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繋辞上・第九章

唐 · 孔颖达 · 第26巻 / 31

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

[疏]正義曰:“子曰知變化”至“此之謂也”。此第九章也。上章既明大衍之數,極盡蓍策之名數,可與助成神化之功。此又廣明易道深遠,聖人之道有四,又明易之深遠,窮極幾神也。子曰:“知變化之道者,其知神之所為乎?夫變化之道,不為而自然。故知變化者,則知神之所為。[疏]正義曰:言易既知變化之道理,不為而自然也。則能知神化之所為,言神化亦不為而自然也。

孔穎達は章旨を標明して曰く:「子曰知変化」より「此之謂也」に至るは、《繋辞上》の第九章なり。上一章すでに大衍の数を闡明し、蓍策の名目数量を窮尽し、それが能く神化の功を輔助成就するを指出せり。この一章はまた広く《易》道の深遠を闡明して、聖人の道に四項ありと説き、併せて進んで《易》の深遠を説明して、能く幾微と神妙を窮究す。経文に曰く:孔子の曰く:「変化の道を懂得する人は、大概『神』の作為を懂得せるか。」韓康伯の注は:変化の道は、造作を加えずして自然にこうなるなり、だから変化を懂得する人は、便ち神の作為を懂得すと解す。孔穎達は申説す:これは《易》はすでに変化の道理は造作を加えずして自然にこうなるを明白にせれば、便ち能く神化の作為を明白にす、神化も同じく造作を加えずして自然にこうなるに因りて。

《易》有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。”此四者存乎器象,可得而用也。[疏]“《易》有”至“其占”。○正義曰:“《易》有聖人之道四焉”者,言《易》之為書,有聖人所用之道者凡有四事焉。“以言者尚其辭”者,謂聖人發言而施政教者,貴尚其爻卦之辭,發其言辭,出言而施政教也。“以動者尚其變”者,謂聖人有所興動營為,故法其陰陽變化。變有吉凶,聖人之動,取吉不取凶也。“以制器者尚其象”者,謂造制形器,法其爻卦之象。若造弧矢,法睽之象,若造杵臼,法小過之象也。“以卜筮者尚其占”者,策是筮之所用,並言卜者,卜雖龜之見兆,亦有陰陽三行變動之狀。故卜之與筮,尚其爻卦變動之占也。

経文に曰く:《周易》の中に聖人の道の四項を含有す:もって言を立つるは、その卦爻辞を看重し、もって行動するは、その変化を看重し、もって器物を制作するは、その物象を看重し、もって卜筮するは、その占断を看重す。韓康伯の注は:この四項は皆器と象の上に寄托すれば、だから取りてこれを用うべしと解す。孔穎達の疏は「《易》有」より「其占」に至る一段を解して曰く:いわゆる「《易》有聖人之道四焉」は、《周易》のこの書は、その中に聖人の使用する所の道を含有して共に四事あり。いわゆる「以言者尚其辞」は、聖人が発言して政教を施行する時に、卦爻の文辞を看重し、これに拠りて言辞を発し出言して政教を施行す。いわゆる「以動者尚其変」は、聖人が興挙営為する所有る時に、陰陽の変化を效法す。変化に吉あり凶ありて、聖人の挙動は吉を取りて凶を取らず。いわゆる「以制器者尚其象」は、器物を創制する時に卦爻の象を效法す、例えば弓箭を製造して《睽》卦の象を效法し、杵臼を製造して《小過》卦の象を效法す。いわゆる「以卜筮者尚其占」は、蓍策はもとより筮法の用いる所にして、ここに「卜」を一併に提及するは、亀卜は顕現する所は灼兆なるといえども、その中にもまた陰陽変動の状あり、だから亀卜と蓍筮は皆卦爻変動の占断を看重す。

○注“器象”。○正義曰:“辭”是爻辭,爻辭是器象也。“變”是變化,見其來去,亦是器象也。“象”是形象,“占”是占其形狀,並是有體之物。有體則是物之可用,故云“可得而用者也”。

孔穎達の疏は韓康伯の注中の「器象」の二字を解して曰く:いわゆる「辞」はすなわち爻辞にして、爻辞は器と象に属す。いわゆる「変」はすなわち変化にして、その往来を見る能く、もまた器と象に属す。いわゆる「象」はすなわち形象にして、いわゆる「占」はすなわちその形状を占断す——これらは皆形体あるの物なり。すでに形体あれば、便ち取用すべきの物なり、だから韓注に「可得而用者也」と曰う。

是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言。其受命也如響,無有遠近幽深,遂知來物。非天下之至精,其孰能與於此?[疏]正義曰:“是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言”者,既易道有四,是以君子將欲有所施為,將欲有所行,往占問其吉凶,而以言命蓍也。“其受命也如響”者,謂蓍受人命,報人吉凶,如響之應聲也。“無有遠近幽深”者,言易之告人吉凶,無問遠之與近,及幽遂深遠之處,悉皆告之也。“遂知來物”者,物,事也。然易以萬事告人,人因此遂知將來之事也。“非天下之至精,其孰能與於此”者,言易之功深如此,若非天下萬事之內,至極精妙,誰能參與於此,與易道同也。此已上論易道功深,告人吉凶,使豫知來事,故以此結之也。

経文に曰く:それゆえ君子はまさに作為する所有らんとし、まさに行動する所有らんとする時に、便ち蓍占に発問して言辞をもって相命す。蓍占は問う所を接受して、回声のごとくに回応す。遠近幽深を論わず、皆能くこれに由りて未来の事を知暁す。もし天下の最も精微なる者にあらざれば、誰か能く此に参与せんや。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「是以君子将有為也,将有行也,問焉而以言」は、《易》道はすでに上述の四項あれば、それゆえ君子はまさに施為する所有らんとし、まさに行動する所有らんとする時に、便ち往きて吉凶を占問し、言辞を用いて蓍草に命告す。いわゆる「其受命也如響」は、蓍草は人の命告を接受して、人に吉凶を回報して、まさに回声の声音に応和するがごとし。いわゆる「无有遠近幽深」は、《易》は人に吉凶を告ぐるに、遠近を論わず、また幽隠深遠の処を論わず、全く告知す。いわゆる「遂知来物」の「物」はすなわち事にして、《易》は万事をもって人に告げ、人はこれに因りて便ち将来の事を知暁す。いわゆる「非天下之至精,其孰能与於此」は、《易》の功用は深妙にしてこうなれば、もし天下万事の中の至りて精妙なる者にあらざれば、誰か能く此に参与して《易》道と相等同せんや。以上は《易》道の功用の深を論じて、能く人に吉凶を告げ、人をして将来の事を予知せしむれば、だからこの句を用いて結を作す。

參伍以變,錯綜其數,通其變,遂成天下之文;極其數,遂定天下之象。非天下之至變,其孰能與於此?[疏]正義曰:“參伍以變”者,參,三也。伍,五也。或三或五,以相參合,以相改變。略舉三五,諸數皆然也。“錯綜其數”者,錯謂交錯,綜謂總聚,交錯裛聚其陰陽之數也。“通其變”者,由交錯總聚,通極其陰陽相變也。“遂成天地之文”者,以其相變,故能遂成就天地之文。若青赤相雜,故稱文也。

経文に曰く:三三五五に交互変化し、それらの数を交錯綜合し、その変化を貫通せば、ここにおいて天下の文采を成就す。その数を窮尽せば、ここにおいて天下の物象を確定す。もし天下の最も善変なる者にあらざれば、誰か能く此に参与せんや。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「参伍以変」の「参」は三にして、「伍」は五なり、或は三或は五にして互相に参合し互相に変易す。ここはただ三と五を挙げて例と為すのみ、その余の各数もまた皆しかなり。いわゆる「錯綜其数」の「錯」は交錯にして、「綜」は総聚なり、すなわち陰陽の数を交錯聚合す。いわゆる「通其変」は、交錯総聚するに由りて、それにより陰陽の互変を貫通窮尽すを説く。いわゆる「遂成天地之文」は、陰陽互変するに因りて、だから能く天地の文采を成就す——青色と赤色が相間雑して「文」と称するがごとし。

“極其數,遂定天下之象”者,謂窮極其陰陽之數,以定天下萬物之象。猶若極二百一十六策,以定乾之老陽之象,窮一百四十四策,以定坤之老陰之象,舉此餘可知也。“非天下之至變,其孰能與於此”者,言此易之理,若非天下萬事至極之變化,誰能與於此者,言皆不能也。此結成易之變化之道,故更言“與於此”也。前《經》論易理深,故云“非天下之至精”。此《經》論極數變通,故云“非天下之至變”也。

孔穎達は続けて申説す:いわゆる「極其数,遂定天下之象」は、陰陽の数を窮尽して、もって天下万物の物象を確定すを説く。譬えば二百一十六策を窮尽して、もって《乾》卦老陽の象を確定し、一百四十四策を窮尽して、もって《坤》卦老陰の象を確定す——この二例を挙げれば、その余は類推すべし。いわゆる「非天下之至変,其孰能与於此」は、この《易》の道理は、もし天下万事の至極の変化にあらざれば、誰か能くその中に参与せんや、意は皆能わざるを説く。これは《易》の変化の道を総結すれば、だから再び一句の「与於此」を説く。前一節の経文は《易》理の深を論ぜれば、だから「非天下之至精」と曰い、この一節の経文はその数を窮極し変じて能く通ずるを論ぜれば、だから「非天下之至変」という。

易無思也,無為也,寂然不動,感而遂通天下之故,非天下之至神,其孰能與於此?夫非忘象者,則無以制象。非遺數者,無以極數。至精者,無籌策而不可亂。至變者,體一而無不周。至神者,寂然而無不應。斯蓋功用之母,象數所由立,故曰非至精至變至神,則不得與於斯也。

経文に曰く:《易》は思慮する所なく、造作する所なく、寂然として動かず、一たび感触あれば便ち天下の事故に貫通す。もし天下の最も神妙なる者にあらざれば、誰か能く此に参与せんや。韓康伯の注は:自身の形象を忘却する能わざる者は、便ち万物の象を裁制する由なし。数の名目を遺棄する能わざる者は、便ち数を窮尽する由なし。至精なる者は心中通透にして、籌策を用いずとも錯乱せず。至変なる者は純一の理を体認して、それにより周遍せざるなし。至神なる者は寂然として動かざれども、応ぜざる所なし。この三者はまさに一切の功用の母体にして、物象と数はこれに由りて立つ、だから至精・至変・至神にあらざれば、便ち能く此に参与する能わずと解す。

[疏]“易無思”至“於此”。○正義曰:“易無思也,無為也”者,任運自然,不關心慮,是無思也;任運自動,不須營造,是無為也。“寂然不動,感而遂通天下之故”者,既無思無為,故“寂然不動”。有感必應,萬事皆通,是“感而遂通天下之故”也。故謂事故,言通天下萬事也。“非天下之至神,其孰能與於此”者,言易理神功不測,非天下萬事之中,至極神妙,其孰能與於此也。此《經》明易理神妙不測,故云“非天下之至神”,若非天下之至神,誰能與於此也。

孔穎達の疏は「易无思」より「於此」に至る一段を解して曰く:いわゆる「易无思也,无為也」は、一任して自然に運行して、心思考慮を動用するを須とせず、これがすなわち「无思」なり。一任して自然に発動して、刻意して経営造作するを須とせず、これがすなわち「无為」なり。いわゆる「寂然不動,感而遂通天下之故」は、すでに无思无為なれば、だから「寂然不動」なり。しかして一たび感触あれば必ず回応して、万事は貫通せざるなし、これがすなわち「感而遂通天下之故」なり。「故」は事故を指し、すなわち天下万事に貫通す。いわゆる「非天下之至神,其孰能与於此」は、《易》理の神妙の功用は測度すべからざれば、もし天下万事の中の至りて神妙なる者にあらざれば、誰か能く此に参与せんや。この一節の経文は《易》理の神妙にして測度すべからざるを闡明せば、だから「非天下之至神」という。もし天下の至神にあらざれば、また誰か能く此に参与せんや。

○注“非忘象”。○正義曰:云“夫非忘象者,則無以制象”者,凡自有形象者,不可以制他物之形象,猶若海不能制山之形象,山不能制海之形象。遺忘巳象者,乃能制眾物之形象也。“非遺數者,無以極數”者,若以數數物,則不能極其物數。猶若以萬而數,則不能苞億,以一億而數,則不能苞千億萬億。遺去數名者,則無所不苞。是非遺去其數,無以極盡於數也。

孔穎達の疏は韓康伯の注の「非忘象」の一句を解して曰く:注中の「夫非忘象者,則无以制象」と曰うは、およそ自身にすでに固定の形象ある者は、便ち別物の形象を裁制する能わざるに因りて——海は山の形象を裁制する能わず、山もまた海の形象を裁制する能わざるがごとし。ただ自身の象を遺忘したる者のみ、初めて能く衆物の形象を裁制す。注中の「非遺数者,无以極数」と曰うは、もし某の具体の数を用いて万物を計量せば、便ち能く万物の数を窮尽する能わず——「万」を単位として計数すれば、便ち「億」を包住せず。「一億」を単位として計数すれば、便ち千億万億を包住せざるがごとし。ただ数の名目を遺棄したれば、初めて能く包まざる所なし。これはすなわち説く、具体の数を遺棄せざれば、便ち数を窮尽する由なきなり。

言“至精者,無籌策而不可亂”者,以其心之至精,理在玄通,無不記億,雖無籌策,而不可亂也。言“至變者,體一而無不周”者,言至極曉達變理者,能體於淳一之理,其變通無不周遍。言雖萬類之變,同歸於一變也。“斯蓋功用之母,象數所由立”者,言至精、至變、至神,三者是物之功用之母。物之功用,象之與數,由此至精、至變、至神所由來,故云“象數所由立”也。言象之所以立有象者,豈由象而來,由太虛自然而有象也;數之所以有數者,豈由數而來,由太虛自然而有數也;是太虛之象,太虛之數,是其至精至變也。由其至精,故能制數;由其至變,故能制象。若非至精、至變、至神,則不得參與妙極之玄理也。

孔穎達は続けて申説す:注中の「至精者,无籌策而不可乱」と曰うは、彼の心は至りて精微にして、義理すでに玄妙貫通して、心中に牢記せざるなきに因りて、だからたとい籌策を用いずとも、錯乱せざらん。注中の「至変者,体一而无不周」と曰うは、徹底して変化の理を通暁する人は、能くあの純一の理を体認して、それにより変通して周遍せざる所なし。意は万類の変化は多しといえども、同じく一個の「変」に帰す。注中の「斯蓋功用之母,象数所由立」と曰うは、至精・至変・至神の三者は、万物の功用の母体なり。万物の功用および象と数は、皆この至精・至変・至神より来たる、だから「象数所由立」という。象の立つ能くして象ある所以を説かんと欲せば、あに象の自身に由りて来たらんや。これは太虚が自然にして象あるに由る。数の能く数ある所以は、あに数の自身に由りて来たらんや。これは太虚が自然にして数あるに由る。この太虚の象・太虚の数は、まさにそれの至精と至変なり。至精なるに由りて、だから能く数を裁制す。至変なるに由りて、だから能く象を裁制す。もし至精・至変・至神にあらざれば、便ち能くあの妙極の玄理に参与する能わず。

夫易,聖人之所以極深而研幾也。唯深也,故能通天下之志。唯幾也,故能成天下之務。極未形之理則曰深,適動微之會則曰幾。[疏]正義曰:“夫易聖人之所以極深而研幾也”者,言易道弘大,故聖人用之,所以窮極幽深,而研核幾微也。“極深”者,則前《經》初一節云:“君子將有為,將有行,問焉而以言,其受命如響,無有遠近幽深”,是極深也。“研幾”者,上《經》次節云“參伍以變,錯綜其數,通其變,遂成天地之文;極其數,以定天下之象”,是研幾也。

経文に曰く:《周易》は、聖人がもって幽深を窮極し幾微を研究するの憑借なり。ただその深なるに因りて、だから能く天下人の心志に貫通す。ただその能く幾微を察するに因りて、だから能く天下の事務を成就す。韓康伯の注は:いまだ成形せざるの理を窮究するを「深」と言い、動の初萌の関節に切合するを「幾」と言うと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「夫易聖人之所以極深而研幾也」は、《易》道は弘大にして、だから聖人はそれを運用して幽深を窮極し幾微を研核す。いわゆる「極深」は、すなわち前面の経文の第一節の説く「君子将有為,将有行,問焉而以言,其受命如響,无有遠近幽深」、これがすなわち極深なり。いわゆる「研幾」は、すなわち上面の経文の第二節の説く「参伍以変,錯綜其数,通其変,遂成天地之文;極其数,以定天下之象」、これがすなわち研幾なり。

“唯深也,故能通天下之務”者,聖人用易道以極深,故聖人德深也,故能通天下之志意,即是前《經》上節“問焉而以言,其受命如響”,“遂知來物”,是通天下之志也。“唯幾也,故能成天下之務”者,聖人用易道以研幾,故聖人知事之幾微,是前《經》次節“參伍以變,錯綜其數,通其變,遂成天地之文”是也。幾者離無入有,是有初之微。以能知有初之微。則能興行其事,故能成天下之事務也。

孔穎達は続けて申説す:いわゆる「唯深也,故能通天下之志」(疏文は此処に「之務」と引作すも、応に伝写の誤なり)は、聖人は《易》道を運用して幽深を窮極すれば、だから聖徳は深厚にして、それにより能く天下人の心志意向に貫通す、すなわちこれは前面の経文の上一節の説く「問焉而以言,其受命如響」「遂知来物」、これがすなわち天下人の心志に貫通するなり。いわゆる「唯幾也,故能成天下之務」は、聖人は《易》道を運用して幾微を研究すれば、だから能く事情の幾微の征兆を知暁す、すなわちこれは前面の経文の第二節の説く「参伍以変,錯綜其数,通其変,遂成天地之文」なり。「幾」は「无」を脱離して「有」に進入するの一刹那にして、「有」のまさに開始せんとする時の細微の征兆なり。能くこの「有」の初の細微の征兆を知暁するに因りて、便ち能くその事を興挙施行する、だから能く天下の事務を成就す。

唯神也,故不疾而速,不行而至。子曰:“易有聖人之道四焉”者,此之謂也。四者由聖道以成,故曰“聖人之道”。[疏]正義曰:“唯神也,故不疾而速,不行而至”者,此覆說上《經》下節易之神功也。以無思無為,寂然不動,感而遂通,故不須急疾,而事速成;不須行動,而理自至也。案下節云“唯深也”言“通天下之志”,“唯幾也”言“成天下之務”。今“唯神也”直云“不疾而速,不行而至”,不言“通天下”者,神則至理微妙,不可測知。無象無功,於天下之事,理絕名言,不可論也。故不云“成天下之功”也。

経文に曰く:ただその神妙なるに因りて、だから急促せずして自然に迅速にして、移動せずして自然に到達す。孔子の「《易》に聖人の道の四項あり」と曰うは、講ずる所はまさにこの意思なり。韓康伯の注は:この四項は皆聖人の道に憑りて初めて能く成就すれば、だから「聖人之道」と称作すと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「唯神也,故不疾而速,不行而至」は、これは回頭して上面の経文の末の末節の講ずる《易》の神妙の功用を重申す:无思无為にして寂然不動にして一感すれば即ち通ずるに因りて、だから急促するを必とせず、事情は自然に迅速に辦成し、行動する所有るを必とせず、義理は自然に到達す。前一節の「唯深也」と説きて「通天下之志」を系え、「唯幾也」と説きて「成天下之務」を系うるを考察す。いま「唯神也」と説きて却ってただ「不疾而速,不行而至」を説き、「通天下」いかんを説かざるは、「神」は乃ち至理微妙にして測知すべからず、見るべきの象なく指すべきの功なく、天下の事に対して、その理は名言の外に超出して論説する由なきに因りて、だから「成天下之功」を説かず。

子曰:“易有聖人之道四焉者,此之謂也”者,章首論聖人之道四焉,章中歷陳其三事,章末結而成之,故曰“聖人之道四焉”是此之謂也。章首“聖人之道有四”者,韓氏注云“此四者存乎器象,可得而用者”,則辭也,變也,象也,占也。是有形之物,形器可知也。若章中所陳則有三事,一是至精,精則唯深也。二是至變,變則唯幾也。三是至神,神則微妙無形,是其無也。神既無形,則章中三事,不得配章首四事。韓氏云“四者存乎器象”,故知章中三事,不得配章首四事者也。但行此四者,即能致章中三事。故章中歷陳三事,下總以“聖人之道四焉”結之也。

孔穎達は続けて申説す:いわゆる「子曰:易有聖人之道四焉者,此之謂也」は、本章の開頭は聖人の道に四項あるを論じ、章中は依次に三件事を陳述し、章末は総結を加えて完成す、だから「聖人之道四焉」はまさにこの個を指す。章首の説く「聖人之道有四」の、韓康伯の注の「此四者存乎器象,可得而用者」は、すなわち辞・変・象・占なり。これらは皆有形の物にして、形器の上より便ち知暁すべし。章中の陳述する所は則ち三件事なり:一は至精にして、精は便ち「唯深」なり。二は至変にして、変は便ち「唯幾」なり。三は至神にして、神は則ち微妙无形にして、「无」の一面に属す。神すでに无形なれば、すなわち章中の三事は能く章首の四事と一一相配する能わず。韓康伯の「四者存乎器象」と曰うは、これにより章中の三事は能く章首の四事に配する能わざるを知るべし。ただしこの四項を施行せば、便ち章中の三事を招致する能く、だから章中は依次に三事を陳述して、その下に総じて「聖人之道四焉」をもって結を作す。

繋辞上・第十章

[疏]正義曰:“天一地二”至“謂之神”,此第十章也。前章論《易》有聖人之道四焉,以卜筮尚其占。此章明卜筮蓍龜所用,能通神知也。天一,地二;天三,地四;天五,地六;天七,地八;天九,地十。易以極數通神明之德,故明易之道,先舉天地之數也。[疏]“天一”至“地十”。○正義曰:此言天地陰陽自然奇偶之數也。○注“易以極”至“數也”。○正義曰:“易以極數通神明之德”者,謂易之為道,先由窮極其數,乃以通神明之德也。“故明易之道,先舉天地之數”者,此章欲明神之德,先由天地之數而成,故云“故明易之道,先舉天地之數”也。

孔穎達は章旨を標明して曰く:「天一地二」より「謂之神」に至るは、《繋辞上》の第十章なり。前一章は《周易》は聖人の道の四項を含有するを論じて、その中は卜筮する者はその占断を看重せり。この一章は則ち卜筮の用いる所の蓍草と亀甲が、能く神妙の知見に貫通するを闡明す。経文に曰く:天一、地二。天三、地四。天五、地六。天七、地八。天九、地十。韓康伯の注は:《易》はその数を窮極するに倚りて神明の徳に貫通するなり、だから《易》道を闡明せんと欲せば、まず天地の数を挙出するを要すと解す。孔穎達の疏は「天一」より「地十」に至るを解して曰く:これは天地陰陽の自然而然の奇数と偶数を講ず。彼はまた韓注の「易以極」より「数也」に至るを疏して曰く:いわゆる「易以極数通神明之徳」は、《易》は一種の道と為して、まずその数を窮極して、然る後に初めて能く神明の徳に貫通す。いわゆる「故明易之道,先挙天地之数」は、本章は「神」の徳性を闡明せんと欲し、しかして神徳はまず天地の数に由りて成れば、だから「《易》道を闡明せんと欲せば、まず天地の数を挙出す」という。

子曰:“夫易,何為者也?夫易,開物成務,冒天下之道,如斯而已者也。”冒,覆也。言易通萬物之志,成天下之務,其道可以覆冒天下也。[疏]正義曰:“子曰夫易何為”者,言易之功用,其體何為,是問其功用之意。“夫易開物成務,冒天下之道,如斯而已”者,此夫子還自釋易之體,用之狀言易能開通萬物之志,成就天下之務,有覆冒天下之道。斯,此也,易之體用如此而已。

経文に曰く:孔子の曰く:「《周易》は何を為す者なりや。《周易》は万物を開通し事務を成就し、天下の一切の道理を覆蓋す、かくのごとくの已るのみ。」韓康伯の注は:「冒」はすなわち覆蓋にして、《易》は万物の心志に貫通し、天下の事務を成就し、その道は能く天下を覆蓋すを説くと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「子曰夫易何為」は、《易》の功用・その本体は究竟何を為すを問うにして、すなわちこれはその功用の意を発問す。いわゆる「夫易開物成務,冒天下之道,如斯而已」は、これは孔子が自ら回復して《易》の体と用の状を解釈す:《易》は能く万物の心志を開通し、天下の事務を成就し、天下を覆蓋するの道あるを説く。「斯」はすなわち「此」にして、《易》の体用はかくのごとくの已るに過ぎざるを説く。

是故聖人以通天下之志,以定天下之業,以斷天下之疑。是故蓍之德圓而神,卦之德方以知,圓者運而不窮,方者止而有分。言蓍以圓象神,卦以方象知也。唯變所適,無數不周,故曰圓。卦列爻分,各有其體,故曰方也。

経文に曰く:それゆえ聖人はこれを用いて天下人の心志に貫通し、これを用いて天下の事業を奠定し、これを用いて天下の疑難を決断す。それゆえ蓍草の徳性は円通にして神妙にして、卦の徳性は方正にして智明なり。韓康伯の注は:円なる物は旋転して窮尽なきにして、方なる物は静止して分限あるを説く。これは蓍は「円」をもって「神」を象徴し、卦は「方」をもって「知」を象徴すを説く:蓍は変化する所に随って往きて、任何の数も周遍せざるなし、だから円と言う。卦は爻位排列ありて各爻はその位に分居して、各々定体あり、だから方と言うと解す。

[疏]“是故聖人”至“以知”。正義曰:“是故聖人以通天下之志”者,言易道如此,是故聖人以其易道通達天下之志,極其幽深也。“以定天下之業”者,以此易道定天下之業,由能研幾成務,故定天下之業也。“以斷天下之疑”者,以此易道決斷天下之疑,用其蓍龜占卜,定天下疑危也。“是故蓍之德圓而神,卦之德方以知”者,神以知來,是來無方也;知以藏往,是往有常也。物既有常,猶方之有止;數無恆體,猶圓之不窮。故蓍之變通則無窮,神之象也;卦列爻分有定體,知之象也。知可以識前言往行,神可以逆知將來之事,故蓍以圓象神,卦以方象知也。

孔穎達の疏は「是故聖人」より「以知」に至る一段を解して曰く:いわゆる「是故聖人以通天下之志」は、《易》道はすでにこうなれば、だから聖人はこの《易》道に憑りて天下人の心志に通達して、その幽深を窮極す。いわゆる「以定天下之業」は、この《易》道に憑りて天下の事業を奠定すを説く、能く幾微を研核して事務を成就するに因りて、だから能く天下の事業を奠定す。いわゆる「以断天下之疑」は、この《易》道に憑りて天下の疑難を決断し、蓍亀を運用して占卜して、天下の疑慮危難を安定す。いわゆる「是故蓍之徳円而神,卦之徳方以知」は、「神」はもって将来を予知するに用い、将来は定向なきを説く。「知」はもって既往を含蔵するに用い、既往は常規あるなり。事物すでに常規あれば、便ち方形の物に止定あるに比す。数は恒定の形体なければ、便ち円形の物の旋転して窮なきに比す。だから蓍草の変通は窮尽なく、これは「神」の象徴なり。卦は爻位排列ありて各爻は分位して定体あるは、これは「知」の象徴なり。「知」は能く前人の言語と既往の行事を認識し、「神」は能く将来の事を逆料す、だから蓍は円をもって神を象徴し、卦は方をもって知を象徴す。

注“圓者”至“方也”。○正義曰:“圓者運而不窮”者,謂團圓之物,運轉無窮已,猶阪上走丸也。蓍亦運動不已,故稱圓也。言“方者止而有分”者,方謂處所,既有處所,則是止而有分。且物方者,著地則安,其卦既成,更不移動,亦是止而有分,故卦稱方也。

孔穎達の疏は韓康伯の注の「円者」より「方也」に至る一段を解して曰く:いわゆる「円者運而不窮」は、団円の物は旋転して停まず、まさに斜坡上に滾動する弾丸に似たり。蓍草の運動もまた停止せず、だから「円」と称す。いわゆる「方者止而有分」の「方」は処所を指し、すでに固定の処所あれば、便ち静止して分限あり。況んや方形の物は地に著けば便ち安穏にして、卦はすでに成就せば便ち再び移動せず、もまた静止して分限あり、だから卦は「方」と称す。

六爻之義易以貢。貢,告也。六爻變易,以告吉凶。[疏]正義曰:貢,告也。六爻有吉凶之義,變易以告人也。聖人以此洗心,洗濯萬物之心。[疏]正義曰:聖人以此易之卜筮,洗盪萬物之心。萬物有疑則卜之,是蕩其疑心;行善得吉,行惡遇凶,是蕩其噁心也。

経文に曰く:六爻の意義は変易に借着して人に告ぐ。韓康伯の注は:「貢」はすなわち告知にして、六爻は変化更易して、もって吉凶を告知すと解す。孔穎達は申説す:「貢」はすなわち告知にして、六爻は吉凶の義を含有して、変易を通じて人に告知す。経文に曰く:聖人はこれに憑りて内心を洗滌す。韓康伯の注は:すなわち万物の心を洗滌すと解す。孔穎達は申説す:聖人はこの《易》の卜筮を用いて万物の心を洗蕩す——万物に疑難あれば便ちそのために卜問す、これはその疑心を洗蕩す。善を行えば吉を得、悪を行えば凶に遇うは、これはその悪心を洗蕩す。

退藏於密。言其道深微,萬物日用而不能知其原,故曰“退藏於密”,猶藏諸用也。[疏]正義曰:言易道進則蕩除萬物之心,退則不知其所以然,萬物日用而不知,有功用藏於密也。吉凶與民同患。表吉凶之象,以同民所憂患之事,故曰“吉凶與民同患也”。[疏]正義曰:易道以示人吉凶,民則亦憂患其吉凶,是與民同其所憂患也。凶者民之所憂也,上並言吉凶,此獨言同患者,凶雖民之所患,吉亦民之所患也。既得其吉,又患其失。故《老子》云“寵辱若驚”也。

経文に曰く:退きては便ち幽密の中に隠蔵す。韓康伯の注は:これは《易》道は深邃微妙にして、万物は天天それを用いるもその本原を知る能わずを説く、だから「退蔵於密」といい、すなわちこれは功用を隠蔵すと解す。孔穎達は申説す:《易》道は進めば則ち万物の心を蕩除し、退けば則ち人をしてその所以然を知らしめず、万物は天天それを用いて自ら知らず、功用は幽密の中に隠蔵すを説く。経文に曰く:吉凶は百姓と共同に憂患す。韓康伯の注は:《易》は吉凶の象を標示して、これをもって百姓とその憂患する所の事を同憂す、だから「吉凶与民同患」というと解す。孔穎達は申説す:《易》道は人に向いて吉凶を顕示せば、百姓もまた吉凶のために憂患す、これがすなわち百姓とその憂患を同じくす。凶は固より百姓の憂うる所なるも、上文は吉凶を併挙して、ここに却ってただ「同患」と説くは、凶は百姓の憂患する所なるといえども、吉もまた同じく百姓の憂患する所なるに因りて——すでに吉を得て、またそれを失うを憂慮す、だから《老子》に「寵辱若驚」と曰う。

神以知來,知以藏往。明蓍卦之用,同神知也。蓍定數於始,於卦為來。卦成象於終,於蓍為往。往來之用相成,猶神知也。[疏]正義曰:此明蓍卦德同神知,知來藏往也。蓍定數於始,於卦為來。卦成象於終,於蓍為往。以蓍望卦,則是知卦象將來之事,故言“神以知來”。以卦望蓍,則是聚於蓍象往去之事,故言“知以藏往”也。

経文に曰く:「神」をもって将来を預知し、「知」をもって既往を含蔵す。韓康伯の注は:これは蓍と卦の功用は神と知に等同なるを闡明す——蓍は起初に於て数を確定し、卦に対して説けば「来」に属す。卦は最終に於て象を成就し、蓍に対して説けば「往」に属す。往と来の功用は互相に成就す、まさに神と知のごとしと解す。孔穎達は進んで申説す:これは蓍と卦の徳性は神と知に等同なるを闡明して、能く来を知り能く往を蔵す。蓍は起初に於て数を確定し、卦に対して説けば「来」に属す。卦は最終に於て象を成就し、蓍に対して説けば「往」に属す。蓍のこの一頭より卦に望向せば、便ち卦象の示す所の将来の事を知暁す、だから「神以知来」という。卦のこの一頭より蓍に回望せば、便ち蓍の象徴する所の已往の事を聚合す、だから「知以蔵往」という。

其孰能與此哉!古之聰明叡知神武而不殺者夫!服萬物而不以威形也。[疏]正義曰:“其孰能與此哉”者,言誰能同此也,蓋是古之聰明叡知神武而不殺者夫。易道深遠,以吉凶禍福,威服萬物。故古之聰明叡知神武之君,謂伏犧等,用此易道,能威服天下,而不用刑殺而畏服之也。

経文に曰く:誰か能くこのごときの境地に達到せんや。大概古代のあの聡明叡智・神武にして殺伐を用いざるの人ならん。韓康伯の注は:彼は万物を帰服せしむれども、威勢と刑罰に憑借せずと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「其孰能与於此哉」は、誰か能く此と相同せんや、大概は古代の聡明叡智・神武にして殺伐を用いざるの人なり。《易》道は深遠にして、吉凶禍福に憑りて万物を威服せしむれば、だから古代のあれらの聡明叡智神武の君主、伏羲のこの一類を指す、この《易》道を運用して、能く天下を威服せしめて、刑殺を動用するを必とせずして人をして畏服せしむ。

是以明於天之道,而察於民之故,是興神物以前民用。定吉凶於始也。[疏]正義曰:“是以明於天之道”者,言聖人能明天道也。“而察於民之故”者,故,事也。易窮變化而察知民之事也。“是興神物以前民用”者,謂易道興起神理事物,豫為法象,以示於人,以前民之所用。定吉凶於前,民乃法之所用,故云“以前民用”也。

経文に曰く:それゆえ聖人は天の道理を明白にし、また民衆の事情を体察し、ここにおいて神妙の物を興起して民衆の日用を先导す。韓康伯の注は:すなわち事情の初に於て便ち吉凶を確定すと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「是以明於天之道」は、聖人は能く天道を明白にすを説く。いわゆる「而察於民之故」の「故」はすなわち事にして、《易》は変化を窮究してそれにより民衆の事を察知す。いわゆる「是興神物以前民用」は、《易》道は神妙の事理と事物を興起して、予め法象と為して人に昭示して、民衆の日用の前を走る。事の前に於て吉凶を定下して、民衆は初めて效法取用する所有り、だから「以前民用」という。

聖人以此齊戒,洗心曰齊,防患曰戒。[疏]正義曰:聖人以“易”道自齊自戒,謂照了吉凶,齊戒其身。洗心曰齊,防患曰戒。以神明其德夫。是故闔戶謂之坤。坤道包物。[疏]正義曰:以“神明其德夫”者,言聖人既以易道自齊戒,又以易道神明其已之德化也。“是故闔戶謂之坤”者,聖人既用此易道以化天下,此以下又廣明易道之大。易從乾坤而來,故更明乾坤也。凡物先藏而後出,故先言坤而後言乾。闔戶,謂閉藏。萬物若室之閉闔其戶,故云“闔戶謂之坤”也。

経文に曰く:聖人はこの《易》道に憑りて斎戒す。韓康伯の注は:内心を洗滌するを「斉」と言い、禍患を預防するを「戒」と言うと解す。孔穎達は申説す:聖人は《易》道をもって自ら斎し自ら戒むるは、すなわち吉凶を照察明了してその身を斎戒す。心を洗うを斉と言い、患を防ぐを戒と言う。経文に曰く:併せてこれをもって自己の徳を神妙顕明せしむ。それゆえ門戸を閉合するを「坤」と言う。韓康伯の注は:坤道は能く万物を包蔵すと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「以神明其徳夫」は、聖人すでに《易》道を用いて自我に斎戒せば、また《易》道を用いて自己の徳化を神妙顕明せしむ。いわゆる「是故闔戸謂之坤」は、聖人すでにこの《易》道を運用して天下を教化せば、ここより以下はまた広く《易》道の大を闡明す。《易》は乾坤に由りて来たれば、だから再び乾坤を闡明す。およそ物は皆まず収蔵して然る後に生出す、だからまず坤を説きて然る後に乾を説く。「闔戸」はすなわち閉蔵にして、万物は房室が門戸を閉関するがごとし、だから「闔戸謂之坤」という。

闢戶謂之乾。乾道施生。[疏]正義曰:闢戶,謂吐生萬物也;若室之開闢其戶,故云“闢戶謂之乾”也。一闔一闢謂之變,往來不窮謂之通。見乃謂之象。兆見曰象。[疏]正義曰:“一闔一闢謂之變”者,開閉相循,陰陽遞至,或陽變為陰,或開而更閉,或陰變為陽,或閉而還開,是謂之變也。“往來不窮謂之通”者,須往則變來為往,須來則變往為來,隨須改變,不有窮已,恆得通流,是“謂之通”也。“見乃謂之象”者,前往來不窮,據其氣也。氣漸積聚,露見萌兆,乃謂之象,言物體尚微也。

経文に曰く:門戸を開啓するを「乾」と言う。韓康伯の注は:乾道は施化して万物を生養すと解す。孔穎達は申説す:「闢戸」は万物を吐生するを説く、房室が門戸を開啓するがごとし、だから「闢戸謂之乾」という。経文に曰く:一閉一開するを「変」と言い、往来して窮まざるを「通」と言い、顕現し出ずるを便ち「象」と言う。韓康伯の注は:征兆が顕現するを象と言うと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「一闔一闢謂之変」は、開と閉は互相に循環し、陰と陽は交替して至るを説く:或は陽が変じて陰と為り、或は開きてまた閉ぢ、或は陰が変じて陽と為り、或は閉ぢてまた開く——これがすなわち変と言うなり。いわゆる「往来不窮謂之通」は、「往」を須要する時は便ち来を変じて往と為し、「来」を須要する時は便ち往を変じて来と為し、須要する所に随って改変して、窮尽なく、恒常に流通す、これがすなわち通と言うなり。いわゆる「見乃謂之象」は、前面の往来不窮を講ずるは、「気」に就きて言うなり。気は漸々積聚して、萌芽の征兆を顕露して、初めて象と言う、意はこの時の物の形体は仍お甚だ微弱なるなり。

形乃謂之器。成形曰器。[疏]正義曰:體質成器,是謂器物。故曰“形乃謂之器”,言其著也。制而用之謂之法。利用出入,民咸用之謂之神。[疏]正義曰:“制而用之謂之法”者,言聖人裁制其物而施用之,垂為模範,故云“謂之法”。“利用出入,民咸用之謂之神”者,言聖人以利而用,或出或入,使民咸用之,是聖德微妙,故云“謂之神”。

経文に曰く:形体と成るを便ち「器」と言う。韓康伯の注は:形体を成就するを器と言うと解す。孔穎達は申説す:形體質地は器物に凝成せば、便ち器物と言う、だから「形乃謂之器」といい、それはすでに顕著して見るべしを説く。経文に曰く:これを裁制して施用するを「法」と言い。便利に取用して出入して碍なきにして百姓皆それを用いるを、「神」と言う。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「制而用之謂之法」は、聖人は万物を裁制して施用を加えて、垂示して規範模式と為す、だから「謂之法」という。いわゆる「利用出入,民咸用之謂之神」は、聖人は有利の方式をもって施用して、或は出或は入して、百姓をして皆取用する能わしむ、これは聖徳の微妙の処なり、だから「謂之神」という。

繋辞上・第十一章

[疏]正義曰:“是故易有”至“無不利也”。此第十一章也。前章既明蓍卦有神明之用,聖人則而象之,成其神化。此又明易道之大,法於天地,明象日月,能定天下之吉凶,成天下之亹亹也。是故易有太極,是生兩儀。夫有必始於無,故太極生兩儀也。太極者,無稱之稱,不可得而名,取有之所極,況之太極者也。[疏]正義曰:太極謂天地未分之前,元氣混而為一,即是太初、太一也。故《老子》云:“道生一。”即此太極是也。又謂混元既分,即有天地,故曰“太極生兩儀”,即《老子》云:“一生二”也。不言天地而言兩儀者,指其物體,下與四象相對,故曰兩儀,謂兩體容儀也。

孔穎達は章旨を標明して曰く:「是故易有」より「无不利也」に至るは、《繋辞上》の第十一章なり。前一章はすでに蓍と卦に神明の用あるを闡明し、聖人はそれに取法しそれを效象して、自己の神化を成就せり。この一章はまた《易》道の大を闡明す——天地に取法し、日月に於て象を顕し、能く天下の吉凶を判定し、天下の勉力して倦まざるの事業を成就す。経文に曰く:それゆえ《易》に「太極」あり、太極は「両儀」を生出す。韓康伯の注は:「有」は必ず「无」に始まる、だから太極は両儀を生ずという。いわゆる太極は、名状すべからざる者の一個の称呼にして、本來はそれに命名する能わず、ただ「有」の極至の処を取りて、比況してそれを太極と称すと解す。孔穎達は進んで申説す:太極は天地がいまだ分判せざるの前に、元気は渾然として一と為るを指し、すなわちこれは「太初」「太一」なり、だから《老子》に「道生一」と曰えるは、講ずる所はまさにこの太極なり。又曰く渾元すでに分判せば、便ち天地あり、だから「太極生両儀」といい、すなわち《老子》の説く所の「一生二」なり。天地と説かずして両儀と説くは、それらの物体に著眼して、併せて下文の「四象」と相対して言うなり、だから両儀と称す、意は両個の形体容儀なり。

兩儀生四象,四象生八卦。卦以象之。[疏]正義曰:“兩儀生四象”者,謂金木水火,稟天地而有,故云:“兩儀生四象”,土則分王四季,又地中之別,故唯雲四象也。“四象生八卦”者,若謂震木、離火、兌金、坎水,各主一時,又巽同震木,乾同兌金,加以坤、艮之土為八卦也。

経文に曰く:両儀は四象を生出し、四象は八卦を生出す。韓康伯の注は:卦はもってそれらを象徴するなりと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「両儀生四象」は、金・木・水・火の四者は天地の気を秉受して有を指す、だから「両儀生四象」という。土は則ち分別して四季の末に旺して、もまた地中の別体なり、だからここにただ四象を説く。いわゆる「四象生八卦」は、震は木に属し離は火に属し兌は金に属し坎は水に属し、各々一個の時令を主る。巽は震と同じく木に属し、乾は兌と同じく金に属し、再び坤・艮の土に属する両個を加えて、合わせて八卦と成す。

八卦定吉凶。八卦既立,則吉凶可定。[疏]正義曰:八卦既立,爻象變而相推,有吉有凶,故八卦定吉凶也。吉凶生大業。既定吉凶,則廣大悉備。[疏]正義曰:萬事各有吉凶,廣大悉備,故能王天下大事業也。

経文に曰く:八卦は吉凶を確定す。韓康伯の注は:八卦すでに建立せば、吉凶は便ち判定すべしと解す。孔穎達は申説す:八卦すでに建立せば、爻象は変動して互相に推移して、ここにおいて吉あり凶あり、だから八卦は吉凶を確定すという。経文に曰く:吉凶は偉大の事業を生出す。韓康伯の注は:すでに吉凶を判定せば、広大の事は便ち完備せざるなしと解す。孔穎達は申説す:万事は各々吉凶ありて、広大の事は完備せざるなし、だから能く天下を統治するの大事業を成就す。

是故法象莫大乎天地,變通莫大乎四時,縣象著明莫大乎日月,崇高莫大乎富貴。位所以一天下之動,而濟萬物。[疏]正義曰:“是故法象莫大乎天地”者,言天地最大也。“變通莫大乎四時”者,謂四時以變得通,是變中最大也。“縣象著明莫大乎日月”者,謂日月中時,遍照天下,無幽不燭,故云“著明莫大乎日月”也。“崇高莫大乎富貴”者,以王者居九五富貴之位,力能齊一天下之動,而道濟萬物,是崇高之極,故云“莫大乎富貴”。

経文に曰く:それゆえ取法すべきの物象は天地より大なるはなく、変通は四時より大なるはなく、天空に懸掛して顕明なるは日月より大なるはなく、崇高は富貴より大なるはなし。韓康伯の注は:これは君位は能く天下の行動を統一して、しかして万物を普済するを説くと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「是故法象莫大乎天地」は、天地は最も広大なるを説く。いわゆる「変通莫大乎四時」は、四時は変化に倚りて貫通を得るは、変化の中の最大なるを説く。いわゆる「県象著明莫大乎日月」は、日月は中天に当たるの時、遍く天下を照らし、再び幽暗の処も照らさざるなし、だから「著明莫大乎日月」という。いわゆる「崇高莫大乎富貴」は、帝王は九五の富貴の位に居りて、その力量は能く天下の行動を統一して、道をもって万物を普済す、これは崇高の極致なり、だから「莫大乎富貴」という。

備物致用,立成器以為天下利,莫大乎聖人。[疏]正義曰:謂備天下之物,招致天下所用,建立成就天下之器,以為天下之利,唯聖人能然,故云“莫大乎聖人也”。探賾索隱,鉤深致遠,以定天下之吉凶,成天下之亹亹者,莫大乎蓍龜。

経文に曰く:万物を備弁してもってその用を尽くし、成器を創制してもって天下に造福す、聖人より大なるはなし。孔穎達は申説す:これは天下の物を備弁して、天下の須要する用を招致して、天下の器具を建立成就して、もって天下に造福すを説く——ただ聖人のみ能く到致すれば、だから「莫大乎聖人」という。経文は続けて曰く:幽賾を探究し隠微を搜索し、深処の物を鈎取し遠方の物を招致して、もって天下の吉凶を判定し、天下の勉力して倦まざるの事業を成就するに、蓍草と亀甲より大なるはなし。

[疏]正義曰:探,謂闚探求取。賾,謂幽深難見。卜筮則能闚探幽昧之理,故云探賾也。索,謂求索。隱,謂隱藏。卜筮能求索隱藏之處,故云索隱也。物在深處,能鉤取之;物在遠方,能招致之,卜筮能然,故云“鉤深致遠”也。以此諸事,正定天下之吉凶,成就天下之亹亹者,唯卜筮能然,故云“莫大乎蓍龜”也。案《釋詁》云:“亹亹,勉也。”言天下萬事,悉動而好生,皆勉勉營為,此蓍龜知其好惡得失,人則棄其得而取其好,背其失而求其得,是成天下之亹亹也。

孔穎達は進んで申説す:「探」は窺探求取にして、「賾」は幽深にして見難きの物を指す。卜筮は能く幽昧の理を窺探すれば、だから「探賾」という。「索」は尋求探索にして、「隠」は隠蔵の物を指す。卜筮は能く隠蔵の処を尋求すれば、だから「索隠」という。物は深処に在りて能く鈎取上げて、物は遠方に在りて能く招致して来たる、卜筮は能く到致するを為れば、だから「鈎深致遠」という。この幾件の事に憑りて、天下の吉凶を正定し、天下の勉力して倦まざるの事業を成就するに、ただ卜筮のみ能く到致すれば、だから「莫大乎蓍亀」という。《爾雅・釈詁》に曰えるを考察す:「亹亹は、すなわち勉力して倦まざるなり。」これは天下の万事は皆活動して生存を喜好し、人人は皆勉力して経営すを説く。この蓍亀は能くその中の好悪得失を知れば、人は便ちこれに拠りて取舍す——その欲せざる所を舎ててその好む所を取り、その失う所を避けてその得る所を求む、これがすなわち天下の勉勉として倦まざるの事業を成就す。

是故天生神物,聖人則之。天地變化,聖人效之。天垂象,見吉凶,聖人象之。河出圖,洛出書,聖人則之。[疏]正義曰:“是故天生神物,聖人則之”者,謂天生蓍龜,聖人法則之以為卜筮也。“天地變化,聖人效之”者,行四時生殺,賞以春夏,刑以秋冬,是聖人效之。“天垂象,見吉凶,聖人象之”者,若璿璣玉衡,以齊七政,是聖人象之也。“河出圖,洛出書,聖人則之”者,如鄭康成之義,則《春秋緯》云:河以通乾出天苞,洛以流坤吐地符。河龍圖發,洛龜書感。《河圖》有九篇,《洛書》有六篇。孔安國以為《河圖》則八卦是也,《洛書》則九疇是也。輔嗣之義,未知何從。

経文に曰く:それゆえ上天は神妙の物を生出し、聖人は取りてもって法則と為す。天地に変化あれば、聖人はこれを效法に加う。上天は物象を垂示して吉凶を顕現せば、聖人はこれに拠りて象を取る。黄河は図を出現し、洛水は書を出現せば、聖人は取りてもって法則と為す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「是故天生神物,聖人則之」は、上天は蓍草と亀甲を生出して、聖人はそれらを取法して卜筮を制為すを説く。いわゆる「天地変化,聖人效之」は、天地は四時の生長粛殺を施行して、聖人は便ち春夏に於て賞を行い秋冬に於て刑を用う、これがすなわち天地を效法するなり。いわゆる「天垂象,見吉凶,聖人象之」は、例えば璿璣玉衡を制作してもって七政を整斉するがごとく、これがすなわち聖人は天に於て象を取るなり。いわゆる「河出図,洛出書,聖人則之」は、鄭玄の説法に依れば、《春秋緯》の講ずる所は:黄河は乾道に通じて天苞を出し、洛水は坤道に流れて地符を吐す。河中に龍は図を負して出で、洛中に亀は書を負して応ず。《河図》に九篇あり、《洛書》に六篇あり。孔安国は則ち《河図》はすなわち八卦と為し、《洛書》はすなわち《洪範》の九疇と為す。王弼(字は輔嗣)の意思が究竟何れの一家に依従するに至りては、便ち知る能わず。

易有四象,所以示也。繫辭焉,所以告也。定之以吉凶,所以斷也。[疏]正義曰:“易有四象,所以示”者,莊氏云:四象,謂六十四卦之中,有實象,有假象,有義象,有用象,為四象也。今於釋卦之處,已破之矣。何氏以為四象,謂“天生神物,聖人則之”一也。“天地變化,聖人效之”,二也。“天垂象,見吉凶,聖人象之”,三也。“河出圖,洛出書,聖人則之”,四也。

経文に曰く:《易》に四象あり、もって顕示す。文辞を繋えて、もって告知す。吉凶を用いて判定を加えて、もって決断す。孔穎達は進んで申説す:「易有四象,所以示」に関しては、荘氏は為す:四象は六十四卦の中に実象あり・假象あり・義象あり・用象ありを指し、合わせて四象と為す——この一説は卦爻を解釈する所に於てすでに駁斥せり。何氏は則ち四象は:「天生神物,聖人則之」を第一と為し、「天地変化,聖人效之」を第二と為し、「天垂象,見吉凶,聖人象之」を第三と為し、「河出図,洛出書,聖人則之」を第四と為す。

今謂此等四事,乃是聖人易外別有其功,非專易內之物,何得稱“易有四象”?且又云“易有四象,所以示也”。繫辭焉,所以告也。然則象之與辭,相對之物。辭既爻卦之下辭,則象為爻卦之象也。則上兩儀生四象,七八九六之謂也。故諸儒有為七八九六,今則從以為義。“繫辭焉,所以告”者,繫辭於象卦下,所以告其得失也。“定之以吉凶,所以斷”者,謂於繫辭之中,定其行事吉凶,所以斷其行事得失。

孔穎達は己意を断じて曰く:いま見れば、この四件の事は乃ち聖人の《易》の外に別あるの功業にして、専ら《易》の内の物に属するにあらず、何ぞ能く「易有四象」と称作せんや。況んや経文は「易有四象,所以示也」と説きて、続きてまた「繋辞焉,所以告也」と曰う。すなわち「象」と「辞」は相対して言う所の物なり。「辞」すでに卦爻の下に繋える所の文辞なれば、「象」は便ち応に卦爻の象たるべし。このように見れば、上文の「両儀生四象」の四象は、指すところはすなわち七・八・九・六なり。だから前代諸儒に四象はすなわち七八九六と主張する者あるは、いま便ちこの一説に依従して義を立つ。いわゆる「繋辞焉,所以告」は、卦象卦爻の下に文辞を繋えて、もってその得失を告知すを説く。いわゆる「定之以吉凶,所以断」は、繋える所の文辞の中に於て行事の吉凶を判定して、もって行事の得失を決断すを説く。

《易》曰:“自天祐之,吉無不利。”子曰:“祐者,助也。天之所助者,順也;人之所助者,信也。履信思乎順,又以尚賢也。是以自天祐之,吉無不利也。”[疏]正義曰:“《易》曰:自天祐之,吉無不利”者,言人於此易之四象所以示,繫辭所以告,吉凶告所斷而行之,行則鬼神無不祐助,無所不利,故引《易》之《大有》上九爻辭以證之。“子曰:祐者助也”者,上既引《易》文,下又釋其易理,故云“子曰:祐者助也”。“天之所助者,順也;人之所助者,信也。履信思乎順”者,人之所助,唯在於信,此上九能履踐於信也;天之所助,唯在於順,此上九恆思於順;既有信思順,又能尊尚賢人,是以從天已下,皆祐助之,而得其吉,無所不利也。

経文に曰く:《周易》に曰く:「上天より彼を保佑し、吉祥にして利ならざるなし。」孔子の曰く:「『祐』はすなわち幇助なり。上天の幇助する所は、天道に順従する人なり。衆人の幇助する所は、誠信を講究する人なり。誠信を践行して順従を心念し、また能く賢人を崇尚すれば、だから上天は彼を保佑して、吉祥にして利ならざるなし。」孔穎達は進んで申説す:いわゆる「《易》曰:自天祐之,吉无不利」は、人が《易》の四象の顕示する所・繋辞の告知する所に対して、およそ吉凶の断ずる所に依りて事を行えば、行事する時に鬼神は保佑幇助せざるなく、利ならざるなし、だから《周易》《大有》卦上九の爻辞を引いて印証を加う。いわゆる「子曰:祐者助也」は、上文すでに《周易》の原文を引きたるに因りて、下面はまたその中の易理を解釈すれば、だから「子曰:祐者助也」という。いわゆる「天之所助者,順也;人之所助者,信也。履信思乎順」は、衆人の幇助する所はただ誠信に在り、この上九は能く誠信を践行す。上天の幇助する所はただ順従に在り、この上九は常に順従を心念す。すでに誠信ありてまた順従を思い、また能く賢人を尊崇せば、それゆえ上天より以下皆来たりて彼を保佑幇助して、従りてその吉祥を得て、利ならざるなし。

繋辞上・第十二章

[疏]正義曰:子曰:“書不盡言”至“乎德行”,此第十二章也。此章言立象盡意,繫辭盡言。易之興廢,存乎其人事也。子曰:“書不盡言,言不盡意。”然則聖人之意,其不可見乎?[疏]正義曰:此一節夫子自發其問,謂聖人之意難見也。所以難見者,書所以記言,言有煩碎,或楚夏不同,有言無字,雖欲書錄,不可盡竭於其言,故云“書不盡言”也。“言不盡意”者,意有深邃委曲,非言可寫,是言不盡意也。聖人之意,意又深遠。若言之不能盡聖人之意,書之又不能盡聖人之言,是聖人之意,其不可見也。故云:“然則聖人之意,其不可見乎?”疑而問之,故稱“乎”也。

孔穎達は章旨を標明して曰く:孔子の「書不尽言」より「乎徳行」に至るは、《繋辞上》の第十二章なり。本章は卦象を設立して心意を窮尽し、文辞を繋えて言語を窮尽するを講ず。《易》の興起と廃棄は、人事に取決す。経文に曰く:孔子の曰く:「文字は言語を写尽する能わず、言語は心意を表達尽する能わず。」すでにこうなれば、すなわち聖人の心意はあに見る法なからんや。孔穎達は進んで申説す:この一節は孔子が自ら疑問を提出して、聖人の心意は見難しと説く。見難きの所以は、文字は言語を記録するに用い、しかして言語は繁多瑣碎にして、もまた楚地と中原の方音の不同あり、或は音ありて字なし、書写記録せんと欲するといえども、言語を完全に傾尽する能わず、だから「書不尽言」という。いわゆる「言不尽意」は、心意に深邃曲折の処ありて、言語の描摹する所能にあらずを説く、これがすなわち言語は能く心意を窮尽せず。聖人の心意は更に深遠なり。もし言語は能く聖人の心意を窮尽せず、文字はまた能く聖人の言語を窮尽せざれば、すなわち聖人の心意は便ち見る法なし、だから「然則聖人之意,其不可見乎」という。これは疑を存して発問せば、だから一個の「乎」の字を用う。

子曰:聖人立象以盡意,設卦以盡情偽,繫辭焉以盡其言,變而通之以盡利,極變通之數,則盡利也。故曰“易窮則變,變則通,通則久。”[疏]正義曰:“子曰聖人立象以盡意”巳下,至“幾乎息矣”,此一節是夫子還自釋聖人之意,有可見之理也。“聖人立象以盡意”者,雖言不盡意,立象可以盡之也。“設卦以盡情偽”者,非唯立象以盡聖人之意,又設卦以盡百姓之情偽也。“繫辭焉以盡其言”者,雖書不盡言,繫辭可以盡其言也。“變而通之以盡利”者,變,謂化而裁之,通,謂推而行之,故能盡物之利也。

経文に曰く:孔子の曰く:聖人は卦象を設立してもって心意を窮尽し、卦体を設置してもって真情と虚偽を窮尽し、文辞を繋えてもって説かんと欲する所の話を窮尽し、それを変通してもって利益を窮尽す。韓康伯の注は:変通の数を窮極せば、便ち能く利益を窮尽す、だから「《易》窮則変,変則通,通則久」というと解す。孔穎達は進んで申説す:「子曰聖人立象以尽意」より以下、「幾乎息矣」に至るまで、この一節は孔子が回りて自ら解釈す:聖人の心意は実は見るべきの理あり。いわゆる「聖人立象以尽意」は、言語は能く心意を窮尽せざるといえども、卦象を設立せば却って能くそれを窮尽するを説く。いわゆる「設卦以尽情偽」は、ただ卦象を設立して聖人の心意を窮尽するのみならず、また卦体を設置して百姓の真情と虚偽を窮尽す。いわゆる「繋辞焉以尽其言」は、文字は能く言語を写尽せざるといえども、文辞を繋えば却って能く説かんと欲する所の話を窮尽す。いわゆる「変而通之以尽利」の「変」は転化して裁節を加うるを指し、「通」は推衍して施行を加うるを指す、だから能く事物の利を窮尽す。

鼓之舞之以盡神。乾坤其易之縕邪?縕淵奧也。[疏]正義曰:“鼓之舞之以盡神”者,此一句總結立象盡意,繫辭盡言之美。聖人立象以盡其意,《繫辭》則盡其言,可以說化百姓之心,百姓之心自然樂順,若鼓舞然,而天下從之,非盡神,其孰能與於此?故曰“鼓之舞之以盡神也”。“乾坤其易之縕邪”者,上明盡言盡意,皆由於易道,此明易之所立,本乎乾坤。若乾坤不存,則易道無由興起,故乾坤是易道之所縕積之根源也。是與易川府奧藏。故云“乾坤其易之縕邪”。

経文に曰く:これを鼓動しこれを舞蹈して、もって神妙を窮尽す。乾坤は大概《易》の蘊蔵する所ならんか。韓康伯の注は:「縕」は深奥淵府の意なりと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「鼓之舞之以尽神」のこの一句は、象を立てて意を尽くし辞を繋えて言を尽くすの美善を総結す:聖人は卦象を設立してその心意を窮尽し、《繋辞》は則ちその言語を窮尽して、能く百姓の心を感化し、百姓の心は自然に順従を楽しみて、まさに鼓舞を受くるがごとく、天下は皆これに随って行う。もし神妙を窮尽せざれば、誰か能くこの歩みに達せんや。だから「鼓之舞之以尽神」という。いわゆる「乾坤其易之縕邪」は、上文は言を尽くし意を尽くすは皆《易》道より出ずるを闡明せり、ここに則ち《易》の成立する所以は、本源は乾坤に在るを闡明す:もし乾坤存在せざれば、《易》道は便ち興起する由なし、だから乾坤は《易》道の蘊積する所の根源にして、《易》の淵府の深蔵なり、それゆえ「乾坤其易之縕邪」という。

乾坤成列,而易立乎其中矣。乾坤毀,則元以見易。易不可見,則乾坤或幾乎息矣。[疏]正義曰:“乾坤成列,而易立乎其中矣”者,夫易者,陰陽變化之謂。陰陽變化,立爻以效之,皆從乾坤而來。故乾生三男,坤生三女而為八卦,變而相重,而有六十四卦,三百八十四爻,本之根源,從乾坤而來。故乾坤既成列位,而易道變化建立乎乾坤之中矣。

経文に曰く:乾坤は行列に排成せば、《易》は便ちその中に建立せり。乾坤もし毀壊せば、便ち《易》を見る由なし。《易》は見るべからざれば、すなわち乾坤は大概もまた止息に接近せらん。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「乾坤成列,而易立乎其中矣」は、いわゆる《易》は、講ずる所はすなわち陰陽変化なり。陰陽変化は、爻を設立してもってそれを仿傚して、しかしてこの一切は皆乾坤より来たる。だから乾は三個の男卦を生出し、坤は三個の女卦を生出して八卦と成り、八卦は変化重畳して、ここにおいて六十四卦・三百八十四爻あり。その根源を追究すれば、皆乾坤より来たる。だから乾坤すでに位次に排成せば、《易》道の変化は便ち乾坤の中に建立せり。

“乾坤毀,則無以見易”者,易既從乾坤而來,乾坤若缺毀,則易道損壞,故云“無以見易”也。“易不可見,則乾坤或幾乎息矣”,若易道毀壞,不可見其變化之理,則乾坤亦壞,或其近乎止息矣。幾,近也。猶若樹之枝幹生乎根株,根株毀,則枝條不茂。若枝幹已枯死,其根株雖未全死,僅有微生,將死不久。根株譬乾坤也,易譬枝幹也。故云:“易不可見,則乾坤或幾乎息矣”。

孔穎達は続けて申説す:いわゆる「乾坤毀,則无以見易」は、《易》すでに乾坤より来たれば、乾坤もし残缺陷毀あれば、《易》道は便ちこれに随って損壊す、だから「无以見易」という。いわゆる「易不可見,則乾坤或幾乎息矣」は、《易》道もし毀壊せば、その変化の理を見るに及ばず、すなわち乾坤もまたこれに随って敗壊し、或は止息に接近すと説く。「幾」はすなわち接近なり。これは樹木の枝幹は根株より生ずるに比す、根株は毀壊せば、枝條は便ち再び繁茂せず。もし枝幹すでに枯死せば、あの根株はいまだ完全に死去せざるといえども、も微弱の生機を残すのみ、死を去ること遠からず。根株は乾坤に比喻し、枝幹は《易》に比喻す、だから「易不可見,則乾坤或幾乎息矣」という。

是故形而上者謂之道,形而下者謂之器。化而裁之謂之變,因而制其會通,適變之道也。[疏]正義曰:“是故形而上者謂之道,形而下者謂之器”者,道是無體之名,形是有質之稱。凡有從無而生,形由道而立,是先道而後形,是道在形之上,形在道之下。故自形外已上者謂之道也,自形內而下者謂之器也。形雖處道器兩畔之際,形在器,不在道也。既有形質,可為器用,故云“形而下者謂之器”也。

経文に曰く:それゆえ形の上に在るを「道」と言い、形の下に在るを「器」と言い、転化して裁節を加うるを「変」と言う。韓康伯の注は:事物に順ってその会合貫通の処を裁制す、これがすなわち変化の道に切合すと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「是故形而上者謂之道,形而下者謂之器」の「道」は形体なき者の名称にして、「形」は質地ある者の称謂なり。およそ「有」は皆「无」より生じ、「形」は「道」に由りて立つ、見ればまず道ありて然る後に形あり、それにより道は形の上に在り、形は道の下に在る。だから形以外より上に向くを道と言い、形以内より下に向くを器と言う。形は道と器の両辺の交界の処に処るといえども、ただし形は器に帰属して、道に帰属せず:すでに形体質地あれば、便ち器物の用を充当すべし、だから「形而下者謂之器」という。

“化而裁之謂之變”者,陰陽變化而相裁節之,謂之變也。是得以理之變也。猶若陽氣之化不可久長,而裁節之以陰雨也,是得理之變也。陰陽之化,自然相裁,聖人亦法此而裁節也。推而行之謂之通。乘變而往者,無不通也。[疏]正義曰:因推此以可變而施行之,謂之通也。猶若亢陽之後變為陰雨,因陰雨而行之,物得開通,聖人亦當然也。

孔穎達は続けて申説す:いわゆる「化而裁之謂之変」は、陰陽は転化して互相に裁節す、これがすなわち変と言う、義理に合するの変なり。譬えば陽気の化育は能く長久に息まざるべからざれば、便ち陰雨を用いて裁節を加う、これがすなわち義理に合するの変なり。陰陽の化育は自然而然に互相に裁節し、聖人もまたこの点を效法して裁節を行う。経文に曰く:それを推衍して施行するを「通」と言う。韓康伯の注は:変化に乘じて前行するは、通暢せざるなしと解す。孔穎達は申説す:この可変の勢に順って推衍施行せば、便ち通と言う。譬えば亢旱の烈の烈陽の後に陰雨に転じて、便ち陰雨に順って施行せば、万物はこれに由りて開通を得、聖人の作為もまた応にこうあるべし。

舉而錯之天下之民,謂之事業。事業所以濟物,故舉而錯之於民。[疏]正義曰:謂舉此理以為變化,而錯置於天下之民。凡民得以營為事業,故云“謂之事業”也。此乃自然以變化錯置於民也,聖人亦當法此錯置變化於萬民,使成其事業也。凡《繫辭》之說,皆說易道,以為聖人德化,欲使聖人法易道以化成天下,是故易與聖人,恆相將也。以作易者,本為立教故也,非是空說易道,不關人事也。

経文に曰く:この一套の変化の道を提挙し出して、天下の百姓に安放施行す、これを便ち「事業」と言う。韓康伯の注は:事業の意義は万物を救済するに在り、だからそれを提挙し出して百姓の身に安放するを要すと解す。孔穎達は進んで申説す:いわゆる「挙而錯之」は、易道のこの道理を提起して変化の準則と為して、天下の百姓の中間に安置す。百姓はそれに依りて経営操作して、ここにおいて各々各々の事業あり、だから《繋辞》に「謂之事業」という。これは本は天道が自然に変化を百姓に安置するにして、聖人もまた応にこの種の做法を效法して、変化を万民の身に安置して、彼らをして各自に事業を成就せしむべし。およそ《繋辞》の講ずる所は、皆易道を講ずるに在りて、しかして聖人の徳化の上に帰結して、聖人に易道を效法して天下を化育せしめんと欲す、だから《周易》と聖人は終始相輔相随す。作《易》の人の本意はまさに教化を立下せんと欲するに在りて、併せて易理を空談して人事と関渉なきにあらざるに因るなり。

是故夫象,聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容,象其物宜,是故謂之象。聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。[疏]正義曰:“是故夫象聖人有以見天下之賾”至“是故謂之爻”者,於第六章已具其文,今於此更復言者何也?為下云“極天下之賾存乎卦,鼓天下之動存乎辭”,為此故更引其文也。且巳下又云“存乎變”“存乎通”“存乎其人”,廣陳所存之事,所以須重論也。

経文に曰く:それゆえ「象」を講ずるは、聖人が天下の幽深にして見難きの道理を見て、便ちその形態容貌を比擬して、卦象を用いてその物の性質の宜しき所を象徴して、それゆえこれを「象」と称す。聖人が天下万物の運動を見て、便ちそれらの会合貫通の処を観察し、これに拠りて典章礼制を推行し、また文辞を繋えてもって吉凶を断定して、それゆえこれを「爻」と称す。孔穎達の疏に曰く:「是故夫象聖人有以見天下之賾」より「是故謂之爻」に至るこの一段は、《繋辞上》第六章に於てすでに原文出現せり、いまここに重複して引出すは何の縁故なりや。下文は「極天下之賾存乎卦,鼓天下之動存乎辞」を講ぜんとするに因りて、この両句を引出せんがために、だから上文を再び一遍抄す。しかして再び下ってまた「存乎変」「存乎通」「存乎其人」と説きて、広く所存の種種の事項を鋪陳すれば、だから必ず重新に一回論述するを須とす。

極天下之賾者存乎卦,鼓天下之動者存乎辭。辭,爻辭也。爻以鼓動,效天下之動也。[疏]正義曰:“極天下之賾存乎卦”者,言窮極天下深賾之處存乎卦,言觀卦以知賾也。“鼓天下之動存乎辭”者,鼓,謂發揚天下之動。動有得失,存乎爻卦之辭,謂觀辭以知得失也。

経文に曰く:天下の幽深にして見難きの理を窮尽するは、全く卦象の裏に在り。天下万物の運動を鼓動するは、全く文辞の裏に在り。韓康伯の注は:ここの「辞」は爻辞を指す。爻は能く鼓蕩発動するは、まさに天下万物の運動を效法するなりと解す。孔穎達の疏に曰く:いわゆる「極天下之賾存乎卦」は、天下の最も幽深にして測れ難きの処を窮究せんと欲せば、便ち卦象の上に落つ、すなわち卦象を観察せば便ち能く幽賾の理を了解す。いわゆる「鼓天下之動存乎辞」の「鼓」は発揚鼓動して天下を運動するの意思なり。運動の中に得あり失ありて、この得失は便ち爻辞卦辞の中に保存す、すなわち文辞を観察せば便ち能く得失を了解す。

化而裁之存乎變,推而行之存乎通,神而明之存乎其人。體神而明之,不假於象,故存乎其人。[疏]正義曰:“化而裁之存乎變”者,謂覆說上文“化而裁之謂之變”也。“推而行之存乎通”者,覆說上文“推而行之謂之通”也。“神而明之存乎其人”者,言人能神此易道而顯明之者,存在於其人。若其人聖,則能神而明之;若其人愚,則不能神而明之;故存於其人,不在易象也。

経文に曰く:化育して裁制を加うるは、関鍵は「変」に在り。推衍して施行に付すは、関鍵は「通」に在り。神妙に体会して易道を彰明するは、関鍵は人の本身に在り。韓康伯の注は:能くあの神妙の理を亲身体会してそれを彰明せしむる人は、すでに再び卦象を借助するを必とせず、だから関鍵は人の本身に在るというと解す。孔穎達の疏に曰く:「化而裁之存乎変」は上文の「化而裁之謂之変」を重複申説す。「推而行之存乎通」は上文の「推而行之謂之通」を重複申説す。「神而明之存乎其人」は、能く易道を運用して神妙にして併せて顕揚するを加うるは、あの人に取決るを説く:あの人もし聖者なれば、便ち能く神妙にしてそれを彰明す。あの人もし愚者なれば、便ち能く神妙にしてそれを彰明する能わず。だから関鍵は人に在りて、易象の本身に在らず。

默而成之,不言而信,存乎德行。德行,賢人之德行也。順足於內,故默而成之也。體與理會,故不言而信也。[疏]正義曰:若能順理足於內,默然而成就之,闇與理會,不須言而自信也。“存乎德行”者,若有德行,則得默而成就之,不言而信也。若無德行則不能然。此言德行,據賢人之德行也。前《經》“神而明之,存乎其人”,謂聖人也。

経文に曰く:黙然として語らずして事已に成就し、口を開くを必とせずして人自ら信服す、関鍵は徳行に在り。韓康伯の注は:ここの「徳行」は賢人の徳行を指す。内心は理に順って自足せば、だから能く黙然として成就す。本体は至理と相契合せば、だから言説を必とせずして人自ら信ずと解す。孔穎達の疏に曰く:もし能く事理に順応して内心充足せば、便ち黙黙として事情を成就し起して、暗黙に理と相合し、説話を用いずして別人は自然に信服すべし。いわゆる「存乎徳行」は、徳行ある人は初めて能く黙然として事を成し言わずして信ずるを説く。徳行なき人は便ち到致する能わず。ここに説く徳行は、賢人の徳行に就きて言うなり。前面の経文の「神而明之,存乎其人」の講ずるは則ち聖人なり。

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