觀物篇十八 以會經運六
經星之丁一百八十四
觀物篇十八,以會經運六。經日之甲一,經月之午七。經星之丁一百八十四。經辰之子二千一百九十七:甲子十八、乙丑十九、丙寅二十、丁卯二十一、戊辰二十二、己巳二十三,周文王沒,武王即位。庚午二十四、辛未二十五、壬申二十六、癸酉二十七、甲戌二十八、乙亥二十九、丙子三十、丁丑三十一、戊寅三十二、己卯,周武王。庚辰二、辛巳三、壬午四、癸未五、甲申六、乙酉七、丙戌,周成王。丁亥二、戊子三、己丑四、庚寅五、辛卯六、壬辰七、癸巳八。
《觀物篇》第十八篇は「以會經運」の第六篇で、記する所は第一百八十四運、依然として第一元の第七會の午會に屬し、下轄は第二千百九十七から第二千二百八世まで、合わせて三百六十年、紀元前一一三七年から前七七八年に當たる。子世はすなわち第二千百九十七世、甲子から癸巳まで、紀元前一一三七年から前一一〇八年に當たり、起首の甲子は商受辛十八年。己巳は受辛二十三年、すなわち紀元前一一三二年で、「周文王沒し、武王即位す」と繫げ、周文王の姬昌が去世し、その子の姬發が繼いで立って周君と為ったを説く。すなわち後の武王。この時商紂は依然として位に在る。ゆえに年數は依然として紂より起算する。己卯は受辛三十二年、すなわち紀元前一一二二年で、表中は「周武王」と題し改めて年は一より起こす。正に武王が紂を伐って商を克てる、周朝開國の年で、殷商の年位はここに至って止まる。乙酉は武王七年、丙戌に「周成王」と題し改め、成王の元年、すなわち紀元前一一一五年とす。丁亥は成王二年で、順に排して癸巳は成王八年。
經辰之丑二千一百九十八:甲午九、乙未十、丙申十一、丁酉十二、戊戌十三、己亥十四、庚子十五、辛丑十六、壬寅十七、癸卯十八、甲辰十九、乙巳二十、丙午二十一、丁未二十二、戊申二十三、己酉二十四、庚戌二十五、辛亥二十六、壬子二十七、癸丑二十八、甲寅二十九、乙卯三十、丙辰三十一、丁巳三十二、戊午三十三、己未三十四、庚申三十五、辛酉三十六、壬戌三十七、癸亥,周康王。
丑世は第二千百九十八世で、甲午から癸亥まで、紀元前一一〇七年から前一〇七八年に當たり、起首の甲午は周成王九年。成王の一朝は正に周公攝政・洛邑を營建・禮を制し樂を作るの年代に當たるが、この表は卻って一事も載せず、ただ三十七年の年位を壬戌まで排す。世末の癸亥に「周康王」と題し改め、康王の元年、すなわち紀元前一〇七八年とし、成王の子の釗が位を繼ぐ。成康の際は天下安寧にして、刑措して四十餘年用いず、周朝の極盛の時である。西元紀年に折れば、起首の甲午は紀元前一一〇七年に當たり、康王が元を改めた癸亥は紀元前一〇七八年に當たる。周公は攝政七年にして政を成王に還し、洛邑を營建し禮樂を制作し同姓の諸侯を大いに封ずるの事は皆成王の一朝の內に在り、《尚書》のうちの《召誥》《洛誥》《多士》《無逸》の諸篇は皆その事を記す。表中に書さざるは、依然として確年なくば格に入れざるの舊例である。
經辰之寅二千一百九十九:甲子二、乙丑三、丙寅四、丁卯五、戊辰六、己巳七、庚午八、辛未九、壬申十、癸酉十一、甲戌十二、乙亥十三、丙子十四、丁丑十五、戊寅十六、己卯十七、庚辰十八、辛巳十九、壬午二十、癸未二十一、甲申二十二、乙酉二十三、丙戌二十四、丁亥二十五、戊子二十六、己丑,周昭王。庚寅二、辛卯三、壬辰四、癸巳五。
寅世は第二千百九十九世で、甲子から癸巳まで、紀元前一〇七七年から前一〇四八年に當たり、起首の甲子は周康王二年。康王の在位は二十六年で、戊子に至って止まる。己丑に「周昭王」と題し改め、昭王の元年、すなわち紀元前一〇五二年とし、康王の子の瑕が位を繼ぐ。《史記・周本紀》は昭王の時王道微缺して、南巡狩して返らず、江上に卒したと説く。周室の衰勢は彼より始まる。庚寅は昭王二年で、順に排して癸巳は昭王五年。西元紀年に折れば、起首の甲子は紀元前一〇七七年に當たり、昭王が元を改めた己丑は紀元前一〇五二年に當たり、收尾の癸巳は紀元前一〇四八年に當たる。
經辰之卯二千二百:甲午六、乙未七、丙申八、丁酉九、戊戌十、己亥十一、庚子十二、辛丑十三、壬寅十四、癸卯十五、甲辰十六、乙巳十七、丙午十八、丁未十九、戊申二十、己酉二十一、庚戌二十二、辛亥二十三、壬子二十四、癸丑二十五、甲寅二十六、乙卯二十七、丙辰二十八、丁巳二十九、戊午三十、己未三十一、庚申三十二、辛酉三十三、壬戌三十四、癸亥三十五。
卯世は第二千二百世で、甲午から癸亥まで、紀元前一〇四七年から前一〇一八年に當たり、三十年は全く周昭王の一朝の內にある。起首の甲午は昭王六年、收尾の癸亥は昭王三十五年。世の總號はここに至ってちょうど二千二百という整數に湊る。全表の一つの記誦に便なる節點である。西元紀年に折れば、起首の甲午は紀元前一〇四七年に當たり、收尾の癸亥は紀元前一〇一八年に當たる。昭王は南の荆楚を征し、漢水を渡って六師を喪い、本人もまた祭公とともに江上に沒した。周人はこの事を諱んで言わず諸侯に赴告せず、舊史はその年月に於て遂に語焉として詳ならず。表中は繫ぐべき確年なきに因り、依舊として空排す。西周は成康の隆より昭穆の衰に轉入する機括が、正にこの一世の裡に伏している。
經辰之辰二千二百一:甲子三十六、乙丑三十七、丙寅三十八、丁卯三十九、戊辰四十、己巳四十一、庚午四十二、辛未四十三、壬申四十四、癸酉四十五、甲戌四十六、乙亥四十七、丙子四十八、丁丑四十九、戊寅五十、己卯五十一、庚辰,周穆王。辛巳二、壬午三、癸未四、甲申五、乙酉六、丙戌七、丁亥八、戊子九、己丑十、庚寅十一、辛卯十二、壬辰十三、癸巳十四。
辰世は第二千二百一世で、甲子から癸巳まで、紀元前一〇一七年から前九八八年に當たり、起首の甲子は周昭王三十六年。昭王の在位は五十一年で、己卯に至って止まる。庚辰に「周穆王」と題し改め、穆王の元年、すなわち紀元前一〇〇一年とし、昭王の子の滿が位を繼ぐ。穆王は西に犬戎を征し、東に徐偃王を伐ち、また吕侯に命じて《吕刑》を作らしめ、在位五十五年、西周のもっとも在位久しき天子である。辛巳は穆王二年で、年ごとに順に排して癸巳は穆王十四年。西元紀年に折れば、起首の甲子は紀元前一〇一七年に當たり、穆王が元を改めた庚辰は紀元前一〇〇一年に當たり、收尾の癸巳は紀元前九八八年に當たる。周室の年數はここから紀元前十世紀に入る。
經辰之巳二千二百二:甲午十五、乙未十六、丙申十七、丁酉十八、戊戌十九、己亥二十、庚子二十一、辛丑二十二、壬寅二十三、癸卯二十四、甲辰二十五、乙巳二十六、丙午二十七、丁未二十八、戊申二十九、己酉三十、庚戌三十一、辛亥三十二、壬子三十三、癸丑三十四、甲寅三十五、乙卯三十六、丙辰三十七、丁巳三十八、戊午三十九、己未四十、庚申四十一、辛酉四十二、壬戌四十三、癸亥四十四。
巳世は第二千二百二世で、甲午から癸亥まで、紀元前九八七年から前九五八年に當たり、三十年は全く周穆王の一朝にある。起首の甲午は穆王十五年、收尾の癸亥は穆王四十四年。穆王は造父に命じて車を御して西巡し、崑崙に至り、また東に徐戎を伐ち、竝びに吕侯に命じて《吕刑》を作らせて刑辟を詳かにす。皆この三十年の間にある。《穆天子傳》に記する天下を周遊した行程は更に多く神異を雜え、年月は坐實する由なし。邵雍は便ち寧ろ整世を空排しても、傳聞の説を年格に繫げ入れず。これもまた全表の三代史料を處理する通例である。寧ろ疏なるとも濫すなかれ、寧ろ闕けるとも誣くなかれ。事あって年なき者は、その事顯なりとも錄せず。年あって事なき者は、その格空なりとも刪らず。西周王朝がこの一段の裡での鼎盛と虛耗は、就中このようにして三十の整齊たる干支に壓し成されたのである。
經辰之午二千二百三:甲子四十五、乙丑四十六、丙寅四十七、丁卯四十八、戊辰四十九、己巳五十、庚午五十一、辛未五十二、壬申五十三、癸酉五十四、甲戌五十五、乙亥,周恭王。丙子二、丁丑三、戊寅四、己卯五、庚辰六、辛巳七、壬午八、癸未九、甲申十、乙酉十一、丙戌十二、丁亥,周懿王。戊子二、己丑三、庚寅四、辛卯五、壬辰六、癸巳七。
午世は第二千二百三世で、甲子から癸巳まで、紀元前九五七年から前九二八年に當たり、起首の甲子は周穆王四十五年。穆王の在位は五十五年で、甲戌に至って止まる。乙亥に「周恭王」と題し改め、恭王の元年、すなわち紀元前九四六年とし、穆王の子の繄扈が位を繼ぎ、在位十二年。丁亥にまた「周懿王」と題し改め、懿王の元年、すなわち紀元前九三四年とし、恭王の子の囏が位を繼ぐ。《史記》は懿王の時王室遂に衰え、詩人は諷刺の詩を作り始めたと説く。西周の盛より衰に轉ずるの迹象はここから顯露する。戊子は懿王二年で、順に排して癸巳は懿王七年。
經辰之未二千二百四:甲午八、乙未九、丙申十、丁酉十一、戊戌十二、己亥十三、庚子十四、辛丑十五、壬寅十六、癸卯十七、甲辰十八、乙巳十九、丙午二十、丁未二十一、戊申二十二、己酉二十三、庚戌二十四、辛亥二十五、壬子,周孝王。癸丑二、甲寅三、乙卯四、丙辰五、丁巳六、戊午七、己未八、庚申九、辛酉十、壬戌十一、癸亥十二。
未世は第二千二百四世で、甲午から癸亥まで、紀元前九二七年から前八九八年に當たり、起首の甲午は周懿王八年。懿王の在位は二十五年で、辛亥に至って止まる。壬子に「周孝王」と題し改め、孝王の元年、すなわち紀元前九〇九年とし、懿王の叔父の辟方が位を繼ぐ。孝王は嘗て非子に命じて汧渭の間に馬を養わしめ、馬は大いに蕃息し、因りて非子を秦に封じ、號して附庸とした。これすなわち秦國の起源である。癸丑は孝王二年で、順に排して癸亥は孝王十二年。西元紀年に折れば、起首の甲午は紀元前九二七年に當たり、孝王が元を改めた壬子は紀元前九〇九年に當たり、收尾の癸亥は紀元前八九八年に當たる。
經辰之申二千二百五:甲子十三、乙丑十四、丙寅十五、丁卯,周夷王。戊辰二、己巳三、庚午四、辛未五、壬申六、癸酉七、甲戌八、乙亥九、丙子十、丁丑十一、戊寅十二、己卯十三、庚辰十四、辛巳十五、壬午十六、癸未,周厲王。甲申二、乙酉三、丙戌四、丁亥五、戊子六、己丑七、庚寅八、辛卯九、壬辰十、癸巳十一。
申世は第二千二百五世で、甲子から癸巳まで、紀元前八九七年から前八六八年に當たり、起首の甲子は周孝王十三年。孝王の在位は十五年で、丙寅に至って止まる。丁卯に「周夷王」と題し改め、夷王の元年、すなわち紀元前八九四年とし、懿王の子の燮が位を繼ぐ。夷王は嘗て堂を下りて諸侯を見、天子の禮はここから衰替し、また齊哀公を鼎に烹った。癸未にまた「周厲王」と題し改め、厲王の元年、すなわち紀元前八七八年とし、夷王の子の胡が位を繼ぐ。厲王は暴虐にして利を好み、榮夷公を任用して利を專らにし、また衞の巫に謗を監せしめ、國人は道路に目をもってし、終に國人暴動を釀成した。甲申は厲王二年で、順に排して癸巳は厲王十一年。
經辰之酉二千二百六:甲午十二、乙未十三、丙申十四、丁酉十五、戊戌十六、己亥十七、庚子十八、辛丑十九、壬寅二十、癸卯二十一、甲辰二十二、乙巳二十三、丙午二十四、丁未二十五、戊申二十六、己酉二十七、庚戌二十八、辛亥二十九、壬子三十、癸丑三十一、甲寅三十二、乙卯三十三、丙辰三十四、丁巳三十五、戊午三十六、己未三十七、庚申三十八、辛酉三十九、壬戌四十、癸亥四十一。
酉世は第二千二百六世で、甲午から癸亥まで、紀元前八六七年から前八三八年に當たり、三十年は全く周厲王の紀年の內にある。起首の甲午は厲王十二年、收尾の癸亥は厲王四十一年。その間紀元前八四一年に國人起ちて厲王を驅逐し、厲王は彘に出奔し、周・召の二公は共同して執政し、史に「共和行政」と稱す。中國の確切なる紀年はすなわちこの年より始まる。この表は別に共和の號を立てず、依然としてこの段の年月を厲王の在位年の內に算して一路排し下る。邵雍の編年が君統のみを認め攝政を認めざるを見るべし。西元紀年に折れば、起首の甲午は紀元前八六七年に當たり、收尾の癸亥は紀元前八三八年に當たる。共和の號すでに表に入らざれば、則ち中國に確切なる紀年の始まるあの年も、この張の表の中ではただ「己巳四十一」四字の底下の尋常の一つの年格に過ぎない。
經辰之戌二千二百七:甲子四十二、乙丑四十三、丙寅四十四、丁卯四十五、戊辰四十六、己巳四十七、庚午四十八、辛未四十九、壬申五十、癸酉五十一、甲戌,周宣王。乙亥二、丙子三、丁丑四、戊寅五、己卯六、庚辰七、辛巳八、壬午九、癸未十、甲申十一、乙酉十二、丙戌十三、丁亥十四、戊子十五、己丑十六、庚寅十七、辛卯十八、壬辰十九、癸巳二十。
戌世は第二千二百七世で、甲子から癸巳まで、紀元前八三七年から前八〇八年に當たり、起首の甲子は周厲王四十二年。厲王の年數は癸酉五十一年まで排して止まる、すなわち紀元前八二八年。甲戌に「周宣王」と題し改め、宣王の元年、すなわち紀元前八二七年とし、厲王の子の靜が位を繼ぐ。宣王は內に政事を修め、外に夷狄を攘い、方叔・召虎・尹吉甫の諸臣を任用し、南に荆蠻を征し、北に獫狁を伐ち、一度文武成康の境を恢復し、史に「宣王中興」と稱す。《詩經》の中の《六月》《采芑》《車攻》の諸篇はすなわちその事を詠ず。乙亥は宣王二年で、年ごとに順に排して癸巳は宣王二十年。
經辰之亥二千二百八:甲午二十一、乙未二十二、丙申二十三、丁酉二十四、戊戌二十五、己亥二十六、庚子二十七、辛丑二十八、壬寅二十九、癸卯三十、甲辰三十一、乙巳三十二、丙午三十三、丁未三十四、戊申三十五、己酉三十六、庚戌三十七、辛亥三十八、壬子三十九、癸丑四十、甲寅四十一、乙卯四十二、丙辰四十三、丁巳四十四、戊午四十五、己未四十六、庚申,周幽王。辛酉二、壬戌三、癸亥四。
亥世は第二千二百八世で、また第一百八十四運の末の一世、甲午から癸亥まで、紀元前八〇七年から前七七八年に當たり、起首の甲午は周宣王二十一年。宣王の在位は四十六年で、己未に至って止まる、すなわち紀元前七八二年。庚申に「周幽王」と題し改め、幽王の元年、すなわち紀元前七八一年とし、宣王の子の宮湦が位を繼ぐ。幽王は褒姒を寵し、申后を廢して、烽火を擧げて諸侯を戲れ、在位十一年にして驪山の下で犬戎の為に殺され、西周はここに由って覆亡した。辛酉は幽王二年、壬戌は三年、癸亥は四年。第一百八十四運はここに至って三百六十年を排し滿たす。西元紀年に折れば、起首の甲午は紀元前八〇七年に當たり、幽王が元を改めた庚申は紀元前七八一年に當たり、收尾の癸亥は紀元前七七八年に當たる。
皇極經世書卷四上
觀物篇十九 以會經運七
經星之戊一百八十五
皇極經世書卷四上。觀物篇十九,以會經運七。經日之甲一,經月之午七。經星之戊一百八十五。經辰之子二千二百九。經辰之丑二千二百一十。經辰之寅二千二百一十一。經辰之卯二千二百一十二。經辰之辰二千二百一十三。經辰之巳二千二百一十四。經辰之午二千二百一十五。經辰之未二千二百一十六。經辰之申二千二百一十七。經辰之酉二千二百一十八。經辰之戌二千二百一十九。經辰之亥二千二百二十。
ここは《皇極經世書》卷四上の冒頭である。《觀物篇》第十九篇は「以會經運」の第七篇で、記する所は第一百八十五運、依然として第一元の第七會の午會の內に在り、下轄は第二千二百九から第二千二百二十世まで、合わせて十二世三百六十年、紀元前七七七年から前四一八年に當たる。この三百六十年は正に周幽王の敗亡・平王の東遷・春秋二百四十二年より戰國の初に至る一段で、その間の齊桓・晉文の霸業・孔子の生卒・三家が晉を分かつの變局は皆その中に在る。但し底本はこの一運の下にただ十二の世の名號と總號とを順に列するのみで、子世は第二千二百九、丑世は第二千二百十、一路排して亥世は第二千二百二十。各世の底下は干支を排するもせず、一條の史事をも繫げず、整々たる一運三百六十年は全く空格である。この種の空缺はまさに傳刻の脫漏の致す所であるべく、邵雍の原表がこの如しとはせず。讀者は前後の各運の體例に據ればすなわちその格式を補想すべし。
觀物篇二十 以會經運八
經星之己一百八十六
觀物篇二十,以會經運八。經日之甲一,經月之午七。經星之己一百八十六。經辰之子二千二百二十一。經辰之丑二千二百二十二。經辰之寅二千二百二十三。經辰之卯二千二百二十四。經辰之辰二千二百二十五。經辰之巳二千二百二十六。經辰之午二千二百二十七。經辰之未二千二百二十八。
《觀物篇》第二十篇は「以會經運」の第八篇で、記する所は第一百八十六運、下轄は第二千二百二十一から第二千二百三十二世まで、合わせて三百六十年、紀元前四一七年から前五八年に當たる。この一運の前の八つの世も同じくただ世名と總號を列して干支なく史事なし。子世は第二千二百二十一から未世は第二千二百二十八まで、合わせて二百四十年、紀元前四一七年から前一七八年に當たる。その間の戰國七雄の爭衡・秦の天下を竝ぶ・楚漢の相爭より西漢開國に至るは、皆この段の空格の內に在る。表文は次の一世すなわち申世からややに干支と年號とを重ねて排し出す。底本のこの處にもまた闕文あることを知るべし。
經辰之申二千二百二十九:甲子四、乙丑五、丙寅六、丁卯七、戊辰八、己巳九、庚午十、辛未十一、壬申十二、癸酉十三、甲戌十四、乙亥十五、丙子十六、丁丑十七、戊寅,後元。己卯二、庚辰三、辛巳四、壬午五、癸未六、甲申七、乙酉,漢景帝。丙戌二、丁亥三、戊子四、己丑五、庚寅六、辛卯七、壬辰,中元。癸巳二。
申世は第二千二百二十九世で、甲子から癸巳まで、紀元前一七七年から前一四八年に當たる。表文はここに重ねて接ぎ、起首の甲子はただ一つの「四」の字を標して帝號を出さないは、前面の幾世が全く空しく、帝號の繫ぎ起こすべき由なきによる。この「四」は漢文帝の在位第四年を指す。表中は文帝の入嗣即位した紀元前一八〇年を元年とすことを知るべし。丁丑十七の後、戊寅に「后元」と題し改め、すなわち文帝の后元元年、紀元前一六三年で、文帝は舊號を除いて重ねて元を紀した。己卯は后元二年。乙酉に「漢景帝」と題し改め、景帝の元年、すなわち紀元前一五六年とす。壬辰にまた「中元」と題し改め、すなわち景帝の中元元年、紀元前一四九年、癸巳は中元二年。ここより以下、表中の干支の底下に繫ぐ所はもはや帝王在位の年ではなく、多くは年號である。これは漢代の改元の頻繁なるが齋らした記法の變化である。
經辰之酉二千二百三十:甲午三、乙未四、丙申五、丁酉六、戊戌,後元。己亥二、庚子三、辛丑,漢武帝建元。壬寅二、癸卯三、甲辰四、乙巳五、丙午六、丁未,元光。戊申二、己酉三、庚戌四、辛亥五、壬子六、癸丑,元朔。甲寅二、乙卯三、丙辰四、丁巳五、戊午六、己未,元狩。庚申二、辛酉三、壬戌四、癸亥五。
酉世は第二千二百三十世で、甲午から癸亥まで、紀元前一四七年から前一一八年に當たる。起首の甲午は漢景帝中元三年で、順に排して丁酉は中元六年。戊戌に「后元」と題し改め、すなわち景帝の后元元年、紀元前一四三年。辛丑に「漢武帝建元」と題し改め、すなわち武帝の建元元年、紀元前一四〇年。建元は中國歷史の上の第一の正式の年號で、ここから帝王の紀年は一律に年號を用い、この表もまたそれに隨って年號に序數を加える寫法に改めた。以下丁未は元光元年、紀元前一三四年。癸丑は元朔元年、紀元前一二八年。己未は元狩元年、紀元前一二二年、癸亥は元狩五年。武帝の一朝は改元大抵六年に一換し、表中は次々に標し出して、正にこの規律を顯示する。
經辰之戌二千二百三十一:甲子六、乙丑,元鼎。丙寅二、丁卯三、戊辰四、己巳五、庚午六、辛未,元封。壬申二、癸酉三、甲戌四、乙亥五、丙子六、丁丑,太初。戊寅二、己卯三、庚辰四、辛巳,天漢。壬午二、癸未三、甲申四、乙酉,太始。丙戌二、丁亥三、戊子四、己丑,徵和。庚寅二、辛卯三、壬辰四、癸巳,後元。
戌世は第二千二百三十一世で、甲子から癸巳まで、紀元前一一七年から前八八年に當たり、整々たる三十年は皆漢武帝の一朝に在り、また表中のもっとも改元の密なる一世である。甲子は元狩六年、紀元前一一七年。乙丑に元鼎を起こし、紀元前一一六年。辛未に元封を起こし、紀元前一一〇年、この年武帝は東して泰山に封した。丁丑に太初を起こし、紀元前一〇四年、同年太初歴を頒行して、改めて正月をもって歲首とす。辛巳に天漢を起こし、紀元前一〇〇年。乙酉に太始を起こし、紀元前九六年。己丑に征和を起こし、紀元前九二年、巫蠱の禍はすなわちこの號の內に在る。癸巳に后元を起こし、紀元前八八年。七つの年號が一世三十格の中に排して、漢武帝在位後期の年月を分かつこと清らかなり。
經辰之亥二千二百三十二:甲午二、乙未,漢昭帝始元。丙申二、丁酉三、戊戌四、己亥五、庚子六、辛丑,元鳳。壬寅二、癸卯三、甲辰四、乙巳五、丙午六、丁未,元平。戊申,漢宣帝本始。己酉二、庚戌三、辛亥四、壬子,地節。癸丑二、甲寅三、乙卯四、丙辰,元康。丁巳二、戊午三、己未四、庚申,神爵。辛酉二、壬戌三、癸亥四。
亥世は第二千二百三十二世で、また第一百八十六運の末の一世、甲午から癸亥まで、紀元前八七年から前五八年に當たる。甲午は漢武帝后元二年、紀元前八七年で、武帝はすなわちこの年に崩じた。乙未に「漢昭帝始元」と題し改め、すなわち昭帝の始元元年、紀元前八六年。辛丑に元鳳を起こし、紀元前八〇年。丁未に元平を起こし、紀元前七四年、昭帝はこの年に崩じた。戊申に「漢宣帝本始」と題し改め、すなわち宣帝の本始元年、紀元前七三年。壬子に地節を起こし、紀元前六九年。丙辰に元康を起こし、紀元前六五年。庚申に神爵を起こし、紀元前六一年、癸亥は神爵四年。第一百八十六運はここに至って三百六十年を排し滿たす。
皇極經世書卷四中
觀物篇二十一 以會經運九
經星之庚一百八十七
皇極經世書卷四中。觀物篇二十一,以會經運九。經日之甲一,經月之午七。經星之庚一百八十七。經辰之子二千二百三十三:甲子,五鳳。乙丑二、丙寅三、丁卯四、戊辰,甘露。己巳二、庚午三、辛未四、壬申,黃龍。癸酉,漢元帝初元。甲戌二、乙亥三、丙子四、丁丑五、戊寅,永光。己卯二、庚辰三、辛巳四、壬午五、癸未建昭。甲申二、乙酉三、丙戌四、丁亥五、戊子,竟寧。己丑,漢成帝建始。庚寅二、辛卯三、壬辰四、癸巳,河平。
ここは《皇極經世書》卷四中の冒頭である。《觀物篇》第二十一篇は「以會經運」の第九篇で、記する所は第一百八十七運、依然として第一元の第七會の午會に屬し、下轄は第二千二百三十三から第二千二百四十四世まで、合わせて三百六十年、紀元前五七年から西元三〇三年に當たり、正に西漢後期・新莽・東漢一代より三國が晉に歸るに跨る。子世はすなわち第二千二百三十三世、甲子から癸巳まで、紀元前五七年から前二八年に當たる。甲子に「五鳳」を起こし、すなわち漢宣帝の五鳳元年。戊辰に甘露を起こし、紀元前五三年。壬申に黄龍を起こし、紀元前四九年、宣帝はこの年に崩じた。癸酉に「漢元帝初元」と題し改め、すなわち元帝の初元元年、紀元前四八年。戊寅に永光を起こし、紀元前四三年。癸未に建昭を起こし、紀元前三八年。戊子に竟寧を起こし、紀元前三三年、元帝はこの年に崩じた。己丑に「漢成帝建始」と題し改め、すなわち成帝の建始元年、紀元前三二年。癸巳に河平を起こし、紀元前二八年。
經辰之丑二千二百三十四:甲午二、乙未三、丙申四、丁酉,陽朔。戊戌二、己亥三、庚子四、辛丑,鴻嘉。壬寅二、癸卯三、甲辰四、乙巳,永始。丙午二、丁未三、戊申四、己酉,元延。庚戌二、辛亥三、壬子四、癸丑,綏和。甲寅二、乙卯,漢哀帝建平。丙辰二、丁巳三、戊午四、己未五,元壽。庚申六、辛酉,漢平帝元始。壬戌二、癸亥三。
丑世は第二千二百三十四世で、甲午から癸亥まで、紀元前二七年から西元三年に當たる。甲午は漢成帝河平二年。丁酉に陽朔を起こし、紀元前二四年。辛丑に鴻嘉を起こし、紀元前二〇年。乙巳に永始を起こし、紀元前一六年。己酉に元延を起こし、紀元前一二年。癸丑に綏和を起こし、紀元前八年、成帝は綏和二年に崩じた。乙卯に「漢哀帝建平」と題し改め、すなわち哀帝の元年、紀元前六年。この後の序數は一路哀帝の在位の年を數え、己未は第五年すなわち紀元前二年、この年「元壽」と改元し、庚申は第六年すなわち紀元前一年、哀帝崩ず。辛酉に「漢平帝元始」と題し改め、すなわち平帝の元始元年、西元一年。これは表中の頭一つの西元紀年に入る年位である。壬戌は元始二年、癸亥は三年。
經辰之寅二千二百三十五:甲子四、乙丑五、丙寅,漢孺子居攝。丁卯二、戊辰,初始。己巳,漢王莽稱新室,改建國元年。庚午二、辛未三、壬申四、癸酉五、甲戌,天鳳。乙亥二、丙子三、丁丑四、戊寅五、己卯六、庚辰,地皇。辛巳二、壬午三、癸未,劉玄稱更始。甲申,漢光武帝封蕭王。乙酉二稱帝稱建武。丙戌三、丁亥四、戊子五、己丑六、庚寅七、辛卯八、壬辰九、癸巳十。
寅世は第二千二百三十五世で、甲子から癸巳まで、西元四年から三三年に當たり、兩漢の際の改朝換代の一世である。甲子は平帝元始四年。丙寅に「漢孺子居攝」と題し改め、すなわち孺子嬰の居攝元年、西元六年で、王莽は攝皇帝の名をもって執政した。戊辰に初始と改元し、西元八年。己巳のこの年、すなわち西元九年、王莽は自ら新室と稱し、改元して建國元年とす。西漢はここに至って中絕した。甲戌に天鳳を起こし、西元一四年。庚辰に地皇を起こし、西元二〇年。癸未すなわち西元二三年、劉玄は擁立されて帝と稱し、年號は更始、新莽は隨って覆滅した。甲申すなわち西元二四年、更始帝は劉秀を蕭王に封じ、表中はここから「漢光武帝」と題し改めて一より起算す。次年の乙酉は第二年で、劉秀は鄗南にて帝と稱し、改元して建武、西元二五年、東漢開國。この後丙戌は第三年で、年ごとに順に排して癸巳は第十年、すなわち西元三三年。
經辰之卯二千二百三十六:甲午十一、乙未十二、丙申十三、丁酉十四、戊戌十五、己亥十六、庚子十七、辛丑十八、壬寅十九、癸卯二十、甲辰二十一、乙巳二十二、丙午二十三、丁未二十四、戊申二十五、己酉二十六、庚戌二十七、辛亥二十八、壬子二十九、癸丑三十、甲寅三十一、乙卯三十二、丙辰,中元。丁巳二、戊午,漢明帝永平。己未二、庚申三、辛酉四、壬戌五、癸亥六。
卯世は第二千二百三十六世で、甲午から癸亥まで、西元三四年から六三年に當たる。起首の甲午は光武帝の第十一年、すなわち建武十年、西元三四年。序數は一路數えて乙卯は第三十二年、西元五五年。丙辰に「中元」と改元し、すなわち建武中元元年、西元五六年、この年光武帝は泰山に封禪した。丁巳は中元二年、光武帝崩ず。戊午に「漢明帝永平」と題し改め、すなわち明帝の永平元年、西元五八年。己未は永平二年で、順に排して癸亥は永平六年。光武帝の在位は合わせて三十三年で、廟號は世祖。光武・明帝の兩朝は竝びに「光武中興」と「明章之治」と稱し、東漢の國勢正に盛んなり。
經辰之辰二千二百三十七:甲子七、乙丑八、丙寅九、丁卯十、戊辰十一、己巳十二、庚午十三、辛未十四、壬申十五、癸酉十六、甲戌十七、乙亥十八、丙子,漢章帝建初。丁丑二、戊寅三、己卯四、庚辰五、辛巳六、壬午七、癸未八、甲申,元和。乙酉二、丙戌三、丁亥,章和。戊子二、己丑,漢和帝永元。庚寅二、辛卯三、壬辰四、癸巳五。
辰世は第二千二百三十七世で、甲子から癸巳まで、西元六四年から九三年に當たる。甲子は漢明帝永平七年。永平は合わせて十八年で、乙亥に至って止まる、西元七五年。丙子に「漢章帝建初」と題し改め、すなわち章帝の建初元年、西元七六年。甲申に元和を起こし、西元八四年。丁亥に章和を起こし、西元八七年、章帝は章和二年に崩じた。己丑に「漢和帝永元」と題し改め、すなわち和帝の永元元年、西元八九年。庚寅は永元二年で、順に排して癸巳は永元五年。この世の中、班超が西域を經營し、班固が《漢書》を修め、《白虎通義》の會議の諸事は皆その間に在るが、表文は一概に載せず、ただ年號と序數を標す。
經辰之巳二千二百三十八:甲午六、乙未七、丙申八、丁酉九、戊戌十、己亥十一、庚子十二、辛丑十三、壬寅十四、癸卯十五、甲辰十六、乙巳十七,元興。丙午,漢殤帝延平。丁未,漢安帝永初。戊申二、己酉三、庚戌四、辛亥五、壬子六、癸丑七、甲寅,元初。乙卯二、丙辰三、丁巳四、戊午五、己未六、庚申,永寧。辛酉,建元。壬戌,延光。癸亥二。
巳世は第二千二百三十八世で、甲午から癸亥まで、西元九四年から一二三年に當たる。甲午は漢和帝永元六年。永元十七年の後、乙巳に「元興」と改元し、西元一〇五年、和帝はこの年に崩じた。丙午に「漢殤帝延平」と題し改め、すなわち殤帝の延平元年、西元一〇六年、殤帝の在位は一年に滿たずして崩じた。丁未に「漢安帝永初」と題し改め、すなわち安帝の永初元年、西元一〇七年。甲寅に元初を起こし、西元一一四年。庚申に永寧を起こし、西元一二〇年。辛酉の一格は底本「建元」と作るが、安帝がこの年に改めた所は實に「建光」、西元一二一年で、まさに刻本の形近の誤であるべし。壬戌に延光を起こし、西元一二二年、癸亥は延光二年。東漢は和・殤より後、幼主が統を繼ぎ母后が朝に臨み、外戚と宦官とが交替に事を用う。衰象すでに見ゆ。
經辰之午二千二百三十九:甲子三、乙丑四、丙寅,漢順帝永建。丁卯二、戊辰三、己巳四、庚午五、辛未六、壬申,陽嘉。癸酉二、甲戌三、乙亥四、丙子,永和。丁丑二、戊寅三、己卯四、庚辰五、辛巳六、壬午,漢安。癸未二、甲申,建康。乙酉,漢沖帝永嘉。丙戌,漢質帝本初。丁亥,漢桓帝建和。戊子二、己丑三、庚寅,和平。辛卯,元嘉。壬辰二、癸巳,永興。
午世は第二千二百三十九世で、甲午の對する次の一輪の甲子より起こり癸巳に至る、西元一二四年から一五三年に當たる。甲子は漢安帝延光三年。丙寅に「漢順帝永建」と題し改め、すなわち順帝の永建元年、西元一二六年。壬申に陽嘉を起こし、西元一三二年。丙子に永和を起こし、西元一三六年。壬午に漢安を起こし、西元一四二年。甲申に建康を起こし、西元一四四年、順帝はこの年に崩じた。乙酉に「漢冲帝永嘉」と題し改め、西元一四五年、冲帝は二歲で即位し三歲にして崩じた。丙戌に「漢質帝本初」と題し改め、西元一四六年、質帝は大將軍の梁冀の爲に鴆殺された。丁亥に「漢桓帝建和」と題し改め、西元一四七年。庚寅に和平を起こし、西元一五〇年。辛卯に元嘉を起こし、西元一五一年。癸巳に永興を起こし、西元一五三年。一世の內に連ねて三帝を換え、年號は走馬の如く更迭す。東漢の亂局はこの一格格の年號の裡にすでに看て分明なり。
經辰之未二千二百四十:甲午二、乙未,永壽。丙申二、丁酉三、戊戌,延熹。己亥、庚子三、辛丑四、壬寅五、癸卯六、甲辰七、乙巳八、丙午九、丁未,永康。戊申,漢靈帝建寧。己酉二、庚戌三、辛亥四、壬子,熹平。癸丑三、甲寅三、乙卯四、丙辰五、丁巳六、戊午,光和。己未二、庚申三、辛酉四、壬戌五、癸亥六。
未世は第二千二百四十世で、甲午から癸亥まで、西元一五四年から一八三年に當たる。甲午は漢桓帝永興二年。乙未に永壽を起こし、西元一五五年。戊戌に延熹を起こし、西元一五八年、延熹の一號は合わせて九年で、その間黨錮の禍起こる。丁未に永康を起こし、西元一六七年、桓帝はこの年に崩じた。戊申に「漢靈帝建寧」と題し改め、すなわち靈帝の建寧元年、西元一六八年。壬子に熹平を起こし、西元一七二年、熹平四年に石經を太學に立つ。戊午に光和を起こし、西元一七八年、癸亥は光和六年、西元一八三年。底本のこの世の序數に兩處の失次あり。延熹二年己亥の一格は年數を刻し漏らし、熹平の下の癸丑・甲寅の兩格は竝びに「三」と作る。まさに癸丑を二年・甲寅を三年とするを是とすべし。
經辰之申二千二百四十一:甲子,中平。乙丑二、丙寅三、丁卯四、戊辰五、己巳,光熹,又昭又寧,永漢。庚午,漢獻帝初平。辛未二、壬申三、癸酉四、甲戌,興平。乙亥二、丙子,建安。丁丑二、戊寅三、己卯四、庚辰五、辛巳六、壬午七、癸未八、甲申九、乙酉十、丙戌十一、丁亥十二、戊子十三、己丑十四、庚寅十五、辛卯十六、壬辰十七、癸巳十八。
申世は第二千二百四十一世で、甲子から癸巳まで、西元一八四年から二一三年に當たる。甲子に「中平」を起こし、すなわち漢靈帝の中平元年、西元一八四年、この年張角が兵を起こし、黄巾の亂が爆發して、天下はここに由って大いに亂れた。己巳すなわち西元一八九年、一年の內に年號を三改した。靈帝崩じて後少帝劉辯が立ち、改元して光熹、また昭寧と改め、董卓は少帝を廢して獻帝を立て、再び永漢と改めた。表文は「光熹、又昭又寧、永漢」の六字を用いてこの一年の紛亂を記し下る。庚午に「漢獻帝初平」と題し改め、すなわち獻帝の初平元年、西元一九〇年、關東の諸侯が兵を起こして董卓を討つ。甲戌に興平を起こし、西元一九四年。丙子に建安を起こし、西元一九六年、曹操は獻帝を迎えて許に都さしめた。建安の一號は二十五年を歷し、この世は排して癸巳をもって建安十八年、西元二一三年とし、正に曹操が魏公に封ぜられた年である。
經辰之酉二千二百四十二:甲午十九、乙未二十、丙申二十一、丁酉二十二、戊戌二十三、己亥二十四。經辰之戌二千二百四十三。經辰之亥二千二百四十四。
酉世は第二千二百四十二世で、本當は甲午から癸亥に排すべく、西元二一四年から二四三年に合すべきところ、表文はただ前の六格を列するのみ。甲午は建安十九年、西元二一四年。順に排して己亥は建安二十四年、西元二一九年、この年關羽敗死し、曹操は爵を進めて魏王と為り、すでに晚年に屆いていた。再び下って庚子の一格すなわち西元二二〇年に曹丕が漢に代わり、三國鼎立となるが、表中は卻って戛然として止み、その後の二十四年の年位は全く空しい。接ぐ戌世の第二千二百四十三世(西元二四四年から二七三年)と亥世の第二千二百四十四世(西元二七四年から三〇三年)ともまた世名と總號のみを存し、一格の干支をも列せず。第一百八十七運はここに至って終わる。三國・西晋の一段は底本の中に空白と為った。まさに傳刻の脫漏であるべし。
觀物篇二十二 以會經運十
經星之辛一百八十八
觀物篇二十二,以會經運十。經日之甲一,經月之午七。經星之辛一百八十八。經辰之子二千二百四十五。經辰之丑二千二百四十六。經辰之寅二千二百四十七。經辰之卯二千二百四十八。經辰之辰二千二百四十九。經辰之巳二千二百五十。經辰之午二千二百五十一。經辰之未二千二百五十二。經辰之申二千二百五十三。經辰之酉二千二百五十四。
《觀物篇》第二十二篇は「以會經運」の第十篇で、記する所は第一百八十八運、下轄は第二千二百四十五から第二千二百五十六世まで、合わせて三百六十年、西元三〇四年から六六三年に當たる。この一運の前の十の世も同じくただ世名と總號を列して干支を排せず。子世の第二千二百四十五は西元三〇四年に起こり、一路酉世の第二千二百五十四は西元六〇三年に止まり、合わせて三百年。この三百年は正に五胡十六國・東晉の南渡・南北朝の對峙より隋文帝の統一に至る一段で、底本は一字も繫げず、前一運の末尾の空缺と同じく闕文に屬す。表文は次の一世すなわち戌世に到りてはじめて年月に重ねて接ぐ。
經辰之戌二千二百五十五:甲子,隋煬帝。乙丑二,大業。丙寅三、丁卯四、戊辰五、己巳六、庚午七、辛未八、壬申九、癸酉十、甲戌十一、乙亥十二、丙子十三、丁丑,隋亡帝侑義寧。戊寅,唐高祖武德。己卯二、庚辰三、辛巳四、壬午五、癸未六、甲申七、乙酉八、丙戌,唐太宗。丁亥二,貞觀。戊子三、己丑四、庚寅五、辛卯六、壬辰七、癸巳八。
戌世は第二千二百五十五世で、甲子から癸巳まで、西元六〇四年から六三三年に當たり、隋亡び唐興るの一世である。この一世より、底本は改めて一年一行の排法と為し、每行に一つの干支に年數と帝號年號とを帶ぶ。甲子に「隋煬帝」と題し改め、西元六〇四年、隋文帝崩じて煬帝即位す。乙丑は第二年で、「大業」と改元し、西元六〇五年、この後運河を開鑿し、高麗に三征して、天下大いに亂れた。丁丑の一格は「隋亡帝侑義寧」と題し、西元六一七年、李淵は長安に入り、代王楊侑を立てて帝と為し、改元して義寧とす。「亡帝」は隋祚のすでに終わるに就いて言う。戊寅に「唐高祖武德」と題し改め、すなわち唐高祖の武德元年、西元六一八年、李淵は禪を受けて帝と稱し、唐朝開國。丙戌に「唐太宗」と題し改め、西元六二六年、玄武門の變の後太宗即位す。丁亥は第二年で、「貞觀」と改元し、西元六二七年。戊子は第三年で、順に排して癸巳は第八年、西元六三三年。
經辰之亥二千二百五十六:甲午九、乙未十、丙申十一、丁酉十二、戊戌十三、己亥十四、庚子十五、辛丑十六、壬寅十七、癸卯十八、甲辰十九、乙巳二十、丙午二十一、丁未二十二、戊申二十三、己酉二十四、庚戌,唐高宗永徽。辛亥二、壬子三、癸丑四、甲寅五、乙卯六、丙辰七,顯慶。丁巳八、戊午九、己未十、庚申十一、辛酉十二,龍朔。壬戌十三、癸亥十四。
亥世は第二千二百五十六世で、また第一百八十八運の末の一世、甲午から癸亥まで、西元六三四年から六六三年に當たる。甲午は唐太宗の第九年、すなわち貞觀八年、西元六三四年。序數は太宗即位の年に照って起算するがゆえに、貞觀の年號とは一を相う。太宗は合わせて二十四年で、己酉に至って止まる、西元六四九年。庚戌に「唐高宗永徽」と題し改め、すなわち高宗の永徽元年、西元六五〇年。この後の序數は一路高宗の在位の年を數え、丙辰は第七年に顯慶と改元、西元六五六年。辛酉は第十二年に龍朔と改元、西元六六一年。癸亥は第十四年、西元六六三年。貞觀の治と永徽の政とが相接して、正に唐朝の國勢の上升の頂點である。
皇極經世書卷四下
觀物篇二十三 以會經運十一
經星之壬一百八十九
皇極經世書卷四下。觀物篇二十三,以會經運十一。經日之甲一,經月之午七。經星之壬一百八十九。經辰之子二千二百五十七:甲子十五,麟德。乙丑十六、丙寅十七,乾封。丁卯十八、戊辰十九,總章。己巳二十、庚午二十一,咸亨。辛未二十二、壬申二十三、癸酉二十四、甲戌二十五,上元。乙亥二十六、丙子二十七,儀鳳。丁丑二十八、戊寅二十九、己卯三十,調露。庚辰三十一,永隆。辛巳三十二,開耀。壬午三十三,永淳。癸未三十四,弘道。甲申,唐中宗嗣聖,武后廢帝為廬陵王,遷之均,立豫章王旦,改元文明,再改元光宅。乙酉二,武后徙帝於房陵,改元垂拱。丙戌三、丁亥四、戊子五、己丑六,武后改元永昌。庚寅七,武后改元載初,又改國為周,元曰天授,豫章王旦為皇嗣。辛卯八、壬辰九,武后改元如意,再改長壽。癸巳十。
ここは《皇極經世書》卷四下の冒頭である。《觀物篇》第二十三篇は「以會經運」の第十一篇で、記する所は第一百八十九運、下轄は第二千二百五十七から第二千二百六十八世まで、合わせて三百六十年、西元六六四年から一〇二三年に當たる。子世はすなわち第二千二百五十七世、甲子から癸巳まで、西元六六四年から六九三年に當たる。甲子は唐高宗第十五年、麟德と改元し、西元六六四年。この後乾封・總章・咸亨・上元・儀鳳・調露・永隆・開耀・永淳・弘道の十の年號を格ごとに標し出し、癸未は高宗第三十四年すなわち弘道元年、西元六八三年、高宗はこの年に崩じた。甲申すなわち西元六八四年、表中は「唐中宗嗣聖」と題し改め、竝びに一長條の史事を繫げる。武后が中宗を廢して廬陵王とし、彼を均州に遷し、改めて豫章王の李旦を立てて帝と為し、まず文明と改元し、再び光宅と改元した。乙酉は第二年、西元六八五年、武后はまた中宗を房陵に遷往し、垂拱と改元した。己丑は第六年、西元六八九年、永昌と改元。庚寅は第七年、西元六九〇年、武后は載初と改元し、隨じて國號を周と改め、天授と建元し、豫章王の李旦を皇嗣に降した。唐室はここから中斷して武周に入る。壬辰は第九年、西元六九二年、如意と改元し、また長壽と改めた。癸巳は第十年、西元六九三年。注意すべきは、表中の序數は依然として中宗嗣聖より起算すること、正に邵雍が武周の正統を認めず、ただそれを唐室の內の一段の變故として記すを表明する。
經辰之丑二千二百五十八:甲午十一,武后改元延載。乙未十二,武后改元證聖,再改天冊萬歲。丙申十三,武后改元萬歲登封,再改萬歲通天。丁酉十四,武后改元神功。戊戌十五,武后改元聖歷,召帝房陵復政。己亥十六、庚子十七,武后改元久視。辛丑十八,武后改元大足,再改元長安。壬寅十九、癸卯二十、甲辰二十一、乙巳二十二,武后改元神龍。丙午二十三、丁未二十四,景龍。戊申二十五、己酉二十六、庚戌,唐睿宗景雲。辛亥二、壬子,唐玄宗先天。癸丑二,開元。甲寅三、乙卯四、丙辰五、丁巳六、戊午七、己未八、庚申九、辛酉十、壬戌十一、癸亥十二。
丑世は第二千二百五十八世で、甲午から癸亥まで、西元六九四年から七二三年に當たり、序數は依然として中宗嗣聖に接いで一路數え下る。甲午は第十一年、西元六九四年、武后は延載と改元。乙未に證聖と改元し、また天冊萬歲と改め、西元六九五年。丙申に萬歲登封と改元し、また萬歲通天と改め、西元六九六年。丁酉に神功と改元、西元六九七年。戊戌は第十五年、西元六九八年、武后は聖歴と改元し、竝びに中宗を房陵より京師に召還して、その太子の位を恢復した。ゆえに表文に「帝を房陵より召して政に復す」と説く。庚子に久視と改元、西元七〇〇年。辛丑に大足と改元し、また長安と改め、西元七〇一年。乙巳は第二十二年、西元七〇五年、武后は神龍と改元。實はすなわち張柬之らが政變を發動し、武后に迫って位を遜らせ、中宗が復辟した年で、武周はここに至って終わる。丁未に景龍と改元、西元七〇七年。庚戌に「唐睿宗景雲」と題し改め、西元七一〇年、韋后が中宗を毒殺し、臨淄王の李隆基が兵を起こしてこれを誅し、睿宗を奉じて即位せしめた。壬子に「唐玄宗先天」と題し改め、西元七一二年。癸丑は第二年で、開元と改元、西元七一三年。この後年ごとに順に排して癸亥は第十二年、西元七二三年。
經辰之寅二千二百五十九:甲子十三、乙丑十四、丙寅十五、丁卯十六、戊辰十七、己巳十八、庚午十九、辛未二十、壬申二十一、癸酉二十二、甲戌二十三、乙亥二十四、丙子二十五,楊妃入宮。丁丑二十六、戊寅二十七、己卯二十八、庚辰二十九、辛巳三十、壬午三十一,天寶。癸未三十二、甲申三十三、乙酉三十四、丙戌三十五、丁亥三十六、戊子三十七、己丑三十八、庚寅三十九、辛卯四十、壬辰四十一、癸巳四十二。
寅世は第二千二百五十九世で、甲子から癸巳まで、西元七二四年から七五三年に當たり、三十年は全く唐玄宗の一朝に在り、序數は玄宗先天元年より起算す。甲子は第十三年、すなわち開元十二年、西元七二四年。丙子は第二十五年、西元七三六年で、一條の史事を繫げる。楊妃が宮に入り、楊玉環が玄宗に幸せられたを指し、後に冊して貴妃と為した。唐室の盛より衰に轉ずるの轉關を、邵雍は單にこの一件の事を挑りて表の裡に寫し入れた。その用意は安史の亂の禍根をこの年に繫げんとするにある。壬午は第三十一年で、天寶と改元、西元七四二年。この後年ごとに順に排して癸巳は第四十二年、西元七五三年。開元の治の極盛と天寶末年の驕侈とは、皆この一世の三十格に收められた。
經辰之卯二千二百六十:甲午四十三、乙未四十四、丙申,唐肅宗至德。丁酉二、戊戌三,乾元。己亥四、庚子五,上元。辛丑六、壬寅七,寶應。癸卯,唐代宗廣德。甲辰二、乙巳三,永泰。丙午四,大曆。丁未五、戊申六、己酉七、庚戌八、辛亥九、壬子十、癸丑十一、甲寅十二、乙卯十三、丙辰十四、丁巳十五、戊午十六、己未十七、庚申,唐德宗建中。辛酉二、壬戌三、癸亥四。
卯世は第二千二百六十世で、甲午から癸亥まで、西元七五四年から七八三年に當たる。甲午は玄宗第四十三年すなわち天寶十三載、西元七五四年。乙未は第四十四年、西元七五五年、安祿山はすなわちこの年の冬に范陽に兵を起こした。丙申に「唐肅宗至德」と題し改め、西元七五六年、玄宗は蜀に奔り、太子の李亨は靈武に即位して至德と改元した。戊戌に乾元と改元、西元七五八年。庚子に上元と改元、西元七六〇年。壬寅に寶應と改元、西元七六二年、玄宗・肅宗が相繼いで崩じた。癸卯に「唐代宗廣德」と題し改め、西元七六三年、この年史朝義が死して安史の亂平定したが、吐蕃は卻って一度長安に攻め入った。乙巳に永泰と改元、西元七六五年。丙午に大歴と改元、西元七六六年、この後藩鎮割據の局は遂に成る。庚申に「唐德宗建中」と題し改め、西元七八〇年、同年に兩税法を行った。辛酉は第二年、癸亥は第四年、西元七八三年、涇原の兵變はすなわちこの年に在る。
經辰之辰二千二百六十一:甲子五,興元。乙丑六,貞元。丙寅七、丁卯八、戊辰九、己巳十、庚午十一、辛未十二、壬申十三、癸酉十四、甲戌十五、乙亥十六、丙子十七、丁丑十八、戊寅十九、己卯二十、庚辰二十一、辛巳二十二、壬午二十三、癸未二十四、甲申二十五、乙酉二十六,順宗不及年,永貞。丙戌,唐憲宗元和。丁亥二、戊子三、己丑四、庚寅五、辛卯六、壬辰七、癸巳八。
辰世は第二千二百六十一世で、甲子から癸巳まで、西元七八四年から八一三年に當たる。甲子は唐德宗第五年で、興元と改元、西元七八四年、德宗は亂を避けて奉天に在り、而る後京に還った。乙丑に貞元と改元、西元七八五年、貞元の一號は二十一年を歷し、表中は年ごとに排して乙酉をもって第二十六年とす。乙酉すなわち西元八〇五年、「順宗年に及ばず、永貞」の六字を繫げる。德宗崩じ、順宗即位して永貞と改元し、在位一年に及ばずして病により内禪し、永貞の革新は隨って失敗した。ゆえに「年に及ばず」と説く。丙戌に「唐憲宗元和」と題し改め、すなわち憲宗の元和元年、西元八〇六年。丁亥は第二年で、順に排して癸巳は第八年、西元八一三年。憲宗は淮西を削平して、諸鎮は稍稍命に歸り、史に「元和中興」と稱す。
經辰之巳二千二百六十二:甲午九、乙未十、丙申十一、丁酉十二、戊戌十三、己亥十四、庚子十五、辛丑,唐穆宗長慶。壬寅二、癸卯三、甲辰四、乙巳,唐敬宗寶曆。丙午二、丁未,唐文宗太和。戊申二、己酉三、庚戌四、辛亥五、壬子六、癸丑七、甲寅八、乙卯九、丙辰十、丁巳十一、戊午十二、己未十三、庚申十四、辛酉,唐武宗會昌。壬戌二、癸亥三。
巳世は第二千二百六十二世で、甲午から癸亥まで、西元八一四年から八四三年に當たる。甲午は唐憲宗第九年すなわち元和九年、西元八一四年。元和は合わせて十五年で、庚子に至って止まる、西元八二〇年、憲宗は宦官の為に弑された。辛丑に「唐穆宗長慶」と題し改め、西元八二一年。乙巳に「唐敬宗寶歴」と題し改め、西元八二五年、敬宗の在位二年もまた宦官の為に弑された。丁未に「唐文宗太和」と題し改め、西元八二七年、文宗の一朝に甘露の變あり、宦官を誅せんと謀って成らず、天子は反って家奴の制する所と為った。辛酉に「唐武宗會昌」と題し改め、西元八四一年。壬戌は第二年、癸亥は第三年、西元八四三年。穆宗以下、宦官は天子を廢立し、朋黨は相爭うこと已まず、唐室はすでに積重して返り難きの勢と為った。
經辰之午二千二百六十三:甲子四、乙丑五、丙寅六、丁卯,唐宣宗大中。戊辰二、己巳三、庚午四、辛未五、壬申六、癸酉七、甲戌八、乙亥九、丙子十、丁丑十一、戊寅十二、己卯十三、庚辰,唐懿宗咸通。辛巳二、壬午三、癸未四、甲申五、乙酉六、丙戌七、丁亥八、戊子九、己丑十、庚寅十一、辛卯十二、壬辰十三、癸巳十四。
午世は第二千二百六十三世で、甲子から癸巳まで、西元八四四年から八七三年に當たる。甲子は唐武宗會昌第四年、西元八四四年。會昌五年に佛を毀るの擧あり、武宗は會昌六年に崩じた。丁卯に「唐宣宗大中」と題し改め、すなわち宣宗の大中元年、西元八四七年。宣宗は名實を綜核して、外に河湟を收め、一時に「小太宗」と號し、在位十三年、己卯に至って止まる、西元八五九年。庚辰に「唐懿宗咸通」と題し改め、すなわち懿宗の咸通元年、西元八六〇年。辛巳は第二年で、年ごとに順に排して癸巳は第十四年、西元八七三年、懿宗はこの年に崩じた。懿宗は奢縱度なく、龐勳の亂は徐州に起こり、唐室の崩解はここから加速した。
經辰之未二千二百六十四:甲午,唐僖宗乾符。乙未二、丙申三,王仙芝陷淮南。丁酉四,黃巢陷沂鄆。戊戌五、己亥六、庚子七,廣明,黃巢陷兩京,稱齊,全統。辛丑八,中和。壬寅九、癸卯十,黃巢走藍關。甲辰十一、乙巳十二,光啟。經辰之申二千二百六十五。經辰之酉二千二百六十六。經辰之戌二千二百六十七。經辰之亥二千二百六十八。
未世は第二千二百六十四世で、本當は癸巳すなわち西元九〇三年まで排すべきところ、表中はただ第十二格までを列する。甲午に「唐僖宗乾符」と題し改め、すなわち僖宗の乾符元年、西元八七四年。丙申は第三年、西元八七六年、王仙芝が淮南を攻陷した。丁酉は第四年、西元八七七年、黄巢が沂州・鄆州を攻陷した。庚子は第七年で、廣明と改元、西元八八〇年、黄巢は洛陽・長安の兩京を攻破し、僖宗は蜀に奔り、黄巢はすなわち皇帝の位に即き、國號は大齊、金統と建元した。表文の「全統」の二字はまさに金統の訛であるべし。辛丑は第八年で、中和と改元、西元八八一年。癸卯は第十年、西元八八三年、黄巢は兵敗して長安を退出し、藍田を走って關東に去った。乙巳は第十二年で、光啓と改元、西元八八五年、表文はここに至って中止す。以下申世の第二千二百六十五・酉世の第二千二百六十六・戌世の第二千二百六十七・亥世の第二千二百六十八は、各々西元九〇四年から一〇二三年に當たるが、ただ世名と總號を存して干支なし。五代十國と北宋開國のこの一百二十年は、底本の裡に同じく空白である。第一百八十九運はここに至って排し畢わった。
觀物篇二十四 以會經運十二
經星之癸一百九十
觀物篇二十四,以會經運十二。經日之甲一,經月之午七。經星之癸一百九十。經辰之子二千二百六十九。經辰之丑二千二百七十。經辰之寅二千二百七十一:甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉、甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未、甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。
《觀物篇》第二十四篇は「以會經運」の第十二篇で、記する所は第一百九十運、下轄は第二千二百六十九から第二千二百八十世まで、合わせて三百六十年、西元一〇二四年から一三八三年に當たる。頭の兩つの世は名號のみあって年月なし。子世の第二千二百六十九は西元一〇二四年から一〇五三年に當たり、丑世の第二千二百七十は西元一〇五四年から一〇八三年に當たる。この六十年はちょうど邵雍本人の生活した年代で、彼は西元一〇一一年に生まれ、一〇七七年に卒した。本朝の史事は原書に記載あるべきところ、底本は卻って全て闕如に付し、顯らかに脫漏に係る。寅世の第二千二百七十一より、表中はまた干支を排し出す。甲子から癸巳まで、西元一〇八四年から一一一三年に當たるが、年の下には一字も繫げない。これらの年はすでに邵雍の身後に在り、編むべき史なく、ただまず年位を空排し出しておき、後人の塡めゆくを待つよりほかないためである。
經辰之卯二千二百七十二:甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯、甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑、甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。經辰之辰二千二百七十三:甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉、甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未、甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。經辰之己二千二百七十四:甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯、甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑、甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。
これは第一百九十運の第四・第五・第六世。卯世の第二千二百七十二は甲午から癸亥まで、西元一一一四年から一一四三年に當たる。辰世の第二千二百七十三は甲子から癸巳まで、西元一一四四年から一一七三年に當たる。次の一世は底本「經辰之己二千二百七十四」と題すが、十二支の次第に按れば、辰の後はまさに巳であるべく、「己」は「巳」の字の訛である。この世は甲午から癸亥まで、西元一一七四年から一二〇三年に當たる。三世は合わせて九十年、ただ干支を列して一事なし。實際の歷史に就いて言えば、この九十年の間に靖康の變・宋室の南渡・金人の中原據有の諸大事あり、邵雍の生前には預知する由なし。ゆえにただ空格を留める。この正に《皇極經世》の年表がまず數に由って年位を推定し、しかる後に史事の塡め入るを待つのであって、先に史事あって而る後に數に湊うものではないを説明する。三世の起首の干支は依舊として甲午・甲子の相間で、卯世は甲午に起こり、辰世は甲子に起こり、巳世はまた甲午に起こる。前面の各運の排法と絲毫も差えず。年格すでに數に由って定まれば、事の有無は便ちこの張の表の責任の內に在らず。
經辰之午二千二百七十五:甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉、甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未、甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。經辰之未二千二百七十六:甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯、甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑、甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。經辰之申二千二百七十七:甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉、甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未、甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。
これは第一百九十運の第七・第八・第九世。午世の第二千二百七十五は甲子から癸巳まで、西元一二〇四年から一二三三年に當たる。未世の第二千二百七十六は甲午から癸亥まで、西元一二三四年から一二六三年に當たる。申世の第二千二百七十七は甲子から癸巳まで、西元一二六四年から一二九三年に當たる。三世は皆ただ六十甲子の年位を排し、世ごとに甲子と甲午の間で交替に起首して、兩世相まってちょうど一つの甲子周期を走り終える。三十年を一世、十二世を一運とする格局はここに至ってすでに十二遍を重複した。讀者は正にこの一變なからぬ排法の上より邵雍の用意を見るべし。史事には斷續あれど、年數には斷續なし。天地間の年月には自ずからその定數ありて、人事はただこの定數の裡に塡められた內容なり。實際の歷史に就いて言えば、この九十年の間に蒙古の興起・金源の覆亡・宋室の危蹙より崖山の後天下が元に歸るに至る諸大事あるも、表中は卻って一字なし。邵雍の身後二百年の興亡は、彼の處ではただ三行の干支の形式をもって先行して位置を占め好んだに過ぎない。
經辰之酉二千二百七十八:甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯、甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑、甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。經辰之戌二千二百七十九:甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰、己巳、庚午、辛未、壬申、癸酉、甲戌、乙亥、丙子、丁丑、戊寅、己卯、庚辰、辛巳、壬午、癸未、甲申、乙酉、丙戌、丁亥、戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳。經辰之亥二千二百八十:甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯、甲辰、乙巳、丙午、丁未、戊申、己酉、庚戌、辛亥、壬子、癸丑、甲寅、乙卯、丙辰、丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉、壬戌、癸亥。
これは第一百九十運の第十・第十一・第十二世で、またこの一運の收尾である。酉世の第二千二百七十八は甲午から癸亥まで、西元一二九四年から一三二三年に當たる。戌世の第二千二百七十九は甲子から癸巳まで、西元一三二四年から一三五三年に當たる。亥世の第二千二百八十は甲午から癸亥まで、西元一三五四年から一三八三年に當たる。十二世を排し滿たし、第一百九十運の三百六十年はここに至って終結す。第一百八十運より以来、表中の年位は一格も缺かず紀元前二五七七年から一路西元一三八三年まで排してきた。前段は堯舜夏商周秦漢唐の帝系と史事とを塡め滿たし、後段は則ちただ空排の干支を餘すのみ。この一部の編年はここに至ってすなわち「已然の史を記す」より「未然の數を待つ」に轉成した。實際の歷史に就いて言えば、この九十年の間に元朝は盛より衰え、紅巾は四起して、亥世の末の幾格の上に明太祖はすでに天下を定めた。これらは皆邵雍の身後三百年に在る。表中は自然とただ空格を餘すのみ。
