Libo

景德傳燈錄 卷第二

宋 · 道原 · 第28巻 / 151

諸佛最初求道為法忘形。汝今斷臂吾前。求亦可在。師遂因與易名曰慧可。光曰。諸佛法印可得聞乎。師曰諸佛法印匪從人得。光曰。我心未寧。乞師與安。師曰。將心來與汝安。曰覓心了不可得。師曰。我與汝安心竟。後孝明帝聞師異跡。遣使齎詔徵前後三至。師不下少林。帝彌加欽尚。就賜摩衲袈裟二領。金缽銀水瓶繒帛等。師牢讓三返。帝意彌堅。師乃受之。自爾緇白之眾倍加信向。迄九年已欲西返天竺。乃命門人曰。時將至矣。汝等蓋各言所得乎。時門人道副對曰。如我所見。不執文字不離文字而為道用。師曰。汝得吾皮。尼總持曰。我今所解如慶喜見阿閦佛國。一見更不再見。師曰。汝得吾肉。道育曰。四大本空五陰非有。而我見處無一法可得。師曰。汝得吾骨。最後慧可禮拜後依位而立。師曰。汝得吾髓。乃顧慧可而告之曰。昔如來以正法眼付迦葉大士。展轉囑累而至於我。我今付汝。汝當護持。並授汝袈裟以為法信。各有所表宜可知矣。可曰。請師指陳。師曰。內傳法印以契證心。外付袈裟以定宗旨。後代澆薄疑慮競生。雲吾西天之人。言汝此方之子。憑何得法以何證之。汝今受此衣法。卻後難生但出此衣並吾法偈。用以表明其化無礙。至吾滅後二百年。衣止不傳法周沙界。明道者多。行道者少。說理者多。通理者少。潛符密證千萬有餘。汝當闡揚勿輕未悟。一念迴機便同本得。聽吾偈曰。

(師、接ぎて曰く、)諸佛、最初道を求むるに、法の爲に形を忘る、汝、今我の前に臂を斷つ、求むるも亦在り、師、乃ち因りて彼が爲に名を改めて慧可と曰ふ。光曰く、諸佛の法印、聞くことを得べきか。師曰く、諸佛の法印は人より得るにあらず。光曰く、我が心未だ寧ならず、師に安を與へんことを求む。師曰く、心を將來れ、汝が爲に安せん。曰く、心を覓む、覓むるに得ること能はず。師曰く、我、汝が爲に心を安んじ訖れり。後に孝明帝、師の異迹を聞きて、使を遣はして詔を賚りて徵召す、前後三次に至れり、師、少林を下らず、帝、彌が上に欽尚して即ち摩衲袈裟二領・金鉢・銀水瓶・繒帛等を賜ふ、師、堅辭三次、帝意彌が上に堅し、師、方に受く、此より緇白の衆、信向加倍す。九年已滿に至りて、西に返りて天竺に至らんと欲し、乃ち門人に命じて曰く、時將に至らんとす、汝等何ぞ各々言ふて得る所を述べざる。時に門人道副、對して曰く、我が見る所の如くは、文字を執せず、文字を離れずして、道用と爲す。師曰く、汝、我が皮を得たり。尼總持曰く、我、今解する所は、慶喜の阿閦佛國を見るが如く、一見して更に見ず。師曰く、汝、我が肉を得たり。道育曰く、四大本空にして五陰非有、而るに我が見る處、一法も得べき無し。師曰く、汝、我が骨を得たり。最後に慧可、禮拜して後、位に依りて立つ。師曰く、汝、我が髓を得たり。於是乎慧可を顧みて之に告げて曰く、昔如來、正法眼を迦葉大士に付して、展轉嘱累して我に至る、我、今汝に付す、汝當に護持すべし、并せて袈裟を授けて以て法信と爲す、各々表する所有り、當に知るべし。可曰く、師に指陳を請ふ。師曰く、内には法印を傳へて以て心を契證し、外には袈裟を付して以て宗旨を定む、後代澆薄にして疑慮競へり生じ、我を西天の人と云ひ、汝を此方の子と云ひ、何を以て法を得、何を以て證明とせん、汝、今此の衣法を受く、此の後難生ずること有らば、但此の衣并びに我が法偈を出だして以て其の教化滯礙無きを表明せよ、我が滅後二百年に至りて、衣は止みて傳へず、法は沙界に周遍す、道を明かす者は多く、道を行ずる者は少なく、理を説く者は多く、理に通ずる者は少なし、潜符密證、千萬有餘、汝當に闡揚して未だ悟らざるを輕視すること勿れ、一念機を回せば、便ち本得に同じ、我が偈を聽け。

吾本來茲土傳法救迷情

我本來此の土に茲して、法を傳へて迷情を救ふ、

一華開五葉結果自然成

一花開きて五葉を成し、結果自然に成る。

師又曰。吾有楞伽經四卷。亦用付汝(此蓋依寶林傳之說也。按宣律師續高僧傳。可大師傳云。初達磨以楞伽經授可曰。我觀漢地唯有此經。仁者依行自得度世。若如傳所言。則是二祖未得法時。達磨授楞伽使觀之耳。今傳燈乃於付法傳衣之後言。師又曰。吾有楞伽經四卷。亦用付汝。則恐誤也。兼言吾有。則似世間未有也。此但可依馬祖所言云。又引楞伽經文。以印眾生心地。則於理無害耳)。即是如來心地要門。令諸眾生開示悟入。吾自到此凡五度中毒。我常自出而試之。置石石裂。緣吾本離南印來此東土。見赤縣神州有大乘氣象。遂踰海越漠為法求人。際會未諧如愚若訥。今得汝傳授吾意已終(別記雲。師初居少林寺九年。為二祖說法秖教曰外息諸緣內心無喘。心如牆壁可以入道。慧可種種說心性理。道未契。師秖遮其非不為說無念心體。慧可曰。我已息諸緣。師曰。莫不成斷滅去否。可曰。不成斷滅。師曰。何以驗之雲不斷滅。可曰。了了常知故。言之不可及。師曰。此是諸佛所傳心體。更勿疑也)言已乃與徒眾往禹門千聖寺止三日。有期城太守揚衒之早慕佛乘。問師曰。西天五印師承為祖。其道如何。師曰。明佛心宗行解相應。名之曰祖。又問。此外如何。師曰。須明他心知其今古。不厭有無於法無取。不賢不愚無迷無悟。若能是解故稱為祖。又曰。弟子歸心三寶亦有年矣。而智慧昏蒙尚迷真理。適聽師言罔知收措。願師慈悲開示宗旨。師知懇到。即說偈曰。

師又曰く、我《楞伽經》四卷有り、亦以て汝に付す(此れ蓋し《寶林傳》の説に依る、宣律師《續高僧傳》の可大師傳に按ずるに、初め達磨、《楞伽經》を可に授けて曰く、我、漢地を觀るに唯有り此の經、仁者依行せば自ら度世することを得ん、若し傳の説の如くんば、是れ二祖未だ法を得ざる時、達磨《楞伽》を授けて觀せしめしなり、今《傳燈》は却て法を付し衣を傳ふるの後に「師又曰く、吾に楞伽經四卷有り、亦用ゐて汝に付す」と説く、恐らくは錯なり、兼ねて「吾有」と云ふ、則ち世間未だ有らざるが如し、此處只《馬祖》の説く所に依るべし、又《楞伽經》文を引きて以て衆生の心地を印すれば、則ち理に妨害無し)、即ち如來心地の要門にして、諸の衆生をして開示悟入せしむ、我、此に至りてより已來、凡そ五度毒に中る、我、常に自ら出だして試みて石上に置けば、石即ち裂く、我が本南印を離れて此の東土に來るや、赤縣神州に大乘の氣象有るを見、於是乎海を渡り漠を越えて、法の爲に人を求む、際會未だ諧はず、愚の如く訥の若し、今汝を得て傳授せり、我が意已に終れり(《別記》に曰く、師、初め少林寺に住すること九年、二祖の爲に法を説く、只教へて曰く、外に向かひて諸縁を止息し、内心喘無く、心は墙壁の如くば、以て道に入るべし、慧可、種種に心性の理を説くも、道未だ契らず、師、只其の非を遮りて、爲に無念心體を説かず、慧可曰く、我已に諸縁を止息せり、師曰く、斷滅を成じ去りしにあらずや、可曰く、斷滅を成ぜず、師曰く、何を以てか之を驗する、斷滅せずと云ふ、可曰く、了了として常知の故に、説くも説き到らざるなり、師曰く、此れ諸佛の傳ふる所の心體なり、更に疑ふこと勿れと)。説き訖りて、即ち徒衆と俱に禹門千聖寺に往きて、三日住す。期城太守楊衒之ありて、早く佛乘を慕ひ、師に問ふ、西天五印、師承して祖と爲す、其の道如何。師曰く、佛心宗を明らめ、行解相應すれば、名づけて祖と曰ふ。又問ふ、此の外如何。師曰く、須らく他心を明らめ、今古を知り、有無を厭はず、法に對して取なく、賢ならず愚ならず、迷なく悟無し、若能く是のごとく解せば、所以に祖と稱す。又曰く、弟子、三寶に歸心すること亦年有り、而して智慧昏蒙にして尚ほ眞理に迷ふ、適かに師の言を聞く、收措する所を知らず、願はくは師、慈悲にて宗旨を開示せん。師、懇切周到なるを知りて、即ち偈を説いて曰く、

亦不覩惡而生嫌亦不觀善而勤措

亦惡を見て嫌を生ぜず、亦善を觀て措を勤めず、

亦不捨智而近愚亦不拋迷而就悟

亦智を捨てて愚に近づかず、亦迷を抛てて悟に就かず、

達大道兮過量通佛心兮出度

大道に達するや量を過ぎ、佛心に通ずるや度を出づ、

不與凡聖同躔超然名之曰祖

凡聖と躔を同じくせず、超然として名づけて祖と曰ふ。

衒之聞偈悲喜交並曰。願師久住世間化導群有。師曰。吾即逝矣不可久留。根性萬差多逢患難。衒之曰。未審何人。弟子為師除得。師曰。吾以傳佛秘密利益迷途。害彼自安必無此理。衒之曰。師若不言。何表通變觀照之力。師不獲已乃為讖曰。江槎分玉浪。管炬開金鎖。五口相共行。九十無彼我。衒之聞語。莫究其端。默記於懷禮辭而去。師之所讖。雖當時不測。而後皆符驗。時魏氏奉釋禪俊如林。光統律師流支三藏者乃僧中之鸞鳳也。覩師演道斥相指心。每與師論議是非鋒起。師遐振玄風普施法雨而偏局之量自不堪任。競起害心數加毒藥。至第六度。以化緣已畢傳法得人。遂不復救之端居而逝。即後魏孝明帝太和十九年丙辰歲十月五日也(依續法記。則十月五日乃孝莊帝永安元年。即梁大通二年戊申歲。其年即明帝武泰元年也。二月明帝崩。四月莊帝即位。改元建義。至九月又改永安也。後雲。汝主已厭世。謂是歲明帝崩也。據傳燈雲。丙辰歲即東魏文帝大統二年。西魏靜帝天平三年。梁大同二年。與厭世之說全乖也。又太和十九年。乃後魏文帝時。即南齊明帝建武二年乙亥歲。殊相遼邈耳)。其年十二月二十八日葬熊耳山。起塔於定林寺。後三歲魏宋雲奉使西域迴。遇師於蔥嶺。見手攜隻履翩翩獨逝。雲問。師何往。師曰。西天去。又謂雲曰。汝主已厭世。雲聞之茫然。別師東邁。暨復命。即明帝已登遐矣。而孝莊即位。雲具奏其事。帝令啟壙。唯空棺一隻革履存焉(若依續法記。則後三歲乃莊帝永安三年庚戌歲。當梁武中大通二年也。其年十二月莊帝方崩。奉使迴時帝尚在耳。若據傳燈。則後三歲乃已未歲。即西魏文帝大統五年。東魏靜帝興和元年。當梁武大同五年也。如此則豈復有孝莊帝耶。又稱宋雲遇師於蔥嶺。尤誤也。宋雲使西域迴時。已在魏明帝正光年中矣。然則遇師於蔥嶺者。

衒之、偈を聞き訖りて、悲喜交并して曰く、願はくは師、久しく世間に住して群有を化導せん。師曰く、我、即ち逝なんとす、久しく留まるべからず、根性萬差にして多く患難に逢ふ。衒之曰く、未だ何人なるを知らず、弟子、師の爲に之を除かん。師曰く、我、以て佛の秘密を傳へ迷途を利益す、他を害して自ら安からんは、必ず此の理無し。衒之曰く、師若し説かざれば、何を以て通變觀照の力を表さん。師、已むことを得ずして、便ち爲に讖を作す、江槎(こうか)玉浪を分かち、管炬(くわんきょ)金鎖を開き、五口相共に行きて、九十彼我無し。衒之、語を聞きて、頭緖を摸ること能はず、默默として心裏に記して、禮辭して去る。師の作す所の讖、當時測る能はずと雖も、後皆符驗せり。當時魏氏、釋を奉じ、禪俊林の如し、光統律師・流支三藏は、乃ち僧中の鸞鳳なり、師の道を演じて相を斥て心を指すを見て、每師と論議して是非鋒起す。師、遠く玄風を振ひ普く法雨を施すも、偏局の器量、自ら勝堪せず、競ひて害心を起し、數て毒藥を加ふ、第六に至りて、化縁已に畢り傳法得人なるを以て、便ち救はずして端居して逝す。即ち後魏孝明帝太和十九年丙辰の歳十月五日なり(《續法記》に依れば、則ち十月五日は乃ち孝莊帝永安元年、即ち梁大通二年戊申の歳なり、其の年即ち明帝武泰元年なり、二月明帝崩じ、四月莊帝即位して建義に改元し、九月に至りて又永安に改む、後に「汝の主已に厭世せり」と云ふは、此の年明帝崩ずるを謂ふ、《傳燈》に據りて丙辰の歳と云ふは、即ち東魏文帝大統二年・西魏靜帝天平三年・梁大同二年にして、厭世の説と全く乖違せり、又太和十九年は乃ち後魏文帝の時にして即ち南齊明帝建武二年乙亥の歳なり、相去ること甚だ遠し)。其の年十二月二十八日、熊耳山に葬りて、定林寺に塔を起つ。三年後、魏の宋雲、西域に奉使して回り、蔥嶺に於て師に遇ふ、手に一隻の鞋を攜へて翩翩として獨り逝くを見る。雲問ふ、師、何處に往く。師曰く、西天に往く。又雲に對して曰く、汝の主已に厭世せり。雲、聞きて茫然として師に別れて東行す、復命するに及ぶや、即ち明帝已に登遐して孝莊即位せり、雲、此の事を具奏す、帝、令を下して墓穴を開かしむ、惟だ空棺一具・革履一隻在るのみ(若し《續法記》に依れば、則ち三年後は乃ち莊帝永安三年庚戌の歳にして、正に梁武中大通二年に當たる、其の年十二月莊帝方に崩ず、奉使回る時帝は尚ほ在り、若し《傳燈》に據れば、則ち三年後は乃ち己未の歳にして、即ち西魏文帝大統五年・東魏靜帝興和元年、正に梁武大同五年に當たる、此の如くなれば何處にか孝莊帝あらん、又宋雲の蔥嶺に於て師に遇ひしと云ふは、尤も錯なり、宋雲の西域を使して回る時は、已に魏明帝正光年中なり、然らば蔥嶺に於て師に遇ひしは、

蓋是魏末別遣使往西域迴耳○但當雲。後三歲魏使有自西域迴者。遇師於蔥嶺。見手攜隻履翩翩獨逝。問師何往。曰西天去。又謂使曰。汝主已厭世。使聞之茫然別師東邁。暨復命即明帝已登遐矣。而孝莊即位。奉使具奏其事。帝令啟壙。唯空棺一隻革履存焉)。舉朝為之驚歎奉詔取遺履。於少林寺供養。至唐開元十五年丁卯歲。為信道者竊在五臺華嚴寺。今不知所在。初梁武遇師因緣未契。及聞化行魏邦。遂欲自撰師碑而未暇也。後聞宋雲事乃成之。代宗諡圓覺大師。塔曰空觀。師自魏丙辰歲告寂。迄皇宋景德元年甲辰。得四百六十七年矣(當雲自魏至庚子歲告寂。迄皇宋景德元年甲辰得四百七十五年矣。凡此年代之差。皆由寶林傳錯誤而楊文公不復考究耳)。

(校記接ぎて曰く、)蓋し魏末、別に西域に使を遣はして回りしのみ、只當に云ふべし、三年後、魏使の西域より回る者ありて、蔥嶺に於て師に遇ひ、手に一隻の鞋を攜へて翩翩として獨り逝くを見る、師に問ふ、何處に往く、曰く、西天に往く、又使に對して曰く、汝の主已に厭世せり、使者、聞きて茫然として師に別れて東行す、復命するに及ぶや、即ち明帝已に登遐して孝莊即位せり、奉使、此の事を具奏す、帝、令を下して墓穴を開かしむ、惟だ空棺一具・革履一隻在るのみと)。擧朝之が爲に驚歎して、詔を奉じて遺履を取りて少林寺に於て供養す。唐開元十五年丁卯の歳に至りて、道を信ずる者に五臺華嚴寺に偷まれ、今何の處に在るを知らず。初め梁武、師に遇ふも因縁未だ契らず、化の魏邦に行はるるを聞くに及びて、自ら師の碑を撰せんと欲すも未だ暇あらず、後に宋雲の事を聞きて方に成せり。代宗、諡して圓覺大師・塔を空觀と曰ふ。師、魏の丙辰の歳に告寂してより皇宋景德元年甲辰に至るまで、四百六十七年を得たり(當に魏の庚子の歳に告寂してより皇宋景德元年甲辰に至るまで四百七十五年を得たりと云ふべし、凡そ此等の年代の差は皆《寶林傳》の錯誤に由りて、楊文公復た考究せざるなり)。

第二十九祖慧可大師者武牢人也。姓姬氏。父寂未有子時。嘗自念言。我家崇善豈無令子。禱之既久。一夕感異光照室。其母因而懷妊。及長遂以照室之瑞。名之曰光。自幼志氣不群。博涉詩書尤精玄理。而不事家產好遊山水。後覽佛書超然自得。即抵洛陽龍門香山。依寶靜禪師出家受具。於永穆寺浮游講肆。遍學大小乘義。年三十二卻返香山。終日宴坐又經八載。於寂默中倏見一神人。謂曰。將欲受果何滯此耶。大道匪遙。汝其南矣。光知神助因改名神光。翌日覺頭痛如刺。其師欲治之。空中有聲曰。此乃換骨非常痛也。光遂以見神事白於師。師視其頂骨即如五峰秀出矣。乃曰。汝相吉祥當有所證。神令汝南者。斯則少林達磨大士必汝之師也。光受教造於少室。其得法傳衣事跡。達磨章具之矣。自少林託化西歸。大師繼闡玄風博求法嗣。至北齊天平二年(當作天保二年乃辛未歲也。天平東魏年號二年乙卯也)有一居士年踰四十不言名氏。聿來設禮而問師曰弟子身纏風恙。請和尚懺罪。師曰。將罪來與汝懺。居士良久雲。覓罪不可得。師曰。我與汝懺罪竟。宜依佛法僧住。曰今見和尚已知是僧。未審何名佛法。師曰。是心是佛。是心是法。法佛無二。僧寶亦然。曰今日始知罪性不在內不在外不在中間。如其心然佛法無二也。大師深器之。即為剃髮。雲是吾寶也。宜名僧璨。其年三月十八日於光福寺受具。自茲疾漸愈。執侍經二載。大師乃告曰。菩提達磨(舊本雲達磨菩提)遠自竺乾以正法眼藏密付於吾。吾今授汝並達磨信衣。汝當守護無令斷絕。聽吾偈曰。

第二十九祖慧可大師は、武牢の人なり。姓は姬氏。父の名は寂、未だ子無き時、曾て自ら念ふ、我が家善を崇す、豈に好子無からん、祈禱已に久し、一夜、異光室を照らすを感應し、其の母、因りて懷妊有り、長ずるに及びて、即ち室を照らすの瑞に因りて名を光と曰ふ、自ら幼にして志氣群を拔き、詩書に博涉して尤も玄理に精し、而も家産を事とせず、山水を游ぶを好む、後に佛書を覽讀して超然自得し、即ち洛陽龍門香山に至りて寶靜禪師に依りて出家受具し、永穆寺に浮游講肆して大小乘義を遍學す、年三十二にして香山に却返し、終日宴坐して又八年を踰ぬ、寂默中に忽然として一の神人を見て、彼に謂ひて曰く、將に果を受けんとす、何ぞ須らく此に滯る、大道遠からず、汝南に往け、光、神助を知りて、因りて名を神光と改む、明日、頭痛刺の如くなるを覺ゆ、其の師、治せんと欲す、空中に聲ありて曰く、此れ換骨なり、常の痛にあらず、光、即ち神を見るの事を以て師に告ぐ、師、其の頂骨を視るに、五峯の秀出するが如し、即ち曰く、汝の相は吉祥なり、當に證する所有らん、神、汝をして南に往かしめば、即ち少林の達磨大士は必ず汝の師ならん、光、教を受けて少室に造詣す、其の法を得て衣を傳ふるの事迹は達磨章に具載せり、少林より化を托して西歸するより、大師、繼續して玄風を闡揚し、博く法嗣を求む、北齊天平二年に至りて(當に天保二年と作るべし、乃ち辛未の歳なり、天平は東魏の年號にして二年は乙卯なり)、一の居士ありて年四十を過ぎ、名氏を言はず、前に來りて禮を設けて師に問ふ、弟子、身に風恙を纏ひて、和尚に罪を懺せんことを請ふ、師曰く、罪を將來れ、汝が爲に懺せん、居士、良久にして曰く、罪を覓む、覓むるに得ること能はず、師曰く、我、汝が爲に罪を懺し訖れり、宜しく佛法僧に依りて住すべし、曰く、今和尚を見て、已に是れ僧と知れり、未だ何をか佛法と名づくるを知らず、師曰く、是心是佛、是心是法なり、法と佛と二無し、僧寶亦復然り、曰く、今日方に知る、罪性は内に在らず外に在らず中間に在らず、其の心の如く然るが如く、佛法二無し、大師、深く彼を器して、即ち爲に剃髮して曰く、是れ吾が寶なり、宜しく名づけて僧璨と曰ふべし、其の年三月十八日、光福寺に於て受具す、此より疾病漸く瘳ゆ、執侍二載を經て、大師方に彼に告げて曰く、菩提達磨(舊本は達磨菩提と云ふ)、遠く竺乾より正法眼藏を密かに我に付せり、我、今汝に授く、并せて達磨の信衣有り、汝當に守護して斷絶せしむること勿れ、我が偈を聽け。

本來緣有地因地種華生

本來地有るが故に、地に因りて種花を生ず、

本來無有種華亦不曾生

本來種無ければ、花も亦曾て生ぜず。

大師付衣法已。又曰。汝受吾教宜處深山。未可行化當有國難。璨曰。師既預知。願垂示誨。師曰。非吾知也。斯乃達磨傳般若多羅懸記雲。心中雖吉外頭兇是也。吾校年代正在於茲。當諦思前言勿罹世難。然吾亦有宿累。今要酬之。善去善行俟時傳付。大師付囑已。即於鄴都隨宜說法。一音演暢四眾歸依。如是積三十四載。遂韜光混跡變易儀相。或入諸酒肆。或過於屠門。或習街談。或隨廝役。人問之曰。師是道人何故如是。師曰。我自調心何關汝事。又於筦城縣匡救寺三門下。談無上道聽者林會。時有辯和法師者。於寺中講涅槃經。學徒聞師闡法稍稍引去。辯和不勝其憤。興謗於邑宰翟仲侃。仲侃惑其邪說。加師以非法。師怡然委順。識真者謂之償債。時年一百七歲。即隋文帝開皇十三年癸丑歲三月十六日也(皓月供奉。問長沙岑和尚。古德雲。了即業障本來空。未了應須償宿債。只如師子尊者二祖大師。為什麼得償債去。長沙雲。大德不識本來空。彼雲。如何是本來空。長沙雲。業障是。又問。如何是業障。長沙雲。本來空是。彼無語。長沙便示一偈雲。假有元非有。假滅亦非無。涅槃償債義。一性更無殊)後葬於磁州滏陽縣東北七十里。唐德宗諡大祖禪師。自師之化至皇宋景德元年甲辰。得四百一十三年(當作一十二年)。

大師、衣法を付し訖りて、又曰く、汝、我が教を受く、宜しく深山に住して尚ほ行化すべからず、當に國難有らん。璨曰く、師既に預知せり、願はくは示誨を垂れん。師曰く、是れ我の知るにあらず、此れ乃ち達磨の般若多羅を傳へる懸記の云く「心中雖く吉なりと雖も外頭凶なり」是れなり、我、年代を勘合するに正に此に在り、當に仔細に前の言を思ふべし、世難を罹ること勿れ、然れど我亦宿累有り、今將に酬還せんとす、好く去りて好く行け、時を俟ちて傳付せよ。大師、付嘱畢りて、即ち鄴都に於て宜に隨ひて法を説き、一音演暢して四衆歸依す、是の如く三十四年を積累し、便ち光を韜して迹を混し、儀相を變易す、或は諸の酒肆に入り、或は屠門を經過し、或は街談に習ひ、或は厮役に隨ふ、人、彼に問ひて曰く、師は道人なり、何故に是の如くなる、師曰く、我自ら心を調ふ、汝の事に關はらんや、又筦城縣匡救寺の三門下に於て無上道を談ず、聽く者林會せり、當時辯和法師ありて寺中に《涅槃經》を講ず、學徒、師の法を闡くを聞きて、漸々引き去る、辯和、憤怒に勝へずして邑宰翟仲侃に謗を興す、仲侃、其の邪説に迷惑して師に非法を加ふ、師、怡然として委順す、眞を識る者は是れ債を償ふと謂ふ、當時年一百七歳なり、即ち隋文帝開皇十三年癸丑の歳三月十六日なり(皓月供奉、長沙岑和尚に問ふ、古德に曰く「了せば即ち業障本來空、未だ了せざれば應に須らく宿債を償ふべし」、只如き師子尊者・二祖大師、何故に債を償ひて去るを得る、長沙曰く、大德、本來空を識らず、彼問ふ、如何なるか是れ本來空、長沙曰く、業障是れなり、又問ふ、如何なるか是れ業障、長沙曰く、本來空是れなり、彼、語無し、長沙、便ち一首の偈を示す、假有元より非有、假滅亦復無ならず、涅槃償債の義、一性更に殊無しと)。後に磁州滏陽縣東北七十里に葬る、唐德宗、諡して大祖禪師と曰ふ、師の化より皇宋景德元年甲辰に至るまで、四百一十三年を得たり(當に一十二年と作るべし)。

僧那禪師姓馬氏。少而神俊通究墳典。年二十一講禮易於東海。聽者如市。暨南徂相部學眾隨至。會二祖說法。與同志十人投祖出家。自爾手不執筆永捐世典。唯一衣一缽一坐一食奉頭陀行。既久侍於祖後謂門人慧滿曰。祖師心印非專苦行。但助道耳。若契本心發隨意真光之用。則苦行如握土成金。若唯務苦行。而不明本心。為憎愛所縛。則苦行如黑月夜履於險道。汝欲明本心者。當審諦推察。遇色遇聲。未起覺觀時心何所之。是無耶是有耶。既不墮有無處所。則心珠獨朗常照世間。而無一塵許間隔。未嘗有一剎那頃斷續之相。故我初祖兼付楞伽經四卷。謂我師二祖曰。吾觀震旦唯有此經可以印心。仁者依行自得度世。又二祖凡說法竟。乃曰。此經四世之後變成名相。深可悲哉。我今付汝宜善護持。非人慎勿傳之。付囑已師乃遊方。莫知其終。

僧那禪師、姓は馬氏。少より神俊にして墳典に通究す、年二十一にして東海にて禮・易を講じ、聽く者市の如し、南に相部に往くに及びて、學衆相隨ひて至る、二祖の説法に遇ひて、同志十人と祖に投じて出家す、此より手に筆を執らず、永く世典を捐棄し、唯一衣一鉢・一坐一食にして頭陀行を奉ず、既に祖に侍奉すること久しく、後に門人慧滿に謂ひて曰く、祖師の心印は、並びて苦行に專らずして、只助道ならんのみ、若し本心に契らば、随意眞光の用を發すれば、則ち苦行は土を握りて金を成すが如し、若し只苦行を務めて却て本心を明めず、憎愛に縛せられんば、則ち苦行は黑月の夜、險道を走るが如し、汝、本心を明かめんと欲せば、當に審諦に推察すべし、色に遇ひ聲に遇ひて、未だ覺觀を起さざるの時、心は何の處にか往く、是れ無か、是れ有か、既に有無の處所に堕せざれば、則ち心珠獨り朗照して常に世間を照らし、而も一塵許りの間隔無く、曾て一刹那頃斷續の相無し、故に我が初祖、兼ねて《楞伽經》四卷を付して我が師二祖に謂ひて曰く、我、震旦を觀るに唯此の經を以て心を印すべし、仁者依行せば自ら度世することを得ん、又二祖、凡そ法を説き畢れば、便ち曰く、此の經、四世の後名相と變じて深く悲しむべしと、我、今汝に付す、宜しく善く護持すべし、其の人にあらざれば切に傳ふること勿れ。付嘱畢りて、師、乃ち游方す、其の終るを知らず。

向居士。幽棲林野木食㵎飲。北齊天保初。聞二祖盛化乃致書通好曰。影由形起響逐聲來。弄影勞形不識形為影本。揚聲止響不知聲是響根。除煩惱而趣涅槃。喻去形而覓影。離眾生而求佛果。喻默聲而尋響。故知迷悟一途愚智非別。無名作名。因其名則是非生矣。無理作理。因其理則爭論起矣。幻化非真誰是誰非。虛妄無實何空何有。將知得無所得失無所失。未及造謁聊申此意。伏望答之(弄影當作棄影。唯恐當時筆誤耳。蓋第三十卷鎮國大師答皇太子問心要雲。若求真去妄。猶棄影勞形。若體妄即真。似處陰休影。此用莊子之說。勞形謂走而避影也)。二祖大師命筆迴示曰。備觀來意皆如實。真幽之理竟不殊。本迷摩尼謂瓦礫。豁然自覺是真珠。無明智慧等無異。當知萬法即皆如。愍此二見之徒輩。申辭措筆作斯書。觀身與佛不差別。何須更覓彼無餘。居士捧披祖偈乃伸禮覲。密承印記。

向居士、林野に幽棲して木食澗飮す。北齊天保初、二祖の盛化を聞きて、即ち書を致して通好して曰く、影は形に由りて起こり、響は聲に隨ひて來る、影を弄して形を勞するは、形は影の本を識らず、聲を揚げて響を止めるは、聲は響の根を知らず、煩惱を除いて涅槃に趣くは、形を去りて影を覓むるに比し、衆生を離れて佛果を求むるは、聲を默して響を尋ぬるに比す、故に知る、迷悟一條の路、愚智は兩樣にあらず、名無きにして名を作れば、其名に因りて是非生じ、理無きにして理を作れば、其の理に因りて争論起こる、幻化は眞にあらず、誰か是で誰か非、虛妄は實無く、何が空で何が有、將に知るべし、得るは得る所無く、失ふは失ふ所無し、未だ造謁に及ばず、聊か此の意を申す、伏して答覆を望む(「弄影」は當に「棄影」と作るべし、只怕るくは當時の筆誤ならん、第三十卷鎭國大師が皇太子の問心要に答へて云く、若し眞を求めて妄を去れば、猶影を棄てて形を勞するが若く、若し妄を體して即ち眞なれば、陰に處りて影を休むに似たりと、此れ莊子の語を用ゐるなり、「勞形」とは影を避けて走るを謂ふ)。二祖大師、筆を命じて回示して曰く、備へに來意を觀れば皆如實なり、眞幽の理終竟殊ならず、本來摩尼を迷ひて瓦礫と以爲せり、豁然として自覺せば是れ眞珠なり、無明と智慧とは等しく異無し、當に知るべし、萬法は即ち皆如なり、此の二見の徒輩を憐愍して、辭を申し筆を措きて此の書を作す、身を觀れば佛と差別無し、何ぞ須らく更に彼の無餘を覓めん。居士、祖偈を捧披して、即ち禮を伸べて覲見し、密かに印記を承く。

相州隆化寺慧滿禪師。滎陽人也。姓張氏。始於本寺遇僧那禪師開示。志存儉約唯蓄二針。冬則乞補夏乃捨之。自言一生心無怯怖身無蚤蝨睡而不夢。常行乞食住無再宿。所至伽藍則破柴製履。貞觀十六年於洛陽會善寺側。宿古墓中遇大雪。旦入寺見曇曠法師。曠怪所從來。師曰。法有來耶。曠遣尋來處。四邊雪積五尺許。曠曰。不可測也。尋聞有括錄事。諸僧逃隱。師持缽周行聚落無所滯礙。隨得隨散索爾虛閑。有請宿齋者。師曰。天下無僧方受斯請也。又嘗示人曰。諸佛說心令知心。相是虛妄。今乃重加心相。深違佛意。又增論議殊乖大理。故常齎楞伽經四卷。以為心要。如說而行。蓋遵歷世之遺付也。後於陶冶中無疾坐化。壽七十許。

相州隆化寺慧滿禪師は、滎陽の人なり。姓は張氏。初め本寺に於て僧那禪師の開示に遇ひて、志は儉約に在り、只二の針を蓄へ、冬は則ち人に求めて補ひ、夏は則ち之を捨つ、自ら言ふ、一生、心に怯怖なく身に蚤虱なく、睡りて夢無しと、常に乞食を行じ、住するに再宿無し、到る所の伽藍に於て、則ち柴を破り履を製す、貞觀十六年、洛陽會善寺側に於て古墓中に宿す、大雪に遇ふ、旦に寺に入りて曇曠法師を見る、曠、其の何處より來るを怪しむ、師曰く、法に來有らんや、曠、人を遣はして來處を尋ぬれば、四邊雪積もりて高さ五尺餘、曠曰く、測るべからず、隨ひて括錄の事有るを聞き、諸僧逃隱す、師、鉢を持ちて聚落を周行して滯礙無く、得るに隨ひて散じて索爾として虛閑なり、或る人彼を請じて宿齋す、師曰く、天下に僧無ければ、纔かに此の請を受けん、又曾て人を開示して曰く、諸佛の心を説くは、心を知らしめんとするなり、相は虛妄なり、今却て心相を重加し、深く佛意に違背して又論議を增加す、尤も大理に乖離せり、故に常に《楞伽經》四卷を攜帶して以て心要と爲し、説の如くして行ふは、蓋し歷世の遺付に遵るなり。後に陶冶中に於て疾無く坐化す、壽七十許り。

第三十祖僧璨大師者。不知何許人也。初以白衣謁二祖。既受度傳法。隱於舒州之皖公山。屬後周武帝破滅佛法。師往來太湖縣司空山。居無常處積十餘載。時人無能知者。至隋開皇十二年壬子歲。有沙彌道信。年始十四。來禮師曰。願和尚慈悲乞與解脫法門。師曰。誰縛汝。曰無人縛。師曰。何更求解脫乎。信於言下大悟服勞九載。後於吉州受戒侍奉尤謹。師屢試以玄微。知其緣熟乃付衣法。偈曰。

第三十祖僧璨大師、何の處の人かを知らず。初め白衣を以て二祖に謁し、既に度を受け法を傳へて、舒州の皖公山に隱る、後周武帝の佛法を破滅するに遭ひて、師、太湖縣司空山に往來し、居常處なく、十餘年を積累して當時人能く知る者なし、隋開皇十二年壬子の歳に至りて、沙彌道信ありて年纔かに十四、來りて師に禮して曰く、願はくは和尚慈悲、解脱法門を與へんことを、師曰く、誰か汝を縛する、曰く、人の縛する無し、師曰く、何ぞ須らく更に解脱を求めんや、信、言下に大悟して九年服勞す、後に吉州に於て戒を受けて侍奉尤も恭謹なり、師、屢玄微を以て之を試して縁の熟するを知り、方に衣法を付す、偈に曰く、

華種雖因地從地種華生

花種地に因ると雖も、地に從りて種花を生ず、

若無人下種華地盡無生

若し人の種を下すこと無ければ、花と地と皆生ぜず。

師又曰。昔可大師付吾法。後往鄴都行化三十年方終。今吾得汝何滯此乎。即適羅浮山優遊二載。卻旋舊址逾月。士民奔趨大設檀供。師為四眾廣宣心要訖。於法會大樹下合掌立終。即隋煬帝大業二年丙寅十月十五日也。唐玄宗諡鑑智禪師覺寂之塔。至皇宋景德元年甲辰歲。凡四百載矣。初唐河南尹李常。素仰祖風深得玄旨天寶乙酉歲。遇荷澤神會問曰。三祖大師葬在何處。或聞入羅浮不迴。或說終於山谷。未知孰是。會曰。璨大師自羅浮歸山谷。得月餘方示滅。今舒州見有三祖墓。常未之信也。會謫為舒州別駕。因詢問山谷寺眾僧曰。聞寺後有三祖墓是否。時上坐慧觀對曰。有之。常欣然與寮佐同往瞻禮。又啟壙取真儀闍維之。得五色舍利三百粒。以百粒出己俸建塔焉。百粒寄荷澤神會。以徵前言。百粒隨身。後於洛中私第設齋以慶之。時有西域三藏犍那等在會中。常問三藏。天竺禪門祖師多少。犍那答曰。自迦葉至般若多羅。有二十七祖。若敘師子尊者傍出達磨達四世。二十二人。總有四十九祖。若從七佛至此璨大師。不括橫枝凡三十七世。常又問。會中耆德曰。嘗見祖圖。或引五十餘祖。至於支派差殊宗族不定。或但有空名者。以何為驗。時有智本禪師者。六祖門人也。答曰。斯乃後魏初佛法淪替。有沙門曇曜。於紛紜中以素絹單錄。得諸祖名字。或忘失次第。藏衣領中隱於巖穴。經三十五載。至文成帝即位。法門中興。曇曜名行俱崇。遂為僧統。乃集諸沙門重議結集目。為付法藏傳。其間小有差互。即曇曜抄錄時怖懼所致。又經一十三年。帝令國子博士黃元真與北天竺三藏佛陀扇多吉弗煙等。重究梵文甄別宗旨次敘師承。得無𧘱謬也。

師又曰く、昔可大師、我に法を付せり、後に鄴都に往きて三十年行化して方に終れり、今我、汝を得たり、何ぞ須らく此に滯らん、即ち羅浮山に往きて優游二年、却て舊址に旋回し、一月を踰えて士民奔趨して大いに檀供を設く、師、四衆の爲に心要を廣宣し畢りて、法會の大樹下に合掌して立終す、即ち隋煬帝大業二年丙寅十月十五日なり、唐玄宗、諡して鑑智禪師・覺寂の塔と曰ふ、皇宋景德元年甲辰の歳に至るまで、凡そ四百年なり、初め唐河南尹李常、素より祖風を仰慕して深く玄旨を得たり、天寶乙酉の歳、荷澤神會に遇ひて問ふ、三祖大師、何の處にか葬る、或は入りて羅浮に回らずと聞き、或は山谷に終ると云ふ、未だ孰れか是なるを知らず、會曰く、璨大師、羅浮より山谷に歸りて、一月餘を得て方に示滅せり、今舒州に現に三祖の墓有り、常、未だ信ぜず、會、舒州別駕に謫せられ、因りて山谷寺の衆僧に詢問す、聞く、寺後に三祖の墓有り、是か非か、當時上座慧觀、對して曰く、之れ有り、常、欣然として僚佐と同じく往きて瞻禮し、又墓穴を開きて眞儀を取りて荼毘し、五色の舍利三百粒を得、百粒を以て己が俸祿を出だして塔を建て、百粒を荷澤神會に寄せて以て前言を徵驗し、百粒を身に隨ふ、後に洛中の私第に於て齋を設けて以て慶賀す、當時西域三藏犍那等會中に在り、常、三藏に問ふ、天竺の禪門祖師多少ある、犍那答曰く、迦葉より般若多羅に至るまで二十七祖有り、若し師子尊者より旁出の達磨達四世二十二人を叙すれば、總じて四十九祖有り、若し七佛より此の璨大師に至れば、橫枝を算へずして共に三十七世なり、常、又會中の耆德に問ふ、曾て祖圖を見るに、或は五十餘祖を引き、支派の差殊・宗族の不定に至り、或は空名有るのみ、何を以てか驗と爲さん、當時智本禪師ありて六祖の門人なり、答曰く、此れ乃ち後魏初佛法淪替せり、沙門曇曜ありて紛紜中に素絹を以て單錄し、諸祖の名字を得るも、或は次第を忘失し、衣領中に藏して巖穴に隱れ、三十五年を經て文成帝即位するに及びて法門中興す、曇曜、名行俱に高くして便ち僧統と爲り、乃ち諸の沙門を集めて重ねて議し結集して題して《付法藏傳》と曰ふ、其中小さき差互有れば、即ち曇曜の抄錄する時怖懼の致す所なり、又十三年を經て、帝、國子博士黃元眞に令して北天竺三藏佛陀扇多・吉弗烟等と重ねて梵文を考究し、宗旨を甄別し、次を按じて師承を叙述せしめ、以て訛謬無きを得たり(底本此の字を「𧘱」と作る、即ち訛)。

第三十一祖道信大師者。姓司馬氏世居河內。後徙於蘄州之廣濟縣。師生而超異。幼慕空宗諸解脫門。宛如宿習既嗣祖風。攝心無寐脇不至席者。僅六十年。隋大業十三載。領徒眾抵吉州。值群盜圍城七旬不解。萬眾惶怖。師愍之教令念摩訶般若。時賊眾望雉堞間。若有神兵。乃相謂曰。城內必有異人。不可攻矣。稍稍引去。唐武德甲申歲。師卻返蘄春住破頭山。學侶雲臻。一日往黃梅縣路逢一小兒。骨相奇秀異乎常童。師問曰。子何姓。答曰姓即有不是常姓。師曰。是何姓。答曰。是佛性。師曰。汝無性耶。答曰。性空故。師默識其法器。即俾侍者至其家。於父母所乞令出家。父母以宿緣故殊無難色。遂捨為弟子。名曰弘忍(舊本無名曰弘忍四字。今此添入。若不言名。以至付法傳衣者。是何人耶。兼後有忍曰二字。亦自不明耳)以至付法傳衣。偈曰。

第三十一祖道信大師、姓は司馬氏、世々河内に居り、後に蘄州の廣濟縣に遷る、師、生まれて即ち超異にして、幼にして空宗諸解脱門を仰慕するに宛も宿習の如し、既に祖風を嗣ぎて、心を攝めて睡らず、脇席に至らざること將に六十年なり、隋大業十三載、徒衆を領して吉州に抵る、群盜の城を圍んで七十日解けざるに遭ふ、萬衆惶怖す、師、彼らを憫みて彼らに摩訶般若を念ぜしむ、當時賊衆、雉堞の間に神兵の有るが如くを望見して、便ち遞相に曰く、城内に必ず異人あり、攻むべからず、漸々引き去る、唐武德甲申の歳、師、却て蘄春に返りて破頭山に住す、學侶雲集す、一日黄梅縣に往く、路上一の小兒に遇ふ、骨相奇秀にして常童に同じからず、師問ふ、汝、何の姓ぞ、答曰く、姓は即ち有りて常姓にあらず、師曰く、是れ何の姓ぞ、答曰く、是れ佛性なり、師曰く、汝性無きか、答曰く、性空の故なり、師、默然として其の法器たるを識り、即ち侍者をして其の家に至らしめて父母に出家せしむるを求む、父母、宿縁の故を以て、全く難色無し、乃ち捨てて弟子と爲す、名を弘忍と曰ふ(舊本「名曰弘忍」の四字無し、今添入す、若し名を云はざれば、法を付し衣を傳ふるに至るは何人ぞ、兼ねて後に「忍曰」の二字有れば、亦自然に明らかならず)、以て法を付し衣を傳ふるに至る、偈に曰く、

華種有生性因地華生生

花種に生性有り、地に因りて花生ずること生じ、

大緣與信合當生生不生

大緣信と合するに、當生にして生じて生ぜず。

遂以學徒委之。一日告眾曰。吾武德中遊廬山。登絕頂望破頭山。見紫雲如蓋下有白氣橫分六道。汝等會否。眾皆默然。忍曰。莫是和尚他後橫出一枝佛法否。師曰善。後貞觀癸卯歲。太宗嚮師道味欲瞻風彩。詔赴京師。上表遜謝前後三返。竟以疾辭。第四度命使曰。如果不起即取首來。使至山諭旨。師乃引頸就刃神色儼然。使異之迴以狀聞。帝彌加歎慕。就賜珍繒以遂其志。迄高宗永徽辛亥歲閏九月四日。忽垂誡門人曰。一切諸法悉皆解脫。汝等各自護念流化未來。言訖安坐而逝壽七十有二。塔於本山。明年四月八日塔戶無故自開。儀相如生。爾後門人不敢復閉。代宗諡大醫禪師慈雲之塔。自圓寂至皇宋景德元年甲辰。凡三百五十六載(當雲三百五十四載)。

於是乎學徒を彼に委囑す。一日衆に告げて曰く、我、武德中、廬山を游びて絕頂に登りて破頭山を望み、紫雲蓋の如く下有りて白氣六道に橫分するを見たり、汝等領會するか、衆皆默然、忍曰く、莫れも是れ和尚已後、一枝の佛法を橫出せんとするか、師曰く、善し。後貞觀癸卯の歳、太宗、師の道味を嚮往して風采を瞻んと欲し、京師に赴かんを詔す、表を上げて遜謝す、前後三次、竟に疾を以て辭す、第四次使に命じて曰く、若し果して起たざれば、則ち首を取りて來れ、使、山中に到りて旨を傳ふ、師、即ち頸を引きて刃に就く、神色儼然たり、使、驚異して回りて狀を以て奏聞す、帝、彌が上に歎慕して即ち珍繒を賜ひて以て其の志を遂げしむ、高宗永徽辛亥の歳閏九月四日に至りて、忽然として門人に垂誡して曰く、一切の諸法、悉く解脱す、汝等各自に護念して未來に流化せよ、言い訖りて安坐して逝す、壽七十二、塔は本山に在り、第二年四月八日、塔戸故無く自ら開きて儀相生の如し、此の後門人敢て再び關せず、代宗、諡して大醫禪師・慈雲の塔と曰ふ、圓寂より皇宋景德元年甲辰に至るまで、凡そ三百五十六載なり(當に三百五十四載と云ふべし)。

第三十二祖弘忍大師者蘄州黃梅人也。姓周氏。生而岐嶷。童遊時逢一智者。歎曰。此子闕七種相不逮如來。後遇信大師得法嗣化。於破頭山咸亨中有一居士。姓盧名慧能。自新(舊本誤作鄿字)州來參謁師。問曰。汝自何來曰嶺南師曰。欲須何事。曰唯求作佛。師曰。嶺南人無佛性。若為得佛。曰人即有南北佛性豈然。師知是異人。乃訶曰。著槽厰去。能禮足而退。便入碓坊服勞於杵臼之間。晝夜不息經八月。師知付授時至。遂告眾曰。正法難解不可徒記吾言持為己任。汝等各自隨意述一偈。若語意冥符。則衣法皆付。時會下七百餘僧。上座神秀者。學通內外眾所宗仰。鹹共推稱雲。若非尊秀疇敢當之。神秀竊聆眾譽不復思惟。乃於廊壁書一偈雲。

第三十二祖弘忍大師は、蘄州黄梅の人なり。姓は周氏。生まれて即ち岐嶷たり。童游の時、一の智者に遇ひて歎じて曰く、此の子、七種の相を缺きて如來に及ばず、後に信大師に遇ひて法を得て嗣化し、破頭山に在り。咸亨中、一の居士ありて、姓は盧、名は慧能、新(舊本誤りて「鄿」の字と作る)州より來りて參謁す、師問ふ、汝、何處より來る、曰く、嶺南、師曰く、何の事をか須うる、曰く、只求む作佛を、師曰く、嶺南人に佛性無し、何を以てか佛を得ん、曰く、人は即ち南北有り、佛性豈に然らん、師、是れ異人と知りて、即ち呵して曰く、槽廠に著け、能、禮足して退きて便ち碓坊に入りて、杵臼の間に服勞して晝夜息まず、八箇月を經る。師、付授の時至るを知りて、即ち衆に告げて曰く、正法解し難し、徒らに我が言を記して以て己任と爲すこと可ならず、汝等各自に隨意に一首の偈を述べよ、若し語意冥符せば、則ち衣法皆付せん、當時會下七百餘僧、上座神秀は學、内外に通じて衆人の宗仰する所と爲る、皆共に推稱して曰く、若し尊秀にあらざれば、誰敢て當たらん、神秀、竊かに衆人の譽を聞きて、復た思惟せずして、即ち廊壁に一首の偈を書して曰く、

身是菩提樹心如明鏡臺

身は是れ菩提の樹、心は明鏡の臺の如し、

時時勤拂拭莫遣有塵埃

時時勤めて拂拭して、塵埃あらしむること勿れ。

師因經行忽見此偈。知是神秀所述。乃讚歎曰。後代依此修行亦得勝果。其壁本欲令處士盧珍繪楞伽變相。及見題偈在壁。遂止不畫各令誦念。能在碓坊忽聆誦偈。乃問同學。是何章句。同學曰。汝不知和尚求法嗣。令各述心偈。此則秀上座所述。和尚深加歎賞。必將付法傳衣也能曰。其偈云何。同學為誦。能良久曰。美則美矣。了則未了。同學訶曰。庸流何知勿發狂言。能曰。子不信耶。願以一偈和之。同學不答相視而笑。能至夜密告一童子引至廊下。能自秉燭。令童子於秀偈之側寫一偈雲。

師、經行するが故に忽然として此の偈を見て、是れ神秀の述する所と知りて、便ち讚歎して曰く、後代此に依りて修行せば、亦勝果を得ん、其の墙壁、本欲し處士盧珍をして楞伽變相を繪せしめんとせり、題偈の壁に在るを見るに及びて、便ち止めて畫かずして、各々誦念せしむ、能、碓坊に於て忽然として偈を誦するを聞きて、便ち同學に問ふ、是れ何の章句ぞ、同學曰く、汝、知らざるか、和尚法嗣を求めて各々心偈を述べしむ、此れ即ち秀上座の述する所なり、和尚深く歎賞を加へて必ず將に法を付し衣を傳へんとす、能曰く、其の偈は云何ん、同學、彼が爲に誦す、能、良久にして曰く、美なりとは云へ美なれども、了したりとは云へ未だ了せず、同學呵して曰く、庸流、何をか知る、狂言を發すること勿れ、能曰く、汝信ぜざるか、願はくは一首の偈を以て之に和せん、同學答へずして相視して笑ふ、能、夜に至りて一の童子に密告して廊下に引き至らしむ、能、自ら燭を執りて童子をして秀偈の旁に一首の偈を書さしめて曰く、

菩提本非樹心鏡亦非臺

菩提本來樹にあらず、心鏡亦臺にあらず、

本來無一物何假拂塵埃

本來一物無し、何ぞ須らく塵埃を拂はんや。

大師後見此偈雲。此是誰作亦未見性。眾聞師語遂不之顧。逮夜乃潛令人自碓坊召能行者入室。告曰。諸佛出世為一大事故。隨機小大而引導之。遂有十地三乘頓漸等旨。以為教門。然以無上微妙秘密圓明真實正法眼藏。付於上首大迦葉尊者。展轉傳授二十八世。至達磨屆於此土。得可大師。承襲以至於吾。今以法寶及所傳袈裟用付於汝。善自保護無令斷絕。聽吾偈曰。

大師、後に此の偈を見て曰く、此れ誰の作る所ぞ、亦未だ性を見ず、衆、師の言を聞きて便ち觀ずるを止め、夜に及ぶや、方に暗中人を遣はして碓坊より能行者を召して室に入れて告げて曰く、諸佛の出世は一大事の爲の故に、根機の小大に隨ひて引導して、遂に十地・三乘・頓漸等の旨有りて以て教門と爲す、然れど無上微妙祕密圓明眞實正法眼藏を上首大迦葉尊者に付して、展轉傳授二十八世、達磨の此の土に到るに至りて可大師を得て承襲して我に至る、今法寶及び傳ふる所の袈裟を以て汝に付す、善く自ら保護して斷絶せしむること勿れ、我が偈を聽け。

有情來下種因地果還生

有情來りて種を下し、地に因りて果還た生ず、

無情既無種無性亦無生

無情既に種無ければ、性無く亦生ずること無し。

能居士跪受衣法。啟曰。法則既授衣付何人。師曰。昔達磨初至人未知信。故傳衣以明得法。今信心已熟。衣乃爭端止於汝身不復傳也。且當遠隱俟時行化。所謂授衣之人命如懸絲也。能曰。當隱何所。師曰。逢懷即止。遇會且藏。能禮足已捧衣而出。是夜南邁大眾莫知。忍大師自此不復上堂凡三日。大眾疑怪致問。祖曰。吾道行矣。何更詢之。復問衣法誰得耶。師曰。能者得。於是眾議盧行者名能。尋訪既失。懸知彼得即共奔逐。忍大師既付衣法。復經四載。至上元二年(乙亥歲乃唐高宗時也。至肅宗時復有上元年號。其二年歲在辛丑也)。忽告眾曰。吾今事畢時可行矣。即入室安坐而逝。壽七十有四。建塔於黃梅之東山。代宗皇帝諡大滿禪師法雨之塔。自大師滅度至皇宋景德元年甲辰。凡三百三十年。

能居士、跪いて衣法を受けて啓して曰く、法則既に授けられ、衣は何人に付せん。師曰く、昔達磨初めて至りし時、人未だ知り信ぜず、故に衣を傳へて以て法を得たるを表明せり、今信心已に熟せり、衣は乃ち争端なり、汝の身に止めて復た傳へず、且つ當に遠く隱れて時を俟ちて行化すべし、所謂衣を授けらるる者は、命は絲を懸ぐが如し、能曰く、當に何の處にか隱れん、師曰く、懷に逢へば即ち止まり、會に遇へば且く藏れ、能、禮足畢りて衣を捧げて出づ、此の夜南に行きて大衆知らず、忍大師、此より復た堂に上らざること凡そ三日、大衆疑怪して致問す、祖曰く、我が道行はれり、何ぞ須らく更に問はん、又問ふ、衣法は誰か得たる、師曰く、能くする者得たり、於是乎衆人議して曰く、盧行者の名は能、尋訪するに既に失せり、懸く知る彼の得たるを、便ち共に奔逐す、忍大師、既に衣法を付し、又四年を踰えて上元二年に至る(乙亥の歳、乃ち唐高宗の時なり、肅宗の時に至りて又上元の年號有り、其の二年は歳辛丑に在り)、忽然として衆に告げて曰く、我、今事畢れり、時行くべし、即ち室に入りて安坐して逝す、壽七十四、黄梅の東山に塔を建つ、代宗皇帝、諡して大滿禪師・法雨の塔と曰ふ、大師の滅度より皇宋景德元年甲辰に至るまで、凡そ三百三十年なり。

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