観物篇六十一
太陽之體數十,太陰之體數十二;少陽之體數十,少陰之體數十二;少剛之體數十,少柔之體數十二;太剛之體數十,太柔之體數十二。進太陽、少陽、太剛、少剛之體數,退太陰、少陰、太柔、少柔之體數,是謂太陽、少陽、太剛、少剛之用數;進太陰、少陰、太柔、少柔之體數,退太陽、少陽、太剛、少剛之體數,是謂太陰、少陰、太柔、少柔之用數。
太陽の「体数」は十、太陰の体数は十二。少陽の体数は十、少陰の体数は十二。少剛の体数は十、少柔の体数は十二。太剛の体数は十、太柔の体数は十二。ここに太陽・太陰・少陽・少陰は天の四象で、日・月・星・辰に配す。太剛・太柔・少剛・少柔は地の四象で、火・水・石・土に配す。およそ陽に属し剛に属するは一律に十を取り、取る所は十天干の数である。およそ陰に属し柔に属するは一律に十二を取り、取る所は十二地支の数である。太陽・少陽・太剛・少剛のこの四者の体数を進め上げ、再び太陰・少陰・太柔・少柔の四者の体数を退け去れば、所得は則ち太陽・少陽・太剛・少剛の「用数」と叫ばれる。反対に、太陰・少陰・太柔・少柔の四者の体数を進め上げ、太陽・少陽・太剛・少剛の四者の体数を退け去れば、所得は則ち太陰・少陰・太柔・少柔の「用数」と叫ばれる。
太陽、少陽、太剛、少剛之體數一百六十,太陰、少陰、太柔、少柔之體數一百九十二,太陽、少陽、太剛、少剛之用數一百一十二,太陰、少陰、太柔、少柔之用數一百五十二。以太陽、少陽、太剛、少剛之用數,唱太陰、少陰、太柔、少柔之用數,是謂日月星辰之變數;以太陰、少陰、太柔、少柔之用數,和太陽、少陽、太剛、少剛之用數,是謂水火土石之化數。日月星辰之變數一萬七千二十四,謂之動數;水火土石之化數一萬七千二十四,謂之植數。再唱和日月星辰水火土石之變化通數二萬八千九百八十一萬六千五百七十六,謂之動植通數。
太陽・少陽・太剛・少剛の体数は合計一百六十、太陰・少陰・太柔・少柔の体数は合計一百九十二、太陽・少陽・太剛・少剛の用数は一百一十二、太陰・少陰・太柔・少柔の用数は一百五十二。算法はこのようである。陽に属し剛に属する四者は各々十を得て、相加えて四十と為し、再び四をもってこれに乗じて一百六十を得る。陰に属し柔に属する四者は各々十二を得て、相加えて四十八と為し、四をもってこれに乗じて一百九十二を得る。一百六十より陰の四十八を減じて、一百一十二を剩す。一百九十二より陽の四十を減じて、一百五十二を剩す。太陽・少陽・太剛・少剛の用数をもって「唱」(先発)し太陰・少陰・太柔・少柔の用数に臨めば、則ち一百一十二に一百五十二を乗ずる。これが日月星辰の「变数」である。太陰・少陰・太柔・少柔の用数をもって「和」(応答)し太陽・少陽・太剛・少剛の用数に臨めば、仍ほこの二数を相乗する。これが水火土石の「化数」である。日月星辰の变数は一万七千零二十四で、「动数」と称し、动物一类の総数である。水火土石の化数もまた一万七千零二十四で、「植数」と称し、植物一类の総数である。再び日月星辰と水火土石の变数・化数を彼此に唱和相乗し、一万七千零二十四を自乗して、二万八千九百八十一万六千五百七十六を得る。「动植通数」と称す。
日月星辰者,變乎暑寒晝夜者也。水火土石者,化乎雨風露雷者也。暑寒晝夜者,變乎性情形體者也;雨風露雷者,化乎走飛草木者也。暑變飛走草木之性,寒變飛走草木之情,晝變飛走草木之形,夜變飛走草木之體。雨化性情形體之走,風化性情形體之飛,露化性情形體之草,雷化性情形體之木。性情形體者,本乎天者也;飛走草木者,本乎地者也。本乎天者,分陰分陽之謂也;本乎地者,分柔分剛之謂也。夫分陰分陽分柔分剛者,天地萬物之謂也。備天地萬物者,人之謂也。
天上の日・月・星・辰は、下に向かって暑・寒・昼・夜を変出す。日は暑を生じ、月は寒を生じ、星は昼を生じ、辰は夜を生ずる。地上の水・火・土・石は、下に向かって雨・風・露・雷を化出す。水は雨を成し、火は風を成し、土は露を成し、石は雷を成す。暑寒昼夜は再び下に変じ、万物の「性・情・形・体」を変出す。雨風露雷は再び下に化し、「走・飛・草・木」の四類の生物を化出す。分かちて言えば。暑は飛禽走獣草木の「性」を変出し、寒はそれらの「情」を変出し、昼はそれらの「形」を変出し、夜はそれらの「体」を変出す。雨は性情形体を帯びたる走獣を化生し、風は飛禽を化生し、露は百草を化生し、雷は林木を化生する。性・情・形・体のこの一系は、根子は天に在る。飛・走・草・木のこの一系は、根子は地に在る。根子が天に在るは、分陰分陽を講ずる。根子が地に在るは、分柔分剛を講ずる。いわゆる分陰分陽・分柔分剛とは、天地万物を説くのであり、天地万物を統べて一身に具備する能くするは、人を説くのである。
観物篇六十二
有日日之物者也,有日月之物者也,有日星之物者也,有日辰之物者也。有月日之物者也,有月月之物者也,有月星之物者也,有月辰之物者也。有星日之物者也,有星月之物者也,有星星之物者也,有星辰之物者也。有辰日之物者也,有辰月之物者也,有辰星之物者也,有辰辰之物者也。
万物の中に、「日日」の物あり、「日月」の物あり、「日星」の物あり、「日辰」の物あり。「月日」の物あり、「月月」の物あり、「月星」の物あり、「月辰」の物あり。「星日」の物あり、「星月」の物あり、「星星」の物あり、「星辰」の物あり。「辰日」の物あり、「辰月」の物あり、「辰星」の物あり、「辰辰」の物あり。これは天の四象日・月・星・辰を両々に相配するものである。前の一字を主と為し体と為し、後の一字を客と為し用と為し、全部で十六格を排き出し、もって天下の物類を全部収攝し入れる。
日日物者,飛飛也;日月物者,飛走也;日星物者,飛木也;日辰物者,飛草也。月日物者,走飛也;月月物者,走走也;月星物者,走木也;月辰物者,走草也。星日物者,木飛也;星月物者,木走也;星星物者,木木也;星辰物者,木草也。辰日物者,草飛也;辰月物者,草走也;辰星物者,草木也;辰辰物者,草草也。
この十六格が各々対応するは。「日日」の物はすなわち飛中の飛で、「日月」の物は飛中の走、「日星」の物は飛中の木、「日辰」の物は飛中の草である。「月日」の物は走中の飛、「月月」の物は走中の走、「月星」の物は走中の木、「月辰」の物は走中の草である。「星日」の物は木中の飛、「星月」の物は木中の走、「星星」の物は木中の木、「星辰」の物は木中の草である。「辰日」の物は草中の飛、「辰月」の物は草中の走、「辰星」の物は草中の木、「辰辰」の物は草中の草である。この一層の依拠は。日は飛禽に配し、月は走獣に配し、星は林木に配し、辰は百草に配す。ゆえに天上の四象が両々に相配した後、地上に落ちれば便ち一つずつ坐実して飛・走・草・木の四類の生物と成る。
有皇皇之民者也,有皇帝之民者也,有皇王之民者也,有皇伯之民者也。有帝皇之民者也,有帝帝之民者也,有帝王之民者也,有帝伯之民者也。有王皇之民者也,有王帝之民者也,有王王之民者也,有王伯之民者也。有伯皇之民者也,有伯帝之民者也,有伯王之民者也,有伯伯之民者也。
人のこの一辺も照様に排き開く。「皇皇」の民あり、「皇帝」の民あり、「皇王」の民あり、「皇伯」の民あり。「帝皇」の民あり、「帝帝」の民あり、「帝王」の民あり、「帝伯」の民あり。「王皇」の民あり、「王帝」の民あり、「王王」の民あり、「王伯」の民あり。「伯皇」の民あり、「伯帝」の民あり、「伯王」の民あり、「伯伯」の民あり。これは人事の四等皇・帝・王・伯を両々に相配するもので、前の日月星辰をもって十六類の物を配出したると同じく、もまた十六格を排き出し、もって天下の人を分け尽くす。
皇皇民者,士士也;皇帝民者,士農也;皇王民者,士工也;皇伯民者,士商也。帝皇民者,農士也;帝帝民者,農農也;帝王民者,農工也;帝伯民者,農商也。王皇民者,工士也;王帝民者,工農也;王王民者,工工也;王伯民者,工商也。伯皇民者,商士也;伯帝民者,商農也;伯王民者,商工也;伯伯民者,商商也。
この十六格が対応するは四民である。「皇皇」の民はすなわち士中の士で、「皇帝」の民は士中の農、「皇王」の民は士中の工、「皇伯」の民は士中の商である。「帝皇」の民は農中の士、「帝帝」の民は農中の農、「帝王」の民は農中の工、「帝伯」の民は農中の商である。「王皇」の民は工中の士、「王帝」の民は工中の農、「王王」の民は工中の工、「王伯」の民は工中の商である。「伯皇」の民は商中の士、「伯帝」の民は商中の農、「伯王」の民は商中の工、「伯伯」の民は商中の商である。この一層の配当は。皇は士に配し、帝は農に配し、王は工に配し、伯は商に配す——治道は高より低へ、民業もまた士より商へ依次相当する。
飛飛物者,性性也;飛走物者,性情也;飛木物者,性形也;飛草物者,性體也。走飛物者,情性也;走走物者,情情也;走木物者,情形也;走草物者,情體也。木飛物者,形性也;木走物者,形情也;木木物者,形形也;木草物者,形體也。草飛物者,體性也;草走物者,體情也;草木物者,體形也;草草物者,體體也。
再び裏に向かって一層を追えば、飛走草木はまた各々性情形体に対応す。飛は「性」に配し、走は「情」に配し、木は「形」に配し、草は「体」に配す。ここにおいて飛中の飛の物は、すなわち性中の性。飛中の走の物は、性中の情。飛中の木の物は、性中の形。飛中の草の物は、性中の体。走中の飛の物は、情中の性。走中の走の物は、情中の情。走中の木の物は、情中の形。走中の草の物は、情中の体。木中の飛の物は、形中の性。木中の走の物は、形中の情。木中の木の物は、形中の形。木中の草の物は、形中の体。草中の飛の物は、体中の性。草中の走の物は、体中の情。草中の木の物は、体中の形。草中の草の物は、体中の体。
士士民者,仁仁也;士農民者,仁禮也;士工民者,仁義也;士商民者,仁智也。農士民者,禮仁也;農農民者,禮禮也;農工民者,禮義也;農商民者,禮智也。工士民者,義仁也;工農民者,義禮也;工工民者,義義也;工商民者,義智也。商士民者,智仁也;商農民者,智禮也;商工民者,智義也;商商民者,智智也。
四民を再び裏に向かって一層追えば、則ち各々四徳に対応す。士は「仁」に配し、農は「礼」に配し、工は「義」に配し、商は「智」に配す。ここにおいて士中の士の民は、すなわち仁中の仁。士中の農の民は、仁中の礼。士中の工の民は、仁中の義。士中の商の民は、仁中の智。農中の士の民は、礼中の仁。農中の農の民は、礼中の礼。農中の工の民は、礼中の義。農中の商の民は、礼中の智。工中の士の民は、義中の仁。工中の農の民は、義中の礼。工中の工の民は、義中の義。工中の商の民は、義中の智。商中の士の民は、智中の仁。商中の農の民は、智中の礼。商中の工の民は、智中の義。商中の商の民は、智中の智。
飛飛之物一之一,飛走之物一之十,飛木之物一之百,飛草之物一之千。走飛之物十之一,走走之物十之十,走木之物十之百,走草之物十之千。木飛之物百之一,木走之物百之十,木木之物百之百,木草之物百之千。草飛之物千之一,草走之物千之十,草木之物千之百,草草之物千之千。
この十六類の物はなお各々自らの位数を有す。飛は一に配し、走は十に配し、木は百に配し、草は千に配す——愈々霊動尊貴なるほど位数愈々小さく、愈々繁滋卑下なるほど位数愈々大きい。ここにおいて飛中の飛の物は一の一、飛中の走の物は一の十、飛中の木の物は一の百、飛中の草の物は一の千。走中の飛の物は十の一、走中の走の物は十の十、走中の木の物は十の百、走中の草の物は十の千。木中の飛の物は百の一、木中の走の物は百の十、木中の木の物は百の百、木中の草の物は百の千。草中の飛の物は千の一、草中の走の物は千の十、草中の木の物は千の百、草中の草の物は千の千。
士士之民一之一,士農之民一之十,士工之民一之百,士商之民一之千。農士之民十之一,農農之民十之十,農工之民十之百,農商之民十之千。工士之民百之一,工農之民百之十,工工之民百之百,工商之民百之千。商士之民千之一,商農之民千之十,商工之民千之百,商商之民千之千。
四民の位数も同じくこのようである。士は一に配し、農は十に配し、工は百に配し、商は千に配す。ここにおいて士中の士の民は一の一、士中の農の民は一の十、士中の工の民は一の百、士中の商の民は一の千。農中の士の民は十の一、農中の農の民は十の十、農中の工の民は十の百、農中の商の民は十の千。工中の士の民は百の一、工中の農の民は百の十、工中の工の民は百の百、工中の商の民は百の千。商中の士の民は千の一、商中の農の民は千の十、商中の工の民は千の百、商中の商の民は千の千。
一一之飛當兆物,一十之飛當億物,一百之飛當萬物,一千之飛當千物。十一之走當億物,十十之走當萬物,十百之走當千物,十千之走當百物。百一之木當萬物,百十之木當千物,百百之木當百物,百千之木當十物。千一之草當千物,千十之草當百物,千百之草當十物,千千之草當一物。
位数が一定すれば、各類の物が抵り得る分量もまた定まり、しかも反比を成す。両個の位数愈々大きければ、抵する物数愈々小さく、兆・億・万・千・百・十より一路降って一に至り、全部で七等。一の一の飛禽は兆数の物に抵り、一の十の飛禽は億数の物に抵り、一の百の飛禽は万数の物に抵り、一の千の飛禽は千数の物に抵る。十の一の走獣は億数の物に抵り、十の十の走獣は万数の物に抵り、十の百の走獣は千数の物に抵り、十の千の走獣は百数の物に抵る。百の一の林木は万数の物に抵り、百の十の林木は千数の物に抵り、百の百の林木は百数の物に抵り、百の千の林木は十数の物に抵る。千の一の百草は千数の物に抵り、千の十の百草は百数の物に抵り、千の百の百草は十数の物に抵り、千の千の百草はただ一物に抵り得るのみ。
一一之士當兆民,一十之士當億民,一百之士當萬民,一千之士當千民。十一之農當億民,十十之農當萬民,十百之農當千民,十千之農當百民。百一之工當萬民,百十之工當千民,百百之工當百民,百千之工當十民。千一之商當千民,千十之商當百民,千百之商當十民,千千之商當一民。
人のこの一辺は同じ一張の表に照らして遞降す。一の一の士は兆数の民に抵り、一の十の士は億数の民に抵り、一の百の士は万数の民に抵り、一の千の士は千数の民に抵る。十の一の農は億数の民に抵り、十の十の農は万数の民に抵り、十の百の農は千数の民に抵り、十の千の農は百数の民に抵る。百の一の工は万数の民に抵り、百の十の工は千数の民に抵り、百の百の工は百数の民に抵り、百の千の工は十数の民に抵る。千の一の商は千数の民に抵り、千の十の商は百数の民に抵り、千の百の商は十数の民に抵り、千の千の商はただ一民に抵り得るのみ。
為一一之物能當兆物者,非巨物而何?為一一之民能當兆民者,非巨民而何?為千千之物能分一物者,非細物而何?為千千之民能分一民者,非細民而何?固知物有大小,民有賢愚。移昊天生兆物之德而生兆民,則豈不謂至神者乎?移昊天養兆物之功而養兆民,則豈不謂至聖者乎?吾而今而後,知踐形為大。非大聖大神之人,豈有不負於天地者乎?
身に一の一の物と為りて兆数の物に抵り得るは、最大の物でなくして何か。身に一の一の民と為りて兆数の民に抵り得るは、最大の人でなくして何か。身に千の千の物と為りてただ一物の分量を分得るは、最も細微なる物でなくして何か。身に千の千の民と為りてただ一民の分量を分得るは、最も細微なる人でなくして何か。これより知るべし。物に大小の別あり、人に賢愚の分あり。誰かよく蒼天の億兆万物を生育する仁徳を挪え来りて億兆の民を生育する者あらば、いわば「至神」と称すべきではないか。誰かよく蒼天の億兆万物を養育する功用を挪え来りて億兆の民を養育する者あらば、いわば「至聖」と称すべきではないか。私は今より後にしてはじめて明白す。《孟子・尽心上》の言う「践形」——天の賦与するこの一副の形体の含む本分を完全に実現し出すこと——こそ天下第一等の大事である。大聖大神のような人でなければ、どの一つか天地に辜負せざらんか。
夫所以謂之觀物者,非以目觀之也。非觀之以目,而觀之以心也。非觀之以心,而觀之以理也。天下之物莫不有理焉,莫不有性焉,莫不有命焉。所以謂之理者,窮之而後可知也;所以謂之性者,盡之而後可知也;所以謂之命者,至之而後可知也。此三知者,天下之真知也,雖聖人無以過之也。而過之者,非所以謂之聖人也。
いわゆる「観物」とは、眼睛をもって看ることではない。眼睛をもって看ることではなく、心をもって看る。もまた心をもって看るに止まらず、「理」をもって看る。天下の物に、一つとして「理」を含まざるなく、一つとして「性」を含まざるなく、一つとして「命」を含まざるなし。いわゆる「理」は、ずっと推究して底に至ってはじめて知るを得る。いわゆる「性」は、ずっと発揮して尽に至ってはじめて知るを得る。いわゆる「命」は、ずっと抵达して彼処に至ってはじめて知るを得る——まさにこれは《説卦》の講ずる「窮理尽性以至於命」である。この三様の知は、天下の真の知である。たとえ聖人と雖もそれを超出する能わず。もし誰か自ら称してそれを超出したと言う者あれば、それは聖人と叫ぶに足らない。
夫鑑之所以能為明者,謂其能不隱萬物之形也。雖然鑑之能不隱萬物之形,未若水之能一萬物之形也。雖然水之能一萬物之形,又未若聖人之能一萬物之情也。聖人之所以能一萬物之情者,謂其聖人之能反觀也。所以謂之反觀者,不以我觀物也。不以我觀物者,以物觀物之謂也。既能以物觀物,又安有我於其間哉?是知我亦人也,人亦我也,我與人皆物也。
鏡子が明と称し得る所以は、それが万物の形状を照し出して掩蔵を加えざるを以てとする。しかし鏡子は万物の形を掩蔵し得ざると雖も、なお水の万物の形を一同に映現して浑然として一を為すに如かず。水は万物の形を一体に合する能くすると雖も、また聖人の万物の情を一体に合する能くするに如かず。聖人が万物の情を合する能くする所以は、彼が「反観」する能くするに在る。いわゆる反観とは、「我」の立場の上に立って物を看らざること。我の立場の上に立って物を看らざれば、すなわち物自体の立場をもって物を看る。すでに物をもって物を観る能くすれば、あの中間にどうしてなお一つの「我」が在らんか。これより知るべし。我もまた人なり、人もまた我なり、我と别人は同じく皆物なり。
此所以能用天下之目為己之目,其目無所不觀矣;用天下之耳為己之耳,其耳無所不聽矣;用天下之口為己之口,其口無所不言矣;用天下之心為己之心,其心無所不謀矣。夫天下之觀,其於見也不亦廣乎?天下之聽,其於聞也不亦遠乎?天下之言,其於論也不亦高乎?天下之謀,其於樂也不亦大乎?夫其見至廣,其聞至遠,其論至高,其樂至大,能為至廣至遠至高至大之事,而中無一為焉,豈不謂至神至聖者乎?非惟吾謂之至神至聖,而天下亦謂之至神至聖。非惟一時之天下謂之至神至聖,而千萬世之天下亦謂之至神至聖者乎?過此以往,未之或知也已。
ただこのようであるがゆえに、聖人は天下人の眼睛をもって自己の眼睛と為す能くし、あの眼睛に見るところなきはない。天下人の耳朵をもって自己の耳朵と為す能くし、あの耳朵に聞くところなきはない。天下人の嘴巴をもって自己の嘴巴と為す能くし、あの嘴巴に説き出せざるところなきはない。天下人の心をもって自己の心と為す能くし、あの心に謀るところなきはない。天下人をもってともに看れば、所見は極めて広博ではないか。天下人をもってともに聞けば、所聞は極めて辽遠ではないか。天下人をもってともに説けば、所論は極めて高明ではないか。天下人をもってともに謀れば、その中の楽しみは極めて宏大ではないか。所見極めて広く、所聞極めて遠く、所論極めて高く、所楽極めて大なり、至広・至遠・至高・至大の事を為す能くして、しかも自己の心裏に一件として刻意して為すものなし。これをいわば「至神至聖」と称すべきではないか。単に我が彼を至神至聖と称するのみならず、全天下も彼を至神至聖と称す。単に当世の天下が彼を至神至聖と称するのみならず、千万世の後の天下も同じく彼を至神至聖と称す。これよりさらに上一層の境界に至っては、則ち我の知る能くする所ではない。
皇極経世書巻十三
観物外篇上
天數五,地數五,合而為十數之全也。天以一而變四,地以一而變四,四者有體也,而其一者無體也,是謂有無之極也。天之體數四而用者三,不用者一也。地之體數四而用者三,不用者一也。是故無體之一,以況自然也。不用之一,以況道也。用之者三,以況天地人也。
《易・繋辞》は一・三・五・七・九をもって天数と為し、全部で五個。二・四・六・八・十をもって地数と為し、もまた五個。両者合わせて、はじめて「十」この完完満の数を湊成す。天は「一」より四象を変出し、地もまた「一」より四象を変出す。変出したる四は形体あるも、あの本源と為す「一」は自身に形体なし。これを「有」と「無」の両極と叫ぶ。天の「体数」は四にして実際に動用するは三のみ、一個を留めて用いず。地の体数もまた四にして実際に動用するは三のみ、同じく一個を留めて用いず。ゆえにあの形体なき「一」は、もって「自然」を比況し、あの存して用いざる「一」は、もって「道」を比況し、実際に動用する三は、則ちもって天・地・人の三才を比況する。
天有四時,一時四月,一月四十日,四四十六,而各去其一。是以一時三月,一月三十日也。四時,體數也;三月、三十日,用數也。體雖具四,而其一常不用也。故用者止於三而極於九也。體數常偶,故有四有十二;用數常奇,故有三有九。
体数に就いて言えば、天に四時あり、一時に四箇月あるべく、一箇月に四十日あるべし。四に四を乗じて十六を得るが、しかし每一層にそのうちの一份を減ずるを要す。ゆえに実際は一時に三箇月のみ、一箇月に三十日のみある。四時は「体数」で、三月と三十日は「用数」である。体は四份を具備するも、そのうち常に一份は存して用いず。ゆえに用数はただ三に至り、推して極処に至っても三三して九を得るに過ぎない。体数はつねに偶数で、ゆえに四あり、十二あり。用数はつねに奇数で、ゆえに三あり、九あり。
大數不足而小數常盈者,何也?以其大者不可見,而小者可見也。故時止乎四,月止乎三,而日盈乎十也。是以人之支體有四,而指有十也。天見乎南,而潛乎北。極於六,而餘於七。是以人知其前,昧其後,而略其左右也。
大きい数はつねに不足で、小さい数は却ってつねに有余あるは、これはなぜか。大きいは見る能わず、小さいは見る能くするがゆえである。ゆえに時はただ四に至り、月はただ三に至るも、日は却って満ちて十に至る。人の身上もまたこの様子である。四肢はただ四支あるも、手指は却って十根ある。天象は南方に顕現し、北方に潜蔵す。南天の可見の限度は六に至って止み、余出する一分を加えれば便ち七となる。人もまたこのようである。自己の眼前の事を知るも、背後の事には一片の昏昧であり、左右の両辺には則ち粗略に照顧するのみできる。
天體數四而用三,地體數四而用三。天克地,地克天,而克者在地,猶晝之餘分在夜也。是以天三而地四,天有三辰,地有四行也。然地之大,且見且隱,其餘分之謂耶?
天の体数は四にしてその三を動用し、地の体数は四にしてその三を動用す。天は地を克し、地は天を克し、両辺互いに克するも、しかし克せられたる結果は皆地の上に落ちる。白昼の多出したる零頭が黒夜の帳上に算入せらるるが如し。ゆえに天は三を取り地は四を取ると説く。天の四象日・月・星・辰の中、辰は見る能わざるもので、可見なるはただ日・月・星の三辰のみ。地の四象水・火・土・石は則ち四者俱全なり。ゆえに四行と称す。しかし地はこのように広大なれども、時に顕現し時に隠没す。これはおそらくいわゆる「余分」であろう。
體者八變,用者六變。是以八卦之象,不易者四,反易者二,以六卦變而成八也;重卦之象,不易者八,反易者二十八,以三十六變而成六十四也。故爻止於六,卦盡於八,策窮於三十六,而重卦極於六十四也。卦成於八,重於六十四,爻成於六,策窮於三十六,而重於三百八十四也。
体数は八変を走り、用数は六変を走る。ゆえに八卦の卦象のうち、倒して看てもなお本卦たる「不易」の卦は四個(乾・坤・坎・離)あり、倒して就ち别一卦と成る「反易」の卦は両対(震と艮、巽と兌)あり、四に二を加えて全部で六個の変化単位、この六変に由って八卦と成る。六十四重卦の卦象のうち、不易の卦は八個あり、反易の卦は二十八対あり、八に二十八を加えて全部で三十六個の変化単位、この三十六変に由って六十四卦と成る。ゆえに爻は六に至って止み、卦は八に至って止み、策数は三十六に窮尽し、重卦は推して極処に至れば六十四である。卦は八に成り、これを重ねれば則ち六十四。爻は六に成り、策は三十六に窮み、これを重ねれば則ち三百八十四爻。
天有二正,地有二正,而共用二變以成八卦也。天有四正,地有四正,而共用二十八變以成六十四卦也。是以小成之卦,正者四,變者二,共六卦也;大成之卦,正者八,變者二十八,共三十六卦也。乾、坤、離、坎為三十六卦之祖也,兌、震、巽、艮為二十八卦之祖也。
天に両個の「正」卦あり(乾・離)、地に両個の正卦あり(坤・坎)。この外共用するに両組の反易の変あり、合わせて八卦を成就す。六十四卦の上に放れば、天に四個の正卦あり、地に四個の正卦あり、この外共用するに二十八組の反易の変あり、合わせて六十四卦を成就す。ゆえに小成の八卦のうち、正にして変わらざるは四個あり、反易して変わるは両対あり、全部で六卦。大成の六十四卦のうち、正にして変わらざるは八個あり、反易して変わるは二十八対あり、全部で三十六卦。乾・坤・離・坎はあの三十六卦の祖宗で、兌・震・巽・艮は則ちあの二十八対の変卦の祖宗である。
卦之正變共三十六,而爻有二百一十六,則用數之策也。三十六去四,則三十二也。又去四,則二十八也。又去四,則二十四也。故卦數三十二位,去四而言之也;天數二十八位,去八而言之也;地數二十四位,去十二而言之也。四者,乾、坤、離、坎也;八者,並頤、中孚、大小過也;十二者,並兌、震、泰、既濟也。
卦の正卦と変卦を合せて共に三十六、每卦六爻、三十六に六を乗じて二百一十六爻を得る。これがまさに乾の策二百一十六、すなわち「用数」の策である。三十六より四を減じて三十二を得、再び四を減じて二十八を得、再び四を減じて二十四を得。ゆえに卦数は三十二位と説く。あれは三十六のうちより四個を去りて言うのである。天数は二十八位で、八個を去りて言うのである。地数は二十四位で、十二個を去りて言うのである。去る所の四個は、乾・坤・離・坎を指す。去る所の八個は、この四卦の外に再び頤・中孚・大過・小過を加えたる。去る所の十二個は、またこの八卦の外に再び兌・震・泰・既済(それらの反対の卦を連ねて)を加えたる。
乾七子,兌六子,離五子,震四子,巽三子,坎二子,艮一子,坤全陰,故無子。乾七子,坤六子,兌五子,艮四子,離三子,坎二子,震一子,巽陰剛,故無子。乾坤七變,是以晝夜之極不過七分也;兌艮六變,是以月止於六,共為十二也;離坎五變,是以日止於五,共為十也。震巽四變,是以體止於四,共為八也。
先天八卦の乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の次序に按じて数え下れば、首位に排する乾は七個の「子」を生じ得、兌は六個を生じ得、離は五個、震は四個、巽は三個、坎は両個、艮は一個、坤は純陰にしてまた末位に居るがゆえに、一個も生じ得ず。別の一種の排法を換えて、八卦を乾坤・兌艮・離坎・震巽の両両に成偶するに按じて数えれば、則ち乾は七子、坤は六子、兌は五子、艮は四子、離は三子、坎は両子、震は一子、巽は陰にして二陽の下に居る剛中の陰にして末に居るがゆえに、子なし。乾坤のこの一対は変じて七に至り、ゆえに昼夜の長短の極限は七分を過ぎず。兌艮のこの一対は変じて六に至り、ゆえに月はただ六に至り、両辺相合すれば便ち十二箇月。離坎のこの一対は変じて五に至り、ゆえに日はただ五に至り、両辺相合すれば便ち十日(十天干)。震巽のこの一対は変じて四に至り、ゆえに体はただ四に至り、両辺相合すれば便ち八(八卦)。
日有八位而用止於七,去乾而言之也;月有八位而用止於六,去兌而言之也;星有八位而用止於五,去離而言之也;辰有八位而用止於四,去震而言之也;日有八位而數止於七,去泰而言之也;月自兌起者,月不能及日之數也,故十二月常餘十二日也。
日は本来八位を占めて実際に動用するはただ七に至る。あれは乾のこの一位を除去して算えざるを以てとする。月は本来八位を占めて動用するはただ六に至る。兌のこの一位を除去して算えざるを以てとする。星は本来八位を占めて動用するはただ五に至る。離のこの一位を除去して算えざるを以てとする。辰は本来八位を占めて動用するはただ四に至る。震のこの一位を除去して算えざるを以てとする。日は八位を占めて配する数ただ七に至るは、則ち泰のこの一卦を除去して算えざるを以てとする。月が兌より起算するを要するに至っては、月行の数が日行の数に及ばざるがゆえに、ゆえに十二個の朔望月が一歳の日数につねに短少し、十二日を多出して補足するを要する。
乾陽中陽,不可變,故一年止舉十二月也;震陰中陰,不可變,故一日十二時,不可見也。兌陽中陰,離陰中陽,皆可變,故日月之數可分也。是以陰數以十二起,陽數以三十起,而常存二六也。
乾は陽中の陽で、純にして雑ならず、再び変ずる由なし。ゆえに一年はただ十二箇月を挙げ得るのみ。震は陰中の陰で、もまた再び変ずる由なし。ゆえに一日十二時の数はただ推算する能くして形跡を見る能わず。兌は陽中に陰を含み、離は陰中に陽を含み、両者とも再び変ずる能くす。ゆえに日・月の数ははじめて分かち開かる。ここにおいて陰数は十二より起算し(十二辰・十二月)、陽数は三十より起算し(一月三十日)、そして両者の中に総じて「二」と「六」のこの両個の基数を保留す。
舉年見月,舉月見日,舉日見時,陽統陰也。是天四變,含地四變。日之變,含月與星辰之變也。是以一卦含四卦也。日一位,月一位,星一位,辰一位。日有四位,月有四位,星有四位,辰有四位。四四十有六位,盡此一變,而日月之數窮矣。
年を提起すれば則ち月を見る能くし、月を提起すれば則ち日を見る能くし、日を提起すれば則ち時を見る能くす。これは陽が陰を統攝する故である。ここにおいて天の四変のうちに則ち地の四変を包含し、日の変化のうちに則ち月と星辰の変化を包含す。ゆえに一卦の中に四卦を含む。日は一位を占め、月は一位を占め、星は一位を占め、辰は一位を占む。そして日はまた各々四位あり、月は各々四位あり、星は各々四位あり、辰は各々四位あり、四に四を乗じて共に十六位。この十六位を走り尽くして一輪すれば、日月の数目もまた窮尽す。
天有四變,地有四變。變有長也,有消也。十有六變而天地之數窮矣。日起於一,月起於二,星起於三,辰起於四。衍而伸之,陽數常六,陰數常二。十有二變,而大小之運窮矣。
天に四変あり、地に四変あり、每一変のうちにまた増長の一面あり、消退の一面あり。四に四を乗じて共に十六変、天地の数はすなわち窮尽す。日は一より起算し、月は二より起算し、星は三より起算し、辰は四より起算す。それらを推衍伸展し開けば、陽に属する数はつねに六、陰に属する数はつねに二。このように十二変を走り満たせば、大運と小運の数もまた窮尽す。
三百六十變為十二萬九千六百,十二萬九千六百變為一百六十七億九千六百一十六萬,一百六十七億九千六百一十六萬變為二萬八千二百一十一兆九百九十萬七千四百五十六億。以三百六十為時,以十二萬九千六百為日,以一百六十七億九千六百一十六萬為月,以二萬八千二百一十一兆九百九十萬七千四百五十六億為年,則大小運之數立矣。
三百六十を自乗して、十二万九千六百と変ず。十二万九千六百を自乗して、一百六十七億九千六百一十六万と変ず。一百六十七億九千六百一十六万を再び自乗して、二万八千二百一十一兆九百九十万七千四百五十六億と変ず——每一層は皆上一層を自乗する一度、逐層に翻り上げる(邵雍の用いる「兆」は「億億」、すなわち万々億である)。然る後に三百六十を取って「時」と為し、十二万九千六百を取って「日」と為し、一百六十七億九千六百一十六万を取って「月」と為し、二万八千二百一十一兆九百九十万七千四百五十六億を取って「年」と為せば、大運・小運の数目はすなわち立ち上がる。
二萬八千二百一十一兆九百九十萬七千四百五十六億,分而為十二,前六限為長,後六限為消,以當一年十二月之數,而進退三百六十日矣。一百六十七億九千六百一十六萬,分而為三十,以當一月三十日之數,隨大運之消長,而進退六十日矣。十二萬九千六百,分而為十二,以當一日十二時之數,而進退六日矣。三百六十以當一時之數,隨小運之進退,以當晝夜之時也。
二万八千二百一十一兆九百九十万七千四百五十六億のこの「年」数を分かちて十二段と為し、前の六段は増長に属し、後の六段は消退に属し、もって一年十二箇月に対応し、その間に進退して三百六十日。一百六十七億九千六百一十六万のこの「月」数を分かちて三十份と為し、もって一月三十日に対応し、大運の消長に随い、その間に進退して六十日。十二万九千六百のこの「日」数を分かちて十二份と為し、もって一日十二時に対応し、その間に進退して六日。三百六十は則ちもって一時の数に対応し、小運の進退に随い、ちょうど昼夜の時刻に当たる。
十六變之數,去其交數,取其用數,得二萬八千二百一十一兆九百九十萬七千四百五十六億,分為十二,前六限為長,後六限為消,每限得一百六十七億九千六百一十六萬,每一百六十七億九千六百一十六萬衍開一分,進六十日也。六限開六分,進三百六十日也。猶有餘分之一,故開七分,進三百六十日也。其退亦若是矣。
十六変の得たる総数より、交界に属して用いざる「交数」を去り、ただ実際に動用する「用数」を取れば、便ち二万八千二百一十一兆九百九十万七千四百五十六億を得る。それを分かちて十二段と為し、前の六段を増長と為し、後の六段を消退と為し、每一段に一百六十七億九千六百一十六万を得る。每一个の一百六十七億九千六百一十六万を推衍し開きて算して一分と為し、六十日を進む。六段に六分を開き出せば、則ち三百六十日を進む。この外にまだ余分の一份を剩す。ゆえに七分に開き至るを要し、仍ほ三百六十日をもって計る。消退の一辺も、算法もまたこの様子に照らす。
十二萬九千六百,去其三者,交數也;取其七者,用數也。用數三而成於六,加餘分,故有七也。七之得九萬七百二十年,半之得四萬五千三百六十年,以進六日也。日有晝夜,數有朓肭,以成十有二日也。每三千六百年進一日,凡四萬三千二百年,進十有二日也。餘二千一百六十年,進餘分之六,合交數之二千一百六十年,共進十有二分,以為閏也。故小運之變,凡六十而成三百六十六日也。
十二万九千六百のこの数に、去る十分の三は「交数」で、取用する十分の七は「用数」である。用数は本来三に成り六に足り、さらに余出する一分を加えて、ゆえに七である。その十分の七を取れば、九万零七百二十年を得る。折半して、四万五千三百六十年を得、もって六日を進む。日はすでに昼夜を分かち、月行にまた「朓」「肭」の盈縮あり(月末に東方に早く見るを肭と叫び、月初に西方に遅く見るを朓と叫ぶ)、両辺合わせて便ち十二日と成る。三千六百年に一日を進むを照らして算えば、四万三千二百年はちょうど十二日を進む。剩りの二千一百六十年は、余分の六を進む。再び交数のあの辺の二千一百六十年を合して、共に十二分を進み、則ちそれをもって閏を置く。ゆえに小運の変化は、六十を走り満たせば便ち三百六十六日の一年の数を湊成す。
天統乎體,故八變而終於十六。地分乎用,故六變而終於十二。天起於一,而終於七秭九千五百八十六萬六千一百一十垓九千九百四十六萬四千八京八千四百三十九萬一千九百三十六兆;地起於十二,而終於二百四秭六千九百八十萬七千三百八十一垓五千四百九十一萬八千四百九十九兆七百二十萬億也。
天は「体」をもって統属と為す。ゆえに八変を走りて十六に終結す。地は「用」をもって分派と為す。ゆえに六変を走りて十二に終結す。天は一より起算し、一路推して七秭九千五百八十六万六千一百一十垓九千九百四十六万四千八京八千四百三十九万一千九百三十六兆に至って止む。地は十二より起算し、一路推して二百四秭六千九百八十万七千三百八十一垓五千四百九十一万八千四百九十九兆七百二十万億に至って止む。この両個の大数がすなわち天数と地数が各々推衍して尽頭に至る界限である。
乾為一,乾之五爻分而為大有,以當三百六十之數也;乾之四爻分而為小畜,以當十二萬九千六百之數也;乾之三爻分而為履,以當一百六十七億九千六百一十六萬之數也;乾之二爻分而為同人,以當二萬八千一百一十一兆九百九十萬七千四百五十六億之數也;乾之初爻分而為姤,以當七秭九千五百八十六萬六千一百十垓九千九百四十六萬四千八京八千四百三十九萬一千九百三十六兆之數也。是謂分數也,分大為小,皆自上而下,故以陽數當之。(如一分為十二,十二分為三百六十也。)
乾卦の六爻は純陽で、取って「一」と為す。乾の第五爻は陽より分かれて陰と為り、大有卦と成る。もって三百六十のこの数に当てる。第四爻が再び分かれて、小畜卦と成る。もって十二万九千六百のこの数に当てる。第三爻が再び分かれて、履卦と成る。もって一百六十七億九千六百一十六万のこの数に当てる。第二爻が再び分かれて、同人卦と成る。もって二万八千一百一十一兆九百九十万七千四百五十六億のこの数に当てる(底本ここに「一百一十一兆」と作り、前文の「二百一十一兆」と同じからず、まさに伝写の小異であるべし)。初爻が再び分かれて、姤卦と成る。もって七秭九千五百八十六万六千一百十垓九千九百四十六万四千八京八千四百三十九万一千九百三十六兆のこの数に当てる。この一路を「分数」と叫ぶ。大きいを分かちて小さいと為すは、皆上より下へと逐爻に剥落する。ゆえに陽数を取ってそれに配す。(例えば一を分かちて十二と為し、十二を再び分かちて三百六十と為す。)
一生二為夬,當十二之數也;二生四為大壯,當四千三百二十之數也;四生八為泰,當五萬五千九百八十七萬二千之數也;八生十六為臨,當九百四十三千六百九十九萬六千九百一十五億二千萬之數也;十六生三十二為復,當二千六百五十二萬八千八百七十垓三千六百六十四萬八千八百京二千九百四十七萬九千七百三十一兆二千萬億之數也;三十二生六十四為坤,當無極之數也。是謂長數也。長小為大,皆自下而上,故以陰數當之。
反対に、坤の一辺より下より上へと長ず。一は二を生じて、夬卦と成り、十二のこの数に当たる。二は四を生じて、大壮卦と成り、四千三百二十のこの数に当たる。四は八を生じて、泰卦と成り、五万五千九百八十七万二千のこの数に当たる。八は十六を生じて、臨卦と成り、九百四十三千六百九十九万六千九百一十五億二千万のこの数に当たる。十六は三十二を生じて、復卦と成り、二千六百五十二万八千八百七十垓三千六百六十四万八千八百京二千九百四十七万九千七百三十一兆二千万億のこの数に当たる。三十二は六十四を生じて、坤卦と成れば、あれは則ち「無極」の数に当たり、大にして計量する由なし。この一路を「長数」と叫ぶ。小さいを長じて大きいと為すは、皆下より上へと逐爻に生起する。ゆえに陰数を取ってそれに配す。
天自臨以上,地自師以上,運數也。天自同人以下,地自遁以下,年數也。運數則在天者也,年數則在地者也。天自賁以上,地自艮以上,用數也。天自明夷以下,地自否以下,交數也。天自震以上,地自晉以上,有數也。天自益以下,地自豫以下,無數也。
この一張の卦数の図の上に、天の一辺は臨卦より上り、地の一辺は師卦より上るは、「運数」に属す。天の一辺は同人卦より下り、地の一辺は遯卦より下るは、「年数」に属す。運数は天の管に帰し、年数は地の管に帰す。天は賁卦より上り、地は艮卦より上るは、実際に動用する「用数」に属す。天は明夷卦より下り、地は否卦より下るは、交界にして用いざる「交数」に属す。天は震卦より上り、地は晋卦より上るは、「有数」に属し、なお計量し得べし。天は益卦より下り、地は豫卦より下るは、「無数」に属し、すでに算い出す能わず。
天之有數,起乾而止震,餘入於無者,天辰不見也。地去一而起十二者也,地火常潛也。故天以體為基,而常隱其基;地以用為本,而常藏其用也。一時止於三月,一月止於三十日,皆去其辰數也。是以八八之卦六十四,而不變者八,可變者七,七八五十六,其義亦由此矣。
天のこの一辺の計量し得る数は、乾卦より起きて震卦に至って止み、その余は皆「無」のうちに落ち入った。これはまさに天の四象の中の「辰」が見えざるに対応す。地のこの一辺は則ち「一」を去りて十二より起算す。これは地の四体の中の「火」がつねに潜伏して露われざるに対応す。ゆえに天は体をもって根基と為しながら、つねに根基を隠して起き、地は用をもって根本と為しながら、つねに用を蔵して起きる。一時に三箇月のみあり、一箇月に三十日のみあるは、皆「辰」のあの一份の数を扣掉したるがゆえである。ゆえに八八相重る六十四卦のうち、倒して変わらざるは八個あり、変わり得るはその余の七組で、七に八を乗じて五十六を得る。道理もまたここより来る。
有地然後有二,有二然後有晝夜。二三以變,錯綜而成,故《易》以二為生數,以十二而起,而一非數也。非數而數,以之成也。天行不息,未嘗有晝夜。人居地上,以為晝夜。故以地上之數為人之用也。
先に地ありて、はじめて「二」のこの数あり。二ありて、はじめて昼と夜の分別あり。二と三が互相に変化し、彼此錯綜し、ここにおいて万数生成す。ゆえに《易》は「二」を取って生数と為し、十二より起算し、そして「一」自身は算えて数と為さず。それは数に非ざると雖も、一切の数は却って皆それに倚って生成す。天体の運行は永く停息せず、本来いわゆる昼夜なし。人は地面の上に住して、はじめて昼夜の分あり。ゆえに《易》は地面上の数を取って、人の使用する所の数と為す。
陽爻,晝數也;陰爻,夜數也。天地相銜,陰陽相交,故晝夜相雜,剛柔相錯。春夏陽多也,故晝數多夜數少;秋冬陰多也,故晝數少夜數多。
陽爻は白昼の数を代表し、陰爻は黒夜の数を代表す。天と地は首尾相銜じ、陰と陽は彼此交合す。ゆえに昼と夜は互相に夾雑し、剛と柔は互相に交錯す。春夏の両季は陽気多し。ゆえに昼の份数多く夜の份数少なし。秋冬の両季は陰気多し。ゆえに昼の份数少なく夜の份数多し——一卦の中の陰陽爻の多寡は、まさに一年の内の昼夜の長短に対応す。
體數之策,三百八十四。去乾坤離坎之策,為用數三百六十。體數之用,二百七十。去乾與離坎之策,為用數之用二百五十二也;體數之用,二百七十。其一百五十六為陽,一百十四為陰。去離之策得一百五十二陽,一百一十二陰,為實用之數也。蓋陽去離而用乾,陰去坤而用坎也。
体数の策数は三百八十四、すなわち六十四卦各々六爻の総数である。乾・坤・離・坎の四卦の二十四策を除去して、三百六十を剩す。すなわち「用数」である。体数の中に実際に動用するは二百七十。再び乾と離・坎の策数を除去して、二百五十二を剩す。便ち「用数の用」である。この二百七十のうち、一百五十六は陽に属し、一百一十四は陰に属す。離卦の策数を去りて、一百五十二陽・一百一十二陰を得る。これがはじめて真正の実用の数である。縁故は。陽の一辺は離を舍てて乾を用い、陰の一辺は坤を舍てて坎を用いる。
是以天之陽策一百十二,去其陰也。地之陰策一百十二。陽策四十,去其南北之陽也。極南大暑,極北大寒,物不能生,是以去之也。其四十為天之餘分耶?陽侵陰,晝侵夜,是以在地也。合之為一百五十二陽,一百十二陰也。陽去乾之策,陰去坎之策,得一百四十四陽,一百八陰,為用數之用也。陽三十六,三之為一百八;陰三十六,三之為一百八。三陽三陰,陰陽各半也。陽有餘分之一,為三十六。合之為一百四十四陽,一百八陰也。故體數之用二百七十,而實用者二百六十四,用數之用二百五十二也。
ゆえに天の陽策は一百一十二。あれはその中の陰を扣除した後の数である。地の陰策もまた一百一十二。別に四十策の陽あり。あれは南北両極の陽を去りてはじめて剩ったるもの。極南の酷暑、極北の厳寒は、皆物を生ずる能わず。ゆえに扣除するを要す。あの四十策はおよそ天の多出したる「余分」であろうか。陽は陰を侵占し、昼は夜を侵占す。この多出したる部分は便ち地の上に落ちる。两下合わせて、共に一百五十二陽・一百一十二陰。陽の一辺が再び乾の策数を去り、陰の一辺が再び坎の策数を去りて、一百四十四陽・一百零八陰を得る。これがすなわち「用数の用」。陽爻は一爻三十六策、三倍は一百零八。陰爻は一爻三十六策、三倍もまた一百零八。三陽三陰、陰陽ちょうど各々半なり。陽は別に余分の一份あり、また三十六。合わせて便ち一百四十四陽・一百零八陰。ゆえに体数の用は二百七十、而も実際に用い得るは二百六十四、用数の用は則ち二百五十二。
卦有六十四,而用止乎三十六;爻有三百八十四,而用止乎二百一十六也。六十四分而二百五十六,是以一卦去其初上之爻,亦二百五十六也。此生物之數也。故離坎為生物之主,以離四陽,坎四陰。故生物者必四也。陽一百一十二,陰一百一十二,去其離坎之爻,則二百一十六也。陰陽之四十,共為二百五十六也。是以八卦用六爻,乾坤主之也;六爻用四位,離坎主之也。故天之昏曉不生物,而日中生物;地之南北不生物,而中央生物也。
卦は共に六十四、実際に動用するはただ三十六。爻は共に三百八十四、実際に動用するはただ二百一十六。六十四卦は每卦に四爻を取りて、二百五十六を得る。算法を換えて、每卦に初爻と上爻を去りて、四爻を剩す。同じく二百五十六——これがすなわち「生物の数」。ゆえに離・坎の両卦は生物の主宰である。離卦は上下相重りて四個の陽爻あり、坎卦は上下相重りて四個の陰爻あるに因る。生物は必ず四をもって則と為すを見るべし。陽一百一十二・陰一百一十二、離坎の爻を去れば、便ち二百一十六を剩す。陰陽の両辺に各々余る四十を合わせて、まさに二百五十六。ゆえに八卦は各々六爻を用い、乾坤によりて主を為す。六爻の中にただ四位を用い、離坎によりて主を為す。この道理は実処に落ちれば便ち。天は黄昏と破暁の時に物を生ぜず、正午にこそ物を生ず。地は極南極北に物を生ぜず、中間の地帯にこそ物を生ず。
體數何為者也?生物者也。用數何為者也?運行者也。運行者,天也;生物者,地也。天以獨運,故以用數自相乘,而以用數之用為生物之時也;地偶而生,故以體數之用陽乘陰,為生物之數也。
体数は何を為すものか。これはもって物を生ずるに用いる。用数は何を為すものか。これはもって運行するに用いる。運行を主るは天で、生物を主るは地である。天は独り運転して配偶なく、ゆえに用数を取って自らに自らを乗じ、再び「用数の用」を取って生物の時節に当てる。地は必ず双を成し対を成してはじめて生育する能くす。ゆえに体数の用のうちの陽を取って陰に乗じ、それをもって生物の数目に当てる。
天數三,故六六而又六之。是以乾之策二百一十有六;地數兩,故十二而十二之,是以坤之策百四十有四也。乾用九,故三其八為二十四,而九之亦二百一十六。兩其八為十六,而九之亦百四十有四。坤用六,故三其十二為三十六,而六之亦二百一十六。兩其十二為二十四,而六之亦百四十有四也。坤以十二之三,十六之四,六之一與半為乾之餘分,則乾得二百五十二,坤得一百八也。
天数は三を取る。ゆえに六に六を乗じた後に再び六を乗じて、二百一十六を得る。これがすなわち《繋辞》の言う乾の策数二百一十六である。地数は二を取る。ゆえに十二に十二を乗じて、一百四十四を得る。これがすなわち坤の策数一百四十四である。乾は九を用いる。ゆえに八の三倍は二十四、再び九を乗じてもまた二百一十六。八の两倍は十六、再び九を乗じてもまた一百四十四。坤は六を用いる。ゆえに十二の三倍は三十六、再び六を乗じてもまた二百一十六。十二の两倍は二十四、再び六を乗じてもまた一百四十四。もし坤のこの一辺の十二の三分、十六の四分、六の一份半を皆乾の多出したる余分と算すれば、然らば乾は二百五十二を得、坤は一百零八を得る。
體有三百八十四,而用止於三百六十,何也?以乾、坤、離、坎之不用也。乾、坤、離、坎之不用,何也?乾、坤、離、坎之不用,所以成三百六十之用也。故萬物變易,而四者不變也。夫惟不變,是以能變也。用止於三百六十,而有三百六十六,何也?數之贏也。數之贏則何用也?乾全用也。乾坤不用,則離坎用半也。乾全用者何也?陽主贏也。乾坤不用者何也?獨陽不生,專陰不成也。離坎用半何也?離東坎西,當陰陽之半,為春秋晝夜之門也。
体数に三百八十四あり、動用するは却って三百六十に至るのみ、なぜか。乾・坤・離・坎の四卦が存して用いざるがゆえである。この四卦はなぜ用いざるか。まさにそれらが用いざるがゆえに、はじめてあの三百六十の用を成全す。ゆえに万物は変化停まらざると雖も、この四者は終始変わらず。もまたまさに変わらざるがゆえに、それらは別のものを変えしめる能くする。用数はただ三百六十に至るも、実際は一年に三百六十六日あり、またなぜか。あれは数目の多出したる盈余である。この盈余はどう安置するか。乾によりて全数を承当せしむ。乾坤はすでに用いざれば、則ち離坎に各々一半を用いしむ。なぜ乾によりて全用せしめるか。陽は盈余を主るがゆえである。なぜ乾坤は用いざるか。孤陽は生ずる能わず、純陰は成す能わざるがゆえである。なぜ離坎はただ一半を用いるか。離は東に在り、坎は西に在り、まさに陰陽の分界の処に当たり、春秋の両分と昼夜の交替の門戸なるがゆえである。
或用乾,或用離坎,何也?主陽而言之,故用乾也。主贏分而言之,則陽侵陰,晝侵夜,故用離坎也。陽主贏,故乾全用也。陰主虛,故坤全不用也。陽侵陰,陰侵陽,故離坎用半也。是以天之南全見,而北全不見,東西各半見也。離坎陰陽之限也,故離當寅,坎當申,而數常逾之者,蓋陰陽之溢也。然用數不過乎寅,交數不過乎申也。(或離當卯,坎當酉。)
或る時は乾を用いると説き、或る時は離坎を用いると説く。これはどういう事か。陽のこの一面に就いて説けば、ゆえに乾を取る。盈余のあの一分に就いて説けば、陽が陰に侵入し昼が夜に侵入する。ゆえに離坎を取る。陽は盈を主る。ゆえに乾は全用す。陰は虚を主る。ゆえに坤は全く用いず。陽は陰を侵し、陰もまた陽を侵す。ゆえに離坎は各々一半を用いる。これは天象の上に落ちれば便ち。南天は全部可見、北天は全部不可見、東西の両辺は各々半を見る。離と坎は陰陽の界限で、ゆえに離は寅位に当たり、坎は申位に当たる。而も実際の数はつねにこの界限を越え越す。あれは陰陽に溢出する所有るがゆえである。ただし用数は寅を越えず、交数もまた申を越えず。(一説に離は卯位に当たり、坎は酉位に当たるとす。)
乾四十八,兌三十,離二十四,震十,坤十二,艮二十,坎三十六,巽四十。乾三十六,坤十二,離、兌、巽二十八,坎、艮、震二十。乾四十八而四分之一為陰所克;坤四十八而四分之一為所克之陽也。故乾得三十六,而坤得十二也。陽主進,是以進之為三百六十日;陰主消,是以十二月消十二日也。陽四卦十二爻,八陽四陰,以三十六乘其陽,以二十四乘其陰,則三百八十四也。
八卦の各々配する所の数は。乾四十八、兌三十、離二十四、震十、坤十二、艮二十、坎三十六、巽四十。もし単に陽策を論ずれば、則ち乾三十六、坤十二、離・兌・巽は各々二十八、坎・艮・震は各々二十。乾は本来四十八あり、その四分の一が陰に克し去られた。坤もまた本来四十八あり、その四分の一がすなわち克し来られたるあの份の陽である。ゆえに乾は実に三十六を得、坤は実に十二を得る。陽は前進を主る。ゆえに一路進み上りて三百六十日を成す。陰は消減を主る。ゆえに十二個の朔望月は一年より十二日を少く去る。陽に属する四卦は共に十二爻あり、その中八個の陽爻・四個の陰爻。三十六を取って陽爻に乗じ、二十四を取って陰爻に乗ずれば、二百八十八に九十六を加えて、ちょうど三百八十四。
圓者,星也,曆紀之數,其肇於此乎?方者,土也,畫州井地之法,其仿於此乎?蓋圓者,河圖之數;方者,洛書之文。故羲、文因之而造《易》,禹、箕敘之而作《範》也。圓數有一,方數有二,奇偶之義也。六即一也,十二即二也。
円の一辺は星象に属す。暦法紀年の数目は、およそここに発端するか。方の一辺は土地に属す。九州を劃分し井田を経営する弁法は、およそこれに倣傚するか。説き尽くせば、円なるは《河図》の数で、方なるは《洛書》の文である。ゆえに伏羲・文王はそれに依って《易》を造出し、大禹・箕子はそれに依って《洪範》を排出した。円数の根本は一で、方数の根本は二。これがすなわち奇と偶の分別である。六はただ一の六倍に過ぎず、仍ほ一に帰し、十二はただ二の六倍に過ぎず、仍ほ二に帰す。
圓者徑一圍三,重之則六。方者徑一圍四,重之則八也。天圓而地方。圓者之數起一而積六,方者之數起一而積八。變之則起四而積十二也。六者常以六變,八者常以八變,而十二者亦以八變,自然之道也。八者,天地之體也;六者,天之用也;十二者,地之用也。天變方為圓,而常存其一;地分一為四,而常執其方。天變其體,而不變其用也;地變其用,而不變其體也。六者,並其一而為七;十二者,並其四而為十六也。陽主進,故天並其七而為七;陰主退,故地去其四而止於十二也。是陽常存一,而陰常晦一也。故天地之體止於八,而天之用極於七,地之用止於十二也。
円形は直径を一と為せば周長は三で、加倍すれば便ち六。方形は直径を一と為せば周長は四で、加倍すれば便ち八。天は円なり、地は方なり。ゆえに円の数は一より起きて積して六を成し、方の数は一より起きて積して八を成す。もし再び一層を変ずれば、則ち四より起きて積して十二を成す。六はつねに六に按じて変じ、八はつねに八に按じて変じ、而も十二もまた八に按じて変ず。これは皆自然にして然る道理である。八は、天地の共有する「体」。六は、天の「用」。十二は、地の「用」。天は方を変じて円と為し、而も終始あの「一」を保留す。地は一を分かちて四と為し、而も終始あの方を守る。天の変ずるはその体で、変わらざるはその用。地の変ずるはその用で、変わらざるはその体。六にそれの一を加えれば便ち七、十二にそれの四を加えれば便ち十六。陽は前進を主る。ゆえに天はあの一份を併せ入れて七を成す。陰は後退を主る。ゆえに地はあの四份を去りて十二に止まる。陽はつねに「一」を保存し、陰はつねに「一」を隠晦するを見るべし。ゆえに天地の体は八に至って止み、而も天の用は七に極み、地の用は十二に止まる。
圓者裁方以為用,故一變四。四去其一,則三也。三變九,九去其三,則六也。方者引圓以為體,故一變三,並之四也。四變十二,並之十六也。故用數成於三而極於六,體數成於四而極於十六也。是以圓者徑一而圍三,起一而積六;方者分一而為四,分四而為十六,皆自然之道也。
円は方を裁削して取り来りて作用と為す。ゆえに一は変じて四と成る。四はその中の一份を去りて、三を剩す。三は再び変じて九と成り、九はその中の三份を去りて、六を剩す。方は円を牽引して取り来りて体を為す。ゆえに一は変じて三と成り、本身を併せ入れれば便ち四。四は変じて十二と成り、本身を併せ入れれば便ち十六。ここにおいて用数は三に成りて六に極み、体数は四に成りて十六に極まる。ゆえに円は直径一にして周長三、一より起きて積して六を成す。方は一を分かちて四と為し、四を再び分かちて十六と為す——これらは皆自然にして然る道理である。
圓者一變則生六,去一則五也;二變則生十二,去二則十也;三變則生十八,去三則十五也;四變則二十四,去四則二十也;五變則三十,去五則二十五也;六變則三十六,去六則三十也。是以存之則六六,去之則五五也。五則四而存一也,四則三而存一也,三則二而存一也,二則一而存一也。故一生二,去一則一也;二生三,去一則二也;三生四,去一則三也;四生五,去一則四也。是故二以一為本,三以二為本,四以三為本,五以四為本,六以五為本。(更思之。)
円数は変ずる一度に六を生出し、一份を去りて五を剩す。変ずる両度に十二を生出し、両份を去りて十を剩す。変ずる三度に十八を生出し、三份を去りて十五を剩す。変ずる四度は二十四、四份を去りて二十を剩す。変ずる五度は三十、五份を去りて二十五を剩す。変ずる六度は三十六、六份を去りて三十を剩す。ゆえに保留して算えば便ち六六三十六、去りて後に算えば便ち五五二十五。同じく然り。五はすなわち四に再び一個の一を存したる、四はすなわち三に再び一個の一を存したる、三はすなわち二に再び一個の一を存したる、二はすなわち一に再び一個の一を存したる。ゆえに一は二を生じ、あの一份を去りて仍ほ一。二は三を生じ、一份を去りて二。三は四を生じ、一份を去りて三。四は五を生じ、一份を去りて四。これより見るべし。二は一をもって本と為し、三は二をもって本と為し、四は三をもって本と為し、五は四をもって本と為し、六は五をもって本と為す。(ここにはなお再加の体味を要す。)
方者一變而為四,四生八,並四而為十二;八生十二,並八而為二十;十二生十六,並十二而為二十八;十六生二十,並十六而為三十六也。一生三,並而為四也;十二生二十,並而為三十二也;二十八生三十六,並而為六十四也。(更思之。)
方数は変ずる一度に四と成る。四は八を生じ、元来の四を併せ入れれば便ち十二。八は十二を生じ、元来の八を併せ入れれば便ち二十。十二は十六を生じ、元来の十二を併せ入れれば便ち二十八。十六は二十を生じ、元来の十六を併せ入れれば便ち三十六。再び総合を看れば。一は三を生じ、両数相併せて四。十二は二十を生じ、両数相併せて三十二。二十八は三十六を生じ、両数相併せてまさに六十四卦の数。(ここにはなお再加の体味を要す。)
一役二以生三,三去其一則二也。三生九,九去其一則八也,去其三則六也。故一役三,三復役二也;三役九,九復役八與六也。是以二生四,八生十六,六生十二也。三並一則為四,九並三則為十二,十二又並四則為十六。故四以一為本,三為用。十二以三為本,九為用。十六以四為本,十二為用。(更思之。)
一は二を駆使して三を生出し、三はあの一を減じて便ち二に回る。三は九を生じ、九は一を減じて便ち八、三を減じて便ち六。ゆえに一は三を駆使し、三はまた転じて二を駆使す。三は九を駆使し、九はまた転じて八と六を駆使す。ここにおいて二は四を生じ、八は十六を生じ、六は十二を生ず。三に一を加えれば便ち四、九に三を加えれば便ち十二、十二に再び四を加えれば便ち十六。見るべし。四は一をもって本と為し三をもって用と為し、十二は三をもって本と為し九をもって用と為し、十六は四をもって本と為し十二をもって用と為す。(ここにはなお再加の体味を要す。)
裁方而為圓,天之所以運行;分大而為小,地之所以生化。故天用六變,地用四變也。一八為九,裁為七,八裁為六,十六裁為十二,二十四裁為十八,三十二裁為二十四,四十裁為三十,四十八裁為三十六,五十六裁為四十二,六十四裁為四十八也。一分為四,八分為三十二,十六分為六十四,以至九十六分為三百八十四也。
方形を裁削して円形を成す。これは天が運行して息まざる能くする所以の道理。大きいを分かちて小さいと為す。これは地が生育化育する能くする所以の道理。ゆえに天は六変を走り、地は四変を走る。裁削は四分去一の比例に按じて来る。一に八を加えて九と為し、四分の一を裁し去りて七を余す。八を裁して六と為し、十六を裁して十二と為し、二十四を裁して十八と為し、三十二を裁して二十四と為し、四十を裁して三十と為し、四十八を裁して三十六と為し、五十六を裁して四十二と為し、六十四を裁して四十八と為す。分割は則ち四倍に按じて来る。一を分かちて四と為し、八を分かちて三十二と為し、十六を分かちて六十四と為し、一路推して九十六を分かちて三百八十四と為すに至る——まさに六十四卦三百八十四爻の数。
一生六,六生十二,十二生十八,十八生二十四,二十四生三十,三十生三十六。引而伸之,六十變而生三百六十矣。此運行之數也。四生十二,十二生二十,二十生二十八,二十八生三十六,此生物之數也。故乾之陽策三十六,兌離巽之陽策二十八,震坎艮之陽策二十,坤之陽策十二也。
一は六を生じ、六は十二を生じ、十二は十八を生じ、十八は二十四を生じ、二十四は三十を生じ、三十は三十六を生ず。この六六に遞加する路数に照らして牽引伸展し下れば、六十変を走り満たして便ち三百六十を生出す。これは「運行の数」。別の一路は四が十二を生じ、十二が二十を生じ、二十が二十八を生じ、二十八が三十六を生じ、每次八を遞加す。これは「生物の数」。ゆえにこの路数に照らして八卦の陽策に配す。乾は三十六、兌・離・巽は各々二十八、震・坎・艮は各々二十、坤は十二。
圓者六變,六六而進之,故六十變而三百六十矣。方者八變,故八八而成六十四矣。陽主進,是以進之為六十也。六變而成三十六矣,八變而成六十四矣,十二變而成三百六十四矣。六六而變之,八八六十四變,而成三百八十四矣。八八而變之,七七四十九變,而成三百八十四矣。
円は六変を走り、六個の六に按じて遞進す。ゆえに六十変にして三百六十を成す。方は八変を走る。ゆえに八八相乗して六十四を成す。陽は前進を主る。ここにおいて一路進みて六十に至る。再び算えば。六変にして三十六を成し、八変にして六十四を成し、十二変にして三百六十四を成す(底本このよう、疑らくは三百六十と作るべし)。六六をもって一節と為して変ずれば、八八六十四変にして、便ち三百八十四を成す。八八をもって一節と為して変ずれば、七七四十九変にして、同じく三百八十四を成す——両条の路は底に走り尽くして、皆六十四卦三百八十四爻の上に帰す。
蓍德圓,以況天之數,故七七四十九也。五十者存一而言之也。卦德方,以況地之數,故八八六十四也。六十者,去四而言之也。蓍者,用數也;卦者,體數也。用以體為基,故存一也;體以用為本,故去四也。圓者本一,方者本四,故蓍存一而卦去四也。蓍之用數七,並其餘分,亦存一之義也;掛其一,亦去一之義也。
蓍草の徳性は円なり。もって天数を比況す。ゆえに七七四十九を取る。大衍の数五十と説くは、あの存して用いざる一を算え入れて講ずるのである。卦の徳性は方なり。もって地数を比況す。ゆえに八八六十四を取る。六十と説くは、乾坤離坎の四卦を去りて講ずるのである。蓍は用数に属し、卦は体数に属す。用は体をもって根基と為すを要す。ゆえに一個を留めて用いず。体は用をもって根本と為すを要す。ゆえに四個を去る。円は一をもって本と為し、方は四をもって本と為す。ここにおいて蓍は一を留めて卦は四を去る。蓍の用数は七を取り、余分を併せ入れて算えるも、もまた「存一」の意である。起卦の時に先ず一根を挂け出して用いざるも、もまた「去一」の意である。
蓍數不以六而以七,何也?並其餘分也。去其餘分則六,故策數三十六也。是以五十者,六十四卦閏歲之策也。其用四十有九,六十四卦一歲之策也。歸奇掛一,猶一歲之閏也。卦直去四者,何也?天變而地效之。是以蓍去一,則卦去四也。
蓍数はなぜ七を取りて六を取らざるか。余出したるあの一分を併せ入れたるがゆえである。もし余分を去れば便ち六。ゆえに一爻の策数は六六三十六。まさにこのため、五十のこの数は、六十四卦に閏年を配する策数である。実際に四十九を用いるは、六十四卦に平年を配する策数である。揲蓍の時に零頭を帰攏し先ず一根を挂け出すは、一年のうちに一個の閏月を安んずるに比す。卦のこの一辺はなぜ径直に四個を去るか。天が先に変じて地がそれに随って效法するがゆえである。蓍が一を去れば、卦は則ち相応して四を去る。
蓍之用數,掛一以象三。其餘四十八,則一卦之策也。四其十二為四十八也。十二去三而用九,四三十二所去之策也,四九三十六所用之策也,以當乾之三十六陽爻也。十二去五而用七,四五二十所去之策也,四七二十八所用之策也,以當兌離之二十八陽爻也。十二去六而用六,四六二十四所去之策也,四六二十四所用之策也,以當坤之二十四陰爻也。十二去四而用八,四四十六所去之策也,四八三十二所用之策也,以當艮坎之二十四爻,並上卦之八陰,為三十二爻也。是故七九為陽,六八為陰也。
蓍の用数は四十九。先ず一根を挂け出してもって天地人の三才に象り、剩る四十八は、まさに一卦の策数——四に十二を乗じて便ち四十八。十二のうち三を去りて九を用いる。四に三を乗じて十二を得るは、去る策。四に九を乗じて三十六を得るは、用上の策で、ちょうど乾卦の三十六陽爻に抵る。十二のうち五を去りて七を用いる。四に五を乗じて二十を得るは、去る策。四に七を乗じて二十八を得るは、用上の策で、兌・離の二十八陽爻に抵る。十二のうち六を去りて六を用いる。四に六を乗じて二十四を得て、二十四を去り、用上もまた二十四で、坤卦の二十四陰爻に抵る。十二のうち四を去りて八を用いる。四に四を乗じて十六を得るは、去る策。四に八を乗じて三十二を得るは、用上の策で、艮・坎の二十四爻に抵り、さらに卦の八個の陰爻を加えて、共に三十二爻。ゆえに七と九は陽に帰し、六と八は陰に帰す。
