但當體會契之即是。闡提者信不具也。一切六道眾生。及至二乘不信有佛果。皆謂之斷善根闡提。菩薩深信佛法。不見有大乘小乘佛與眾生同一法性。乃謂之善根闡提。大抵因聲教而悟者名聲聞。觀因緣而悟者名緣覺。若不向自心中悟。雖至成佛亦謂之聲聞佛。學道人於法上悟不於心上悟。雖歷劫修行。終不是本佛。若不心悟乃於法悟。即是輕心重法。遂成逐塊。忘於本心故。但契本心不用求法。心即法也○凡人多謂境礙心。謂事礙理。常欲逃境以安心屏事以存理。不知乃是心礙境理礙事。但令心空境自空。但令理寂事自寂。勿倒用心也○凡人多不肯空心恐落空。

即ち外道に落つ。生の趣して滅するを見れば、即ち声聞道に落つ。生有るを見ず、唯だ滅有るを見れば、即ち縁覚道なり。法は本より生ぜず、今もまた滅せず。二見を起こさず、厭わず忻ばず。一切の諸法は唯だ一心これ是にして、然る後乃ち仏乗と為る。○凡人は皆境を逐って心を生じ、心は欣厭に随う。もし境無かれと欲せば、まさにその心を忘るべし。心忘るれば則ち境空し、境空すれば則ち心滅す。心を忘れずして境を除かんとすれば、境は除くべからず、只だ益々紛擾するのみ。故に万法は唯心にして、心も亦た得るべからず、復た何をか求めん。○般若の法を学ぶ人は、一法も得るべきを見ず。三乗を絶意して、唯だ一実のみ、証得すべからず。我が能く証し能く得ると謂うは、皆増上慢の人なり。『法華』会下に衣を拂うて去る者は、皆この徒なり。故に仏説かく、我は菩提に於いて実に得る所無く、默契するのみ。○凡人もし修証せんと欲せば、但だ五蘊皆空、四大無我を観ぜよ。真心は相無く、去らず来たらず。生ずる時も性も亦た来たらず、死する時も性も亦た去らず。湛然として円寂し、心境一如なり。但だ能くかくの如く直下に頓了し、三世に拘繫せられざれば、便ち出世人なり。切に分毫の趣向有るを得ず。若し善相の諸仏来迎を見、及び種々現前せんも、亦た心もて随い去ること無かれ。若し悪相の種々現前を見んも、亦た畏心無かれ。但だ自ずから心を忘れ、法界に同じくすれば、便ち自在を得。○凡そ化城と言うは、二乗及び十地乃至等覚・妙覚は、皆権立の接引の教にして、並びに化城と為る。宝所と言うは、乃ち真心・本仏・自性の宝なり。この宝は情量に属せず、建立すべからず。仏無く衆生無く、能無く所無く、何の処にか城あらん。若し問わん、この既に化城ならば、何れの処にか宝所と為る。宝所は指すべからず。指せば即ち宝所有り、真実の所に非ざるなり。故に近きに在りと説くのみ。近きに在るとは、定量をもて言うべからず、但だまさに体会契之すれば即ち是れ。闡提とは、信具わらざるなり。一切の六道衆生、及び二乗に至りて仏果有るを信ぜず、皆これを善根を断ずる闡提と謂う。菩薩は深く仏法を信じ、大乗・小乗有るを見ず、仏と衆生と同一法性なり、乃ちこれを善根闡提と謂う。大抵声教に因りて悟る者を声聞と名づけ、因縁を観じて悟る者を縁覚と名づく。若し自らの心中に向かいて悟らざれば、成仏に至ると雖も亦たこれを声聞仏と謂う。学道の人、法上に於いて悟りて心上に於いて悟らざれば、劫を歴て修行すと雖も、終に本仏に非ず。若し心に悟らず乃ち法に悟るは、即ち心を軽じ法を重んずるにして、遂に塊を逐うと成り、本心を忘るるを故なり。但だ本心を契せば、法を求めるを用いず。心は即ち法なり。○凡人は多く境の心を碍ぐると謂い、事の理を碍ぐると謂い、常に境を逃れて心を安んじ、事を屏して理を存せんと欲す。乃ちこれ心の境を碍ぐる、理の事を碍ぐるを知らず。但だ心を空しくせば、境自ずから空しく、但だ理を寂しくせば、事自ずから寂なり。倒さずして心を用うるな。○凡人は多く空心を肯わず、空に落つるを恐る。

不知自心本空。愚人除事不除心。智者除心不除事。菩薩心如虛空一切俱捨。所作福德皆不貪著。然捨有三等。內外身心一切俱捨。猶如虛空無所取著。然後隨方應物能所皆忘。是謂大捨。若一邊行道佈德。一邊旋捨無希望。心是謂中捨。若廣修眾善有所希望。聞法知空。遂乃不著是謂小捨。大捨如火燭在前更無迷悟。中捨如火燭在旁。或明或暗。小捨如火燭在後不見坑阱故。菩薩心如虛空。一切俱捨。過去心不可得。是過去捨。現在心不可得。是現在捨。未來心不可得。是未來捨。所謂三世俱捨。自如來付法迦葉以來。以心印心。心心不異。印著空則印不成文。印著物則印不成法。故以心印心心心不異。能印所印俱難契會。故得者少。然心即無心得即無得○佛有三身。法身說自性靈通法。報身說一切清淨法。化身說六度萬行法。法身說法不以語言音聲形相文字。無所說無所證。自性靈通而已。故曰。無法可說是名說法。報身化身皆隨機感現所說法。亦隨事應根以為攝化。皆非真法。故曰報化非真佛。亦非說法者○所言同是一精明分為六和合者。一精明者一心也。六和合者六根各與塵合。眼與色合。耳與聲合。鼻與香合。舌與味合。身與觸合。意與法合。中間生六識為十八界。若了知十八界空無所有。束六和合為一精明。一精明者即心也。學道人皆知此。但不能免作一精明六和合解。遂為法縛不契本心。如來現世欲說一乘真法。則眾生不信興謗沒於苦海。若都不說則佛墮慳貪。不為眾生普捨妙道。遂方便說三乘。乘有大小得有深淺。皆非本法。故云。惟此一乘道餘二即非真。然終未能顯一心法。故召迦葉同法座坐。別付一心離言說法。此一枝法今別行。若能契悟者。便至佛地。

自分の心がもとより空であることを知らない。愚かな人は事を除いても心を除かず、智ある人は心を除いて事を除かない。菩薩の心は虚空のようで、一切をみな捨てる。なすところの福徳に皆貪着しない。さて捨てには三等ある。内外・身心・一切を俱に捨てて、虚空のように取着するところがなく、しかる後に方に随って物に応じ、能・所ともに忘れる――これを大捨という。一方で道を行じ徳を布きながら、一方ですぐに捨てて希望の心がない――これを中捨という。広く衆善を修めて希望するところがあり、法を聞いて空を知り、ついに執着しない――これを小捨という。大捨は火の燭が前にあるようなもので、更に迷いも悟りもない。中捨は火の燭が傍にあるようなもので、あるいは明あるいは暗。小捨は火の燭が後ろにあるようなもので、坑穽が見えない。ゆえに菩薩の心は虚空のようで、一切を俱に捨てる。過去の心は得られない――これが過去の捨。現在の心は得られない――これが現在の捨。未来の心は得られない――これが未来の捨。いわゆる三世ともに捨つである。如来が迦葉に法を付して以来、心をもって心を印し、心心異ならず。印が空に着けば印は文を成さず、印が物に着けば印は法を成さない。ゆえに心をもって心を印し、心心異ならない。能印・所印ともに契会しがたいゆえに、得る者は少ない。さて心はすなわち無心、得はすなわち無得である。○仏には三身がある。法身は自性霊通の法を説き、報身は一切清浄の法を説き、化身は六度万行の法を説く。法身の説法は言語・音声・形相・文字によらず、説くところなく証するところなく、自性が霊通するのみ。ゆえに説く――説くべき法なし、これを説法と名づく。報身・化身は皆機に随って感現し、その説くところの法もまた事に随い根に応じて摂化と為す――皆真の法ではない。ゆえに説く――報化は真の仏にあらず、また説法の者でもない。○いわゆる同じく一精明であって分れて六和合と為すとは――一精明とは一心である。六和合とは、六根が各々塵と合する。眼は色と合し、耳は声と合し、鼻は香と合し、舌は味と合し、身は触と合し、意は法と合す。その中間に六識を生じて十八界と為す。もし十八界が空にして所有なきと了知すれば、六和合を束ねて一精明と為す。一精明とはすなわち心である。学道の人は皆これを知るが、ただ一精明・六和合の解を作るを免れず、ついに法の縛と為り、本心に契わない。如来が世に現れて一乗の真法を説かんとすれば、衆生は信ぜず、謗りを興して苦海に没する。もし都て説かざれば、仏は慳貪に堕ち、衆生のために普く妙道を捨てない。ついに方便して三乗を説く。乗に大小あり、得に深淺あるも、皆本法ではない。ゆえに説く――ただこの一乗の道、其の余の二は則ち真に非ず。しかし終に一心の法を顕す能わず、ゆえに迦葉を召して同じく法座に坐せしめ、別に一心・離言説の法を付す。この一枝の法は今別に行われている。もし契悟する能わば、便ち仏地に至らん。

裴休相國傳心偈

裴休相国の伝心偈

予於宛陵鐘陵皆得親黃蘗希運禪師。盡傳心要。乃作傳心偈爾。

私は宛陵・鍾陵のいずれでも黄檗希運禅師に親しく接し、心要をことごとく伝えられたので、この伝心偈を作った。

心不可傳。以契為傳。心不可見。以無為見。契亦無契。

心は伝えられず、契することをもって伝とする。心は見ることができず、無為をもって見とする。契にもまた契なく、

無亦無無。化城不住。迷額有珠。珠是強名。

無にもまた無がない。化城には住せず、迷える額に珠あり。珠は強いて名づけたもの、

城豈有形。即心即佛。佛即無生。直下便是。

城にいずくんぞ形あらん。即心即仏、仏はすなわち無生。直下にそのままこれで、

勿求勿營。使佛覓佛。倍費功程。隨法生解。

求めるな、営むな。仏をもって仏を求めるは、倍して功程を費やす。法に随って解を生ずれば、

即落魔界。凡聖不分。乃離見聞。無心似鏡。

すなわち魔界に落つ。凡と聖とを分たなければ、すなわち見聞を離る。無心は鏡に似て、

與物無競。無念似空。無物不容。三乘外法。

物と競わず。無念は空に似て、容れぬ物なし。三乗の外の法は、

歷劫希逢。若能如是。是出世雄。

劫を歴ても逢うこと希なり。もし能くかくの如くあらば、これ出世の雄なり。

甞聞。河東大士親見高安導師傳心要。於當年著偈章而示後。頓開聾瞽。煥若丹青。予惜其所遺。綴於本錄雲爾。

かつて聞く、河東の大士は高安の導師に親しく見えて、当の年に心要を伝え、偈章を著して後に示した。頓ちに聾瞽を開き、丹青のように煥然としていた。私はその遺したものを惜しみ、本録に綴ると云う。

慶曆戊子歲南宗字天真者題

慶暦戊子の歳、南宗の天真と字する者が題す。

(傳心法要內改十一處。除落三字添入九字。並按四家錄並別錄為據也)

(『伝心法要』の内、十一箇所を改め、三字を除き落とし、九字を添え入れた。なお『四家録』および別録に按じて拠とした。)

景徳伝灯録巻第九

景徳伝灯録巻第十

懷讓禪師第三世下六十一人

懐譲禅師第三世以下六十一人

池州南泉普願禪師法嗣一十七人湖南長沙景岑禪師

池州南泉普願禅師の法嗣一十七人。湖南長沙の景岑禅師

荊南白馬曇照禪師

荊南白馬の曇照禅師

終南山雲際師祖禪師

終南山雲際の師祖禅師

鄧州香嚴下堂義端禪師

鄧州香厳下堂の義端禅師

趙州東院從諗禪師

趙州東院の従諗禅師

池州靈鷲閑禪師

池州霊鷲の閑禅師

鄂州茱萸山和尚

鄂州茱萸山の和尚

衢州子湖利蹤禪師

衢州子湖の利蹤禅師

洛京嵩山和尚

洛京嵩山の和尚

日子和尚

日子和尚

蘇州西禪和尚

蘇州西禅和尚

宣州刺史陸亙池州行者甘贄(已上一十三人見錄)

宣州刺史の陸亘。池州行者の甘贄(以上一十三人は見録)

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