Libo

景徳傳燈錄 巻第十二

宋 · 道原 · 第78巻 / 151

師於大宋開寶六年癸酉八月旦日。昇座說偈。至十五日跏趺而化。前一日手書別檀越。壽八十七。臘五十九。

師、大宋開宝六年癸酉八月旦日に座に升りて偈を説く。十五日に至りて跏趺して化す。前一日、手書して檀越に別れを告ぐ。寿八十七、臘五十九。

前汝州西院思明禪師法嗣

前汝州西院思明禅師の法嗣

郢州興陽歸靜禪師。初參西院乃問曰。擬問不問時如何。西院便打。師良久。西院雲。若喚作棒眉鬚墮落。師言下大悟。僧問。師唱誰家曲。宗風嗣阿誰。師曰。少室山前無異路。

郢州興陽帰静禅師。初め西院に参じ、乃ち問うて言う―「問わんと擬しつつ問わざる時いかん。」西院、便ち打つ。師、良久す。西院が言う―「もし棒と喚ばば、眉鬚堕落せん。」師、言下に大悟す。僧が問う―「師、誰が家の曲を唱い、宗風は阿誰を嗣ぐ。」師が言う―「少室山前、異路無し。」

前韶州慧林鴻究禪師法嗣

前韶州慧林鴻究禅師の法嗣

韶州靈瑞和尚有人問如何是佛。師喝雲。汝是村裡人。問如何是西來意。師曰。十萬八千里。問如何是本來心。師曰。坐卻毘盧頂。出沒太虛中。

韶州霊瑞和尚。人問う有り―「いかなるか仏。」師、喝して言う―「お前は是れ村裏の人。」問う―「いかなるか西来意。」師が言う―「十万八千里。」問う―「いかなるか本来の心。」師が言う―「毘盧の頂に坐却し、太虚中に出没す。」

前風穴延沼禪師法嗣

前風穴延沼禅師の法嗣

汝州廣慧真禪師。僧問。如何是廣慧境。師曰。小寺前頭資慶後。問如何是和尚家風。師曰。杴爬钁子。

汝州広慧真禅師。僧が問う―「いかなるか広慧境。」師が言う―「小寺前頭、資慶の後。」問う―「いかなるか和尚の家風。」師が言う―「杴爬镢子。」

汝州首山省念禪師。萊州人也。姓狄氏。受業於本部南禪院。得法於風穴。初住首山為第一世。開堂日有僧問曰。師唱誰家曲。宗風嗣阿誰。師曰。少室巖前親掌視。僧曰。更請洪音和一聲。師曰。如今也要大家知。師謂眾曰。佛法付與國王大臣有力檀越。令燈燈相然相續不斷至於今日。大眾且道。相續箇什麼。師良久又曰。今日須是迦葉師兄始得。僧問如何是和尚家風。師曰。一言截斷千江口。萬仞峰前始得玄。問如何是首山境。師曰。一任眾人看。僧曰。如何是境中人。師曰。吃棒得也未。僧禮拜。師曰。且待別時。問如何是祖師西來意。師曰。風吹日炙。問從上諸聖向什麼處行履。師曰。牽犁拽杷。問古人拈槌竪拂意旨如何。師曰。孤峰無宿客。僧曰。未審意旨如何。師曰。不是守株人。問如何是菩提路。師曰此去襄縣五里。僧曰。向上事如何。師曰。往來不易。問諸聖說不盡處請師舉唱。師曰。萬裡神光都一照。誰人敢並日輪齊。問一樹還開華也無。師曰。開來久矣。僧曰。未審還結子也無。師曰。昨夜遭霜了。問臨濟喝德山棒。未審明得什麼邊事。師曰。汝試道看。僧喝。師曰瞎。僧再喝。師曰。遮瞎漢只麼亂喝作麼。僧禮拜。師便打。問四眾圍繞師說何法。師曰。打草蛇驚。僧曰。未審怎麼生下手。師曰。適來幾合喪身失命。問二龍爭珠誰是得者。師曰。得者失。僧曰。不得者又如何。師曰。珠在什麼處。問維摩默然文殊贊善。未審此意如何。師曰。當時聽眾必不如是。僧曰。未審維摩默然意旨如何。師曰。知恩者少負恩者多。問一切諸佛皆從此經出。如何是此經。師曰。低聲低聲。僧曰。如何受持。師曰。切不得汙染。問世尊滅後法付何人。師曰。好箇問頭無人答得。問見色便見心。諸法無形將何所見。師曰。一家有事百家忙。僧曰。學人不會。乞師再指。師曰。三日看取。

汝州首山省念禅師は、萊州の人。姓は狄。本部南禅院に於て業を受け、風穴に於て法を得たり。初め首山に住して第一世と為る。堂を開く日、僧有りて問うて言う―「師、誰が家の曲を唱い、宗風は阿誰を嗣ぐ。」師が言う―「少室巌前、親しく掌視せり。」僧が言う―「更に洪音を請うて一声に和さん。」師が言う―「いまも亦た大家の知るを要す。」師、衆に対して言う―「仏法は国王大臣有力の檀越に付与して、灯灯相然えて相続けて断えず、今日に至らしむ。大衆、且く道え、相続くる箇の何ぞや。」師、良久してまた言う―「今日は須らく是れ迦葉師兄たるを始めて得ん。」僧が問う―「いかなるか和尚の家風。」師が言う―「一言、千江の口を截断し、万仞峰前に始めて玄を得。」問う―「いかなるか首山境。」師が言う―「一に衆人の看るに任る。」僧が言う―「いかなるか境中の人。」師が言う―「棒を吃し得たるや未だ。」僧、礼拝す。師が言う―「且く別時を待て。」問う―「いかなるか祖師の西来意。」師が言う―「風吹き日炙る。」問う―「上りよりの諸聖、何の処に向かってか行履する。」師が言う―「犁を牽き耙を拽る。」問う―「古人、槌を拈じ拂を竪てし意旨いかん。」師が言う―「孤峰、宿客無し。」僧が言う―「いまだ審らかならず意旨いかん。」師が言う―「是れ株を守る人にあらず。」問う―「いかなるか菩提路。」師が言う―「此より襄県五里。」僧が言う―「向上の事いかん。」師が言う―「往来易からず。」問う―「諸聖の説き尽くさざる処、師に挙唱を請う。」師が言う―「万里の神光、都て一照、誰人か敢て日輪に斉しく並べん。」問う―「一樹、還って花を開くや無きや。」師が言う―「開き来ること久し。」僧が言う―「いまだ審らかならず、還って子を結ぶや無きや。」師が言う―「昨夜霜に遭えり。」問う―「臨済の喝、徳山の棒、いまだ審らかならず何の辺事を明く。」師が言う―「お前、試みに道え看よ。」僧、喝す。師が言う―「瞎。」僧、再び喝す。師が言う―「この瞎漢、ただかくのごとく乱喝して作么す。」僧、礼拝す。師便ち打つ。問う―「四衆囲繞す、師何の法を説く。」師が言う―「草を打ちて蛇を驚かす。」僧が言う―「いまだ審らかならず、どうやら生じて手を下す。」師が言う―「さきほど幾合か身を喪い命を失いたる。」問う―「二龍珠を争う、誰か是れ得る者。」師が言う―「得る者は失。」僧が言う―「得ざる者はまた如何。」師が言う―「珠は何の処に在る。」問う―「維摩黙然、文殊、善を讃す、いまだ審らかならずこの意いかん。」師が言う―「当時の聴衆、必ずしも是のごとくならざりき。」僧が言う―「いまだ審らかならず、維摩黙然の意旨いかん。」師が言う―「恩を知る者は少なく、恩を負く者は多し。」問う―「一切諸仏、皆此の経より出づ、いかなるか此の経。」師が言う―「低声低声。」僧が言う―「いかにして受持せん。」師が言う―「切に污染することを得ず。」問う―「世尊滅後、法は何人に付す。」師が言う―「好き箇の問頭、人の答え得る無し。」問う―「色を見れば便ち心を見ん、諸法形無し、何を将てか見る所。」師が言う―「一家有事有れば百家忙なり。」僧が言う―「学人会せず、師に再び指さんを乞う。」師が言う―「三日、看取せよ。」

問如人入京朝聖主。只到潼關便卻迴時如何。師曰。猶是鈍漢。問路逢達道人不將語默對。未審將什麼對。師曰。瞥爾三千界。問一句瞭然超百億。如何是一句。師曰。到處舉似人。僧曰。畢竟事如何。師曰。但知恁麼道。問如何是古佛心。師曰。鎮州蘿蔔重三斤。問虛空以何為體。師曰。老僧在汝腳底。僧曰。和尚為什麼在學人腳底。師曰。知汝是箇瞎漢。問如何是玄中的。師曰。有言須道卻。僧曰。此意如何。師曰。無言鬼也瞋。問如何是衲僧眼。師曰。此問猶不當。僧曰。當後如何。師曰。堪作麼。問如何得離眾緣去。師曰。千年一遇。僧曰。不離時如何。師曰。立在眾人前。問如何是大安樂人。師曰。不見有一法。僧曰。將何為人。師曰。謝闍梨領話。問如何是常在底人。師曰。亂走作麼。問一毫未發時如何。師曰路逢穿耳客。僧曰。發後如何。師曰。不用更遲疑。問無絃琴請師音韻。師良久曰。還聞麼。僧曰。不聞。師曰。何不高聲聞著。問學人久處沈迷請師一接。師曰。老僧無恁麼閑功夫。僧曰。和尚為什麼如此。師曰。要行即行要坐即坐。問如何是離凡聖底句。師曰。嵩山安和尚。僧曰。莫便是和尚極則處否。師曰。南嶽讓禪師。問學人乍入叢林乞師指示。師曰。闍梨到此多少時也。僧曰。已經冬夏。師曰。莫錯舉似人。問有一人蕩盡來時師還接否。師曰。蕩盡即不無。那箇是誰。僧曰。今日風高月冷。師曰。僧堂內幾人坐臥。僧無對。師曰。賺殺老僧。問如何是梵音相。師曰。驢鳴狗吠。問如何是徑截一路。師曰。或在山間或在樹下。問曹谿一句天下人聞。未審和尚一句什麼人得聞。師曰。不出三門外。僧曰。為什麼不出三門外。師曰。舉似天下人。僧問。如何是和尚不欺人眼。師曰。看看冬到來。僧曰。究竟如何。師曰。即便春風至。問遠聞和尚寸絲不掛。及至到來為什麼有山可守。

問う―「人の京に入りて聖主に朝するに、ただ潼関に到りて便ち却って回る時いかん。」師が言う―「なお是れ鈍漢。」問う―「路に達道の人に逢うに、語黙を将て対せず、いまだ審らかならず何を将てか対せん。」師が言う―「瞥爾三千界。」問う―「一句、了然として百億を超ゆ、いかなるか一句。」師が言う―「処に到りて人に挙似す。」僧が言う―「畢竟の事いかん。」師が言う―「ただかくのごとく道うを知れ。」問う―「いかなるか古仏の心。」師が言う―「鎮州の蘿蔔、重きこと三斤。」問う―「虚空、何を以て体と為す。」師が言う―「老僧、お前の脚底に在り。」僧が言う―「和尚、何の故ぞ学人の脚底に在る。」師が言う―「お前の箇の瞎漢なるを知れり。」問う―「いかなるか玄中の的。」師が言う―「言有れば須らく道却すべし。」僧が言う―「この意いかん。」師が言う―「言無ければ鬼も亦た嗔る。」問う―「いかなるか衲僧の眼。」師が言う―「この問はなお当たらず。」僧が言う―「当たりたる後いかん。」師が言う―「堪えて作么せん。」問う―「いかにして衆縁を離れ去るを得ん。」師が言う―「千年一遇。」僧が言う―「離れざる時いかん。」師が言う―「衆人の前に立つ。」問う―「いかなるか大安楽の人。」師が言う―「一法有るを見ず。」僧が言う―「何を将てか人と為す。」師が言う―「闍梨の話を領するに謝す。」問う―「いかなるか常に在る底の人。」師が言う―「乱走して作么す。」問う―「一毫いまだ発せざる時いかん。」師が言う―「路に耳を穿つ客に逢う。」僧が言う―「発したる後いかん。」師が言う―「更に遅疑を用いず。」問う―「弦無きの琴、師に音韻を請う。」師、良久して言う―「還って聞くや。」僧が言う―「聞かず。」師が言う―「何ぞ声を高くして聞かしめざる。」問う―「学人、久しく沉迷に処る、師に一接を請う。」師が言う―「老僧、かくのごとき閑工夫無し。」僧が言う―「和尚、何の故ぞかくのごとき。」師が言う―「行かんと要すればすなはち行き、坐さんと要すればすなはち坐す。」問う―「いかなるか凡聖を離れたる底の句。」師が言う―「嵩山安和尚。」僧が言う―「あながち便ち是れ和尚の極則の処か否や。」師が言う―「南岳譲禅師。」問う―「学人、乍ち叢林に入る、師に指示を乞う。」師が言う―「闍梨、此に到りて多少の時ぞ。」僧が言う―「すでに冬夏を経たり。」師が言う―「錯りて人に挙似することなかれ。」問う―「一人有りて蕩尽して来る時、師還って接するや否や。」師が言う―「蕩尽すなはち無きにあらず、那箇は是れ誰。」僧が言う―「今日、風高く月冷たし。」師が言う―「僧堂内、幾人か坐卧する。」僧は対無し。師が言う―「老僧を賺殺す。」問う―「いかなるか梵音の相。」師が言う―「驢鳴狗吠。」問う―「いかなるか径截の一路。」師が言う―「或いは山間に在り、或いは樹下に在り。」問う―「曹渓の一句、天下人聞く、いまだ審らかならず和尚の一句、何人か聞くことを得る。」師が言う―「三門外を出でず。」僧が言う―「何の故ぞ三門外を出でざる。」師が言う―「天下人に挙似す。」僧が問う―「いかなるか和尚の人の眼を欺かざる。」師が言う―「冬の来るを看看せよ。」僧が言う―「究竟いかん。」師が言う―「便ち即ち春風至る。」問う―「遠く和尚の寸絲も掛けざるを聞く、到来するに及んで何の故ぞ守るべき山有る。」

師曰。道什麼。僧喝。師亦喝。僧禮拜。師曰。放汝二十棒。師次住寶安山廣教院亦第一世。後徇眾請入城下寶應院(即南院第三世)三處法席海眾常臻。淳化三年十二月四日午時上堂說偈示眾曰。

師が言う―「何をか道う。」僧、喝す。師も亦た喝す。僧、礼拝す。師が言う―「お前に二十棒を放ず。」師、次いで宝安山広教院に住す、亦た第一世なり。後に衆の請に徇い、城下の宝応院に入る(すなはち南院第三世)。三処の法席、海衆常に臻る。淳化三年十二月四日午時、上堂して偈を説きて衆に示して言う―

今年六十七老病隨緣且遣日今年記卻來年事

今年六十七、老病、縁に随いて且く日を遣る。今年記し却す来年の事、

來年記著今朝日

来年記着す今朝の日。

至四年月日與時無爽前記。上堂辭眾。仍說偈曰。

四年の月日と時、前記に爽わずに至る。上堂して衆を辞し、仍ほ偈を説いて言う―

白銀世界金色身情與非情共一真

白銀世界金色の身、情と非情と共に一真。

明暗盡時俱不照日輪午後見全身

明暗尽くる時倶に照らさず、日輪午後に全身を見ん。

言訖安坐。日將昳而逝。壽六十有八。茶毘收舍利。

言い訖りて安坐す。日将に昃んとして逝す。寿六十有八。荼毗して舎利を収む。

前潭州報慈歸真大師德韶法嗣

前潭州報慈帰真大師徳韶の法嗣

蘄州三角山志謙禪師。僧問如何是佛。師曰。速禮三拜。

蘄州三角山志謙禅師。僧が問う―「いかなるか仏。」師が言う―「速やかに三拝を礼せよ。」

郢州興陽詞鐸禪師(第三世住)僧問。佛界與眾生界相去多少。師曰。道不得。僧曰。真箇那。師曰。有些子。問傘蓋忽臨於寶坐。師今何異鵲巢時。師曰。道不得。僧曰。即今底。師曰。輸汝一佛法。

郢州興陽詞鐸禅師(第三世住)。僧が問う―「仏界と衆生界と、相去ること多少。」師が言う―「道うることを得ず。」僧が言う―「真箇に那。」師が言う―「些子有り。」問う―「傘蓋、忽ち宝座に臨む、師、今、鵲巢の時に何ぞ異なる。」師が言う―「道うることを得ず。」僧が言う―「即今の底。」師が言う―「お前に一仏法を輸す。」

前汝州首山省念禪師法嗣

前汝州首山省念禅師の法嗣

汾州善昭禪師上堂謂眾曰。凡一句語須具三玄門。每一玄門須具三要。有照有用。或先照後用。或先用後照。或照用同時。或照用不同時。先照後用且要共爾商量。先用後照爾也須是箇人始得。照用同時爾作麼生當抵。照用不同時爾又作麼生湊泊。僧問。如何是大道之源。師曰。掘地覓青天。曰何得如此。師曰。識取幽玄。問如何是賓中賓。師曰。合掌庵前問世尊。曰如何是賓中主。師曰。對面無儔侶。曰如何是主中賓。師曰。陣雲橫海上。拔劍攪龍門。曰如何是主中主。師曰。三頭六臂驚天地。忿怒那吒撲帝鍾。

汾州善昭禅師、上堂して衆に対して言う―「およそ一句の語は須らく三玄門を具すべし。毎に一玄門は須らく三要を具すべし。照有り用有り。或いは先に照らして後に用い、或いは先に用いて後に照らし、或いは照用同時、或いは照用同時ならず。先に照らして後に用うるは、且くお前と商量せんを要す。先に用いて後に照らすは、お前も亦た須らく是れ箇人たるを始めて得ん。照用同時は、お前、作麼生に当抵せん。照用同時ならざるは、お前また作麼生に凑泊せん。」僧が問う―「いかなるか大道の源。」師が言う―「地を掘りて青天を覓む。」問う―「何ぞかくのごとくなるを得る。」師が言う―「幽玄を識取せよ。」問う―「いかなるか賓中の賓。」師が言う―「庵前に合掌して世尊に問う。」問う―「いかなるか賓中の主。」師が言う―「面を対して儔侶無し。」問う―「いかなるか主中の賓。」師が言う―「陣雲、海上に横たわり、剣を抜きて龍門を搅る。」問う―「いかなるか主中の主。」師が言う―「三頭六臂、天地を驚かし、忿怒の那咤、帝鐘を扑つ。」

曹谿別出第二世

曹渓別出第二世

前南陽慧忠國師法嗣

前南陽慧忠国師の法嗣

吉州耽源山真應禪師。為國師侍者時。一日國師在法堂中。師入來。國師乃放下一足。師見便出。良久卻回。國師曰。適來意怎麼生。師雲。向阿誰說即得。國師曰。我問爾。師雲什麼處見某甲。師又問。百年後有人問極則事如何。國師曰。幸自可憐生。須要覓箇護身符子作麼。異日師攜籃子歸方丈。國師問。籃裡什麼物。師曰。青梅。國師曰。將來何用。師曰。供養。國師曰。青在爭堪供養。師曰。以此表獻。國師曰。佛不受供養。師曰。某甲只恁麼。和尚如何。國師曰。我不供養。師曰。為什麼不供養。國師曰。我無果子。百丈海和尚在泐潭山牽車次。師曰。車在遮裡牛在什麼處。海斫額。師乃拭目。麻谷問。十二面觀音豈不是聖。師曰是。麻谷與師一摑。師曰。想汝未到此境。國師諱日設齋。有僧問曰。國師還來否。師曰。未具他心。曰又用設齋作麼。師曰。不斷世諦。

吉州耽源山真応禅師。国師の侍者たりし時、一日、国師法堂中に在り。師入り来る。国師乃ち一足を放下す。師、見て便ち出づ。良久して却って回る。国師が言う―「さきほどの意、怎麼生。」師が言う―「阿誰に向かってか説きて即ち得ん。」国師が言う―「我、お前に問う。」師が言う―「何の処よりか某甲を見る。」師また問う―「百年後、人の極則の事を問う有らばいかん。」国師が言う―「幸い自ら可憐生、須らく箇の護身符子を覓めて作么せん。」異日、師、籃子を携えて方丈に帰る。国師が問う―「籃裏は何物。」師が言う―「青梅。」国師が言う―「将来して何に用いる。」師が言う―「供養。」国師が言う―「青き在り、怎んぞ供養に堪えん。」師が言う―「此を以て献を表す。」国師が言う―「仏は供養を受けず。」師が言う―「某甲ただかくのごとし、和尚は如何。」国師が言う―「我は供養せず。」師が言う―「何の故ぞ供故ぞ供養せざる。」国師が言う―「我、果子無し。」百丈海和尚、泐潭山に在りて車を牽く次。師が言う―「車はここに在り、牛は何の処に在る。」海、額を斫る。師乃ち目を拭う。麻谷が問う―「十二面観音、あに是れ聖にあらずや。」師が言う―「是。」麻谷、師に一掴を与う。師が言う―「お前、いまだ此の境に到らざるを想う。」国師の諱日に斎を設く。僧有りて問うて言う―「国師、還って来たるや否や。」師が言う―「いまだ他心を具せず。」問う―「また斎を設けて作么す。」師が言う―「世諦を断ぜず。」

洛陽荷澤神會大師法嗣

洛陽荷沢神会大師の法嗣

黃州大石山福琳禪師荊州人也。姓元氏。木儒家子。幼歸釋氏。就玄靜寺謙著禪師剃度登戒。遊方遇荷澤師。示無念靈知不從緣有。即煥然見諦。後抵黃州大石山結庵而居。四方禪侶依之甚眾。唐興元二年入滅。壽八十有二。

黄州大石山福琳禅師は、荊州の人。姓は元。もと儒家の子。幼くして釈氏に帰し、玄静寺謙著禅師に就きて剃度し戒に登る。方を游びて荷沢師に遇うに、無念の霊知、縁に従いて有らざるを示され、すなはち煥然として諦を見る。後に黄州大石山に抵りて庵を結びて居す。四方の禅侶、依る者甚だ衆し。唐興元二年に入滅す。寿八十有二。

沂水蒙山光寶禪師幷州人也。姓周氏。初謁荷澤和尚服勤左右。荷澤一日謂之曰。汝名光寶。名以定體。寶即己有光非外求。縱汝意用而無少乏。長夜蒙照而無間歇。汝還信否。師曰。信則信矣。未審光之與寶同耶異耶。荷澤曰。光即寶寶即光。何有同異之名乎。師曰。眼耳緣聲色時為復抗行為有迴互。荷澤曰。抗互且置。汝指何法為聲色之體乎。師曰。如師所說。即無有聲色可得。荷澤曰。汝若了聲色體空。亦信眼耳諸根及與凡聖平等如幻。抗行迴互其理昭然。師由是領悟禮辭而去。初隱沂水蒙山。唐元和二年圓寂。壽年九十。

沂水蒙山光宝禅師は、并州の人。姓は周。初め荷沢和尚を謁し、左右に服勤す。荷沢、一日彼に対して言う―「お前の名は光宝。名は以て体を定む。宝はすなはち己有、光は外に求るにあらず。お前の意を縦いに用いて少乏無く、長夜蒙い照らして間歇無し。お前還って信ずるや否や。」師が言う―「信ぜば則ち信ぜん。いまだ審らかならず、光と宝と同じき耶異なる耶。」荷沢が言う―「光すなはち宝、宝すなはち光、何ぞ同異の名有らん乎。」師が言う―「眼耳、声色に縁る時、為復た抗行か、為に回互有るか。」荷沢が言う―「抗互は且く置け。お前、何法を指して声色の体と為す乎。」師が言う―「師の説く所のごとくば、すなはち声色の得べき無し。」荷沢が言う―「お前もし声色の体空なるを了せば、も亦た眼耳の諸根および凡聖と平等にして幻のごときを信ぜよ。抗行回互、その理昭然なり。」師、是に由りて領悟し、礼辞して去る。初め沂水蒙山に隠る。唐元和二年に円寂す。寿年九十。

曹谿別出第五世

曹渓別出第五世

前遂州道圓禪師法嗣

前遂州道円禅師の法嗣

終南山圭峰宗密禪師果州西充人也。姓何氏。家本豪盛髫齓通儒書。冠歲探釋典。唐元和二年將赴貢舉。遇造圓和尚法席欣然契會遂求披削。當年進具。一日隨眾僧齋於府吏任灌家居下位。以次受經。得圓覺十二章。覽未終軸感悟流涕。歸以所悟之旨告於圓。圓撫之曰。汝當大弘圓頓之教。此諸佛授汝耳。行矣無自滯於一隅也。師涕泣奉命禮辭而去。因謁荊南張禪師(南印)張曰。傳教人也。當宣導於帝都。復見洛陽照禪師(奉國神照)照曰。菩薩人也誰能識之。尋抵襄漢。因病僧付華嚴疏。即上都澄觀大師之所撰也。師未嘗聽習一覽而講。自欣所遇曰。曏者諸師述作罕窮厥旨。未若此疏辭源流暢幽賾煥然。吾禪遇南宗教逢圓覺。一言之下心地開通。一軸之中義天朗耀。今復偶茲絕筆罄竭於懷。暨講終思見疏主。時屬門人太恭斷臂醻恩。師先齎書上疏主。遙敘師資往復慶慰。尋太恭痊損。方隨侍至上都執弟子之禮。觀曰。毘盧華藏能隨我遊者其汝乎。師預觀之室雖日新其德。而認筌執象之患永亡矣。北遊清涼山迴住鄠縣草堂寺。未幾復入寺南圭峰蘭若。大和中微入內賜紫衣。帝累問法要。朝士歸慕。惟相國裴公休深入堂奧。受教為外護。師以禪教學者互相非毀。遂著禪源諸詮。寫錄諸家所述。詮表禪門根源道理。文字句偈集為一藏(或雲。一百卷)以貽後代。其都序略曰。禪是天竺之語。具雲禪那。翻雲思惟修。亦云靜慮。皆是定慧之通稱也。源者。是一切眾生本覺真性。亦名佛性。亦名心地。悟之名慧。修之名定。定慧通名為禪。此性是禪之本源。故云禪源。亦名禪那。理行者。此之本源是禪理。忘情契之是禪行。故云理行。然今所集諸家述作。多譚禪理少說禪行。故且以禪源題之。今時有但目真性為禪者。是不達理行之旨。又不辨華竺之音也。然非離真性別有禪體。但眾生迷真合塵即名散亂。

終南山圭峰宗密禅師は、果州西充の人。姓は何。家もと豪盛、髫齔にして儒書に通じ、冠歳に釈典を探る。唐元和二年、将に貢挙に赴かんとして道円和尚の法席に遇う(底本「造円」、すなはち遂州道円なり)、欣然として契会し、遂に披削を求む。当年、進具す。一日、衆僧に随い府吏任灌の家に於て斎す、下位に居り、次を以て経を受けて『円覚』十二章を得る。覧ること軸を終えざるに、感悟して涕を流す。帰りて悟る所の旨を以て円に告ぐ。円、之を抚でて言う―「お前、当に円頓の教を大いに弘むべし、此れ諸仏のお前に授けたるなり。行け、一隅に自ら滞ることなかれ。」師、涕泣して命を奉じ、礼辞して去る。因りて荊南張禅師に謁す(南印)。張が言う―「教を伝うる人なり、当に帝都に於て宣導すべし。」復た洛陽照禅師を見る(奉国神照)。照が言う―「菩薩の人なり、誰か能くこれを識らん。」尋いで襄漢に抵る。病僧の『華厳疏』を付するに因る、すなはち上都澄観大師の撰せし所なり。師、曽て聴習せざるも、一覧して講ず。自ら遇う所を欣びて言う―「向者の諸師の述作、罕くその旨を窮め、此の疏の辞源流暢にして幽赜煥然たるに若かず。吾が禅は南宗に遇い、教は円覚に逢い、一言の下に心地開通し、一軸の中に義天朗耀す。今復た此の絶筆に偶う、懐に罄竭す。」暨ち講終わりて疏主を見んと思う。時に門人太恭、臂を断ちて恩を酬うるに属す。師、先に書を齎して疏主に上り、遥かに師資を叙し、往復して慶慰す。尋いで太恭痊損し、方に随侍して上都に至り、弟子の礼を執る。観が言う―「毘盧華蔵、能く我に随いて游ぶ者は、其れお前か。」師、観の室に預る、日にその徳を新たにするといえども、筌を認め象を執るの患永く亡びん。北に清凉山に游び、回りて鄠県草堂寺に住す。未幾くして復た寺南の圭峰蘭若に入る。大和中、征せられて内に入り、紫衣を賜う。帝、累ねて法要を問う。朝士帰慕すれども、ただ相国裴公休、深く堂奥に入り、教を受けて外護と為す。師、禅教学者の互相いに非毀するを以て、遂に『禅源諸詮』を著し、諸家の述べる所を写録し、禅門の根源道理、文字句偈を詮表し、集めて一蔵と為す(或いは百巻と云う)以て後代に貽す。その都序に略して曰く、禅は是れ天竺の語、具さに云えば禅那、翻して思惟修と云い、亦た静慮と云う、皆是れ定慧の通称なり。源は是れ一切衆生の本覚真性、亦の名は仏性、亦の名は心地。悟するを名づけて慧とし、修するを名づけて定とす。定慧、通じて名づけて禅とす。此の性は禅の本源なり、ゆえに禅源と云う。亦の名は禅那。理行とは、此の本源は是れ禅理、情を忘れてこれに契するは是れ禅行、ゆえに理行と云う。然るに今、集むる所の諸家の述作、多くは禅理を談じ、少なくは禅行を説く、ゆえに且く禅源を以てこれを題す。今時、ただ真性を目して禅と為す者有り、是れ理行の旨に達せざるなり、また華竺の音を辨えざるなり。然るに真性を離れて別に禅体有るにあらず。ただ衆生、真に迷いて塵に合せばすなはち散乱と名づく、

背塵合真名為禪定。若直論本性。即非真非妄無背無合無定無亂。誰言禪乎。況此真性非唯是禪門之源。亦是萬法之源。故名法性。亦是眾生迷悟之源。故名如來藏藏識(出楞伽經)亦是諸佛萬德之源。故名佛性(涅槃等經)亦是菩薩萬行之源。故名心地(梵網經心地法門品雲。是諸佛之本源。行菩薩道之根本。是大眾諸佛子之根本也)萬行不出六波羅蜜。禪門但是六中之一。當其第五。豈可都目真性為一禪行哉。然禪定一行最為神妙。能發起性上無漏智慧。一切妙用萬行萬德。乃至神通光明皆從定發故。三乘學人慾求聖道必須修禪。離此無門離此無路。至於念佛求生淨土。亦修十六觀禪及念佛三昧般舟三昧。又真性即不垢不淨凡聖無差。禪則有淺有深階級殊等。謂帶異計欣上厭下而修者。是外道禪。正信因果亦以欣厭而修者是凡夫禪。悟我空偏真之理而修者。是小乘禪。悟我法二空所顯真理而修者。是大乘禪(上四類皆有四色四空之異也)若頓悟自心。本來清淨元無煩惱。無漏智性本自具足。此心即佛畢竟無異。依此而修者。是最上乘禪。亦名如來清淨禪。亦名一行三昧。亦名真如三昧。此是一切三昧根本。若能念念修習。自然漸得百千三昧。達磨門下展轉相傳者。是此禪也。達磨未到。古來諸家所解。皆是前四禪八定。諸高僧修之皆得功用。南嶽天台令依三諦之理修三止三觀。教義雖最圓妙。然其趣入門戶次第。亦只是前之諸禪行相。唯達磨所傳者。頓同佛體逈異諸門。故宗習者難得其旨。得即成聖疾證菩提。失則成邪速入塗炭。先祖革昧防失故。且人傳一人。後代已有所憑故。任千燈千照。洎乎法久成弊。錯謬者多故。經論學人疑謗亦眾。原夫佛說頓教漸教。禪開頓門漸門。二教二門各相符契。今講者偏彰漸義。禪者偏播頓宗。禪講相逢胡越之隔。宗密不知宿生何作薰得此心。自未解脫欲解他縛。

塵を背き真に合するを名づけて禅定とす。もし直に本性を論ぜば、すなはち真に非ず妄に非ず、背無く合無く、定無く乱無し、誰か禅と言わん。況んや此の真性は唯だ禅門の源なるのみならず、亦た万法の源なり、ゆえに法性と名づく。亦た衆生の迷悟の源なり、ゆえに如来蔵蔵識と名づく(『楞伽経』に出』に出づ)。亦た諸仏万徳の源なり、ゆえに仏性と名づく(『涅槃』等の経)。亦た菩薩万行の源なり、ゆえに心地と名づく(『梵網経・心地法門品』に云く、是れ諸仏の本源、菩薩道を行ずるの根本、大衆諸仏子の根本なり)。万行、六波羅蜜を出でず。禅門はただ六中の一、その第五に当たる、あに総べて真性を目して一禅行と為さんや。然るに禅定の一行、最も神妙にして、性上無漏の智慧を発起すること能くす。一切妙用、万行万徳、乃至神通光明、皆定より発ず。ゆえに三乗の学人、聖道を求めんと欲すれば必ず須らく禅を修すべし、此を離れて門無く、此を離れて路無し。念仏して浄土に生まれんことを求るに至るも、亦た十六観禅および念仏三昧、般舟三昧を修す。また真性すなはち垢ならず浄ならず、凡聖差なし。禅は則ち浅き有り深き有り、階級殊等なり。謂いん、異計を帯びて上を欣い下を厭いて修するは、是れ外道禅。正しく因果を信じて亦た欣厭を以て修するは、是れ凡夫禅。我空偏真の理を悟りて修するは、是れ小乗禅。我法二空の顕わす所の真理を悟りて修するは、是れ大乗禅。(上の四類、皆四色四空の異有り。)もし頓に自心の本来清浄にして、もと煩悩無く、無漏の智性、本自ら具足し、此の心すなはち仏にして、畢竟異無きを悟り、此に依りて修するは、是れ最上乘禅。亦の名は如来清浄禅、亦の名は一行三昧、亦の名は真如三昧。此れ一切三昧の根本なり。能く念々修習せば、自然漸く百千三昧を得ん。達磨門下、展転相伝うるは、是れ此の禅なり。達磨いまだ到らざるに、古来諸家の解は皆是れ前の四禅八定。諸高僧これを修して皆功用を得たり。南岳天台、三諦の理に依りて三止三観を修めしむるも、教義最も円妙といえども、然るにその入るに趣く門戸次第も亦ただ是れ前の諸禅行相のみ。唯だ達磨の伝うる所は、頓に仏体を同じくして迥かに諸門に異なり。ゆえに宗習する者、その旨を得ること難し。得ればすなはち聖と成り、疾く菩提を証し、失せば則ち邪と成り、速やかに塗炭に入る。先祖、昧を革めて失を防ぎ、ゆえに且く人、一人を伝う。後代すでに凭る所有り、ゆえに千灯千照に任す。法、久しくして弊を成し、錯謬の者多きに洎り、ゆえに経論の学人、疑謗も亦た衆し。それ仏の説く頓教漸教、禅の開く頓門漸門は、二教二門、各相符契す。今、講する者は偏りに漸義を彰し、禅する者は偏りに頓宗を播く。禅講相逢えば胡越の隔なり。宗密、宿生何の作をか知らずして此の心を薫得せり。自らいまだ解脱せざるに他の縛を解かんと欲し、

為法亡於軀命。愍人切於神情(亦如淨名雲。若自有縛能解他縛無有是處。然欲罷不能。驗是宿習難改故)每歎人與法差法為人病。故別撰經律論疏。大開戒定慧門。顯頓悟資於漸修。證師說符於佛意。意既本末而委示。文乃浩博而難尋。汎學雖多乘志者少。況跡涉名相誰辨金鍮。徒自疲勞未見機感。雖佛說悲增是行。而自慮愛見難防。遂捨眾入山習定均慧。前後息慮相繼十年(雲前後者。中間被勅追入內住城二年。方卻表請歸山也)微細習情起滅彰於靜慧。差別法義羅列現於空心。虛隙日光纖埃擾擾。清潭水底影像昭昭。豈比夫空守默之痴禪。但尋文之狂慧者也。然本因了自心而辨諸教故。懇情於心宗。又因辨諸教而解修心故。虔誠於教義。教也者諸佛菩薩所留經論也。禪也者諸善知識所述句偈也。但佛經開張羅大千八部之眾。禪偈撮略就此方一類之機。羅眾則莽蕩難依。就機則指的易用。今之纂集意在斯焉。裴休為之序曰。諸宗門下皆有達人。然各安所習通少局多。數十年中師法益壞。以承稟為戶牖各自開張。以經論為干戈互相攻擊。情隨函(音含)矢而遷變(周禮曰。函人為甲。孟子曰。矢人豈不仁於函人哉。函人唯恐傷人。矢人唯恐不傷人。蓋所習之術使然也。今學者但隨宗徒彼此相非耳)法逐人我以高低。是非紛拏莫能辨析。則曏者世尊菩薩諸方教宗。適足以起諍。後人增煩惱病。何利益之有哉。圭山大師久而歎曰。吾丁此時不可以默矣。於是以如來三種教義。印禪宗三種法門。融瓶盤釵釧為一金。攪酥酪醍醐為一味。振綱領而舉者皆順(荀子云。如振裘領屈五指。而頓之順者不可勝數)據會要而來者同趣(周易略例雲。處會要以觀方來。則六合輻輳未足多也。都序據圓教以印諸宗。雖百家亦無所不統)尚恐學者之難明也。又復直示宗源之本末。真妄之和合。空性之隱顯。法義之差殊。

法の為に躯命に亡び、人を愍むこと神情に切なり。(亦た浄名に云く、もし自ら縛有りて能く他の縛を解くは、是の処有る無し、と。然るに罷めんと欲して能わず、宿習の改め難きが故なりと験す。)毎に人と法差ち、法、人の病と為るを嘆く。ゆえに別に経律論疏を撰し、大きに戒定慧の門を開き、頓悟の漸修に資するを顕し、師説の仏意に符するを証す。意すでに本末にして委しく示すも、文乃ち浩博にして尋ね難し。汎学多しといえども、志に乗ずる者少なし。況んや迹、名相に渉れば、誰か金鍮を辨えん。徒らに自ら疲労して、いまだ機感を見ず。仏、悲増是の行と説くといえども、自ら慮るに愛見防ぎ難し。遂に衆を舎てて山に入り、定を習い慧を均しくす。前後、慮を息むること相继いで十年。(前後と云うは、中間に勅に被て追りて内に入りて城に住すること二年、方に却って表して山に帰るを請えしなり。)微細の習情、起滅して静慧に彰れ、差別の法義、羅列して空心に現ず。虚隙の日光、纎埃擾擾、清潭の水底、影像昭昭。あに彼の空しく黙を守るの痴禅、ただ文を尋ぬるの狂慧の者に比ふべけん。然るにもと自心を了して諸教を辨ずるに因るゆえに懇情を心宗にす。また諸教を辨じて修心を解するに因るゆえに虔誠を教義にす。教とは、諸仏菩薩の留めたる経論なり。禅とは、諸善知識の述べたる句偈なり。ただ仏経は開張して大千八部の衆を羅し、禅偈は撮略して此方一类の機に就く。衆を羅すれば則ち莽蕩にして依り難く、機に就けば則ち的を指して用い易し。今の纂集、意は斯に在る焉。裴休が之が序を為して言う―「諸宗門下、皆達人有り。然るに各その習う所に安んじ、通ずる少なく局なる多し。数十年の中、師法益いよ壊る。承禀を以て戸牖と為し、各自開張し、経論を以て干戈と為し、互相いに攻撃す。情、函矢(函の音は含)に随いて遷変す(『周礼』に曰く、函人甲を為す。『孟子』に曰く、矢人、あに函人に不仁ならん哉。函人は唯だ人を傷ふることを恐れ、矢人は唯だ人を傷ふらざるを恐る。おおむね習う所の術の然らしむるなり。今の学者、ただ宗徒に随いて彼此相い非するのみ)。法、人我に逐いて高低す。是非紛拏、能く辨析する莫し。則ち向者の世尊菩薩諸方の教宗、適ぞ以て諍を起すに足り、後人煩悩の病を増す、何の利益か之を有らん。圭山大師、久しくして嘆じて言う―「吾、此の時に丁る、以て黙すべからず。」ここにおいて如来三种の教義を以て禅宗三种の法門を印し、瓶盤釵釧を融して一金と為し、酥酪醍醐を搅って一味と為す。綱領を振るえば挙ぐる者皆順なり(『荀子』に云く、裘領を振るが如く、五指を屈げてこれを頓かば、順なる者、数え勝げず)。会要に拠れば来る者同じく趣く(『周易略例』に云く、会要に処りて以て方来を観れば、則ち六合輻輳すともいまだ多しと為すに足らず。都序、円教に拠りて以て諸宗を印すれば、百家といえども統せざる所無し)。なお恐る学者の明らかにし難きを、また復た直に宗源の本末、真妄の和合、空性の隠顕、法義の差殊を示す、

頓漸之異同。遮表之迴互。權實之深淺。通同之是非。若吾師者。捧佛日而委曲迴照疑噎盡除。順佛心而橫亙大悲窮劫蒙益。則世尊為闡教之主。吾師為會教之人。本末相符道近相照。可謂畢一代時教之能事矣(自世尊演教至今日會而通之。能事方畢)或曰。自如來未嘗大都而通之。今一旦違宗趣而不守。廢關防而不據。無乃乖秘藏密契之道乎。答曰。如來初雖別說三乘。後乃通為一道(三十年前或說小乘。或說空教。或說相教。或說性教。聞者各隨機證悟不相通知也。四十年後坐靈鷲而會三乘。詣拘屍而顯一性。前後之軌則也)故涅槃經。迦葉菩薩曰。諸佛有密語無密藏。世尊讚之曰。如來之言開發顯露清淨無翳。愚人不解謂之秘藏。智者達了則不名藏。此其證也。故王道興則外戶不閉。而守在戎夷。佛道備則諸法總持。而防在魔外(涅槃圓教和會諸法。唯簡別魔說及外道邪宗耳)不當復執情攘臂於其間也(師又著圓覺大小二疏鈔。法界觀門。原人等論。皆裴休為之序引。盛行於世)師會昌元年正月六日於興福塔院坐滅二十二日道俗等奉全身於圭峰。二月十二日荼毘得舍利明白潤大。後門人泣而求之。皆得於煨燼乃藏之石室。壽六十有二。臘三十四。遺誡令舁屍施鳥獸焚其骨而散之。勿得悲慕以亂禪觀。每清明上山必講道七日。其餘住持儀則當合律科。違者非吾弟子。持服四眾數千百人哀泣喧野。暨宣宗再闢真教。追諡定慧禪師。塔曰青蓮。蕭俛相公呈己見解請禪師注釋曰。荷澤雲。見清淨體於諸三昧八萬四千諸波羅蜜門。皆於見上一時起用。名為慧眼。右當真如相應之時(善惡不思。空有不念)萬化寂滅(萬法俱從思想緣念而生。皆是虛空。故云化也。既一念不生則萬法不起。故不待泯之自然寂滅也)此時更無所見(照體獨立夢智亡階)三昧諸波羅蜜門亦一時空寂。更無所得(散亂與三昧。

頓漸の異同、遮表の回互、権実の深浅、通同の是非を直に示す。もし吾が師のごときは、仏日を捧げて委曲に回照し、疑噎尽く除き、仏心に順って横亘大悲にして、劫を窮めて益を蒙る。則ち世尊は教を闡くの主、吾が師は教を会する人なり。本末相符し、道近く相照らす、謂うべし一代時教の能事を畢んぬ、と。(世尊の教を演べしより今日会してこれを通ずるに至るまで、能事方に畢んぬ。)或いは曰く、如来自ら未だ曽て大都してこれを通ぜずと。今一旦宗趣に違いつつ守らず、関防を廃しつつ拠らず、あながち秘蔵密契の道に乖けるにあらずや。答えて曰く、如来、初めは三乗を別説すといえども、後乃ち通じて一道と為す。(三十年前、或いは小乗を説き、或いは空教を説き、或いは相教を説き、或いは性教を説く、聞く者各々機に随いて証悟して相い通知せざるなり。四十年後、霊鷲に坐して三乗を会し、拘尸に詣りて一性を顕す。前後の軌則なり。)ゆえに『涅槃経』迦葉菩薩が曰く、諸仏密語有りて密蔵無し。世尊、之を讃じて曰く、如来の言は開発顕露にして清浄にして翳無し、愚人解せざれば之を秘蔵と謂い、智者達了すれば則ち蔵と名づけず、此れその証なり。ゆえに王道興れば外戸閉ぢずして戎夷に守在り、仏道備われば諸法総持して魔外に防あり。(涅槃円教、諸法を和会す、ただ魔説および外道邪宗を簡別するのみ。)当に復た情を執して臂を攘いで其の間に於かざるべし。(師また『円覚』大小二疏鈔、『法界観門』、『原人』等の論を著す、皆裴休が之が序引を為す、世に盛行す。)師、会昌元年正月六日、興福塔院に於て坐滅す。二十二日、道俗等、全身を奉りて圭峰に於く。二月十二日荼毗し、舎利を得ること明白潤大なり。後に門人泣きて之を求め、皆煨燼に於て得、乃ち之を石室に蔵す。寿六十有二、臘三十四。遺誡して尸を舁きて鳥獣に施し、その骨を焚きてこれを散ぜしめ、悲慕して以て禅観を乱ることを得ざらしむ。毎に清明に山に上りて必ず七日道を講ず。其の余の住持儀則、当に律科に合すべし、違する者は吾が弟子にあらず。服を持する四衆数千百人、哀泣して野に喧し。暨ち宣宗、再び真教を辟く、追って定慧禅師と諡し、塔を青蓮と曰す。蕭俛相公、己が見解を呈し、禅師に注釈を請うて言う―「荷沢に云く、清浄体を見るに、諸の三昧八万四千の諸波羅蜜門に於て、皆見上に於て一時に起用す、名づけて慧眼とす。右は当に真如相応の時(善悪思わず、空有念ぜず)、万化寂滅(万法、倶に思想縁念に従いて生ず、皆是れ虚空なり、ゆえに化と云うなり。すでに一念生ぜざれば則ち万法起らず、ゆえに之を泯するを待たず、自然に寂滅なり)。此の時、更に見る所無し(照体独立にして夢智階を亡ぶ)。三昧諸波羅蜜門も亦た一時に空寂して、更に得る所無し。(散乱と三昧と、

此岸與彼岸。是相待對治之說。若知心無念見性無生。則定亂真妄一時空寂。故無所得也)不審此是見上一時起用否(然見性圓明理絕相累。即絕相為妙用。住相為執情。於八萬法門一一皆爾。一法有為一塵。一法空為一用。故云。見清淨體則一時起用矣)望於此後示及俛狀答史山人十問(問答各是一本。今參而寫之)一問。云何是道。何以修之。為復必須修成。為復不假功用。答無礙是道。覺妄是修。道雖本圓妄起為累。妄念都盡即是修成。二問。道若因修而成即是造作。便同世間法虛偽不實。成而復壞何名出世。答造作是結業名虛偽世間。無作是修行即真實出世。三問。其所修者為頓為漸。漸則忘前失後。何以集合而成。頓則萬行多方。豈得一時圓滿。答真理即悟而頓圓。妄情息之而漸盡。頓圓如初生孩子。一日而肢體已全。漸修如長養成人。多年而志氣方立。四問。凡修心地之法。為當悟心即了。為當別有行門。若別有行門何名南宗頓旨。若悟即同諸佛何不發神通光明。答識氷池而全水。籍陽氣而鎔消。悟凡夫而即真。資法力而修習。氷消則水流潤。方呈溉滌之功。妄盡則心靈通。始發通光之應。修心之外無別行門。五問。若但修心而得佛者。何故諸經復說。必須莊嚴佛土教化眾生方名成道。答鏡明而影像千差。心淨而神通萬應。影像類莊嚴佛國。神通則教化眾生。莊嚴而即非莊嚴。影像而亦色非色。六問。諸經皆說度脫眾生。眾生且即非眾生。何故更勞度脫。答眾生若是實度之則為勞。既自雲。即非眾生。何不例度而無度。七問。諸經說佛常住。或即說佛滅度。常即不滅。滅即非常。豈不相違。答離一切相即名諸佛。何有出世入滅之實乎。見出沒者在乎機緣。機緣應則菩提樹下而出現。機緣盡則娑羅林間而涅槃。其猶淨水無心無像。不現像非我有。蓋外質之去來相非佛身。豈如來之出沒。八問。

此岸と彼岸とは、是れ相待対治の説なり。もし心の念無く、性の生無きを知らば、則ち定乱真妄、一時に空寂す、ゆえに得る所無きなり。)いまだ審らかならず、此れ是れ見上の一時起用か否や。(然るに性を見ること円明にして、理、相累を絶つ。すなはち相を絶するを妙用と為し、相に住するを執情と為す。八万法門、一一皆爾なり。一法有るを一塵と為し、一法空なるを一用と為す。ゆえに云う、清浄体を見れば則ち一時に起用す、と。)此より後に示及せんことを望む。俛が状、史山人十問に答う(問答、各々一本なり、今参じてこれを写す)。一問、云何んぞ是れ道、何を以て之を修する、為復た必ず修成を須いるか、為復た功用を假らざるか。答う、無礙是れ道、妄を覚ずるは是れ修。道は本円なりといえども、妄起るを累と為す。妄念都尽すればすなはち是れ修成。二問、道、もし修に因りて成ずればすなはち是れ造作、便ち世間法の虚偽にして実ならざるに同じ、成じて復た壊る、何ぞ出世と名づけん。答う、造作は是れ業を結ぶ、名づけて虚偽の世間とす。無作是れ修行、すなはち真実の出世。三問、その修する者は頓か漸か。漸ならば前を忘れ後を失い、何を以て集合して成ぜん。頓ならば万行多方にして、あに得ん一時に円満せんや。答う、真理はすなはち悟りて頓に円し、妄情はこれを息めて漸く尽く。頓円は初めて生まれし孩子のごとく、一日にして肢体すでに全し。漸修は長養成人のごとく、多年にして志気方に立つ。四問、およそ心地を修するの法は、為当に心を悟ればすなはち了るか、為当に別に行門有るか。もし別に行門有らば、何ぞ南宗頓旨と名づけん。もし悟ればすなはち諸仏に同じからば、何ぞ神通光明を発せざる。答う、冰池を識れば全く水なり、陽気に藉りて鎔消す。凡夫を悟ればすなはち真なり、法力に資りて修習す。冰消ずれば水流潤し、方に溉滌の功を呈す。妄尽くれば心霊通じ、始めて通光の応を発す。心を修するの外、別の行門無し。五問、もしただ心を修して仏を得る者あらば、何の故ぞ諸経、復た説く必ず須らく仏土を荘厳し衆生を教化して方に成道と名づくと。答う、鏡明れば影像千差し、心浄れば神通万応す。影像は仏国の荘厳に類し、神通は則ち衆生を教化す。荘厳にしてすなはち荘厳に非ず、影像にしても亦た色にして非色なり。六問、諸経皆衆生を度脱すと説く。衆生且く即ち衆生に非ず、何の故ぞ更に度脱を労する。答う、衆生もし是れ実ならば、之を度すれば則ち労と為らん。すでに自ら衆生に非ずと云う、何ぞ度に例えて度無きを言わざる。七問、諸経、仏の常住を説き、或いは即ち仏の滅度を説く。常ならばすなはち滅せず、滅すればすなはち常ならず、あに相違せざらんや。答う、一切相を離るるをすなはち諸仏と名づく、何ぞ出世入滅の実有らん乎。出没を見るは機縁に在り。機縁応ずれば菩提樹下に於て出現し、機縁尽くれば娑羅林間に於て涅槃す。それ猶お浄水の心無きが如く、像にして現ぜざる無し。像は我が有に非ず、おおむね外質の去来なり。相は仏身に非ず、あに如来の出没ならん。八問、

云何佛化所生吾如彼生。佛既無生生是何義。若言心生法生心滅法滅。何以得無生法忍耶。答既雲。如化化即是空。空即無生。何詰生義。生滅滅已寂滅為真。忍可此法無生。名曰無生法忍。九問。諸佛成道說法秖為度脫眾生。眾生既有六道。佛何但住在人中現化。又佛滅後付法於迦葉以心傳心。乃至此方七祖每代秖傳一人。既雲於一切眾生皆得一子之地。何以傳授不普。答日月麗天六合俱照。而盲者不見。盆下不知。非日月不普。是障隔之咎也。度與不度義類如斯。非局人天揀於鬼畜。但人道能結集傳授不絕故。秖知佛現人中也。滅度後委付迦葉。展轉相承一人者。此亦蓋論當代為宗教主。如土無二王。非得度者唯爾數也。十問。和尚因何發心。慕何法而出家。今如何修行得何法味。所行得至何處地位。令住心耶修心耶。若住心妨修心。若修心則動念不安。云何名為學道。若安心一定。則何異定性之徒。伏願大德。運大慈悲如理如如次第為說。答覺四大如壞幻。達六塵如空華。悟自心為佛心。見本性為法性。是發心也。知心無住即是修行。無住而知即為法味。住著於法斯為動念。故如人入闇則無所見。今無所住。不染不著。故如人有目及日光明見種種法。豈為定性之徒。既無所住著何論處所。又山南溫造尚書問。悟理息妄之人不結業。一期壽終之後靈性何依者。答一切眾生無不具有覺性。靈明空寂與佛無殊。但以無始劫來未曾了悟。妄執身為我相。故生愛惡等情。隨情造業。隨業報。生老病死長劫輪迴。然身中覺性未曾生死。如夢被驅役而身本安閑。如水作氷而濕性不易。若能悟此性即是法身。本自無生何有依託。靈靈不昧了了常知。無所從來亦無所去。然多生妄執習以性成喜怒哀樂微細流注。真理雖然頓達。此情難以卒除。須長覺察損之又損。如風頓止波浪漸停。豈可一生所修便同諸佛力用。

云何んぞ仏、化の生ずる所にして、吾、彼の生の如きや。仏すでに生無し、生は是れ何の義ぞ。もし心生法生、心滅法滅と言わば、何を以て無生法忍を得ん耶。答う、すでに化の如しと云う、化すなはち是れ空。空すなはち生無し、何ぞ生義を詰せん。生滅滅し已れば、寂滅を真と為す。此の法の生無きを忍可す、名づけて無生法忍と曰す。九問、諸仏、道を成じ法を説くはただ衆生を度脱するが為のみ。衆生すでに六道有り、仏、何ぞただ人中に住して化を現ずる。また仏滅後、法を迦葉に付し、心を以て心を伝え、乃至此方七祖、毎代ただ一人を伝う。すでに一切衆生に於て皆一子の地を得ると云う、何を以て伝授普ならざる。答う、日月、天に麗うて六合倶に照らすも、盲者見えず、盆下知らず。日月の普ならざるにあらず、是れ障隔の咎なり。度するも度さざるも、義は斯に類す。人天に局りて鬼畜を揀ぶにあらず、ただ人道、能く結集伝授して絶えざるがゆえに、ただ仏の人中に現ずるを知るのみ。滅度後、迦葉に委付して展転相承一人なるは、此れも亦たおおむね当代を論じて宗教の主と為す、土に二王無きが如し、度を得る者唯だ爾の数に非ざるなり。十問、和尚、何に因りて心を発し、何の法を慕いて出家する、今いかにして修行し、何の法味を得る、行ずる所何の地位に至るを得る、住心せしむる耶、修心せしむる耶。もし心を住せば修心を妨げ、もし心を修せば則ち念を動して安からず、云何んぞ名づけて学道と為す。もし心を安んずること一定ならば、則ち何ぞ定性の徒と異ならん。伏して願わくは大徳、大慈悲を運らし、理の如く如如として次第の為に説かん。答う、四大の坏幻のごときを覚じ、六塵の空華のごときに達し、自心を悟りて仏心と為し、本性を見て法性と為す、是れ発心なり。心の住無きを知ればすなはち是れ修行。住無くして知ればすなはち法味と為る。法に住着すれば斯れ動念と為る。ゆえに人の暗に入れば見る所無きが如し。今、住する所無く、染まず着かざるゆえに、人の目有りて日光明なるが如く、種種の法を見る。あに定性の徒と為さんや。すでに住着する所無し、何ぞ処所を論ぜん。また山南温造尚書が問う―理を悟り妄を息むる人、業を結ばずして、一期寿終の後、霊性何を依る者。答う、一切衆生、有らざる無し、皆覚性を具し、霊明空寂にして仏と殊無し。ただ無始劫より来る、いまだ曽て了悟せざるを以て、妄りに身を執じて我相と為し、ゆえに愛悪等の情を生じ、情に随いて業を造り、業に随いて報を受け、生老病死、長劫輪廻す。然るに身中の覚性、曽て生死せず。夢に駆役せらるるも身もと安閑なるが如く、水の冰を作すも湿性易わらざるが如し。もし能く此の性を悟ればすなはち是れ法身、本自ら生無し、何の依托か有らん。霊霊として昧わず、了了として常に知り、来る所無く、亦た去る所無し。然るに多生の妄執、習いて性を以て成ず、喜怒哀楽、微細流注す。真理、頓達すといえども、此の情卒かに除き難し。須らく長に覚察し、損してまた損すべし。風の頓に止みて波浪漸く停まるが如し。あに一生の修する所を以て便ち諸仏の力用に同じからんや。

但可以空寂為自體。勿認色身。以靈知為自心。勿認妄念。妄念若起都不隨之。即臨命終時自然業不能繫。雖有中陰所向自由。天上人間隨意寄託。若愛惡之念已泯。即不受分段之身。自能易短為長易麁為妙。若微細流注一切寂滅。唯圓覺大智朗然獨存。即隨機應現千百億身度有緣眾生。名之為佛。謹對釋曰。馬鳴菩薩撮略百本大乘經宗旨。以造大乘起信論。論中立宗。說一切眾生心有覺義不覺義。覺中復有本覺義始覺義。上所述者。雖但約照理觀心處言之。而法義亦同彼論。謂從初至與佛無殊。是本覺也。從但以無始下。是不覺也。從若能悟此下。是始覺也。始覺中復有頓悟漸修。從此次至亦無所去。是頓悟也。從然多生妄執下。是漸修也。漸修中從初發心乃至成佛有三位自在。從此至隨意寄託者。是受生自在也。從若愛惡之念下。是變易自在。從若微細流注下至末。是究竟自在也。又從但可以空寂為自體至自然業不能繫。正是悟理之人朝暮行心。修習止觀之要節也。宗密先有八句之偈顯雲此意。曾於尚書處誦之。奉命解釋。今謹注釋。如後偈曰。

(宗密、接続して言う)ただ空寂を以て自体と為すべく、色身を認むるなかれ。霊知を以て自心と為すべく、妄念を認むるなかれ。妄念もし起らば、都て之に随わざれ。すなはち命終に臨む時、自然に業繋ぐること能わず。中有有るといえども、向く所自由にして、天上人間、意に随いて寄托す。もし愛悪の念すでに泯えば、すなはち分段の身を受けず、自ら短を易えて長と為し、粗を易えて妙と為すことを得。もし微細流注、一切寂滅し、唯だ円覚大智朗然として独り存すれば、すなはち機に随いて応じて千百億身を現じ、縁有る衆生を度して、名づけて之を仏と為す。謹んで釈を対して曰く、馬鳴菩薩、百本大乗経の宗旨を撮略して、以て『大乗起信論』を造る。論中宗を立てて説く、一切衆生の心に覚の義、不覚の義有り。覚中復た本覚の義、始覚の義有り。上に述べる所は、ただ照理観心の処に約して之を言うといえども、法義も亦た彼の論に同じ。謂う、初より「仏と殊無し」に至るまでは、是れ本覚なり。「ただ无始を以て」より下は、是れ不覚なり。「もし能く此を悟れば」より下は、是れ始覚なり。始覚中復た頓悟漸修有り。此より次いで「亦た去る所無し」に至るは、是れ頓悟なり。「然るに多生妄執」より下は、是れ漸修なり。漸修中、初の発心より乃至成仏に至るまで、三位の自在有り。此より「意に随いて寄托す」に至るは、是れ受生自在なり。「もし愛悪の念」より下は、是れ変易自在。「もし微細流注」より下、末に至るは、是れ究竟自在なり。また「ただ空寂を以て自体と為すべし」より「自然に業繋ぐること能わず」に至るは、正に是れ理を悟る人の朝暮心を行じ、止観を修習するの要節なり。宗密、先に八句の偈有りて此の意を顕説し、曽て尚書の処に於てこれを誦し、命を奉じて解釈す。今謹んで注釈す。後の偈のごとく、

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