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繫辞上伝・第八章

清 · 陈梦雷 · 第27巻 / 34

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

第八章言卦爻之用。自中孚初爻以下,夫子擬議其辭,示人以學易之變化,以為三百八十四爻之例也。聖人有以見天下之賾,而擬諸其形容。象其物宜,是故謂之象。賾,繁多也。擬諸形容,如乾為圜、坤為大輿之類。象其物宜,如乾稱龍、坤稱牝馬之類。象,卦爻中之象也。

第八章は卦爻の用法を説く。《中孚》の一爻以下、孔子は逐条に爻辞を擬議し、《易》を学ぶ変化の法を人に示範し、三百八十四爻の通例とした。経文にいう、聖人は天下事物の繁雑なるを見て、その形状容貌を擬比し、その物の宜なる所に象を取る、故にこれを「象」と謂う、と。陳夢雷の注、「賾」は繁多の意。「その形容を擬す」とは、《説卦》が乾を以て円と為し坤を以て大車と為す類。「その物宜に象る」とは、乾が龍と称し坤が母馬と称する類。ここにいう「象」とは、卦爻中の物象を指す。(按下文の挙ぐる所は実に《中孚》九二より起こる、原文は「初爻」と作る。)

聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮。繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。會,以物之所聚言;通,以事之所宜言。觀其會不觀其通,或窒塞而不可行;觀其通而不觀其會,則不知其中之條件曲折。典禮,猶常禮常法,堯舜揖讓、湯武徵誅是也。全卦中自有會通,一爻中又各有一爻之會通。繫辭以明其吉凶,使人皆由於典禮也。

聖人は天下事物の変動を見て、その會合と通達の所を観察し、以て常法常礼を施行し、再び文辞を繫けて吉凶を断ずる、故にこれを「爻」と謂う。陳夢雷はこの二字を分訓する。「會」は事物の聚集する面に就き、「通」は事情の宜なる面に就く。聚合のみを見て通達を見ざれば、窒塞して行き通わざるあり。通達のみを見て聚合を見ざれば、その条理曲折を辨じ難い。「典礼」とは常礼常法で、堯舜の禅譲・湯武の征伐の類がこれに属する。一卦の中に自らその會通あり、一爻の中にまた各々一爻の會通あり。文辞を繫けて吉凶を明かすは、人をして皆常法常礼に遵って行わしめんと欲するである。

言天下之至賾而不可惡也,言天下之至動而不可亂也。繁多者使人易厭,然皆理中所有,則不可惡也。動則紛紛致亂,然其中各自有理,則不可亂矣。擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化。

天下の最も繁雑なる事物を説き尽くして人をして厭わしめず、天下の最も紛紜なる変動を説き尽くして乱るに至らしめず。陳夢雷は解釈する。繁多の物は人をして厭を生ぜしめ易いが、然るにこれらは皆道理中に本有のものだから、厭うべからず。一たび変動すれば紛紛擾擾して乱を致し易いが、然るにその中に各々条理あるから、乱に至らず。経文は続けていう。先ず擬比して後に口を開き、先ず商議して後に行動す、この擬議によって《易》の変化を成就す、と。

聖人之於象,擬之而後成。學易者亦擬其所立之象以出言,則言之淺深詳略,必各當其理。聖人之於爻,必觀其會通,以行典禮。學易者亦必議其所合之爻以制動,則動之行止久速,必各當於時。易之變化無窮,學易者能擬議之如此,而易之變化成於吾身矣。故下文皆言擬議以成變化之事。

陳夢雷はいう、聖人の卦象に対するは、擬比して後に制成したものである。《易》を学ぶ者もまた聖人の立てた象を擬比して発言すれば、言の深浅詳略は必ず各々事理に合する。聖人の爻に対するは、必ず先ずその會通を観察し、然る後に常法常礼を施行する。《易》を学ぶ者もまた必ず自らの遇う所の一爻を商議して行動を決すれば、行動の進退久速は必ず各々時宜に合する。《易》の変化に窮尽なく、《易》を学ぶ者が能くこのように擬議すれば、《易》の変化は自らの身上に成就する。故に下文の挙ぐる所は、全て「擬議以て変化を成す」の実例である。

鳴鶴在陰,其子和之。我有好爵,吾與爾靡之。子曰:君子居其室出其言善,則千里之外應之,況其邇者乎?居其室出其言不善,則千里之外違之,況其邇者乎?言出乎身加乎民,行發乎邇見乎遠。言行,君子之樞機。樞機之發,榮辱之主也。言行,君子之所以動天地也,可不慎乎?

《中孚》九二の爻辞にいう、白鶴は山の北面に鳴き、その幼雛は声を應じて唱和す。我に一盃の好酒あり、爾と共にこれを分享せんと欲す、と。孔子は解釈する。君子は自らの屋に居り、出す言が善なれば、千里の外も皆應応す、況んや近き者をや。自らの屋に居り、出す言が不善なれば、千里の外も皆背離す、況んや近き者をや。言は自らの身より出でて百姓に加わり、行は近処より発して遠方に顕れる。言と行は、君子の門軸と弩機である。門軸弩機が一たび動けば、栄と辱はこれより定まる。言と行は、君子の以て天地を感動するもの、慎まざる可けんや。

釋中孚九二爻義。爻言感通之理,夫子專以言行論之,蓋誠信感通莫大於言行也。居室,在陰之象。出言,鶴鳴之象。千里應之,子和之象。出身加民、發邇見遠,好爵爾靡之象。樞動而戶之開有大小,機動而弩之發有中否,猶言行之出有榮辱。應在人而感之在我,故曰榮辱之主也。言行和則致祥,乘則致異,所謂動天地也。學易必擬議至此,乃不為爻象所拘也。

陳夢雷は指摘する。この段は《中孚》九二の爻義を解釈する。爻辞は感應相通の道理を説くが、孔子は専ら言行を取って説く。誠信の感通し得る所以は、言行より緊要なるはないからである。「その室に居る」は爻辞「陰に在る」の象に対応し、「その言を出す」は「鶴鳴」の象に対応し、「千里之外これに應ず」は「その子和す」の象に対応し、「言は身より出で民に加わり、行は邇より発して遠に見ゆ」は「我に好爵あり、吾れ爾とこれを靡かん」の象に対応する。門軸が一たび転ずれば、門の開くに大小あり。弩機が一たび発すれば、箭の射るに中り中らずあり。まさに言行が一たび出でれば栄辱あるが如し。應応は他人に在るが、感召は自らに在る。故に言行は栄辱の主宰という。言行が諧和すれば吉祥を招き、乖違すれば災異を招く。これがいわゆる「天地を動かす」。《易》を学ぶ者は必ずこの地步まで擬議せねば、爻象に死に拘らされざらんことを得ず。(原文「乗則致異」の「乗」は「乖」と作るべし。)

同人先號咷而後笑。子曰:君子之道,或出或處,或默或語。二人同心,其利斷金。同心之言,其臭如蘭。釋同人九五爻義。爻言君子之道始雖岐而終實無間。孔子釋之,言始異而終同者,由於跡異而心同也。斷金,物莫能間。如蘭,其言有味也。

《同人》九五の爻辞にいう、先には号啕大哭し、後には却って歡笑す、と。孔子は解釈する。君子の処世の道、或いは出仕し或いは退居し、或いは沈黙し或いは発言す。二人の心意相同じければ、その鋒利は金属を断つに足る。心意相同じきの言語は、気味芬芳として蘭草の如し、と。陳夢雷はいう、これは《同人》九五の爻義を解釈する。爻辞は君子の道が初め分歧ありながら終に毫も隔閡なきを説く。孔子が解説を加えて、初め相異にして終に相同じきは、行跡は異なれど心は同じきが故と指摘す。「その利は金を断つ」は両人の間に插さるべき物なきをいい、「その臭は蘭の如し」は彼らの言に余味あるをいう。

初六,藉用白茅,無咎。子曰:苟錯諸地而可矣,藉之用茅,何咎之有?慎之至也。夫茅之為物薄,而用可重也。慎斯術也以往,其無所失矣。釋大過初六爻義。置物者不過求其安,錯諸地可以安矣。又承之以茅,則益有所藉,又安有傾覆之咎。茅為物至薄,用之以得無咎,則其用重矣,此慎之至也。天下事過則有失,唯過慎則無咎。

《大過》初六の爻辞にいう、白茅を以て下に襯墊せば、過ちなし、と。孔子は解釈する。本来直に地に擱げば亦可なり、さらに茅草を以て襯墊せば、何の過ちかあらん。これは謹慎の極致である。茅草という物はその体甚だ軽薄ながら、用は甚だ重大なり。この謹慎の法を終始推行せば、閃失なからん、と。陳夢雷はいう、これは《大過》初六の爻義を解釈する。物を放置するは安穏を求むるに過ぎず、地に擱ぐは既に安穏と算す。さらに茅草を以て底下に墊せば、いっそう憑藉ある、何の傾覆の災禍かあらん。茅草は極めて軽薄の物、これを用いて過ちを免れ得れば、その用の重きを見るべし、これ正に謹慎の極致。天下の事は過頭を做せば閃失あるも、唯だ謹慎に於て過頭は却って過ちなし。

勞謙君子有終吉。子曰:勞而不伐,有功而不德,厚之至也,語以其功下人者也。德言盛,禮言恭。謙也者,致恭以存其位者也。釋謙九三爻義。德言盛,禮言恭,言德欲其盛,禮欲其恭也。人之謙與傲,視其德之厚與薄。德厚者無盈色,德薄者無卑詞。如鐘磬焉,愈厚者聲愈緣,薄則反是。故有勞有功而不伐不德,唯至厚者能之。德盛禮恭,本君子修身之事,非有心以保錄位。然天下莫與爭勞爭功,自永保斯位矣。

《謙》九三の爻辞にいう、功労ありて謙退する君子、好結局あり、吉祥なり、と。孔子は解釈する。労績ありて自ら夸らず、功勲ありて自ら徳と為さず、これは敦厚の極致。自らの功労を以て人の下に謙居するをいう。徳はその盛大をいい、礼はその恭敬をいう。いわゆる「謙」とは、恭敬を極処に做し、以て自らの地位を保住する、と。陳夢雷はいう、これは《謙》九三の爻義を解釈する。「徳は盛を言い、礼は恭を言う」とは、徳性にその盛大を要し、礼節にその恭敬を要するをいう。人の或いは謙或いは傲なる所以は、その徳性の厚薄を見る。徳厚の人は自満の神色なく、徳薄の人は謙卑の言辞を出さず。鐘磬の如く、いよいよ厚重なれば声音いよいよ緩長、薄ければ則ち反る。故に労あり功ありて自ら夸らず自ら居らざるは、唯だ極敦厚の人のみ之を為し得る。徳性盛大・礼節恭敬は、本は君子の修身の事で、存心に禄位を保住せんとするに非ず。然るに天下に彼と功を争い労を争う者なく、則ちその地位は自然長保して失わず。(原文「声愈縁」は「声愈緩」と作るべし、「保録位」は「保禄位」と作るべし。)

亢龍有悔。子曰:貴而無位,高而無民,賢人在下位而無輔,是以動而有悔也。釋乾上九,已入文言。不出戶庭,無咎。子曰:亂之所生也,則言語以為階。君不密則失臣,臣不密則失身,幾事不密則害成。是以君子慎密而不出也。釋節初九爻義。爻義就出處言,夫子推及言語之節。蓋兌有口舌象也。

《乾》上九の爻辞にいう、龍飛び高き過ぎれば、悔恨あらん、と。孔子は解釈する。位置尊貴にして実職なく、地位崇高にして百姓なく、賢人皆下位に在って輔助を得ず、故に一たび挙動あれば悔恨を招く、と。陳夢雷の注、これは《乾》上九を解釈する、文字既に《文言伝》に収められたり。《節》初九の爻辞にいう、門庭を出でず、過ちなし、と。孔子は解釈する。禍乱の生ずる所以は、言語を以て階梯と為すに在り。国君の言語慎密ならざれば臣子を失い、臣子の言語慎密ならざれば性命を丢い、機密の事慎密ならざれば事を壊す。故に君子は慎密を謹守して軽々しく出口せず、と。陳夢雷の注、これは《節》初九の爻義を解釈する。爻義は本は出処進退に就いての説、孔子は却って言語の節制に推広せり。《節》卦の上体は兌にして、兌に口舌の象あるが故なり。

子曰:作易者,其知盜乎?易曰:負且乘,致寇至。負也者,小人之事也。乘也者,君子之器也。小人而乘君子之器,盜思奪之矣。上慢下暴,盜思伐之矣。慢藏誨盜,冶容誨淫。易曰:負且乘,致寇至,盜之招也。

子曰く、《易》を作す者はほぼ盗賊の心理を善く知れるか。《解》卦六三の爻辞にいう、物を背負いてまた車子に乗れば、強盗を招来す、と。物を背負うは小人の幹る活、車子は君子の用うる器具。小人が君子の器具に乗れば、盗賊は彼を奪取せんと思う。上位に在る者傲慢、下位に在る者暴横なれば、盗賊は彼を討伐せんと思う。財物を收藏するに馬虎なれば、人をして偷らしむるに等し。艶かに打扮すれば、人をして淫らしむるを招くに等し。《易》に「負にして乗り、寇を致す」といえるは、正に自ら盗賊を招来するなり。

釋解六三爻義。按,上慢下暴,大全作慢其上而暴其下,恐未的。竊意小人而乘君子句以德言,上下以位言。小人在上,驕慢不戒。小人在下,暴竊非據。皆盜所伐也。作易者不歸罪於盜而咎招盜之人,所以為知盜也。自中孚二爻至此,皆夫子擬議,示人以變化者。蓋爻義非辭不明,而天下事之變化,非辭可盡。故即諸爻以示三百八十四爻之例,蓋學者當觸類以及其餘也。右第八章。

陳夢雷はいう、これは《解》六三の爻義を解釈し、旧説に異議を提す。「上慢下暴」の一句、《周易大全》は「上に対し傲慢・下に対し暴虐」と講ず、恐らく確かならず。彼自らの見る所は、「小人にして君子の器に乗る」は徳行に就いての説、「上」「下」は地位に就いての説。小人が上位に居れば、驕横傲慢にして戒惧を知らず。小人が下位に居れば、暴横して本来自らの有すべきに非ざる物を竊据す。両情形とも盗賊の討伐せんと欲する対象なり。《易》を作す者は盗賊に罪を帰せず、却ってその盗賊を招引する者を責む、これ正に彼が盗賊の心理を知る所なり。陳夢雷は続けて総結す。《中孚》九二より一路ここに至るまで、皆孔子の擬議にして、以て人に《易》の変化を示範す。爻義は文辞に倚らざれば講明せず、天下事情の変化はまた文辞の説き尽くし得る所に非ず。故にこの数爻に就いて三百八十四爻の通例を示範し、《易》を学ぶ者はこれより其余の各爻に類推すべし。以上第八章。

繫辞上伝・第九章

第九章論天地大衍之數,揲筮求卦之法。天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。此言天地之數陽奇陰偶,即所謂河圖也。人知河圖之數,不知天地之數,故孔子分屬之。其位一六居下為水,二七居上為火,三八居左為木,四九居右為金,五十居中為土。

第九章は天地之数・大衍之数および揲蓍求卦の方法を討論す。経文にいう、天数は一・地数は二、天数は三・地数は四、天数は五・地数は六、天数は七・地数は八、天数は九・地数は十、と。陳夢雷は解説する。これは天地之数が陽を奇と為し陰を偶と為すを講ず、すなわちいわゆる《河図》なり。世人はただ《河図》上の数を知るのみ、これがすなわち天地之数なるを知らず、故に孔子はこれを一々天と地に分属せり。これらの数の《河図》上の方位は、一と六は下方に居り水に属し、二と七は上方に居り火に属し、三と八は左方に居り木に属し、四と九は右方に居り金に属し、五と十は中央に居り土に属す。

五行本五而有十,五行中又各有陰陽。如木有甲乙,火有丙丁,土有戊已,金有庚辛,水有壬癸故十也。數十而卦八者。十,五行之數。卦但取陰陽之象也。即一二三四得卦畫老少陰陽之象,即六七八九得揲筮老少陰陽之象。即中五為衍母,次十為衍子,而得揲筮求卦之原。至於因圖而畫卦,與先後天配合河圖之位,於河洛圖說詳之。此節所舉天地自然之數,以見大衍用五十之由耳。

五行は本来ただ五様なれど、十個の数を配出するは、五行の中にまた各々陰陽を分かつが故なり。木は甲乙に分かち、火は丙丁に分かち、土は戊己に分かち、金は庚辛に分かち、水は壬癸に分かつ、故に十と為る。数は十個ありて卦はただ八個なるは、十は五行の数、卦はただ陰陽の象を取るが故なり。一・二・三・四に就いて卦画上の老陰老陽・少陰少陽の象を得べく、六・七・八・九に就いて揲蓍の成す老少陰陽の象を得べし。さらに中央の五を以て「衍母」と為し、其次の十を以て「衍子」と為せば、便ち揲蓍求卦の本原を得。依《河図》に画卦し、および先天後天の方位が如何に《河図》の位と相配するかに至っては、陳夢雷は別に本書《河洛図説》中に詳論すという。この節の挙ぐる所はただ天地自然の数に過ぎず、用意は「大衍之数」が何故に五十を取るかを交代するに在り。(原文「土有戊已」の「已」は「己」と作るべし。)

天數五,地數五。五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十。凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。天數五者,一三五七九皆奇也。地數五者,二四六八十皆偶也。相得,本義謂一與二、三與四、五與六、七與八、九與十,各以奇偶為類而自相得。有合,謂一與六、二與七、三與八、四與九、五與十皆兩相合。

経文にいう、天数は五個あり、地数は五個あり、五個の方位は彼此相得してまた各々配合あり。天数は合して二十五、地数は合して三十、天地之数は總じて五十五、これすなわち変化を成し鬼神を行ずるの憑藉なり、と。陳夢雷は先ず旧説に照りて疏通す。天数五個は、一・三・五・七・九の皆奇数を指す。地数五個は、二・四・六・八・十の皆偶数を指す。いわゆる「相得」は、朱熹《周易本義》の講ずる一と二・三と四・五と六・七と八・九と十が、各々奇偶に類を按じて自ら相対することをいう。いわゆる「有合」は、一と六・二と七・三と八・四と九・五と十の両両相合するをいう。

今就五位二字思之,此句頗有疑。竊意五位者,五行之位也。五行之位,北水、南火、東木、西金而中土。一與六皆水而居北。二與七皆火而居南。木金土亦然。水得水之位,火得火之位。所謂五位相得也。若一與二、三與四彼此相對,非五位之相得者矣。

陳夢雷は随して自らの懐疑を提出す。単に「五位」の二字を細想すれば、《本義》の講法は甚だ疑わしきなり。彼は「五位」が五行の方位を指すと認む――北方水・南方火・東方木・西方金・中央土。一と六は皆水に属して北に居り、二と七は皆火に属して南に居り、木・金・土の三者もまたこれに類推す。水は水の方位を占め、火は火の方位を占む、これぞ「五位相得」と称す。若し《本義》の如く一と二・三と四を彼此相対に講ぜば、則ち「五位」の相得に非ざるなり。

所謂有合者,固以一六、二七為合。而各字所包者廣。竊意皆與五數又有合也。蓋一二三四五者,生數也。六七八九十者,成數也。然行止五,大衍之數亦取五。一與五合而得六。二與五合而七。以至八、九、十皆然。又十干之中,甲與己合、乙與庚合、丙與辛合、丁與壬合、戊與癸合皆隔五位,所謂各有合也。二十有五,五奇之積,然亦五其五也。三十,五偶之積,然亦六其五也。河圖畫卦意義所取非一,此節敘大衍之數。所以獨取五十之原,故獨於此詳之耳。

「有合」に至っては、固より一と六・二と七の如き搭配を以て講ずべきなれど、経文は一つの「各」の字を用う、包む所の範囲はいっそう広し。陳夢雷はこれらの数がまた皆「五」と相合すると認む。一・二・三・四・五は「生数」、六・七・八・九・十は「成数」。而るに五行はただ五様、大衍之数もまた五を取る。一加五して六を得、二加五して七を得、以て八・九・十も皆然り。再び十天干を見れば、甲と己は合し、乙と庚は合し、丙と辛は合し、丁と壬は合し、戊と癸は合す、皆相隔たること五位、これすなわち「各有合」なり。天数二十五は五個の奇数の和にして、同時に五個の五なり。地数三十は五個の偶数の和にして、同時に六個の五なり。《河図》と画卦の間に義を取る路数は一条に止まらず、この節は既に「大衍之数」を叙せんとするに、何故に単に五十を取るかを交代せんと欲すれば、故に特にここに於て詳しく講ず。(原文「然行止五」は、五行ただ五あるのみを謂い、「止」は「只」に通ず。)

變化本義謂。一變生水而六化成之,二化生火而七成之,三變生木而八化成之,四化生金而九變成之,五變生土而十化成之。此處亦覺未合。蓋五行之生成在變化之前。此所謂變化,疑在五行生成之後。又以變字化字分屬,亦未得其解。

経文「変化を成す」の「変化」の二字に至っては、《周易本義》はこのように講ず。一は「変」にして水を生じ、六は「化」にしてこれを成す。二は「化」にして火を生じ、七は「変」にしてこれを成す。三は「変」にして木を生じ、八は「化」にしてこれを成す。四は「化」にして金を生じ、九は「変」にしてこれを成す。五は「変」にして土を生じ、十は「化」にしてこれを成す。陳夢雷はこの講法もまた合わざるを覚ゆという。五行の生成は本来変化の前に在り、ここにいう「変化」は、恐らく五行生成の後に当在るべし。況んや「変」の字「化」の字を異なる数に分派するは、彼もその根拠の在処を弄明白ならず。

竊意水體陽而用陰而質最清,故天以一生水,地以六成之。火體陰而用陽而質次清,故地以二生火,天以七成之。木為少陽而質漸濁,故天以三生木,地以八成之。金為太陰而質更濁,故地以四生金而天以九成之。土中宮而質最濁,故天以五生土而地以十成之。五行各位其方,而四方即為四象。蓋自有天地而即有之,此五行之生成在未有變化之先也。

陳夢雷はここに自らの一套の解釈を提出す。水の本体は陽に属して作用は陰に属し、質地は最も清し、故に天は一を以て水を生じ、地は六を以て水を成す。火の本体は陰に属して作用は陽に属し、質地は次いで清し、故に地は二を以て火を生じ、天は七を以て火を成す。木は少陽に属して質地は漸く濁り、故に天は三を以て木を生じ、地は八を以て木を成す。金は太陰に属して質地はいっそう濁り、故に地は四を以て金を生じ、天は九を以て金を成す。土は中宮に居りて質地は最も濁り、故に天は五を以て土を生じ、地は十を以て土を成す。五行は各々一方を占め、四方はすなわち四象なり。この一套は天地有るより已に具備せり、見るべし五行の生成は未だ「変化」あらざる前の事なるを。

及五行既具。二氣運行,錯綜不一。所謂四象變化而庶類繁。聖人畫卦則由此而定先後天之位、而揲筮以求陰陽之數不外此。自一至十之數千變萬化皆從此出,故此所謂變化宜在五行生成之後。不必復以五行之生成分配變化也。鬼神,本義謂凡奇偶生成之屈伸往來者。蓋鬼神流行之妙,要不外於陰陽而已。此節未詳言本河圖以畫卦之原,不過言天地之數之原,以起下文大衍用五十之意也。

五行既に斉備せりに及び、陰陽二気運行し起こり、交錯綜合して変化一ならず、これすなわち周敦頤《太極図説》のいう「四象変化して庶類繁なり」なり。聖人の画卦は便ちこれより先天後天の方位を定下し、揲蓍以て陰陽の数を求むるもこの範囲を出でず。一より十に至るこれらの数の千変万化は皆これより出で、故に陳夢雷は断定す。ここにいう「変化」は当に五行生成の後に置くべし、必ずしも再び五行の生成を以て「変」「化」の二字を分配するを要せず。「鬼神を行ず」の鬼神に至っては、《本義》は一切の奇偶生成の数の屈伸往来を指すという。鬼神流行の奥妙は、帰根到底陰陽を出でざるが故なり。彼は最後に点明す。この節は《河図》に依拠して画卦する本原を細講せず、ただ天地之数の来歴を講じ、以て下文「大衍之数五十」の意を引出すを用とす。

大衍之數五十,其用四十有九。分而為二以象兩。掛一以象三。揲之以四以象四時,歸奇於扐以象閏。五歲再閏,故再扐而後掛。河圖五十有五者,天地自然之數也。大衍之數五十,聖人又即河圖中宮天乘地十而得之者也。河圖洛書,皆五居中而為數。故在天為五星,在地為五行,在人為五常。五者,數之祖也。數始於一,備於五。小衍之成十,大衍之而成五十。五十,數之成也。成則不動,故虛天一不用而取四十有九。此皆理數之自然,非人力所能損益也。

経文にいう、大衍之数は五十、実際に動用するは四十九。蓍草を両份に分かち以て天地両儀を象徴し、その中より一根を掛出し以て三才を象徴し、四根四根に点数し以て四時を象徴し、数余る零頭を指間に挟み以て閏月を象徴す。五年の中に両個の閏月あり、故に両度挟零したる後に再び掛一す、と。陳夢雷は解説す。《河図》の数五十五は、あれは天地自然の数なり。大衍之数五十は、聖人が《河図》中宮の天五に地十を乗じて得たるなり(原文「天乗地十」は「五」の一字を脱す)。《河図》《洛書》は皆五を以て中に居りて数を成す。故に天に在っては五星と為り、地に在っては五行と為り、人に在っては五常と為る――五は一切の数の祖宗なり。数は一より頭を起こし、五に至りて完備す。小に推衍を加えて十と為り、大に推衍を加えて五十と為る。五十は数の完成、完成すれば則ち再び動かず、故に天一を代表する那一根を虚き去りて用いず、ただ四十九を取る。これら皆理と数の自然にして、人力の増減し得る所に非ず。

兩,兩儀。天地也。掛,縣其一於左手小指之間也。三,三才也。揲,數之也。奇,所扐四數之餘也。扐,勒於左手中三指之兩間也。閏,積月之餘日而成月者也。象閏者,以其所歸之餘策而象日之餘也。

陳夢雷は揲蓍の術語を逐字訓釈す。「両」は両儀を指し、すなわち天と地なり。「掛」は一根の蓍草を左手小指の指縫の間に懸挂することをいう。「三」は三才を指す。「揲」は四根四根に点数することをいう。「奇」は四々点数したる後の余る零頭をいう。「扐」はこの零頭を左手の中間三指の指縫に挟勒することをいう。「閏」は每月の多出する日を積累して凑成する一個月をいう。いわゆる「象閏」とは、帰攏せる余策を取り、暦日の中に多出するそれらの日を象徴するをいう。

五歲再閏者,一年十二月氣盈六日,朔虛六日,共餘十二日。三年則餘三十六日。分三十日為一月,又以六日為後閏之積。其第四、第五年又各餘十二日。以此二十四日湊前六日。又成一閏。此是五歲再閏也。掛一當一歲。揲左當二歲。扐左則三歲一閏矣。又揲右當四歲。扐右則五歲再閏矣。再扐而後掛者。再扐之後復以所餘之蓍合而為一。為第二變再分再掛再揲也。獨言掛者。分二揲四皆在其中矣。此則象再閏也。

いわゆる「五歳再閏」は、一年十二個月、節気は六日を盈余し朔望は六日を虧欠し、合計して十二日を多出す。三年にして三十六日を多出し、その中の三十日を取りて一個の閏月を凑成し、余る六日は留めて下一次の閏月の積累と為す。第四年・第五年はまた各々十二日を多出し、この二十四日を以て先前の留めたる六日に凑え、また一個の閏月を成す。これすなわち五年の裏に両個の閏月を安排するなり。揲蓍に対応せば、掛一は第一年に相当し、左手の蓍草を点数するは第二年に相当し、左手の零頭を挟むはすなわち三年一閏なり。再び右手の蓍草を点数するは第四年に相当し、右手の零頭を挟むはすなわち五年再閏なり。いわゆる「再扐して後掛ぐ」は、両度挟零したる後、再び余る蓍草を合して一把と為し、第二変を進行し、重新に分二・掛一・揲四す。経文はただ「掛」を提げるは、分二・揲四既にその中に含まるるが故なり。この一句の象徴する所は、正に五年の中の第二個の閏月なり。

乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四。凡三百有六十,當期之日。凡此策數在生於四象。蓋河圖四面。太陽居一而連九。少陰居二而連八。少陽居三而連七。太陰居四而連六。揲筮之法則通計三變之餘,去其初掛之一。凡四為奇,凡八為偶。奇圓圍三,偶方為四。三用其全則三奇為九。四用其半則三偶為六。

経文にいう、乾卦の策数は二百一十六、坤卦の策数は一百四十四、合わせて三百六十、正に一年の日数に相当す、と。陳夢雷は解説す。これらの策数は皆四象より出づ。《河図》は四面に分かれ、太陽は一に居りて九に連なり、少陰は二に居りて八に連なり、少陽は三に居りて七に連なり、太陰は四に居りて六に連なる。揲蓍の弁法は、三変の挟む零頭を合わせて計算し、最初に掛出したる那一根を減ず。凡そ四根を余すを「奇」と算し、凡そ八根を余すを「偶」と算す。奇は円に属し、円の周長は三を以て計る。偶は方に属し、方の辺長は四を以て計る。三はその全数を取り、故に三個の奇は合して九と為る。四はその一半を取り、故に三個の偶は合して六と為る。

如三揲掛扐通十三策去初掛之一為十二,是三奇為九矣。而其揲亦九策,亦四九三十六,是為居一之黴老陽。三揲掛扐通十七策去初掛之一為十六,是二奇一偶則為八矣。而其揲亦八策,亦四八三十二,是為居二之少陰。三揲掛扐二十一策去初掛之一為二十,是二偶一奇則為七矣。而其揲亦七策,亦四七二十八,是為居三之少陽。三揲掛扐二十五策去初掛之一為二十四,是三偶為六矣。而其揲亦六策,亦四六二十四,是為居四之老陰。

例を挙げていわく、三次揲蓍の掛ぐ所挟む所は合計十三根、最初に掛げたる一根を減じて十二を得、あれは三個の奇、得数は九。この一爻の実際に揲する蓍草もまた九個の四、四九三十六策、すなわち《河図》の一の位に居る老陽なり。三次の掛ぐ所挟む所は合計十七根、初掛の一根を減じて十六を得、あれは両奇一偶、得数は八。揲する所もまた八個の四、四八三十二策、すなわち二の位に居る少陰なり。三次の掛ぐ所挟む所は二十一根、初掛の一根を減じて二十を得、あれは両偶一奇、得数は七。揲する所もまた七個の四、四七二十八策、すなわち三の位に居る少陽なり。三次の掛ぐ所挟む所は二十五根、初掛の一根を減じて二十四を得、あれは三個の偶、得数は六。揲する所もまた六個の四、四六二十四策、すなわち四の位に居る老陰なり。(「居一之霉老陽」の「霉」は底本の訛文なり。)

此言乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四者。專以乾坤之六爻老陰老陽言之。蓋少陰退而未極乎虛,少陽進而未極乎盈,故獨以老陰老陽為言也。然得乾者未必皆老陽,得坤者亦未必皆老陰。但以乾坤有老陰老陽之象,六子有少陰少陽之象,故以老陰老陽計乾坤六爻之策數而其餘可推也。至於三百六十則陰陽之合,其數必齊。

陳夢雷は指摘す、ここに乾の策数二百一十六・坤の策数一百四十四をいうは、専ら乾坤両卦の六爻が全て老陽・全て老陰なるを取りて計算するを以てなり。少陰は退いて未だ極処に虚せず、少陽は進んで未だ極処に盈たざるが故に、単に老陰老陽を挙げて説く。ただし実際の占筮の時、乾卦を得るは必ずしも六爻皆老陽ならず、坤卦を得るも必ずしも六爻皆老陰ならず。ただ乾坤に老陰老陽の象あり、震・坎・艮・巽・離・兌の六個の子卦に少陰少陽の象あるが故に、老陰老陽を取りて乾坤六爻の策数を算し、其余の各卦は便ち以て類推すべし。三百六十の總数に至っては、陰陽の合わさりて成る結果にして、数目は必然相斉う。

若乾坤之爻皆得於少陰少陽。則乾之策六其二十八而為百六十八,坤之策六其三十二而為百九十二,其合亦為三百六十也。期,周一歲也。一歲凡三百六十五日四分日之一,此特舉成數言之耳。當者,適相當。非以彼準此也。

仮に乾坤両卦の爻の得る所が皆少陽・少陰ならば、乾の策数は六個の二十八にして合わせて一百六十八。坤の策数は六個の三十二にして合わせて一百九十二。両者相加えて同じく三百六十。「期」は一個の整年を指す。一年は実際三百六十五および四分の一日、ここではただ整数を挙げて説くのみ。いわゆる「当」は、恰好相当するの意にして、一年の日数を取りて策数に比准するに非ず。

二篇之策,萬有一千五百二十。當萬物之數也。二篇,上下經也。老陽爻百九十二得六千九百一十二策。老陰爻百九十二得四千六百八策。合之得萬有一千五百二十,以當萬物之數。非謂物止此數,亦極言其多耳。若兩篇皆少陰少陽之數,合之亦為萬一千五百二十也。

経文にいう、上下両篇の策数は總じて一万一千五百二十、正に万物の数に相当す、と。陳夢雷は解説す。「二篇」は《周易》の上経と下経を指す。六十四卦は共に三百八十四爻、陽爻一百九十二は若し皆老陽を按じて算せば、每爻三十六策にして六千九百一十二策を得。陰爻一百九十二は若し皆老陰を按じて算せば、每爻二十四策にして四千六百八策を得。両項相加えて正に一万一千五百二十、以て万物の数に相当す。これは万物がただこれのみあるを説くに非ず、不過ぎ極めてその多きを言うのみ。若し両篇皆少陰少阳の策数を按じて計算せば、合わせて同じく一万一千五百二十なり。

是故四營而成易,十有八變而成卦。四營,分二掛一揲四歸奇也。易謂一變也。三變成爻,十有八變成六爻也。八卦而小成。謂九變成三畫,得內卦也。引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。此又就六爻大成之後視其變與否。則一卦可變為六十四卦以定吉凶,凡四千九十六卦也。能事,即下文顯道神德行、酬酢、佑神也。

経文にいう、四道の手続は一「易」を完成し、十八次の変化は一卦を完成す、と。陳夢雷の注、「四営」はすなわち分二・掛一・揲四・帰奇のこの四道の手続、「易」はここでは一変を指す。三変は一爻を成し、十八変は便ち六爻を成す。経文はまたいう、八卦にして小成す、これは九変が三画を画成して内卦を得るを指す。経文はさらにいう、これを引申して開き、類を按じて推広せば、天下の能く為し得る事は全く斉備す、と。陳夢雷はいう、この一句は六爻大成の後に就き、それが変ずるか変ぜざるかを見て講ず。一卦は以て六十四卦に変じて吉凶を判定すべく、六十四卦は各々六十四に変じ、總じて四千九十六卦。いわゆる「能事」とは、下文のいう顕道・神徳行・酬酢・佑神のこの数件なり。

顯道神德行,是故可與酬酢,可與祐神矣。道隱,而無形者也。因辭而顯其吉凶,以示乎人。德行,人之所為者也。因數而決其行止,則皆神之所為矣。隱者顯之以示人,顯者神之以合天。則明可以酬酢事物之宜,而幽可以輔助鬼神之功矣。受命如嚮。如賔主之應對,故曰酬酢。神不能言吉凶以示人。蓍卦有辭代鬼神言之,是佑助鬼神所不及也。此又極言因筮求卦之妙也。

経文にいう、《易》は能く道を顕出し、人の徳行を神妙ならしむ、故に以て人と應答酬対すべく、以て神明を輔助すべし、と。陳夢雷は解説す。道は隠微にして形迹なく、卦爻辞に倚りて吉凶を顕出して人に見せしむ。徳行は人自ら做出するもの、蓍数に倚りて行うべき止むべきを決定せば、則ち皆神の作為と為る。隠微のものを顕出して人に見せしめ、顕露のものを神化して天に合せしむ。ここに於て明処に在りては事物の宜なる所に應対すべく、幽処に在りては鬼神の功用を輔助すべし。卦を求むる時一問すれば即ち回應あり、主客の間の一唱一答するが如し、故に「酬酢」と呼ぶ。神自体は口を開きて人に吉凶を告ぐる能わず、蓍卦は辞ありて鬼神に代わりて言を為すを得。これすなわち鬼神を幇けてその為し得ざる事を為すなり。この一句はまた極力に依筮求卦の奇妙を形容す。

子曰。知變化之道者,其知神之所為乎。此復加子曰,以別上文也。變化,即上文大衍之數與揲筮求卦之法也。陽變為陰陰變為陽,皆非人之所能為。故曰神。道者,本然之妙。神者,所以然之故也。全章論天地之數,次論蓍之策之數,末論卦畫之數,而終贊因筮求卦之妙也。右第九章。

子曰く、変化の道を知る者は、ほぼ神の作為を知れるか。陳夢雷の注、ここに重新に「子曰」を加えるは、上文と区別するを為すなり。いわゆる「変化」とは、上文の講ずる大衍之数と揲蓍求卦の法なり。陽は変じて陰と為り、陰は変じて陽と為る、皆人力の為し得る所に非ず、故にこれを「神」と称す。「道」は本来かくの如くなる奥妙、「神」はかくの如くなる所以の縁由なり。彼は最後に全章を総結す。先ず天地之数を論じ、其次に蓍策の数を論じ、末了に卦画の数を論じ、依筮求卦の妙を讃嘆するを以て結と為す。以上第九章。

繫辞上伝・第十章

第十章承上章而言易中之用有四者,皆神之所為也。易有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。以,用之也。尚,取也。指其所之者,易之辭也。以言者為尚之,則言無不不當矣。化而裁之者,易之變也。以動者尚之,則動無不時矣。象其物宜者,易之象也。制器者尚之,則可以盡創物之智矣。極數知來者,易之占也。卜筮者尚之,則可以窮先知之神矣。

第十章は上一章を承け、《易》の用処に四項ありてこの四項は皆「神」の作為なるを講ず。経文にいう、《易》の裏に聖人の道を含むこと四種あり――これを以て言を為す者はその辞を重んじ、これを以て行動する者はその変を重んじ、これを以て器物を制造する者はその象を重んじ、これを以て卜筮する者はその占を重んず、と。陳夢雷は「以」を用と訓じ「尚」を取と訓じ、逐項に疏解す。事情の去向を指示するは《易》の辞、言を為す人はこれを取法し、出だす言は不当ならざるなし。変化して裁制を加うるは《易》の変、行動する人はこれを取法し、行動は時に合せざるなし。物の宜なる所に象を取るは《易》の象、器を制する人はこれを取法し、便ち器物を創制する智慧を窮尽し得。蓍数を窮尽して未来を予知するは《易》の占、卜筮する人はこれを取法し、便ち未来を予知する神妙を窮尽し得。(原文「則言無不不当矣」は「不」の字が一つ多し。)

辭與占為類,觀其辭乃可知其占。故下文至精,合辭與占言之。變與象為類。變者,事之方始。象者,事之已成。故下文至變,合變與象言之。四者唯變難知。變雖在辭象占之外,實不出乎辭象占之間也。

陳夢雷はさらにこの四者の配対を理出する。辞と占は一类であり、辞を見てこそ占の結果を知り得るから、下文が「至精」を講ずる時は辞と占を合わせて講ずるのである。変と象は一类であり、「変」は事情の始め始めたる時、「象」は事情の既に成形した時だから、下文が「至変」を講ずる時は変と象を合わせて講ずるのである。四者の中で唯だ「変」のみ最も掌握し難い。変は辞・象・占の外にあるようでありながら、実際は辞・象・占の範囲を出でるものではない。

是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如嚮,無有遠近幽深,遂知來物。非天下之至精,其孰能與於此。此節言尚辭尚占之事。問焉而以言。按,本義謂以言與以言者尚其辭之以言同。謂以之發言處事也。今按,經文上已有有為有行,此又補以言,語氣未順。又按,大全朱子又云言是命龜。受命是龜受命。此說較順,今從之。至精,窮理於精微也。

経文にいう、故に君子は将に為す所あらんとし将に行わんとする時、《易》に問いを発して言辞を以て教を求む。《易》は問命を承けて、回應すること回響の如く速く、遠近幽深を問わず、皆これより未来の事を知り得。若し天下の最も精微なるものに非ざれば、誰かこの地步を為し得んや、と。陳夢雷はいう、この節は辞と占を取法するを講ず。「問焉にして言を以てす」の一句について、《周易本義》はこの「以言」が前の「以て言する者はその辞を尚ぶ」の「以言」と同じで、《易》を以て発言処事するを指すとす。彼はこれを妥当ならずと覚ゆ。経文は上に既に「有為」「有行」を説き、ここに再び一つの「以言」を補えば語気順ならず、と。彼はまた《周易大全》を査し、朱子に別の一説あるを見る。「言」は蓍亀に命辞を下すこと、「受命」は蓍亀がこの命辞を接受すること――この講法は比較的順なるが故に、後説に改め従う。「至精」とは、道理を精微の処に窮究するをいう。

參伍以變,錯綜其數。通其變,遂成天地之文。極其數,遂定天下之象。非天下之至變,其孰能與於此。按,本義謂尚象之事。變,謂事之未定者也。要之此節總承上尚變尚象言之。參伍以變,交互參考之意。然按筮法。每爻三揲為三變。而每揲之中象兩、象三、象四時、象閏、象再閏。雖曰四營,實五小變。所謂參伍以變也。

経文にいう、三番五次に変化を推求し、その数目を交錯綜合す。その変化を貫通せば、天地の間の文采を成就す。その数目を窮尽せば、天下の物象を定下す。若し天下の最も善変なるものに非ざれば、誰かこの地步を為し得んや、と。陳夢雷はいう、《周易本義》はこの節を専ら「尚象」の事を講ずると見做すが、彼はこの節が総じて上文の「尚変」「尚象」の両項を承けて講ずると認む。「参伍以て変ず」は交互に参考するの意。筮法を按ずれば、每一爻は三揲して三変を成し、每一揲の中にまた象両儀・象三才・象四時・象閏・象再閏の数層あり。「四営」と説くも実際は五個の小変、これすなわちいわゆる「参伍以て変ず」なり。

錯,謂分而配之。三奇為老陽,三偶為老陰,兩奇一偶為少陰,兩偶一奇為少陽是也。綜,謂合而總之。總記左右手之正策得四六、四七、四八、四九之數是也。此二語止論一爻之法也。通其變,謂通六爻十有八變而成初二三四五上剛柔相雜之文也。極其數,謂極六爻七八九六而得內外兩卦天地雷風水火山澤之象也。此二句論成卦之法也。三變而成爻,十有八變而成卦。易之有象,天下之至變者無以加之矣。

「錯」は分かちて配搭するをいう。三個の奇画を配して老陽と為し、三個の偶画を配して老陰と為し、両奇一偶を配して少陰と為し、両偶一奇を配して少陽と為す。「綜」は合わせて總計するをいう。三変の後の左右両手に余る正策を統算し、四六二十四・四七二十八・四八三十二・四九三十六のこの数個の数を得、すなわち六・七・八・九のこの四個の爻数の由来なり。この両句はただ一爻を求むる弁法を講ず。「その変を通ず」は、六爻十八変を貫通して、初・二・三・四・五・上の各位の剛柔交雑する文采を成就するをいう。「その数を極む」は、六爻の七・八・九・六の数を窮尽して、内外両卦の天・地・雷・風・水・火・山・沢の物象を得るをいう――この両句こそ卦を成す弁法を講ず。三変は一爻を成し、十八変は一卦を成す。《易》の象ある所以は、天下の最も善変なるものもこれを超過する能わざるなり。

易無思也,無為也。寂然不動,感而遂通天下之故。非天下之至神,其孰能與於此。此四者,易之體所以立而用之,所以行者也。易,指蓍卦。無思無為,蓍策本無心者也。寂然者其體,感通者其用。此專就蓍卦而言。然而人心動靜之妙亦如此,唯聖人能之耳。

経文にいう、《易》は思慮なく作為なく、寂静にして動かず、一たび感應すれば便ち天下の事故に通達す。若し天下の最も神妙なるものに非ざれば、誰かこの地步を為し得んや、と。陳夢雷はいう、無思・無為・寂然・感通のこの四様は、正に《易》の本体の確立する所以・作用の運行する所以の故なり。ここの「易」は蓍と卦を指す。無思無為とは、蓍草の本来无心なるをいう。寂然はその体、感通はその用なり。この節は専ら蓍卦に就いての言、然るに人心の動静の奥妙もまた正にこの如く、ただ唯だ聖人のみ之を為し得るなり。

夫易,聖人之所以極深而研幾也。極深承至精,研幾承至變。如幽明之故、死生之說,易中之至精者本深也,聖人即此以極其深。如吉凶悔吝之萌,人不自覺,易中之至變者其幾也,聖人即此以研其幾。極深,大學之所謂知止。研幾,大學之所謂能慮。上文至精至變至神,易之體也。下文惟深惟幾惟神,易之用也。此句承上起下。

経文にいう、《易》は聖人の以て幽深を窮究し幾微を研求するなり、と。陳夢雷は指摘す。「極深」は上文の「至精」を承け、「研幾」は上文の「至変」を承く。幽明の縁由・死生の道理の如きは、《易》の中の最も精微なる部分にして、本来幽深なり、聖人はこれに就きて窮究し尽す。吉凶悔吝の剛に萌動して人自ら未だ察覚せざるの如きは、《易》の中の最も善変なる部分にして、すなわちいわゆる「幾」、聖人はこれに就きて細かに研求を加う。「極深」は《大学》のいう「止まるを知る」に相当し、「研幾」は《大学》のいう「能く慮る」に相当す。上文の至精・至変・至神は《易》の体を説き、下文の惟深・惟幾・惟神は《易》の用を説く。この一句は正に上を承け下を啓く。

唯深也,故能通天下之志。唯幾也,故能成天下之務。唯神也,故不疾而速,不行而至。唯易之能極深也,故以辭為占。則可以前知,而開通天下人之心志。唯易之能研幾也,故以變得象。則可以制作,而完成天下人之事務。然辭占變象所以能如此者,皆妙不可測之神為之。唯其妙不可測,故不待疾之而自速,不待行之而自至。謂自然而然,非人所能為也。天下之理,唯疾故速,唯行故至。未有不疾而速,不行而至者。蓋不如是,不足以為神也。神莫神於心。此所謂神,亦就易書言之。

経文にいう、唯だその幽深なるが故に能く天下人の心志に通達し、唯だその幾微なるが故に能く天下人の事務を成就し、唯だその神妙なるが故に急促せずして自然迅速、行走せずして自然到達す、と。陳夢雷は解説す。正に《易》が能く幽深を窮究するが故に、卦爻辞を憑りて占問せば便ち以て預知し、従って天下人の心志を打通し得。正に《易》が能く幾微を研求するが故に、変化を憑りて物象を取得せば便ち以て器用を制作し、従って天下人の事務を弁成し得。然るに辞・占・変・象の能くかくの如くなる所以は、全くあの妙測し難き「神」が作用を起こすに倚る。正にその妙測し難きが故に、催促を必とせずして自然迅速、行走を必とせずして自然到達す。これは自然にして然り、人力の為し得る所に非ず。常理を按ずれば、天下の事は総じて急促してこそ快く行走してこそ到る、未だ嘗て急促せずして快く行走せずして到るはあらず。このようでなければ、則ち「神」と称するに足らず。彼は最後に一句を補す。神は人心より神なるはなし、ここにいう神は仍お《易》の書に就いて講ず。

子曰。易有聖人之道四焉者,此之謂也。觀變玩占,可見其精。觀象玩辭,可知其變。然非有寂然感通之神,何以為精何以為變哉。變化之道皆神所為。易有聖人之道四焉,無非變化之道而已矣。右第十章。

子曰く、いわゆる《易》の裏に聖人の道を含むこと四種とは、これらを講ずるなり、と。陳夢雷は收束していう。変化を観察し占断を玩味せば、《易》の精微を見るべし。物象を観察し文辞を玩味せば、《易》の変化を知るべし。然るに若しあの寂然不動・感じて遂に通ずるの神なくんば、また何を以て精微と為し何を以て変化と為さんや。変化の道は全て神の造成する所、《易》の裏のこの四種の聖人の道は、説き極めて无非る変化の道なり。以上第十章。

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