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升(しょう)の卦

清 · 多隆阿 · 第12巻 / 21

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

【巽下坤上,中互震兌】臨。升為二陽四陰卦,自臨來。虞氏曰:臨初之三。升:元亨,用見大人,勿恤,南征吉。臨四陰居上,二陽居下,易兌為巽,陽各前進,故卦名升。升則大亨,而宜升者為大人。大人在下,君宜用而見之,使勿憂恤,南征以往,升進得位,以展才能,則吉也。

「升」の卦は下体が巽、上体が坤。第二爻から第四爻までが互いに震を成し、第三爻から第五爻までが互いに兌を成す。これは「臨」の卦から変じたものである。升は二陽四陰の卦で、臨卦と陰陽の数が同じである。虞翻によれば、臨卦の初爻が第三位に上ったものだという。卦辞にいう、大いに亨通し、大人を任用し引見するに宜しく、憂えることなく、南方に向かって進めば吉。多隆阿が解説するには、臨卦は四つの陰爻が上にあり二つの陽爻が下にあり、兌を巽に変じて、陽爻が各々前に進むので、卦名を「升」とする。上昇すれば大いに亨通するが、上昇するに適した者は大人である。大人が下位にあるとき、君主は彼を任用し引見して、憂えさせないようにすべきである。南に向かって進み、上昇してふさわしい位を得て才能を施展すれば吉である。

彖曰:柔以時升,巽而順,剛中而應,是以大亨。用見大人勿恤,有慶也。南征吉,志行也。升者何?陽升也。上卦為坤,下卦為巽,巽木得坤土生之,長養高大,故名曰升。夫木之升長曰升,而賢之升進亦曰升。木之升者為大木,賢之升者為大人。大人在上位,臣下見之則曰利見大人;居下位,君上見之則曰用見。用見大人,則大人不終於居下,亦如木之日長日大,慶高升也。

『彖伝』にいう、柔順な者が時勢に随って昇り、下卦は柔順にして上卦は順従し、陽剛が中に居り上に応与があるので、大いに亨通する。「大人を用見て恤るなかれ」とは、福慶があることをいう。「南征吉」とは、心志が行われることをいう。多隆阿が解説するには、升とは何か、陽爻の上昇である。上卦は坤、下卦は巽。巽木は坤土の滋生を得て、長養されて高大になるので、「升」と名づけた。木が高くなるのを升といい、賢人が進用されるのも升という。木が上昇すれば大木となり、賢人が上昇すれば大人となる。大人が上位にあって臣下が彼に見えるのを「利見大人」といい、大人が下位にあって君上が彼を召し見るのを「用見」という。君上が大人を任用し引見すれば、大人は終始下位に居ることはなく、木が日々に高く大きくなるがごとく、その高昇を慶賀するに足る。

升則有慶,有慶則勿恤。雖卦象大坎,坎為加憂,而巽木洩之,坤土制之,巽兼坤順,又得二之剛中以應六五,元善亨嘉,可於升中得之。蓋升自臨來,臨初往三為升,臨三為柔,今升之剛已進至三,循次遞升,則柔所居之地皆剛可升之地也。木在下則因地而升,賢在下亦因時而升。五為柔中為君,引陽上升,是柔因時使陽上升以用之,故曰柔以時升也。

上昇すれば福慶があり、福慶があれば憂える必要がない。卦体は大坎のようで坎は憂愁を主るが、巽木は水気を泄らすことができ、坤土はまたそれを制約できる。巽の柔順に坤の順従を加え、さらに九二の陽剛が中に居って六五に応ずるので、大善と嘉美とはいずれも上昇の中に得ることができる。升卦は臨卦から変じた。臨卦の初爻が第三位に上れば升となるが、臨卦の第三爻は本来柔爻であった。今や升卦の剛爻はすでに第三位に進み、この次序に従って一級ずつ上に昇るならば、柔爻の占めていたところはすべて剛爻の昇るべきところである。木は下にあって土地に凭って上昇し、賢人は下にあって時勢に凭って上昇する。六五は柔をもって中に居り君となり、陽爻を引き上げる。これが柔順な者が時勢に順って陽爻を昇らせて任用する所以で、ゆえに『彖伝』に「柔以時升(柔は時を以て升る)」という。

二至四為互兌,兌為雨澤;三至五為互震,震為行;坤位西南,木得雨滋之土,發榮暢達,南行故吉。行者征也,征行有志,則升進不已,升之義著矣。象曰:地中生木,升,君子以順德,積小以高大。荀氏曰:地為坤,木為巽,地中生木,以小至大,升之象也。坤為順,巽為高,故君子體升以成德。

第二爻から第四爻は互いに兌を成し、兌の取象は雨沢である。第三爻から第五爻は互いに震を成し、震の取象は行走である。坤の方位は西南にある。木は雨水に潤された土壤を得れば、栄え滋長して暢達し妨げられないので、南へ往けば吉である。「行」とはすなわち「征」である。行進して志があれば、絶えず上昇し、升の意義は昭然と明らかになる。『象伝』にいう、地中に木が生じるのが升の卦である。君子はこれに法り、自らの徳性を順に養い、少しずつ積み重ねて高大に至る。荀爽(じゅんそう)によれば、地はすなわち坤、木はすなわち巽であり、地中に木が生じ、小より大に長ずるのは、まさに上昇の取象である。坤は柔順を主り、巽は高を主るので、君子は升卦を体して自らの徳行を成すのである。

初六:允升,大吉。初為四應,二三為陽,臨初與三對易,升之初即臨之三,其升有可信者,故曰允升。升可居信【居信:居字衍文】,故大吉。象曰:允升大吉,上合志也。九二:孚乃利用禴,無咎。二為陽實稱孚,是積孚誠以升者。二與五應,五為坤中,坤位西南,時維六月,故言禴。言二之孚即使感格鬼神亦利用之,故無咎。象曰:九二之孚,有喜也。

初六の爻辞にいう、まことに昇るべき、大いに吉。多隆阿によれば、初六は六四と応じ、二・三の両爻はいずれも陽である。臨卦の初爻と第三爻とが位置を互換すれば、升卦の初爻はもとの臨卦の第三爻であり、その上昇には凭拠があって信じるに足るので「允升」という。上昇して信を守ることができるので大吉である(底本に「升可居信」とあるのは、「居」字は衍文である)。『小象』にいう「允升大吉は、上と志を合すればなり」――上と心志を合するということである。九二の爻辞にいう、誠信を懐けば禴祭を行うに宜しく咎なし。多隆阿によれば、九二は陽爻で、陽は実なるがゆえに「孚」と称す。これは誠信を積み重ねて後に上昇する者である。九二は六五と応じ、六五は坤体の中に居り、坤の位は西南にあり、時令は六月に当たるので「禴」(夏祭)という。これは九二の誠信が、鬼神を感通するのに用いても合宜であることをいい、ゆえに咎はない。『小象』にいう、九二の誠信は、欣喜に値するものである。

九三:升虛邑。坤為虛為邑,三自臨之初來,變兌為巽,巽木遇坤土,木資土養,故曰升虛邑。象曰:升虛邑,無所疑也。三為巽末,漸欲出巽以升於坤,故曰升虛邑。巽為進退,為不果,象疑,出乎巽即已無此疑也。六四:王用亨于岐山,吉無咎。升至於四,升愈進矣。四為互兌,兌位西,岐山在周西,故王用之以享岐山。兌又為巫,巫主祭祀,享象。大臣升進,有此馨德以致王用,故吉無咎。象曰:王用亨于岐山,順事也。

九三の爻辞にいう、空廓の城邑に昇る。多隆阿によれば、坤の取象は虚・邑である。第三爻は臨卦の初爻から上って来たもので、兌を巽に変じ、巽木は坤土に遇い、木は土に靠って滋養されるので「虚邑に升る」という。『小象』にいう「虚邑に升るは、疑うところなきなり」――九三は巽体の末端に処し、まさに巽体を脱して坤中に昇ろうとするので、空邑に昇るという。巽は進退・不果決を主り、疑に取象する。いったん巽体を脱すれば、この疑慮もなくなる。六四の爻辞にいう、君王が岐山で祭享を行えば吉にして咎なし。多隆阿によれば、第四爻に昇れば上昇はさらに一歩進む。第四爻は互体の兌に属し、兌の方位は西にあり、岐山は周原の西にあるので、君王がそれをもって岐山を祭享するという。兌はまた巫に取象し、巫は祭祀を司るので「享」の取象に合する。大臣が絶えず上昇し、このような芬芳の徳を具えてこそ君王の任用を招くので、吉にして咎なし。『小象』にいう、君王が岐山で祭享するのは、柔順にして上天と祖先に奉事するからである。

六五:貞吉,升階。五為天位稱階,臣升至此,則是位極人臣,左右厥闢,惟貞正以升乃吉。象曰:貞吉升階,大得志也。上六:冥升,利于不息之貞。荀氏曰:坤性闇昧,今升在上,故曰冥升也。升至於上,升道已窮,貞固自守,不少間斷,此所謂不息之貞也。語曰:知足不辱,知止不殆。上之所利在此耳。象曰:冥升在上,消不富也。上富已極,宜消其富。坤為吝嗇,陰象亦虛象,故曰不富。升至能消其富,處升之道得矣。

六五の爻辞にいう、正を守れば吉、階段に沿って昇る。多隆阿によれば、第五爻は天子の位なので「階」と称す。人臣がここに昇れば、位は人臣の極みに達し君主を輔佐するので、正道をもって昇ることのみが吉となる。『小象』にいう、正を守って吉・階を拾って昇るとは、志を大いに得たということである。上六の爻辞にいう、昏昧にひたすら昇るならば、断間なく正を堅持するに宜しい。荀爽によれば、坤の性は昏暗である。今や最上に昇ったので「冥升」という。上爻に昇れば上昇の路はすでに尽き、堅貞に自守して片刻も間断しないことのみ、これがいわゆる「不息之貞」である。古語にいう、足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うくない(『老子』第四十四章より)。上六の利はここにある。『小象』にいう「冥升して上に在るは、消えて富まざるなり」――上位の富盛は極に達したので、これを消減すべきである。坤は吝嗇を主り、陰爻は陰象であるとともに虚象でもあるので「富まず」という。極に昇って自らの富盛を消減することができれば、「升」という時位に処する理を掌握したことになる。

易原 巻十

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。周易下經(四):困、井、革、鼎、震、艮。

本巻は慧珠閣原刻本に依拠し、撰者は岫巖の人・多隆阿(字は雯渓)である。この巻は『周易』下経の第四部分を解説し、順に「困」「井」「革」「鼎」「震」「艮」の六卦を扱う。

困(こん)の卦

【坎下兌上,中互巽離】否。困為三陰三陽卦,自否來。荀氏曰:此本否卦,陽降為險,陰升為說也。虞氏曰:否二之上。困:亨,貞,大人吉,無咎,有言不信。坎下兌上,卦名曰困。人當困境,不宜苟安而貴能自振,故曰亨;困又不宜苟免而貴能履正,故曰貞。既亨且貞,惟大人能之,人以大人為法,雖處困亦吉無咎。若夫惟事喋喋,徒尚言語,則人不信,困愈甚矣。

「困」の卦は下体が坎、上体が兌。第二爻から第四爻までが互いに離を成し、第三爻から第五爻までが互いに巽を成す。これは「否」の卦から変じたものである。困は三陰三陽の卦で、否卦と陰陽の数が同じである。荀爽によれば、この卦はもと否卦であり、陽爻が下降して険陷の坎となり、陰爻が上昇して和悦の兌となったのだという。虞翻によれば、否卦の第二爻が上位に上ったものだという。卦辞にいう、亨通し、正を守り、大人は吉、咎なし。空言を弄しても人に信ぜられない。多隆阿が解説するには、坎が下にあり兌が上にあり、卦名は「困」。人が困境に処しては、苟且に安んじてはならず、自ら振作できることが貴い。ゆえに「亨」という。困に処しても苟且に脱するを求めてはならず、正道を履むことが貴い。ゆえに「貞」という。亨通しつつ正を守れるのは大人のみである。人々が大人を模範とすれば、たとえ困境に身を置いても吉にして咎なし。ただ喋々と口先だけの者は、人に信ぜられず、困境はいよいよ深まるのみである。

彖曰:困,剛揜也。險以說,困而不失其所亨,其惟君子乎。貞大人吉,以剛中也。有言不信,尚口乃窮也。卦之所以名困者,以困古文作止□木,木為所止,是窮極而至於盡曰困。此卦上兌下坎,水洩澤下,澤水漸涸,是水窮極而至於盡也。困又從木在口中,有止而不過之義,此卦內陽外陰,陽為陰揜,是陽剛以有所止而不過也。

『彖伝』にいう、困とは陽剛が陰柔に掩蔽されることである。険境に身を置きながら和悦を保ち、困境に陥りながら亨通の道を失わないのは、おそらく君子のみができることであろう。「貞にして大人吉」は、陽剛が中に居るからである。「言ありて信ぜられず」とは、ひたすら口舌の利を逞しゅうする者は、路が尽きるということである。多隆阿が解説するには、この卦を「困」と名づけたのは、「困」の古文は止と木とから成り(底本ではこの字が漫漶している)、木が止められるのは、窮尽して極に達した時を困というからである。この卦は上が兌で下が坎、水は沢の下から漏れ泄れて、沢中の水はしだいに涸渇する。これはまさに水が窮尽して極に達したものである。「困」字はまた「木」が「囗」の中にある形から、止められて越え出られない意を含む。この卦は内卦が陽で外卦が陰、陽が陰に遮掩され、まさに陽剛が阻害されて越え出られないものである。

夫困則多阻,似不可以有為,不知為困所窮者小人然也,非君子也。蓋君子即大人,二五剛中,足以濟困,雖險猶說,是所謂亨通貞正無咎而吉者。但不宜如彼小人,徒恃兌口,專事辯給,人不之信,自取困窮耳。象曰:澤無水,困,君子以致命遂志。澤以滀水,至於無水,困之象也。君子體之,宜舍其命而遂素志。卦自否來,否為上乾下坤,乾為天命,變乾為兌,兌上折乾,是致命矣;變坤為坎,坎為心志,是遂志矣。

困に処すれば阻害が重なり、有為ではないように見える。しかし困境に絶路へ追い込まれるのは小人であって君子ではないことを知らない。君子とはすなわち大人であり、九二・九五はいずれも陽剛をもって中に居り、困厄を済度するに足り、険中にありながら和悦である。これが卦辞のいう亨通・守正・无咎にして吉の道理である。ただ小人のように兌口に凭って口舌の能を逞しゅうし、口才をひけらかして人に信ぜられず、自ら困窮を招くようにしてはならない。『象伝』にいう、沢に水なきは困の卦である。君子はこれに法り、命を捨てても自らの志を成し遂げる。多隆阿によれば、沢は本来水を蓄えるものだが、今や涸れて水がないのが「困」の取象である。君子はこれを体して、自らの性命を捨てて平生の志を成し遂げるべきである。卦は否卦から変じた。否卦は上乾下坤で、乾の取象は天命であり、乾が兌に変じて、兌は毀折を主り乾体を折る――これが「致命」(命を捨てる)である。坤が坎に変じて、坎の取象は心志――これが「遂志」である。

初六:臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。困以柔揜陽剛為義,而自各爻分觀,陰陽俱各受困,陰柔無才,其困尤甚。初居下位,又為陰柔,是困而不能出者。坎為臀,坎木為堅多心,故曰臀困于株木;坎為陷為隱伏,象幽谷,困者入之。歷盡坎爻,得遇正應,已為三歲,三歲不覿,初之受困亦久矣。象曰:入于幽谷,幽不明也。坎反離明。

初六の爻辞にいう、臀部が枯れた株木に硌れて苦しみ、幽深の谷に落ち込み、三年人に見えない。多隆阿によれば、困卦は柔が陽剛を掩蔽することを義とするが、各爻を分かれて見れば、陰陽は実は各々困を受けている。陰柔の爻は才干がなく、受ける困はなおさら甚だしい。初六は最下位に居り、また陰柔の質で、これは困されて出られない者である。坎の取象は臀であり、坎木の性は堅く木心が多いので「臀、株木に困む」という。坎はまた陷落・隠伏を主り、幽谷に取象して、困された者はその中に落ち込む。坎体全体を歴尽してこそ自らの正応に遇うので、すでに三年後であり、「三歳覿らず」という。初六の受ける困の久しさが見える。『小象』にいう「幽谷に入るは、幽にして明ならざるなり」――坎は離の反象であり、離は光明を主り、坎は幽暗不明を主る。

九二:困于酒食,朱紱方來,利用亨祀,征凶,無咎。陽剛受困則與陰異。二為坎中,坎為酒,是困于酒食也。夫酒何自來哉?二自否之上來,否下為坤,坤為裳象紱,紱,祭服也;否以乾上來居坤中,乾為大赤,是為朱紱,朱紱外來加之於身。坎為宮室,又為鬼神,二衣朱紱以入坎宮,祀此坎神,祭畢分胙以饗餕餘,故有此困也。困則近凶,似不可往,不知雖有醉飽之凶,實有享祀之利,征凶亦無咎也。象曰:困于酒食,中有慶也。得中故有慶。

九二の爻辞にいう、酒食の間に困み、朱き祭服がまさに送られて来る。祭享を行うに宜しく、進めば凶あるも咎なし。多隆阿によれば、陽剛の受ける困は陰柔と情況が異なる。九二は坎体の中に居り、坎の取象は酒であるので酒食に困むという。この酒はどこから来たのか。九二は否卦の上爻から下って来たもので、否卦の下体は坤、坤は裳に取象し、すなわち「紱」――紱は祭祀の礼服である。否卦は乾の上爻を下して坤体の中に居らしめ、乾は大赤色に取象するので、合わせて「朱紱」となる。朱紱は外から送られて身に着ける。坎はまた宮室・鬼神に取象し、九二は朱紱を着て坎宮に入り、この坎神を祭る。祭が終われば祭肉を分け余った酒食を食べるので、この「酒食に困む」という説がある。困を受ければ凶に近く、往くべからずと思えるが、しかし酔飽の凶はあっても実は祭享の利があることを知らない。ゆえに進めば凶なれど咎なしという。『小象』にいう「酒食に困むは、中に慶あればなり」――九二は中位を得たので福慶がある。

六三:困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。三亦陰柔而居上下二陽之間。前為正兌,兌於地為剛滷,象石,是前進已困于石;今居坎上,九家易曰坎為蒺藜,是退守所據者又為蒺藜。坎又為宮,坎位已盡,互巽為入,是為入于其宮。坎以離為妻,而坎與離反,互離之目與互離之妻俱非真象,故曰不見其妻。此困之至極者。象曰:據于蒺藜,乘剛也;入于其宮,不見其妻,不祥也。名辱身危,死期將至,故不祥也。

六三の爻辞にいう、大石に遮られ、退いて疾藜(しつりつ)の上に坐り、家に帰っても妻に見えず、凶。多隆阿によれば、六三も陰柔の質で、しかも上下二つの陽爻に挟まれている。その前は本体の兌で、兌は地象として堅硬の鹸鹼の地、取象は石である。前へ進めばすでに大石に困まれている。今や坎体の上に居り、『九家易』によれば坎の取象は疾藜であり、退いて凭据するのはまた疾藜である。坎はまた宮室に取象するが、坎の位置はここで尽き、互体の巽には「入」の義があり、合わせれば「その宮に入る」となる。坎は離を妻とするが、坎と離はまさに相反し、互体離の目・互体離の妻はいずれも真実の象ではないので「その妻に見えず」という。これは困の極まった情状である。『小象』にいう「疾藜に拠るは、剛に乗ればなり。その宮に入りてその妻を見ざるは、祥ならざるなり」――名声が辱められ危境に身を置けば、死期が将に至らんとするので不祥という。

九四:來徐徐,困于金車,吝,有終。四應於初,下求正應而來。曰徐徐者,以困故也。馬氏曰:徐徐,安行貌。巽為進退,象徐徐。四為兌金,初為坎輿,四降來初,為坎所困,故曰困于金車。困則有吝,而陽剛有為,不長受因,故有終也。象曰:來徐徐,志在下也;雖不當位,有與也。下謂初,有與,有應也。

九四の爻辞にいう、徐徐として下り、金車に困まれ、困吝あるも終わりに結果あり。多隆阿によれば、九四は初六と応じ、下に向かってその正応を求めて来たものである。「徐徐」と言うのは困を受けたゆえである。馬融(ばゆう)によれば、「徐徐」とは従容として緩やかに行く貌である。巽は進退不定を主り、まさに徐徐の象に合する。九四は兌に属し、兌は金。初六は坎に属し、坎は車輿である。九四が初位に下降して坎に困まれるので「金車に困む」という。困を受ければ困吝があるが、陽剛の才は有為であり、長く困まれはしないので終わりに結果がある(底本の「不長受困」の「困」は「因」の誤り)。『小象』にいう「来ること徐徐は、志下に在ればなり。位当たらざると雖も、与あるなり」――「下」とは初六を指し、「与あり」とは応じる対象があることである。

九五:劓刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。五為兌中,兌下伏艮為鼻;五又為互巽為股。兌刑艮鼻為劓,兌刑巽股為刖。虞氏曰:兌為刑。既劓且刖,困非輕矣。然小人之困乃窮,而君子之困終亨。五以陽居陽位,當在否卦則五為乾,乾為衣為大赤,是為赤紱,故曰困于赤紱。變乾為兌,兌為說,是為徐用說;兌又為巫,巫主禱祝,是為祭祀。人至於困,猶能衣此赤紱,容止和說,以祀神祇,是世途雖困其身,而鬼神實歆其德,人不克知而天知之,君子豈長困哉。象曰:劓刖,志未得也;乃徐有說,以中直也;利用祭祀,受福也。志未得者,二陽不應,未得九二之坎志也。中直者,陽剛得位中直,自能濟困,乾為直也。祭祀受福,是鬼神佑之,困而亨也。

九五の爻辞にいう、鼻割き足断ちの刑を受け、赤き祭服に困まれ、徐々にして後に解脱を得る。祭祀を行うに宜しい。多隆阿によれば、九五は兌体の中に居り、兌の下には艮が潜伏し、艮は鼻に取象する。九五はまた互体の巽中に処し、巽は股に取象する。兌は刑を主り、艮鼻に施せば「劓」(鼻割き)であり、兌は刑を主り巽股に施せば「刖」(足断ち)である。虞翻によれば、兌の取象は刑である。鼻を割き足を断たれるのは受ける困として軽くない。しかし小人が困を受ければ真に絶路に至るが、君子が困を受ければ最終的に亨通する。九五は陽爻をもって陽位に居り、もとの否卦においては第五爻は乾に属し、乾は衣・大赤色に取象し、合わせれば「赤紱」となるので「赤紱に困む」という。乾が兌に変じ、兌は喜悦を主るので、これが徐々に解脱を得ることである。兌はまた巫に取象し、巫は祷祝を司るので「祭祀」である。人が困境に至っても、この赤き祭服を着て、挙止従容にして和悦に神祇を祭る。世の道はその身を困めるが、鬼神は実にその徳を歆饗する――人は彼を知らなくても天は彼を知る。君子が長く困まることがあろうか。『小象』にいう「劓刖は、志未だ得ざればなり。乃ち徐に説あるは、中直を以てなり。祭祀に用いるに利あるは、福を受くればなり」――いわゆる志未だ得ざるとは、二つの陽爻が応じず、九五が九二の坎体の心志の助けを得られないからである。いわゆる「中直」とは、陽剛が位を得て中に居り正直であるので、自ずから困厄を済度できることをいい、乾の取象は直である。祭祀して福を受くるは、鬼神が彼を保佑するので、困ありながら終に亨通する。

上六:困于葛藟,于臲卼,曰動悔,有悔,征吉。上六陰柔亦受困者,而吉不與初三同占,以卦爻已盡,困將解也。上應三,三為互巽,虞氏曰巽為葛藟,故曰困于葛藟也。既已受困,便不能安,臲卼固宜。臲卼,不安貌。夫人惟安於困中斯已耳,倘動生悔心,則悔已有於己,悔既有矣,則思前徵,不坐守則出乎困而得吉矣。象曰:困于葛藟,未當也;動悔有悔,吉行也。行,征也,行則不為葛藟所困矣。

上六の爻辞にいう、葛藟(かつるい)に纏まわれ、動揺して安からざる中に処る。心の中で動けば悔いありと言い、すでに悔いの意あるならば、往けば吉。多隆阿によれば、上六は陰柔で同じく困を受けるが、その占断の吉は初六・六三と異なる。卦の爻位がすでに尽き、困局がまさに解かれようとしているからである。上六は六三と応じ、六三は互体の巽に属し、虞翻によれば巽の取象は葛藟なので「葛藟に困む」という。困を受けた以上、安穏ではいられず、動揺して安からぬは当然である。「臲卼(げつご)」とは安からぬ貌である。人がひたすら困境に安んじれば、それで終わりである。もし動いて悔改の心を生じれば、悔意はすでに自らの心中にある。悔意があれば前に進もうと思い、坐して死守せずに困境を出て吉を得る。『小象』にいう「葛藟に困むは、当たらざればなり。動きて悔い悔い有るは、吉行なればなり」――「行」とは「征」であり、肯んじて前に進めば葛藤に纏われることはない。

井(せい)の卦

【巽下坎上,中互離兌】泰。井為三陽三陰卦,自泰來。荀氏曰:此本泰卦,陽往居五,陰來在下。虞氏曰:泰初之五也。井:改邑不改井,無喪無得,往來井井,汔至亦未繘井,羸其瓶,凶。巽下坎上,卦名曰井。邑為居井之地,邑改而井不改。卦自泰來,泰初易五,原無所喪;泰五易初,亦無所得。無所得喪而猶上下往來者,往為井,來亦為井也。汲水之具為繘,繘,綆也;汲水之器為瓶,瓶,雝□缶也。倘於汲水之時,繘尚未盡而瓶忽羸敗,則失井水養人之義,故曰凶。

「井」の卦は下体が巽、上体が坎。第二爻から第四爻までが互いに兌を成し、第三爻から第五爻までが互いに離を成す。これは「泰」の卦から変じたものである。井は三陽三陰の卦で、泰卦と陰陽の数が同じである。荀爽によれば、この卦はもと泰卦であり、陽爻が上って第五位に居り、陰爻が下って初位に居ったものだという。虞翻によれば、泰卦の初爻が第五位に上ったものだという。卦辞にいう、城邑は遷改できるが水井は改められない。井水は減りもせず増えもせず、往き来りする人はみなこの井を汲む。水が打ち上がろうとするのに、縄がまだ井口から出ず、瓶が破れれば凶。多隆阿が解説するには、巽下坎上、卦名は「井」。城邑は水井のある居地であり、邑は改められるが井は改められない。卦は泰卦から変じた。泰卦の初爻が第五位に換わっても本来損失はなく、泰卦の第五爻が初位に換わっても獲得はない。得もなく失もないのに上下に往来するのは、上に往けば井であり、下に来ても井だからである。水を汲む索を「繘(きゅつ)」といい、繘とは井縄である。汲水の容器を「瓶」といい、瓶とは瓦缶の一種である(底本ここに一字欠く)。もし水を汲む時に縄がまだ提げ尽くされないうちに瓶が忽ち破損すれば、井水が人を養う義を失うので凶という。

彖曰:巽乎水而上水,井,井養而不窮也。改邑不改井,乃以剛中也。汔至亦未繘井,未有功也。羸其瓶,是以凶也。卦之所以名井者,坎為水,巽為木,巽木取坎水,鄭氏所云桔槔是也,故象井。蓋井自泰來,以乾之初易坤之五,坤為邑,是為改邑;坤為地,坎為水,坤地成坎,坎中有水,乾初之剛往居坎中,水得坎中,是為不改井。

『彖伝』にいう、木器を水中に深入させて水を提げ上げるのが井である。井は衆を養って窮まりなし。「邑を改めて井を改めず」は、陽剛が中に居るからである。「汔(ほぼ)至れども亦未だ井を繘せず」は、功夫がまだ終わっていないことをいう。「其の瓶を羸(か)う」ゆえに凶あるのである。多隆阿が解説するには、この卦を「井」と名づけたのは、坎の取象は水、巽の取象は木であり、巽木をもって坎水を取る、すなわち鄭玄のいう桔橰(けっこう、汲水の梃子)だから、井に取象したのである。井卦は泰卦から変じた。乾の初爻をもって坤の第五爻と換え、坤は邑に取象する――これが「邑を改む」である。坤は地に取象し、坎は水に取象し、坤地が坎に変じ、坎の中に水があり、乾初の剛爻が上って坎の中位に居れば、水は坎中の剛を得る――これが「井を改めず」である。

初為陽位,五亦陽位,泰初居五,仍是以陽居陽,陽原無喪;泰坤之五下降來初,陰在五為失位,陰在初亦為失位,陰亦無得。無喪無得而往來如此者,初陽往五,往始變坤為坎,往原為井;五陰來初,陰來成巽,坎中之水惟巽木能出之,來亦為井也。

初位は陽位であり、第五位も陽位である。泰卦の初爻が上って第五位に居るのは、依然として陽爻が陽位に居るので、陽は本来損失がない。泰卦の坤体の第五爻が初位に下降するのは、陰爻が第五位にあるのは位を失い、陰爻が初位にあるのも同じく位を失うので、陰にも獲得はない。損失もなく獲得もないのにこのように上下に往来するのは、初爻の陽が第五位に上がる、その一往が坤を坎に変じたので、「往」それ自体が井であり、第五爻の陰が初位に下る、その一来が巽を成したので、坎中の水は巽木に依らなければ提げられない。ゆえに「来」も井なのである。

然井水之出,必需於瓶;而瓶之取水,又需於繘。巽為繩,互離為瓶,離為大腹中虛,故象瓶。用繩繫瓶以取井水,幾至井口而繩未盡,上逢互兌,兌為毀折,繩弱失瓶,瓶失則失井水養人之義,故凶。汔,幾也。繩弱不勝瓶,故幾至井口,繩弱瓶羸而失水也。象曰:木上有水,井,君子以勞民勸相。木上取水,井之象也。井水有利,宜鑿之浚之;如民與相有功,宜勞之勸之。泰坤變坎,坤為民,坎為勞,故曰勞民;泰乾變巽,乾為君稱相,巽為令稱勸,故曰勸相。

しかし井水を打ち上げるには瓶に依らなければならず、瓶が水を取るにはまた縄に依らなければならない。巽の取象は縄であり、互体の離は瓶に取象する――離の形は大腹にして中空なので瓶に似る。縄で瓶を繋いで井水を汲み、間もなく井口に至ろうとするのに縄がまだ提げ尽くされず、上に互体の兌に遇う。兌は毀折を主り、縄が弱って瓶が落ち、瓶が失われれば井水が人を養う義を失うので凶である。「汔」とはほぼ・将に近しの義である。縄が十分に堅牢でなく瓶を支えられないので、井口に近づいた時に縄が弱って瓶が破れ、水を失うのである。『象伝』にいう、木器の上に水あるは井の卦である。君子はこれに法り、百姓を慰労し、互いに助け合うよう勉励する。多隆阿によれば、木器の上から水を取り上げるのが井の取象である。井水は人に利があるので、それを開鑿し疏浚すべきである。ちょうど百姓と輔佐の者に功労があれば、彼らを慰労し勉励すべきであるように。泰卦の坤が坎に変じ、坤は民に取象し、坎は労に取象するので「民を労う」という。泰卦の乾が巽に変じ、乾は君で「相」と称し、巽は号令で「勧」と称すので「勧相」という。

初六:井泥不食,舊井無禽。初為井下,井下惟泥,泥豈可食?初自泰之五來,泰之初陽上往居五,故卦名井,是五坎為新井,而初為坎舊居之所,乃舊井也。新井在上為水,舊井在下為泥,如此井泥,非惟人不之食,即飛鳥亦無至者,水禽亦無,是無水也。虞氏曰:離為飛鳥。四為互離,初四兩陰不應,故曰無禽。此井之不能養人者。象曰:井泥不食,下也;舊井無禽,時舍也。

初六の爻辞にいう、井底は泥濘で食用にならず、廃れた旧井には鳥獣も来ない。多隆阿によれば、初六は井の最下にあり、井底には泥があるばかりで、泥がどうして食べられようか。初六は泰卦の第五爻から下って来たもので、泰卦の初爻は上って第五位に居ったので、卦名は井となった。このように第五爻のある坎は新井であり、初位は坎のもと居たところで旧井となる。新井は上にあって水があり、旧井は下にあって泥のみが残る。このような泥濘の井は、人が食用しないばかりか、飛鳥も来ず、水禽もいない――全く水がないからである。虞翻によれば、離の取象は飛鳥である。第四爻は互体の離に属し、初と四の二つの陰爻は応じないので「禽なし」という。これは井が人を養えない情形である。『小象』にいう「井泥食さられざるは、下なればなり。旧井に禽なきは、時に舍てられたればなり」――最下に処し、また時勢に廃棄されたからである。

九二:井谷射鮒,甕敝漏。初為井泥,二在初上則有水矣。然位尚卑下,如井泉之在山谷,無人汲取,僅有鮒魚往來穿射。鮒,魚名,鯽也,惟喜偎泥,山澗水中多有之。虞氏曰:巽為谷為魚,故云井谷射鮒。夫二為正巽,前應互離互兌,離為甕,甕遇兌毀則甕敝矣。甕敝水漏,人將何食?二有水不能養人,亦與初不相遠耳。象曰:井谷射鮒,無與也。

九二の爻辞にいう、井は山谷の泉眼のようで、小魚だけがその中を窜游し、汲水の瓮は破れて水は漏れ尽くした。多隆阿によれば、初六は井底の泥濘で、九二はその上にあるので水がある。しかし位置はなお低下しており、山谷中の泉水のようで、汲みに来る人はなく、鮒魚だけがその中を往き来して穿游している。「鮒」とは魚の名で、すなわち鯽魚であり、泥に贴りつくことを好み、山涧の水に多い。虞翻によれば、巽の取象は谷・魚なので「井谷に鮒を射る」という。九二はもと巽体に属し、前に互体の離と互体の兌とに対している。離は瓮に取象し、瓮が兌の毀折に遇えば瓮は破れる。瓮が破れ水が漏れれば、人は何をもって食し用いようか。九二は水ありながら人を養えず、初六と大して変わらない。『小象』にいう、井が山谷の泉眼のようで小魚が窜游するのみは、上に応与がなく汲みに来る人がいないからである。

九三:井渫不食,為我心惻,可用汲,王明並受其福。三為井中。向氏曰:渫,浚治去濁泥也。井渫自足養人,而未及互兌之口,水未出井,故曰不食。渫固可食而人不之食,是有代為我惻者,我,三也。惻之不已,於是又默思曰:此井乃可用汲取者。三至五為互離,五君為王,離為明,倘得王明,則眾並受井渫之福,蓋求之甚殷矣。象曰:井渫不食,行惻也;求王明,受福也。行惻者,行人代為惻也;受福者,受井水之養也。

九三の爻辞にいう、井はすでに淘め清められたのに食べる人がなく、わが心を傷ませる。この井は本来汲んで用いられるべきもので、もし君王が賢明ならば、皆ともに福を受けよう。多隆阿によれば、九三は井の中部に処す。向秀(こうしゅう)によれば、「渫(せつ)」とは疏浚し淘み清め、污泥を除くことである。井はすでに淘め清められ、本来人を養うに足るが、まだ互体兌の井口に至らず、水が井を出ていないので「食さられず」という。淘め清められて本来食べられるのに、人が来て食べないので、ある人が私のために傷む――「我」とはすなわち九三である。傷む余り、また黙って思うには、この井は本来汲んで用いられるべきものである、と。第三爻から第五爻は互いに離を成し、第五爻は君位で王であり、離の取象は明である。もし賢明の君王に遇うことができれば、衆人はともにこの淘め清められた井の福沢を受ける。これは求めること甚だ切なる口調である。『小象』にいう「井渫して食さられざるは、行きて惻たればなり。王明を求むるは、福を受けんがためなり」――いわゆる「行惻」とは、行き過ぎる人がそれのために傷むこと。いわゆる「受福」とは、井水の養育を受けることである。

六四:井甃,無咎。四為互兌之口,是修治井口以待汲者。甃,井壁也。干氏曰:以磚壘井曰甃。四在泰為坤,今變為坎,坤土和坎水,居互離之間,火燒土器,故曰甃。夫井本宜修,甃以修之,如有過之能補也,故曰無咎。象曰:井甃無咎,修井也。九五:井冽寒泉食。五為坎中曰泉。五自泰乾之初來,乾為寒,冽,寒氣也,泉水多寒,寒泉水清,故曰寒泉;出於兌口之上,故曰食。井至此,蓋能濟人矣。象曰:寒泉之食,中正也。

六四の爻辞にいう、磚石をもって井壁を甃(めぐ)らせば咎なし。多隆阿によれば、第四爻は互体兌の井口で、これは井口を修治して汲水の人を待つものである。「甃」とは井壁である。干宝(かんぽう)によれば、磚をもって井を砌るを「甃」という。第四爻は泰卦において坤に属し、今や坎に変じた。坤土が坎水を調和し、また互体離の間に処し、火をもって土器を焼き成すので「甃」(磚)という。井は本来修治すべきもので、磚石をもって砌り固めるのは、人に過失あって能く補救するようなもので、咎なしという。『小象』にいう、井壁を甃りて咎なきは、この井を修整するがゆえである。九五の爻辞にいう、井水は清冽にして、寒泉は飲用に供すべし。多隆阿によれば、第五爻は坎体の中に居るので「泉」と称す。第五爻は泰卦乾体の初爻から上って来たもので、乾の取象は寒であり、「冽」とは寒気である。泉水は多く清寒であり、寒泉は水質が清澈なので「寒泉」という。水は兌口の上に出るので「食」という。井はこの歩に至ってこそ、真に人を済済することができる。『小象』にいう、寒泉が飲用に供されるのは、九五が中にして正なるがゆえである。

上六:井收勿幕,有孚元吉。井至於上,水已出井以養人矣。巽木在下,桔槔不移,是為井收。陸氏曰:收,井乾也。泉水已出而坎缺仍在,是為勿幕。虞氏曰:幕,井蓋也。井收以待用,勿幕以待汲,此彖傳所云井養不窮者,是有坎孚,故元吉也。象曰:元吉在上,大成也。

上六の爻辞にいう、井の上に護欄があって蓋をせず、誠信を懐いて大いに吉。多隆阿によれば、井が上爻に至れば、水はすでに井を出て人を養う。巽木が下にあり、桔橰は架かって動かない。これが「井を收む」である。陸績(りくせき)によれば、「收」とは井欄(井干)である。泉水はすでに湧き出でて、坎の缺口はなお開いている。これが「幕する勿れ」である。虞翻によれば、「幕」とは井蓋である。井欄を設けるのは備用のためであり、蓋をしないのは随時汲めるようにするためである。まさに『彖伝』のいう「井養にして窮まらず」である。坎の誠信あるがゆえに大吉である。『小象』にいう、大吉にして上位に居るは、井道の大功が成ったのである。

革(かく)の卦

離下兌上,中互乾巽。大壯。革為四陽二陰卦,自大壯來,大壯五來之二。虞氏謂遯上之初,而卦辭爻辭無取遯義。革:己日乃孚,元亨利貞,悔亡。革,改革也,變革也。改變舊制,人不遽信,必至己日而人乃孚。革以求通,惟有利和乃致大亨。革易有悔,惟守正貞則悔乃亡。是革原有不可輕言者。

「革」の卦は下体が離、上体が兌、中間に乾卦と巽卦を互出する。四陽二陰の卦に属し、「大壮」から変じた。「大壮」の九五が第二位に降れば「革」となる。虞翻は「革」は「遯」卦の上爻が初位に落ちて成ったと言うが、「革」の卦辞・爻辞には「遯」卦の意が少しも取り出せないので、この説は通らない。卦辞にいう、「革、己日にして乃ち孚あり、元亨利貞、悔亡」。いわゆる「革」とは改革・変革である。旧制度がいったん更改されても、人々はすぐには信服せず、必ず「己日」を待ってこそ人心が帰附する。変革は通達を求めるためであり、利・和順を為してこそ大きな亨通を招来できる。変革はもともと悔恨を残しやすく、正道を守り定めてこそ悔恨が消える。見れば変革という事は、本来軽々しく口にできるものではない。

彖曰:革,水火相息,二女同居,其志不相得,曰革。己日乃孚,革而信之。文明以說,大亨以正,革而當,其悔乃亡。天地革而四時成,湯武革命,順乎天而應乎人。革之時大矣哉!夫子釋之曰:兩物相剋曰革,兩人相病亦曰革。卦為上兌下離,離火炎上,澤水就下,則相熄以戕其生;少女僭上,中女屈下,則同居各異其志。蓋不第上火下澤僅止睽違已也。夫睽則求其終合,而革必求其至當,物理有然,人事亦有然。是以改變之事不可輕遽,必先有孚於人,濟以離明,體以兌說,然後乃大亨而正,不至有悔。

『彖伝』にいう、「革は水火相息(あい息く)、二女同居してその志相得ず、曰く革なり。己日にして乃ち孚とは、革めてこれを信ぜしむるなり。文明を以て説び、大いに亨りて正を以てす。革めて当たればその悔い乃ち亡ぶ。天地革めて四時成り、湯武の革命は天に順い人に応えり。革の時大なるかな」。孔子はこのように卦名を解釈する。二つの物が互いに克制するのを「革」といい、二人が互いに害するのも「革」という。この卦は上体が兌沢、下体が離火で、火の性は上に向かって燃え、沢水は下に流れ、両者が遇えば互いに撲滅し、相手の生機を傷つける。兌は少女なのに上に居り、離は中女なのにかえって下に屈居し、同じ屋に住みながら各々の心思を存する。ゆえに「革」の対立は、「睽」卦のような彼此背離だけではない――「睽」卦が求めるのは最終的に再び合うこと、「革」卦が求めるのはちょうど良く変わることである。事物の理はこのようであり、人間の事もまたこのようである。ゆえに旧制を改動する事はすべて軽率に急進してはならず、まず人に信を取り、離卦の明察をもってそれを成し遂げ、兌卦の和悦をもって立身の根本とし、然る後に大いに亨通して正道に合し、悔恨を残さないのである。

其曰己日乃孚者,己於五行屬土,土主信,信即孚也。且離兌相剋,火金濟之以土始得相和,故曰己日乃孚也。推之春改為夏,秋改為冬,亦革也;夏變為殷,殷變為周,亦革也。春夏秋冬曰四時,惟革而四時乃成。大壯上震為春,下乾為冬,易為兌離,離為夏,兌為秋,四時變革象也。

卦辞が「己日乃孚」と言うのは、天干の「己」が五行において土に属し、土は五常において「信」を主り、「信」はすなわち「孚」だからである。しかも離火と兌金はもともと相克し、火と金の間に土が居中して調停しなければならず(火は土を生じ、土は金を生ず)、そうして初めて彼此が相和するので「己日乃孚」という。この道理を推し広めて見れば、春が夏に改まり、秋が冬に改まるのは「革」であり、夏朝が殷商に変わり、殷商が周朝に変わるのも「革」である。春夏秋冬を合わせて「四時」と称し、更革交替があるがゆえに四時が完成される。卦変について言えば、「大壮」の上体は震で震は春を主り、下体は乾で乾は冬を主る。「革」に変じて後は兌と離となり、離は夏を主り、兌は秋を主る――まさに四時の更替変革の卦象である。

大壯之五為陰,自乾二易五,乾為命,是為革命;陽居尊位,是為大人,湯武之象。殷周開創之君曰湯武,必順天應人而後乃言革命。五為天位,三四人位,就三之革言孚,四之改命,順天應人象也。倘非春秋代謝之時,天地不能遽革;倘非桀紂亂極之時,湯武亦不敢輕革。革之時固大也。

「大壮」の第五爻は本来陰爻であり、乾体の第二爻がそれと対調して上って五位に居る。乾は象数において「天命」を代表し、陽爻が陰爻に代わって君位に居るのが「革命」である。陽剛が尊位を占めるのは『彖伝』のいう「大人」で、まさに商湯・周武王の象である。殷・周両代の開国之君は湯と武であり、彼らは必ずまず上は天意に順い下は人心に応えてこそ、敢えて「革命」の二字を言うことができた。六爻において第五爻は天位、三・四の両爻は人位である。九三の「革言三就、有孚」から人心の信従を語り、九四の「改命」から天命の更改を語り、合わせてまさに「天に順い人に応える」の卦象である。もし春去り秋来る、節気が自然に更替する時でなければ、天地も驟然と変革できない。もし夏桀・商紂の暴乱が極に至った時でなければ、湯・武も軽々しく変革を言えなかった。見れば「革」の講究する時機は、実に重大なものである。

象曰:澤中有火,革。君子以治曆明時。澤水熄火,革之象也。君子治曆明時,亦有所變革以成之。虞氏曰:兌為書契曆象,互巽位東南,互乾位西北,在春夏秋冬之交,時象;兌決以治之,離文以明之。初九:鞏用黃牛之革。革貴得時,又貴得位。初居下位,上無正應,雖有剛德,不可妄為,堅固自守乃其分也。以韋束物曰鞏。干氏曰:離為牝牛,離爻本坤,黃牛之象也。在革之初而無應據,未可以動,故鞏用黃牛之革。物之堅韌者莫如牛革,以之束物,其固可知。聖人不輕言革,蓋如此。象曰:鞏用黃牛,不可以有為也。

『大象伝』にいう、「沢の中に火あり、革なり。君子は以て暦を治め時を明らかにす」。沢中の水が火を撲滅するのが「革」の象である。君子はこれに依り暦法を修訂し時令を辨明する。暦法もまた絶えず修改校正を経てこそ完成されるからである。虞翻が解釈するには、兌卦は文書契券と推歩暦象の事を代表し、互体の巽卦は位が東南にあり、互体の乾卦は位が西北にあり、まさに春夏と秋冬の交接の方位上にある。これが「時」の象である。兌には決断の義があり、それをもって暦法を釐定し、離には文明の義があり、それをもって時令を闡明する。初九の爻辞にいう、「黄牛の革を用いて鞏めよ」。変革は時機に及ぶことを貴び、また適切な位置を占めることを貴ぶ。初九は全卦の最下の位に処し、上に正しく応ずる爻もなく、それ自体に陽剛の徳があるとはいえ、軽挙妄動してはならず、牢く自らを守るのが本分である。熟した牛皮で物を捆紮することを「鞏」という。干宝によれば、離卦は母牛であり、離卦の爻画はもと坤卦から来て、坤の色は黄なので「黄牛」の象がある。変革の始まったばかりの時に処し、応爻もなく憑拠もなく、まだ行動できないので、「黄牛の革を用い」て自らを捆緊する。物件の中で最も堅靭なのは牛皮に如くものはなく、それをもって捆紮すればその牢固さは推して知るべし。聖人が軽々しく変革を語らないのは、まさにこの意である。『小象伝』にいう、「黄牛を用いて鞏めるは、以て有為とすべからざるなり」。

六二:己日乃革之,征吉,無咎。二自大壯之五來,大壯之五為震,震納庚,庚更也,更即革也。蓋二較初則有為。在大壯雖為震,在革實為離,離納己,時雖宜革,日猶有待,惟至己日乃可革,是至己日乃可征吉無咎也。革至於二猶如此其慎也。象曰:己日革之,行有嘉也。行,征也;嘉,吉也,釋征吉也。

六二の爻辞にいう、「己日にして乃ちこれを革む。征すれば吉、咎なし」。この爻は「大壮」の第五爻が降りて来たもので、「大壮」の五爻のある上体は震であり、納甲の法では震は天干の「庚」を納する。「庚」には更改の義があり、更改とはすなわち変革である。見れば六二は初九に比べて、すでに有為である。ただそれは「大壮」では震に属したが、「革」卦においては実はすでに離に属し、離は天干の「己」を納する。時勢はすでに変わるべきだが、日はなお待たなければならず、必ず「己日」を待ってこそ手を下して改めることができる。ゆえに己日に至って出れば吉で咎がない。変革が第二爻まで推進しても、なおこのように謹慎である。『小象伝』にいう、「己日にこれを革むは、行きて嘉あればなり」。「行」とは爻辞の「征」であり、「嘉」とは「吉」であり、この句は「征吉」の二字を解釈している。

九三:征凶,貞厲,革言三就,有孚。三為內卦之終,可以革矣。然五為革主,三非其位,前征則凶;而時既當革,不宜失時,守貞又厲。然則宜如何也?蓋三為臣位,革之見於事業為革命,革之著於籲謨為革言。三至五為互乾,乾為言,以宜革之言歷互乾之三,就正於五,三就而後有孚。如此則無守貞之厲,亦無前征之凶矣。象曰:革言三就,又何之矣。之,往也。何之者,言何不可往也。

九三の爻辞にいう、「征すれば凶、貞なれども厲し。革言三就にして孚あり」。九三は下卦の末尾に処し、本来変革すべき時に至っている。しかし変革を主持するのは九五であり、九三はその位にいない。冒然と前進すれば凶がある。しかし時勢がすでに変わるべきなのに時機を逸してはならず、ひたすら守って動かないのも同じく危険である。ではどうすべきか。九三は臣子の位であり、変革が事功に落実すれば「革命」と言い、変革が建言献策に表れれば「革言」という(「吁謨」とは大計謀のことで、『詩経』に出る)。三爻から五爻まで互いに乾卦を成し、乾は言語である。変革すべき主張を互乾の三つの爻に順って層層上達させ、九五に裁正を請い、反復三回陳説して後に君上の信任を得る。こうできれば、死守して動かない危険もなく、冒然と前進する凶もない。『小象伝』にいう、「革言三就、又何くんか之かん」。「之」は前往の義であり、「何之」とはまだどこへ行けないところがあるか、ということである。

九四:悔亡,有孚改命,吉。四為兌澤,可以熄火,有革之能;四為陽剛,可以任事,有革之才;四為外卦且近君位,有革之時。此彖傳所謂革而當者,悔亡宜矣。而四為陽,實為互乾之中,陽之孚、乾之命皆備於四,故曰有孚改命。夫當未革之前則謂之革,既革之後則謂之改。革莫大於改命,確有可信,不事游移,故吉。象曰:改命之吉,信志也。

九四の爻辞にいう、「悔亡、孚ありて命を改むれば吉」。九四は上体兌沢に属し、下の離火を撲滅することができ、変革の能力を具える。それは陽爻にして剛健で、事務を担当することができ、変革の才干を具える。それはすでに外卦に入り、また君位に貼近し、まさに変革の時機に遇っている。これが『彖伝』のいう「革めて当たる」であり、悔恨が消えるのは当然である。しかも九四は陽爻で、ちょうど互体乾卦の中間に処し、陽剛の誠信と乾卦の主る「天命」とが皆この一爻に聚まるので、爻辞は「有孚改命」という。知るべきことは、事がまだ変動する前を「革」といい、すでに変動した後を「改」という。そして一切の変革の中で最も重大なのは天命の更改に如くものはなく、この時まさに憑信すべき根拠があり、迟疑观望しないので吉である。『小象伝』にいう、「命を改むるの吉は、志を信ずるなり」。

九五:大人虎變,未占有孚。四之改猶是改舊,五之變則已更新,革至於變,漸彌改革之跡矣。五以陽居陽位,為革之主,又自大壯之二來,以正乾變互乾,乃大人也。大人首出庶物,改正朔,易服色,修法制,移風俗,掃除積弊,煥然一新,觀其威可服人,才足治世,惟虎之變可以喻之。五居兌中,兌為白虎稱虎,兌丁秋令,鳥獸毛毨,故曰虎變。虎變有其文,大人之變亦有其孚,蓋其積誠有素,故不待占決而天下自信也。馬氏曰:虎變威德折衝萬里,望風而信,得未占有孚意矣。象曰:大人虎變,其文炳也。

九五の爻辞にいう、「大人虎変す。未だ占せずして孚あり」。九四の「改」はまだ旧きを改めただけであり、九五の「変」はすでに全く新しいものに換えたのである。変革が「変」の歩に至れば、改革過程の痕跡も次第に彌合して見えなくなる。九五は陽爻をもって陽位に居り、全卦の変革の主爻であり、また「大壮」の第二爻が昇って来たもので、本体の乾から互体の乾に変じたので「大人」と称す。大人は万物の上に挺立し、暦法正朔を更改し、車服の顔色を変換し、法度制度を修訂し、民間の風俗を移易し、積久の弊病を一掃し尽くして、天下の面目を焕然一新せしめる。その威勢を見れば人を心服せしめるに足り、その才具を見れば世を治めるに足る――このような気象は、虎が毛を換える様にのみ比すべきである。九五は兌卦の中に居り、兌は星象において白虎なので「虎」と称す。兌はまた天干の「丁」を納し、秋季の時令を主り、まさに『尚書・尭典』のいう「鳥獣毛毨(とうせん)」(鳥獣が毛を換えて毛色が整う)の時であるので「虎変」という。虎が毛を換えれば斑斕の花紋があり、大人が変革すれば自ずから人を信服せしめる誠意がある。彼が平日積み重ねた誠信は早くから根底があるので、占卜して疑を決する必要がなく、天下人は自然に信従する。馬融によれば、虎は一変して威徳が万里の外を折冲するに足り、人々はその風采を望んで信伏する――まさに「未占に孚あり」の意に中った。『小象伝』にいう、「大人の虎変は、その文炳としてなり」。

上六:君子豹變,小人革面,征凶,居貞吉。世當改革之初,天命維新,人亦滌舊。其次於大人者為君子,而君子之變如豹然。陸氏曰:兌之陽爻稱虎,兌之陰爻稱豹,豹類虎而小者也。又有順從大人者為小人,小人之賦稟既偏,小人之改變亦異,雖不能遽化其心,而已能暫革其面。蓋位為首,兌為附決,故云革面。夫時不宜革,固不可妄革;至革道已成,又不宜屢革。革命之事,原非得已,既已又安,不宜更張重擾生民,不宜征而宜居,故曰征凶居貞吉也。象曰:君子豹變,其文蔚也。小人革面,順以從君也。豹之變既異於虎,故其文亦與虎異。五應離中,其文如火之明,故曰炳,炳,火明也;上應互巽,其文如草之盛,故曰蔚,蔚,草盛貌。順以從君,陰順從五陽也。

上六の爻辞にいう、「君子豹変し、小人は面を革む。征すれば凶、居りて貞なれば吉」。時世はまさに改革の初めに当たり、天命は焕然として更新され、人心もまた旧染を洗い去っている。「大人」に次ぐ地位は君子であり、君子の変化は豹が毛を換えるようなものである。陸績によれば、兌卦の陽爻を虎と称し、兌卦の陰爻を豹と称し、豹は同類で体型の小さい猛獣である。このほかにただ大人に順従することのみを知る普通の百姓がおり、それが「小人」である。小人の天賦秉性はもともと偏枯しており、彼らの改変の仕方も異なり、すぐに心地を改換することはできないが、すでに一時面貌を改換することはできる。上爻の位置は人身において頭面であり、兌はまた附着・決開の象があるので「面を革む」という。要するに、時機が変革すべきでないのに胡乱に変えてはならず、変革の道がすでに完成した後も反復して再び変えてはならない。革命はもともと已むを得ざるに出たもので、すでに変えて安定した以上、再び改弦更張して新たに百姓を驚擾してはならない――再び前に推進すべきでなく、安居して正を守るべきである。ゆえに「征すれば凶、居りて貞なれば吉」という。『小象伝』にいう、「君子の豹変は、その文蔚としてなり。小人の面を革むるは、順にして君に従うなり」。豹の変化は虎と異なるので、その身上の花紋も虎と同じでない。九五は下に離卦の中に応じ、離は火であり、その文采は火光のように明亮なので「炳」の字をもって形容する――「炳」とは火光が明亮なことである。上六は上に互体巽卦に応じ、巽は草木であり、その文采は草木のように繁茂するので「蔚」の字をもって形容する――「蔚」とは草木が茂盛な貌である。「順以従君」とは、上六の陰爻が順服して九五の陽爻に従うことをいう。

鼎(てい)の卦

巽下離上,中互兌乾。遯。鼎為二陰四陽卦,自遯來,二往升五,故彖傳曰柔進上行。虞氏謂大壯上之初,不合傳義。鼎:元吉,亨。鼎,三足兩耳,和五味之寶器也。鼎為調燮萬物之始,故曰元;萬民利鼎之養,故曰吉;萬世享鼎之用,故曰亨。

「鼎」の卦は下体が巽、上体が離、中間に兌卦と乾卦を互出する。これは「遯」卦から変じた。「鼎」は二陰四陽の卦で、「遯」の第二爻が第五位に上昇したので、『彖伝』に「柔進んで上行す」という。虞翻は「大壮」の上爻が初位に降りて成ったと言うが、『彖伝』の意と合わない。卦辞にいう、「鼎、元吉にして亨」。鼎は三つの足と二つの耳があり、五味を調和する宝器である。鼎は万物を調理化育する始めであるので「元」といい、万民が皆鼎の養育を受けるので「吉」といい、万世が皆鼎の功用を享用するので「亨」という。

彖曰:鼎,象也。以木巽火,亨飪也。聖人亨以享上帝,而大亨以養聖賢。巽而耳目聰明,柔進而上行,得中而應乎剛,是以元亨。離巽兩合之卦而名曰鼎者,象鼎也。初陰在下,象鼎趾;二三四陽,象鼎腹;五陰象鼎耳;上陽象鼎鉉,全鼎之象具焉。且下為巽木,上為離火,中有互乾之金、互兌之澤,烹飪之象又具焉。

『彖伝』にいう、「鼎とは象なり。木を以て火に巽(い)れ、亨(に)饪(じん)なり。聖人は亨じて以て上帝に享り、大いに亨じて以て聖賢を養う。巽にして耳目聰明にして、柔進んで上行し、中を得て剛に応ず。是を以て元亨なり」。離と巽の両卦が相合するのに名づけて「鼎」というのは、その卦画全体が一隻の鼎のようであるからである。初爻は陰爻にして最下にあり、鼎の三足に似る。二・三・四の三つの陽爻は、鼎の膨れた腹に似る。第五爻は陰爻で、鼎の両旁の耳に似る。上爻は陽爻にして最上に横たわり、耳を貫いて鼎を担ぐ鉉(げん)に似る――一隻の鼎の全形が具わっている。さらに卦体を見れば、下の巽は木、上の離は火、中間にまた互体乾の金・互体兌の水があり、火を焚いて食を煮る象も併せて具わっている。

則此烹飪者,非泛泛利民用已也。嘗觀古人之用鼎也,首重祀鬼神,其次宴賓客。而鬼神之尊莫若上帝,賓客之尊莫若聖賢。祀之則欲其享之,宴之乃所以養之。然享上帝之禮,貴誠不貴豐,祇是以鼎烹牲,牲熟薦之已耳。若夫養聖賢,餼牽務求其備,割烹務得其宜,禮愈盛而情愈浹,較享上帝之烹尤有加焉。故享上帝祇曰烹,而養聖賢則曰大烹也。

ではここにいう烹煮は、ただ泛々と民用を利するのみではない。古人が鼎を用いる場合を試みに見るに、第一等は鬼神を祭ることであり、その次は賓客を宴する。そして鬼神の中で最も尊貴なのは上帝に如くものはなく、賓客の中で最も尊貴なのは聖賢に如くものはない。祭祀は神霊が来て饗用することを望み、宴を設けるのは賢者を奉養するためである。ただ上帝を祭享する礼は、誠敬に重きを置いて豊盛にあらず、ただ鼎をもって犠牲を煮熟し、煮熟して献じれば足りる。聖賢を奉養するに至っては、活牲と糧草は務めて斉備し、切割烹調は務めて法を得て、礼数が愈々隆重なれば情意は愈々親厚となり、上帝を祭享するあの一回の烹煮よりもさらに一層進む。ゆえに『彖伝』は上帝を祭享することをただ「亨(烹)」と言い、聖賢を奉養することを「大亨(大烹)」と言う。

夫鼎固足以利用,而鼎又可以觀德。九家易曰:鼎,天子飾以黃金,諸侯白金,大夫銅,士鐵,三足象三臺,足上皆作鼻目為飾。則鼎不惟有耳,兼亦有目。五陰為耳,上離為目,陰虛能受,故曰聰明。耳聰目明,卦象似之。而卦又自遯來,以遯之二柔上行居五,五柔得中,下應二剛,降君上之尊,下求賢臣,爻象似之。古雖云在德不在鼎,而三代傳國必以鼎,則鼎實備乾元之德也,是以元亨。

鼎は日用を利するに足るのみならず、鼎はまた徳行を観察するのに用いられる。『九家易』によれば、天子の鼎は黄金をもって飾り、諸侯は白銀、大夫は銅、士は鉄を用いる。三つの足は三台星を象徴し、足の上端は皆鼻と眼の形を作って装飾とする。見れば鼎は耳があるのみならず、目をも兼ねている。卦中の第五爻は陰爻で鼎耳に象り、上体の離卦は目である。陰爻は中が虚しく、虚ければ容受できるので『彖伝』は「耳目聰明」という――耳が聡く目が明るいのは、卦象が正にこれと相似だからである。さらにこの卦は「遯」から変じ、「遯」の第二爻が柔をもって上行して五位に居り、五爻は柔順にして中位を得、下に向かって九二の陽剛に応合する。これは君上が自らの尊貴を放下し、身を屈して下の賢臣を求めることで、爻象もまたこれと相似である。古人は立国は「徳に在りて鼎に在らず」(『左伝』王孫満が楚荘王に答えた語)と言ったが、しかし夏・商・周三代の伝国は必ず九鼎を以て憑とした。鼎が実に乾元創始の大徳を具えていることが見えるので、卦辞は「元亨」と称す。

象曰:木上有火,鼎。君子以正位凝命。木上有火,烹飪之象,故曰鼎。鼎之形端,君子體之以正位;鼎之體重,君子體之以凝命。正位謂五也,五位離中,離位正南,有聖人南面聽天下、嚮明而治之象。凝命謂乾也,乾為命,命凝則重不可移矣。

『大象伝』にいう、「木の上に火あり、鼎なり。君子は以て位を正しくし命を凝らす」。木の上に火が燃えるのはまさに焼煮の象であり、ゆえに卦名を「鼎」とする。鼎の形体は端正であり、君子はこれを体して自らの位分を端正にする。鼎の分量は沈重であり、君子はこれを体して受ける使命を凝聚する。いわゆる「正位」とは第五爻を指す。五爻は離卦の中に居り、離は方位において正に南方に当たり、聖人が南面して坐し天下を聴治し、光明に向かって政を施す象がある。いわゆる「凝命」とは乾を指す。乾は天命を代表し、天命がいったん凝聚堅定すれば、厚重にして動揺できない。

初六:鼎顛趾,利出否,得妾以其子,無咎。卦象全鼎,初則鼎之趾也。初為巽股象趾,巽為進退象顛,趾顛,踣也。夫鼎趾似不宜顛,然在洗鼎之時,必倒趾去垢以致潔,則鼎原有時利於顛。猶之妻有惡行則宜出之,否,惡也。出妻納妾則似於顛,然否惡之妻出之則利,妾有順德,生子必賢,妾又貴得。蓋初體正巽,巽為長女為妻;初應四,四為互兌為妾,四為陽爻為子,是得妾即因以得子。得妾出妻,雖似顛倒,然因妾以得子,出否實利也,故無咎。象曰:鼎顛趾,未悖也;利出否,以從貴也。鼎顛趾不為悖,猶之出否得妾,妾雖非貴,子既貴,妾從之貴矣。

初六の爻辞にいう、「鼎は趾を顛かす。否(あし)きを出すに利あり。妾を得るにその子を以てす。咎なし」。全卦は一隻の鼎の全形であり、初爻はすなわち鼎の足である。初爻は巽に属し、巽は人身において股なので足に象る。巽はまた進退不定の義があるので「顛」に象る。足が顛くとは、すなわち転倒である。理の上では鼎足は転倒すべきでないが、しかし鼎を洗う時は必ず鼎を倒して污垢を振り出してこそ清く洗える。見れば鼎は時に転倒するのがかえって有利である。これはちょうど妻に悪行があれば出すべきことに似る――「否」はまさに悪の義である。妻を出し妾を納れるのは、見たところ本末が顛倒しているようだが、しかし悪行ある妻を出すこと自体は有利であり、妾には柔順の徳があり、生む子は必ず賢能である。ゆえに妾を納れるのもその人を得ることを貴ぶ。爻象について言えば、初爻は本体巽卦に属し、巽は長女なので妻となる。初爻は上に九四に応じ、九四は互体兌卦に属し、兌は少女なので妾となり、九四は陽爻でまた子に象る――妾を得れば因って子を得るのである。妾を納れ妻を出すのは顛倒に似るが、しかし妾に因って子を得、悪妻を出すのは実に有利であるので咎なし。『小象伝』にいう、「鼎趾を顛かすは、未だ悖らざるなり。否きを出すに利あるは、以て貴きに従うなり」。鼎足が転倒するのは理に悖ると算ならず、ちょうど妻を出し妾を納れるように、妾の身分は本来貴からず、子がすでに貴ければ妾もそれに従って尊貴となる。

九二:鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。陽實陰虛,二為陽,是鼎有實也。鼎實雖有,尚宜待用。蓋二為巽中,巽為木;二應五,五為離中,離為火;二至四為互乾,三至五為互兌,乾兌為金,金為木之仇,仇讎同。前往遇仇,其何能吉?惟靜以俟之。金雖仇木,亦懼離火,我仇鄰離,仇己有疾,自顧不暇,焉能即我?言金畏火克也。二貴能自守矣。象曰:鼎有實,慎所之也;我仇有疾,終無尤也。之,往也。慎所之則巽木不遇乾兌之金克也。

九二の爻辞にいう、「鼎に実あり。我が仇に疾あり、我に即く能わず。吉」。陽爻は充実し、陰爻は中が虚しい。九二は陽爻なので「鼎に実あり」という。鼎の中にすでに食物があるが、なお用いるべき時を待つべきである。九二は巽卦の中に居り、巽は木である。それは上に九五に応じ、九五は離卦の中に居り、離は火である。二爻から四爻は互いに乾卦を成し、三爻から五爻は互いに兌卦を成し、乾・兌はともに金に属し、金は木を克する――まさに木の仇敵である。「仇」と「讐」は同義である。冒然と往けば仇敵に撞き当たり、どうして吉であろうか。ただ安静に待つのみである。知るべきことは、金は木と仇を為すが、自らは離火を畏れる。我が仇敵は離火に緊挨着して、それ自身まさに病を害しており、自顧する暇すらなく、どうして我に近づくことができよう。これは金が火の克制を畏れることを言う。九二は自らを守って動かないことを貴ぶ。『小象伝』にいう、「鼎に実あるは、之く所を慎むなり。我が仇に疾あるは、終に尤なきなり」。「之」は前往である。去向を謹慎に選べば、巽木は乾金・兌金の克伐に撞き当たらない。

九三:鼎耳革,其行塞,雉膏不食,方雨虧悔,終吉。三當上下改革之位,上陽不應,上下相隔,五之鼎耳三似不得有之,故曰耳革。夫鼎之有耳,鼎賴以行,倘耳既革,則行頓塞。雖上承離雉,而尚未及互兌之口,雉膏之美,伊誰食之?以耳革之故,幾致雉膏見棄,有悔固宜。然五居文明之位,意在下賢,三有大美,五必求之。蓋三至五為互兌,兌澤稱雨,方將陰陽和合以損其悔。虧,損也。三上雖不相應,三五猶自相承,三雖耳革,承五則鼎耳猶可續得,故終吉。象曰:鼎耳革,失其義也。失其義者,言應上則失宜也。

九三の爻辞にいう、「鼎の耳革(あらた)まり、その行塞がる。雉膏食らわれず。方に雨にして悔いを亏(けず)らん。終に吉」。九三はまさに上下卦が交替更革する位置に処し、上九は同じく陽爻で応じることができず、上下が隔断され、五爻のあの鼎耳は九三が及ばないようであるので「耳革」(鼎耳が脱落する)という。鼎に耳あってこそ鉉を穿して担ぎ去ることができ、いったん耳が落ちれば搬運はただちに受阻する。九三は上に離卦を承けているが(離は雉)、まだ互体兌卦の象る口に及ばず、あの肥美の雉肉を一体誰が食べるのか。鼎耳が壊れたために、ほとんど美味を棄てられんとするに至り、悔恨あるは免れ難い。しかし九五は文明の位に身を居し、一心に礼賢下士を欲し、九三は大才美質を懐いているので、九五は必ず来てそれを求める。三爻から五爻は互いに兌卦を成し、兌は沢で「雨」と称すべきであり、陰陽がまさに和合しようとして、あの悔恨を減損する――「亏」とは減損である。三と上は応じないが、三と五はなお上下相承し、九三は耳を失ったが、九五に承れば鼎耳はまた再接できるので最終的に吉である。『小象伝』にいう、「鼎耳革まるは、その義を失えばなり」。いわゆる其の宜を失うとは、九三がひたすら上九に応じようとすれば分寸を失うということである。

九四:鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。四為互兌之中,而在互乾之上,與內卦之巽分體,則已下不及足,又遇兌為毀折,故曰鼎折足。夫鼎實至四則鼎已盈,盈則必溢,溢則必覆,惟不勝其任,故折足而覆餗。鄭氏曰:鼎三足,三公象;餗,美饌,是八珍之食。覆此公餗,全體沾濡,其形若此,所以雲凶。餗與渥皆兌澤象。當其受餗,豈意折足?至餗已覆且渥其形,是德薄位尊、智小謀大、力小任重者,蓋自欺而兼誤人家國事矣。象曰:覆公餗,信如何也。信如何者,言平日所自信者果如何也。

九四の爻辞にいう、「鼎は足を折り、公の餗(そく)を覆す。その形渥(あく)たり。凶」。九四は互体兌卦の中間に処し、また互体乾卦の上に居り、内卦の巽とすでに両体に分属し、下に鼎足に及ばず、加えて兌に毀壊折断の象があるので「鼎足を折る」という。鼎の中の食物は第四爻に装められ、鼎はすでに満ち、満ちれば必ず外に溢れ、溢れれば必ず傾覆する――ただこの担いに堪えられないために、足が折れ食が翻るのである。鄭玄によれば、鼎の三つの足は三公を象徴し、「餗」は精美の食物、いわゆる八珍の饌である。三公の美食を打ち覆し、渾身が湯汁に浇われ、このような姿に落ちたので「凶」という。「餗」と「渥」(沾湿)はいずれも兌沢の象を取る。当初この鼎の美食を受け取った時、どうして足を折ることを思い及ぼう。食物がすでに翻り、身上がまた浇われて狼狽するに至っては、これは徳行が浅薄にして高位に居り、才智が短小にして大事を謀り、力量が微弱にして重任を担う者である――自らを欺き、また人の家国の大事を誤った。『小象伝』にいう、「公の餗を覆すは、信に如何せん」。――問うているのはまさに彼が平日自ら負って可靠としたあの些かの本事が、結局何に当たるのかということである。

六五:鼎黃耳金鉉,利貞。五偶象鼎之耳,五離得坤中氣,坤為黃,故曰黃耳。鉉,舉鼎具,貫鼎耳中以行鼎者。鼎耳虛,所以受鉉,鉉貫耳,鼎始可舉。五又自遯之二來,五在遯原為乾,乾為金,是金鉉也。但陰居陽位,利於貞正耳。象曰:鼎黃耳,中以為實也。鼎中實盈,故貫以鉉,舉而升之几筵之上,以為燕享之用。五陰雖非鼎實,而居中以求下,則在下之陽皆其實也。

六五の爻辞にいう、「鼎は黄耳金鉉なり。貞に利あり」。第五爻は偶数の陰爻で、鼎の両耳に象る。五爻のある離卦は坤卦の中爻の気を得たもので、坤の色は黄なので「黄耳」という。「鉉」とは鼎を担ぐ器具で、鼎耳に穿ち込んで鼎を担ぎ去るのに好い。鼎耳の中間は空で、ちょうど鉉を承受するのに用いられる。鉉が耳を穿ってこそ鼎は担ぎ上げられる。六五はまた「遯」卦の第二爻が昇って来たもので、この爻は「遯」において本来乾に属し、乾は金なので「金鉉」である。ただ陰爻が陽位に居るので、正を守ってこそ利がある。『小象伝』にいう、「鼎の黄耳は、中を以て実と為すなり」。鼎の中に食物が満ちて、初めて鉉を穿して、それを担ぎ上げて几案筵席の上に置き、宴享の用に供する。六五は陰爻で、それ自体は鼎の中の实物ではないが、中に居り下に向かって求取すれば、下の諸陽爻は皆その实物となる。

上九:鼎玉鉉,大吉,無不利。上以一陽亙鼎之上,則鼎鉉也。鼎貫於耳,故五言耳兼及於鉉;耳待受鉉,故上言鉉不再言耳。而金玉異質者,五為遯之乾,乾為金,故五鉉曰金;上亦遯乾,乾又為玉,故上鉉曰玉。鉉本金器,以玉飾之,則鉉愈貴,不惟利鼎之養,兼且美鼎之觀,故大吉無不利。象曰:玉鉉在上,剛柔節也。陽居陰位,剛濟以柔也。

上九の爻辞にいう、「鼎は玉鉉なり。大吉、利ならざるなし」。上爻は一根の陽爻をもって鼎の最上端に横貫し、それが鼎鉉である。鉉は耳に穿ち込むものなので、第五爻が鼎耳を語る時に連帯して鉉に言及した。耳は鉉を承受するのを待つものなので、上爻はただ鉉を語り耳を重ねて語らない。同じ一本の鉉であるのに、一処で金と言い一処で玉と言うのは、六五はもと「遯」卦の乾体で、乾は金なので五爻の鉉を「金」と称し、上九も「遯」卦の乾から出て、乾はまた玉に象ることができるので上爻の鉉を「玉」と称するのである。鉉は本来金属器具であり、さらに玉をもってそれを装飾すれば、この鉉はいよいよ貴重となり、鼎の養育の功に便ずるのみならず、鼎の観瞻の美を増すので、大吉にして利ならざるなし。『小象伝』にいう、「玉鉉上に在るは、剛柔節せらるればなり」。陽爻が陰位に居るのは、まさに柔をもって剛を調剤するのである。

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