盐铁论 · 第4巻
詔聖五十八大論五十九
詔聖五十八 大論五十九
雜論六十
雑論六十
欽定四庫全書
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鹽鐡論
鹽鐡論
提要
提要
【臣】等謹案鹽鐡論十二卷漢桓寛撰寛字次公汝南人宣帝時舉為郎官至廬江太守丞昭帝始元六年詔郡國舉賢良文學之士問以民所疾苦皆請罷鹽鐡酤與御史大夫桑宏羊等建議相詰難寛集其所論為書凡六十篇篇各標目實則反覆問答諸篇皆首尾相屬後罷酤而鹽鐡則如舊故寛作是書惟以鹽鐡為名葢惜其議不盡行也書末襍論一篇述汝南朱子伯之言記賢良茂陵唐生文學魯萬生等六十餘人而最推中山劉子雍九江祝生於桑宏羊車千秋深著微詞葢其著書之大防所論雖食貨之事而言皆述先王稱六經故諸史皆列之儒家黃虞稷千頃堂書目改史部食貨類中循名而失其實矣明嘉靖癸丑華亭張之象為之注雖無所發明然事實亦粗具梗槩今並錄之以備考核焉乾隆四十三年六月恭校上
【臣】ら謹んで案ずるに:《鹽鐵論》十二巻は、漢朝の桓寛の撰です。桓寛は字を次公といい、汝南の人です。宣帝のときに郎に挙げられ、官は廬江太守丞に至りました。昭帝の始元六年、詔で郡国に賢良文学の士を挙げさせ、民間の疾苦を問いました。彼らはみな鹽鐵・榷酤(底本ではこの字は生僻字で、転写後に欠落。すなわち酒専売の「榷」)を廃止することを請い、御史大夫桑弘羊らの建議と互いに詰難し合いました。桓寛は彼らの議論を集めて書とし、全部で六十篇です。各篇には題目が標してありますが、実際は繰り返しの問答で、各篇は首尾が連なっています。のちに榷酤は廃止されましたが、鹽鐵は以前のままでした。ですから桓寛がこの書を作るにあたり鹽鐵のみを名としたのは、あの議論が完全には行われなかったことを惜しんだのです。書末の《雑論》一篇には、汝南の朱子伯の言を記し、賢良の茂陵唐生、文学の魯万生ら六十余人を記し、もっとも推重したのは中山の劉子雍と九江の祝生で、桑弘羊・車千秋については深く微詞を加えています。これが彼の著書の大旨です。論じたのは食貨の事ですが、言葉はみな先王を称述し六経を称引するので、諸史はいずれもこれを儒家に列しました。黄虞稷の《千頃堂書目》は史部食貨類に改めましたが(底本の「入」字は生僻字で転写後に欠落)、名に循って実を失ったものです。明の嘉靖癸丑に、華亭の張之象が注を作りました。発明こそありませんが、事実もおおまかな梗概を備えています。今、あわせて録して考査に備えます。乾隆四十三年六月、恭しく校して上りました。
總纂官【臣】紀昀【臣】陸錫熊【臣】孫士毅
総纂官【臣】紀昀【臣】陸錫熊【臣】孫士毅
總校官【臣】陸費墀
総校官【臣】陸費墀
張之象注鹽鐵論原序
張之象注鹽鐵論原序
張子曰餘嘗謂文學政事孔門設教判為兩科要之皆儒者之能事通一無間者也是故學優乃仕仕優乃學此烏可以偏業語之哉借所謂文學雲者而不通政事則空言無當殆非達儒之謂矣餘於桓氏鹽鐡論不獨好其文蓋多其善言政事焉夫君子非患不文也患不適用耳乃世之防士雲者徒騁章句之學而中無卓見牽合雷同阿狥逢迎多所顧忌不能一張膽正言吐露忠赤畢展其志何者大抵以干祿為累得失動心雖欲抗論不可得已苟如是則上負天子下負所學是尚可以為士乎夫士貴立志亦貴養氣志不立則中懦氣不養則外怯孔子曰三軍可奪帥也匹夫不可奪志也孟子曰我善養吾浩然之氣且雲説大人則藐之勿視其巍巍然蓋君子求諸已而已其用其舍其得其失當自有任其責者於我何與焉孔子欲行王道東西南北七十説而無所遇孟子亦奔走齊梁所如不合道之不行豈孔孟之罪哉然萬世之下六經昭如七篇具在道頼以傳至今不泯説者謂夫子賢於堯舜孟子功不在禹下信哉言也漢興百有餘載敦尚儒術文學賢良皆誦法孔孟知所自好其議罷鹽鐡酒均輸憤切時政貫綜國體至能以韋布直詆公卿辯難侃侃無少假借不降其志不餒其氣雖古稱國士何以加焉當其時雖不見用卒乃頼桓氏採録為書遂至不朽後之儒者試取而讀之不以俗學自困則志意奮待問而發臨文不遜盡言不諱將以堯舜待其君伊周待其相孔孟待其身又何疑懼之有如其不遇則從吾所好簟瓢陋巷帶索鼓琴以詠先王之風不然或撰造一家之言建不朽之業寄知音於後世亦可矣詩云優哉防哉聊以卒嵗此之謂也蓋古之人得志則澤加於民不得志修身見於世達則兼善天下窮則獨善其身囂囂如也何必枉道求合哉夫一言之間推見心術窺測至隠若是乎言之不可不慎也漢武帝時頗多防士後先奏對各異其説董生一言主正公孫氏一言主和至觀其終世行業亦以類判如其所言自此以降則文學賢良茂陵唐生九江祝生劉子雄魯萬生者聲稱孝昭之世跡其行事雖不少概見然深考其説立意較然不詭於道其為孔孟之徒也必矣往餘嘗師事涇野呂公西馬公學儒者言朂餘以立志養氣之説自孔孟求之毋曲學以阿世及指稱漢代作者此書為最其言治理並可施設儒者之能事畢在是也嗟乎哲人既逝雅訓猶存不敢廢墜謹為註釋因著其説如此若鹽鐡終始之詳餘別有序姑蔵之山中以俟知者此不具載雲嘉靖癸丑閏三月朔旦雲間張之象序
張之象が言います:私はかつて言いました。文学と政事は、孔門の教えを設けて二科に分けましたが、要するにどちらも儒者のなし得る事で、通ずれば本来一つで隔たりはありません。ですから学に優れてはじめて仕え、仕えて優れてまた学ぶのです。これをどうして一業に偏する言でいえましょうか。もし文学といいながら政事に通じなければ、空言で当たらず、決して通達の儒者ではありません。私が桓氏の《鹽鐵論》について、ただその文章を喜ぶだけでなく、政事をよく論じることを重んじるのはこのためです。君子は文なきを憂えず、用に適さぬを憂えます。世のいわゆる士人(底本は「防士」と作る。「防」字は疑わしく誤りか)は、ただ章句の学に馳せ、胸に卓見なく、牽合雷同し、阿諛逢迎して顧忌多く、一たび胆を張って正言し、忠心を吐き、志向を尽くして施展することができません。なぜでしょうか。おおむね禄を求めることに累わされ、得失に心を動かされるため、抗論しようとしてもできないのです。このようであれば、上は天子に負け、下は学んだところに負けます。これでも士といえましょうか。士は志を立てることを貴び、また気を養うことを貴びます。志が立たなければ内に懦弱し、気が養われなければ外に怯懦します。孔子が言いました:「三軍は帥を奪うべし、匹夫は志を奪うべからず。」孟子が言いました:「我は善く我が浩然の気を養う。」また大人を説くにはこれを藐視し、その巍巍たるを見るなかれと言いました。君子はただ自らに求めるのみです。用舎得失には自らその責を担う人があり、我に何の関がありましょうか。孔子は王道を行わんとして、東西南北に七十回遊説して遇合しませんでした。孟子も斉梁に奔走し、至るところ合いませんでした。道の行われぬは、どうして孔孟の罪でありましょうか。しかるに万世の下、六経は昭明し、《孟子》七篇は存し、道はこれらによって今日まで伝わって滅びません。論ずる者は夫子は尭舜より賢く、孟子の功は禹に下らないといいます。この言は信じるに足ります。漢が興って百余年、儒術を崇め、文学賢良はみな孔孟を誦法して、自ら好むべきを知っていました。彼らが鹽鐵・酒榷・均輸の廃止を議し、時政に憤切し、国体を貫通して、韋帯布衣をもって直ちに公卿を詆り、侃侃として弁難し、少しの仮借もなく、志を降ろさず気節をくじかせなかったことは、古のいわゆる国士でも、どうしてこれを超えましょうか。当時は用いられませんでしたが、終に桓氏の採録によって書となり、こうして不朽に至りました。後の儒者が試しに取って読めば、俗学に困らされず、志意は奮発し(底本ではこの字は生僻字で転写後に欠落)、問われて発することを待ち、文に臨んで謙遜せず、言を尽くして避諱せず、尭舜をもってその君を期し、伊尹・周公をもってその相を期し、孔孟をもって自身を期するならば、何の疑懼がありましょうか。遇わなければ我が好むところに従い、簞瓢陋巷、索を帯び琴を鼓して、先王の風を詠ずるのです。そうでなければ、あるいは一家の言を撰造し、不朽の業を建て、知音を後世に託してもよいのです。《詩經》に言います:「優哉游哉、聊か以て歳を卒えん。」(底本は「優哉防哉」と作る。「防」は「游」の誤り)これをいうのです。古の人は志を得れば恩沢を民に加え、志を得なければ身を修めて世に見えました。達すれば兼ねて天下を善くし、窮すれば独りその身を善くし、安然として自ら得ます。どうして道を枉げて合を求めましょうか。一言の間に心術を推見し、最も隠微なところを窺測できます。言はこのように慎まざるべからざるものです。漢武帝の時、士人は頗る多く(底本は「防士」と作る)、前後の奏対はそれぞれ説を異にしました。董仲舒は一言で正を主張し、公孫弘は一言で和を主張しました。彼らの終生の行業を見れば、また類に従って分かれ、まさに彼らの言うとおりです。これより後、文学賢良の茂陵唐生、九江祝生、劉子雄、魯万生は、名声を孝昭の世に称えました。彼らの行事を考えるに大いに見えるものはありませんが、その説を深く考えれば、立意は清く、道に背かず、彼らが孔孟の徒であることは定まっています。かつて私は涇野の呂公、西某の馬公(底本ではこの字は生僻字で転写後に欠落)に師事し、儒者の言を学びました。彼らは私に立志・養気を勉励し、孔孟に求め、学を曲げて世に阿るなといい、また漢代の作者はこの書を最とするといいました。それは治を講じて行うべく、儒者のなし得る事はすべてここにあります。哲人はすでに逝き、雅正の訓誡はなお在ります。廃墜することを敢えてせず、謹んで注釈をなし、よってこの言をここに述べます。鹽鐵終始の詳細については、別に序があり、しばらく山中に蔵して知る者を待ちます。ここでは詳しく記しません。嘉靖癸丑閏三月朔旦、雲間張之象序。
欽定四庫全書
欽定四庫全書
鹽鐵論卷一
鹽鐵論巻一
漢桓寛撰
漢桓寛撰
明張之象注
明張之象注
夲議第一
夲議第一
