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皇極經世書卷五下・觀物篇二十九 以運經世五(經運之丁一百八十四)

宋 · 邵雍 · 第12巻 / 39

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

皇極經世書卷五下。觀物篇二十九,以運經世五。經元之甲一,經會之午七。經運之丁一百八十四。經世之子二千一百九十七。甲子,商王受辛十八年,西伯伐崇,自岐徙居豐。乙丑,周西伯伐密須。丙寅,周西伯戡黎。丁卯,周西伯伐邘。戊辰。

卷五下は「以運經世」の排法を繼續す。「經運之丁一百八十四」は本元の第一百八十四運で、紀元前一一三七年から前七七八年に當たり、下轄は第二千百九十七世から第二千二百八世まで。商朝の覆亡と西周の全部とがこの一運の裡に裝められた。子世の二千一百九十七は紀元前一一三七年から前一一〇八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一一三七年は、商王受辛すなわち紂の在位の第十八年で、この年西伯の姬昌は崇侯虎を討伐し、隨後都邑を岐山の下より豐邑に遷した。乙丑年すなわち紀元前一一三六年、周西伯は密須國を討伐した。丙寅年すなわち紀元前一一三五年、周西伯は黎國を攻克し、兵鋒は直に朝歌に逼り、殷人は震恐した。《尚書・西伯戡黎》に記する所はすなわちこの事。丁卯年すなわち紀元前一一三四年、周西伯は邘國を討伐した。戊辰年すなわち紀元前一一三三年、事なし。周人が商を翦うの形勢はここに至ってすでに形成された。

己巳,周文王沒,元子發踐位,是謂武王。葬文王於畢。庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子。丁丑,周武王東觀兵於孟津。戊寅,商王紂殺太師比干,囚箕子,微子以祭器奔周。己卯,呂尚相武王,伐商,師逾孟津,大陳兵於商郊,敗之於牧野,殺紂,立其子武庚為後,還師。在豐踐天子位,南面朝諸侯,大誥天下,以子月為歲,始曰年,與民更始。庚辰,命管叔、蔡叔、霍叔守邶、墉、衛之三邑,謂之三監。辛巳、壬午、癸未。甲申。

己巳年すなわち紀元前一一三二年、周文王は去世し、享年九十七歲、長子の姬發が位を繼いだ。すなわち周武王である。文王は畢原に葬られた。庚午から癸酉・甲戌から丙子の合わせて七年は事なし。丁丑年すなわち紀元前一一二四年、周武王は東行して孟津に至りて諸侯を會集し軍隊を檢閱して、天下の向背を試探した。史に「孟津觀兵」と稱す。戊寅年すなわち紀元前一一二三年、商紂は諫を進める太師の比干を殺し、箕子を囚禁し、微子は宗廟の祭器を抱えて周國に逃奔し、殷商の內部は徹底的に崩解した。己卯年すなわち紀元前一一二二年、吕尚(姜太公)は武王を輔佐して兵を興して商を伐ち、大軍は孟津を渡り、商都の近郊に陣を列し、牧野に一戰して商軍を撃潰し、紂王を殺し、別に紂の兒子の武庚を立てて殷の後嗣と為して先王を奉祀せしめ、然る後に班師した。武王は豐邑にて天子の位に即き、南面して諸侯の朝見を受け、天下に大誥を發布した。改めて子月すなわち今の農歷十一月をもって歲首とし、紀年の名を「祀」より「年」と改稱して、百姓とともに更始した。庚辰年すなわち紀元前一一二一年、武王は管叔・蔡叔・霍叔に命じて分かち邶・墉・衞の三邑を鎮守せしめ、以って武庚を監視し、「三監」と稱した。辛巳から癸未・甲申の合わせて四年は事なし。

乙酉,周武王崩,元子誦踐位,是謂成王。周公為太師,召公為太保。二公分治陝、洛,受顧命,率天下諸侯夾輔王室,葬武王於畢。丙戌,三監及淮夷叛,周公東征,大誥天下。丁亥。戊子,三監平,治黜商命,殺武庚。命微子啟於宋,代商侯,封康叔於衛,以保商民;命箕子於高麗,闢管叔於商,囚蔡叔於郭鄰,降霍叔為庶人,不齒。東征淮夷,魯侯伯禽誓師於費,淮夷平。遂踐奄,肅慎來賀。己丑。庚寅,往營成周,命召公相宅。辛卯。壬辰,成周既成,周公分正成周東郊,以王命誥多士。癸巳。

乙酉年すなわち紀元前一一一六年、周武王は去世し、長子の姬誦が位を繼いだ。すなわち周成王である。周公旦は太師を任じ、召公奭は太保を任じ、二公は陝地をもって界と為して東西を分治し、武王の臨終の託付を受け、天下の諸侯を率いて左右に王室を輔佐した。武王は畢原に葬られた。丙戌年すなわち紀元前一一一五年、三監は武庚と淮夷と聯合して反逆し、周公は自ら東征して、竝びに天下に大誥を發布した。《尚書・大誥》はすなわちこれ。丁亥年は事なし。戊子年すなわち紀元前一一一三年、三監の亂は平定され、周公は殷商の天命を革除し、武庚を處死した。改めて紂の庶兄の微子啓を宋に封じ、彼をして商の宗祀を接續せしめ、康叔を衞に封じて殷商の遺民を安撫せしめ、箕子を高麗(朝鮮)に封じ、管叔を商の地に誅し、蔡叔を郭鄰に囚禁し、霍叔を庶人に廢した。殷民の東遷を洛邑に營建して九鼎を安置した。己丑から癸巳の五年は事なし。

經世之丑二千一百九十八。甲午,周成王九年。乙未。丙申,周公沒,命君陳分正成周東郊,葬周公於畢。丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉。壬戌,周成王崩,召公、畢公受顧命,輔元子釗踐位,是謂康王。癸亥,周康王元年,命畢公代君陳分正成周東郊。

第二千百九十八世は丑世に屬し、紀元前一一〇七年から前一〇七八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一一〇七年は、周成王の在位の第九年。乙未年は事なし。丙申年すなわち紀元前一一〇五年、周公旦は去世し、成王は君陳に命じて彼に替わって成周東郊の政務を釐正せしめ、周公は畢原に葬られて文王・武王と同じ處とした。丁酉から癸卯・甲辰から癸丑・甲寅から辛酉の合わせて二十五年は事なし。壬戌年すなわち紀元前一〇七九年、周成王は去世し、召公と畢公とが臨終の託付を受けて、長子の姬釗を輔佐して位を繼がしめた。すなわち周康王である。癸亥年すなわち紀元前一〇七八年は康王元年、康王は畢公に命じて君陳に取代わって成周東郊を釐正せしめた。《尚書・畢命》はすなわちこれ。成康の際の四十年は刑措して用いず、西周のもっとも興盛なる時期である。

經世之寅二千一百九十九。甲子,周康王二年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥。戊子,周康王崩,子瑕踐位,是謂昭王。己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千百九十九世は寅世に屬し、紀元前一〇七七年から前一〇四八年に當たる。甲子年すなわち紀元前一〇七七年は、周康王の在位の第二年。乙丑から癸酉・甲戌から癸未・甲申から丁亥の合わせて二十三年は事なし、正に「成康之治」の天下安寧の寫照である。戊子年すなわち紀元前一〇五三年、周康王は去世し、その子の姬瑕が位を繼いだ。すなわち周昭王である。己丑から癸巳の五年は事なし。

經世之卯二千二百。甲午,周昭王六年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。經世之辰二千二百一。甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅。己卯,周昭王南巡不返,子滿立,是謂穆王。庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千二百世は卯世に屬し、紀元前一〇四七年から前一〇一八年に當たる。甲午年すなわち紀元前一〇四七年は、周昭王の在位の第六年。この下乙未から癸卯の九年・甲辰から癸丑の十年・甲寅から癸亥の十年、三十の年頭の干支は排し滿たして一事をも書さず。接ぐ第二千二百一世は辰世に屬し、紀元前一〇一七年から前九八八年に當たる。甲子から癸酉の十年・甲戌から戊寅の五年、合わせて十五年は事なし。己卯年すなわち紀元前一〇〇二年、周昭王は南して楚地を巡して、漢水を渡る時乗る所の船が解體して水に落ち、一たび去って返らず、隨行の六師もまた一竝びに喪われた。その子の姬滿が位を繼いだ。すなわち周穆王である。昭王は南土に師を喪い、西周の盛より衰に轉ずる第一道の裂痕で、周人はその事を諱んで言わない。ゆえに本表はただ「南巡して返らず」の四字を寫し、何處に死したるをも明書せず。庚辰から癸未の四年・甲申から癸巳の十年、合わせて十四年は事なし。

經世之巳二千二百二。甲午,周穆王十五年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。經世之午二千二百三。甲子,周穆王四十五年。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌,周穆王崩,子繄扈踐位,是謂共王。乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉。丙戌,周共王崩,子囏踐位,是謂懿王。丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千二百二世は巳世に屬し、紀元前九八七年から前九五八年に當たる。甲午年すなわち紀元前九八七年は、周穆王の在位の第十五年。この下乙未から癸卯の九年・甲辰から癸丑の十年・甲寅から癸亥の十年、三十の年頭は皆ただ干支を排して書すべき事なし。穆王の一朝に西して犬戎を征し、吕侯に命じて《吕刑》を作らせ、天下を周遊したの説あるも、本表は卻って一概に錄せず。邵雍の事を取るの嚴なるを見るべし。接ぐ第二千二百三世は午世に屬し、紀元前九五七年から前九二八年に當たる。甲子年すなわち紀元前九五七年は、穆王の在位の第四十五年。乙丑から癸酉の九年は事なし。甲戌年すなわち紀元前九四七年、周穆王は去世し、在位五十五年、周代のもっとも享國久しき天子で、その子の姬繄扈が位を繼いだ。すなわち周共王である。乙亥から癸未の九年・甲申乙酉の二年、合わせて十一年は事なし。丙戌年すなわち紀元前九三五年、周共王は去世し、その子の姬囏が位を繼いだ。すなわち周懿王である。丁亥から癸巳の七年は事なし。

經世之未二千二百四。甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌。辛亥,周懿王崩,穆王子闢方立,是謂孝王。壬子、癸丑。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。經世之申二千二百五。甲子,周孝王十三年。乙丑。丙寅,周孝王崩,懿王子燮立,是謂夷王。周自此衰矣。丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉。甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳。壬午,周夷王崩,子胡踐位,是謂厲王。癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千二百四世は未世に屬し、紀元前九二七年から前八九八年に當たる。甲午から癸卯・甲辰から庚戌の合わせて十七年は事なし。辛亥年すなわち紀元前九一〇年、周懿王は去世し、位を繼ぐ者は懿王の子に非ずして穆王の子の辟方で、すなわち周孝王である。これは西周の王位の第一次父子に由って相傳えざる例。壬子から癸亥の合わせて十二年は事なし。接ぐ第二千二百五世は申世に屬し、紀元前八九七年から前八六八年に當たる。甲子年すなわち紀元前八七年は、周孝王の在位の第十三年。丙寅年すなわち紀元前八五年、周孝王は去世し、君位は懿王の子の姬燮に歸還した。すなわち周夷王である。本表はここに特に一筆「周これより衰えん」と書して、西周の衰亡の起點を夷王に定めた。夷王は嘗て堂を下りて諸侯を見、また齊哀公を烹殺し、王室の威權は大いに損なわれた。丁卯から癸酉・甲戌から辛巳の合わせて十五年は事なし。壬午年すなわち紀元前八七九年、周夷王は去世し、その子の姬胡が位を繼いだ。すなわち周厲王である。癸未および甲申から癸巳の合わせて十一年は事なし。

經世之酉二千二百六。甲午,周厲王十二年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子。癸丑,厲王好利,以榮公為卿。甲寅、乙卯。丙辰,殺諫臣以為謗己者。丁巳、戊午。己未,周厲王為國人所逐,出奔彘。周、召二伯行政,謂之共和。太子靖匿於召公家。文武之德自此盡矣。庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

第二千二百六世は酉世に屬し、紀元前八六七年から前八三八年に當たる。甲午年すなわち紀元前八六七年は、周厲王の在位の第十二年。乙未から癸卯・甲辰から壬子の合わせて十八年は事なし。癸丑年すなわち紀元前八四八年、厲王は財利を貪圖し、專ら聚斂を好む榮夷公を任用して卿士と為し、山林川澤の收益を全部王室に收歸して、國人は怨憤した。丙辰年すなわち紀元前八四五年、厲王は諫を進める人を己を誹謗する人として殺し、また衞の巫を派して百姓を監視せしめ、ここに於て「國人敢えて言う者莫し、道路に目をもってす」となった。己未年すなわち紀元前八四二年、都城の國人は起ちて周厲王を驅逐し、厲王は彘の地に出逃した。この後周公・召公の兩位の伯爵が共同して執政し、史に「共和」と稱す。共和元年すなわち紀元前八四一年は、中國の編年史の上の第一の確切なる紀年である。太子の姬靖は召公の家の中に藏れてややに保全を得た。本表はここに斷言して「文武の德これより盡きん」と曰い、文王・武王の積累した德澤はこの年に耗盡したとす。庚申から癸亥の四年は事なし。

經世之戌二千二百七。甲子,周厲王四十二年,在彘。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申。癸酉,周厲王死於彘,周、召二伯立太子靖,是謂宣王。有仲山甫、尹吉甫、方叔、申伯為輔,大修文武之功。甲戌,宣王北伐獫狁,至於太原。吉甫為將。乙亥,宣王南征荊蠻,方叔為將。丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未。甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

第二千二百七世は戌世に屬し、紀元前八三七年から前八〇八年に當たる。甲子年すなわち紀元前八三七年は、周厲王の在位の第四十二年で、その人は依然として彘の地に流亡中である。乙丑から壬申の八年は事なし。癸酉年すなわち紀元前八二八年、周厲王は彘に死し、周公・召公の二伯は太子の姬靖を擁立して即位せしめた。すなわち周宣王である。宣王は仲山甫・尹吉甫・方叔・申伯のこの一批の賢臣の輔佐ありて、大力に文王・武王の舊業を重修し、史に「宣王中興」と稱す。甲戌年すなわち紀元前八二七年、宣王は北に獫狁を伐ち、一路太原に打ち至り、尹吉甫を主將と為した。《詩經・六月》に詠ずる所はすなわちこの役。乙亥年すなわち紀元前八二六年、宣王は南に荆蠻を征し、方叔を主將と為した。《詩經・采芑》に詠ずる所はすなわちこの役。丙子から癸未・甲申から癸巳の合わせて十八年は事なし。

經世之亥二千二百八。甲午,周宣王二十一年。乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯。甲辰。乙巳,伐魯,立孝公。丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥。壬子,伐姜戎,師敗於千畝,遂失南國。癸丑,料民於太原。甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午。己未,周宣王崩,太子湦踐位,是謂幽王。庚申、辛酉。壬戌,始嬖褒姒。癸亥。

第二千二百八世は亥世に屬し、紀元前八〇七年から前七七八年に當たり、第一百八十四運の最後の一世である。甲午年すなわち紀元前八〇七年は、周宣王の在位の第二十一年。乙未から癸卯・甲辰の合わせて十年は事なし。乙巳年すなわち紀元前七九六年、宣王は兵を出して魯國を討伐し、その君位の繼承を干預して魯孝公を立て、諸侯はここから王命を看輕した。壬子年すなわち紀元前七八九年、宣王は姜戎を討伐して千畝に大敗し、南國の軍隊をも喪い殆ど盡きた。癸丑年すなわち紀元前七八八年、宣王は太原に户口を點き算して兵源を補わんとし、仲山甫は諫阻するも聽かず、中興の勢頭はここに至って中止した。甲寅から戊午の五年は事なし。己未年すなわち紀元前七八二年、周宣王は去世し、太子の姬湦が位を繼いだ。すなわち周幽王である。庚申・辛酉の二年は事なし。壬戌年すなわち紀元前七七九年、幽王は褒姒を寵幸し始め、西周覆亡の禍根はここに由って種かれた。癸亥年は事なし。第一百八十四運の三百六十年はここに至って排し滿たされた。

觀物篇三十 以經運世六(經運之戊一百八十五)

觀物篇三十,以經運世六。經元之甲一,經會之午七。經運之戊一百八十五。經世之子二千二百九。甲子,周幽王五年,廢申後及太子宜臼,以褒姒為後,伯服為太子,虢石父為卿。乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳。庚午,申侯以犬戎伐周,敗幽王於驪山,殺之。晉秦率鄭衛之君逐犬戎,立太子宜臼,是謂平王。東徙居洛邑,是謂東周。辛未,周平王錫晉文侯、襄公命,秦分岐西,晉分河內。壬申,秦立西畤,祠白帝。魯惠公即位。癸酉。甲戌。乙亥,秦文公即位。丙子、丁丑、戊寅。己卯,秦東徙,居汧渭之間。庚辰、辛巳、壬午。癸未,衛莊公即位。甲申。乙酉,秦作鄜畤。丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

本篇の篇題は底本「以經運世六」と作るが、前後の各篇の通例に按ればまさに「以運經世六」と作るべし。「經運之戊一百八十五」は本元の第一百八十五運で、紀元前七七七年から前四一八年に當たり、下轄は第二千二百九世から第二千二百二十世まで、西周の滅亡・東周の建立および春秋時代の全部が皆この一運の內にある。子世の二千二百九は紀元前七七七年から前七四八年に當たる。甲子年すなわち紀元前七七七年は、周幽王の在位の第五年で、この年幽王は申后と太子の宜臼を廢し、改めて褒姒を立てて王后とし、伯服を太子とし、また善く逢迎する虢石父を任用して卿士と為した。乙丑から己巳の五年は事なし。庚午年すなわち紀元前七七一年、申后の父の申侯は犬戎を引いて入侵し、驪山の下に於て幽王を打敗って竝びに彼を殺した。西周は就中ここに滅亡した。晉・秦の兩國は鄭・衞の君を帶いて犬戎を驅い去り、太子の宜臼を擁立した。すなわち周平王である。平王は王都を東して洛邑に遷し、ここから東周と稱す。辛未年すなわち紀元前七七〇年、平王は晉文侯と秦襄公とに命を賜い、岐山以西の地を秦國に劃給し、河內の地を晉國に劃給した。壬申年すなわち紀元前七六九年、秦國は西畤を設立して白帝を祭祀し、魯惠公が即位した。乙亥年すなわち紀元前七六六年、秦文公が即位した。己卯年すなわち紀元前七六二年、秦人は東遷して汧水・渭水の間に居た。癸未年すなわち紀元前七五八年、衞莊公が即位した。乙酉年すなわち紀元前七五六年、秦國は鄜畤を營建した。その餘の各年は事なし。

經世之丑二千二百十。甲午,周平王二十四年。乙未,晉昭侯即位。丙申,晉昭侯封弟成師於曲沃。丁酉,鄭莊公即位。戊戌,鄭莊公封弟段於京城。己亥。庚子,衛公子州籲阻兵。辛丑,楚亂,熊通弒其君,代立。壬寅,晉亂,大夫潘父弒其君昭侯,入曲沃桓叔不克。國人殺潘父,而立君之弟平,是謂孝侯。癸卯。甲辰、乙巳、丙午、丁未。戊申,衛州籲出奔。己酉。庚戌,晉曲沃桓叔卒,子莊伯繼。齊莊公卒,子釐公立。辛亥。壬子,宋桓公卒,讓其弟穆公。癸丑。

第二千二百十世は丑世に屬し、紀元前七四七年から前七一八年に當たる。甲午年すなわち紀元前七四七年は、周平王の在位の第二十四年。乙未年すなわち紀元前七四六年、晉昭侯が即位した。丙申年すなわち紀元前七四五年、晉昭侯は叔父の成師を曲沃に封じ、曲沃は晉都の翼よりも大きく、晉國の六十七年の內戰はここに由って開端した。丁酉年すなわち紀元前七四四年、鄭莊公が即位した。戊戌年すなわち紀元前七四三年、鄭莊公は弟の共叔段を京城に封じた。《左傳》の開篇の「鄭伯段を鄢に克つ」の禍端はすなわちここにある。庚子年すなわち紀元前七四一年、衞國の公子州吁は兵を恃み武を好み、衞莊公は約束を加えず。辛丑年すなわち紀元前七四〇年、楚國は內亂し、熊通は國君を殺して自ら立ち、すなわち後の楚武王である。壬寅年すなわち紀元前七三九年、晉國は內亂し、大夫の潘父は國君の昭侯を殺して、曲沃の桓叔を迎えて晉國に入主せんと欲して成功せず、國人は潘父を殺し、別に昭侯の弟の平を立てて君と為した。すなわち晉孝侯である。戊申年すなわち紀元前七三三年、衞國の州吁は出奔した。庚戌年すなわち紀元前七三一年、晉曲沃の桓叔は去世し、その子の莊伯が繼承し、齊莊公は去世し、その子の釐公が位を繼いだ。壬子年すなわち紀元前七二九年、宋國の國君は去世し、君位を弟の穆公に讓った。《春秋》に按ればこれは宋宣公が位を讓るであり、底本は「桓公」と作る。その餘の各年は事なし。

甲寅、乙卯、丙辰。丁巳,晉曲沃莊伯入翼,殺其君孝侯。國人逐莊伯,立孝侯子,是謂鄂侯。戊午。己未,魯隱公立。庚申。辛酉,周平王崩,其孫林立,是謂桓王,與鄭交惡。宋穆公病,讓其兄之子殤公,世子馮奔鄭。壬戌,衛公子州籲作難,弒其君桓公,代立。宋會陳、蔡、衛三國之師伐衛,殺州籲於濮,國人迎公之弟晉於邢而立之,是謂宣公。癸亥,晉曲沃莊伯以鄭邢之師攻翼。王使尹氏、武氏為之助。翼侯出奔隨,莊伯叛王。王使虢伐莊伯。莊伯復奔曲沃。晉人及虢侯立翼侯子光,是謂哀侯。鄭伐宋。

甲寅から丙辰の三年は事なし。丁巳年すなわち紀元前七二四年、晉曲沃の莊伯は晉都の翼城に攻め入って、國君の孝侯を殺した。國人は莊伯を驅逐し、別に孝侯の子を立てた。すなわち晉鄂侯である。己未年すなわち紀元前七二二年、魯隱公が即位した。《春秋》の編年は正にこの年より筆を起こし、後世のいわゆる「春秋時代」もまたここに由って始まる。辛酉年すなわち紀元前七二〇年、周平王は去世し、太子が早く死したに因り、その孫の姬林に由って位を繼がれた。すなわち周桓王である。桓王は鄭莊公とここから交惡した。同年宋穆公は病重く、君位を兄の宣公の子の與夷に讓還した。すなわち宋殤公で、己の兒子の公子馮は鄭國に出奔した。壬戌年すなわち紀元前七一九年、衞國の公子州吁は難を發して國君の桓公を殺して自ら立ち、宋國は陳・蔡・衞の三國の師を聯合して衞國を討伐し、濮の地にて州吁を殺し、國人は邢國に至って桓公の弟の晉を迎還して立てて君と為した。すなわち衞宣公である。癸亥年すなわち紀元前七一八年、晉曲沃の莊伯は鄭・邢の兩國の軍隊を借りて翼城を進攻し、周桓王は尹氏・武氏を派して戰を助けしめた。翼侯は隨に出奔し、隨後莊伯はまた周王に背叛し、桓王は改めて虢公を派して莊伯を討伐せしめ、莊伯は曲沃に逃歸した。晉人は虢侯とともに翼侯の子の光を擁立して君と為した。すなわち晉哀侯である。同年鄭國は宋國を討伐した。

經世之寅二千二百一十一。甲子,周桓王三年,晉翼侯自隨入於鄂,是謂鄂侯。乙丑,晉曲沃莊伯卒,子稱繼,是謂武公。丙寅,宋、齊、衛之君盟於瓦屋。丁卯,秦自汧渭之間徙居郿。戊辰,齊會魯、鄭之師伐宋。己巳,魯亂,公子翬殺其君隱公,立惠公之子,是謂桓公,翬為之輔。庚午。辛未,宋亂,太宰華督殺司馬孔父,及弒其君殤公,迎穆公子馮於鄭而立之,是謂莊公。壬申,晉曲沃武公敗晉師於汾旁,獲哀侯。晉人立其子,是謂小子侯。癸酉,晉曲沃武公弒其君哀侯於曲沃。

第二千二百十一世は寅世に屬し、紀元前七一七年から前六八八年に當たる。甲子年すなわち紀元前七一七年は、周桓王の在位の第三年で、晉國が出奔した翼侯は隨の地より鄂邑に回って、因って鄂侯と稱した。乙丑年すなわち紀元前七一六年、晉曲沃の莊伯は去世し、その子の稱が繼立した。すなわち曲沃武公である。丙寅年すなわち紀元前七一五年、宋・齊・衞の三國の君は瓦屋に會盟した。丁卯年すなわち紀元前七一四年、秦國は汧渭の間より郿に遷都した。戊辰年すなわち紀元前七一三年、齊國は魯・鄭の兩國の師を聯合して宋國を討伐した。己巳年すなわち紀元前七一二年、魯國は內亂し、公子翬は國君の隱公を殺して、改めて惠公の子の允を立てた。すなわち魯桓公で、公子翬は彼の輔政大臣と為った。辛未年すなわち紀元前七一〇年、宋國は內亂し、太宰の華督は司馬の孔父嘉を殺し、進んで國君の殤公を弑殺し、鄭國より穆公の子の馮を迎還して立てて國君と為した。すなわち宋莊公である。壬申年すなわち紀元前七〇九年、晉曲沃武公は汾水の旁で晉軍を撃敗し、哀侯を俘獲した。晉人は別に哀侯の子を立てた。すなわち晉小子侯である。癸酉年すなわち紀元前七〇八年、曲沃武公は曲沃に於て俘えられた晉哀侯を殺した。

甲戌,周桓王以蔡、衛、陳之師伐鄭,不利,矢中王肩。乙亥,蔡人殺陳佗,北戎伐齊,鄭使公子忽救之。楚伐隨,俾請王之號於周。丙子,晉曲沃武公入翼,殺小子侯。王使虢仲伐稱,稱復歸曲沃。虢仲立哀侯弟緡。丁丑,秦亂,寧公卒,三父廢世子而更立出子。是年楚熊通伐隨,東開地至濮上,遂稱王,是謂武王。戊寅、己卯。庚辰,鄭莊公卒,世子忽繼。宋執鄭祭仲立突,是謂厲公。忽奔衛。祭仲專政。衛宣公殺其二子伋、壽。辛巳,衛宣公卒,子朔立,是謂惠公。壬午,齊會宋、衛、燕伐魯,不利。癸未,秦三父殺出子,而立世子,是謂武公。齊釐公卒,世子諸兒繼,是謂襄公。宋會齊、蔡、陳伐鄭。

甲戌年すなわち紀元前七〇七年、周桓王は蔡・衞・陳の三國の師を率いて鄭國を討伐し、繻葛にて敗戰し、鄭將の祝聃の一箭は桓王の肩膀に射中った。天子の威信はここから地に掃き、諸侯が霸を爭う時代は正式に來臨した。乙亥年すなわち紀元前七〇六年、蔡國人は陳佗を殺し、北戎は齊國を進攻し、鄭國は公子忽を派して兵を領して救援せしめ、楚國は隨國を討伐して、隨國に逼ってそれに代わって周天子に王號を請わしめた。丙子年すなわち紀元前七〇五年、晉曲沃武公は翼城に攻め入って小子侯を殺した。周桓王は虢仲を派して武公(名は稱)を討伐せしめ、武公は曲沃に退回し、虢仲は哀侯の弟の緡を立てて晉君と為した。丁丑年すなわち紀元前七〇四年、秦國は內亂し、寧公は去世し、大庶長の三父は太子を廢して改めて出子を立てた。同年楚君の熊通は隨國を討伐し、東に土地を開拓して濮水の一帶に至り、ここに於て自ら王と立ち、すなわち楚武王である。これは諸侯が王號を僭稱する始めである。庚辰年すなわち紀元前七〇一年、鄭莊公は去世し、太子の忽が位を繼いだ。宋國は鄭國の執政の祭仲を扣押して、彼に逼って改めて公子突を立てしめた。すなわち鄭厲公で、忽は衞國に出奔し、祭仲はここから權を專らにした。同年衞宣公は己の兩つの兒子の伋と壽を殺した。辛巳年すなわち紀元前七〇〇年、衞宣公は去世し、その子の朔が位を繼いだ。すなわち衞惠公である。壬午年すなわち紀元前六九九年、齊國は宋・衞・燕に會同して魯國を討伐したが、勝を得る能わず。癸未年すなわち紀元前六九八年、秦國の三父は出子を殺して、改めて原太子を立てた。すなわち秦武公である。齊釐公は去世し、太子の諸兒が位を繼いだ。すなわち齊襄公である。宋國は齊・蔡・陳に會同して鄭國を討伐した。

甲申,周桓王崩,太子佗嗣立,是謂莊王。鄭祭仲殺雍糾而逐厲公,迎忽反政,是謂昭公。秦伐彭戲氏於華山。齊襄公削公子無知祿。宋會魯、衛、陳伐鄭。乙酉,衛公子伋、壽傅逐惠公,立伋之弟黔牟。公出奔齊。宋會魯、衛、陳、蔡伐鄭。丙戌,秦夷三父族。鄭高渠彌弒其君昭公,立其弟子亹,渠彌專政。丁亥,周有黑肩之難。齊襄公殺魯桓公於濼,立其子同,是謂莊公。又會諸侯於首止,殺鄭子亹,高渠彌逃歸,與祭仲迎公子嬰於陳,立之。戊子,周王姬下嫁於齊。己丑,周葬桓王。庚寅。辛卯,周伐隨,責尊楚也。齊伐紀,紀侯大去其國。楚王帥師伐隨,子貲繼,是謂文王,始都郢。壬辰,齊會宋、魯、陳、蔡伐衛,入惠公。癸巳,衛惠公復入,殺二公子傅,黔牟奔周。

甲申年すなわち紀元前六九七年、周桓王は去世し、太子の佗が位を繼いだ。すなわち周莊王である。鄭國の祭仲は婿の雍糾を殺して鄭厲公を驅逐し、公子の忽を迎還して位に復らしめた。すなわち鄭昭公である。秦國は華山の一帶にて彭戲氏を討伐した。齊襄公は從弟の公子無知の俸祿を削減し、後日の無知が亂を作す禍根を埋下した。宋國は魯・衞・陳に會同して鄭國を討伐した。乙酉年すなわち紀元前六九六年、衞國の公子伋と壽の師傅は衞惠公を驅逐し、改めて伋の弟の黔牟を立て、惠公は齊國に出奔した。宋國は魯・衞・陳・蔡に會同して鄭國を討伐した。丙戌年すなわち紀元前六九五年、秦國は三父の一族を誅滅した。鄭國の大夫の高渠彌は國君の昭公を殺して、改めてその弟の子亹を立て、ここから權を專らにした。丁亥年すなわち紀元前六九四年、周王室に周公黑肩が逆を謀るの難が生じた。齊襄公は濼の地にて會しに來た魯桓公を殺し、魯人はその子の同を立てて君と為した。すなわち魯莊公である。齊襄公はまた首止にて諸侯を會合して鄭子亹を殺し、高渠彌は逃歸して、祭仲とともに陳國より公子嬰を迎還して立てて鄭君と為した。戊子年すなわち紀元前六九三年、周王室の王姬は齊國に下嫁した。己丑年すなわち紀元前六九二年、周朝は桓王を安葬した。その去世よりすでに五年を隔て、王室の衰えを見るべし。辛卯年すなわち紀元前六九〇年、周朝は隨國を討伐して、それが楚王を尊奉する罪を問うた。齊國は紀國を討伐し、紀侯は迫られて永く己の國家を離れた。楚武王は自ら兵を領して隨を伐って、軍中に死し、その子の貲が位を繼いだ。すなわち楚文王で、始めて郢に都を建てた。壬辰年すなわち紀元前六八九年、齊國は宋・魯・陳・蔡に會同して衞國を討伐し、惠公を護送して國に歸らしめた。癸巳年すなわち紀元前六八八年、衞惠公は重ねて國に入り、伋・壽の二公子の師傅を殺し、黔牟は周に出奔した。

經世之卯二千二百一十二。甲午,周莊王十年,秦滅小虢。乙未,齊公子無知以葵丘之戍卒入弒襄公,代立。公子糾奔魯,小白奔莒。丙申,齊人殺無知,公子小白入,是謂桓公。糾後入,不克。齊伐魯,殺糾,其傅召忽死之。管仲請囚,又相桓公。丁酉,魯敗齊師於長勺,敗宋師於乘丘。楚敗蔡師於莘,以蔡侯獻舞歸。自是江漢之國皆服於楚。戊戌。己亥,周莊王崩,太子胡齊嗣位,是謂釐王。宋亂,南宮萬弒其君湣公及其大夫仇牧,太宰華督,立公子游,群公子奔蕭,攻萬。及殺遊,立公弟御說,是謂桓公。

第二千二百十二世は卯世に屬し、紀元前六八七年から前六五八年に當たる。甲午年すなわち紀元前六八七年は、周莊王の在位の第十年で、秦國は小虢を滅した。乙未年すなわち紀元前六八六年、齊國の公子無知は葵丘を戍守する士卒を率いて國都に攻め入り、齊襄公を殺して自ら立ち、公子糾は魯國に出奔し、公子小白は莒國に出奔した。丙申年すなわち紀元前六八五年、齊人は無知を殺し、公子小白は先んじて國に歸って即位した。すなわち齊桓公である。公子糾は隨後ややに至るも成功せず。齊國は兵を出して魯を伐ち、魯人に逼って公子糾を殺させ、糾の師傅の召忽は彼の為に殉死し、もう一人の師傅の管仲は則ち己を囚送して齊に致すを請い、後に卻って齊桓公の相國と為った。丁酉年すなわち紀元前六八四年、魯國は長勺にて齊軍を撃敗した。すなわち曹劌論戰の役で、また乘丘にて宋軍を撃敗した。楚國は莘の地にて蔡軍を撃敗し、蔡侯の獻舞を俘虜して國に歸り、ここから江漢の一帶の小國は皆楚國に歸服した。己亥年すなわち紀元前六八二年、周莊王は去世し、太子の胡齊が位を繼いだ。すなわち周釐王である。宋國は內亂し、南宮萬は國君の湣公および大夫の仇牧・太宰の華督を殺して、改めて公子游を立て、その餘の公子は蕭邑に出奔して竝びに兵を起こして南宮萬を反攻して、公子游を殺し、改めて湣公の弟の御説を立てた。すなわち宋桓公である。

庚子,齊會宋、陳、蔡、邾之師伐魯,三敗之,取遂。又會魯於柯,遂復其侵地,曹沫劫盟故也。辛丑,齊會陳、曹及王人伐宋。楚師入蔡。壬寅,齊桓公會宋、陳、衛、鄭之君,盟於鄄。晉曲沃武公滅翼,以重寶入周,得請為諸侯。癸卯,齊桓公會陳、宋、魯、衛、鄭、許、滑、滕之君,盟於幽。秦武公卒,弟德公立。楚滅鄧。甲辰,周釐王崩,太子閬嗣位,是謂惠王。晉武公卒,子獻公詭諸繼。秦徙居雍。楚文王卒,世子囏繼,是謂杜敖。乙巳,秦德公卒,子宣公繼。

庚子年すなわち紀元前六八一年、齊國は宋・陳・蔡・邾の師に會同して魯國を討伐し、三戰三勝して遂邑を奪取した。隨後齊・魯は柯の地に會盟し、齊國はまた侵佔した土地を歸還した。これは魯將の曹沫が盟壇の上に齊桓公を劫持して地を索め、桓公は迫られて應允した後にまた管仲の勸に依って信を守って悔いず、天下はここに由ってその信義に服した。辛丑年すなわち紀元前六八〇年、齊國は陳・曹および周王の使者に會同して宋國を討伐し、楚軍は蔡國に攻め入った。壬寅年すなわち紀元前六七九年、齊桓公は宋・陳・衞・鄭の君を會合して鄄の地に會盟し、齊國の霸業はここから確立した。同年晉曲沃武公は翼城の晉侯を滅し、掠得した重寶を周王に獻て、因って獲て正式に諸侯に列せられた。曲沃が翼に代わる六十七年の內戰はここに至って告終した。癸卯年すなわち紀元前六七八年、齊桓公は陳・宋・魯・衞・鄭・許・滑・滕の君を會合して幽の地に會盟した。秦武公は去世し、弟の德公が位を繼いだ。楚國は鄧國を滅した。甲辰年すなわち紀元前六七七年、周釐王は去世し、太子の閬が位を繼いだ。すなわち周惠王である。晉武公は去世し、その子の獻公の詭諸が位を繼いだ。秦國は雍に遷都した。楚文王は去世し、太子の囏が位を繼いだ。すなわち楚杜敖である。乙巳年すなわち紀元前六七六年、秦德公は去世し、その子の宣公が位を繼いだ。

丙午。丁未,周有五大夫之難。邊伯、石速、蘇國以蔡衛之師攻王。立弟頹。王出居鄭之櫟。戊申,鄭厲公及虢叔入王於成周,殺頹,而執仲父及五大夫,難遂平。己酉,秦作密畤,敗晉師於河。晉伐驪,獲女以為姬。陳公子完奔齊。楚亂,弟惲殺其君囏,代立,是謂成王。庚戌,楚修好於周及諸侯。辛亥,衛惠公卒,子懿公繼。壬子,晉有驪姬之難,殺群公子,自翼徙居絳。癸丑,晉伐虢,責內群公子也。

丙午年は事なし。丁未年すなわち紀元前六七四年、周王室に五大夫の難が生じた。邊伯・石速と蘇國とは蔡・衞の兩國の軍隊を借りて惠王を攻打し、惠王の弟の頹を擁立して王と為し、惠王は迫られて鄭國の櫟邑に出居した。戊申年すなわち紀元前六七三年、鄭厲公と虢叔とは惠王を護送して成周に回り、王子頹を殺し、首を為す仲父および五大夫を捉え、この王室の亂はややに平定した。己酉年すなわち紀元前六七二年、秦國は密畤を修建して天を祭り、また黄河の邊で晉軍を撃敗した。晉國は驪戎を討伐して、驪姬を俘獲して妃嬪に納れた。陳國の公子完(田完)は齊國に出奔して、後の田氏が齊に代わるの始祖と為った。楚國は內亂し、杜敖の弟の惲は國君の囏を殺して自ら立ち、すなわち楚成王である。庚戌年すなわち紀元前六七一年、楚國は周王室および中原の諸侯と修好した。辛亥年すなわち紀元前六七〇年、衞惠公は去世し、その子の懿公が位を繼いだ。壬子年すなわち紀元前六六九年、晉國に驪姬の難が生じ、獻公は驪姬の讒を聽き入れて、公族の群公子を盡く殺し、竝びに都城を翼より絳に遷した。癸丑年すなわち紀元前六六八年、晉國は虢國を討伐して、それが晉國の出奔せる公子を收留する罪を問うた。

甲寅,周惠王錫齊桓公,命為伯。乙卯,晉城曲沃及蒲。楚伐鄭。丙辰。丁巳,齊伐山戎,至於孤竹,以救燕,俾修貢天子。秦宣公卒,弟成公立,楚殺令尹子元,以斗谷、於菟為令尹。戊午。己未,魯亂,叔牙弒其君莊公,開立,是謂湣公。季友立世子班,不克,奔陳。庚申,晉滅霍、魏、耿,以耿封趙夙,以魏封畢萬。辛酉,魯亂,慶父以莊姜弒湣公,代立。季友逐慶父,而立公子申,是謂僖公。狄滅衛,殺懿公。齊桓公攘戎狄,而立戴公,東徙渡河,野處漕邑。戴公卒,弟毀立。是謂文公,自漕邑徙居楚丘。晉伐東山皋落氏。秦成公卒,弟任好立,是謂穆公。壬戌,秦伐茅津,齊會宋、鄭、魯、曹、邾之君於檉。癸亥,齊城楚丘,以居衛,又會江、黃之君於貫。晉滅虢。

甲寅年すなわち紀元前六六七年、周惠王は齊桓公に命を賜い、正式に彼を任じて諸侯の長と為し、齊桓公の霸主の地位は天子の承認を得た。乙卯年すなわち紀元前六六六年、晉國は曲沃と蒲城を修筑し、楚國は鄭國を討伐した。丁巳年すなわち紀元前六六四年、齊國は山戎を討伐し、一路孤竹に打ち至り、為に燕國を救援し、竝びに燕國をして重ねて天子に進貢せしめた。秦宣公は去世し、弟の成公が位を繼いだ。楚國は令尹の子元を殺し、改めて鬥穀於菟すなわち令尹子文を用いて執政せしめた。己未年すなわち紀元前六六二年、魯國は內亂し、叔牙は國君の莊公を弑殺するに參與し、公子開が立てられて君と為った。すなわち魯湣公である。季友は原く太子般を擁立せんと欲して成功せず、陳國に出奔した。庚申年すなわち紀元前六六一年、晉國は霍・魏・耿の三國を滅し、耿の地を趙夙に封じ、魏の地を畢萬に封じ、趙・魏の兩家の根基はここに由って起こった。辛酉年すなわち紀元前六六〇年、魯國は再び亂れ、慶父は哀姜の力を借りて湣公を殺して自ら立ち、季友は慶父を驅逐し、改めて公子申を立てて君と為した。すなわち魯僖公である。同年狄人は衞國を滅し、衞懿公を殺し、齊桓公は兵を出して戎狄を驅逐し、衞戴公を扶立し、衞人は東して黄河を渡り、漕邑に露宿し、戴公の去世の後は弟の燬に由って位を繼がれた。すなわち衞文公で、漕邑より楚丘に遷居した。晉國は東山皋落氏を討伐した。秦成公は去世し、弟の任好が位を繼いだ。すなわち秦穆公である。壬戌年すなわち紀元前六五九年、秦國は茅津の戎を討伐し、齊國は檉の地にて宋・鄭・魯・曹・邾の君を會合した。癸亥年すなわち紀元前六五八年、齊國は衞國の為に楚丘城を修筑して安居せしめ、また江・黄の兩國の君と貫の地に會盟し、晉國は虢國を滅した。

經世之辰二千二百一十三。甲子,周惠王二十年,齊會江、黃之君於陽穀。乙丑,齊會宋、魯、衛、鄭、許、曹之師伐蔡,遂入楚,盟於召陵,執陳轅濤塗。晉殺世子申生,公子重耳走蒲,夷吾奔屈。秦娶晉女為夫人。丙寅,齊桓公會陳、宋、魯、衛、鄭、許、曹之君,及王世子,盟於首止。晉伐蒲,重耳奔翟。又伐虞及虢,虢君奔周。是年,秦始得志於諸侯,百里奚、蹇叔為之輔。楚滅弦。丁卯,齊伐鄭。晉伐屈,夷吾奔梁。戊辰。

第二千二百十三世は辰世に屬し、紀元前六五七年から前六二八年に當たり、正に齊桓公・晉文公の兩代の霸業の三十年である。甲子年すなわち紀元前六五七年は、周惠王の在位の第二十年で、齊國は江・黄の兩國の君と陽谷に會盟した。乙丑年すなわち紀元前六五六年、齊國は宋・魯・衞・鄭・許・曹の師を率いて蔡國を討伐し、接いで直に楚境に入り、楚と召陵に結盟し、竝びに陳國の大夫の轅濤涂を拘捕した。同年晉獻公は太子の申生を殺し、公子重耳は蒲城に逃れ、夷吾は屈邑に逃れた。秦國は晉の女を娶って夫人と為し、秦晉の好はここに由って始まる。丙寅年すなわち紀元前六五五年、齊桓公は陳・宋・魯・衞・鄭・許・曹の君および周王の太子を會合して首止に會盟した。晉國は蒲城を攻打し、重耳は翟國に出奔した。晉國はまた「道を假りて虢を伐つ」の計を用いて虞・虢を攻滅し、虢君は周室に逃奔した。この年秦國は始めて諸侯の間に志を得て、百里奚・蹇叔はその輔臣と為った。楚國は弦國を滅した。丁卯年すなわち紀元前六五四年、齊國は鄭國を討伐し、晉國は屈邑を攻打し、夷吾は梁國に出奔した。戊辰年は事なし。

己巳,周惠王崩,太子鄭嗣位,是謂襄王。太叔作難。齊帥宋、衛、許、曹、陳、會王入於洮。晉伐翟,不利於桑。庚午,齊桓公會宰孔、周公及宋、衛、鄭、許、曹之君於葵丘。宋襄公立。晉獻公卒,公子奚齊立,大夫裡克及丕鄭殺之,大夫荀息立其弟卓子。辛未,晉裡克殺其君卓子及大夫荀息,而納夷吾。夷吾入,是謂惠公。惠公既立,殺裡克而絕秦。壬申,周亂,叔帶以戍伐周,秦、晉來救。癸酉,齊使管仲平周難。楚滅黃。

己巳年すなわち紀元前六五二年、周惠王は去世し、太子の鄭が位を繼いだ。すなわち周襄王である。惠王の少子の太叔帶は難を發して位を爭い、齊國は宋・衞・許・曹・陳の諸國を率いて襄王と洮の地に相會して、王位を穩定した。同年晉國は翟人を討伐して桑の地に失利した。庚午年すなわち紀元前六五一年、齊桓公は葵丘にて周王の使者の宰孔・周公および宋・衞・鄭・許・曹の君を會合した。これすなわち著名なる葵丘の會で、齊桓の霸業はここに至って登峰造極した。宋襄公が即位した。晉獻公は去世し、公子奚齊が立てられ、大夫の里克と丕鄭とが彼を殺し、大夫の荀息はまた奚齊の弟の卓子を立てた。辛未年すなわち紀元前六五〇年、晉國の里克は國君の卓子と大夫の荀息を殺して、夷吾を迎還し、夷吾は即位してすなわち晉惠公と為った。惠公は立脚穩まった後に反手して里克を殺し、また當初の地を割くの承諾を背棄して秦國と斷交した。壬申年すなわち紀元前六四九年、周室は亂を生じ、太叔帶は戍卒を帶いて王城を攻打し、秦・晉の兩國は兵を出して救いに來た。癸酉年すなわち紀元前六四八年、齊桓公は管仲を派して周室の難を平定せしめ、楚國は黄國を滅した。

甲戌,齊桓公會宋、陳、魯、衛、鄭、許、曹之君,盟於滷。晉飢,秦輸之粟。乙亥,秦飢,晉閉之糴,而又伐之。楚滅英。丙子,齊桓公會宋、陳、魯、衛、鄭、許、曹之君,盟於葵丘,以救徐。管仲卒,易牙專政。秦伐晉,敗之於韓原,獲其君夷吾,夷吾獻河西地,乃得還。仍以世子圉為質。丁丑,戎攻周,齊會諸侯師戍周,又會宋、魯、陳、鄭、許、邢、曹之君於淮,以全鄫。戊寅,齊桓公卒,五公子爭國。公子無詭立,易牙專政,世子昭出奔宋。己卯,宋會曹、衛、邾伐齊,敗殺無詭,四公子,立世子昭,是謂孝侯。狄伐衛。庚辰,秦滅梁。辛巳。壬午,宋襄公會楚、陳、蔡、鄭、許、曹六國之君於盂。楚成王執宋襄公於會以伐宋,盟而釋之。癸未,齊入王叔帶於周,秦晉徙陸渾之戎於伊川。宋會衛、許、滕伐鄭,不利。晉公子圉自秦逃歸,楚救鄭,大敗宋師於泓。

甲戌年すなわち紀元前六四七年、齊桓公は宋・陳・魯・衞・鄭・許・曹の君を會合して鹵の地に會盟した。この年晉國は饑饉し、秦國は船隊を用いて糧を運んで相救した。史に「泛舟之役」と稱す。乙亥年すなわち紀元前六四六年、番は秦國が饑饉し、晉國は卻って糧市を封閉して糧を賣るを肯んぜず、反って兵を出して秦を攻めた。楚國は英國を滅した。丙子年すなわち紀元前六四五年、齊桓公は諸侯を會合して再び葵丘に盟して、以って徐國を援救した。管仲は去世し、佞臣の易牙は始めて權を專らにした。秦國は晉を伐って韓原にて晉軍を大敗し、晉惠公の夷吾を俘虜し、夷吾は河西の地を獻出してややに放還を得、また太子の圉を送って人質と為さねばならなかった。丁丑年すなわち紀元前六四四年、戎人は周室を進攻し、齊國は諸侯を會合して兵を出して王城を戍衞し、また宋・魯・陳・鄭・許・邢・曹の君と淮の地に相會して、以って鄫國を保全した。戊寅年すなわち紀元前六四三年、齊桓公は去世し、五つの公子が君位を爭い、公子無詭が即位し、易牙は權を專らにし、太子昭は宋國に出奔し、齊國の霸業はここに至って中止した。己卯年すなわち紀元前六四二年、宋國は曹・衞・邾に會同して齊國を討伐し、擊敗して無詭および別の四位の位を爭う公子を殺し、太子昭を扶立した。すなわち齊孝公で、底本は「孝侯」と作る。同年狄人は衞國を進攻した。庚辰年すなわち紀元前六四一年、秦國は梁國を滅した。壬午年すなわち紀元前六三九年、宋襄公は盂の地にて楚・陳・蔡・鄭・許・曹の六國の君を會合し、楚成王は會の上に宋襄公を抓めて竝びに兵を進めて宋を伐ち、盟を訂した後に釋放した。癸未年すなわち紀元前六三八年、齊國は王子帶を周室に送回し、秦・晉は陸渾の戎を伊川に遷した。宋國は衞・許・滕に會同して鄭國を討伐して失利した。晉公子の圉は秦國より私自に逃歸した。楚國は鄭を救い、泓水にて宋軍を大敗し、宋襄公は「鼓不成列ならざるに因って」重傷した。

甲申,周頹叔桃子以狄師伐鄭,遂以狄女隗氏為後。宋襄公卒,子成公壬臣繼。齊伐宋,楚伐陳。乙酉,周襄王廢狄後,頹叔桃子以狄師攻周。王出居鄭之汜,叔帶代立,與狄後居於溫。晉有郄芮之難。惠公卒,世子圉繼,是謂懷公。秦穆公使人殺之,而立公子重耳,是謂文公。趙衰為原大夫,專政。丙戌,秦晉之師滅王叔帶於溫,而納王於成周。王享晉文公於郟,而命益之河內地。衛文公卒,世子成公鄭繼。楚圍陳,以入頓子。丁亥,宋背楚親晉,楚滅夔伐宋,又伐齊。戊子,齊孝公卒,弟潘父殺世子,代立,是謂昭公。晉救宋,作三軍。楚使子玉伐宋。己丑,周襄王狩於河陽。晉會齊、宋、蔡、秦之師伐衛,大敗楚師於城濮,遂會齊、宋、蔡、鄭、魯、衛之君,盟於踐土。楚救鄭,不利,殺令尹子玉得臣。庚寅,晉會王人及諸侯於翟泉。辛卯,衛成公自陳如周,周請晉納成公於衛,而誅大夫元咺及公子瑕。秦、晉圍鄭。壬辰,魯取濟西田,衛徙居帝丘。癸巳,晉文公卒,世子歡繼,是謂襄公。

甲申年すなわち紀元前六三七年、周大夫の頹叔・桃子は狄人の軍隊を帶いて鄭國を討伐し、襄王はここに於て狄女の隗氏を娶って王后と為した。宋襄公は泓水の傷に因って去世し、その子の成公壬臣が位を繼いだ。齊國は宋を伐ち、楚國は陳を伐った。乙酉年すなわち紀元前六三六年、周襄王は狄后を廢し、頹叔・桃子はまた狄師を帶いて周室を攻打し、襄王は鄭國の氾の地に出居し、叔帶は自ら立って王と為り、狄后と温に同居した。晉國に郤芮の難が生じ、惠公は去世し、太子の圉が位を繼いで、すなわち晉懷公で、秦穆公は人を派して懷公を殺し、流亡十九年の公子重耳を扶立した。すなわち晉文公で、趙衰は原邑の大夫と為って國政を執掌した。丙戌年すなわち紀元前六三五年、秦・晉の聯軍は温の地にて王子帶を消滅し、襄王を成周に送回した。襄王は郟の地に宴を設けて晉文公を款待し、竝びに河內の地を加賜し、晉國の霸業はここに由って奠定された。衞文公は去世し、太子の成公鄭が位を繼いだ。楚國は陳國を圍困して、頓子を本國に送回した。丁亥年すなわち紀元前六三四年、宋國は楚國を背棄して轉じて晉國に親附し、楚國は夔國を滅して竝びに兵を出して宋を伐ち、また齊國を討伐した。戊子年すなわち紀元前六三三年、齊孝公は去世し、その弟の潘は太子を殺して自ら立ち、すなわち齊昭公である。晉國は兵を出して宋を救い、竝びに上中下の三軍に擴編した。楚國は子玉を派して宋を伐たせた。己丑年すなわち紀元前六三二年、周襄王は河陽に巡狩した。實は晉文公が王を召しに而《春秋》は諱んで書したものである。晉國は齊・宋・蔡・秦の師を會合して衞を伐ち、城濮にて楚軍を大敗し、隨後齊・宋・蔡・鄭・魯・衞の君を會合して踐土に會盟し、晉文公は正式に稱霸した。楚國は鄭を救うに失利し、令尹の子玉の成得臣は自殺した。庚寅年すなわち紀元前六三一年、晉國は周王の使者および諸侯と翟泉に相會した。辛卯年すなわち紀元前六三〇年、衞成公は陳國より周に至り、周王は晉國に請うて成公を送って衞に歸り位に復らせ、竝びに大夫の元咺と公子瑕を誅殺した。同年秦・晉は聯合して鄭を圍んだ。すなわち燭之武が秦師を退かすの役である。壬辰年すなわち紀元前六二九年、魯國は濟西の田を取得し、衞國は帝丘に遷都した。癸巳年すなわち紀元前六二八年、晉文公は去世し、太子の驩が位を繼いだ。すなわち晉襄公である。

經世之巳二千二百一十四。甲午,周襄王二十五年,秦穆公伐鄭,晉敗秦師於殽,獲其帥孟明視、西乞術、白乙丙。魯僖公卒,世子興繼,是謂文公。乙未,晉歸秦三帥。楚亂,世子商臣殺其君惲,代立,是謂穆王。丙申,秦伐晉,不利於彭衙。丁酉,秦伐晉,取王官。楚伐江,晉師來救。戊戌,秦伐西戎,破國十二。楚滅江。己亥,晉趙成子衰卒,子盾繼,事楚滅六。

第二千二百十四世は巳世に屬し、紀元前六二七年から前五九八年に當たる。甲午年すなわち紀元前六二七年は、周襄王の在位の第二十五年で、秦穆公は蹇叔の勸阻を聽かず、晉境を越えて鄭國を偷襲し、師を回らす途中に晉軍に殽山にて伏擊され、全軍覆没し、三位の主帥の孟明視・西乞術・白乙丙は皆俘虜とされた。同年魯僖公は去世し、太子の興が位を繼いだ。すなわち魯文公である。乙未年すなわち紀元前六二六年、晉國は秦國の三位の主帥を放歸した。楚國は內亂し、太子の商臣は國君の成王熊惲を逼死せしめて自ら立ち、すなわち楚穆王である。丙申年すなわち紀元前六二五年、秦國は晉を伐って彭衙に失利した。丁酉年すなわち紀元前六二四年、秦國は再度晉を伐って王官を奪取した。楚國は江國を討伐し、晉軍は前來救援した。戊戌年すなわち紀元前六二三年、秦國は轉じて西に向かって發展し、西戎を討伐して十二の部族の國を攻破し、遂に西戎に霸たり。楚國は江國を滅した。己亥年すなわち紀元前六二二年、晉國の趙成子趙衰は去世し、その子の趙盾はその位を繼承して竝びに國政を主持した。楚國は六國を滅した。

庚子,秦穆公卒,世子罃繼,是謂康公。葬穆公,三良為殉。晉襄公卒。辛丑,晉世子夷皋繼,是謂靈公。宋成公卒,國亂,弟御殺世子,代立。國人殺御,公立子杵臼,是謂昭公。齊率宋、衛、陳、鄭、許、曹之君,會趙盾於扈。壬寅,周襄王崩,太子壬臣嗣位,是謂頃王。癸卯,周葬襄王。晉會諸侯入救鄭。秦伐晉,取武遂。甲辰,晉伐秦,取少梁。秦伐晉,取比徵。乙巳,魯敗狄於滷,獲其帥喬如。丙午,秦伐晉,取羈馬。

庚子年すなわち紀元前六二一年、秦穆公は去世し、太子の罃が位を繼いだ。すなわち秦康公である。穆公を安葬する時子車氏の三位の良臣をもって殉葬と為し、《詩經・黄鳥》はすなわちこの事を哀悼するもので、秦人の國勢もまた因って受挫した。同年晉襄公は去世した。辛丑年すなわち紀元前六二〇年、晉國の太子夷皋が位を繼いだ。すなわち晉靈公である。宋成公は去世し、國內は亂を生じ、その弟の公子御は太子を殺して自ら立ち、國人はまた御を殺して、成公の子の杵臼を扶立した。すなわち宋昭公である。齊國は宋・衞・陳・鄭・許・曹の君を率いて扈の地にて晉國の執政趙盾と相會した。壬寅年すなわち紀元前六一九年、周襄王は去世し、太子の壬臣が位を繼いだ。すなわち周頃王である。癸卯年すなわち紀元前六一八年、周朝は襄王を安葬し、晉國は諸侯を會合して兵を出して鄭を救い、秦國は晉を伐って武遂を奪取した。甲辰年すなわち紀元前六一七年、晉國は秦を伐って少梁を奪取し、秦國は晉を伐って比征を奪取した。乙巳年すなわち紀元前六一六年、魯國は鹵の地にて狄人を撃敗し、その主帥の長狄喬如を俘獲した。丙午年すなわち紀元前六一五年、秦國は晉を伐って羈馬を奪取した。

丁未,楚穆王卒,世子莒繼,是謂莊王。戊申,周頃王崩,國亂,公卿爭權。晉趙盾平周亂,而立王子班,是謂匡王。宋及諸侯盟於新城。齊昭公卒,國亂,公子商人殺世子舍,代立,是謂懿公。己酉,秦伐蔡,齊伐魯。庚戌,齊修郪丘之盟。宋人弒其君昭公,弟鮑立,是謂文公。楚滅庸。辛亥,晉會衛、陳、鄭伐宋。壬子,魯文公卒於臺下,襄仲殺世子惡而立公子倭,是謂宣公,三桓專政。秦康公卒,世子稻繼,是謂共公。齊亂,大夫丙歜弒其君懿公,立公子元,是謂惠公。宋亂,群公子作難。癸丑,齊取魯濟西田,晉伐鄭,楚侵陳及宋。

丁未年すなわち紀元前六一四年、楚穆王は去世し、太子の莒が位を繼いだ。すなわち後日中原に鼎を問うた楚莊王である。戊申年すなわち紀元前六一三年、周頃王は去世し、王室は亂を生じ、公卿は權柄を爭奪した。晉國の執政趙盾は出面して周亂を平定し、王子班を扶立した。すなわち周匡王である。宋國は諸侯と新城に會盟した。齊昭公は去世し、國內は亂を生じ、公子商人は太子舍を殺して自ら立ち、すなわち齊懿公である。己酉年すなわち紀元前六一二年、秦國は蔡國を討伐し、齊國は魯國を討伐した。庚戌年すなわち紀元前六一一年、齊國は郪丘の盟を重修した。宋國人は國君の昭公を殺し、その弟の鮑が位を繼いだ。すなわち宋文公である。楚國は庸國を滅した。辛亥年すなわち紀元前六一〇年、晉國は衞・陳・鄭に會同して宋國を討伐した。壬子年すなわち紀元前六〇九年、魯文公は台の下に死し、公子遂(襄仲)は太子惡を殺して改めて公子倭を立てた。すなわち魯宣公で、ここから季孫・叔孫・孟孫の三桓は魯政を專斷した。秦康公は去世し、太子の稻が位を繼いだ。すなわち秦共公である。齊國は亂を生じ、大夫の丙歜は國君の懿公を殺して、改めて公子元を立てた。すなわち齊惠公である。宋國もまた亂れ、群公子は難を發した。癸丑年すなわち紀元前六〇八年、齊國は魯國の濟西の田を奪取し、晉國は鄭を伐ち、楚國は陳國と宋國を侵犯した。

甲寅,周匡王崩,弟瑜立,是謂定王。鄭敗宋師於大棘,獲其太宰華元。晉伐鄭,秦伐晉,晉趙盾弒其君靈公。迎襄公弟黑臀於周,立之,是謂成公。乙卯,周葬匡王。楚伐陸渾之戎,遂觀兵於周郊。丙辰,鄭亂,公子作難。丁巳,晉伐陳以救鄭。秦共公卒,子稻繼,是為桓公。戊午,晉趙盾、衛孫免,侵陳。己未,晉會諸侯於黑壤。庚申,晉伐秦,楚滅舒蓼。辛酉,晉侯會宋、衛、陳、鄭於扈。陳不至,遂伐陳。晉成公卒於扈,公子據立,是謂景公。趙盾卒,子朔繼事。壬戌,齊歸魯濟西田,齊惠公卒,子無野立,是謂頃公。大夫崔杼奔衛。陳亂,夏徵舒弒其君靈公。晉伐鄭,楚師來救;楚伐鄭,晉師來救。癸亥,楚伐陳,誅夏徵舒,納公孫寧、儀行父於陳。

甲寅年すなわち紀元前六〇七年、周匡王は去世し、その弟の瑜が位を繼いだ。すなわち周定王である。鄭國は大棘にて宋軍を撃敗し、宋國の太宰の華元を俘獲した。晉國は鄭を伐ち、秦國は晉を伐った。晉國の執政趙盾の一族は國君の靈公を弑殺した。實際に手を動かしたのは趙穿なれど、史官の董狐は依然として「趙盾その君を弑す」と書し、孔子はこれを「古の良史」と稱した。隨後周室より襄公の弟の黑臀を迎還して立てて君と為した。すなわち晉成公である。乙卯年すなわち紀元前六〇六年、周朝は匡王を安葬した。楚莊王は陸渾の戎を討伐し、勢に順って周都の近郊に兵を陳して示威し、竝びに王孫滿に九鼎の輕重を詢問した。「中原に鼎を問う」はすなわちこの事を指す。丙辰年すなわち紀元前六〇五年、鄭國は亂を生じ、公子は難を發した。丁巳年すなわち紀元前六〇四年、晉國は陳を伐って以って鄭を救い、秦共公は去世し、その子の稻が位を繼いだ。すなわち秦桓公である。戊午年すなわち紀元前六〇三年、晉國の趙盾は衞國の孫免と一同して陳國を侵犯した。己未年すなわち紀元前六〇二年、晉國は黑壤にて諸侯を會合した。庚申年すなわち紀元前六〇一年、晉國は秦を伐ち、楚國は舒蓼を滅した。辛酉年すなわち紀元前六〇〇年、晉侯は扈の地にて宋・衞・陳・鄭の君を會合し、陳國は至らず、晉國はここに於て陳を伐った。晉成公は扈の地に死し、公子據が位を繼いだ。すなわち晉景公である。趙盾は去世し、その子の趙朔はその事を接掌した。壬戌年すなわち紀元前五九九年、齊國は魯國の濟西の田を歸還した。齊惠公は去世し、その子の無野が位を繼いだ。すなわち齊頃公である。大夫の崔杼は衞國に出奔した。陳國は亂を生じ、夏徵舒は國君の靈公を殺した。晉國は鄭を伐って楚國は救いに來り、楚國は鄭を伐って晉國は救いに來り、晉楚が鄭を爭うの勢はすでに成った。癸亥年すなわち紀元前五九八年、楚國は陳を伐って夏徵舒を誅殺し、逃亡した公孫寧・儀行父を陳國に送回した。

經世之午二千二百一十五。甲子,周定王十年。楚伐鄭,大敗晉師於河上。晉屠岸賈作難於下宮,殺趙朔及其族。朔妻匿於公宮,生武。乙丑,楚伐宋。丙寅,楚圍宋。丁卯,周定王殺二伯,晉滅狄及潞氏。戊辰,周宣王榭火,晉滅申氏,又平王室之亂。己巳,晉會諸侯之君於斷道。

第二千二百十五世は午世に屬し、紀元前五九七年から前五六八年に當たる。甲子年すなわち紀元前五九七年は、周定王の在位の第十年で、楚莊王は鄭を伐ち、進んで黄河の邊の邲の地にて晉軍を大敗し、楚國はここに由って晉國に取代わって霸主と為った。同年晉國の屠岸賈は下宮にて難を發し、趙朔およびその全族を殺し、趙朔の妻の莊姬は宮の中に藏れて遺腹子の趙武を生んだ。これすなわち「趙氏の孤兒」の故事の由來である。乙丑年すなわち紀元前五九六年、楚國は宋を伐った。丙寅年すなわち紀元前五九五年、楚國は宋國を圍困し、宋人は九箇月圍まれて「子を易して食し、骸を析いて爨ぐ」に至った。丁卯年すなわち紀元前五九四年、周定王は兩位の伯爵を殺し、晉國は狄人および潞氏を消滅した。戊辰年すなわち紀元前五九三年、周室の宣王廟榭は火を失い、晉國は申氏を滅し、また王室の動亂を平定した。己巳年すなわち紀元前五九二年、晉國は斷道にて諸侯の君を會合した。

庚午,魯宣公卒,世子黑肱繼,是謂成公。晉伐齊。楚莊王卒,世子審繼,是謂共王。辛未,周伐茅戎,不利。壬申,齊伐衛,敗魯、衛之師於新築。晉會諸侯之師救衛,大敗齊師於鞍。宋文公卒,子瑕繼,是謂共公,華元專國,兩盟於晉楚,會十國之人於蜀。癸酉,晉會宋、衛、魯、曹伐鄭,鄭兩伐許。甲戌,晉伐楚救鄭。

庚午年すなわち紀元前五九一年、魯宣公は去世し、太子の黑肱が位を繼いだ。すなわち魯成公である。晉國は齊を伐った。楚莊王は去世し、太子の審が位を繼いだ。すなわち楚共王で、楚國の霸業は莊王の死に隨って中衰した。辛未年すなわち紀元前五九〇年、周室は茅戎を討伐して反って失利した。壬申年すなわち紀元前五八九年、齊國は衞を伐って新筑にて魯・衞の聯軍を撃敗した。晉國は諸侯の師を會合して衞を救い、鞍の地にて齊軍を大敗した。すなわち「鞍の戰」で、晉國は重新して齊國を壓倒した。同年宋文公は去世し、その子の瑕が位を繼いだ。すなわち宋共公で、大夫の華元は國政を獨攬して、先後して晉・楚の兩面と結盟し、竝びに蜀の地にて十國の代表を會合して、後來の弭兵の議の為に先聲を開いた。癸酉年すなわち紀元前五八八年、晉國は宋・衞・魯・曹に會同して鄭國を討伐し、鄭國は兩度許國を討伐した。甲戌年すなわち紀元前五八七年、晉國は楚を伐って以って鄭を救った。

乙亥,周定王崩,太子夷嗣位,是謂簡王。晉會齊、宋、衛、魯、鄭、曹、邾、杞八國之君,盟於蟲牢。楚伐鄭。丙子,楚伐鄭,晉救鄭。是年,壽夢稱王於吳。丁丑,晉會齊、宋、魯、衛、曹、邾、莒八國之君於馬陵,以救鄭。吳王壽夢始通好中國。戊寅,晉殺大夫趙同、趙括。己卯,晉會齊、宋、魯、衛、鄭、曹、邾、杞八國之君,盟於蒲。齊頃公卒,子環繼,是謂靈公。晉伐鄭,秦伐晉,楚伐莒,入鄆。庚辰,晉景公有疾,授世子州蒲位,是謂厲公。景公卒,程嬰攻屠岸賈於公宮,滅其族,復趙武、趙朔之封邑,程嬰請死。辛巳,秦晉修夾河之盟。壬午,晉楚同盟於宋,晉敗狄於交剛。癸未,魯成公朝於周,晉會齊、宋、魯、衛、鄭、曹、邾、滕八國之師伐秦,敗之麻隧。

乙亥年すなわち紀元前五八六年、周定王は去世し、太子の夷が位を繼いだ。すなわち周簡王である。晉國は齊・宋・衞・魯・鄭・曹・邾・杞の八國の君を會合して蟲牢に會盟し、楚國は鄭を伐った。丙子年すなわち紀元前五八五年、楚國は鄭を伐ち、晉國は鄭を救った。この年壽夢は吳國にて王と稱し、僻處して東南の吳人は始めて中原の舞臺に登上した。丁丑年すなわち紀元前五八四年、晉國は馬陵にて齊・宋・魯・衞・曹・邾・莒の諸國の君を會合して以って鄭を救い、吳王壽夢は第一次中原の諸侯と通好し、晉國は「吳に聯して楚を制す」の策を用いた。戊寅年すなわち紀元前五八三年、晉國は大夫の趙同・趙括を殺した。己卯年すなわち紀元前五八二年、晉國は八國の君を會合して蒲の地に會盟した。齊頃公は去世し、その子の環が位を繼いだ。すなわち齊靈公である。晉國は鄭を伐ち、秦國は晉を伐ち、楚國は莒を伐って竝びに鄆城に攻め入った。庚辰年すなわち紀元前五八一年、晉景公は病に患って、君位を太子州蒲に傳えた。すなわち晉厲公である。景公の去世の後、程嬰は公宮に於て屠岸賈を攻殺して竝びにその族を滅し、趙氏の為に平反して趙武・趙朔の封邑を恢復し、程嬰は隨後自ら一死を請いて當年孤を託せし公孫杵臼に報いた。辛巳年すなわち紀元前五八〇年、秦・晉は夾河の地にて盟好を重修した。壬午年すなわち紀元前五七九年、晉・楚は宋國にて同盟を訂立した。これは華元の促成した第一次の弭兵である。晉國は交剛にて狄人を撃敗した。癸未年すなわち紀元前五七八年、魯成公は周王に朝見し、晉國は齊・宋・魯・衞・鄭・曹・邾・滕の八國の師を會合して秦を伐ち、麻隧にて秦軍を大敗した。

甲申,秦桓公卒,子景公繼。乙酉,晉會諸侯之君於戚。宋共公卒,國亂,大司馬唐山殺世子肥,右師華元、左師魚石誅唐山,而立公子成,是謂平公。楚遷許於葉。吳大會諸侯之君於鍾離。丙戌,晉伐鄭,大敗楚師於鄢陵。楚救鄭,不克,矢中王目,誅令尹側。丁亥,晉會諸侯盟於柯陵。是年,晉殺三郤。戊子,晉亂,欒書弒其君厲公,迎公子周於周,立之,是謂悼公。魯成公卒,子午繼,是謂襄公。楚會鄭,伐宋彭城。晉侯會宋公、魯仲孫蔑、衛侯、邾子、齊崔杼同盟於虛朾。己丑,周簡王崩,太子洩心嗣位,是謂靈王。晉會諸侯之師伐宋,圍彭城。庚寅,周葬簡王,晉伐鄭,會諸侯之師於戚,以成虎牢。辛卯,晉會八國之君,盟於雞澤。楚伐吳,至於衡山。壬辰,晉用魏絳。楚伐陳。癸巳,晉會諸侯之師於戚城,又救陳。吳會魯、衛之君於善道。

甲申年すなわち紀元前五七七年、秦桓公は去世し、その子の景公が位を繼いだ。乙酉年すなわち紀元前五七六年、晉國は戚の地にて諸侯の君を會合した。宋共公は去世し、國內は亂を生じ、大司馬の唐山は太子肥を殺し、右師の華元・左師の魚石は唐山を誅殺し、改めて公子成を立てた。すなわち宋平公である。楚國は許國を葉の地に遷し、吳國は鍾離にて諸侯の君を大會した。丙戌年すなわち紀元前五七五年、晉國は鄭を伐って鄢陵にて楚軍を大敗した。楚國は鄭を救うに成らず、楚共王は箭に眼睛を射中られ、國に歸って後令尹の子反(名は側)を誅殺し、晉國はここに由って重新して中原に獨霸した。丁亥年すなわち紀元前五七四年、晉國は諸侯を會合して柯陵に會盟した。同年晉厲公は郤錡・郤犨・郤至の三位の大臣を誅滅した。史に「晉三郤を殺す」と稱す。戊子年すなわち紀元前五七三年、晉國は亂を生じ、欒書は國君の厲公を殺して、周室より公子周を迎還して立てて君と為した。すなわち晉悼公である。魯成公は去世し、その子の午が位を繼いだ。すなわち魯襄公である。楚國は鄭國に會同して宋國の彭城を攻打した。晉侯は宋公・魯國の仲孫蔑・衞侯・邾子および齊國の崔杼と虚朾に同盟した。己丑年すなわち紀元前五七二年、周簡王は去世し、太子の泄心が位を繼いだ。すなわち周靈王である。晉國は諸侯の師を會合して宋を伐ち、彭城を圍困した。庚寅年すなわち紀元前五七一年、周朝は簡王を安葬し、晉國は鄭を伐って戚の地にて諸侯の師を會合し、竝びに虎牢城を修筑して以って鄭を逼た。辛卯年すなわち紀元前五七〇年、晉國は八國の君を會合して鷄澤に會盟し、楚國は吳を伐って一路衡山に打ち至った。壬辰年すなわち紀元前五六九年、晉悼公は魏絳を起用して「戎と和す」の策を行い、楚國は陳を伐った。癸巳年すなわち紀元前五六八年、晉國は戚城にて諸侯の師を會合し、また兵を出して陳を救い、吳國は魯・衞の君と善道に相會した。

經世之未二千二百一十六。甲午,周靈王五年。乙未,晉會七國之君於鄬。丙申,晉會諸國之君於邢丘,鄭子駟殺群公子。丁酉,秦伐晉。晉會十一國之君伐鄭,楚亦伐鄭。兩盟晉楚。戊戌,晉率十一國之君會吳壽夢於柤,以滅偪陽;又會十一國之師伐鄭,又伐秦。楚伐宋,又救鄭。己亥,晉兩會十一國之師伐鄭,賜魏絳食採安邑。秦伐晉救鄭。魯三桓分軍。楚伐鄭,又伐宋。

第二千二百十六世は未世に屬し、紀元前五六七年から前五三八年に當たり、正に晉悼公の霸を復する與向戌の弭兵の三十年である。甲午年すなわち紀元前五六七年は、周靈王の在位の第五年。乙未年すなわち紀元前五六六年、晉國は鄬の地にて七國の君を會合した。丙申年すなわち紀元前五六五年、晉國は邢丘にて各國の君を會合し、鄭國の執政子駟は一批の公子を殺した。丁酉年すなわち紀元前五六四年、秦國は晉を伐ち、晉國は十一國の君を會合して鄭を伐ち、楚國もまた鄭を伐ち、中間に挾まる鄭國は兩面に盟を訂るよりほかなかった。戊戌年すなわち紀元前五六三年、晉國は十一國の君を率いて吳王壽夢と柤の地に相會し、手を聯ねて偪陽を滅し、また十一國の師を會合して鄭を伐ち、再び秦を伐った。楚國は宋を伐ち、また鄭を救った。己亥年すなわち紀元前五六二年、晉國は兩次十一國の師を會合して鄭を伐ち、安邑を魏絳に賜いて采邑と為した。秦國は晉を伐って以って鄭を救い、魯國の季孫・叔孫・孟孫の三家は公室の軍隊を瓜分した。すなわち「公室を三に分つ」である。楚國は鄭を伐ち、また宋を伐った。

庚子,楚會秦,伐宋。吳壽夢卒,長子諸樊繼。辛丑,楚共王卒,子昭廢世子代立,是謂康王。吳伐楚不利。壬寅,晉率齊、宋、魯、衛、鄭、曹、莒、邾、滕、薛、杞、小邾十二國之君,會吳諸樊於向,又會諸侯之師伐秦。衛亂,孫林父、寧殖作難,衛侯出奔齊。楚伐吳有功。癸卯,晉悼公卒,子彪繼,是謂平公。甲辰,晉侯會宋、魯、衛、鄭、曹、莒、邾、薛、杞、小邾十國之君,盟於溴梁,執莒子、邾子以歸;又伐楚,至於方城。乙巳。

庚子年すなわち紀元前五六一年、楚國は秦國に會同して宋を伐ち、吳王壽夢は去世し、長子の諸樊が位を繼いだ。辛丑年すなわち紀元前五六〇年、楚共王は去世し、その子の昭は原く立てられた太子を廢して自ら立ち、すなわち楚康王である。吳國は喪に乘じて楚を伐って反って失利した。壬寅年すなわち紀元前五五九年、晉國は齊・宋・魯・衞・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の十二國の君を率いて向の地にて吳王諸樊に會見し、また諸侯の師を會合して秦を伐った。衞國は亂を生じ、孫林父・寧殖は難を發し、衞獻公は齊國に出奔した。楚國は吳を伐って勝を取った。癸卯年すなわち紀元前五五八年、晉悼公は去世し、その子の彪が位を繼いだ。すなわち晉平公で、晉國の霸權はここから漸く公室より六卿の手に轉入した。甲辰年すなわち紀元前五五七年、晉侯は宋・魯・衞・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾の十國の君を會合して湨梁に會盟し、莒子・邾子を拘捕して帶歸し、また兵を出して楚を伐って一路方城に打ち至った。乙巳年は事なし。

丙午,晉用範中行,會宋、衛、魯、鄭、曹、莒、邾、滕、薛、杞、小邾十一國之師伐齊,敗之於靡下,進圍臨淄。齊靈公奔莒。丁未,齊廢世子光,以公子牙為世子。崔杼復廢牙,立光為世子。靈公卒,光繼,是謂莊公。崔杼當國。鄭簡公誅大夫子孔,以子產當國。戊申,晉侯會十二國之君,盟於澶淵。己酉,晉侯會八國諸侯,盟於商壬。欒盈奔楚。庚戌,晉會十一國之君,盟於沙隨。楚殺令尹子南。晉欒盈自楚適齊。辛亥,欒盈自齊復入於晉,不克,死。範中行滅欒氏之族。齊伐晉,取朝歌。

丙午年すなわち紀元前五五五年、晉國は范氏と中行氏の兩家を起用して執政せしめ、宋・衞・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の十一國の師を會合して齊を伐ち、靡の下にて齊軍を撃敗し、進んで臨淄を包圍し、齊靈公は莒國に逃奔した。丁未年すなわち紀元前五五四年、齊國は太子光を廢して改めて公子牙を立て、崔杼はまた牙を廢して重ねて光を立てて太子と為した。靈公は去世し、光が位を繼いだ。すなわち齊莊公で、崔杼はここから齊國の政權を把持した。同年鄭簡公は大夫の子孔を誅殺し、改めて子産を用いて執政せしめ、鄭國はここに由って一位の春秋の名相を得た。戊申年すなわち紀元前五五三年、晉侯は十二國の君を會合して澶淵に會盟した。己酉年すなわち紀元前五五二年、晉侯は八國の諸侯を會合して商壬に會盟し、晉國の欒盈は楚國に出奔した。庚戌年すなわち紀元前五五一年、晉國は十一國の君を會合して沙隨に會盟し、楚國は令尹の子南を殺し、欒盈はまた楚國より轉じて齊國に往いた。辛亥年すなわち紀元前五五〇年、欒盈は齊國より潛かに晉國に回って事を起こしたが、成功せずして死し、范氏・中行氏は勢に乘じて欒氏の一族を滅し、晉國六卿の兼竝はここから加劇した。齊國は晉を伐って朝歌を奪取した。

壬子,晉會十一國之君於夷儀。楚伐吳,又會諸侯伐鄭。癸丑,齊亂,崔杼弒其君莊公,立異母弟杵臼,是謂景公,崔杼為右相,慶封為左相。晉敗齊師於高堂。楚會陳伐鄭,及滅舒鳩。吳伐楚,不利,諸樊死,弟餘祭立,封季札於延陵。甲寅,衛亂,寧喜、孫林父爭權,林父不勝,奔晉。寧喜弒其君剽,晉執寧喜,求衛侯於齊而納之,封林父於宿。齊慶封夷崔杼族而專國。鄭封子產六邑。楚會陳、蔡伐鄭。乙卯,晉用趙武為正卿,是為文子,與韓宣子起、魏武子絳同執國命。會諸侯之大夫於宋。衛殺寧喜。晉、楚、齊、秦同會於宋,從向戌之請,將弭兵也。

壬子年すなわち紀元前五四九年、晉國は夷儀にて十一國の君を會合し、楚國は吳を伐ち、また諸侯を會合して鄭を伐った。癸丑年すなわち紀元前五四八年、齊國は亂を生じ、崔杼は莊公がその妻と私通したに因って國君を殺し、改めて莊公の異母弟の杵臼を立てた。すなわち齊景公で、崔杼は右相を任じ、慶封は左相を任じた。齊國の太史兄弟は直に「崔杼その君を弑す」と書したに因って三人連なりて死した。これは史官の節を守るの著名なる一幕である。同年晉國は高堂にて齊軍を撃敗し、楚國は陳國に會同して鄭を伐ち、竝びに舒鳩を滅した。吳國は楚を伐って失利し、吳王諸樊は陣に亡び、その弟の餘祭が位を繼ぎ、季札を延陵に封じた。甲寅年すなわち紀元前五四七年、衞國は亂を生じ、寧喜と孫林父とは權を爭い、林父は勝たずして晉國に出奔した。寧喜は國君の剽を殺し、晉國は寧喜を拘捕し、また齊國より衞獻公を接還して位に復らせ、林父を宿の地に封じた。齊國の慶封は崔杼の一族を滅して獨り國政を攬ねった。鄭國は六つの城邑を子産に封じた。楚國は陳・蔡に會同して鄭を伐った。乙卯年すなわち紀元前五四六年、晉國は趙武を起用して正卿と為した。すなわち趙文子で、韓起(宣子)・魏絳(武子)と共同して國政を執掌し、晉國の政權は正式に韓・趙・魏の手に落入った。同年宋國にて各國の大夫を會合し、衞國は寧喜を殺した。晉・楚・齊・秦の四大國は同じく宋に會し、宋國の大夫向戌の建議を接受して兵を罷め戰を息めた。これすなわち有名なる「向戌弭兵」で、此後中原は四十餘年少しく大戰あらず。

丙辰,周靈王崩,太子貴嗣位,是謂景王。齊慶封弛政,其子舍及田鮑、高欒之徒逐之。慶封奔魯,又適吳。楚康王卒,世子麋繼,是謂郟敖。丁巳,晉智伯會十國諸侯,入城杞。楚用叔圍為令尹。吳亂,餘祭遇弒,弟餘昧立,季札使魯、齊、鄭、晉。戊午,蔡亂,世子弒其君,代立。鄭亂,群公子爭寵。宋災。晉會諸侯,入於澶淵。己未,魯襄公卒,世子又卒,國人立齊歸之子裯,是謂昭公,季武子專政。庚申,晉趙武會諸侯之大夫於虢。楚亂,令尹圍弒其君麋,代立,是謂靈王。公子比奔晉,薳罷為令尹。辛酉,晉韓宣子起使魯。壬戌,魯昭公朝晉,齊晏嬰使晉,鄭伯朝晉,又朝楚。癸亥,楚會十一國之君於申,執徐子於會,又會七國諸侯,伐吳之朱方,以誅齊慶封。吳拔楚三邑。

丙辰年すなわち紀元前五四五年、周靈王は去世し、太子の貴が位を繼いだ。すなわち周景王である。齊國の慶封は政事に荒れ、その子の慶舍は田氏・鮑氏・高氏・欒氏の諸族と手を聯ねて彼を驅逐し、慶封は先ず魯國に奔り、また轉じて吳國に往いた。楚康王は去世し、太子の麋が位を繼いだ。すなわち楚郟敖である。丁巳年すなわち紀元前五四四年、晉國の智伯は十國の諸侯を會合して杞國の為に城を筑いた。楚國は公子圍を起用して令尹と為した。吳國は亂を生じ、吳王餘祭は弑され、その弟の餘昧が位を繼ぎ、季札は魯・齊・鄭・晉に出使して、魯國にて周樂を觀て列國の風を評し、美談と傳えられた。戊午年すなわち紀元前五四三年、蔡國は亂を生じ、太子は國君を殺して自ら立ち、鄭國は亂を生じて群公子は寵を爭い、宋國は火災が發生し、晉國は諸侯を會合して澶淵に入りて賑を議した。己未年すなわち紀元前五四二年、魯襄公は去世し、その太子は隨即また死し、國人は改めて齊歸の生んだ子の裯を立てた。すなわち魯昭公で、季武子はここから魯政を專斷した。庚申年すなわち紀元前五四一年、晉國の趙武は虢の地にて諸侯の大夫を會合し、楚國は亂を生じ、令尹の公子圍は國君の麋を殺して自ら立ち、すなわち楚靈王で、公子比は晉國に出奔し、薳罷は令尹と為った。辛酉年すなわち紀元前五四〇年、晉國の韓宣子韓起は魯國に出使して、《易象》・《魯春秋》を見て「周禮盡く魯に在り」と歎した。壬戌年すなわち紀元前五三九年、魯昭公は晉國に朝見し、齊國の晏嬰は晉國に出使し、鄭伯は先ず晉に朝し、また楚に朝した。癸亥年すなわち紀元前五三八年、楚國は申の地にて十一國の君を會合し、會上に徐子を拘捕し、また七國の諸侯を會合して吳國の朱方を攻打して、ここに逃亡せる齊國の慶封を誅殺した。吳國は隨即楚國の三つの城邑を攻下した。

經世之申二千二百一十七。甲子,周景王八年,楚會諸侯伐吳。秦景公卒,世子繼,是謂哀公。乙丑,齊北伐燕,楚東伐吳,吳敗楚師於乾溪。丙寅,楚起章華臺。丁卯,楚滅陳,執其公子招,放之於越。戊辰。己巳,晉平公卒,世子夷繼,是謂昭公。齊陳鮑逐欒高氏於魯,分其室。

第二千二百十七世は申世に屬し、紀元前五三七年から前五〇八年に當たる。甲子年すなわち紀元前五三七年は、周景王の在位の第八年で、楚國は諸侯を會合して吳を伐ち、秦景公は去世し、太子が位を繼いだ。すなわち秦哀公である。乙丑年すなわち紀元前五三六年、齊國は北に向かって燕國を討伐し、楚國は東に向かって吳國を討伐し、吳國は乾谿にて楚軍を撃敗した。丙寅年すなわち紀元前五三五年、楚靈王は大いに土木を興して章華臺を修建し、奢を窮め侈を極め、國力はここに由って耗損した。丁卯年すなわち紀元前五三四年、楚國は陳國を滅し、陳國の公子招を捉えて越の地に流放した。己巳年すなわち紀元前五三二年、晉平公は去世し、太子の夷が位を繼いだ。すなわち晉昭公である。齊國の陳氏(田氏)は鮑氏と手を聯ねて欒氏・高氏を魯國に驅逐し、兩家の家產を瓜分し、田氏の坐に大となるの勢はすでに成った。

庚午,晉韓起會齊、宋、魯、衛、鄭、曹、杞之大夫於厥憖。楚誘蔡侯於申,殺之。公子棄疾滅蔡,守之,執其世子有歸用之。辛未,魯朝晉,楚伐徐。壬申,晉昭公會齊、衛、鄭、曹、莒、邾、滕、薛、杞、小邾之君,盟於平丘。魯不得與,執季孫意如以歸。楚公子棄疾殺比代立,是謂平王,釋陳、蔡二君歸國。吳滅州來。癸酉,楚復諸侯侵地,觀從用政。甲戌,晉伐鮮虞。楚費無忌為太子建逆婦於秦。吳餘昧卒,季札逃,國人立餘昧子僚。乙亥,晉昭公卒,子去疾立,是謂頃公。楚誘戎蠻子,殺之。丙子,晉滅陸渾之戎,吳伐楚。丁丑,周鑄大錢。宋、衛、陳、鄭災。楚遷許於白羽。

庚午年すなわち紀元前五三一年、晉國の韓起は厥慭にて齊・宋・魯・衞・鄭・曹・杞の大夫を會合し、楚靈王は蔡侯を誘騙して申の地に致して殺し、公子棄疾は隨即蔡國を滅して竝びにその地に留守し、また蔡國の太子を抓住して人牲に用いて獻祭した。辛未年すなわち紀元前五三〇年、魯國は晉國に朝見し、楚國は徐國を討伐した。壬申年すなわち紀元前五二九年、晉昭公は齊・衞・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君を會合して平丘に會盟し、魯國は排除されて、還って執政の季孫意如を扣押された。同年楚國の公子棄疾は公子比を殺して自ら立ち、すなわち楚平王で、彼は陳・蔡の兩國の君を釋放して國に歸り國を復らせて以って人心を收めた。吳國は州來を滅した。癸酉年すなわち紀元前五二八年、楚國は諸侯より侵佔した土地を歸還し、觀從は政務を執掌した。甲戌年すなわち紀元前五二七年、晉國は鮮虞を討伐し、楚國の費無忌は太子建の替わりに秦國に至って新婦を迎娶したが、卻って平王に勸めて自ら納れしめ、後日の大禍の為に伏筆を埋下した。吳王餘昧は去世し、兄終り弟及びに依れば本應季札に傳うべきなれど、季札は逃避して受けず、國人は改めて餘昧の子の僚を立てた。乙亥年すなわち紀元前五二六年、晉昭公は去世し、その子の去疾が位を繼いだ。すなわち晉頃公である。楚國は戎蠻子を誘殺した。丙子年すなわち紀元前五二五年、晉國は陸渾の戎を滅し、吳國は楚を伐った。丁丑年すなわち紀元前五二四年、周景王は大錢を鑄造し、單穆公は諫むるも聽かず、宋・衞・陳・鄭の四國は同日に火災が發生し、楚國は許國を白羽に遷した。

戊寅,楚用費無忌專政,放太子建於城父。己卯,齊景公與大夫晏嬰入魯問禮。宋有華氏之難,大夫華亥、華定、向寧奔陳。楚世子建自城父奔宋,又適鄭,又適晉。楚殺其傅伍奢及其子尚,伍員奔吳。庚辰,宋華亥、華定、向寧入宋南里,叛。辛巳,周景王崩,葬景王。王室亂,三王子爭國,國人立猛,是謂悼王。王子朝殺猛,代立。晉逐朝而入丐,是謂敬王。宋華亥、華定、向寧奔楚。世子建及晉師襲鄭,不克,死。其子勝奔吳。壬午,召氏、尹氏入王子朝於成周。單子、劉子以王出奔狄泉。楚徙都鄂,囊瓦子常為令尹。吳伐楚,敗陳、蔡、頓、胡、沈之師於雞父,滅胡、沈,獲陳夏□。楚建之子勝啟之也。癸未,楚城郢。吳公子光伐楚,拔巢及鍾離,二子爭桑故也。

戊寅年すなわち紀元前五二三年、楚平王は費無忌を重用して朝政を專斷せしめ、太子建を城父に打發して駐守せしめた。己卯年すなわち紀元前五二二年、齊景公は大夫の晏嬰とともに魯國に至って禮制を請教し、孔子は時に年三十、二人の相見はすなわちこの際である。宋國に華氏の難が發生し、大夫の華亥・華定・向寧は陳國に出奔した。楚太子建は城父より宋國に逃奔し、また轉じて鄭國・晉國に往いた。楚平王は太子の師傅の伍奢およびその長子の伍尚を殺し、次子の伍員すなわち伍子胥は吳國に出奔し、吳楚の數十年の血戰はここに由って發端した。庚辰年すなわち紀元前五二一年、宋國の華亥・華定・向寧は南里に占據して反逆した。辛巳年すなわち紀元前五二〇年、周景王は去世して竝びに下葬し、王室は大いに亂れ、三位の王子が君位を爭奪し、國人は王子猛を擁立した。すなわち周悼王である。王子朝は猛を殺して自ら立ち、晉國は兵を出して王子朝を驅逐し、王子丐を送って朝に入らしめた。すなわち周敬王である。宋國の華亥らは楚國に出奔した。楚太子建は晉軍と密謀して鄭國を襲取せんとして、事敗れて殺され、その子の白公勝は吳國に出奔した。壬午年すなわち紀元前五一九年、召氏・尹氏は王子朝を成周に送り入れ、單子・劉子は敬王を保って狄泉に出奔した。楚國は鄂に遷都し、囊瓦の子常は令尹と為った。吳國は楚を伐って鷄父にて陳・蔡・頓・胡・沈の五國聯軍を撃敗し、胡・沈の兩國を滅し、陳國の大夫夏某を俘獲した。底本はこの處に一字を缺く。指す所はまさに陳大夫夏齧であるべし。この一仗は楚太子建の子の勝が吳國の為に路を引いて促成したものである。癸未年すなわち紀元前五一八年、楚國は郢都の城墻を修筑し、吳國の公子光は楚を伐って巢邑と鍾離を攻下した。起因は不過吳楚の邊邑の兩家の女子が桑葉を採るを爭うの小事である。

甲申,魯有三桓之難,昭公奔齊。齊景公唁之於野井。晉趙鞅會宋、魯、衛、曹、邾、滕、薛、小邾之人於冀父。乙酉,晉趙鞅會諸侯之師,入王於成周。召、尹二氏之族以王子朝奔楚。楚平王卒,世子珍繼,是謂昭王。丙戌,晉韓、趙、魏三家大滅公族祁氏、羊舌氏,分其地。楚令尹子常誅費無忌。吳季札使晉,公子光弒其君僚代立,是謂闔廬,專諸、伍員為相。丁亥,魯昭公自鄆如晉,次於乾侯。楚大夫伯嚭奔吳。戊子。己丑,晉頃公卒,世子午繼,是謂定公。吳滅徐,以侵楚。庚寅,晉定公使大夫荀躒納魯昭公,不克。吳伐楚,拔舒。辛卯,晉韓不信會齊、宋、魯、曹、鄭、莒、薛、杞、小邾之師,城成周。魯昭公卒於乾侯,三桓立其弟宋,是謂定公。吳伐越。壬辰,晉人執宋仲幾於京師。楚令尹子常敗吳師於豫章。癸巳,吳敗楚師於豫章。

甲申年すなわち紀元前五一七年、魯國に三桓の難が發生し、昭公は季氏を討伐して失敗して齊國に出奔し、齊景公は野井にて彼を慰問した。孔子もまたこの年齊に適いた。晉國の趙鞅は冀父にて宋・魯・衞・曹・邾・滕・薛・小邾の諸國の人を會合した。乙酉年すなわち紀元前五一六年、趙鞅は諸侯の師を會合して周敬王を成周に送り入れ、召氏・尹氏の兩族は王子朝を帶いて楚國に出奔し、王子朝の亂は始めて平らいだ。楚平王は去世し、太子の珍が位を繼いだ。すなわち楚昭王である。丙戌年すなわち紀元前五一五年、晉國の韓・趙・魏の三家は大いに擧げて公族の祁氏・羊舌氏を翦滅して竝びにその地を瓜分し、三家が晉を分つの形勢はすでに顯露した。楚國の令尹子常は費無忌を誅殺して以って國人に謝した。吳國の季札は晉國に出使し、公子光は機に乘じて專諸を派して國君の僚を刺殺して自ら立ち、すなわち吳王闔廬で、專諸の弟と伍子胥とをもって輔佐と為した。丁亥年すなわち紀元前五一四年、魯昭公は鄆の地より晉國に前往し、暫く乾侯に居た。楚國の大夫伯嚭は吳國に出奔した。己丑年すなわち紀元前五一二年、晉頃公は去世し、太子の午が位を繼いだ。すなわち晉定公である。吳國は徐國を滅して、以って楚を侵した。庚寅年すなわち紀元前五一一年、晉定公は大夫の荀躒を派して魯昭公を送って國に歸らしめんとしたが成功せず。吳國は楚を伐って舒邑を攻下した。辛卯年すなわち紀元前五一〇年、晉國の韓不信は齊・宋・魯・曹・鄭・莒・薛・杞・小邾の師を會合して周室の為に成周城を修筑した。魯昭公は乾侯に客死し、三桓は別にその弟の宋を立てて君と為した。すなわち魯定公である。吳國は始めて越を伐った。壬辰年すなわち紀元前五〇九年、晉人は京師にて宋國の仲幾を拘捕し、楚國の令尹子常は豫章にて吳軍を撃敗した。癸巳年すなわち紀元前五〇八年、吳國は反って豫章にて楚軍を撃敗した。

經世之酉二千二百一十八。甲午,周敬王十三年。乙未,晉定公會劉、子、宋、蔡、魯、衛、陳、鄭、許、曹、莒、邾、頓、胡、滕、薛、杞、小邾之君及齊大夫於召陵,以伐楚。楚昭公北伐蔡,吳師入郢,令尹子常奔鄭,昭王奔鄖,又奔隨,使申包胥求救於秦。許徙君容城。吳子闔廬敗楚師於柏舉,五戰及郢,遂入其國,燒其宮,平其墓。伍子胥為之也。丙申,魯陽貨囚季氏,秦救楚,敗吳師於稷。楚昭王自鄖復歸於郢,封吳夫概於堂溪。越乘虛破吳,入其國。吳王弟夫概自堂溪亡歸,代立。闔廬逐夫概,夫概奔楚。丁酉,周有儋翩之難,王出居姑蕕。楚去郢,復都鄀。鄭滅許。

第二千二百十八世は酉世に屬し、紀元前五〇七年から前四七八年に當たる。甲午年すなわち紀元前五〇七年は、周敬王の在位の第十三年。乙未年すなわち紀元前五〇六年、晉定公は召陵にて劉子・宋・蔡・魯・衞・陳・鄭・許・曹・莒・邾・頓・胡・滕・薛・杞・小邾の諸國の君および齊國の大夫を會合して、共に楚を伐つを謀った。楚昭王——底本は「昭公」と作る——は北上して蔡を伐ち、吳軍は虚に乘じて直に楚都を搗き、令尹子常は鄭國に出奔し、昭王は先ず鄖に逃れ、また隨に逃れ、申包胥を派して秦國に往き救いを求めしめ、申包胥は秦廷にて七日七夜哭いた。許國は國君を容城に遷した。吳王闔廬は柏舉にて楚軍を大敗し、五戰五捷して直に郢都に抵り、楚國の國都に攻入って宮室を焚燒し墳墓を掘平げた。これら一切は伍子胥が父兄の仇を報ずる為に促成したものである。丙申年すなわち紀元前五〇五年、魯國の陽貨は季氏を囚禁し、秦國は兵を出して楚を救い、稷の地にて吳軍を撃敗した。楚昭王は鄖の地より郢都に回り、吳王の弟の夫槪を堂谿に封じた。越國は呉國の空虚に乘じてその國に攻入り、吳王の弟の夫槪は堂谿より逃歸して自ら立ち、闔廬は師を回して驅逐し、夫槪は楚國に出奔した。丁酉年すなわち紀元前五〇四年、周王室に儋翩の難が發生し、敬王は姑莸に出居し、楚國は殘破した郢都を離れて、改めて鄀をもって都と為し、鄭國は許國を滅した。

戊戌,晉師入周敬王於成周。齊取鄆,為陽虎邑。己亥,魯有陽虎之難,攻三桓,不克,竊寶玉、大弓走陽關。庚子,秦哀公卒,子惠公繼。辛丑,魯以孔丘為司寇,從定公會齊景公於夾谷。齊復魯侵地。晏嬰在會。壬寅,宋公之弟辰及大夫仲陀、石彄、公子地自陳入於蕭,以叛。鄭子產卒。癸卯,孔子去魯適衛。

戊戌年すなわち紀元前五〇三年、晉軍は周敬王を成周に送回し、齊國は鄆邑を奪取して、魯國の叛臣陽虎の封邑と為した。己亥年すなわち紀元前五〇二年、魯國に陽虎の難が發生し、陽虎は季孫・叔孫・孟孫の三家を攻打して得手せず、國寶の玉璧と大弓を盜んで陽關に逃れた。庚子年すなわち紀元前五〇一年、秦哀公は去世し、その子の惠公が位を繼いだ。辛丑年すなわち紀元前五〇〇年、魯國は孔丘を任命して司寇と為し、孔子は魯定公に隨って夾谷にて齊景公と會盟し、禮をもって齊人を折服し、齊國は從前侵佔した魯國の土地を歸還し、晏嬰もまたこの次の會盟に參與した。壬寅年すなわち紀元前四九九年、宋景公の弟の公子辰および大夫の仲陀・石彄・公子地は陳國より蕭邑に入りて反逆した。鄭國の名相子産は去世し、孔子は聞を訊いて彼を「古の遺愛」と歎した。癸卯年すなわち紀元前四九八年、孔子は三都を墮するに受挫した後に魯國を離れて衞國に前往し、十四年の列國周遊はここから始まる。

甲辰,魯孔子在衛。晉六卿相攻。乙巳,衛世子蒯聵奔宋。魯孔子自衛之宋,又如陳。楚會吳伐陳,滅頓。吳王闔廬伐越不利,死,子夫差立,以伯嚭為太宰。是年,于越勾踐敗吳師於槜李,稱王於會稽。丙午,魯定公卒,子蔣繼,是謂哀公。楚滅胡。丁未,晉趙鞅圍範、中行氏於朝歌,中行走邯鄲。楚會陳、隨、許圍蔡。吳敗越於夫椒,伏而釋之。越王勾踐伐吳,不利,使大夫文種行成,委質以臣妾,遂棲於會稽。

甲辰年すなわち紀元前四九七年、孔子は衞國に在り、晉國の六卿は互いに攻伐して、公室は名存實亡した。乙巳年すなわち紀元前四九六年、衞國の太子蒯聵は南子を謀殺せんとして事敗れて宋國に出奔し、孔子は衞國より宋國に至り、また轉じて陳國に往いた。楚國は吳國に會同して陳を伐ち、頓國を滅した。吳王闔廬は越を伐って失利して箭に中って死し、その子の夫差が位を繼ぎ、伯嚭を任用して太宰と為した。この年越王句踐は檇李にて吳軍を撃敗し、會稽にて王と稱し、吳越が霸を爭うの大幕はここに由って拉開された。丙午年すなわち紀元前四九五年、魯定公は去世し、その子の蔣が位を繼いだ。すなわち魯哀公である。楚國は胡國を滅した。丁未年すなわち紀元前四九四年、晉國の趙鞅は朝歌にて范氏・中行氏を圍困し、中行氏は邯鄲に敗走した。楚國は陳・隨・許に會同して蔡國を圍困した。吳王夫差は夫椒にて越軍を大敗し、一擧に父の仇を報じたが、卻って伯嚭の言を聽信して隱忍して誅せずして句踐を放過した。越王句踐は反攻して失利し、大夫の文種を派して講和を為し、甘んじて臣妾の禮をもって身を委ねて吳に事え、會稽山に退守し、臥薪嘗膽の故事はすなわちここより始まる。

戊申,衛靈公卒,其孫輒立。晉趙鞅會陽虎,以師入衛世子蒯聵,不克,居之於戚城。魯孔子復過宋。楚伐蔡,吳徙蔡於州來。放越范蠡歸國。己酉,秦惠公卒,子悼公繼。魯孔子在陳。庚戌,魯孔子之蔡。辛亥,齊伐宋,晉伐衛。齊景公卒,子荼繼,是謂孺子。晉韓、趙、魏敗範、中行氏於邯鄲。壬子,齊亂,田乞弒其君孺子,迎公子陽生於魯而立之,是謂悼公。高昭子死國,惠子奔莒。魯孔子復至陳。楚昭王救陳,軍於城父,卒於師。世子章繼,是謂惠王。吳伐陳,魯伐邾,宋伐曹。

戊申年すなわち紀元前四九三年、衞靈公は去世し、太子蒯聵が外に在るに因り、その孫の輒に由って位を繼がれた。すなわち衞出公で、父子が國を爭うの禍はここから結ばれた。晉國の趙鞅は陽虎を會合して、兵を帶いて蒯聵を送って衞に歸らんとして成功せず、止むを得ず彼を戚城に安置した。孔子は再度宋國を路過して、大樹の下に禮を習って桓魋の加害に遭った。楚國は蔡を伐ち、吳國は蔡國を州來に遷し、越國の范蠡は本國に放歸された。己酉年すなわち紀元前四九二年、秦惠公は去世し、その子の悼公が位を繼いだ。孔子は陳國に在り。庚戌年すなわち紀元前四九一年、孔子は蔡國に前往した。辛亥年すなわち紀元前四九〇年、齊國は宋を伐ち、晉國は衞を伐った。齊景公は去世し、その子の荼が位を繼いだ。すなわち齊孺子である。晉國の韓・趙・魏の三家は邯鄲にて范氏・中行氏を撃敗した。壬子年すなわち紀元前四八九年、齊國は亂を生じ、田乞は國君の孺子を殺して、魯國より公子陽生を迎還して立てて君と為した。すなわち齊悼公で、田氏が齊を專らにするの勢はすでに定まった。高昭子は國の為に死し、惠子は莒國に出奔した。孔子はまた陳國に回って、陳蔡の間に糧を絶つもまたこの前後である。楚昭王は兵を出して陳を救い、軍を城父に駐して、軍中に死し、太子の章が位を繼いだ。すなわち楚惠王である。吳國は陳を伐ち、魯國は邾を伐ち、宋國は曹を伐った。

癸丑,吳會魯於鄫,以伐齊,徵百牢於魯。甲寅,宋滅曹。楚令尹子西召平王世子建之子勝於吳,以為巢大夫,號白公。吳伐魯,盟於城下而還。乙卯,宋伐鄭,楚伐陳,吳伐齊。丙辰,齊田乞卒,子常繼事,是謂成子。齊亂,鮑子弒其君悼公,立其子壬,是謂簡公。田常專國。魯孔子自陳復至於衛。楚伐陳。吳會魯伐齊以救陳,殺大夫伍員。丁巳,孔子自衛返魯,子貢使齊及吳、越、晉。齊伐魯,吳救魯,敗齊師於艾陵。越朝吳。

癸丑年すなわち紀元前四八八年、吳國は魯國と鄫の地に相會して、共に齊を伐つを謀り、竝びに魯國に百牢の禮を索取した。禮なきこと甚しとし、子貢は嘗て周禮に據って力爭した。甲寅年すなわち紀元前四八七年、宋國は曹國を滅した。楚國の令尹子西は楚平王の孫・太子建の子の勝を吳國より召回し、任じて巢邑の大夫と為し、號して白公と稱す。禍根を迎え門に入れたに等しい。吳國は魯を伐ち、兵は城下に臨んで盟を訂して還った。乙卯年すなわち紀元前四八六年、宋國は鄭を伐ち、楚國は陳を伐ち、吳國は齊を伐った。丙辰年すなわち紀元前四八五年、齊國の田乞は去世し、その子の田常はその事を接掌した。すなわち田成子である。齊國は亂を生じ、鮑氏は國君の悼公を殺して、別にその子の壬を立てた。すなわち齊簡公で、田常はここから齊政を獨攬した。孔子は陳國より衞國に重回った。楚國は陳を伐ち、吳國は魯國に會同して齊を伐って以って陳を救い、夫差はこの年兵を罷めんことを力諫した大夫の伍員すなわち伍子胥を賜死した。丁巳年すなわち紀元前四八四年、孔子は十四年の周遊を結束して、衞國より魯國に返回し、此後《詩》・《書》を刪し、禮樂を訂し、《周易》を序し、《春秋》を修した。その弟子の子貢は齊・吳・越・晉に出使して、縱橫に游説して以って魯を存した。同年齊國は魯を伐ち、吳國は兵を出して魯を救い、艾陵にて齊軍を大敗した。越王句踐は自ら吳王に朝見したが、暗中に卻って吳を滅すの力を積蓄していた。

戊午 楚白公勝復奔吳,子西復召之。吳會魯、衛之君於橐皋,移兵攻晉。 己未 晉定公及諸侯會吳夫差於黃池。越伐吳,入其郛,執其世子友而還。 庚申 魯西狩獲麟。齊田常殺相闞止,及弒其君簡公於舒州,立其弟驁,是謂平公,割安平以東,自為封邑。孔子請討,不克。秦悼公卒,子厲公繼。晉伐鄭。宋桓魋出奔衛,又奔齊。楚巢大夫白公勝殺令尹子西,逐其君,代立。

戊午年、約當紀元前四八三年、時に春秋の末世に當たる。白公勝は楚國の害せられた太子建の子・楚平王の孫で、早年に外に流亡し、この年また吳國に逃奔した。楚國の執政する令尹子西(楚平王の子・楚昭王の兄)は再度彼を召回して、呉と接壤する巢邑に安置した。同年呉王夫差は橐皋(今の安徽巢湖の一帶)にて魯哀公と衞出公に會見し、隨後兵鋒を掉轉して北上して晉を攻めた。己未年(紀元前四八二年)、晉定公は中原の諸侯と黄池(今の河南封丘)にて呉王夫差と會盟して霸を爭い、越王句踐は呉國の精兵の盡く出たに乘じて、兵を發して呉を伐ち、呉都の外城に攻入り、呉國の太子友を俘獲して後に撤軍した。庚申年(紀元前四八一年)、魯國は都城の西に於て狩獵して麒麟を捕得し、《春秋》の記事はここに至って絶え、後世は「麟を獲て筆を絶つ」と稱す。齊國の大夫田常(陳成子)は國政を同じく掌る監止を殺し、また舒州にて齊簡公を弑殺して、改めて簡公の弟の驁を立てて君と為した。すなわち齊平公で、竝びに安平以東の土地を劃り出して己の封邑と為して、田氏が齊を專らにするの勢はここから確立した。孔子は聞いて魯國の兵を出して討伐せんことを請うたが、採納されず。秦悼公は去世し、その子の厲公が位を繼いだ。晉國は鄭を伐った。宋國の大夫桓魋は衞國に出奔し、また轉じて齊國に奔った。楚國の巢邑大夫白公勝は兵を起こして亂を作して、令尹子西を殺し、楚惠王を驅逐して自ら立った。

辛酉 魯使子服景伯使齊,子貢為介。齊歸魯侵地。衛世子蒯聵自戚入,是謂莊公,輒出奔魯。楚葉公以兵入,誅白公,而迎章復位,滅陳而縣之。 壬戌 魯孔子卒。 癸亥 晉伐衛,莊公出奔,國人立公子班師。齊伐衛,執班師而立公子起。越敗吳師於笠澤。

辛酉年(紀元前四八〇年)、魯國は大夫の子服景伯を派して齊國に出使せしめ、孔子の弟子の子貢は副使と為って隨行し、辯辭に凭って齊國をして先前侵佔した魯地を退還せしめた。衞國の外に流亡せる世子蒯聵は戚邑より潛かに回って位を奪い、すなわち衞莊公で、その兒子の衞出公輒は魯國に出奔した。衞國の父子が位を爭うこと十餘年、ここに至って形勢翻轉した。楚國の葉公沈諸梁は兵を率いて郢に入りて亂を平を平ぎ、亂を作した白公勝を誅殺し、楚惠王熊章を迎えて位に復らせた。楚國はまた陳國を滅して、陳地を改めて楚國の縣と設けた。壬戌年(紀元前四七九年)、魯國の孔子は去世し、年七十三。癸亥年(紀元前四七八年)、晉國は衞を伐ち、衞莊公は出逃し、衞人は別に公子班師を立てた。齊國は接いで衞を伐って、班師を抓え去って改めて公子起を立てた。越王句踐は笠澤(今の江蘇吳江の一帶)にて吳軍を大敗し、吳國はここから蹶として振るわず。

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