叙
作盤ガイド: 八字作盤
古の殺を用神とし官を雑えて制ある例
八字命理典籍
初学はまず体例の整った通論の書で枠組みを立て、次に歌賦類、最後に評注と進むのがよい。断語集から入ると、結論は覚えても導出の過程を組み立てられないことが多い。
神峰子曰:天之所賦者命,窮達夭壽,繫諸氣稟之先,雖聖賢在儒,莫能移易。故君子居易以俟命,唯不知命,無以為君子。然命之理,溯其原則肇於軒轅氏,始有干支之降,師大找作甲子,遂以人之年月日進所生,謂之命焉。蓋與天賦之命,其揆一也。
神峰子は言う。天が人に賦与するものが「命」である。窮通か顕達か、夭折か長寿かは、いずれも天地の気を禀受したその瞬間にかかっており、人が生まれるはるか前に定まっている。儒門の聖人・賢人であっても、それを動かし変えることはできない。だから君子は平易な所に身を安んじて天命を待つ。天命を知らなければ君子とは言えない。さて推命の理の来歴をその源に遡れば、黄帝軒轅氏に始まる。そのとき初めて天干地支が降され、大撓が六十甲子を作り、ここに人の出生の年・月・日・時をもって人を表し、これを「命」と呼んだ。この人為的に推し出される命と、天が賦与する命とは、その道理がもとより同一である。
但始無書稽考,至唐袁守成,始作《五星》指南書,呂才作《合婚書》,一行禪師作星曆書,五代有《轆轤》書;前宋有《殿駕》書,南宋遼金有《喬拗》書,元有耶律楚材書,裴大猷有《琴堂虛實》,均以人之生年,五行納音所屬,身命限度為之主,七曜四餘為之用。至有明徐均作《子平》書,專以日干為主本。
ただ初めは査考できる成書がなかった。唐代に至って袁守成が初めて《五星指南》の書を著し、呂才が《合婚書》を編み、一行禅師が星度を推歩する暦書を編んだ。五代には《轆轤》の書、北宋には《殿駕》の書、南宋と遼・金には《喬拗》の書、元代には耶律楚材の著作があり、裴大猷には《琴堂虚実》があった。これらの書はいずれも人の生年、その年の「納音」が属する五行、および「身宮」「命宮」と行限度数を主体とし、さらに日・月と木・火・土・金・水の「七曜」と羅・計・気・孛の「四余」を取用の具とした。本朝明代に至って徐均が《子平》の書を作り、初めて専ら出生日の天干を命の根本とした。
月令為用神,歲時為輔佐。籲!命書之作,至此盡矣。其故何歟?蓋五星之說,只是以生年為主,月與日時或遺焉;或以納音為主,干與支或遺焉。熟若子平之理,獨得其中,日通月氣,歲與時為脈終,日為身主,月為巢穴,歲與時為門戶,得於此而不遺於彼,通於上而不遺於上,抑有餘,補不足,中正之道,孰得是焉。
《子平》の書は出生月の月令を「用神」とし、年柱と時柱を補佐とした。ああ、命理の著作はここに至って書き尽くされたと言ってよい。どうしてそう言えるか。五星一派の説は生年だけを主とし、月柱と日・時はしばしば捨て置かれ、あるいは「納音」だけを主として天干・地支がかえって置き去りにされる。これらがどうして子平の理に及ぼうか。子平こそただ中道を得ている。日干は月令の気と通じ、年柱と時柱は気脈の首尾であり、日干は「身主」、月令はその巣穴、年柱と時柱はその門戸である。この一端を取ってもあの一端を遺さず、上下貫通して偏廃がなく、余あるを抑え、不足を補う。この偏らない中正の道に、いったい誰が及ぼうか。
餘涉獵群書,頗領旨趣,獨觀命理,有《五星指南》、《琴深嘗書》、《淵海子平》書,理出於正,立法之善,但其中間頗有不根之言,進退之說,無確然一定示人之見。後世緣此,立說益多,益滋人惑,雖授受不過襲謬。殆若行書者迷道,問盲人指示焉。
私は諸家の著述を渉猟し、いくらかその旨趣を会得してきた。単に命理の書に限って言えば、《五星指南》《琴深嘗書》《淵海子平》の数種は、義理はおおむね正途に出ており、立法も整っていると言える。しかし書中には根拠のない言葉が少なからず挟まり、前後に進退して自己矛盾し、確然として動かず後人に示しうる定見を出せていない。後の人々はこの隙に乗じて立説を増やし、ますます人を惑わせ、師弟間の伝授も旧来の誤りを襲うにすぎなかった。まさに道に迷った旅人が、盲人に道を尋ねるようなものである。
是以究之窮取,僻壤,盡皆招搖售術,聽其言則是,校其理則非,竟無一人能埒其堂陛而是撮其樞要也。嗚呼!非惟誣人,實自誣也,子深慨焉。由是究心此道,四十餘年,一理恍然有得,始覺其理有正途,斷無旁出。
そこで目を放てば、窮郷僻壤から大都邑まで、詐欺まがいに術数を売り歩く者で溢れている。彼らの言うことを聞けばもっともらしいが、義理に照らせばまったく成立せず、ついに一人として真に堂奥に入り、この学問の枢要を掴んだ者はいない。ああ、これは人を欺くばかりでなく、実に己をも欺くことだと、私は深く慨嘆した。そこで私は心を尽くしてこの道に励み、前後四十余年、あるとき忽然としてその理に悟るところがあり、ここに初めて命理に正路があり、決して傍門を生じないことを覚ったのである。
立五星正說,五星謬說,子平諸格正說,子平諸格謬說,動靜說,蓋頭說,六親說,病藥說,雕枯弱旺損益生長八法說,人命見驗說,蓋取諸尊崇正理,闢諸謬說之意,因名之曰:《命理正宗》,付諸剞劂,以分同好,庶可有補六藝中之萬一云爾。臨川西溪逸叟張楠敘。
そこで私は次の部目を立てた。「五星正説」と「五星謬説」、「子平諸格正説」と「子平諸格謬説」、「動静説」「蓋頭説」「六親説」「病薬説」、「彫枯弱旺損益生長」の八法の説、そして実際の命例で検証する「人命見験説」である。趣旨は正理を推尊し謬説を駁斥するという一義にあり、よって書名を《命理正宗》と定め、刻工に渡して印行し、同道の人々に分かち贈る。礼・楽・射・御・書・数の「六芸」の学に万分の一の補益があれば幸いである。臨川・西溪逸叟・張楠、叙。
五星正説類
安身命宮,原取逢卯安命,逢酉安身,其理何歟?然卯屬東方正木,木主仁,仁主壽,故以命宮寓焉。酉屬西方之方正金,金主義,義主宜,故以身宮寓焉。然命宮為受胎之初,故以仁木主之,仁有生生之道也。身宮為受胎之後,故以義方之,義有成身之道也。身命之立,其原於此,理出於正也。
星命家が「身宮」「命宮」を立てるのは、本来の規矩では卯位に数えて「命宮」を安じ、酉位に数えて「身宮」を安じる。その道理はどこにあるか。卯位は東方の正木に属し、木は五常で「仁」を主り、仁はまた寿数を主るから、「命宮」をここに寓する。酉位は西方の正金に属し、金は五常で「義」を主り、義は処事の得宜を主るから、「身宮」をここに寓する。さらに言えば「命宮」は受胎の初めに当たるから仁の木をもってこれを主る。仁には生々不窮の道がある。「身宮」は受胎の後に当たるから「義」をもってこれを正しくする。義にはこの身を成す道がある。身・命二宮の安立の根源はここにあり、その義理は正途に出ている。
安星辰法,當以《五星指南》為之體,《琴堂》、《殿駕》為之用。體可祖之,而為造命之矜式;用可則之,而為禍福之根底。若《喬拗》,若《加盤》,若《步天經》,俱以命宮為祖。如寅亥二宮屬木,畏金克這,喜之生之。卯戌二宮屬火,辰酉二宮屬金,申巳二宮屬水,子丑二宮屬土,午屬太陽,未屬太陰,生克之例同前。
星辰を安布する方法は、《五星指南》を本体とし、《琴堂》《殿駕》の二家を応用とすべきである。本体は師法して命盤を排造する準則とし、応用は取則して禍福を判断する根柢とする。《喬拗》《加盤》《歩天経》の諸家も、いずれも「命宮」を根本とする。十二宮に配する五行は、寅・亥の二宮は木に属し、金星に剋されるのを畏れ、水星に生ぜられるのを喜ぶ。卯・戌の二宮は火、辰・酉の二宮は金、申・巳の二宮は水、子・丑の二宮は土に属し、午宮は太陽、未宮は太陰に属する。各宮の相生相剋の推し方は、上の木宮の例と同じである。
獨午屬太陽,被木星遮蔽光,其理頗非近正。然太陽為萬物之尊,穹隆於萬仞之上,木豈能蔽焉。但喜金水以伴之,其理甚是。未屬太陽,未土計以獨之,喜火羅金以護之。但諸星生克俱當以命而論,未可以身宮論之,善命在身先也。
ただ一条だけ通らない話がある。旧説では午宮は太陽に属し、木星にその光を遮られるというが、この言い方は正理にまったく近くない。太陽は万物中最も尊貴なもので、万仞の上に高く懸かっているのに、木星がどうしてそれを蔽えようか。むしろ金星・水星が傍らに相伴うのを喜ぶと言うのは、まことに正しい。未宮は太陰に属し、未中の土気と計都星が独りその位を占め、火星・羅睺星・金星が来て衛るのを喜ぶ。ただし諸星の間の生剋は、いずれも「命宮」の上から論ずべきで、「身宮」をもって論じてはならない。「命宮」はもとより「身宮」の先に列しているからである。
限行於命宮之後,而不從身為廬舍,蓋命屬身之先也。胎之後,即以命宮為廬舍。人之禍福,但當究諸命宮:有何恩星?有何難星?如難星守命,主一生孤苦;恩星守命,主一生富貴。如命宮無星辰之可考,當以三合宮看,如坐寅,則看午戌宮也。如三合無,則看四正宮。但四正宮,頗不近理。如命宮畏金為難,行限亦畏之。凡諸財帛田宅等宮,俱同此也,此係五行生剋,正理之說也。
大限を行くのは「命宮」の後から起算するのであって、「身宮」を房舎とはしない。「命宮」がもとより「身宮」の先にあるからであるるる。受胎の後は「命宮」をもって一命の房舎とする。人の禍福を推し断ずるには、ただ「命宮」の上で追及すればよい。宮に何の「恩星」が坐っているか。何の「難星」が坐っているか。「難星」が命宮を守れば一生孤苦を主り、「恩星」が命宮を守れば一生富貴を主る。もし「命宮」中に考るべき星辰がなければ、三合の宫位を見る。たとえば命が寅宮に坐すれば、午宮と戌宮を見る。三合宮にもなければ、ようやく四正宮を見るが、四正宮の段はかなり理に合わない。凡そ「命宮」が金星を難星として畏れるなら、行限が金星の地に至っても同じく畏れる。そのほか財帛宮・田宅宮なども推し方はすべてこれと同じである。これらはみな五行生剋の道理に基づく正説である。
度主,即以木度所屬。如寅宮立命,纏尾火虎度,即以水克火星度星,為劃度星,即以木恩星,但論度為準。則又有一說焉:或命宮所喜,或又度主所忌,一喜一忌,將何為主?然但以命宮為主,其理則近,若又以度論之,由惑人心矣。劃度則以張剔谷《劃度歌》為則。
いわゆる「度主」とは、命度が属する星宿によって定めるものである。たとえば寅宮に命を立て、命度が尾火虎の宿に纏われば、水星をもって火星という度星を剋し、これを「劃度星」と称し、木星を「恩星」とする。すべてただ命度をもって準とする。ここでまた一説が生じる。ある星は「命宮」の喜ぶところで、同時に「度主」の忌むところだという。一喜一忌、いったいどちらを主とすべきか。私の考えでは、ただ「命宮」を主とすれば道理に近い。さらに命度をもって論ずれば、かえって人心を惑わすことになる。劃度の法については、張剔谷の作った《劃度歌》を準則とする。
若日月木火土金水為正七曜星,若羅星則為水之奴,計星則為土之奴,氣星則為木之奴,孛星則為水之奴,此為四餘星。然七曜星命限逢之,見禍或淺;四餘星命限逢之,見禍式烈。何也?七曜主星屬君子,四餘奴星屬不人,狐假虎威,正理然也。
太陽・太陰と木・火・土・金・水の五星は、正統の「七曜」である。羅睺は水の奴星、計都は土の奴星、気星は木の奴星、孛星は水の奴星で、この四星を合わせて「四余」と言う。ところが命限の上で「七曜」に遇えば、見る禍患はかえって浅く、「四余」に遇えば、見る禍患はことさら烈しい。どういうわけか。「七曜」は主星で君子に譬え、「四余」は奴星で小人に譬える。小人は狐が虎の威を借るがごとく、禍をなすこといよいよ甚だしい。もともとこの道理である。
五星諸書之立,惟《五星指南》,所立起八字,安身合,安星辰,節氣五行生剋之理,此係看命之門戶,不可無也,其餘同則陳諸五行謬說類內。又若《五星》、《琴堂》、《殿駕》、《加盤》、《步天經》俱屬正理。但五星之說,近正理者頗少,近謬說都頗多也。
五星一派の立てた諸書のうち、《五星指南》だけが八字を排し、身宮・命宮を安じ、星辰を安布し、節気と五行生剋の道理を立てている。これは命を見る門戸であって、なくてはならない。そのほか雷同する部分は、ひとしきり下の「五星謬説類」に置いて論じる。また《五星》《琴堂》《殿駕》《加盤》《歩天経》の数家も、なお正理に属する。ただし総じて言えば、五星の学で正理に合うものはかなり少なく、謬説に近いものがかなり多い。
五星謬説類
夫金木水火土,原天一生水,地二生火,即以水一、火二、木三、金四、土五次第列之。後類景即是以海中、爐中、大林、路旁之妄說配其納音五行為歌,使後人可以成誦。夫何後世妄以海中爐中無理之說,立為門戶。
金・木・水・火・土の五行は、旧説のいう「天一生水、地二生火」に本づき、水一・火二・木三・金四・土五の順序で並べられる。後の人々は記誦の便のため、「海中金」「炉中火」「大林木」「路旁土」といった際限のない名目を「納音」五行に配して歌訣に編み、後学が暗誦できるようにした。どうして後世にいたり、海中・炉中のようなもとより義理のない名目を真に受けて一家の門戸を立てたのであろうか。
若《三車一覽》、《望斗真經》、《耶律經》、《玉井奧訣》、《蘭臺妙選》等書,俱不以祖其身命限度,近理之事為言,漫以江山、水石、道風、道雨言之,又以人之生年、十二支生肖所屬,論人吉凶,夫何謬也!
《三車一覧》《望斗真経》《耶律経》《玉井奥訣》《蘭台妙選》などの書は、いずれも「身宮」「命宮」と行限度数という、まだ義理に近いものを本として立論することなく、ひたすら江山・水石・道風・道雨の類の辞藻で文を繕い、また人の出生した年の十二支に配した生肖をもって人の吉凶を論じている。なんと謬っていることか。
蓋原生肖本以十二禽獸身中各欠一件肖者似也,以十二禽獸似此也。如鼠欠光,牛欠牙,虎欠項,兔欠唇,龍欠聰,蛇欠足,馬欠瞳,猴欠脾,雞人賢,豬欠筋,皆以十二支所生肖此也,全不關係人之八字干支。妄以此生肖而論命耶,然以人所生之年地支一字而論,如剜人肉而貼己肉,血氣實不相通。
生肖の由来は、もともと十二種の禽獣の身にそれぞれ一物が欠けているというだけの話で、「肖」とは似るという意味であり、十二種の禽獣で十二支を比喩するにすぎない。たとえば鼠は目光を欠き、牛は上の歯を欠き、虎は首項を欠き、兎は上唇を欠き、竜は耳聡を欠き、蛇は四足を欠き、馬は瞳仁を欠き、猿は脾臓を欠き、鶏は腎臓を欠き、猪は筋を欠くというが、いずれも十二支に禽獣を配して似たところを取っただけで、人の八字の干支とは少しも関わりがない。強いて生肖をもって命を論じ、しかも出生した年の一つの地支だけで説を立てるのは、他人の肉をえぐり取って己の肉に貼るようなもので、血気はまったく通じ合わない。
且如今宜黃縣顯宦譚二華命,庚辰甲申丁未丙午,本然八字是身強殺淺,行殺旺地,貴封萬戶之候,其理甚是。舍此正說,謬言其命屬龍,得丁未丙午日時,謂之龍天河,以龍遇水龍為極貴。
たとえば今の宜黄県の顕官・譚二華の命を挙げよう。八字は年柱が庚辰、月柱が甲申、日柱が丁未、時柱が丙午である。これはもともと「身強殺浅」の格局である。日主の丁火は申月に生まれて令を失するが、坐下に未土があって根を通じ、時上に丙午があって身を助け、月干の甲木がなお火を生ずるので身が強い。身を剋す官殺の水は申中の壬水・辰中の癸水に蔵するだけで天干に透らないので「七殺」が軽い。だからこそ「七殺」の水が旺わえる地を行けば発し、ついに万戸侯に封ぜられたのであり、この道理はよく合っている。旧説はこの正理を捨てて、むやみに彼の生肖が竜で、丁未・丙午の日時を得たのを「竜天河」と称し、竜が水竜に遇うのを極貴とした。
假如有一貧命,是庚辰甲申癸亥癸亥,亦可以龍歸大海論之,何以極貧?蓋緣此八之水多,以水為病,再行北方之運,以水濟水,正謂北祿逐馬,守窮途而犧惶也。且如人屬雞狗鍺羊,跡有貴人命,請問將何理論之?二者所說俱謬。
仮にもう一つ貧賤の命があり、年柱が庚辰・月柱が甲申・日柱が癸亥・時柱が癸亥だったとすれば、同じように「竜帰大海」と論じうるではないか。それなのになぜ極貧なのか。原因はこの八字に水が多すぎることにある。日・時の両干がともに癸水で、坐下には二重の亥水があり、さらに申中の壬水・辰中の癸水が一斉に助けるので、水がこの命の「病」となる。さらに北方の水運を行けば、水をもって水を添えることになり、まさにいわゆる「北禄逐馬」で、窮途を守って彷徨うほかない。それにまた、鶏・狗・猪・羊に属する人の中にも、明らかに大貴の命がある。ではどの道理をもってこれを解くのか。生肖のこの二説は、いずれも謬説であることが分かる。
一《五星指南》,載破碎吞啖等殺,及小兒雷公金鎖斷橋休庵百日,四柱雞飛等關。中以生年一字,以犯某時甘日為言,又立險語,哭斷不過三歲死,及打腦斷橋之說,以驚人之父母,並不以八字干支生剋制化財官論之。且以正理搜尋,尚且禍福不驗,此只把一字以定生死,以實謬說也。
さらにもう一条ある。《五星指南》には「破碎」「吞啖」といった凶殺、および小児の関煞の「雷公」「金鎖」「断橋」「休庵」「百日」「四柱」「鶏飛」などの関が載っている。これらはいずれも出生年の一字を取り、某時某日を犯したと言い、また故意に人を怖がらせる言葉を造り、啼き止まず三歳まで生きられないとか、「打脳」「断橋」などと言って、親たる者を驚かすことに用いる。八字干支の生剋制化と財官の旺衰から立論することはまったくない。思うに、正理に照らして細かく推尋してさえ禍福が必ずしも験しないのに、ただ一字をもって人の生死を定めようとは、まさに徹頭徹尾の謬説である。
呂才作《合婚書》,豈有是理耶?蓋人之婚姻,由於月老硷書,赤強繫足。今之擇婚擇命,無過欲盡父母愛子之心。男之擇女也,八字貴看夫子二星;女之擇男也,八字貴得中和之道。夫何以下文男女所噩這諸般為忌,其理甚謬,說見下文。如俗諺云:此是來蠻經。蓋滅退蠻人,羞與中國為婚,故將此無下理之說,以哄滅之,其理或是。
呂才が《合婚書》を編んだが、どうしてこのような理があろうか。人の婚姻は、もともと月下老人の簿書に定められ、赤い糸で足を結ばれたものである。今、婚を択び命を択ぶのは、ただ父母の子を愛する心を尽くそうとするにすぎない。男が女を択ぶには、その八字に「夫星」「子星」の二つを見るのが貴い。女が男を択ぶには、その八字が中和の道を得ているかが貴い。それをどうして《合婚書》の下文では、男女の犯す種種の名目をことごとく禁忌として挙げるのか。その理は甚だ謬っており、弁ずるところは下文に詳しい。諺にいう、これは「来蛮経」であると。かつて蛮人を押し退けたとき、中華が彼らと婚を通ずるのを恥とし、この下らない理の説を造って彼らを欺き喪わせたものだ——そう言われれば、なるほど道理にかなう。
骨髓破鐵掃帚六害:大敗、狼籍、飛天、狼籍、八敗、孤虛謬說。此說原止是將人之禍不與日地相關,斷頭絕腳為說,不特立諸空言,而且刻諸版籍,立險語,以駭人之聽信。後世愚夫婦,遂以為真,或有斯犯,即駭而驚;或有高明,知其果於應驗,以破其說,彼亦不信,且言曰:只讀儒書,未諳此理。或亦酷信,遂使下愚之人,曰此上人尚且信之,我何疑焉!一犬吠形,百犬吠聲。
「骨髓破」「鉄掃箒」「六害」、および「大敗」「狼藉」「飛天狼藉」「八敗」「孤虚」といった謬説は、もともと人の禍福を日柱や時地に何ら関わりのないものとして、頭を刈り脚を絶って一組の辞に仕立てたものである。それは空言に留まるばかりか、版に刻んで刊行され、人を聳動させる険語を造って、聞き信じさせようとする。後世の愚夫愚婦はこれを真実とし、自らこれを犯したと聞けばたちまち驚駭して色を失う。たまに見識の高い人が、これらの説がまったく応験しないと知ってこれを破っても、彼らは信じようとせず、「あれは儒書を読む人で、この理に暗いのだ」と言う。また読書人の中にもこれを酷く信ずる者がいるので、見識の低い者は、「あの上等人さえ信じているのだから、私が何を疑おう」と言う。一頭の犬が影を見て吠えれば、百頭の犬が声に応じて吠える。
又或儲備了,果係偏枯,太弱太旺,有病無約,兼帶謬說,愚人且不以儲備字正理不好為說,只浪怨帶此謬說之害,又蔌浪聽愚人諺語,飛天狼籍是八敗耶,此非君子之言,齊東野人之語也。愚謂此等妄語,刊諸版籍,必須焚其版,火其書,而後可出。
またある場合には、その人の八字が確かに偏枯で、弱きに過ぎるか旺きに過ぎるかして、「病」があって「薬」がなく、たまたまこれらの謬説の名目を帯びていることがある。愚昧な者は、八字そのものの義理が悪いという筋からは言おうとせず、ただこれらの名目を帯びたために害を受けたとむやみに怨み、さらに軽々しく愚人の俗諺を聞き信じて、「飛天狼藉」すなわち「八敗」だなどと言う。これは君子の言ではなく、斉東の野人の妄語である。私が思うに、この種の妄語は版に刻んで刊行されている以上、その版を焚き、その書を火に付して、後にすることこそよい。
進財退財,望門守寡,妻多厄,夫多厄,死墓絕妨妻,死墓絕妨夫,斯說之謬,原止以人之生年金木水火土納音所屬,只論年月以上一字犯之。嗚呼,豈有是理耶!只論年月,丟下日時不論。年月日時全備,方能論得人之禍福。
「進財」「退財」「望門守寡」「妻多厄」「夫多厄」、および「死墓絶妨妻」「死墓絶妨夫」という一連の説の謬りは、もともと人の生年の「納音」が属する金・木・水・火・土だけを取り、しかも年柱・月柱の上の一字が犯すかどうかだけを論じることにある。ああ、天下にこのような理があろうか。年・月だけを論じて、日柱・時柱をいっさい捨てて顧みない。年・月・日・時の四柱が全く備わってこそ、人の禍福を論じうるのである。
且進財退財,繫乎自己命運所招,安有他人家男女而能致我之禍福耶?俗說退九年,退十年,益見此說益也。又有金輿祿,以馬前一位所犯一字,浪以男人為忌,其謬之甚何惑人之甚耶!
それに財の進み退きは、自分の命と運が招くものであって、他家の男女が我に禍福をもたらす道理があろうか。俗に「九年退ける」「十年退ける」という説もあり、いよいよこの種の言い方の浮薄さを示している。また「金輿禄」なるものがあり、駅馬の前一位の一字を取るだけで、乱暴に男子の忌みと定める。謬りがこの極に達して、なお人を惑わせること甚だしとは、どうしたことか。
婦命禍福淫亂,式以八敗、桃花殺為道忌。八敗則以豬羊犬吠春三月,蓋以亥未戌生人,見三月生者,遂為之八敗,並不聯屬日時,並不論其夫子和之道。假如亥未戌三個生人,見此辰月,終不然是他仇家也,亦非天地將此此辰月虧負此三人也。八敗之說,其謬甚矣。
婦人の命の禍福と淫乱を論ずるに、旧法はつねに「八敗」「桃花殺」を大忌とする。いわゆる「八敗」とは、「猪羊犬が春三月に吠ゆ」という句で、亥・未・戌の三つの年に生まれた人が、さらに三月に生まれれば「八敗」を犯したとする。日柱・時柱にはまったく連属せず、その人の「夫星」「子星」が調和するかどうかも論じない。思うに、亥・未・戌の年生まれの三種の人が一つの辰月に遇うとして、その辰月がどうして彼らの仇家であろうか。天地がこの辰月だけを取り出してこの三種の人を負かすわけでもあるまい。「八敗」の説は、まことに謬りの甚だしいものである。
又桃花殺之說曰:寅午戌兔從犯裡出。蓋其立說之意何耶?其寅午戌屬火,火則裸形,沐浴於卯,謂其火在卯上,浴水有裸體之嫌,妄立此名,其謬可知矣。吾嘗屢見富貴夫子兩全老婦,幼帶八敗,父母另將年命改造適人,及至臨終,始夫子真造,以紀譜券,其夫又無大敗之對。乃我嘗將此婦真造視之,果係夫子星秀,理得中和,八敗謬說果然也。
次に「桃花殺」の説。歌訣に「寅午戌は兎が卯の裏から出る」とある。立説の趣意はどこにあるか。寅・午・戌は三合して火局を成し、火は十二長生で卯に「沐浴」する。「沐浴」の一位はまた「裸形」と呼ばれるので、火が卯の上に至って水に浴すれば裸体の嫌疑があるとして、むやみに「桃花」の名を被せたのである。その謬りは知れるだろう。私はかつて、夫・子ともに備わって富貴に老いる婦人を屡々見たが、幼時にまさに「八敗」を帯びており、父母が別に年命を造り換えて嫁がせ、臨終に至ってようやく真の生辰を語って族譜・婚券に記した。その夫の側にも何ら「大敗」の応験はなかった。私がこの婦の真の八字を取り上げて見れば、果たして「夫星」「子星」がともに清秀で、義理も中和を得ていた。これで「八敗」の説が果たして謬説にすぎないことが分かる。
又或本然八字偏枯,夫子星虧,又帶八敗,世俗之人,只謂其帶敗,不知其八字本然不差了。故人擇女之命,但以夫星為主,子星次之,柱中若有夫星,便以夫星論之,原無夫星,另尋他格。蓋夫貴妻亦貴,夫貧妻亦貧,富貴從夫,其理甚明。
また別の場合もある。もともと八字が偏枯で、「夫星」「子星」がともに欠け、たまたま「八敗」を帯びている。世俗の人はただ彼女が「敗」を帯びたというだけで、その八字そのものがもともと良くなかったことを知らない。だから人のために女の命を択ぶには、ただ「夫星」を主とし、「子星」をこれに次ぐものとする。柱中に「夫星」があれば「夫星」から論じ、もともと「夫星」がなければ別の格局を探して見る。夫が貴ければ妻も貴く、夫が貧すれば妻も貧しい。富貴は夫に随うもので、この道理は明らかである。
何以名其官星為夫?蓋克我者,官星也,則身受制於夫,不敢淫亂,不敢妒暴。又喜夫星生旺之運,及有財神助起其夫,大畏食神傷官之運,以克其夫也。若日方弱,夫星太旺,帶有二三重者,此非好夫也,乃命之夫也,則喜食神傷官以制之,大運亦然。若制之太過,則又不足,貴得中和。
なぜ「官星」を夫と呼ぶのか。我を剋する者が「官星」だからである。日主は夫に制せられて、淫乱も敢えてせず、嫉妬や暴戻も敢えてしない。だから女命は「夫星」が生旺する運を行くのを喜び、また柱中に「財」星があって夫を生助するのを喜ぶ。最も畏れるのは「食神」「傷官」の運で、これらが夫を剋するからである。もし日主の側が弱く、「夫星」が旺きに過ぎて柱中に二三重も帯びていれば、これは良い夫ではなく、人の命を索める夫である。このときはかえって「食神」「傷官」がこれを制服するのを喜び、大運も同じである。ただし制しすぎれば「夫星」がまた不足を嫌う。つねに中和を得るを貴ぶ。
大抵女命有夫則有子,子則從夫生,無夫則無子,子從何處覓?愚曾欲覓河準橋黃女為子婦,閱其八字不美拒之,是己未丁丑甲寅甲子。愚曰用丑中辛金為夫也,嫌未中丁火,鑽入丑中,破去其夫星,再加丁火透出天干,寅中又有丙火進氣,原夫星衰,而制夫星旺也。吾推其運,入寅五月必死,果五月患痘疹而頑強也。
おおよそ女命は夫があって初めて子があり、子は夫から生まれる。夫がなければ子もなく、子をどこに求めようか。私はかつて河准橋の黄氏の娘を嫁に迎えようとしたが、その八字を閲して美しくないので断った。その八字は年柱が己未、月柱が丁丑、日柱が甲寅、時柱が甲子である。私は言った。甲木の日主は丑中に蔵する辛金を取って「夫星」とすべきところ、未中の丁火が丑中に鑽り入る——丑・未が一冲すれば、未裏の丁火がまっすぐ丑裏の辛金を剋して「夫星」を破り去る。これに丁火がまた月干に透し、寅中には丙火が蔵して進気している。これがすなわち「夫星」はもともと衰弱し、「夫星」を制する火がかえって極旺なのである。私がその大運を推すと、寅運に入った五月には必ず死すとあり、果たして五月に痘疹を患って不治となった。
又如淫亂娼婢之說,亦甚有理。蓋或身主太旺,無夫星以制之,或又無財星以為依託,尤且身主血氣太旺,無官剋制,無夫管攝,逾於規矩準繩之外,安得不放逸為淫為奔乎!非特無夫,又且無子。蓋八字柱中無夫星,則子星何而生也?
また婦人が淫乱して娼妓・婢妾に淪落するという説は、かえって道理がある。おおよそ日主が旺きに過ぎて、「夫星」がなくこれを管制するものがなく、また「財星」がなくて依託するものがない。加えて日主の血気が旺きに過ぎ、「官」に制せられず夫に管摂されなければ、行いは規矩準縄の外に出て、どうして放逸して淫をなし奔をなさずにいられようか。夫がないばかりでなく、子もまたない。四柱の中に「夫星」がなければ、「子星」はどこから生まれるであろうか。
又或身主太弱,被其偏官正官,三四點夫星以制之,又無食神傷官以制其夫星,又或財多以撓其身主,雖曰官殺為夫也,此則非夫星也,乃克身之賊也。若有此等,必須制夫之運。又若日主無根,官殺太多,或從夫星,要行夫星旺處,蓋棄命從殺從夫,如人舍命而從強賊也。亦主富貴有子,但畏見從。
またある種は日主が弱すぎて、「偏官」「正官」の三四点の「夫星」に一斉に剋制され、「食神」「傷官」がなくて「夫星」を制するものがなく、あるいは「財」が多くて日主を撓耗する。このとき「官殺」は夫だと言っても、実はもう「夫星」ではなく、身を剋す賊である。このような命に遇ったら、必ず夫を制服する運を行かなければならない。さらにもう一種は日主に根気がまったくなく、「官殺」が多すぎるので、思い切って「夫星」に従う。これには「夫星」の旺盛な地を行くのがよく、これを「棄命従殺」すなわち夫に従うという。人が命を捨てて強賊に依るようなものである。この命もまた富貴で子ありを主るが、行運がこの「従」の局面を破るのを畏れる。
苟或日主有根,而惟官殺太旺,又無剋制,多是為婢為娼,是不得已而從人也。此等八字,俱繫淫亂。或因八字有此旺身弱之病,而又帶桃花,愚人不言八字偏枯之病,而浪以帶桃花為名,此等之謬,有智之士,請當細察。
もし日主そのものに根があって、ただ「官殺」が旺きに過ぎて制するものがなければ、多くは婢妾・娼妓となり、已むを得ずして人に従うのである。この種の八字は、いずれも淫乱の命に属する。ある人の八字にはもともと殺旺身弱という「病」があり、たまたままた「桃花」を帯びているのに、愚昧な人は八字偏枯の病根を言おうとせず、むやみに「桃花を帯びた」という名目を付ける。この種の謬りは、見識ある人はどうか細かく辨じてほしい。
男女合婚説
原出呂才蠻滅之說,只以男女年,浪立數目,配合相成,名曰合婚。妄立天醫福德為上婚,游魂歸魂為中婚,五鬼絕命為下婚,其謬甚矣。安可只以男女二年命,舍去月與日時,而能論人婚配者乎?若是有理,則天下之議婚者,俱擇上中二婚者而配之,擇下婚者而舍之,其書其易而不難,宜乎天下先天奇之婦,喪偶之矣。夫何後世又有孤孀之患者?
合婚の法はもともと呂才の蛮人を圧服した言い分に出て、ただ男女二人の出生年を取り、むやみに数の目を配して、相配する名目を湊り合わせ、これを「合婚」と呼んだ。「天医」「福徳」を上婚、「遊魂」「帰魂」を中婚、「五鬼」「絶命」を下婚と妄立したのは、謬りの甚だしいものである。どうして男女の二つの年命だけを取り、月・日・時をことごとく捨てて、人の婚配を断ずることができようか。もし道理があるというなら、天下の議婚する者はみな上婚・中婚を択んで配り、下婚を択んで捨てればよいのであって、この学問はなんと易しく難しくないことか。理の上では天下に先の奇い婦も寡を喪する者もいなくなるはずだ。それなのに、どうして後世にも孤孀の患があるのか。
分雖出於宿世之所定,而亦由於議婚者之明也。然議婚之禮,人道之端,亦不可不慎也。其理當何如耶?但當看男命,帶比肩劫財重者,必擇婦命帶傷官食神重者配之。若婦命帶傷官食神重者,必擇男命帶比肩劫財重者配之。此係合婚之正理。豈可以呂才上中下三婚無根之說,無據之理,而議人之婚配也耶!呂才說之謬,不足信也明矣。
縁分はもとより宿世の定めたところに出るが、また議婚する人の眼力にもよる。議婚の礼は人倫の端緒であって、まことに慎まざるを得ない。それでは正しい道理はいかなるものか。ただ男の命を見ればよい。その八字に「比肩」「劫財」が重いものは、必ず「傷官」「食神」が重い女の命を択んで配する。逆に女の命に「傷官」「食神」が重いものは、必ず「比肩」「劫財」が重い男の命を択んで配する。これが合婚の正理である。どうして呂才の上上・中・下三婚という根柢も憑据もない説をもって、人の婚配を議することができようか。呂才の説の謬りで信ずるに足らないことは、すでに明らかである。
総論子平謬説類
格曰:如《珞錄子》,專以財官為主,據其為說亦謬矣。雖人身以財官為依據財官太旺,日主太弱,則身主不難任其財官。苟日主太旺,財官氣輕,則財官不足身主之理。以財官日主參看。若子平書云:“財官輕而日旺,運行財官最為奇。”此主至此至當可為看命之法則。右《珞錄子》所言,止要財官生旺,不看日主旺弱,豈不甚謬乎?
格を論ずる者が言う。《珞琭子》の書のように、専ら「財」「官」を主とするのは、その説に拠って言えばこれも誤りである。人の一身はもとより「財」「官」を拠り所とするが、「財」「官」が旺きに過ぎ日主が弱すぎれば、日主はその「財」「官」を担いきれない。もし日主が旺きに過ぎて「財」「官」の気が軽ければ、「財」「官」は日主の取り用に足らない。だから「財」「官」と日主を両方参照して見なければならない。子平の書に「財官軽く日旺なれば、運行財官最も奇なり」とある。この一句は至極妥当で、命を見る法則とすることができる。上に挙げた《珞琭子》の言うところは、ただ「財」「官」が生旺すればよいとして日主の旺弱をまったく見ない。これは大いなる誤りではないか。
日貴格,如甲戊庚牛羊,乙巳鼠猴鄉之類也。焉有斯理。雖曰天乙貴人,日主臨此貴人之上,或作日貴論其體咎。然貴人之說,名有數端,原取名之不據理出。即與五星小兒、諸多關妄謬之說同。雖曰日主臨之,不論財官印星,獨以貴人為主,甚為虛誕。且原立諸多貴人之說,只是飄空而立,不根理出。豈可信乎?六乙鼠貴格,亦同此例。謬說無疑也。
いわゆる「日貴格」とは、「甲戊庚は牛羊、乙巳は鼠猴の郷」の類の貴人を取る歌訣によって立てた格である。どうしてこんな理があろうか。それが「天乙貴人」で、日主がたまたま貴人の上に坐するので「日貴」として吉凶を断ずるというが、「貴人」の名にはもともと数種あり、命名に義理上の根拠がなかった。五星家の小児関煞の類の妄説と同じ種類のものである。日主がこれに臨めば、「財」「官」「印」の正規の星神を問わず、ただ貴人を主とするというのは、まことに虚誕である。しかも当初立てられた多くの貴人の名目は、いずれも空に漂って立てたもので、義理を根柢としていない。どうして信じられようか。「六乙鼠貴格」もまた同じ例で、疑いなく謬説である。
日德格有五:甲寅、戊辰、庚辰、壬戌曰也。何以見其為德也?不考原委,不詢來歷,誤以日德名之,豈不是子平中之謬說乎?魁罡格,取壬辰,庚戌、庚辰、戊戌,臨四墓之上,取其為魁罡,難掌大權,並不以理論。何以臨此四墓之上就能掌握威權?此亦子平書之大謬也。
「日徳格」には五つの日があり、甲寅・戊辰・庚辰・壬戌などの日である。何をもってこれらの日が「徳」と見なせようか。その原委を考えず、来歴を問わず、誤って「日徳」の名を付したのであって、まさに子平の中の謬説ではないか。また「魁罡格」は、壬辰・庚戌・庚辰・戊戌の四日を取り、辰・戌・丑・未の四墓の上に臨むから「魁罡」と称し、大権を執れると言うが、道理をまったく問わない。何をもってこの四墓の上に臨むだけで威権を掌握できると言えようか。これも子平の書の大謬である。
六壬趨艮,謂用寅中甲木,能合己土,為壬之官;謂用寅中丙火,能合辛金,為壬之印。俱是無中生有之說,吾恐謬也。大抵與前拱祿、飛天、祿馬之說,相為表裡。此說尤非,故以謬名之也。
「六壬趨艮」の格は、寅中に蔵する甲木を取り、甲は己土を合せ得るので己土は壬の「正官」だと言い、また寅中に蔵する丙火を取り、丙は辛金を合せ得るので辛金は壬の「正印」だと言う。いずれも無中生有の講釈で、私は誤りと見る。おおよそ前の「拱禄」「飛天禄馬」の諸説と表裏をなすもので、この説はとりわけ成立たないので、謬の名をもってこれに帰した。
六甲趨乾,謂該上乃天之門戶,謂甲日生人臨此,謂之趨乾。假如別日干生臨亥上,何以不謂之趨乾也?然天門亦只好此六甲日主來趨也。然天門體至圓,本無門戶可入,然乾乃西北之界,類天之門戶,豈可論人禍福乎?此說是子平之謬也。
「六甲趨乾」の格は、亥位を天の門戸と言い、甲日生まれの人が亥の上に臨めば「趨乾」と呼ぶという。しかし別の日干で亥上に生まれ臨むものは、なぜ「趨乾」と言わないのか。まさかこの天門は六甲の日主だけに趨ることを許すのか。そもそも天体は渾円で、もとより入るべき門戸はない。乾は西北の方位の界にすぎず、無理に天の門戸に比しただけのもので、どうしてこれをもって人の禍福を論ぜられようか。この説も子平の謬である。
勾陳得位,以戊為勾陳,其一理也。得位謂其臨財官也,若戊己身主不柔,則能任財官也,則謂這勾陳位也。宜矣。若戊己氣弱,臨其財宮太旺之地,或為財多身弱,或為殺重身輕,若以勾陳得位為美,豈不謬首?玄武當權,與此理相同也。
「勾陳得位」の格は、戊土を「勾陳」と称し、この一段はまだ理がある。いわゆる「得位」とは日主が「財」「官」の地に臨むことである。もし戊・己の土の日主が柔弱でなく、その「財」「官」を担えれば、「勾陳得位」と称してもよいだろう。しかし戊・己の気が弱く、かえって「財」「官」の旺きに過ぎる所に臨み、あるいは「財多身弱」、あるいは「殺重身軽」となるとき、なお「勾陳得位」を美格とするのは謬りではないか。壬・癸の水を「玄武」とする「玄武当権」の格も、理はこれとまったく同じである。
從革格,謂庚辛日干,見申酉戌全,或巳酉丑全,此多剝雜,原非純粹可睹,與壬癸潤下格理同,此二格多矣。未曾有富貴者,但當以別理推之。止有曲直稼穡二格多富貴,火全巳午未格,亦未見其美。由是尊其所正,而闢其所謬也。
「従革格」とは、庚・辛の日干が地支の申・酉・戌三位を具備するか、巳・酉・丑の三合が全いのを言う。このような八字は多く駁雑で、もともと純粋として観るべきものではなく、壬・癸の日の「潤下格」と理は同じである。この二種の格局は多く見たが、真に富貴であったことはなく、やはり別の道理によって推すべきである。ただ木の「曲直」と土の「稼穡」の二格だけは富貴が多く、火局の巳・午・未が全い格も、その美を見ていない。これによって私は正理に合うものを尊び、謬れるものを闢くのである。
