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天数第二

唐 · 李淳风 · 第2巻 / 26

作盤ガイド: 暦注(黄暦), 万年暦

王藩者,廬江人也。吳時為中常侍,善術數。傳劉洪《乾象曆》,依乾象法而論渾天曰:前儒舊說,天地之體,狀如鳥卵。天包地外,猶殼之裹黃也。周旋無端,其形渾渾然,故曰:渾天也。

王蕃は廬江の人で、三国呉の時に官は中常侍に至り、術数の学に精かった。彼は劉洪の《乾象暦》を伝習し、乾象暦法に拠って渾天を論じていう。先儒の旧説では、天地の形体は鳥卵のようなものとする。天は地の外に包み、卵殻が卵黄を裹むがごとし。その回転・周流に起止なく、形状は浑然として円整である。ゆえに「渾天」と呼ぶ。

周天三百六十五度、五百八十二分度之百四十五半。半覆地上,半在地下。其二端謂之南極、北極。北極出地三十六度,南極入地亦三十六度,兩極相去一百八十二度半強。繞北極徑七十二度,常見不隱,謂之上規;繞南極七十二度,常隱不見,謂之下規;赤道橫絡,謂之中規。赤道帶天之紘,去兩極各九十一度少強。

周天は全部で三百六十五度および五百八十二分度の百四十五半。その半分は地面の上を覆い、半分は地面の下にある。天球の両端を南極・北極と呼ぶ。北極は地平より三十六度高く出で、南極は地平より三十六度低く、両極の相距は百八十二度半あまり。北極を環る直径七十二度の範囲内は、星辰が常年見えて隠没せず、「上規」と呼ぶ。南極を環る七十二度の範囲内は、星辰が常年隠没して見えず、「下規」と呼ぶ。赤道は天球の中腰を横に繞り、「中規」と呼ぶ。赤道は大帯のごとく天の中間に束ね、南北両極から各々九十一度あまり距る。

黃道,日之所行也,半在赤道內,半在赤道外。與赤道東交於角五度稍弱,西交於奎十四度少強。其出赤道外,極遠者二十四度,斗二十一度是也;其入赤道內、極遠亦二十四度,井二十四度是也。

黄道は太陽の運行する軌道で、半分は赤道以内の北に偏り、半分は赤道以外の南に偏する。それは赤道と東辺で角宿五度に少し足りない処で相交わり、西辺で奎宿十四度あまりの処で相交わる。赤道以外に伸出する最も遠い処は二十四度で、すなわち斗宿二十一度の所在。赤道以内に深入する最も遠い処も二十四度で、すなわち井宿二十四度の所在。

日南至,在斗二十一度,去極一百一十五度少強。是日最南,去極最遠,故景最長。黃道斗二十一度,出辰入申,日晝行地上一百四十六度強,故晝短;夜行地下,二百一十九度稍弱,故夜長。自冬至之後,日漸去極近,故景稍短。日晝行地上漸多,故日稍長;夜行地下度漸少,故夜稍短。

太陽が南行して尽頭に至るのがすなわち冬至の日で、位は斗宿二十一度にあり、北極から百十五度あまり距る。この日太陽は最も南に偏し、北極から最も遠いから、日影が最も長い。黄道上の斗宿二十一度のこの点は、辰位の東南方から升り、申位の西南方に落ちる。太陽は昼間地面以上を百四十六度あまり行くから白昼は短く、夜間地面以下を二百十九度に少し足りないほど行くから黒夜は長い。冬至以後、太陽は漸々北極に近づくから日影はやや短くなり、昼間地上に行く度数は漸々多くなるから白昼は漸々長くなり、夜間地下に行く度数は漸々少なくなるから黒夜は漸々短くなる。

日所在度漸北,以至於夏至,日在井二十四度,去極六十七度少強,是日最近北極,故景最短。黃道井二十四度,出寅入戌,日晝行地上二百一十九度多弱,故日長;夜行地下百四十六度強,故夜短。自夏至之後,日漸去極遠,故景少長。日晝行地上度漸少,故日稍短;夜行地上度漸多,故夜稍長。日所在度漸南,故日出稍南,以至於冬至而復初焉。斗二十一度,井二十四度,南北相去四十八度。

太陽の在る度数は漸々北に移し、夏至に至れば太陽は井宿二十四度に位し、北極から六十七度あまり距り、この日北極に最も近いから日影は最も短い。黄道上の井宿二十四度のこの点は、寅位の東北方から升り、戌位の西北方に落ちる。太陽は昼間地面以上を二百十九度ほど行くから白昼は長く、夜間地面以下を百四十六度あまり行くから黒夜は短い。夏至以後、太陽は漸々北極から遠ざかるから日影はやや長くなり、昼間地上に行く度数は漸々少なくなるから白昼は漸々短くなり、夜間地下に行く度数は漸々多くなるから黒夜は漸々長くなる。太陽の在る度数は漸々南に移るから、日出の処もまた漸々南に偏し、冬至に至ってまた起点に帰る。斗宿二十一度と井宿二十四度は、南北の相距が四十八度である。

春分日在奎十四度少強,秋分日在角五度少弱,此黃、赤二道之交中也,去極俱九十一度少強。南北處交斗二十一度、井一十四度之中,故景居二至長短之中。奎十四度,角五度,故曰:在赤道。出卯入酉,日晝行地上,夜行地下,俱百八十二度半強。故曰:見之漏五十刻,不見之漏五十刻,謂之晝夜同。

春分の時太陽は奎宿十四度あまりにあり、秋分の時太陽は角宿五度に少し足りない処にあり、この両処はまさに黄道と赤道の相交わる中点で、北極から皆九十一度あまり距る。それらの南北の位置はちょうど斗宿二十一度と井宿十四度の間にあるから、日影の長短もまた冬夏二至の間に居る。奎宿十四度・角宿五度のこの二点は、いわゆる赤道上にある。太陽は正東の卯位から升り、正西の酉位に落ち、昼間は地上を行き夜間は地下を行き、いずれも百八十二度半あまりである。ゆえにいう、見える漏刻は五十刻、見えない漏刻は五十刻、これを昼夜相等と呼ぶ。

夫天之晝夜,以日出為分;人之晝夜,以昏明為限。日未出前二刻半為晚,日入後二刻半為昏。故損夜五刻以益晝,是以春秋二分之漏,晝五十五刻。

天象から昼夜を算れば、日出・日没をもって分界とする。人事から昼夜を算れば、天亮・天黑をもって界限とする。太陽の未だ出ざる以前の二刻半に天色は既に微かに亮しく、太陽の落ちた以後の二刻半に天色はまだ全く黒くない。ゆえに夜から五刻を減じて白昼に加える。したがって春分・秋分の両日の漏刻は、白昼は五十五刻と算える。

王藩按:《周禮》曰:“夏至之景,尺有五寸,謂之地中。”鄭眾說云:“土圭之長,尺有五寸。以夏至之日,立八尺之表,其景與土圭等,謂之地中。今穎川陽城地也。”

王蕃按す。《周礼・地官・大司徒》にいう、「夏至の日の日影は一尺五寸の長さで、その処を地中と呼ぶ」。鄭衆の解釈にいう、「土圭という玉尺は一尺五寸の長さ。夏至の日に、八尺の高さの表竿を立てれば、その影の長さは土圭と相等しく、そこがすなわち地中で、今日の潁川郡の陽城である」。

鄭玄云:“凡日景於地,千里而差一寸。景尺有五寸者,南戴日之下萬五千里也。以此推之,日當去其下地八萬里矣。日邪射陽城,為天徑之半也。天體圓如彈圓,故地處天之半,而陽城居其中,則日春秋冬夏、昏明晝夜,去陽城皆等。

鄭玄にいう、「およそ日影が地上に投ずるは、千里相距すれば影の長さは一寸相違する。影の長さが一尺五寸の処は、それがちょうど太陽の直射の処より北一万五千里にあることを説明する。これに拠って推算すれば、太陽はその真下の地面より八万里離れているべきである。太陽が斜めに陽城に射るこの距離は、まさに天球の半径である。天体は渾円にして弾丸のごとし。ゆえに大地はちょうど天球の正中に在り、陽城はまた大地の中に居る。そうであれば、春夏秋冬・昏明・昼夜を問わず、太陽の陽城からの距離は皆相等しい」。

以勾股法言之:旁萬五千里,勾也;八萬里,股也;無盈縮矣。故知從日邪射陽城為天徑之半也。從日邪射陽城,弦也。以勾股求弦法,八之,得八萬一千三百九十四里三十步五尺三寸六分也。

勾股の法をもって講ずれば、横向きの一万五千里が「勾」、垂直の八万里が「股」で、両者とも出入りがない。ゆえに太陽から斜めに陽城に射るあの線が、すなわち天球の半径と知る。太陽から斜めに陽城に射るこの線は、すなわち「弦」である。勾股で弦を求める方法で開方推算すれば、八万一千三百九十四里三十歩五尺三寸六分を得る。

以周率乘之,徑率約之,得五十一萬三千六百八十七里六十八步一尺八寸二分,周天之數也。一度凡一千四百六里二十四步六寸四分有奇。黃、赤二道相與交錯其間,相去二十四度,以兩儀準之。二道俱三百六十五度、五百八十二分度之一百四十五半,是以知天體圓如彈丸。”

円周の率をもってそれに乗じ、また直径の率をもってそれを約すれば、五十一万三千六百八十七里六十八歩一尺八寸二分を得、これがすなわち周天の里数である。周天の毎一度は千四百六里二十四歩六寸四分あまりに合する。黄道と赤道は彼此その間に交錯し、相距は二十四度で、天地両儀をもって校准する。両道は各々三百六十五度および五百八十二分度の百四十五半を有す。これをもって知る、天体は渾円にして弾丸のごときである。

淳風按:“王藩所論,冬夏二至,春秋二分,日度交黃道所在,並據劉洪乾象所說,今則並差矣。黃道與日相隨而交,據今正觀三年乙丑歲,則冬至日在斗十二度,夏至在井十五度,春分日在奎七度,秋分日在軫十五度,每六十年餘差一度矣。

李淳風按す。王蕃の論ずる冬至・夏至・春分・秋分の時に太陽が黄道に交わる度数は、皆劉洪《乾象暦》の説に拠り、今日に至っては既に全て偏差がある。黄道は太陽に随って相交わる。今の貞観三年に按ずれば、冬至の太陽は斗宿十二度にあり、夏至は井宿十五度、春分は奎宿七度、秋分は軫宿十五度にあり、およそ六十年ごとに一度あまり相差する。(原文の「正観」はすなわち貞観で、唐人が太宗李世民の諱を避けて改めた書き方である。)

淳風今略陳新法,以考天數及渾儀交道等法如左。周天三百六十五度,及分縱橫斜側皆定耳,更無盈縮。先以銅鐵為環卷六枚,兩兩合,周徑二小四大。大者適容其五枚,各均賦三百六十五度及分。其一大者,名為平準卷,唯雕刻六十四卦十二辰,先側立二大環卷,南北側之,以平準卷交合加之,令側者為南北,徑準為主。

私は今簡略に新法を陳述し、もって周天度数および渾儀上の黄赤交道などの法を考定し、以下に開列する。周天は三百六十五度および零分で、縦横・斜側を問わず固定し、もはや伸縮・増減がない。まず銅鉄をもって六つの環圈を作り、二二相配し、周径に按って二小四大に分ける。大環の口径はちょうどその余の諸環を容れることができる。毎環の上に均しく三百六十五度およびその零分を刻む。その中の一つの大環を「平准環」と名づけ、上に六十四卦と十二地支を雕刻するのみ。まず二つの大環を側立させ、南北向に側置し、さらに平准環を交叉して套合せしめ、側立の両環に南北を定出させ、平准環の径面をもって基準とする。

一曰遊環。遊環上安釭釧,遊環著雙軸,以內大環軸孔中,令得運轉。軸中一圓長筒管。其筒孔周徑,準儀大小而斟酌之。若長八尺,即須孔徑一寸,他皆準此。其側環安釭釧之處,在北者謂之北極,出平準北面上三十六度;在南者謂之南極,入平準南面下三十六度。從其南端北向斜上望之,即見北極星。

別に一つの環を「游環」と呼ぶ。游環の上には金属の軸套と軸環を装し、環の上に二根の軸を連ねて大環の軸孔に挿入し、転動し得るようにする。軸心には円形の長筒管を装し、筒孔の周径は儀器の大小に按って斟酌決定する。筒の長さが八尺ならば孔径は一寸を要し、その余もこれに類推する。側環の上に軸套を安装する処は、北面のものを「北極」と呼び、平准環の北面より三十六度高く出で、南面のものを「南極」と呼び、平准環の南面より三十六度低い。筒管の南端から北に向かって斜めに上を望めば、北極星を見ることができる。

又以一天環加於側環外,斜絡之,令東西合於卯酉平面之準,南北上下去二極,各九十一度強,以為赤道。然後轉其中游環,令得左右、東西、上下,以當所望處,轉軸中筒孔,使得南北以測去極遠近及赤道內外之度數,然則筒孔瞻察,無所不至矣。

さらに一つの天環を側環の外に加え、斜めに套絡せしめ、その東西両端を卯酉平面の基準に合せ、南北上下は両極から各々九十一度あまり距らせ、これをもって赤道に充てる。それから中の游環を転動し、左右・東西・上下に移動し得るようにし、観測せんとする処に対準する。さらに軸心の筒孔を転動し、南北に俯仰し得るようにし、もって目標の北極からの遠近および赤道内外の度数を測量する。こうすれば、筒孔をもって瞻望観察すれば、観測し得ない処はない。

若欲安星辰者,更著從脅上屈銅鐵,穿珠為星,以放上象,隨所在次第而安置之,轉令應天皆得,此渾天遊儀之法也。按渾儀,必先以水準地使平,夜占極,晝測日景,定其經緯,然後措之矣。餘近造乙巳元歷術,實為絕妙之極,日夜法度諸法,皆同一母,以通眾術。今列之以推天度,日月五星行度皆用焉。

もし儀の上に星辰を安置せんと欲すれば、さらに環の旁側から上に向かって銅鉄の枝条を彎出させ、珠子を穿って星に当て、もって天上の星象を摹放し、各星の在る次序に依って一一に安放すれば、転動して皆天に相応する——これが渾天游儀の做法である。渾儀を制造するには、必ず先に水平の法をもって地面を校平し、夜に北極を観測し、昼に日影を測量してその経緯・方位を定出し、それから後に儀器を安置する。私は近頃《乙巳元暦》の算術を編成したが、実に精妙の極みに至った。日法・夜法・度法などの各種の法数は、皆一つの母数に同出し、よって各種の推算を貫通し得る。今それを以下に列し、もって周天度数を推算する——日月・五星の行度も皆これを用いる。

日度法:一千三百四十,以此數為一度之長分數也。周天有三百六十五度、一千三百四十分度之三百四十一。南極去北極,巡規一百八十二度、一千三百四十分之八百四十半。赤道去二極,巡規各九十一度、一千三百四十分之四百二十分、小分四分之十,即春秋分之所在度,黃、赤二道交處,去北極之遠近也。

日度法を千三百四十に定め、すなわちこの数をもって一度に含まれる分数とする。周天は全部で三百六十五度および千三百四十分度の三百四十一。南極から北極に量り、圈に沿って百八十二度および千三百四十分の八百四十半を得る。赤道は南北両極から、圈に沿って各々九十一度および千三百四十分の四百二十分を得、さらに小分四分の十を加える。これもまた春分・秋分の時に太陽の在る度数、すなわち黄道と赤道の相交わる処の北極からの遠近である。

黃道出入赤道二十四度,冬至日在赤道外二十四度,去極一百一十五度,一千三百四十分度之四百二十分、小分四分之一。夏至日在赤道內二十四度,去北極六十七度、一千三百四十分度之四百二十分、小分四分之一。此其常數也。

黄道は赤道に出入りして各々二十四度。冬至の日太陽は赤道以外二十四度にあり、北極から百十五度および千三百四十分度の四百二十分を距り、さらに小分四分の一を加える。夏至の日太陽は赤道以内二十四度にあり、北極から六十七度および千三百四十分度の四百二十分を距り、さらに小分四分の一を加える。これらは皆恒定不変の常数である。

淳風今又按張胄《玄象曆》及今傳《仁均歷》,春分、秋分,日皆在卯半以前,其沒亦在酉半以後,各四分刻之一。春、秋二分之日,晝漏五十刻半,夜漏四十九半,然則赤道、黃道交處,亦直在卯酉之北。又有北極去地三十六度,則天之正高在地中陽城之上。

李淳風今また按ずる。張胄玄の《玄象暦》および当今通行の傅仁均暦に依れば、春分・秋分のこの両日、太陽は皆卯正以前に升り、落ちるのも酉正以後で、各々四分の一刻差がある。春分・秋分のこの両日は、白昼の漏は五十刻半、黒夜の漏は四十九刻半。このように見れば、赤道と黄道の相交わる処もまたちょうど卯酉線より北にある。また北極が地平より三十六度高く出るがゆえに、天の正頂は地中・陽城の上方にある。

以四維循規去地亦九十一度,一千三百四十分度之四百二十分、小分四分之一矣。以三十六度減之,餘五十五度,一千三百四十分度之四百二十分、小分四分之一。夏至日黃道在北極南六十七度、一千三百四十分度之四百二十、小分四分之一。

四方・四隅から圈に沿って地平に量るも、また九十一度および千三百四十分度の四百二十分、さらに小分四分の一を加える。北極の出地の三十六度をもってそれを減ずれば、余は五十五度および千三百四十分度の四百二十分、さらに小分四分の一。夏至の日、黄道は北極より南六十七度および千三百四十分度の四百二十分、さらに小分四分の一にある。

是正北子地一百三度,一千三百四十分度之四百二十分有奇矣。以天頂去四維各九十一度,一千三百四十分度之四百二十分、小分四分之一減之,餘一十二度矣。是夏至日在天頂南一十二度,他悉仿此求之,皆可知也。

このように算えば、それが正北子位の地平から距るは合計百三度および千三百四十分度の四百二十分あまり。さらに天頂から四方へ各々九十一度および千三百四十分度の四百二十分・小分四分の一をもって減ずれば、余りは一十二度。これがすなわち、夏至のあの日太陽は天頂より南十二度にあることをいう。その余の各節気は皆この方法に仿って推求すれば、全て知ることができる。

是知繞北極循規徑七十二度,常見不隱;繞南極循規徑七十二度,常隱不見。去極三十六度外,一百一十度內,四時辰昏,有時而隱,有時而見,為日在其中故也。繞北極常見者,謂之上規;南極常隱者,謂之下規;赤道橫絡謂之中規焉。

これをもって知る。北極を環る直径七十二度の一圈の内は、星辰が常年見えて隠没しない。南極を環る直径七十二度の一圈の内は、星辰が常年隠没して見えない。北極から三十六度以外・百十度以内のこの一帯は、四季の晨昏の際に、あるいは隠没しあるいは出現する——太陽がちょうどその中を運行するが故である。北極を繞る常年見えるあの一圈を「上規」と呼び、南極を繞る常年隠没するあの一圈を「下規」と呼び、赤道が中腰を横繞するあの一圈を「中規」と呼ぶ。

然圖體以平物為之易辨,若作渾儀,始識於事稍難。今世供傳星圖者,蓋皆天圖,其四畔外,即是南極下規矣。分佈二十八宿距度、與黃、赤二道、上規並具焉。

ただ天体を平面図形に画成すれば辨認し易いが、渾儀を制作しようとすれば、初学の人が作るにはやや難しい。当今流伝する星図は、大都いわゆる「天図」に属し、図の四周の外はすなわち南極・下規の在る範囲である。図上には二十八宿の距度・黄道赤道二道および上規を皆一併に標画してある。

天之運也,一晝一夜,而運過周天所過之度,則一日所行之數,在天謂之一度,在歷謂之一日一夜。度之天數無常準,各隨一家之法令,一千三百四十是也。日行三百六十五日而周天,故天一周有三百六十五日有奇矣。天運渾渾然不思,東出西沒,周而復始,永無窮焉。

天の運転は、一昼一夜に周天を転じてなお一段多出する。多出のこの一段の度数は、まさに太陽の一日に行く数の目で、天上では一度と呼び、暦法上では一昼一夜と呼ぶ。一度の含む分数に固定の標準なく、各家の暦法は各々その法を自定し、本暦の取る所はすなわち千三百四十である。太陽は三百六十五日を行満して天を一周するから、天は一周して三百六十五日あまりに合する。天の運行は浑然として心なく、東方から升り西方に沈没し、周りて復始し、永く窮尽しない。

天占第三

淳風按:自黃帝占已後,向數十家,其間或真或偽,不可悉從。今略取其理當者,刪而次比,以著於篇。其間亦有出自經傳子史,但有關涉,理可存者,並不棄之,今錄古占書目於此,以表其人。自入占已後,並不復具記名氏,非敢隱之,併為是幼小所習誦,前後錯亂,恐失本真故耳。

李淳風按す。黄帝に仮託した占書以来自り、占家はほぼ数十家に及び、その中に真あり偽ありで、一概に依従することはできない。今ややその中の義理の妥当な者を取り、删削・排比を加えてこの一篇を書成した。その間にも経伝や諸子・史書に出るものがあり、占候に関わり理の保留し得るものは、皆捨てなかった。ここにまず古占書の書目を以下に録し、もって各家の所属を表明する。占辞の正文に入って以後は、もはや一々姓名を注出しない——あえて彼らを隠没するのではなく、実にこれらは皆私が幼年に誦習したもので、前後すでに錯雑しており、注を誤れば反って本真を失うことを恐れるからである。

《黃帝》、《巫咸》、《石氏》、《甘氏》、劉向《洪範》、《五行大傳》、《五經緯圖》、《天鏡占》、《白虎通占》、《海中占》、京房《易祅占》、《易傳對異占》

拠る所の古占書の書目は以下のごとし。黄帝に仮託した占書、巫咸の占書、石申の《石氏星経》、甘徳の《甘氏星経》、劉向の《洪範五行伝》、および《五行大伝》《五経緯図》《天鏡占》《白虎通占》《海中占》、京房の《易祆占》、さらに《易伝対異占》。

《陳卓占》、《郄萌占》、《韓楊占》、祖暅《天文錄占》、孫僧化《大象集占》、劉表《荊州占》、《列宿占》、《五官占》、《易緯》、《春秋佐助期占》、《尚書緯》、《詩緯》、《禮緯》、張衡《靈憲》

また《陳卓占》《郤萌占》《韓楊占》、祖暅之の《天文録占》、孫僧化の《大象集占》、劉表の《荊州占》、および《列宿占》《五官占》《易緯》《春秋佐助期占》《尚書緯》《詩緯》《礼緯》、さらに張衡の《霊憲》。以上のこれらが、本書の採録する占辞の来歴である。

夫天地者,萬物之父母也。覆載育養,左右無方。況人稟最靈之性,君為率上天之宗,天見人君得失之跡也,必極吉凶,故隨其所在,以見變異。

天地は万物の父母で、上に覆い下に載せ、万物を養育し、扶助・照顧に固定の方所がない。まして人は最も霊秀なる性情を禀受し、君主はまた上天を奉承する宗主である。上天は人君の行事の得失を見れば、必ず吉凶を極処に顕示する。ゆえに人君の応ずる分野に随って、種種の変異を顕現する。

天有災變者,所以譴告人君覺悟之,令其悔過,慎思慮也。行有玷缺,氣逆於天,精氣感出,變見以誡之。若天忽變色,是謂易常,四夷來侵,不出八年,有兵戰。若陽不足,臣盛將害君上,則天裂。

上天が災変を降す所以は、もって人君を譴責・告誡し、彼を覚悟させ、過ちを悔改し慎重重に思慮させんがためである。人君の行事に瑕疵・闕失あれば、気は上に逆って天に至り、精気が交感して出で、天は変異を顕して彼を警誡する。假如天空が忽ち色を変ずる、これを「易常」と呼び、四方の外族が来たり侵犯することを預兆し、八年を出でず、兵戦あるべし。假如陽気不足、臣下の勢い盛んにして将に君上を危害せんとすれば、天は开裂する。

按:馬續《天文志》云:“孝惠二年,天開東北,廣十丈,長二十餘丈,天裂,陽不足;地震,陰有餘:皆下盛將害上之變。”當時呂氏臨朝干位,卒有兵亂,此其驗也。

按ずるに、馬続の続いた《漢書・天文志》にいう、「漢恵帝二年、天は東北方に裂け、幅十丈、長さ二十余丈。天の开裂は陽気の不足、地の震動は陰気の有余で、皆下位の勢い盛んにして将に上位を危害せんとする変異である」。当時まさに呂后が臨朝し、君位に干犯していたが、後に終に兵乱が発生した——これがその応験である。

若天分裂,作君之亂,無道之臣欲裂國,其下之主當之。若天開見光,流血滂滂;天裂見人,兵起國亡;天鳴有聲,至尊憂而且驚。

假如天が分裂すれば、君主の乱を釀成せんとし、無道の臣が国土の分裂を図謀し、天裂の処の対する分野の君主に応ず。假如天が开裂して光亮を露わせば、流血滔滔を主る。天が开裂して人形を現ずれば、兵乱の興起・国家の滅亡を主る。天が鳴响の声を発すれば、至尊の人が憂愁し且つ驚恐することを主る。

劉向曰:春秋之前,天鳴地坼,災異並臻,其主不知驚懼修德,上帝降災,禍變必極,皆亂國之所生也。

劉向にいう。春秋以前、天が鳴声を発し、地が裂缝を開き、各種の災異が一斉に出現したが、当時の人主は警惧して徳を修めることを知らず、ここにおいて上帝が災禍を降し、禍変は必ず極に達した。これらは皆乱国のみ生じ出す現象である。

凡國亂,五星化下為之祅,而降之自天。是故歲星降為貴臣,熒惑降為童兒嬉戲歌謠,填星降為老人婦女,太白降為壯夫處於林麓,辰星降為婦女,或變化無所不為,以見異而告之也。

およそ国家が将に乱れんとすれば、五大行星は化身して人間に下降し妖異となり、この妖異は天上から降り来たるものである。ゆえに木星(歳星)は下降して顕貴の大臣に化し、火星(熒惑)は下降して児童の嬉戏・歌謡に化し、土星(填星)は下降して老人と婦女に化し、金星(太白)は下降して壮漢に化して山林に出没し、水星(辰星)は下降して婦人に化する。あるいはさらに変化不定にして為さざる所なく、怪异を顕現する方式をもって世人を告誡する。

凡天雨雜物,其類甚多。若雨禽獸,是謂不祥,不出三年,其下兵興。天雨蟲,人君不親骨肉而親他人,與裸蟲同類,故蟲從天墜地,骨肉去也。不救,兵大起。其起也,立王公,率同姓諸侯,無偏黨側,災消。

およそ天上から降る各種の雑物は種類が多い。もし禽獣を降らせば、これを不祥と呼び、三年を出でず、その一帯に兵事を興起せん。天上が虫を降らせば、人君が骨肉の至親に親しまず、反って外人に親しむことを主る。人は无毛の「裸虫」と同属するから、虫が天上から地面に墜落するは、骨肉の離散を象徴する。もし補救の法を設けなければ、大いに兵戈を起こすに至る。補救の法は、王公を分封し、同姓の諸侯を統率し、偏私せず結党せずすれば、災異は消解する。

劉向云:春秋時蟲者,蟲之災也。以刑罰暴虐而取於天下,貪叨無厭以興師動眾,聚邑治城而失眾心,蟲為害矣。故宋文公三年秋,雨蟲於宋。是時宋公暴虐重刑,賦斂無已,故應是雨蟲。

劉向にいう。《春秋》の記する「虫」とは、すなわち虫災である。暴虐の刑罰をもって天下に向かって捜取し、貪むりなく師を興し衆を動かし、民力を聚集して城邑を修筑して衆人の心を失えば、虫は災を成す。ゆえに宋文公三年秋、宋国に虫雨を降らせた。当時宋公は暴虐にして重刑を濫施し、賦税の徴斂に止境がなかったから、ここの虫雨に応験したのである。

天雨魚鱉,國有兵喪。天雨骨,是謂陽消。王者德衰,令不行,佞不用,不出三年,內有爭。天雨筋,國大飢。天雨膏如蟲,輔臣多貪,賢智隱之應也,君臣無道暴虐。天雨肉,天不享其德,將易其君。

天上から魚鼈を降らせば、国中に兵禍と喪事あることを主る。天上から骨頭を降らせば、これを「陽消」と呼ぶ。王者の徳行は衰敗し、政令は通行せず、佞人すらも彼のために用いられんとせず、三年を出でず、内部に争闘あるべし。天上から筋を降らせば、国中の大飢饉を主る。天上から虫のような油膏を降らせば、輔政の大臣が多く貪で賢能の士が隠退する応験で、また君臣が無道にして暴虐なることを説明する。天上から肉を降らせば、上天がもはやその徳を享受せず、将にこの国君を更換せんとするものである。

天雨爵錫,如甘露著樹,不出三年,改易王。白者為甘露,黃者為爵錫。天雨如水銀,是謂刑祖。不出三年,兵喪並起,亡國失土。天雨血,是謂天見其祅。不肖者不得久處其位,不出一年兵起。

天上から「爵錫」を降らせば、甘露のごとく樹上に附着し、三年を出でず、君王を更換せんとする。その中で白色のものは甘露、黄色のものが爵錫である。天上から水銀のようなものを降らせば、これを「刑祖」と呼び、三年を出でず、兵禍と喪事が一斉に興起し、国亡び土失う。天上から血を降らせば、これを上天がその妖異を顕現するという。不賢の人は久しくその位に居ること能わず、一年を出でず兵乱が興起する。

京房曰:“臨獄不解,茲謂進非,厥咎天罰。故天雨血者,茲謂不親,民有怨恐,不出三年,亡其宗人。”又曰:“佞人用,功臣棄戮,故天雨血。”

京房にいう、「案獄が久しく拖して決せず、これを人を進用するに当たらずと呼び、その罪咎はすなわち上天の懲罰である。ゆえに天に血雨を降らす、これを上下相親しまずと呼び、百姓は怨恨・恐懼を心に懐き、三年を出でず、その宗族を喪失せん」。またいう、「奸佞の人が任用され、有功の臣が棄逐・誅戮されるがゆえに、天に血雨を降らす」。

天雨毛,邪人進,賢人逃,貴人出走。天雨羽,君德不通,逆施天下。天雨金、銀、鐵、錢、花,兵將興,失道之君當之。

天上から毛を降らせば、邪佞の人が進用され、賢良の人が逃避し、貴人が出奔することを主る。天上から羽を降らせば、君主の徳沢が通達せず、政令が倒行逆施して天下に及ぶことを主る。天上から金・銀・鉄・銭・花を降らせば、兵事の将に興起せんとすることを主り、失道の君に応ず。

淳風按:“隋仁壽四年甲子諸州造舍利塔時,陝州天雨金銀花,時人以作像,象祥瑞,以奏於高祖,高祖知其非吉。其後有楊諒之亂、二世失道,斯其驗也。”

李淳風按す。隋文帝仁寿四年甲子、各州が舎利塔を建造したとき、陝州の天上に金銀花を降らせた。当時の人はそれを取って仏像を鋳造し、祥瑞に当て、高祖文帝に上奏したが、文帝は却ってこれが吉兆ではないと知った。後に漢王楊諒の叛乱が発生し、第二代煬帝もまた道を失って国を亡ぼした——これがその応験である。

天雨石,為政者質信不施,為詐妄行,國君死亡。甘氏曰:“無雲而雷,隕石墜地,大可一丈,圓形如雞子,兩頭銳,名曰天鼓。所下之邦,必有大戰,伏尸數萬,不可救。”春秋魯僖公十六年,隕石於宋五,此時宋襄公之應也。望之是星,至地為石。失其所,無光榮之象也。

天上から石を降らせば、執政の人が誠実・信義を施行せず、反って詐偽・妄為することを主り、国君は将に死亡せんとする。甘徳にいう、「雲なくして雷を打ち、隕石が地面に墜落し、大きいものは一丈に至り、形状は鶏蛋のごとく円く、両頭尖鋭で、「天鼓」と名づく。それが落下するあの邦国は、必ず大戦あり、横尸数万、挽救し得ざるなり」。《春秋》は魯僖公十六年に五塊の隕石が宋国に落ちたと記す——これはちょうど宋襄公に応験した。この物は天上に望むときは星、地面に落ちれば石となる。それが本来在るべき位を離れたのは、まさに光栄を失う象徴である。

皇甫士安曰:“殷紂暴虐,天雨灰。”天雨灰,邑君有來歸邑者。墨子曰:“商紂不德,十日雨土於毫。”天雨土,君失封。

皇甫謐(字は士安)にいう、「殷紂は暴虐にして、天に灰を降らせた」。天上から灰を降らせば、別国の城邑の君が来たり帰附することを主る。《墨子》にいう、「商紂は徳行なく、亳都一帯に十日連続して土雨を下した」。天上から土を降らせば、君主が封地を失うことを主る。

天雨五穀,是謂禾不熟。人君賦斂重數,故示戒。不出五年,國乏軍糧。天雨粟,不肖者食祿,三公易位。天雨黍豆麥粟稻,是謂惡祥。不出一年,人民父子流亡,莫知所向。

天上から五穀を降らせば、これを「禾不熟」と呼ぶ。人君が賦税の徴斂を過重・過密にするがゆえに、上天が告誡を顕示したので、五年を出でず、国家は軍糧を欠乏するであろう。天上から粟を降らせば、不賢の人が空しく俸禄を享くることを主り、三公が将に人を換えられんとする。天上から黍・豆・麦・粟・稲を降らせば、これを悪兆と呼び、一年を出でず、百姓の父子は流亡して行く所を知らざるべし。

若國君失信,專祿去賢,則天雨草。君信讒,臣不和,天雨草木,其歲人多兵死。天雨釜甑,歲大豐穰。此釜甑適如小錢許大,從地中生出,餘親見之。其中有如小麻黍粟大,世人謂之蒸餅,豐穰之驗也。

もし国君が信義を失い、禄位を独占して賢人を斥退すれば、天上は草を降らす。国君が讒言を聴信し群臣が不和ならば、天上は草木を降らし、その年百姓は兵禍に死する者多し。天上から「釜甑」を降らせば、年成の大豊収を主る。この釜甑形の物は、大小ちょうど小銭一枚のごとく、地の中から生じ出る——私はかつて親しく見たことがある。その中に小麻・黍・粟ほどの顆粒があり、世人はこれを「蒸餅」と呼び、豊収の験証である。

天雨絮,其國將喪,無後有兵。天雨櫱,君有咎。天雨墨,臣多陰謀。天火燒國郭門,其地有謀人慾發。天光蟠邑城門,其國圍。天火焚宗廟社稷,大殃,國將亡主。

天上から棉絮を降らせば、その国家に喪亡あるべく、君主は後を絶ちまた兵禍あることを主る。天上から曲蘖を降らせば、君主に災咎あることを主る。天上から墨を降らせば、臣下に陰謀多きことを主る。天火が国都の外城門を焼毁すれば、その処に陰謀の人が将に難を発せんとすることを主る。天上の光が城邑の城門に盤繞すれば、その国家が囲困せらるべきことを主る。天火が宗廟・社稷を焚焼するは、極めて大きい災殃で、国家が君主を失うべきことを主る。

淳風按:“漢魏時,造作宮室過度,而頻有天災,其後尋有兵亂。隋末大業十二年,東京災宮,西京災顯揚門。至十三年,二邑並被圍沒,即絕其宗廟社稷,亦天告之驗。”

李淳風按す。漢・魏の時、宮室の營造が過度であったがゆえに、屡々天火の災があり、その後まもなく兵乱があった。隋末・大業十二年、東京洛陽の宮中に失火があり、西京長安の顕揚門に失火があった。十三年に至り、両京ともに囲攻され陥落し、宗廟・社稷も随って断絶した。これもまた上天の預告した応験である。

天雨下物,非人所聞見者,皆大兵也。其災見所主國分,應發遠近。皆在略例篇中。

天上から降る物で、およそ人がかつて聞き見たことのないものは、皆大兵あることを主る。この類の災異はそれが主る国家の分野に応じ、その応験の遠近・遅速は皆《占例》篇に載っている。いわゆる「国分」とは、この一片の天区が分配される邦国・地域のことで、すなわち「分野」である。

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