Libo

震(しん)の卦

清 · 多隆阿 · 第13巻 / 21

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

震下震上,中互坎艮。重震純卦。震:亨。震來虩虩,笑言啞啞。震驚百里,不喪匕鬯。震為雷,為長子,為諸侯。震以一陽動於二陰之下,故象雷;坤索乾初為男,故象長子;乾為君,震為乾之長子,長子主器,故象諸侯。震陽自下行上,能致亨通。但震威忽來,則恐懼者眾,虩虩,恐懼貌;而中有所主者,仍安笑語之常,啞啞,笑聲。縱震驚遠及百里,而匕鬯在手,不至喪失,其誠敬有餘,心志堅定,蓋若此。

「震」の卦は下体が震、上体もまた震で、中間に坎卦と艮卦を互出し、上下同体の純卦である。卦辞にいう、「震、亨。震の来るや虩虩(きゃくきゃく)たり、笑言啞啞(ああ)たり。震は百里を驚かすも、匕鬯(ひちょう)を喪わず」。震は象において雷であり、長子であり、諸侯である。震卦は一根の陽爻が二根の陰爻の下で鼓動するので雷に象る。坤が乾に向かって初爻を求めて男を得たので長子に象る。乾は国君であり、震は乾の長子で、長子は宗庙の祭器を主持するので諸侯に象る。震の陽気は下より上に向かって行き、亨通を招致できる。しかし雷の威が突然至れば、嚇され止まる者は多く、「虩虩」とはまさに恐懼の貌である。そして心に主宰ある者は、依然として安然と談笑して常のごとく、「啞啞」とはすなわち笑声である。たとえ雷声が震駭して百里の外に遠く達しても、主祭者の手中の匕と鬯酒は失落しない。それは彼の誠敬が余りあり心志が堅定だからこそ、このようにできるのである。

彖曰:震亨。震來虩虩,恐致福也。笑言啞啞,後有則也。震驚百里,驚遠而懼邇也。出可以守宗廟社稷,以為祭主也。卦之所以名震者,以震為雷也。鄭氏曰:雷者動物之氣,雷之發聲,猶人君出政以動國中之人也,故謂之震。當彼重陰冱寒,萬物閉藏,至於中春,雷聲震動,則所以啟蟄而出萌者端賴乎此,故曰亨也。

『彖伝』にいう、「震は亨。震の来るや虩虩たりは、恐れて福を致すなり。笑言啞啞たりは、後に則あるなり。震は百里を驚かすは、遠きを驚かし近きを懼れしむるなり。出でて以て宗庙社稷を守り、以て祭主と為るべきなり」。この卦を「震」と名づけるのは、震が雷を象徴するからである。鄭玄によれば、雷は万物を鼓動する気であり、雷が声響を発するのは、たとえば人君が政令を頒布して国中の百姓を鼓動するようなものであるので「震」と称す。あの陰気が重畳し天寒地凍して万物が閉蔵する時節が過ぎ、仲春に至って雷声が一たび動けば、蟄伏した虫豸は戸を開いて出ることを得、草木の萌芽は土を頂いて生ずることを得る。すべてこの一声の雷に依るので、『彖伝』はそれを「亨」と言うのである。

夫以雷之動物言,則震曰亨;而以雷之驚人言,則震曰恐。人心貴斂,放則多失,惟恐乃可以致福,亦惟恐而心始有主。當夫震自外來,虩虩可懼,而動有常則者,猶仍安其啞啞笑言之常。雖雷聲震驚遠及百里,而承祭者居宗廟社稷之間,匕鬯晏然,是惟心有所主,故無喪失之虞也。

雷が万物を鼓動し得るという一面から言えば、「震」卦が講ずるのは「亨」である。雷が世人を驚動し得るという一面から言えば、「震」卦が講ずるのは「恐」である。人心は収斂を貴び、放縦すれば多くの閃失がある。ただ戒懼を存してこそ福気を招来でき、ただ戒懼を存してこそ心に主宰がある。雷震が外から襲って来る時、人々は皆惶懼して安からぬが、あの挙動が素より法度ある者は、依然として安穏に談笑して常のごとし。雷声は震駭して百里に遠く及ぶが、祭祀を主持する者は宗庙社稷の中に身を処し、手中の匕と鬯酒は安然として動かない――これはただ彼の心中に主あるがゆえに、祭器を失落する憂虞がないのである。

震為笑,為言。匕,一曰柶,形如匙,撓鼎之器,喪事以桑為之,祭事以棘為之。卦有互坎,坎為叢棘,故象匕鬯。以矩?鬯釀鬱草,芬芳攸服,以降神也。坎為酒,故曰鬯。坎又為隱伏,艮為門闕,故象宗廟社稷。百里者,諸侯封畿之象。雷聲忽震,遠邇驚恐,乃誠敬自守,不失威儀,則是不懼者由於能懼。長子繼世而出,擔荷天下重器以為祭主,不亦克勝其任而愉快乎!

震は象において笑・言である。「匕」はまた「柶」と称し、形状は匙子に似て、鼎中から牲体を挑取する器具である。丧事には桑木を作り、祭事には棘木を作る。この卦中に互体の坎卦があり、坎は叢生の酸棗棘木に象るので「匕」の象を取る。いわゆる「鬯」とは、黍類を釀造して鬱金香草を調入した酒で、気味が芬芳で神霊を降迎するのに用いる。坎は水・酒なので「鬯」と称す。坎はまた隠伏の義があり、艮は門闕なので、合わせて宗庙社稷の象を成す。「百里」は諸侯の封国畿域の象である。雷声が突然震響し、遠近の人は皆驚恐して失措するが、主祭者は誠敬をもって自守し、応有の威儀を失わない。彼が事に臨んで懼れないのは、正に平日に戒懼を知るからであることが見える。長子が世業を継承して出て、天下の宗庙重器を担い、一国の祭主となる。これは全く胜任して心に暢快ではないか!

象曰:洊雷震,君子以恐懼修省。恐懼,敬天之威;修省,體震之動。初九:震來虩虩,後笑言啞啞,吉。卦為重震,初四皆陽,而震陽自下上往,故初為卦主,爻辭與卦辭同,象傳與彖傳同也。曰後者,言在上震之後,惟在後乃得吉也。象曰:震來虩虩,恐致福也。笑言啞啞,後有則也。

『大象伝』にいう、「洊(せん)雷は震なり。君子は以て恐懼修省す」。いわゆる「恐懼」とは、上天の威厳を敬畏することである。いわゆる「修省」とは、震卦の振動に效って自ら修治し省察することである。初九の爻辞にいう、「震の来るや虩虩たり。後に笑言啞啞たり。吉」。この卦は上下ともに震で、初九と九四はいずれも陽爻であり、震の陽気は下より上に向かって行くので、初九は全卦の主爻であり、その爻辞は卦辞と同じであり、その『小象伝』も『彖伝』と同じである。爻辞に「後」の一字が多いのは、上卦のあの一回の雷震の後を言うのであり、ただ後に落ちてこそ吉を得るのである。『小象伝』にいう、「震の来るや虩虩たりは、恐れて福を致すなり。笑言啞啞たりは、後に則あるなり」。

六二:震來厲,億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。人心方寂,震動忽來,二之下為震主,故來愈厲。二與初同體,初陽為貝,貝海介蟲,古者貨貝而寶龜,則貝即貨也。九家易曰:震為玉,有貝象。二至四為互艮,艮山象陵。一震之威,不能無失,雖喪去其貝,而亦安然,且用震足往躋九陵以避之。九,陽數;億,安也。春秋傳曰:心億則樂。夫人之所以罹患,多由為利所牽不能舍耳。若知貝可喪則喪之,陵可躋則躋之,避難以自全,前往以待時。所喪之物歷六爻已盡,再歸本爻計也,七日則得之矣,何用逐為?

六二の爻辞にいう、「震の来るや厲し。億に貝を喪い、九陵に躋(のぼ)る。逐う勿れ、七日にして得ん」。人心がまさに安静な時、雷震が忽然と襲来する。六二の下はすなわち全卦の震主たる初九なので、この一震の来ること格別猛烈である。六二は初九と同じく下体に処し、初九は陽爻で「貝」に象る。貝は海中の甲殻ある軟体動物で、古人は貝を以て貨幣とし、亀甲を以て宝物としたので、「貝」とはすなわち銭財である。『九家易』によれば、震は玉であり、因って貝の象がある。二爻から四爻は互いに艮卦を成し、艮は山で「陵」に象る。一回の雷震の威勢の下、全く損失がないことはあり得ない。六二は銭財を失ったがなお泰然としており、しかも震卦の象る足に凭って、高き山陵に登って避ける。「九」は陽数で(その高きを極言する)、「億」は安の義で、『春秋左伝』に「心億なれば則ち楽し」という語がある。人が禍を遭う所以は、多くは財利に牽かれて放すに惜しむからである。もし銭財は捨つべき時は捨て、山陵は登るべき時は登り、危難を避けて自身を保全し、先に走り去って時機を待つことを明らかにすれば、失った物は六爻を歴遍して一輪已尽し、再び本爻に帰って算すれば、七日の後に自然に復た得る。何ぞ追わんや。

象曰:震來厲,乘剛也。六三:震蘇蘇,震行無眚。震自初來,震不遽至三,較二可少安矣,而又蘇蘇者,言震之餘威將及此也。鄭氏曰:蘇蘇,不安也。夫陰居陽位,不能無眚,三體互坎,坎為多眚,知其有眚而行以避之,庶克免耳。象曰:震蘇蘇,位不當也。九四:震遂泥。四亦震陽也,而居四陰之間,互坎之內,甫欲震動而即陷於坎水,故曰震遂泥。象曰:震遂泥,未光也。

『小象伝』にいう、「震の来るや厲しきは、剛に乗ればなり」(六二の陰爻が初九の陽剛の上に騎っている)。六三の爻辞にいう、「震は蘇蘇(そそ)たり。震して行けば眚なし」。雷震は初爻から発し、一挙に三爻に冲至しないので、六三は六二に比べ本来やや安穏であるべきだが、なお「蘇蘇」として定まらない。これは震の余威がまさにそれに波及しようとしていることを言う。鄭玄によれば、「蘇蘇」とは心神が安からぬことである。六三は陰爻をもって陽位に居り、灾患がないことはあり得ない。三爻はまた互体坎卦に属し、坎は多灾多眚を主る。灾あるを明知して及び早く走り去り避ければ、およそ禍を免れ得よう。『小象伝』にいう、「震蘇蘇たるは、位当たらざればなり」。九四の爻辞にいう、「震は遂に泥に入る」。九四も同じく震の陽爻であるが、四根の陰爻の間に挟まれ、また互体坎卦の内に落ちて、まさに振動しようとして坎水の中に陥ったので「震遂に泥」(一震して泥淖に陥る)という。『小象伝』にいう、「震遂に泥に入るは、未だ光ならざればなり」。

六五:震往來厲,億無喪有事。五居外卦之中,卦為重震,內震方往,外震又來,故曰震往來厲。五與二同處中位,然二之處震以有所喪而安,而五之處震以無所喪而安。蓋二之所喪為貝,貝之喪無關重輕,故可以喪而躋九陵;至於五為君位,為宗廟社稷之主,是宗廟社稷之事皆為其事,其事在位中,億安無喪,乃可以為祭主,其事大故不可喪也。虞氏曰:事,祭祀之事。無喪有事,蓋以五之位與二異耳。象曰:震往來厲,危行也。其事在中,大無喪也。

六五の爻辞にいう、「震は往來ともに厲し。億に喪うことなくして事あり」。六五は上卦の中に居り、全卦の上下は皆震で、内卦の一震が剛に過ぎ去れば、外卦の一震がまた襲来するので「震往來厲」という。六五は六二と同じく中位に処すが、しかし六二は震動に身を処して、棄てる所があるがゆえに安寧を得、六五は震動に身を処して、一失もないがゆえに安寧を得る。これは六二の棄てたのはただ銭財で、棄てても軽重に関わらないので、尽く棄てて高陵に登っても可なのに対し、六五は君位であり、宗庙社稷の主人で、宗庙社稷の一切の事務は皆彼の分内の事であり、これらの事は彼の職位の中にあり、安守して失わしめずしてこそ祭主と為るに足る――事が重大すぎて棄てられないからである。虞翻によれば、「事」とは祭祀の事を指す。爻辞が「喪なくして事あり」と言うのは、まさに六五の位分が六二と異なるがゆえである。『小象伝』にいう、「震往來厲しきは、危行なればなり。其の事中に在るは、大いに喪うことなきなり」。

上六:震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎,婚媾有言。上居重震之上,陰柔無主,宜其內不自安,驚懼形色,兼見於目。馬氏曰:索索,內不安也;矍矍,目遽貌。中心無主,頓失故常,冒昧前往,則凶立見,是宜早自圖維。當彼震及於鄰、未至其躬之候,聽人戒言,預知畏懼,則猶無咎。蓋初為震主,上遠於初,五為上鄰,四與上同體,陰陽配合為上婚媾,震為聲音,故云婚媾有言也。象曰:震索索,中未得也。雖凶無咎,畏鄰戒也。中未得者,中心不安未得主也;畏鄰戒者,聞鄰言預知自防也。

上六の爻辞にいう、「震は索索(さくさく)たり、視ること矍矍(かくかく)たり。征すれば凶。震はその躬にあらずしてその鄰にある。咎なし、婚媾に言あり」。上六は重畳した雷震の最上に処し、陰柔にして心に主宰がなく、それが内に惶惶として安からぬは無理もなく、驚懼の情は顔色に表れ、また眼神に流露する。馬融によれば、「索索」とは内心が安からぬこと、「矍矍」とは眼が驚惶して四顧する貌である。心中に主宰なく、たちまち常度を失い、もし再び冒失に前行すれば凶険は立ちどころに至るので、及び早く自らのために打算すべきである。雷震がただ隣近の処に落ち、まだ自身に落ちないうちに乗じ、旁人の告戒を聴取し、予め畏れることを知れば、なお咎を免れ得る。初九は全卦の震主で、上六は初九から最も遠く、六五は上六の近隣であり、九四は上六と同じく上体にあり、一陰一陽が相配すれば、すなわち上六の婚配の家となる。震は象において声音なので「婚媾に言あり」(婚配の家に言い告げる言あり)という。『小象伝』にいう、「震索索たるは、中未だ得ざればなり。凶なれども咎なきは、鄰を畏れ戒むればなり」。いわゆる「中未だ得ず」とは、心中が安からず主宰を得ていないこと。いわゆる「鄰を畏れ戒む」とは、隣爻の告戒を聴いて予め自ら防備することである。

艮(ごん)の卦

艮下艮上,中互震坎。重艮純卦。艮其背,不獲其身,行其庭,不見其人,無咎。艮象為山,艮位在寅。艮畫似人,人之一身惟背得艮義,故曰艮其背。人背則身亦背,背不可獲,故曰不獲其身。人則有行,而行祇在庭,人為庭蔽而不之見,故曰不見其人。身則不獲,人則不見,不獲不見,艮之德也,故無咎。

「艮」の卦は下体が艮、上体もまた艮で、中間に震卦と坎卦を互出し、上下同体の純卦である。卦辞にいう、「その背を艮(とど)むれば、その身を獲ず。その庭に行きて、その人を見ず。咎なし」。艮は象において山であり、方位において十二支の「寅」に当たる。艮の卦画(二陰が下にあり一陽が上にある)は人の側影に似て、人の一身の中で、脊背のみが最も「止して動かず」の艮義に合するので「その背を艮む」という。人がいったん背を転じれば、全身も人に背を向ける。背はすでに見えないので「その身を獲ず」という。人は常に動くものだが、彼の動きは自家の庭院の中のみにあり、庭院屋宇に遮られて見えないので「その人を見ず」という。身が見えず、人も見えず、見えず遇わぬは、まさに艮止の徳性であるので、咎はない。

彖曰:艮,止也。時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。艮其止,止其所也。上下敵應,不相與也。是以不獲其身,行其庭不見其人,無咎也。卦為重艮,即連山。夏易曰連山,連山首艮,取人生於寅之義。蓋以艮位在寅,艮畫又象人,故重艮之卦不取象于山而取象於人。然卦雖以人取象,而猶以山取義。山體常靜,人身主動,其止而不動者惟背,故以人之背言艮之止。

『彖伝』にいう、「艮とは止なり。時に止まれば則ち止まり、時に行けば則ち行く。動静その時を失わざれば、その道光明なり。其の止まるを艮むとは、其の所に止まるなり。上下敵応して、相与せざるなり。是を以てその身を獲ず、其の庭に行きてその人を見ず、咎なきなり」。この卦は上下ともに艮で、いわゆる「連山」である。夏代の易書を『連山』と言い、『連山』は艮卦を首に居らしめ、「人寅に生ず」の義を取った――艮が方位において正に寅に当たり、艮の卦画がまた人に似るから、艮を重ねたこの卦は山に取象せず、人に取象したのである。ただ卦は人に取象するが、義を取る時は依然として山に落ち着く。山の形体は恒常静止し、人の身体は活動を主とし、人の身上で止して動かないのは脊背のみであるので、人の背を借りて艮の「止」を説明する。

夫人既止於背,則人是背非向。向則見身,背則身不可見,是為不獲其身。且不惟不獲其身,而又不見其人。蓋人身必動,動則有行,而行祇在其庭,則人雖動而行自靜。宮中曰庭,艮為門闕,互坎為宮室,互震為行,故曰行其庭。行於其庭,門闕外蔽,人焉得見?況重艮之門闕,屏寧扉闔,深邃更難窺也。

人がすでに背に止まっている以上、それは背を人に向けて正面を人に向けないのである。正面が相対してこそ身が見え、背を人に向ければ身は見えない。これを「その身を獲ず」という。しかもその身が見えないのみならず、その人すらも見えない。人身は常に活動し、活動すれば行走があるが、彼の行走は自家庭院に限られるので、人は動いていても行跡は自然になお静である。房舎の中の空地を「庭」と言い、艮は門闕であり、互体の坎は宮室、互体の震は行走なので「其の庭に行く」という。人が自家庭院で動くのを、門牆が外から遮るのに、旁人がどうして見ることができよう。しかも重艮の卦は門闕が重畳し、照壁が前に挡り門扇が後に閉じ、庭院は深邃で、なおさら窺見し難い。

當其止為靜,而其行則動,動似非止。不知止得其時,止固為靜;動得其時,動亦為靜。動靜不失其時,艮道陽光昭明外見,動亦為靜,是行亦謂之止,故曰艮止也。然則言艮其背,言其止,可也。艮止維何?止其所也。爻有應則不能止,此卦陰陽同德,上下敵應,祇宜各止其所,不出其位。我既不能同人,人又焉能同我?是以不獲其身,行其庭不見其人,無咎也。

常理に照らして見れば、止まっている時は静であり、行走する時は動であり、動は止と算ならぬように思える。しかし知らないことには、止まることが時宜に合すれば止は固より静であり、動くことが時宜に合すれば動も同じく静である。動と静がいずれもその時を失わなければ、艮道の陽光は昭然として外に顕現し、動もまた静となる。ここにおいて「行」もまた「止」と称すことができるので、『彖伝』は「艮は止なり」という。このように言えば、卦辞の「其の背を艮む」と言うのは、まさにその「止」を言うのである。では「艮止」とは一体どこに止まるのか。各々応ずべき位置上に止まるのである。およそ爻と爻とに応じるものがあれば、止められない。しかしこの卦は上下両体の陰陽が全く同徳で、初と四、二と五、三と上はいずれも同性相敵して応じないので、ただ各々本位に止まり、自らの分際を越え出ないべきである。我がすでに人と相合することができないのに、人がどうして我と相合することができよう。ゆえに「その身を獲ず、其の庭に行きてその人を見ず、咎なし」という。

象曰:兼山艮,君子以思不出其位。心有思則動,思限以位,動亦靜也,故君子思不出其位,取象於兼山也。初六:艮其趾,無咎,利永貞。卦以人取象,初位最下,是趾也。夫陽動陰靜,初為陰,是能止其趾不妄動者。艮德為止,苟能止趾,合艮德矣,故無咎,但惟永貞乃利耳。象曰:艮其趾,未失正也。

『大象伝』にいう、「兼山は艮なり。君子は以て思いその位を出ざらしむ」。心に念頭が一動すればすなわち「動」であるが、もし思慮を本分の内に限定すれば、この動もまた静に等しい。ゆえに君子の思慮は自らの職位を越え出ない――これは二つの山が重畳して各々その所に安んずる象を取ったものである。初六の爻辞にいう、「其の趾を艮む。咎なし、永貞に利あり」。この卦は人身に取象し、初爻の位置は最も低く、すなわち脚の趾である。陽は動を主り陰は静を主り、初爻は陰爻で、まさに脚の趾を止めて軽挙妄動しない者である。艮の徳性はすなわち「止」である。もし脚の趾を止めることができれば、艮徳に合するので咎はない。ただ必ず長く正を守ってこそ利あると算する。『小象伝』にいう、「其の趾を艮むは、未だ正を失わざればなり」。

六二:艮其腓,不拯其隨,其心不快。趾之上則為腓,二得艮中,是為艮其腓。然一人之身,心為主,體隨之。蓋心陽主動,體陰主靜,三為陽,又為互坎之中,坎為心,二比三,三不拯二,三不愉快,二有欲靜不能者。象曰:不拯其隨,未退聽也。二為三之隨,言三為心,未退聽於二也。

六二の爻辞にいう、「其の腓(ひ)を艮む。その随を拯(たす)けず、その心快からず」。脚の趾の上はすなわち腿の肚であり、六二は下体艮卦の中に居り、ちょうど腿肚の位置に当たるので「其の腓を艮む」という。しかし人の身体において、心は主宰であり、四肢躯干はただ心に随って動く。心は陽に属して動を主り、形体は陰に属して静を主る。九三は陽爻で、また互体坎卦の中に居り、坎は心である。六二は九三に緊挨着し、九三は六二を提携しようとせず、九三自身も快くない。ここにおいて六二は静まろうと欲して静まること能わざる境地に処する。『小象伝』にいう、「其の随を拯けざるは、未だ退きて聴かざればなり」。六二は九三に随う部分であり、これは九三が心主でありながら、退いて六二に聴従しようとしないことを言う。

九三:艮其限,列其夤,厲熏心。限,要也;夤,夾脊肉。既已艮止其限,則腰不能協屈伸之宜,而夤亦相與對峙不動。坎陽中峙,四陰分列,象人脊骨,坎為脊,故曰列其夤。夫限之不動,有似於止,然限前為心,則心因夤之列而妄動不寧,如火熏灼。蓋互坎為心,心後為限,猶坎之反為離,離火炎蒸,故見危厲。此勉強求靜,則心轉以強制而動愈甚也。象曰:艮其限,危熏心也。六四:艮其身,無咎。身以藏心,心不可見而身可見,故繼心而言身。身既艮止,則身無為,故無咎。象曰:艮其身,止諸躬也。

九三の爻辞にいう、「其の限を艮む。其の夤(いん)を列し、厲しく心を燻す」。「限」とは腰であり、「夤」とは夾脊の両旁の筋肉である。腰を硬く止めてしまえば、腰は屈伸に随って調節することができず、夾脊肉もそれに随って僵持して動かない。坎卦は一根の陽爻が中間に立ち、四根の陰爻が両旁に分列して、人の脊椎骨に似る。坎はまた脊背を主るので「其の夤を列す」(夾脊肉が裂けて分列する)という。腰が動かなければ、見たところ「止」のようであるが、しかし腰の前はすなわち心であり、心は夾脊が僵裂するがゆえに躁動して寧らず、火に烤炙されるがごとし。互体の坎は心であり、心の背後はすなわち腰である。坎卦を倒して見れば離となり、離は火であり、火気が燻蒸するので危厲が現れる。これは強いて静を求めて、心がかえって強制を受けたがゆえに躁動がいよいよ甚だしくなることを言う。『小象伝』にいう、「其の限を艮むは、危く心を燻するなり」。六四の爻辞にいう、「其の身を艮む。咎なし」。身躯は心を蔵するのに用いるもので、心は見えず身は見えるので、上一爻で心を講じた後に続けて身を講ずる。身がすでに止まれば、妄為する所なく、咎はない。『小象伝』にいう、「其の身を艮むは、諸を躬に止むればなり」。

六五:艮其輔,言有序,悔亡。輔,口頰也。艮卦象背,故爻皆以背取象,二腓三夤,其顯然者。五不曰口而曰輔,言從背僅見輔也。五位為輔,故云艮其輔。言從輔出,輔既曰艮,何有於言?然五體為互震,震為言,則言又似不可以永止,惟體艮德,言不妄發,循循有序,悔乃亡耳。象曰:艮其輔,以中正也。上九:敦艮,吉。三上皆為艮主,三以列於四陰之間,故艮限而危;上為一卦之終,故敦艮而吉。蓋自艮趾以至艮輔,則艮已敦矣,敦故吉。象曰:敦艮之吉,以厚終也。敦,厚也,上為卦之終,故曰厚終。

六五の爻辞にいう、「其の輔を艮む。言有序あり、悔亡」。「輔」とは口の旁の頰骨である。「艮」卦は人の背に取象するので、各爻はいずれも背面から着眼する。二爻の腿肚、三爻の夾脊肉は、いずれも背面から顕然と見える部位である。五爻は「口」と言わず「輔」と言うのは、まさに背後から見れば、頰骨だけが見えて嘴は見えないからである。第五爻の位置は頰輔に相当するので「其の輔を艮む」という。話は口頰の中から出るもので、頰輔がすでに「止」した以上、何を以て話を論ぜん。しかし六五のある上体はまた震卦を互出し、震は言語を主るので、話はまた永遠に止められないように見える。ただ艮の徳性を体会し、乱に口を開かず、条理を弁えて話してこそ、悔恨が消える。『小象伝』にいう、「其の輔を艮むは、中正を以てなり」。上九の爻辞にいう、「敦艮、吉」。九三と上九はいずれも艮卦の主爻で、九三は四根の陰爻の中間に挟まれているので腰を止めて危厲を生じ、上九は全卦の終点に処するので敦厚に止まることができて吉を得る。趾を止めることから始めて口頰を止めるに至るまで行えば、艮止の功夫はすでに厚く積まれた。厚いがゆえに吉利である。『小象伝』にいう、「敦艮の吉は、厚きを以て終わればなり」。「敦」とはすなわち厚であり、上九は一卦の終結なので「厚終」という。

易原 巻十一・周易下経(五)

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。

本巻は『慧珠閣』原刻本に依って録出する。著者は多隆阿、遼東岫巖の人、字は雯渓。

漸(ぜん)の卦

艮下巽上,中互離坎。否。漸為三陰三陽卦,自否來,虞氏曰否三之四。漸:女歸吉,利貞。艮下巽上,亦是以男下女,而長少非偶。不惟不類兌艮為咸、震巽為恆,而轉類山風蠱,有似女惑男者。艮男方少,尚宜待時;巽女已長,久宜得配。倘非行之以漸,俟六禮之備,則與淫奔無異,故卦取名曰漸。卦辭繫曰女歸吉利貞,蓋言女歸惟漸則吉,不漸則不吉;惟漸則利,不漸則不利,所宜貞守此漸矣。

「漸」の卦は下体が艮、上体が巽、中間に離卦と坎卦を互出する。これは「否」卦から変じた。「漸」は三陰三陽の卦で、虞翻は「否」の第三爻と第四爻が対調して成ったと言う。卦辞にいう、「漸、女帰吉、利貞」。艮が下にあり巽が上にあるのは、同じく男が女の下にある(求婚の礼に合する)が、しかし一方は長女、一方は少男で、年歳は並び合わない。それは兌上艮下の「咸」、震上巽下の「恒」のように男女が相当するのではなく、かえって山下に風ある「蠱」に近く、女子が男子を迷惑する意味がある。艮の象る男子は年紀がなお小さく、まだ時機を待つべきである。巽の象る女子は年歳がすでに長じ、早く配偶を覓得すべきである。このような情形の下、もし按部就班に徐々に来て、六礼が斉備するのを待って成婚しなければ、私奔と区別がないので、この卦は「漸」と名づけた。卦辞に「女帰吉、利貞」と繋げたのは、女子の出嫁は循序漸進してこそ吉利であり、循序漸進しなければ吉利でなく、循序漸進してこそ利があり、循序漸進しなければ利がないことを言うので、この「漸」の字を固守すべきである。

彖曰:漸之進也,女歸吉也。進得位,往有功也。進以正,可以正邦也。其位剛得中也。止而巽,動不窮也。傳釋之曰:漸為漸次,不訓進,而乃曰進者,言進不可遽,當進以漸,故曰進也。夫卦之訓進者為晉,而漸之進則與晉異。彼晉之進為臣覲君,而漸之進為女歸男。夫男先於女,婚禮之宜,而巽女已長,則有欲不歸而不能者,求偶在女,故曰女歸。行之以漸,始可云吉。且夫惟漸乃吉,事事皆宜然也。

『彖伝』にいう、「漸の進むや、女帰吉なり。進みて位を得れば、往きて功あらん。進むに正を以てすれば、以て邦を正しくすべし。其の位は剛、中を得たり。止めて巽(したが)えば、動きて窮まらざるなり」。『彖伝』はこのように解釈する。「漸」は本来逐次推移の義で、「進」と訓するのではないが、ここで「進」と言うのは、前進は躁急にすべからず、一歩一歩来るべきことを表明するためであるので、「漸の進」と言うのである。六十四卦の中で真に「進」と訓するのは「晋」卦であり、「漸」の「進」は「晋」と同じでない。「晋」の進は臣子が君王に朝見することであり、「漸」の進は女子が男家に出嫁することである。礼に依れば、男方が先に来て求め、女方が後に応ずることで、初めて婚礼の次序に合する。しかし巽の象る女子は年歳がすでに大きく、出嫁しないではいられない苦衷があり、配偶を求める方が女子の身上に落ちるので「女帰」という。この時なおさら一歩一歩礼数に照らして来てこそ、吉と言うに足る。推して言えば、ただ循序漸進してこそ吉利であり、天下の事は一件としてこのようでないものはない。

卦自否來,否之三四陰陽失位,而三往居四,進得其位,上承九五,是為往有功也。而陽來居三為正,陰往居四亦為正。否僅一陽得位,漸則二陽得位,陽為陰率,乾以一陽下居坤上,是所以正坤邦也。五在否卦,剛自得中,三四相易,五剛不易,剛仍得位,是為剛得中也。坤變為艮,乾變為巽,艮止而巽行,行則有動,而動必以巽,是動以漸,故不窮也。漸進之吉,不僅女歸,又如此。

この卦は「否」から変じた。「否」の第三爻は陰、第四爻は陽で、いずれも位に当たらない。今や第三爻が上行して四位に居れば、前進して正位を得、また上に九五を承ける。これが『彖伝』のいう「往きて功あり」である。同時に陽爻が下って三位に居るのは位に当たって正であり、陰爻が上って四位に居るのも位に当たって正である。「否」卦は本来一つの陽爻のみ位に当たり、「漸」卦は二つの陽爻が位に当たる。陽は陰を統率でき、乾体が一根の陽爻をもって坤体の上に下降するのは、まさに坤の象る邦国を端正するのに用いるので、「進むに正を以てすれば、以て邦を正しくすべし」という。第五爻は「否」卦において本来陽剛をもって中に居り、三・四両爻が対調した後も五爻は変動せず、陽剛は依然として位に当たる。これが「其の位は剛、中を得たり」である。もとの坤は艮に変じ、もとの乾は巽に変じた。艮は静止を主り、巽は順行を主る。行走すれば動作があり、動作は必ず巽の柔順に依る。これが「動くに漸を以てす」で、ゆえに行きて尽きず窮まらない。見れば循序漸進が吉利なる所以は、女子の出嫁の一事のみならず、道理はなおこのように広大である。

象曰:山上有木,漸。君子以居賢德善俗。山上之木,其高以漸;君子居德善俗,亦體漸義。德之漸進貴能居,居之如艮山之止;俗之漸進欲其善,善也如巽風之入。初六:鴻漸于干,小子厲,有言,無咎。互離為飛鳥,居互坎之間,是水鳥集於水畔之象,有似於鴻,故爻辭皆言鴻。鴻來有時,鴻飛有序,是鴻之進止為有漸。初漸何所?漸於乾也。鄭氏曰:乾,大水之旁故停水處。乾雖近水而猶未及於水,鴻漸於此,豈云得所?

『大象伝』にいう、「山の上に木あり、漸なり。君子は以て賢徳に居りて俗を善くす」。山上の樹木は、一寸一寸高く長ずるものである。君子が徳行を蓄養し風俗を改善するにも、この「漸」の字を体会しなければならない。徳行の逐步の積累は安住できることを貴び、艮山のように穏定して移らないように安住せよ。風俗の逐步の転移はそれを善に向かわせることを要し、巽風のように悄然と浸入するように善に向かわせよ。初六の爻辞にいう、「鴻、干に漸む。小子は厲しく、言あり、咎なし」。卦中に互出する離は飛鳥であり、また互体坎水の間に挟まれて、まさに水鳥が水辺に聚集する象で、鴻雁によく似る。ゆえに六爻の爻辞は皆鴻雁を以て事を言う。鴻雁は往き来りに定時があり、飛行に行列次序があるので、鴻の進退はそれ自体が「漸」に合することが見える。初爻はどこに漸進するのか。「干」に漸進する。鄭玄によれば、「干」とは大水の旁の旧来の積水の処である。干は水に近いが、まだ水の中に至らず、鴻雁はここに停まるが、どうしてその所を得たと言えよう。

艮山之下,前有互坎,山水之間,故曰乾。猶之艮為少男,又為小子,小子居下,巽女來歸,危厲之餘,至於有言。得否之乾初為艮,乾為言,故云有言。然初四皆陰,兩陰無應,無應則不進,乃得漸義。詩云:禮義不愆,何恤於人言。蓋無咎矣。象曰:小子之厲,義無咎也。

初爻は艮山の下にあり、前にまた互体の坎水があり、まさに山と水の間に処するので「干」(水畔の高地)と言う。同様に、艮は少男であり、また「小子」に象ることができる。小子は最下の位置に居り、巽の象る長女が嫁いで来ようとし、彼は驚懼不安の余り、なお閑話を招く。この卦は「否」卦から得たもので、「否」の下乾の初爻が艮に変じ、乾は象において言語なので「言あり」という。ただ初六と六四はいずれも陰爻で、両陰は応じることができない。応じなければ軽挙妄進しないので、これはちょうど「漸」の道理に合する。『詩経』にいう、「礼義に愆(あやま)らず、何ぞ人言を恤れん」(礼義に過失がなければ、どうして他人の閑話を慮ることがあろう)。ゆえに終に咎なし。『小象伝』にいう、「小子の厲しきは、義に咎なきなり」。

六二:鴻漸于盤,飲食衎衎,吉。艮為石,前鄰互坎,水畔有石曰盤。鴻來漸之,進於乾矣。二體鴻漸之義,上往應五,二為互坎之初,五為互離之末,水火相濟,飲食之和,安且樂之。衎衎,和樂也。上下相得,故吉。象曰:飲食衎衎,不素飽也。漸進得祿,無素餐之飽也。

六二の爻辞にいう、「鴻、磐に漸む。飲食衎衎(かんかん)として吉」。艮は象において石であり、それは前に互体坎水に緊鄰し、水辺の大石を「磐」と言う。鴻雁が一歩一歩挪り来て、すでに「干」に停まったよりもさらに一層進んだ。六二は「鴻漸」の道理を体会し、上に九五に応合する。六二は互体坎卦の起始であり、九五は互体離卦の末端であり、坎水と離火が相互に調済して、まさに飲食調和の象であるので、安穏にしてかつ快楽である。「衎衎」とは和楽の貌である。上下両爻が情意相投するので吉利である。『小象伝』にいう、「飲食衎衎たるは、素飽せざるなり」。これは循序漸進して俸禄を得るのであり、白飯を徒食するのではないということである。

九三:鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶,利禦寇。三在否為坤,否四來三,三變為艮。坤地之上,艮山隱起,所謂高平曰陸者,鴻又漸進於此焉。夫乾初下來變坤為艮,艮男為夫;而坤陰上升變乾為巽,巽女為婦。三為正艮,又為互坎;四為正巽,又為互離。四來之三,陽已得位,豈能歸四?且又遇艮之止,是為夫征不復也。

九三の爻辞にいう、「鴻、陸に漸む。夫征して復たず、婦孕めども育たず、凶。寇を御ぐに利あり」。第三爻は「否」卦において本来坤体に属し、「否」の第四爻が下って三位に居れば、三爻は艮に変じた。坤の象る平地の上に、艮の象る山丘が隆起する。それが『爾雅』のいう「高平を陸と曰う」であり、鴻雁はまたここに漸進した。乾の初爻が下降して、坤を艮に変じ、艮は少男、すなわち「夫」である。坤の陰爻が上昇して、乾を巽に変じ、巽は長女、すなわち「婦」である。九三は本体の艮であり、また互体の坎である。六四は本体の巽であり、また互体の離である。九四はもと四位から下って三位に居ったもので、陽爻はすでに正位を得たのに、どうして四位に帰ることを肯んじよう。しかも前にまた艮の静止に遇う。これが「夫征して復たず」(夫が出て行って帰らない)である。

三以互坎之血入四互離之大腹,則婦已孕。而水火相剋,離為坎傷,且巽又為躁卦,勢難靜守,是為婦孕不育也。四來歸三,艮不復乾,則是夫不顧家;坤往居乾,坎轉傷離,則是婦不恤子,何凶如之!是宜居艮之上以御互坎之寇,坎寇下來,艮止以御之,體漸之義庶幾利耳。象曰:夫征不復,離群醜也。婦孕不育,失其道也。利用禦寇,順相保也。丑,類也。離群醜者,離否乾之群下來變坤為艮也。失其道者,坎離相爭,失夫婦相和之常道也。順相保者,變坤順為艮止,御止坎寇以保身家也。

九三は互体坎の象る血を以て、六四の互体離の象る大腹に入れば、婦人はすでに懐孕した。しかし水火は相克し、離は坎に傷られようとしており、加えて巽はまた躁動の卦で、情勢は静養安胎し難い。これが「婦孕めども育たず」(孕んでも保てない)である。九四が下って三位に帰り、艮は再び乾に回復しないのは、夫が家を顧みないことである。坤爻が上って乾の位置を占め、坎がかえって離を傷つけるのは、婦人が子を顧みられないことである――これより凶なるものがあろうか。ゆえに艮山の上に拠守して、互体坎の象る盗寇を抵禦すべきである。坎寇は上より下って来るので、艮の静止を以てそれに抵当し、「漸」の道理を体会すれば、およそ利あろう。『小象伝』にいう、「夫征して復たざるは、羣丑を離るればなり。婦孕めども育たざるは、その道を失えばなり。用いて寇を御ぐに利あるは、順にして相保せばなり」。「丑」とは同類の義である。いわゆる「羣丑を離る」とは、この一爻が「否」卦の上乾の同類を離脱し、下って坤を艮に変えたことを言う。いわゆる「其の道を失う」とは、坎離が互相争闘して、夫婦和睦の常道を失ったことを言う。いわゆる「順にして相保す」とは、坤の柔順を艮の静止に変えて、坎寇を挡住して身家を保全することを言う。

六四:鴻于漸木,或得其桷,無咎。木又上於陸矣。四體巽,巽為木,鴻則漸之。夫鴻掌連趾,不能握木,而巽為陰木,其有寬平如桷者,可以棲止。桷,榱也。鴻或得桷,漸進有所,故無咎。象曰:或得其桷,順以巽也。順以巽者,否坤前往變巽也。

六四の爻辞にいう、「鴻、木に漸む。或いは其の桷(かく)を得ん。咎なし」。樹木の位置はまた陆地より一層高い。六四は巽体に属し、巽は木であり、鴻雁は一歩一歩樹上に挪る。鴻雁の脚掌は趾間に蹼が連なり、樹枝を掴めない。幸い巽は柔軟の陰木で、その中に方椽のように寛平な枝干があり、歇脚できる。「桷」とは方形の屋椽である。鴻雁は僥倖にもこのような平枝を見つけ、漸進して落着があったので咎はない。『小象伝』にいう、「或いは其の桷を得るは、順にして巽(したが)えばなり」。いわゆる「順にして巽」とは、「否」卦の坤体が上行して巽に変じた(柔順より巽入に転じた)ことを言う。

九五:鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。五以巽中下應艮中,是五已在艮山之上,如所謂大阜曰陵者,鴻漸於此,漸愈進矣。夫鴻之進猶女之歸,鴻漸至五則進愈高,婦俟至五則年愈大。五體巽稱婦,下求應,歷互坎互離之盡,已歷三歲。五至三為離,離為孕;四至二為坎,坎水克離,則孕仍虛。顧不孕至三歲,不為不久,終莫之勝,以歸艮男,成其配偶,靜以俟之,寧失其時,不失其禮,漸進之義至此極矣。象曰:終莫之勝吉,得所願也。得所願者,願守漸義,不肯失禮以歸也。

九五の爻辞にいう、「鴻、陵に漸む。婦三歳孕まず。終に之に勝つ莫し。吉」。九五は巽体の中を以て下に艮体の中に応じ、それがすでに艮山の上に登ったことを説明する。すなわち『爾雅』のいう「大阜を陵と曰う」であり、鴻雁がここに漸進したのは、先よりまた一層高い。鴻雁の前進は女子の出嫁に譬える。鴻が五爻に漸めば位置は愈々高く、女子が五爻に至れば年歳は愈々大きい。九五は巽体に属し、「婦」と称すべきで、それは下に向かって応ずる爻を求め、互坎・互離の両卦を走遍してこそ尽きるので、すでに三年を過ぎた。五爻から数えて三爻に至れば離を成し、離は懐孕を主る。四爻から数えて二爻に至れば坎を成し、坎水は離火を克するので、胎孕は終に落空する。しかし孕まずして三年を熬るは、久しからずと算ならず、最終的に彼女を压倒するものもない――彼女はやはり艮の象るあの男子に嫁いで、この配偶を成就した。安安静々として待ち続け、寧ろ好時機を逸しても、礼数を失うことを肯んじない。「漸」の道理はここに至って極処に発揮されたと算する。『小象伝』にいう、「終に之に勝つ莫きは吉は、願いを得たればなり」。いわゆる「願いを得た」とは、彼女の心願が漸進の義を守るに在り、礼を失して草草に嫁ぐことを肯んじないことである。

上九:鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。漸進至上,無可進矣,窮極宜返,故仍歸於陸。蓋巽為進退,進而復退,鴻漸象之。且知進知退,不敢以盛滿自處,尤漸進之高致也。鴻漸若此,不第其德可貴,即用其羽為舞亦吉。儀,舞也。書曰:鳳凰來儀。象曰:其羽可用為儀吉,不可亂也。不可亂,言羽舞有序也。

上九の爻辞にいう、「鴻、陸に漸む。其の羽は用いて儀と為す可し。吉」。漸進して最上の爻に至れば、再び進むべき所がない。窮尽して頭に至れば回返すべきなので、また陆地に落ち帰る。巽卦はもともと進退不定の義があり、進んでまた退く。鴻雁の漸進はまさにこの象を取る。しかも進むを知りまた退くを知り、円満を以て自ら居ることを敢えてしないのは、なおさら「漸進」の高妙の境界である。鴻雁がこの歩までできるのは、その徳性が貴いのみならず、その羽毛を取って舞具とするのも吉利である。「儀」とはすなわち舞であり、『尚書』に「鳳凰来儀す」の語がある。『小象伝』にいう、「其の羽用いて儀と為す可きは吉は、乱る可からざるなり」。いわゆる「乱る可からず」とは、羽を執って舞うに自ずから行列次序があることを言う。

帰妹(きまい)の卦

兌下震上,中互坎離。泰。歸妹為三陽三陰卦,自泰來,虞氏曰乾天坤地,三之四,天地交。歸妹:征凶,無攸利。男娶女曰娶,女歸男曰歸。父主婚禮曰歸女,兄主婚禮曰歸妹。此卦下兌上震,有似長男主嫁少女者,故名歸妹。妹而曰歸,似女就男,則為失禮;歸者曰妹,是女無父,則為失時。時禮俱失,故征凶無攸利。

「帰妹」の卦は下体が兌、上体が震、中間に坎卦と離卦を互出する。これは「泰」卦から変じた。「帰妹」は三陽三陰の卦で、虞翻は「泰」の上坤は地、下乾は天、第三爻と第四爻が対調して、まさに天地交合の象であると言う。卦辞にいう、「帰妹、征すれば凶、攸に利あらず」。男方が女方を娶るを「娶」といい、女方が男家に嫁ぐを「帰」という。父が婚礼を主持するを「女を帰す」といい、兄が婚礼を主持するを「妹を帰す」という。この卦は下兌上震で、長兄が主を為して小妹を嫁がせる様によく似るので、「帰妹」と名づけた。「妹」と称して「帰」と言うのは、女方が自ら進んで男方に就くようで、これは礼を失したものである。出嫁する者が「妹」と称されるのは、女子にすでに父が家を主らないことを説明し、これは時を逸したものである。礼と時の両頭が共に失われたので「征すれば凶、攸に利あらず」である。

彖曰:歸妹,天地之大義也。天地不交而萬物不興,歸妹人之終始也。說以動,所歸妹也。征凶,位不當也。無攸利,柔乘剛也。卦之所以名歸妹者,以卦自泰來也。泰為上坤下乾,虞氏曰:乾天坤地,三之四,天地交,以離日坎月戰陰陽,則萬物興。乾主壬,坤主癸,日月會北,震東兌西,離南坎北,六十四卦此象最備,四時正卦,故天地之大義也。

『彖伝』にいう、「帰妹は天地の大義なり。天地交わらざれば万物興らず。帰妹は人の終始なり。説(よろこ)びて以て動く、帰する所の妹なり。征すれば凶は、位当たらざればなり。攸に利なきは、柔剛に乗ればなり」。この卦を「帰妹」と言う所以は、それが「泰」卦から変じたからである。「泰」は上坤下乾で、虞翻によれば、乾は天、坤は地であり、第三爻と第四爻が対調すれば天地は交合する。さらに互出の離日・坎月が来て陰陽を交戦すれば、万物はここに興起する。納甲の法に依れば、乾は壬を納し、坤は癸を納し、壬癸はともに北方にあり、日月が北に会合するのである。そして震は東、兌は西、離は南、坎は北にあり、六十四卦の中でこの卦は四方の象が最も完備しており、まさに四時に配する正卦であるので、『彖伝』はそれを「天地の大義」と称す。

是因天地之交以成震兌,倘天地不交,震兌之象不見,則萬物即無自興。是歸妹乃以成此男女之交,有如天地之生萬物,乃人之終而復始,相生不已者也。祇是以卦德言,兌說震動,似感情慾之私而亡禮義之大;以卦體言,三五皆不當位,又皆以柔乘剛,失陰柔卑順之宜,而無陽倡陰隨之儀,此所以征凶無攸利也。

まさに天地が交合するがゆえに、震と兌とを生成した。もし天地が交わらなければ、震兌の象は出る由なく、万物も興起する由頭がない。ゆえに「帰妹」が成就するのは男女交合の事であり、天地が万物を生育するような、人類が一代終わりまた一代始まり、生生已まざる根本である。ただ卦徳に就いて見れば、兌は喜悦を主り、震は動作を主り、「説びて以て動く」は难免情欲の私に感ぜられて礼義の大端を失うに似る。卦体に就いて見れば、第三爻と第五爻はいずれも位に当たらず、しかもいずれも陰爻が陽爻の上に騎り、陰柔の応有の謙卑柔順を失い、男唱女随の体統もない――これが卦辞の「征すれば凶、攸に利あらず」と言う所以である。

象曰:澤上有雷,歸妹。君子以永終知敝。雷伏澤中,今居澤上,是澤轉隨雷而動,有歸妹之象。虞氏曰:坤為永終,為敝;乾為知。三之四為永終,四之三兌為毀折,故以永終知敝。蓋言女歸之義,得其正者有終,失其正者必敝。泰坤之三為內卦之終,兌為附決,故終曰永;坤為敝,乾為知,泰乾之四為震,是知坤敝也,故敝曰知。

『大象伝』にいう、「沢の上に雷あり、帰妹なり。君子は以て永終にして敝を知る」。雷は本来沢水の中に潜伏していたが、今や沢の上に跑出して、ここにおいて沢はかえって雷に随って動蕩する。まさに女子がかえって男子に追随する「帰妹」の象である。虞翻によれば、坤には長久終結の義があり、また敗壊の義がある。乾には明察の義がある。三爻が上行して四位に至るのは「永終」であり、四爻が下行して三位に至り兌を成し、兌は毀折を主るので、合わせて「永終にして敝を知る」となる。この話は、女子の出嫁という事は、正道に合してこそ善終でき、正道に合しなければ必ず敗壊するということである。「泰」卦の坤体の第三爻は内卦の終結であり、兌はまた附着・決開の義があるので「終」を「永」と称す。坤は敗壊を主り、乾は明察を主り、「泰」卦の乾体の第四爻が震に変じ、まさに乾の明察を以て坤の敗壊を知るので、「敝」の字の上に「知」を冠するのである。

初九:歸妹以娣,跛能履,征吉。古者諸侯娶一國,則二國往媵之,以侄娣從。初以兌女居下位,兌為妾,則是所歸之妹乃娣也。娣為陪嫁,不求禮備,故不嫌於隨歸;娣以從姊,尚可待年,故不嫌於為妹。女子謂女弟曰妹,至妹為己媵則謂之娣,所以別於在母家之稱,以明同事一君之義也。

初九の爻辞にいう、「妹を帰するに娣(てい)を以てす。跛(あしな)えも履む能し。征すれば吉」。古代の諸侯が一国の女を娶る時、別の二国が女を送って陪嫁させ、随嫁するのは新婦の姪女と妹である。初九は兌の象る女子を以て最下の位に居り、兌は妾であるので、ここに嫁ぐ「妹」は実は陪嫁の「娣」であることが見える。娣は陪嫁の身分で、六礼の斉備を講究しないので、姉に随いてともに出嫁しても失礼と算ならない。娣は姉に随って門を過ぐるもので、なお数年成人を待つことができるので、妹の身分を以て出嫁しても時を失したと算ならない。女子は自らの妹を「妹」と称し、妹が自らの陪嫁となれば、「娣」と改称する――これは娘家にいた時の称呼と区別し、姉妹二人が一夫に共に事える名分を表明するためである。

是姊為後,妹為娣,歸妹以娣,此亦嫁女之恆事。雖其分位卑賤,不能有為,然果克盡其道,亦可承助於君子。猶之跛足雖偏,倘使能履,亦有不可盡廢者。蓋五卦主為震中,震為足,初以兌之毀折上承震足,則象跛足之能履,故前征吉也。象曰:歸妹以娣,以恆也。跛能履吉,相承也。

ここにおいて姉は正室を為し、妹は陪嫁を為す。「妹を帰するに娣を以てす」は、所詮女を嫁がせる常例に過ぎない。娣の名分は卑微で、大した事業を為すことはできないが、果たして自らの本分を尽くすことができれば、同じく自らの夫を奉事し輔助することができる。これはちょうど片足が跛えて歩行が偏斜するようなもので、なお行走できれば、まだ完全に廃棄し得ない用がある。爻象に就いて言えば、六五は全卦の主爻で、震卦の中に居り、震は人身において足である。初九は兌の毀折の象を以て上に震足を承け、まさに跛脚でありながらなお行走できるに似るので、前に往けばかえって吉利である。『小象伝』にいう、「妹を帰するに娣を以てするは、恒を以てなり。跛えも履む能し吉は、相承くればなり」。

九二:眇能視,利幽人之貞。二為互離,離為目,目主視;而二為正兌,兌為小,則為眇目。目既曰眇,則目已偏,而為互離,猶幸能視。猶之娣為嫡棄,退處永巷,春風秋扇,矢志靡他,此所謂幽人之貞,二之利如是已矣。象曰:利幽人之貞,未變常也。

九二の爻辞にいう、「眇(みょう)なれども視る能し。幽人の貞に利あり」。九二は互体離卦に属し、離は目であり、眼睛は視ることを主る。しかしそれは同時にまた本体の兌であり、兌は小である。合わせれば一隻の瞎いた独眼となる。眼睛がすでに「眇」と称する以上、視力はすでに偏損したが、幸いそれはまた互離に属し、やっとまだ見ることができる。これはちょうど陪嫁の妹が正妻に嫌棄されて、深宮僻巷の中に退居し、秋後の扇子のように擱置されながらも、始終志を矢じて移さず、別の二心がないようなものである――これがいわゆる「幽人の貞」(幽居して節を守る者の操守)である。九二の得ることのできる好处も、ここに至って止まる。『小象伝』にいう、「幽人の貞に利あるは、未だ常を変ぜざればなり」。

六三:歸妹以須,反歸以娣。虞氏曰:須,需也,猶待也。三原為泰之四,比近君位,是待時于歸者。今則反歸於三,變為兌上,兌為少女,是三之為娣,則以四反歸之故,故曰歸妹以須,反歸以娣也。象曰:歸妹以須,未當也。

六三の爻辞にいう、「妹を帰するに須(す)を以てす。反りて娣を以て帰す」。虞翻によれば、「須」とはすなわち「需」、等待の義である。第三爻はもともと「泰」卦の第四爻で、君位に緊挨着し、時機を待って出嫁する方に属する。今やそれはかえって三位に退き戻り、兌卦の上爻に変じ、兌は少女である――見れば六三が陪嫁の「娣」に淪落した所以は、それが四位から三位に倒退回ったがゆえである。ゆえに爻辞は「妹を帰するに須を以てす、反りて娣を以て帰す」という。『小象伝』にいう、「妹を帰するに須を以てするは、未だ当たらざればなり」。

九四:歸妹愆期,遲歸有時。婦女之年宜少,而四居互離之上,是中女而年又加長者,則妹之歸也已過其期。愆,過也。離為日,故云期;離爻已盡,又居外卦,故云愆期。愆期則遲,遲宜待時,蓋有不以遲歸為嫌者。象曰:愆期之志,有待而行也。

九四の爻辞にいう、「妹を帰するに期を愆(あやま)る。遅き帰に時あり」。出嫁する女子は年歳が軽いのが宜しいが、九四は互体離卦の上に居り、離は本来中女で、今や年紀がまた一層長じたので、この「妹」の出嫁はすでに応有の期限を過ぎたことが見える。「愆」とはすなわち過である。離は象において日なので「期」に言及し、離の爻位はすでに尽きに至り、九四はまたすでに外卦に入ったので「愆期」(日期を逸す)という。すでに期を過ぎれば遅いのだが、遅ければ耐え忍んで時機を待つべきである。もともと晩嫁を嫌忌としない道理があるからである。『小象伝』にいう、「愆期の志は、待つ有りて行けばなり」。

六五:帝乙歸妹,其君之袂不如其娣之袂良,月幾望,吉。五為君位,又為震中,震為帝,震位甲乙,又為泰之坤,坤納乙,是為帝乙。帝乙歸妹,則妹亦帝之妹,帝妹亦尊,非他媵妾之比。帝乙,微子之父,或當日實有歸妹之事,故取此象。夫女歸求男,非禮之正,至於帝王嫁女,轉有紆尊降貴之美,則歸妹之吉,惟六五始足以當之。

六五の爻辞にいう、「帝乙、妹を帰す。其の君の袂(べい)は其の娣の袂の良なるに如かず。月望に幾(ちか)し。吉」。第五爻は君位で、また震卦の中に居り、震は帝である。震は方位において甲乙に属し、またこの爻は「泰」卦の坤から出て、坤は納甲の法に依り「乙」を納する。合わせればすなわち「帝乙」である。帝乙が妹を嫁がせるのであれば、この「妹」はすなわち帝王の妹であり、身分は尊貴で、他の陪嫁の姫妾の比ではない。帝乙は商紂の父・微子の父であり、当時あるいは真に妹を嫁がせた事があったかもしれないので、『易』はこの象を取った。按ずるに女方が自ら進んで男方に嫁ぐのは正礼に合しないが、帝王の女を嫁がせるに至っては、かえって尊を屈し貴を降して臣に下嫁する美意がある。では「帰妹」の言う吉は、ただ六五のこの一爻のみが当たるに足る。

既為女君,雖衣袂之良不如其娣,而不嫌儉素,其不尚容飾有如此者。衣口為袂,泰乾為衣,變兌為口,復有互離之文,娣袂曰良,誠哉其袂良也。且滿則招損,謙乃有光,後德如月。月虧於既望,而盛於幾望。五以互坎之月下連互離之日,北坎南離,相對生明,雖在互坎之上,月光少偏,則將盈而尚未盈,較之已盈而恆恐其缺者,其象不同矣。妹而言歸,惟帝乃吉,不得以泛泛歸妹者疑其征凶無攸利也。象曰:帝乙歸妹,不如其娣之袂良也,是其位在中,以貴行也。位居五曰在中,天子之女,故曰貴行。

彼女はすでに女君として貴いのに、衣袖の華美は陪嫁の妹に及ばず、しかも自らの素朴を嫌わない――容貌服飾を崇尚しないことがここまで至ったのである。衣服の袖口を「袂」という。「泰」卦の乾は衣であり、変じて兌となり兌は口であり、さらに互体離の文采を加えるので、陪嫁の娣の衣袖が「良」(それは誠に華美である)という。しかも盈満すれば損を招き、謙退してこそ光輝がある。王后の徳はまさに月のようであるべきである。月は十六日に望を過ぎれば亏缺し始め、将に望まんとして未だ望まざる時に最も盛んである。六五は互体坎の象る月を以て、下に互体離の象る日に連なり、坎は北にあり離は南にあり、両相照らし合って光明を生ずる。この輪の月は互坎の上に居るが、月光はやや偏り、まさに将に満ちんとして未だ全く満ちない――あのすでに円満で時時缺け行くを恐れる月とは、象が大いに異なる。見れば「妹」と称して出嫁を言うのは、帝王家のみが吉利であり、一般の「帰妹」を以てそれもまた「征すれば凶、攸に利あらず」と疑うべからず。『小象伝』にいう、「帝乙の妹を帰すは、其の娣の袂の良なるに如かざるなり。是れ其の位中に在り、貴を以て行けばなり」。第五位に居るを「中に在り」といい、彼女は天子の女なので「貴を以て行く」という。

上六:女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。震為士,兌為女。古者祭祀,婦供筐實,男親割牲。則此兌女上承震筐,虞氏曰:震為筐。震筐上仰,虛無一物,是為筐無實。則此震士以互離之戈下刲兌羊,刲,刺也。而互坎之血為互離灼乾,坎為血卦,離為乾卦,是為羊無血。筐實不供,是婦道虧,故變婦而稱女;割牲有乖,是男職缺,故變男以稱士。夫婦而曰女士,上下不應也,無攸利矣。象曰:上六無實,承虛筐也。

上六の爻辞にいう、「女は筐を承くれども実なく、士は羊を刲(き)すれども血なし。攸に利あらず」。震は士であり、兌は女である。古時の祭祀において、婦人は竹筐の中の祭品を準備する責任を負い、男子は自ら犠牲を宰割した。ここで兌の象る女子は上に向かって震の象る筐を捧げ――虞翻によれば震は筐である――震卦の卦画(一陽が下にあり二陰が上にある)は筐口が上に向かって仰いでいるようで、中は空っぽで一物もない。これが「筐に実なし」である。そして震の象る男子は互体離の象る戈を用い、下に向かって兌の象る羊を刺殺する――「刲」とはすなわち刺である。しかし互体坎の血は互体離に烤乾された。坎は血の卦であり、離は物を干燥させる卦であるので、「羊に血なし」となった。筐の中に祭品がないのは、婦人の職分に欠損があるので、「婦」と称さず「女」と改称した。牲を宰すに法度に合わないのは、男子の職守に欠缺があるので、「男」と称さず「士」と改称した。本来一対の夫婦であるべきなのに、「女」と「士」としか呼べないのは、まさに上下両爻が応じないことを説明するので、攸往して利ある所がない。『小象伝』にいう、「上六に実なきは、虚筐を承くればなり」。

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