Libo

第四章

清 · 陈梦雷 · 第26巻 / 34

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

第四章言易道之大,聖人用之而窮理盡性以至於命。易與天地準,作易聖人亦與天地準也。易與天地準,故能彌綸天地之道。此節言易道之大也。易,指易之書而言。易書卦爻具有天地之道,與之齊準,故於天地之道能彌也。彌者,彌縫。合萬為一,使渾然而無欠。又能綸之。綸者,絲綸。一中有萬,使燦然而有條。彌而不綸則空疎無物,綸而不彌則判然不屬。彌如大德之敦化,綸如小德之川流也。

第四章は《易》の道の大きさを説き、聖人がそれを用いて事理を窮め、本性を尽くし、天命を知るに至ることを論じる。《易》は天地と等しく、《易》を作った聖人もまた天地と等しい。経文にいう、「易は天地に準(なら)う、故に能く天地の道を彌綸(みりん)す」と。この節は《易》の道の大きさを説く。「易」とは《易》という書物を指す。《易》の書の卦爻には天地の道が備わり、天地と斉しく準じているから、天地の道に対して「彌(び)」をなすことができる。「彌」とは彌縫、すなわち万殊を一に合し、渾然として欠けのないようにする。また「綸」をなすことができる。「綸」とは糸の筋で、一体の中に万殊を含み、燦然として条理あるようにする。彌あって綸なければ空疎にして物なし。綸あって彌なければ支離滅裂で連属しない。「彌」は《中庸》のいう「大徳の敦化」にたとえ、「綸」は「小徳の川流」にたとえることができる。

仰以觀於天文,俯以察於地理,是故知幽明之故。原始反終,故知死生之說。精氣為物,逰魂為變,是故知鬼神之情狀。此窮理之事也。以者,聖人以易之書也。易者,陰陽而已。幽明死生鬼神,皆陰陽之變,天地之道也。天文地理,《本義》謂天文有晝夜上下,地理有南北高深。《大全》謂晝明夜幽,上明下幽,觀此見天文幽明之所以然。

経文にいう、「仰いで以て天文を観、俯して以て地理を察す。是の故に幽明の故を知る。原(もと)め反(かえ)して終わる、故に死生の説を知る。精気は物を為し、遊魂は変を為す。是の故に鬼神の情状を知る」と。これは理を窮める事である。「以」の字は、聖人が《易》の書を取って観察することをいう。《易》とは陰陽の二字に過ぎない。幽明・死生・鬼神は、皆陰陽の変化であり、すなわち天地の道である。天文地理について、《周易本義》は天文に昼夜上下の別があり、地理に南北高深の別があるとし、《周易大全》は昼を明、夜を幽、上を明、下を幽とし、これによって天文中の幽明の所以然を見ることができるとする。

南明北幽,高明深幽,察此見地理幽明之所以然。此亦不過粗舉大凡,亦不盡此也。天文顯而在上,觀之可見。地理隱而下,必察其詳。又天文遠而成象,難於細察。地理近而有形,又非觀之所可盡也。

南を明、北を幽、高を明、深を幽とし、これによって地理中の幽明の所以然を見ることができる。ただしこれもあくまで大凡を粗挙したに過ぎず、これに尽きるわけではない。天文は顕露して上にあり、仰げば見えるから「観」という。地理は隠蔵して下にあるから、必ず細かく察しなければならず、「察」という。さらに天文は遠くて象を成すのみで細察し難く、地理は近くて形が実在するが、一望して尽くせるものでもない。

就天文地理分言之,似天文明而地理幽。而天文地理中又各有幽明,如日月雷風見於象者為明,其藏而不見處即為幽。山澤水火之隱藏未見者為幽,其有形可見即為明。以易之陰陽,知天文地理之有幽明。以易之陰中有陽陽中有陰,知天文地理中之幽中有明明中有幽。陽極陰生則漸幽,陰極陽生則漸明。終古天地皆如此。知其所以然之理,所謂知幽明之故也。

天文と地理を分けていえば、天文は明で地理は幽のようだが、天文の中にも地理の中にもそれぞれ幽明がある。日月雷風のように象となって現れるものは明で、蔵して見えない所は幽である。山沢水火の隠伏して未だ見えないものは幽で、形あり見えるものは明である。《易》の陰陽を用いれば天文地理に幽明があることが分かり、《易》の陰中に陽あり・陽中に陰ありを用いれば、天文地理の幽中に明あり・明中に幽あることが分かる。陽は極まれば陰が生じ、そこで漸く幽に転じ、陰は極まれば陽が生じ、そこで漸く明に転ずる。亘古より天地は皆このようであった。その所以然の理を知ることが、いわゆる「幽明の故を知る」である。

原者,推之於前。反者,要之於後。天地之化,雖生生不窮。然有聚必有散,有生必有死。以易中陰陽二氯之聚,推其所以始,則可以知生之說。說謂言其理也。耳目之聰明為精,口鼻之噓吸為氣。人之生也。精與氣合而有物,故為神。精滅則魄墮於地,氣絕則魂逰於天。人之死也。魂與魄離而為變,故為鬼。

「原」とは前に推し進めてその端緒を窮めること、「反」とは後に要約してその終結に帰することである。天地の造化は生々して窮まりないが、聚あれば必ず散あり、生あれば必ず死がある。《易》中の陰陽二気の聚合を取って、その始まる所以の理を推し窮めれば、「生」の説を知ることができる。「説」とはその理を言い明かすことである。耳目の聡明は「精」に属し、口鼻の呼吸は「気」に属する。人が生きている間は、精と気が合して形体となるから「神」に属する。精が滅すれば魄は地に堕ち、気が絶えれば魂は天に遊ぶ。人が死ねば、魂と魄が相離れて変化を生ずるから「鬼」に属する。

蓋在生謂之精氣,在死謂之魂魄。離合聚散,屈伸往來於天地之間謂之鬼神。然要不出於易之陰陽可知也。蓋精也魄也,皆陰之屬也。氣也魂也,皆陽之屬也。精氣為物,陰陽二氣聚而為神也。而神又陽之屬,則精氣者陽中之陰陽也,游魂為變,陰陽二氣散而為鬼。而鬼又陰之屬,則魂魄者陰中之陰陽也。

大略していえば、生きている間は精・気と呼び、死んだ後は魂・魄と呼ぶ。この離れ合い・聚り散じて、屈伸往来して天地の間にあるものを鬼神という。要するに《易》の陰陽の外に出るものではなく、これは推知できる。精と魄は皆陰に属し、気と魂は皆陽に属する。「精気物を為す」とは、陰陽二気が聚合して神となることである。神そのものはまた陽に属するから、精気は陽中の陰陽である。「遊魂変を為す」とは、陰陽二気が離散して鬼となることである。鬼そのものはまた陰に属するから、魂魄は陰中の陰陽である。

人生謂之氣,死謂之魂。乃夢中不謂之氣而謂之魂者,蓋當其睡夢,生而有死之形。氣雖未絕而精不用事,故魂與魄離而有夢,此又陽中之陰也。人生謂之神,死謂之鬼。乃正人君子死不謂之鬼又謂之神者,蓋浩然之氣死而全生之理。精雖已滅而氣猶不散,故魂能舉魄而為神。

人は生きている間を「気」といい、死を「魂」という。ところが夢を見る時は気と言わず魂というのは、睡夢の中では、生きていながら既に死者の形態があるからである。気は未だ絶えずとも精が既に事を主らないから、魂と魄が暫く相離れて夢境を生ずる。これはまた陽中の陰である。人は生を「神」、死を「鬼」という。ところが正人君子は死して鬼と言わず仍お神というのは、浩然の気が、死してもなお生の理を全うするからである。精は既に滅したが気はなお散じないから、魂がその魄を提挈して神となることができる。

此又陰中之陽也。正人君子之死,游魂之變而為神。伯有為厲之屬,游魂之變而為鬼。鬼者,歸也。亦漸歸於澌滅而已。神者,伸也。在天為星辰,在地為河嶽,正氣常伸。此又聖人之所以貴陽賤陰,扶陽抑陰之意乎。

これはまた陰中の陽である。正人君子の死は、遊魂の変となって神となるもの。《左伝》に載る鄭国の伯有が死して厲鬼となり祟りをなした類は、遊魂の変となって鬼となるものである。「鬼」とは「帰」であり、ただ漸々消尽に帰するのみである。「神」とは「伸」であり、天に在っては星辰、地に在っては河岳、一筋の正気が常に伸びて屈しない。ここにまた、聖人が陽を貴び陰を賤しみ、陽を扶け陰を抑える用意が見えるであろう。

而要其聚散以近,則陰陽之變化而不可窮詰。而其自無之有,自有之無則無極。太極而生陰陽,陰陽仍歸於無極,此鬼神之情狀可以易知之者也。《大全》楊氏曰,禍盈福謙,鬼神之情。如在其上,如在左右,鬼神之狀。於義亦通,但未盡其所以然之故耳。

その聚散を総括して近く観れば、それは陰陽の変化で窮め尽くせない。その無より有になり有より無になるに至れば、それは無極である。無極にして太極、太極にして陰陽を生じ、陰陽はまた仍りて無極に帰する――これが鬼神の情状であり、《易》理をもって推知できる。《周易大全》に楊氏の説を載せる。盈満する者に禍を受けさせ、謙退する者に福を得させるのは鬼神の「情」、《中庸》のいう「その上に在るが如く、その左右に在るが如し」は鬼神の「状」であると。この言は義においても通じるが、ただ所以然の故を説き尽くしていない。

與天地相似,故不違。知周乎萬物而道濟天下,故不過。旁行而不流。樂天知命,故不憂。安土敦乎仁,故能愛。上文言易與天地準,故可即易以窮天下之理。此言聖人之道似天地。

経文にいう、「天地に相似たり、故に違わず。知は万物に周(あまね)くして道は天下を済す、故に過(あやま)たず。旁行して流れず、天を楽しみ命を知る、故に憂えず。土に安んじ仁に敦(あつ)し、故に能く愛す」と。上文は《易》が天地と等しいことを説き、故に《易》によって天下の理を窮めることができるとした。ここでは聖人の道が天地に相似ていることを説く。

而所以似天地者,用易道以盡其性而已。天地之功大矣。準之者易,似之者聖人。易本無體故言準。如平準之準,均一無間。聖涉有為故言似。如形似之似,順適乎自然。天地聖人本無二道,列之為三,則相似而已。唯相似,故先天後天而不違也。此句統言之。以下不過不憂能愛皆不違之事。

聖人が天地に似ることができるのは、ただ《易》の道を用いて自らの性を尽くすからに他ならない。天地の功は極めて大きい。それと斉しいのが《易》であり、それに相似るのが聖人である。《易》自体には形体がないから「準」という。平準の準のように均斉画一で間隙がない。聖人は作為があるから「似」という。形似の似のように自然に順適する。天地と聖人は本来二つの道ではないが、ただそれを並列して三とするから「相似」というのである。まさに相似ているからこそ、《乾・文言》のいう「先天にして天も違わず、後天にして天時を奉ず」も、違背する所がない。「天地に相似り、故に違わず」の一句は総説であり、以下の「過たず」「憂えず」「能く愛す」は皆「違わず」の中の具体的事項である。

天地之道,知仁而已。知周萬物者,知同乎天也。道濟天下者,仁同乎地也。後以知仁分天地,以動靜言之,此以清濁言之。知之所及猶虛,故以屬天。道之所濟則實,故以屬地。不過與下文不同。不過言天下莫能過,即不違也。旁行而不流。《本義》謂旁行者行權之知也,不流者守正之仁也。

天地の道は、一つの「知」と一つの「仁」に過ぎない。「知は万物に周く」は、その智が天と同じであること。「道は天下を済す」は、その仁が地と同じであること。後文が知・仁を天地に分配するのは動静に就いての説であり、ここでの分配は清濁に就いての説である。智の照らす所はなお虚なるものであるから天に属し、道の済す所は既に実なるものであるから地に属する。ここの「過たず」と下文の「過たず」は意味が異なる。ここでは天下に彼を超える者がない、すなわち「違わず」をいう。「旁行して流れず」については、《周易本義》が「旁行」は通権達変の智、「不流」は正道を執守する仁であると説く。

《大全》朱子又云,細分之有知仁,其實皆知之事。對下安土敦乎仁一句。蓋朱子因兩故字而改之也,今從之。知之旁行而流,則不能樂天知命而不憂。故此句詳言之。天以理言,仁義忠信是也。命以氣言,吉凶禍福是也。雖有旁行行權之知,而不流於邪曲之為。蓋所樂者天理之正,無一念之雜。

《周易大全》はまた朱子の言を載せる。細かく分ければ「旁行」「不流」の中にも知あり仁あるが、実はすべて「知」の側の事で、下の「土に安んじ仁に敦し」の句に対するものであると。朱子は経文の二つの「故」の字に基づいてこのように改めて説いたので、今その説に従う。智が一味に旁行して流蕩し守りを失えば、天を楽しみ命を知って憂えなきことができないから、この句を詳しく分説するのである。「天」は理に就いていえば仁義忠信を指し、「命」は気に就いていえば吉凶禍福を指す。通権達変の智がありながら、邪曲な所作に流蕩しないのは、楽しむ所が天理の正であり、一念の雑染もないからである。

又知天命之有定,不以利害禍福殀壽貳其心,所以能不憂也。如是而其知益深,似乎天矣。安土,隨處而安也。所處不安,則何暇及於人。隨處皆安,無不息之不仁。私慾盡淨,天理充滿。愈加敦厚,不忘其濟物之心。所以能愛也。如是則其仁益篤,似乎地矣。此聖人體易以盡性之事,而上下與天地同流者也。

また天命に自ら定数あることを深く知り、利害禍福・短命長寿によって心を二三にしないから、憂えないことができる。こうあれば、その智はいよいよ深遠となって天に近づく。「安土」とは随処に安んずることである。自らの処する所が安穏でなければ、他人に及ぶ余力があろうか。随処に安んずれば、一刻も間断ない不仁がなく、私欲をきれいに掃き尽くし、天理がその中に充満し、さらに一味の敦厚を加えて済物の心を忘れないから、能く愛するのである。こうあれば、その仁はいよいよ篤実となって地に近づく。これが聖人の《易》道を体現して性を尽くす事であり、《孟子》のいう「上下天地と同流す」の境地である。

又按,來注知仁不分。不過不憂能愛皆指天地言。天地至大無外,不過者也。聖人知周萬物道濟天下,故同其不過。天地鼓萬物,不與聖人同憂者也。聖人樂天知命,故同其不憂。天地以生物為心,能愛者也。聖人安土敦仁,同其能愛。此說更渾。

また按ずるに、来知徳の注は知・仁を天地に分属させず、「過たず」「憂えず」「能く愛す」は皆天地を指すとする。天地は至大にして外なく、これが「過たず」である。聖人の知は万物に周く道は天下を済すから、それと同じく過たず。天地は万物を鼓動して聖人と憂えを同じくせず、これが「憂えず」である。聖人は天を楽しみ命を知るから、それと同じく憂えず。天地は物を生ずるを心とし、これが「能く愛す」である。聖人は土に安んじ仁に敦くするから、それと同じく能く愛す。この説はいっそう渾成である。

範圍天地之化而不過,曲成萬物而不遺,通乎晝夜之道而知,故神無方而易無體。此聖人體易而至於命之事。如鑄金之有模範。圍匡郭也。天地之化無窮,聖人範圍之,不使過於中道。以天道言。如一歲分四時,生長收藏。

経文にいう、「天地の化を範囲して過たず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道に通じて知らざるなく、故に神は方なく易は体なし」と。これは聖人が《易》道を体現して命を知るに至った事である。「範」は金器を鋳造する模子のよう、「囲」は外の匡郭である。天地の造化は窮尽することがなく、聖人はそれに範囲を立てて中道を過ぎさせない。天道に就いていえば、例えば一年を四時に分け、万物に次いで生・長・収・蔵させることである。

以人身言,如欲動情勝,為之禮義檢制皆是也。曲成不遺,又隨萬物之分量形質,使大小方圓各有成就也。範圍,即大德之敦化,上文之所謂彌。曲成,即小德之川流,上文之所謂綸也。幽明死生鬼神,即一晝一夜之理通達之也。知有晝即有夜之理,則古今一晝夜也。幽明死生鬼神,無不可知矣。

人身に就いていえば、例えば欲念が一たび動き情感が偏勝すれば、それに礼義を立てて検束節制することも、皆「範囲」に属する。「曲成して遺さず」とは、万物それぞれの分量形質に随い、大なるもの小なるもの・方なるもの円なるものが各々成就を得させることである。「範囲」は《中庸》のいう「大徳敦化」であり、すなわち上文の「彌」である。「曲成」は「小徳川流」であり、すなわち上文の「綸」である。幽明・死生・鬼神は、極めていえば一昼一夜の理に過ぎず、それに通達すれば知らざるなし。昼あれば必ず夜ある理を知れば、古往今来もまた一昼一夜に過ぎず、幽明死生鬼神も知れないものはない。

以此見至神之妙無有方所,易之變化無有形體也。使範圍有過,曲成有遺,通晝不通夜,通夜不通晝,則神有方易有體矣。蓋天地之化,陰陽之氣。萬物,陰陽之形。晝夜,陰陽之理。此三者不外乎陰陽者也。

ここから見えるのは、至神の妙用に定まった方所がなく、《易》の変化に定まった形体がないということである。もし範囲してなお過差があり、曲成してなお遺漏があり、昼に通じて夜に通ぜず、夜に通じて昼に通ぜぬならば、それは神に方所あり・《易》に形体ありということになる。当知るべし、天地の造化は陰陽の気であり、万物は陰陽の形であり、昼夜は陰陽の理であり、この三つは皆陰陽の外に出ない。

神,則陰陽不測。在陰忽而在陽,在陽忽而在陰,本無方所可定。易,則陰中有陽,陽中有陰。亦無體質可定。聖人盡乎易,即合乎神,所以能範圍曲成而通知之也。

「神」に至っては、陰陽の変化が測度しがたい。方に陰に在れば忽然として陽に在り、方に陽に在れば忽然として陰に在り、本来一定の方所を指すことができない。「易」に至っては、陰中に陽を含み陽中に陰を含み、また一定の体質を指すことができない。聖人は《易》を窮め尽くせば、神に合し、故に天地を範囲し・万物を曲成し・昼夜の道を通知することができるのである。

上文言聖人之知不過,此則能使天地之化不過。上言知周乎萬物,此則曲成之而不遺。上言仰觀俯察原始要終而知幽明死生鬼神,此則通乎晝夜之道而知。蓋窮理盡性之極,至於命之事。聖人即易也,即神也,即天地也(文瀾本「即天地也」作「則亦天地」)而已矣。

上文は聖人の智が「過たず」といい、ここでは彼が天地の造化を過たざらしめるという。上文は彼が「知は万物に周く」といい、ここでは彼が万物を曲成して遺す所なしという。上文は彼が仰観俯察・原始要終して幽明死生鬼神を知るといい、ここでは彼が昼夜の道に通じて知らざるなしという。これは窮理尽性の極致であり、すなわち「命に至る」の事である。この境地に至れば、聖人はすなわち《易》であり、すなわち神であり、すなわち天地である(「即天地也」の四字、文瀾本は「則亦天地」と作る)。

按,來注不言窮理盡性至命。但謂易與天地準,聖人亦與天地準。此節承上文。易能彌天地之道,聖人範圍不過亦能彌之。易能綸天地之道。聖人曲成不遺亦能綸之。易所具不過幽明死生鬼神之理,聖人通乎晝夜亦有以知之。其說雖與注小異而意更渾,可參。右第四章。

按ずるに、来知徳の注は窮理・尽性・至命の層次を説かず、ただ《易》が天地と等しく、聖人も天地と等しいというのみ。彼はこの節が上文を承けるものと見なす。《易》は能く天地の道を彌合し、聖人は範囲して過たず、これすなわち能く彌すこと。《易》は能く天地の道を条理し、聖人は曲成して遺さず、これすなわち能く綸すこと。《易》の具備する所は幽明死生鬼神の理に過ぎず、聖人は昼夜の道に通じ、これすなわち以てこれを知る所以有り。この説は旧注とやや異なるが、意味はいっそう渾成で、参看すべきである。以上第四章。

第五章

第五章言道不外乎陰陽。繼之者善以下二節,言其在人者。顯仁藏用二節,言其在造化者。自生生之謂易以下,言其在易書者。而總以陰陽不測結之。一陰一陽之謂道。陰陽迭運者,氣也。所以陰陽之理,則道也。按,來注,理乘氣機以出入。一陰一陽,氣之散殊,即太極之理各足而富有者也。氣之迭運,即太極之理流行而日新者也。故謂之道。此解亦精。《中庸》率性之謂道,就道之在人者言。此則就道之在天者言。

第五章は道が陰陽の外にないことを説く。「これを継ぐは善なり」以下の二節は、道が人身上に落ちる面を説く。「仁に顕れ、用に蔵る」の二節は、道が造化中に落ちる面を説く。「生生これを易と謂う」以下は、道が《易》の書上に落ちる面を説く。最後に総じて「陰陽測らざるこれを神と謂う」で収結する。経文にいう、「一陰一陽これを道と謂う」と。一陰一陽が交替して運行するのは気であり、陰陽をしてかくの如くあらしめる理こそが道である。按ずるに、来知徳の注は、理は気機に乗じて出入する――一陰一陽は気の散布分殊であり、すなわち太極の理が一々の所に各自具足して富有する。気の交替運行は、すなわち太極の理が流行止まず日々更新する。故にこれを道という。この解釈もまた精しい。《中庸》の「性に率うこれを道と謂う」は道が人身上にあるに就いての説であり、ここでは道が天上にあるに就いての説である。

繼之者善也,成之者性也。繼善,就斯道之發育賦予者言之。以其天命之本體,不雜於形氣之私。所謂元者善之長,故曰善也。成性,就人物所稟受而言之。氣以成形而理亦賦物,物各得一太極。無妄之理不相假借,故曰性也。繼善,陽之事。

経文にいう、「これを継ぐは善なり、これを成すは性なり」と。「継善」はこの道が万物を発育し万物に賦与する面に就いての説である。それは天命の本体で、形気の私を夾雑せず、すなわち《乾・文言》のいう「元は善の長なり」であり、故にこれを善という。「成性」は人と物の禀受する面に就いての説である。気が凝結して形体を成し、理も同時にその中に賦与され、物物各々一つの太極を得る。この真実無妄の理が各自完足し、彼此相假借しないから、故にこれを性という。継善は陽の側の事である。

成性,陰之事也。蓋道即所謂太極。繼善則動而生陽,成性則靜而生陰也。此節就天人賦受之界言之也。孟子之言性善,蓋出於此。夫子之言性相近也,蓋自成性之後兼於氣質者言之。孟子之言性善,則自成之先,純乎繼善者而言之也。

成性は陰の側の事である。道はいわゆる太極である。継善は太極の動いて陽を生ずるに相当し、成性は太極の静かにして陰を生ずるに相当する。この節は天と人が相授受する境界上に就いての説である。孟子の「性善」は、ほぼここから出たのであろう。孔子の「性相近きなり」は成性の後・気質を兼帯しての説であり、孟子の性善は成性の先・純に継善の面に就いての説である。

仁者見之謂之仁,知者見之謂之知,百姓日用而不知。故君子之道鮮矣。曰善曰性具於人身,渾然一理不可名狀。唯仁者發見於惻隱,則謂之仁。知者發見於是非,則謂之知。而後所謂善與性方有名狀。百姓同此善性。而氣稟所拘,物慾所蔽,故知之者鮮。

経文にいう、「仁者これを見てこれを仁と謂い、知者これを見てこれを知と謂い、百姓日々用いて知らず、故に君子の道鮮し」と。いう所の善・いう所の性は皆人身上に具わり、渾然として一つの理で、本来指名して描状することができない。ただ仁者が惻隠の心からこれを発露して仁と呼ばれ、智者が是非の心からこれを発露して知と呼ばれる。この後にいわゆる善・いわゆる性に名目形状ができたのである。百姓も同じくこの善性を有するが、ただ気禀に拘われ物欲に蔽われるから、真に知る者は少ない。

上章言聖人之知仁,合而為一者也。此言仁者知者,分而為二者也。自天命之流行於人物者言之。則繼善為陽,成性為陰。此就所成之德言之。則仁屬陽,知屬陰。上章以知屬天,仁屬地。此則仁屬陽,知屬陰者,彼以清濁言,此以動靜言也。

前章は聖人の知と仁が合して一となるを説き、ここでは仁者・智者が分かれて二となるを説く。天命が人物に流行する面に就いていえば、継善は陽に属し成性は陰に属する。人の成就する徳の面に就いていえば、仁は陽に属し知は陰に属する。前章は知を天に配し仁を地に配したが、ここでは仁を陽に配し知を陰に配する。それは前章が清濁に就いての説で、ここは動静に就いての説だからである。

夫子言仁靜知動,而此又以動屬仁,靜屬知者。《論語》就成德之後言,此從其稟性所近言。仁者得陽之發生流動,以為仁而德成。能安於理,則見其靜。知者得陰之凝定不易,以為知而德成。周通於理,則見其動。此又陰中之陽,陽中之陰,不可拘也。仁知各得道之一隅,隨其所見而目為全體。百姓則日用之間習而不察。此君子之道所以鮮也。君子之道,即一陰一陽之道。係之君子者,君子有體道之功也。

孔子は《論語》で「仁者は静なり、知者は動なり」といったが、ここでは動を仁に配し静を知に配する。それは《論語》が徳性既成の後に就いての説で、ここでは各人の禀性の偏り近づく面に就いての説だからである。仁者は陽気の発生流動の意を得て、これに拠って仁徳を成就する。徳既に成って理に安んずることができるから、その静を顕す。智者は陰気の凝定不移の意を得て、これに拠って智徳を成就する。徳既に成って理に周流通達することができるから、その動を顕す。これはまた陰中に陽あり・陽中に陰ありで、拘執すべきではない。仁者・智者は各々道の一角を得たに過ぎないのに、各々の見る所に随ってそれを全体とする。百姓はさらにその間に日々用いて習いながら察しない。これが「君子の道鮮し」の所以である。いわゆる君子の道とは一陰一陽の道であり、それを君子に係属するのは、君子にこの道を体現する功夫があるからである。

繫辞上伝・第五章(続)

顯諸仁,藏諸用。鼓萬物而不與聖人同憂,盛德大業至矣哉。顯,自內而外也。運動之跡,生育之功,顯諸仁也,德之發也。藏,自外而內也。神妙無方,變化無跡,藏諸用也,業之本也。聖人之與天地可同者,顯仁藏用之德業也。不可同者,天地無心,聖人有心也。聖人仁萬物而獨任其憂,天地鼓萬物而不與聖人同其憂。蓋天地無心而成化,聖人有心而無為也。

「仁に顕れ」とは生生の徳を外に顕露すること、「用に蔵れ」とは妙用を内に収斂することである。天地は万物を鼓動して生長させるが、聖人のように万物のために心を労することはない。このような盛大な徳性と広大な事業は、極点に達したというべきである。陳夢雷は「顕」の字を、内より外に向かうと解く。天地運行の痕迹・化育生長の功効が皆人の眼前に並ぶ、これが「仁に顕れ」で、徳性の発用である。「蔵」の字を、外より内に向かうと解く。神妙にして固定の方所なく変化して形迹を見せない面が奥に収まる、これが「用に蔵れ」で、事業の根本である。聖人と天地が相同じうするのは、まさにこの「仁を顕し用を蔵す」の徳と業であり、相同じうしないのは、天地は本来无心で、聖人は有心であることである。聖人は仁愛を以て万物に接するから、独りこの憂慮を担わねばならない。天地は万物を鼓動するが、聖人と憂えを同じくしない。その原因は、天地が无心にして自然に造化を成し、聖人は有心でありながら無為をなし得ることにある。

富有之謂大業,日新之謂盛德。富有者,大而無外,天高地下,萬物散殊是也。日新者,久而無窮,陰陽升降,變化不窮是也。此雖言天地,然聖人亦然。生物無窮,天地之大業;功及萬世,聖人之大業也。運行不息,天地之盛德;終始日新,聖人之盛德也。繼善成性二節,言陰陽之道在天人賦受之界者。顯仁藏用二節,言陰陽之道在天地造化者。

有らざるなきを「大業」といい、日々新たなるを「盛徳」という。陳夢雷はいう、いわゆる「富有」とは大きくして外なきこと。天は上に地は下にあり、万物が各々分布して種類を異にする、これが富有である。いわゆる「日新」とは久遠にして窮尽なきこと。陰気陽気が一升一降して変化止まず、これが日新である。この二句は表面は天地を説くが、実は聖人もまた同じである。万物を生養して窮尽なきは天地の大業、功業が万代に恵及するは聖人の大業。運行して停歇なきは天地の盛徳、終始日々新たなるは聖人の盛徳である。彼はまた《繋辞》のこれらの節に層次を分けた。上文の「これを継ぐは善なり、これを成すは性なり」の二節は、「一陰一陽これを道と謂う」が天の賦与と人の禀受の交際に落ちることを説く。「仁に顕れ、用に蔵れ」の二節は、この道が天地造化上に落ちることを説く。

生生之謂易。陰生陽,陽生陰,其變無窮。易之理如是,故其書亦如是。此以下就陰陽之在易書者言之。成象之謂乾,效法之謂坤。象者,法之未定;法者,象之已形。乾主氣,故曰成象。坤主形,故曰效法。乾本陽而名為乾,以其健而成象也。坤本陰而名為坤,以其順而效法也。此一陽一陰之道在卦者也。

生生已まざるを「易」という。陳夢雷の解釈:陰は能く陽を生じ、陽は能く陰を生じ、この変化に窮尽がない。《易》の道理は本来かくの如くであり、故に《易》の書もまたこのようである。この句より、行文は陰陽の道が《易》の書上に落ちることを説くに転ずる。「象を成す」面を乾といい、「法を効(なら)う」面を坤という。いわゆる「象」とは法則が未だ定形せぬ時であり、いわゆる「法」とは物象が既に成形した後である。乾は気を主るから「象を成す」といい、坤は形を主るから「法を効う」という。乾は本は陽に属しながら乾と名づくのは、剛健にして物象を成就し得るからであり、坤は本は陰に属しながら坤と名づくのは、柔順にして成法を仿効し得るからである。これが「一陰一陽これを道と謂う」が卦画上に落ちた様子である。

極數知來之謂占,通變之謂事。數,蓍數也。天數二十有五,地數三十。極天地之數而吉凶可以前知,此之謂占。通變,即所占之卦變而通之。事,行事,通其變而行之也。極數知來,所以通事之變。曰占,則事之未定者,屬乎陽。曰事,則占之已決者,又屬乎陰也。按,來注云極數者,方卜筮之時,究極其陰陽七八九六之數,觀其所值何卦、所值何爻,以斷天下之疑,故曰占。通變,既卜筮之後,詳通其陰陽老少之變,吉則趨之,凶則避之,以定天下之業,故曰事。此一陰一陽之道在卜筮者也。

蓍数を窮めて未来を予知するを「占」といい、その変化を会通して施行に付すを「事」という。陳夢雷はいう、ここの「数」は蓍草の数を指す。天数は合して二十五、地数は合して三十、天地の数を窮究して吉凶を予め知ることができる、これを占という。「通変」は占い得た卦に変通を加えること。「事」は行事、すなわち変通して得た所を実行に付すことである。蓍数を窮めて未来を知るのは、まさに事情の変化を打通するためである。「占」と称するのは事情が未だ定局せず陽に属し、「事」と称するのは占断既に決定してまた陰に属する。彼は続けて来知徳《周易集注》の説を引く。いわゆる「極数」とは、まさに卜筮の時に当たり、七・八・九・六の陰陽の数を窮究し、どの卦・どの爻に遇うかを見て、天下の疑難を決断するから占という。いわゆる「通変」とは、卜筮完備の後、老陰老陽・少陰少陽の変化を細かく貫通し、吉にはそれに趨り凶にはそれを避けて、天下の事業を奠定するから事という。これが「一陰一陽これを道と謂う」が卜筮上に落ちた様子である。

陰陽不測之謂神。此句總結上文。三百八十四爻陰中陽在,陽中陰在,故不測也。上章言易無體,此言生生生之謂易,唯其生生,所以無體也。上章言神無方,此言不測之謂神,唯其不測,所以無方也。言易,繼以乾坤,乾坤毀則無以見易也。言神,先以占事,占事則神所託而顯者也。

陰陽の変化が測度しがたい、これを「神」という。陳夢雷はこの句が上文を総結するという。全《易》三百八十四爻、陰の裏に陽を含み陽の裏に陰を含むから測度しがたい。前章は「易は体なし」を説き、ここでは「生生これを易と謂う」を説く。まさに生生已まざるが故に固定の形体がないのである。前章は「神は方なし」を説き、ここでは「測らざるこれを神と謂う」を説く。まさに測度しがたいが故に固定の方所がないのである。「易」を説く時に続けて乾坤を説くのは、乾坤一旦毀棄すれば易を見る術がないからである。「神」を説く時に先に占と事を説くのは、占と事こそ神が寄托しこれによって顕現する所だからである。(ここで原文「生生生之謂易」は「生」の字が一つ多い。《繋辞》に依り「生生之謂易」と作るべきである。)

此章大抵以道不外乎陰陽,而陰陽終不可測。以其在人者言之,則繼善、成性、仁者、知者皆陰陽之所為也。就其中而分之,則繼善陽、成性陰、仁陽、知陰。而究之繼成之妙,陰陽之在人者不可測也。以其在天地者言之,則盛德大業皆陰陽之所為也。就其中而分之,則顯仁陽、藏用陰。而要之盛德大業之妙,陰陽之在天地者不可測也。

陳夢雷はこの章の大意を総括する。道は陰陽の外になく、陰陽は最後に至って終に測度しがたい。それが人身上に落ちるに就いていえば、「これを継ぐは善」「これを成すは性」および「仁者これを見て仁と謂う」「知者これを見て知と謂う」は皆陰陽の造成する所である。さらにその裏に細分すれば、「継善」は陽に属し「成性」は陰に属し、「仁」は陽に属し「知」は陰に属する。しかるに「継」と「成」の奥妙を追究すれば、陰陽の人身上に落ちる面は仍お測度しがたい。それが天地上に落ちるに就いていえば、「盛徳」「大業」は皆陰陽の造成する所である。さらにその裏に細分すれば、「顕仁」は陽に属し「蔵用」は陰に属する。しかるに帰根到底、盛徳大業の奥妙は、陰陽の天地上に落ちる面も同様に測度しがたい。

以其在易者之,為乾、為坤、為占、為事,皆陰陽之所為也。就其中而分之,則乾陽、坤陰、占陽、事陰。而究之生生之妙,陰陽之在易者不可測也。不可測者,神也。以其理之當然而言,謂之道;以其道之不測而言,謂之神,非道外有神也。聖人假易書以明道,假卜筮以顯其神,使人體易,即以法乎天地。易也,天地也,聖人也一而已矣。右第五章。

それが《易》の書上に落ちるに就いていえば(原文「以其在易者之」は「言」の一字を脱す。「以其在易者言之」と作るべし)、象を成すを乾と為し、法を効うを坤と為し、数を極めるを占と為し、変を通ずるを事と為すは、皆陰陽の造成する所である。さらにその裏に細分すれば、乾は陽に属し坤は陰に属し、占は陽に属し事は陰に属する。しかるに生生已まざるの奥妙を追究すれば、陰陽の《易》書上に落ちる面も同様に測度しがたい。測度しがたきがすなわち「神」である。この道理の本然としてかくべき面に就いていえば「道」といい、この道の測度しがたい面に就いていえば「神」という。道の外に別に一つの神があるのではない。聖人は《易》の書を借りて道を闡明し、卜筮を借りてこの神を顕出し、人に易理を体会せしめ、これすなわち天地を効法するに等しい。こう見れば、易・天地・聖人は、極めていえばただ一つの事に過ぎない。以上第五章。

繫辞上伝・第六章

第六章贊易之廣大,而原於乾坤之二卦也。夫易,廣矣大矣。以言乎遠則不禦,以言乎邇則靜而正,以言乎天地之間則備矣。上章言易與天地準,贊易之書;此言廣大,贊易之理也。廣,言其中之所含;大,言其外之所包。下三句皆言廣大不禦,言其無遠不到,莫之能止,即所謂天下莫能載也。靜而正,言未動之先,即物而理存,無安排佈置之擾,即所謂天下莫能破也。盈天地之間惟萬物,而易之理無不備,其廣大如此。

第六章は《易》の広大を讃嘆し、この広大を乾・坤の両卦に遡る。経文にいう、《易》は実にまた広くまた大きいかな。遠くに就いていえば、遠きに届かずなく阻まる所なく、近くに就いていえば静かにして正しく、天地の間に就いていえば備わらざるなし、と。陳夢雷はいう、前章の「易は天地に準う」は《易》の書を讃え、ここの広大は《易》の道理を讃える。「広」はその内に含む所をいい、「大」はその外に包む所をいう。以下の三句は皆この広大の阻遏しがたきを説く。いかに遠くとも到達し、何ものもこれを遮ることができない、すなわち《中庸》のいう「大を語れば天下もこれを載る能わず」である。「静にして正し」は未だ発動せざる前、事物それ自体に就いて理既に具在し、人の安排布置を用いないこと、すなわちいわゆる「小を語れば天下もこれを破る能わず」である。天地の間に充満するはただ万物であり、《易》の道理は万物に備わらざるなく、その広大はまさにかくの如しである。

夫乾,其靜也專,其動也直,是以大生焉。夫坤,其靜也翕,其動也闢,是以廣生焉。乾坤各有動靜,靜體而動用,靜別而動交也。直專翕闢,其德性功用如是,以卦畫觀之亦然。乾性健,其畫奇,不變則其靜專一不他,變則其動直遂不撓。以其一而實,故以質言曰大,言無所不包也。坤性順,其畫偶,不變故其靜翕受無遺,變則其動開闢無壅。以其二而虛,故以量言曰廣,言無所不容也。蓋天雖包於地之外,而其氣常行於地之中。易不過寫乾坤之理,乾坤之德性如是,易之所以廣大者以此。

乾は静かなる時は専一にして、動く時は直遂するから「大」はこれより生ずる。坤は静かなる時は収斂し、動く時は開張するから「広」はこれより生ずる。陳夢雷はいう、乾坤は各々皆動あり静あり、静は本体で動は作用であり、静の時は両者分別し、動の時は両者交合する。専・直・翕・闢は、その徳性と功用がかくの如くであることをいい、卦画上から見てもまたまさにこのようである。乾の性情は剛健で、画を一奇と為す。変わらぬ時は静かにして専一で旁騖を生ぜず、変わる時は動いて直遂で屈撓を受けない。奇画は一にして実なるが故に、「質」からいって「大」とし、包まざるなきの意である。坤の性情は柔順で、画を一偶と為す。変わらぬ時は静かにして収納して遺すなく、変わる時は動いて開闢して阻まるなし。偶画は二にして虚なるが故に、「量」からいって「広」とし、容れざるなきの意である。天は地の外に包むが、その気は常に地の中間に運行する。《易》はただ乾坤の理を写し取ったに過ぎず、乾坤の徳性既にかくの如し、《易》の広大なる所以はまたこの故によるのである。

廣大配天地,變通配四時。陰陽之義配日月,易簡之善配至德。配,相似之意。廣大配天地,承上文言之,非配合也。易之廣大得於乾坤,則其廣大亦如天地矣。變通者,陽變而通乎陰,陰變而通乎陽,老陽老陰變化往來,配四時之流行不息也。義者,名義也。卦爻中剛者稱陽,柔者爾陰,故曰義。陰陽對待,配乎日月也。易簡即順健,至德即仁義禮智,天所賦於人之理,而人得之者也。仁禮屬健,義智屬順,是易所言易簡之善,與聖人之至德相似也。天地之間,至大者天地,至變者四時,至精者日月,至善者至德。易之書具此四者,豈不謂之備乎。右第六章。

《易》の広大は天地に配し、変通は四時に配し、陰陽の名義は日月に配し、易簡の善は至徳に配する。陳夢雷はまず「配」の字を訓じ、それは「相似」の意であるという。「広大は天地に配す」は上文を承けての言で、両辺を漬合するのではない。《易》の広大は乾坤から得たものだから、その広大は天地と同じである。いわゆる「変通」とは、陽が変じて陰に通じ、陰が変じて陽に通じ、老陽老陰が変化往来し、まさに四時の流行止まぬに相似ている。いわゆる「義」とは名義を指す。卦爻の中で剛画を陽と称し柔画を陰と称する、これは名義に就いての言である。陰陽が両々対待するのは、まさに日月に相似ている。「易簡」とは坤順乾健、「至徳」とは仁・義・礼・智で、上天が人に賦与し人がまた己に得る道理である。仁と礼は乾健に属し、義と智は坤順に属する。見れば《易》のいう易簡の善は、聖人の至徳に相似ている。天地の間で、最大なるは天地に過ぎず、最も善変なるは四時に過ぎず、最も精明なるは日月に過ぎず、最も完善なるは至徳に過ぎない。《易》の書はこの四つを皆備えている、いずくんぞ「備わる」と言えざらんや。以上第六章。(原文「柔者爾陰」の「爾」は「称」と作るべし。)

繫辞上伝・第七章

第七章贊易道之至,聖人所以崇德廣業而參天地也。子曰:易其至矣乎!夫易,聖人所以崇德而廣業也。知崇禮卑,崇效天,卑法地。德業以聖人為至,而聖人之德所以崇,業所以廣者,易也。德由於知,知識貴其高明,聖人以易窮理,則知之崇如天而德崇矣。業由於禮,踐履貴其著實,聖人以易踐履,則禮之卑如地而業廣矣。所見高於上,所行實於下,則道義從此生生不窮,猶天地設位而易行乎其中矣。

第七章は《易》道の極致を讃嘆し、聖人がそれによって徳性を高め事業を拡大し、天地と並び三と為ることを説明する。子曰く、《易》はそれ至れるかな。《易》は聖人が以て徳を崇め業を広むるものなり。知は崇きを貴び、礼は卑きを貴ぶ。崇きは天を効し、卑きは地を効す、と。陳夢雷は解説する。徳と業は聖人を以て最高とするが、聖人の徳の崇き所以・業の広き所以は、《易》に頼る。徳性は智識より来たり、智識は高明を貴ぶ。聖人は《易》によって事理を窮究すれば、智識は天の如く崇くなり、徳性もまたそれに随って崇くなる。事業は礼の践履より来たり、践履は切実を貴ぶ。聖人は《易》によって躬行実践すれば、礼は地の如く卑実となり、事業もまたそれに随って広大となる。見識は上に高く、行事は下に実在し、道義はここより生々して窮まらず、まさに天地が上下の位を設けて易道がその中を運行するが如しである。

天地設位,而易行乎其中矣。成性存存,道義之門。承上天地言之,言聖人非勉強效法乎天地也。蓋天地設位而易行,所以成性之存而道義出也。易不外陰陽,陰陽升降,所謂易行乎其中也。成性與成之者性稍異,彼乃成就之意,此則已成之性,渾然天成,非有所造作也。性同,唯聖人能存之。存存者,存而又存。知崇禮卑,則成性存存矣。

天地は上下の位を設けて、易道はその中に運行す。既成の性は時々保存せられ、これすなわち道義の門戸である。陳夢雷はいう、これは上文の「天地」を承けて説くもので、聖人は勉強して天地を効法するのではないという意である。天地が位を設けて易道が運行するから、人の「成性」は保存を得て、道義もまたここより出る。《易》は陰陽の外になく、陰陽の一升一降がすなわちいわゆる「易その中に行わる」である。ここの「成性」と上文の「これを成すは性なり」はやや異なる。あれは「成就」の意で、これは既に成就した本性を指し、渾然天成で人為の造作がない。人の本性は人人相同じいが、ただ聖人のみこれを保存し得る。「存存」とは保存しまた保存すること。智識を崇くし礼行を卑実とせば、すなわち「成性存存」を成し得たことになる。

在造化謂之易,易在人謂之道義。性者所得於天,道義世所共由。能知崇禮卑,則成性存而不失,道義從此而出。道義之得於心為德,見於事為業。自然日新月盛,不期崇而自崇,不期廣而自廣矣。聖人作易,固教人存性,以由道義之門。而德之崇,業之廣皆以此。此易之所以至也。右第七章。

陳夢雷は続けて分別する。この道理は天地造化の側では「易」と呼ばれ、人の側に落ちれば「道義」と呼ばれる。本性は天から得たもの、道義は世人が共に遵行するものである。智識を崇くし礼行を卑実とし得れば、既成の本性は保存されて失わず、道義はここより流れ出る。道義を心に得れば「徳」と呼ばれ、事に見えれば「業」と呼ばれ、自然に日々新たに月々盛んとなり、崇きを刻意して求めずして自ら崇く、広きを刻意して求めずして自ら広し。聖人の《易》を作したは、本来人に本性を保存せしめ、この道義の門より出で往かしめんがためである。徳の崇き所以・業の広き所以は、全てこの一点に倚る。これが《易》の「至」と称するに足る所以である。以上第七章。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.