観物篇六十一
漢儒以反經合道為權,得一端者也。權所以平物之輕重。聖人行權,酌其輕重而行之,合其宜而已。故執中無權者,猶為偏也。王通言:“《春秋》,王道之權。”非王通莫能及此。故權在一身,則有一身之權;在一鄉,則有一鄉之權。以至於天下,則有天下之權。用雖不同,其權一也。
漢代の儒者は「常法に違反して暗に道に合す」を「権」と當做す。あれはただ一個の側面を説き中ったのみ。権は本来は秤の錘で、もって事物の軽重を称量するに用いる。聖人の権を行うは、不過軽重を斟酌して然る後に往って為し、為して恰当合宜に至るのみ。ゆえに《孟子》は「中を執りて権なければ、猶ほ一を執るがごとし」と説く——ただ死守して中間にして称量する能わざるは、仍ほ偏なり。隋代の王通は説く。「《春秋》は王道の権なり」と。この句の話は王通を除き、別人は説き出す能わず。ゆえに権は一人の身の上に落ちれば、則ち一身の権あり。一郷に落ちれば、則ち一郷の権あり。天下に推して至れば、則ち天下の権あり。用処は大小の別ありと雖も、あの杆の称量する秤は同一の杆である。
《文中子》曰:“易樂者必多哀,輕施者必好奪。”或曰:“天下皆爭利棄義,吾獨若之何?”子曰:“舍其所爭,取其所棄,不亦君子乎?”若此之類,禮義之言也,心跡之判久矣;若此之類,造化之言也。《太玄》九日當兩卦,餘一卦當四日半。揚雄作《玄》,可謂見天地之心者也。
《文中子》は王通の話を記す。「容易に高興する人は一定に悲哀多し、軽易に施舍する人は一定に掠奪を愛す」と。また或る人は問う。「天下人は皆利を争い皆義を抛弃す。我一个人はどう弁ずべきか」と。王通は答えて曰く。「衆人の争う所を譲り出し去り、衆人の棄てる所を撿い帰り来れば、則ち君子ではないか」と。この一类の話の如きは、礼義を講ずる層次に属す。彼の説く「心と跡の分判は由来すでに久し」のこの一类に至っては、則ち造化を講ずる層次に属す。揚雄の《太玄》は九天をもって両卦に配し、余下の一卦は四天半に配す。揚雄が《太玄》を作るは、すなわち天地の心を看見した人と説き得べし。
落下閎改顓頊曆為太初曆,子云準《太初》作《太玄》,凡八十一卦,九分共二卦。凡一五隔一四,細分之則四分半當一卦氣,起於中心,故首中卦。曆不能無差。今之學曆者,但知曆法,不知曆理。能布算者,落下閎也;能推步者,甘公石公也。落下閎但知曆法,揚雄知曆法又知曆理。五星之說,自甘公石公始也。
西漢の落下閎は顓頊暦を改造して太初暦と成した。揚雄(字は子雲)は《太初暦》の框架に依照して《太玄》を作り、全書は共に八十一首で、八十一卦に相当す。毎九分合わせて両卦に配す。その排法は一個の「五」に一個の「四」を隔て、細分し下れば四分半に一卦の気を配す。起算点は中央に定まるがゆえに、ゆえに《太玄》は《中》首を最も前に排す。暦法は誤差なき能わざるべからず。如今暦を学ぶ人は、ただ暦法の算式を懂得して、暦法の背後の道理を懂得せず。算籌を擺りて数を推する能くするは落下閎で、天象を推歩する能くするは戦国の甘徳・石申である。落下閎はただ暦法を知るのみ、揚雄は却ってすでに暦法を知りまた暦理を知る。五大行星の学説に至っては、甘徳・石申の両家より始まる。
《素問》、《陰符》,七國時書也。《素問》密語之類,於術之理可謂至矣。韻法,闔闢者律天,清濁者呂地。韻法,先閉後開者,春也;純開者,夏也;先開後閉者,秋也;冬則閉而無聲。東為春聲,陽為夏聲。此見作韻者亦有所至矣。銜凡,冬聲也。
《黄帝内経・素問》と《陰符経》は、皆戦国七雄の時代の書である。《素問》のうちのあの些の隠秘の口訣の类は、術数の理に就いて言えば講じて極処に至ったと算し得べし。音韻を講ずる法則。口腔の一合一開は「律」に属し、天に対応す。声音の一清一濁は「呂」に属し、地に対応す。再び四時より来り看れば。発音の時に先に閉じて後に開くは、春に属す。頭より尾に至るまで皆口を張りているは、夏に属す。先に開きて後に閉ずるは、秋に属す。冬天に至れば則ち口を閉じて声なし。ゆえに「東」韻は春天の声音で、「陽」韻は夏天の声音——編制して韻書を為す人もまた領会する所有るを見るべし。「銜」韻と「凡」韻に至っては、あれは則ち冬天の声音である。
皇極経世書巻十四・観物外篇下
太極,一也,不動。生二,二則神也。神生數,數生象,象生器。太極不動,性也。發則神,神則數,數則象,象則器,器之變復歸於神也。心為太極,又曰道為太極。太極,道之極也;太玄,道之玄也;太素,色之本也。太一,數之始也;太初,事之初也。其成功則一也。
「太極」は浑然の一で、それ自身動かず。それより「二」を生出し、二は便ち「神」。神は「数」を生出し、数は「象」を生出し、象は「器」を生出す。太極の動かざるあの一面はすなわち「性」。一旦発動すれば便ち神と成り、神は落成して数、数は落成して象、象は落成して器、而も器は変化して尽頭に至り、又重新に神に回帰す。ゆえに心はすなわち太極と説き、また道はすなわち太極と説く。「太極」は道の極至で、「太玄」は道の幽深で、「太素」は形色の本原で、「太一」は数の開端で、「太初」は万事の起点——名目は分かれて好幾個と成すと雖も、それらの成就する所は実は同一の事である。
元有二,有生天地之始者,太極也。有萬物之中各有始者,生之本也。萬物各有太極、兩儀、四象、八卦之次,亦有古今之象。陰陽分而生二儀,二儀交而生四象,四象交而生八卦,八卦交而生萬物。故二儀生天地之類,四象定天地之體,四象生八卦之類,八卦定日月之體,八卦生萬物之類,重卦定萬物之體。類者,生之序也;體者,象之交也。推類者,必本乎生。觀體者,必由乎象。生則未來而逆推,象則既成而順觀。是故日月一類也,同出而異處也,異處而同象也。推此以往,物焉逃哉?
「元」に両層の含義あり。一層は天地を生出するあの総開端で、あれは則ち太極。別の一層は万物が各々自身の上に有するあの開端で、あれはそれ自身の生命の根本である。万物の身上は皆太極・両儀・四象・八卦のこの一層層の次第を具備し、もまた皆古と今の形象を帯びる。陰陽は一分かれて則ち両儀を生出し、両儀は相交われば則ち四象を生出し、四象は相交われば則ち八卦を生出し、八卦は相交われば則ち万物を生出す。ゆえに両儀は天地のこの一「類」を生出し、四象は天地の「体」を定下す。四象は八卦のこの一类を生出し、八卦は日月の体を定下す。八卦は万物のこの一类を生出し、重畳して六十四卦と為りてはじめて万物の体を定下す。いわゆる「類」とは、化生の次序を指す。いわゆる「体」とは、象と象の交会して成った結果を指す。類を推求するは、必ず化生の上より手を入れるを要す。体を観察するは、必ず象の上より手を入れるを要す。化生の事は未だ到来せざれば、ただ逆らって回りて推す能くす。象の事はすでに形を成せれば、順って下に看る可し。ゆえに日と月は本来同一の類に属し、同じく陽の中より出でて処する位置同じからず、位置同じからざるに取る所の象は却って相同じ。この弁法に照らして一路推し下れば、天下にまた何の物か逃げ出す能くするあらんか。
天變時而地應物。時則陰變而陽應,物則陽變而陰應。故時可逆知,物必順成。是以陽迎而陰隨,陰逆而陽順,本一氣也。生則為陽,消則為陰。故二者一而已矣,六者三而已矣,八者四而已矣。是以言天而不言地,言君而不言臣,言父而不言子,言夫而不言婦也。然天得地而萬物生,君得臣而萬化行,父得子、夫得婦而家道成。故有一則有二,有二則有四,有三則有六,有四則有八。
天の変動する所は時令で、地の回応する所は物類である。時令に就いて説けば、陰が先に変じて陽が来りて回応す。物類に就いて説けば、陽が先に変じて陰が来りて回応す。ゆえに時令は逆らって前に向かって預知する可く、物類は却って必ず次序に順ってはじめて成就する能くす。ここにおいて陽は前に在りて迎え、陰は後に在りて随い、陰の走るは逆行で陽の走るは順行、然れどもそれらは本来ただ同一股の気である。この股の気は生発する時に陽と叫び、消退する時に陰と叫ぶ。ゆえにいわゆる「二」は実はただ一、いわゆる「六」は実はただ三、いわゆる「八」は実はただ四。まさにこのため、古人は天を説けば便ち地を再び説くを必とせず、君を説けば便ち臣を再び説くを必とせず、父を説けば便ち子を再び説くを必とせず、夫を説けば便ち婦を再び説くを必とせず。然れども天は必ず地を得着してはじめて、万物こそ生じ出ずる能くし、君は必ず臣を得着してはじめて、万般の教化こそ推行し開く能くし、父は子を得着し夫は婦を得着してはじめて、一家の道こそ成立し得と算す。ゆえに一あれば則ち二あり、二あれば則ち四あり、三あれば則ち六あり、四あれば則ち八あり。
語其體,則天分而為地,地分而為萬物,而道不可分也。其終,則萬物歸地,地歸天,天歸道。是以君子貴道也。一陰一陽之謂道。道無聲無形,不可得而見者也。故假道路之道而為名。人之有行,必由乎道。一陰一陽,天地之道也。物由是而生,由是而成者也。
もし「体」の上より講ぜば、天は分化して地を出し、地は分化して万物を出す。独り道のみは分かつ可からざる。終了の時に至っては、万物は地に帰還し、地は天に帰還し、天は道に帰還す。ゆえに君子は最も道を看重す。《繋辞伝》は「一陰一陽これを道と謂う」と説く。道に声音なく形状なく、これは見る能わざるのである。ここにおいて道路の「道」字を借用してそれに命名す。人は出行せんとするに、必ず道路を経由するを要す。一陰一陽の往复交替は、すなわち天地の道である。万物はそれに由って生じ、もまたそれに由って成る。
陽者道之用,陰者道之體。陽用陰,陰用陽。以陽為用則尊陰,以陰為用則尊陽也。陰幾於道,故以況道也。陽尊而神,尊故役物,神故藏用。是以道生天地萬物而不自見也,萬物亦取法乎道也。陰對陽為二,然陽來則生,陽去則死。天地萬物生死主於陽,則歸之於一也。
陽は道の発用で、陰は道の形体である。陽は陰を憑借するを要し、陰もまた陽を憑借するを要す。陽を把して用と當做する時は、則ち陰をもって尊と為し、陰を把して用と當做する時は、則ち陽をもって尊と為す。陰は静にして含蔵し、様子は最も道に接近す。ゆえにつねに陰を取って道を比況す。陽は則ちすでに尊貴にしてまた神妙。尊貴なるがゆえに万物を役使する能くし、神妙なるがゆえに作用を蔵め起きる能くす。まさにこのため、道は天地万物を生出してかつて自己を顕露せず、万物もまた皆道に取法す。陰と陽は相対して、看て去れば「二」。然れども陽は一たび到来すれば万物は則ち生じ、陽は一たび離去すれば万物は則ち死す。天地万物の生死はすでに全て陽に由って主を為す以上、則ち仍ほ「一」に帰結す。
自下而上謂之升,自上而下謂之降。升者,生也;降者,消也。故陽生於下,而陰生於上。是以萬物皆反生。陰生陽,陽生陰,陰復生陽,陽復生陰,是以循環而無窮也。性非體不成,體非性不生。陽以陰為體,陰以陽為性。動者,性也;靜者,體也。在天則陽動而陰靜,在地則陽靜而陰動。性得體而靜,體隨性而動,是以陽舒而陰疾也。(更詳之。)
下より上に向かうを「升」と叫び、上より下に向かうを「降」と叫ぶ。升はすなわち生長で、降はすなわち消退である。陽気は下面より生じ起き、陰気は上面より生じ起きる。ゆえに万物は皆「反生」——根は下に扎して枝葉は上に朝り、ちょうど陰気の下行する方向と相反す。陰は陽を生ずる能くし、陽は陰を生ずる能くし、陰はまた再び陽を生じ、陽はまた再び陰を生ず。ここにおいて循環往复して窮尽なし。性に体なければ則ち形を成す能わず、体に性なければ則ち生出する能わず。陽は陰を把して自己の体と當做し、陰は陽を把して自己の性と當做す。動く能くするは性に属し、静かなる能くするは体に属す。天上に在っては陽は動にして陰は静、地上に到れば則ち陽は静にして陰は動と変ず。性は体を得着して便ち安静し、体は性に随って便ち動き起きる。ゆえに陽の運行は舒緩にして陰の運行は急促なり。(この条はなお再加の詳考を要す。)
陽不能獨立,必得陰而後立,故陽以陰為基;陰不能自見,必待陽而後見,故陰以陽為唱。陽知其始而享其成,陰效其法而終其用。陽能知而陰不能知,陽能見而陰不能見也。能知能見者為有,故陽性有,而陰性無也。陽有所不偏,而陰無所不偏也。陽有去,而陰常居也。無不偏而常居者為實,故陽體虛而陰體實也。
陽は単独に站り住む能わず、必ず陰を得着してはじめて立ち起きる能くす。ゆえに陽は陰を把して自己の根基と當做す。陰は自己顕現する能わず、必ず陽の来りて領き起くるを待ってはじめて顕現す。ゆえに陰は陽を把して領唱する人と當做す。陽は事情の開端を知りてその成果を享受し、陰は則ち陽の法度を效法してその功用を為し完る。陽は知る能くして陰は知る能わず、陽は見る能くして陰は見る能わず。知る能くし見る能くするは「有」と算す。ゆえに陽の性は有に属し、陰の性は無に属す。陽にそれの遍及せざる地方あり、陰は却って処として遍布せざるなし。陽に離去する時あり、陰は却って常駐して走らず。処として遍布せざるなくまた常駐して走らざるは「実」と算す。ゆえに陽の体は虚で、陰の体は実である。
陽之類圓,成形則方;陰之類方,成形則圓。陰事太半,蓋陽一而陰二也。陽主闢而出。陰主翕而入。春陽得權,故多旱;秋陰得權,故多雨。冬至之子中,陰之極;春分之卯中,陽之中;夏至之午中,陽之極;秋分之酉中,陰之中。凡三百六十,中分之則一百八十。此二至二分相去之數也。
陽のこの一类は本身は円なれども、凝結して形を成せば却って方。陰のこの一类は本身は方なれども、凝結して形を成せば却って円。世間の事は陰が一大半を承担するを要す。陽はただ一份を算えて陰は両份を算うるを要するがゆえである。陽は張開を主として外に向かって発出し、陰は收合を主として内に向かって吸納す。春天は陽気が権を當て、ゆえに旱多し。秋天は陰気が権を當て、ゆえに雨多し。冬至は十二辰の子位の正中に落ち、陰の極点である。春分は卯位の正中に落ち、陽の中点である。夏至は午位の正中に落ち、陽の極点である。秋分は酉位の正中に落ち、陰の中点である。周天は共に三百六十度、半に対分すればすなわち一百八十度。これがすなわち両至と両分の彼此相距する数目である。
二至相去,東西之度凡一百八十,南北之度凡六十。冬至之後為呼,夏至之後為吸。此天地一歲之呼吸也。朔,《易》以陽氣自北方而生,至北方而盡,謂變易循環也。東赤、南白、西黃、北黑,此正色也。驗之於曉、午、暮、夜之時可見之矣。
冬至と夏至のこの両点の相距るは、東西の方向の上に於ては一百八十度、南北の方向の上に於ては六十度。冬至の後は陽気が外に向かって発出す。天地の呼気するに比す。夏至の後は陰気が内に向かって收斂す。天地の吸気するに比す。これがすなわち天地の一年の間の一呼一吸である。每月の朔日を説いて至れば、《周易》は陽気は北方より生起し、また走り回りて北方に窮尽すると認む。講ずる所はまさに変易循環して已まざるである。東方は赤、南方は白、西方は黄、北方は黒。これは四方の天色の正色である。清晨・正午・傍晚・深夜のこの四個の時段を取って驗証し往けば、則ち看て出す能くす。
天地之氣運,北而南則治,南而北則亂。亂久則復北而南矣。天道人事皆然。推之歷代,可見消長之理也。天地之本其起於中乎?是以乾坤屢變而不離乎中。人居天地之中,心居人之中,日中則盛,月中則盈,故君子貴中也。
天地の気の運行は、北より南に向かって推移すれば天下は則ち太平、南より北に向かって推移すれば天下は則ち動乱す。乱れて久しきは、また重新に北より南に向かう。天道このようであれば、人事もまたこのよう。歴代の興亡を取って印証し往けば、則ち消と長の道理を看出し得。天地の根本は、およそ一個の「中」字に起きるか。ゆえに《乾》《坤》の両卦は屡屡変化するも、しかし終始中を離れず。人は天地の正中に処り、心はまた人身の正中に処る。太陽は中天に走到して最も盛ん、月亮は中天に走到して最も円なり。ゆえに君子は最も「中」を看重す。
生者性,天也;成者形,地也。得天氣者動,得地氣者靜。天以氣為主,體為次。地以體為主,氣為次。在天在地者亦如之。天主用,地主體,聖人主用,百姓主體。故日用而不知。顯諸仁者,天地生萬物之功,則人可得而見也。所以造萬物,則人不可得而見,是藏諸用也。
生発する能くするは性で、天に属す。成就する能くするは形で、地に属す。天気を禀得するは動きを好み、地気を禀得するは静かを好む。天は気をもって主と為し体をもって次と為し、地は体をもって主と為し気をもって次と為す。天に在る万物と地に在る万物も、またこの比例に照らして分配す。天は「用」を主管し、地は「体」を主管す。聖人は用を主管し、百姓は体を主管す。ゆえに《繋辞伝》は百姓の「日に用いて知らず」と説く。いわゆる「諸を仁に顕す」とは、天地が万物を生養する功効を指す。この一層は人の見る能くする所である。天地が何を憑って万物を造出するかに至っては、人は却って見る能わず。あれは則ち「諸を用に蔵す」。
或問:顯諸仁、藏諸用。曰:“若日月之照臨,四時之成歲,是顯諸仁也;知其度數之然,而不知其所以然,是藏諸用也。”天之象類,則可得而推。如其神用,則不可得而測也。天以理盡,而不可以形盡。渾天之術,以形盡天,可乎?倚蓋之說,崑崙四垂而為海。推之理則不然。夫地直方而靜,豈得如圓動之天乎?
或る人は「顕諸仁、蔵諸用」をどう講ずべきかを請教す。邵雍は答えて曰く。「日月が大地を照臨し、四時が湊まりて一年と成るが如きは、これがすなわち諸を仁に顕す。我らはそれらの度数がこのようであるを算い出す能くすれども、しかしそれらがなぜこのようであるかを説き出す能わず。これがすなわち諸を用に蔵す」と。天の形象と類別は推算し得べきものである。それの神妙の作用に至っては、則ち測度する能わざるものである。天はただ「理」をもって往って窮尽する能くするのみ、「形」をもって窮尽する能わず。渾天家は一個の球形を用いて天を説き尽くさんと欲す。行き通る可きか。蓋天家は天は一頂の斜倚したる傘蓋の如しを講じ、崑崙山は四面下垂して大海と為る。道理に按じて推究すれば、もまたこのようではない。地は本来方正にして安静なり。どうしてあの円転して運動する天の如くならんか。
天圓而地方,天南高而北下,是以望之如倚蓋焉;地東南下西北高,是以東南多水西北多山也。天覆地,地載天,天地相函,故天上有地,地上有天。天之陽在南,故日處之;地之剛在北,故山處之。所以地高西北,天高東南也。天之陽在南,而陰在北;地之陰在南,而陽在北;人之陽在上,而陰在下。既交,則陽下而陰上。
天は円にして地は方なり。天は南辺に高く北辺に低し。ゆえに人は望み上げて一頂の斜倚したる傘蓋の如し。地は東南に低く西北に高し。ゆえに東南に江河湖海多く、西北に高山峻嶺多し。天は地を覆盖し、地はまた天を承载す。天と地は互相に包含す。ここにおいて天の上に地あり、地の上にもまた天あり。天の陽気は南方に聚まり、太陽は便ちそこに居る。地の剛質は北方に聚まり、山岳は便ちそこに居る——地勢の西北高なる所以、天勢の東南高なる所以は、すなわちこの縁故である。天の陽は南に在りて陰は北に在り、地の陰は南に在りて陽は北に在り、人の陽は上に在りて陰は下に在り。一旦陰陽交合すれば、則ち変じて陽は下降し陰は上升す。
極南大暑,極北大寒,故南融而北結,萬物之死地也。夏則日隨斗而北,冬則日隨斗而南,故天地交而寒暑和,寒暑和而物乃生也。天渾渾於上而不可測也,故觀斗數以占天也。斗之所建,天之行也。魁建子,杓建寅,星以寅為晝也。斗有七星,是以晝不過乎七分也。(更詳之。)
極南は酷熱、極北は酷寒。ゆえに南辺のものは一味に融化し、北辺のものは一味に凝結す。あの両処は皆万物の死地である。夏天は太陽が北斗に随って北方に偏向し、冬天は太陽が北斗に随って南方に偏向す。ここにおいて天地の気は交通して寒暑は調和を得る能くし、寒暑調和して万物はこそ生長する能くす。天は上面に在りて浑然として一片、測度する由なし。ゆえに人々は北斗の度数を観察してもって天象を推占す。北斗の指す所の方位は、すなわち天の運行である。斗魁は子位を指向し、斗柄は寅位を指向し、星象は便ち寅位をもって白昼の起点と為す。北斗は共に七顆の星あり。ゆえに白昼の長度は七分を超過せず。(この条はなお再加の詳考を要す。)
天行所以為晝夜,日行所以為寒暑。夏淺冬深,天地之交也;左旋右行,天日之交也。日朝在東,夕在西,隨天之行也;夏在北,冬在南,隨天之交也。天一周而超一星,應日之行也。春酉正,夏午正,秋卯正,冬子正,應日之交也。冬至之月,所行如夏至之日;夏至之月,所行如冬至之日。
天の周日の旋転は昼夜を造成し、太陽の周年の行度は寒暑を造成す。夏天は日影浅く、冬天は日影深し。これは天と地の交会する結果である。天は左に旋りて日は右に行く。これは天と日の交会する結果である。太陽は早晨は東に在り傍晚は西に在る。あれは天の旋転に随って走る。夏天は北に偏し冬天は南に偏す。あれは天日の交会に随って走る。天は転じて一周を満たせば便ち一星の数を多出す。あれは太陽の行度と相応ずる。黄昏の見る所の中星は春は酉正・夏は午正・秋は卯正・冬は子正に在る。あれは天日の交会と相応ずる。冬至のあの月のうちに月亮の走る所の路線は、夏至の時の太陽の走ると一様。夏至のあの月のうちに月亮の走る所の路線は、冬至の時の太陽の走ると一様。
陽主舒長,陰主慘急。日入盈度,陰從於陽;日入縮度,陽從於陰。日行陽度則盈,行陰度則縮,賓主之道也。月去日則明生而遲,近日則魄生而疾,君臣之道也。日以遲為進,月以疾為退。日月一會而加半日,減半日,是以為閏餘也。日一大運而進六日,月一大運而退六日,是以為閏差也。
陽の性情は舒緩にして生長し、陰の性情は急促にして肅殺す。太陽は「盈」の度数に進入する時は、陰が陽に順從す。「縮」の度数に進入する時は、陽が陰に順從す。太陽は陽度の上に走りて行速余裕あるを盈と叫び、陰度の上に走りて行速不足なるを縮と叫ぶ。これは賓と主の相待する道理である。月亮は太陽より離るること愈々遠ければ、光を受くる明面愈々大にして行度は顕れて愈々慢く、太陽より離るること愈々近ければ、黒魄愈々大にして行度は顕れて愈々快し。これは君と臣の相従する道理である。太陽は行くこと慢きをもって前進と算し、月亮は行くこと快きをもって後退と算す。日月は会合する每に一度、則ち半日を加え半日を減ずるを要す。閏余はすなわちこのように来る。太陽は一個の大運の周期を走り完れば六日を多出し、月亮は一個の大運の周期を走り完れば六日を少く去る。閏差はすなわちこのように来る。
一歲之閏,六陰六陽,三年三十六日,故三年一閏,五年六十日,故五年再閏。《堯典》期三百六旬有六日,夫日之餘盈也六,則月之餘縮也亦六。若去日月之餘十二,則有三百五十四,乃日行之數。以十二除之,則得二十九日。
一年の中の閏は、六個の陰・六個の陽を包含す。三年積みて三十六日と成る。ゆえに三年に一個の閏月を安排す。五年積みて六十日と成る。ゆえに五年の内に再び一度閏するを要す。《尚書・堯典》は一周年は三百六十六日と説く。太陽のこの一辺の多出したる盈数は六日で、月亮のあの一辺の少く下去したる縮数もまた六日。もし日月の両頭のこの十二日の余数を皆扣掉せば、則ち三百五十四日を剩す。これは日行に按じて折算し出したる数目である。再び十二を取って除せば、每箇月に便ち二十九日を得る。
陽消則生陰,故日下而月西出也;陰盛則敵陽,故日望而月東出也。天為父,日為子,故天左旋,日右行;日為夫,月為婦,故日東出,月西生也。日月之相食,數之交也。日望月則月食,月掩日則日食,猶水火之相剋也。是以君子用智,小人用力。月體本黑,受日之光故白。日入地中,構精之象也。
陽は一たび消退すれば陰は則ち生出す。ゆえに太陽が西に沉む時に新月は西辺より現身す。陰は一たび盛壮なれば則ち陽と抗衡するに足る。ゆえに望日に至れば太陽は未だ落ち尽さざるに月亮はすでに東辺より升起す。天は父親に比し、太陽は兒子に比す。ゆえに天は左に旋りて日は右に行く。太陽は丈夫に比し、月亮は妻子に比す。ゆえに日は東方より出でて月は西方より生ず。日食と月食は、両者の度数の交会する結果である。太陽が正しく月亮に対して月が掩わるるは則ち月食、月亮が太陽を遮住するは則ち日食。これは水と火の互相に克制するに比す。これより知るべし。君子の靠る所は智慧で、小人の靠る所は気力である。月亮の本体はもとは黒く、太陽の光を受けてはじめて白色を顕出す。太陽が地下に沉入するは、まさに天地陰陽の交媾して精を結ぶ象である。
日隨天而轉,月隨日而行,星隨月而見,故星法月,月法日,日法天。天半明半晦,日半盈半縮,月半盈半虧,星半動半靜,陰陽之義也。天晝夜常見,日見於晝,月見於夜而半不見,星半見於夜,貴賤之等也。月晝可見也,故為陽中之陰;星夜可見也,故為陰中之陽。
太陽は天に随って旋転し、月亮は太陽に随って運行し、星星は月亮に随って顕現す。ゆえに星は月に取法し、月は日に取法し、日は天に取法す。天に一半の明あり一半の晦あり、日に一半の盈あり一半の縮あり、月に一半の円あり一半の缺あり、星に一半の動あり一半の静あり。これは皆陰陽の対分する道理である。天は昼夜を論ぜず終始可見、太陽はただ白天のみ可見、月亮は夜裏に可見にしてしかも一半の時候は看る能わず、星星は夜裏にもまた一半のみ見るを得。これはまた尊卑貴賎の等級である。月亮は白天にも時に看るを得るを見る能くす。ゆえにそれは「陽中の陰」。星星は夜裏に至ってはじめて看るを得るを見る能くす。ゆえにそれは「陰中の陽」。
陽中有陰,陰中有陽,天之道也。陽中之陽,日也,暑之道也;陽中之陰,月也,以其陽之類,故能見於晝;陰中之陽,星也,所以見於夜。陰中之陰,辰也,天壤也。辰數十二,日月交會謂之辰。辰,天之體也。天之體,無物之氣也。辰至日為生,日至辰為用。蓋順為生而逆為用也。星為日餘,辰為月餘。星之至微如塵沙者,隕而為堆阜。
陽のうちに陰を含み、陰のうちに陽を含む。これは天の法則である。陽中の陽は太陽で、暑熱の道を主管す。陽中の陰は月亮で、それは仍ほ陽の一类に属するがゆえに、ゆえに白天にも見られ得べし。陰中の陽は星で、ゆえに夜裏に顕現す。陰中の陰は辰で、あれは天の空隙の処である。辰の数目は十二で、日と月は交会する每に一度を則ち一辰と叫ぶ。辰は天の本体で、而も天の本体は、ただ一団の物と為すに足らざる気である。辰より数えて日に至るは「生」の方向で、日より数えて辰に至るは「用」の方向——順って数えれば則ち生で、逆らって数えれば則ち用。星は日の剩りたる余数で、辰は月の剩りたる余数である。星のうちの細微にして塵沙の如きのものは、墜落し下来れば便ち積みて土堆山丘と成った。
天奇而地偶,是以占天文者觀星而已,察地理者觀山水而已。觀星而天體見矣,觀山水而地體見矣。天體容物,地體負物,是故體幾於道也。日月星辰共為天,水火土石共為地,耳目鼻口共為首,髓血筋骨共為身,此乃五之數也。天有五辰,日月星辰與天而為五;地有五行,金木水火與土而為五。五行之木,萬物之類也。五行之金,出乎石也。故水火土石,不及金木,金木生其間也。
天の数は奇で、地の数は偶である。ゆえに天文を推占する人はただ星象を観察するを要し、地理を考察する人はただ山川水土を観察するを要す。星を観れば天の形体は則ち顕現し、山水を観れば地の形体は則ち顕現す。天の形体は万物を容納する能くし、地の形体は万物を負載する能くす。ゆえに「体」のこの东西はすでに甚だ道に接近す。日・月・星・辰は合わせて天を構成し、水・火・土・石は合わせて地を構成し、耳・目・鼻・口は合わせて頭を構成し、髄・血・筋・骨は合わせて身を構成す——每一組は皆四様にそれらの総名を加えて、共に五数を成す。これがすなわち「五」のこの数の来歴である。天に五辰あり、日・月・星・辰にさらに天自身を加えて五を湊成す。地に五行あり、金・木・水・火にさらに土を加えて五を湊成す。五行のうちの木は万物の一类に属し、五行のうちの金は則ち石頭の中より出でたる。ゆえに邵雍が地を論ずるはただ水・火・土・石を列して、金・木を列せず。金と木はこの四者の間より派生し出でたるに因る。
陽中陽,日也;陽中陰,月也;陰中陽,星也;陰中陰,辰也。柔中柔,水也;柔中剛,火也;剛中柔,土也;剛中剛,石也。夫四象在錯綜而用之。日月,天之陰陽;水火,地之陰陽;星辰,天之剛柔;土石,地之剛柔。天之陽在東南,日月居之;地之陰在西北,火石處之。天以剛為德,故柔者不見;地以柔為體,故剛者不主。是以震,天之陰也;巽,地之陽也。
陽中の陽は太陽、陽中の陰は月亮、陰中の陽は星、陰中の陰は辰。柔中の柔は水、柔中の剛は火、剛中の柔は土、剛中の剛は石。この両組の四象は交錯して綜合して使用するを要す。日と月は天の陰陽で、水と火は地の陰陽。星と辰は天の剛柔で、土と石は地の剛柔。天の陽気は東南に在り。ゆえに日月はそこに居る。地の陰気は西北に在り。ゆえに火と石はそこに処す。天は剛をもってその徳性と為す。ゆえに柔に属する一面は顕れ出づる能わず。地は柔をもってその形体と為す。ゆえに剛に属する一面は主を為す能わず。まさにこのため、《震》卦は一陽が下に在り、八卦のうちに陽に属すと雖も、実際は却って天の陰である。《巽》卦は一陰が下に在り、陰に属すと雖も、実際は却って地の陽である。
地,陰也,有陽而陰效之。故至陰者辰也,至陽者日也,皆在乎天,而地則水火而已。是以地上皆有質之物,陰伏陽而形質生,陽伏陰而性情生。是以陽生陰,陰生陽,陽克陰,陰克陽。陽之不可伏者,不見於地;陰之不可克者,不見於天。伏陽之少者,其體必柔,是以畏陽而為陽所用。伏陽之多者,其體必剛,是以御陽而為陰所用。故水火動而隨陽,土石靜而隨陰也。(一說云,陰效陽而能伏,是以辰在天,而地之四物皆有所欠也。)
地は陰に属す。つねに先に陽ありて前に在り、陰は再び照らして往って效法す。ゆえに最も陰なるは辰で、最も陽なるは日で、この両様は皆天上に在る。而も地上の有する所は、不過水と火のみである。ここにおいて地上は尽く有形質の东西あり。陰は陽を制伏し住せば、形と質は則ち生出す。陽は陰を制伏し住せば、性と情は則ち生出す。ここにおいて陽は陰を生ずる能くし、陰は陽を生ずる能くす。陽は陰を克する能くし、陰もまた陽を克する能くす。あの種の伏せ得ざる陽は、地上に於て見る能わず。あの種の克し得ざる陰は、天上に於て見る能わず。制伏する陽少なきは、その体は必ず柔軟なり。ゆえに陽を怕れて陽に駆使せらる。制伏する陽多きは、その体は必ず堅硬なり。ゆえに陽に抵じ住する能くして陰に駆使せらる。ここにおいて水と火は動きを好み、陽に随って走る。土と石は静かを好み、陰に随って走る。(別の一種の説法は。陰は陽を效法して陽を制伏する能くす。ゆえに辰は天上に留まり、而も地上の水火土石のこの四様は便ち各々欠缺ありと。)
陽生陰,故水先成;陰生陽,故火後成。陰陽相生也,體性相須也。是以陽去則陰竭,陰盡則陽滅。火以性為主,體次之;水以體為主,性次之。天火,無體之火也;地火,有體之火也。火無體,因物以為體。金石之火烈於草木之火者,因物而然也。火生於無,水生於有。
陽は陰を生ずる能くす。ゆえに水は先に凝成す。陰は陽を生ずる能くす。ゆえに火は後に成形す。陰と陽は互相に化生し、体と性は互相に依待す。ここにおいて陽は一たび離去すれば陰は則ち枯竭し、陰は一たび窮尽すれば陽もまた随いて熄滅す。火は性をもって主と為し体をもって次と為し、水は体をもって主と為し性をもって次と為す。天上の火は形体なき火で、地上の火は形体ある火である——火本身は並びに体なく、燃焼する所のものを借りて當做自己の体と為すを要す。金石の燃え起こす火は草木の燃え起こす火より猛烈なり。まさに依附する所の物の同じからざるがゆえである。火は「無」の中より生出し、水は「有」の中より生出す。
海潮者,地之喘息也。所以應月者,從其類也。燈之明暗之境,日月之象也。水者,火之地;火者,水之氣。黑者,白之地;寒者,暑之地。月者,日之影也;情者,性之影也;陰者,陽之影;鬼者,人之影也。明則有日月,幽則有鬼神。
海上の潮汐は、大地の喘息である。それが月亮に随って漲落する所以は、水と月が同一の類に属し、同気相求するがゆえである。燈焔の上の明暗の交界のあの一圈は、まさに日と月の縮影である。水は火の依附する処所で、火は水の蒸発し出でたる気である。黒は白の依附する処所で、寒は暑の依附する処所である。月亮は太陽の影子で、情は性の影子で、陰は陽の影子で、鬼は人の影子である。ゆえに明処に在れば則ち日月あり、幽処に在れば則ち鬼神あり。
鬼神者,無形而有用,其情狀可得而知也,於用則可見之矣。若人之耳目鼻口手足,草木之枝葉華實顏色,皆鬼神之所為也。福善禍淫,主之者誰耶?聰明正直,有之者誰邪?不疾而速,不行而至,任之者誰邪?皆鬼神之情狀也。天地之心者,生萬物之本也;天地之情者,情狀也,與鬼神之情狀同。以天地生萬物,則以萬物為萬物;以道生天地,則天地亦萬物也。天地生萬物,聖人生萬民。生生長類,天地成功;別生分類,聖人成能。
いわゆる鬼神とは、形体なきにして作用ある东西である。その情状は知るべくする能くするもので、ただその作用の上より看れば則ち見え着く。譬えば人の耳・目・鼻・口・手・足、草木の枝・葉・花・果・顔色は、皆鬼神造化の手筆である。善人に福を降し淫邪に禍を降すは、主宰してこの件の事をするは誰か。いわゆる聡明正直、这份の品格を具備するは誰か。《繋辞伝》は「疾ならずして速く、行かずして至る」と説く。这份の職分を担当するもまた誰か。これらは皆鬼神の情状である。天地の心は、すなわち万物を生養する根本である。天地の情は、すなわちそれの表現し出ずる情状で、鬼神の情状と同一の事である。天地が万物を生ずるこの角度より看れば、万物はただ万物である。然れどももし道が天地を生ずるこの角度より看れば、天地自体もまた不過万物の中の一員である。天地は万物を生出し、聖人は則ち万民を生養す。生命を一代一代繁衍せしめ、種類を断えず生長せしめるは、これは天地の成就する所の功である。各様の生命を分辨し開き、種類を区別して清楚せしめるは、これは聖人の成就する所の能である。
動物自首生,植物自根生。自首生,命在首;自根生,命在根。本乎天者親上,本乎地者親下。故變之與應,常反對也。有變則必有應也,故變於內者應於外,變於外者應於內,變於下者應於上,變於上者應於下也。天變而日應之,故變者從天,而應者法日也。是以日紀乎星,月會於辰,水生於土,火潛於石,飛者棲木,走者依草。心肺之相聯,肝膽之相屬,無它變應之道也。
动物は頭部より生長を始め、植物は根部より生長を始む。頭部より生ずるは、性命は頭の上に寄托す。根部より生ずるは、性命は根の上に寄托す。《乾・文言》は「天に本ずる者は上に親しみ、地に本ずる者は下に親しむ」と説く。ゆえに「変」と「応」のこの両頭は、つねに彼此相反して相対す。変あれば則ち必ず応あり。ここにおいて変は内に発生すれば、応は則ち外に出現す。変は外に発生すれば、応は則ち内に出現す。変は下に発生すれば、応は則ち上に出現す。変は上に発生すれば、応は則ち下に出現す。天は先に変じて太陽は往ってそれに回応す。ゆえに「変」に属する一方は天を效法し、「応」に属する一方は日を效法す。まさにこのため、太陽は衆星をもって綱紀と為し、月亮は十二辰と相交会す。水は土の中より生出し、火は石頭のうちに潜蔵す。飛ぶ能くするは樹上に栖り、走る能くするは草叢に依る。人の身上は心と肺は相連なり、肝と胆は相属す——これらは皆別の道理に非ず、全て「変」と「応」の道理である。
陽交於陰而生蹄角之類也,剛交於柔而生根荄之類也,陰交於陽而生羽翼之類也,柔交於剛而生枝幹之類也。天交於地,地交於天,故有羽而走者,足而騰者。草中有木,木中有草也。各以類而推之,則生物之類不過是矣。走者便於下,飛者利於上,從其類也。水之物無異乎陸之物,各有寒熱之性。大較則陸為陽中之陰,而水為陰中之陽。
陽と陰は相交わりて、長蹄長角の走獣の一类を生出す。剛と柔は相交わりて、土中に根を扎す草根の一类を生出す。陰と陽は相交わりて、長羽長翅の飛禽の一类を生出す。柔と剛は相交わりて、枝條樹干の一类を生出す。天と地は相交わり、地と天は相交わる。ゆえに世上に羽毛を生ずれどもただ跑るのみ能くする鳥あり、もまた脚を生ずれども騰躍する能くする獣あり。草のうちに木性を摻み、木のうちにもまた草性を摻む。各々門類に按じてこのように推し下れば、天下の生物の種類は不過これらのみである。走獣は低処に於て活動するに便く、飛禽は高処に於て活動するに利く、各々自己の類に順る。水裏の生物と陸上の生物は並びに根本の差別なく、もまた各々寒に属し熱に属する性子を分かち出す。大体に説けば、陸地は「陽中の陰」で、水域は「陰中の陽」である。
陸中之物水中必具者,猶影象也。陸多走,水多飛者,交也。是故巨於陸者,必細於水;巨於水者,必細於陸也。水之族以陰為主,陽次之;陸之類以陽為主,陰次之。故水類出水則死,風類入水則死。然有出入之類者,龜蟹鵝鳧之類是也。
陸上にある物類は、水中にも必ず相対応する一份がある。影が本形を映照するが如し。陸上は行走するものを多しと為し、水裏は却って「飛」遊するものを多しと為す。これは天地の交錯する致す所である。ここにおいて陸上に於て体形の巨大なるは、水中に到って対応するあの種は細小。水中に於て体形の巨大なるは、陸上に到って対応するあの種は細小。水族は陰をもって主と為し陽をもって次と為し、陸上の物類は陽をもって主と為し陰をもって次と為す。ゆえに水族は水を離れれば則ち死し、風に属する陸生の类もまた水に入れば死す。ただ能く出で能く入る両棲の类もまたあり。亀・蟹・鵝・野鴨はすなわちこのようである。
魚在於水則生,離則死,交與不交之謂也。魚者,水之族也;蟲者,風之族也。風類水類,小大相反。在水者不瞑,在風者瞑。走之類上睫接下,飛之類下睫接上,類使之然也。在水而鱗鬣,飛之類也;龜獺之類,走之類也。飛之類喜風而敏於飛上,走之類喜土而利於走下。飛之走,雞鳧之類是也;走之飛,龍馬之屬是也。
魚は水裏にあれば則ち活き、水を離れれば則ち死す。説く所はまさに本類と相交わるか相交わらざるかである。魚は水のこの一族に属し、虫は風のこの一族に属す。風族と水族は、大小ちょうど相反す。水裏に生ずるは寝て目を閉ざさず、風中に生ずるは寝て目を閉ずるを要す。走獣は上眼瞼が下に向かって合い、飛禽は下眼瞼が上に向かって合う。これは皆各々の類性がそれをこのようせしむる。水裏の鱗を長じ鬣を長ずる魚は、実は「飛」の一类に帰するを要す。亀と水獺の一流は、則ち「走」の一类に帰す。飛の一类は風を好み、上に向かって騰飛するに善し。走の一类は土を好み、地面に於て奔走するに便し。飛類の中の走に偏するは、鶏と野鴨のこの一流。走類の中の飛に偏するは、竜と馬のこの一属。
馬牛皆陰類,細分之則馬為陽,而牛為陰。鷹鵰之類食生,而雞鳧之類不專食生;虎豹之類食生,而貓犬之類食生又食穀。以類推之,從可知矣。虎豹之毛猶草也,鷹鸇之羽猶木也。草伏之獸,毛如草之莖;林棲之鳥,羽如林之葉。類使之然也。
馬と牛は皆陰の一类に属し、細分し起これば則ち馬は陽に偏り牛は陰に偏す。鷹・鵰のこの一类はただ生肉を食し、鶏・野鴨のこの一类は却って専ら生食を食せず。虎・豹のこの一类はただ生肉を食し、猫・狗のこの一类はすでに生肉を食しまた穀物を食す。この門類に按じて推し下れば、その余もまた知り想うべし。虎豹の身上の毛は草に像り、鷹鸇の身上の羽は木に像る。草叢のうちに伏する獣は、毛の様子はすなわち草茎に像る。林中に栖む鳥は、羽の様子はすなわち樹葉に像る。これは皆各々の類性がそれをこのようせしむる。
禽蟲之卵,果穀之類也。穀之類多子,蟲之類亦然。蠶之類,今歲蛾而子,來歲則子而蠶。蕪菁之類,今歲根而苗,來歲則苗而子。木者星之子,是以果實象也。木之支干,土石之所成,所以不易。葉花,水火之所盛,故變而易也。葉,陰也;華實,陽也。枝葉耎而根幹堅也。
禽鳥と昆虫の産する所の卵は、草木の果実と穀粒に相当す。穀のこの一类は子を結ぶこと極めて多し。虫のこの一类は卵を産むこともまた極めて多し。蚕のこの一类は、今年は蛾に由って卵を産み下し、明年に再び卵に由って蚕を孵成す。蕪菁のこの一类は、今年は根に由って苗を長じ出で、明年に再び苗に由って籽を結出す。樹木は星の兒子で、ゆえにそれの結出する果実もまた星の形象を帯びる。樹木の枝干は土と石の凝成したるで、ゆえに堅固にして改変し易からず。葉子と花朵は水と火の催盛したるで、ゆえに時に随って変化して凋落し易し。葉は陰に属し、花と果は陽に属す。枝葉は柔軟にして根干は堅硬なり。
木之堅,非雷不能震;草之柔,非露不能潤。草類之細入於坤。水之木,珊瑚之類是也;石之花,硝鹽之類是也。龍能大能小,然亦有制之者。受制於陰陽之氣,得時則能變化,變變則不能也。有一日之物,有一月之物,有一時之物,有一歲之物,有十歲之物,至於百千萬皆有之。天地亦物也,亦有數焉。雀,三年之物;馬,三十年之物。凡飛走之物,皆可以數推。
樹木は堅硬で、雷霆に非ざればそれを震動せしめ得ず。草類は柔弱で、雨露に非ざればそれを滋潤せしめ得ず。草類の中の最も細微なる一等は、「坤」に帰属す。水裏に長じ出でたる木は、すなわち珊瑚の一类である。石頭の上に開き出でたる花は、すなわち硝と塩の一类である。竜は能く大きく変じ能く小さく変ずるも、然れどもそれは同じく制約せらるる時あり。それは陰陽二気の支配を受け、時令を得着すれば則ち変化する能くし、変じて頭を過ぎれば則ち変動する能わず。世上有りて一日のみ活くる东西あり、一月のみ活くるあり、一季のみ活くるあり、一年活くるあり、十年活くるありて、百年・千年・万年に至るまで皆あり。天地自体もまた一物で、ゆえにまたそれの定数あり。麻雀は三年を活くる东西で、馬は三十年を活くる东西——およそ飛ぶ能くし走る能くする物類は、寿数は皆数をもって推算し出す能くす。
人,百有二十年之物。人為萬物之靈,寄類於走。走,陰也,故百有二十。人寓形於走類,何也?走類者,地之長子也。動者體橫,植者體縱。人宜橫而反縱也。人之骨巨而體繁,木之乾巨而葉繁,應天地之數也。飛者有翅,走者有趾。人之兩手,翅也;兩足,趾也。飛者食木,走者食草,人皆兼之,而又食飛走也,故最貴於萬物也。
人は一百二十年を活くる东西である。人は万物の霊たると雖も、形体は却って走獣のこの一类のうちに寄托す。走獣は陰に属す。ゆえに人の天年は定めて一百二十と為す。人はなぜ形体を走獣の一类に寄托するか。走獣は大地の長子なるがゆえである。動く能くする動物の身体は横にし、長ずる能くする植物の身体は竪にす。人は本は横たるべきに、却って竪と成った。人の骨頭は粗大にして肢体は繁多、樹木の主干は粗大にして枝葉は繁多なり。これはまさに天地の数と相応す。飛禽に翅膀あり、走獣に脚趾あり。人の両只の手はすなわち翅膀で、両只の脚はすなわち脚趾である。飛禽は樹上の果実を食し、走獣は地上の草を食す。人は両様皆食し、しかもまた飛禽走獣を食す。ゆえに万物の中に於て最も尊貴なり。
天六地四,天以氣為質,而以神為神;地以質為質,而以氣為神。唯人兼乎萬物,而為萬物之靈。如禽獸之聲,以其類而各能得其一。無所不能者,人也。推之他事,亦莫不然。唯人得天地日月交之用,他類則不能也。人之生,真可謂之貴矣。天地與其貴而不自貴,是悖天地之理,不祥莫大焉。
天の数は六で、地の数は四である。天は気を取って来てその質に充当し、而も神を取って来てその神に充当す。地は形質を取って来てその質に充当し、而も気を取って来てその神に充当す。ただ人のみが万物の性能を兼具し、ここにおいて万物の霊と成る。譬えば禽獣の叫声は、各々その類に按じてただその中の一種を発する能くするのみ、而も発せざるなきのはすなわち人である。別の事の上に推して至れば、もまたこのようせざるなし。ただ人のみが天地日月の交会する全部の功用を得着する能くし、別の物類は為す能わず。人のこの一生は、真に尊貴と説き得べし。上天は人に这份の尊貴を給い、人は自己卻って珍重を知らず。則ち天地の理に違背し、これより不祥なるなきの事である。
天有四時,地有四方,人有四支。是以指節可以觀天,掌文可以察地。天地之理,具乎指掌矣,可不貴之哉?人之四支各有脈也,一脈三部,一部三候,以應天數也。身,地也,本乎靜,所以能動者,氣血使之然也。水在人之身為血,土在人之身為肉。日為心,月為膽,星為脾,辰為腎藏也;石為肺,土為肝,火為胃,水為膀胱府也。天地並行,則藏府配。四藏,天也;四府,地也。藏者,天行也;府者,地行也。天地並行,則配為八卦。
天に春夏秋冬の四時あり、地に東西南北の四方あり、人に両手両足の四肢あり。ゆえに手指の骨節を数えて天時を推観する可く、掌上の紋路を看て地理を考察する可し——天地の道理は皆この一双の手掌の上に斉備す。どうして珍重せざるべけんや。人の四肢は各々脉絡あり、一条の脉は寸・関・尺の三部に分かち、一部はまた浮・中・沉の三候に分かち、もって天の数に対応す。身体は地に属し、本性は静で、それが動く能くする所以は、気と血の推動する結果である。水は人の身上に於て化して血と為り、土は人の身上に於て化して肉と為る。天上の日は心に対応し、月は胆に対応し、星は脾に対応し、辰は腎に対応す。この四様は「蔵」である。地上の石は肺に対応し、土は肝に対応し、火は胃に対応し、水は膀胱に対応す。この四様は「府」である。天と地は並行して悖らず、蔵と府は則ち対を配成す。四蔵は天に属し、四府は地に属す。蔵は天の路数を走り、府は地の路数を走る。天地は並行し、配し起こればちょうど八卦と成る。
體必交而後生,故陽與剛交而生心肺,陽與柔交而生肝膽,柔與陰交而生腎與膀胱,剛與陰交而生脾胃。心生目,膽生耳,脾生鼻,腎生口,肺生骨,肝生肉,胃生體,膀胱生血。故乾為心,兌為脾,離為膽,震為腎,坤為血,艮為肉,坎為髓,巽為骨,泰為目,中孚為鼻,既濟為耳,頤為口,大過為肺,未濟為胃,小過為肝,否為膀胱。
形体は必ず交合してはじめて生成する能くす。ゆえに陽と剛は相交わりて心と肺を生出し、陽と柔は相交わりて肝と胆を生出し、柔と陰は相交わりて腎と膀胱を生出し、剛と陰は相交わりて脾と胃を生出す。心は眼睛を長じ出で、胆は耳朵を長じ出で、脾は鼻子を長じ出で、腎は嘴を長じ出で、肺は骨頭を長じ出で、肝は肌肉を長じ出で、胃は躯体を長じ出で、膀胱は血を長じ出ず。これに拠って卦をもって相配す。《乾》は心に配し、《兌》は脾に配し、《離》は胆に配し、《震》は腎に配し、《坤》は血に配し、《艮》は肉に配し、《坎》は髄に配し、《巽》は骨に配す。再び四正四隅の外の重卦をもって相配す。《泰》は眼に配し、《中孚》は鼻に配し、《既済》は耳に配し、《頤》は口に配し、《大過》は肺に配し、《未済》は胃に配し、《小過》は肝に配し、《否》は膀胱に配す。
天地有八象,人有十六象,何也?合天地而生人,合父母而生子,故有十六象也。心居肺,膽居肝,何也?言性者必歸之天,言體者必歸之地。地中有天,石中有火,是以心膽象之也。心膽之倒懸何也?草木者,地之本,體也。人與草木反生,是以倒懸也。
天地にただ八象あるのみ、人は却って十六象あり。なぜか。天と地を合してはじめて人を生じ出ずる能くし、父と母を合してはじめて子を生じ出ずる能くするを要するがゆえである。両重相い合せり。ゆえに人の身上に便ち十六象あり。心は肺のうちに包まれ、胆は肝の上に附す。なぜか。「性」を講ずるは一定に天に帰するを要し、「体」を講ずるは一定に地に帰するを要するがゆえである。地の中に天を含み、石頭のうちに火を蔵す。心と胆はまさに象をこれより取る。心と胆はなぜ倒懸しているか。草木は大地の根本で、「体」に属し、而も人の生長の方向は草木とちょうど相反するがゆえに、ゆえに人の身内のこの両様もまた倒挂し来った。
口目橫而鼻耳縱,何也?體必交也,故動者宜縱而反橫,植者宜橫而反縱,皆交也。目口凸而耳鼻竅。竅者,受臭嗅氣物,或不能閉之。凸者,視色別味物,則能閉之也。四者雖象於一,而各備其四矣。鼻之氣,目見之;口之言,耳聞之,以類應也。膽與腎同陰,心與脾同陽。心主目,脾主鼻。
嘴と眼は横に生じ、鼻と耳は縦に生ず。なぜか。形体は必ず交錯するを要するがゆえである。動く能くする動物は本は縦向たるべきに却って横に長じ、長ずる能くする植物は本は横向たるべきに却って縦に長ず。皆交錯の縁故である。眼と口は凸れ出でたる、耳と鼻は凹み入りたる孔竅である。凹みて孔竅と成りたるは、気味の一类の無形の物を接納するを負責す。ゆえに時に閉じ住する能わず。凸れ出でたるは、顔色と滋味の一类の有形の物を辨别するを負責す。ゆえに閉合する能くす。この四様は各々一より象を取ると雖も、然れども每一样はまた各々四重の功能を具備す。鼻子の呼び出す気は、眼睛の見る得る所。嘴裏の説く話は、耳朵の聴く得る所。これは同類の相応す。胆と腎は同じく陰に属し、心と脾は同じく陽に属す。心は眼睛を主管し、脾は鼻子を主管す。
《素問》肺主皮毛,心脈脾肉肝筋腎骨,上而下,外而內也。心血腎骨交,法也。交即用也。心藏神,腎藏精,脾藏魂,膽藏魄,胃受物而化之,傳氣於肺,傳血於肝,而傳水穀於脬腸矣。神者人之主,將寐在脾,熟寐在腎,將寤在膽(又言在肝),正寤在心。
《黄帝内経・素問》は肺は皮毛を主り、心は血脉を主り、脾は肌肉を主り、肝は筋を主り、腎は骨を主ると説く。この次序は上より下に向かい、外より内に向かって排列したものである。心は血に属し腎は骨に属す。一は外に在り一は内に在り、両頭交会す。これは天地の交合に取法す。いわゆる交とは、すなわち作用を発生することである。心裏に神を蔵し、腎裏に精を蔵し、脾裏に魂を蔵し、胆裏に魄を蔵す。胃は食物を接受してそれを消化し、再び気を肺に輸送し、血を肝に輸送し、水穀を膀胱と腸道に輸送す。神は人の主宰である。将に睡せんとして未だ睡らざる時にそれは脾に在り、熟睡する時にそれは腎に在り、将に醒めんとして未だ醒めざる時にそれは胆に在る(別の一説に肝に在るとす)、完全に清醒する時にそれは心に在る。
天之神棲乎日,人之神棲乎目。人之神,寤則棲心,寐則棲腎,所以象天,此晝夜之道也。天地之大寤在夏。人之神則存於心,神統於心,氣統於腎,行統於首。形氣交而神主乎其中,三才之道也。氣一而已,主之者乾也。神亦一而已,乘氣而變化,能出入於有無死生之間,無方而不測者也。
天の神は太陽の上に棲息し、人の神は眼睛のうちに棲息す。人の神は、清醒する時に心のうちに棲み、睡着する時に腎のうちに棲む。これはまさに天に取象するので、すなわち昼と夜の道理である。天地の最大なる一次の醒むるは夏天に在る。人の神は心裏に存放す。神は心に統攝せられ、気は腎に統攝せられ、行動は頭に統攝せらる。形と気は交会し、而も神はその中に在って主を為す。これがすなわち天・地・人の三才の道理である。気はただ一個あり、それを主宰するは《乾》である。神もまたただ一個あり、それは気に乗って変化し、有と無・生と死の間に於て出入往来する能くし、固定の方所に落ちず、もまた測度する由なし。
潛天潛地,不行而至,不為陰陽所攝者,神也。出入有無死生者,道也。神無所在,無所不在。至人與他心通者,以其本於一也。道與一,神之強名也。以神為神者,至言也。所以造物者,神也。神不死,所更者,四時也。所以造人者,神人也。神亦不死,假如一木結實而種之,又成是木而結是實。木非舊木也,此木之神不二也。此實生生之理也。(造物,一作造萬物。神人,一無人字。)
天に潜み入り地に潜み入る能くし、行走せずしてすでに到達し、陰陽に拘限せられざるは、あれは則ち神である。有と無・生と死の間に於て自由に出入する能くするは、あれは則ち道である。神に一処の固定の所在なく、而もまた処として在らざるなし。修養して極処に到った人は別人と心心相通ずる能くす。大家の根本はもとは同一なるに因る。「道」と「一」は、皆不過神に勉強に名字を安んじたるである。ただ「神」を用いて神を称呼するのみ、こそ最も恰当の説法なれ。万物を造出するは神で、神は死せず。更替するはただ四季のみである。人を造出するは神人で、神もまた同じく死せず。譬えば一樹の木が果実を結び、果実を取って種え下せば、また長じて同様の樹と成り同様の果を結ぶ——樹はすでにもはや原來のあの樹に非ずと雖も、然れどもこの樹の神は並びに第二個に変成せざりき。これがまさに生生して已まざる道理である。(「造物」は一本に「造万物」と作る。「神人」は一本に「人」字なし。)
氣者,神之宅也;體者,氣之宅也。形可分,神不可分。精氣為物,形也;游魂為變,神也。又曰,精氣為物,體也;游魂為變,用也。氣形盛則魂魄盛,氣形衰則魂魄亦從而衰矣。魂隨氣而變,魄隨形而止。故形在則魄存,形化則魄散,見氣變而形化。人得中和之氣則剛柔均,陽多則偏剛,陰多則偏柔。
気は神の居住する所の房子で、形体はまた気の居住する所の房子である。形体は分割する可くして、神は却って分割する能わず。《繋辞伝》は「精気は物を為す」と説く。講ずるは形である。「遊魂は変を為す」と説く。講ずるは神である。説法を換えれば。「精気は物を為す」が講ずるは体で、「遊魂は変を為す」が講ずるは用である。気と形が旺盛の時は、魂と魄もまた随いて旺盛なり。気と形が衰弱の時は、魂と魄もまた随いて衰弱す。魂は気に随って変動し、魄は形に随って停住す。ゆえに形体はなお在れば、魄は則ちなお存し、形体は一旦消解すれば、魄は則ち散去す——ここよりまさに気は一変じ形は随いて化するの道理を看出し得。人もし中和の気を禀受せば、剛と柔は則ち均衡す。陽気偏りて多きは失として剛に過ぎ、陰気偏りて多きは失として柔に過ぐ。
氣則養性,性則乘氣。故氣存則性存,性動則氣動也。神無方而性有質。有形則有體,有性則有用。心性而膽情,陽性而陰情,性神而情鬼。發於性則見於情,發於情則見於色,以類而應也。天使我有,是之謂命。命之在我之謂性,性之在物之謂理。理窮而後知性,性盡而後知命,知而後至。
気はもって性を涵養するに用い、性は則ち気を乘駕す。ゆえに気はなお在れば、性は則ちなお在り。性は一たび発動すれば、気もまた随いて発動す。神は固定の方所の上に落ちずと雖も、性は却ってそれの質地あり。形有れば則ち体あり、性有れば則ち用あり。心は性に属し胆は情に属し、陽は性に属し陰は情に属し、性は神に偏りて情は鬼に偏す。性の上より発し出づれば、則ち情と表現す。情の上より発し出づれば、則ち顔色と表現す。これは皆同類の相応す。上天は我にこの一切を具備せしめたり。これを「命」と叫ぶ。命は我が身の上に落ちて「性」と叫び、性は物の上に落ちて「理」と叫ぶ。《説卦伝》は「理を窮め性を尽くして命に至る」と講ず。理を推究して尽頭に至り、然る後にはじめて性を認識し得。性を発揮して極処に至り、然る後にはじめて命を認識し得。認識し得て、然る後にこそ真にあの地步に到ったと算す。
人之類備乎萬物之性。人之貴兼乎萬類,自重而得其貴,所以能用萬類。仁配天地謂之人,唯仁者其可謂之人矣。人之神則天地之神,人之自欺,所以欺天地,可不慎哉?人之精神貴藏而用之,苟衒於外,則鮮有不敗者。如利刃,物來則剸之。若恃刃之利而求割乎物,則刃與物俱傷矣。
人のこの一类の身上は、万物の有する所の性を具備す。人の尊貴は兼ねて各類の物の長処を有するに在る。能く自己を看重するを得て、はじめて这份の尊貴に配上する能くし、もまた万類を駕馭する能くする才を得。仁徳をもって天地と并列するこそ人と叫ぶ。ただ仁を講ずる人のみが一個の「人」字を称り得べし。人の神はすなわち天地の神である。ゆえに一人が自己を欺騙するは、天地を欺騙するに等し。能く謹慎せざるべけんや。人の精神は蔵め起きて再び用いるに貴し。もし一味に外に向かって炫耀せば、失敗せざるもの少なからず。これは一把の快刀に比す。东西が跟前に送り至れば、手に順って則ち切り開く。もし刀の快きを仗じて、専ら东西を找して来りて割かば、則ち刀と物は両敗して倶に傷づく。
精義入神以致用也,不精義則不能入神,不能入神則不能致用也。無思無為者,神妙致一之地也,所謂一以貫之。聖人以此洗心,退藏於密。心一而不分,則能應萬變。此君子所以虛心而不動也。人心當如止水則定,定則靜,靜則明。任我則情,情則蔽,蔽則昏矣。因物則性,性則神,神則明矣。
《繋辞伝》は「精義は神に入りて、以て用を致すなり」と説く。義理を精微に研究せざれば、則ち神の層次に深入する能わず。神の層次に深入する能わざれば、則ちそれを用い出す弁法なし。いわゆる「思なく為なし」とは、神妙にして純一に帰する境地で、すなわち孔子の説く「一を以てこれを貫く」である。聖人はこれに憑って自己の心を洗浄し、退き帰りて幽密の処に蔵む。心は専一にして分散せざれば、則ち万般の変化に応付する能くす。これがまさに君子の心を虚にして外物のために動揺せられざる所以の縁故である。人心は静止した水の如くなるべし。静止すれば則ち安定し、安定すれば則ち寧静し、寧静すれば則ち明澈す。一味に自我に任せれば、便ち「情」に落ち入る。情に落ち入れば則ち遮蔽せられ、遮蔽せられれば則ち昏暗す。物の本然に順って往って看れば、便ち「性」に合す。性に合すれば則ち神に通じ、神に通ずれば則ち明澈す。
以物觀物,性也;以我觀物,情也。性公而明,情偏而暗。誠者,主性之具,無端無方者也。資性得之天也,學問得之人也。資性由內出者也,學問由外入者也。自誠明,性也;自明誠,學也。至理之學,非至誠則不至;物理之學或有所不通,不可以強通,雖通則有我,有我則失理,而入於術矣。
物本身の立場に立って物を看るは、あれは「性」である。我の立場に立って物を看るは、あれは「情」である。性は公正にして明澈で、情は偏私にして昏暗なり。「誠」は性を主管するあの件の器具で、それは頭緒なく方所なし。天資は上天より得たる、学問は他人より得たる。天資は内より外に向かって発し出ずる、学問は外より内に向かって装い入る。《中庸》は「誠より明るし、これを性と謂う。明より誠なり、これを教と謂う」と説く——前の一路は性に属し、後の一路は学に属す。最高の道理を研究する学問は、至誠の地步に到らざれば則ち家に到る能わず。事物の理を研究する学問は、時に講じて通て通ぜざる地方に碰上することあり。則ち硬に講じ通す可からず。硬に講じ通せば、裏頭に便ち一個の「我」を摻進す。「我」有れば則ち理を丢掉し、ここにおいて術数の一路に滑り入った。
言發於真誠,則心不勞而逸,久久而信之;作偽任數,一時或可以欺人,持久必敗。天地日月,悠久而已。故人當存乎遠,不可見其近。智數或能施於一朝,蓋有時而窮,惟至誠與天地同久。天地無則至誠可息,苟天地不能無,則至誠亦不息也。
話は真誠より出づれば、心裏は力を費やさずして安閑にして、日子久しければ別人は自然に相信す。弄虚作偽して専ら機心権術に靠れば、一時は或いは人を騙し過す能くするも、時間長ければ必定に敗露す。天地日月の長く在る所以は、靠る所は不過一個の「悠久」である。ゆえに人は眼光を遠く放つべくして、ただ眼前を盯る可からず。智謀権術は或いは一朝一夕に効を見る能くするも、然れども総じて尽頭に走到する時あり。ただ至誠のみが天地と一様に長久する能くす。天地が消亡するに非ざれば、至誠こそ停歇する可し。天地が消亡する能わざる以上、然らば至誠もまた永く止息せず。
為學養心,患在不由直道。去利慾,由直道,任至誠,則無所不通。天地之道,直而已,當以求之。若用智數,由徑以求之,是屈天地而徇人慾也,不亦難乎?人必內重,內重則外輕。苟內輕,必外重,好利好名,無所不至。義重則內重,利重則外重。
学問を為し心性を養うに、最も怕れるは正直の路を走らざるである。私利と嗜欲を去掉し、正直の路を走り、一に至誠に任せば、則ち講じて通ぜざるなきなし。天地の道は、説き尽くせばただ一個の「直」字で、人はこの条の路に照らして往って求むべし。もし智謀権術を動用して、小路を抄して往って求めば、あれは天地に自己を委屈せしめて来りて人の私欲に遷就せしむるに等し。太だ難きに非ずや。人は必ず内在を看重するを要す。内在重ければ、外在の东西は自然に軽し。もし内在軽ければ、外在は必定に重く、ここにおいて利を貪り名を好み、如何なる事も為し出で得。義を看重すれば、内在は則ち重し。利を看重すれば、外在は則ち重し。
凡處失在得之先,則得亦不喜;若處得在失之先,則失難處矣,必至於隕穫。天下之事,皆以道致之,則休慼不能至矣。事無大小,皆有道在其間。能安分則謂之道,不能安分謂之非道。人之為道,當至於鬼神不能窺處,是為至矣。
およそ「失」を「得」の前頭に擺りて先に想い明白なる人は、真に得たるも狂喜せず。もし「得」を「失」の前頭に擺りて往って想えば、一旦失去すれば則ち自処し難く、必定に魂も魄も落とす地步に弄り至る。天下の事は、もし皆道を用いて処置せば、外来の憂と喜は自己の身上に侵擾し到る能わず。事情は大小を分かたず、中間に皆一個の道あり。能く本分に安んずるを則ち道と叫び、本分に安んずる能わざるは則ち道に非ず。人の道を修めるは、鬼神もまた深浅を窥探し出す能わざる地步に修め至って、あれはこそ家に到ったと算す。
凡人之善惡,形於言發於行,人始得而知之。但萌諸心發於慮,鬼神已得而知之矣。此君子所以慎獨也。(又云,思慮一萌,鬼神得而知之矣,故君子不可不慎獨。)人之畏鬼,亦猶鬼之畏人。人積善而陽多,鬼益畏之矣;積惡而陰多,鬼弗畏之矣。大人者,與鬼神合其吉凶,夫何畏之有?
一般人の善と悪は、それが言語の上に顕現し、行動の上に発作するを待って、別人ははじめて知る。然れどもそれが剛に心裏に萌芽し、剛に一個の念頭に化成したるに、鬼神はすでにすでに知る。これがすなわち君子が必ず「慎独」せざるべからざる縁故である。(別の一種の説法は。思慮は一旦萌動すれば、鬼神は便ちすでに知暁す。ゆえに君子は慎独せざる可からずと。)人は鬼を怕る。実は鬼もまた人を怕る。人は善行を多く積めば、身上の陽気は則ち多く、鬼は愈々発って彼を怕る。人は悪行を多く積めば、身上の陰気は則ち多く、鬼は則ち彼を怕れず。《乾・文言》の説く所の「大人」に至っては、「鬼神と其の吉凶を合す」る能くす。あれにまた何の怕るべきあらんや。
循理則為常,理之外則為異矣。能循天理動者,造化在我也。天下言讀書者不少,能讀書者少。若得天理真樂,何書不可讀?何堅不可破?何理不可精?得天理者,不獨潤身,亦能潤心。不獨潤心,至於性命亦潤。君子之學,以潤身為本。其治人應物,皆餘事也。
理に順って走るを「常」と叫び、理の外に越出すれば則ち「異」と成る。能く天理に依って行動する人は、造化の権柄は則ち自己の手裏に握る。天下に読書する人を自ら称するは少なからず、真に読書を會するは却って少なし。もし真に天理の裏頭のあの份の楽趣を嘗め得れば、また何の書か読み下去る能わざるあらんか。また何の堅硬の関口か攻め破る能わざるあらんか。また何の道理か精しからざるを弄せんや。天理を得着する人は、単に自己の身体を滋潤する能くするのみならず、また自己の心を滋潤する能くす。単に心を滋潤するのみならず、性命を連ねて一に滋潤を得る。君子の学問を為すは、自身を滋潤するをもって根本と為す。他人を治理し外物に応付するに至っては、皆不過余下の枝節である。
一國一家一身皆同,能處一身,則能處一家;能處一家,則能處一國;能處一國,則能處天下。心為身本,身為家本,家為國本,國為天下本。心能運身。苟心所不欲,身能行乎?君子處畎畝則行畎畝之事,居廟堂則行廟堂之事。故無入不自得。變從時而便,天下之事不失禮之大經;變從時而順,天下之理不失義之大權者,君子之道也。
一国・一家・一身、道理は同一個である。能く自身を安頓し好せば、則ち能く一家を安頓し好す。能く一家を安頓し好せば、則ち能く一国を安頓し好す。能く一国を安頓し好せば、則ち能く天下を安頓し好す。心は身の根本で、身は家の根本で、家は国の根本で、国は天下の根本である。心は身体を支使する能くす——もし心裏に根本として為さんと欲せざれば、身体は為し出で得るか。君子は身は田間に在れば則ち田間の事を為し、身は朝堂に在れば則ち朝堂の事を為す。ゆえに《中庸》は彼を「入るとして自ら得ざるなし」と説く。時勢に随って変通して処処便當にして、天下の事を弁ずれども礼の大原則を丢掉せず。時勢に随って変通して処処順當にして、天下の理を明けども義の大権衡を丢掉せず。これがすなわち君子の道である。
斂天下之智為智,斂天下之善為善,則廣矣,自用則小。人患乎自滿,滿則止也。故禹不自滿,假所以為賢。雖學亦當常若不足,不可臨深以為高也。人必有德器,然後喜怒皆不妄。為卿相,為匹夫,以至學問高天下,亦若無有也。無德者,責人,怨人,易滿,滿則止也。
天下人の智慧を收攏し来りて當做自己の智慧と為し、天下人の善を收攏し来りて當做自己の善と為せば、胸襟は則ち寛広す。ただ自己のあの一点を用いれば、則ち狭小す。人の最も怕る毛病は自満で、一たび満たれば則ち停まりて長ぜず。ゆえに《尚書》は大禹を「自ら満假せず」と称賛す。まさにこの因りて、彼はこそ賢と称り得べし。すなわち学問を為するも、また応につねに足らざると覚えるべくして、深谷の辺上に立って則ち自ら以て高しと為す可からず。人は必ず先に徳行の器量有るを要し、然る後に喜と怒は皆失當せざるを得。こういう人は、卿相を做到するも好く、ただの平民に過ぎざるも好く、甚だしきは学問天下に冠絶するも、もまた仍ほ何も有せざるが如し。徳なき人は則ち専ら別人を責備し別人を埋怨し、甚だ自満し易く、一たび満たれば則ち停まりて長ぜず。
人貴有德。小人有才者有之矣,故才不可恃,德不可無。經綸天地之謂才,遠舉必至之謂志,並包含容之謂量。剸割者,才力也;明辨者,智識也;寬弘者,德器也。三者不可缺一。人苟用心,必有所得。獨有多寡之異,智識之有深淺也。(又云,凡人用心者,必有所得,只是有多寡。)事必量力,量力故能久。
人の貴ぶべきは徳有るである。小人のうちにも甚だ才あるあり。才干は靠る能わざるを見るべし。徳行は却って有らざる能わず。能く天地を経緯するを「才」と叫び、能く志を立てて高遠にして必定に抵达するを「志」と叫び、能く兼収并蓄して一切を包容するを「量」と叫ぶ。果断に裁決するは才力に靠り、明白に分辨するは智識に靠り、寛厚弘大なるは徳器に靠る——この三様は一も缺く可からず。人はただ肯んじて心を用いれば、必定に得る所有る。区別はただ得ることの多と少に在るのみ。あれは智識の深浅の同じからざるのみである。(別の一種の説法は。およそ肯んじて心を用いる人は必定に得る所有るに、不過多少あるのみと。)事を為すに必ず先に自己の力量を估量するを要す。力量を估量して、はじめて長久に為し下去る能くす。
聖人利物而無我。易地而處,則無我也。不我物,則能物物。以物喜物,以物悲物,此發而中節也。人智強,則物智弱。夫弓固有強弱,然一弓二人張之,則有力者以為弓弱,無力者以為弓強。故有力者,不以己之力有餘,而以為弓弱;無力者,不以己之力不足,而以為弓強。何不思之甚也?一弓非有強弱者,二人之力強弱不同也。今有食一杯在前,二人大餒而見之,若相讓,則均得食矣,相奪則爭。非徒爭之而已,或不得其食矣。此二者,皆人之情也,知之者鮮。知此,則天下之事皆如是也。
聖人は万物に利を得せしめて一個の「我」を摻進せず。身を設けて地に処りて対方のために着想すれば、「我」は自然に無し。外物を把して己が有と為さざれば、はじめて真に外物を駕馭する能くす。物本身の可喜なるに順って喜び、物本身の可悲なるに順って悲しむ。これがすなわち《中庸》の説く所の「発して皆中節」。人の智力強ければ、物の智力は則ち弱しと顕る。一張の弓は本来軟あり硬あれども、然れども両個の人をして先后に同じ一張の弓を拉かしむれば、力気大なるはこの弓を軟と説き、力気小なるはこの弓を硬と説かん。力気大なるは肯んじて自己の力気余裕あるを承認せず、ただ弓の軟きを説く。力気小なるは肯んじて自己の力気不足なるを承認せず、ただ弓の硬きを説く——これは何たる肯んじて脳筋を動かさざるか。あの張の弓は並びに軟硬の別なし。両個の人の力気に強弱あるのみである。または譬えば面前に一杯の飯を擺り、両個の餓え極まる人が同時に看見す。もし彼此相い譲れば、両人皆喫するを得。もし互相に争奪せば、則ち打ち起き起きて、しかもただ一架を打つのみならず、弄り好かざれば誰も喫し成さざらん。この両件の事は皆人の常情なれども、然れども看り明白なる人少なし。この両件の事を明白すれば、天下の事情もまた皆このようなものである。
