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復卦

清 · 多隆阿 · 第7巻 / 21

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

【震下坤上,中互重坤】□□□息陰消卦,坤卦變體,純坤之下一陽初生,卦名復。上為五陰,下有一陽,兼震象。復:亨,出入無疾,朋來無咎,反復其道,七日來復,利有攸往。一陽將盡於五陰之上,有剝落象,故坤下艮上之卦名剝;一陽初生於五陰之下,有復反象,故震下坤上之卦名復。剝則眾陰剝陽,則陽不利;復則一陽消陰,則陽漸亨。

【此卦の下卦は震、上卦は坤、中間の互体は両重の坤】原書ここに三字缺く、文義によると、復は陽気生長・陰気消退の類の卦に属し、坤卦より変化して成る――純坤の下に一陽が初生す、だから卦名を「復」と言う。卦体の上は五つの陰爻、下に一つの陽爻あり。故に震卦の象を兼帯す。卦辞:復卦亨通し、出入疾なく、朋来りて咎なく、其の道を反復し、七日にして来復す、攸往するに利あり。多隆阿は曰く、一つの陽爻が五陰の上にて消尽せんとするは剥落の象あり、だから坤下艮上の卦を「剥」と名づく。一つの陽爻が五陰の下にて初生するは回返の象あり、だから震下坤上の卦を「復」と名づく。剥卦に於ては、衆陰が陽爻を剥蝕して陽は利あらず。復卦に於ては、一陽が陰気を消退して陽は漸く亨通す。

剝之一陽從坤上出,復之一陰【陰:陽】從坤下入,一出一入,彼消此息。消者艮,息則為震,坎疾不見,故曰無疾。雖坤朋在上,陰柔尚多,而至於復,則陽雖微而漸息,陰雖多而漸消,故曰無咎。復為十一月卦,與剝反對。剝餘一陽,復生一陽,則此一陽之生,乃自其道反來也。由剝之上計之,中歷純坤六爻,至於復初,一爻為一日,則七日矣。變月言日,以來者陽也。來復於下,前往則陽愈盛,故攸往利也。

多隆阿は曰く、剥卦のあの一陽は、坤体の上端より出で、復卦のあの一陽(原文は「一陰」と作るが校語により「一陽」に作るべし)は、坤体の下端より入る。一出・一入して、彼方は消退し此方は生長す。消退する一端は艮と成り、生長する一端は震と成る。坎は疾病に象を取り、此卦の中に坎象見えず。だから卦辞に「出入無疾」。坤の朋類はなお上面に圧すると雖も、陰柔の勢力は依然少なからざるも、復卦に至れば、陽は微弱ながら漸く生長し、陰は衆多ながら漸く消退す。だから「朋来無咎」。復は十一月の卦で、剥卦と上下顛倒して相対す。剥卦は一つの陽爻を残し、復卦は一つの陽爻を新生す。見るにこの一陽の生成は、まさにそれ自らのもとの道路に沿って返り来るもの。剥卦の上九より算えて、中間に純坤の六爻を経て、復卦の初九に至るまで、一爻を一日と算えばちょうど七日。これが「七日来復」。経文は月に計らずして改めて日と言うは、来復するは陽気で、陽は日を主るからである。陽はすでに卦体の下方に帰り、さらに前に推進すれば陽気はいよいよ盛大。だから攸往するに利ありと言う。

象曰:復亨【句】,剛反動而以順行【句】,是以出入無疾,朋來無咎,反復其道,七日來復,天行也。利有攸往,剛長也。復其見天地之心乎!復何以曰亨也?下卦為震,震德動也;上卦為坤,坤德順也。震為反生,《序卦傳》曰:剝窮上反下。是陽剛自上反來,震動於下,而順以行之。出於上即入於下,入於下者為陽,是陽從此前行而漸長也。陽行即天行,陽長即剛長。陽來於下,天地之心見焉。雖陰陽消息,無非天地之心,而天地之大德曰生,則陽復乃其心也,故天地之心見於復也。

《彖伝》(原書は「象曰」と題す)に曰く、復卦亨通――剛爻が返り、動きて依順に運行す、だから陽気の出入に妨害なく、朋類が来て災禍なし。其の道を往返し、七日にして返るは、是れ天道の運行なり。攸往するに利あるは、剛爻がまさに生長すればなり。復卦より大概天地の生生の心を見るべきか。多隆阿が解して曰く、復卦がなぜ「亨」と言うか。下卦は震で震の徳性は動、上卦は坤で坤の徳性は順。震は返りて復生を主り、《序卦伝》に「剥は上に窮まれば下に反る」と言う。見るに陽剛が上より返り来り、下にて震動し、また坤徳に順いて行く。陽は上より出で、すなわち下より入り、入るはまさに陽。こうして陽はこれより前に推進して逐漸生長す。陽の運行はすなわち天の運行、陽の生長はすなわち剛の生長。陽が下に帰れば、天地の心はここに顕現す。陰陽の消長は天地の心ならざるはないと言うも、《繋辞伝》に「天地の最大の徳性は生養」と講ずれば、陽気の回復はまさに天地の本心。だから天地の心は復卦に顕現す。

象曰:雷在地中,復;先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。坤地至靜,雷動於中,復之象也。至日,陽生之日,閉關止行人,欲以養此微陽也。坤為闔戶,故曰閉關;巽為商旅,震下伏巽,巽象不見,故曰商旅不行;巽又為命令,坤為方,巽象不見,故曰后不省方矣。

《大象伝》に曰く、雷は地中に伏す、復なり。先王は以て至日に関を閉じ、商旅行わず、后方を省みず。多隆阿は曰く、坤地は極めて安靜にして、雷はかえって地中に震動す。まさに復卦の象である。「至日」は冬至を指し、すなわち陽気初生の日。関を閉じて行人の往来を止むるは、静かにこの微弱の陽気を養わんと欲する故。坤は閉合の門戸に象を取る。だから「閉関」。巽は商旅に象を取り、震下に伏するはまさに巽で、巽象は隠れて見えず。だから「商旅不行」。巽はまた命令に象を取り、坤は方国に象を取り、巽象はすでに顕現せざれば、だから后方を省みずと言う。

初九:不遠復,無祇悔,元吉。陽盡於九月,至十一月陽始來復,豈曰不遠?而云不遠者,蓋深幸其來,謂陰已極於上,陽即反生於下也。復則無大悔矣。祇,大也。震得乾初,故曰元吉。象曰:不遠之復,以修身也。初為卦主,陽復在初,猶之人方失足而即復反也。以天運言,以陽復為天心之見;以人事言,以性復為修身之基。虞氏曰:坤為身,陽自坤初下息,是修坤身也。

初九の爻辞:遠からずして復る、大悔なく、元吉。多隆阿は曰く、陽気は九月に剥き尽くされ、十一月に至りてはじめて回復す。これなぜ「不遠」と算えんや。「不遠」と言う所以は、その到来を深く幸うに在り――陰気はちょうど上にて尽頭に至り、陽気はすでに下にて返生した。すでに回復すれば、もはや大きな悔恨なし。「祇」は大の意。震卦の得るは乾卦の初爻なので「元吉」。《小象伝》に曰く、不遠の復は、以て身を修むるなり、と。多隆阿は曰く、初九は全卦の主爻で、陽気が初位に回復するは、人が一足を失してすなわち転じ帰るに似る。天道の運行について言えば、陽の回復は天心の顕現。人事について言えば、本性の回復は修身の根基。虞翻は曰く、坤は身に象を取り、陽は坤体の初位より上に向かいて生長す。これが坤身を修治するなり。

六二:休復,吉。卦之所以名復者,由於初陽;二為陰而亦曰復者,言少休息則復即及之矣。猶人有過未能遽改,少俟時日而漸改,亦不失為善也,故吉。象曰:休復之吉,以下仁也。下仁者,言仁在下,指初也。陽和為仁,陰肅為義。震得乾初,故曰仁。

六二の爻辞:休(やす)らかに復る、吉。多隆阿は曰く、此卦が「復」の名を得るは初九のあの一陽による。六二はもとより陰爻ながらも「復」と言うは、少しく休息すれば回復の勢がすなわちここに及ぶを言う。これは人に過あって遽かに改め得ざるも、少しく時日を俟ちて徐々に改過すれば、もとより善を失わざるに似る。だから吉。《小象伝》に曰く、休復の吉は、以て下の仁者に就けばなり、と。多隆阿は曰く、「下仁」は仁が下に在るを言い、指すは初九。陽気は温和にして仁、陰気は粛殺にして義。震卦の得るは乾卦の初爻で、純陽の始めなので「仁」と称す。

六三:頻復,厲,無咎。三又遠於初矣,而仍曰復者,言頻復之乃克及此也。夫複利於速,復至於頻,則有日望其復而恐未能者,故厲。頻猶曰復,故無咎。象曰:頻復之厲,義無咎也。六四:中行獨復。卦有五陰,四居五陰之中,故曰中行;卦僅一陽,惟四與之相應,故曰獨復。象曰:中行獨復,以從道也。道謂初,從者應之也。

六三の爻辞:頻(しき)りに復る、厲、咎なし。多隆阿は曰く、六三は初九よりまた一層遠く、なお「復」と言うは、頻りに回復してはじめてここに及ぶを言う。回復は迅速を貴ぶ。もし屡々反復せねばならぬに至れば、日々にその回復を望みつつ能く帰らざるを恐るるの情形あり。だから「厲」。しかし屢々ながらも畢竟なお回復の中に在り。だから咎なし。《小象伝》に曰く、頻復の厲は、義として咎なきなり、と。六四の爻辞:中行にして独り復る。多隆阿は曰く、卦中に五つの陰爻あり、六四はまさに五陰の中に居るので「中行」。卦中にただ一つの陽爻あり、ただ六四のみがそれと相応ずるので「独復」。《小象伝》に曰く、中行独復は、以て道に従うなり、と。「道」は初九を指し、「従」はそれと応ずるを言う。

六五:敦復,無悔。敦,厚也,言復至此,復亦厚矣。五為陽位,陽宜復之,五復為陽,適如其分,故曰無悔。象曰:敦復無悔,中以自考也。考,察也。居中自察,言必敦復乃克無悔也。上六:迷復,凶,有災眚,用行師終有大敗,以其國君凶,至于十年不克征。上為坤終,坤為迷,是迷復也。異自內生曰眚,害物曰災,坤迷至終必生內亂,是有災眚也。坤又為眾、為師,是為用行師;坤又為終、為死,是為終有大敗。

六五の爻辞:敦くして復る、悔なし。多隆阿は曰く、「敦」は厚の意で、回復がこの歩に至れば、回復の勢もまた深厚と算うべし。五はもとより陽位で、陽気はまさにここに回復すべく、五がもし陽に回復せば、まさにその本分に合す。だから「無悔」。《小象伝》に曰く、敦復無悔は、中に居りて自ら考(かんが)える能ければなり、と。「考」は省察で、中位に居りて自ら省察す。必ず敦くして回復してこそ悔恨なきを言う。上六の爻辞:迷いて復らず、凶、災眚あり、師を行うに用いて終に大敗し、其の国君を以て凶、十年に至りて征する能わず。多隆阿は曰く、上六は坤体の終点に居り、坤は迷に象を取る。これが「迷復」。異変は内より生ずるを「眚」と言い、外より万物を害するを「災」と言う。坤の迷乱が尽頭に至れば、内部は必ず禍乱を生ず。だから「有災眚」。坤はまた衆・軍旅に象を取る。だから「用行師」。坤はまた終・死に象を取る。だから「終有大敗」。

坤為國,震為侯,一陽為卦主,是為國君。荀氏曰:國君謂初也。蓋復極於上,陰又將息於下,反侵震主,是以其國君凶也。十,陰數,凶至十年弗克征伐,凶之久為何如!象曰:迷復之凶,反君道也。君,初也。復至於上,陰生於下,變為姤,與復反,震陽為陰,故曰反君道也。

多隆阿は曰く、坤は国に象を取り、震は諸侯に象を取り、あの一つの陽爻は全卦の主爻で、合せてすなわち「国君」。荀爽は曰く、ここの国君は初九を指す。回復の勢が上六に至りてすでに極点に達し、陰気はまた下にて再び生長せんとし、反って震体の主爻を侵犯す。だから国君を以て凶と言う。「十」は陰の数で、凶は十年の久しきに及んでも出兵征伐能わず。この凶の引延る久しさは如何ばかりか。《小象伝》に曰く、迷復の凶は、君道に反ればなり、と。ここの「君」は初九を指す。回復が上六に至れば、陰気はまた下より生じ、卦はすなわち姤卦に変じて復卦と正反対となり、震体の陽爻は転じて陰爻となる。だから「反君道」と言う。

無妄卦

【震下乾上,中互巽艮】遯:無妄為二陰四陽卦,自遯來。虞氏曰:遯三之初。此所謂四陽二陰卦,非大壯則自遯來也。蜀才曰:此本遯卦,剛自上降而為主於初。無妄:元亨利貞,其匪正有眚,不利有攸往。震下乾上,卦名無妄。無妄者,實心也。人惟虛則有妄,妄則多窒,實則無妄,無妄則亨,是無妄自宜夫亨。而又利於貞正者,言人之實心惟正則利,不正不惟不利,而且有眚;惟正乃亨,不正不惟不亨,而且不利有攸往。

【此卦の下卦は震、上卦は乾、中間の互体は巽と艮】遯卦より変ず。無妄は二陰四陽の卦に属し、遯卦より変化して成る。虞翻は曰く、遯卦の第三爻と初爻の互い換え。凡そ四陽二陰の卦は、大壮卦より来らざれば遯卦より来る。蜀才は曰く、此卦は本遯卦で、剛爻が上より降りて初位の主爻と為る。卦辞:無妄卦、大いに亨通して貞むに利あり。もし行う所正ならざれば災眚あり、攸往するに利あらず。多隆阿は曰く、震が下・乾が上で、卦名を「無妄」と言う。いわゆる「無妄」はすなわち心地誠実。人はただ内裏が空虚不実なれば妄念を起し、妄念あれば処処窒碍し、内、内裏が誠実なれば妄念を起さず、妄念起らざれば自ずから亨通す。だから無妄はもとより亨通すべし。而して経文がまた貞正に利あると言うは、人のこの一片の実心は必ず正に帰してこそ利あるを言う。正ならざれば利ならざるのみならず、また災眚を招く。ただ正なればこそ亨通し、正ならざれば亨ならざるのみならず、また攸往するに利あらず。

象曰:無妄,剛自外來而為主於內,動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也。其匪正有眚,不利有攸往,無妄之往何之矣,天命不佑,行矣哉!卦曰無妄者,蓋由自遯來也。遯三來初,三在初之外,是為自外來。遯之乾如故,遯之艮易為震,震初剛為卦主,是為主於內也。震德為動,乾德為健,五中應二,相應則亨,二正五剛,剛正故貞,此所謂大亨以正也。

《彖伝》(原書は「象曰」と題す)に曰く、無妄卦、剛爻が外より入り来て内卦の主爻と為り、卦徳は動きて剛健、九五は剛中にしてまた六二と相応ず、大いに亨通して正に帰す。是れ上天の命令なり。もし行う所正ならざれば災眚ありて攸往するに利あらず。さらばこの無妄の心はまた何れに往かんや、天命は保佑せず、豈に行かんや。多隆阿が解して曰く、此卦が「無妄」と称するは、遯卦より変ずるが故。遯卦の第三爻が初位に来る。三はもとより初の外に在り。だから「剛自外来」。遯卦の乾体は旧の如く動かず、遯卦の艮体は変じて震となり、震の初爻は剛爻にしてまた全卦の主爻。だから「為主于内」。震の徳性は動、乾の徳性は健。九五は中に居りて六二と相応じ、応ずれば亨通し、六二は正を得て九五は剛中、剛にして正なので「貞」と称す。これが《彖伝》の言う「大亨以正」。

夫乾德為健,而乾象又為天,所謂正者,由於動以天也。言此無妄云者,天命原如此也。蓋人各有性,性具於人而實命於天,天既以無妄命人,人即宜以無妄應天。然又宜率以正道,修以正教,則無妄之行始克大通而無阻。

多隆阿は曰く、乾の徳性は剛健にして、乾の取象はまた天。ここに言う「正」は、その挙動が一に天道に依るが故。経文が「無妄」の二字を点出するは、天命はもとよりかくの如しを意う。人は各々本性を有り、本性は人の身に具えりと雖も、実は上天より賦与せらる。上天はすでに「無妄」を以て人に命定せば、人はまさに「無妄」を以て上天に応ずべし。しかしなお正道に循って引導し、正教に依って修治せねばならず。こうして無妄の行事ははじめて大いに通達して阻礙なし。

若三與上,雖亦相應,而皆失位,是為匪正。匪正則宜有眚。倘猶恃此無妄以應事機,雖猶是此無妄之心,而已失天命之本。上以乾天而居偏位,猶人雖有實心而氣質有偏,則有過中不及之差,違天之命,即為天命所不佑。佑,助也。之,往也。何之者,言上位已盡,前無可往也。無妄匪正,其失如是,行則多眚,勿雲亨利矣。

多隆阿は曰く、六三と上九に至っては、もとより彼此相応ずるも、皆位に当たらず。これが「匪正」で、正ならざれば自ずから災眚あるべし。もしなおこの一点の無妄の心を倚恃して事機に応ぜば、あの心は依然無妄と雖も、すでに天命の根本を失えり。上九は乾天の体を以て偏斜の位置に居るは、人が誠実の心ありと雖も気質に偏ありて、行事に過頭または不及の差失あるに似る。上天の命令に違背せば、すなわち天命の保佑を得られず。「佑」は幇助、「之」は前往。「何之」と言うは、上九はすでに卦位の尽頭に在りて、前に往くべき路なし。無妄にしてその正を失うの弊病はかくの如し。一動すれば災眚多し。さらに亨通と有利とを語るに及ばず。

象曰:天下雷行,物與無妄;先王以茂對時育萬物。萬物冬蟄,春至雷行,物皆反生,物當初生,其性未漓,故曰無妄,是天各與以無妄也。萬物之暢茂由於震,萬物之發育由於天,故曰茂對時育萬物也。初九:無妄,往吉。初以遯艮之止易為震動,是往也;初以遯之陰柔易為陽剛,是無妄之往也。人心以有所繫應多妄,初與四兩陽不應,斯無妄矣,故吉。象曰:無妄之往,得志也。

《大象伝》に曰く、天下に雷行う、物皆無妄の性を賦与せらる。先王は以て勉めて天時に順応し、万物を養育す。多隆阿は曰く、万物は冬に蟄伏し、春至りて雷声運行すれば、万物は皆返生す。物は初生の時、その本性は未だ浇薄せず。だから「無妄」と言う。これは上天が無妄の性を分別に每一物に賦与せしむるなり。万物の暢盛繁茂は震雷より来り、万物の発育生長は上天より来る。だから勉めて天時に順応して万物を養育すと言う。初九の爻辞:無妄を秉持して往けば吉。多隆阿は曰く、初爻は遯卦艮体の静止より変じて震体の運動と為り、これが「往」。また遯卦の陰柔より変じて陽剛と為り、これが無妄の心を以て往く。人心は牽繋相応じあるがために往々にして妄念を生ず。初九と九四は同じく陽爻にして相応ぜず、まさに妄念を起さず。だから吉。《小象伝》に曰く、無妄の往は、志を得る能ければなり、と。

六二:不耕穫,不菑畬,則利有攸往。無妄者,無妄念也。二與五應,故因應以生妄念。蓋二為正震,互艮,震為木,又為稼,震木而扶以艮手則象耕,震稼而持以艮手則象獲。遯之初二皆陰,今三初相易,坤土在隱現之間,艮亦為土,有田象。曰菑畬,田一歲治曰菑,三歲治曰畬。

六二の爻辞:耕さずして獲らんとせず、菑さずして畬を得んとせず、則ち攸往するに利あり。多隆阿は曰く、「無妄」はすなわち心中に妄念を起さざること。六二は九五と相応じ、応あるが故に妄念を生じ易し。六二は正震の体に属し、また互体艮の中にあり、震は木・また稼穡、艮手を以て震木を扶ければ耕に象り、艮手を以て震稼を持てば獲に象る。遯卦の初・二の両爻は皆陰で、今三爻と初爻が互い換え、坤土は隠顕の間に在りて、艮もまた土に象を取り、こうして田地の象あり。いわゆる「菑畬」は、田を開墾一年を「菑」、耕治三年を「畬」と言う。

夫因耕求獲,因菑得畬,此原非妄;倘不耕而求獲,不菑而求畬,則妄矣。夫先耕而後求獲,先菑而後得畬,此亦非妄;倘甫耕而即求獲,甫菑而即求畬,則又妄矣。妄念滋生,其何以往?惟是居中持正,不因耕而遽求獲,不因菑而遽求畬,貪得之心不擾於內,往始利也。象曰:不耕穫,未富也。未富,未獲也,而所以未獲,由於未耕。耕穫如是,菑畬亦如是矣。

多隆阿は曰く、まず耕耘して後に収穫を求め、まず開墾して後に熟田を得るは、これもとより妄にあらず。もし耕耘せずして収穫を求め、開墾せずして熟田を得んと欲せば、すなわち妄なり。先に耕し後に獲る、先に菑して後に畬、これもまた妄にあらず。もし甫めて耕し下ればすなわち収成を求め、甫めて開墾すればすなわち熟田を求むれば、また妄なり。妄念一旦滋生せば、また何れに往かんや。ただ中を守り正を持して、耕せしがために遽かに収成を求めず、開墾せしがために遽かに熟田を要せず、貪得の心を胸中に攪擾せしめざれば、往きてはじめて利あり。《小象伝》に曰く、耕さずして獲らんとするは、未だ富まざればなり、と。多隆阿は曰く、富まざるはすなわち収穫を得ざること。而して収穫を得ざる所以は、まさに耕耘せざるが故。耕と獲は是くの如し、菑と畬もまた是くの如し。

六三:無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。三不惟有應,而位亦不正,是所謂匪正有眚者。眚為災,乃無妄之災也。其災維何?三為互艮,又為互巽,坤象在隱現之間。艮為手,巽為繩,坤為牛、為邑,如以艮手牽巽繩,繫坤牛於邑,而三實為正震,震為行人,三初相易,是此牛為行人所得。

六三の爻辞:これ無妄の中に飛来するの災――或る人が牛をここに繋ぎ、過路人が之を牽き去り、村里人はかえって災を代う。多隆阿は曰く、六三はただ上九と応あるのみならず、位置もまた当たらず。まさに卦辞の言う「行う所正ならざれば災眚あり」のあの一爻。「眚」はすなわち災なので「無妄之災」と言う。この災は何処より来るか。六三は互体艮の中に在り、また互体巽の中に在り、坤象は若隠若現。艮は手、巽は縄、坤は牛・邑里で、艮手を以て巽縄を牽き、坤牛を邑中に繋ぐが如し。而して六三は自身また正震に属し、震は行路の人に象を取り、三爻と初爻が互い換え、こうしてこの牛は過路人に牽き去られたり。

夫牛雖繫於邑,而得牛之人不在邑,則是牛已歸行人而不在邑。得牛之人固非邑中之人,而求牛之人即宜尋彼得牛之人。繫牛於邑固非妄,惟尋行人以求牛始非妄。乃若不尋得牛之人,而惟求牛於繫牛之處,繫牛於邑,求牛仍在邑,自謂非妄而妄乃愈甚,是得牛者非邑人,而得災者為邑人,此無妄所以利貞也。象曰:行人得牛,邑人災也。

多隆阿は曰く、牛は邑里に繋がると雖も、牛を得るの人は邑里に在らず。さらば牛はすでに過路人に帰し邑中に在らず。牛を得るはすでに邑里の人にあらざれば、牛を尋ぬる人はまさにあの牛を牽き去りし行人を追うべし。牛を邑中に繋ぐはもとより妄にあらず、ただ行人の線索に循って牛を尋ぬるのみが妄ならざるなり。もし牛を得るの人を追わず、ただもとの牛繋ぎし処にて尋ぬれば――牛は邑里に繋がれ、尋ぬるもただ邑里に尋ぬ――自ら妄ならずと謂うも、妄はかえっていよいよ深し。結局、牛を得るは邑人にあらずして、災を受くるは邑人なり。これがまさに無妄一卦の「利貞」を強調する所以の縁由である。《小象伝》に曰く、行人は牛を得、邑人は災なり、と。

九四:可貞,無咎。四初俱陽,兩陽不應,不應則無妄。是五上皆有應,惟四無應,守之以正,獨見其可,故無咎。象曰:可貞無咎,固有之也。九五:無妄之疾,勿藥有喜。五下應二,有應多妄,人心有妄則為疾。五為乾中,乾體中實,是無妄之疾。疾宜用藥,藥可愈疾,而二在震艮之間,震為草木,艮為石,則二為五之藥,即二實為五之疾也。惟不應二,不用二藥,則得無妄之正,勿藥有喜矣。象曰:無妄之藥,不可試也。疾宜勿藥而妄欲用之,是試也,不可也。

九四の爻辞:貞むべし、咎なし。多隆阿は曰く、九四と初九は同じく陽爻で、両陽は相応せず、応ぜざれば妄念を生ぜず。九五・上九は皆各々相応の爻あるも、ただ九四のみ応なし。それは正道を以て自ら守り、単々その身に一箇の「可」の字を顕す。だから咎なし。《小象伝》に曰く、可貞無咎は、この無妄はそれ本来有する所なればなり、と。九五の爻辞:自ら招かざるの疾、薬せずしてかえって喜びあり。多隆阿は曰く、九五は下に六二と相応じ、応あれば妄念を生じ易く、人心に妄念あればすなわち病と為る。九五は乾体の中に居り、乾体は中実す。だから「無妄之疾」と称す。病あればもとより薬を用うべく、薬は病を治し得。六二は震と艮の間に居り、震は草木、艮は石で、草石はまさに薬材。だから六二は九五の薬――しかし六二は同時にまさに九五の病を得る根由である。ただ六二に応和せず、六二のこの剤の薬を服せざれば、すなわち無妄の正を守り得、薬せずしてかえって喜びあり。《小象伝》に曰く、無妄之薬は、以て試みるべからざるなり、と。病はもとより薬を用いざるべきに、偏えに之を用いんと欲するはこれ「試」で、不可なり。

上九:無妄行有眚,無攸利。上居乾終,下與三應,乾天本無妄,下應震動以行則多妄。卦辭所謂匪正有眚者,三與上是也,有眚即無攸利矣。象曰:無妄之行,窮之災也。夫所以有眚無利者,以無妄之行必致窮也。上位已窮,故前行有災。

上九の爻辞:無妄の心を以て妄動して前行せば、災眚あり、利攸なし。多隆阿は曰く、上九は乾体の終点に居り、下に六三と相応ず。乾は天、もとより無妄なれども、それが一旦下に震体と応和して妄動出行せば、妄念は多し。卦辞の言う「行う所正ならざれば便ちに災眚あり」は、まさに六三と上九のこの二爻。災眚あれば、すなわち言うべき利益なし。《小象伝》に曰く、無妄之行は、窮の災なり、と。災眚ありて利益なき所以は、この「無妄之行」が必ず窮尽に至るが故。上九の位置はすでに窮尽せり。だからさらに前に往けば災あり。

易原巻六

慧珠閣原本。岫巖多隆阿雯溪。周易上經(六)。

本巻は慧珠閣の原刻本による。著者は岫巖の人・多隆阿、字は雯溪。以下に解くのは《周易》上経の第六の部分、大畜・頤・大過・坎・離の五卦を含む。

大畜卦

【乾下艮上,中互震兌】【大壯】大畜為四陽二陰卦,自大壯來。虞氏曰:大壯四之上。蜀才曰:此本大壯卦。大畜:利貞,不家食吉,利涉大川。乾下艮上,卦名大畜。所畜者大,故利貞正。夫畜訓止,又訓養,養人者為家,而家之所養無幾,故言養人惟君為大,食祿王朝,不食於家則吉。畜極又宜通,險阻亦通,則通之至矣,故曰利涉大川也。

【此卦の下卦は乾、上卦は艮、中間の互体は震と兌】大壮卦より変ず。大畜は四陽二陰の卦に属し、大壮より変化して成る。虞翻は曰く、大壮卦の第四爻と上爻の互い換え。蜀才は曰く、此卦は本大壮卦。卦辞:大畜卦、貞むに利あり。家に食(く)らずして朝廷に禄を食む、吉。大川を渉るに利あり。多隆阿は曰く、乾が下・艮が上で、卦名を「大畜」と言う。畜聚する所がすでに大なれば、だから貞正に利あり。「畜」は「止」と訓じ、また「養」と訓ず。人を養うの単位は家で、一家の養い得る人は限りあり。だから人を養うは君主を以て最大と為すと言い、朝廷にて俸禄を食み、自家に依りて供養せざれば、こそ吉。畜聚が極点に至ればまた通達に転ずべく、険阻さえも通過し得れば、すなわち通の至極。だから大川を渉るに利ありと言う。

彖曰:大畜剛健篤實【句】,輝光日新【句】,其德剛上而尚賢,能止健,大正也。不家食吉,養賢也。利涉大川,應乎天也。畜何以雲大也?陽大陰小,巽乾合卦,五陽畜陰,所畜者小,故曰小畜。若艮乾合卦,乾父艮男,本無以陰畜陽之象,而亦曰畜者,蓋以卦德言之也。乾德曰健,艮德曰止,乾健於行,為艮所止,艮止乾,是所畜者大,故曰大畜也。

《彖伝》に曰く、大畜卦は剛健にして篤実にして輝光は日々に新た。其の徳は剛爻が尊位に上居し賢人を尚び、剛健を止むる能く、是れ大いに純正なり。家に食らずして禄を食むは、国家の賢を養うなり。大川を渉るに利あるは、天に応ずればなり、と。多隆阿が解して曰く、「畜」はなぜ「大」と称するか。陽を大、陰を小と為す。巽と乾と相合するの小畜卦は、五つの陽爻が一つの陰爻を畜聚して、畜する所は小なるもの。だから「小畜」と言う。艮と乾と相合するの此卦に至っては、乾は父、艮は少男で、もとより陰を以て陽を畜するの象なし。而してまた「畜」と称するは、卦徳に就いて言えば、乾の徳性は健、艮の徳性は止、乾は一味に剛健に前行するを艮に止められ、艮の止むる所は乾で、畜する所は大なるもの。だから「大畜」と言う。

所畜者大,利豈易言?惟大正以處之乃利。正者何?德是也。乾德剛健,艮德篤實,是剛健篤實皆德也。乾為大明,純陽有光;艮之一陽外見,如艮卦所云其道光明者,是艮陽又有光。光輝日新,亦德也。其德如此,是謂之賢。卦又自大壯來,以大壯之四易之於上,是為剛上。上為天位,賢人有德,君優禮之,是為尚賢。國家貴尚賢人,天下從其教化。一陽居尊,止下乾之健,非其德足以服人,君不能言聽計從,民不能愛戴不貳,故曰利貞也。

多隆阿は曰く、畜聚する所がすでに大なれば、「利」の字は豈に易く言うべけんや。ただ大中至正の態度を以て処置してこそ利を語るに及ぶ。正とは何ぞ。すなわち徳である。乾の徳は剛健、艮の徳は篤実、剛健と篤実は皆徳なり。乾は大明で、純陽にして光あり。艮のあの一陽爻は外に顕露し、まさに《艮卦・彖伝》の言う「其道光明」に見るに、艮の陽爻にも光あり。光輝は日々に更新す、これもまた徳なり。徳がこの地步に至れば、「賢」と称するに足る。此卦はまた大壮卦より変じて来て、大壮の第四爻を換えて上位に置く、これが「剛上」。上位は天位で、賢人に徳ありて君主は厚礼を以て相待す、これが「尚賢」。国家が賢人を看重すれば、天下はその教化に順従す。一つの陽爻が尊位に居り、下の乾体の剛健を止むるは、その徳が人を服するに足るに非ざれば、君主は言聴計従せず、民もまた愛戴して二心なからしめず。だから「利貞」と言う。

夫畜者,止也,又養也。卦中有互兌,兌為口;上卦為艮,艮為門闕。艮陽由大壯四往居上,是以人位易於天位,以兌口而居艮闕之中,以人位而升朝廷之上,是不家食而食祿於天家也。食者,養也。則互兌即為口,而互兌又為澤,澤水為川,陰為水象,二陰亦為川。乾陽上行,必歷二陰,是為涉。當畜極則通之候,本乾之健而上涉之,因入天闕以食天祿,天必應之。蓋初二以應四應五為畜,而三與上又以兩陽不應為畜。陽性主動,陽德至健,互震為行,艮豈終能止之?此所謂應乎天者也。涉川以來上,故利也。

多隆阿は曰く、「畜」はすなわち止であり、また養である。卦中に互体兌あり、兌は口に象を取り、上卦は艮で、艮は門闕に象を取る。艮の陽爻は大壮の第四位より上って上位に居り、これは人位を天位に換えたこと。兌口を以て艮闕の中に居り、臣民の身を以て朝廷の上に登るは、まさに家に食らずして王家に禄を食むこと。「食」はすなわち「養」。互体兌はすなわち口に象を取り、また沢に象を取り、沢中の水はすなわち川。陰爻はもとより水象で、あの二つの陰爻はすなわち大川。乾陽が上に行けば必ずこの二つの陰爻を経る。これが「渉」。ちょうど畜聚が極点に至りて通達に転ずべきの時に当り、乾体の剛健を憑じて上に渉り、こうして天闕に入りて天禄を享くれば、天は必ずそれと応ず。初九・九二は六四・六五と相応ずるがために畜止せられ、九三と上九はまた両陽が相応せざるがために畜止せらる。しかし陽性は動を主り、陽徳は極めて健で、互体震は行を主る。艮は豈に終にこれを止め得んや。これがいわゆる「応乎天」。大川を渉りて上位に至れば、だから「利」。

象曰:天在山中,大畜;君子以多識前言往行,以畜其德。向氏曰:止莫若山,大莫若天,天在山中,大畜之象。蓋言天體至大,山欲畜之,君子畜德亦如山之畜天,大愈盛也。乾為言,互震為行,震在乾前,故曰前言往行。乾乂為德,艮以止之,艮山體靜,有畜義。

《大象伝》に曰く、天を山中に藴する、大畜なり。君子は以て多く前言往行を識り、以て其の徳を畜す。向秀を引て曰く、物を止むるは山の如くはなく、大なるは天の如くはなし。天が山中に在るはまさに大畜の象。これは天体が極めて広大なるを、山が欲してこれを畜するを言い、君子が徳性を畜養するも山の天を畜するが如く、畜すること大なるほど徳はいよいよ盛んなり。乾は言語に象を取り、互体震は行動に象を取り、震は乾の前に在り。だから「前言往行」。乾はまた徳に象を取り(原文は「乂」と作るが「又」の字の訛)、艮がこれを止む。艮山の体性は安靜にして蓄積の義を含む。

初九:有厲,利已。初陽尚微,不利前進,艮止於前,進亦危厲,是宜已也。已,止也。初蓋利於止矣。象曰:有厲利已,不犯災也。九二:輿說輹。二為乾中,乾為大車稱輿,居互兌之初,兌為毀折,是輹脫也。輹,車軸縛也,絲革縛軸,所以堅軸,軸縛既脫,輿豈能行?蓋陽剛雖健,倘有所畜,即宜止耳。象曰:輿說輹,終無尤也。初曰不犯災,二曰終無尤,蓋以能止畜初二也。

初九の爻辞:厲あり、已(や)むに利あり。多隆阿は曰く、初九の陽気はなお微弱で、前進に利あらず。艮の止勢が前に横たわり、強いて進めば危険。だから止まるべし。「已」はすなわち停止、初九はまさに止歩に宜しき。《小象伝》に曰く、厲ありて已むに利あるは、災を犯さざればなり、と。九二の爻辞:輿、輹を脱(と)ぐ。多隆阿は曰く、九二は乾体の中に居り、乾は大車に象を取るので「輿」と称す。また互体兌の起始に居り、兌は毀折なので車縛の脱落である。「輹」は車軸を縛るもので、絲革を以て軸を捆牢し、軸を堅固ならしむ。軸縛すでに脱落せば、車は豈に行かんや。見るに陽剛は強健と雖も、一旦畜止せられれば、すなわち止むべし。《小象伝》に曰く、輿輹を脱ぐは、終に尤なきなり、と。初爻は「不犯災」を講じ、二爻は「終無尤」を講ず。皆その歩を止めて進まざる能くすればなり――畜止の功はまさに初・二の両爻に在る。

九三:良馬逐,利艱貞,曰閒輿衛,利有攸往。三為乾,乾為良馬,而三又為互震,良馬震動,是馬逐也,可以進矣。但艮止在前,不可遽動,是宜艱貞以守之。閒,閡也;衛,護也。輿之行必有衛,衛止則輿亦止,艮止象閒。虞氏曰:震為驚。鄭氏曰:驚之言警戒也,有戒慎防閒之義,故曰閒輿衛。言三雖宜進,尚須待時謹慎前往,庶幾利也。象曰:利有攸往,上合志也。上,上九也。兩陽合志,畜極宜通也。

九三の爻辞:良馬逐(お)う、艱貞に利あり、日に輿衛を閑(なら)えば、攸往するに利あり。多隆阿は曰く、九三は乾に属し、乾は良馬に象を取り、三はまた互体震の中に在り、良馬が震の動勢を得れば、すなわち馬の奔逐で、前進し得。しかし艮の止勢が前に横たわり、遽かに行動すべからず。だから艱難の中に正を守り自ら持すべし。「閑」は阻欄、「衛」は護従。車の出行は必ず護衛あり、護衛が停車すれば車もまた停む。艮の止はまさにこの「閑」を象徴す。虞翻は震は驚に象を取ると言い、鄭玄は「驚」はすなわち警戒で、戒慎防閑の義を含むと言う。だから「閑輿衛」。これは九三が前進すべきと雖も、なお時機を待ちて謹慎に前往せねばならず、こそ利を得るを庶幾うを言う。《小象伝》に曰く、攸往するに利あるは、上九と心志相合せばなり、と。「上」は上九を指し、二つの陽爻が心志を相合せば、畜聚は極点に至りて通達すべし。

六四:童牛之牿,元吉。上為卦主,乾之三陽為所畜,即艮之二陰亦為所畜。四為陰爻,牛為陰物,虞氏曰:艮為童。是童牛也。童牛無角,安所用牿?牿,楅衡也。艮木為堅多節,是以堅木為牿,而預防牛觸,則是防患於未然,易為力也,故曰元吉。象曰:六四元吉,有喜也。

六四の爻辞:童牛に牿(こく)を加う、元吉。多隆阿は曰く、上九は全卦の主爻で、乾体の三つの陽爻はそれが畜止する対象、艮体の二つの陰爻もまた同様に畜止せらる。六四は陰爻で、牛はまた陰物に属し、虞翻は艮は童稚に象を取ると言い、合せてすなわち「童牛」。小牛はまだ角を生ぜず、豈に「牿」を用いる所あらん。「牿」はすなわち楅衡、牛角に綁けて牴触を防ぐ横木。艮は木にして堅硬多節なので、堅木を以て牿と為し、預め牛の牴撞を防ぐ――これは患を未然に防ぐことで、最も気力を省く。だから「元吉」。《小象伝》に曰く、六四の元吉は、喜ぶべければなり、と。

六五:豶豕之牙,吉。豶豕,羠豕,豕之去勢者。五亦陰柔,豕為陰物,故稱豶豕。夫豕性剛躁,不易馴伏,待至歲久,牙出頤外,則有所恃而難制。惟去其勢,豶以豢之,牙不為害,是力不勞而強暴自去也,故吉。象曰:六五之吉,有慶也。有喜有慶,皆言畜之得其道也。

六五の爻辞:豮豕(ぶんし)の牙、吉。多隆阿は曰く、「豮豕」はすなわち羠豕、勢を去られし豚である。六五もまた陰柔の爻で、豚はまた陰物に属す。だから「豮豕」と称す。豚の性は剛躁にして馴服し易からず、年歳一久なれば、牙が頤外に出づるに待てば、恃む所ありて制伏し難し。ただその勢を去り、豮して後豢すれば、牙は人を傷ぜず――これは気力を労せずして強暴の性が自ずから消ゆること。だから吉。《小象伝》に曰く、六五の吉は、慶有ればなり、と。多隆阿は曰く、六四は「有喜」を言い、六五は「有慶」を言う。皆畜止が法を得たを言う。

上九:何天之衢,亨。何,荷通。衢,四達道也。《爾雅》曰:道路四達謂之衢。上在大壯上,原為震,震為大塗,乃與四易為艮,艮為門闕、為路,上為天位,是為天家之衢。卦至於上,卦爻已盡,是畜極而通之候,開艮闕以平震塗,如《虞書》所云闢四門者。由是陽剛群升,君子並進,行天衢以荷天寵,何亨如之!象曰:何天之衢,道大行也。既有其德,又在其位,可以行道,為畜主也。

上九の爻辞:天の衢(く)を荷(か)ぐ、亨。多隆阿は曰く、「何」は「荷」と通じて担負の意、「衢」は四通八達の大道で、《爾雅》に道路の四達するを「衢」と謂うとある。上九は大壮卦においてもとより上位に居り、もとより震体に属し、震は大路に象を取る。後に第四爻と互い換えて艮と成り、艮は門闕・道路に象を取り、上位はまた天位。だから天家の通衢と為る。卦は上爻に至りて六爻すでに尽き、まさに畜聚が極点に至りて通達に転ずるの時。艮の門闕を開きて震の大路を平らぐは、《尚書・虞書》の言う「辟四門」――四方の門を広く開きて天下の賢才を納るに似る。こうして陽剛の士は群りて上昇し、君子はともに進用して、天衢を行きて天子の恩寵を承荷す。何ぞ亨なること之の如かんや。《小象伝》に曰く、天衢を荷ぐは、道大いに行わるればなり、と。多隆阿は曰く、すでにその徳あり、またその位に在り、以て大道を推行し得て、天下を畜養するの主と為る。

頤卦

【震下艮上,中互重坤】頤為乾卦,乾離也;又為坤之變體,中互重坤,是坤兼離象。前應重坤,後乾重離。卦辭中無上下往來之文,是無他卦為此卦之母。虞氏以為臨二之上,詳繹爻辭,無此義也。

【此卦の下卦は震、上卦は艮、中間の互体は両重の坤】多隆阿は曰く、頤は「干卦」に属す。すなわち或る一卦を以て骨干の卦と為すもので、それが干するは離――卦体全体が形は一箇の放大した離に似る。また坤卦の変体で、中間の互体は両重の坤。だから坤にして離象を兼帯す。前は両重の坤と相応し、後は両重の離を以て骨干と為す。頤の卦辞の中に爻位の上下往来を講ずるの文なし。見るに他卦がその母卦と為ることなし。虞翻は臨卦の第二爻が上位に昇って成ると謂うも、細繹するに爻辞にはこの意なし。

頤:貞吉,觀頤,自求口實。上下二陽,中藏四陰,體似大離而有頤象,故震下艮上之卦名頤。鄭氏曰:頤,車輔之名也,車動而上,因輔嚼物以養人,故謂之頤。頤中有物曰口實,是頤者養也。頤養之道,惟正則吉,而欲得正,既宜觀之,又宜求之,故曰觀頤自求口實也。

卦辞:頤卦、貞むれば吉、頤を観、自ら口実を求む。多隆阿は曰く、上下に各一つの陽爻、中間に四つの陰爻を有し、卦体は一箇の放大した離に似て、また面頬の象あり。だから震下艮上の卦を「頤」と名づく。鄭玄は曰く、「頤」は車輔――すなわち腮頬牙牀の名称で、下頷が上に運動して、牙牀に依りて食物を咀嚼して人を養う。だから「頤」と謂う。口の中に物を含むを「口実」と言う。見るに「頤」はすなわち養なり。養育の道は、ただ正路を行きてこそ吉。而して正を得んとすれば、観る能くするを要し、また自ら求むるを要す。だから「観頤、自求口実」。

彖曰:頤貞吉,養正則吉也。觀頤,觀其所養也;自求口實,觀其自養也。天地養萬物,聖人養賢以及萬民,頤之時大矣哉!卦之所以名頤者,象頤也。上陽為上頦,下陽為下頦,中陰空虛為口,艮為止,震為動,上止下動,頤象昭然。中互重坤,萬物之致養莫如坤,故頤又有養義也。

《彖伝》に曰く、頤貞吉は、養い正しければ吉なり。頤を観るは、その養う所を観るなり。自ら口実を求むるは、その自養を観るなり。天地は万物を養い、聖人は賢才を養いて万民に及ぼす。頤卦の当るの時義は大なるかな。多隆阿が解して曰く、此卦が「頤」と名づくは、人の面頬に象るが故。上の陽爻は上頷、下の陽爻は下頷、中間の陰爻は空虚にして口となる。艮は止、震は動、上頷は動かずして下頷は開合す。面頬の象は甚だ顕豁。卦中の互体は両重の坤で、万物をして養育を致さしむるは坤の如くはなし。だから「頤」はまた養育の義を含む。

頤養貴正,妄求者失之,靜待者得之。頤象大離,離為目,故曰觀。上陽位尊,為頤養之主,欲有以養之,先有以觀之,觀其所養,庶得養人之正也。下待上養,而下亦宜自養,自養貴自求,求養亦宜自觀,觀其自養,庶得自養之正也。震為禾稼,互坤為土,土氣甘,艮為求,故曰自求口實也。

多隆阿は曰く、養育は正を得るを貴ぶ。妄りに求取する者はかえってこれを失い、安静に待つ者はかえってこれを得。頤の卦体は一箇の放大した離に似て、離は眼目に象を取る。だから「観」。上九の陽爻は位が尊高にして、養育の主人である。彼が人を養わんとすれば、まず観る能くし、自らの養うは果たして如何なる人ぞを見清して、こそ人を養うの正に合す。下の人は上の養いを待つも、下はまた自らを養うべし。自養は自ら求むるを貴び、求養も同様に自ら観る能くし、自らの如何にして自養するかを見清して、こそ自養の正に合す。震は禾稼に象を取り、互体坤は土に象を取り、土の味は甘に属し、艮は求索に象を取る。だから「自求口実」。

且卦以兩陽分居上下,上為天位,下為地位,而夾坤眾於其間,是為天地養萬物。五以陰居君位,上九為陽,乃賢人也,中互坤為民,是為養賢以及萬民。頤為自養,此所謂自求口實也;通言養物養賢養民,此所謂觀頤觀其所養也。此頤之時也,大哉其時乎!

多隆阿は曰く、また此卦は二つの陽爻を分ちて上下両端に置き、上位は天位、下位は地位で、中間に坤の代表する衆物を夾む。これが《彖伝》の言う「天地養万物」。六五は陰爻を以て君位に居り、上九は陽爻で賢人を代表し、中間の互体坤は民に象を取る。これが「養賢以及万民」。単に頤卦に就いて自養を言えば、すなわちいわゆる「自求口実」。合せて物を養い賢を養い民を養うを言えば、すなわちいわゆる「観頤、観其所養」。これが頤卦の当るの時で、この時は大なるかな。

象曰:山下有雷,頤;君子以慎言語,節飲食。劉氏曰:山止於上,雷動於下,頤之象也。君子觀頤象,謂言語飲食如震之動,慎之節之如艮之止。初九:舍爾靈龜,觀我朵頤,凶。頤養之道,貴乎正靜,止則吉,躁動則凶。初為震主,震動於下,求食急矣。卦之全體又象大離,離為龜,初以陽居陽位,是尤龜之靈者。龜能息氣,可以靜養,爾乃舍之。爾,初也。初舍己以觀上九之頤,上九為卦主,謂之我,頤之上頦也。上頦下垂,如樹之下垂朵朵然,觀人朵頤,以羨人之食,是去靈龜之明而惟口腹是養,則失頤養之正,故凶。象曰:觀我朵頤,亦不足貴也。孟子曰:飲食之人,則人賤之。

《大象伝》に曰く、山下に雷あり、頤なり。君子は以て言語を慎み、飲食を節す。劉表を引て曰く、山が上に止まり、雷が下に動く。これが頤卦の象である。君子は頤象を観て、言語と飲食は皆震の如く妄動し易く、だから艮の如くこれを止むべしと謂う。言語は謹慎すべく、飲食は節制すべし。初九の爻辞:爾の霊亀を舎て、我が朵頤(だい)を観る、凶。多隆阿は曰く、養育の道は中正安静を貴び、止めれば吉、躁動すれば凶。初九は震体の主爻で、下にて震動し、食を求むるは未免に急なり。全卦の体勢はまた一箇の放大した離に似て、離は亀に象を取り、初九は陽爻を以て陽位に居り、さらに亀中の霊なる者。亀は息を屏え気を服して、静かに自身を養い得るを、爾はこれを舎てる――「爾」は指すは初九。初九は己を舎てて上九のあの頷を観る。上九は全卦の主爻なので、自らを「我」と称す。すなわち頤の上頷。上頷が下垂するは、樹枝の下垂して結実纍纍たるの如し。人の咀嚼を盯めて人の食物を羨むは、霊亀の如き明智を丢きて一味に口腹を養うのみ。すなわち養育の正道を失う。だから凶。《小象伝》に曰く、我が朵頤を観るは、亦た貴ぶに足らざるなり、と。《孟子・告子上》を引て曰く、飲食のみの人は、人皆之を賤しむ。

六二:顛頤【句】,拂經于丘頤,征凶。卦惟二陽,皆非二之正應。夫頤卦之義,自上求下為顛,自下求上為拂。二居下卦之中,比於初陽,是為顛頤;上卦為艮,艮為山象邱,上頤不動如山之止,是為邱頤,二往求之,是為拂經。經,吭也,《莊子》所謂熊經鳥伸是也。居震動之間而拂經若此,亦失頤養之正,前征凶矣。象曰:六二征凶,行失類也。二宜從初,前行往上,失其同類也。

六二の爻辞:顛倒して下に養いを求む。常道に違いて山丘の如き上九に養いを求むれば、前に征けば凶。多隆阿は曰く、卦中にただ二つの陽爻のみ、皆六二の正応にあらず。頤卦の義例により、上より下に養いを求むるを「顛」、下より上に養いを求むるを「拂」と言う。六二は下卦の中に居り、初九の陽に緊隣するは、これが「顛頤」。上卦は艮で、艮は山・丘に象を取り、上九のあの頷は山の如く静止して動かず、すなわち「丘頤」。六二が初九を越えてそれを求むるは、すなわち「拂経」。「経」は咽喉を指し、《荘子・刻意》の言う「熊経鳥伸」――熊の如く頸を引き鳥の如く翼を展べるの導引の術は、まさにこの「経」の字を用う。六二は震体の動蕩の間に身を処して、かくの如く咽喉の常に違い、もとより養育の正を失う。一に前に征けば凶。《小象伝》に曰く、六二が征きて凶は、行きて其の類を失えばなり、と。六二はもとより初九に従うべきを、一路に上に往きて上九に攀附す、故に自らの同類を失う。

六三:拂頤,貞凶,十年勿用,無攸利。三為震終,震動之極,以求上養,亦拂頤也。雖與上為正應,上為艮止,不應三求,三轉失頤養之正。三至五為互坤,坤為十年,必歷坤之盡始與上遇,則是十年勿用矣。不能自養,徒仰求人,遲之又久,仍無應者,幾何不飢餓而死?無攸利也。象曰:十年勿用,道大悖也。頤養之道,待至十年,大悖故凶也。

六三の爻辞:養育の道に違う、貞正に守ると雖も凶、十年も用うべからず、利攸なし。多隆阿は曰く、六三は震体の末端に居り、躁動の極点で、なお上九に養いを求むるは、これもまた「拂頤」。それは上九と正応と雖も、上九は艮に属して静止を主り、六三の求索に応ぜず、六三はかえって養育の正を失う。三爻より五爻に至るは互体坤で、坤の数は十年。必ず坤の全程を走り尽くして後、はじめて上九と相遇う。これが「十年勿用」。自ら自らを養い得ず、一味に仰ぎて人に求め、延び延びにしてなお応ずる者なし。幾何にして飢餓して死せざらんや。だから利攸なし。《小象伝》に曰く、十年用うべからざるは、道に大いに悖ればなり、と。養育の道が苦しくも十年を待たねばならぬは、すなわち大いに悖逆したを言う。だから凶。

六四:顛頤吉,虎視眈眈,其欲逐逐,無咎。四為艮止之初,是不急於求養者。雖下應初九,亦為顛頤,而擇食有漸,如虎視然。蓋艮為虎,卦體象大離,離目眈眈,視不一視也,眈眈,下視貌。虎視則有欲,而欲則逐逐有漸,不欲遽急也。逐逐,劉氏作跾跾,荀氏作悠悠,遠也,言志悠遠也。求養如此,是得頤之正者,故無咎。象曰:顛頤之吉,上施光也。初九陽光上施以養四。

六四の爻辞:顛倒して下に養いを求むれば吉、虎の視眈々(たんたん)たるが如く、其の欲は逐逐(ちくちく)たり、咎なし。多隆阿は曰く、六四は艮体の静止の開端に居り、急いで養いを求めざる者。それは下に初九と応和すると雖も、同様に「顛頤」に属するも、食を取るに次第ありて、虎の視の如し。艮は虎に象を取り、卦体はまた一箇の放大した離に似て、離は目に象を取る。「眈眈」は目を垂れて下に視るの貌で、看てまた看て、ただ一眼にあらず。虎が視すは欲望あるが故、その欲望は「逐逐」――一歩一歩にして来て、急ずることなし。「逐逐」は劉表は「跾跾」に作り、荀爽は「悠悠」に作る。皆遠の意で、志向の悠遠なるを指す。かくの如く養いを求むるは、まさに頤の正に合す。だから咎なし。《小象伝》に曰く、顛頤の吉は、上が光を施せばなり、と。これは初九の陽光が上に施与して、以て六四を養うを言う。

六五:拂經,居貞吉,不可涉大川。五不能自養,以求上養,是亦拂其經吭者。第五居艮中,口容能止,雖陰柔無才,上求賢輔,守正以居之,頤養之吉也。夫卦有二陽,上為陽,下亦為陽,但上與五比,又處高位,是為賢人;下非五應,又與五遠,位又至卑,是為萬民。求賢則足以養大體,求民僅可以養口腹。且求初九,必須歷下三陰而始得遇,水陰象,是為大川,不可涉之。言五居以求上為貞,下求於初非貞也,頤養貴正,蓋如此。象曰:居貞之吉,順以從上也。五比上遠初,下來則逆,上往則順也。

六五の爻辞:常道に違う、安んじて貞正に居れば吉、大川を渉るべからず。多隆阿は曰く、六五は自ら自らを養い得ず、上九に依りて養うを要す。これもまた自らの咽喉の常道に違う。しかし六五は艮体の中に居り、口は収めて妄動せざる能くし、それは陰柔にして才なしと雖も、上に賢人の輔佐を求むるを知り、正を守りて安んずれば、すなわち養育の吉。卦中に二つの陽爻あり、上九は陽、初九もまた陽。しかし上九は六五に緊挨して高位に居り、賢人を代表し、初九は六五の相応の爻にあらず、六五より遠く、位置は極めて卑しきは、万民を代表す。賢人に助けを求むれば、足りて大体――すなわち心志徳性を養い得、万民に助けを求むれば、ただ口腹を養うのみ。ましてや初九に及ばんとすれば、必ず下の三つの陰爻を越えてはじめて相遇い得、陰爻は水に象を取り、それはすなわち大川。だから渉るべからず。これは六五が安んじて上に賢を求むるを正と為し、下に初九に求むるは正にあらずを言う。養育の道は正を得るを貴ぶ、まさにこの理である。《小象伝》に曰く、居貞の吉は、順いて上に従えばなり、と。六五は上九に隣接し初九に遠く、下に来れば逆、上に往けば順なり。

上九:由頤,厲吉,利涉大川。卦之上下二陽,以為頤之上下頦,上為艮止,下為震動,動靜攸分,而吉凶以判。動則求養,而靜則待養;求養則養仰於人,不得人養,恐有飢餒之患;待養則能自養,自養有權,則得頤養之貞。上陽如頤之上頦,此頤之由也。上位愈高,則心愈慎,故曰厲吉。又曰涉大川者,涉中四陰也。蓋兩頦乃克飲食,且輔車有相依之義,賢人有待養之德,下涉求初,上之利也,故曰利涉大川矣。象曰:由頤厲吉,大有慶也。慶得頤養之正也。

上九の爻辞:天下の養育は皆これに由(よ)る、心に危懼を存せば吉、大川を渉るに利あり。多隆阿は曰く、卦中の上下二つの陽爻は、頤の上下両頷を充当す。上頷は艮に属して静止、下頷は震に属して運動、一動一静は分れて、吉凶もまたこれに随いて分判す。動く一端は養いを求めに行き、静なる一端は養いを待つ。養いを求めに行けば、養いは人に仰仗し、人が養うを肯ぜざれば、飢餓の患あるを恐る。養いを待てば、かえって自らを養い得、自養の主導権は手に在り、すなわち養育の正を得。上九のこの陽爻は譬うるに頤の上頷の如く、全卦の養育は皆これに由る。だから「由頤」。位置が高いほど、心はいよいよ戒慎すべし。だから「厲吉」。また「渉大川」と言うは、中間のあの四つの陰爻を跨ぐを指す。両頷相合してこそ咀嚼飲食し得、ましてや牙牀と頬骨はもとより相依為命の義あり、賢人にもまた供養を待つの徳あり。下に跨ぎて初九と相い求むるは、まさに上九の利。だから「利渉大川」。《小象伝》に曰く、由頤厲吉は、大いに慶有ればなり、と。慶ぶべきはそれが養育の正道を得たること。

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