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六日七分

清 · 杭辛斋 · 第16巻 / 23

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

《易緯》卦氣,六十四卦中,提出坎震離兌為四伯,亦曰四監,以主一年二十四氣。坎主冬至迄驚蟄,震主春分迄芒種,離主夏至迄白露,兌主秋分迄大雪。餘六十卦,以中孚起冬至,每卦主六日七分,每五卦分公闢侯大夫卿,主六候兩氣一節,六十卦共三百六十五日四分日之一,以合周天三百六十五度四分度之一。

《易緯》に伝わる卦気の法は、六十四卦の中から坎・震・離・兌の四卦を「四伯」として提出し、「四監」ともいい、一年の二十四節気を主らせる。坎は冬至から驚蟄までを主り、震は春分から芒種までを主り、離は夏至から白露までを主り、兌は秋分から大雪までを主る。残りの六十卦は《中孚》から冬至を起こり、各卦が六日七分を主る(一日を八十分に分け、六十卦で三百六十五又四分の一日を分配すると、各卦がちょうど六日七分を得る)。五卦ごとに公・辟・侯・大夫・卿の五等に分け、共に六候・二気・一節を主る。六十卦で合計三百六十五又四分の一日となり、周天の三百六十五又四分の一度とちょうど合致する。

又別置復、臨、泰、大壯、夬、乾、姤、遁、否、觀、剝、坤為十二闢卦,每爻各主一候(五日五分,又六分分之,五為一候。)。自復至乾為息卦,曰太陽。自姤至坤為消卦,曰太陰。息卦所屬者曰少陽,消卦所屬者曰少陰。以四伯領十二闢,十二闢領公闢侯大夫卿五卦,以司一歲之卦氣,以推吉凶,名為六日七分之學。

また別に《復》《臨》《泰》《大壮》《夬》《乾》《姤》《遯》《否》《観》《剥》《坤》の十二卦を「十二辟卦」として立てる――「辟」とは君で、この十二卦は一年十二ヶ月の君主のごときものである――各爻がそれぞれ一候を主る(五日五分、さらに六分の五分を加えて一候とする)。《復》から《乾》までは陽気が逐月成長する息卦で「太陽」といい、《姤》から《坤》までは陽気が逐月消退する消卦で「太陰」という。息卦に属する者を「少陽」、消卦に属する者を「少陰」という。四伯をもって十二辟卦を統領し、十二辟卦をもって公・辟・侯・大夫・卿の五等の卦を統領し、これをもって一年の卦気を司掌し吉凶を推断するのを、「六日七分」の学という。

盛於西漢,而尤於京氏為精。故後人輒稱之為京房卦氣。其實此法相傳最古。今所傳《連山》,卦雖殘缺不完,然以坎離震兌分主四季,亦復相同。可見自三代時已有此學。故孔子《繫傳》上繫起中孚,下繫起咸,亦述而不作焉。漢人去古未遠,三代遺法猶有存者。京氏之學,自必有所師承,非所能臆造者。

この学問は西漢に盛んで、特に京房が最も精しく講じたので、後人はしばしばそれを「京房卦気」と称する。実はこの法は相传が極めて古い。今日伝わる《連山》は、卦こそ残欠不備だが、同じく坎・離・震・兌で四季を分けて主らせている。夏・商・周の三代の時にすでにこの学問があったことが分かる。だから孔子の《繋辞》は上伝で爻を挙げるのに《中孚》から始め、下伝で爻を挙げるのに《咸》から始めたのも、ただ旧法に沿って述べるのみで新たな意を出さなかった、いわゆる「述べて作らず」である。漢人は古に去ること遠からず、三代の遺法はなお存留していたので、京房の学は必ず師承する所があったのであって、彼が憑空に造り出せたものではない。

特其時讖緯之說盛行,各自為說,真贗莫辨,漸入於怪誕支離,幾不可究詁。至禁習緯書以遏其頹波,而三古僅存之遺法,亦為之湮沒不彰,良可痛也。

ただその時讖緯の説が盛んで、人は各々説を立て、真贋の弁別がつかず、次第に怪誕支離に流れ、ほとんど考究できなくなった。後に朝廷が緯書の研習を禁じてこの頽風を遏止したため、上古に僅かに残っていた遺法もまたこれに連なって湮没して顕れなくなった。実に痛ましいことである。

後之言卦氣者,變化百出,有自乾至未濟,依文王《序卦》,以一卦直一日,乾直甲子,坤直乙丑,迄未濟直癸亥,周而復始。六周盡三百六十日,而坎離震兌直二分二至,此焦氏之法也。有以乾坤坎離為橐龠,餘六十卦,依《序卦》一爻值一時;而周一月,又以十二闢卦,每卦管領一時。此魏伯陽之法也。

後に卦気を講ずる者は変化百出した。ある者は《乾》から《未済》まで、文王《序卦》の次序に依って一卦を一日に値させ、《乾》は甲子、《坤》は乙丑、《未済》は癸亥に値し、周に復して始まる。六回でちょうど三百六十日となり、坎・離・震・兌が二分二至に値する――これが焦延寿の法である。ある者は乾・坤・坎・離を鼓風の橐籥とし(橐籥とは風箱で、ただ鼓动を司り自らは流転に参与しない意を取る)、残りの六十卦を《序卦》の次序に依って一爻を一時辰に値させ、一ヶ月で一周を終え、また十二辟卦が各卦で一つの時辰を管領する――これが魏伯陽の法である。

有以六十卦,一爻主一日,《上經》起乾甲子,泰甲戌,噬嗑甲申,至離三十卦,而三甲盡。《下經》起咸甲午,損甲辰,震甲寅,至癸亥而終,亦三十卦。另以中孚小過既未濟,代坎離震兌,以應分至。每爻直十五日,以應二十四氣。此史繩祖之法也。

ある者は六十卦をもって一爻が一日を主らせ、上経は《乾》から甲子を起こし、《泰》は甲戌を起こし、《噬嗑》は甲申を起こし、《離》まで三十卦で甲子・甲戌・甲申の三輪の干支がちょうど遍く回る。下経は《咸》から甲午を起こし、《損》は甲辰を起こし、《震》は甲寅を起こし、癸亥で終わり、同じく三十卦である。別に《中孚》《小過》《既済》《未済》をもって坎・離・震・兌に代えて二分二至に応じ、各爻が十五日に値して二十四節気に応ずる――これが史繩祖の法である。

至邵康節以先天圖定卦氣,以復起冬至,姤起夏至,以乾坤坎離,分主二至二分。而張理又取邵子先天方圖,以冬至起復,至泰而正月,乾四月,否七月,坤十月。又以一陰一陽至六陰六陽分列,六陽處南,自下而升;六陰處北,自上而降,則又合漢宋為一家矣。《易占經緯》又以文王八卦,依邵子先天式列為圓圖,而以渙起冬至。紛紛不一。

邵康節に至っては先天図をもって卦気を定め、《復》をもって冬至を起こし、《姤》をもって夏至を起こし、乾・坤・坎・離をもって二至二分を分主した。元人の張理はまた邵子が六十四卦を方陣に排した先天方図を取り、冬至から《復》を起こし、《泰》に至って正月、《乾》は四月、《否》は七月、《坤》は十月とし、また一陰一陽から六陰六陽まで分列して、六陽は南辺に居り下から升り、六陰は北辺に居り上から降るとした。これで漢学と宋学を一家に合した。《易占経緯》はさらに文王の後天八卦を取り、邵子の先天図の様式に照らして円図に排し、《渙》をもって冬至を起こした。諸説紛紜として一様でない。

除焦氏為別立占法,非關卦氣;魏伯陽《參同契》,乃借《易》以演其丹經;邵子先天數,以《易》演其《皇極經世》,各自成一家,當從別論外,其餘皆模仿六日七分法以之推演者。雖具有條理,而按諸理數而無當,驗諸天時而不合。雖斥為無知妄作,亦未為不可。至因眾說之蕪雜,並卦氣而亦妄之,無乃矯枉而過其正歟!

そのうち焦延寿は別に一套の占法を立てたので卦気に関係なく、魏伯陽の《周易参同契》は《周易》を借りて彼の丹経を推演したもので、邵子の先天数は《周易》を用いて彼の《皇極経世》を推演したものである。この三家は各々派を成したので、別に論ずべきである。そのほかの説は皆「六日七分」の法を模倣して推演したものにすぎず、条理は備わっているが、理数に按ずれば妥当でなく、天時に験しても合わない。これを無知妄作と斥けても過分ではない。しかし衆説の蕪雑のために、卦気そのものまで一緒に妄誕と見なすならば、それは矯枉過正ではなかろうか。

月建積算

攻京氏之術,其占法所用月建,與近世術家之所謂月建不同。近以占日所隸節為月建,而京氏以爻直月,從世起建,佈於六位。惟乾坎二卦從初爻起,餘卦均從世爻起。如乾起甲子,坤起甲午,一卦凡六月也。積算則以爻直日,即從建所止起日,如姤之上九乙亥,即以乙亥起上九為一日,終而復始。一卦凡一百八十日。近則月為直符,日為傳符,以見於爻之卦支,合於日月者當之,與古法異矣。

京房の術を研治する者は知るべきである。京氏の占法に用いる「月建」は、近世の術家の言う月建と同じではない。近人は卦を起こした当日が属する節気をもって月建とするが、京氏は爻をもって月に値させ、世爻から建を起こして順次六つの爻位に布く。ただ《乾》《坎》の二卦のみ初爻から起こり、他の卦は一律に世爻から起こる。例えば《乾》は甲子から起こり、《坤》は甲午から起こる。一卦で都合六ヶ月を管する。「積算」は爻をもって日に値させ、月建が終止した所から日を起こす。例えば《姤》卦の上九は乙亥なので、乙亥をもって上九を起こして第一日とし、終わりてまた始まる。一卦で凡そ百八十日である。近人のやり方は月を「直符」、日を「伝符」とし、爻に納められた地支が日辰・月建に合するものを取って用いるので、古法と異なる。

蓋京氏之學,魏晉以後,已鮮傳人。至宋時,僅存《火珠林》之法。而所謂《火珠林》者,亦不詳其所自,未知撰述者何人。要之以錢代蓍,與近世所傳相近,而《火珠林》之書卒不可見。間有傳本,又鈔寫不同,未能確辨其真偽也。

もともと京房の学は魏晋以後伝習する者がほとんどなく、宋代に至っては《火珠林》の一路の方法のみが残った。しかしその《火珠林》というものも、その由来が詳らかでなく、撰述者が何人かも分からない。要するに銅銭をもって蓍草に代えるもので、近世に伝わる銭を振って卦を起こす法に近いが、《火珠林》という書は結局見ることができない。たまに伝本があっても、鈔写がそれぞれ異なり、その真偽を確かに弁別できない。

今所傳卜筮之書,大都出於唐宋之後。溯其淵源,終不出京氏世應飛伏之範圍。而取用分類,或視昔較繁。世事紛紜,孳乳遞演,累進無已。機械之用,尤日出不窮。故推算之術,往往今密於古。但按於理而可通,徵諸道而不悖者,正不妨變通以宜民,必執舊法以相繩無謂也。

今日伝わる卜筮の書は、大抵唐宋以後に出たものである。その淵源を遡れば、終に京氏の「世応」「飛伏」の範囲を出ないが、取用の門類は昔よりやや繁密である。世事が紛紜として代代滋生演化し、累進して止まず、機械器物の用途は特に日出に窮まりがないので、推算の術は往々にして今が古より綿密である。ただ理に按じて通じ、道に徴して悖らなければ、変通して民に便りを図るのを妨げることはない。必ず旧法に固執して一切を衡量するのは無意味である。

夕に惕れること若夤

《乾·九三》“君子終日乾乾夕惕若夤厲無咎”,舊本無“夤”字,後據《說文》所引補入。高郵王氏駁之,列舉五義,其說詳矣。然以卦象推之,乾九三爻即艮爻,《艮·九三》“艮其限列其夤厲熏心”,足以證乾九三之“夕惕若夤厲無咎”之“夤”字,決非《說文》所誤引,與後人傳寫之訛也。

《乾》卦九三の爻辞「君子は終日乾乾として、夕に惕れること若夤、厲けれども咎なし」について、旧本にはもともと「夤」の字がなく、後人が《説文解字》の引く《易》文に拠って補い入れた。高郵の王氏はこの補法を駁斥して五条の理由を挙げ、説は甚だ詳しい。しかし卦象から推求すれば、《乾》の九三の爻はまさに艮爻に相当し、《艮・九三》の爻辞は「其の限を艮し其の夤を列す、厲しくして心を薰す」であって、《乾》九三の「夕に惕れること若夤、厲けれども咎なし」の「夤」の字が、決して《説文》の引き違いでもなく後人の伝写の誤りでもないことを証明するに足る。

王氏以《文言》亦無“夤”字,為所據五證之最有力者。然傳以釋經,固未必全錄經文。“坤先迷後得主利”,而《文言》曰“後得主而有常”,亦無利字,豈足以證《坤·彖》“先迷後得主利”之“利”字為衍文乎?“夤”字於卦義爻義,均極有關係,當別為說以詳之。

王氏は《文言伝》にも「夤」の字がないことを、彼の五条の証拠のうち最も有力なものとした。しかし伝は経を釈するもので、もともと経文を全く写す必要はない。《坤》卦辞に「先に迷い後に主を得、利あり」とあるのに、《文言伝》は「後に主を得て常あり」と言うだけで「利」の字がない。これをもって《坤・彖》の載せる「先迷後得主利」の「利」の字が衍文と断定できるだろうか。「夤」の字は卦義・爻義に対して関係が極めて大きいので、別に専文を作って詳しく論説すべきである。

経を改めるの貽誤

《繫傳》“天一地二天三地四”至“所以神變化而行鬼神也”一節,原本在“《易》有聖人之道四焉”一節之前。下文所謂“參伍以變錯綜其數,通其變極其數”云云,皆根據於此。程子以之移在“大衍之數五十”之上,後人皆因之,遂將經文前後隔截,不相貫串,致發生二種錯誤。

《繋辞上伝》の「天一地二天三地四」から「所以に変化を成して鬼神を行わしむる」に至る一節は、もともと「《易》に聖人の道四なる者有り」の一節の前にあった。下文のいわゆる「参伍以て変じ錯綜其の数」「其の変を通じ……其の数を極む」などの語は、皆この節を根拠とする。程頤はこれを蓍策を用いるを講じる「大衍之数五十」の節の上に移し、後人は皆これに因って、本来連貫していた経文を前後に割断し、互いに貫串しなくなり、それによって二種の誤りが生じた。

其一,“參伍錯綜”二語;無所附麗輾轉相訛,異說滋多。來瞿塘之錯綜,張乘槎之參伍,其病根皆伏於此。其二,今“大衍之數五十”,因與“天地之數五十有五”不符,發生無數異議。其實天地之數自天地之數,大衍之數自大衍之數,本不相蒙。因經文移易之後,兩節相為聯屬,遂混兩說而一之,費無限辯論駁議,於經文無所發明。

その一、「参伍」「錯綜」の二句が依拠を失い、輾転に訛伝されて異説がますます多くなった。来知德が「錯」「綜」を講じ、張乗槎が「参伍」を講じたのは、病根が皆ここに伏している。その二、今の「大衍之数五十」は「天地之数五十有五」と合わないため、無数の異議を引き起こした。実は天地之数は一至十を加えて得た総数であり、大衍之数は揲蓍の時に実際に取用する蓍策の数で、両者は各々別の事で、もともと互いに関係しない。ただ経文の位置が一たび移動したため、二節が緊密に連なり、人は二つの説を混同して一つにしてしまい、限りない弁駁議論を空費して経文には何の発明もなかった。

此皆改經之流弊也。宋儒好擅改經文,貽誤後學實多,此特其一耳。至有明喬氏黃氏,及清任釣臺等,擅將《繫辭》顛倒錯亂,尤為無知妄作,要亦宋儒之有以開其先也。

これは皆勝手に経文を改めたために残された流弊である。宋儒は勝手に経文を改動するのを好み、後学を貽誤した所は実に多く、これはその一例にすぎない。明代の喬氏・黄氏および清代の任釣台らに至っては、勝手に《繋辞伝》を顛倒錯乱させ、特に無知妄作である。ただ追究すれば、やはり宋儒がその先を開いたのである。

九六

《周易》“用九用六”。“九”“六”二字,注《易》者立說不一。《正義》云:“陽爻稱九,陰爻稱六。”其說有二:一者乾體三畫,坤體六畫。陽得兼陰,故其數九。陰不得兼陽,故其數六。二者老陽數九,老陰數六。老陰老陽皆變,《周易》以變為占。揲蓍之數,九過揲則得老陽,六過揲則得老陰。少陽稱七,少陰稱八,皆不變,為爻之本體。老陽老陰交而後變,故為爻之別名。

《周易》の乾坤両卦の後には別に「用九」「用六」がある。「九」「六」の二字について、《易》に注する者の立説は一様でない。孔穎達《周易正義》は「陽爻は九と称し、陰爻は六と称す」と言い、その理由は二条ある。第一、乾の卦体は三条の整画で、坤の卦体は六条の断画である。陽は陰を兼含できるのでその数は九であり、陰は陽を兼含できないのでその数は六である。第二、老陽の数は九、老陰の数は六で、老陰老陽は皆変わり、《周易》は変爻をもって占とする。揲蓍の数に就いて言えば、過揲の策が九組に合すれば老陽を得、六組に合すれば老陰を得る。少陽は七と称し、少陰は八と称し、皆変動せず、爻の本体である。老陽老陰は交感して後変動するので、「九」「六」は爻の別名である。

邵子曰:“《易》有真數三而已。三天者三三而九,兩地者倍三而六。陰無一,陽無十。”楊氏萬里曰:“積天數之一三五曰九,積地數之二四曰六。”

邵康節は言う。《周易》の真の数は「三」一つだけである。「参天」は三個の三を乗じて九を得、「両地」は三に一倍を加えて六を得る。陰の中に「一」はなく、陽の中に「十」はない。楊万里は言う。天数の一・三・五を累加すれば九となり、地数の二・四を累加すれば六となる。

《朱子語類》:“奇陽體圓,其法徑一圍三而用其全,故少之為數三。偶陰體方,其法徑一圍四而用其半,故多之為數二。歸奇積三三為九,過揲四九為三十六。積三二為六,過揲四六為二十四。積二三一二為八,過揲四八三十二。積二二一三為七,過揲四七二十八。七八九六,經緯乎陰陽。陽進陰退,故九六為老,七八為少。陽極於九,退八而為陰。陰極於六,進七而為陽。占用九六而不用七八,取其變也。”

《朱子語類》は言う。奇数は陽に属し形体は円で、算法は直径一・周長三でその全数を取用するので、策数の少ない一分を三と算する。偶数は陰に属し形体は方で、算法は直径一・周長四でその半のみを取るので、策数の多い一分を二と算する。帰奇の数は三個の三を累加して九となり、過揲の数は四九三十六となる。三個の二を累加して六となり、過揲は四六二十四となる。二個の三に一個の二を加えて八となり、過揲は四八三十二となる。二個の二に一個の三を加えて七となり、過揲は四七二十八となる。七・八・九・六が交織して陰陽の経緯を成す。陽は前進を主り陰は後退を主るので、九・六を老とし七・八を少とする。陽は九に極まり、八に退けば陰となる。陰は六に極まり、七に進めば陽となる。占卦は九・六のみを用い七・八を用いないのは、それらが変わることを取るのである。

王氏夫之曰:“於象一二函三,三奇之畫一,全具其數。三奇而成陽,三三凡九陰。左一右一,中缺其一。三二而為六。”來氏之所謂“參天兩地”,即楊氏萬里說也。其餘諸家,大約宗孔義與朱說者為多。

王夫之は言う。象から見れば、一と二の中に三を函む。三条の奇画は各画が一で、完全にその数を具える。三条の奇画が合して陽となり、三三で凡そ九。陰画は左一段・右一段で中間に一段が欠け、三個の二を合せて六となる。来知德の講じた「参天両地」は、実は楊万里のあの説である。その余の諸家は、大抵孔穎達の義と朱子の説を宗とする者が多い。

王氏夫之雖似從《正義》第一說,而實較孔氏為精。蓋數極於九,本陰陽之所同具,故二九十有八變而成卦。陰之稱六,特虛其三耳。以推之象,則惟乾九坤六,震坎艮皆七,巽離兌皆八。此《易》之獨繫二用於重乾重坤之下歟?(《易》數稱奇偶,不曰單雙。奇圓偶方稱數而形已寓其中,乾圓坤方圓周三百六十為率分四象,限為九十度。圓內容方方邊自為六十度。此數理之自然。“圓”見《易數偶得》)

王夫之は《正義》の第一説に依るように見えるが、実は孔穎達より精緻に講じている。数は九を極とし、もともと陰陽が共に具えるものなので、二つの九、都合十八変をもって一卦を成す。陰が六と称されるのは、ただその中の三を虚にしただけである。この理をもって卦象を推せば、乾のみが九・坤のみが六で、震・坎・艮の三卦は皆七、巽・離・兌の三卦は皆八である。これがほとんど《周易》が「用九」「用六」の二条を重乾・重坤の下にのみ繋げた所以であろう(《易》の数は「奇」「偶」と称して「単」「双」とは言わない。奇は円・偶は方で、数を称すれば形はすでにその中に寓る。乾は円・坤は方で、円周は三百六十を率として四象に分け、各象限は九十度で、円内に容れる正方は各辺が自ら六十度を成す。これは数理の自然にそうである。「円」については拙著《易数偶得》を見よ)。

貞悔

爻有動靜,卦有貞悔。占例:內卦為貞,外卦為悔。靜卦為貞,動卦為悔。《春秋左氏傳》曰:“貞風也,悔山也。”此內貞外悔者也。貞屯悔豫,此靜貞動晦者也。向來講《易》家皆宗此說,朱子《啟蒙》言之尤詳。

爻には動静があり、卦には貞悔がある。占筮の通例は、内卦を「貞」とし、外卦を「悔」とする。変わらない卦を「貞」とし、変動する卦を「悔」とする。《春秋左氏伝》が占辞を記して「貞は風なり、悔は山なり」と言うのは、内卦を貞・外卦を悔とするもので、また「貞は《屯》、悔は《豫》」というのは、本卦を貞・之卦を悔とするものである。従来《易》を講ずる者は皆この説に遵っており、朱子《易学啓蒙》に言う所は特に詳しい。

而不知《易》之經文,已明明自舉其例。《坤·六三》曰“可貞”,明內卦之為貞也。《乾·上九》曰“有悔”,明外卦之為悔也。如《乾·初九·傳》曰“陽在下也”,《坤·初六·傳》曰“陰始凝也”,亦為陽九陰六自舉其例也。

しかし《周易》の経文そのものが、すでに明らかにこれらの義例を自ら挙げているのを知らない。《坤》卦六三に「貞にすべし」とあるのは、まさに内卦が「貞」であることを表明し、《乾》卦上九に「悔有り」とあるのは、まさに外卦が「悔」であることを表明している。また《乾・初九》の《小象伝》に「陽下に在るなり」とあり、《坤・初六》の《小象伝》に「陰始めて凝るなり」とあるのも、まさに経伝が「陽を九と称し陰を六と称す」ために自ら挙げた例証である。

先天卦位は邵子に始まらず

朱子以河圖洛書及先天卦位圓方各圖,弁於《周易》之首,為後世言漢學者所抨擊,幾於體無完膚。然趙宋以前,雖未有先天之圖,而乾坤坎離震巽艮兌之卦位,固早散見於漢人之《易》注。荀慈明之升降,虞仲翔之納甲,細按之殆無不與先天之方位相合。即以經文上下二篇之卦論之,《上經》首乾坤終坎離,非四正之卦乎?《下經》首上兌下艮之咸,上震下巽之恆,非四隅之卦乎?至《說卦》“天地定位山澤通氣”之一章,兩兩對舉者,更無論矣。

朱熹は「河図」「洛書」および先天卦位の円図・方図を一緒に《周易》の巻首に置いたので、後世の漢学を講ずる者に大いに撃撃され、ほとんど駁されて完膚なきに至った。しかし趙宋以前には、先天図はまだ画かれていなかったが、乾・坤・坎・離・震・巽・艮・兌の八卦が互いに相対する方位は、実はとっくに漢代の学者の《易》注に散見して保存されていた。荀爽(字は慈明)の講ずる「昇降」、虞翻(字は仲翔)の講ずる「納甲」は、細かく照合すればほとんど先天方位に合わない所がない。経文上下二篇の卦序だけに就いて言っても、《上経》は乾・坤で始まり坎・離で終わるが、これは先天図の「四正」の卦ではないか。《下経》は上兌下艮の《咸》卦で始まり、続いて上震下巽の《恒》卦であるが、これは「四隅」の卦ではないか。《説卦伝》の「天地位を定め、山沢気を通ず」の一章が八卦を両両相対して挙げるに至っては、いっそう言うまでもない。

乃漢學家必一概抹煞,謂經傳無乾南坤北離東坎西之文。然先王制禮,推本於《易》,固漢學家所公認焉。乾天坤地,離日坎月,亦漢學家所公認焉。《祭義》“祀天南郊,祭地北郊。朝日東門,夕月西門”,豈亦“帝出乎震”一章之方位乎?

ところが漢学家はこれらの線索を一概に抹殺して、経文・伝文に「乾南・坤北・離東・坎西」という字句は全くないと言う。しかし先代の聖王が礼制を定めるに《易》を根本としたことは、漢学家自身が公認している。乾を天・坤を地とし、離を日・坎を月とすることも、漢学家自身が公認している。《礼記・祭義》に「南郊に天を祀り、北郊に地を祭る。東門に朝日を拝し、西門に夕月を拝す」とある。天が南・地が北・日が東・月が西というこの方位体系は、まさか《説卦伝》の「帝は震より出ず」の一章の排す後天方位であろうか。それは分明に先天卦位である。

“河出圖洛出書”,明見於《繫傳》,是否即今所傳之河圖洛書?誠不敢必。但天地之數五位相得而各有合,既為孔子所明言;一六二七三八四九之位數,又為鄭康成揚子雲所列舉;而兩數之經緯錯綜,加減乘除,又極盡陰陽變化之妙,悉出造化之自然,非人力所能造作。乃亦以經所未載,訾議亦駁斥不留餘地?

「河より図出で、洛より書出ず」という言は明らかに《繋辞伝》に見えるが、それが今日伝わるあの二幅の「河図」「洛書」を指すかどうかは、確かに断定はできない。しかし天地之数が五位相配して各々合する所があるのは、孔子が《繋辞伝》に明らかに言ったことであり、一と六・二と七・三と八・四と九という方位数は、また鄭玄(字は康成)・揚雄(字は子雲)が列挙したことがある。そしてこの二組の数が縦横に錯綜して、加減乗除が至る所で轍に合い、陰陽変化の奥妙を極点まで発揮しているのは、全く自然造化そのものから出て、人力で捏造できるものではない。漢学家はただ経文に明言されていないというだけで、一味に毀訾駁斥して、少しの余地も留めない。

毛西河改河圖為天地生成圖,洛書為太乙九宮圖。夫此二名,詎為經文所載乎?鄭康成之爻辰,所謂子寅辰午申戌,亦經所未載。乃一則據為典要,一則斥為異端。豈得謂是非之平,黨同伐異之見,不能為賢者諱矣。

毛奇齢(号は西河)は「河図」を「天地生成図」と改名し、「洛書」を「太乙九宮図」と改名した。しかしこの二つの新しい名目は、まさか経文に載せられたものであろうか。鄭玄の「爻辰」説が乾卦の六爻に子・寅・辰・午・申・戌を配するのも、同じく経文にないものである。漢学家は鄭玄の爻辰を不易の準則と奉じながら、河図洛書を異端と斥ける。同じく経文に未載なのに取捨がこうも懸殊では、どうして評判が公平と言えよう。同党を偏袒し異己を攻撃するという成見は、たとえ先輩の賢者の身に出たとしても、彼らのために隠し立てできない。

許叔重《說文》云:“《秘書》日月為《易》,象陰陽也。”所謂“秘書”者,當時必有傳本。許與魏伯陽同時,決非指《參同契》也。杜預《春秋左氏傳集解後序》曰:“汲郡有發舊塚者,大得古書。《周易》上下篇與今本同。別有陰陽說,而無《彖》、《象》、《文言》、《繫辭》。疑於時仲尼造之於魯,尚未播之於遠國也。”由是觀之,《周易》上下二篇外,必尚有類於圖說之簡篇。漢時猶有流傳,或稱為“秘書”,亦未可知。

許慎(字は叔重)《説文解字》に「《秘書》は『日・月の二字が合して易の字を成す』と言い、陰陽に象を取ったものである」と言う。彼の引くこの《秘書》は、当時必ず別に伝本が世にあったはずである。許慎は魏伯陽と同時代の人で、指す所は決して魏伯陽の《周易参同契》ではない。杜預《春秋左氏伝集解後序》に曰く。「汲郡に古塚を発く者あり、大いに古書を得たり。その中の《周易》上下篇は今本と同じ。別に陰陽を説く書ありて、《彖伝》《象伝》《文言》《繋辞》なし。孔子が当時魯において十翼を作ったが、まだ遠方の国に伝播していなかったと疑われる」と。これによって見れば、《周易》上下二篇の外に、必ず図説の類に似た簡册があって、漢代にもなお伝わり、「秘書」と称されたことがあったかも知れない。

朱子謂“先天各圖,決非後儒所能偽造,必當初所本有,後來散佚,流入道家。至希夷傳出,得復還儒家之舊”云云,殊非無所見而云然也。後人或據劉長民之說,以九為河圖,十為洛書。或欲避先後天之名,以先天為伏羲八卦,後天為文王八卦;或以先天為天地定位圖,後天為帝出乎震圖。舍其實而鶩於名,是更可以不必矣。

朱熹は言う。「先天の諸図は決して後代の儒者が偽造できるものではなく、必ず当初に本有の物で、後に散失して道家に流入した。陳摶(号は希夷)がそれを伝出して、初めて儒門の旧物に復帰できた」と。この言は決して根拠のない懸揣ではない。後人に至っては、ある者は劉牧(字は長民)の説に拠り、九宮の数を「河図」、十数の図を「洛書」と称し、ある者は「先天」「後天」の二つの名目を避けようとして、先天を「伏羲八卦」・後天を「文王八卦」と改め称し、またある者は先天を「天地定位図」・後天を「帝出乎震図」と改め称した。これらは皆実質を捨てて名目で勝を争うもので、いっそう必要がない。

易学は王莽に厄す

易學於西漢為盛。乃至東京,幾成絕響。施孟梁丘三家之學,若存若亡。費氏高氏,亦罕傳述。至漢季始有馬鄭荀虞諸氏,繼緒而興。陸績劉表宋衷諸氏,均有撰著。然習費氏古文者為多。三家之《易》,僅虞翻延孟氏一線,餘子皆湮沒無聞矣。嘗疑東西二京,相去非遙,何以易學之驟然衰落,一至於是?此其中必有原因。

《易》学は西漢に極めて盛んで、東漢に至ってはほとんど絶響となった。施讐・孟喜・梁丘賀の三家の官学は、この時若存若亡で、費直・高相の二家も、伝述する者がほとんどいない。漢末に至って初めて馬融・鄭玄・荀爽・虞翻らが先緒を続けて再興し、陸績・劉表・宋衷らも各々著述があったが、彼らが研習したのは多くが費直の伝えた古文《易》であった。施・孟・梁丘の三家の《易》学は、虞翻の一系だけが孟喜の一線の血脈を延ばしているのみで、他の各家は皆湮没して聞こえなくなった。私は常に疑問に思う。西漢と東漢は相隔たること遥かでないのに、なぜ《易》学が驟然と衰落してこのような有様になったのか。この中には必ず原因がある。

嗣據金石家所探索,謂西漢無碑,因王莽惡稱頌漢德,故剷除殆盡。間有存者,非伏藏土中,或深埋窮谷,為搜剔所不及者耳。於是悟《易》注之亡,亦或莽之所為。蓋西漢易學既盛,而讖緯之說,又成俗尚。西京士大夫,往往侈言陰陽。觀馬班諸書所錄書疏,可見其概。莽初則利為己用,名位既成,惡而去之,乃勢所必然。竄改五經之作用,亦此物此志焉。

後に金石学家の考察を読んで、西漢一代にはほとんど碑刻が伝わらないのは、王莽が碑文に漢の功徳を称頌するのを悪み、それらを剷除して尽くしたためで、たまに留存するのも、土中に埋もれたか深山幽谷に深く埋もれたかして、捜剔の及ばないものにすぎないことを知った。これによって私は悟った。西漢の《易》注が亡佚したのも、おそらく王莽のやったことであろう。西漢の《易》学は盛んで、「讖緯」の説がまた一時の風尚となり、京城の士大夫は動もすれば大いに陰陽災異を談じた。司馬遷・班固の書に収録された奏疏を見れば、その一斑が窺える。王莽は初めはちょうどこの一套を借りて自らの勢いを作り、名位が手に入ると、反対にそれを悪んで剷除した。これは勢いの必然であり、彼が五経を竄改した用心も、同じ心の持ちようである。

又據《班書·儒林傳》,高相子康以明《易》為郎,王莽居攝。東郡太守崔誼,謀舉兵誅莽。事未發,康候知東郡有兵亂,私語門人,門人上書言之。後數月崔誼兵起,莽召問,對受師高康,莽惡之。以為惑眾斬康,亦足為莽摧殘易學之一證焉。行篋無書,他日當詳考之。

また班固《漢書・儒林伝》の記載によると、高相の子の高康は《易》学に通じて郎官となった。王莽が摂政の時、東郡太守の崔誼が兵を起こして王莽を誅することを謀ったが、事が未だ発しないうちに、高康は占候によって先に東郡に兵乱があることを察し、内々に門人に告げたが、門人は上書してこの事を告発した。数ヶ月後に崔誼は果たして兵を起こし、王莽は召して問うたが、その人は師の高康から聞いたと答えたので、王莽は彼を悪み、妖言衆を惑わすの罪で高康を斬った。これも王莽が《易》学を摧殘した一つの証拠として足る。私の行囊には書を携えていないので、他日詳しく考訂しよう。

嗚呼,《易》幸不亡於暴秦,乃厄於偽新。殆所謂美新劇秦也歟?(按:呂政不知書,故儕《易》於卜筮,不甚注意。而王莽則深於經學者也,知《易》道廣大,必為小人之憂。乃陽奉而陰沮之。一手遮天,直欲盡掩天下後世之耳目。諺曰:家賊之禍,倍烈於盜寇哉!)

ああ、《周易》は幸いにも暴秦の焚書に毀られなかったのに、反対に王莽の偽造した「新」朝に厄困された。これはほとんど揚雄の《劇秦美新》の一路、「暴秦を貶斥して新莽を讃美する」やり方の遺した悪果であろうか。(原按:秦始皇の嬴政は書を読まなかったので、《易》を卜筮の類に帰してあまり意に介せず、《易》はそれによって保全できた。王莽は経学に深く通じた人で、《易》道が広大であることを知り、必ず奸人の心腹の患となると考えて、表面では尊奉しながら陰では阻絶し、一手で天を遮って、天下後世の耳目を一緒に蒙らんと欲した。諺に言う。家賊の禍は、強盗より一倍烈しいと)

王弼は後生に誤られた

輔嗣說《易》,陳誼甚高。而文辭雋逸,超乎物外,故能得意忘象。司空表聖所謂超於象外得其環中者,其斯之謂歟?惟必超乎象之外,方可以忘象。如探驪龍之領而既得其珠,則龍亦廢物,更何論乎魚兔之筌蹄?

王弼(字は輔嗣)が《易》を説くに、立論の境界は甚だ高く、文辞は清雋にして飄逸、超然として物外にあるので、「意を得て象を忘る」――義理を領会したら卦象を脇に置くことができた。司空図(字は表聖)の《二十四詩品》の言う「象外を超えて環中を得る」は、ほとんどこのような境界を言うのであろう。ただ必ず真に卦象を超越してこそ、象を忘れることができる。驪龍の頷下の珠を探る者で、珠が既に手に入れば、龍そのものも无用の物となり、まして魚を捕る竹笱・兎を捕る網罟の類の工具をや論ずべきだ。

後之言《易》者,既畏象數之繁頤奧衍,莫窺其蘊,喜王氏之學,可以避去繁頤奧衍之象數而說《易》也。於是群焉奉之為圭顳,而又病輔嗣陳義之過高,未能企而及焉,乃曰此玄談也。非孔子之道,為王《易》之微疵焉。吾輩舍其短而取其長,斯盡善盡美白圭無玷矣。因之空談性命,不著邊際。但讀“一陰一陽之謂道”一句,卦爻盡屬贅疣。《彖》、《象》十翼,望文生義以解之,而《易》之能事畢矣。

後世に《易》を講ずる者は、もともと象数の学が繁賾奥衍でその底藴を窺えないことを畏れ、王弼の一路の学問を好んだ。それによって繁賾奥衍の象数を措いて《易》を説くことができるからである。彼らは群れをなして王弼を準縄と奉じながら、また彼の立義が高すぎて自分が及ばないことを嫌い、そこで言う。これは「玄談」で孔子の道に合わず、王氏の《易》学の小疵であると。我々はその短を舎ててその長を取れば、尽善尽美・白圭無玷であると。そこで一味に性命の理を空談して、全く辺際に着かない。ただ「一陰一陽之謂道」の一句を読むだけで、卦爻を皆余分の贅疣と見なし、《彖伝》《象伝》以下の十翼を望文生義に口を任せて解説し、《易》学の能事はすでに尽きたと思った。

不知王《易》之所以能掃象而仍無礙其說者,正惟其深得玄理,故能獨超乎意象之表也。乃以玄談為病而去之,則所存之不病者,皆糟粕耳。猶冥然自侈為輔嗣之功臣,致令後世宗漢《易》者以掃象為王氏罪,曰“輔嗣學行無漢《易》”,輔嗣豈任受哉?

彼らは明らかにしない。王弼の《易》が卦象を掃除してもなお説が立つのは、まさに彼が玄理を深く得て、独自に意と象の表を超越できたからである。今「玄談」を病みとして剔除すれば、残った「病まない」部分は皆糟粕となる。この輩はまだ懵々として自ら王弼の功臣を誇り、結果として後世の漢《易》を尊ぶ学者に「象を掃った」罪を王弼の帳簿に記させ、「輔嗣の学が行われて漢《易》が絶えた」と言わせるに至った。この罪名を、王弼がどうして任じ受けることができよう。

《坤・彖》の三「無疆」

《坤·彖傳》“坤厚載物德合無疆”,“牝馬地類行地無疆”,“安貞之吉應地無疆”。《程傳》雖已分晰言之,殊未悉當。郭氏云雍曰:“坤合乾德之無疆,馬行類地之無疆,聖人應坤之無疆。”

《坤卦・彖伝》に三度「無疆」が現れる。一は「坤の厚くして物を載するは、徳合して疆なし」、二は「牝馬は地の類、地を行ること疆なし」、三は「安貞の吉、地に応じて疆なし」である。程頤《伊川易伝》はすでに分けて解説したが、必ずしも皆妥当とは言えない。郭雍(字は子和、世に白雲先生と称す)は言う。第一の所は坤徳が乾徳の無疆に契合することを言い、第二の所は牝馬の行が地の無疆に取法することを言い、第三の所は聖人が坤の無疆に感応することを言う。

邱建安富國曰:“德合無疆,乾之無疆也。行地無疆,坤之無疆也。應地無疆,君子之無疆也。無疆,天德也。地能合天之德。君子法地,地法天。”郭邱二說,似較《程傳》為勝。此與“大哉乾元”“至哉坤元”“元者善之長也”三“元”字,為例正同,所謂三才之道也。

建安の人邱富国は言う。「徳合して疆なし」は乾の無疆を言い、「地を行ること疆なし」は坤の無疆を言い、「地に応じて疆なし」は君子の無疆を言う。無疆はもともと天徳で、地は天の徳に契合し、君子は地に法り、地はまた天に法る。郭雍・邱富国の二つの解釈は、《伊川易伝》より勝れているようである。この三つの「無疆」の用法は、《易》中の「大なるかな乾元」「至れるかな坤元」「元は善の長なり」の三つの「元」の字が天・地・人に分属する体例と全く同じで、いわゆる天地人の「三才」の道を貫くものである。

字義に広狭の分あり

經傳用字,往往含有廣狹二義。如天,以狹義言之,則與地對。而廣義之天,則廣大無垠,非地可並擬者也。如陽之狹義,則與陰對,而廣義則陽可統陰,陰生於陽,非陰可同論矣。如乾之狹義,則與坤對,而廣義則乾可包坤。乾之一卦,實統轄乎六十四卦。上下篇六十四卦,為三十六卦之反覆,實得二百一十有六爻,為重乾一卦之策。如坤之百四十有四策,悉歸納於乾之內矣。此意義廣狹之最顯者也。

経文と伝文の用字は、往々にして広・狭の二層の意味を兼含する。「天」の字を取って言えば、狭義の天は地と対する天である。広義の天は広大にして垠がなく、地が並んで拟すことができるものではない。「陽」の字も同じで、狭義の陽は陰と対し、広義の陽は陰を統摂できる。陰はもともと陽から生じたので、陽と等量斉観できない。「乾」の字も同様で、狭義の乾は坤と対し、広義の乾は坤を包含できる。乾の一卦は、実は六十四卦を統轄する――上下篇の六十四卦は三十六の卦体が正反覆して成ったもので、実に二百十六爻を得、ちょうど重乾一卦の策数に等しい。こうなれば坤卦の百四十四策も、すべて乾の中に帰納される。これが字義の広狭の別の最も顕豁な例である。

若更進一層言之,則廣義狹義之中,又各有大小或淺深精粗之不同,非詳察其上下之文義,及所聯綴之名詞。逐字剖析,則與經傳之本意,便大有出入。往往因一字之牽連混合,而誤會經旨,輾轉謬誤,歧中又歧,遂致乖戾不可究詁。

さらに深く一層言えば、広義の中にさらに大小があり、狭義の中にも深浅精粗の差別がある。もし上下文の語意脈絡およびそれと連綴する名詞を仔細に体察し、字ごとに剖析して明らかにしなければ、解したものは経伝の本意と大いに出入りする。往々にして一字の牽連混淆のために全経の宗旨を誤会し、輾転訛伝して一歧再歧となり、最後には乖謬して考求できなくなる。

如道德等,皆經傳中最主要之字也,而道字之意義,其範圍廣狹大小,各各不同。老子曰“有物無形先天地生,無以名之強名之曰道”者,此道字範圍最大。乃立乎天地之先,孕育萬有之根。此先天之道,無可比擬也。《易》以有立教,從“《易》有太極”說起。故《易》之道,皆一陰一陽之謂道,此《易》中道字廣義之界說也。

例えば「道」「徳」の二字は、皆経伝の中で最も肝要な字だが、単に「道」の字だけに就いて論じても、その範囲は大小各々異なる。《老子》に言う。「一つの物があって形体がなく、天地に先んじて生まれ、それを呼ぶ術がないので、強いて名を取って『道』とする」と。この「道」の字の範囲は最大で、天地生成の先に立ち、万有を孕育する根本で、先天の道に属し、比擬できるものがない。《周易》は「有」の上に教を立てるので、口を開けば「《易》に太極あり」である。だから《易》の言う道は、皆「一陰一陽之謂道」のあの道で、これが《易》の中の「道」の字の広義の界説である。

經文“道”字凡四見,皆屬此義。《十翼》中如“未失道焉”,“道大悖也”,“其道光明”等道字,皆廣義也。其狹義者,如“天道”“地道”“人道”“君子之道”“小人之道”是也。而“夫婦之道”、“陰陽之道”、“三極之道”,則又狹隘義中之廣義矣。

経文の中で「道」の字は合計四度現れ、皆この広義に属する。《十翼》の中では、「道を失わざるなり」「道大いに悖れるなり」「其の道光明なり」などの「道」の字も皆広義である。狭義の用法に至っては、「天道」「地道」「人道」「君子之道」「小人之道」の類である。そして「夫婦之道」「陰陽之道」「三極之道」は、さらに狭義の中の相対的に広い一層である。

德字如“通神明之德”,德之盛也。“和順於道德”之“德”字,皆廣義之德也。如“陰陽合德”、“位乎天德”、“而德不孤”之“德”字則狹義矣。但無論廣義狹義,又各有內外之別。如健順動入為卦德,乃德之見於外者,為才德之德,如“三陳九德”之德(即“履德之基也”一章),及“進德修業”“神明其德”等德字,乃德之蓄乎內者,為“道德”之德。類乎此者,不勝枚舉。非極深研幾,逐字衡量而剖析之,則差以毫釐,謬以千里矣。

「徳」の字も同じである。「神明の徳を通ず」「徳の盛んなり」「道徳に和順す」の数カ所の「徳」は皆広義の徳で、「陰陽徳を合す」「天徳に位す」「徳孤ならず」の数カ所の「徳」は狭義の徳である。しかし広義狭義を問わず、さらに各々内外の別がある。健・順・動・入のごとき八卦の性情――乾は健・坤は順・震は動・巽は入――は「卦徳」と呼ばれ、徳が外に顕れた面で、「才徳」の徳に属する。《繋辞伝》が三度陳説する九卦の徳(すなわち「履は徳の基なり」の一章)および「徳を進め業を修む」「其の徳を神明す」などの「徳」の字は、徳が内に蘊蓄する面で、「道徳」の徳に属する。この類の例は挙げ尽くせない。「極深研幾」は《繋辞伝》の言葉で、極めて隠微な処まで鑽研することを言う。このような功夫を下さず、字ごとに権衡剖析しなければ、毫厘を差して千里を謬ることになる。

此猶就一字言之,更有兩字互相為用。而彼此迭相發明者,如《乾·九五》曰“位乎天德”,《坤·六三》曰“地道光也”。此“道”“德”二字,實互相關聯。各卦之類此者,亦不勝枚舉。蓋聖人作《易》,實與造化同功。其神妙不可思議,而文字亦非常理可以測度。故有以非同一之字,而以形聲之相同而通之為一者,如弟娣梯涕、爤籣連漣之類是也。即有以同一之字,同一意義,而大小內外分際各殊,絕不相假借者,二四三五同功異位,同人以同而異,睽以異而同,神而明之,存乎其人,先聖已一言以蔽之矣。

以上はまだ単字について言ったにすぎない。さらに二つの字が互いに用を成して、彼此迭々発明する者がある。例えば《乾卦・九五・文言》に「天徳に位す」と言い、《坤卦・六三・象伝》に「地道光なり」と言う。乾は徳を言い坤は道を言う。この「道」「徳」の二字は、実に互いに関連し交錯して義を取る。各卦の中のこの類の例も数え尽くせない。聖人が《易》を作るに、その功用は造化と同じく、神妙にして思議すべからざるもので、用いる文字も常理で揣測できるものではない。だからもともと同じ字でないのに、形体と声音が同じために通用して一つとなる者があり、「弟・娣・梯・涕」「爤・籣・連・漣」の類がそれである。すなわち明らかに同じ字・同じ意義であっても、大小内外の分際が異なって、絶対に通假しない者もある。二爻と四爻・三爻と五爻は「同功にして位を異にし」、《同人》卦は「同」によってその「異」を見、《睽》卦は「異」によってその「同」を見る。この間の分際は、まさに《繋辞伝》の言う「神と明とは其の人に存る」で、先聖はすでに一言をもってこれを蔽い尽くしたのである。

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