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經星之甲一百九十一

宋 · 邵雍 · 第11巻 / 39

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

經星之甲一百九十一。經星之乙一百九十二。經星之丙一百九十三。經星之丁一百九十四。經星之戊一百九十五。經星之己一百九十六。經星之庚一百九十七。經星之辛一百九十八。經星之壬一百九十九。經星之癸二百。經星之甲二百一。經星之乙二百二。經星之丙二百三。經星之丁二百四。經星之戊二百五。經星之己二百六。經星之庚二百七。經星之辛二百八。經星之壬二百九。經星之癸二百十。

ここより以下、表中は世を連ねて年を帶ぶること一概に排せず、ただ運の名號を一行一行に列ね開くのみ。ここに列する所は第一百九十一運から第二百運、再び第二百十運に至るまで、合わせて二十運。一運三百六十年、二十運は合わせて七千二百年、西元一三八四年から西元八五八三年に當たる。第二百十運は第七會「午會」の轄する三十運の裡の最後の一運。第一百八十一運より起こりこの第二百十運に止まるまで、午會の一萬八百年はちょうど排し滿たされた。人間の堯舜より以来の全部の史事は、邵雍の算法の裡では皆ただ午會の前半段に落つ。午會の後半段およびその下の各運は、便ちただ一つ一つの空しい名號を餘し、日月の自ら走り過ぐるを待つに過ぎない。

經日之甲一 經月之未八

經日之甲一,經月之未八。經星之甲二百一十一。經星之乙二百一十二。經星之丙二百一十三。經星之丁二百一十四。經星之戊二百一十五。經星之己二百一十六。經星之庚二百一十七。經星之辛二百一十八。經星之壬二百一十九。經星之癸二百二十。經星之甲二百二十一。經星之乙二百二十二。經星之丙二百二十三。經星之丁二百二十四。經星之戊二百二十五。

この一行の「經日之甲一、經月之未八」は新たな座標である。依然として第一元の內に在り、會はすでに第七會の午會より第八會の未會に轉入した。一會は三十運を統べ、合わせて一萬八百年。未會の轄する所は第二百十一運から第二百四十運までで、西元八五八四年に起こる。ここにまず前の十五運を列す。すなわち第二百十一運から第二百二十五運まで、合わせて五千四百年、西元八五八四年から一三九八三年に當たる。十二會は子丑寅卯の次第に依って輪轉し、午會すでに盡き、天地の氣はここから盛より衰に轉ず。邵雍のいわゆる「陽極まりて陰生ず」は正にこの處を指す。但し表中は一語の論斷をも作さず、ただ運名を順に按じて排し下り、讀者をして數目の推移の裡より自ら看むに任せる。

經星之己二百二十六。經星之庚二百二十七。經星之辛二百二十八。經星之壬二百二十九。經星之癸二百三十。經星之甲二百三十一。經星之乙二百三十二。經星之丙二百三十三。經星之丁二百三十四。經星之戊二百三十五。經星之己二百三十六。經星之庚二百三十七。經星之辛二百三十八。經星之壬二百三十九。經星之癸二百四十。

續いて未會の後の十五運を排す。すなわち第二百二十六運から第二百四十運まで、合わせて五千四百年、西元一三九八四年から一九三八三年に當たる。運名は十天干の輪轉をもって目を標し、十運ごとに一周し、癸に逢えば則ち數は一十に滿つ。第二百三十運・第二百四十運のごときは皆「經星之癸」と題し、干支を見ればすなわち一旬の中の位次を知る。西元紀年に折れば、第二百二十六運は西元一三九八四年に起こり、第二百三十運は一五四二四年に起こり、第二百四十運は一九三八三年に終わる。第二百四十運を排し畢われば、第八會の未會の一萬八百年もまた走り盡くし、次の一行は便ち別に座標を立て、改めて第九會の申會と題す。

經日之甲一 經月之申九

經日之甲一,經月之申九。經星之甲二百四十一。經星之乙二百四十二。經星之丙二百四十三。經星之丁二百四十四。經星之戊二百四十五。經星之己二百四十六。經星之庚二百四十七。經星之辛二百四十八。經星之壬二百四十九。經星之癸二百五十。經星之甲二百五十一。經星之乙二百五十二。經星之丙二百五十三。經星之丁二百五十四。經星之戊二百五十五。

「經日之甲一、經月之申九」は、依然として第一元に在り、會はすでに第九會の申會に推し至ったを説く。申會の轄する所は第二百四十一運から第二百七十運までで、西元一九三八四年に起こる。ここにまず前の十五運を列す。すなわち第二百四十一運から第二百五十五運まで、合わせて五千四百年、西元一九三八四年から二四七八三年に當たる。邵雍の説に按れば、一元十二會は合わせて十二萬九千六百年、一年に十二月あり、一日に十二時あるが如し。天は子會に開き、地は丑會に闢け、人は寅會に生まれ、萬物は寅會の第七十六運の上に物を開き、戌會の第三百十五運の上に物を閉づ。申會は正に午・未の後に在り、氣數の長より消に入る一段で、その間の人物盛衰の實際の情形は、邵雍の預言し得る所に非ず。このゆえにこの表はただ名號を存す。

經星之己二百五十六。經星之庚二百五十七。經星之辛二百五十八。經星之壬二百五十九。經星之癸二百六十。經星之甲二百六十一。經星之乙二百六十二。經星之丙二百六十三。經星之丁二百六十四。經星之戊二百六十五。經星之己二百六十六。經星之庚二百六十七。經星之辛二百六十八。經星之壬二百六十九。經星之癸二百七十。

これは申會の後の十五運、すなわち第二百五十六運から第二百七十運まで、合わせて五千四百年、西元二四七八四年から三〇一八三年に當たる。第二百七十運を排し畢われば、第九會の申會の一萬八百年はすなわち結束を告ぐ。全表はこのような整齊たる名號を用いて一路排し下り、正に元・會・運・世の四層の數目が彼此相因るの規矩を顯さんとするにある。一元は十二會、一會は三十運、一運は十二世、一世は三十年。層層相乘して十二萬九千六百年を得、多からず亦少なからず。西元紀年に折れば、第二百五十六運は西元二四七八四年に起こり、第二百六十運は二六二二四年に起こり、第二百七十運は三〇一八三年に終わる。

經日之甲一 經月之酉十

經日之甲一,經月之酉十。經星之甲二百七十一。經星之乙二百七十二。經星之丙二百七十三。經星之丁二百七十四。經星之戊二百七十五。經星之己二百七十六。經星之庚二百七十七。經星之辛二百七十八。經星之壬二百七十九。經星之癸二百八十。經星之甲二百八十一。經星之乙二百八十二。經星之丙二百八十三。經星之丁二百八十四。經星之戊二百八十五。經星之己二百八十六。經星之庚二百八十七。經星之辛二百八十八。

「經日之甲一、經月之酉十」は、依然として第一元に在り、會はすでに第十會の酉會に推し至ったを説く。酉會の轄する所は第二百七十一運から第三百運までで、西元三〇一八四年に起こる。ここに第二百七十一運から第二百八十八運までを列す。合わせて十八運・六千四百八十年、西元三〇一八四年から三六六六三年に當たる。酉會の後は戌會で、邵雍は以って萬物はまさに戌會の第三百十五運の上に閉合し、天地は混沌に歸して、再び次の一元の重ねて開くを待つとす。ゆえに酉會はすでに收斂の時節である。この一段の表文は第二百八十八運より以下依舊として一運一行と接いで排し往き、十二會三百六十運の排し滿たすまでに至る。末の一行の第二百八十八運は西元紀年に折れば、西元三萬六千三百四年に起こり、三萬六千六百六十三年に終わる。その下の各運は依然としてこの例に照って接排する。

以會經運(續)・經星之壬二百八十九至經星之癸三百

經星之壬二百八十九、經星之癸二百九十、經星之甲二百九十一、經星之乙二百九十二、經星之丙二百九十三、經星之丁二百九十四、經星之戊二百九十五、經星之己二百九十六、經星之庚二百九十七、經星之辛二百九十八、經星之壬二百九十九、經星之癸三百。

この一段は續いて「以會經運」の表の末尾の部分を排列する。「經星」はすなわち「運」で、一運は三百六十年を統べ、本元の開頭より連續して編號す。「經星之壬二百八十九」はすなわち本元の第二百八十九運で、本元の第十萬三千六百八十一年から第十萬四千四十年に當たる。下って癸二百九十・甲二百九十一・乙二百九十二・丙二百九十三・丁二百九十四・戊二百九十五・己二百九十六・庚二百九十七・辛二百九十八・壬二百九十九と、一運進むごとに便ち三百六十年を推し後らせ、「經星之癸三百」に至っては第三百運で、ちょうど「經會之酉十」のこの一會を排し滿たす。一會は三十運を統べ合わせて一萬八百年、酉會はここに至って止まる。この十二運はただ運名を標して何の史事をも繫げない。皆邵雍の身後の未來に遠く、數に照って推排し出した空格に過ぎないがゆえに。

經日之甲一・經月之戌十一(至閉物)

經日之甲一,經月之戌十一。經星之甲三百一、經星之乙三百二、經星之丙三百三、經星之丁三百四、經星之戊三百五、經星之己三百六、經星之庚三百七、經星之辛三百八、經星之壬三百九、經星之癸三百一十、經星之甲三百一十一、經星之乙三百一十二、經星之丙三百一十三、經星之丁三百一十四、經星之戊三百一十五。閉物,經月戌之終。

「經日之甲一」は記する所が依然として第一元すなわち甲元の內に在るを表明し、「經月之戌十一」は第十一会すなわち戌會に入ったを表明する。一會は三十運を領し、戌會の轄する所は第三百一運から第三百三十運まで。表中は順に按じて經星之甲三百一・乙三百二・丙三百三・丁三百四・戊三百五・己三百六・庚三百七・辛三百八・壬三百九・癸三百一十・甲三百一十一・乙三百一十二・丙三百一十三・丁三百一十四を排し出し、一路經星之戊三百一十五に至る。邵雍は以って天地間の生物は「星之己七十六に物を開く」、すなわち寅會の中にて生長繁育を始め、この第三百十五運に至って便ち「物を閉づ」、生機は斷絕して萬物は收藏し、一元の內の生化はここに至って門を關づとす。底本の戌會の記載もまたすなわちこの處に止まる。ゆえに「經月戌之終」と説く。

皇極經世書卷五上・觀物篇二十五 以運經世一(經運之癸一百八十)

皇極經世書卷五上。觀物篇二十五,以運經世一。經元之甲一,經會之巳六。經運之癸一百八十。經世之子二千一百四十九、經世之丑二千一百五十、經世之寅二千一百五十一、經世之卯二千一百五十二、經世之辰二千一百五十三、經世之巳二千一百五十四、經世之午二千一百五十五。

この一卷より、《皇極經世書》の體例は「以會經運」より「以運經世」に改まる。一つの「運」(三百六十年)をとって一篇の綱領と為し、その下に更に十二の「世」(每世三十年)を分かち、年ごとに干支を標し出し、史事を相應の干支の底下に繫げる。「經元之甲一」は記する所が依然として第一元の內に在るを説明し、「經會之巳六」は第六會の巳會を指し、「經運之癸一百八十」は本元の第一百八十運で、また巳會の轄する最後の一運、本元の第六萬四千四百四十一年から第六萬四千八百年に當たり、折して紀元前二五七七年から紀元前二二一八年とす。世もまた本元の開頭より連續して編號し、一元は合わせて四千三百二十世、本運の下轄は第二千百四十九世から第二千百六十世まで。その中の子世二千百四十九・丑世二千百五十・寅世二千百五十一・卯世二千百五十二・辰世二千百五十三・巳世二千百五十四・午世二千百五十五のこの七世は、およそ紀元前二五七七年から前二三六八年に當たり、皆ただ世名を列して干支を排せず史事を記さない。邵雍の編年が唐堯の即位するその年に至ってはじめて正式に起算するによる。

經世之未二千一百五十六。甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰,唐帝堯肇位於平陽,號陶唐氏,命羲和欽若昊天,曆象日月星辰,敬授人時,期三百六旬有六日,以閏月定四時,成歲曰載,建寅月為始。允釐百工,庶績咸熙。乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百五十六世は未世に屬し、紀元前二三六七年から前二三三八年に當たる。この三十年はまず甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯の十年を排して、記すべき事なし。甲辰年に至り、すなわち紀元前二三五七年、唐堯は平陽に都を建てて即位し、國號は「陶唐氏」、《皇極經世》の中國編年はすなわちこの年より始まる。堯は羲氏・和氏の兩族を任命して恭敬に上天の法度に遵い、日月星辰の運行を觀測推算して、節令を百姓に頒授せしめた。一周年を三百六十六日と定め、閏月を安插する辦法を用いて春夏秋冬の四時を校正し、歷法を天時と相合せしめた。當時は「年」を「載」と稱し、夏歷の寅月すなわち今の農歷正月をもって一年の首とした。堯はまた切實に百官の職守を整頓し、各項の政事はここに由って皆興盛した。以下乙巳から癸丑の九年・甲寅から癸亥の十年は、ただ干支を列して史册に繫ぐべき事なし。

經世之甲二千一百五十七。甲子,唐帝堯二十一年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百五十七世は、底本「經世之甲」と題すが、十二世の子丑寅卯の次第に按れば、この處はまさに申世であるべく、紀元前二三三七年から前二三〇八年に當たる。開頭の甲子年はすなわち紀元前二三三七年で、唐堯の在位の第二十一年と為る。以下乙丑から癸酉の九年・甲戌から癸未の十年・甲申から癸巳の十年は、皆ただ年ごとに干支を排し出す。この三十年の間堯は天下を治めて安穩に事なく、表中には何の史事をも繫げない。

經世之酉二千一百五十八。甲午,唐帝堯五十一年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥。壬子,鯀治水,績用弗成。癸丑,帝堯求禪,明明揚側陋,始徵舜登庸。歷試諸難,釐降二女於溈汭,作嬪於虞,以觀法焉。

第二千百五十八世は酉世に屬し、紀元前二三〇七年から前二二七八年に當たる。甲午年すなわち紀元前二三〇七年は、唐堯の在位の第五十一年。乙未から癸卯の九年・甲辰から辛亥の八年は皆事なし。壬子年すなわち紀元前二八九年、堯は鯀を遣わして洪水を治めしめ、鯀は堵塞の辦法を用い、多年下りて毫も成效なし。癸丑年すなわち紀元前二八八年、堯は天下を賢者に讓らんと打算し、群臣に明德の人を推擧し出すを求め、たとい出身微賤・地位卑下なるも遺漏を許さず。ここに於て虞舜は初めて徵召任用された。堯は舜に多方の考驗を加え、彼をして一々種種の難處を經歷せしめ、また娥皇・女英の二女を嬀水の彎曲の處に嫁し、彼らをして虞舜の家に媳婦と為らしめ、これを藉りて舜の家を治め內を理する法度を觀察した。

甲寅。乙卯,舜言底可績,帝以德薦於天,而命之位。丙辰,正月上日,舜受命於文祖,用璇璣玉衡,以齊七政,類於上帝,禋於六宗,望于山川,遍於群神,輯五瑞五玉,班於群后。肇十有二州,封十有二山。四時行巡狩,協時月正日,同律度量衡,修五禮象以典刑,流共工於幽州,放驥兜於崇山,竄三苗於三危,殛鯀於羽山。四罪正而天下咸服。丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

甲寅年すなわち紀元前二八七年、事なし。乙卯年すなわち紀元前二八六年、舜は任じた所の各項の事務が皆辦り成るを奏報し、堯は便ちその德行をもって上天に擧薦し、正式に攝政の位を授けた。丙辰年すなわち紀元前二八五年正月の吉日、舜は堯の太祖廟で冊命を受け、「璇璣玉衡」のこの觀天の儀器を用いて日・月と金木水火土の五星の合わせて七種の天体の運行を校準し、また「類」の祭を行って上帝を祭り、「禋」の祭を行って六宗を祭り、遙かに望んで山川を祭り、遍く群神を祭った。諸侯の執る所の五種の瑞玉を收繳し、重ねて各方の諸侯に頒發した。彼は十二州を劃定し、十二州に各々一座の鎮山を封じ、四季に按って天下を巡行して、時令・月份と日の算法を統一し、音律と度・量・衡の標準を統一し、五種の禮儀を制定し、刑罰を圖象に畫いて警戒を示した。また共工を幽州に流放し、驩兜(底本は「驥兜」と作る)を崇山に放逐し、三苗を三危に驅趕し、治水に失敗した鯀を羽山に處死した。四つの罪人の處置は當を得て、天下の人は皆心に誠服した。丁巳から癸亥の七年、すなわち紀元前二八四年から前二七八年、事なし。

經世之戌二千一百五十九。甲子,虞帝舜九年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉。丙戌,月正元日,舜格於文祖,號有虞氏,都蒲坂。詢四嶽,闢四門,明四目,達四聰。諮十有二牧,命九官。以伯禹為司空,稷司農,契司徒,皋陶司士,垂司工,益司虞,夷司禮,夔典樂,龍司言。此九人使宅百揆,三載考績,黜陟幽明,庶績其凝。丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百五十九世は戌世に屬し、紀元前二七七年から前二四八年に當たる。甲子年すなわち紀元前二七七年は、虞舜が攝政の第九年。乙丑から癸酉・甲戌から癸未および甲申・乙酉の合わせて二十二年は事なし。丙戌年すなわち紀元前二五五年正月の吉日、舜は正式に堯の太祖廟にて天子の位に即き、國號は「有虞氏」、蒲坂に都を建てた。彼は四方の諸侯の長に咨詢し、四方の門を敞き開いて賢を納れ、四方の目を明かにして事を察し、四方の耳を通じて言を聽した。また十二州の州牧に政を問い、九位の大臣を任命した。伯禹をもって司空として土木水利を掌らしめ、棄すなわち后稷は農事を主管し、契は司徒として教化を掌り、皋陶は司士として刑獄を掌り、垂は司工として百工を掌り、益は司虞として山林川澤を掌り、伯夷は禮を掌り、夔は音樂を掌り、龍は王命の傳達を掌った。この九人は分か居りて百官の長の位置に在り、三年ごとに政績を考核し、昏庸なるは貶黜し賢明なるは升遷し、各項の事業はここに於て皆穩固に成った。丁亥から癸巳の七年、すなわち紀元前二五四年から前二四八年、事なし。

經世之亥二千一百六十。甲午,虞舜帝三十九年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯。丙辰,帝舜求代,以功薦禹於天,而命之位。丁巳,正月朔旦,禹受命於神宗,正天下水土,分九州九山九川九澤,會於四海,修其六府,咸則三壤,成賦中邦。戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百六十世は亥世に屬し、紀元前二四七年から前二一八年に當たり、また第一百八十運の最後の一世で、巳會はここに至って結束す。甲午年すなわち紀元前二四七年は、虞舜の在位の第三十九年。乙未から癸卯・甲辰から癸丑および甲寅・乙卯の合わせて二十二年は事なし。丙辰年すなわち紀元前二二五年、舜は己に接替する人を尋ね求め、大禹が水を治めて大功を立てたに因り、彼を上天に擧薦して、攝政の位を授けた。丁巳年すなわち紀元前二二四年正月初一、禹は舜の祖廟「神宗」にて冊命を受け、隨じて天下の水土を整治し、九州を劃分し、九山を疏導し、九川を開通し、九澤を修治して、衆水をして皆四海に歸匯せしめた。整頓九州の田賦、五服の制度を定めた。戊午から癸亥の七年は事なし。禹は水治の功により即位した後、皋陶を用いて政を相せしめ、萬民これに安んじた。

觀物篇二十六 以運經世二(經運之甲一百八十一)

觀物篇二十六,以運經世二。經元之甲一,經會之午七。經運之甲一百八十一。經世之子二千一百六十一。甲子,夏王禹八年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申。癸酉,帝舜陟方,乃死。甲戌,禹都安邑,徙居陽翟,大會諸侯於塗山,執玉帛者萬國。防風氏後至,戮焉。乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午。癸未,夏王禹東巡狩,至於會稽,崩。元子啟踐位。甲申,啟與有扈戰於甘之野。乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯。壬辰,夏王啟崩,元子太康踐位。癸巳。

この一篇は依然として第一元の內に在るが、會數はすでに巳會より「經會之午七」すなわち第七會の午會に推進した。午會は第一百八十一運から第二百十運までを統べ、邵雍は己の處する時代は正に午會の中に在りて、天地の一元の正に中間なりと認めた。「經運之甲一百八十一」は本元の第一百八十一運で、紀元前二二一七年から前一八五八年に當たり、その下の十二世の編號は第二千百六十一世より起こる。子世の二千一百六十一は紀元前二二一七年から前二八八年に當たる。甲子年すなわち紀元前二二一七年は、夏王禹の在位の第八年。乙丑から壬申の八年は事なし。癸酉年すなわち紀元前二二〇八年、虞帝舜は南巡の途中にて去世した。甲戌年すなわち紀元前二二〇七年、禹は安邑に都を建て、後にまた陽翟に遷居して、涂山にて諸侯を大會し、玉帛を手執って朝會に來る部族は號して萬國と稱した。防風氏は遲刻して、禹に處死された。乙亥から壬午の八年は事なし。癸未年すなわち紀元前二一九八年、夏王禹は東行して巡狩して、會稽山に至る時に去世し、長子の啓が位を繼いだ。甲申年すなわち紀元前二一九七年、啓は有扈氏と甘の地の郊野にて交戰した。これすなわち《尚書・甘誓》の記す所の一戰である。乙酉から辛卯の七年は事なし。壬辰年すなわち紀元前二一八九年、夏王啓は去世し、長子の太康が位を繼いだ。癸巳年は事なし。

經世之丑二千一百六十二。甲午,夏王太康二年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申。辛酉,夏王太康失邦,盤遊無度,畋於有洛之表,十旬不返。有窮后羿因民不忍距於河而死。子仲康立。壬戌,命胤侯徵羲氏、和氏。癸亥。

第二千百六十二世は丑世に屬し、紀元前一八七年から前一五八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一八七年は、夏王太康の在位の第二年。乙未から癸卯・甲辰から癸丑・甲寅から庚申の合わせて二十七年は事なし。辛酉年すなわち紀元前一六〇年、夏王太康は國家を失った。彼は游獵度なく、洛水の南岸に走って打獵し、百日も都城に歸らず。有窮氏の首領后羿は百姓の忍ぶ可からざるに乘じ、黄河の邊で彼を遮截して渡河を許さず、太康は終に外で死した。その子の仲康は立てられて君と為るが、實權はすでに后羿の手に落ちていた。壬戌年すなわち紀元前一五九年、仲康は胤侯に命じて兵を出して天象を掌る羲氏・和氏を討たせた。彼らが酒色に沈湎して歷法を荒廢し、日食を報ぜざりしによる。これすなわち《尚書・胤征》に記する所の事。癸亥年は事なし。

經世之寅二千一百六十三。甲子,夏王仲康三年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌,夏王仲康崩,子相繼立,依同姓諸侯斟灌、斟鄩氏。乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百六十三世は寅世に屬し、紀元前一五七年から前一二八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一五七年は、夏王仲康の在位の第三年。乙丑から癸酉の九年は事なし。甲戌年すなわち紀元前一四七年、夏王仲康は去世し、その子の相が位を繼いだ。この時后羿は權を專らにし、相は王都に立脚すること能わず、ただ同姓の諸侯斟灌氏・斟鄩氏に投靠して、彼らの處に寄居するのみ。乙亥から癸未の十年・甲申から癸巳の十年、合わせて二十年はただ干支を排して史事なし。夏王朝のこの一段は正に有窮氏に篡奪され王統の旁に落つる低谷に處る。

經世之卯二千一百六十四。甲午,夏王相二十年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑。壬寅,寒浞殺有窮后羿,使子澆及殪伐斟灌、斟鄩氏,以滅相。相之臣靡逃於有鬲氏,相之後還於有仍氏,遂生少康。癸卯、甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百六十四世は卯世に屬し、紀元前一二七年から前〇九八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一二七年は、夏王相の在位の第二十年。乙未から辛丑の七年は事なし。壬寅年すなわち紀元前一一九年、后羿の親信の寒浞が有窮氏の首領后羿を殺してその位を奪い、また兒子の澆と殪を分頭に遣わして斟灌氏・斟鄩氏を攻めて、終にその間に寄居した夏王相を消滅した。相の舊臣の靡は有鬲氏に逃れて難を避け、相の王后(有仍氏の女)は娘家の有仍氏に逃歸し、すなわちそこで遺腹子の少康を生んだ。夏朝の一線の血脈はこれに賴って保存された。癸卯から癸丑の十一年・甲寅から癸亥の十年は事なし。

經世之辰二千一百六十五。甲子,夏王少康生二十三年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳。壬午,夏之遺臣靡自有鬲氏收斟灌鄩二國之燼,以滅寒浞,而立少康。少康立,滅澆於過,滅殪於戈,以絕有窮氏之族。癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百六十五世は辰世に屬し、紀元前〇九七年から前〇六八年に當たる。甲子年すなわち紀元前〇九七年、この年夏王少康は出生すでに二十三年、帝位は依然として寒浞に竊據されている。ゆえに表中は在位の年を書さず「生二十三年」と書す。乙丑から癸酉・甲戌から辛巳の合わせて十七年は事なし。壬午年すなわち紀元前〇七九年、夏朝の遺臣の靡は有鬲氏より出發し、斟灌・斟鄩の兩國の殘餘の力量を收攏し、一擧に寒浞を消滅して、少康を擁して王と立てた。少康は位に即いた後、過の地で寒浞の子の澆を消滅し、戈の地でその子の殪を消滅し、有窮氏の一族を徹底的に剷除した。史に「少康中興」と稱し、夏王朝の正統はここに由って復歸した。癸未の一年、および甲申から癸巳の十年は事なし。

經世之巳二千一百六十六。甲午,夏王少康五十三年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅。癸卯,夏王少康崩,子杼踐位。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未。庚申,夏王杼崩,子槐踐位。辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百六十六世は巳世に屬し、紀元前〇六七年から前〇三八年に當たる。甲午年すなわち紀元前〇六七年は、夏王少康の出生後の第五十三年。乙未から壬寅の八年は事なし。癸卯年すなわち紀元前〇五八年、夏王少康は去世し、その子の杼が位を繼いだ。杼は嘗て甲胄を發明し、東夷を東征した、夏朝の一位の有為の君である。甲辰から癸丑の十年・甲寅から己未の六年は事なし。庚申年すなわち紀元前〇四一年、夏王杼は去世し、その子の槐が位を繼いだ。辛酉・壬戌・癸亥の三年は事なし。

經世之午二千一百六十七。甲子,夏王槐四年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉。丙戌,夏王槐崩,子芒踐位。丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百六十七世は午世に屬し、紀元前〇三七年から前〇〇八年に當たる。甲子年すなわち紀元前〇三七年は、夏王槐の在位の第四年。乙丑から癸酉・甲戌から癸未および甲申・乙酉の合わせて二十二年は事なし。丙戌年すなわち紀元前〇一五年、夏王槐は去世し、その子の芒が位を繼いだ。丁亥から癸巳の七年は事なし。この一世は夏朝の國勢平穩にして、王位の更替を除くの外に記すべき大事なし。邵雍の編年がただ興亡治亂に關わる大節を取るを見るべし。

經世之未二千一百六十八。甲午,夏王芒八年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰,夏王芒崩,子洩踐位。乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未。庚申,夏王洩崩,子不降踐位。辛酉、壬戊、癸亥。

第二千百六十八世は未世に屬し、紀元前〇〇七年から前九七八年に當たる。甲午年すなわち紀元前〇〇七年は、夏王芒の在位の第八年。乙未から癸卯の九年は事なし。甲辰年すなわち紀元前九七七年、夏王芒は去世し、その子の泄が位を繼いだ。乙巳から癸丑の九年・甲寅から己未の六年は事なし。庚申年すなわち紀元前九八一年、夏王泄は去世し、その子の不降が位を繼いだ。末の三年は底本「辛酉・壬戊・癸亥」と作るが、中の「壬戊」はまさに「壬戌」の形近の誤であるべし。この三年は事なし。

經世之申二千一百六十九。甲子,夏王不降四年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。經世之酉二千一百七十。甲午,夏王不降三十四年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午。己未,夏王不降崩,弟扃立。庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百六十九世は申世に屬し、紀元前九七七年から前九四八年に當たる。開頭の甲子年すなわち紀元前九七七年は、夏王不降の在位の第四年。この下乙丑から癸酉の九年・甲戌から癸未の十年・甲申から癸巳の十年、三十の年頭の干支は整々斉々と排されたれど、一件の史事をも繫げず。夏代中期のもっとも平靜なる一段である。接ぐ第二千百七十世は酉世に屬し、紀元前九四七年から前九一八年に當たる。甲午年すなわち紀元前九四七年は、不降の在位の第三十四年。乙未から癸卯の九年・甲辰から癸丑の十年・甲寅から戊午の五年、合わせて二十五年も皆事なし。己未年すなわち紀元前九二二年、夏王不降は去世し、在位五十九年、夏代のもっとも在位久しき君主である。彼は位を己の兒子の孔甲に傳えず、君位を弟の扃に讓った。これは夏代の少なからざる兄終り弟及びである。庚申から癸亥の四年は事なし。

經世之戌二千一百七十一。甲子,夏王扃五年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯。庚辰,夏王扃崩,子廑踐位。辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百七十一世は戌世に屬し、紀元前九一七年から前八八八年に當たる。甲子年すなわち紀元前九一七年は、夏王扃の在位の第五年。乙丑から癸酉・甲戌から己卯の合わせて十五年は事なし。庚辰年すなわち紀元前九〇一年、夏王扃は去世し、その子の廑が位を繼いだ。辛巳から癸未の三年・甲申から癸巳の十年は事なし。この一世も同じくただ一度の王位の更替を記すのみで、夏王朝が少康中興より後、すでに長き數世の守成の局面を經歷したを説明する。

經世之亥二千一百七十二。甲午,夏王廑十四年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子。辛丑,夏王廑崩,不降子孔甲立。壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戊、癸亥。

第二千百七十二世は亥世に屬し、紀元前八八七年から前八五八年に當たり、また第一百八十一運の最後の一世である。甲午年すなわち紀元前八八七年は、夏王廑の在位の第十四年。乙未から庚子の六年は事なし。辛丑年すなわち紀元前八八〇年、夏王廑は去世し、君位は不降の一支に回って、不降の子の孔甲が即位した。孔甲は鬼神を好み淫亂を喜び、夏朝の衰亡は彼より始まる。壬寅・癸卯の二年、甲辰から癸丑の十年、甲寅から癸亥の十年は皆事なし。末段の干支の中の「壬戊」は依然として「壬戌」の形近の誤である。ここに至って第一百八十一運の三百六十年は排し畢わった。

觀物篇二十七 以運經世三(經運之乙一百八十二)

觀物篇二十七,以運經世三。經元之甲一,經會之午七。經運之乙一百八十二。經世之子二千一百七十三。甲子,夏王孔甲二十三年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未。壬申,夏王孔甲崩,子皋踐位。癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午。癸未,夏王皋崩,子發踐位。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

本篇は依然として第一元の甲元・第七會の午會の內に在る。「經運之乙一百八十二」は本元の第一百八十二運で、紀元前一八五七年から前一四九八年に當たり、下轄は第二千百七十三世から第二千百八十四世まで。子世の二千百七十三は紀元前一八五七年から前一八二八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一八五七年は、夏王孔甲の在位の第二十三年。乙丑から辛未の七年は事なし。壬申年すなわち紀元前一八四九年、夏王孔甲は去世し、その子の皋が位を繼いだ。癸酉の一年・甲戌から壬午の九年は事なし。癸未年すなわち紀元前一八三八年、夏王皋は去世し、その子の發が位を繼いだ。甲申から癸巳の十年は事なし。この一世は夏朝が三たびその君を易え、正に末路に走向する前奏である。

經世之丑二千一百七十四。甲午,夏王發十一年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑。壬寅,夏王發崩,子癸踐位,是謂之桀。癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百七十四世は丑世に屬し、紀元前一八二七年から前一七九八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一八二七年は、夏王發の在位の第十一年。乙未から辛丑の七年は事なし。壬寅年すなわち紀元前一八一九年、夏王發は去世し、その子の癸が位を繼いだ。すなわち歷史の上の有名な暴君の夏桀である。癸卯の一年・甲辰から癸丑の十年・甲寅から癸亥の十年は皆事なし。夏朝の四百餘年の國祚は、この年より最後の五十餘年に入る。

經世之寅二千一百七十五。甲子,夏王癸二十二年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌。乙亥,始嬖妹喜。丙子。丁丑,成湯即諸侯位,自商丘徙至亳,始用伊尹。戊寅,成湯徵葛。己卯,成湯薦伊尹於夏王。庚辰、辛巳。壬午,伊尹丑夏,復歸於亳。癸未。甲申,桀囚成湯於夏臺。乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百七十五世は寅世に屬し、紀元前一七九七年から前一七六八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一七九七年は、夏王癸すなわち夏桀の在位の第二十二年。乙丑から甲戌の十年は事なし。乙亥年すなわち紀元前一七八六年、桀は妹喜を寵幸し始め、荒淫の政はここに由って起こる。丁丑年すなわち紀元前一七八四年、成湯は位を繼いで諸侯の長と為り、國都を商丘より亳に遷し、竝びに伊尹を重用し始めた。戊寅年すなわち紀元前一七八三年、成湯は鄰國の葛伯を討伐した。これは商人が夏の黨羽を翦除する第一戰である。己卯年すなわち紀元前一七八二年、成湯は伊尹を夏王に推薦して、彼を藉りて夏政を匡正せんとした。壬午年すなわち紀元前一七七九年、伊尹は以って夏朝はすでに救藥すべからずとし、深くこれを恥として、重ねて亳都に歸って成湯を輔佐した。甲申年すなわち紀元前一七七七年、桀は成湯を夏台に囚禁し、後にややに釋放した。商夏の間はすでに生死の局と為った。乙酉から癸巳の九年は事なし。

經世之卯二千一百七十六。甲午,夏王癸五十二年。乙未,伊尹相成湯,伐桀。升自陑遂與桀戰於鳴條之野,桀敗走三朡。遂伐三朡,俘厥寶玉,放桀於南巢。還至大垧,仲虺作《誥》,歸至亳,乃大誥萬方,南面朝諸侯,建國曰商,以丑月為歲,始曰祀,與民更始。丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午。丁未,商王成湯崩,元子太甲踐位,不明,伊尹放之桐宮。戊申、己酉。庚戌,商王太甲思庸,伊尹冕服奉嗣王於亳,返政。辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百七十六世は卯世に屬し、紀元前一七六七年から前一七三八年に當たり、夏商の易代の一世である。甲午年すなわち紀元前一七六七年は、夏桀の在位の第五十二年。乙未年すなわち紀元前一七六六年、伊尹は成湯を輔佐して兵を起こして桀を伐った。大軍は陑の地より岸に登り、桀と鳴條の原野に會戰し、桀は敗れて三朡に逃往した。商軍は勝に乘じて三朡を攻下し、その寶玉を繳獲し、最後に桀を南巢に流放した。班師して大坰に歸る時、大臣の仲虺は《仲虺之誥》を寫して湯の為に桀を伐つの義を解釋した。亳都に歸り、成湯は天下萬邦に大誥を發布し、南面して諸侯の朝見を受け、國號を「商」と建て、改めて丑月すなわち今の農歷十二月をもって歲首とし、「年」を「祀」と改稱して、百姓とともに氣象を更新した。丙申から癸卯・甲辰から丙午の合わせて十一年は事なし。丁未年すなわち紀元前一七五四年、商王成湯は去世し、長孫の太甲が位を繼いだが、昏亂にして明ならざるがため、伊尹に成湯の墓旁の桐宮に放逐されて過を思わされた。庚戌年すなわち紀元前一七五一年、太甲は悔悟して常道を思い、伊尹は冕服を備えて、繼位の君を迎えて亳都に回り、政權を交還した。辛亥から癸丑・甲寅から癸亥の合わせて十三年は事なし。

經世之辰二千一百七十七。甲子,商王太甲十七年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯。庚辰,商王太甲崩,子沃丁踐位。辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百七十七世は辰世に屬し、紀元前一七三七年から前一七〇八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一七三七年は、商王太甲の在位の第十七年。乙丑から癸酉・甲戌から己卯の合わせて十五年は事なし。庚辰年すなわち紀元前一七二一年、商王太甲は去世し、その子の沃丁が位を繼いだ。辛巳から癸未の三年・甲申から癸巳の十年は事なし。太甲は桐宮の悔いを經た後に終に令主と成り、商朝はこの一世に國を立てて以来もっとも安穩なる階段に入った。

經世之巳二千一百七十八。甲午,商王沃丁十四年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申。己酉,商王沃丁崩,弟太庚立。庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百七十八世は巳世に屬し、紀元前一七〇七年から前一六七八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一七〇七年は、商王沃丁の在位の第十四年。乙未から癸卯・甲辰から戊申の合わせて十四年は事なし。己酉年すなわち紀元前一六九二年、商王沃丁は去世し、弟の太庚に由って位を繼がれた。商朝の王位は常に兄弟の間に傳遞し、この種の「兄終り弟及び」は正に後來屢々位を奪う內亂を引發した根源である。庚戌から癸丑の四年・甲寅から癸亥の十年は事なし。

經世之午二千一百七十九。甲子,商王太庚十五年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌,商王太庚崩,子小甲踐位。乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅。辛卯,商王小甲崩,弟雍己立。壬辰、癸巳。

第二千百七十九世は午世に屬し、紀元前一六七七年から前一六四八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一六七七年は、商王太庚の在位の第十五年。乙丑から癸酉の九年は事なし。甲戌年すなわち紀元前一六六七年、商王太庚は去世し、その子の小甲が位を繼いだ。乙亥から癸未・甲申から庚寅の合わせて十六年は事なし。辛卯年すなわち紀元前一六五〇年、商王小甲は去世し、弟の雍己に由って位を繼がれた。壬辰・癸巳の二年は事なし。小甲・雍己より、商朝の國勢は漸く衰え、諸侯の朝貢もまた從前の如からず。

經世之未二千一百八十。甲午,商王雍己三年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅。癸卯,商王雍己崩,弟太戊立,是謂中宗。伊陟臣扈,格於上帝。巫咸乂王家,大修成湯之政。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百八十世は未世に屬し、紀元前一六四七年から前一六一八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一六四七年は、商王雍己の在位の第三年。乙未から壬寅の八年は事なし。癸卯年すなわち紀元前一六三八年、商王雍己は去世し、弟の太戊に由って位を繼がれ、廟號は「中宗」と稱す。太戊は賢臣の伊陟と臣扈を任用し、二人の德行は足りて上帝に感通し、また巫咸を用いて王家の內政を治め、全面に成湯時代の政令を重修した。この整頓を經て、衰落した商朝は重新振作し、史に中宗中興と稱す。甲辰から癸丑の十年・甲寅から癸亥の十年は事なし。

經世之申二千一百八十一。甲子,商王太戊二十一年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。經世之酉二千一百八十二。甲午,商王太戊五十一年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳。戊午,商王中宗崩,子仲丁踐位,遷於囂。己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百八十一世は申世に屬し、紀元前一六一七年から前一五八八年に當たる。開頭の甲子年すなわち紀元前一六一七年は、商王太戊の在位の第二十一年。この下乙丑から癸酉の九年・甲戌から癸未の十年・甲申から癸巳の十年、三十の年頭の干支は滿滿當當と排されたれど、一件の史事をも繫げず。正に太戊が伊陟・巫咸の輔佐の下に國泰民安にして書すべき事なきを見る。接ぐ第二千百八十二世は酉世に屬し、紀元前一五八七年から前一五五八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一五八七年は、太戊の在位の第五十一年。乙未から癸卯の九年・甲辰から癸丑の十年・甲寅から丁巳の四年、合わせて二十四年も皆事なし。戊午年すなわち紀元前一五六三年、商中宗の太戊は去世し、在位七十五年、商代のもっとも享國久しき君主である。その子の仲丁が位を繼ぎ、國都を亳より囂に遷した。商代前期は河患と內爭を避けるため屢々遷都したが、これは本表に見る第一次の遷徙である。己未から癸亥の五年は事なし。

經世之戌二千一百八十三。甲子,商王仲丁六年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午。辛未,商王仲丁崩,國亂,弟外壬立。壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉。丙戌,商王外壬崩,國復亂。弟河亶甲立,徙居相。丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百八十三世は戌世に屬し、紀元前一五五七年から前一五二八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一五五七年は、商王仲丁の在位の第六年。乙丑から庚午の六年は事なし。辛未年すなわち紀元前一五五〇年、商王仲丁は去世し、國內は位を爭うに因って大いに亂れ、その弟の外壬が即位した。壬申・癸酉の二年、甲戌から癸未の十年、甲申・乙酉の二年は事なし。丙戌年すなわち紀元前一五三五年、商王外壬は去世し、國內は再度動亂し、その弟の河亶甲が即位して都城を相に遷した。仲丁より後九世の內に君位屢々爭い國都屢々遷り、商朝はここに由って中衰した。これすなわち《史記》のいう所の「九世之亂」である。丁亥から癸巳の七年は事なし。

經世之亥二千一百八十四。甲午,商王河亶甲八年。乙未,商王河亶甲崩,子祖乙踐位,圯於耿,徙居邢,巫賢為相。丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百八十四世は亥世に屬し、紀元前一五二七年から前一四九八年に當たり、第一百八十二運の最後の一世である。甲午年すなわち紀元前一五二七年は、商王河亶甲の在位の第八年。乙未年すなわち紀元前一五二六年、商王河亶甲は去世し、その子の祖乙が位を繼いだ。祖乙はまず耿に遷り、河水が城邑を沖毀したに因り、また改めて邢に遷し、巫咸の子の巫賢を任用して相とした。祖乙は賢相の輔佐の下に朝綱を重整し、商朝は一度復興した。丙申から癸卯・甲辰から癸丑・甲寅から癸亥の合わせて二十八年は事なし。ここに至って第一百八十二運の三百六十年は排し滿たされた。

觀物篇二十八 以運經世四(經運之丙一百八十三)

觀物篇二十八,以運經世四。經元之甲一,經會之午七。經運之丙一百八十三。經世之子二千一百八十五。甲子,商王祖辛十年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳。庚午,商王祖辛崩,弟沃甲立。辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

本篇は依然として第一元の甲元・第七會の午會の內に在る。「經運之丙一百八十三」は本元の第一百八十三運で、紀元前一四九七年から前一一三八年に當たり、下轄は第二千百八十五世から第二千百九十六世まで、商代の中後期の全てがこの一運の裡に裝められた。子世の二千百八十五は紀元前一四九七年から前一四六八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一四九七年は、商王祖辛の在位の第十年。祖辛は祖乙の子で、本表の上一世の末はなおその即位を書さず。乙丑から己巳の五年は事なし。庚午年すなわち紀元前一四九一年、商王祖辛は去世し、弟の沃甲に由って位を繼がれた。辛未から癸酉の三年・甲戌から癸未の十年・甲申から癸巳の十年は皆事なし。

經世之丑二千一百八十六。甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。經世之寅二千一百八十七。甲子,商王祖丁二十九年。乙丑、丙寅。丁卯,商王祖丁崩,國亂。沃甲之子南庚立。戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰。癸巳,商王南庚崩,國亂。祖丁之子陽甲立,諸侯不朝。

第二千百八十六世は丑世に屬し、紀元前一四六七年から前一四三八年に當たる。この一世は甲午から癸亥の三十年ただ干支を排して、王號をも標さず、本表の中のもっとも空白なる一世である。接ぐ第二千百八十七世は寅世に屬し、紀元前一四三七年から前一四〇八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一四三七年は、商王祖丁の在位の第二十九年。祖丁は祖辛の子で、沃甲の後に位を繼いだ。乙丑・丙寅の二年は事なし。丁卯年すなわち紀元前一四三四年、商王祖丁は去世し、國內は位を爭うに因って亂れ、最後に沃甲の子の南庚が即位した。戊辰から癸酉・甲戌から癸未・甲申から壬辰の合わせて二十五年は事なし。癸巳年すなわち紀元前一四〇八年、商王南庚は去世し、國內は再び亂れ、祖丁の子の陽甲に由って即位せられた。この時王室の威望は大いに墜ち、諸侯はすでに朝見に來らず。

經世之卯二千一百八十八。甲午,商王陽甲二年。乙未、丙申、丁酉、戊戌。己亥,商王陽甲崩,弟盤庚立,復歸於亳,改號曰殷。庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百八十八世は卯世に屬し、紀元前一四〇七年から前一三七八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一四〇七年は、商王陽甲の在位の第二年。乙未から戊戌の四年は事なし。己亥年すなわち紀元前一四〇二年、商王陽甲は去世し、その弟の盤庚が位を繼いだ。盤庚は貴族の反對を顧みず、衆を率いて河を渡り南に遷り、成湯の舊都の亳地の一帶に回り、竝びに國號を「殷」と改稱した。《尚書》の中の《盤庚》三篇はすなわち彼が遷都する時に臣民に曉諭した文告である。ここから殷都は二百七十餘年再び遷徙せず、商朝は衰より盛に轉じた。庚子から癸卯・甲辰から癸丑・甲寅から癸亥の合わせて二十四年は事なし。

經世之辰二千一百八十九。甲子,商王盤庚二十五年。乙丑、丙寅。丁卯,商王盤庚崩,弟小辛立。戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥。戊子,商王小辛崩,弟小乙立。己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百八十九世は辰世に屬し、紀元前一三七七年から前一三四八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一三七七年は、商王盤庚の在位の第二十五年。乙丑・丙寅の二年は事なし。丁卯年すなわち紀元前一三七四年、商王盤庚は去世し、弟の小辛に由って位を繼がれた。小辛は才具平庸で、殷人はここに於てまた盤庚の政績を懷念し起こした。戊辰から癸酉・甲戌から癸未・甲申から丁亥の合わせて二十年は事なし。戊子年すなわち紀元前一三五三年、商王小辛は去世し、弟の小乙に由って位を繼がれた。己丑から癸巳の五年は事なし。

經世之巳二千一百九十。甲午,商王小乙六年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯。丙辰,商王小乙崩,子武丁踐位,是謂高宗。甘盤為相,以夢求傅說,得之於傅巖。丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千百九十世は巳世に屬し、紀元前一三四七年から前一三一八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一三四七年は、商王小乙の在位の第六年。乙未から癸卯・甲辰から癸丑・甲寅乙卯の合わせて二十二年は事なし。丙辰年すなわち紀元前一三二五年、商王小乙は去世し、その子の武丁が位を繼ぎ、廟號は「高宗」と稱す。武丁は舊師の甘盤をもって相とし、また夢にて上天が彼に一位の賢輔を賜うを見たに因り、便ち夢中の相貌に按って四處に訪求し、終に傅岩のこの地方に墻を筑いていた奴隷の說を見出し、起用して相と為し、その傅岩に得たりしに因って姓を傅と賜い、これが傅說である。武丁は傅說の輔佐の下に天下を大いに治め、史に「武丁中興」と稱し、商朝のもっとも強盛なる時期である。丁巳から癸亥の七年は事なし。

經世之午二千一百九十一。甲子,商王武丁八年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。經世之未二千一百九十二。甲午,商王武丁三十八年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅。乙卯,商王高宗崩,弟祖庚立。丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉。壬戌,商王祖庚崩,弟祖甲立。癸亥。

第二千百九十一世は午世に屬し、紀元前一三一七年から前一二八八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一三一七年は、商王武丁の在位の第八年。この一世の三十年は一事をも書さず、正に武丁の盛世に四海虞なきの寫照である。接ぐ第二千百九十二世は未世に屬し、紀元前一二八七年から前一二五八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一二八七年は、武丁の在位の第三十八年。乙未から癸卯・甲辰から癸丑および甲寅の合わせて二十一年は事なし。乙卯年すなわち紀元前一二六六年、商高宗の武丁は去世し、在位約五十九年、弟の祖庚に由って位を繼がれた。《史記》に依れば祖庚は武丁の子、本表は「弟」と作る。底本の據る所の世系は《史記》と相同じからず。壬戌年すなわち紀元前一二五九年、商王祖庚は去世し、祖甲に由って位を繼がれた。癸亥の一年は事なし。

經世之申二千一百九十三。甲子,商王祖甲二年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰。癸巳,周文王生。

第二千百九十三世は申世に屬し、紀元前一二五七年から前一二二八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一二五七年は、商王祖甲の在位の第二年。乙丑から癸酉・甲戌から癸未・甲申から壬辰の合わせて二十八年は事なし。癸巳年すなわち紀元前一二二八年、周文王の姬昌が出生した。周人はこの時なお渭水流域の一つの方國に過ぎないが、本表は卻って鄭重に文王の生年を商王の編年の下に繫げ入れた。その意は周室が商に代わる種子のすでに埋下せられたを標出せんとするに在る。後文に記する所に按れば、文王は紀元前一一八二年に諸侯の位に即き、紀元前一一三二年に去世し、享年九十七歲。

經世之酉二千一百九十四。甲午,商王祖甲三十二年。乙未,商王祖甲崩,子廩辛踐位。丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子。辛丑,商王廩辛崩,弟庚丁立。壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉。壬戌,商王庚丁崩,子武乙踐位,徙居河北。癸亥。

第二千百九十四世は酉世に屬し、紀元前一二二七年から前一一九八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一二二七年は、商王祖甲の在位の第三十二年。乙未年すなわち紀元前一二二六年、商王祖甲は去世し、その子の廩辛が位を繼いだ。丙申から庚子の五年は事なし。辛丑年すなわち紀元前一二二〇年、商王廩辛は去世し、弟の庚丁に由って即位せられた。壬寅・癸卯の二年、甲辰から癸丑の十年、甲寅から辛酉の八年は事なし。壬戌年すなわち紀元前一一九九年、商王庚丁は去世し、その子の武乙が位を繼ぎ、王都を黄河以北に遷した。癸亥の一年は事なし。祖甲より後の諸王は短祚頻仍にして、殷道は再度衰敗した。

經世之戌二千一百九十五。甲子,商王武乙二年。乙丑。丙寅,商王武乙震死,子太丁立。丁卯、戊辰。己巳,商王太丁崩,子帝乙踐位。庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅。己卯,周文王始即諸侯位。庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百九十五世は戌世に屬し、紀元前一一九七年から前一一六八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一一九七年は、商王武乙の在位の第二年。乙丑の一年は事なし。丙寅年すなわち紀元前一一九五年、商王武乙は雷に擊たれて死した。《史記》に載る所に據れば、武乙は嘗て木偶を造って「天神」と稱してこれと博戲し、また皮囊に血を盛って高く懸けてこれを射て、號して「天を射る」とし、後に黄河渭水の間に獵する時雷震に遭って亡びた。古人はこれを上天を瀆るの報應と視る。その子の太丁が位を繼いだ。丁卯・戊辰の二年は事なし。己巳年すなわち紀元前一一九二年、商王太丁は去世し、その子の帝乙が位を繼いだ。庚午から癸酉・甲戌から戊寅の合わせて九年は事なし。己卯年すなわち紀元前一一八二年、周文王は西伯の位を承襲し始め、正式に一方の諸侯の長と為った。庚辰から癸未の四年・甲申から癸巳の十年は事なし。

經世之亥二千一百九十六。甲午,商王帝乙二十五年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳。丙午,商王帝乙崩,次子受辛立,是謂之紂。丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅,始嬖妲己。乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申。辛酉,商囚文王於羑里。壬戌。癸亥,商王紂放文王歸於國,錫命為西方諸侯伯。

第二千百九十六世は亥世に屬し、紀元前一一六七年から前一一三八年に當たり、第一百八十三運の最後の一世である。甲午年すなわち紀元前一一六七年は、商王帝乙の在位の第二十五年。乙未から癸卯・甲辰乙巳の合わせて十一年は事なし。丙午年すなわち紀元前一一五五年、商王帝乙は去世し、次子の受辛が位を繼いだ。すなわち歷史の上の商紂王である。丁未から癸丑の七年は事なし。甲寅年すなわち紀元前一一四七年、紂は妲己を寵幸し始め、酒池肉林の政はここに由って起こる。乙卯から庚申の六年は事なし。辛酉年すなわち紀元前一一四〇年、商紂は周文王を羑里に囚禁した。相傳えて文王は囚の中に八卦を推演して六十四卦と為し、《周易》の卦爻辭はすなわちこの時に成ったという。癸亥年すなわち紀元前一一三八年、紂は文王を釋放して國に歸らせ、竝びに彼に弓矢斧鉞を賜いて、彼を任じて西方の諸侯の長、すなわち「西伯」とした。ここに至って第一百八十三運の三百六十年は排し滿たされた。

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