元明之易学
元明兩代之言《易》學者,無甚發明。著錄者大抵盤旋於程朱腳下為多。元之熊與可、胡一桂、熊良輔、王申之、董真卿,明之黃道周、喬中和,皆其傑出者也。然皆有所依傍,不能成一家之言。黃道周之《易象正》、《三易洞璣》,雖以天象曆數闡明易理,而艱深奧衍,流傳不廣。
元・明の両代の易学を講ずる人は多少の新たなる発明無くして、著録に見ゆるの著作は大多ただ程頤・朱熹の脚下に於て転打して、彼らに替りて疏解補苴を作るのみ。元代の熊与可・胡一桂・熊良輔・王申之・董真卿、明代の黄道周・喬中和は、皆其の中の佼佼者と算す。然れども彼らは皆各々依傍有りて、自成一家の学説を成る能わざりき。黄道周の《易象正》《三易洞璣》は、天象暦数を用いて以て易理を闡明すると雖も、然れども文字は艱深繁奥にして、流伝は広からずして、読む人は甚だ少なし。
惟來知德氏崛起川中,以二十九年之功,成《來氏集註》一書,風行大江以南,三百年來未絕。雖其錯綜之說,頗貽人口實。然取象說理,淺顯明白,惟恐人之不易索解,恆罕譬曲喻以明之。視故作艱深以文其淺陋者,自勝一籌。初學者得此,尚為善本也。
ただ来知徳は四川に於て崛起して、二十九年の工夫を用いて《来氏易注》の一書を写し成して、長江以南に風行して、三百年来流伝して絶えず。彼の講ずる「錯卦」「綜卦」の説は頗る人の非議を招くと雖も、但し象を取り理を説くは浅顕明白にして、惟れ読者の容易に索解せざらんことを恐れて、常常多方に譬を設け・委婉に譬喩して以て講じ清むる。あれらの故意に艱深を写して以て自己の浅陋を掩飾する人に比ぶれば、自然一籌を高出せり。初学の人は此の部の書を得れば、還た一個の好本子と算す。
勝朝之易学
有清一代,經學之盛,遠過宋明。其治易學專家,如刁氏包、李氏光地、胡氏、胡氏渭、任氏啟運、惠氏奇、惠氏棟、萬氏年淳、姚氏、張氏、彭氏,皆能獨抒己見,各有心得。而顧亭林、毛大可、錢辛楣、王引之、江慎修、段懋堂、王蘭泉諸氏,雖不專治《易》,其音韻訓詁考據,於吾《易》亦多所發明。
清朝一代の経学の興盛は、遥かに宋・明の両代を超過せり。専ら易学を治するの名家は、刁包・李光地・胡氏・胡渭・任啓運・恵士奇・恵棟・万年淳および姚氏・張氏・彭氏の諸人のごとき、皆能く旧説に因襲せずして・独り己見を抒べて、各々其の心得有り。而して顧炎武(亭林)・毛奇齡(大可)・銭大昕(辛楣)・王引之・江永(慎修)・段玉裁(懋堂)・王昶(蘭泉)の此の几位は、専ら《易》を治せざると雖も、然れども彼らは音韻・訓詁・考拠の方面に下せる工夫は、我らの此の門の《易》学に対してもまた多く発明の功有り。
至若焦氏循之《通釋》、紀氏大奎之《易問》與《觀易外編》,一則宗漢學,而能串合六十四卦之爻象,無一辭一字不相貫通;一則講宋學而能闡發性理,與六十四卦之爻象變通化合,尤為歷來講《易》家之所未有。端木國瑚後起,更冶漢宋於一爐,一一以經傳互證,無一辭一字之虛設。視焦紀二氏為更上一層,允足以殿全軍而為勝清一代易學之結束矣。
至りて焦循の《易通釈》・紀大奎の《易問》と《観易外編》は、前者は漢学を宗奉するも、却って能く六十四卦の爻象を把りて串連して起きて、一句一字として互相貫通せざる無し。後者は宋学を講ずるも、却って能く性理を闡発して、併せて六十四卦の爻象と変通融合して、尤其れ歴來《易》を講ずる人の未曾て做し到れざる所なり。此の両部の書は一は漢学を宗とし・一は宋学を宗として、路数は正に相反るも、却って各自極処に做し到れり。端木国瑚は後起して、更に漢学・宋学を把りて一炉に熔かして、処処経文と伝文とを用いて互相印証して、一句一字として虚設せる無し。焦・紀の両人に比ぶればまた更に一層を上にして、以て陣を圧し殿後するに足りて、清朝一代の易学の収束と作為す。
歴代易注之存廃
兩漢之《易》注,永嘉而後,已無完書。雖經歷朝好古之士,探討搜輯,然皆東鱗西爪。除《李氏集註》外,其能集合成書者,不可概見。濟南馬氏,旁搜博採,更於《太平御覽》、《永樂大典》與《說文》、《爾雅》、《文選》、《水經》諸注,傍及《內經》、《道藏》之所稱引者,悉為編次,共得《易部》之逸書八十餘種。承學之士,亦可略得其梗概矣。
両漢の《易》注は、西晋永嘉の乱以後自りて已に完整の本子無し。歴朝の古を好むの士は皆探寻して捜輯するも、得る所もまた皆東の一鱗西の一爪なり。李鼎祚の《周易集解》を除く以外、能く汇集して書を成すは幾んど看るを得ず。済南の馬国翰は広く捜し博く採って、進んで《太平御覧》《永楽大典》および《説文》《爾雅》《文選》《水経》の各家注の中より、旁ら《黄帝内経》《道蔵》の征引する所の材料に及ぶまで、一一に編次を加えて、共に《易》類の佚書八十多种を輯出せり。後学の士もまた便ち以て大略漢《易》の梗概を看て出るを得。
魏晉以降,其完全無缺者,推王弼注為最古。今與孔穎達之《正義》,陸德明之《音訓》並傳,與《程傳》、《朱義》,皆歷代官書所刊佈,士林所奉為金科玉律者也。其餘唐宋諸家之《易》注,世罕單行。賴《津逮》、《汲古》、《曠照》、《漢魏》諸叢書刊佈,而以後之聚刻叢書者,必以《易》為甲部之冠。孤本秘錄之藉此僅存者,為不少矣。
魏晋以後の完整無缺の《易》注は、王弼注を数えて最も古しと為す。如今それは孔穎達の《周易正義》・陸徳明の《経典釈文》の音訓と一併せて流伝して、《程氏易伝》《朱子本義》と同じく歴代官府の刊布する書と為して、もまた士林の奉じて金科玉律と為す所なり。其余の唐宋各家の《易》注は、世上甚だ少く単行本有りて、全靠く《津逮秘書》《汲古閣叢書》《曠照閣叢書》《漢魏叢書》等の叢書の刊行す。而して後来叢書を匯刻する人もまた、必定《易》類を把りて経部の首に放る。此の一條の路を靠りて始めて保存し下るを得たる孤本秘籍は、数を為すこと少なからず。
納蘭氏之《通志堂經解》,輯刊《易》注至四十餘種,尤為各叢書之所未有。而勝朝《經解》正、續兩編,選錄當時之《易》注,亦皆卓然可傳之書也。綜計清《四庫全書》,《易部》所藏,都一百五十二種。其存目著錄而無書者,約三倍其所藏之數。
納蘭性徳の《通志堂経解》は《易》注を輯刻すること多きこと四十余種に達して、尤其れ別の叢書の無き所なり。而して清代《皇清経解》の正編・続編の選録する当時人の《易》注もまた、皆卓然として以て世に伝う可きの書なり。総計清代《四庫全書》の収める所の《易》類の著作は共に一百五十二種にして、ただ存目を列して而して書を把りて収め入れざるは、大約収める所の数の三倍にして、即ち四百五十種の上下なり。
辛齋自學《易》以後,歷年購求,所得已有四百六十三種。計《四庫》所藏之一百五十二種購求未得者,尚有二十九種。《四庫》存目所錄已購得者,有七十八種。《四庫》編錄於道家及術數類者,如《皇極》、《洞林》、《三易洞璣》等計三十餘種,餘皆為叢書及家刻單行之本,而寫本及辛齋所手抄者亦六十餘種,為日本人所著述者三種。嗣在廣東上海蘇杭揚州,陸續又得一百五十餘種。前後都六百數十種。以視歷代《經籍志》,及陳東塾《朱竹垞》所著錄者,曾不逮十之三四。然以現世所有者而論,則所遺已無幾矣。
我は《易》を学びて以後自りて、歴年捜購して、已に四百六十三種を得たり。其の中《四庫》の収める所の一百五十二種は、還た二十九種は未だ買い到らず。《四庫》存目の裏に著録して而して已に買い到れるは、七十八種有り。本は《易》学に属して而して《四庫》は却って道家類と術数類との裏に編せるは、《皇極経世》《洞林》《三易洞璣》等のごとき、約三十多种。其余は皆叢書本および私家刻印の単行本にして、別に写本と我が親手抄録せると有りてもまた六十多种有りて、日本人の著述する所有りて三種有り。後来広東・上海・蘇州・杭州・揚州の各地に於て、また陸続百五十多种を得て、前後合計六百幾十种なり。拿りて来りて歴代史志の《経籍志》および陳澧(東塾)・朱彝尊(竹垞)の著録する所の書目と相較すれば、還た人家の十分之三四に到らざれば、見ゆべし歴代《易》類著作の亡佚の多きを。不過現今世の上に還た存留するの書に就いて論ずれば、我の遺漏する所は已に多からざるなり。
日本之易学
日本文學,皆我國所津逮。故我國已佚之書,而日本尚保存者甚夥。黎氏《古逸叢書》所刊,未能盡焉。光緒甲午以後,我國新進,厭棄古學。而竺舊之士,又墨守糟粕,不能發揮精義,與新理相調和,而資利用。致精義入神之學,日就澌滅。
日本の学術文教は皆我が国より伝え過ぐる所なり。ゆえに我が国は已に失伝せる書にして、日本は還た保存するは甚だ多くして、黎庶昌の刻せる所の《古逸叢書》は並びに彼らを把りて収め尽くさざりき。光緒甲午(一八九四)以後、我が国の新派人物は旧学を厭棄して、而して旧を守る人もまた死守して糟粕を、能く其の中の精義を把りて発揮して出で・新たなる学理と互相調和以て実用に供せざれば、以致て「精義は神に入る」の此の門の学問は一天天消亡す。
清季以國立大學,求一完全經師而不可得,致羲經竟任缺席。鼎革以後,竟公然廢棄經學,而隸於文科之下,亦可謂臻晦盲否塞之極運矣。而日本既厭飫於物質文明之利,更反而求諸精神。雖舉國喧囂於功利競爭之途,而學術之研究,尚不忘初祖。仍有多數之學子,從事於《易經》。
清朝末年、堂堂国立大学は一位の格に够る経学教習を找うても亦た都合見つからざれば、以致て伏羲之《易》の此の一科は竟然空きて人の講授する無し。改朝換代して以後、索性公然経学を廃棄して、それを把りて文科底下の一門に降作して、真に昏暗閉塞の極点に走り到りと謂う可し。反観日本は、已に飽きて物質文明の好処を嘗めて、転じて精神の方面に向かいて以て追求す。挙国は功利競争の路上に於て喧嚷すると雖も、学術研究の上に於ては却って本源を忘れずして、仍ほ旧として許多の学生は《易経》を研治して在り。
東京有易學會,有易學演講所,有《易學講義》之月刊。其占筮亦尚用古法。我國二千年來失傳之揲蓍法,經學鉅子所未能決其用者,彼中隨處可購得揲蓍之器也。惟蓍不產於日本,則以竹代之。禮失求野,不僅維繫易學之一助也。
東京は易学会を設けて、易学演講所有りて、還た《易学講義》の月刊有り。彼らの占筮もまた仍ほ古法に沿用す。我が国両千年来失伝せる揲蓍して卦を成すの法は、連ねて経学大家も亦た断じ定むる能わざる怎様に使用すべきかを、日本に於ては却って随処買い到るを得て揲蓍に用うるの器具を。ただ蓍草は日本に産せざれば、便ち竹籤を用いて代替す。此れ正に礼制は失伝すれば民間に到りて尋求するを要すにして、其の意義は還た止まらずして易学を維繫するの一点の助力のみならず。
辛齋會購其《易學講義》,其取象悉宗漢學,大抵取資於《李氏集解》者為多。有所謂影象意象者,則為彼所擴而充之者也。有《易學新講義》,為我國北宋人之著述。《四庫》有其書,外間已乏刊本,亦為日本所印行。而近出之《高島易斷》,於明治維新以後五十年間,內政外交諸大事,均有占驗論斷,亦可覘彼國之所尚矣。
我は曾て彼らの《易学講義》を買いたり。其の中の象を取るは全く漢学を宗として、大抵李鼎祚《周易集解》に取材するは居多を占む。所謂「影象」「意象」の説は、則ち彼らは漢人の象を取る以外に推衍拡充して出でたるの名目なり。もまた一部の《易学新講義》有りて、本是れ我が国北宋人の著作にして、《四庫》は著録して此の部の書有るも、国内は却って已に少く刻本を見て、もまた日本に由りて印行せり。至りて新近出版の高島呑象の《高島易断》は、明治維新以後五十年間の内政外交の種種の大事に対して皆占断論定有りて、此処よりもまた以てあの国家の崇尚する所の風気を看て出る可し。
米国図書館所蔵之易
美國國會圖書館,以四十萬金鎊,專為購買中國書籍之用。除前清殿版各書,為清政府所饋送外,其餘所採購之漢文書籍,亦有數千種之多。皆為日本人所販運,直接購自中國者無幾也。友人江亢虎君,現為其漢文部之管理員。丁巳夏間回國,邂逅於滬上。雲彼中所藏《易部》,亦幾有四百種。因囑其將目錄鈔寄,以較辛齋所藏者未知如何。然彼以異國之圖書館,而其所藏,視本國《四庫》所有,至兩倍有半,殊足令人生無窮之感也。
米国国会図書館は四十万金鎊の専款を撥出して、専ら用て中国書籍を採購す。前清内府殿版の各種の書は清政府の贈送するを除く以外、其余採購して来れる漢文書籍もまた幾千種の多有りて、而してこれらの書は皆日本人の販運して過ぎて転売する所にして、直接中国より買い去るは多少有らず。我が朋友江亢虎先生は現在該館漢文部の管理員を担任して、丁巳年(民国六年)の夏帰国して、我は彼と上海に於て期せずして遇う。彼曰く該館の所蔵する《易》類の書もまた将に四百種に近しと。我便ち彼を嘱託して書目を把りて抄して我に寄せしめて、好比く我の所蔵すると孰れか多き孰れか少なきを一比せば、如今還た知るを得ず。然れども一個の外国の図書館を以てして、所蔵は竟に我が国《四庫》の収める《易》類の数の两倍半に達するは、実在人をして感慨無窮ならしむ。
漢宋学派異同
自來言《易》者,不出乎漢宋二派。各有專長,亦皆有所蔽。漢學重名物,重訓詁,一字一義,辨晰異同,不憚參伍考訂,以求其本之所自。意之所當,且尊家法,恪守師承,各守範圍,不敢移易尺寸。嚴正精確,良足為說經之模範。然其蔽在墨守故訓,取糟粕而遺其精華。且《易》之為書,廣大悉備;網羅百家,猶恐未盡;乃株守一先生說,沾沾自喜,隘陋之誚,雲胡可免?
従来《易》を講ずるは漢学・宋学の両派より外ならずして、各々其の専長有りて、もまた各々其の蒙蔽有り。漢学は名物を看重し・訓詁を看重して、一個の字・一條の義訓も皆其の異同を辨析して、反復参校して考訂するを怕れずして、以て其の本源の自りと意義の確当とを弄清せんと求む。而且家法を尊崇し・師承を謹守して、各自自己の範囲を守りて、敢えて分寸を移動せず。此の種の厳正精確の態度は、確かに以て経を解するの典范と做す可し。但し其の毛病は旧訓を死守するに在りて、糟粕を取りて而して精華を丢てり。況んや《易》の此の部の書は広大にして備わらざる所無くして、百家の説法を把りて皆網羅して入れて還た足らざるを怕るるも、而して偏偏死に某一位先生の成説を抱住して沾々として自ら喜べば、あの処狭隘鄙陋の譏評は、もまた怎様にして躲げ得られんや。
宋學正心誠意,重知行之合一,嚴理欲之大防。踐履篤實,操行不苟。所謂和順於道德而理於義,窮理盡性以至於命者,亦未始非義經形而上學之極功。但承王弼掃象之遺風,只就經傳之原文,以己意為揣測。其不可通者,不憚變更句讀,移易經文,斷言為錯簡脫誤。此則非漢學家所敢出者也。
宋学は心を正しくし意を誠にすることを講じて、知行合一を重視して、天理と人欲との間に於て厳に界限を立てて、践行は踏実にして、操守は苟あらず。《説卦伝》の説く所の「道徳に和順して義に理を合し、物理を窮究し・人の性を尽くして以て天命に至る」もまた、未だ嘗て《易》経の形而上の一路の最高功夫ならざるに非ず。但し宋学は王弼の卦象を掃除するの遺風を承接して、ただ経伝の字面に就いて自己の意思を用いて往きて揣测し、講じ通ぜざる処に碰到すれば、便ち句読を改動し・経文を移換するを惜しまずして、断言して彼は簡冊の錯乱あるいは脱漏訛誤と為す。此の種の做法は、倒是れ漢学家の敢えて下手せざる所なり。
元明以來,兩派對峙,門戶攻擊之陋習,雖賢者亦或不免。甚者以意氣相爭尚,視同異為是非。不但漢學與宋學相爭訟也。同漢學焉,尊鄭者則黜虞,是孟者則非荀。同宋學焉,而有洛蜀之辯駁,朱陸之異同。其下者更或依巨儒之末光,蒙道學之假面,為弋名乾祿之具者,尤不足道矣。
元・明以来両派は対立して、互相攻撃するの門戸陋習は、連ねて賢者もまた時に幸免する能わざりき。厳重なるは甚至意気に事を用いて、自己と意見相同なるか還た不同なるかを把りて當てて是非の標準と為す。此れ還た止まらずして漢学と宋学との間の争訟のみならず。同じく漢学に属して、鄭玄を尊崇するは便ち虞翻を貶斥し、孟喜を肯定するは便ち荀爽を非難す。同じく宋学に属して、もまた洛派と蜀派との辨駁有り・朱熹と陸九淵との異同有り。至りて等を以て之に下るは、還た大儒に依傍するの余光有り・道学の仮面を戴着して、学問を把りて當てて名声を猟取し・官禄を謀求するの工具と為すは、あの処便ち更に一提に値せざるなり。
坊本易経之謬
國學淪亡,書局盡廢。承學之士,求一善本之經書,已不可得。近日坊間石印之《易經》,其謬誤尤甚。校對之疏略,姑置不論。序文則《程傳》也,目錄之標題則《本義》也。目錄之卷帙則《程傳》也,首列河圖、洛書,及先後天八卦六十四卦各圖,亦《本義》也。而上、下《經》與《繫傳》之篇第,則又皆《程傳》也,其注則又皆《本義》也。可謂極參伍錯綜而莫明其妙者矣。
国学は淪喪して、官書局もまた皆停辦せられて、読書人は一部の好き経書版本を求めんと欲しても皆辦し到る能わず。近来書坊は石印を用いて翻印するの《易経》は、錯誤尤其厳重なり。校对上の粗疏錯漏は還た以て姑く論ぜざる可し。単に序文の用うる所は《程氏易伝》の序にして、目録の標題は却って《本義》にして、目録の巻次もまた《程伝》に依りて、巻首は《河図》《洛書》と先天後天八卦・六十四卦の各図を列出するは、もまた《本義》の体例にして、而して上下《経》と《繋辞伝》との篇次もまた全く《程伝》に依りて、注文は却ってもまた全く《本義》なり。一部の書の裏に程・朱の两家の体例を把りて東拼西湊するは、真に錯雑交互して人をして莫名其妙ならしむるの地步に到りと謂う可し。
觀其封面所署,則又曰“監本《易經》”。推求其故,則謬誤相仍,已非一日。蓋明刻永樂之監本,固程子之《傳》與朱子《本義》並列者。而篇第章句,悉依《程傳》,而以《本義》之注,錄於《程傳》之後。清刻《易經》傳義音訓亦猶是也。
再び其の封面上の題する所を看れば、もまた「監本《易経》」と叫ぶ。其の縁由を推究すれば、此の類の錯誤は因襲相沿して已に一天に非ず。原來明代永楽年間国子監の刻せる本子は、本是れ程頤の《易伝》と朱熹の《本義》とを把りて並列するにして、篇次章句は一概に《程伝》に依照して、而して《本義》の注を把りて《程伝》の後に録せり。清代の刻せる《易経》伝義音訓本もまた是れ此の様子なり。
後以考試功令,專重朱義。坊賈射利,為節減篇幅計,以去《傳》留《義》,而篇帙則仍未之改。明嘉靖間蘇州學官成某,復即是本而刊佈之,成此非驢非馬之怪象,公然流佈。讀者既不求甚解,而所謂教育部教育廳教育會者,皆熟視無睹,不加糾正。嗚呼!易世而後,將不知經書之為何物矣!
後来科挙功令は専ら朱熹の《本義》を重んずるを以て、書商は牟利する為に、もまた篇幅を節省し・成本を減低せんと要して、便ち《程伝》を删去して而してただ《本義》を留めて、篇巻次第は却って仍ほ旧のままに照らして改めず。明代嘉靖年間蘇州の学官成某は、もまた此の本子に照りて刻印流通して、是に於て此の種の非驢非馬の怪相を造成して、公然流伝す。読者は本来便ち甚解を求めずして、而して所謂教育部・教育庁・教育会の類もまた、皆見て見ざるとして、従来以て糾正を加えず。噫。再び一両代人の後を過ぎれば、ただ怕らくは便ち経書は一個の何の東西なるかを知らざらんとす。
講易家之錮蔽
歷來講《易》家,無論其為漢學,為宋學,而有一宗牢不可破之錮蔽:即將“經學”二字橫梗於胸中是也。埋其龐然自大之身於故紙堆中,而目高於頂,不但對於世界之新知識、新思想,深閉錮拒;而於固有之名物象數氣運推步之原本於《易》者,亦皆視為小道,而不屑措意。
歴來《易》を講ずる人は、漢学に属するを論ぜず還た宋学に属するを論ぜず、皆一様の牢として破る可からざるの痼疾有りて、便ち「経学」の此の両個の字を把りて胸中に横梗して、當てて逾越すべからざるの界限と作為す。彼らは自己のあの龐然として自ら大なるの身軀を把りて故紙堆の裏に埋めて、眼睛は却って頭頂の上に長せり。不但世界上の新知識・新思想に対して大門を緊閉し・一概に拒絶するのみならず、就中我が国固有の名物訓釈・象数推衍・気運消長・暦法推歩のこれらの本来《易》に源出するの学問もまた、一律に旁門小道と看為して、留意するに屑とせざるなり。
凡經傳所未明言,註疏所未闡發者,悉目為妄談,為異端。排斥攻擊,不遺餘力。而不知《易》之為書,廣大悉備。上自天地之運行,下及百姓所日用,無不彌綸範圍於其中。孔子贊《易》已明白言之,曰“書不盡言,言不盡意”,故聖人立象以盡意,變而通之以盡利,鼓之舞之以盡神。
凡そ経伝の裏に明説せず・注疏の裏に闡発せざるは、一概に胡説と斥け・異端と斥けて、排斥して攻撃して、余力を遺さず。彼らは《易》の此の部の書は広大にして備わらざる所無きを懂得せず。上は天地の運行より、下は百姓の日常応用に到るまで、一様としてそれに包羅籠括せられて内に在らざる無し。孔子は《易伝》を作りて已に講じて甚だ明白にして、曰く「文字は説かんと要する話を写し尽くさず、話は心の裏の意思を説き尽くさず」。ゆえに聖人は卦象を設立して以て意思を窮尽し、卦爻を変通して以て功利を窮尽し、鼓動振作して以て神妙を窮尽す。
是書之所未言者,固當求之於意。意有所未得者,當求之於象。象有所未盡者,當變通之以盡其利。而《易》之道始應用而不窮。今乃盡反孔子之言,曰“吾言義不言利”,曰“得意而忘象,得象而忘言”。目光之盤旋,不出於書外一寸。此《易》道之所以終古長夜也夫!
見ゆべし文字の上に説き到らざるは、本来当に「意」の裏に到りて求むべくして、意思の上に還た未だ領会せざるは、当に「象」の裏に到りて求むべくして、卦象の上に還た未だ窮尽せざるは、当に変通の弁法を用いて往きて其の功用を窮尽すべし。かくのごとく《易》道は始めて応用無窮を得。如今《易》を講ずる人は却って孔子の話を把りて完全に反了して過ぎて、一面は「我はただ義を講じて利を講ぜず」と説きて、一面は「意を得れば便ち象を忘れ、象を得れば便ち言を忘る」と説く。眼光は盤旋して来去して、書本以外の一寸を跑出る能わず。此れ即ち《易》道の千古に長夜のごとくなるの縁故なり。
今後世界之易
《易》窮則變,變則通,通則久。黃帝堯舜,通其變使民不倦,神而化之,使民宜之。蓋民之情,恆厭故而喜新。厭則倦,倦則精神懈弛,而百事皆墮壞於無形。此蠱之象也,故君子以振民育德而變化之。蠱成隨,則元亨而天下治。隨元亨利貞而天下隨時,隨時之義大矣哉!
《易》道は窮尽すれば便ち変を要して、変じて始めて通じて、通じて始めて長久を得。黄帝・堯・舜は事物の変を会通して、百姓をして疲倦を覚えざらしめ・神妙に化育を加えて、百姓をして各々其の宜を得せしむ。人情は総じて旧を厭いて而して新を喜ぶを以て、旧を厭えば便ち倦怠を生じて、倦怠すれば便ち精神は松懈して、百事は皆無形の中に於て敗壊して下る。此れ正に《蠱》卦の象にして、ゆえに《蠱・象伝》は君子はまさに百姓を振作し・徳行を培育して以て変革を加うべしと曰う。《蠱》は変じて《随》と成れば、便ち大いに亨通して而して天下は治を得。《随》卦は元・亨・利・貞を講じて而して天下は時に随いて動く。「時に随う」の此の層の意義は真に太だ大きし。
今之時何時乎?五洲交通,天空往來,百礦並興,地寶盡發。所謂萬物皆相見,其重明繼照之時歟!離火之功用,遍於坤輿,極則為災。或致突如其來如焚如死如棄如之占,果能神而化之,變通盡利,則將由物質之文明,而進於精神之文明。是明出地上,火地為晉,受茲介福之時矣。
今天は何の時代なるか。五大洲は交通往來して、天空は飛渡すべくして、百様の鉱業は一斉に興起して、地下の宝蔵は全く開発せられり。此れ正に《離》卦の説く所の「万物は皆互相顕現す」・光明は接続して照耀するの時代ならんか。然れども離火の功用は大地に遍布して、極処に到れば便ち災害と成りて、あるいは《離》卦九四の「突如として来たり、焚くがごとく、死すがごとく、棄つるがごとし」のあの様の占象を招来せんか。倘若真に能く神妙に化育し・変通して而して其の利を尽くし得れば、便ち物質の文明より精神文明に進んで進み、あれ便ち光明は地面より升出し・火は地の上に在りて《晋》卦と成りて、「兹の介福を受く」大福を承受するの時候なり。
《易》道於此,必有大明之一日。吾輩丁茲世運絕續之交,守先待後,責無旁貸,亟宜革故鼎新,除門戶之積習,破迂拘之謬見。以世界之眼光觀其象,以科學之條理玩其辭,集思廣益,彰往察來,庶五千年神秘之鑰可得而開。興神物以前民用,必非尼父欺人之語也。
《易》道は此の時候に到れば、必定大いに光明を放つの一天有らん。我らは正に世運断続交替の際に逢いて、前人を承接し・後人を等待して、責を負うて貸す無くして、当に赶紧旧弊を革除し・新局を開創して、門戸の積習を掃掉して、迂腐拘執の謬見を破除すべし。世界の眼光を用いて其の卦象を観察し、科学の条理を用いて其の文辞を玩味して、思を集め益を広めて、既往を彰明し・将来を推察すれば、或いは五千年来の此の把の神秘の鑰は便ち打開し得べからん。《繋辞》は聖人は蓍亀の此の類の神物を興して、百姓の為に先路を開導すと曰うは、あれ必定並びに孔子の人を騙すの話に非ず。
新名詞足与経義相発明
物生而後有象,象而後有滋,滋而後有數。民物之孳乳無窮,而象數之遞演而遞進,遞進而遞繁,無有止境。故在黃帝之時演《易》,伏羲之八卦已不足用,乃益之以干支。文王演《易》,干支已不足用,乃益之以《彖》、《爻》。孔子贊《易》,則《彖》、《爻》又不足以盡世變物情,乃益之以繫辭《十翼》。
事物は産生して以後始めて形象有りて、形象有りて始めて滋生有りて、滋生有りて始めて数目有り。人と物とは繁衍して窮まり無くして、象と数ともまた便ち一層層推演し・一層層増進して、愈推し愈繁にして、止境無し。ゆえに黄帝時代は《易》を推演して、伏羲の八卦は已に用に足らずして、便ち天干地支を添えて以て配合す。文王は《易》を推演して、干支はもまた用に足らずして、便ち《彖辞》《爻辞》を添えり。孔子は《易伝》を作りて、《彖辞》《爻辞》はもまた以て世事の変化と万物の情態とを説き尽くすに足らずして、便ち《繋辞》以下の《十翼》十篇を添えり。
今距孔子之世又三千年矣!世界大通,事物之紛紜繁變,十百倍蓰千萬於古昔。而所用之文字,乃不能隨世事遞演遞進以應所需。且小學中絕,音移義晦,經典固有之字,因廢置已久,不復為人所識者,十殆四五。
如今孔子の時代より距りてもまた三千年を過ぎたり。世界は彼此貫通して、事物の紛繁変化は古時に比ぶれば十倍百倍以至千万倍を多出するも、然れども我らの用うる所の文字は却って能く世事に随いて一步步推演増進して、以て需要に応付する能わず。況んや文字訓詁の学は中途断絶して、字音は転移し・字義は晦暗にして、経典の裏に原有の字は、久しく已に棄置して用いざるを以て而して人の再び認得する無きは、幾んど十分之四五を占めり。
故說《易》者,往往於《易》之一字一義,累千萬言之解釋,而仍不能明。然必待小學既明而說《易》,又如臨渴掘井,不能濟目前之用,且不能令多數之學子盡通小學焉。則雖說亦如無說,而《易》仍不能明。則不如假世界通用之名詞以代之,以補文字之闕憾,而閱者亦《易》於瞭解也。豈非《易》之一助乎?
ゆえに《易》を解説する人は、往往《易》の中の一個の字・一條の義訓の為に千言万語の解釈を写下して、仍ほ旧として講じ明白せず。然れども若し必定要して文字訓詁の学を弄清し通じて再来りて《易》を講ぜば、あれもまた臨渇に井を掘るがごとくにして、眼前の急を救う能わずして、而且もまた能く多数の学生をして個個小学に精通せしむる不可能なり。あの様にすれば即便ち講ずるもまた没に講ずるに等しくして、《易》は還た明ならず。倒れて世界通用の名詞を借用して以て代替するに如かずして、それを用いて文字上の缺憾を弥補すれば、読者もまた容易に理解して、此れ豈に《易》を講ずるの一大助力ならざらんや。
如《易》言“坤其靜也翕,其動也闢”,而翕與闢之義,以舊文字釋之,則翕為聚也合也,闢為開也。一開一合,字義雖盡,而於《易》言闢會之妙用,仍未著也。若假新名詞以解之,則闢者即物理學之所謂離心力也,翕者即物理學所謂向心力也。凡物之運動能循其常軌而不息者,皆賴此離心向心二力之作用。地球之繞日,即此作用之公例也。以釋闢翕,則深切著明,而閱者亦可不待煩言而解矣。不僅名詞已也,新思想與新學說,足與吾《易》相發明者甚多。而經學家見之,必又曰穿鑿附會,誣衊聖經,則吾其奈之何哉!
例えば《繋辞》は「坤は静なる時は翕にして、動くる時は辟なり」と曰う。「翕」と「辟」との意思は、旧き字義を用いて以て解釈すれば、翕は便ち聚にして便ち合にして、辟は便ち開なり。一開一合にして、字面の意思は講じ完わると雖も、然れども《易》の講ずる所のあの種の開合の妙用は仍ほ旧として顕れ出でざりき。如果新名詞を借用して以て解釈すれば、「辟」は便ち物理学の上の説く所の遠心力にして、「翕」は便ち物理学の上の説く所の向心力なり。凡そ物体運動の能く一定の軌道に沿いて而して停息せざるは、皆此の遠心・向心の両種の力の作用に靠る。地球は太陽を繞りて運行して、一面は吸引せられて而して飛散に至らずして、一面もまた旋転に因りて而して墜落に至らざるは、便ち此の一作用の通例なり。それを用いて以て「辟」「翕」を解釈すれば、便ち深切顕明にして、読者は多く説くを待たずして便ち能く懂る。ただ名詞のみならずして已り、新思想・新学説の以て我らの《易》と互相発明するに足るは還た甚だ多し。然れども経学家は看見すれば、必定もまた曰いて此れ穿鑿附会・聖経を誣蔑すと為さん。あれ我はもまた何の弁法有らんや。
俗義による経文訓詁の流弊
今日所用之字,猶數千年前之字也。然形式雖未改,而精神則非複數千年之舊。音與義,類皆變易。任舉一字而衡論之,若此者蓋比比焉。其僅音變而義未變者,如“下、無”等字,於詁經尚無出入。其訓義變易者,雖古音尚存,於經義已不可通矣。
今日使われている字は、依然として数千年前の字である。しかし字形は変わっていないが、その精神はもう数千年前の古いものではない。読み音と意義は大抵変化している。任意に一字を取り上げて論じても、このような例はあちこちにある。そのうち音だけが変わって義が変わっていないもの、例えば「下」「無」などの字は、経文を訓詁するのにまだ出入りはない。だが訓義が変化したものは、古音が残っていても、経義を説くにはもう通用しない。
如君臣二字,古訓但為主從之別。降及漢魏,猶為普通尊人卑己之謙辭,未嘗專屬諸朝廷也。自宋以後,則專以君為尊無二上之天子,臣為庶司百職之官僚,而君字遂神聖不可侵犯矣。官字之古訓,亦僅為專任職司之名,並未含有尊崇高貴之意。人之耳目口鼻舌曰五官,言其各專所用,不能彼此互代也。故手足則曰肢而不稱官,其義甚明。
例えば「君」「臣」の二字は、古義では単に主と従の区別であった。漢・魏の時代になっても、なお一般に相手を敬い己を謙る言葉であって――例えば相手を「君」と呼び、自らを「臣」と称する――必ずしも朝廷に専属していなかった。宋代以後になって、初めて「君」を至高無二の天子とし、「臣」を各部門に任じる官僚として、「君」の字は神聖不可侵のものとなった。「官」の字の古義も、ある職務を専任する名称にすぎず、尊貴崇高の意味を含んでいなかった。人の耳・目・口・鼻・舌を「五官」というのは、それぞれ専用の働きがあって互いに代えられないということである。だから手足は「肢」と呼んで「官」とは称さない。この道理は明白である。
自漢後天子曰縣官,曰官家,而官之義遂混。後世官之權位浸大浸崇,而官字漸成尊崇高貴之稱。今之俗尚,凡物美者,轍加一官字以為標幟,其去官字之本義,不可以道里(理)計矣。於是龍飛九五,遂為帝王之祥;惟闢作威,亦附卦爻之義。兢兢乎僭越之虞,凜凜乎生殺之柄。如《周易折中》者,《易》竟為專制帝王之護符矣。非以今義釋經階之厲哉!
漢代以後、天子を「県官」「官家」と称したことで、「官」の意味は混同された。後世には官の権勢と地位がますます大きく高くなり、「官」の字は次第に尊貴崇高の称呼となった。今の風潮では、物がよいものであれば必ず「官」の一字を付けて標幟とするが、それは「官」の本義から里程をもって計れないほど遠く離れている。こうして《乾》卦九五の「飛龍在天」は帝王の祥瑞となり、《尚書・洪範》の「惟辟作威」も卦爻の義理に付会された。《易》を講ずる者は戦々兢々として僭越の嫌疑を恐れ、凛として生殺与奪の権柄を畏れた。《周易折中》のような書では、《易》はついに専制帝王のお守りとなった。これこそ今義で経を解したために生じた禍いではないか。
大宝は位と曰う
《下繫》一章,“天地之大德曰生,聖人之大寶曰位,何以守位曰人,何以聚人曰財,理財正辭,禁民為非曰義”,意義本相聯貫,而文字亦緊相銜接。乃中間插一“位”字,便為上下辭意之梗。宋儒遂改“何以守位曰人”之“人”字為“仁”,以迴護“位”字,而與下“聚人”一句又不相貫。
《繋辞下伝》の一章に「天地の大德は生と曰い、聖人の大宝は位と曰う。何をもって位を守るかを人と曰い、何をもって人を聚めるかを財と曰い、財を理め辞を正し民の非を為すを禁ずるを義と曰う」とある。この数句の意味は本来一気に貫かれ、文字も緊密に連なっている。ところが中間に一つの「位」の字が挿入されたために、上下の辞意がふさがれた。宋儒はそこで「何以守位曰人」の「人」の字を「仁」に改めて「位」の字を弁護したが、こう改めると今度は下の「聚人」の句とつながらなくなる。
於是呂氏本又改從古本作“人”,而曲為之說,亦終不可通。其實誤不在“人”字而在“位”字。“人”字不當改“仁”字,而“位”字當改作“仁”字。蓋“仁”字與“位”字形式相近,以致傳訛。古訓相傳,“所寶惟仁”,未有以位為寶者也。況以位為天下之公器耶?則不必寶;以位為一人之私有耶?則不能寶。晉文之答秦使曰:“亡人無以為寶,仁親以為寶。”詎作《易》之聖人,見出重耳下哉!
そこで呂氏の本ではまた古本に従って「人」に戻し、屈折した説明を加えたが、結局のところ通じない。実は誤りは「人」の字ではなく「位」の字にある。「人」の字は「仁」に改めるべきではなく、むしろ「位」の字を「仁」に改めるべきなのである。「仁」と「位」は字形が近いため、伝写の誤りとなったのであろう。古来相伝の訓では「宝とするは惟れ仁」であり、「位」を宝とした例はない。まして位を天下の公器と見るならば宝とする必要はなく、位を一人の私有と見るならば宝とし続けることはできない。かつて晋文公の重耳は秦の使者に答えて「亡命の身には宝とするものがない、ただ仁をもって親を宝とする」と言った。まさか《易》を作った聖人の見識が、重耳に劣ることがあろうか。
按:此說初創,同人善其新穎,慫恿存錄。嗣閱張之銳氏《易學闡微》,立說相同,更以自信。但數年以來,研窮數理名象,覺此“位”字“人”字皆文所應有,實不當輕議更改。此次重印,原擬將此條削去。惟前書既已傳佈,不能追改,特存之而附註原委,以志吾過。並令閱者得更進一層之研究,未始不足為“筌蹄”之一助焉。
付記:この説が初めて出たとき、同人はその新穎さをよしとして、記録に残すよう勧めた。のちに張之鋭氏の《易学闡微》を読み、立論が同じであるのを見て、いっそう自信を得た。しかしこの数年、数理と名象を研究し尽くすうちに、ここの「位」の字も「人」の字も原文に本来あるべきもので、軽々しく改変を論ずべきでないと悟った。このたびの重印では本来この一条を削ろうと思ったが、以前の本がすでに流布して追い改めることもできないので、あえて残し、由来を注記して我が過ちを記すとともに、読者がこれをもとにさらに一層の研究を進められるようにする。この「筌蹄」を残すことも、少なからぬ助けとなろう。
元字の精義
《象傳》曰:“大哉乾元!乃統天。”此“元”字,即“元亨利貞”之元。舊注“元始也”,《本義》“元大也”,何休公羊注曰“變一而為元。元者氣也,無形以起有形,以分造起天地,天地之始也”。邵子亦曰“元者氣之始”。合觀諸家之說,於“元”字之精義,尚有未盡。
《乾》卦の伝文に「大なるかな乾元、天を統べる」とある。この「元」の字は「元亨利貞」の元である。旧注は「元」に「はじまり」と訓じ、朱熹《本義》は「大」と訓じ、何休の《公羊伝》注は「『一』を変えて『元』と称する。元とは気であり、無形から有形を起こし、分化造作して天地を生じる、天地のはじまりである」と言う。邵雍も「元は気のはじめ」と言った。各家の説を合わせて見ると、「元」の字の精義について、まだ言い尽くされていないところがある。
辛齋以為舉“元亨利貞”並言之,為乾之四德。而“元”之一字,不但可包舉“利亨貞”三字,並可舉全《易》而一氣貫注,故曰“大哉乾元乃統天”。超乎無始,以立乎天地之先者也。《文言》“乾元者始而亨者也”,此元字乃天之元焉。《坤·象》“至哉坤元”,乃地之元也。《文言》“元者善之長也”,則人之元也。
私は考えるに、「元亨利貞」の四字を並べて言うのは、《乾》卦の具える四つの徳性である。しかし「元」の一字は、「亨」「利」「貞」の三字を包摂するばかりでなく、《易》の全書を一気に貫くこともできる。だから「大なるかな乾元、天を統べる」と言うのである――それは一切の始まりを超えて、天地の先に立つものである。《文言》に「乾元とは始めて亨るもの」とある、この元は天の元である。《坤》卦の伝文に「至れるかな坤元」とある、あれは地の元である。《文言》に「元は善の長なり」とある、あれは人の元である。つまり一つの「元」の字が、天・地・人の三才に随ってそれぞれ指すところがあるのである。
善之長,即仁義禮智之仁。仁從二從人,元亦從二從人,故仁為人之元。所謂天經地義,簡言之即天良也。蓋物各有元,大而天地,小而飛潛動植各物,均莫不具有此元。得之則生,不得則死。顧元之為元,無聲無臭,無形質可見,而其功用所著,亦幾非言語筆墨所能摩寫而形容之。
「衆善の長」というのは、仁義礼智のうちの「仁」のことである。「仁」の字は「二」に「人」が従い、「元」の字も「二」に「人」が従う。だから仁は人の元である。いわゆる天経地義とは、簡単に言えば人の天良である。およそ物にはそれぞれ元があり、大きくは天地、小さくは飛ぶもの・潜むもの・動物・植物の各類に至るまで、この元を具えていないものはない。それを得れば生じ、得なければ死ぬ。ただ元が元たる所以は、声も臭もなく、見るべき形質もなく、その顕す功用はほとんど言語や筆墨で描き形容できるものではない。
然元不可見,而仁可見。仁不可見,而仁之寓於事物者可見。古人造字,其精義往往互相鉤貫。而即物定名,亦無不各寓其意。如果實核中之質體,名之曰仁,已可見矣。而元亦即可因仁而顯其用。如果核桃曰桃仁,杏曰杏仁,而桃與杏之元,即在此仁之中。果核之所以能滋生者,實賴有此仁,賴有此仁中之元。
しかし元は見えないが仁は見える。仁そのものは見えないが、仁が事物に寄託している姿は見える。古人が字を造ったとき、字と字との間の精義は往々にして互いに鉤連貫通しており、実物に即して名を定めるにも必ずそれぞれ一層の意味が寄せられている。例えば果実の核の中の質体を「仁」と名づけたのは、見える例である。そして元はまたこの仁によってその用を顕す。桃の核仁を「桃仁」、杏の核仁を「杏仁」というが、桃と杏の元はまさにこの仁の中にある。果核が生長できるのは、実にこの仁があり、この仁の中の元があるからである。
吾於西人之紀載得一說,足為斯義之確證。西人於埃及地中,掘得四千年之古尸,尸腹中往往實以林禽及小麥等物。以保藏之非常完密,故均歷久久而不壞。取林禽及麥而播種之,仍能發榮滋長,與新者無異。此無他,以其元之尚存在也。
私は西洋人の記載の中に、この道理の確証となる一説を得た。西洋人がエジプトの地中から四千年前の古い屍体を掘り出したところ、その腹中には往々にして林檎や小麦などが詰められていた。保存が非常に厳密だったため、長い年月を経ても腐らなかった。これらの林檎と麦を取り出して播種すると、なんと発芽して生長し、新しく取れた種と変わらなかったという。これは他ならない、それらの「元」がまだ存在していたからである。
若其元已失散無存,則雖當年之果核,種之亦不能發生。因此可證明物各有元之理,而人元所存,則惟此天良。天良不滅,生機亦不滅。天良漸滅,則亦無元之果核,已無萌生之望。雖幸而生,亦行尸走肉而已。剝之上九,“碩果不食”,即此僅存之天良也歟!
もしその元がすでに散失して残っていなければ、たとえ当年結ばれた果核でも、蒔いても芽が出ない。これによって万物にそれぞれ元があるという理が証明できる。そして人の元の寄託する所は、ただこの一点の天良である。天良が滅びなければ生機も滅びない。天良が徐々に滅びれば、元を失った果核と同じで、もはや萌発の望みはなく、たとえ僥倖に生きていても行尸走肉にすぎない。《剥》卦の上九の爻辞に「碩果食らわれず」とあるのは、まさにこの僅かに残った一点の天良を言うのであろう。
