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經星之戊一百七十五

宋 · 邵雍 · 第9巻 / 39

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

經星之戊一百七十五。經星之己一百七十六。經星之庚一百七十七。經星之辛一百七十八。經星之壬一百七十九。

この五行は《以會經運》の表の中の第一百七十五運から第一百七十九運までの運題である。「經星」は「運」の代號である。邵雍は一「元」を十二「會」に分かち、一會を三十「運」に分かち、一運を十二「世」に分かち、一世三十年。ゆえに一運はちょうど三百六十年である。運題は天干の輪轉に加うるに全書連排の序號をもってし、「經星之戊一百七十五」はすなわち第一百七十五運、下って己は第一百七十六運、庚は第一百七十七運、辛は第一百七十八運、壬は第一百七十九運である。この五運は同じく第六會すなわち「巳會」に屬し、西元紀年に折れば、およそ紀元前四三七七年から紀元前二五七八年までのこの一千八百年に當たる。表中はただ運の名號を標し出し、下には世を排せず年を排せず、また一條の史事をも繫げない。邵雍の編年に按れば、この一段はなお人文未だ開かず稽うべき史なき階段にあるので、まず格子を留白しておき、後に史料あってからその中に塡め込むを待つためである。

觀物篇十四 以會經運二

經星之癸一百八十

觀物篇十四,以會經運二。經日之甲一,經月之巳六。經星之癸一百八十。經辰之子二千一百四十九:甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉、甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未、甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。經辰之丑二千一百五十:甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯、甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑、甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。

《觀物篇》第十四篇は「以會經運」の第二篇に屬する。冒頭の三行はこの一段の編年表の座標である。「經日之甲一」は第一元を指し、元は天干をもって目を標し、甲は首に居るので甲一と稱す。「經月之巳六」はこの一元の第六會すなわち巳會を指し、「經星之癸一百八十」は第一百八十運を指し、それは巳會の轄する三十運の中の最後の一運である。一運は十二世を統べ、一世三十年。ゆえに第一百八十運は合わせて三百六十年で、西元紀年に折れば紀元前二五七七年から紀元前二二一八年である。運の下は十二地支に按って十二世に分かれ、每世に別に全書連排の總號がある。子世は第二千百四十九世、丑世は第二千百五十世で、順に數えて亥世はすなわち第二千百六十世である。第二千百四十九世は甲子年から起こり、一年一位に順に排して三十年して癸巳年に至り、紀元前二五七七年から前二五四八年に當たる。第二千百五十世は甲午年から起こり、順に排して三十年して癸亥年に至り、紀元前二五四七年から前二五一八年に當たる。これら兩世はただ干支の紀年を列するのみで、年の下には一字も繫げず、邵雍が以ってこの時はなお考うべき史事なく編入するに足らざるとすを表す。

經辰之寅二千一百五十一:甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉、甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未、甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。經辰之卯二千一百五十二:甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯、甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑、甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。經辰之辰二千一百五十三:甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉、甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未、甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。

續いて第一百八十運の下の第三・第四・第五世を排す。寅世は第二千百五十一世で、甲子年から癸巳年まで、紀元前二五一七年から前二四八八年に當たる。卯世は第二千百五十二世で、甲午年から癸亥年まで、紀元前二四八七年から前二四五八年に當たる。辰世は第二千百五十三世で、甲子年から癸巳年まで、紀元前二四五七年から前二四二八年に當たる。一世はちょうど三十年で、ちょうど六十甲子の半なので、世ごとの起首の干支は便ち甲子と甲午との間で交替する。奇數の世は甲子に起こり癸巳に止まり、偶數の世は甲午に起こり癸亥に止まり、兩世相まってちょうど一つの六十年甲子周期を走り終える。この三世は同じく干支の紀年のみで、年の下に人事を載せない。この三世は合わせて九十の年位で、下って唐堯が命を受けた甲辰年を距つことなお七十餘年ある。邵雍の見る所では、伏羲・神農・黄帝は傳説あれども年月は考實する由なし。臆度するに如かず留白するを善しとし、ゆえに年格は照のごとく排して事迹は全く闕く。

經辰之巳二千一百五十四:甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯、甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑、甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。經辰之午二千一百五十五:甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉、甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未、甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。經辰之未二千一百五十六:甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯、甲辰,唐堯。乙巳二、丙午三、丁未四、戊申五、己酉六、庚戌七、辛亥八、壬子九、癸丑十、甲寅十一、乙卯十二、丙辰十三、丁巳十四、戊午十五、己未十六、庚申十七、辛酉十八、壬戌十九、癸亥二十。

この三世は第一百八十運の第六・第七・第八世である。巳世は第二千百五十四世で、甲午から癸亥まで、紀元前二四二七年から前二三九八年に當たる。午世は第二千百五十五世で、甲子から癸巳まで、紀元前二三九七年から前二三六八年に當たる。未世は第二千百五十六世で、甲午から癸亥まで、紀元前二三六七年から前二三三八年に當たる。前の兩世は依然として干支を空排する。未世の第十一年甲辰に至って、表中に頭一囘帝號の「唐堯」が現れる。この甲辰年はすなわち邵雍の定めた堯の元年で、すなわち紀元前二三五七年であり、また《皇極經世》の整部の編年史が眞に筆を下ろす起點である。この年から、干支の下には在位年數の注を加え始める。乙巳は堯の二年、丙午は三年で、一路數えてその世の末尾の癸亥に至り、正に堯の二十年で、紀元前二三三八年に當たる。この後およそ帝王の更代は皆この辦法に照って干支の旁に新君の名號を標し、「一」から重ねて起算する。また見るべきは、未世の前の十格は甲午から癸卯までなお空しいことで、唐堯の名號は第十一格に至ってはじめて現れる。この十年は正に邵雍が堯の受命以前のために留めた餘地である。甲辰より以下、全書はようやく虛排の年數より名あり事ある編年に轉ずる。

經辰之申二千一百五十七:甲子二十一、乙丑二十二、丙寅二十三、丁卯二十四、戊辰二十五、己巳二十六、庚午二十七、辛未二十八、壬申二十九、癸酉三十、甲戌三十一、乙亥三十二、丙子三十三、丁丑三十四、戊寅三十五、己卯三十六、庚辰三十七、辛巳三十八、壬午三十九、癸未四十、甲申四十一、乙酉四十二、丙戌四十三、丁亥四十四、戊子四十五、己丑四十六、庚寅四十七、辛卯四十八、壬辰四十九、癸巳五十。

申世は第一百八十運の第九世で、全書の總號は第二千百五十七世、甲子年から癸巳年まで、紀元前二三三七年から前二三〇八年に當たる。この三十年は整々と唐堯の一朝の內に落つ。起首の甲子年は堯の二十一年で、年ごとに遞進して、收尾の癸巳年は堯の五十年である。この一世は何の史事も繫げず、ただ在位年數を一格一格に排し滿たすのみで、正に邵雍が表を編んだ體例を見出す。すなわち記すべき事なしとも、年位は空缺してはならない。世と年の格數は元會運世の數理に由って定め死して、必ず首尾相接して一年も差えざるを要するからである。西元紀年に折れば、起首の甲子は紀元前二三三七年に當たり、收尾の癸巳は紀元前二三〇八年に當たる。《尚書・堯典》に記する羲和に命じて四時を分掌せしめ、四仲の中星をもって春夏秋冬を定め、三百有六旬有六日を期して閏月をもって四時を定めたる諸事は、大抵皆堯の前五十年の內にあるが、この表は一概に書かず、ただ年位を留めるのみである。

經辰之酉二千一百五十八:甲午五十一、乙未五十二、丙申五十三、丁酉五十四、戊戌五十五、己亥五十六、庚子五十七、辛丑五十八、壬寅五十九、癸卯六十、甲辰六十一,洪水方割,命鯀治之。乙巳六十二、丙午六十三、丁未六十四、戊申六十五、己酉六十六、庚戌六十七、辛亥六十八、壬子六十九、癸丑七十,徵舜登庸。甲寅七十一、乙卯七十二,薦舜於天命之位。丙辰一,虞舜。正月上日,舜受命於文祖。丁巳二、戊午三、己未四、庚申五、辛酉六、壬戌七、癸亥八。

酉世は第二千百五十八世で、甲午から癸亥まで、紀元前二三〇七年から前二二七八年に當たり、唐虞の交替の關鍵の一世である。甲午は堯の五十一年。甲辰のこの年に至り、すなわち堯の六十一年・紀元前二二九七年に、第一條の史事を繫げる。「洪水方に割く」は《尚書・堯典》に出で、滔々たる洪水がまさに天下を害せんとするを説き、堯は因りて鯀に命じて水を治めしむ。癸丑は堯の七十年、すなわち紀元前二二八八年で、堯は詔を下して賢才を訪求し、虞舜を徵して出でて事に任ぜしむ。乙卯は堯の七十二年、すなわち紀元前二二八六年で、堯は正式に舜を上天に薦め、彼をして天子の位に居攝せしむ。次年の丙辰、帝號は「虞舜」と題し改め、年數は一より起算して、この年は紀元前二二八五年である。「正月上日、舜は文祖に受命す」もまた《尚書・舜典》の原話を用い、正月初一に舜が堯の太祖の廟にて冊命を受けたを言う。この後丁巳は舜の二年で、順に排して癸亥は舜の八年である。堯・舜の兩つの紀年は丙辰のこの一格の上で交接し、堯は依然として世に在りて舜はすでに元を改めた。邵雍が攝政受命の年に按って新紀元を立てたことを見るべし。

經辰之戌二千一百五十九:甲子九、乙丑十、丙寅十一、丁卯十二、戊辰十三、己巳十四、庚午十五、辛未十六、壬申十七、癸酉十八、甲戌十九、乙亥二十、丙子二十一、丁丑二十二、戊寅二十三、己卯二十四、庚辰二十五、辛巳二十六、壬午二十七、癸未二十八,帝堯殂落。甲申二十九、乙酉三十、丙戌三十一,月正元日,舜格於文祖。丁亥三十二、戊子三十三、己丑三十四、庚寅三十五、辛卯三十六、壬辰三十七、癸巳三十八。

戌世は第二千百五十九世で、甲子から癸巳まで、紀元前二二七七年から前二二四八年に當たり、全く虞舜の紀年の內にある。起首の甲子は舜の九年。癸未は舜の二十八年、すなわち紀元前二二五八年で、「帝堯殂落す」と注す。語は《尚書・舜典》の「二十有八載、帝乃ち殂落す」に出で、舜が攝政の第二十八年に上帝堯が去世したを説く。三年の喪すでに畢わり、丙戌すなわち舜の三十一年・紀元前二二五五年に至り、また「月正元日、舜は文祖に格す」と繫げる。これも《舜典》の原文で、正月初一に舜が太祖の廟に至って告祭するを指し、ここから攝政より轉じて正式に天子の位に即く。この後丁亥は舜の三十二年で、一路排して癸巳は舜の三十八年。この一世は堯の崩・舜の正位という二件の大事を干支の格の中に嵌め、正に邵雍が人に見せんとする所である。史事は零散に排比するのではなく、元會運世に算定された年位の上に安頓されているのである。

經辰之亥二千一百六十:甲午三十九、乙未四十、丙申四十一、丁酉四十二、戊戌四十三、己亥四十四、庚子四十五、辛丑四十六、壬寅四十七、癸卯四十八、甲辰四十九、乙巳五十、丙午五十一、丁未五十二、戊申五十三、己酉五十四、庚戌五十五、辛亥五十六、壬子五十七、癸丑五十八、甲寅五十九、乙卯六十、丙辰六十一,薦禹於天命之位。丁巳,夏禹。正月朔旦,受命於神宗。戊午二、己未三、庚申四、辛酉五、壬戌六、癸亥七。

亥世は第二千百六十世で、また第一百八十運の末の一世、甲午から癸亥まで、紀元前二二四七年から前二二一八年に當たる。起首の甲午は舜の三十九年。丙辰は舜の六十一年、すなわち紀元前二二二五年で、「禹を天命の位に薦む」と注し、舜が當年堯が己に待った辦法を倣い、大禹を上天に推擧して、禹をして居攝せしめたを説く。次年の丁巳に「夏禹」と題し改め、禹の元年、すなわち紀元前二二二四年とす。「正月朔旦、神宗に受命す」は《尚書・大禹謨》の原話を用い、正月初一に禹が舜の祖廟で冊命を受けたを指す。以下戊午は禹の二年で、順に排して癸亥は禹の七年、第一百八十運はここに至って三百六十年を排し滿たす。この一運を走り終えれば、第六會「巳會」の三十運もまた頭に到り、次の一篇は便ち第七會すなわち午會の頭の一運に轉入する。

觀物篇十五 以會經運三

經星之甲一百八十一

觀物篇十五,以會經運三。經日之甲一,經月之午七。經星之甲一百八十一。經辰之子二千一百六十一:甲子八、乙丑九、丙寅十、丁卯十一、戊辰十二、己巳十三、庚午十四、辛未十五、壬申十六、癸酉十七,舜陟方乃死。甲戌十八、乙亥十九、丙子二十、丁丑二十一、戊寅二十二、己卯二十三、庚辰二十四、辛巳二十五、壬午二十六、癸未二十七,東巡至於會稽崩。甲申,夏啟。乙酉二、丙戌三、丁亥四、戊子五、己丑六、庚寅七、辛卯八、壬辰九、癸巳,夏太康。

《觀物篇》第十五篇は「以會經運」の第三篇である。座標は依然として第一元だが、會はすでに巳會より「經月之午七」すなわち第七會の午會に推進した。「經星之甲一百八十一」は第一百八十一運で、ちょうど午會三十運の頭の一運、管轄する十二世は編號第二千百六十一から第二千百七十二世まで、合わせて三百六十年、紀元前二二一七年から前一八五八年に當たる。子世はすなわち第二千百六十一世、甲子から癸巳まで、紀元前二二一七年から前二一八八年に當たり、起首の甲子は夏禹八年。癸酉は禹の十七年・紀元前二二〇八年で、「舜は方に陟りて乃ち死す」と注し、《尚書・舜典》の原話を用い、虞舜が南巡の途中に去世したを説く。癸未は禹の十七年の後の第十年、すなわち禹の二十七年・紀元前二一九八年で、禹が諸侯を東巡して會稽に至って崩じた。次年の甲申に「夏啓」と題し改め、啓の元年、すなわち紀元前二一九七年とし、禹の子の啓が位を繼ぎ、世襲の局はここから開く。乙酉は啓の二年で、順に排して壬辰は啓の九年。世末の癸巳にまた「夏太康」と題し改め、太康の元年、すなわち紀元前二一八年とす。

經辰之丑二千一百六十二:甲午二、乙未三、丙申四、丁酉五、戊戌六、己亥七、庚子八、辛丑九、壬寅十、癸卯十一、甲辰十二、乙巳十三、丙午十四、丁未十五、戊申十六、己酉十七、庚戌十八、辛亥十九、壬子二十、癸丑二十一、甲寅二十二、乙卯二十三、丙辰二十四、丁巳二十五、戊午二十六、己未二十七、庚申二十八、辛酉二十九,太康失邦,有窮后羿拒於河而死。壬戌,夏仲康。癸亥二。

丑世は第二千百六十二世で、甲午から癸亥まで、紀元前二一八七年から前二一五八年に當たり、起首の甲午は夏太康二年。辛酉は太康二十九年、すなわち紀元前二一六〇年で、一條の大事を繫げる。太康が國家を失い、有窮氏の首領后羿が黄河の邊で彼を遮りて歸國を許さず、太康はここに外で死した。これすなわち《左傳》《史記》に記する「太康失國」で、夏朝は國を開きて久しからずして東夷の有窮氏に政柄を奪われた。次年の壬戌に「夏仲康」と題し改め、仲康の元年、すなわち紀元前二一五九年とし、羿は別に太康の弟の仲康を傀儡の君として立てた。癸亥は仲康二年で、この世は終わり告げる。羿は夏民に因って夏政に代わり、史に「后羿代夏」と稱し、夏室の天命はここから四十年懸空した。

經辰之寅二千一百六十三:甲子三、乙丑四、丙寅五、丁卯六、戊辰七、己巳八、庚午九、辛未十、壬申十一、癸酉十二、甲戌十三、乙亥,夏相。丙子二、丁丑三、戊寅四、己卯五、庚辰六、辛巳七、壬午八、癸未九、甲申十、乙酉十一、丙戌十二、丁亥十三、戊子十四、己丑十五、庚寅十六、辛卯十七、壬辰十八、癸巳十九。

寅世は第二千百六十三世で、甲子から癸巳まで、紀元前二一五七年から前二一二八年に當たり、起首の甲子は夏仲康三年。甲戌は仲康十三年、すなわち紀元前二一四七年で、仲康の在位はここに至って止まる。次年の乙亥に「夏相」と題し改め、相の元年、すなわち紀元前二一四六年とし、仲康の子の相が繼いで立つが、實際には依然として同姓の諸侯の斟灌・斟鄩の間に寄居する流亡の君である。この後丙子は相の二年で、年ごとに順に排して癸巳は相の十九年。この一世は他の史事を繫げず、ただ夏室が權を失った後の年位を一格一格接ぎ下るのみ。

經辰之卯二千一百六十四:甲午二十、乙未二十一、丙申二十二、丁酉二十三、戊戌二十四、己亥二十五、庚子二十六、辛丑二十七、壬寅二十八,寒浞殺有窮后羿,代立。使子澆及豷伐斟灌、斟鄩氏,滅相,封澆於過,封豷於戈。相之臣靡逃於有鬲氏,相之後緡還於有仍氏。始生少康。癸卯,夏少康始生。甲辰二、乙巳三、丙午四、丁未五、戊申六、己酉七、庚戌八、辛亥九、壬子十、癸丑十一、甲寅十二、乙卯十三、丙辰十四、丁巳十五、戊午十六、己未十七、庚申十八、辛酉十九、壬戌二十、癸亥二十一。

卯世は第二千百六十四世で、甲午から癸亥まで、紀元前二一二七年から前二〇九八年に當たり、起首の甲午は夏相二十年。壬寅は相二十八年、すなわち紀元前二一一九年で、一大段の史事を繫げ、《左傳・襄公四年》と《哀公元年》に本づく。后羿の家臣の寒浞が有窮后羿を殺して自ら君と立ち、その子の澆と豷を遣わして斟灌氏・斟鄩氏の二つの夏の同姓國を攻めて夏后相を殺し、澆を過の地に封じ、豷を戈の地に封じた。相の舊臣の靡は有鬲氏に逃れて難を避け、相の妻の后緡は娘家の有仍氏に逃歸して、そこで遺腹子を懷いた。これが少康の出生の由來である。次年の癸卯に「夏少康始めて生る」と注し、すなわち紀元前二一一八年に少康が誕生した。この後の年數は在位の年ではなく、少康の歲數である。甲辰は二歲で、年ごとに順に排して癸亥は二十一歲。夏室はこの時すでに天子在位なし。邵雍は便ち少康の年歲をもって年位に充てた。その編年は寧ろ一人を虛繫しても、年格を斷かせぬを肯んぜざるを見るべし。

經辰之辰二千一百六十五:甲子二十二、乙丑二十三、丙寅二十四、丁卯二十五、戊辰二十六、己巳二十七、庚午二十八、辛未二十九、壬申三十、癸酉三十一、甲戌三十二、乙亥三十三、丙子三十四、丁丑三十五、戊寅三十六、己卯三十七、庚辰三十八、辛巳三十九、壬午,夏少康立。夏之臣靡自鬲收斟灌、斟鄩之燼以滅浞,而立少康。少康既立,遂滅澆於過,滅豷於戈,以絕有窮氏之族。癸未二、甲申三、乙酉四、丙戌五、丁亥六、戊子七、己丑八、庚寅九、辛卯十、壬辰十一、癸巳十二。

辰世は第二千百六十五世で、甲子から癸巳まで、紀元前二〇九七年から前二〇六八年に當たり、起首の甲子は少康二十二歲。壬午は紀元前二〇七九年で、「夏少康立つ」と注し、竝びに復國の始末を繫げる。夏の舊臣の靡は有鬲氏から出發し、斟灌・斟灌・斟鄩の兩國の殘存する族人を收攏して、兵を起こして寒浞を滅ぼし、少康を擁して夏君と立てた。少康は位に即いた後、續いて過の地で澆を滅ぼし、戈の地で豷を滅ぼし、有窮氏の一族を斬草除根した。これすなわち史に稱する「少康中興」で、夏室は國を失うこと四十年の後に重新恢復した。壬午の改元より、年數は少康の歲數より在位の年に改め回り、癸未は少康二年、順に排して癸巳は少康十二年。太康失國の紀元前二一六〇年から少康復位の紀元前二〇七九年に算るまで、中間凡そ八十一年、夏の宗廟社稷はずっと夏后氏の手に在らず。この一段の年月は表中始終仲康・相の在位の年と少康の歲數をもって虛繫し、正に邵雍の編年が夏統のみを認め、篡竊者を正朔に列せざるを肯んぜざるを見る。

經辰之巳二千一百六十六:甲午十三、乙未十四、丙申十五、丁酉十六、戊戌十七、己亥十八、庚子十九、辛丑二十、壬寅二十一、癸卯二十二、甲辰,夏杼。乙巳二、丙午三、丁未四、戊申五、己酉六、庚戌七、辛亥八、壬子九、癸丑十、甲寅十一、乙卯十二、丙辰十三、丁巳十四、戊午十五、己未十六、庚申十七、辛酉,夏槐。壬戌二、癸亥三。

巳世は第二千百六十六世で、甲午から癸亥まで、紀元前二〇六七年から前二〇三八年に當たり、起首の甲午は夏少康十三年。癸卯は少康二十二年、すなわち紀元前二〇五八年で、少康の在位はここに至って終わる。次年の甲辰に「夏杼」と題し改め、杼の元年、すなわち紀元前二〇五七年とし、少康の子の杼が位を繼ぐ。杼の在位は十七年で、庚申に至って止まる。辛酉にまた「夏槐」と題し改め、槐の元年、すなわち紀元前二〇四〇年とす。壬戌は槐二年、癸亥は槐三年。この世は連ねて二代の夏君を換え、皆ただ帝號と年數を題するのみで、事迹を繫げない。杼はまた予と作り、相傳えて甲胄と矛を發明し、東征して東海に至り、少康の後の夏室のもっとも有為の一代である。

經辰之午二千一百六十七:甲子四、乙丑五、丙寅六、丁卯七、戊辰八、己巳九、庚午十、辛未十一、壬申十二、癸酉十三、甲戌十四、乙亥十五、丙子十六、丁丑十七、戊寅十八、己卯十九、庚辰二十、辛巳二十一、壬午二十二、癸未二十三、甲申二十四、乙酉二十五、丙戌二十六、丁亥,夏芒。戊子二、己丑三、庚寅四、辛卯五、壬辰六、癸巳七。

午世は第二千百六十七世で、甲子から癸巳まで、紀元前二〇三七年から前二〇〇八年に當たり、起首の甲子は夏槐四年。槐の在位は合わせて二十六年で、丙戌に至って止まる、すなわち紀元前二〇一五年。次年の丁亥に「夏芒」と題し改め、芒の元年、すなわち紀元前二〇一四年とし、槐の子の芒が位を繼ぐ。戊子は芒二年で、順に排して癸巳は芒七年。芒はまた荒と作り、《竹書紀年》はかれ嘗て海に東狩して大魚を獲たりと説く。夏代中期のこれら幾世は國勢承平にして史に大事なし。邵雍は便ち實に照って空け、ただ帝系と年位を留めるのみ。整々たる三十格の中に帝號を換えたことただ一度、その餘は悉く數目で、讀めば單調なれど、卻って正に彼の要する效果である。年數は史事の疏密に因って一格を增減せず。

經辰之未二千一百六十八:甲午八、乙未九、丙申十、丁酉十一、戊戌十二、己亥十三、庚子十四、辛丑十五、壬寅十六、癸卯十七、甲辰十八、乙巳,夏洩。丙午二、丁未三、戊申四、己酉五、庚戌六、辛亥七、壬子八、癸丑九、甲寅十、乙卯十一、丙辰十二、丁巳十三、戊午十四、己未十五、庚申十六、辛酉,夏不降。壬戌二、癸亥三。

未世は第二千百六十八世で、甲午から癸亥まで、紀元前二〇〇七年から前一九七八年に當たり、起首の甲午は夏芒八年。芒の在位は十八年で、甲辰に至って止まる。乙巳に「夏泄」と題し改め、泄の元年、すなわち紀元前一九九六年とし、芒の子の泄が位を繼ぐ。泄の在位は十六年で、庚申に至って止まる。辛酉にまた「夏不降」と題し改め、不降の元年、すなわち紀元前一九八〇年とす。壬戌は不降二年、癸亥は不降三年。この一世も同じくただ帝號を換え年數を續げ、事迹を載せない。《竹書紀年》は泄の在位の時九夷に命じて來朝せしめ、不降は嘗て兵を出して九苑を伐ったと説く。皆この三十年の間の事なれど、繫ぐべき確年なし。表中もまた格に入れず。

經辰之申二千一百六十九:甲子四、乙丑五、丙寅六、丁卯七、戊辰八、己巳九、庚午十、辛未十一、壬申十二、癸酉十三、甲戌十四、乙亥十五、丙子十六、丁丑十七、戊寅十八、己卯十九、庚辰二十、辛巳二十一、壬午二十二、癸未二十三、甲申二十四、乙酉二十五、丙戌二十六、丁亥二十七、戊子二十八、己丑二十九、庚寅三十、辛卯三十一、壬辰三十二、癸巳三十三。

申世は第二千百六十九世で、甲子から癸巳まで、紀元前一九七七年から前一九四八年に當たり、整々たる三十年は皆夏后不降の一朝の內にある。起首の甲子は不降四年、收尾の癸巳は不降三十三年。西元紀年に折れば、起首の甲子は紀元前一九七七年に當たり、收尾の癸巳は紀元前一九四八年に當たる。不降は前後在位五十九年で、夏代のもっとも享國久しき一位である。この一世はただその中の三十年を占めるのみ。表文は一字も著さず、讀者はただ年數の綿長よりその世に事なきを想い見るほかなく、正に邵雍の「數は事に先だつ」の編法に合す。まず元會運世に由って年格を算定し、しかる後に史事を塡め入れ、事あれば則ち書き、事なければ則ち空く。

經辰之酉二千一百七十:甲午三十四、乙未三十五、丙申三十六、丁酉三十七、戊戌三十八、己亥三十九、庚子四十、辛丑四十一、壬寅四十二、癸卯四十三、甲辰四十四、乙巳四十五、丙午四十六、丁未四十七、戊申四十八、己酉四十九、庚戌五十、辛亥五十一、壬子五十二、癸丑五十三、甲寅五十四、乙卯五十五、丙辰五十六、丁巳五十七、戊午五十八、己未五十九、庚申,夏扃。辛酉二、壬戌三、癸亥四。

酉世は第二千百七十世で、甲午から癸亥まで、紀元前一九四七年から前一九一八年に當たり、起首の甲午は夏不降三十四年。不降の在位は合わせて五十九年で、己未に至って止まる、すなわち紀元前一九二二年。次年の庚申に「夏扃」と題し改め、扃の元年、すなわち紀元前一九二一年とし、不降は位を弟の扃に傳えた。辛酉は扃二年、壬戌は三年、癸亥は四年。夏代の帝系はここに至って父子相承より一度兄終り弟及びに改まり、邵雍は《史記・夏本紀》の次序に照って錄し入れ、ただ名號を標して論斷を加えない。西元紀年に折れば、起首の甲午は紀元前一九四七年に當たり、不降が弟に傳えた庚申は紀元前一九二一年に當たり、收尾の癸亥は紀元前一九一八年に當たる。不降の在位は久しかるも晩年に弟に內禪して子に傳えず、《史記》と《竹書紀年》に載る所は相同じく、夏代の帝位繼承の一つの特例である。

經辰之戌二千一百七十一:甲子五、乙丑六、丙寅七、丁卯八、戊辰九、己巳十、庚午十一、辛未十二、壬申十三、癸酉十四、甲戌十五、乙亥十六、丙子十七、丁丑十八、戊寅十九、己卯二十、庚辰二十一、辛巳,夏廑。壬午二、癸未三、甲申四、乙酉五、丙戌六、丁亥七、戊子八、己丑九、庚寅十、辛卯十一、壬辰十二、癸巳十三。

戌世は第二千百七十一世で、甲子から癸巳まで、紀元前一九一七年から前一八八八年に當たり、起首の甲子は夏扃五年。扃の在位は二十一年で、庚辰に至って止まる。辛巳に「夏廑」と題し改め、廑の元年、すなわち紀元前一九〇〇年とし、扃の子の廑が位を繼ぐ。壬午は廑二年で、順に排して癸巳は廑十三年。廑はまた胤甲と寫し、《史記》は孔甲の前に列す。この一世も依舊として史事を繫げない。《竹書紀年》は廑の在位の時十日竝び出でたるの異あり、また彼が西河に都したと記す。夏室は孔甲以前大變なしと雖も、國力は實にすでに緩緩として下り墜ちつつあり、この一世の空排の年格は正にあの沈寂の歲月の寫照である。

經辰之亥二千一百七十二:甲午十四、乙未十五、丙申十六、丁酉十七、戊戌十八、己亥十九、庚子二十、辛丑二十一、壬寅,夏孔甲。癸卯二、甲辰三、乙巳四、丙午五、丁未六、戊申七、己酉八、庚戌九、辛亥十、壬子十一、癸丑十二、甲寅十三、乙卯十四、丙辰十五、丁巳十六、戊午十七、己未十八、庚申十九、辛酉二十、壬戌二十一、癸亥二十二。

亥世は第二千百七十二世で、また第一百八十一運の末の一世、甲午から癸亥まで、紀元前一八八七年から前一八五八年に當たる。起首の甲午は夏廑十四年。廑の在位は二十一年で、辛丑に至って止まる。壬寅に「夏孔甲」と題し改め、孔甲の元年、すなわち紀元前一八七九年とし、不降の子の孔甲が位を繼ぐ。癸卯は孔甲二年で、順に排して癸亥は孔甲二十二年。《史記・夏本紀》は孔甲が方鬼神を好み淫亂に事え、夏后氏の德行は彼より衰え、諸侯多く背叛したと説く。夏亡の勢は實にここより起こる。第一百八十一運はここに至って三百六十年を排し滿たし、次の一篇は第一百八十二運に轉入する。

觀物篇十六 以會經運四

經星之乙一百八十二

觀物篇十六,以會經運四。經日之甲一,經月之未八。經星之乙一百八十二。經辰之子二千一百七十三:甲子二十三、乙丑二十四、丙寅二十五、丁卯二十六、戊辰二十七、己巳二十八、庚午二十九、辛未三十、壬申三十一、癸酉,夏皋。甲戌二、乙亥三、丙子四、丁丑五、戊寅六、己卯七、庚辰八、辛巳九、壬午十、癸未十一、甲申,夏發。乙酉二、丙戌三、丁亥四、戊子五、己丑六、庚寅七、辛卯八、壬辰九、癸巳十。

《觀物篇》第十六篇は「以會經運」の第四篇で、記する所は第一百八十二運で、下轄は第二千百七十三から第二千百八十四世まで、合わせて三百六十年、紀元前一八五七年から前一四九八年に當たる。篇首の座標は「經月之未八」と寫すが、第一百八十二運は實に第七會の午會に屬するに按れば、この處の底本が未八と作るは前後の各篇の「經月之午七」と合わず、まさに刻本の誤であるべし。子世はすなわち第二千百七十三世、甲子から癸巳まで、紀元前一八五七年から前一八二八年に當たり、起首の甲子は夏孔甲二十三年。孔甲の在位は三十一年で、壬申に至って止まる。癸酉に「夏皋」と題し改め、皋の元年、すなわち紀元前一八四八年とし、孔甲の子の皋が位を繼ぎ、在位十一年。甲申にまた「夏發」と題し改め、發の元年、すなわち紀元前一八三七年とす。乙酉は發二年で、順に排して癸巳は發十年。

經辰之丑二千一百七十四:甲午十一、乙未十二、丙申十三、丁酉十四、戊戌十五、己亥十六、庚子十七、辛丑十八、壬寅十九、癸卯,夏癸。甲辰二、乙巳三、丙午四、丁未五、戊申六、己酉七、庚戌八、辛亥九、壬子十、癸丑十一、甲寅十二、乙卯十三、丙辰十四、丁巳十五、戊午十六、己未十七、庚申十八、辛酉十九、壬戌二十、癸亥二十一。

丑世は第二千百七十四世で、甲午から癸亥まで、紀元前一八二七年から前一七九八年に當たり、起首の甲午は夏發十一年。發の在位は十九年で、壬寅に至って止まる。癸卯に「夏癸」と題し改め、癸の元年、すなわち紀元前一八一八年とす。夏癸はすなわち史書上の夏桀で、名は履癸、夏朝の末代の君。邵雍は《史記・夏本紀》に依って徑にその名を書して桀と稱せざるは、編年家が褒貶を加えざる寫法である。この後甲辰は桀の二年で、年ごとに順に排して癸亥は桀二十一年。履癸の即位の年は紀元前一八一八年に當たり、下って商湯が夏に代わるにはなお五十二年ある。

經辰之寅二千一百七十五:甲子二十二、乙丑二十三、丙寅二十四、丁卯二十五、戊辰二十六、己巳二十七、庚午二十八、辛未二十九、壬申三十、癸酉三十一、甲戌三十二、乙亥三十三、丙子三十四、丁丑三十五、戊寅三十六、己卯三十七、庚辰三十八、辛巳三十九、壬午四十、癸未四十一、甲申四十二、乙酉四十三、丙戌四十四、丁亥四十五、戊子四十六、己丑四十七、庚寅四十八、辛卯四十九、壬辰五十、癸巳五十一。

寅世は第二千百七十五世で、甲子から癸巳まで、紀元前一七九七年から前一七六八年に當たり、三十年は整々と夏桀の一朝の內に落つ。起首の甲子は桀二十二年、收尾の癸巳は桀五十一年。西元紀年に折れば、起首の甲子は紀元前一七九七年に當たり、收尾の癸巳は紀元前一七六八年に當たる。夏桀はこの編年の中の在位もっとも久しき暴君であるが、この一世は卻って一條の史事も繫げず、ただ年位を排し滿たすのみ。相傳えて桀は傾宮瑶台を作り、妹喜を寵して湯を夏台に囚えたといい、そして商湯の勢力もまた正にこの三十年の間に悄然として坐大しつつあった。諸般の傳聞はすでに考うべき確年なし。邵雍は便ち一概に錄せず。彼が表を編む用意はまず年數の骨を立て、しかる後に史事の肉を掛くに在る。この世は掛くべき事なし。年格は照のごとく排して誤りなし。

經辰之卯二千一百七十六:甲午五十二、乙未,商湯。丙申二、丁酉三、戊戌四、己亥五、庚子六、辛丑七、壬寅八、癸卯九、甲辰十、乙巳十一、丙午十二、丁未十三、戊申,商太甲。己酉二、庚戌三、辛亥四、壬子五、癸丑六、甲寅七、乙卯八、丙辰九、丁巳十、戊午十一、己未十二、庚申十三、辛酉十四、壬戌十五、癸亥十六。

卯世は第二千百七十六世で、甲午から癸亥まで、紀元前一七六七年から前一七三八年に當たり、夏商の易代の一世である。甲午は夏桀五十二年、すなわち紀元前一七六七年で、また有夏一代の最後の年位である。次年の乙未に「商湯」と題し改め、湯の元年、すなわち紀元前一七六六年とし、成湯は夏桀を放逐して天下を有し、商朝はここから國を開く。湯の在位は十三年で、丁未に至って止まる。戊申にまた「商太甲」と題し改め、太甲の元年、すなわち紀元前一七五三年とす。太甲は湯の嫡長孫で、即位の初め湯法を遵わず、伊尹に桐宮に放逐され、三年して過を悔いて而る後政に歸した。《尚書》に《太甲》三篇あってその事を記すが、この表はただ年號を書してその詳を載せない。己酉は太甲二年で、順に排して癸亥は太甲十六年。

經辰之辰二千一百七十七:甲子十七、乙丑十八、丙寅十九、丁卯二十、戊辰二十一、己巳二十二、庚午二十三、辛未二十四、壬申二十五、癸酉二十六、甲戌二十七、乙亥二十八、丙子二十九、丁丑三十、戊寅三十一、己卯三十二、庚辰三十三、辛巳,商沃丁。壬午二、癸未三、甲申四、乙酉五、丙戌六、丁亥七、戊子八、己丑九、庚寅十、辛卯十一、壬辰十二、癸巳十三。

辰世は第二千百七十七世で、甲子から癸巳まで、紀元前一七三七年から前一七〇八年に當たり、起首の甲子は商太甲十七年。太甲の在位は三十三年で、庚辰に至って止まる。辛巳に「商沃丁」と題し改め、沃丁の元年、すなわち紀元前一七二〇年とし、太甲の子の沃丁が位を繼ぐ。相傳えて伊尹は沃丁の一朝に死したといい、沃丁は天子の禮をもってこれを葬った。この後壬午は沃丁二年で、年ごとに順に排して癸巳は沃丁十三年。西元紀年に折れば、起首の甲子は紀元前一七三七年に當たり、沃丁が元を改めた辛巳は紀元前一七二〇年に當たり、收尾の癸巳は紀元前一七〇八年に當たる。伊尹は成湯・外丙・仲壬・太甲・沃丁の五世を歷輔し、この一段は正に彼が政を秉る最後の年月である。

經辰之巳二千一百七十八:甲午十四、乙未十五、丙申十六、丁酉十七、戊戌十八、己亥十九、庚子二十、辛丑二十一、壬寅二十二、癸卯二十三、甲辰二十四、乙巳二十五、丙午二十六、丁未二十七、戊申二十八、己酉二十九、庚戌,商太庚。辛亥二、壬子三、癸丑四、甲寅五、乙卯六、丙辰七、丁巳八、戊午九、己未十、庚申十一、辛酉十二、壬戌十三、癸亥十四。

巳世は第二千百七十八世で、甲午から癸亥まで、紀元前一七〇七年から前一六七八年に當たり、起首の甲午は商沃丁十四年。沃丁の在位は二十九年で、己酉に至って止まる。庚戌に「商太庚」と題し改め、太庚の元年、すなわち紀元前一六九一年とし、沃丁の弟の太庚が位を繼ぐ。商代前期は兄終り弟及びと父死に子繼ぎとが竝行し、帝位は屢々兄弟の間で轉移した。この一段の表文は正にこの特點を見るべし。辛亥は太庚二年で、順に排して癸亥は太庚十四年。西元紀年に折れば、起首の甲午は紀元前一七〇七年に當たり、太庚が元を改めた庚戌は紀元前一六九一年に當たり、收尾の癸亥は紀元前一六七八年に當たる。

經辰之午二千一百七十九:甲子十五、乙丑十六、丙寅十七、丁卯十八、戊辰十九、己巳二十、庚午二十一、辛未二十二、壬申二十三、癸酉二十四、甲戌二十五、乙亥,商小甲。丙子二、丁丑三、戊寅四、己卯五、庚辰六、辛巳七、壬午八、癸未九、甲申十、乙酉十一、丙戌十二、丁亥十三、戊子十四、己丑十五、庚寅十六、辛卯十七、壬辰,商雍巳。癸巳二。

午世は第二千百七十九世で、甲子から癸巳まで、紀元前一六七七年から前一六四八年に當たり、起首の甲子は商太庚十五年。太庚の在位は二十五年で、甲戌に至って止まる。乙亥に「商小甲」と題し改め、小甲の元年、すなわち紀元前一六六六年とし、太庚の子の小甲が位を繼ぎ、在位十七年。壬辰にまた「商雍巳」と題し改め、雍巳の元年、すなわち紀元前一六四九年とす。雍巳はすなわち《史記・殷本紀》の雍己で、「巳」「己」の二字は形近くして通用し、底本は雍巳と作る。癸巳は雍己二年で、雍己は前後在位十二年。《史記・殷本紀》に據れば、殷道は雍己より衰え、諸侯に朝せざる者あり。

經辰之未二千一百八十:甲午三、乙未四、丙申五、丁酉六、戊戌七、己亥八、庚子九、辛丑十、壬寅十一、癸卯十二、甲辰,商太戊。乙巳二、丙午三、丁未四、戊申五、己酉六、庚戌七、辛亥八、壬子九、癸丑十、甲寅十一、乙卯十二、丙辰十三、丁巳十四、戊午十五、己未十六、庚申十七、辛酉十八、壬戌十九、癸亥二十。

未世は第二千百八十世で、甲午から癸亥まで、紀元前一六四七年から前一六一八年に當たり、起首の甲午は商雍己三年。雍己の在位は十二年で、癸卯に至って止まる。甲辰に「商太戊」と題し改め、太戊の元年、すなわち紀元前一六三七年とし、雍己の弟の太戊が位を繼ぐ。太戊は伊陟・巫咸を用いて相とし、《尚書》に《咸乂》《伊陟》の諸篇あり、殷道は復た興り、諸侯これに歸り、後世尊んで中宗とし、前後在位七十五年。この後乙巳は太戊二年で、順に排して癸亥は太戊二十年。商室は沃丁以下兄弟相及ぶ者數世にして、君權は屢々易り、太戊の一朝に至ってはじめて重ねて安定に歸した。

經辰之申二千一百八十一:甲子二十一、乙丑二十二、丙寅二十三、丁卯二十四、戊辰二十五、己巳二十六、庚午二十七、辛未二十八、壬申二十九、癸酉三十、甲戌三十一、乙亥三十二、丙子三十三、丁丑三十四、戊寅三十五、己卯三十六、庚辰三十七、辛巳三十八、壬午三十九、癸未四十、甲申四十一、乙酉四十二、丙戌四十三、丁亥四十四、戊子四十五、己丑四十六、庚寅四十七、辛卯四十八、壬辰四十九、癸巳五十。

申世は第二千百八十一世で、甲子から癸巳まで、紀元前一六一七年から前一五八八年に當たり、全く商太戊の一朝の內にある。起首の甲子は太戊二十一年、收尾の癸巳は太戊五十年。太戊の在位は七十五年で、商代のもっとも享國久しき君主である。この一世はただ年位を排して事を繫げず、前面の夏桀のあの一世の排法と相同じ。西元紀年に折れば、起首の甲子は紀元前一六一七年に當たり、收尾の癸巳は紀元前一五八八年に當たる。《史記・殷本紀》に載して、太戊の時亳都に桑と穀の二木が朝に共生し、一夜の間に大なること合抱に至り、伊陟は以って妖は德に勝たざるとし、太戊に勸めて政を修めしめ、その後桑穀は枯死し、殷道は復た興り、諸侯來朝したという。これらは皆本世の內にあるが、表中は卻って一字も書さない。舊史はここに竝びに確年なきがゆえに。邵雍は寧ろ空を留めても、年なきの事を硬く年あるの格に塡め込むを肯んぜず。

經辰之酉二千一百八十二:甲午五十一、乙未五十二、丙申五十三、丁酉五十四、戊戌五十五、己亥五十六、庚子五十七、辛丑五十八、壬寅五十九、癸卯六十、甲辰六十一、乙巳六十二、丙午六十三、丁未六十四、戊申六十五、己酉六十六、庚戌六十七、辛亥六十八、壬子六十九、癸丑七十、甲寅七十一、乙卯七十二、丙辰七十三、丁巳七十四、戊午七十五、己未,商仲丁。庚申二、辛酉三、壬戌四、癸亥五。

酉世は第二千百八十二世で、甲午から癸亥まで、紀元前一五八七年から前一五五八年に當たり、起首の甲午は商太戊五十一年。太戊の在位は七十五年で、戊午に至って止まる、すなわち紀元前一五六三年。己未に「商仲丁」と題し改め、仲丁の元年、すなわち紀元前一五六二年とし、太戊の子の仲丁が位を繼ぐ。仲丁は隞に遷都し、また藍夷を征伐し、商室はここから屢々遷都し王位紛爭する一段に入る。庚申は仲丁二年で、順に排して癸亥は仲丁五年。西元紀年に折れば、起首の甲午は紀元前一五八七年に當たり、仲丁が元を改めた己未は紀元前一五六二年に當たり、收尾の癸亥は紀元前一五五八年に當たる。中宗の一朝七十五年の太平はここに收束し、殷室はすなわち下り坂を走り上る。

經辰之戌二千一百八十三:甲子六、乙丑七、丙寅八、丁卯九、戊辰十、己巳十一、庚午十二、辛未十三、壬申,商外壬。癸酉二、甲戌三、乙亥四、丙子五、丁丑六、戊寅七、己卯八、庚辰九、辛巳十、壬午十一、癸未十二、甲申十三、乙酉十四、丙戌十五、丁亥,商河亶甲。戊子二、己丑三、庚寅四、辛卯五、壬辰六、癸巳七。

戌世は第二千百八十三世で、甲子から癸巳まで、紀元前一五五七年から前一五二八年に當たり、起首の甲子は商仲丁六年。仲丁の在位は十三年で、辛未に至って止まる。壬申に「商外壬」と題し改め、外壬の元年、すなわち紀元前一五四九年とし、仲丁の弟の外壬が位を繼ぎ、在位十五年。丁亥にまた「商河亶甲」と題し改め、河亶甲の元年、すなわち紀元前一五三四年とし、外壬の弟の河亶甲が位を繼ぎ、相に遷都した。仲丁より後、弟子相爭い、屢々次序を失い、諸侯朝する莫し。史に「九世之亂」と稱し、この一世は正に亂局の開端である。戊子は河亶甲二年で、順に排して癸巳は七年。

經辰之亥二千一百八十四:甲午八、乙未九、丙申,商祖乙。丁酉二、戊戌三、己亥四、庚子五、辛丑六、壬寅七、癸卯八、甲辰九、乙巳十、丙午十一、丁未十二、戊申十三、己酉十四、庚戌十五、辛亥十六、壬子十七、癸丑十八、甲寅十九、乙卯,商祖辛。丙辰二、丁巳三、戊午四、己未五、庚申六、辛酉七、壬戌八、癸亥九。

亥世は第二千百八十四世で、また第一百八十二運の末の一世、甲午から癸亥まで、紀元前一五二七年から前一四九八年に當たり、起首の甲午は商河亶甲八年。河亶甲の在位は九年で、乙未に至って止まる。丙申に「商祖乙」と題し改め、祖乙の元年、すなわち紀元前一五二五年とし、河亶甲の子の祖乙が位を繼ぎ、邢に遷都し、巫賢を任じて相とし、殷道は復た興り、後世は太戊・武丁と竝稱す。祖乙の在位は十九年で、甲寅に至って止まる。乙卯にまた「商祖辛」と題し改め、祖辛の元年、すなわち紀元前一五〇六年とす。丙辰は祖辛二年で、順に排して癸亥は祖辛九年。第一百八十二運はここに至って三百六十年を排し滿たす。

皇極經世書卷三下

觀物篇十七 以會經運五

經星之丙一百八十三

皇極經世書卷三下。觀物篇十七,以會經運五。經日之甲一,經月之午七。經星之丙一百八十三。經辰之子二千一百八十五:甲子十、乙丑十一、丙寅十二、丁卯十三、戊辰十四、己巳十五、庚午十六、辛未,商沃甲。壬申二、癸酉三、甲戌四、乙亥五、丙子六、丁丑七、戊寅八、己卯九、庚辰十、辛巳十一、壬午十二、癸未十三、甲申十四、乙酉十五、丙戌十六、丁亥十七、戊子十八、己丑十九、庚寅二十、辛卯二十一、壬辰二十二、癸巳二十三。

ここは《皇極經世書》卷三下の冒頭である。《觀物篇》第十七篇は「以會經運」の第五篇で、記する所は第一百八十三運、依然として第一元の第七會すなわち午會に屬し、下轄は第二千百八十五から第二千百九十六世まで、合わせて三百六十年、紀元前一四九七年から前一一三八年に當たる。子世はすなわち第二千百八十五世、甲子から癸巳まで、紀元前一四九七年から前一四六八年に當たり、起首の甲子は商祖辛十年。祖辛の在位は十六年で、庚午に至って止まる。辛未に「商沃甲」と題し改め、沃甲の元年、すなわち紀元前一四九〇年とし、祖辛の弟の沃甲が位を繼ぐ。沃甲はまた開甲と作る。この後壬申は沃甲二年で、年ごとに順に排して癸巳は沃甲二十三年。祖辛は弟に傳えて子に傳えず、依然として商代の常見の繼統の法である。

經辰之丑二千一百八十六:甲午二十四、乙未二十五、丙申,商祖丁。丁酉二、戊戌三、己亥四、庚子五、辛丑六、壬寅七、癸卯八、甲辰九、乙巳十、丙午十一、丁未十二、戊申十三、己酉十四、庚戌十五、辛亥十六、壬子十七、癸丑十八、甲寅十九、乙卯二十、丙辰二十一、丁巳二十二、戊午二十三、己未二十四、庚申二十五、辛酉二十六、壬戌二十七、癸亥二十八。

丑世は第二千百八十六世で、甲午から癸亥まで、紀元前一四六七年から前一四三八年に當たり、起首の甲午は商沃甲二十四年。沃甲の在位は二十五年で、乙未に至って止まる。丙申に「商祖丁」と題し改め、祖丁の元年、すなわち紀元前一四六五年とし、祖辛の子の祖丁が位を繼ぐ。商代は仲丁より後、兄の子と弟の子とが交替に爭い立ち、祖丁はその叔父沃甲の後を承けて立つ。正にこの「九世之亂」の寫照である。丁酉は祖丁二年で、年ごとに順に排して癸亥は祖丁二十八年。西元紀年に折れば、起首の甲午は紀元前一四六七年に當たり、祖丁が元を改めた丙申は紀元前一四六五年に當たり、收尾の癸亥は紀元前一四三八年に當たる。

經辰之寅二千一百八十七:甲子二十九、乙丑三十、丙寅三十一、丁卯三十二、戊辰,商南庚。己巳二、庚午三、辛未四、壬申五、癸酉六、甲戌七、乙亥八、丙子九、丁丑十、戊寅十一、己卯十二、庚辰十三、辛巳十四、壬午十五、癸未十六、甲申十七、乙酉十八、丙戌十九、丁亥二十、戊子二十一、己丑二十二、庚寅二十三、辛卯二十四、壬辰二十五、癸巳,商陽甲。

寅世は第二千百八十七世で、甲子から癸巳まで、紀元前一四三七年から前一四〇八年に當たり、起首の甲子は商祖丁二十九年。祖丁の在位は三十二年で、丁卯に至って止まる。戊辰に「商南庚」と題し改め、南庚の元年、すなわち紀元前一四三三年とし、沃甲の子の南庚が位を繼ぎ、奄に遷都し、在位二十五年。世末の癸巳にまた「商陽甲」と題し改め、陽甲の元年、すなわち紀元前一四〇八年とし、祖丁の子の陽甲が位を繼ぐ。《史記・殷本紀》は帝陽甲の時殷衰え、仲丁より以来嫡を廢して更に諸弟子を立て、弟子あるいは爭いて相代り立ち、九世を比して亂れ、ここに於て諸侯朝する莫しと説く。南庚は前後在位二十五年。

經辰之卯二千一百八十八:甲午二、乙未三、丙申四、丁酉五、戊戌六、己亥七、庚子,商盤庚。辛丑二、壬寅三、癸卯四、甲辰五、乙巳六、丙午七、丁未八、戊申九、己酉十、庚戌十一、辛亥十二、壬子十三、癸丑十四、甲寅十五、乙卯十六、丙辰十七、丁巳十八、戊午十九、己未二十、庚申二十一、辛酉二十二、壬戌二十三、癸亥二十四。

卯世は第二千百八十八世で、甲午から癸亥まで、紀元前一四〇七年から前一三七八年に當たり、起首の甲午は商陽甲二年。陽甲の在位は七年で、己亥に至って止まる。庚子に「商盤庚」と題し改め、盤庚の元年、すなわち紀元前一四〇一年とし、陽甲の弟の盤庚が位を繼ぐ。盤庚は河を渡り南に遷り、國都を奄より殷に遷し、貴族の怨望を抑え、成湯の政を行い、殷道は復た興り、諸侯來朝した。《尚書》に《盤庚》上中下の三篇あってこの遷都の始末を記し、商朝もまたここから殷と改稱した。この表はただ干支の下に帝號を標し出すのみで、殷に遷るの事は別に年を繫げない。辛丑は盤庚二年で、順に排して癸亥は盤庚二十四年。

經辰之辰二千一百八十九:甲子二十五、乙丑二十六、丙寅二十七、丁卯二十八、戊辰,商小辛。己巳二、庚午三、辛未四、壬申五、癸酉六、甲戌七、乙亥八、丙子九、丁丑十、戊寅十一、己卯十二、庚辰十三、辛巳十四、壬午十五、癸未十六、甲申十七、乙酉十八、丙戌十九、丁亥二十、戊子二十一、己丑,商小乙。庚寅二、辛卯三、壬辰四、癸巳五。

辰世は第二千百八十九世で、甲子から癸巳まで、紀元前一三七七年から前一三四八年に當たり、起首の甲子は商盤庚二十五年。盤庚の在位は二十八年で、丁卯に至って止まる。戊辰に「商小辛」と題し改め、小辛の元年、すなわち紀元前一三七三年とし、盤庚の弟の小辛が位を繼ぎ、在位二十一年。《史記》は小辛立ちて殷復た衰え、百姓は盤庚を思念し、ここに於て人ありて《盤庚》の篇を作りしと説く。己丑にまた「商小乙」と題し改め、小乙の元年、すなわち紀元前一三五二年とし、小辛の弟の小乙が位を繼ぐ。彼すなわち武丁の父である。庚寅は小乙二年で、順に排して癸巳は五年。

經辰之巳二千一百九十:甲午六、乙未七、丙申八、丁酉九、戊戌十、己亥十一、庚子十二、辛丑十三、壬寅十四、癸卯十五、甲辰十六、乙巳十七、丙午十八、丁未十九、戊申二十、己酉二十一、庚戌二十二、辛亥二十三、壬子二十四、癸丑二十五、甲寅二十六、乙卯二十七、丙辰二十八、丁巳,商武丁。戊午二、己未三、庚申四、辛酉五、壬戌六、癸亥七。

巳世は第二千百九十世で、甲午から癸亥まで、紀元前一三四七年から前一三一八年に當たり、起首の甲午は商小乙六年。小乙の在位は二十八年で、丙辰に至って止まる。丁巳に「商武丁」と題し改め、武丁の元年、すなわち紀元前一三二四年とし、小乙の子の武丁が位を繼ぐ。武丁は即位の初め三年言わず、政事は冢宰に決し、後に夢にて傅說を版筑の間に得て、擧げて相と為し、殷國は大いに治まり、また鬼方を伐って三年にしてこれを克ち、在位五十九年、後世は高宗と稱す。《尚書》に《說命》三篇・《高宗肜日》あってその事を記す。戊午は武丁二年で、順に排して癸亥は武丁七年。

經辰之午二千一百九十一:甲子八、乙丑九、丙寅十、丁卯十一、戊辰十二、己巳十三、庚午十四、辛未十五、壬申十六、癸酉十七、甲戌十八、乙亥十九、丙子二十、丁丑二十一、戊寅二十二、己卯二十三、庚辰二十四、辛巳二十五、壬午二十六、癸未二十七、甲申二十八、乙酉二十九、丙戌三十、丁亥三十一、戊子三十二、己丑三十三、庚寅三十四、辛卯三十五、壬辰三十六、癸巳三十七。

午世は第二千百九十一世で、甲子から癸巳まで、紀元前一三一七年から前一二八八年に當たり、三十年は全く商武丁の一朝の內にある。起首の甲子は武丁八年、收尾の癸巳は武丁三十七年。西元紀年に折れば、起首の甲子は紀元前一三一七年に當たり、收尾の癸巳は紀元前一二八八年に當たる。これは正に殷商の國力もっとも盛んなる一段で、史に「武丁中興」と稱す。傅說を版筑の間に得て擧げて相と為し、鬼方を伐って三年にしてこれを克てる諸事は、《尚書・說命》と《易・既濟》に記する所に據れば、皆この三十年の內に在るべし。然れども舊史はここに皆確年なし。この表は便ち一事も繫げず、ただ在位年數を排し足すのみ。邵雍の重んずる所は事の多寡に在らず、年數と元會運世の格位とが相合するや否やに在るを見るべし。

經辰之未二千一百九十二:甲午三十八、乙未三十九、丙申四十、丁酉四十一、戊戌四十二、己亥四十三、庚子四十四、辛丑四十五、壬寅四十六、癸卯四十七、甲辰四十八、乙巳四十九、丙午五十、丁未五十一、戊申五十二、己酉五十三、庚戌五十四、辛亥五十五、壬子五十六、癸丑五十七、甲寅五十八、乙卯五十九、丙辰,商祖庚。丁巳二、戊午三、己未四、庚申五、辛酉六、壬戌七、癸亥,商祖甲。

未世は第二千百九十二世で、甲午から癸亥まで、紀元前一二八七年から前一二五八年に當たり、起首の甲午は商武丁三十八年。武丁の在位は五十九年で、乙卯に至って止まる、すなわち紀元前一二六六年。丙辰に「商祖庚」と題し改め、祖庚の元年、すなわち紀元前一二六五年とし、武丁の子の祖庚が位を繼ぎ、在位七年。世末の癸亥にまた「商祖甲」と題し改め、祖甲の元年、すなわち紀元前一二五八年とし、祖庚の弟の祖甲が位を繼ぐ。《尚書・無逸》は祖甲を太戊・武丁と竝擧して、彼が久しく小人たり、稼穡の艱難を知り、能く庶民を保惠したと説く。《史記》は則ち帝甲淫亂にして殷復た衰えたと説き、兩説相同じからず。この表はただ帝號を錄して判語を下さない。祖庚は前後在位七年。

經辰之申二千一百九十三:甲子二、乙丑三、丙寅四、丁卯五、戊辰六、己巳七、庚午八、辛未九、壬申十、癸酉十一、甲戌十二、乙亥十三、丙子十四、丁丑十五、戊寅十六、己卯十七、庚辰十八、辛巳十九、壬午二十、癸未二十一、甲申二十二、乙酉二十三、丙戌二十四、丁亥二十五、戊子二十六、己丑二十七、庚寅二十八、辛卯二十九、壬辰三十、癸巳三十一。

申世は第二千百九十三世で、甲子から癸巳まで、紀元前一二五七年から前一二二八年に當たり、全く商祖甲の一朝にある。起首の甲子は祖甲二年、收尾の癸巳は祖甲三十一年。西元紀年に折れば、起首の甲子は紀元前一二五七年に當たり、收尾の癸巳は紀元前一二二八年に當たる。祖甲の在位は三十三年で、殷の典章制度は多く彼の手に改定され、周人が殷王を追述するに、依然として彼を享國長久の賢君の一に列す。盤庚が殷に遷ってより後商室は再び都を徙さず、武丁・祖庚・祖甲の三世相まって百餘年、正に殷都のもっとも盛んなる時期である。但しこれらは後世に出土した甲骨に頼ってはじめて知る。宋人の據る所の舊史はただ一串の帝名と年數のみ。この表に載るはすなわち當日の知り得た全部である。この一世は繫ぐべき事なく、例に照ってただ年位を排す。

經辰之酉二千一百九十四:甲午三十二、乙未三十三、丙申,商廩辛。丁酉二、戊戌三、己亥四、庚子五、辛丑六、壬寅,商庚丁。癸卯二、甲辰三、乙巳四、丙午五、丁未六、戊申七、己酉八、庚戌九、辛亥十、壬子十一、癸丑十二、甲寅十三、乙卯十四、丙辰十五、丁巳十六、戊午十七、己未十八、庚申十九、辛酉二十、壬戌二十一、癸亥,商武乙。

酉世は第二千百九十四世で、甲午から癸亥まで、紀元前一二二七年から前一一九八年に當たり、起首の甲午は商祖甲三十二年。祖甲の在位は三十三年で、乙未に至って止まる。丙申に「商廩辛」と題し改め、廩辛の元年、すなわち紀元前一二二五年とし、祖甲の子の廩辛が位を繼ぎ、在位六年。壬寅にまた「商庚丁」と題し改め、庚丁の元年、すなわち紀元前一二一九年とす。庚丁はすなわち《史記・殷本紀》の庚丁で、また康丁と稱し、廩辛の弟、在位二十一年。世末の癸亥にまた「商武乙」と題し改め、武乙の元年、すなわち紀元前一一九八年とし、庚丁の子の武乙が位を繼ぐ。武乙は道なく、革嚢に血を盛って仰いでこれを射て、號して天を射るとし、後に河渭の間に獵して暴雷に震死した。《史記》はその事を記すこと甚だ詳なり。この表は載せない。

經辰之戌二千一百九十五:甲子二、乙丑三、丙寅四、丁卯,商太丁。戊辰二、己巳三、庚午,商帝乙。辛未二、壬申三、癸酉四、甲戌五、乙亥六、丙子七、丁丑八、戊寅九、己卯十、庚辰十一、辛巳十二、壬午十三、癸未十四、甲申十五、乙酉十六、丙戌十七、丁亥十八、戊子十九、己丑二十、庚寅二十一、辛卯二十二、壬辰二十三、癸巳二十四。

戌世は第二千百九十五世で、甲子から癸巳まで、紀元前一一九七年から前一一六八年に當たり、起首の甲子は商武乙二年。武乙の在位は四年で、丙寅に至って止まる。丁卯に「商太丁」と題し改め、太丁の元年、すなわち紀元前一一九四年とし、武乙の子の太丁が位を繼ぐ。太丁はすなわち卜辭の中の文丁で、在位三年、周王の季歴は彼の為に殺された。庚午にまた「商帝乙」と題し改め、帝乙の元年、すなわち紀元前一一九一年とし、太丁の子の帝乙が位を繼ぐ。彼すなわち紂王の父である。辛未は帝乙二年で、年ごとに順に排して癸巳は帝乙二十四年。

經辰之亥二千一百九十六:甲午二十五、乙未二十六、丙申二十七、丁酉二十八、戊戌二十九、己亥三十、庚子三十一、辛丑三十二、壬寅三十三、癸卯三十四、甲辰三十五、乙巳三十六、丙午三十七、丁未,商受辛。戊申二、己酉三、庚戌四、辛亥五、壬子六、癸丑七、甲寅八、乙卯九、丙辰十、丁巳十一、戊午十二、己未十三、庚申十四、辛酉十五、壬戌十六、癸亥十七,錫周文王命為西伯。

亥世は第二千百九十六世で、また第一百八十三運の末の一世、甲午から癸亥まで、紀元前一一六七年から前一一三八年に當たり、起首の甲午は商帝乙二十五年。帝乙の在位は三十七年で、丙午に至って止まる。丁未に「商受辛」と題し改め、受辛の元年、すなわち紀元前一一五四年とす。受辛はすなわち商紂王で、名は受、號は帝辛、商朝の末代の君。邵雍は例に照って徑にその名を書して紂と稱せず。世末の癸亥は受辛十七年、すなわち紀元前一一三八年で、一條の史事を繫げる。商王が周文王の姬昌に冊命を賜い、彼を任じて西伯とし、すなわち西方の諸侯の長とした。周人はここに由って征伐を專にし人心を攬することを得、殷周の易代の機括はこの年より埋下された。第一百八十三運はここに至って排し滿たし、次の一運は便ち商亡び周興るの年代に入る。

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