Libo

経世之午 二千二百二十七

宋 · 邵雍 · 第14巻 / 39

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

甲子 秦始皇帝十年,呂不韋坐嫪毐事免相,李斯為相。齊趙來置酒,復華陽太后於甘泉宮。 乙丑 秦王翦、桓拔趙九城。趙悼襄王卒,子遷繼。秦兵攻鄴。 丙寅 秦會魏伐楚及韓。文信侯呂不韋自殺。 丁卯 秦桓大敗趙軍十萬於平陽。韓公子非使秦,不還。

甲子年は秦の始皇帝十年、すなわち紀元前二三七年であり、本「世」はここから起算する。呂不韋は嫪毐の一件に連坐して相位を免かれ、李斯が後任の相となった。斉・趙の両国は使者を秦に遣わして酒宴を設け、修好を結んだ。秦王は華陽太后を甘泉宮に迎え戻した。乙丑年(前二三六年)、秦の将軍王翦・桓齮が趙の九城を攻め取った。趙の悼襄王が死去し、その子の迁が嗣いだ。秦兵は鄴城に進攻した。丙寅年(前二三五年)、秦は魏と会して楚および韓を伐った。文信侯呂不韋は罪を畏れて鴆を飲み自殺した。丁卯年(前二三四年)、秦の将軍桓齮は平陽で趙軍十万を大いに破った。韓の公子韓非は命を受けて秦に使いしたが、李斯に陥れられて秦の獄で死に、帰らなかった。

戊辰 秦桓破趙宜安及赤麗,韓王安朝秦。 己巳 秦伐趙,一軍攻鄴,一軍攻狼孟。燕太子丹自秦逃歸。趙李牧扞秦有功。 庚午 魏獻秦麗邑。 辛未 秦內史騰滅韓,獲其王,以其地為潁川郡。 壬申 秦王翦下井陘,大破趙軍,進圍鉅鹿。趙以趙蔥代李牧、顏聚代司馬尚將。

戊辰年(前二三三年)、秦の将軍桓齮は趙の宜安と赤麗を陥とした。韓王安は秦に入朝し、すでに臣服したも同然であった。己巳年(前二三二年)、秦は趙を伐ち、一軍は鄴を、一軍は狼孟を攻めた。秦に人質として在った燕の太子丹は本国に逃げ帰った。趙の将軍李牧は秦に抗して功があり、二度にわたり秦軍を撃退した。庚午年(前二三一年)、魏は麗邑を秦に献じた。辛未年(前二三〇年)、秦の内史腾が韓を滅ぼし、韓王安を捕らえ、韓の地を潁川郡とした――六国の中で韓が最初に亡んだ。壬申年(前二二九年)、秦の将軍王翦は井陘を攻め下し、趙軍を大破して巨鹿を包囲した。趙王は反間計にかかり、李牧を趙葱に、司馬尚を顔聚に替えて将とし、自ら長城を崩した。

癸酉 秦王翦滅趙,獲其王,以其地為趙郡。楚幽王卒,母弟猶立,庶兄負芻殺猶,代立。魏景愍王卒,子假繼。趙亡太子嘉稱王於代,會燕軍於上谷。 甲戌 秦王翦破燕軍於易水。燕荊軻使秦,不還。 乙亥 秦王翦、王賁滅燕,獲其太子丹。翦謝病還,拔楚十城。

癸酉年(前二二八年)、王翦は趙を滅ぼし、趙王迁を捕らえ、趙の地を趙郡とした。楚の幽王が死去し、その同母弟の犹が嗣いだが、庶兄の負芻が犹を殺して自立した。魏の景愍王が死去し、その子の假が嗣いだ。趙の逃亡した太子嘉は代の地で王を称し、上谷で燕軍と合流して最後の抵抗を試みた。甲戌年(前二二七年)、王翦は易水で燕軍を破った。燕は荊軻を遣わし、督亢の地図を献ずる名目で秦に入らせて行刺させたが、事敗れて殺され、帰らなかった。乙亥年(前二二六年)、王翦・王賁は燕を滅ぼし、燕の太子丹を捕らえた。王翦は病を辞して郷里に帰り、秦軍はさらに楚の十城を攻め取った。

丙子 秦王賁滅魏,決河灌大梁,獲其王。 丁丑 秦王翦破楚,殺其將項燕。楚喪師於蘄,走壽春。 戊寅 秦王翦、蒙武滅楚,獲其王,以其地為楚郡。 己卯 秦王賁平遼東,獲燕王。平代,獲趙太子。王翦定越,以其地為會稽郡。

丙子年(前二二五年)、秦の将軍王賁は魏を滅ぼし、黄河の堤を決壊させて大梁に水を注ぎ、魏王假を捕らえた。丁丑年(前二二四年)、王翦は楚軍を大破し、楚の将軍項燕――項羽の祖父――を斬った。楚軍は蘄の地で潰敗し、寿春に退き保った。戊寅年(前二二三年)、王翦と蒙武は楚を滅ぼし、楚王負芻を捕らえ、楚の地を楚郡とした。己卯年(前二二二年)、王賁は遼東を平定して燕王喜を捕らえ、また代を平定して趙の代王嘉を捕らえた。王翦は百越を平定し、越の地を会稽郡とした。

庚辰 秦王翦滅齊,獲其王,以其地為齊郡,東至海及朝鮮,西至臨洮、羌中,南至北向戶,北至陰山、遼東,分天下地為三十六郡,罷侯置守,鑄天下兵為十二金人,徙天下豪富十二萬戶於咸陽,大建宮室,作阿房,為萬世業,稱始皇帝。更以建亥月為歲首。

庚辰年(前二二一年)、王翦は斉を滅ぼし、斉王建を捕らえ、斉の地を斉郡とした。六国はここに全て滅んだ。秦の疆域は東は大海と朝鮮に至り、西は臨洮・羌中に至り、南は北向戸――すなわち嶺南で日影が北を向く地――に至り、北は陰山・遼東に至った。始皇は天下を三十六郡に分け、封侯を廃して郡守を置き、天下の兵器を取り上げて十二の金人を鋳造し、天下の豪富十二万户を咸陽に移し、宮室を大いに建て阿房宮を造営して、万世伝わる業と自ら任じ、ここに「始皇帝」と号した。暦法でも建亥の月、すなわち夏暦十月をもって一年の始めと改めた。

辛巳 西巡狩,至於隴右、北地。及回中,乃復。 壬午 東巡狩,至於鄒嶧,封太山,禪梁甫,南登琅邪。丞相隗林、王綰,卿士李斯、王戊,五大夫趙嬰,將軍楊樛及九侯,勒帝功於金石,表於海上。遂南至於衡山,浮江自南郡由武關,乃復。 癸未 東巡狩,至博浪沙中遇盜,遂登之罘,刻石紀功。北由上黨,乃復。 甲申 乙酉

辛巳年(前二二〇年)、始皇は西に巡狩し、隴右・北地に至り、回中を経て還った。壬午年(前二一九年)、東に巡狩して鄒嶧山に至り、泰山で封の礼、梁甫で禅の礼を行い、南に琅邪台に登った。随行の丞相隗林・王綰、卿士李斯・王戊、五大夫趙嬰、将軍楊樛および九人の列侯は、皇帝の功業を金石に刻み、碑を海辺に立てた。続いて南の衡山に至り、江を浮かんで南郡を経て武関から出て還った。癸未年(前二一八年)、再び東巡し、博浪沙に至って刺客の襲撃に遭った――張良が力士に鉄椎をもって行刺させた一件である。続いて之罘山に登って石を刻み功を記し、北の上党を経て還った。甲申(前二一七年)・乙酉(前二一六年)は記事なし。

丙戌 北巡狩,至於碣石。由上郡,乃復。使蒙恬擊胡,取河南地。 丁亥 南取陸梁地,為桂林象郡。又北斥匈奴,自榆中並河以東屬之陰山,為三十四縣,城河上為塞。又使蒙恬渡河,取高闕、陶山,北假中築亭障。 戊子 置酒咸陽宮,聚天下書焚之。 己丑 聚天下學士於驪山,坑之。廣阿房宮,自咸陽達於渭南。庚寅

丙戌年(前二一五年)、始皇は北に巡狩して碣石に至り、上郡を経て還った。蒙恬を遣わして北に匈奴を撃ち、河套以南の地を取らせた。丁亥年(前二一四年)、南に陸梁の地――現在の両広一帯――を取り、桂林・象郡を置いた。また北に匈奴を逐い、楡中から黄河に沿って東の陰山に至るまでを領し、三十四県を設け、河に沿って城を築いて塞とした。さらに蒙恬に命じて河を渡らせ、高闕・陶山を取り、北假一帯に亭障を築いて戍守させた。戊子年(前二一三年)、始皇は咸陽宮に酒宴を設けたが、博士の淳于越が分封の復行を唱えたため、李斯が私学の禁絶を奏請し、ここに天下の詩書百家の言を集めて焼き捨てた。己丑年(前二一二年)、また天下の方士・儒生を驪山に集めて坑殺した――これがすなわち「焚書坑儒」である。同時に阿房宮を増築し、咸陽から渭水の南にまで連ねた。庚寅(前二一一年)は記事なし。

辛卯 南巡狩,至於雲夢。右丞相馮去疾留守,左丞相李斯從行。少子胡亥請行,至九疑浮江,東至於會稽,又北至於琅邪,由平原達沙丘,崩。左丞相李斯、宦氏趙高假帝書,更立少子胡亥,賜上郡太子、將軍蒙恬死,遂還咸陽。胡亥立,是謂二世皇帝。葬始皇帝驪山。

辛卯年(前二一〇年)、始皇は南に巡狩して雲夢沢に至った。右丞相の馮去疾は咸陽を留守し、左丞相の李斯は随行し、幼子の胡亥も同行を願い出た。一行は九疑山に至り、江を浮かべて東の会稽に下り、また北に琅邪に上り、平原津を取って進み、沙丘平台に至ったとき始皇は病死した。左丞相李斯と宦官の趙高は遺詔を偽造し、幼子胡亥を改めて立て、上郡で軍を監していた長子扶蘇と大将蒙恬に死を賜り、その後咸陽に還った。胡亥が即位し、これが秦の二世皇帝である。始皇は驪山に葬られた。

壬辰 宦氏趙高為中郎令,專政。東巡狩,至於會稽,北又至於遼東,乃復。大殺王族及群臣,復廣阿房,徵天下材士,以五萬人為屯衛,咸陽三百里不得食其谷。戍卒陳勝稱王於楚,關東郡邑皆殺其令長,以應陳勝,而西攻秦。陳勝將武臣稱王於趙,魏咎稱王於魏,狄人田儋稱王於齊,楚人項梁舉兵會稽,徐人劉季稱兵豐沛,陳勝兵西攻秦,至於戲。

壬辰年(前二〇九年)、宦官の趙高は中郎令となり、朝政を独り占めにした。二世は東に巡狩して会稽に至り、北はまた遼東にまで至って還った。彼は宗室と群臣を大いに誅殺し、阿房宮の増築を続け、天下の壮丁を徴発して五万人を京師の屯衛とし、咸陽三百里以内の百姓には自ら作った穀物を食べることを許さなかった。戍卒の陳勝が楚の地で挙事して王を称すと、函谷関以東の郡県はこぞってその地の令長を殺して応じ、転じて西の秦を攻めた。陳勝の部将武臣は趙の地で王を称し、魏咎は魏の地で王を称し、狄県人の田儋は斉の地で王を称し、楚人の項梁は会稽で起兵し、徐州人の劉季――すなわち劉邦――は豊・沛で起兵した。陳勝の軍は西に秦を攻め、戯水まで打ち進んで咸陽に迫った。

癸巳 秦殺右丞相馮去疾、將軍馮劫,及囚左丞相李斯,諫罷阿房故也。將軍章邯滅陳勝於城父,破項梁於定陶,平田儋於臨濟,渡河北攻趙。田儋死,其弟榮立儋子市為王。陳勝將秦嘉立勝子景駒為王,項梁殺景駒,求楚懷王孫心,立之保盱臺。項梁死,其子羽軍彭城,其將劉季軍碭山。楚王心收項梁軍,自盱臺徙彭城,以劉季為碭郡長,封武安侯,俾南略地而西攻秦。以項羽為魯國公,封長安侯,俾北救趙而西攻秦。約先入關者王。

癸巳年(前二〇八年)、秦の二世は右丞相馮去疾と将軍馮劫を殺し、また左丞相李斯を囚えた――その起こりは、ただ彼らが阿房宮の停建を諫めたことにあった。秦の将軍章邯は城父で陳勝を撃ち滅ぼし、定陶で項梁を破り、臨済で田儋を平らげ、その後黄河を渡って北の趙を攻めた。田儋は戦死し、その弟田栄は田儋の子田市を立てて斉王とした。陳勝の部将秦嘉は陳勝の子景駒を立てて王としたが、項梁は景駒を殺し、楚の懐王の孫熊心を訪ね求めて立てて楚王とし、盱台を守らせた。項梁が戦死すると、その子項羽(按ずるに項羽は実は項梁の甥である)は彭城に軍を屯し、その部将劉季は碭山に軍を屯した。楚王熊心は項梁の旧部を収編し、盱台から彭城に都を移し、劉季を碭郡長とし武安侯に封じ、命じて南に地を略し、その後西に秦を攻めさせた。項羽を魯国公とし長安侯に封じ、命じて北に趙を救い、その後西に秦を攻めさせた。そして諸将と約束した――先に関中に入る者を関中王とする、と。

経世之未 二千二百二十八

甲午 秦二世三年,中郎令趙高稱丞相,殺李斯,及弒其君胡亥於望夷宮,代立不克,立二世兄之子嬰為王,嬰立,夷趙高三族。沛公兵十萬,由武關入,至咸陽。秦子嬰降於軹道,收圖籍,封宮室府庫,示眾人以約法三章,還軍灞上,以待東諸侯;項羽北救趙,殺大將軍宋義,至鉅鹿,大敗章邯軍於洹水,秦軍降者二十萬,悉坑之於新安。合齊、趙、魏、韓、燕五國之兵四十萬,由函谷而入,會沛公於戲,而屠咸陽,殺子嬰,收子女玉帛,焚宮室府庫。

甲午年は秦の二世三年、すなわち紀元前二〇七年であり、本「世」はここから起算する。中郎令趙高は自ら丞相を称し、まず李斯を殺し、また望夷宮で二世胡亥を弑した。彼は自立しようとしたが群臣が服さず、やむなく二世の兄の子である子嬰を立てて秦王とした。子嬰は即位後、計を設けて趙高を誅殺し、その三族を夷した。沛公劉邦は兵十万を率いて武関から攻め入り、咸陽に直抵した。秦王の子嬰は軹道のほとりで降伏し、劉邦は国家の図籍・档案を収め、宮室府庫を封じ、関中の父老と法三章を約した――人を殺す者は死、人を傷つけおよび盗む者は罪に抵る――そして軍を灞上に退き、関東の諸侯を静かに待った。項羽は北に上って趙を救い、まず逗留して進まない主将宋義を殺し、巨鹿に進み、洹水で章邯の軍を大破し、秦軍の降者二十万は新安ですべて坑殺された。項羽は斉・趙・魏・韓・燕の五国の兵四十万を合わせて函谷関から入関し、戯水で沛公と相会し、続いて咸陽を屠り、子嬰を殺し、子女玉帛を掠め取り、宮室府庫を焼いた。

乙未 項羽渝約,自主封建,立楚王心為義帝,徙之江南,都郴;封沛公季為漢王,遷之漢中,都南鄭;分秦關中為三,一封降將章邯為雍王,都廢邱;一封降將司馬欣為塞王,都櫟陽;一封降將董翳為翟王,都高奴。

乙未年(前二〇六年)、項羽は「先に関に入る者を王とする」という旧約を破り、自ら天下の分封を取り仕切った。楚王熊心を義帝と尊びながら、彼を江南に移して郴県に都させ、名は尊ぶも実はその権を奪った。先に関に入った沛公劉季を漢王に封じ、僻遠の漢中に移して南鄭に都させた。また秦の関中の地を三つに分け、三人の秦の降将に委ねて守らせ、漢王の東出の道を塞いだ――章邯を雍王に封じて廃丘に都させ、司馬欣を塞王に封じて櫟陽に都させ、董翳を翟王に封じて高奴に都させた。これが後世にいう「三秦」である。

分齊為三,一封齊將田都為臨淄王,都臨淄;一封齊將田安為濟北王,都博陽;一封齊王田市為膠東王,都即墨。分楚為三,一封楚將英布為九江王,都六;一封楚將共敖為臨江王,都江陵;一封番君吳芮為衡山王,都邾。分趙為二,一封楚將張耳為常山王,都襄國;一封趙王歇為代王,都雁門;分韓為二,一封楚將申陽為河南王,都洛陽;一封韓成為韓王,都陽翟。分魏為二,一封趙將司馬卯為殷王,都朝歌;一封魏王豹為魏王,都平陽。分燕為二,一封燕將臧荼為燕王,都薊;一封燕王韓廣為遼東王,都無終。

項羽はまた斉国を三つに分けた。斉の将軍田都を臨淄王に封じて臨淄に都させ、斉の将軍田安を済北王に封じて博陽に都させ、もとの斉王田市を改めて膠東王に封じて即墨に都させた。楚の地を三つに分け、楚の将軍英布を九江王に封じて六県に都させ、楚の将軍共敖を臨江王に封じて江陵に都させ、番県令の呉芮を衡山王に封じて邾に都させた。趙国を二つに分け、楚の将軍張耳を常山王に封じて襄国に都させ、もとの趙王歇を改めて代王に封じて雁門に都させた。韓国を二つに分け、楚の将軍申陽を河南王に封じて洛陽に都させ、韓成を韓王に封じて陽翟に都させた。魏国を二つに分け、趙の将軍司馬卯を殷王に封じて朝歌に都させ、もとの魏王豹を改めて魏王に封じて平陽に都させた。燕国を二つに分け、燕の将軍臧荼を燕王に封じて薊に都させ、もとの燕王韓広を改めて遼東王に封じて無終に都させた。この一連の分封の通例は、みな自らに従って関に入った部将を引き立て、もとの六国の君を偏遠へ移すものであり、怨望はここから丛生した。

封吳芮將梅鋗十萬戶侯,趙歇將陳餘環三縣,田市將田榮不及封。羽自稱西楚伯王,王梁地九郡,都彭城。諸王之在戲下者,咸遣罷兵就國。羽亦東出,使人殺義帝於江上,殺韓王成,以鄭昌代之。臧荼殺韓廣於燕,並有其地;田榮殺田都、田安、田市於齊,並有其地,稱齊王,彭越受榮符以覆梁地,陳餘受榮兵以破常山。趙王歇自代遷都鉅鹿,張耳走漢。項羽北破田榮於齊,榮死,弟橫立榮子廣,復保城陽。

項羽はまた呉芮の部将梅鋗を十万戸侯に封じ、趙歇の部将陳余に三県の環食の地を与えたが、田市の部将田栄には全く封賞がなかった。項羽は自ら西楚の霸王と称し、梁の地九郡を有して彭城に都を建てた。戯下で封を受けた諸王は、みな兵を解いて国に就かされた。項羽は続いて東に帰り、人を遣わして江上で義帝を殺させ、また韓王成を殺して、鄭昌を立てて代えさせた。ここにおいて各地で一斉に反発が起こった。臧荼は燕の地で韓広を殺してその地を併せ呑み、田栄は斉の地で田都・田安・田市を殺して三斉を併せ呑み斉王と称し、また彭越に符を発して梁の地を撹乱させ、陳余に兵を発して常山を破らせた。趙王歇は代の地から巨鹿に迁り戻り、張耳は兵を敗って漢王に奔った。項羽は北に上って斉を攻め、田栄を破り、田栄は敗死し、その弟田横は田栄の子田広を立てて王とし、城陽に退き保って抵抗を続けた――項羽が斉の地に陥って身動きが取れなくなったのは、まさに漢王に東出の機会を与えた。

丙申 漢王自南鄭東收三秦、二韓五侯兵,合三河士五十六萬東伐楚,入彭城,取重寶美女,為置酒高會。項羽至自伐齊,大敗漢軍於睢水,殺十餘萬,並獲漢王父母妻子。漢王退保滎陽,築甬道以通敖倉粟,使將韓信、張耳攻魏趙。丞相蕭何兵至自關中,自此日戰於京索間。

丙申年(前二〇五年)、漢王劉邦は南鄭から東に出て、三秦と両韓の地を収め、五路の諸侯と三河の士卒あわせて五十六万を会合して東に楚を伐ち、彭城に攻め入り、重宝・美女を掠め取り、日々酒宴を設けて高会した。項羽は伐斉の前線から軍を回し、睢水で漢軍を大破し、漢兵十余万を殺し、あわせて漢王の父母・妻子を捕らえた。漢王は滎陽に退き守り、両側に塀のある甬道を築いて敖倉の蓄穀を運び通し、韓信・張耳を遣わして北に魏・趙を攻めさせた。丞相蕭何もまた関中から兵員を切れ目なく送り届けた。これより漢と楚は京・索の間で日々交戦し、戦局は相持に入った。

丁酉 楚圍漢於滎陽,拔之,紀信、周苛、樅公死之。漢退師,保成皋。九江王英布降於漢,彭越破楚軍於下邳,韓信、張耳平魏、趙,還軍修武。漢王自成皋北渡河,至修武,使張耳收兵越地,韓信伐齊,盧綰、劉賈南渡白馬津,會彭越攻楚。楚又拔漢成皋。 戊戌 漢復取成皋,與楚對兵廣武。韓信平齊,乞封假王。項羽請和,約分天下於鴻溝,歸漢王父母妻子,還軍至陽夏。漢軍復至,楚復敗漢軍。漢又大會韓信、彭越、英布及諸侯兵於垓下。

丁酉年(前二〇四年)、楚軍は漢王を滎陽に包囲しその城を陥とした。紀信は漢王に扮して楚を欺いて死に、周苛・樅公もともに殉難した。漢王は成皋に退き守った。九江王英布は漢王に降り、彭越は下邳で楚軍を破り、韓信・張耳は魏・趙を平定して修武に軍を戻した。漢王は成皋から北に黄河を渡って修武に至り、韓信の兵符を取り上げ、張耳には趙の地に行って兵を集めさせ、韓信には東に斉国を伐たせた。また盧綰・劉賈を遣わして南に白馬津を渡らせ、彭越と合わせて楚軍の後方を攪乱させた。楚軍はまた漢軍の成皋を陥とした。戊戌年(前二〇三年)、漢軍は再び成皋を奪い返し、楚軍と広武の澗を隔てて対峙した。韓信は斉の地を平定し、仮の斉王に封ぜられるよう請うた。項羽は勢い窮まり和平を請い、双方は鴻溝を界として天下を中分すると約し、楚は漢王の父母・妻子を返し、続いて兵を引き東に帰って陽夏に至った。漢軍は約を破って追撃したが、また楚軍に敗れた。漢王はここにおいて韓信・彭越・英布および諸侯の兵を垓下に大いに集めた。

己亥 漢滅楚,項羽死於東城。漢王以魯國公禮,葬羽於穀城。楚之諸侯而王者並降封侯,封齊王韓信為楚王,治下邳;建成侯彭越為梁王,治定陶;九江王英布為淮南王,治廣陵;韓王信為韓王,治陽翟;衡山王吳芮為長沙王,治臨湘。肇帝位於汜水之陽,西都長安,大建宮室。燕王臧荼不恭命,攻下代郡。往平之,獲臧荼。以太尉盧綰為燕王。齊王田廣卒,叔橫立,入於海。

己亥年(前二〇二年)、漢軍は垓下の決戦で楚を滅ぼし、項羽は東城まで突き抜けたが、ついに烏江で自刎した。漢王は魯国公の礼をもって項羽を穀城に葬った。もと楚方に属して王を称した諸侯はすべて降格して侯とされた。斉王韓信を改めて楚王に封じて下邳を治めさせ、建成侯彭越を梁王とし定陶を治めさせ、九江王英布を淮南王とし広陵を治めさせ、韓王信はそのまま韓王として陽翟を治め、衡山王呉芮を長沙王とし臨湘を治めさせた。劉邦は氾水の北で皇帝位に即き、西の長安に都を定め、宮室を大いに建てた。燕王臧荼は朝命を奉じず代郡を攻め取ったので、皇帝が親征して平定し、臧荼を捕らえ、改めて太尉盧綰を燕王とした。斉王田広はすでに死に、その叔父田横が嗣ぎ立ち、部下五百人を率いて海島に逃げ込んだ。

庚子 帝遊雲夢,會諸侯於陳,執楚王韓信歸,降為淮陰侯,分其地為二,一封劉賈為荊王,治淮東;一封弟交為楚王,治淮西。別封子肥為齊王,徙韓王信為太原王。匈奴寇馬邑,韓王信以眾叛。帝尊父太公為太上皇。 辛丑 帝北征韓王信於銅鞮,信走匈奴。遂及匈奴,至於平城。匈奴圍帝於平城七日。樊噲北定代,以兄仲為代王。

庚子年(前二〇一年)、高帝は雲夢を巡狩すると託して陳の地で諸侯を大いに会し、機を趁って楚王韓信を捕えて連れ帰り、淮陰侯に貶め、楚の地を二つに分けた。族兄の劉賈を荊王に封じて淮東を治めさせ、その弟劉交を楚王に封じて淮西を治めさせた。また長子劉肥を斉王に封じ、韓王信を太原に改めて封じた。匈奴が馬邑に入寇し、韓王信は部を率いて叛いて匈奴に降った。高帝はその父太公を太上皇と尊んだ。辛丑年(前二〇〇年)、高帝は北に銅鞮で韓王信を征し、信は匈奴に逃げ込んだ。漢軍は匈奴を平城まで追撃したが、白登山で匈奴の騎兵に七日間包囲され、陳平の計によってやっと脱出し、この後和親の策に転じた。樊噲は北に代の地を定め、高帝はその兄劉仲を立てて代王とした。

壬寅 建未央宮。代王劉仲自雁門逃歸,廢為合陽侯。以陳豨為代王。 癸卯 大朝諸侯於未央宮。趙相貫高事覺。 甲辰 太上皇及太上後崩。陳豨以雁門叛,帝北征,誅淮陰侯韓信,並夷三族。以蕭何為相國。 乙巳 梁王彭越以定陶叛,平之,夷三族。淮南王英布以廣陵叛,兼有淮東西地。

壬寅年(前一九九年)、未央宮を造営した。代王劉仲は匈奴の侵入に遭い国を捨てて雁門から逃げ帰り、合陽侯に廃され、改めて陳豨を代王とした。癸卯年(前一九八年)、未央宮で諸侯を大いに朝し、趙の相貫高が高帝を刺さんと謀ったことが発覚した。甲辰年(前一九七年)、太上皇と太上后が前後して死去した。陳豨は雁門で起兵して叛き、高帝は北に征し、呂后は蕭何と計を設けて長楽宮で淮陰侯韓信を誅殺し、あわせてその三族を夷滅した。蕭何をもって相国とした。乙巳年(前一九六年)、梁王彭越は定陶で謀反を告げられ、誅されて三族を夷された。淮南王英布は広陵で起兵して叛き、淮東・淮西の地を併せ呑んだ。

丙午 帝征淮南,平之,夷英布三族。周勃平代,獲陳豨於當城。帝崩,太子盈踐位,是謂惠帝,太后呂氏臨朝稱制。蕭何、曹參、陳平、周勃輔政,葬高祖於長陵。盧綰以燕叛。 丁未 太后殺趙王如意,及其母夫人戚氏。齊王肥獻陽城,為魯元公主湯沐邑。

丙午年(前一九五年)、高帝は親征して淮南の英布の乱を平定し、その三族を夷した。周勃は代の地を平定し、当城で陳豨を擒えた。高帝は陣中で受けた箭の傷の発作により去世し、太子劉盈が即位した――これが漢の恵帝であり、母后呂氏が朝に臨んで制を称した。蕭何・曹参・陳平・周勃がともに政を輔佐し、高祖は長陵に葬られた。燕王盧綰は禍を畏れて叛いて匈奴に入った。丁未年(前一九四年)、呂太后は趙王劉如意を毒殺し、またその母戚夫人を残害した。斉王劉肥は陽城郡を献じて呂后の娘魯元公主の湯沐邑とし、ようやく禍を免れた。

戊申 相國蕭何卒,曹參為相國。 己酉 城長安。 庚戌 除挾書律。 辛亥 相國曹參卒,王陵為右丞相,陳平為左丞相。 壬子 太尉樊噲卒,周勃為太尉。 癸丑 惠帝崩,立無名子為帝,葬惠帝於安陵,封呂氏四人為王,六人為侯,罷王陵相,進陳平右丞相,以審食其為左丞相,關政於內。太后專制,名雉。

戊申年(前一九三年)、相国蕭何が去世し、曹参が後任の相国となり、すべて旧章に従った――これがすなわち「蕭規曹随」である。己酉年(前一九二年)、長安の城壁を修築した。庚戌年(前一九一年)、秦代に民間の蔵書を禁じた挟書律を廃止し、先秦の典籍はここから漸く再び出てきた。辛亥年(前一九〇年)、相国曹参が去世し、王陵が右丞相、陳平が左丞相となった。壬子年(前一八九年)、太尉樊噲が去世し、周勃が後任の太尉となった。癸丑年(前一八八年)、漢の恵帝が去世し、呂后は来歴の不明な子を立てて帝とし、史に前少帝と称す。恵帝は安陵に葬られた。呂后は呂氏の四人を王、六人を侯に封じ、言を出して反対した王陵を罷免し、陳平を右丞相に昇らせ、審食其を左丞相として宮禁の内政を主らせた。太后は大権を独り占めにし、その名は雉という。

甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 幽無名子於永巷,殺之,立恆山王義為帝。 戊午 尉佗稱帝南越。 己未 匈奴寇狄道。 庚申 太后殺趙王友,以梁王呂產為相國,趙王呂祿為上將軍,分統南北軍。 辛酉 太后呂氏崩,丞相陳平、太尉周勃、朱虛侯劉章、曲周侯酈商及子寄誅呂祿、呂產,獲南北軍,夷呂氏三族,廢恆山王義,迎高祖中子代王恆於雁門,立之,是謂文帝。以宋昌為衛將軍,專南北軍。丞相陳平讓周勃右丞相,而為左丞相。灌嬰為太尉,張武為中郎。 壬戌 以皇子啟為皇太子。周勃免相,陳平兼左右丞相。 癸亥 丞相陳平卒,周勃復相。始作銅虎符。

甲寅(前一八七年)から丙辰(前一八五年)まで記事なし。丁巳年(前一八四年)、少帝は漸く成長して怨む言を口に出したので、呂后は彼を永巷に幽禁して殺し、改めて恒山王劉義を立てて帝とした――これが後少帝である。戊午年(前一八三年)、趙佗は南越で自立して帝を称した。己未年(前一八二年)、匈奴が狄道に入寇した。庚申年(前一八一年)、呂后は趙王劉友を殺し、梁王呂産を相国、趙王呂禄を上将軍とし、京師の南軍と北軍を分掌させた。辛酉年(前一八〇年)、呂太后が去世し、丞相陳平・太尉周勃・朱虚侯劉章・曲周侯酈商とその子酈寄が合謀して呂禄・呂産を誅殺し、南北軍の兵権を奪い返し、呂氏の三族を夷滅し、恒山王劉義を廃して、雁門から高祖の中子である代王劉恒を迎えて立てて天子とした――これが漢の文帝である。宋昌を衛将軍として南北軍を統領させた。陳平は右丞相の位を周勃に譲り、自ら左丞相に居った。灌嬰を太尉、張武を中郎とした。壬戌年(前一七九年)、皇子劉啓を立てて皇太子とした。周勃は相を免れ、陳平が左右丞相を兼ね領した。癸亥年(前一七八年)、丞相陳平が去世し、周勃が再び丞相となった。朝廷は初めて銅の虎符を鋳造して調兵の凭信とした。

経世之申 二千二百二十九

甲子 漢孝文皇帝三年,免周勃相,以灌嬰為相。王興居以濟北叛,平之。匈奴寇北地。 乙丑 絳侯周勃下廷尉。 丙寅 丁卯 王長以淮南叛,徙之蜀。放賈誼於長沙。 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 除肉刑。 乙亥 丙子 祀上帝。 丁丑 戊寅 改稱元年,是謂後元。

甲子年は漢の文帝三年、すなわち紀元前一七七年であり、本「世」はここから起算する。文帝は周勃の丞相の職を免じ、灌嬰を改めて相とした。済北王劉興居が起兵して叛いたが、平定された。匈奴が北地郡に入寇した。乙丑年(前一七六年)、絳侯周勃は謀反を告発され、廷尉に付して審問された。丙寅(前一七五年)は記事なし。丁卯年(前一七四年)、淮南王劉長が謀反し、蜀の地に流されて途中で死んだ。賈誼もこの前後に長沙王の太傅に貶められた。戊辰(前一七三年)から癸酉(前一六八年)まで記事なし。甲戌年(前一六七年)、文帝は緹萦が父を救うために上書したことにより、黥・劓・刖などの肉刑を廃止する詔を下した。乙亥(前一六六年)は記事なし。丙子年(前一六五年)、上帝を祭祀した。丁丑(前一六四年)は記事なし。戊寅年(前一六三年)、改元して改めて元年と称した――史に「後元」と称する。

己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 匈奴寇雲中上郡,命六將屯備。周亞夫軍細柳。 甲申 文帝崩,太子啟踐位,是謂孝景皇帝,葬太宗於灞陵。 乙酉 與匈奴約和親。 丙戌 丁亥 吳王濞、膠西王卯、楚王戊、趙王遂、濟南王闢光、菑川王賢、膠東王雄渠七國連叛,誅御史大夫晁錯,七國平。梁孝王霸有東土。 戊子 以皇子榮為皇太子。 己丑 以公主嬪於匈奴。 庚寅 辛卯 廢皇太子榮,以膠東王徹為皇太子,太尉周亞夫為丞相。 壬辰 改稱元年,是謂中元。 癸巳

己卯(前一六二年)から壬午(前一五九年)まで記事なし。癸未年(前一五八年)、匈奴が雲中・上郡に入寇し、朝廷は六人の将軍に命じてそれぞれ兵を屯して備えさせた。周亜夫は細柳営に軍を駐し、その軍紀の厳しさに文帝は嘆服した。甲申年(前一五七年)、文帝が去世し、太子劉啓が即位した――これが漢の景帝である。文帝の廟号は太宗、灞陵に葬られた。乙酉年(前一五六年)、匈奴と和親を約した。丙戌(前一五五年)は記事なし。丁亥年(前一五四年)、晁錯が藩を削ることを建議したため、呉王劉濞・膠西王劉卯・楚王劉戊・趙王劉遂・済南王劉辟光・菑川王劉賢・膠東王劉雄渠の七国が兵を連ねて叛いた。朝廷は御史大夫晁錯を斬って諸侯に謝したが叛軍は退かず、ついに周亜夫が兵を率いて三月で平定した。梁孝王は睢陽を死守して功がり、これより東方に雄据した。戊子年(前一五三年)、皇子劉栄を立てて皇太子とした。己丑年(前一五二年)、公主を匈奴の単于に嫁がせた。庚寅(前一五一年)は記事なし。辛卯年(前一五〇年)、皇太子劉栄を廃し、改めて膠東王劉徹を立てて皇太子とし、太尉周亜夫が丞相に昇った。壬辰年(前一四九年)、改元して改めて元年と称した――史に「中元」と称する。癸巳(前一四八年)は記事なし。

経世之酉 二千二百三十

甲午 漢孝景皇帝十年,周亞夫免相。 乙未 丙申 丁酉 戊戌 再改元年,是謂後元。周亞夫下獄死。 己亥 庚子 景帝崩,皇太子徹踐位,是謂孝武皇帝,葬景帝於陽陵。 辛丑 改建元元年。 壬寅 竇嬰免相,田蚡免太尉。 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 改元元光,始令郡國貢孝廉。董仲舒起焉。

甲午年は漢の景帝十年、すなわち紀元前一四七年であり、本「世」はここから起算する。丞相周亜夫は職を免じられた。乙未(前一四六年)から丁酉(前一四四年)まで記事なし。戊戌年(前一四三年)、再び改元して元年と称した――史に「後元」と称する。周亜夫は家人が私に葬器を購入したことで謀反と指摘され、獄に下されて絶食し嘔血して死んだ。己亥(前一四二年)は記事なし。庚子年(前一四一年)、景帝が去世し、皇太子劉徹が即位した――これが漢の武帝である。景帝は陽陵に葬られた。辛丑年(前一四〇年)、改元して建元元年とした――これが中国に年号がある始まりである。壬寅年(前一三九年)、竇太后は黄老を好み儒術を厭い、丞相竇嬰・太尉田蚡を罷免した。癸卯(前一三八年)から丙午(前一三五年)まで記事なし。丁未年(前一三四年)、改元して元光とし、始めて郡国に孝廉を挙薦させた。董仲舒は「天人三策」の対策をもって見用され、儒術はここから独尊となった。

戊申 命將兵三十萬,大伐匈奴,不利。 己酉 庚戌 竇嬰棄市。田蚡卒。 辛亥 廢皇后陳氏,以衛夫人為皇后,弟青為將軍。 壬子 命將四大伐匈奴,無功。 癸丑 改元元朔。 甲寅 衛青伐匈奴,有功,收河南,置朔方、五原郡。 乙卯 丙辰 匈奴寇上郡。

戊申年(前一三三年)、武帝は将に命じて兵三十万を統べさせ、馬邑に伏兵を設けて匈奴を大いに撃とうとしたが、消息が洩れて功なく帰った――漢と匈奴は和親から戦争に転じ、この年に始まる。己酉(前一三二年)は記事なし。庚戌年(前一三一年)、魏其侯竇嬰は棄市で処刑され、武安侯田蚡もこの年に死んだ。辛亥年(前一三〇年)、皇后陳氏を廃し、衛夫人衛子夫を立てて皇后とし、その弟衛青を将軍とした。壬子年(前一二九年)、四路の将軍に命じて大いに匈奴を伐たせたが、成效は見られなかった。癸丑年(前一二八年)、改元して元朔とした。甲寅年(前一二七年)、衛青は匈奴を伐って功があり、河南すなわち河套の地を回復し、朔方・五原の二郡を設置した。乙卯(前一二六年)は記事なし。丙辰年(前一二五年)、匈奴が上郡に入寇した。

丁巳 匈奴寇雁門,衛青伐之,有功,拜大將軍。公孫弘為丞相,封平津侯。 戊午 衛青征匈奴,大有功。霍去病為驃姚校尉。張騫通西域,有功,封博望侯。 己未 改元元狩,獲白麟故也。淮南王安、衡山王賜二國叛,平之。冊據為皇太子。 庚申 霍去病征匈奴,至於居延,拜驃騎將軍。李廣征匈奴,無功,謫為庶人。 辛酉 壬戌 衛青、霍去病、李廣大伐匈奴,李廣自殺。 癸亥 丞相李蔡自殺。

丁巳年(前一二四年)、匈奴が雁門に入寇し、衛青が出撃して功があり、大将軍に拜せられた。公孫弘は布衣から起家して丞相となり、平津侯に封ぜられた。戊午年(前一二三年)、衛青は匈奴を征して大いに勝ちを収めた。霍去病は初めて驃姚校尉を任ぜられた。張騫は西域に使いして帰り功があり、博望侯に封ぜられた。己未年(前一二二年)、改元して元狩とした――この年に白麟を猟獲したためである。淮南王劉安・衡山王劉賜の两国が謀反したが平定された。劉拠を冊立して皇太子とした。庚申年(前一二一年)、霍去病は匈奴を征して遠く居延に至り、驃騎将軍に拜せられた。李広は匈奴に出征して功なく、庶人に貶められた。辛酉(前一二〇年)は記事なし。壬戌年(前一一九年)、衛青・霍去病・李広が大いに匈奴を伐った――すなわち漠北の戦いである。李広は道に迷って期に遅れたため、憤って自殺した。癸亥年(前一一八年)、丞相李蔡が罪を得て自殺した。

経世之戌 二千二百三十一

甲子 漢孝武皇帝二十四年,大司馬霍去病卒。 乙丑 改元元鼎。 丙寅 丞相翟青下獄死。 丁卯 徙函谷關於新安。 戊辰 封方士欒大為樂通侯。 己巳 南越王相呂嘉叛,諸侯坐酎金輕,奪爵者一百六十人。丞相趙周下獄死,樂通侯欒大坐誣罔,棄市。西羌及匈奴寇五原。

甲子年は漢の武帝二十四年、すなわち紀元前一一七年であり、本「世」はここから起算する。大司馬霍去病が去世した――年わずか二十四歳であった。乙丑年(前一一六年)、改元して元鼎とした。丙寅年(前一一五年)、丞相翟青が獄に下されて死んだ。丁卯年(前一一四年)、函谷関を東の新安に移し、関中の地界を広げた。戊辰年(前一一三年)、方士欒大を楽通侯に封じ、武帝の求仙の風がまさに熾んでいた。己巳年(前一一二年)、南越国の丞相呂嘉が叛いた。朝廷は諸侯が献じた助祭の酎金の成色が足りないことを由として、一度に百六十人の爵を奪った。丞相趙周が獄に下されて死んだ。楽通侯欒大は欺誑の罪で棄市とされた。西羌と匈奴が五原に入寇した。

庚午 南寇平,東越王餘善叛。卜式為御史大夫。 辛未 改元元封,帝征匈奴,至於北海。東越殺餘善降。有事於東、西、中三嶽,及禪梁甫,東巡狩至於碣石,西曆九原,歸於甘泉。 壬申 復巡太山,作瓠子堤。朝鮮寇遼東。 癸酉 朝鮮殺其王右渠以降。祀汾陰后土。 甲戌

庚午年(前一一一年)、南越の乱が平定され、漢はその地に郡を設けた。東越王余善がまた叛いた。卜式が御史大夫に出た。辛未年(前一一〇年)、改元して元封とした。武帝は親征して匈奴を撃ち、兵は北海に至った。東越人は余善を殺して帰降した。この年、武帝は東岳・西岳・中岳で祭を行い、また梁甫で禅の礼を行い、東巡して碣石に至り、西は九原を経て、甘泉宮に帰った――封禅の大典はすなわちこの年に行われた。壬申年(前一〇九年)、再び泰山に巡り、また黄河の決壊した瓠子で口を堵ぎ堤を築いた。朝鮮が遼東に入寇した。癸酉年(前一〇八年)、朝鮮人はその王衛右渠を殺して降り、漢はその地に郡を設けた。汾陰で后土を祭祀した。甲戌(前一〇七年)は記事なし。

乙亥 南巡狩,至於盛唐。大司馬衛青卒。 丙子 西幸回中,及祀汾陰后土。 丁丑 改元太初,東巡太山,更以建寅月為歲首。西伐大宛,起建章。 戊寅 北幸河東,祀后土。騎二萬征匈奴,不復。 己卯 東巡海上。匈奴寇張掖、酒泉。 庚辰 李廣利平大宛,獲其王及汗血馬。

乙亥年(前一〇六年)、武帝は南に巡り盛唐に至った。大司馬衛青が去世した。丙子年(前一〇五年)、西に行き回中に至り、また汾陰で后土を祭祀した。丁丑年(前一〇四年)、改元して太初とし、東に泰山を巡った。《太初暦》を頒行し、建寅の月すなわち夏暦正月をもって一年の始めと改め、これ以後歴代が相沿って改めなかった。西に大宛を征し、建章宮を興建した。戊寅年(前一〇三年)、北に河東に行き后土を祭り、騎兵二万を遣わして匈奴を征したが全軍覆没して帰らなかった。己卯年(前一〇二年)、東に海上を巡った。匈奴が張掖・酒泉に入寇した。庚辰年(前一〇一年)、貳師将軍李広利が大宛を平定し、大宛王を捕らえて汗血宝馬を得た。

辛巳 改元天漢。中郎將蘇武使匈奴。北幸河東。 壬午 東巡至於海上,又西幸回中。將軍李陵征匈奴,不還。 癸未 東巡太山,又北幸常山。匈奴寇雁門。 甲申 大伐匈奴,不利。朝諸侯於甘泉宮。 乙酉 改元太始。 丙戌 西幸回中。 丁亥 東巡海上。 戊子 東巡太山。

辛巳年(前一〇〇年)、改元して天漢とした。中郎将蘇武は命を受けて匈奴に使いしたが、扣留されて北海で十九年牧羊しても屈しなかった。武帝は北に河東に行った。壬午年(前九九年)、東に海上を巡り、また西に回中に行った。将軍李陵は歩卒五千を率いて深入りして匈奴を征し、力尽きて敵に降り、去って帰らなかった。司馬遷は彼のために弁解したことで腐刑を受けた。癸未年(前九八年)、東に泰山を巡り、また北に常山に行った。匈奴が雁門に入寇した。甲申年(前九七年)、大いに匈奴を伐ったが失利した。甘泉宮で諸侯を朝会した。乙酉年(前九六年)、改元して太始とした。丙戌年(前九五年)、西に回中に行った。丁亥年(前九四年)、東に海上を巡った。戊子年(前九三年)、東に泰山を巡った。

己丑 改元徵和,巫蠱事起。 庚寅 太子殺江充,丞相劉屈氂攻太子,戰於長安。太子敗,死。皇后自殺,諸邑公主皆坐巫蠱死。 辛卯 大伐匈奴。巫蠱事覺,誅丞相劉屈氂。 壬辰 東巡海上,天下疲於兵革。 癸巳 改元后元。重合侯馬通叛。

己丑年(前九二年)、改元して征和とした。木の人形を埋めて君上を呪ったとする巫蠱の禍がここに端を発した。庚寅年(前九一年)、皇太子劉拠は酷吏江充に陥れられ、起兵して江充を殺した。丞相劉屈氂は詔を奉じて太子を討ち、双方は長安の街市で五日血戦し、太子は兵を敗って自殺した。衛皇后も自殺し、諸邑公主などの宗室もみな巫蠱案で処刑された。辛卯年(前九〇年)、大いに匈奴を伐った。巫蠱の冤情が敗露し、武帝は丞相劉屈氂を誅殺し、後に思子宮を築いて追悔の意を表した。壬辰年(前八九年)、東に海上を巡った。連年の征伐に天下は兵革に疲れ、武帝はここにおいて輪台の詔を下して自らを責めた。癸巳年(前八八年)、改元して後元とした。重合侯馬通が謀反した。

経世之亥 二千二百三十二

甲午 漢孝武皇帝五十四年,冊皇子弗陵為皇太子。帝幸盩厔五柞宮,崩。大司馬霍光受顧命。太子弗陵嗣皇帝位,是謂昭帝。葬世宗於茂陵。大將軍霍光專政。 乙未 改元始元。 丙申 丁酉 戊戌 己亥 庚子 辛丑 改元元鳳,誅鄂邑長公主及燕王旦。左將軍上官桀謀害霍光,事覺故也。

甲午年は漢の武帝五十四年、すなわち紀元前八七年であり、本「世」はここから起算する。武帝は幼子劉弗陵を冊立して皇太子とし、続いて盩厔の五柞宮に駕して、この地で病逝した。大司馬霍光は遺詔を受けて政を輔佐した。太子弗陵が即位した――これが漢の昭帝である。武帝の廟号は世宗、茂陵に葬られた。大将軍霍光が朝政を独り占めにした。乙未年(前八六年)、改元して始元とした。丙申(前八五年)から庚子(前八一年)まで記事なし。辛丑年(前八〇年)、改元して元鳳とした。鄂邑長公主と燕王劉旦を誅殺した――左将軍上官桀が彼らと合謀して霍光を害しようとして事が敗露したためである。

壬寅 癸卯 甲辰 丞相田千秋卒。 乙巳 丞相王欣卒。 丙午 丁未 改元元平,帝崩。昌邑王賀立,葬昭帝於平陵。賀立不明,大將軍霍光廢之,迎戾太子孫詢立之,是為孝宣皇帝,丙吉為相。 戊申 改元本始。 己酉 命將五兵十五萬大伐匈奴。

壬寅(前七九年)・癸卯(前七八年)は記事なし。甲辰年(前七七年)、丞相田千秋が去世した。乙巳年(前七六年)、丞相王欣が去世した。丙午(前七五年)は記事なし。丁未年(前七四年)、改元して元平とした。昭帝が去世し、昌邑王劉賀が入り嗣いで帝位に就き、昭帝は平陵に葬られた。劉賀の行いは昏悖で、在位二十七日にして大将軍霍光に廃黜され、改めて戾太子劉拠の孫劉詢を迎えて即位させた――これが漢の宣帝であり、丙吉をもって丞相とした。戊申年(前七三年)、改元して本始とした。己酉年(前七二年)、五路の将軍に命じて兵十五万を統べさせ、烏孫と聯合して匈奴を大いに討伐した。

庚戌 辛亥 皇后許氏遇毒崩,霍光以女上皇后。 壬子 改元地節。 癸丑 大司馬大將軍霍光卒,子禹繼事。 甲寅 冊皇子奭為皇太子。 乙卯 大司馬霍禹謀逆,事覺,夷三族,廢皇后霍氏。 丙辰 改元元康。 丁巳 冊王氏為皇后。 戊午 太子太傅疏廣、太子少傅疏受謝病,歸東海。 己未 庚申 改元神雀。趙充國伐西羌。 辛酉 壬戌 蕭望之為御史大夫。 癸亥 潁川太守黃霸賜爵關內侯,河南太守嚴延年棄市。

庚戌(前七一年)は記事なし。辛亥年(前七〇年)、許皇后は霍光の妻が医女に指図して毒を下させて殺され、霍光はここにおいて娘を宮中に入れて立てて皇后とした。壬子年(前六九年)、改元して地節とした。癸丑年(前六八年)、大司馬大将軍霍光が去世し、その子霍禹が権位を継いだ。甲寅年(前六七年)、皇子劉奭を冊立して皇太子とした。乙卯年(前六六年)、大司馬霍禹が謀反し、事が発して誅され、三族を夷滅され、霍皇后は廃された――霍氏一門はこれより覆滅した。丙辰年(前六五年)、改元して元康とした。丁巳年(前六四年)、王氏を冊立して皇后とした。戊午年(前六三年)、太子太傅疏広と太子少傅疏受の叔侄の二人は同日に病を称して官を辞し、東海に帰り隠れ、時人は彼らの足るを知り退き能くすることを称えた。己未(前六二年)は記事なし。庚申年(前六一年)、改元して神爵とした。老将趙充国が西羌に出征し、屯田をもって敵を制することを力主した。辛酉(前六〇年)は記事なし。壬戌年(前五九年)、蕭望之が御史大夫に出た。癸亥年(前五八年)、潁川太守黄霸は郡を治める第一として爵関内侯を賜り、河南太守厳延年は刑法が苛酷なため棄市とされた。

観物篇三十二 以運経世八

経元之甲一 経会之午七

経運之庚 一百八十七

経世之子 二千二百三十三

甲子 漢孝宣皇帝十七年,改元五鳳。左馮翊太守韓延壽棄市,貶蕭望之為太子太傅,坐慢丞相邴吉也。平通侯楊惲棄市,坐怨望也。 乙丑 丙寅 丞相邴吉卒,黃霸為相。 丁卯 戊辰 改元甘露。 己巳 庚午 匈奴呼韓邪單于來朝,於定國為相。 辛未

甲子年は漢の宣帝十七年、すなわち紀元前五七年であり、本「世」はここから起算し、この年改元して五鳳とした。左馮翊太守韓延寿は棄市とされた。蕭望之は太子太傅に貶められた――罪名は丞相邴吉を怠慢したことであった。平通侯楊惲は棄市とされた――罪名は怨望を懐いたことであった。彼は司馬遷の外孫であり、あの有名な《報孫会宗書》こそがまさにこの事件の由来である。乙丑(前五六年)は記事なし。丙寅年(前五五年)、丞相邴吉が去世し、黄霸が後任の丞相となった。丁卯(前五四年)は記事なし。戊辰年(前五三年)、改元して甘露とした。己巳(前五二年)は記事なし。庚午年(前五一年)、匈奴の呼韓邪単于が入朝して臣を称し、漢と匈奴の百余年の戦事はこれをもって一段落した。于定国が丞相に出た。辛未(前五〇年)は記事なし。

壬申 改元黃龍。宣帝崩於未央宮,皇太子奭踐位,是謂孝元皇帝。 癸酉 改元初元,葬中宗於杜陵。 甲戌 冊皇子驁為皇太子,盜殺蕭望之。 乙亥 丙子 幸河東。 丁丑 戊寅 改元永光。 己卯 西羌叛。韋元成為相。 庚辰 西羌平。 辛巳 壬午

壬申年(前四九年)、改元して黄龍とした。宣帝は未央宮で去世し、皇太子劉奭が即位した――これが漢の元帝である。癸酉年(前四八年)、改元して初元とした。宣帝の廟号は中宗、杜陵に葬られた。甲戌年(前四七年)、皇子劉驁を冊立して皇太子とした。太子太傅蕭望之は害されて死んだ――《漢書》の載するところによれば、実は宦官石顕が陥れて鴆を飲みて自裁せしめたのである。乙亥(前四六年)は記事なし。丙子年(前四五年)、元帝は河東に駕した。丁丑(前四四年)は記事なし。戊寅年(前四三年)、改元して永光とした。己卯年(前四二年)、西羌が叛いた。韋元成が丞相に出た。庚辰年(前四一年)、西羌が平定された。辛巳(前四〇年)・壬午(前三九年)は記事なし。

癸未 改元建昭。 甲申 乙酉 匡衡為相。 丙戌 丁亥 戊子 改元竟寧,帝崩,皇太子驁踐位,是謂孝成皇帝,葬高宗於渭陵。王鳳為大司馬、大將軍專政。 己丑 改元建始。 庚寅 辛卯 王商、薛宣免相,匡衡為庶人。 壬辰 河大決,王商為相。 癸巳 改元河平。

癸未年(前三八年)、改元して建昭とした。甲申(前三七年)は記事なし。乙酉年(前三六年)、匡衡が丞相に出た。丙戌(前三五年)・丁亥(前三四年)は記事なし。戊子年(前三三年)、改元して竟寧とした――この年、呼韓邪単于が来朝し、王昭君が塞外に出て和親したため、「辺境安寧」の義を取ったのである。元帝が去世し、皇太子劉驁が即位した――これが漢の成帝である。元帝の廟号は高宗、渭陵に葬られた。王鳳は大司馬・大将軍の職をもって朝政を専断し、外戚王氏の権力擅りはここから始まった。己丑年(前三二年)、改元して建始とした。庚寅(前三一年)は記事なし。辛卯年(前三〇年)、王商・薛宣が相を免ぜられ、匡衡は庶人に貶められた。壬辰年(前二九年)、黄河が大きく決口した。王商が丞相に出た。癸巳年(前二八年)、改元して河平とした。

経世之丑 二千二百三十四

甲午 漢孝成皇帝六年。 乙未 丙申 丁酉 改元陽朔。京兆尹王章下獄死,張禹為相。 戊戌 王音為御史大夫。 己亥 大司馬王鳳卒,弟音繼事。 庚子 辛丑 改元鴻嘉。 壬寅 幸雲陽。 癸卯 廢皇后許氏。 甲辰 乙巳 改元永始,封王莽新都侯,冊趙飛燕為皇后。

甲午年は漢の成帝六年、すなわち紀元前二七年であり、本「世」はここから起算する。乙未(前二六年)・丙申(前二五年)は記事なし。丁酉年(前二四年)、改元して陽朔とした。京兆尹王章は王鳳の専権を弾劾したために獄に下されて死んだ。張禹が丞相に出た。戊戌年(前二三年)、王音が御史大夫に出た。己亥年(前二二年)、大司馬王鳳が去世し、その弟王音が権位を継いだ。庚子(前二一年)は記事なし。辛丑年(前二〇年)、改元して鴻嘉とした。壬寅年(前一九年)、成帝は雲陽に駕した。癸卯年(前一八年)、許皇后を廃した。甲辰(前一七年)は記事なし。乙巳年(前一六年)、改元して永始とした。王莽を新都侯に封じ、趙飛燕を冊立して皇后とした。

丙午 大司馬王音卒,王商為大司馬,翟方進為相,孔光為御史大夫。丁未 戊申 大司馬王商免,王根為大司馬。 己酉 改元元延。 庚戌 辛亥 壬子 癸丑 改元綏和。 甲寅 成帝崩,皇太子欣踐位,是謂孝哀皇帝,太后王氏臨朝稱制,大司馬王根專政。葬成帝於延陵。王根罪免,丁明為大司馬,孔光為丞相。

丙午年(前一五年)、大司馬王音が去世し、王商が後任の大司馬となり、翟方進が丞相、孔光が御史大夫となった。丁未(前一四年)は記事なし。戊申年(前一三年)、大司馬王商が職を免ぜられ、王根が後任の大司馬となった――王氏の兄弟が相次いで政を秉り、朝廷の権柄はすでにすべて外戚に帰した。己酉年(前一二年)、改元して元延とした。庚戌(前一一年)から壬子(前九年)まで記事なし。癸丑年(前八年)、改元して綏和とした。甲寅年(前七年)、成帝が暴崩し、皇太子劉欣が即位した――これが漢の哀帝である。太后王氏が朝に臨んで制を称し、大司馬王根が政を専った。成帝は延陵に葬られた。まもなく王根が罪を得て職を免ぜられ、改めて外戚丁明を大司馬、孔光を丞相とした。

乙卯 改元建平,冊傅氏為皇后,傅喜為大司馬,朱博為大司空。 丙辰 傅喜免,丁明覆為大司馬,孔光免,朱博自殺。 丁巳 相王商薨,王嘉為相。 戊午 息夫躬下獄死。 己未 改元元壽。相王嘉下獄死,大司馬丁明免。 庚申 三公分職,董賢為大司馬,孔光為大司徒,彭宣為大司空。帝崩,太皇太后王氏稱制,罷董賢大司馬,以王莽為大司馬,錄尚書事。廢太后趙氏,迎元帝庶孫中山王衍立之,是謂平帝。葬哀帝於義陵。王莽專政。 辛酉 改元元始,封大司馬王莽安漢公。 壬戌 癸亥

乙卯年(前六年)、改元して建平とした。傅氏を冊立して皇后とし、傅喜を大司馬、朱博を大司空とした――哀帝が立てられたのは全く傅・丁両家の外戚の力によったため、その権勢は驟かに盛んとなった。丙辰年(前五年)、傅喜が職を免ぜられ、丁明が再び大司馬に任ぜられ、孔光が職を免ぜられ、朱博は罪を畏れて自殺した。丁巳年(前四年)、丞相王商が去世し、王嘉が後任の丞相となった。戊午年(前三年)、息夫躬が獄に下されて死んだ。己未年(前二年)、改元して元寿とした。丞相王嘉が獄に下されて死に、大司馬丁明が職を免ぜられた。庚申年(前一年)、三公の分職を改制し、寵臣董賢を大司馬、孔光を大司徒、彭宣を大司空とした。哀帝が去世し、太皇太后王氏が制を称し、直ちに董賢を罷免し、改めて甥の王莽を大司馬・録尚書事とした。趙太后を廃黜し、元帝の庶孫である中山王劉衍を迎えて即位させた――これが漢の平帝である。哀帝は義陵に葬られた。これより王莽が政を専った。辛酉年(紀元一年)、改元して元始とし、大司馬王莽を安漢公に封じた。壬戌(二年)・癸亥(三年)は記事なし。

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