蹇卦
艮下坎上。蹇:利西南,不利東北。西南,地也,東北,山也。以難之平則難解,以難之山則道窮。[疏]正義曰:“蹇”,難也。有險在前,畏而不進,故稱為“蹇”。西南險位,平易之方。東北險位,阻礙之所。世道多難,率物以適平易,則蹇難可解。若入於險阻,則彌加擁塞。去就之宜,理須如此,故曰“蹇,利西南不利東北”也。
《蹇》卦の下体は艮、上体は坎。卦辞に言う:蹇は、西南に宜しく、東北に宜しからず。王弼の注が解釈して言う:西南は地、東北は山なり。艱難を帯びて平地に走向すれば、艱難は便ち化解し得べし。艱難を帯びて山中に走り入れば、道路は便ち窮尽せん。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「蹇」はすなわち艱難である。前面に険有りて、畏懼して前進を敢えてせず、ゆえに「蹇」と称す。西南は険難の中に於て平坦易行の方位に属し、東北は険難の中に於て阻碍難行の所在に属す。世道は多難にして、衆人を率領して平易の処に走向すれば、蹇難は便ち解除し得べし。もし険阻に走り入れば、ただいよいよ壅塞するのみ。取捨去就の適宜の道は、理に按じて必ずかくのごとくすべしゆえ、「蹇、利西南、不利東北」と言う。
利見大人。往則濟也。[疏]正義曰:能濟眾難,惟有大德之人,故曰“利見大人”,貞吉。爻皆當位,各履其正,居難履正,正邦之道也。正道未否,難由正濟,故“貞吉”也。遇難失正,吉可得乎?[疏]正義曰:居難之時,若不守正而行其邪道,雖見大人,亦不得吉,故曰“貞吉”也。
卦辞が続けて言う:大人に見ゆるに宜し。王弼の注が解釈して言う:前往して求見すればすなわち難を済す能う。孔頴達の疏が伸べて言う:能く衆人の患難を救済するはただ大徳の人のみゆえ、「利見大人」と言う。卦辞がまた言う:正を守れば吉祥。王弼の注が解釈して言う:この卦の諸爻は皆各々その位に当たり、各々正位の上に踏む。身は艱難に処りて行う所皆正なるは、これは邦国を端正するの道なり。正道は未だ閉塞せず、艱難は正を守るを以て化解を要すゆえ、「貞吉」。艱難に遇いて正道を喪失せば、なお吉祥を得る能わんや。孔頴達の疏が伸べて言う:身は艱難の時に処りて、もし正を守らずして邪路に走上せば、たとえ大人に見ゆとも吉祥を得ずゆえ、「貞吉」と言う。
《彖》曰:蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉!蹇“利西南”,往得中也。“不利東北”,其道窮也。“利見大人”,往有功也。當位“貞吉”,以正邦也。《蹇》之時用大矣哉!蹇難之時,非小人之所能用也。
《彖伝》に言う:蹇とは、すなわち艱難、険陷は前に横たわる。険陷を見て能く止まるは、真に明智なるかな。蹇卦の「利西南」は、前往すれば中道を得るを以てす。「不利東北」は、あの道は窮尽に走り至るを以てす。「利見大人」は、前往して功業を建立し得るを以てす。諸爻は位に当たりて「貞吉」は、以て邦国を端正するに用いる。《蹇》卦の処する時の功用は真に偉大なるかな。王弼の注が解釈して言う:蹇難の時の功用は、小人の施展し得る所に非ず。
[疏]“《彖》曰”至“大矣哉”。○正義曰:“蹇,難也,險在前也。見險而能止,知矣哉”者,釋卦名也。蹇者,有難而不進,能止而不犯,故就二體,有險有止,以釋蹇名。坎在其外,是“險在前也”。有險在前,所以為難。若冒險而行,或罹其害。艮居其內,止而不往,相時而動,非知不能,故曰“見險而能止,知矣哉”也。
孔頴達の疏が《彖伝》の一節から「大矣哉」までに就き伸べて言う:「蹇、難也、険在前也。見険而能止、知矣哉」とは、これは卦名を釈す。「蹇」は艱難有りて前進せず、能く止まり住みて触犯しに行かざるなれば、上下両体の「有険」「有止」に就いて「蹇」のこの名称を釈す。坎卦は外に在り、正に「険在前」。前面に険有れば艱難と成るゆえ、もし険を冒して行かば便ち禍害を遭受し得べし。艮卦は内に居り、止まりて往かず、時機を観察して再行動す、明智の人に非ざれば做し得ずゆえ、「見険而能止、知矣哉」と言う。
“蹇利西南往得中也”者,之於平易,救難之理,故云“往得中”也。“不利東北其道窮”者,之於險阻,更益其難,其道彌窮,故曰“其道窮”也。“利見大人往有功也”者,往見大人必能除難,故曰“往有功”也。“當位貞吉,以正邦也”者,二、三、四、五爻皆當位,所以得正而吉,故曰“當位貞吉”也。“以正邦也”者,居難守正,正邦之道,故曰“以正邦”也。“蹇之時用大矣哉”者,能於蹇難之時建立其功,用以濟世者,非小人之所能,故曰“蹇之時用大矣哉”也。
孔頴達の疏が続けて言う:「蹇利西南、往得中也」とは、平坦易行の処に走向するは正に難を救うの理に合すゆえ、「往得中」と言う。「不利東北、其道窮」とは、険阻に走向すればただ艱難を加重し、道路はいよいよ窮尽すゆえ、「其道窮」と言う。「利見大人、往有功也」とは、前往して大徳の人に求見すれば必ず能く艱難を除去せんゆえ、「往有功」と言う。「当位貞吉、以正邦也」とは、六二・九三・六四・九五の諸爻は皆各々その位に当たるゆえ、能く正を得て吉を得ゆえ、「当位貞吉」と言う。「以正邦也」とは、身は艱難に処りて正道を持守するは正に邦国を端正するの道なれば、「以正邦」と言う。「蹇之時用大矣哉」とは、能く蹇難の時に功業を建立し以て世人を救済するは、小人の做し得る所に非ずゆえ、「蹇之時用大矣哉」と言う。
《象》曰:山上有水,蹇。山上有水,蹇難之象。[疏]正義曰:山者是巖險,水是阻難。水積山上,彌益危難,故曰“山上有水蹇”。君子以反身修德。除難莫若反身脩德。[疏]正義曰:蹇難之時,未可以進,惟宜反求諸身,自脩其德,道成德立,方能濟險,故曰“君子以反身修德”也。陸績曰:“水在山上,失流通之性,故曰蹇。”通水流下,今在山上,不得下流,蹇之象。陸績又曰:“水本應山下,今在山上,終應反下,故曰反身。”處難之世,不可以行,只可反省察,脩已德用乃除難。君子通達道暢之時,並濟天下,處窮之時則獨善其身也。
《大象伝》に言う:山の上に水有り、これは蹇卦。王弼の注が解釈して言う:山の上に水有るは、正に蹇難の象なり。孔頴達の疏が伸べて言う:山は岩石険峻の処、水は阻隔艱難の物なり。水は山上に積り、いよいよ危難を增添すゆえ、「山上有水、蹇」と言う。《大象伝》が続けて言う:君子はこれにより自身に反求して徳行を修養す。王弼の注が解釈して言う:艱難を消除するは自身に反求し徳行を修養するより好き弁法なし。孔頴達の疏が伸べて言う:蹇難の時は前進すべからず、ただ宜しく反って之を自身に求め、自ら徳行を修養して、道成り徳立ってこそ険難を済度し得べしゆえ、「君子以反身修徳」と言う。三国呉人の陸績が言う:「水は山上に在り、流通の本性を失うゆえ、蹇と言う」。通常水は下に向かって流る、今山上に在りて下流を得ざるは、正に蹇の象なり。陸績がまた言う:「水はもと応に山下に在るべきに、今却って山上に在り、終に応に下方に返回すべしゆえ、『反身』と言う」。艱難の世に処りて行動有るべからず、ただ反省自察し自己の徳行を修養して、然る後にこそ難を除き得べし。君子は道路の通達順暢の時はすなわち一並びに天下を救済し、窮困の時に処ればすなわち独りその身を善くす。
初六:往蹇,來譽。處難之始,居止之初,獨見前識,睹險而止,以待其時,知矣哉!故往則遇蹇,來則得譽。[疏]正義曰:初六處蹇之初,往則遇難,來則得譽。初居艮始,是能見險而止。見險不往,則是來而得譽,故曰“往蹇來譽”。《象》曰:“往蹇來譽”,宜待也。[疏]正義曰:“宜待”者,既“往則遇蹇”,宜止以待時也。
経文の初六の爻辞に言う:前往すれば艱難に遇い、退き回来れば則ち声誉を獲得せん。王弼の注が解釈して言う:初六は艱難の開始・艮止の起初に処り、独り先見の明を具え、険陷を見ればすなわち停住して、以て時機を待つ、真に明智なるかな。ゆえに前往すればすなわち蹇難に遇上し、退回すればすなわち声誉を獲得す。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:初六は蹇卦の初めに処り、前往すればすなわち難に遇い、退回すればすなわち誉を得。初六は艮卦の起始に居り、正に能く「険を見て止まる」。険陷を見て前往せざれば、すなわち退回して声誉を獲得するなりゆえ、「往蹇来誉」と言う。《象伝》に言う:「往蹇来誉」とは、応に待つべきなり。孔頴達の疏に言う:「宜待」とは、すでに「前往すれば蹇難に遇う」なれば、応に止まりて時機を等待すべし。
六二:王臣蹇蹇,匪躬之故。處難之時,履當其位,居不失中,以應於五。不以五在難中,私身遠害,執心不回,志匡王室者也。故曰:“王臣蹇蹇,匪躬之故”。履中行義,以存其上,處蹇以比,未見其尢也。[疏]正義曰:“王”謂五也。“臣”謂二也。九五居於王位而在難中,六二是五之臣,往應於五,履正居中,志匡王室,能涉蹇難,而往濟蹇,故曰“王臣蹇蹇”也。盡忠於君,匪以私身之故而不往濟君,故曰“匪躬之故”。《象》曰:“王臣蹇蹇”,終無尢也。[疏]正義曰:“終無尤”者,處難以斯,豈有過尤也?
経文の六二の爻辞に言う:君王の臣子は艱難の中に奔走蹇滞す、自身の故を為すに非ず。王弼の注が解釈して言う:六二は艱難の時に処り、踏む所は正にその位に当たり、中に居りて中道を失わず、上に向かって九五に応ず。それは九五が身は難中に陥るに因りて自身を顧惜し禍害を遠離せず、而も心志を持守して絶対に回転せず、立志して王室を匡救せんとすゆえ、「王臣蹇蹇、匪躬之故」と言う。中道を踏み道義を行って以てその君上を保存し、蹇難に処りてかくのごとく亲比せば、なんの過失有るかを見ず。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「王」は九五を指し、「臣」は六二を指す。九五は王位に居りて身は難中に在り、六二は九五の臣子にして、前往して九五に応合し、踏む所は正を得居る所は中を得、立志して王室を匡救し、能く蹇難を渉歴して前往して難を救うゆえ、「王臣蹇蹇」と言う。それは君主に忠を尽くし、自身を顧惜するの故に因りて往きて君を救わざらざるゆえ、「匪躬之故」と言う。《象伝》に言う:「王臣蹇蹇」、終に過失なし。孔頴達の疏に言う:「終無尤」とは、艱難の中に処りて能くかくのごとく為せば、なんぞ過失有らんや。
九三:往蹇,來反。進則入險,來則得位,故曰“往蹇來反”。為下卦之主,是內之所恃也。[疏]正義曰:九三與《坎》為鄰,進則入險,故曰“往蹇”。來則得位,故曰“來反”。《象》曰:“往蹇來反”,內喜之也。[疏]正義曰:“內喜之”者,內卦三爻,惟九三一陽居二陰之上,是內之所恃,故云“內喜之”也。
経文の九三の爻辞に言う:前往すれば艱難に遇い、退き回来れば則ち本位に返帰せん。王弼の注が解釈して言う:前進すればすなわち険中に入り、退回すればすなわちその本位を得ゆえ、「往蹇来反」と言う。九三は下卦の主にして、内卦の倚恃する所の一爻なり。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:九三は《坎》卦と相隣り、前進すればすなわち険中に入るゆえ、「往蹇」。退回すればすなわちその正位を得ゆえ、「来反」。《象伝》に言う:「往蹇来反」とは、内卦がそれを喜べばなり。孔頴達の疏に言う:「内喜之」とは、内卦三爻の中ただ九三のこの一陽爻が両陰の上に居り、内卦の倚恃する所なれば、「内喜之」と言う。
六四:往蹇,來連。往則無應,來則乘剛,往來皆難,故曰“往蹇來連”。得位履正,當其本實,雖遇於難,非妄所招也。[疏]正義曰:馬云“連亦難”也。鄭云“遲久之意”。六四往則無應,來則乘剛,往來皆難,故曰“往蹇來連”也。《象》曰:“往蹇來連”,當位實也。[疏]正義曰:“當位實”者,明六四當位履正,當其本實。而往來遇難者,乃數之所招,非邪妄之所致也,故曰“當位實”也。
経文の六四の爻辞に言う:前往すれば艱難に遇い、退き回来るもまた牽連受阻せん。王弼の注が解釈して言う:前往すれば則ち上に応爻なく、退回すれば則ち九三の剛を凌乘す、往来ともに艱難なりゆえ、「往蹇来連」と言う。然れど六四は位を得て踏む所は正を得、それの本来の実情に符合し、艱難に遭遇すと雖も、自己の妄行の招来する所に非ず。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:馬融は「連もまた難の意」と言い、鄭玄は「連は遅緩久滞の意」と言う。六四は前往すれば則ち応なく、退回すれば則ち剛に乘ず、往来ともに艱難なりゆえ、「往蹇来連」と言う。《象伝》に言う:「往蹇来連」とは、居位が当を得てその実に合乎すればなり。孔頴達の疏に言う:「当位実」とは、六四が位に当たりて踏む所は正を得、その本来の実情に符合するを表明す。それが往来ともに難に遇うは、乃ち命数の招致する所にして、邪僻妄行の導致する所に非ずゆえ、「当位実」と言う。
九五:大蹇,朋來。處難之時,獨在險中,難之大者也,故曰“大蹇”。然居不失正,履不失中,執德之長,不改其節,如此則同志者集而至矣,故曰“朋來”也。[疏]“九五,大蹇朋來”。○正義曰:九五處難之時,獨在險中,難之大者也,故曰“大蹇”。然得位履正,不改其節,如此則同志者自遠而來,故曰“朋來”。○注“處難之時”至“朋來也”。○正義曰:“同志者集而至矣”者,此以“同志”釋“朋來”之義。鄭注《論語》云:“同門曰朋,同志曰友。”此對友也。通而言之,同志亦是朋黨也。《象》曰:“大蹇朋來”,以中節也。[疏]正義曰:“以中節”者,得位居中,不易其節,故致“朋來”,故云“以中節”也。
経文の九五の爻辞に言う:大なる蹇難の中に処り、朋友は前来して相助く。王弼の注が解釈して言う:九五は艱難の時に処り、独り身は険中に陥る、艱難の中の大者なりゆえ、「大蹇」。然れどそれは居る所はその正を失わず踏む所は中道を失わず、徳行の長を秉持して自己の節操を改変せず、このように志同道合の人は便ち聚集して来るゆえ、「朋来」と言う。孔頴達の疏が「九五:大蹇、朋来」に就き伸べて言う:九五は艱難の時に処り、独り身は険中に陥る、艱難の中の大者なりゆえ、「大蹇」。然れどそれは位を得て踏む所は正を得、節操を改変せず、このように志同道合の人は便ち遠方より赶来すゆえ、「朋来」と言う。孔頴達の疏がまた王弼の注「処難之時」から「朋来也」までに就き伸べて言う:王注の言う所の「同志者集而至矣」は、「同志」を用いて「朋来」の含義を釈するなり。鄭玄が《論語》に注して言う:「同一の師門を朋と言い、志向相同ずるを友と言う」。あれは「朋」と「友」が相対して言うなり。もし通泛に言えば、志向相同ずる人もすなわち朋党なり。《象伝》に言う:「大蹇朋来」とは、九五が中に居りて節操を持守すればなり。孔頴達の疏に言う:「以中節」とは、位を得て中に居り、自己の節操を改易せざるゆえ、「朋来」を招致す、故に「以中節」と言う。
上六:往蹇來碩,吉。利見大人。往則長難,來則難終,難終則眾難皆濟,志大得矣,故曰“往蹇來碩吉”。險夷難解,大道可興,故曰“利見大人”也。[疏]正義曰:碩,大也。上六難終之地,不宜更有所往,往則長難,故曰“往蹇”也。“來則難終,難終則眾難皆濟,志大得矣”,故曰“碩吉”也。險夷難解,大道可興,宜見大人以弘道化,故曰“利見大人”也。
経文の上六の爻辞に言う:前往すれば難に遇い、退き回来れば則ち碩大を収獲し、吉祥。大人に見ゆるに宜し。王弼の注が解釈して言う:前往すればすなわち艱難を助長し、退回すれば則ち艱難は告終す。艱難が告終すれば、衆多の難は皆済度を得、心志は便ち大いに得る所有るゆえ、「往蹇来碩、吉」と言う。険阻は平復し艱難は化解せば、大道は便ち興起し得べしゆえ、「利見大人」と言う。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「碩」は大なり。上六は艱難終結の地に処り、宜しく再び前往有るべからず、前往すればすなわち艱難を助長せんゆえ、「往蹇」。「退回すれば則ち艱難は告終し、艱難が告終すれば則ち衆難は皆済度を得、心志は大いに得る所有る」ゆえ、「碩吉」と言う。険阻は平復し艱難は化解せば、大道は興起し得べく、応に大徳の人に見ゆて以て道化を弘揚すべしゆえ、「利見大人」と言う。
《象》曰:“往蹇來碩”,志在內也。有應在內,往則失之。來則志獲,“志在內也”。[疏]正義曰:“志在內也”者,有應在三,是“志在內也”。應既在內,往則失之,來則得之,所以往則有蹇,來則碩吉也。“利見大人”,以從貴也。[疏]正義曰:貴謂陽也。以從陽,故云“以從貴”也。
《象伝》に言う:「往蹇来碩」とは、上六の心志が内卦に在ればなり。王弼の注が解釈して言う:上六の応爻は内卦に在り、前往すればすなわちそれを失い、退回すれば則ち心志は獲る所有るゆえ、「志在内也」と言う。孔頴達の疏が伸べて言う:「志在内也」とは、上六の応爻は九三に在り、正に「志在内」なり。応爻すでに内卦に在れば、前往すればすなわちそれを失い退回すればすなわちそれを得、ゆえに前往すれば蹇難有りて退回すれば則ち碩大にして吉。《象伝》が続けて言う:「利見大人」とは、尊貴者に順従するを以てす。孔頴達の疏に言う:「貴」は陽爻を指す。上六は九三の陽に順従すゆえ、「以従貴」と言う。
解卦
坎下震上。解:利西南。西南,眾也。解難濟險,利施於眾。遇難不困於東北,故不言不利東北也。[疏]正義曰:“解”者,卦名也。然解有兩音,一音古買反,一音胡買反,“解”謂解難之初,“解”謂既解之後。《彖》稱“動而免乎險”,明解眾難之時,故先儒皆讀為“解”。《序卦》云:“物不可以終難,故受之以解。解者,緩也。”然則“解”者,險難解,釋物情舒緩,故為“解”也。“解利西南”者,西南坤位,坤是眾也。施解於眾,則所濟者弘,故曰“解利西南”也。
《解》卦の下体は坎、上体は震。卦辞に言う:解は、西南に宜し。王弼の注が解釈して言う:西南は衆庶を代表す。艱難を解除し険陷を済度するは、利は衆人に施及するに在り。艱難に遭遇して困を受けるに至らざるは東北に在り、ゆえに卦辞は「不利東北」と言わず。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「解」は卦名。ただ「解」に両個の読音有り、一は「古買反」と読み、一は「胡買反」と読む。前者は難を解くの開始を指し、後者はすでに解开し了えた後を指す。《彖伝》が「動而免乎険」と称するは、これが衆難を解除するの時なるを説明すゆえ、先儒は皆難を解くの「解」と読む。《序卦伝》に言う:「事物は永遠に艱難の中に処る能わず、ゆえに《蹇》卦の後に接ぐるは《解》卦なり。解とは、すなわち舒缓なり」。このように看れば、「解」はすなわち険難が解开し物情が舒缓すゆえ、「解」と言う。「解利西南」とは、西南は坤の方位にして、坤は衆庶を代表す。難を解くの恵を衆人に施及せば、救済する所の面は広しゆえ、「解利西南」と言う。
無所往,其來復,吉。有攸往,夙吉。未有善於解難而迷於處安也。解之為義,解難而濟厄者也。無難可往,以解來復則不失中。有難而往,則以速為吉者,無難則能復其中,有難則能濟其厄也。[疏]正義曰:“無所往”者,上言“解難濟險,利施於眾”。此下明救難之時,誡其可否。若無難可往,則以來復為吉。若有難可往,則以速赴為善,故云“無所往,其來復吉,有攸往夙吉”。設此誡者,褚氏云:“世有無事求功,故誡以無難宜靜,亦有待敗乃救,故誡以有難須速也。”
卦辞が続けて言う:往くべき処なければすなわち返り回来りて吉、往くべき処有ればすなわち及早に前往して吉。王弼の注が解釈して言う:難を解くに善くして安処の道に昧きはなし。「解」の含義は艱難を解除し困厄を済度す。解くべき難なければ、すなわち難を解くの後に返回して中を守りて中道を失わず。難有りて前往せば、則ち迅速を以て吉と為す。難なき時は能くその中道に回復し、難有る時は能くその困厄を済度す。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「無所往」とは、上文は「艱難を解除し険陷を済度するは、利は衆人に施及するに在り」と言い、これ以下は則ち難を救うの時の為すべきと為すべからざるの告誡を説明す。もし往くべき難なければ、すなわち返回するを以て吉と為す。もし往くべき難有れば、すなわち迅速に赶赴するを以て善と為すゆえ、「無所往、其来復吉。有攸往、夙吉」と言う。この告誡を設下する所以は、褚氏が言う:「世上に事なくして強いて事功を求むる人有り、ゆえに彼に難なき時は宜しく静守すべしと告誡す。また事の敗壊に至ってこそ救いに行く人有り、ゆえに彼に難有る時は必ず迅速なるべしと告誡す」。
《彖》曰:解,險以動,動而免乎險,解。動乎險外,故謂之“免”。免險則解,故謂之“解”。[疏]正義曰:此就二體以釋卦名。遇險不動,無由解難。動在險中,亦未能免咎。今動於險外,即見免脫於險,所以為“解”也。
《彖伝》に言う:解卦は、険に遇いて而後動き、一動すれば便ち険を脱離す、これすなわち解。王弼の注が解釈して言う:険の外面に在りて動くゆえ、「免」と言う。険を脱離すればすなわち解なれば、「解」と言う。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:これは上下両体に就いて卦名を釈す。険陷に遇いて行動せざれば、すなわち難を解く由なし。険中に在りて行動するも、なお災咎を免る能わず。今は険の外面に在りて行動すれば、便ちその険を脱免するを見るゆえ、「解」と称す。
“解,利西南”,往得眾也,“其來復吉”,乃得中也。“有攸往,夙吉”,往有功也。天地解而雷雨作,雷雨作而百果草木皆甲圻。天地否結則雷雨不作,交通感散,雷雨乃作也。雷雨之作,則險厄者亨,否結者散,故“百果草木皆甲圻”也。
《彖伝》が続けて言う:「解、利西南」は、前往すれば衆人を得るを以てす。「其来復吉」は、かくのごとくしてこそ中道に合乎するを以てす。「有攸往、夙吉」は、前往して功業を建立し得るを以てす。天地の気は解开して雷雨は興作し、雷雨興作して各種の果樹草木は皆萌芽破殼す。王弼の注が解釈して言う:天地閉塞鬱結の時は雷雨は興作せず、交通感応して鬱気は発散して、雷雨こそ興作す。雷雨一たび興作すれば、険厄の者は便ち亨通し閉塞の者は便ち消散すゆえ、「百果草木皆甲坼」。
[疏]“解利西南”至“百果草木皆甲坼”。○正義曰:“解利西南往得眾”者,“解”之為義,兼濟為美。往之西南得施解於眾,所以為利也。“其來復吉乃得中也”者,無難可解,退守靜默,得理之中,故云“乃得中”也。“有攸往,夙吉,往有功也”者,解難能速,則不失其幾,故“往有功也”。“天地解而雷雨作雷雨作,而百果草木皆甲圻”者,此因震、坎有雷雨之象,以廣明“解”義。天地解緩,雷雨乃作。雷雨既作,百果草木皆孚甲開坼,莫不解散也。
孔頴達の疏が《彖伝》の「解利西南」から「百果草木皆甲坼」までの一節に就き伸べて言う:「解利西南、往得衆」とは、「解」の含義は兼ねて衆人を済するを以て美と為し、前往して西南すれば難を解くの恵を衆人に施及し得べしゆえ、利と為る。「其来復吉、乃得中也」とは、解くべき難なき時は退き回来りて静守沈黙すれば、正に事理の中道に合すゆえ、「乃得中」と言う。「有攸往、夙吉、往有功也」とは、難を解くこと能く迅速なればすなわち時機を錯失せずゆえ、「往有功」。「天地解而雷雨作、雷雨作而百果草木皆甲坼」とは、これは震雷・坎雨の象に就いて「解」の義理を推広闡明す。天地の気は舒解して、雷雨こそ興作す。雷雨すでに興作せば、各種の果樹草木の種殼は皆裂開萌発して、解散せざるなし。
解之時大矣哉!無圻而不釋也。難解之時,非治難時,故不言用。體盡於解之名,無有幽隱,故不曰義。[疏]正義曰:結嘆解之大也。自天地至於草木,無不有“解”,豈非大哉!
《彖伝》が最後に言う:解卦の処する時は真に偉大なるかな。王弼の注が解釈して言う:裂開して消釋せざるものなし。難を解くの時は難を治めるの時と不同なれば、《彖伝》は「時用」と言わず。卦体はすでに「解」のこの名称の裏に説尽し、幽隠難明の処なく、ゆえにまた「時義」と言わず。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:これは総結讚嘆して「解」の宏大を言う。天地より直に草木に至るまで、「解」有らざるなし、豈に偉大ならずや。
《象》曰:雷雨作,解。君子以赦過宥罪。[疏]正義曰:赦謂放免,過謂誤失,宥謂寬宥,罪謂故犯,過輕則赦,罪重則宥,皆解緩之義也。
《大象伝》に言う:雷雨興作す、これは解卦。君子はこれにより過失を赦免し罪行を寛宥す。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「赦」は放免、「過」は無心の失誤。「宥」は寛減、「罪」は有意の触犯。過失は軽ければ赦免し、罪行は重ければ寛宥す、皆「解」の含む舒缓の義に合乎す。
初六:無咎“解”者,解也。屯難盤結,於是乎解也。處蹇難始解之初,在剛柔始散之際,將赦罪厄,以夷其險。處此之時,不煩於位而“無咎”也。[疏]正義曰:夫險難未夷,則賤弱者受害,然則蹇難未解之時,柔弱者不能無咎,否結既釋之後,剛強者不復陵暴。初六,“處蹇難始解之初,在剛柔始散之際”,雖以柔弱處無位之地,逢此之時,不慮有咎,故曰“初六無咎”也。《象》曰:剛柔之際,義無咎也。或有過咎,非其理也。“義”猶理也。[疏]正義曰:“義無咎”者,“義”猶理也,剛柔既散,理必無咎,或有過咎,非理之當也,故曰“義無咎”也。○注“有過咎”至“義猶理也”。○正義曰:“或有過咎,非其理也”者,或本無此八字。
経文の初六の爻辞に言う:過ちなし。王弼の注が解釈して言う:「解」はすなわち解开なり。屯聚の艱難は盤結して一たに在り、ここに至れば便ち解开す。初六は蹇難の剛剛解开するの初めに処り、正に剛柔の离散し始むるの際に当たり、将に罪厄を赦免して以て険阻を平復せんとす。この時に処れば、爵位の事に操心するを須みずして便ち「無咎」し得べし。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:険難未だ平らざる時は、卑賤柔弱の人は害を受く、則ち蹇難未だ解开せざるの時は、柔弱の者は過咎なからしめず。閉塞鬱結すでに消釋した後に至れば、剛強の者もまた欺凌暴虐せず。初六は「蹇難の剛剛解开するの初めに処り、正に剛柔の离散し始むるの際に当たり」、柔弱の身を以て爵位なきの地に処ると雖も、この時に遇上せば憂慮して咎有るを須みずゆえ、「初六、無咎」と言う。《象伝》に言う:剛柔交接の際は、理に按じて過ち有るべからず。王弼の注が解釈して言う:もしなお過咎有らば、すなわち常理に合せず。「義」はすなわち「理」に等し。孔頴達の疏に言う:「義無咎」とは、「義」はすなわち理なり。剛柔すでに离散せば、理に按じて必ず無咎、もし竟に過咎有らば、すなわち理の当然の応に有るに非ずゆえ、「義無咎」と言う。孔頴達の疏がまた王注の「或有過咎」から「義猶理也」までに就き伸べて言う:王注の「或有過咎、非其理也」のこの八个字は、有る本子に無し。
九二:田獲三狐,得黃矢,貞吉。狐者,隱伏之物也。剛中而應,為五所任,處於險中,知險之情,以斯解物,能獲隱伏也,故曰:“田獲三狐”也。黃,理中之稱也。矢,直也。田而獲三狐,得乎理中之道,不失枉直之實,能全其正者也,故曰“田獲三狐,得黃矢,貞吉”也。[疏]正義曰:“田獲三狐”者,狐是隱伏之物,三為成數,舉三言之,搜獲歡盡。九二以剛居中而應於五,為五所任,處於險中,知險之情,以斯解險,無險不濟,能獲隱伏,如似田獵而獲窟中之狐,故曰“田獲三狐”。“得黃矢,貞吉”者,黃,中之稱。矢,直也。田而獲三狐,得乎無理中之道,不失枉直之實,能全其正者也,故曰“得黃矢貞吉”也。
経文の九二の爻辞に言う:田獵して三只の狐狸を獵獲し、黄色の箭を得、正を守れば吉祥。王弼の注が解釈して言う:狐は隠伏藏匿の物なり。九二は剛健にして中に居りて六五と相応し、六五に信任せられ、身は険中に処りて深く険情を知る、このごとき条件を用いて人のために難を解けば、能く隠伏の物を搜獲せんゆえ、「田獲三狐」と言う。「黄」は中道に合乎するの称谓、「矢」は正直なり。田獵して三狐を獵獲するは、中道に合乎するの方法を得て、曲直の実情を失わず、能くその正を保全すゆえ、「田獲三狐、得黄矢、貞吉」と言う。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「田獲三狐」とは、狐は隠伏の物、「三」は成数、「三」を挙げて言うは、搜捕繳獲すること乾乾淨淨たるを表示す。九二は剛爻を以て中に居りて上に六五に応じ、六五に任用せられ、身は険中に処りて深く険情を知る、これらを凭じて以て険難を解除せば、済度し得ざるの険なく、能く隠伏の物を搜獲す、あたかも田獵して洞中の狐狸を捕獲するがごとしゆえ、「田獲三狐」と言う。「得黄矢、貞吉」とは、「黄」は中の称谓、「矢」は正直。田獵して三狐を獵獲するは、中道に合乎するの法を得て(底本は「得乎無理中之道」、『無』は衍字)、曲直の実情を失わず、能くその正を保全すゆえ、「得黄矢、貞吉」と言う。
《象》曰:九二,“貞吉”,得中道也。[疏]正義曰:“得中道也”者,明九二位既不當,所以得“貞吉”者,由處於中,得乎理中之道故也。
《象伝》に言う:九二の「貞吉」は、中道を得ればなり。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「得中道也」とは、九二の居位はもと当たらず、能く「貞吉」を得る所以は、それが中位に処り中道に合乎するの缘故に由るを表明す。
六三:負且乘,致寇至,貞吝。處非其位,履非其正,以附於四,用夫柔邪以自媚者也。乘二負四,以容其身。寇之來也,自已所致,雖幸而免,正之所賤也。[疏]正義曰:“負且乘致寇至”者,六三,矢正無應,下乘於二,上附於四,即是用夫邪佞以自說媚者也。乘者,君子之器也。負者,小人之事也。施之於人,即在車騎之上,而負於物也。故寇盜知其非巳所有,於是競欲奪之,故曰“負且乘致寇至”也。“貞吝”者,負乘之人,正其所鄙,故曰“貞吝”也。
経文の六三の爻辞に言う:物を背負いてまた車の上に坐り、強寇を招来す、正を守るもまた憾惜有らん。王弼の注が解釈して言う:六三の処する所は応有の位に非ず、踏む所もまた正ならず、九四に攀附するを頼る、これは柔媚邪佞を用いて上位に討好するなり。それは下に九二に乘り上に九四に附してこれを以て身を容る、強寇の来るは自己の招致する所にして、たとえ僥倖に禍を免るとも、正道の鄙賤する所と為る。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「負且乗、致寇至」とは、六三は正を失いてまた応なく(底本の「矢」は「失」と作るべし)、下に向かって九二を凌乘し上に向かって九四に攀附す、正に邪佞を用いて自ら取悦討好する人なり。車に乘るは君子の器用、背負するは小人の活計なり。一人の身上に落てば、すなわち車馬の上に坐りて却又物を背負うと成る。ゆえに盗寇はあの車馬がもと彼の応有に非ざるを知り、ここに争うて来て奪取せんと欲すゆえ、「負且乗、致寇至」と言う。「貞吝」とは、また背負いまた乘るこの種の人は正に正道の鄙薄する所なれば、「貞吝」と言う。
《象》曰:負且乘,亦可醜也。自我致戎,又誰咎也?[疏]正義曰:“亦可醜也”者,天下之丑多矣,此是其一,故曰“亦可醜也”。“自我致戎,又誰咎也”者,言此寇雖由已之招,非是他人致此過咎,故曰“又誰咎也”。
《象伝》に言う:また背負いまた乘るは、また真に可恥なるかな。兵戎は我自己より致す、また誰を咎めんや。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「亦可醜也」とは、天下の可恥の事は甚だ多く、これは不過その中の一件なりゆえ、「也真是可恥」と言う。「自我致戎、又誰咎也」とは、これらの寇盗は自己より招来すると雖も、別人がこの場の禍咎を造成するに非ざるを言うゆえ、「又能怪誰呢」と言う。
九四:解而拇,朋至斯孚。失位不正,而比於三,故三得附之為其拇也。三為之拇,則失初之應,故“解其拇”,然後朋至而信矣。[疏]正義曰:而,汝也。拇,足大指也。履於不正,與三相比,三從下來附之,如指之附足,四有應在初。若三為之拇,則失初之應,故必“解其拇”,然後朋至而信,故曰“解而拇,朋至斯孚”。《象》曰:“解而拇”,未當位也。[疏]正義曰:“未當位”者,四若當位履正,即三為邪媚之身,不得附之也。既三不得附四,則無所解。今須解拇,由不當位也。
経文の九四の爻辞に言う:あなたの脚上の大拇指を解开せよ、朋友到來してこそ誠信有らん。王弼の注が解釈して言う:九四は位を失いて正ならず、また六三と相隣すゆえ、六三は攀附し上りてその脚拇指と成るを得たり。六三がその拇指を為せば、それはすなわち初六との相応を失うゆえ、「その拇指を解开」せんことを要し、然る後に朋友到來してこそ誠信有らん。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「而」はすなわち「あなた」、「拇」は脚の大拇指。九四の踏む所は正ならず、六三と相隣り、六三は下面より来てそれに依附す、あたかも脚趾の脚上に附着するがごとし。而も九四の応爻は初六に在り。もし六三をしてその拇指を為さしめば、すなわち初六との相応を失うゆえ、必ず「この拇指を解开」して、然る後に朋友到來してこそ誠信有らん、ゆえに「解而拇、朋至斯孚」と言う。《象伝》に言う:「解而拇」とは、九四の居位が当たらざるがゆえなり。孔頴達の疏に言う:「未当位」とは、九四はもし居位当を得踏む所正を得らば、則ち六三のこの邪媚の身は依附する由なし。六三はすでに九四に依附する法なく、すなわち解くべきもなし。今必ず拇指を解开せんことを要するは、正に九四の居位が当たらざるに由る。
六五:君子維有解,吉。有孚于小人。居尊履中而應乎剛,可以有解而獲吉矣。以君子之道解難釋險,小人雖間,猶知服之而無怨矣。故曰“有孚于小人”也。[疏]正義曰:“君子維有解吉”者,六五,居尊履中而應於剛,是有君子之德。君子當此之時,可以解於險難。維,辭也。有解於難,所以獲吉,故曰“君子維有解吉”也。“有孚于小人”者,以君子之道解難,則小人皆信服之,故曰“有孚于小人”也。《象》曰:君子有解,小人退也。[疏]正義曰:小人謂作難者,信君子之德,故退而畏服之。
経文の六五の爻辞に言う:君子は能く解除有るを得、吉祥。小人に対しても誠信の感化有り。王弼の注が解釈して言う:六五は尊位に居り中道を踏みて下に九二の剛に応ず、解除有るを得て吉祥を獲得し得べし。君子の道を用いて艱難を解除し険阻を消釋せば、小人はたとえその中より離間すとも、なお服従を知りて怨言なからんゆえ、「有孚于小人」と言う。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「君子維有解、吉」とは、六五は尊位に居り中位に踏みて下に剛爻に応ず、これは君子の徳を具備す。君子はこの時に当たりて険難を解除し得べし。「維」は語助詞。能く艱難を解除すればゆえに吉を獲ゆえ、「君子維有解、吉」と言う。「有孚于小人」とは、君子の道を用いて難を解けば、小人は皆信服せんゆえ、「有孚于小人」と言う。《象伝》に言う:君子が解除有れば、小人は便ち退避す。孔頴達の疏に言う:「小人」は禍難を製造する人を指す。彼らは君子の徳行を相信ずゆえ、退避して畏服す。
上六:公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。初為四應,二為五應,三不應上,失位負乘,處下體之上,故曰“高墉”。墉非隼之所處,高非三之所履,上六居動之上,為解之極,將解荒悖而除穢亂者也。故用射之,極則後動,成而後舉,故必“獲之”,而“無不利”也。
経文の上六の爻辞に言う:王公は高墻の上に於てあの隼鳥を射て、射中してそれを擒獲す、不利なきことなし。王弼の注が解釈して言う:初六は九四の応爻、九二は六五の応爻、六三は上六と相応せず。六三は位を失いてまた背負乗車し、下体の頂端に処るゆえ、それを「高墉」と称す。高墻はもと隼の棲息すべき所に非ず、高位もまた六三の踏上すべき位置に非ず。上六は震動の体の上端に居り、解卦の極点に処り、将に荒乱悖逆を解除し汚穢禍乱を清除せんとすゆえ、射るの弁法を用いてそれに対付す。極点に至りて而後にこそ動き、条件成熟して而後にこそ発すゆえ、必ず「射中擒獲」して「無不利」なり。
[疏]“上六”至“無不利”。○正義曰:隼者,貪殘之鳥,鸇鷂之屬。墉,牆也。六三失位負乘,不應於上,即是罪釁之人,故以譬於集。此借飛鳥為喻,而居下體之上,其猶隼處高墉。隼之為鳥,宜在山林,集於人家“高墉”,必為人所繳射,以譬六三處於高位,必當被人所誅討。上六居動之上,為解之極,將解之荒悖而除穢亂,故用射之也。“極而後動,成而後舉,故必獲之,而無不利”,故曰“公用射隼于高墉之上,獲之無不利”也。公宅臣之極。上六以陰居上,故謂之“公”也。
孔頴達の疏が上六の爻辞から「無不利」までに就き伸べて言う:「隼」は貪婪凶残の鳥にして、鸇・鷂の一類に属す。「墉」はすなわち墻。六三は位を失いてまた背負乗車し、上六と相応せず、正に罪衅有る人なれば、隼を拿って以てそれに譬喩す(底本の「集」は「隼」と作るべし)。ここに飛鳥を借りて喩を設く、六三は下体の上に居り、あたかも隼が高墻の上に停まるがごとし。隼のこの種の鳥はもと応に山林に待るべきに、却って人家の「高墻」の上に棲集す、必ず人に縄帯びの箭を以て射ち落されん。これを以て六三が高位に処るを譬喩せば、必ず人に誅討せられん。上六は震動の体の上端に居り、解卦の極点に処り、将に荒乱悖逆を解除し汚穢禍乱を清除せんとすゆえ、射るの弁法を用いてそれに対付す。正に王弼の注の言う所のごとき「極点に至りて而後にこそ動き、条件成熟して而後にこそ発すゆえ、必ず射獲して無不利」ゆえ、「公用射隼于高墉之上、獲之、無不利」と言う。「公」は人臣の中の最高の一級(底本の「宅」は「者」と作るべし)。上六は陰爻を以て上位に居るゆえ、それを「公」と称す。
《象》曰:“公用射隼”,以解悖也。[疏]正義曰:“解悖也”者,悖,逆也。六三失位負乘,不應於上,是悖逆之人也。上六居動之上,能除解六三之荒悖,故云“以解悖也”。
《象伝》に言う:「公用射隼」とは、悖逆を解除するを以てす。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「解悖也」とは、「悖」はすなわち叛逆なり。六三は位を失いて背負乗車し、また上六と相応せず、是れ悖逆の人なり。上六は震動の体の上端に居り、能く六三の荒乱悖逆を除解すゆえ、「以解悖也」と言う。
損卦
兌下艮上。損:有孚,元吉,無咎可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。[疏]“損有孚”至“可用享”。○正義曰:“損”者,減損之名,此卦明損下益上,故謂之“損”。“損”之為義,“損下益上”,損剛益柔。損下益上,非補不足者也。損剛益柔,非長君子之道者也。若不以誠信,則涉諂諛而有過咎,故必“有孚”,然後大吉,無咎可正,而“利有攸往”矣,故曰“損有孚,元吉,無咎可貞,利有攸往”也。
《損》卦の下体は兌、上体は艮。卦辞に言う:損は、誠信を懐き、大いに吉祥、過ちなくして正を守るべく、前往有るに宜し。なにを用いて奉献せんや。両簋の薄食は便ち用いて祭享し得べし。孔頴達の疏が卦辞の「損有孚」から「可用享」までに就き伸べて言う:「損」は減損の名称、この卦は下方を減損して以て上方を増益するを闡明すゆえ、「損」と言う。「損」の含義は「損下益上」「損剛益柔」。損下益上は有餘を拿って以て不足を補うに非ず、損剛益柔もまた君子の道を助長するに非ず。これによってもし誠信を凭じて為さざれば、すなわち諂媚阿諛に流れて過咎有らんゆえ、必ず「有孚」して、然る後にこそ大いに吉祥・無咎にして正を守るべく・「利有攸往」なりゆえ、「損、有孚、元吉、無咎可貞、利有攸往」と言う。
先儒皆以無咎、可貞,各自為義,言既吉而無咎,則可以為正。準下王注《彖》辭云:“損下而不為邪,益上而不為諂,則何咎而可正。”然則王意以無咎、可貞共成一義,故莊氏云:“若行損有咎,則須補過以正其失。”今行損用信,則是無咎可正,故云“無咎可貞”。竊謂莊氏之言得正旨矣。“曷之用,二簋可用享”者,明行損之禮,貴夫誠信,不在於豐。既行損以信,何用豐為?二簋至約,可用享祭矣,故曰“曷之用,二簋可用享”也。
孔頴達の疏が続けて辨析す:先儒は皆「無咎」と「可貞」を以て各々独立の両義と為し、すでに吉にして無咎なれば便ち正と算し得べしと言う。然れど下文の王弼が《彖伝》に注する所に依れば「在下者を減損して邪に流れず、在上者を増益して諂に流れざれば、あれはなんの咎有らん、なんぞ正にすべからざる有らん」、可見王弼の意思は「無咎」「可貞」を一義に合成するなれば、荘氏が言う:「もし減損を施行して咎有らば、必ず過失を補救して以てその差錯を匡正せんことを要す」。今減損を施行して誠信を用いれば、あれはすなわち無咎にして正すべしゆえ、「無咎可貞」と言う。私は私かりに荘氏の説法こそ正旨に合乎すと為す。「曷之用、二簋可用享」とは、減損の礼を施行するの貴ぶべきは誠信に在りて豊厚に在らざるを表明す。すでに誠信を以て減損を行えば、なんぞ豊厚を求めんや。両簋の薄食は極めて倹約、また以て祭享し得べしゆえ、「曷之用。二簋可用享」と言う。
《彖》曰:損,損下益上,其道上行。艮為陽,兌為陰。凡陰順於陽者也。陽止於上,陰說而順,損下益上,上行之義也。[疏]正義曰:此就二體釋卦名之義,艮,陽卦,為止。兌,陰卦,為說。陽止於上,陰說而順之,是下自減損以奉於上,“上行”之謂也。
《彖伝》に言う:損卦は、下方を減損して上方を増益し、その道は上に向かって運行す。王弼の注が解釈して言う:艮は陽卦、兌は陰卦。凡そ陰は皆陽に順従す。陽は上に止まり、陰は悦びて順従し、下方を減損して来て上方を増益す、これすなわち「上行」の含義なり。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:これは上下両体に就いて卦名の義を釈す。艮は陽卦にして、その性は止。兌は陰卦にして、その性は悦。陽は上に止まり、陰は悦びてそれに順従す、これすなわち在下者が自ら減損して以て在上者に奉事するなり、すなわち言う所の「上行」。
損而有孚,元吉,無咎可貞,利有攸往。損之為道,“損下益上”,損剛益柔也。損下益上,非補不足也。損剛益柔,非長君子之道也。為損而可以獲吉,其唯有孚乎?“損而有孚”,則“元吉”,“無咎”而可正,“利有攸往”矣。“損剛益柔”,不以消剛。“損柔益上”,不以盈上,損剛而不為邪,益上而不為諂,則何咎而可正?雖不能拯濟大難,以斯有往,物無距也。[疏]正義曰:卦有“元吉”已下等事,由於“有孚”,故加一“而”字,則其義可見矣。
《彖伝》が続けて言う:減損して誠信を懐けば、大いに吉祥、過ちなくして正を守るべく、前往有るに宜し。王弼の注が解釈して言う:「損」のこの条の道は「損下益上」「損剛益柔」。損下益上は有餘を拿って不足を補うに非ず、損剛益柔もまた君子の道を助長するに非ず。減損を施行してなお吉を獲る能うは、頼る所はほぼただ誠信のみか。「減損して誠信有れば」すなわち能く「元吉」、「無咎」にして正を守るべく、「利有攸往」なり。「損剛益柔」は剛を消滅せんと欲するに非ず、「損柔益上」は上方を盈満ならしめんと欲するに非ず。在下者を減損して邪に流れず、在上者を増益して諂に流れざれば、あれはなんの咎有らん、なんぞ正にすべからざる有らんや。大難を拯救し得ずと雖も、かくのごときを凭じて行動せば、万物もまた抗拒せざらん。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:卦辞の裏の「元吉」以下のこれらの話は皆「有孚」より来るゆえ、《彖伝》は一個の「而」の字を加上し、その中の道理は便ち看清楚すべし。
“曷之用”?曷,辭也。“曷之用”,言何以豐為也。“二簋可用享。”二簋,質薄之器也。行損以信,雖二簋而可用享。[疏]正義曰:“曷之用二簋可用享”者,舉《經》明之,皆為損而有孚,故得如此。
《彖伝》が卦辞を引きて言う:「曷之用」。王弼の注が解釈して言う:「曷」は疑問語詞、「曷之用」はなんぞ豊厚を求めんを須むやを言う。《彖伝》がまた引きて言う:「二簋可用享」。王弼の注が解釈して言う:両簋は質地菲薄の器皿。誠信を以て減損を施行せば、たとえ両簋のみ有るともまた用いて祭享し得べし。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「曷之用、二簋可用享」とは、経文を挙出して以て説明す、これらは皆減損にして誠信有るに因るゆえ、こそかくのごとく能うなり。
二簋應有時,至約之道,不可常也。[疏]正義曰:申明二簋之禮,不可為常。二簋至約,惟在損時應時行之,非時不可也。損剛益柔有時。下不敢剛,貴於上行,“損剛益柔”之謂也。剛為德長,損之不可以為常也。[疏]正義曰:明“損下益上”之道,亦不可為常。損之所以能“損下益上”者,以下不敢剛亢,貴於奉上,則是損於剛亢而益柔順也。“損剛”者,謂損兌之陽爻也。“益柔”者,謂益艮之陰爻也。人之為德,須備剛柔,就剛柔之中,剛為德長。既為德長,不可恆減,故損之“有時”。
《彖伝》が続けて言う:「二簋」の用は応に時に合乎すべし。王弼の注が解釈して言う:極めて倹約の做法は以て常法と為すべからず。孔頴達の疏が伸べて言う:これは両簋を用いて祭享するの礼は常制と為るべからざるを申明す。両簋は極めて倹約にして、ただ当損の時に在りて時に因りて行うのみ、あの時に非ざればすなわち不可なり。《彖伝》がまた言う:剛を減損して柔を増益するもまた応に時に合乎すべし。王弼の注が解釈して言う:在下者は敢えて剛亢せず、奉事して上に在るを貴と為す、これすなわち「損剛益柔」。剛は徳行の中の首要、それを減損するは以て常法と為すべからず。孔頴達の疏が伸べて言う:これは「損下益上」の道もまた以て常法と為すべからざるを表明す。減損の能く「損下益上」する所以は、在下者が敢えて剛強亢直せず奉事して上方を貴と為すを以てす、あれはすなわち剛亢を減損して柔順を増益す。「損剛」は兌体の陽爻を減損するを指し、「益柔」は艮体の陰爻を増益するを指す。人が徳行を培養するは必ず剛柔兼備せねばならず、而も剛柔の中に於て、剛は徳行の首要。すでに首要なれば、常常にそれを減損すべからずゆえ、それを減損するは「有時」を要す。
損益盈虛,與時偕行。自然之質,各定其分,短者不為不足,長者不為有餘,損益將何加焉?非道之常,故必“與時偕行”也。[疏]正義曰:“盈虛”者,鳧足短而任性,鶴脛長而自然。此又云“與時偕行”者,上既言“損剛益柔”,不可常用,此又汎明損益之事,體非恆理,自然之質,各定其分。鳧足非短,鶴脛非長,何須損我以益人。虛此以盈彼,但有時宜用,故應時而行,故曰“損益盈虛,與時偕行”也。
《彖伝》が続けて言う:減損と増益・盈満と虧虛は、皆時勢に随いて一同に施行すべし。王弼の注が解釈して言う:万物の自然の禀質は各々その定分有り、短きは不足と算せず長きは有餘と算せず、減損と増益はまたそれになんを加上し得んや。これは恒常の道に非ずゆえ、必ず「与時偕行」せんことを要す。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「盈虛」とは、あたかも《荘子・駢拇》の言うがごとき野鴨の腿は短きはそれの本性、鶴の脛は長きはそれの自然なり。ここにまた「与時偕行」と言うは、上文すでに「損剛益柔」は常用すべからずと言えば、ここにまた泛く減損増益の事を論ず、その本体は恒常の理に非ず。万物の自然の禀質は各々定分有り、野鴨の腿は短しと算せず、鶴の脛もまた長しと算せず、なんぞ必ず我を減損して別人を増益し、この一頭を掏空してあの一頭を填満せんや。ただ時に確かにかくのごとく為すに適宜有るのみ、ゆえに時勢に因応して行う、故に「損益盈虛、与時偕行」と言う。
《象》曰:山下有澤,損。山下有澤,損之象也。[疏]正義曰:澤在山下,澤卑山高,似澤之自損,以崇山之象也。君子以懲忿窒欲。可損之善,莫善忿欲也。[疏]正義曰:君子以法此損道,以懲止忿怒,窒塞情慾。夫人之情也,感物而動,境有順逆,故情有忿欲。懲者息其既往,窒者閉其將來。忿欲皆有往來,懲窒互文而相足也。
《大象伝》に言う:山の下に沢有り、これは損卦。王弼の注が解釈して言う:山の下に沢有るは、正に「損」の象なり。孔頴達の疏が伸べて言う:沢は山下に在り、沢は低く山は高く、あたかも沢が自ら減損して以て山を抬高するのさま。《大象伝》が続けて言う:君子はこれにより忿怒を懲戒し嗜欲を窒塞す。王弼の注が解釈して言う:減損し得べき物の中に於て、忿怒と嗜欲より更に減損すべきはなし。孔頴達の疏が伸べて言う:君子はこの一の「損」の道を效法し、それを用いて忿怒を懲止し情欲を堵塞す。人の性情は外物に感じて動を生じ、外境に順有り逆有りゆえ、情感の上に於てすなわち忿有り欲有り。「懲」はすでに発生せるを止息し、「窒」は将に到来せんとするを閉堵す。忿と欲は皆已往と将来の両面有り、「懲」「窒」の二字は互文にして彼此補足す。
初九:巳事遄往,無咎,酌損之。損之為道,“損下益上”,損剛益柔,以應其時者也。居於下極,損剛奉柔,則不可以逸。處損之始,則不可以盈,事已則往,不敢宴安,乃獲“無咎”也。剛以奉柔,雖免乎無咎,猶未親也。故既獲無咎,復自“酌損”,乃得“合志”也。遄,速也。[疏]正義曰:“巳事遄往無咎”者,巳,竟也。遄,速也。損之為道,“損下益上”,如人臣欲自損己奉上。然各有所掌,若廢事而往,咎莫大焉。若事已不往,則為傲慢。竟事速往,乃得無咎,故曰“巳事遄往無咎也”。“酌損之”者,剛勝則柔危,以剛奉柔,初未見親也。故須酌而減損之,乃得“合志”,故曰“酌損之”。
経文の初九の爻辞に言う:自己の分内の事を弁了すればすなわち趕快に前往し、過ちなく、なお斟酌して自己を減損すべし。王弼の注が解釈して言う:「損」のこの条の道は「損下益上」「損剛益柔」にして、以てその時に順応す。初九は下体の最下位に居り、自己の剛を減損して以て上に在る柔に奉事せんと欲せば、安逸すべからず。損卦の開始に処れば、自満すべからず。事を弁了すればすなわち動身前往し、安適を貪図を敢えてせずして、こそ「無咎」を獲得し得べし。剛を以て柔に奉事するは、過咎を免ると雖も、なお親近せられずゆえ、無咎を獲得した後に於て、なお再び自ら「斟酌減損」して、こそ上方と「合志」し得べし。「遄」は快速なり。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「巳事遄往、無咎」とは、「巳」は完畢、「遄」は快速。「損」のこの条の道は「損下益上」にして、あたかも人臣が自らを減損して以て君上に奉事せんと欲するがごとし。然れど各人は皆分内の職掌有り、もし本職を丟下して奉上に跑去せば、過咎これより大なるはなし。もし事を弁了して却って去らざれば、また傲慢と成る。本職の事を弁了して趕快に前往して、こそ無咎なりゆえ、「巳事遄往、無咎」と言う。「酌損之」とは、剛は過盛なれば則ち柔は危殆、剛を以て柔に奉事するは、起初は未だ親近せられざるゆえ、必ず斟酌して自己を減損して、こそ上方と「合志」し得べし、故に「酌損之」と言う。
《象》曰:“巳事遄往”,尚合志也。尚合於志,欲速往也。[疏]正義曰:“尚合志”者,尚,庶幾也。所以竟事速往,庶幾與上合志也。
《象伝》に言う:「巳事遄往」とは、上方と心志相合せんを希望するなり。王弼の注が解釈して言う:上方の心志に合せんを希望すゆえ、迅速に前往せんと欲す。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「尚合志」とは、「尚」は庶幾・希望の意。本職の事を弁了すればすなわち迅速に前往する所以は、上方と心志相合せんを希望するなり。
九二:利貞,征凶。弗損,益之。柔下可全益,剛不可全削,下不可以無正。初九巳損剛以順柔,九二履中,而復損已以益柔,則剝道成焉,故不可遄往而“利貞”也。進之於柔,則凶矣,故曰“征凶”也。故九二不損而務益,以中為志也。[疏]正義曰:柔不可以全益,剛不可以全削,下不可以無正。初九已損剛以益柔,為順六四為初六,九二復損已以益六五為六二,則成剝卦矣。故九二利以居而守正,進之於柔則凶,故曰“利貞,征凶”也。既征凶,故九二不損已而務益,故曰“不損益之”也。
経文の九二の爻辞に言う:正を守るに宜しく、前往して征行せば則ち凶。自己を減損せずして、かえって能く上方を増益せん。王弼の注が解釈して言う:在下の柔は一味に増益すべからず、剛もまた完全に削去すべからず、在下者は正無かるべからず。初九はすでに自己の剛を減損して柔に順従し去り、九二はまた中位を踏む、もし再び自己を減損して柔を増益せば、あれはすなわち《剥》卦の道を形成せんゆえ、九二は初九のごとく急着に前往すべからずして、応に「利貞」すべし。もし前進して柔に附就せば凶険なりゆえ、「征凶」と言う。これによって九二は往きて自己を減損せずして務めて上方を増益を求むは、以て中を守るを心志と為すなり。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:柔は一味に増益すべからず、剛は完全に削去すべからず、在下者は正無かるべからず。初九はすでに自己の剛を減損して柔を増益して順従の勢と成り(底本の此句の文字は訛脱有り)。九二はもし再び自己を減損して六五を増益せば、あれはすなわち《剥》卦と変成せん。ゆえに九二は宜しく安居して正を守り、前進して柔に附就せば凶、故に「利貞、征凶」と言う。すでに前往して征行せば凶有れば、ゆえに九二は自己を減損せずして務めて上方を増益を求む、故に「弗損、益之」と言う。
《象》曰:“九二利貞”,中以為志也。[疏]正義曰:“中以為志”者,言九二所以能居而守貞,不損益之,良由居中,以中為志,故損益得其節適也。
《象伝》に言う:「九二利貞」とは、それが中を守るを以て心志と為せばなり。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「中以為志」とは、九二の能く安居して正を守り自己を減損せずして上方を増益する所以は、実はそれが中位に居りて中道を以て心志と為すに由るゆえ、減損と増益の間に於て恰当の分寸を得る能うなり。
六三:三人行則損一人,一人行則得其友。損之為道,“損下益上,其道上行”。三人,謂自六三巳上三陰也。三陰並行,以承於上,則上失其友,內無其主,名之曰“益”,其實乃“損”。故天地相應,乃得化醇;男女匹配,乃得化生。陰陽不對,生可得乎?故六三獨行,乃得其友。二陰俱行,則必疑矣。
経文の六三の爻辞に言う:三個の人が一同に前行すればすなわち一人を減損し、一個の人が独行すればかえってその伴侣を得ん。王弼の注が解釈して言う:「損」のこの条の道は「損下益上、其道上行」。「三人」とは、六三より上に向かって数うるの三個の陰爻を指す。三個の陰爻は一斉に上行して上九を承奉せば、上九はすなわちその専一の伴侣を失い、内裏に主属なく、名義の上は「増益」と言うも、実際は却って「減損」なり。ゆえに天地は必ず両両相応してこそ化育醇厚を能くし、男女は必ず一一匹配してこそ後代を化生を能くす。陰陽もし一一相対し得ざれば、生育はなお実現し得べしや。ゆえに六三は独自前行してこそその伴侣を得、もし両個の陰爻が一同に前往せば必ず猜疑を招来せん。
[疏]“六三”至“得其友”。○正義曰:六三處損之時,居於下體。損之為義,“其道上行”。“三人,謂自六三巳上三陰”。上一人,謂上九也。下一人,謂六三也。夫陰陽相應,萬物化醇,男女匹配故能生育,六三應於上九,上有二陰,六四、六五也。損道上行,有相從之義。若與二陰並己俱行,雖欲益上九一人,更使上九懷疑,疑則失其適匹之義也。名之曰“益”,即不是減損,其實損之也,故曰“三人行則損一人”。若六三一人獨行,則上九納己無疑,則得其友矣,故曰:“一人行則得其友”也。《象》曰:“一人行”,三則疑也。[疏]正義曰:“三則疑”者,言一人則可,三人疑加疑惑也。
孔頴達の疏が六三の爻辞から「得其友」までに就き伸べて言う:六三は損卦の時に処り、下体に居る。「損」の含義は「其道上行」。王注は「三人、六三より上の三つの陰爻を指す」と言い、「上一人」は上九を指し、「下一人」は六三を指す。陰陽は彼此相応して、万物こそ化育醇厚を得。男女は一一匹配して、こそ生育し得。六三は上に上九に応ずるも、その上面にまた六四・六五の両個の陰爻有り。損道は上に向かって運行し、それらは皆相随して上るの趨勢有り。もしこの両個の陰爻が自己とともに上行せば、本意は上九一人を増益せんと欲するも、かえって上九に心に疑慮を生ぜしむ。一起疑えば、すなわち一一匹配の意義を失う。名義の上は「増益」と言い、見るに減損に似ず、実際は正に減損なりゆえ、「三人行則損一人」と言う。もし六三一人が独自前行せば、上九は自己を接納するに疑なからん、あれはすなわち伴侣を得るゆえ、「一人行則得其友」と言う。《象伝》に言う:「一人行」はこそ善く、三人同行すればすなわち猜疑を引起せん。孔頴達の疏に言う:「三則疑」とは、一人前往すればすなわち可、三人同往すれば則ち疑惑を增添するを言う。
六四:損其疾,使遄有喜,無咎。履得其位,以柔納剛,能損其疾也。疾何可久?故速乃有喜。損疾以離其咎,有喜乃免,故使速乃有喜,有喜乃“無咎”也。[疏]“六四”至“無咎”。○正義曰:“疾”者相思之疾也。初九自損巳遄往,已以正道速納,陰陽相會,同志斯來,無復企子之疾,故曰“損其疾”。疾何可久,速乃有喜,有喜乃無咎,故曰“使遄有喜,無咎”。○注“履得其位”至“有喜乃無咎也”。○正義曰:“速乃有喜,有喜乃無咎”者,相感而久不相會,則有勤望之憂,故“速乃有喜”。初九自損以益四,四不速納,則有失益之咎也,故曰“有喜乃無咎”也。
経文の六四の爻辞に言う:その疾患を減損し、相手方をして趕快に前来せしめればすなわち喜慶有り、過ちなし。王弼の注が解釈して言う:六四の踏む所はその正位を得、柔順を以て剛爻を接納し、能く自己の疾患を減損し得。疾患はなんぞ持久し得んや。ゆえに迅速にしてこそ喜慶有り。疾患を減損して以て過咎を脱離し、喜慶有りてこそ免除を得ゆえ、相手方をして迅速に前来せしめてこそ喜慶有り、喜慶有りてこそ「無咎」なり。孔頴達の疏が六四の爻辞から「無咎」までに就き伸べて言う:ここの「疾」は彼此思念盼望の苦なり。初九は自ら減損して迅速に前往し、六四は自ら正道を以て迅速に接納し、陰陽は交會し、志同の者は到來すれば、すなわちもはや頸を引き企望するの苦楚なくゆえ、「損其疾」と言う。疾患はなんぞ持久し得んや、迅速にしてこそ喜慶有り、喜慶有りてこそ無咎なりゆえ、「使遄有喜、無咎」と言う。孔頴達の疏がまた王弼の注「履得其位」から「有喜乃無咎也」までに就き伸べて言う:王注の言う所の「速乃有喜、有喜乃無咎」は、両情相感して久しく相会せざればすなわち殷切盼望の憂愁有るゆえ、「迅速にしてこそ喜慶有り」。初九は自ら減損して来て六四を増益す、六四はもし迅速に接納せざれば、すなわちこの份の増益に辜負するの過咎有りゆえ、「有喜乃無咎」と言う。
《象》曰:“損其疾”,亦可喜也。[疏]正義曰:“亦可喜”者,《詩》曰:“亦既見止”,“我心則降”。不亦有喜乎?
《象伝》に言う:「損其疾」は、また喜ぶに足るなり。孔頴達の疏がさらに伸べて言う:「亦可喜」とは、《詩経・召南・草蟲》に言う「一旦彼に見えば」「わが心安まらん」、これは豈に正に喜慶有るに非ずや。
六五:或益之,十朋之龜,弗克違,元吉。以柔居尊而為損道,江海處下,百穀歸之,履尊以損,則或益之矣。朋,黨也。龜者,決疑之物也。陰非先唱,柔非自任,尊以自居,損以守之。故人用其力,事順其功。智者慮能,明者慮策,弗能違也,則眾才之用事矣,獲益而得“十朋之龜”,足以盡天人之助也。
経文の六五の爻辞に言う:人来りて彼を増益す、價値十朋の大龜は、その占断もまた違背する能わず、大いに吉祥。王弼の注が解釈して言う:六五は柔爻を以て尊位に居りて減損の道を奉行す。江海は低下の処に処りて、百川の水は便ち皆それに歸向す。尊位に居りて能く自ら減損せば、すなわち人来りて彼を増益せん。「朋」は黨類、「龜」は疑難を決断する物なり。陰は率先して倡導せず、柔は自らその能を逞しゅうせず、尊貴を以て自処して減損を以て守持せば、ゆえに衆人は肯んじて彼のために力を出し、事は順遂して功有り。智慧の人は彼のために才能を謀慮し、明察の人は彼のために策略を謀劃し、大龜の占断に至るまで違背する能わざれば、あれはすなわち衆多の人才が皆彼のために任事するなり。増益を獲得して「十朋之龜」を得るは、上天と衆人の相助を窮尽するに足る。
[疏]“六五”至“元吉”。○正義曰:六五居尊以柔而在乎損,而能自抑損者也。居尊而能自抑損,則天下莫不歸而益之,故曰“或益之”也。或者,言有也,言其不自益之,有人來益之也。朋者,黨也。龜者,決疑之物也。陰不先唱,柔不自任,“尊以自居,損以守之”,則人用其力,事竭其功,“智者慮能,明者慮策”,而不能違也。朋至不違,則群才之用盡矣,故曰“十朋之龜,弗克違”也。群才畢用,自尊委人,天人並助,故曰“元吉”。
孔頴達の疏が六五の爻辞から「元吉」までに就き伸べて言う:六五は柔爻を以て尊位に居りて損卦の中に処る、是れ能く自ら抑損するの一爻なり。尊位に居りて能く自ら抑損せば、天下に来りて彼に歸附増益せざるなしゆえ、「或益之」と言う。「或」はすなわち「有」にして、彼が自ら増益するに非ず、人前に来りて彼を増益するを言う。「朋」は黨類、「龜」は疑難を決断する物なり。陰は率先して倡導せず、柔は自らその能を逞しゅうせず、「尊貴を以て自処して減損を以て守持せば」、則ち衆人は肯んじて彼のために力を出し事を辦してその功を竭くし、「智慧の人は彼のために才能を謀慮し、明察の人は彼のために策略を謀劃し」、龜卜に連なりても違背する能わず。朋類は到來して違背せざれば、すなわち衆多の人才の作用が皆發揮し盡くすなりゆえ、「十朋之龜、弗克違」と言う。群才は全部その用に為され、尊貴の身を以て他人に委任し、天助人助は一並びに到來すゆえ、「元吉」と言う。
○注“以柔居尊”至“天人之助也”。○正義曰:“朋,黨也”者,馬、鄭皆案《爾雅》云:“十朋之龜者,一曰神龜,二曰靈龜,三曰攝龜,四曰寶龜,五曰文龜,六曰筮龜,七曰山龜,八曰澤龜,九曰水龜,十曰火龜。”《象》曰:六五,“元吉”,自上祐也。[疏]正義曰:“自上祐”者,上謂天也,故與“自天祐之,吉無不利”義同也。
孔頴達の疏がまた王弼の注「以柔居尊」から「天人之助也」までに就き伸べて言う:王注の言う所の「朋、黨也」は、馬融・鄭玄は皆《爾雅》に依拠して言う:「言う所の十朋之龜は、一は神龜と言い、二は靈龜と言い、三は攝龜と言い、四は寶龜と言い、五は文龜と言い、六は筮龜と言い、七は山龜と言い、八は澤龜と言い、九は水龜と言い、十は火龜と言う」。《象伝》に言う:六五の「元吉」たる所以は、上天より保祐を得るなり。孔頴達の疏に言う:「自上祐」とは、「上」は上天を指すゆえ、《大有》の上九の「自天祐之、吉無不利」の意思と相同ず。
上九:弗損,益之,無咎,貞吉,利有攸往。得臣無家。處損之終,上無所奉,損終反益。剛德不損,乃反益之,而不憂於咎。用正而吉,不制於柔,剛德遂長,故曰“弗損,益之,無咎,貞吉,利有攸往”也。居上乘柔,處損之極,尚夫剛德,為物所歸,故曰“得臣”。得臣則天下為一,故“無家”也。
経文の上九の爻辞に言う:減損せずして、かえって増益す、過ちなく、正を守れば吉祥、前往有るに宜し。臣民を得てもはや一家の私有らず。王弼の注が解釈して言う:上九は損卦の終點に処り、上面にはすでに奉事すべき對象なく、減損は盡頭に到れば便ち轉回して増益と為る。剛健の徳はもはや減損せられず、かえって増益を獲得し、因って過咎を憂慮するを須みず。正道を用いて吉を獲、柔爻の牽制を受けず、剛徳はここに滋長すゆえ、「弗損、益之、無咎、貞吉、利有攸往」と言う。上九は上位に居りて柔爻を凌乘し、損卦の極點に処り、剛健の徳を崇尚して、萬物の歸附する所と為るゆえ、「得臣」と言う。臣民を得れば、天下は便ち合して一體と為るゆえ、「無家」と言う。
[疏]“上九”至“得臣無家”。○正義曰:“弗損益之,無咎,貞吉”者,損之為義,“損下益上”。上九處損之極,上無所奉,損終反益,故曰“弗損益之”也。既“剛德不損,乃反益之”,則不憂於咎,“用正而吉”,故曰“無咎,貞吉”也。“利有攸往”者,不利於柔,不使三陰俱進,不疑其志,“剛德遂長”,故曰“利有攸往”也。又能自守剛陽,不為柔之所制,豈惟“無咎、貞吉”而已,所往亦無不利,故曰“利有攸往”,義兩存也。“得臣無家”者,居上乘柔,處損之極尊。夫剛德“為物所歸”,故曰“得臣”。“得臣則以天下為一”,故曰“無家”。“無家”者,光宅天下,無適一家也。《象》曰:“弗損益之”,大得志也。[疏]正義曰:“大得志”者,剛德不損,“為物所歸”,故“大得志也”。
孔頴達の疏が上九の爻辞から「得臣無家」までに就き伸べて言う:「弗損益之、無咎、貞吉」とは、「損」の含義は「損下益上」。上九は損卦の極點に処り、上面に奉事すべき對象なく、減損は盡頭に到れば便ち轉回して増益と為るゆえ、「弗損益之」と言う。すでに「剛健の徳は減損せられず、かえって増益を獲得す」れば、過咎を憂慮するを須みず、「正道を用いて吉を獲」ゆえ、「無咎、貞吉」と言う。「利有攸往」とは、柔に利あらず、三個の陰爻をして一齊に上進せしめず、すなわち上九をしてそれらに對する心志の疑を起さしめず、「剛徳はここに滋長す」ゆえ、「利有攸往」と言う。もう一層の意思は上九はまた能く自ら剛陽を守りて柔爻に牽制せられず、豈にただ「無咎、貞吉」のみならんや、往く所もまた不利なきゆえ、「利有攸往」と言う――この両層の意思は並存す。「得臣無家」とは、上九は上位に居りて柔爻を凌乘し、損卦の極點の尊崇の地に処る。剛健の徳を崇尚して「萬物の歸附する所と為る」ゆえ、「得臣」と言う。「臣民を得ればすなわち天下を以て一體と為す」ゆえ、「無家」と言う。「無家」とは、光大地に天下を占有し、ある一家に專屬せざるなり。《象伝》に言う:「弗損益之」とは、心志が大いに得る所有るなり。孔頴達の疏に言う:「大得志」とは、剛健の徳は減損せられず「萬物の歸附する所と為る」ゆえ、「大得志」なり。
