Libo

景德傳燈錄 卷第三

宋 · 道原 · 第41巻 / 151

第三世慧方禪師者。潤州延陵人也。姓濮氏。投開善寺出家。及進具。洞明經論。後入牛頭山。謁巖禪師諮詢秘要。巖觀其根器堪任正法。遂示以心印。師豁然領悟。於是不出林藪僅踰十年。四方學者雲集。師一旦謂眾曰。吾欲他行隨機利物。汝宜自安也。乃以正法付法持禪師。遂歸茅山。數載將欲滅度。見有五百許人。髻髮後垂狀如菩薩。各持幡華雲。請法師講。又感山神現大蟒身至庭前如將泣別。師謂侍者洪道曰。吾去矣。汝為吾報諸門人。及門人奔至。師已入滅。時唐天冊元年八月一日。山林變白谿㵎絕流七日。道俗悲慕聲動山谷。壽六十有七。臘四十。

第三世慧方禪師は、潤州延陵の人、姓は濮。開善寺に投じて出家す。進具するに及びて經論を洞明す。後に牛頭山に入りて巖禪師に謁して祕要を諮詢す。巖、其の根器の正法に任ふ能くを看て、即ち心印を以て示す。師、豁然として領悟し、於是乎林藪を出でず、纔かに十年を過して四方の學者雲集す。師、一日衆に對して曰く、我、別處に往かんと欲して機に隨ひて物を利せん、汝等當に自ら安んずべし、即ち正法を法持禪師に付して於是乎茅山に歸る。數年の後、將に滅度せんとして、約五百人を見るに髻髮後に垂れて狀菩薩の如く、各々幡花を持して曰く、法師の講を請ふ、又山神の大蟒身を現じて庭前に至りて泣別せんとするが如くを感ず、師、侍者洪道に對して曰く、我、去らんとす、汝、我が爲に諸の門人に報ぜよ、門人の奔至するに及ぶや、師、已に入滅せり、時は唐天冊元年八月一日なり、山林白に變じ溪澗流を絶つこと七日、道俗悲慕して聲山谷を動かす、壽六十七・臘四十。

第四世法持禪師者。潤州江寧人也。姓張氏。幼歲出家。年三十遊黃梅忍大師坐下。聞法心開。後復遇方禪師為之印可。乃繼跡山門。作牛頭宗祖。及黃梅謝世。謂弟子玄賾曰。後傳吾法者可有十人。金陵法持是其一也。後以法眼付智威禪師。於唐長安二年九月五日。終於金陵延祚寺無常院。遺囑令露骸松下飼諸鳥獸。迎出日空中有神幡。從西而來繞山數匝。所居故院竹林變白七日而止。壽六十有八。臘四十一。

第四世法持禪師は、潤州江寧の人、姓は張。幼年に出家す。三十歳にして黄梅忍大師の座下に游んで法を聞きて心開く。後に又方禪師に遇ひて爲に印可せられ、即ち山門に繼迹して牛頭宗の祖と作る。黄梅の謝世するに及びて、弟子玄賾に對して曰く、後に我が法を傳ふる可き十人有り、金陵の法持は其の一なり。後に法眼を智威禪師に付す。唐長安二年九月五日に於て金陵延祚寺無常院に終はる。遺囑して骸を松下に露して諸の鳥獸に飼はしむ。迎出の日、空中に神幡ありて西より來りて山を繞ること數匝す。居する所の故院、竹林白に變じて七日にして止む。壽六十八・臘四十一。

第五世智威禪師者。江寧人也。姓陳氏。住迎青山。始丱歲。忽一日家中失之。莫知所往。及父母尋訪。乃知已依天寶寺統法師出家矣。年二十受具。後聞法持禪師出世。乃往禮謁傳受正法焉。自爾江左學徒皆奔走門下。其中有慧忠者目為法器。師嘗有偈示曰。

第五世智威禪師は、江寧の人、姓は陳。迎青山に住す。纔かに童年に至りて、忽然として一日家其を見ず、往く所を知らず、父母の尋訪するに及びて、方に知る已に天寶寺の統法師に依りて出家せりと。二十歳にして具を受く。後に法持禪師の出世するを聞きて、即ち往きて禮謁して正法を傳受す。此より江左の學徒皆門下に奔走す。其中に慧忠ありて法器と看なさる。師、曾て偈有りて開示して曰く、

莫繫念念成生死河

念を繫ぐこと勿れ、念を成せば生死の河なり。

輪迴六趣海無見出長波

輪廻六趣の海、見ること無きは長波を出づ。

慧忠偈答曰。

慧忠、偈を用ゐて答へて曰く、

念想由來幻性自無終始

念想は從來是れ幻なり、性自ら終始無し。

若得此中意長波當自止

若し此の中の意を得ば、長波當に自ら止まん。

師又示偈曰。

師、又開示の偈に曰く、

餘本性虛無緣妄生人我

我が本性は虛無、因緣に妄りて人我を生ず。

如何息妄情還歸空處坐

如何にしてか妄情を息め、還た空處に歸りて坐せん。

慧忠偈答曰。

慧忠、偈を用ゐて答へて曰く、

虛無是實體人我何所存

虛無は是れ實體、人我何の存る所かあらん。

妄情不須息即汎般若船

妄情必ずしも息めず、即ち般若の船に泛ぶ。

師知其了悟乃付以山門。遂隨緣化導。於唐開元十七年二月十八日。終於延祚寺。將示滅謂弟子云。將屍林中施諸鳥獸。壽七十有七。

師、其の了悟するを知りて、即ち山門を彼に付す。於是乎緣に隨ひて化導す。唐開元十七年二月十八日に於て延祚寺に終はる。將に示滅せんとする時、弟子に對して曰く、屍身を林の中に放ちて諸の鳥獸に施せ。壽七十七。

第六世慧忠禪師者。潤州上元人也。姓王氏。年二十三受業於莊嚴寺。其後聞威禪師出世乃往謁之。威才見曰。山主來也。師感悟微旨。遂給侍左右。後辭詣諸方巡禮。威於具戒院見凌霄藤。遇夏委悴人慾伐之。因謂之曰。勿剪。慧忠還時此藤更生。及師迴果如其言。即以山門付囑訖。出居延祚寺。師平生一衲不易。器用唯一鐺。嘗有供僧穀兩廩。盜者窺伺。虎為守之。縣令張遜者。至山頂謁問師。有何徒弟。師曰。有三五人。遜曰。如何得見。師敲禪床。有三虎哮吼而出。遜驚怖而退。後眾請入城居莊嚴舊寺。師欲於殿東別創法堂。先有古木。群鵲巢其上。工人將伐之。師謂鵲曰。此地建堂汝等何不速去。言訖。群鵲乃遷巢他樹。初築基有二神人定其四角。復潛資夜役。遂不日而就。繇是四方學徒雲集坐下矣。得法者有三十四人。各住一方轉化多眾。師嘗有安心偈。示眾曰。

第六世慧忠禪師は、潤州上元の人、姓は王。二十三歳にして莊嚴寺に於て業を受く。後に威禪師の出世するを聞きて、即ち往きて謁見す。威、纔かに見て即ち曰く、山主來れり。師、微旨を感悟して即ち左右に給侍す。後に告辭して諸方に往きて巡禮す。威、具戒院に於て凌霄藤を見るに夏に遇ひて萎悴し、人將に砍らんとす、威、因りて曰く、剪ること勿れ、慧忠回り來らば此の藤當に再生せん、師の回るに及ぶや、果して其の言の如し、即ち山門を付嘱し畢りて出でて延祚寺に居る。師、平生一衲換へず、器用唯一の鐺のみ。曾て僧に供する穀兩廩ありて盜者窺伺せしが、虎彼が爲に守りを爲せり。縣令張遜、山頂に至りて師に謁問す、徒弟何の人有る。師曰く、三五人有り。遜曰く、如何にしてか見るを得る。師、禪牀を敲けば三の虎ありて哮吼して出づ、遜、驚怖して退く。後に衆人、城に入れんを請ひて莊嚴の舊寺に住す。師、殿東に別に法堂を創らんと欲す、先に古木有りて群鵲其上に巢く、工人將に砍伐せんとして師、鵲に對して曰く、此地に堂を建つ、汝等何ぞ速やかに去らざる、言い訖りて群鵲即ち巢を別樹に遷す、初め基を築く時、二の神人ありて其の四角を定め、又暗に夜役を資助して、於是乎日を不日にして成る。此より四方の學徒座下に雲集す。法を得る者三十四人有りて各々一方に住して多衆を轉化す。師、曾て安心の偈有りて衆に示して曰く、

人法雙淨善惡兩忘真心真實

人法雙く淨く、善惡兩つ忘る、眞心眞實、

菩提道場

菩提の道場。

唐大歷三年。石室前掛鐺樹掛衣藤。忽盛夏枯死。四年六月十五日集僧布薩訖。命侍者淨髮浴身。至夜有瑞雲覆其精舍。空中復聞天樂之聲。詰旦怡然坐化。時風雨暴作震折林木。復有白虹貫於巖壑。五年春茶毘獲舍利不可勝計。壽八十七。

唐大曆三年、石室前の鐺を挂くる樹・衣を挂くる藤、忽然として盛夏に枯死す。四年六月十五日、僧を集めて布薩畢りて侍者に命じて髮を淨め身を浴せしむ。夜に至りて瑞雲精舍を覆ひ空中に又天樂の聲を聞く。次日清晨、怡然として坐化す。當時風雨暴作して林木を震折し、又白虹巖壑に貫く。五年春、荼毘して舍利を獲ること勝げて計らず。壽八十七。

前法融禪師下三世旁出法嗣

前法融禪師の下、三世旁出の法嗣

金陵鍾山曇璀禪師者。吳郡人也。姓顧氏。初謁牛頭融大師。大師目而奇之。乃告之曰。色聲為無生之鴆毒。受想是至人之坑阱。子知之乎。師默而審之大悟玄旨。尋晦跡鍾山多歷年所。茅庵瓦缶以終老焉。唐天授三年二月六日。恬然入定七日而滅。壽六十二。

金陵鍾山曇璀禪師は、吳郡の人、姓は顧。初め牛頭融大師に謁す。大師、彼を看て奇を覺えて、即ち之に告げて曰く、色聲は是れ無生の鴆毒、受想は是れ至人の坑穽、汝知るか。師、默かに審察して大いに玄旨を悟る。尋いで鍾山に晦迹して多年を經歷し、茅庵瓦缶を以て此れに終老す。唐天授三年二月六日、恬然として入定して七日にして滅す。壽六十二。

前智威禪師下三世旁出法嗣

前智威禪師の下、三世旁出の法嗣

宣州安國寺玄挺禪師者。不知何許人也。甞一日有長安講華嚴經僧來。問五祖雲。真性緣起其義云何。祖默然。時師侍立次乃謂曰。大德。正興一念問時。是真性中緣起。其僧言下大悟。又或問南宗自何而立。師曰。心宗非南北。

宣州安國寺玄挺禪師、何の處の人かを知らず。曾て一日、長安より《華嚴經》を講ずる僧來りて五祖に問ふ、眞性緣起、其の義如何。祖、默然たり。當時師、旁に侍立して即ち曰く、大德、正に一念を起して來り問はんとする時、即ち是れ眞性中の緣起なり。其の僧、言下に大いに悟る。又人ありて問ふ、南宗は何の處よりか立つ。師曰く、心宗は南北に非ず。

潤州鶴林玄素禪師者。潤州延陵人也。姓馬氏。唐如意年中受業於江寧長壽寺。晚參智威禪師遂悟真宗。後居京口鶴林寺。甞一日有屠者禮謁。願就所居辨供。師欣然而往。眾皆訝之。師曰。佛性平等賢愚一致。但可度者吾即度之。復何差別之有。或有僧問。如何是西來意。師曰。會即不會。疑即不疑。師又曰。不會不疑底。不疑不會底。又有僧扣門。師問。是什麼人曰是僧。師曰。非但是僧。佛來亦不著。曰佛來為什麼不著。師曰。無汝止泊處。天寶十一年十一月十一日。中夜無疾而滅。壽八十五。建塔於黃鶴山。勅諡大津禪師大和寶航之塔。

潤州鶴林玄素禪師は、潤州延陵の人、姓は馬。唐如意年中、江寧長壽寺に於て業を受く。晚年、智威禪師に參じて、於是乎眞宗を悟得す。後に京口鶴林寺に住す。曾て一日、屠者ありて禮謁して就がん所居に辦供せんを願ふ。師、欣然として往く、衆人皆驚訝す。師曰く、佛性平等にして賢愚一致なり、只度すべきあれば、我即ち彼を度す、又何の差別かあらん。或る僧問ふ、如何なるか是れ西來意。師曰く、會すれば即ち會せず、疑へば即ち疑はず。師又曰く、會せず疑はざるの、疑はざれば會せざるの。又僧ありて門を敲く。師問ふ、是れ何人ぞ。曰く、是れ僧。師曰く、非但僧なり、佛來りても著かず。曰く、佛來れば何を以て著かざる。師曰く、汝の止泊する處無し。天寶十一年十一月十一日、中夜に疾無くして滅す。壽八十五。黃鶴山に塔を建つ。敕諡して大津禪師・大和寶航の塔。

舒州天柱山崇慧禪師者。彭州人也。姓陳氏。唐乾元初往舒州天柱山創寺。永泰元年勅賜號天柱寺。僧問。如何是天柱境。師曰。主薄山高難見日。玉鏡峰前易曉人。問達磨未來此土時。還有佛法也無。師曰。未來時且置。即今事作麼生。曰某甲不會乞師指示。師曰。萬古長空一朝風月。良久又曰。闍黎會麼。自己分上作麼生。幹他達磨來與未來作麼。他家來大似賣卜漢相似。見汝不會。為汝錐破卦文。才生吉凶。在汝分上一切自看。僧問。如何是解卜底人。師曰。汝才出門時便不中也。問如何是天柱家風。師曰。時有白雲來閉戶。更無風月四山流。問亡僧遷化向什麼處去也。師曰。灊嶽峰高長積翠。舒江明月色光暉。問如何是大通智勝佛。師曰。曠大劫來未曾擁滯。不是大通智勝佛是什麼。曰為什麼佛法不現前。師曰。只為汝不會。所以成不現前。汝若會去。亦無佛道可成。問如何是道。師曰。白雲覆青嶂。蜂鳥步庭華。問從上諸聖有何言說。師曰。汝今見吾有何言說。問宗門中請師舉唱。師曰。石牛長吼真空外。木馬嘶時月隱山。問如何是和尚利人處。師曰。一雨普滋千山秀色。問如何是天柱山中人。師曰。獨步千峰頂。優遊九曲泉。問如何是西來意。師曰。白猿抱子來青嶂。蜂蝶銜華綠蘂間。師居山演道凡二十二載。大歷十四年七月二十二日歸寂。起塔於寺北。真身見在。

舒州天柱山崇慧禪師は、彭州の人、姓は陳。唐乾元初、舒州天柱山に往きて寺を創る。永泰元年、敕賜號して天柱寺と曰ふ。僧問ふ、如何なるか是れ天柱の境。師曰く、主簿山高くして日を見難し、玉鏡峰前人を曉り易し。問ふ、達磨未だ此の土に來らざる時、還た佛法有りや。師曰く、未來の時且く放下せよ、即今の事怎麼生か。曰く、某甲會せず、師の指示を乞ふ。師曰く、萬古の長空、一朝の風月。良久にして又曰く、闍黎會すか、自己の分上怎麼生か、他の達磨の來ると來らざるとに干かて何を作さん、他の家の來るは倒れて賣卜の漢子に相似たり、汝の會せざるを見て汝が爲に卦文を錐破して纔かに吉凶を生ず、汝の分上に在りては一切自ら看よ。僧問ふ、如何なるか是れ卜を解する人。師曰く、汝纔かに門を出づる時便ち中らず。問ふ、如何なるか是れ天柱の家風。師曰く、時に白雲有りて來りて戸を閉ぢ、更に風月の四山に流るる無し。問ふ、亡僧、化を遷して何の處にか向かふ。師曰く、潛嶽峰高くして長く翠を積み、舒江の明月色光暉あり。問ふ、如何なるか是れ大通智勝佛。師曰く、曠大劫より來りて曾て擁滯せず、是れ大通智勝佛に非ずして是れ何ぞ。曰く、何を以て佛法現前せざる。師曰く、只汝の會せざるが爲に、所以に現前を成さず、汝若し會するを去らば、亦佛道の成ずべき無し。問ふ、如何なるか是れ道。師曰く、白雲青嶂を覆ひ、蜂鳥庭花に步む。問ふ、上より來る諸聖に何の言説か有る。師曰く、汝、今我を見て何の言説か有る。問ふ、宗門中に師の擧唱を請ふ。師曰く、石牛長く吼ゆる眞空の外、木馬嘶く時月山に隱る。問ふ、如何なるか是れ和尚の人を利する處。師曰く、一雨普く滋して千山秀色なり。問ふ、如何なるか是れ天柱山中の人。師曰く、獨步千峰の頂、優游九曲の泉。問ふ、如何なるか是れ西來意。師曰く、白猿子を抱きて青嶂に來り、蜂蝶花を銜へて綠蕊の間。師、山に在りて道を演ぶること共に二十二載。大曆十四年七月二十二日に歸寂す。寺北に塔を起つ。眞身現に在り。

前潤州鶴林寺玄素禪師法嗣

前潤州鶴林寺玄素禪師の法嗣

杭州徑山道欽禪師者。蘇州崑山人也。姓朱氏。初服膺儒教。年二十八玄素禪師遇之。因謂之曰。觀子神氣溫粹真法寶也。師感悟因求為弟子。素躬與落髮。乃戒之曰。汝乘流而行。逢徑則止。師遂南行抵臨安。見東北一山。因訪於樵子。曰此徑山也。乃駐錫焉。有僧問。如何是道。師雲。山上有鯉魚。水底有蓬塵。馬祖令人送書到。書中作一圓相。師發緘於圓相中作一畫卻封迴(忠國師聞乃雲。欽師猶被馬師惑)僧問。如何是祖師西來意。師曰。汝問不當。曰如何得當。師曰。待吾滅後即向汝說。馬祖令門人智藏來問。十二時中以何為境。師曰。待汝迴去時有信。藏曰。如今便迴去。師曰。傳語卻須問取曹谿。唐大歷三年。代宗詔至闕下親加瞻禮。一日師在內庭見帝起立。帝曰。師何以起。師曰。檀越何得向四威儀中見貧道。帝悅。謂忠國師曰。欲錫欽師一名。忠欣然奉詔。乃賜號國一焉。後辭歸本山。於貞元八年十二月示疾說法而逝。壽七十有九。勅諡曰大覺禪師。

杭州徑山道欽禪師は、蘇州崑山の人、姓は朱。初め儒教を服膺す。二十八歳、玄素禪師彼に遇ひて、因りて曰く、汝の神氣温粹を看れば眞に是れ法寶なり。師、感悟して因りて弟子と爲るを求む。素、親しく彼が爲に髮を落して戒めて曰く、汝、流に乘りて行きて徑に逢へば則ち止まれ。師、於是乎南行して臨安に抵り、東北一の山を見て、即ち樵子に問へば曰く、此れ徑山なり、於是乎彼に錫を駐む。僧有りて問ふ、如何なるか是れ道。師曰く、山の上に鯉魚有り、水の底に蓬塵有り。馬祖、人を遣はして書を送らせて到れば、書中一の圓相を作す。師、緘を開きて圓相の中に一畫を作りて又封じて返す。(忠國師、聞きて即ち曰く、欽師は還た馬師に惑はされたり。)僧問ふ、如何なるか是れ祖師西來意。師曰く、汝の問ふは當たらず。曰く、如何なるか當たるを得る。師曰く、我が滅後に及ばば即ち汝に向かひて説かん。馬祖、門人智藏をして來りて問はしむ、十二時中、何を以てか境と爲す。師曰く、汝の回るを待つ時信有らん。藏曰く、如今便ち回らん。師曰く、傳語却て須らく曹溪に問取すべし。唐大曆三年、代宗詔して闕下に至らしめ、親しく瞻禮を加ふ。一日、師、內庭に於て帝の起立するを見る。帝曰く、師、何を以て起つ。師曰く、檀越、何ぞ能く四威儀中に向かひて貧道を見るを得ん。帝、喜悅して忠國師に對して曰く、欽師に一の名を賜はらんと欲す。忠、欣然として詔を奉じて即ち號を國一と賜ふ。後に辭して本山に歸る。貞元八年十二月に於て疾を示して法を説きて逝す。壽七十九。敕諡して大覺禪師。

前杭州徑山道欽禪師法嗣

前杭州徑山道欽禪師の法嗣

杭州鳥窠道林禪師。本郡富陽人也。姓潘氏。母朱氏夢日光入口。因而有娠。及誕異香滿室。遂名香光焉。九歲出家。二十一於荊州果願寺受戒。後詣長安西明寺復禮法師。學華嚴經起信論。復禮示以真妄頌俾修禪那。師問曰。初云何觀。云何用心。復禮久而無言。師三禮而退。屬唐代宗詔徑山國一禪師至闕。師乃謁之遂得正法。及南歸先是孤山永福寺有辟支佛塔。時道俗共為法會。師振錫而入。有靈隱寺韜光法師。問曰。此之法會何以作聲。師曰。無聲誰知是會。後見秦望山。有長松枝葉繁茂盤屈如蓋。遂棲止其上。故時人謂之鳥窠禪師。復有鵲巢於其側自然馴狎人。亦目為鵲巢和尚。有侍者會通。忽一日欲辭去。師問曰。汝今何往。對曰。會通為法出家。以和尚不垂慈誨。今往諸方學佛法去。師曰。若是佛法。吾此間亦有少許。曰如何是和尚佛法。師於身上拈起布毛吹之。會通遂領悟玄旨。元和中白居易出守茲郡。因入山禮謁。乃問師曰。禪師住處甚危險。師曰。太守危險尤甚。曰弟子位鎮江山。何險之有。師曰。薪火相交識性不停。得非險乎。又問如何是佛法大意。師曰。諸惡莫作眾善奉行。白曰。三歲孩兒也解恁麼道。師曰。三歲孩兒雖道得。八十老人行不得。白遂作禮。師於長慶四年二月十日。告侍者曰。吾今報盡言訖坐亡。壽八十有四。臘六十三(有云師名圓修者。恐是諡號)。

杭州鳥窠道林禪師は、本郡富陽の人、姓は潘。母朱氏、日光の口に入るを夢みて因りて娠有り。誕生するに及びて異香室に滿ち、於是乎名づけて香光と曰ふ。九歳にして出家し、二十一歳にして荊州果願寺に於て戒を受く。後に長安西明寺に至りて復禮法師に依りて《華嚴經》・《起信論》を學ぶ。復禮、眞妄の頌を以て示して彼をして禪那を修せしむ。師問ふ、初時如何に觀、如何に心を用ゐる。復禮、良久にして言はず。師、三禮して退く。唐代宗の徑山國一禪師を闕下に詔するに適會して師即ち謁見し、於是乎正法を得る。南歸するに及びて先に孤山永福寺に辟支佛の塔有りて當時道俗共に法會を爲す。師、錫を振りて入る。靈隱寺韜光法師ありて問ふ、此の法會、何を以て聲を作す。師曰く、聲無ければ誰か是れ會と知らん。後に秦望山に長松あるを見て枝葉繁茂して盤屈して蓋の如く、即ち其の上に棲止す、故に當時人、鳥窠禪師と稱す。又鵲ありて其の旁に巢ひて自然馴狎し、人亦鵲巢和尚と稱す。侍者會通ありて忽然として一日告辭して去らんと欲す。師問ふ、汝、今何くにか往く。對して曰く、會通、法の爲に出家せり、和尚の慈誨を垂れざるに因りて今諸方に往きて佛法を學ばん。師曰く、若し是れ佛法ならば、我が此處にも少許あり。曰く、如何なるか是れ和尚の佛法。師、身上より布毛を拈起して吹きて吹ふ。會通、於是乎玄旨を領悟す。元和中、白居易、此の郡を守りて出でて因りて山に入りて禮謁し、即ち師に問ひて曰く、禪師の住する處甚だ危險なり。師曰く、太守危險尤も甚だし。曰く、弟子、位江山を鎭す、何の險か有らん。師曰く、薪火相交はり識性停まらず、得ること險に非ずや。又問ふ、如何なるか是れ佛法の大意。師曰く、諸惡作すこと莫れ、衆善奉行せよ。白曰く、三歳の孩兒も亦此の如く道ふを得。師曰く、三歳の孩兒、道ふを得ると雖も八十の老人行ふを得ず。白、於是乎禮を作す。師、長慶四年二月十日に於て侍者に告げて曰く、我、今報盡きぬ、言い訖りて坐亡す。壽八十四・臘六十三。(師の名を圓修と説く有り、恐らくは諡號ならん。)

前杭州鳥窠道林禪師法嗣

前杭州鳥窠道林禪師の法嗣

杭州招賢寺會通禪師本郡人也。姓吳氏。本名元卿。形相端嚴幼而聰敏。唐德宗時為六宮使。王族鹹美之。春時見昭陽宮華卉敷榮。翫而久之。倏聞空中有聲曰。虛幻之相開謝不停能壞善根。仁者安可嗜之。師省念稚齒崇善極生厭患。帝一日遊宮問曰。卿何不樂。對曰。臣幼不食葷羶志願從釋。曰朕視卿若昆仲。但富貴欲出於人表者不違卿。唯出家不可。既浹旬帝覩其容顇。詔王賓相之。奏曰。此人當紹隆三寶。帝謂師曰。如卿願任選日遠近奏來。師荷德致謝。尋得鄉信言母患乞歸寧省。帝厚其所賜。勅有司津遣師。至家未幾。會韜光法師勉之。謁鳥窠為檀越。與結庵創寺寺成。啟曰。弟子七歲蔬食。十一受五戒。今年二十有二為出家故休官。願和尚授與僧相。曰今時為僧鮮。有精苦者行多浮濫。師曰。本淨非琢磨。元明不隨照。曰汝若了淨智妙圓體自空寂。即真出家何假外相。汝當為在家菩薩戒施俱修如謝靈運之儔也。師曰然。理雖如此於事何益。儻垂攝受則誓遵師教。如是三請皆不諾。時韜光堅白鳥窠曰。宮使未嘗娶。亦不畜侍女。禪師若不拯接。誰其度之。鳥窠即與披剃具戒。師常卯齋晝夜精進。誦大乘經而習安般三昧。尋固辭遊方。鳥窠以布毛示之悟旨。時謂布毛侍者(鳥窠章敘訖)暨鳥窠歸寂垂二十載。武宗廢其寺。師與眾僧禮辭靈塔而邁。莫知其終。

杭州招賢寺會通禪師は、本郡の人、姓は吳、本名は元卿。形相端嚴にして幼年聰敏なり。唐德宗の時、六宮使と爲りて王族皆彼を讚美す。春、昭陽宮の花卉の敷榮するを見て賞玩すること久しく、忽然として空中に聲有るを聞きて曰く、虛幻の相、開謝停まらず、能く善根を壞す、仁者、怎ぞ此を嗜む可けん。師、省念して自ら幼年善を崇びしが極めて厭患を生ず。帝、一日宮に游びて問ふ、卿何を以て樂まざる。對して曰く、臣、幼年にして葷膻を食せず、志愿釋に從はんとす。帝曰く、朕、卿を視るに兄弟の如し、但富貴にして人上に出でんと想ふは皆卿に違はず、唯出家のみ可ならず。十餘日を過して帝、其の容顏の憔悴するを見て王賓を詔して爲に看相せしむ。奏して曰く、此の人當に三寶を紹隆せん。帝、師に對して曰く、卿の願の如くせん、日期遠近を任に奏來せよ。師、德を荷て謝す。尋いで鄕信を得て母の病有るを云ひて、歸寧して省視せんを乞ふ。帝、厚く賞賜を加へて有司に敕して津遣せしむ。師、家に到りて未だ久しからずして韜光法師彼を勉勵するに適會して鳥窠に謁して檀越と爲りて彼と庵を結び寺を創る。寺成りて啓して曰く、弟子、七歳にして蔬食し、十一にして五戒を受け、今年二十二、出家の故を以て官を休す、願はくは和尚授與して僧相せんことを。曰く、今時僧と爲るは少しく精苦有りて行多く浮濫なり。師曰く、本淨は琢磨に非ず、元明は照に隨はず。曰く、汝若し淨智妙圓・體自ら空寂を了せば、即ち是れ眞出家なり、何ぞ外相を假らん、汝當に在家菩薩と爲りて戒施俱に修し、謝靈運の一流の如くなるべし。師曰く、話此の如しと雖も事に於て何の益か有らん、倘若垂れて攝受を加へば、即ち誓ひて師教を遵はん、是の如く三請して皆許さず。當時韜光、堅持して鳥窠に對して曰く、宮使、曾て娶らず亦不畜侍女なり、禪師若し拯接せざれば誰か彼を度せん。鳥窠、即ち彼が爲に披剃して戒を具へしむ。師、常に卯の時に齋を持して晝夜精進し、大乘經を誦して安般三昧を習ふ。尋いで堅く告辭して游方す。鳥窠、布毛を以て之に示して旨を悟らしむ。當時稱して布毛侍者と曰ふ。(鳥窠章已に叙述畢れり。)鳥窠の歸寂して將に二十年に及びて武宗其の寺を廢す。師、衆僧と靈塔に禮辭して去りて終る所を知らず。

前慧忠禪師兩世旁出法嗣

前慧忠禪師の兩世旁出の法嗣

天台山佛窟巖惟則禪師者京兆人也。姓長孫氏。初謁牛頭忠禪師大悟玄旨。後隱於天台瀑布之西巖。唐元和中法席漸盛。始自目其巖為佛窟焉。一日示眾雲。天地無物也。我無物也。然未甞無物。斯則聖人如影百年如夢。孰為生死哉。至人以是獨照。能為萬物之主。吾知之矣。汝等知之乎。有僧問。如何是那羅延箭。師雲。中的也。忽一日告門人曰。汝當自勉。吾何言哉。後二日夜安坐示滅。壽八十。臘五十有八。

天臺山佛窟巖惟則禪師は、京兆の人、姓は長孫。初め牛頭忠禪師に謁して大いに玄旨を悟る。後に天臺瀑布西巖に隱る。唐元和中、法席漸く盛んにして方に自ら其の巖を稱して佛窟と曰ふ。一日、衆に示して曰く、天地物無く、我も亦物無し、然れど未だ嘗て物無きことなし、此れ即ち聖人は影の如く百年は夢の如し、誰か生死と爲らん、至人此に因りて獨り照らして能く萬物の主と爲る、我之を知れり、汝等知るか。僧有りて問ふ、如何なるか是れ那羅延の箭。師曰く、中的せり。忽然として一日門人に告げて曰く、汝等當に自ら勉むべし、我何をか説くべき有らん。後二日の夜、安坐して示滅す。壽八十・臘五十八。

前天台山佛窟巖惟則和尚法嗣

前天臺山佛窟巖惟則和尚の法嗣

天台山雲居智禪師。嘗有華嚴院僧繼宗。問見性成佛其義云何。師曰。清淨之性本來湛然無有動搖。不屬有無淨穢長短取捨體自翛然。如是明見乃名見性。性即佛佛即性。故云見性成佛。曰性既清淨不屬有無。因何有見。師曰。見無所見。曰無所見因何更有見。師曰見處亦無。曰如是見時是誰之見。師曰。無有能見者。曰究竟其理如何。師曰。汝知否。妄計為有即有。能所乃得名迷。隨見生解便墮生死。明見之人即不然。終日見未嘗見。求見處體相不可得。能所俱絕。名為見性。曰此性遍一切處否。師曰。無處不遍。曰凡夫具否。師曰。上言無處不遍。豈凡夫而不具乎。曰因何諸佛菩薩不被生死所拘。而凡夫獨縈此苦。何曾得遍。師曰。凡夫於清淨性中。計有能所即墮生死。諸佛大士善知清淨性中不屬有無。即能所不立。曰若如是說。即有了不了人。師曰。了尚不可得。豈有能了人乎。曰至理如何。師曰。我以要言之。汝即應念。清淨性中無有凡聖。亦無了人不了人。凡之與聖二俱是名。若隨名生解即墮生死。若知假名不實。即無有當名者。又曰。此是極究竟處。若雲我能了彼不能了即是大病。見有淨穢凡聖亦是大病。作無凡聖解又屬撥無因果。見有清淨性可棲止亦大病。作不棲止解亦大病。然清淨性中雖無動搖。具不壞方便應用。及興慈運悲。如是興運之處。即全清淨之性。可謂見性成佛矣。繼宗踴躍。禮謝而退。

天臺山雲居智禪師。曾て華嚴院僧繼宗問ふ、性を見て佛を成す、其の義如何。師曰く、清淨の性は本來湛然として動搖有ること無く、有無・淨穢・長短・取捨に屬せず、體自ら翛然なり、是の如く明見して方に名づけて見性と曰ふ、性即ち佛・佛即ち性なり、故に説く、見性成仏と。曰く、性既に清淨にして有無に屬せざれば、何に因りて見有る。師曰く、見て見る所無し。曰く、見る所無ければ何に因りて更に見有る。師曰く、見る處も亦無し。曰く、是の如く見る時是れ誰の見ぞ。師曰く、能く見る人無し。曰く、究竟其の理如何。師曰く、汝知るか、妄計して有と爲せば有有り、能所一立して纔かに迷と名づくるを得、見に隨ひて解を生ぜば便ち生死に堕つ、明見の人は則ち然らず、終日見るも未だ嘗て見ず、見る處を求むれば體相得る可からず、能所俱に絕えば名づけて見性と曰ふ。曰く、此の性は一切の處に遍するか。師曰く、遍せざる處無し。曰く、凡夫具有するか。師曰く、上に遍せざる處無しと説く、豈に凡夫にして具ならざらんや。曰く、何に因りて諸佛菩薩は生死に拘へられずして凡夫獨り此の苦に縈る、何ぞ曾て遍を得たる。師曰く、凡夫は清淨性中に於て能所有りと計すれば即ち生死に堕つ、諸佛大士は善く清淨性中有無に屬せざるを知れば則ち能所立たず。曰く、若し是の如く説かば、則ち了する人・了せざる人有らん。師曰く、了すら尚ほ得る可からず、豈に能く了する人有らんや。曰く、至理如何。師曰く、我、要を用ゐて説く、汝即ち當に念すべし、清淨性中に凡聖無く、亦了する人・了せざる人無し、凡と聖とは兩箇皆是れ名なり、若し名に隨ひて解を生ぜば即ち生死に堕つ、若し假名の實ならざるを知れば則ち彼の名を承當する無し。又曰く、此れ是れ極究竟の處なり、若し我を能く了し他は能く了せずと云はば即ち是れ大病なり、淨穢凡聖有るを見るも亦是れ大病なり、凡聖無しと解を作すも又撥無因果に屬し、清淨性有りて栖止す可しと見るも亦是れ大病なり、栖止せざると解を作すも亦是れ大病なり、然れど清淨性中は動搖無しと雖も不壞方便の応用を具し及び慈を興して悲を運ぶ、是の如き興運の處は即ち全是れ清淨の性にして可に見性成佛と謂ふべし。繼宗、踊躍して禮謝して退く。

第三十二祖忍大師。第一世旁出法嗣(第一世)

第三十二祖忍大師第一世旁出の法嗣(第一世)

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