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経世之寅 二千二百三十五

宋 · 邵雍 · 第15巻 / 39

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

甲子 漢孝平皇帝四年,王莽以女上皇后。 乙丑 王莽弒帝於未央宮,立元帝孫孺子嬰,莽加九錫。 丙寅 王莽改元居攝。 丁卯 王莽稱假皇帝,翟義立嚴鄉侯信於東都,莽將王邑滅之。 戊辰 王莽改元初始。 己巳 王莽竊國命,改國為新室,元曰始建國,降孺子嬰為定安公。

甲子年は漢の平帝四年、すなわち紀元四年であり、本「世」はここから起算する。王莽は娘を宮中に入れて立てて皇后とした。乙丑年(五年)、王莽は未央宮で平帝を毒殺し、改めて元帝の孫で年わずか二歳の劉嬰を立てた――世に「孺子嬰」と称す。王莽は九錫の礼を賜った。丙寅年(六年)、王莽は改元して居摂とした。丁卯年(七年)、王莽は自ら「仮皇帝」――すなわち代理の天子――を称した。東郡太守翟義は東都で厳鄉侯劉信を擁立して起兵し莽を討とうとしたが、王莽の部将王邑に撃ち滅ぼされた。戊辰年(八年)、王莽は改元して初始とした。己巳年(九年)、王莽は天命を窃み取り、国号を「新」と改め、年号を始建国とし、孺子嬰を降格して定安公に封じた――前漢はこれをもって覆亡した。

庚午 王莽大殺宗室,校書郎揚雄投天祿閣,不克死。 辛未 壬申 癸酉 甲戌 王莽改元天鳳,四夷交侵中國。 乙亥 丙子 丁丑 群盜起。 戊寅 己卯 校書郎揚雄卒。 庚辰 王莽改元地皇,兵起綠林。 辛巳 壬午 劉玄稱兵宛、鄴,劉秀及兄伯升稱兵舂陵。

庚午年(一〇年)、王莽は劉氏の宗室を大いに誅殺した。校書郎揚雄は株連を恐れて天禄閣の上から飛び降りて自決したが、摔げて死ななかった。辛未(一一年)から癸酉(一三年)まで記事なし。甲戌年(一四年)、王莽は改元して天鳳とした。彼が妄りに四夷の封号を改めてその王を侯に貶めたため、匈奴・西域・西南夷が交々に中国を侵擾した。乙亥(一五年)・丙子(一六年)は記事なし。丁丑年(一七年)、各地で群盗が蜂起した。戊寅(一八年)は記事なし。己卯年(一九年)、校書郎揚雄が去世した。庚辰年(二〇年)、王莽は改元して地皇とした。緑林山中の飢民が衆を集めて起兵した――これが緑林軍である。辛巳(二一年)は記事なし。壬午年(二二年)、劉玄が宛・鄴一帯で起兵し、劉秀はその兄劉伯升とともに舂陵で起兵し、漢室の宗亲は反莽の列に加わった。

癸未 劉玄稱帝,元曰更始,以劉伯升為司徒,劉秀為太常偏將軍。是年,大破莽將王尋、王邑軍於昆陽、三輔,遂滅莽於漸臺。劉玄拜劉秀破虜大將軍,行大司馬事,使持節巡撫河北。王郎以王子林稱帝邯鄲。 甲申 劉玄西入長安,殺漢孺子嬰。大將軍劉秀北徇薊,還拔邯鄲,誅王郎,受玄封蕭王,又敗銅馬賊於□,又敗赤眉賊於射犬。赤眉西攻長安,劉永擅命睢陽,公孫述稱王巴蜀,李憲稱王淮南,秦豐稱王黎邱,張步稱兵琅玡,董憲稱兵東海,延岑稱兵漢中,田戎稱兵夷陵。

癸未年(二三年)、劉玄は帝を称し、年号を更始とし、劉伯升を司徒、劉秀を太常偏将軍とした。この年、漢軍は昆陽で少をもって多に勝ち、王莽の部将王尋・王邑の四十余万の大軍を大破し、三輔もこれに応えて、ついに漸台で王莽を殺し、新朝は覆滅した。劉玄は劉秀を破虜大将軍・大司馬事代行に拜し、節を持して河北を巡撫させた。王郎は邯鄲で王子林を擁立して帝を称した。甲申年(二四年)、劉玄は西に長安に入り、すでに定安公に降っていた孺子嬰を殺した。大将軍劉秀は北に薊城を取り、軍を回して邯鄲を攻め下し、王郎を誅殺し、劉玄に蕭王に封ぜられた。また銅馬軍を撃ち破り(ここ底本に一地名を欠くため、「□」をもって疑いを存す)、再び赤眉軍を射犬で破った。この時、赤眉軍は西に長安を攻め、劉永は睢陽で命を擅りにし、公孫述は巴蜀で王を称し、李憲は淮南で王を称し、秦豊は黎丘で王を称し、張歩は琅玡で起兵し、董憲は東海で起兵し、延岑は漢中で起兵し、田戎は夷陵で起兵した――天下は再び分崩した。

乙酉 蕭王肇帝位於河朔之鄗,國曰漢,元曰建武。南拔洛陽,都之。赤眉陷長安,稱帝,殺劉玄。公孫述稱帝成都,元曰龍興。劉永稱帝睢陽,隗囂稱兵隴右,盧芳稱兵安定,彭寵稱兵薊門。 丙戌 赤眉焚長安宮室陵寢。銅馬赤犢尤來立孫登為帝於上郡,其將樂方殺之。 丁亥 赤眉降漢於宜陽,長安平。蓋延平劉永於睢陽。隗囂以西州格命,李憲稱帝淮南。

乙酉年(二五年)、蕭王劉秀は河北の鄗邑で皇帝位に即き、国号はなお漢と称し、年号を建武とした――これが漢の光武帝である。即ち南に下って洛陽を攻め取り、ここに都を定め、史に東漢と称す。赤眉軍は長安を陥れ、改めて劉盆子を立てて帝を称し、更始帝劉玄を殺した。公孫述は成都で帝を称し、年号を龍興とした。劉永は睢陽で帝を称し、隗囂は隴右で兵を擁し、盧芳は安定で兵を擁し、彭寵は薊門で兵を擁した。丙戌年(二六年)、赤眉軍は長安の宮室と漢家の陵寝を焼いた。銅馬・赤犢・尤来の諸部は上郡で孫登を擁立して帝としたが、その将楽方がまた彼を殺した。丁亥年(二七年)、赤眉軍は宜陽で漢軍に投降し、長安が平定された。蓋延は睢陽で劉永を平定した。隗囂は西州を拠って朝命に抗した。李憲は淮南で帝を称した。

戊子 己丑 彭寵為家奴所殺,來安撫,封不義侯,薊門平。朱祐平秦豐於黎邱,滅張步於臨淄。盧芳稱帝五原。帝徵嚴光,不起。 庚寅 馬成平李憲於淮南,吳漢平董憲於東海。隗囂以入西州入於蜀。 辛卯 壬辰 西征,馮異、竇融破隗囂於隴右。 癸巳 隗囂死,子純立。來歙、馮異伐蜀,入天水。

戊子(二八年)は記事なし。己丑年(二九年)、彭寵は家奴に殺され、その家奴は彼の首級を持って降りに来た。朝廷はこれを安撫し、不義侯に封じ、薊門はここにおいて平定された。朱祐は黎丘で秦豊を平定し、また臨淄で張歩を消滅させた。盧芳は五原で帝を称した。光武帝は少年の頃の旧友厳光を入朝させようと召したが、厳光は仕官を肯んぜず、富春江の畔に帰り隠れて垂釣した。庚寅年(三〇年)、馬成は淮南で李憲を平定し、呉漢は東海で董憲を平定した。隗囂は西州を拠りながら転じて蜀中の公孫述に投じた。辛卯(三一年)は記事なし。壬辰年(三二年)、光武帝は西に征し、馮異・竇融は隴右で隗囂を撃破した。癸巳年(三三年)、隗囂は憂憤して死に、その子隗純が嗣ぎ立った。来歙・馮異は転じて蜀を伐ち、天水に入った。

経世之卯 二千二百三十六

甲午 漢光武皇帝十年,西征,滅隗純於隴右。 乙未 西征蜀,至於南陽。吳漢、岑彭大破蜀軍於荊門。 丙申 吳漢拔成都,誅公孫述及將田戎、岑延。 丁酉 盧芳自五原亡入匈奴。 戊戌 天下平。 己亥 大司徒歐陽歙下獄死。 庚子 交趾女徵側叛。青、徐、幽、冀盜起。

甲午年は漢の光武帝十年、すなわち紀元三四年であり、本「世」はここから起算する。光武帝は西に征し、隴右で隗純を消滅させ、隴の地はすべて定まった。乙未年(三五年)、西に向かって蜀を伐ち、兵を南陽まで進めた。呉漢・岑彭は荊門で蜀軍を大破した。丙申年(三六年)、呉漢は成都を攻め下し、公孫述とその部将田戎・岑延を誅殺し、巴蜀に割拠すること十二年の成家政権は覆滅した。丁酉年(三七年)、盧芳は五原から匈奴に逃げ込んだ。戊戌年(三八年)、天下が平定された――新莽の乱以来十余年の干戈を経て、海内はここに再び一統に帰した。己亥年(三九年)、大司徒欧陽歙は田畝の清丈で舞弊を犯して獄に下されて死んだ。庚子年(四〇年)、交趾の女子徴側が起兵して叛いた。青・徐・幽・冀の四州も核田の令に激して盗乱となった。

辛丑 南巡,廢皇后郭氏為中山太后,冊貴人陰氏為皇后。 壬寅 西巡。史歆以成都叛,吳漢復平之。馬援伐交趾。幸長安。 癸卯 南巡。馬援平交趾,封新息侯。廢皇太子強為東海王,以東海王陽為皇太子,改名莊。 甲辰 大司徒戴涉下獄死。 乙巳 丙午 丁未 戊申

辛丑年(四一年)、光武帝は南に巡った。郭皇后を廃して中山太后とし、貴人陰麗華を冊立して皇后とした。壬寅年(四二年)、西に巡った。史歆が成都を拠って叛き、呉漢が再び平定した。馬援は交趾に出征した。帝は長安に駕した。癸卯年(四三年)、南に巡った。馬援は交趾を平定し、新息侯に封ぜられた。郭后が廃されたため、皇太子劉彊を廃して東海王とし、改めて東海王劉陽を立てて皇太子とし、名を庄と改めた。甲辰年(四四年)、大司徒戴渉が獄に下されて死んだ。乙巳(四五年)から戊申(四八年)まで記事なし。

己酉 馬援破武陵蠻。 庚戌 作壽陵。 辛亥 壬子 癸丑 甲寅 東巡狩。 乙卯 丙辰 東封太山,禪梁甫,改元中元。西幸長安。馮房為司空。 丁巳 帝崩,皇太子莊踐位,是謂孝明皇帝。葬世祖於原陵。 戊午 改元永平。 己未 庚申 辛酉 壬戌 北巡,至於鄴。 癸亥 東巡,至於岱。

己酉年(四九年)、馬援は武陵蛮を撃ち破った。庚戌年(五〇年)、寿陵を造営した。辛亥(五一年)から癸丑(五三年)まで記事なし。甲寅年(五四年)、東に巡狩した。乙卯(五五年)は記事なし。丙辰年(五六年)、光武帝は東に泰山に上って封の礼を行い、梁甫で禅の礼を行い、改元して中元とし、また西に長安に行った。馮房が司空に出た。丁巳年(五七年)、光武帝が去世し、皇太子劉庄が即位した――これが漢の明帝である。光武帝の廟号は世祖、原陵に葬られた。戊午年(五八年)、改元して永平とした。己未(五九年)から辛酉(六一年)まで記事なし。壬戌年(六二年)、北に鄴城まで巡った。癸亥年(六三年)、東に岱山まで巡った。

経世之辰 二千二百三十七

甲子 漢孝明皇帝七年。 乙丑 丙寅 丁卯 南巡狩。 戊辰 己巳 牟融為司空。 庚午 河大決。 辛未 壬申 東巡狩。 癸酉 司徒邢穆、駙馬都尉韓光下獄死。 甲戌 乙亥 帝崩,皇太子炟踐位,是謂孝章皇帝。葬顯宗於節陵。 丙子 改元建初。

甲子年は漢の明帝七年、すなわち紀元六四年であり、本「世」はここから起算する。乙丑(六五年)・丙寅(六六年)は記事なし。丁卯年(六七年)、南に巡狩した。戊辰(六八年)は記事なし。己巳年(六九年)、牟融が司空に出た。庚午年(七〇年)、黄河が大きく決口した。辛未(七一年)は記事なし。壬申年(七二年)、東に巡狩した。癸酉年(七三年)、司徒邢穆と駙馬都尉韓光が獄に下されて死んだ。甲戌(七四年)は記事なし。乙亥年(七五年)、明帝が去世し、皇太子劉炟が即位した――これが漢の章帝である。明帝の廟号は顕宗、節陵に葬られた。丙子年(七六年)、改元して建初とした。

丁丑 戊寅 己卯 鮑昱為太尉,桓虞為司徒。詔於白虎觀議《五經》異同。 庚辰 辛巳 壬午 廢皇太子慶為清河王,冊皇子肇為皇太子。北幸鄴,西幸長安。 癸未 東巡狩。 甲申 改元元和,南巡狩。鄭弘為太尉。 乙酉 東巡狩。 丙戌 北巡狩。 丁亥 改元章和。南巡狩。

丁丑(七七年)・戊寅(七八年)は記事なし。己卯年(七九年)、鮑昱が太尉、桓虞が司徒となった。章帝は詔を下して白虎観に群儒を集めて会し、《五経》の異同を評議させ、班固は会議の記録によって《白虎通義》を撰成した。庚辰(八〇年)・辛巳(八一年)は記事なし。壬午年(八二年)、皇太子劉慶を廃して清河王とし、改めて皇子劉肇を立てて皇太子とした。帝は北に鄴城に行き、西に長安に行った。癸未年(八三年)、東に巡狩した。甲申年(八四年)、改元して元和とし、南に巡狩した。鄭弘が太尉に出た。乙酉年(八五年)、東に巡狩した。丙戌年(八六年)、北に巡狩した。丁亥年(八七年)、改元して章和とし、南に巡狩した。

戊子 帝崩,皇太子肇踐位,是謂孝和皇帝,太后竇氏臨朝稱制。竇憲為車騎將軍,專政。葬肅宗於敬陵。鄧彪為太尉,錄尚書事。 己丑 改元永元。竇憲敗匈奴於稽落,勒功燕然,還,為大將軍。 庚寅 辛卯 帝加元服。班超平西域。 壬辰 竇憲作逆,事覺伏誅。帝始親萬機。 癸巳

戊子年(八八年)、章帝が去世し、年わずか十歳の皇太子劉肇が即位した――これが漢の和帝であり、太后竇氏が朝に臨んで制を称した。太后の兄竇憲は車騎将軍となり朝政を専断した――東漢の外戚と宦官が輪替で権を擅りにする局面はここに始まる。章帝の廟号は肅宗、敬陵に葬られた。鄧彪が太尉・録尚書事となった。己丑年(八九年)、改元して永元とした。竇憲は稽落山で北匈奴を大いに破り、燕然山に登って石を刻み功を記した――すなわち班固が撰した《封燕然山銘》である。朝に還って大将軍に拜せられた。庚寅(九〇年)は記事なし。辛卯年(九一年)、和帝が加冠の礼を行った。班超は西域を平定した。壬辰年(九二年)、竇憲は不軌を図り、事が発して自殺を迫られ、和帝はこれより自ら万機を理した。癸巳(九三年)は記事なし。

経世之巳 二千二百三十八

甲午 漢孝和皇帝六年。 乙未 丙申 丁酉 司徒劉方有罪,自殺。 戊戌 己亥 庚子 張酺罷太尉,張禹為太尉。 辛丑 魯恭為司徒。 壬寅 廢皇后陰氏,冊貴人鄧氏為皇后。徐防為司空。 癸卯 南巡。 甲辰 司徒魯恭罷免,徐防為司徒,陳寵為司空。

甲午年は漢の和帝六年、すなわち紀元九四年であり、本「世」はここから起算する。乙未(九五年)・丙申(九六年)は記事なし。丁酉年(九七年)、司徒劉方が罪を得て自殺した。戊戌(九八年)・己亥(九九年)は記事なし。庚子年(一〇〇年)、張酺は太尉を免ぜられ、張禹が後任となった。辛丑年(一〇一年)、魯恭が司徒に出た。壬寅年(一〇二年)、陰皇后を廃し、貴人鄧綏を冊立して皇后とした。徐防が司空となった。癸卯年(一〇三年)、南に巡った。甲辰年(一〇四年)、司徒魯恭が罷免され、徐防が司徒に転じ、陳寵が司空となった。

乙巳 改元元興。帝崩,皇子隆立,是謂殤帝。太后鄧氏臨朝稱制,車騎將軍鄧騭專政。 丙午 改元延平,葬穆宗於慎陵。帝又崩,鄧騭迎章帝孫祜立之,是謂孝安皇帝。葬殤帝於康陵。尹勤為司空。 丁未 改元永初。魯恭為司徒,張禹為太尉,張敏為司空。周章謀廢立不克,自殺。

乙巳年(一〇五年)、改元して元興とした。和帝が去世し、生まれて百余日に過ぎない皇子劉隆が嗣いだ――これが殇帝である。鄧太后が朝に臨んで制を称し、その兄車騎将軍鄧騭が政を専った。丙午年(一〇六年)、改元して延平とした。和帝の廟号は穆宗、慎陵に葬られた。殇帝もまたすぐ夭亡し、鄧騭は章帝の孫劉祜を迎えて立てて帝とした――これが漢の安帝である。殇帝は康陵に葬られた。尹勤が司空となった。丁未年(一〇七年)、改元して永初とした。魯恭が司徒、張禹が太尉、張敏が司空となった。周章は密かに廃立を謀ったが成らず、自殺した。

戊申 鄧騭為大將軍。 己酉 帝加元服。 庚戌 海寇亂。 辛亥 西羌入寇。張禹免太尉。 壬子 太后鄧氏有事於太廟。劉愷為司空。 癸丑 甲寅 改元元初。司馬苞為太尉。 乙卯 冊閻氏為皇后,劉愷為司徒,袁敞為司空。 丙辰 李咸為司空。 丁巳 戊午 己未 庚申 改元永寧。楊震為司徒。 辛酉 改元建光。太后鄧氏崩,帝始親政事。特進鄧騭,度遼將軍鄧遵,下獄死。 壬戌 改元延光。 癸亥 司徒楊震為太尉。

戊申年(一〇八年)、鄧騭が大将軍に昇った。己酉年(一〇九年)、安帝が加冠の礼を行った。庚戌年(一一〇年)、沿海の盗寇が乱を為した。辛亥年(一一一年)、西羌が入寇した。張禹が太尉を免ぜられた。壬子年(一一二年)、鄧太后は太廟に行き祭を行った。劉愷が司空となった。癸丑(一一三年)は記事なし。甲寅年(一一四年)、改元して元初とした。司馬苞が太尉となった。乙卯年(一一五年)、閻氏を冊立して皇后とした。劉愷は司徒に転じ、袁敞が司空となった。丙辰年(一一六年)、李咸が司空となった。丁巳(一一七年)から己未(一一九年)まで記事なし。庚申年(一二〇年)、改元して永寧とした。楊震が司徒に出た。辛酉年(一二一年)、改元して建光とした。鄧太后が去世し、安帝は親政を始め、即座に鄧氏を清算し、特進鄧騭と度遼将軍鄧遵はともに獄に下されて死んだ。壬戌年(一二二年)、改元して延光とした。癸亥年(一二三年)、司徒楊震が太尉に昇った。

経世之午 二千二百三十九

甲子 漢孝安皇帝十八年,東巡。廢皇太子保為濟陰王,楊震罷太尉,馮石為太尉。 乙丑 帝南巡,崩於葉。太后閻氏臨朝稱制,閻顯為車騎將軍,專政,立章帝玄孫北鄉侯懿,誅大將軍耿寶,葬恭宗於恭陵。懿又卒,車騎將軍閻顯及大長秋江京閉宮門,擇立它子。中黃門孫程十九人殺江京,迎濟陰王,立之,是謂孝順皇帝。顯兵入北宮,不勝。孫程取閻顯及江京之黨殺之,亂乃定。以王禮葬北鄉侯。馮石為太傅,劉喜為太尉,李郃為司徒。

甲子年は漢の安帝十八年、すなわち紀元一二四年であり、本「世」はここから起算する。安帝は東に巡り、讒言を聴き入れて皇太子劉保を廃して済陰王とした。楊震は太尉を罷められ、憤って鴆を飲み自決し、馮石が後任の太尉となった。乙丑年(一二五年)、安帝は南に巡り、葉県で病死した。閻太后が朝に臨んで制を称し、その兄閻顕は車騎将軍として政を専り、改めて章帝の玄孫である北鄉侯劉懿を立てて帝とし、あわせて大将軍耿宝を誅殺した。安帝の廟号は恭宗、恭陵に葬られた。劉懿は在位数ヶ月でまた死に、車騎将軍閻顕と大長秋江京は宮門を閉ざし、別に宗室の子弟を選んで擁立しようとした。中黄門孫程ら十九人が政変を起こして江京を殺し、済陰王劉保を迎え戻して立てて天子とした――これが漢の順帝である。閻顕は兵を率いて北宮に攻め入ったが、勝つことができなかった。孫程は閻顕と江京の余党を皆殺しにし、乱事はやっと平定された。北鄉侯は諸侯王の礼をもって葬られた。この後、馮石が太傅、劉喜が太尉、李郃が司徒となった。

丙寅 改元永建。皇太后閻氏崩。桓焉為太傅,朱寵為太尉,朱倀為司徒。 丁卯 戊辰 己巳 帝加元服,龐參為太尉,王龔為司空,劉崎為司徒。 庚午 班始棄市。 辛未 壬申 改元陽嘉,冊梁氏為皇后。 癸酉 施延為太尉。 甲戌 黃尚為司徒,王卓為司空。乙亥

丙寅年(一二六年)、改元して永建とした。閻太后が去世した。桓焉が太傅、朱寵が太尉、朱倀が司徒となった。丁卯(一二七年)・戊辰(一二八年)は記事なし。己巳年(一二九年)、順帝が加冠の礼を行った。龐参が太尉、王龔が司空、劉崎が司徒となった。庚午年(一三〇年)、班始が棄市で処刑された。辛未(一三一年)は記事なし。壬申年(一三二年)、改元して陽嘉とした。梁氏を冊立して皇后とし、梁氏の外戚の禍はこれによって根を埋めた。癸酉年(一三三年)、施延が太尉となった。甲戌年(一三四年)、黄尚が司徒、王卓が司空となった。乙亥(一三五年)は記事なし。

丙子 改元永和。王龔為太尉。 丁丑 郭虔為司空。 戊寅 劉壽為司徒。 己卯 誅中常侍張逵。 庚辰 辛巳 趙誠為司空,梁冀為大將軍。 壬午 改元漢安。遣張綱等八使持節巡行天下。廣陵寇亂。趙峻為太尉,胡廣為司徒。 癸未 彭門寇亂。

丙子年(一三六年)、改元して永和とした。王龔が太尉となった。丁丑年(一三七年)、郭虔が司空となった。戊寅年(一三八年)、劉寿が司徒となった。己卯年(一三九年)、中常侍張逵を誅殺した。庚辰(一四〇年)は記事なし。辛巳年(一四一年)、趙誠が司空となった。梁皇后の兄梁冀が大将軍に出て、この後朝政を専擅することほぼ二十年に及んだ。壬午年(一四二年)、改元して漢安とした。張綱ら八人の使者を遣わして節を持して天下を巡行させ、吏治・民情を考察させた。広陵で盗寇が乱を為した。趙峻が太尉、胡広が司徒となった。癸未年(一四三年)、彭門一帯で盗寇が乱を為した。

甲申 改元建康。帝崩,皇太子炳踐位,是謂沖帝。太后梁氏臨朝稱制,大將軍梁冀專政。葬敬宗於憲陵。盜發憲陵。免尚書欒巴為庶人。 乙酉 改元永嘉。帝崩,太后梁氏、大將軍梁冀迎肅宗孫纘立之,是謂質帝。葬沖帝於懷陵。江淮寇亂,九江賊稱黃帝,歷陽賊稱黑帝。 丙戌 改元本初。梁冀弒帝,迎肅宗曾孫志立之,是謂桓帝。李固罷免,梁冀專政。

甲申年(一四四年)、改元して建康とした。順帝が去世し、二歳の皇太子劉炳が即位した――これが冲帝である。梁太后が朝に臨んで制を称し、大将軍梁冀が政を専った。順帝の廟号は敬宗、憲陵に葬られた。まもなく憲陵が盗掘された。尚書欒巴は庶人に免ぜられた。乙酉年(一四五年)、改元して永嘉とした。冲帝もまた夭亡し、梁太后と梁冀は章帝の孫劉纉を迎えて立てて帝とした――これが質帝である。冲帝は懐陵に葬られた。江淮一帯で盗寇が乱を為し、九江の賊首は自ら黄帝を称し、歴陽の賊首は自ら黒帝を称した。丙戌年(一四六年)、改元して本初とした。質帝は幼いながら面と向かって梁冀を「跋扈将軍」と斥けたため、梁冀に毒殺された。梁冀は改めて章帝の曾孫劉志を迎えて立てて天子とした――これが漢の桓帝である。別に賢君を立てることを力爭した太尉李固は罷免され、梁冀はここにおいて朝綱を独り占めにした。

丁亥 改元建和。梁冀以女上皇后,杜喬為太尉。胡廣罷免。李固、杜喬下獄死。 戊子 帝加元服。趙戒為太尉,袁湯為司徒。 己丑 庚寅 改元和平。太后梁氏崩。 辛卯 改元元嘉。黃瓊為司空,尋罷免。 壬辰 癸巳 改元永興。袁成、逢隗為三公。

丁亥年(一四七年)、改元して建和とした。梁冀は妹を宮中に入れて立てて皇后とし、杜喬が太尉となり、胡広は罷免された。まもなく李固・杜喬はともに獄に下されて害され死んだ。戊子年(一四八年)、桓帝が加冠の礼を行った。趙戒が太尉、袁湯が司徒となった。己丑(一四九年)は記事なし。庚寅年(一五〇年)、改元して和平とした。梁太后が去世した。辛卯年(一五一年)、改元して元嘉とした。黄瓊が司空となったが、まもなく罷免された。壬辰(一五二年)は記事なし。癸巳年(一五三年)、改元して永興とした。袁成・逢隗が三公の列に居った。

経世之未 二千二百四十

甲午 漢孝桓帝八年,黃瓊為太尉,尹頌為司徒。 乙未 改元永壽。韓為司空。 丙申 丁酉 戊戌 改元延熹。 己亥 皇后梁氏崩,大將軍梁冀謀逆,事覺,夷三族。黃門單超擅命,胡廣、韓減死。 庚子 白馬令李雲直諫,死於獄。太山及長沙寇亂。 辛丑 武庫火。 壬寅 癸卯

甲午年は漢の桓帝八年、すなわち紀元一五四年であり、本「世」はここから起算する。黄瓊が太尉、尹頌が司徒となった。乙未年(一五五年)、改元して永寿とした。韓姓の某が司空に出た――底本はここに人名の一字を脱す。丙申(一五六年)・丁酉(一五七年)は記事なし。戊戌年(一五八年)、改元して延熹とした。己亥年(一五九年)、梁皇后が去世し、大将軍梁冀が陰に乱を謀り、事が発して誅され三族を夷滅された――桓帝は単超ら五名の宦官の力によってようやく梁氏を翦除したのである。この後、黄門単超が朝命を把し持ち、胡広とあの韓姓の大臣は連累して減死の罪を得た。庚子年(一六〇年)、白馬県令李雲は書を上げて直諫し、獄中で死んだ。泰山と長沙一帯で盗寇が乱を為した。辛丑年(一六一年)、武庫が失火した。壬寅(一六二年)・癸卯(一六三年)は記事なし。

甲辰 南巡,楊秉為太尉。 乙巳 廢皇后鄧氏,冊貴人竇氏為皇后。陳蕃為太尉,竇武為大將軍。 丙午 黨錮事起,司隸李膺等三百人下獄。 丁未 改元永康。帝崩,太后竇氏臨朝稱制。 戊申 竇氏迎肅宗玄孫解瀆亭侯宏立之,是謂靈帝。竇武隸尚書事,專政。改元建寧。葬威宗於宣陵。中常侍曹節、王甫殺太傅陳蕃、大將軍竇武,及尚書尹勳、侍中劉瑜、屯騎校尉馮述,夷其族,徙太后竇氏於南宮。謀誅宦氏不克故也。胡廣為太尉,劉寵為司徒。

甲辰年(一六四年)、桓帝は南に巡った。楊秉が太尉となった。乙巳年(一六五年)、鄧皇后を廃し、貴人竇氏を冊立して皇后とした。陳蕃が太尉、竇武が大将軍となった。丙午年(一六六年)、第一次党錮の禍が起こり、司隶校尉李膺ら三百人が獄に下された。丁未年(一六七年)、改元して永康とした。桓帝が去世し、竇太后が朝に臨んで制を称した。戊申年(一六八年)、竇氏は章帝の玄孫である解瀆亭侯劉宏を迎えて立てて帝とした――これが漢の霊帝である。竇武は大将軍として尚書事を領して政を専り、改元して建寧とした。桓帝の廟号は威宗、宣陵に葬られた。中常侍曹節・王甫が先に難を発し、太傅陳蕃・大将軍竇武および尚書尹勲・侍中劉瑜・屯騎校尉馮述を殺し、その族を夷滅し、竇太后を南宮に移して幽禁した――その起因はまさに竇武・陳蕃が宦官を誅さんと謀って事機を密にしなかったことにある。この後、胡広が太尉、劉寵が司徒となった。

己酉 朋黨事復起,殺李膺等百人。 庚戌 辛亥 帝加元服,冊宋氏為皇后。 壬子 改元熹平。太后竇氏崩,誣構事大起。 癸丑 段熲為太尉,楊賜為司空。 甲寅 李咸為太尉。 乙卯 《五經》文皆刻石於太學。袁隗為司徒。 丙辰 劉寬為太尉,楊賜為司徒。 丁巳 大伐鮮卑。孟戫為太尉,陳耽為司空。

己酉年(一六九年)、党錮の禍が再び起こり、李膺ら百余人が殺害された。庚戌(一七〇年)は記事なし。辛亥年(一七一年)、霊帝が加冠の礼を行い、宋氏を冊立して皇后とした。壬子年(一七二年)、改元して熹平とした。竇太后が去世し、宦官の羅織誣陷の風が大いに盛んとなった。癸丑年(一七三年)、段熲が太尉、楊賜が司空となった。甲寅年(一七四年)、李咸が太尉となった。乙卯年(一七五年)、《五経》の経文をすべて石に刻んで太学に立てた――これが「熹平石経」である。袁隗が司徒となった。丙辰年(一七六年)、劉寛が太尉、楊賜が司徒となった。丁巳年(一七七年)、大いに鮮卑を討伐したが功なく帰った。孟戫が太尉、陳耽が司空となった。

戊午 改元光和。合浦、交趾內寇。廢皇后宋氏,大鬻爵,至三公。袁滂為司徒。 己未 諸貴臣下獄死者相繼,宦氏誣故也。劉郃為司徒,段熲為太尉,張濟為司空。 庚申 陳耽為司徒。冊何氏為皇后。 辛酉 作宮市。帝遊,以驢為駕。 壬戌 癸亥

戊午年(一七八年)、改元して光和とした。合浦・交趾一帯で内乱があった。宋皇后を廃した。朝廷は公然と官爵を大いに売り、三公の位すら金で買うことができた。袁滂が司徒となった。己未年(一七九年)、朝中の顕貴で獄に下されて死ぬ者が続き、みな宦官の羅織誣陷によるものであった。劉郃が司徒、段熲が太尉、張済が司空となった。庚申年(一八〇年)、陳耽が司徒となった。何氏を冊立して皇后とした。辛酉年(一八一年)、霊帝は宮中に「宮市」を設けて戯れとし、宮人に商販の扮装をさせて売買させ、自ら驢車を駕してその中を遊び逛いた。壬戌(一八二年)・癸亥(一八三年)は記事なし。

経世之申 二千二百四十一

甲子 改元中平。漢孝靈皇帝十七年,黃巾寇起,鄧盛為太尉,張溫為司空。侍中向栩、張鈞下獄死。閹人大起誣構。黃巾平。 乙丑 黑山賊起。崔烈為司徒,張延為太尉,許相為司空。三輔寇亂,陳耽、劉陶坐直言死。 丙寅 張溫為太尉。江夏兵起。前太尉張延下獄死。 丁卯 賣官至關內侯。曹嵩為太尉。三輔盜起,漁陽賊稱帝。 戊辰 天下群盜起,黃巾賊復寇,郡國稱帝。置八校尉,以捕天下群盜。馬日為太尉,曹操為典軍校尉,袁紹為中軍校尉,董重為驃騎將軍。

甲子年は改元して中平とし、漢の霊帝十七年、すなわち紀元一八四年であり、本「世」はここから起算する。張角は太平道の教衆を率いて起事し、頭に黄巾を裹み、八州が同時に応えて天下が震動した。鄧盛が太尉、張温が司空となった。侍中向栩・張鈞は獄に下されて死んだ。宦官は機に乗じて大いに羅織誣陷を興した。年内に黄巾の主力は平定された。乙丑年(一八五年)、黒山賊が太行山で起事した。崔烈が司徒、張延が太尉、許相が司空となった。三輔地区で寇乱があり、陳耽・劉陶は直言によって罪を得て死んだ。丙寅年(一八六年)、張温が太尉となった。江夏で兵変があった。前任の太尉張延は獄に下されて死んだ。丁卯年(一八七年)、官を売ることが関内侯の爵位にまで及んだ。曹嵩――すなわち曹操の父――は金を出して太尉の位を買い得た。三輔で盗賊がまた起こり、漁陽の賊首は自ら皇帝を称した。戊辰年(一八八年)、天下に群盗が蜂起し、黄巾の余部が再び乱を為し、各郡国で帝を称する者があった。朝廷は八校尉を設置して天下の群盗を捕えさせた。馬日が太尉、曹操が典軍校尉、袁紹が中軍校尉、董重が驃騎将軍となった――漢末の群雄割拠の人物は、ここに次々と登場した。

己巳 帝崩,皇太子辯踐位。皇太后何氏臨朝稱制,大將軍何進專政,改元光熹,封皇弟協為渤海王,殺上軍校尉蹇碩。驃騎將軍董重及皇太后董氏議立協故也。徙協為陳留王。中常侍張讓、段珪殺大將軍何進。中郎袁術以兵攻東宮。張讓、段珪以帝及陳留王走北宮。何苗攻北宮。司隸校尉袁紹兵入,大殺閹豎。讓、珪以帝及陳留王出走小平津。尚書盧植兵追及之,讓、珪投於河死,盧植以帝及陳留王還宮。改元昭寧。董卓自太原入,廢帝為弘農王,立陳留王協,是謂獻帝。徙太后何氏於永安宮。改元永漢。卓弒太后何氏及弘農王辯於永安宮,稱相國,專制。黃琬為太尉,楊彪為司徒,荀爽為司空。袁紹入冀州。

己巳年は東漢の中平六年、紀元一八九年である。漢の霊帝が去世し、皇太子劉辯が即位した――これが少帝である。生母何氏は皇太后として朝に臨んで政を聴き、その兄大将軍何進が朝権を独り占めにし、年号を「光熹」と改め、霊帝の次子で少帝の弟の劉協を渤海王に封じ、あわせて禁軍を統領する上軍校尉蹇碩を殺した――驃騎将軍董重と霊帝の生母董太后の一党がかつて劉協に改めて立てることを謀議し、蹇碩はまさにこの一党の手中の兵権であったからである。続いて劉協は陳留王に改封された。宦官の中常侍張譲・段珪が先に難を発し、宮中で何進を殺した。何進の部将で中郎将の袁術は兵を率いて東宮を攻めて報復した。張譲・段珪は少帝と陳留王を挟持して北宮に逃げ込み、何進の弟何苗はまた兵を率いて北宮を攻めた。司隶校尉袁紹は兵を引きいて禁中に殺し入り、宦官をほとんど皆殺しにした。張譲・段珪は再び二王を挟んで出奔し黄河の渡口小平津に至ったが、尚書盧植が兵を率いて追いつき、二人は河に身を投げて死に、盧植は少帝・陳留王を護衛して宮に還り、改元して「昭寧」とした。この時、并州牧董卓は太原の方向から兵を引きいて京に入り、少帝を廃して弘農王とし、改めて陳留王劉協を立てた――これが漢の献帝である。また何太后を永安宮に移し、改元して「永漢」とした。まもなく永安宮で何太后と廃帝劉辯を殺害し、自ら相国を称して国柄を独断し、黄琬を太尉、楊彪を司徒、荀爽を司空として朝廷を装った。袁紹は冀州に出奔し、関東の董討伐の勢いはこれより醸成された。

庚午 改元初平。天下兵起,群校尉推袁紹為主,同攻董卓。卓大殺宗室及官屬,遷帝西都長安。孫堅兵起荊州。白波賊寇東郡。劉虞為太傅,種拂為司空。辛未 董卓稱太師,大焚洛陽宮闕,及徙居民於長安。孫堅敗董卓兵於陽人,入洛,修完諸帝陵寢,引軍還魯陽。黑山賊寇常山,黃巾賊擾太山。壬申 董卓將王允、呂布誅卓於長安,夷三族。卓將李傕、郭汜陷長安,殺王允。呂布走袁紹。傕、汜擅政,以皇甫嵩為太尉,淳于嘉為司徒。曹操破黃巾於壽張。孫堅卒,子策代總其眾。

庚午年は初平元年、紀元一九〇年である。関東の州郡が次々と起兵して董卓を討ち、諸校尉は袁紹を推して盟主とし、力を合わせて卓を攻めた。董卓は漢室の宗亲と朝廷の官員を大いに誅殺し、献帝を脅迫して西に迁らせ、長安を都とした。長沙太守孫堅は荊州で起兵して応えた。白波軍は東郡を侵擾した。朝廷は劉虞を太傅、種拂を司空とした。辛未年すなわち一九一年、董卓は自ら太師を称し、火を放って洛陽の宮殿を焼き毀し、洛陽の居民を強いて西の長安に移した。孫堅は陽人聚で董卓軍を破り、洛陽に入り、盗掘された東漢諸帝の陵寝を修復し、その後兵を引きいて魯陽に退いた。黒山軍は常山に進犯し、黄巾の余部は泰山を騒がした。壬申年すなわち一九二年、董卓の部下である司徒王允とその義子呂布は長安で董卓を誅殺し、その三族を滅した。董卓の旧将李傕・郭汜は即座に長安を陥れ、王允を殺し、呂布は出奔して袁紹に投じた。李・郭の二人は朝政を専擅し、皇甫嵩を太尉、淳于嘉を司徒とした。曹操は寿張で黄巾を撃ち破り、その精鋭を収めて青州兵とし、これをもって起家した。孫堅は戦死し、その子孫策が旧部を継いで統した。

癸酉 李傕、郭汜屠三輔。朱儁為太尉,趙溫為司空。袁紹、袁術交兵東方。甲戌 改元興平。帝加元服。楊彪為太尉。孫策據有江南。乙亥 李傕、郭汜爭權,相攻於長安。楊定、楊奉、董丞以帝東還。曹操破呂布於定陶,遂有兗州。布走劉備。丙子 帝還洛陽,改元建安。曹操徙帝都許昌。丁丑 袁術稱帝九江,並袁紹大將軍。曹操破袁術於揚州,呂布襲劉備於下邳。劉備走曹操。

癸酉年すなわち紀元一九三年、李傕・郭汜は関中三輔一帯で大いに屠戮し、朝廷は朱儁を太尉、趙温を司空とした。東方では袁紹・袁術の兄弟が交兵した。甲戌年一九四年、改元して「興平」とし、献帝は冠礼を行って成年となり、楊彪が太尉を任じた。孫策は江を渡り、江南を拠有した。乙亥年一九五年、李傕・郭汜は権を争って長安で互いに攻め殺し合い、将領の楊定・楊奉・董承(底本は董丞と作る)は献帝を護衛して東に帰らせた。曹操は定陶で呂布を大破し、ついに兗州を取った。呂布は出奔して劉備に投じた。丙子年一九六年、献帝は残破した洛陽に帰り、改元して「建安」とし、曹操は即座に献帝を許昌に迁して都を建て、これより天子を挾んで以て諸侯に令した。丁丑年一九七年、袁術は九江で僭号して帝を称し、袁紹は大将軍を受け授かった。曹操は揚州で袁術を撃ち破り、呂布は虚に乗じて劉備の下邳を襲い取り、劉備は転じて曹操に投じた。

戊寅 曹操平呂布於下邳,兼有徐州。己卯 袁術死,袁紹破曹操將公孫瓚於易水。孫策破劉勳於廬江。庚辰 曹操大敗袁紹於官渡,劉備去曹操,奔劉表於荊州。江南孫策卒,弟權繼事。辛巳。壬午 袁紹卒,子尚繼事,以弟譚為將軍。癸未 袁尚、袁譚相攻,譚敗,奔曹操。

戊寅年すなわち紀元一九八年、曹操は下邳で呂布を消滅させ、あわせて徐州を得た。己卯年一九九年、袁術は窮蹙して病死した。袁紹は易水一帯で幽州の公孫瓚を撃ち滅ぼした(邵雍は公孫瓚を曹操の将とするが、実は彼は久しく幽州を拠って自立していた)。孫策は廬江太守劉勲を撃ち破った。庚辰年二〇〇年、曹操は官渡で少をもって多に勝ち袁紹を大破し、北方統一の基礎を奠めた。劉備は曹操を離れ、荊州の劉表に奔った。江東の孫策は刺されて身を亡び、その弟孫権が江東を継いで掌った。辛巳年二〇一年は記すべきことなし。壬午年二〇二年、袁紹が病故し、幼子袁尚がその位を承襲し、兄袁譚を将軍とした。癸未年二〇三年、袁尚と袁譚の兄弟が互いに攻め合い、袁譚は戦に敗れて曹操に奔った。

甲申 曹操破袁尚於鄴,兼有冀州。尚走青州,譚復奔尚。乙酉 曹操滅袁氏於青州,譚死,尚走烏丸。丙戌 曹操破高乾於太原,乾走荊州。丁亥 曹操破烏丸於聊城,袁尚走遼東,死。戊子 曹操殺太中大夫孔融,遂領丞相。荊州劉表卒,子琮繼事。劉備起諸葛亮於南陽,亮以吳周瑜兵大破曹操於赤壁,遂有荊州,稱牧,治公安。

甲申年すなわち紀元二〇四年、曹操は鄴城を攻め破って袁尚を敗り、冀州を併呑した。袁尚は北の青州に走り、袁譚はまた頭を回して袁尚に依附した。乙酉年二〇五年、曹操は青州で袁氏の残党を掃滅し、袁譚は戦死し、袁尚は烏桓に逃げ込んだ。丙戌年二〇六年、曹操は太原で袁紹の甥高幹を撃ち破り、高幹は南の荊州に奔った。丁亥年二〇七年、曹操は北に烏桓を征して勝ちを収め、袁尚は遼東に逃げ、公孫康に殺された――河北はここにすべて定まった。戊子年二〇八年、曹操は名士の太中大夫孔融を殺し、即座に自ら丞相に任じた。荊州牧劉表が病故し、その子劉琮が嗣いで曹に降った。劉備は南陽で三たび草廬を顧みて諸葛亮を請い出し、諸葛亮は東に孫権を連ね、周瑜の兵を借りて赤壁で曹操を大破した。劉備はこれによって荊州を拠有し、自ら荊州牧を称し、治所を公安に設けた。

己丑 孫權會劉備於京口,劉備表孫權為徐州牧,孫權表劉備為荊州牧。庚寅 曹操起銅爵臺於鄴。孫權南牧交州。辛卯 曹操平關中。益州劉璋會劉備於葭萌。孫權自京口徙治秣陵。壬辰 曹操割河以北屬鄴。孫權城石頭,改秣陵為建業。癸巳 曹操以冀之十郡稱魏國公,加九錫。劉備攻劉璋於成都。孫權捍曹操於濡須。

己丑年すなわち紀元二〇九年、孫権と劉備は京口で会見し、劉備は表を上げて孫権を推して徐州牧を領させ、孫権は表を上げて劉備を推して荊州牧を領させた――孫劉連盟はこれによって確立した。庚寅年二一〇年、曹操は鄴城に銅雀台を修築した。孫権は南に交州を経略した。辛卯年二一一年、曹操は関中の馬超・韓遂を平定した。益州牧劉璋は葭萌関で劉備と会見し、彼を蜀に迎えて張魯に対抗させたが、かえって後日に国を失う張本を為した。孫権は治所を京口から秣陵に移した。壬辰年二一二年、曹操は黄河以北の州郡を鄴城の管轄に割り帰させた。孫権は石頭城を修築し、秣陵を建業と改めた――すなわち後の南京である。癸巳年二一三年、曹操は冀州の十郡をもって魏国公に封ぜられ、九錫を加え賜り、漢に代わる跡はすでに明らかであった。劉備は転じて劉璋を攻め、兵は成都に向かった。孫権は濡須口で曹操の南下を防いだ。

経世之酉 二千二百四十二

甲午 漢獻帝二十六年,曹操殺皇后伏氏及二皇子,又破張魯米賊於漢中。劉備克成都,據有巴蜀。孫權取劉備三郡。乙未 曹操以女上皇后,又平張魯於漢中。孫權、劉備連兵攻曹操。丙申 曹操進爵為魏王,南伐吳。丁酉 曹操用天子服器。孫權稱表曹操,報以婚禮。

甲午年は漢の献帝在位二十六年、紀元二一四年である。曹操は伏皇后と彼女が生んだ二人の皇子を殺し、また漢中で五斗米道の首領張魯を撃ち破った。劉備は成都を攻克して巴蜀を占有した。孫権は劉備に長沙・零陵・桂陽の三郡を求めた。乙未年(二一五年)、曹操は娘曹節を宮中に送り立てて皇后とし、あわせて漢中の張魯を徹底的に平定した。孫権・劉備は一時争いを罷め、兵を連ねて曹操に対抗した。丙申年(二一六年)、曹操は魏公から爵を進めて魏王となり、南に下って呉を伐った。丁酉年(二一七年)、曹操は天子の規格の車服器物を使い始めた。孫権は表を上げて曹操に臣を称し、曹操は婚姻の締結をもって報いた。

戊戌 少府耿紀、司直韋晃殺曹操不克,伏誅。操攻劉備,進攻漢中。己亥 劉備取曹操漢中,稱王。孫權取劉備荊州,稱牧。關羽死之。庚子 改元建康。曹操卒,子丕繼事。是年,丕代漢命於鄴,是謂文帝,改國曰魏,元曰黃初。降帝為山陽公,葬太祖曹操於西陵。自鄴徙都洛陽。

戊戌年(紀元二一八年)、漢廷の少府耿紀・司直韋晃は許都で兵を挙げて曹操を謀殺しようとしたが、事敗れて誅された。曹操は即座に兵を転じて劉備を攻め、漢中に進撃した。己亥年(二一九年)、劉備は漢中を奪い取り、自ら漢中王と立った。孫権は虚に乗じて劉備の拠る荊州を襲い取り、自ら荊州牧を称した。蜀の将軍関羽は兵を敗って殺され、孫劉連盟はここに破裂した。庚子年(二二〇年)、改元して「延康」とした。この年曹操が去世し、その子曹丕が王位を承襲した。同年、曹丕は鄴城で漢の禅譲を受けた――これが魏の文帝であり、国号を「魏」と改め、年号を「黄初」とし、漢の献帝を山陽公に降し、その父太祖曹操を西陵に葬り、続いて鄴城から洛陽に都を移した。綿々四百年の漢朝の国祚はここに終わった。

辛丑 魏郊祀天地。是年劉備稱帝成都,建國曰蜀,元曰章武,諸葛亮為相。孫權自建業徙都鄂,改鄂為武昌。壬寅 魏加兵於吳。蜀伐吳,不利,敗於虢亭。是年,孫權稱王武昌,是謂文帝,建國曰吳,元曰黃武,通使於蜀,以修前好。癸卯 蜀主備卒於白帝城,太子禪繼,是謂後主,改元建興。魏與蜀和親。

辛丑年(紀元二二一年)、魏の文帝は南北郊で天地を祭祀し、天命を膺け受けたことを示した。同年、劉備は成都で帝を称し、国号はなお漢と称したが史家はこれを蜀と称す。年号を「章武」とし、諸葛亮をもって丞相とした。孫権は治所を建業から鄂県に移し、武昌と改名した。壬寅年(二二二年)、魏は兵を出して呉を伐った。蜀漢は東に征して呉を伐ったが失利し、猇亭(底本は虢亭と作る)で陸遜の火攻に遭って大敗した。同年、孫権は武昌で呉王を称し、邵雍はこれを呉文帝と称す。国号を「呉」と立て、年号を「黄武」とし、あわせて使者を遣わして蜀と通好し、夷陵の戦い以前の旧盟を修復した。癸卯年(二二三年)、蜀の主劉備は白帝城で病逝し、太子劉禅が嗣いだ――これが蜀漢の後主である。改元して「建興」とし、国事はすべて諸葛亮に託した。魏と蜀もまた一時和親した。

甲辰 魏伐吳。乙巳 魏伐吳,治兵廣陵。蜀諸葛亮平四郡蠻。丙午 魏帝丕終,太子叡嗣位,是謂明帝。司馬懿為驃騎大將軍。丁未 魏改元太和,有事於南郊及明堂。蜀諸葛亮出師漢中。戊申 蜀諸葛亮圍魏陳倉,吳破魏石亭。己酉 蜀克魏武都,吳孫權稱帝,改元黃龍,自武昌復徙都建業。

甲辰年(紀元二二四年)、魏は兵を出して呉を伐った。乙巳年(二二五年)、魏は再び呉を伐ち、広陵で水軍を大いに閲した。蜀漢の諸葛亮は南に征し、南中四郡の夷人の叛乱を平定して後顧の憂を除いた。丙午年(二二六年)、魏の文帝曹丕が去世し、太子曹叡が嗣いだ――これが魏の明帝であり、司馬懿をもって驃騎大将軍とした。丁未年(二二七年)、魏は改元して「太和」とし、南郊と明堂で大祀を行った。諸葛亮は漢中に進駐し、《出師表》を上げて北伐を準備した。戊申年(二二八年)、諸葛亮は魏の陳倉を包囲攻撃し、東呉は石亭で魏軍を大破した。己酉年(二二九年)、蜀軍は魏の武都を攻め取った。孫権は正式に帝を称し、改元して「黄龍」とし、都城を武昌から建業に移し戻した――三国鼎立の局はここに形制が整った。

庚戌 魏伐蜀,假司馬懿黃鉞。蜀諸葛亮攻魏天水。辛亥 蜀圍魏祁山。壬子 蜀息軍黃沙。吳改元嘉和。癸丑 魏改元青龍。蜀伐魏,師出褒斜。甲寅 魏南伐吳,至於壽春;西伐蜀,至於渭南。蜀諸葛亮卒於師。吳伐魏,師出合肥。是年,漢山陽公卒。乙卯 魏大起洛陽宮室。司馬懿為太尉。蜀以蔣琬為大將軍,專國事。

庚戌年(紀元二三〇年)、魏は兵を発して蜀を伐ち、司馬懿に黄鉞を授けて征伐を専らにさせた。蜀漢の諸葛亮は魏の天水に進攻した。辛亥年(二三一年)、蜀軍は魏の祁山を包囲攻撃した。壬子年(二三二年)、蜀軍は黄沙に屯駐して兵を休め穀を積んだ。呉は改元して「嘉禾」とした(底本は嘉和と作る)。癸丑年(二三三年)、魏は改元して「青龍」とした。蜀は兵を出して魏を伐ち、褒斜谷を取って進んだ。甲寅年(二三四年)、魏は南に東呉を征して寿春に至り、西に蜀漢を拒いで渭南に至った。諸葛亮は五丈原の軍中で病逝し、北伐の大業は中輟した。東呉もまた合肥に兵を出して魏を伐った。同年、位を遜した漢の献帝・山陽公劉協が去世した。乙卯年(二三五年)、魏は土木を大いに興して洛陽の宮室を造営し、司馬懿は太尉に昇任した。蜀漢は蒋琬をもって大将軍とし、国政を総攬させた。

丙辰。丁巳 魏改元景初。公孫淵以遼東叛,稱王。戊午 魏司馬懿平遼東。蜀改元延熙,吳改元赤烏。己未 魏明帝叡終,齊王芳繼,司馬懿及曹爽輔政。庚申 魏改元正始。辛酉 吳全琮伐魏,軍出淮南。壬戌 蜀姜維伐魏,軍出漢中。癸亥 魏帝加元服。司馬懿伐吳,至於舒。蜀蔣琬伐魏,軍出漢中。吳伐魏,軍出六安。

丙辰年(紀元二三六年)は記すべきことなし。丁巳年(二三七年)、魏は改元して「景初」とした。遼東太守公孫淵は魏を背いて自立し、僭して燕王を称した。戊午年(二三八年)、魏の太尉司馬懿は軍を率いて遼東を平定し、公孫淵を斬った。蜀漢は改元して「延熙」、東呉は改元して「赤烏」とした。己未年(二三九年)、魏の明帝曹叡が去世し、養子の斉王曹芳が嗣ぎ、司馬懿と大将軍曹爽がともに遺詔を受けて政を輔佐した――曹魏内部の両派の対峙の勢いはここから形成された。庚申年(二四〇年)、魏は改元して「正始」とした。辛酉年(二四一年)、呉の将軍全琮は魏を伐ち、兵を淮南に出した。壬戌年(二四二年)、蜀の将軍姜維は魏を伐ち、兵を漢中に出した。癸亥年(二四三年)、魏帝曹芳が冠礼を行った。司馬懿は呉を伐ち、舒県に進んだ。蜀漢の蒋琬は魏を伐ち、兵を漢中に出した。東呉もまた魏を伐ち、兵を六安に出した。

経世之戌 二千二百四十三

甲子 魏主芳五年,蜀主禪二十一年,吳主權二十三年。魏曹爽伐蜀,無功。乙丑 蜀伐魏,費褘師出漢中。吳將馬茂作難,夷三族。丙寅。丁卯 魏曹爽專政,何晏秉機。司馬懿稱病。戊辰 蜀伐魏,費褘師出漢中。己巳 魏曹爽奉其君謁高平陵,太傅司馬宣王稱兵於內,夷大將軍曹爽及其支黨曹義、曹訓、曹彥、何晏、丁謐、鄧彪、畢軌、李勝、桓范、張當三族,迎帝還宮,改元嘉平,復皇太后。懿加九錫,專國事。

甲子年は魏帝曹芳在位五年、蜀の後主劉禅二十一年、呉の主孫権二十三年、紀元二四四年である。魏の大将軍曹爽は蜀を伐ったが、師を労して功なし。乙丑年(二四五年)、蜀漢の費禕(底本は費袆と作る)は漢中を出て魏を伐った。呉の将馬茂は謀逆の事が発覚し、三族を滅ぼされた。丙寅年(二四六年)は事なし。丁卯年(二四七年)、曹爽は朝政を独り占めにし、名士何晏が機要を執った。太傅司馬懿は病を托して出ず、密かに勢いを蓄えた。戊辰年(二四八年)、費禕は再び漢中を出て魏を伐った。己巳年(二四九年)、曹爽は魏帝に陪同して城を出て高平陵を謁し、司馬懿は京城の空虚に乗じて洛陽で兵を起こして権を奪い、曹爽およびその党羽の曹羲・曹訓・曹彦・何晏・丁謐・鄧颺・畢軌・李勝・桓範・張当らの三族を誅滅し(底本は「曹羲」を曹義、「鄧颺」を鄧彪と作る)、帝を迎えて宮に還し、改元して「嘉平」とし、かねて幽禁されていた郭太后の名位を回復した。司馬懿は九錫を加賜され、国政を独り占めにし、曹魏の兵柄はこれより司馬氏に帰した。

庚午 魏伐吳南郡。辛未 魏司馬懿宣王卒,子師繼事。吳改元太元。壬申 魏伐吳,不利。吳改元神鳳。權卒,子亮繼,改元建興。癸酉 吳、蜀伐魏。甲戌 魏亂,司馬師廢其君芳,立高貴鄉公髦,改元正元。師假黃鉞,專制,稱景王。蜀伐魏,姜維拔魏三城。吳改元五鳳。乙亥 魏司馬師伐吳,平淮南,還許昌,卒。弟昭繼事,為大將軍,隸尚書事,專制。蜀姜維敗魏軍於臨洮。吳孫峻敗魏軍於壽春。

庚午年(紀元二五〇年)、魏は兵を出して東呉の南郡を進攻した。辛未年(二五一年)、魏の太傅司馬懿が去世し、諡号は宣王、長男司馬師がその権位を継いだ。呉は改元して「太元」とした。壬申年(二五二年)、魏は呉を伐ち、東興で挫折した。呉は改元して「神鳳」とし、孫権が去世し、幼孫亮が嗣ぎ、改元して「建興」とした。癸酉年(二五三年)、呉・蜀は両路から兵を出して魏を伐った。甲戌年(二五四年)、魏廷に変が生じ、司馬師は魏帝曹芳を廃黜し、改めて高貴郷公曹髦を立て、改元して「正元」とした。司馬師は黄鉞を受け、国政を独断し、号を景王とした。蜀の将姜維は魏を伐ち、三城を攻め取った。呉は改元して「五鳳」とした。乙亥年(二五五年)、司馬師は東征して淮南の毋丘倹の乱を平定し、許昌への回師途中で病死し、その弟司馬昭が大権を引き継ぎ、大将軍・録尚書事となり朝政を専擅した。蜀の将姜維は臨洮で魏軍を大敗させ、呉の将孫峻は寿春で魏軍を撃退した。

丙子 魏改元甘露,大敗蜀軍於上邽。司馬昭稱文王,假黃鉞。吳改元太平,大將軍孫峻卒,國亂。丁丑 魏大將軍諸葛誕以揚州叛,入於吳。蜀伐魏,姜維師出駱谷。吳主亮始親政事。戊寅 魏司馬昭伐吳,拔壽春,誅諸葛誕。蜀改元景耀,宦氏黃皓專政。吳亂,大將軍孫□廢其君亮,立亮弟休,改元永安。作逆,伏誅。己卯。庚辰 魏亂,司馬昭弒其君髦,立常道鄉公璜,改元景元。昭加九錫,稱晉國公,專制。

丙子年(紀元二五六年)、魏は改元して「甘露」とし、上邽で蜀軍を大敗させた。司馬昭は文王と号し、黄鉞を受けた。呉は改元して「太平」とし、権臣大将軍孫峻が死に、国中はこれに従って大乱した。丁丑年(二五七年)、魏の征東大将軍諸葛誕は揚州に拠って反し、東呉に投げ寄った。姜維は駱谷を出て魏を伐った。呉の主孫亮は政を親しく始めた。戊寅年(二五八年)、司馬昭は呉を伐ち、寿春を攻克して諸葛誕を誅殺した。蜀漢は改元して「景耀」とし、宦官黄皓が権を専らにし始めた。東呉は政変し、大将軍孫綝(底本はこの字を闕く)は孫亮を廃黜し、改めて孫亮の兄孫休を立て、改元して「永安」とし、孫綝はその後謀逆して誅された。己卯年(二五九年)は事なし。庚辰年(二六〇年)、魏国は大乱し、司馬昭は傀儡たるを甘んじない魏帝曹髦を弑殺し、改めて常道郷公曹璜を立てた――すなわち魏元帝曹奐であり、改元して「景元」とした。司馬昭は九錫を加賜され、晋国六に封ぜられ、朝綱を独断した。

辛巳。壬午 魏鄧艾、鍾會伐蜀。癸未 魏滅蜀,徙其君於洛陽。蜀改元炎興。是年,國亡。吳出軍壽春,救蜀不克。甲申 司馬昭進爵為晉王,增郡二十,用天子服器。改元咸熙,以檻車徵鄧艾。鍾會以蜀叛。吳孫休卒。濮陽王興、中軍張布廢休子,而立權廢子和之子皓,改元元興。皓立,誅興及布。乙酉 魏司馬昭卒,子炎繼事。是年,炎代魏命,是謂武帝,改國為晉,元曰太始。降其君璜為陳留王,徙於鄴。吳徙都武昌,改元甘露。

辛巳年(紀元二六一年)は事なし。壬午年(二六二年)、魏の将鄧艾・鍾会は道を分かち蜀を伐った。癸未年(二六三年)、魏は蜀漢を滅ぼし、後主劉禅を洛陽に遷した。蜀は改元して「炎興」としたが、同年国亡んだ。東呉は兵を出して寿春で蜀を救おうとしたが、及ばずして止んだ。甲申年(二六四年)、司馬昭は爵を進めて晋王となり、二十郡を増封し、天子の車服を用いた。改元して「咸熙」とし、囚車をもって鄧艾を京に召した。鍾会は蜀に拠って反した。呉の主孫休が去世し、濮陽興・左将軍張布は孫休の子を廃し、改めて孫権の廃太子孫和の子孫皓を立て、改元して「元興」とした。孫皓は即位するや濮陽興と張布を誅殺した。乙酉年(二六五年)、司馬昭が去世し、その子司馬炎が位を襲い、同年司馬炎は魏の禅譲を受けた――これが晋武帝であり、国号を「晋」と改め、年号を「泰始」(底本は太始)とし、魏帝曹奐を陳留王に降して鄴城に遷居させた。東呉は都を武昌に遷し、改元して「甘露」とした。

丙戌 吳改元寶鼎,復還建業。丁亥 晉立子衷為皇太子。戊子 吳伐晉。己丑 吳改元建衡,南伐交阯。庚寅 吳孫秀奔晉。辛卯 吳平交阯。蜀劉禪卒於晉。壬辰 晉賈充以女上太子妃,遂為司空。吳改元鳳凰。癸巳 晉何曾為司徒。吳師寇晉弋陽。

丙戌年(紀元二六六年)、呉は改元して「宝鼎」とし、また都を建業に遷し戻した。丁亥年(二六七年)、晋武帝は次子司馬衷を立てて皇太子とした――すなわち後の晋恵帝である。戊子年(二六八年)、呉は兵を出して晋を伐った。己丑年(二六九年)、呉は改元して「建衡」とし、南に交趾を征した。庚寅年(二七〇年)、呉の宗室孫秀は孫皓の猜殺を恐れて晋朝に奔った。辛卯年(二七一年)、呉は交趾を平定した。晋に降った蜀漢の後主劉禅は洛陽で去世した。壬辰年(二七二年)、晋臣賈充は娘賈南風を送って太子妃となし、すぐに司空に昇任した――この婚姻は後に恵帝の一代の大禍を醸した。呉は改元して「鳳凰」とした。癸巳年(二七三年)、晋は何曾をもって司徒とした。呉軍は晋の弋陽を進犯した。

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