称号
號者,名也。稱其名使與實相稱,亦當名辨物之意也。孟長卿曰:“周人五號,帝,天稱,一也。王,美稱,二也。天子,爵號,三也。大君者,興盛行異,四也。大人者,聖明德備,五也。”
「号」は便ち名なり。其の名を称呼して名と実と相副えしむるは、もまた即ち前面の説く所の「名を当て物を辨ず」の意思なり。漢代易学家孟喜(字は長卿)曰く、周人に五種の称号有り。「帝」は天に対する称呼にして、此れ第一種なり。「王」は賛美の称にして、此れ第二種なり。「天子」は爵位の号にして、此れ第三種なり。「大君」は、指す所は興盛にして行事卓異なるにして、此れ第四種なり。「大人」は、指す所は聖明にして徳行完備なるにして、此れ第五種なり。
以上五者,皆經之特稱。孔子贊《易》,更廣其義。曰“先王”。豫,“先王以作樂崇德”。曰“後”。泰,“后以裁成輔相之道”。
以上五種は、皆経文の裏に特有の称号なり。孔子は《易》を賛して、また彼らの範囲を把りて推広せり。一は「先王」にして、豫卦《象伝》の「先王は以て楽を作り徳を崇ぶ」を説くがごとし。二は「后」にして、即ち位に在るの君主にして、泰卦《象伝》の「后は以て天地の道を財成し、天地の宜に輔相す」を説くがごとし。
經稱爵號,王之下有三:曰“公”。大有,“公用享于天子”。解上六,“公用射隼”。益六三,“告公用圭”。六四,“告公從”。鼎九四,“覆公餗”。曰“侯”。屯,“利建侯”。豫,“利建侯”。晉,“康侯”。曰“子”。明夷,“箕子之明夷”。鼎,“得妾以其子”。言公、候、子而不及伯、男。或曰:“此殷制也。文王演《易》於紂之世,故從殷制。”
経文の称する所の爵号は、「王」以下に三等に分かつ。一は「公」にして、大有九三「公は用て天子に亨す」、解卦上六「公は用て隼を射る」、益卦六三「公に告ぐるに圭を用う」・六四「公に告げて從う」、鼎卦九四「公の餗を覆す」。二は「侯」にして、屯卦「侯を建つるに利あり」、豫卦「侯を建つるに利あり」、晋卦「康侯」。三は「子」にして、明夷「箕子の明夷」、鼎卦「妾を得て其の子を以てす」。ただ公・侯・子を講じて而して伯・男の両爵に涉及せず。人説く有り、此れ殷代の制度にして、文王は紂王の世に於て《周易》を推演せれば、ゆえに殷制に沿用すと。
正名之稱有六:曰“大人”。一人為大。孟子日:“大人者,不失其赤子之心者也。”《文言》“與天地合其德”一節,孔子贊大人也至矣。曰“君子”。乾為君,震為子。乾震為無妄,君子者,無妄之稱。
用て名分を端正するの称号は六種有り。第一は「大人」にして、「一」と「人」と合わせ起きれば便ち「大」の字なり。孟子曰く、「大人とは、其の赤子の心を失わざる者なり」。《乾卦・文言》の「夫れ大人とは、天地と其の徳を合す」のあの一節は、孔子の大人に対する賛美は極処に到りと謂う可し。第二は「君子」にして、乾は君と為し・震は子と為して、乾上震下は合わせて《无妄》卦を成せば、ゆえに「君子」は便ち《无妄》の一卦の称号なり。
曰“小人”。天大,地大,人亦大。與天地參,故大。違反天地之道,則曰小人。曰“惡人”。睽“見惡人”,人而見惡於人,曰惡人。於象,離為惡人。曰“寇”。寇者悖逆之詞。於象,坎為寇。曰“匪人”。匪同非。“比之匪人”,“否之匪人”,失人道,故曰“匪人”。孟子曰:“無惻隱之心,非人也。無羞惡之心,非人也。無辭讓之心,非人也。無是非之心,非人也。”
第三は「小人」にして、天は大にして地は大にして人もまた大にして、人は能く天地と並び列して三と為れば、ゆえに大と称し、天地の道に違背するは、便ち小人と叫作す。第四は「悪人」にして、睽卦初九曰く「悪人を見る」。身は人と為して而して人に厭悪せらるれば、便ち悪人と叫び、卦象に就いて説かば、離は悪人と為す。第五は「寇」にして、「寇」は悖逆の徒を形容するの詞にして、卦象に就いて説かば、坎は寇と為す。第六は「匪人」にして、「匪」は「非」に同じくして、比卦六三「之を比するに匪人」・否卦の卦辞「否の匪人」は、皆指す所は做人の道を喪失せるにして、ゆえに「匪人」と叫ぶ。孟子曰く、「惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり」。
孔子贊《易》,更廣其義。曰“聖人”,曰“賢人”,曰“盜”,亦曰“暴客”,日“吉人”,曰“躁人”,曰“誣善之人”。
孔子は《易》を賛して、また此の類の称号の範囲を把りて推して更に広くして、是に於て「聖人」有り、「賢人」有り、「盗」有りて、《繋辞伝》の「蔵を慢にすれば盗を誨う」を説くがごとし。もまた「暴客」と叫びて、「門を重ね柝を撃ちて、以て暴客を待つ」を説くがごとし。「吉人」有りて、「吉人の辞は寡し」を説くがごとし。「躁人」有りて、「躁人の辞は多し」を説くがごとし。「善を誣うの人」有りて、「善を誣うの人は其の辞は游ぶ」を説くがごとし。
名當而辭可斷矣。爻有等,故曰“物”。辨物當名,名不等也。正言,言不等也。故斷辭亦不等。凶至吉為七等:凶,厲,悔,吝,無咎,無不利,吉。凶不若厲,厲不若悔,悔不若吝,吝不若無咎,無咎不若無不利,無不利不若吉。
名称は恰当なれば、判断の辞は便ち下し出ずるを得。《繋辞伝》曰く「爻に等有り、故に物と曰う」、爻は既に等級の別有れば、ゆえにそれを称して物と為す。物を辨別し・名を訂正して、名に等級有りて、話を把りて正しくすれば、話もまた等級有りて、此に因りて断辞は同様に等級有り。凶より吉に到るまで共に七等に分かつ。凶・厲・悔・吝・咎無し・不利無し・吉。凶は厲に如かず、厲は悔に如かず、悔は吝に如かず、吝は「咎無し」に如かず、「咎無し」は「不利無し」に如かず、「不利無し」は吉に如かず。此の七級は重より軽に至るまでして、占問する人は此に拠りて便ち自己の処する境地の深軽を量り出すを得。凶は災禍の已に成れるにして、厲は危くして而して未だ敗れざるにして、悔は懊恨有りて而して尚ほ挽回す可くして、吝は小さく憾惜有りて、咎無しは善く過失を補いて而して災禍無くして、不利無しは則ち事事行う可くして、吉は始めて真の美満なり。
学易筆談序
海寧先生之於《易》,得異人傳授,又博極諸家傳注,故能竟委窮源,而獨見其大。先生於書,無所不讀,故能探賾索隱,鉤貫於新舊之學,而獨得其通。昔嘗聞之先生曰:《易》始於包犧氏,備於神農、黃帝,大明於文王、周公、孔子。漢人去古未遠,其卦氣、飛伏、陰陽、消息,皆有所授受,非能自創。孔子贊《易》,專重人道,以明立教之旨。故三陳九德,以人合天,而筮法僅略言及之。
海寧先生杭辛斎は《易》学を研治して、既に奇人の親伝を得て、また遍く歴代各家の伝注を読めば、ゆえに能く源を窮め委を竟えて、独り《易》道の大体を看見せり。先生の読書は渉らざる無くして、此に因りて能く深隠の義理を探取して、新学旧学を把りて鉤連貫通して、独り其の中の通ずる処を領会し得たり。我は従前先生の説くを聴きて曰く、《易》は伏羲(包犠氏)に起りて、神農・黄帝に到りて完備し、文王・周公・孔子に到りて大明せりと。漢代人は上古より遠からざれば、彼らの講ずる「卦気」「飛伏」「陰陽」「消息」は、皆師徒授受して来歴有りて、並びに自己の凭空創造に非ず。孔子は《易伝》を作りて、専ら人道の一面を看重して、用て教を設け訓を立つるの宗旨を闡明せば、ゆえに《繋辞》の中に三たび九卦の徳を陳説して、人をして人道を以て天道に合せしめんと要す。至りて揲蓍占筮の法は、反ってただ略々提げ及ぶのみなり。
朱子乃謂“《易》為聖人教人卜筮之書”,豈知方耶?然河、洛為《易》象所取則,漢學只詆為偽造,朱子獨取以冠經首,是其卓識,亦有不可及者。又曰:“道家祖黃老,淵源悉出於《易》。”其七返九還,六歸八居,度數與卦象悉合無論矣。所異者佛產印度,耶穌生於猶太,而《華嚴》之乘數,《金剛》之相數,一八、三六、百零八之數,及“七日來復”、“十三見凶之數”,亦無不得。僅以素所聞於先生者,弁諸簡端,並志其緣起如此云。
朱熹は却って《易》は聖人の人に卜筮を教うるの書と曰うは、此れ豈に門径を識ると算さんや。不過「河図」「洛書」は本来《易》象の取法する所の根拠にして、漢学家は一概に後人の偽造と斥けるも、唯だ朱熹は取りて経文の首に列せり。此の份の見識もまた旁人の赶上がたきの処有り。先生はまた曰く、道家は黄帝・老子を尊奉して祖と為して、其の淵源は全く《易》より出でて、丹家の講ずる「七返九還」「六帰八居」は、あれらの度数と卦象とは処処相合して、自然多く説くを要せず。怪しむ可きは仏教は印度に産生し・耶蘇は猶太に生るるも、而して《華厳経》の講ずる乗数・《金剛経》の講ずる相数、および一と八と・三と六と・一百零八のこれらの数目、還た「七日にして来り復る」「十三にして凶を見る」の数は、もまた一項として《易》数と暗合せざる無し。我はただ平日先生のあの処より聴き来れる話を把りて巻首に写して、併せて成書の縁起を記述して上のごとくす。
学易筆談述旨
《易》道至大,《易》理至遂;辛齋之愚,何敢妄談?顧念吾師忍死狴犴,剋期以待,密傳心法,冀綿絕學,又曷敢自棄?丙辰出獄,爰蒐集古今說《易》之書,惟日孳孳,寢饋舟車,未嘗或輟。丁巳以後,國會蒙塵。播越嶺嶠,議席多暇,兩院同人,合組研幾學社於廣州之迥龍社。謬推都講,計日分程,商兌講習。雖兵戈擾攘,而課約罔閒。
《易》道は極めて広大にして、《易》理は極めて深遠にして、我が杭辛斎は才識浅陋にして、何処でか敢えて随意に談論せんや。ただ先師の当年身は牢獄に陥り・死を忍びて等待して、時日を約定して心法を秘密に我に伝授して、此の門の断絶に瀕する学問の能く接続して下らんを指望するを思えば、我もまた怎様にして敢えて自暴自棄せんや。丙辰年出獄して以後は、我便ち古今の《易》を解説するの書籍を捜集して、天天勤勉懈らずして、寝食行旅の間も放下せずして、未嘗中断せり。丁巳年以後国会は迫られて播遷して、我は流落して嶺南に在りて、議席上に余暇多くして、両院の同人は便ち広州の迥龍社に於て合わせて「研幾学社」を組せり。大家は謬りて我を推挙して主講と為して、日に按じて進度を排定して、彼此商量して講習せり。当時兵戈は擾攘するも、講課の約期は却って始終荒廃せざりき。
講義纂輯,得書若干,名曰《易楔》。而晨昏餘晷,切磋問難,隨時筆錄者,又積稿盈尺。同人艱於傳寫,乃謀刊印。釐為四卷,名曰《筆談》,蓋紀實焉。己未庚申,由粵而滬。同志之友,聞聲畢集。風雨一廬,不廢討論。以續前稿,又得四卷,另為《二集》。借閱傳鈔,恐多遺失。適前印之書,久已告罄。同人請合兩《集》與《易楔》、《易數偶得》、《讀易雜記》諸稿,均以聚珍板印行。始於壬戌八月,至十月抄,《筆談》八卷工竣。爰紀顛末,並述旨如左。
講義を纂集して起きて、書を成すこと若干にして、《易楔》と取名せり。而して早晚の剩る所の時間に於て彼此切磋して問難して、随時記録し下せる稿子は、また堆積して一尺来り高し。同人は抄写伝閲の不便に苦しんで、便ち刻印を商議して、四巻に分作して、《筆談》と取名して、其の実況を紀録するの意思を取る。己未・庚申の両年、我は広東より上海に転じて、志同道合の朋友は聞を聞きて紛紛聚攏して、風雨の中に同じく一屋に住して、討論は断たず。前稿を接続してまた四巻を写し成して、別に《二集》と編ず。これらの稿子は借り出して伝抄せば、ただ散失を怕れて、恰好先前印せる書は早くも售罄すれば、同人は便ち両《集》を《易楔》《易数偶得》《読易雑記》の各稿と連ねて、一併せて聚珍活字版を用いて印行せんことを請う。此の事は壬戌年八月に工を開きて、十月末に到りて、《筆談》八巻は全部印成せり。是に於て前後の経過を把りて記し下して、併せて本書の宗旨を叙述して下のごとくす。
一、承學之士,不廢筆札,談論所及,擇要綴錄,聊以備忘。除《初集》第一卷,於臨印時略有增減,以明源流外,餘悉隨時編訂,並無先後次序。二、講《易》與詁經不同。詁經當有家法,有體例,義不容雜。而講《易》則以闡明卦爻象數之原理原則,但以經文為之證明。故凡與象數有涉,足與《易》道相發明者,博採旁搜,不限時地,更無所謂門戶派別也。
第一、学に従う人は平日筆記を廃せずして、凡そ討論の涉及する所は、要点を擇取して記録して、聊か遺忘に備えり。《初集》の第一巻は臨みて付印する時略々増删有りて、用て学術源流を交代するを除く以外、其余の各條は皆随時編次するにして、並びに先後次第の言う可き無し。第二、《易》を講ずるは経書を訓解すると同じからず。経書を訓解するは「家法」を講ずるを要し・一定の体例有るを要して、義訓は混雑を容れず。《易》を講ずるは則ち卦爻象数の原理原則を闡明するを以て主と為して、ただ経文を拿りて来りて印証を作す。ゆえに凡そ象数と関係有りて・《易》道を発明するに足るの材料は、一概に広く捜し博く採って、時代地域を限らずして、更に何の門戸派別を談じ及ばんや。
三、《易》本法象於天地。乾易坤簡,易知易能,雖見仁見智,各隨學識之深淺而異,要無不可知之理。自象義不明,學者無所適從,幾視《易》為絕學,而不敢問津。致《易》簡之理,日即湮晦。本編有鑑於斯,立說皆取淺顯明白,務期盡人能解,不敢以艱深文淺陋也。
第三、《易》は本来天地に取法して象を立つるなり。乾道は平易にして・坤道は簡能にして、知り易くもまた践踐し易し。読者は仁を見智を見て・各々学識の深軽に随いて同じからずと雖も、総じて知る可からざるの道理無し。卦象の意義は講じ明白せざるより自りて、《易》を学ぶ人は適従する所無くして、幾んど《易》を把りて断絶の絶学と當てて敢えて津を問わざるに至りて、以致て「易簡」の此の一層の本来平易の道理は日渐湮没晦暗せり。本書は此を鑑みて有して、立説は一律に浅顕明白の講法を採取して、務めて人人皆能く読み懂らしめんと求めて、敢えて艱深の字面を用いて内容の浅陋を掩飾せず。
四、孔子贊《易》,身逢亂世,行危言遜。有因時忌不能顯言者,不得不以微言大義,隱寓於象數之中,與春秋同一例也。後人不察,悉以文字求之,孔子憂天憫人之苦心湮沒盡矣。歷代學者,如邵康節,如劉青田、黃姚江,均抱此隱痛而未敢昌言者也。鼎革以後,世雖亂而言可無諱。發歷聖之心傳,彌前賢之遺憾,維世道而存絕學,不可謂非千載一時之良機。剝極必復,時乎不再,幸我同人勿自暴棄以負天心也。
第四、孔子は《易》に為に伝を作る時身は乱世に処して、行事は端方にして言辞は謙退なり。あるは当時の忌諱に因りて能く明説せざるは、只好く微言大義を把りて暗暗象数の裏面に寄托して、此れ彼の《春秋》を修めるの筆法と是れ同一個の例子なり。後人は体察を加えずして、一味に文字の上より往きて解を求めば、孔子のあの一片の世を憂え人を憫むの苦心は便ち全く埋没せられり。歴代学者は宋代の邵雍(康節)・明代の劉基(青田)・黄宗羲(姚江)のごとき、皆此の一份の隠痛を抱えて而して敢えて公開して講じ出さず。改朝換代して以後は、世道は乱るると雖も、話を説くは却って避諱するを要せざるを得。歴代聖人の心伝を把りて発掘して出で、前賢の遺憾を弥補して、世道を維繫して絶学を保存するは、千載難逢の好機会と謂わざるべからざるなり。《剥》卦は剥して極処に到れば必定《復》に転じて、時機は一たび去れば再び来らず。我らの同人は自暴自棄して・天心を辜負せざらんことを冀望す。
五、卦因數衍,數緣象起,象由心生。《易》準天地,廣大悉備。雖人事遞演,世變日繁,要不能出乎此象數之外。故洲殊種別,文字語言,萬有不齊,維數足以齊之。宗教俗尚,各有不同,惟數足以同之。兩千年來,數學失傳。宋後言《易》者,往往以邵子先天數為《易》數。數理繁嘖,固非短扎所能盡。然於舊說之顯然挑牴牾者,不能不援據象數以為商榷,非敢故翻成案也。
第五、卦は数に由りて推衍して成りて、数は象に依りて起りて、象は則ち心に由りて生ず。《易》は天地を以て準則と為して、広大にして備わらざる所無し。縦に人事は不断に演変し・世局は日益繁紛するも、終究此の一套の象数の外を跳出る能わず。ゆえに各大洲の人種は同じからず・文字語言は千差万別なるも、ただ「数」は能く彼らを把りて斉一して起きるを得。各種の宗教風俗は互いに同じからざるも、もまたただ「数」は能く彼らを把りて打通す可し。両千年来易数の学は失伝して、宋代以後《易》を講ずる人は、往往邵雍の「先天数」を把りて《易》数と當てり。数理は繁複にして、本来並びに短篇札記の能く講じ尽くす所に非ず。不過旧説の中に明らかに自相抵牾するの処は、象数を援引して以て商榷を加えざるべからずして、並びに故意に前人の成案を翻さんと欲するに非ず。
六、占筮固《易》之一端,而聖人修《易》以明道,實非盡為占筮。孔子贊《易》,紹述文周,以人合天,兢兢寡過,豈導人於趨吉避凶哉!朱子以占筮為《易》之本義,未免偏見。而《大衍》揲蓍之法,自唐以後,於掛一再扐兩端,立說互歧。往諸數理,並多遺憾。未敢盲從,以誤後人。
第六、占筮は固然《易》の一個の方面なるも、但し聖人の《易》を整理するは為に大道を闡明せんとするにして、並びに全く占筮の為に非ず。孔子は《易伝》を作りて、上は文王・周公を承けて、人をして人道を以て天道に合するを教えて、戦戦兢兢として過錯を少く犯さんを求むるは、豈に人を引導して吉に趨き凶を避けしめんとするならんや。朱熹は占筮を把りて《易》の本義と當てるは、未免偏見なり。至りて《繋辞》「大衍の数」のあの一套の揲蓍して卦を成すの方法は、唐代以後自りて、「一を挂く」と「再び扐す」との此の両処に於て各家の説法は互相分岐して、其の中の数理を推求すれば、もまた多く説き通ぜざるの処有りて、我は敢えて盲目に跟従せずして、以て後人に貽誤せんことを免れんとす。
七、至誠之道,雖可前知,惟道本一貫,學無躐等。必正心修身,能盡人之道以合天,斯天人契合,感而遂通,百世可知。初無二理。若一知半解,妄談禍福,自欺欺人,實學《易》之大戒。兢兢自箴者,竊願以此勉人。
第七、《中庸》は至誠の道は未来を預知し得べしと説くも、但し道理は本来一を以て之を貫くにして、学問を為すは躐等して進む能わざるなり。必ず先ず心を正しくし身を修めて、能く人道を尽くして以て天道に合して、かくのごとく天人相契して、一たび感じて通ずれば、縦に百代以後の事もまた推知し得べくして、其の中に並びに両種の道理無し。倘若ただ一知半解を得るのみにして、便ち胡乱に吉凶禍福を談論するは、あれは自ら欺き人を欺いて、実在《易》を学ぶの大忌なり。此れもまた我の時々警惕して自省する所にして、願わくはそれを拿りて来りて同学を勉励せんとす。
八、盡性至命,乃易學之極功。孔子之聖,猶韋編三絕,但云寡過,罕言性命。後生末學,更宜踐履篤實,下學上達。同學講習,竊本斯旨。《初集》刊佈,朋自遠來,往往以只言象數,不談身心性命相責。但愚尚以象數之未能盡明為憾。果象數通解,則身心性命之理,胥在其中,更無待言說為也。
第八、心性を窮尽して・直ちに天命に達するは、易学の最高の成就なり。孔子のあの様の聖人を以てすれば、《易》を読むに尚且編簡の皮縄を把りて三度翻断して、もまたただ自己は過錯を少くせんを求むるのみと説きて、甚だ少くも性と命とを談ぜず。後輩末学は更に踏実に践行して、切近の処より下学して然る後上達すべし。同学の講習は、我は私下正に此の宗旨に本づくなり。《初集》は印行して以後は、遠方より来るの朋友は常常我を責めてただ象数を講じて・身心性命を談ぜずと曰うも、但我は還た象数は未だ講じ透らざるを嫌いて以て遺憾と引為す。倘若象数は真に能く貫通了解せば、あの処身心性命の道理は皆其の中に在りて、更に別に往きて説くを用いざるなり。
九、形而下者謂之器,形而上者謂之道。凡有形可指者皆器。道本於心,未可以言盡焉。故八卦因重,羲農法天以垂象;兩編《十翼》,周孔立言以明道。然未可遽執卦象經傳以為道也。譬諸升高必以梯,而梯非高。求飽必以飯,而飯非飽。宋後講《易》,開口言性理,言道統,是猶指梯而稱高,看飯而說飽也。今之談道者,無宋人之學,而立說更高出宋人。自誤誤人,更不待言。願學者共明斯旨,各求實學,返諸身心。勿好高鶩遠,循前車之覆轍焉。
第九、《繋辞》は形有るは「器」と叫作し・形無きは「道」と叫作すと曰う。凡そ形跡有りて指す可きは皆器に属して、道は則ち人心に本づきて、並びに言語の能く説き尽くす所に非ず。ゆえに八卦は相重して六十四卦と成るは、伏羲・神農の天道に効法して来りて卦象を垂示するにして、両番《十翼》を編成するは、周公・孔子の著述して言を立てて以て大道を闡明するなり。然れどももまた便ち卦象経伝を把りて道の本身と當てる可からず。譬えば高きに登るは必定梯子を用いるを要するも、然れども梯子は並びに即ち高きに非ず。飽を求むるは必定飯を食らうを要するも、然れども飯は並びに即ち飽きに非ず。宋代以後《易》を講ずる人は、一たび口を開けば便ち性理を談じ・道統を談ずるは、此れ正に梯子を指して自己はすでに高しと説き・飯を望みて便ち自己はすでに飽きと説くが如し。今天道を談ずる人は、宋儒のあの様の学問無くして、立論は却って宋儒よりも還た高遠にして、自ら誤り人を誤るは、更に説くに及ばず。願わくは《易》を学ぶ人は共同して此の宗旨を明白にして、各々往きて実在の学問を求めて、自己の身心の上に回帰して印証して、好高して遠きに騖ること勿くして、前人の車を翻すの旧轍を蹈襲せざらんことを。
十、潔淨精微之學,非潛修靜養,未能深造。勞人草草,敢言心得?惟匯積年涉獵所得,聊供同學參考之便。深望海內鴻碩,時加匡正。幸得學與年進,尚擬續,以供採擇。十一、世道陵夷,聖學中絕。人慾橫流,罔知紀極。謹願之士,苦身心之無所寄託,蒿目時艱,恆懷消極。或附托西教,或皈向佛門。而仙靈神鬼,導引修養,及飛鸞顯化之壇宇,遂遍於域中。影附風從,是丹非素。不知我國固有之學,貫澈天人,足以安身立命。保世滋大,概群藉而羅萬有者,悉在此一畫開天,人文肇始之《易經》。存人道,挽世運,千鈞一髮,絕續在茲。弘道救世,責無旁貸。惟我同人,自奮勉焉。
第十、《礼記》は《易》教を称して「潔斎精微」の学と為して、心を潜めて修習し・静の中に涵養せざれば、深造する法無し。我は奔忙労碌して・倉促に書を成せば、何処でか敢えて何の心得有ると説かんや。不過多年渉猟して得る所を把りて汇集して起きて、姑く同学の参考に供するのみ。海内博学の士の随時匡正するを深く望む。倘若学問は能く年歳に随いて増進せば、還た陸続続写して、以て採択に供せんと打算す。第十一、世道は日渐衰敗して、聖人の学は中途断絶して、人欲は横流して、一個の止境有るを知らず。あれらの謹厚老実の人は、身心の寄托する処無きに苦しんで、時局の艱難を看て而して常常悲観を懐けば、是に於てあるは西方宗教に依附し・あるは仏門に帰依す。而して神仙鬼神・導引修養および扶乩降壇顕霊の場所を講ずるは、もまた便ち国中に遍布せり。人々は影に随い風に従いて、紅なるを把りて白と説き成して、是非分かたず。彼らは我が国固有の学問は原來天人を貫通して・人をして身を安んじ命を立てしむるに足るを知らずして、能く世道を保全し・発揚光大して・諸家を涵蓋して万有を囊括するは、全く此の部の一画は天を開き・人文を開啓するの《易経》の裏に在るを。人道を保存し・世運を挽回するは、正に千鈞一発の際に在りて、断と続とは便ち此処に繋れり。大道を弘揚し・世人を拯救するは、我らは責を負うて貸す無くして、願わくは我が同人は各々奮勉せんことを。
上古之易
上古之世,無所謂《易》也。但後世之《易》,實本於伏羲,故《周官》掌太卜者有“三《易》”之稱。因周以《易》名,遂追諡《連山》、《歸藏》皆謂之《易》。餘所謂上古之《易》者,亦援斯義而追稱之耳。
上古の時は、本来「《易》」の此の名目無し。但し後世の《易》は実在伏羲に淵源せば、ゆえに《周官》(《周礼》)は太卜の掌管する所有「三《易》」の称有るを記載す。周代は自己の此の一部を《易》と叫作するを以て、是に於て名号を追加して、《連山》《帰蔵》もまた一併せて《易》と称作す。我の此処の説く所の「上古之《易》」もまた、是れ此の意思を援用して追称するのみなり。
溯自伏羲一畫開天,其時雖文字未興,而結繩為治,已有等秩倫紀之可觀。《繫傳》稱仰則觀象於天,俯則觀法於地,觀鳥獸之文與地之宜,近取諸身,遠取諸物,於是始作八卦,以通神明之德,以類萬物之情。其條理井然,而觀法於地暨觀鳥獸之文與地之宜,已能將地之所有,分析觀察,頗如近世科學家,區地文地質學為二類。
伏羲の第一画を画きて而して天地の文を開闢するを追溯すれば、あの時文字は還た未だ産生せざると雖も、但し結縄の弁法を用いて天下を治理して、すでに等級次序・人倫綱紀有りて観る可し。《繋辞伝》は彼は頭を抬げて天上の形象を観察し・頭を低れて地上の法則を観察し・鳥獣の纹理と土地の所宜とを観察して、近きは自身に於て象を取り・遠きは万物に於て象を取りて、是に於て始めて八卦を画出して、用て神明の徳性に通達し・用て万物の情状を比類せりと曰う。此の番の条理は井然として序有りて、其の中「地に法を観る」と「鳥獣の文と地の宜とを観る」との両項は、すでに能く地面上の所有の東西を把りて分かち開きて観察して、甚だ似て近代科学家の「地文学」と「地質学」とを把りて両門に分かつが如し。
此豈歐洲人所謂上古時代野蠻酋長之可比擬哉!以佃以漁,雖未脫游牧之風,而政治亦已斐然可觀矣。況八卦成列,有形,有象,有聲,實已備具文字之作用。因而重之為六十四卦。益之以變化,固已肆應而不窮矣。此伏羲之《易》,所以為我中國文化之初祖也。
此れ豈に欧洲人の説く所の上古時代の野蛮部落の酋長の比拟し得べき所ならんや。あの時猟を打ち魚を捕えて、還た未だ游牧の風気を脱離せざると雖も、然れども政治はすでに甚だ観る可き有り。況んや八卦は排列して序を成して、形状有り・物象有り・音読有りて、実際はすでに文字の功用を具備せり。再把八卦を把りて兩兩相重して六十四卦と成して、爻位の変化を加えれば、本来已に無窮の事変を応付するに足る。此れ即ち伏羲の《易》の我らの中国文化の最初源頭と成るの縁故なり。
伏羲氏沒,神農氏作。斫木為耜,揉木為耒。耒耨之利,以教天下。日中為市,致天下之民,聚天下之貨,交易而退,各得其所,是已由游牧時代而進於農商。且規模宏遠,政教並行。又嘗百草以御疾災,民無夭折,創制顯庸,澤及萬世。然其時文字未興,所賴以為政治之具者,實維伏羲所遺傳之卦象。度神農氏必有所增益而變通之,是名《連山》。相傳以重艮為首,經卦皆八,重卦皆六十四者也。故神農為炎帝,亦號列山氏。
伏羲は去世して以後、神農は興起す。彼は木頭を砍削して耜を做成し・木材を弯曲して耒を做成して、耕作農具の便利を把りて天下人に教え、また正午に集市を設立して、天下の百姓を招来し・天下の貨物を聚集して、交換し完わりて各自散去して、人人皆需要する所の東西を得。此れ便ちすでに游牧時代より農業と商業との時代に進入せり。而且規模は宏大深遠にして、政令と教化とは並行す。彼はまた遍く百草を嘗めて以て疾病災患を防治して、百姓をして夭亡せざらしめて、器物を創制し・功用を顕揚して、恩沢は万世に流及す。然れどもあの時文字は尚未だ興起せざれば、用て天下を治理するの憑借は、実在ただ伏羲の伝え下せる卦象あるのみ。神農は必定卦象に対して増益変通する所有りと推想して、此れ便ち《連山》と叫ぶ。相伝えて《連山》は《艮》を重ねて首卦と為して、単卦は仍ほ八個にして、重卦は仍ほ六十四个なり。ゆえに神農は炎帝と号称して、もまた列山氏と称作す。
神農氏沒,黃帝堯舜氏作。通其變使民不倦,神而化之使民宜之。《易》窮則變,變則通,通則久。蓋至是文明日進,制器尚象,人事日繁。而舊有之八卦,不足以應用。於是廣卦象為六畫,而文字以生。益以天干地支,而陰陽五行之用愈精。
神農は去世して以後、黄帝は堯・舜と相継いで興起す。彼らは事物の変化を会通して、百姓をして疲倦を覚えざらしめ・神妙に化育を加えて、百姓をして各々其の宜を得せしむ。《繋辞伝》曰く、《易》道は尽頭に走り到れば便ち変を要して、変じて始めて通じ・通じて始めて長久なるを得と。大概此の時に到りて文明は一天天進歩して、器物を制作して卦象に取法して、人事は一天天繁複して、原有の八卦はすでに応用するに足らずして、是に於て卦象を把りて六画の卦に拡充して、文字もまた之に随いて産生し、再加うるに天干地支を以てすれば、陰陽五行の運用は便ち更に精密なり。
吹律定聲,民氣以和。而禮樂以興,本黃鐘以定度量權衡。治曆明時,定璇璣玉衡以齊七政。絕地天通,百官以治,萬民以察。而《易》之為用,益無乎不備。故黃帝之《易》曰《歸藏》,以坤乾為首者也。堯舜繼黃帝之後,於變時雍,垂衣裳而天下平。今讀《繫辭下傳》之二章,上古進化之歷史,與三《易》之源流,可概見矣。此上古之《易》也。
律管を吹奏して以て音高を定めて、民気は此に因りて調和して、礼楽は此に由りて興起し、また黄鐘の律に依拠して以て長度・容量と軽重との標準を確定す。暦法を制定して以て時令を明確にして、璇璣玉衡を設置して以て日月五星の運行を校正す。人人皆鬼神に通じ得るの混乱局面を断絶して、百官は各々職守有りて政事は治を得て、万民は稽考するを得。《易》の功用は此の時に到りて便ち更に備わらざる所無し。ゆえに黄帝の《易》は《帰蔵》と叫ばれて、是れ《坤》《乾》を以て首卦と為すなり。堯舜は黄帝の後を承接して、天下は和睦融洽に変じて、ただ衣を垂れ手を拱するのみにて海内太平なり。今天《繋辞下伝》の第二章を読めば、上古進化の歴史と「三《易》」の源流とは、大略便ち看て出る可し。此れ即ち上古の《易》なり。
中古之易
夏易《連山》,蓋繼述神農氏者也。商易《歸藏》,蓋繼述黃帝氏者也。周曰《周易》,或曰“祖述堯舜”。孔子曰:“《易》之興也,其於中古乎?作《易》者,其有憂患乎?”雖指《周易》,以文王與紂之事當之。然帝降而王,德不如古。神禹受命,開家天下之局。湯武革命,《易》揖讓而征誅,均不能無慚德焉。故三代之《易》,皆可謂之中古,所謂“於稽其類其衰世之意”邪?上視羲皇,已不無今昔之感矣。
夏代の《易》は《連山》と叫ばれて、大概是れ神農の一系を承継するなり。商代の《易》は《帰蔵》と叫ばれて、大概是れ黄帝の一系を承継するなり。周代のは《周易》と叫ばれて、人あるいはそれを「堯舜を祖述す」と説く。孔子曰く、「《易》の興起は、大概中古時代ならんか。《易》を作る人は、怕らくは心に憂患を懐けんか」。此の話は《周易》を指して言うと雖も、是れ文王と商紂との間の事を拿りて往きてそれを坐実するなり。但し帝道より降りて王道と為るより自りて、徳行はすでに上古に如かず。大禹は命を受けて、「天下を家とする」の局面を開き出だし、商湯・周武は武力を以て革命して、禅譲を把りて征伐に改めたり。皆毫も慙愧の処無しと説く能わざるなり。ゆえに夏・商・周三代の《易》は皆「中古之易」と称すべくして、もまた即ち《繋辞》の説く所の「其の此の類の辞句を考察するに、約莫衰世の意思を含有す」ならんか。伏羲の世に比ぶれば、すでに今昔の感有るを免れざるなり。
三代之政綱本于易
制度文物,皆出於《易》。故曰“觀其會通以行其典禮”。《易》在三代,不啻為政治之書。夏宗《連山》,其禮樂政刑胥以《連山》為則。殷宗《歸藏》,其禮樂政刑胥以《歸藏》為則。故紀曆有人統地統天統之殊。而尚忠尚質尚文,亦各有所專重。蓋變通損益以蘄合于時宜,而成一代之制。必統系分明,而後綱舉目張,有條不紊。今夏殷之制不可悉睹,而《周禮》一書,雖經竄改,而周家之典章文物,猶可得其梗概,足與《周易》相印證。自秦漢以降,目《易》為卜筮之書,政失其綱也久矣。
一代の制度器物は皆《易》より出でれば、ゆえに《繋辞》曰く「其の会通する所を観て、以て其の典礼を行う」。《易》は夏・商・周三代に於ては、簡直一部の政治の書なり。夏代は《連山》を尊奉して、礼楽刑政は一概に《連山》を以て準則と為し、殷代は《帰蔵》を尊奉して、礼楽刑政は一概に《帰蔵》を以て準則と為す。ゆえに三代の暦法に「人統」「地統」「天統」の分別有りて、而して忠を崇び・質を崇び・文を崇ぶは、もまた各々其の側重有り。これは皆時に因りて変通し・増損する所有りて、以て当時の需要に切合せんと求めて、従りて一代の制度を形成す。必ず統系は分明にして、然る後始めて綱を挙げて目を張り・條理有りて紊れざるを得。今天夏・殷の両代の制度はすでに能く全部看るを得ざるも、而して《周礼》の一書は後人の竄改を経ると雖も、周代の典章文物は還た其の中より大概を看て出るを得て、以て《周易》と互相印証するに足り。秦漢以後自りて、《易》を把りて一部の卜筮の書と看為して、政治は綱紀を失掉してすでに久しきなり。
学術之派別出于易
我國學術,約可分為三派:曰儒,曰道,曰墨。其餘諸子百家,名類雖多,要無不可以此三派歸納之。道家宗老氏,而實導源於黃帝,故相傳曰“黃老”。墨家出於禹,而實濫觴於神農。《孟子》有為神農之言者許行,主並耕之說,亦墨之別派也。儒家集大成於孔子,《論語》曰:“文王既沒,文不在茲乎?”則孔子固自承為繼續文王者也。故儒家之學出於《周易》,道家之學出於《歸藏》,墨家之學出於《連山》,各有所本。
我が国の学術は大致三派に分かつ可し。儒家・道家・墨家。其余の諸子百家は名目は多きと雖も、根柢を帰し到底皆此の三派の中に納入す可し。道家は老子を奉じて宗主と為して、其の実源頭は黄帝に在れば、ゆえに歴來合わせて「黄老」と称す。墨家は倹朴力行を崇尚して、相伝えて夏禹より出づと説くも、其の実発端は神農に於てす。《孟子・滕文公》の裏のあの位の「神農の言を為す」の許行は、君主もまた百姓と一同に耕して自ら食らうを要すと主張するは、便ち墨家の一個の支派なり。儒家は孔子に到りて大成を集めて、《論語》は孔子の説く「文王は已に世を去りて、礼楽文化は便ち我が此処に在らずや」を記すれば、見ゆべし孔子は本来便ち自ら文王を接続する人と認すを。ゆえに儒家の学は《周易》より出で・道家の学は《帰蔵》より出で・墨家の学は《連山》より出でて、各々其の本源有りて、並びに凭空より生出せるに非ず。
自漢而後,雖罷斥百家,獨崇儒道,而道與墨之學,亦實有不可磨滅之精神。歷代之治,舍其名而用其實者,不可枚舉。至於今日,儒術亦掃地盡矣。而老氏墨氏之學,則因與歐西之哲學,及其他科學之相契合者頗多,崇尚新學之士,漸有取而研究之者。禮失求野,循末反本,則吾文明初祖之羲《易》,或尚有大明之一日乎?
漢代以後百家を罷黜して・独り儒術を尊ぶと雖も、然れども道家と墨家との学問は実在もまた磨灭すべからざるの精神有り。歴代の国を治むるは、彼らの名目を抛開して而して暗中彼らの実際の主張を採用するは、多きこと数え清むる能わず。今天に到りては、儒術もまた已に掃地して余無し。老子・墨子の学説は反って欧洲哲学および其他各門の科学と相合するの処頗る多きを以て、新学を崇尚する人は漸漸取りて研究する有り。古語曰く礼制は失伝すれば民間に到りて尋求するを要すと、末流に順いて根本に回溯せば、あの処我らの文明の初祖伏羲の伝える所の《易》は、あるいは還た大いに光明を放つの一天有らんか。
孔子之易
《易》者,明道之書也。五帝之治天下也以道,三王以德,五霸以功。世運自帝降而王,王降乎而霸,道之不明也久矣。孔子生當衰周,五霸之功已杳,浸浸乎由功而降而尚力。至惟力是尚,弱肉強食,人道或幾乎悉矣。故孔子贊《易》以存道,又以道之未可驟幾焉,乃取中爻以明功,陳九卦以崇德。循序而進,由功而德,其庶幾乎與道近矣。
《易》は一部の大道を闡明するの書なり。五帝は天下を治理するに「道」を靠りて、三王は「徳」を靠りて、五霸は「功」を靠る。世運は帝道より降りて王道と為り・王道より降りて覇道と為りて、大道は明ならざるすでに久しきなり。孔子は周室衰微の時代に生れて、連ねて五霸のあの様の事功もまた早く渺茫にして、世風は漸漸事功を講ずるより降りて力量を崇尚するに変じて、一旦ただ力量を以て尚びと為せば、弱肉強食にして、人道は便ち幾んど断絶せんと要す。ゆえに孔子は《易伝》を作して以て大道を保存し、もまた大道は並びに骤然として企及すべきに非ざるを以て、便ち六爻の中間のあの幾爻を取りて以て事功を闡明し、《履》《謙》等の九卦を陳述して以て徳行を推崇す。人をして循序漸進して・事功より徳行に進ましめば、かくのごとくもまた便ち差不多道に接近す。
両漢易学之淵源
孔子傳《易》於商瞿。商瞿字子木,其行事不見於《論語》,蓋孔子晚年之弟子也。商瞿授魯橋庇子庸,子庸授江東對馯臂子弓,子弓授燕周丑子家,子家授東武孫虞子乘,子乘授齊田何子莊。凡六傳,而周滅於秦。
孔子は《易》を把りて商瞿に伝えり。商瞿は字は子木にして、其の事迹は《論語》に見えずして、大概是れ孔子晚年の収める学生なり。商瞿は魯国の橋庇子庸に伝えて、子庸は江東の馯臂子弓に伝えて、子弓は燕国の周丑子家に伝えて、子家は東武の孫虞子乗に伝えて、子乗は斉国の田何子荘に伝えり。前後一共に六代を伝えて、而して周朝は便ち秦国に滅ぼされり。
秦焚書,而《易》以卜筮獨免。漢興,田何以齊之公族徙杜陵,號杜田生。授東武王同子中,及洛陽周王孫、丁寬,齊伏生。王同子中授淄川楊何,丁寬授同郡田碭王孫,王孫授沛施讎,蘭陵孟喜,琅邪梁丘賀,是為三家之《易》,皆立於學官置博士。
秦始皇は書を焚くるに、《易》は卜筮の書と看為せらるるを以て独り焚毀を免れり。漢朝興起して、田何は斉国公族の身份を以て杜陵に遷居して、人は「杜田生」と称す。彼は東武の王同子中に伝えて、および洛陽の周王孫・丁寛と斉国の伏生に伝えり。王同子中は淄川の楊何に伝えて、丁寛は同郡碭地の田王孫に伝えて、田王孫は沛県の施讐・蘭陵の孟喜・琅邪の梁丘賀に伝えて、此れ便ち漢代《易》学の三大家にして、皆学官に立てられて・博士を設置せられり。
施讎授張禹,及琅邪魯伯。禹授淮陽彭宣,沛戴子崇平。魯伯授琅邪邴丹、伏曼容。孟喜授同郡白光少子,沛瞿牧,及焦延壽。延壽授京房。梁丘賀傳子臨,臨授五鹿充宗。充宗授平陵士孫、張仲方,鄧彭祖子夏,齊衡咸長賓。
施讐は張禹と琅邪の魯伯とに伝えて、張禹は淮陽の彭宣・沛県の戴崇(字は子平)に伝えて、魯伯は琅邪の邴丹と伏曼容とに伝えり。孟喜は同郡の白光(字は少子)・沛県の瞿牧および焦延寿に伝えて、焦延寿は京房に伝えり。梁丘賀は児子の梁丘臨に伝えて、梁丘臨は五鹿充宗に伝えて、五鹿充宗は平陵の士孫張(字は仲方)・鄧彭祖(字は子夏)と斉国の衡咸(字は長賓)に伝えり。
東萊費直,治《易》長於卜筮,無章句,徒以《彖》、《象》、《繫辭》、《文言》,解釋上、下《經》。傳琅邪王璜子中。同時沛高相治《易》,與費略同,亦無章句,說陰陽災異,自言出於丁將軍。授子康,及蘭陵毋將永。高氏費氏之學,皆未立於學官。
東莱人費直は《易》を研治して、占筮に長じて、逐句訓釈するの章句の学を作らずして、ただ《彖伝》《象伝》《繋辞》《文言》を拿りて上下両篇の経文を解説して、琅邪の王璜(字は子中)に伝えり。同時沛県人高相は《易》を治めて、路数は費直と大略相同じくして、もまた章句を作らずして、専ら陰陽災異を講じて、自ら学問は「丁将軍」丁寛より出づと称す。彼は児子の高康と蘭陵の毋将永とに伝えり。高氏と費氏との两家の学は、皆未嘗て学官に立てられざりき。
漢代易學,以施、孟、梁丘三家為盛。京氏專言災異,高氏亦與京略同。至東漢傳施學者,有劉昆,及子軼。傳孟學者有握丹鮭,陽鴻任安。傳梁丘學者,有范升、楊政、張興、及子魴,皆不甚顯。至漢季獨費《易》盛行,若馬融、鄭玄、荀爽、陸績、劉表、宋衷諸人,皆習費氏古文《易》。孟學獨一虞翻,施梁之學無聞矣。
漢代の易学は、施讐・孟喜・梁丘賀の三家を以て最も興盛と為す。京房の一派は専ら災異を講じて、高相の一派もまた京房と大略相同じ。東漢に到りて、施氏の学を伝えるは劉昆と其の児子劉軼と有りて、孟氏の学を伝えるは洼丹・觟陽鴻・任安有りて、梁丘の学を伝えるは范升・楊政・張興および張興の児子張魴有りて、此の几家は皆甚だ顕赫ならず。漢朝末年に到りて、ただ費直の一系の《易》は独り盛んにして、馬融・鄭玄・荀爽・陸績・劉表・宋衷のこれらの人のごとき、皆費氏の古文《易》を研習せり。孟氏の学はただ虞翻の一人を剩すのみにして、施氏と梁丘氏との学は便ち再び伝人の消息有るを得ざりき。
晋唐間之易学
魏晉以後,王弼之《易》,盛行江左。弼為劉表之甥,表固治費《易》者。弼之說《易》,不盡宗費,屏棄象數,專以玄理演繹,自謂得意忘象。又分《繫》、《彖》、《象》諸《傳》於經文之下。學者以其清雋新穎,且簡便而易學也,靡然宗之。由是施讎、梁丘諸家之《易》盡亡。費氏之古本,亦為所淆亂,而盡失其本來面目矣。
魏晋以後、王弼の注せる《易》は江東の一帯に於て盛行せり。王弼は劉表の外甥にして、劉表は本来便ち費氏《易》を治めり。但し王弼の《易》を解するは並びに完全に費氏の家法を遵守せずして、彼は象数を摒弃して、専ら玄理を用いて往きて推演して、自ら「意を得て象を忘る」と称し、また《繋辞》《彖伝》《象伝》の諸伝を把りて拆散して、分かちて経文の下に附せり。学者は彼の講じたるを清新俊逸にして、而且簡便にして学び易しと覚えて、便ち一窩蜂に彼を奉じて宗主と為せり。此より自りて施讐・梁丘等の家の《易》は全部亡佚して、費氏の古本もまた彼に打亂せられて、完全に本来面目を失掉せり。
然弼年二十有四即死,《繫辭》、《說卦》三篇,均不及注,後人以韓康伯注續之。永嘉之亂,中原板蕩,經籍散失。李唐統一,掇拾燼餘,雖六經本文幸而未闕,而兩漢以來各家之師說傳注,已十亡其七八矣。孔穎達疏《易》,復崇王而黜鄭。太學肄業,一以王注為本,古《易》遂不可復見。
然れども王弼は二十四歳にして便ち死して、《繋辞》《説卦》等の三篇は皆注を作るに及ばざれば、後人は便ち韓康伯の注を用いて以て接続せり。西晋永嘉の乱に、中原は動蕩して、経籍は大量に散失せり。李唐は統一して以後劫余を收拾して、六経の本文は侥幸残缺せざると雖も、然れども両漢以来各家の師説と伝注とは、已に十之七八を亡佚せり。孔穎達は《易》に為に疏を作りて、また王弼を推崇して而して鄭玄を廃黜す。太学の講習は一概に王弼注を以て根本と為して、古《易》は此より自りて再び見るを得ざるに到れり。
賴李鼎祚《集註》,掇拾殘闕,蒐集漢注至三十餘家。窺管一斑,全豹之形,似尚可約略而得。後之言漢學者,莫不循是蹊徑,以為登峰造極之基。至滿清中葉,王(念孫)、惠(棟)、張(惠言)、焦(循)諸家,皆精研漢學。單辭只義,不惜殫畢生之全力以赴之。鄭氏虞氏之《易》,始差堪董理。而施讎、梁丘之學說,終不獲復見於世也。惜哉!
幸に唐代李鼎祚の《周易集解》に頼りて残缺を收拾して、漢人の注解を捜羅すること多きこと三十余家に達す。ただ竹管の裏より一斑を窺うのみと雖も、全豹の模様は似乎還た約略推知す可し。後来漢学を講ずる人は、此の條の路径に沿いて走らざる無くして、それを把りて登峰造極の根基と當てり。清代中葉に到りて、王念孫・惠棟・張惠言・焦循の諸家は皆漢学を精研して、一個の詞・一條の義訓の為に、惜しまず毕生精力を傾注して往きて追索して、鄭玄・虞翻の两家の《易》学は此れ始めて勉强整理を得たり。然れども施讐・梁丘の两家の学説は、終究能く世に重見するを得ざりき。可惜なるかな。
宋人之易学
宋人講《易》,自司馬溫公以至程子,大抵皆不出王弼範圍。周子《通書》,發明太極圖,為理學之宗,與易學尚無其關涉也。自邵康節創為先天之說,取《說卦》“天地定位”一章,安排八卦,謂之先天卦。以“帝出乎震”之方位為後天卦。
宋代人の《易》を講ずるは、司馬光(温公)より一直に程頤に到るまで、大抵皆王弼の範囲を跳出る能わず。周敦頤の《通書》は《太極図》を闡発して、理学の宗主と成るも、易学本身とは其の実還た多少の牽渉有らず。直ちに邵雍(康節)に到りて「先天」の説を創立して、《説卦伝》の「天地は位を定め・山沢は気を通ず」のあの一章の説法を取りて以て八卦を排布して、「先天卦」と称し、また《説卦伝》の「帝は震より出づ」の一章の講ずる所の方位を以て排して「後天卦」と成せり。
又以乾一兌二離三震四巽五坎六艮七坤八,為先天八卦之數。更反劉牧九圖十書之說,以五十五數者為河圖,四十五數者為洛書,為八卦之所自出。於是太極兩儀,四象八卦,而十六,而三十二,而六十四。立說與漢人完全不同,不啻在易學中另闢一新世界。
彼はまた乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八を定め出して、以て先天八卦の数序と為し、更に劉牧の九数を以て《河図》と為し・十数を以て《洛書》と為すの旧説を推翻して、五十五の数を把りて《河図》と定め・四十五の数を把りて《洛書》と定めて、八卦は便ち此に由りて出づと認為す。是に於て太極より両儀を生じ・両儀より四象を生じ・四象より八卦を生じて、再加倍して十六・三十二・六十四と為す。此の一套の立論は漢代人と完全不同にして、簡直易学の裏に於て別に一個の新世界を開闢せり。
然當其時,並未盛行。如溫公、程子,皆與邵為老友,且極推重其為人,稱為“內聖外王,孔孟沒後之一人”,而未嘗取其說以講《易》。其反對如歐陽文忠諸人,更無論矣。至朱子撰《周易本義》,取河圖、洛書與先天、大、小、方、圓各圖,弁諸卷首。又另著《易學啟蒙》以闡明之,而後邵子之先天學與《易經》相聯綴。
但し当時に在りては、此の套の学説は並びに流行して開かざりき。司馬光・程頤のごときは皆邵雍の老朋友にして、而且極めて其の为人を推重して、彼を称して「内聖外王にして、是れ孔子孟子之後の第一人」と曰うも、却って曾て彼の説法を採用して以て《易》を講ぜず。至りて欧陽修のあの一班の反対者は、更に説くに及ばず。直ちに朱熹の《周易本義》を撰するに到りて、《河図》《洛書》および先天の大円図・小円図・方図等の各種図式を把りて巻首に列せて、また別に《易学啓蒙》を写して以て彼らを闡明して、此後邵雍の先天の学は始めて《易経》と連綴して一緒に在れり。
歷宋元明清,皆立諸學官,定為不刊之程式。後之學者,幾疑此諸圖為《易經》所固有矣。雖漢學家抨擊非難,不遺餘力,而以其理數出自天然,推算又確有徵驗,終非討生活於故紙堆中者,空言所能排斥也。故宋之易學,能有所發揮,獨樹一幟與漢學相對峙者,自當首推邵氏。
宋・元・明・清の各代を経過して、これらの図は皆学官に立てられて、更改すべからざるの程式と定め成されて、後来の学者は幾んど彼らを以て本来《易経》の裏に固有のものと為せり。漢学家は極力抨撃して非難し・これらの図は道士陳抟の一系より出でて而して経文の所有に非ずと斥けると雖も、但し其の中の理と数とは自然より出づるを以て・推算して起きてもまた確かに応験有るに因りて、終究並びに一班の故紙堆の裏に生活を討う人の凭空の話の能く駁倒する所に非ず。ゆえに宋代の易学の中に於て、能く発揮する所有り・独り一樹の幟を立てて而して漢学と相対峙するは、自然まさに邵雍を首と推すべし。
朱子《本義》,頗能矯王弼以來空談玄理之弊,而注意於象數,故取用邵子之說頗多。顧未能會通全《易》,博採兩漢諸家之說,以明聖人立象之意。又泥於門戶之見,不敢暢所欲言,而以聖人以卜筮教人一言,為立說之本義。此何異以璇璣玉衡為定南北方向之用,不亦隘乎?
朱熹の《周易本義》は頗る能く王弼以来の空談玄理の毛病を矯正して、肯んじて象数に留意せれば、ゆえに邵雍の説法を採用すること甚だ多し。可惜しむらくは彼は能く整部《易》理を貫通せず・広く両漢各家の説を採って、以て聖人の卦象を設立するの用意を闡明せざりき。もまた門戸の見に拘泥して、敢えて所欲言を暢せずして、ただ「聖人は卜筮を用いて人を教う」の此の一句を把りて當てて立論の根本宗旨と為せり。此れ天象を観測するの璇璣玉衡を把りてただ南北方向を辨別するの器具と當てると何の両様有らんや、不もまた太だ狭隘ならずや。
兩宋《易》家之著錄者頗多,以當時鐫版業已發明,流傳較易。今《四庫》所存,及刊入《通志堂經解》,與《惜陰》、《聚珍》諸叢書者,尚有六十餘種。而納蘭氏又彙輯諸儒語錄別集,暨佚書之單辭剩義,為《大易萃言》八十卷,可謂極宋學之大觀已。
両宋の易学家の著録に見ゆるは甚だ多くして、当時雕版印刷は已に発明せられて・書籍の流伝は比較的容易なるを以てなり。如今《四庫全書》の収める所、および《通志堂経解》と《惜陰軒叢書》《聚珍版叢書》等の叢書に刻入せるは、還た六十余種有り。而して納蘭性徳はまた各家儒者の語録・別集、および散佚書の中に零星残存するの片言隻義を把りて汇集して起きて、《大易萃言》八十巻を編成して、宋代易学の一大総匯と謂う可し。
