經世之戌二千二百十九
甲子 周敬王四十三年,衛石圃逐其君起,而迎輒復位。起奔齊。 乙丑 周敬王崩,太子嗣位,是謂元王。齊田常卒,子盤繼事,是謂襄子。吳會齊、晉之師伐楚。越伐吳。 丙寅 晉定公卒,子鑿繼之。智伯伐鄭,取九邑。越人伐吳。 丁卯 越伐吳,圍其國。
甲子年は周敬王四十三年、すなわち紀元前四七七年で、本「世」の三十年はここより起算す。衞國の大夫石圃は國君の公子起を驅逐し、重ねて外に出奔せる衞出公輒を迎還して位に復らせ、起は齊國に逃奔した。乙丑年(紀元前四七六年)、周敬王は去世し、太子が位を繼いだ。すなわち周元王である。齊國の田常は去世し、その子の田盤は國政を接掌した。すなわち田襄子で、田氏が世襲して執政する格局はここに至って定型した。呉國は齊・晉の師と聯合して楚を伐ち、越國は則ち虚に乘じて呉を伐った。丙寅年(紀元前四七五年)、晉定公は去世し、その子の鑿が位を繼いだ。すなわち晉出公である。晉國の執政智伯(荀瑶)は鄭を伐って九つの城邑を奪取し、越國は再度呉を伐った。丁卯年(紀元前四七四年)、越國は呉を伐って呉都の姑蘇を圍困した。
戊辰 越滅吳,破姑蘇,殺其王並其大夫,北會諸侯于徐,致貢於周。太宰范蠡辭祿,遊五湖。殺大夫文種,遂兼有吳地。 己巳 庚午 辛未 周元王崩,太子介嗣位,是謂貞定王。 壬申 癸酉 魯季康子卒,三桓作難,弒其君哀公,立其子寧,是謂悼公。 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 晉伐鄭。 戊寅 己卯 庚辰 秦伐大荔。 辛巳 壬午
戊辰年(紀元前四七三年)、越國は呉を滅し、都城の姑蘇を攻破し、呉王夫差は自盡し、呉國の大夫は誅され、越王句踐は北上して徐州にて諸侯を會盟し、竝びに周天子に進貢して、春秋末年の最後の霸主と為った。功臣の太宰范蠡は封祿を辭して、五湖に舟を泛んで隱れ去り、もう一人の功臣の大夫文種は卻って句踐に賜死された。越國はここに於て呉の地を盡く有した。己巳(紀元前四七二年)・庚午(紀元前四七一年)の兩年は記すべき事なし。辛未年(紀元前四七〇年)、周元王は去世し、太子の介が位を繼いだ。すなわち周貞定王である。壬申(紀元前四六九年)は事なし。癸酉年(紀元前四六八年)、魯國の執政季康子は去世し、季孫・叔孫・孟孫の三家(史に「三桓」と稱す)は亂を作して魯哀公を弑殺し、改めてその子の寧を立てた。すなわち魯悼公である。甲戌(紀元前四六七年)から丙子(紀元前四六五年)は事なし。丁丑年(紀元前四六四年)、晉國は鄭を伐った。戊寅(紀元前四六三年)・己卯(紀元前四六二年)は事なし。庚辰年(紀元前四六一年)、秦國は西戎の大荔部を討伐した。辛巳(紀元前四六〇年)・壬午(紀元前四五九年)は事なし。
癸未 晉趙簡子鞅卒,子毋恤繼,是謂襄子,同知伯、韓康子、魏桓子滅範、中行氏,四分其地,及逐其君,立公孫驕,是謂哀公。秦取晉武城。 甲申 晉伐秦,復武城。 乙酉 齊平公卒,子積繼,是謂靈公。晉知伯及韓魏二家兵攻趙襄子於晉陽。 丙戌 晉三家兵圍晉陽。 丁亥 晉韓康子、魏桓子復合趙襄之兵攻知伯,滅之於晉陽,三分其地。齊田盤卒,子白繼事,是謂莊子。 戊子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳
癸未年(紀元前四五八年)、晉國の正卿趙簡子(趙鞅)は去世し、その子の毋恤が位を繼いだ。すなわち趙襄子で、彼は智伯・韓康子・魏桓子の四家と力を合わせて范氏と中行氏を消滅し、その領地を瓜分し、また晉出公を驅逐して、改めて公孫驕を立てて君と為した。すなわち晉哀公である。秦國は晉國の武城を奪取した。甲申年(紀元前四五七年)、晉國は秦を伐って武城を收復した。乙酉年(紀元前四五六年)、齊平公は去世し、その子の積が位を繼いだ。すなわち齊靈公である。晉國の執政智伯は韓・魏の兩家と聯合して兵を出して、晉陽(今の山西太原)にて趙襄子を圍攻した。丙戌年(紀元前四五五年)、三家の兵は引き續き晉陽を圍困し、智伯は水を引いて城を灌した。丁亥年(紀元前四五四年)、韓康子・魏桓子は陣に臨んで戈を倒して、反って趙襄子と兵を合わせて夾撃して、晉陽にて智氏を消滅し、三家は智氏の領地を瓜分した。これすなわち史に稱する所の「三家分晉」の轉折で、戰國の格局はここに由って奠定された。齊國の田盤は去世し、その子の田白は國政を接掌した。すなわち田莊子である。戊子(紀元前四五三年)から癸巳(紀元前四四八年)の六年は記すべき事なし。
經世之亥二千二百二十
甲午 周貞定王二十三年,楚滅蔡。 乙未 秦厲公卒,子躁公繼。 丙申 秦伐義渠,獲其王以歸。楚滅杞,東開地至泗上。 丁酉 戊戌 己亥 周貞定王崩,太子去疾嗣位,是謂哀王。王叔襲殺哀王,代立,是謂思王。 庚子 周亂,少弟嵬殺其王叔,代立,是謂考王。 辛丑 晉哀公疾,子柳繼,是謂幽公。公室止有絳及曲沃。
甲午年は周貞定王二十三年、すなわち紀元前四四七年で、本「世」はここより起算す。楚國は蔡國を滅した。乙未年(紀元前四四六年)、秦厲公は去世し、その子の躁公が位を繼いだ。丙申年(紀元前四四五年)、秦國は西北の義渠戎を討伐して、義渠王を俘獲して凱旋し、楚國は杞國を滅して、東に疆土を開拓して泗水の一帶に至った。丁酉(紀元前四四四年)・戊戌(紀元前四四三年)は事なし。己亥年(紀元前四四二年)、周貞定王は去世し、太子の去疾が位を繼いだ。すなわち周哀王で、哀王の弟の名は叔なる者は哀王を襲殺して、之に取代わった。すなわち周思王である。庚子年(紀元前四四一年)、周室は再び亂れ、もっとも小の弟の嵬はまた思王を殺して自ら立ち、すなわち周考王である。一年の內に王位は三たびその主を易えた。辛丑年(紀元前四四〇年)、晉哀公は病重く、その子の柳が位を繼いだ。すなわち晉幽公で、この時晉國公室の直屬の領地は絳と曲沃の兩處を餘るのみで、その餘は盡く韓・趙・魏の三家に歸した。
壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉 秦躁公卒,弟懷王立。楚惠王卒,子中繼,是謂簡王。 庚戌 魯悼公卒,子元公繼。楚滅莒。 辛亥 壬子 癸丑 秦庶長黽弒其君懷公,立躁公孫,是謂靈公。 甲寅 乙卯 周考王崩,太子午嗣位,是謂威烈王。河南惠公封其少子於鞏,稱東周君。
壬寅(紀元前四三九年)から戊申(紀元前四三三年)の七年は記すべき事なし。己酉年(紀元前四三二年)、秦躁公は去世し、その弟の懷公が位を繼いだ。楚惠王は去世し、その子の中が位を繼いだ。すなわち楚簡王である。庚戌年(紀元前四三一年)、魯悼公は去世し、その子の元公が位を繼いだ。楚國は莒國を滅した。辛亥(紀元前四三〇年)・壬子(紀元前四二九年)は事なし。癸丑年(紀元前四二八年)、秦國の庶長(爵名、兵を掌るの重臣)嬴黽は秦懷公を弑殺して、改めて躁公の孫を立てて君と為した。すなわち秦靈公である。甲寅(紀元前四二七年)は事なし。乙卯年(紀元前四二六年)、周考王は去世し、太子の午が位を繼いだ。すなわち周威烈王である。河南の王城に居する周室の宗親惠公は幼子を鞏邑に封じて、號して東周君と稱し、周天子の僅かに存する畿內の地はここからまた東・西の兩小國に分かれた。
丙辰 晉趙襄子卒,兄之子浣繼事,是謂獻子,治中牟。魏桓子卒,子斯繼事,是謂文侯。 丁巳 趙桓子卒,國人殺其子,而迎獻子復位。 戊午 秦攻魏少梁。 己未 秦作上下畤。 庚申 辛酉 魏文侯殺晉幽公,立其弟止,是謂烈公。 壬戌 癸亥
丙辰年(紀元前四二五年)、趙襄子は去世し、その兄の子の趙浣に由って家政を接掌せられた。すなわち趙獻子で、治所は中牟に設けた。魏桓子は去世し、その子の魏斯が繼立した。すなわち後日法を變えて強を圖る魏文侯である。丁巳年(紀元前四二四年)、中途に位を奪いし趙桓子は去世し、趙人は桓子の子を殺して、重ねて趙獻子を迎還して位に復らせた。戊午年(紀元前四二三年)、秦國は魏國の少梁(今の陝西韓城)を進攻した。己未年(紀元前四二二年)、秦國は上畤・下畤の兩處の祭壇を營建して天帝を祭祀した。庚申(紀元前四二一年)は事なし。辛酉年(紀元前四二〇年)、魏文侯は晉幽公を殺して、別に幽公の弟の止を立てて君と為した。すなわち晉烈公で、晉國の國君の廢立はここに至って全て三家の操縱に由る。壬戌(紀元前四一九年)・癸亥(紀元前四一八年)は事なし。
皇極經世書卷六上
觀物篇三十一 以運經世七
經元之甲一 經會之午七
經運之己一百八十六
經世之子二千二百二十一
甲子 周威烈王九年,魏城少梁。 乙丑 秦靈公卒,季父立,是謂簡公。 丙寅 丁卯 魏伐秦,韓伐鄭。 戊辰 齊伐晉,魏伐中山。 己巳 庚午 齊田莊子卒,子太公和繼。趙城平城。 辛未 魯元公卒,子顯繼,是謂穆公。 壬申 晉韓武子卒,子景侯虔繼。趙獻子卒,子烈侯籍繼。魏伐秦。
甲子年は周威烈王九年、すなわち紀元前四一七年で、本「世」はここより起算す。魏國は少梁に城を筑いて防を設けた。乙丑年(紀元前四一六年)、秦靈公は去世し、その叔父に由って位を繼がれた。すなわち秦簡公である。丙寅(紀元前四一五年)は事なし。丁卯年(紀元前四一四年)、魏國は秦を伐ち、韓國は鄭を伐った。戊辰年(紀元前四一三年)、齊國は晉を伐ち、魏國は中山國を討伐した。己巳(紀元前四一二年)は事なし。庚午年(紀元前四一一年)、齊國の田莊子は去世し、その子の田和は國政を接掌した。すなわち後日齊に代わって自ら立つ齊太公である。趙國は平城に城を筑いた。辛未年(紀元前四一〇年)、魯元公は去世し、その子の顯が位を繼いだ。すなわち魯穆公である。壬申年(紀元前四〇九年)、韓武子は去世し、その子の韓虔が繼立した。すなわち韓景侯である。趙獻子は去世し、その子の趙籍が繼立した。すなわち趙烈侯である。魏國は再度秦を伐って、進んで河西の地を取った。
癸酉 韓伐鄭,取雍邱。魏滅中山。楚簡王卒,子當繼,是謂聲王。 甲戌 鄭伐韓,取負黍。 乙亥 宋昭公卒,子悼公購繼。趙以田公仲為相。 丙子 齊宣公卒,子康公貸繼。田惠以廩邱叛。 丁丑 戊寅 晉韓、趙、魏求為諸侯於周。 己卯 周威烈王崩,太子驕嗣位,是謂安王。楚聲王遇盜卒,子疑立,是謂悼王。 庚辰 秦攻魏陽狐。
癸酉年(紀元前四〇八年)、韓國は鄭を伐って雍丘を奪取し、魏國は樂羊を派して中山國を滅せしめ、楚簡王は去世し、その子の當が位を繼いだ。すなわち楚聲王である。甲戌年(紀元前四〇七年)、鄭國は韓國を反攻して負黍を奪取した。乙亥年(紀元前四〇六年)、宋昭公は去世し、その子の購が位を繼いだ。すなわち宋悼公である。趙國は田公仲を任用して相と為した。丙子年(紀元前四〇五年)、齊宣公は去世し、その子の貸が位を繼いだ。すなわち齊康公である。齊國の大夫田惠は廩丘に據って齊に叛いて趙に歸した。丁丑(紀元前四〇四年)は事なし。戊寅年(紀元前四〇三年)、晉國の韓・趙・魏の三家は周天子に請うて正式に諸侯に列せられんことを求め、周威烈王は之をもって冊命した。史家は多くこの年をもって戰國の始と為す。己卯年(紀元前四〇二年)、周威烈王は去世し、太子の驕が位を繼いだ。すなわち周安王である。楚聲王は盜賊に殺され、その子の疑が位を繼いだ。すなわち楚悼王である。庚辰年(紀元前四〇一年)、秦國は魏國の陽狐を進攻した。
辛巳 秦簡公卒,子惠公繼。韓景侯卒,子烈侯繼。趙烈侯卒,弟武侯立。魏文侯以卜子夏、段乾木為師。西門豹為將,守鄴。吳起為將,守西河。田成子為相,樂羊為將,同韓、趙伐楚,至於乘丘。 壬午 癸未 甲申 韓盜殺相俠累。 乙酉 丙戌 晉烈公卒,子孝公繼。 丁亥 戊子 魏伐鄭,取酸棗,又敗秦軍於注。楚伐韓,取負黍。 己丑
辛巳年(紀元前四〇〇年)、秦簡公は去世し、その子の惠公が位を繼いだ。韓景侯は去世し、その子の烈侯が位を繼いだ。趙烈侯は去世し、その弟の武侯が繼立した。魏文侯は孔子の弟子の卜子夏と隱士の段干木とを尊んで師と為し、西門豹を用いて將と為して鄴城を鎮守せしめ、吳起を用いて將と為して西河を鎮守して以って強秦を禦がしめ、田成子を用いて相と為し、樂羊を將と為して、韓・趙と聯合して楚を伐って兵鋒は直に乘丘に抵った。魏國は因って戰國初年のもっとも強き國と為った。壬午(紀元前三九九年)・癸未(紀元前三九八年)は事なし。甲申年(紀元前三九七年)、韓國の相の俠累は刺客に朝堂にて刺殺され、刺を行いたる者はすなわち聶政である。乙酉(紀元前三九六年)は事なし。丙戌年(紀元前三九五年)、晉烈公は去世し、その子の孝公が位を繼いだ。丁亥(紀元前三九四年)は事なし。戊子年(紀元前三九三年)、魏國は鄭を伐って酸棗を奪取し、また注の地にて秦軍を撃敗した。楚國は韓を伐って負黍を奪回した。己丑(紀元前三九二年)は事なし。
庚寅 齊田和徙其君康公於海上,食一城。秦伐韓宜陽,拔六城。韓、趙大敗楚師於大梁。 辛卯 魯敗齊於平陸。齊伐魏,取襄陵。 壬辰 秦伐魏,侵晉。 癸巳 齊田和會魏文侯於濁澤,求為諸侯。魏請於周及諸侯,皆許之。
庚寅年(紀元前三九一年)、齊國の執政田和は國君の齊康公を海濱に遷し、ただ一座の城を留めて彼に租を收めて自養せしめた。田氏が齊に代わるはただ一つの名分を差すのみ。秦國は韓國の宜陽を進攻して六城を攻下した。韓・趙の聯軍は大梁にて楚軍を大敗した。辛卯年(紀元前三九〇年)、魯國は平陸にて齊軍を撃敗し、齊國は轉じて魏を伐って襄陵を奪取した。壬辰年(紀元前三八九年)、秦國は魏を伐って兵は晉地に入った。癸巳年(紀元前三八八年)、田和は濁澤にて魏文侯に會見して、齊に代わって諸侯たらんを請い、魏侯は彼に代わって周天子と各國とに陳請して、皆許可を獲得した。姜姓の齊國はここに至って名實ともに盡きた。
經世之丑二千二百二十二
甲午 周安王十五年,秦惠公卒,出子悼公繼。韓烈侯卒,子文侯繼。魏文侯卒,子武侯繼。趙武侯卒,烈侯子敬侯繼。 乙未 田和稱諸侯於齊,列於周紀。魏攻趙邯鄲。 丙申 韓伐鄭,取陽城。伐宋,執宋公於彭城。魏城安邑及王垣。趙師破齊於靈丘。齊太公和卒,子桓公午繼。秦庶長改殺出子及其母,迎靈公之子於河西,立之,是謂獻公。
甲午年は周安王十五年、すなわち紀元前三八七年で、本「世」はここより起算す。秦惠公は去世し、年幼の出子が位を繼いだ。韓烈侯は去世し、その子の文侯が位を繼いだ。魏文侯は去世し、その子の武侯が位を繼いだ。趙武侯は去世し、烈侯の子の敬侯に由って位を繼がれた。四強の君は同時に換代した。乙未年(紀元前三八六年)、田和は正式に齊國にて諸侯と稱して、周室の諸侯の譜籍に列入り、姜齊は田齊に變わった。魏國は趙國の都城の邯鄲を進攻した。丙申年(紀元前三八五年)、韓國は鄭を伐って陽城を奪取し、また宋を伐って彭城にて宋君を俘獲した。魏國は安邑と王垣とに城を筑いた。趙軍は靈丘にて齊軍を撃敗した。齊太公の田和は去世し、その子の午が位を繼いだ。すなわち齊桓公田午である。秦國の庶長嬴改は出子およびその母を殺して、河西より秦靈公の子を迎還して即位せしめた。すなわち秦獻公で、秦國の數十年の君位の動蕩はここに至って終結し、此後ややに孝公が商鞅を用いて法を變ずるの局面あらんとす。
丁酉 趙破齊師於廩丘。 戊戌 魏敗趙師於兔臺。 己亥 齊、魏以衛伐趙,取剛平。 庚子 趙會楚伐魏,取棘蒲。楚悼王卒,誅殺相吳起,王子繼,是謂肅王,誅害吳起者七十餘家。 辛丑 齊伐燕,取桑丘。 壬寅 齊康公死於海上,齊桓侯卒,子因齊立,是謂威王。
丁酉年(紀元前三八四年)、趙軍は廩丘にて齊師を撃破した。戊戌年(紀元前三八三年)、魏軍は兔台にて趙師を撃敗した。己亥年(紀元前三八二年)、齊・魏の兩國は衞國の名義を借りて趙を伐って剛平を奪取した。庚子年(紀元前三八一年)、趙國は楚國と聯合して魏を伐って棘蒲を奪取した。楚悼王は去世し、變法を主持する令尹吳起は悼王の靈の前に於て舊貴族の亂箭に射殺され、太子が位を繼いだ。すなわち楚肅王で、事後に矢を射る時に誤って王尸に中った罪を追究して、七十餘家を誅滅した。新法は廢されたれども、楚國の舊貴族もまた大いに元に元氣を傷えた。辛丑年(紀元前三八〇年)、齊國は燕を伐って桑丘を奪取した。壬寅年(紀元前三七九年)、海濱に安置された齊康公は去世し、姜姓吕氏の宗祀は就中ここに斷絶した。齊桓公田午もまた去世し、その子の因齊が位を繼いだ。すなわち齊威王である。
癸卯 晉孝公卒,子靜公俱酒繼。韓、趙、魏伐齊,至於靈丘。 甲辰 韓文侯卒,子哀侯繼。趙攻中山,戰於房子。魯穆公卒,子共公繼。 乙巳 周安王崩,太子喜嗣位,是謂烈王。魏武侯、韓哀侯、趙敬侯同滅晉,而三分其地。以靜公為家人,食端氏一城。 丙午 韓滅鄭,徙都之。趙敬侯卒,子成侯繼。宋休公卒,子闢公繼。 丁未
癸卯年(紀元前三七八年)、晉孝公は去世し、その子の俱酒が位を繼いだ。すなわち晉靜公である。韓・趙・魏の三國は齊を伐って兵は靈丘に至った。甲辰年(紀元前三七七年)、韓文侯は去世し、その子の哀侯が位を繼いだ。趙國は中山國を進攻して房子に戰った。魯穆公は去世し、その子の共公が位を繼いだ。乙巳年(紀元前三七六年)、周安王は去世し、太子の喜が位を繼いだ。すなわち周烈王である。魏武侯・韓哀侯・趙敬侯は共同して晉國を滅して、その地を三に分ち、晉靜公を平民に貶して、ただ端氏の一城を留めてその食用に供せしめた。國を傳うこと六百餘年の晉國はここに至って正式に亡國した。丙午年(紀元前三七五年)、韓國は鄭國を滅して、竝びに國都を新鄭に遷往した。趙敬侯は去世し、その子の成侯が位を繼いだ。宋休公は去世し、その子の辟公が位を繼いだ。丁未(紀元前三七四年)は事なし。
戊申 魯伐齊,入陽關。趙伐齊,至博陵。 己酉 衛拔齊薛陵,攻趙北藺。趙拔衛卿邑七十三。宋闢公卒,子剔成繼。 庚戌 韓嚴弒其君哀侯,立其子懿侯。魏武侯卒,公子爭國。趙伐魏,立公子罃,是謂惠王。趙敗秦軍於鄗安。
戊申年(紀元前三七三年)、魯國は齊を伐って陽關に攻入り、趙國は齊を伐って進兵して博陵に至った。己酉年(紀元前三七二年)、衞國は齊國の薛陵を攻下し、また趙國北面の藺邑を攻めた。趙國は反擊して衞國の鄉邑七十三處を攻取した。宋辟公は去世し、その子の剔成が位を繼いだ。庚戌年(紀元前三七一年)、韓國の大夫韓嚴は韓哀侯を弑殺して、哀侯の子を立てて君と為した。すなわち韓懿侯である。魏武侯は去世し、生前に太子を立てず、諸公子は位を爭い、趙國は兵を出して干預して公子罃を扶立した。すなわち魏惠王である。趙國はまた鄗安にて秦軍を撃敗した。
辛亥 趙伐齊,至鄄。魏敗趙師於覃懷。齊威王烹阿夫夫,封即墨大夫萬家。楚肅王卒,弟良夫繼,是謂宣王。 壬子 周烈王崩,弟扁嗣位,是謂顯王。齊西敗趙、魏之師於濁澤,趙輸長城,魏入觀齊。魏敗韓於馬陵。 癸丑 韓、魏攻周。 甲寅 趙、韓分周為二。
辛亥年(紀元前三七〇年)、趙國は齊を伐って兵は鄄邑に至り、魏國は覃懷にて趙師を撃敗した。齊威王は名聲好くして政績壞しき阿邑大夫を烹殺し、名聲壞しきに政績好しき即墨大夫に萬家の邑を重賞し、齊國の吏治は之が為に一振した。楚肅王は去世し、その弟の良夫が位を繼いだ。すなわち楚宣王である。壬子年(紀元前三六九年)、周烈王は去世し、その弟の扁が位を繼いだ。すなわち周顯王である。齊國は西境の濁澤にて趙・魏の聯軍を撃敗し、趙國は長城の一線を割出し、魏國は觀城を交出して齊に與えた。魏國はまた馬陵にて韓軍を撃敗した。癸丑年(紀元前三六八年)、韓・魏の兩國は周王室を進攻した。甲寅年(紀元前三六七年)、趙・韓の兩國は周王畿を一に分かち二と為し、天子はここから完全に諸侯に受制した。
乙卯 魏會趙攻秦,不利於洛陽。 丙辰 齊攻秦,不利於石門。魏伐宋,取儀臺。 丁巳 周顯王西賀秦獻公,魏與秦會於杜平。 戊午 己未 秦獻公卒,子孝公繼,敗魏師於少梁。魏敗韓師於澮。 庚申 魏拔趙皮牢。 辛酉 致文武胙於秦孝公。東周君惠公卒,子傑繼。韓、趙、魏伐齊。 壬戌 秦用衛鞅。韓懿侯卒,子昭侯繼。 癸亥
乙卯年(紀元前三六六年)、魏國は趙國と聯合して秦を攻めて洛陽の一帶に失利した。丙辰年(紀元前三六五年)、齊國は秦を攻めて石門に失利し、魏國は宋を伐って儀台を奪取した。丁巳年(紀元前三六四年)、秦軍は石門にて三晉を大破し、周顯王は使を遣わして西行して秦獻公に致賀せしめ、魏國は秦國と杜平に會盟した。戊午(紀元前三六三年)は事なし。己未年(紀元前三六二年)、秦獻公は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち秦孝公で、即位の初に於て便ち少梁にて魏軍を撃敗した。魏國もまた澮水にて韓軍を撃敗した。庚申年(紀元前三六一年)、魏國は趙國の皮牢を攻下した。辛酉年(紀元前三六〇年)、周天子は文王・武王を祭祀する胙肉を秦孝公に賜いて、以って尊禮を示した。東周君の惠公は去世し、その子の傑が位を繼いだ。韓・趙・魏の三國は齊を伐った。壬戌年(紀元前三五九年)、秦國は衞鞅を起用した。すなわち後來の商鞅で、變法を開始した。韓懿侯は去世し、その子の昭侯が位を繼いだ。癸亥(紀元前三五八年)は事なし。
經世之寅二千二百二十三
甲子 周顯王十二年,宋取韓黃池。齊封鄒忌為成侯。 乙丑 趙會燕於河上,會齊於平陸。魯、衛、宋、鄭朝魏。 丙寅 魯共公卒,子康公繼。齊會趙於郊,會魏於平陸,會秦於杜平。 丁卯 秦攻魏師於元裡,取少梁。魏圍趙邯鄲。
甲子年は周顯王十二年、すなわち紀元前三五七年で、本「世」はここより起算す。宋國は韓國の黄池を奪取した。齊威王は政を輔して功ある鄒忌を封じて成侯と為した。乙丑年(紀元前三五六年)、趙國は黄河の邊にて燕君に會見し、また平陸にて齊君に會見した。魯・衞・宋・鄭の四國の君は一同して魏惠王に朝見し、魏國の聲勢は正に盛んである。丙寅年(紀元前三五五年)、魯共公は去世し、その子の康公が位を繼いだ。齊國は分かち郊・平陸・杜平にて趙・魏・秦の三國の君に會見した。丁卯年(紀元前三五四年)、秦國は元里にて魏軍を襲擊して少梁を奪取し、魏國は兵を出して趙國の都城の邯鄲を包圍した。
戊辰 韓攻東周君,取陵觀及邢邱。齊田忌、孫臏救趙,敗魏於桂陵。是年,齊始稱王。 己巳 秦大良造衛鞅會韓、趙之師,圍魏襄陵。 庚午 韓用申不害為相。秦、趙伐魏,魏歸趙邯鄲,盟於漳水之上。 辛未 趙成侯卒,世子繼,是謂肅侯。秦開阡陌,大築冀闕於咸陽,自雍徙都之。
戊辰年(紀元前三五三年)、韓國は東周君を進攻して陵觀と邢丘を奪取した。齊國は田忌を將と為し、孫臏を軍師と為して趙を救い、「魏を圍みて趙を救う」の計を用いて桂陵にて魏軍を大敗した。この年齊君は始めて王と稱した。己巳年(紀元前三五二年)、秦國の大良造衞鞅は韓・趙の師を會合して、魏國の襄陵を圍攻した。庚午年(紀元前三五一年)、韓昭侯は申不害を任用して相と為して、專ら「術」をもって下を御した。秦・趙は魏を伐ち、魏國は迫られて趙都の邯鄲を歸還し、兩國は漳水の上に結盟した。辛未年(紀元前三五〇年)、趙成侯は去世し、世子が位を繼いだ。すなわち趙肅侯である。秦國は第二次の變法を推行して、井田を廢し阡陌を開き、咸陽に大いに宮闕門觀を建てて、國都を雍城より咸陽に遷した。
壬申 癸酉 趙奪晉君端氏,徙之屯留。秦初為賦。 甲戌 乙亥 魯康公卒,子景公繼。 丙子 丁丑 戊寅 周顯王錫秦孝公命為伯。齊威王卒,子宣王闢疆繼。 己卯 諸侯西賀秦。 庚辰 齊人救韓,田忌、田嬰、孫臏大敗魏師於馬陵,獲將龐涓及世子申。
壬申(紀元前三四九年)は事なし。癸酉年(紀元前三四八年)、趙國は晉國の末代の君の端氏の封邑を奪去して、彼を屯留に遷した。秦國は始めて户口に按って賦稅を徵收した。甲戌(紀元前三四七年)は事なし。乙亥年(紀元前三四六年)、魯康公は去世し、その子の景公が位を繼いだ。丙子(紀元前三四五年)・丁丑(紀元前三四四年)は事なし。戊寅年(紀元前三四三年)、周顯王は正式に秦孝公を冊命して諸侯の伯と為した。すなわちその霸主の地位を承認したことである。齊威王は去世し、その子の辟疆が位を繼いだ。すなわち齊宣王である。己卯年(紀元前三四二年)、諸侯は西行して秦國に致賀した。庚辰年(紀元前三四一年)、齊國は兵を出して韓を救い、田忌・田嬰を將と為し、孫臏を軍師と為して、竈を減じて敵を誘うの計を用いて馬陵にて魏軍を大敗し、魏將の龐涓を逼死せしめ、魏太子申を俘獲した。魏國の霸業はここから崩壞した。
辛巳 楚宣王卒,子威王繼。秦奪魏河西七百里。魏去安邑,徙都大梁。 壬午 癸未 秦孝公卒,子惠文君繼,是謂惠文王。商鞅奔魏,魏不受,入於秦。 甲申 秦惠文君夷商鞅族。蘇秦入秦,秦不受。 乙酉 周顯王西賀秦,孟軻為魏卿。
辛巳年(紀元前三四〇年)、楚宣王は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち楚威王である。秦國は魏國の河西の地七百里を奪取し、魏國は迫られて舊都の安邑を放棄して、東に大梁に遷した。すなわち今の河南開封である。壬午(紀元前三三九年)は事なし。癸未年(紀元前三三八年)、秦孝公は去世し、その子が位を繼ぎ、惠文君と稱し、後に惠文王と稱す。靠山を失した商鞅は魏國に出奔したが、魏人は收留を肯んぜず、止むを得ず秦境に返回した。甲申年(紀元前三三七年)、秦惠文君は商鞅を車裂して竝びにその族を誅滅した。蘇秦は西して秦國に入りて連横を游説したが、採納されず。乙酉年(紀元前三三六年)、周顯王は西行して秦に致賀し、孟軻は出でて魏國の卿と為りて、梁惠王の為に仁義の道を陳説した。
丙戌 秦拔韓宜陽。魏惠王卒,子襄王繼。齊宣王會魏襄王於鄄。 丁亥 蘇秦會趙、燕、韓、魏、齊、楚六國之師,盟於洹水之上,以攻秦。至於函谷。韓作高門。是年,楚滅越,獲王無疆,盡取其地,東開地至浙江。魏始稱王,田嬰為相。
丙戌年(紀元前三三五年)、秦國は韓國の宜陽を攻下し、魏惠王は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち魏襄王である。齊宣王は魏襄王と鄄の地に會盟した。丁亥年(紀元前三三四年)、蘇秦の合縱の説は行を得て、趙・燕・韓・魏・齊・楚の六國の兵を會合して、洹水の上に於て血を舐して盟と為して共に秦を攻め、聯軍は函谷關に推進した。韓國は大いに土木を興して高門を營造した。この年楚國は越國を滅して、越王無疆を俘獲し、越の地を盡く取って、東に開拓して浙江の一帶に至った。魏國は正式に王と稱し、齊國は田嬰をもって相と為した。
戊子 燕文公卒,子易王立。韓昭侯卒,子惠王立。楚敗齊師于徐州。齊田嬰詐楚,故不利。 己丑 齊會魏伐趙,又伐燕,取十城。 庚寅 秦伐魏。 辛卯 宋亂,公弟偃弒其君,代立,是謂元王。 壬辰 楚威王卒,子懷王槐繼。魏伐楚,取陘山。秦伐魏,取汾陰。 癸巳 秦用張儀為相。陳軫適楚。楚滅蜀,魏輸秦上郡。
戊子年(紀元前三三三年)、燕文公は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち燕易王である。韓昭侯は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち韓惠王である。楚國は徐州にて齊軍を撃敗した。起因は齊相の田嬰が楚に詐を使いしに因って敗績を招致した。己丑年(紀元前三三二年)、齊國は魏國と聯合して趙を伐ち、また燕を伐って十城を奪取した。庚寅年(紀元前三三一年)、秦國は魏を伐った。辛卯年(紀元前三三〇年)、宋國は內亂し、國君の弟の偃は君を弑して自ら立ち、すなわち宋元王で、後世はまた宋康王と稱す。壬辰年(紀元前三二九年)、楚威王は去世し、その子の熊槐が位を繼いだ。すなわち楚懷王である。魏國は楚を伐って陘山を奪取し、秦國は魏を伐って汾陰を奪取した。癸巳年(紀元前三二八年)、秦國は張儀を任用して相と為して、連横の策はここから推行された。策士の陳軫は轉じて楚國に投じ、楚國は蜀を滅し、魏國は迫られて上郡を秦國に獻た。
經世之卯二千二百二十四
甲午 周顯王四十二年,齊會魏攻韓之桑邱。 乙未 趙肅侯卒,子定繼,是謂武靈王。齊用孟軻為上卿。 丙申 孟軻去齊。 丁酉 秦始稱王。齊宣王卒,子湣王地繼。秦築上郡塞。 戊戌 韓、燕稱王。楚破魏襄陵,入城,移兵攻齊。秦張儀會齊、楚執政於桑。
甲午年は周顯王四十二年、すなわち紀元前三二七年で、本「世」はここより起算す。齊國は魏國と聯合して韓國の桑丘を進攻した。乙未年(紀元前三二六年)、趙肅侯は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち後來胡服騎射を推行した趙武靈王である。齊國は孟軻を聘して上卿と為した。丙申年(紀元前三二五年)、孟軻は主張の用いられざるに因って齊國を離れた。丁酉年(紀元前三二四年)、秦國は始めて王と稱し、齊宣王は去世し、その子の地が位を繼いだ。すなわち齊湣王である。秦國は上郡に邊塞を修筑した。戊戌年(紀元前三二三年)、韓・燕の兩國もまた相継いで王と稱し、楚國は魏國の襄陵を攻破して、入りてその城に據り、隨即兵を移して齊を攻めた。秦相の張儀は齧桑にて齊・楚の兩國の執政と會盟した。
己亥 秦張儀出相魏、燕,會韓、魏二君於區鼠。 庚子 周顯王崩,子定嗣位,是謂慎靚王。是年,趙始稱王。齊封田嬰於薛,盜殺蘇秦於齊。蘇代復相燕。燕王卒,子噲繼,子之專國。蘇代使齊。 辛丑 宋伐楚,取地三百里,始稱王。秦、齊交婚。 壬寅 魏襄王卒,子哀王繼。張儀復相秦。
己亥年(紀元前三二二年)、張儀は秦を離れて、先後して魏・燕の相に出任して、秦國の替わりに連横を推行し、また區鼠にて韓・魏の兩國の君に會見した。庚子年(紀元前三二一年)、周顯王は去世し、その子の定が位を繼いだ。すなわち周慎靓王である。この年趙國もまた始めて王と稱した。齊國は薛の地を田嬰に封じた。すなわち孟嘗君の父である。蘇秦は齊國にて刺客に殺され、その弟の蘇代は再度燕の相に出任した。燕王は去世し、その子の噲が位を繼ぎ、權臣の子之は國政を把持した。蘇代は齊國に出使した。辛丑年(紀元前三二〇年)、宋國は楚を伐って地三百里を奪り、また始めて王と稱した。秦・齊の兩國は婚姻の國と結んだ。壬寅年(紀元前三一九年)、魏襄王は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち魏哀王である。張儀は秦國に重回って相と為った。
癸卯 楚會齊、趙、韓、魏、燕攻秦,不利。齊獨後。秦樗裡疾大敗六國之師,獲將申差及韓、魏二公子。 甲辰 齊敗魏師於觀津,與秦爭雌雄。魯景公卒,子平公繼。秦敗韓師於濁澤,韓請割名都一以助伐楚,既而背之。秦又伐韓,敗韓師於岸門。楚救不至。燕王噲以國屬子之。 乙巳 齊伐燕,秦伐趙,拔中都及西陽。
癸卯年(紀元前三一八年)、楚國は齊・趙・韓・魏・燕と聯合して合縱して秦を攻めたが、師を出して利あらず、その中で齊國の出兵はもっとも遲し。秦將の樗里疾は六國の聯軍を大破し、韓將の申差と韓・魏の兩國の公子を俘獲した。甲辰年(紀元前三一七年)、齊國は觀津にて魏軍を撃敗して、秦國と天下の雌雄を爭い、魯景公は去世し、その子の平公が位を繼いだ。秦國は濁澤にて韓軍を撃敗し、韓國は一座の名城を割讓して竝びに秦を助けて楚を伐つを請うて以って和を求め、事後また約を背いた。秦國は再度韓を伐って岸門にて韓軍を撃敗し、楚國の救兵は終始至らず。燕王噲は堯舜の禪讓に傚って、國政を子之に讓り、燕國の大亂の禍根はここに由って埋下された。乙巳年(紀元前三一六年)、齊國は燕亂に乘じて燕を伐ち、秦國は趙を伐って中都と西陽を攻下した。
丙午 周慎靚王崩,子延繼,是謂赧王,稱西周君。秦拔義渠二十五城,又取韓之石章。 丁未 楚齊和親。燕亂,將市被攻子之不克,返攻世子,又不克,死。 戊申 楚攻秦,不利。秦伐齊,楚救不至。秦張儀結楚,樗裡疾攻趙。己酉 楚懷王大伐秦,不利;又伐,又不利。秦庶長魏章會齊、韓之師,大敗楚師於藍田,又敗之於丹水之陽,獲其將屈丐,遂取漢中地,置黔中郡。韓宣王卒,世子蒼繼,是謂襄王。齊以五都兵攻燕,燕亂,國人立太子平,是謂昭王。
丙午年(紀元前三一五年)、周慎靓王は去世し、その子の延が位を繼いだ。すなわち周赧王で、王城に居るに因ってまた西周君と稱す。秦國は義渠の二十五城を攻下し、また韓國の石章を奪取した。丁未年(紀元前三一四年)、楚・齊の兩國は和親と結んだ。燕國は內亂し、將軍の市被は兵を起こして子之を攻めて勝を得る能わず、頭を回してまた太子を攻めて、また勝能わず、戰死した。戊申年(紀元前三一三年)、楚國は秦を攻めて失利し、秦國は齊を伐ち、楚國の許諾した救兵は至らず。秦相の張儀は商於六百里の地をもって餌と為して楚を誘いて齊と絕交せしめ、樗里疾は則ち兵を出して趙を攻めた。己酉年(紀元前三一二年)、楚懷王は騙されたを發覺して、大いに擧げて秦を伐って失利し、再度兵を出して、また失利した。秦庶長の魏章は齊・韓の師に會同して藍田にて楚軍を大敗し、また丹水の北にて再び楚軍を敗って、楚將の屈丐を俘獲し、ここに於て漢中の地を取得して黔中郡を設置した。韓宣王は去世し、世子の蒼が位を繼いだ。すなわち韓襄王である。齊國は五都の兵を動用して燕を攻め、燕國は大いに亂れ、國人は太子平を擁立して君と為した。すなわち後日賢を招いて強を圖る燕昭王である。
庚戌 楚屈原使齊,秦張儀使楚,會楚、齊、韓、趙、魏、燕六國西事秦,至咸陽,而秦惠王卒,子武王繼。燕起金臺,以禮郭槐。樂毅自魏至,鄒衍自齊至,劇辛自趙至。 辛亥 秦會魏於臨晉。張儀、魏章適魏,樗裡疾、甘茂為相。 壬子 楚合齊以善韓。 癸丑 秦武王會魏哀王於應,會韓襄王於臨晉。
庚戌年(紀元前三一一年)、楚國は屈原を派して齊國に出使して修好せしめ、秦國は張儀を派して楚國に出使して游説せしめた。張儀は楚・齊・韓・趙・魏・燕の六國をして西向して秦に事えしむるを促成し、使者は剛く咸陽に至るや、秦惠王は便ち去世し、その子が位を繼いだ。すなわち秦武王である。燕昭王は黄金台を筑いて、厚禮をもって賢士の郭隗(原文は「郭槐」と作る)を延請し、ここに於て樂毅は魏國より來り、鄒衍は齊國より來り、劇辛は趙國より來り、燕國の人才は驟かに盛んなり。辛亥年(紀元前三一〇年)、秦國は魏國と臨晉に會盟し、張儀・魏章は勢を失って魏國に出走し、樗里疾と甘茂とが秦の相に出任した。壬子年(紀元前三〇九年)、楚國は齊國と聯合して以って韓國を親善せしめた。癸丑年(紀元前三〇八年)、秦武王は應の地にて魏哀王に會見し、また臨晉にて韓襄王に會見した。
甲寅 東西二周君相攻。楚圍韓之雍邱。秦甘茂拔韓之宜陽。武王舉周鼎,絕臏而死。國人迎母弟稷於趙而立之,是謂昭襄王,太后臨朝稱制,魏冉專政。趙武靈王改用胡服。 乙卯 秦復韓武遂,嚴君疾、向壽為相。甘茂適魏。 丙辰 楚絕齊以善秦。
甲寅年(紀元前三〇七年)、東周君と西周君とは互いに攻伐した。楚國は韓國の雍丘を包圍し、秦將の甘茂は韓國の宜陽を攻下して、秦軍が東出して中原に入るの通道を打通した。秦武王は素より勇力を逞しむを好み、周室に至って九鼎を擧げて、鼎に膝骨を壓斷されて死した。秦人は趙國より彼の同母弟の嬴稷を迎還して立てて君と為した。すなわち秦昭襄王で、その母の宣太后は朝に臨んで政を聽き、太后の弟の魏冉は朝政を把持した。この年趙武靈王は胡服に改着して民に騎射を敎え、趙國の軍力は之が為に一變した。乙卯年(紀元前三〇六年)、秦國は韓國の武遂を歸還して、嚴君の樗里疾・向壽をもって相と為し、甘茂は魏國に出走した。丙辰年(紀元前三〇五年)、楚國は齊國と斷交して秦國に親附した。
丁巳 秦昭王與楚懷王會於黃棘,復之上庸。 戊午 齊、韓、魏攻楚,楚求救於秦。魯平公卒,子文公賈繼。秦取韓武遂,拔魏蒲坂。 己未 秦復魏蒲坂,會韓於武遂。 庚申 楚伐秦,不利。秦昭襄王會齊、韓、魏伐楚,敗之於重邱。 辛酉 齊孟嘗君入秦為質。
丁巳年(紀元前三〇四年)、秦昭襄王は楚懷王と黄棘に會盟し、秦國は上庸の地を楚國に歸還した。戊午年(紀元前三〇三年)、齊・韓・魏の三國は楚國の合縱を背棄したをもって由と為して聯合して楚を攻め、楚國は秦に救を求めた。魯平公は去世し、その子の賈が位を繼いだ。すなわち魯文公である。秦國は韓國の武遂を奪取し、魏國の蒲坂を攻下した。己未年(紀元前三〇二年)、秦國は魏國の蒲坂を歸還し、また韓國と武遂に會盟した。庚申年(紀元前三〇一年)、楚國は秦を伐って失利し、秦昭襄王は齊・韓・魏と聯合して楚を伐って重丘にて楚軍を撃敗した。辛酉年(紀元前三〇〇年)、齊國の孟嘗君田文は秦に入りて質と為り、後に秦昭王の聘を受けて出でて秦の相と為った。
壬戌 楚懷王放大夫屈原於江濱,與秦昭襄王會於武關,不復。國人迎太子橫於齊而立之,是謂頃襄王,其弟子蘭為令尹。齊歸秦涇陽君,孟嘗君自秦逃歸。秦會齊、魏伐楚,取八城。趙拔燕中山,攘地北至燕代,西至九源。 癸亥 齊會韓、魏伐秦,至於函谷。秦伐楚,取十六城,趙武靈王稱主父,會群臣於東宮,廢太子章,而授庶子何立,是謂惠文王,以肥義為之相,北略地,南入秦,稱使者。
壬戌年(紀元前二九九年)、楚懷王は秦人を信ずる勿れと力諫した大夫の屈原を江濱に放逐して、己は卻って約に應じて秦昭襄王と武關に相會して、果して秦に扣留されて一たび去って返らず。楚人は齊國より太子横を迎還して立てて君と為した。すなわち楚頃襄王で、その弟の子蘭をもって令尹と為した。齊國は齊に質たる秦の涇陽君を送還し、孟嘗君もまた秦國より逃歸した。秦國は齊・魏と聯合して楚を伐って八城を奪取した。趙國は燕の地と中山を攻取して、疆土を開拓して北は燕・代に至り、西は九原に至った。癸亥年(紀元前二九八年)、齊國は韓・魏と聯合して秦を伐って兵は函谷關に至り、秦國は楚を伐って十六城を奪取した。趙武靈王は自ら「主父」と稱した。太上の王に相當す。東宮にて群臣を大會し、太子章を廢して、改めて庶子の何を立てて君と為した。すなわち趙惠文王で、肥義を任じて相と為した。主父は己は則ち意を專らにして兵を用いて、北向して疆を開き、また使者と假扮して自ら秦國に入りて虚虚實を窺探した。
經世之辰二千二百二十五
甲子 周赧王十八年,楚懷王於秦逃歸,不克。 乙丑 楚懷王卒於秦,楚遂絕秦。魏哀王卒,子昭王繼。齊會韓、魏、趙、宋五國之兵攻秦,至鹽氏而還。秦與韓、魏河北及封陵以和。韓襄王卒,子釐王繼。趙主父滅中山,徙其王於膚施,封廢太子章於代,號安陽君,使田不禮為之相。
甲子年は周赧王十八年、すなわち紀元前二九七年で、本「世」はここより起算す。囚われた楚懷王は秦國より出逃したが、成功せず。乙丑年(紀元前二九六年)、楚懷王は秦國に客死し、楚人は哀憤せざるなし、楚國はここに於て秦と徹底的に斷交した。魏哀王は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち魏昭王である。齊國は韓・魏・趙・宋の五國の兵を合わせて秦を攻めて、進んで鹽氏に至って還った。秦國は河北の地と封陵とを韓・魏に歸還して以って和を求めた。韓襄王は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち韓釐王である。趙主父は中山國を滅して、中山王を膚施に遷し、また廢せられた太子章を代の地に封じて、號して安陽君と稱し、田不禮を派して彼を輔佐せしめた。この一の處置は次年の沙丘の變の禍根を埋下した。
丙寅 秦免樓緩相,穰侯魏冉復相,率師攻魏。趙安陽君及田不禮作難,公子成及大夫李兌平之,主父死於沙邱宮。 丁卯 秦向壽伐韓,拔武始。 戊辰 楚與秦復和。韓伐秦,不利。秦左庶長白起大敗韓及諸侯之師於伊闕,取城五,坑軍二十四萬,獲將公孫喜。
丙寅年(紀元前二九五年)、秦國は樓緩の相位を罷免して、穰侯の魏冉に由って相國に復任せられて、兵を領して魏を攻めた。趙國の安陽君章と田不禮とは兵を起こして亂を作し、公子成と大夫の李兑とが叛亂を平定し、隨後沙丘宮を圍困すること三月、一代の雄主趙武靈王は竟に宮中に餓死した。丁卯年(紀元前二九四年)、秦將の向壽は韓を伐って武始を攻下した。戊辰年(紀元前二九三年)、楚國は秦國と重ねて講和し、韓國は秦を伐って失利し、秦左庶長の白起は伊闕にて韓國と諸侯の聯軍を大敗して、五城を取り、降卒二十四萬を坑殺して、韓將の公孫喜を俘獲した。白起の「人屠」の名はここから起こった。
己巳 楚逆婦於秦。秦魏冉免相,大良造白起伐魏,取垣;攻楚,拔宛。 庚午 秦魏冉復相,封陶邑。司馬錯伐韓軹及鄧。 辛未 齊有田甲之難,免孟嘗君相。魏獻河東地方四百里入秦。韓獻武遂二百里入秦。趙會齊伐韓。 壬申 齊復孟嘗君相。秦伐韓,拔六十一城。
己巳年(紀元前二九二年)、楚國は秦國に至って秦の女を迎娶した。秦國は魏冉の相位を罷免し、大良造の白起は魏を伐って垣邑を奪取し、また楚を攻めて宛城を攻下した。庚午年(紀元前二九一年)、魏冉は再度相と為りて陶邑に封ぜられ、秦將の司馬錯は韓國の軹と鄧を攻取した。辛未年(紀元前二九〇年)、齊國に田甲が齊湣王を劫持するの變故が發生し、孟嘗君は牽連を受けて相を免ぜられ、魏國は河東の方圓四百里の地を秦國に獻し、韓國は武遂の二百里の地を秦國に獻し、趙國は齊國と聯合して韓を伐った。壬申年(紀元前二八九年)、齊國は孟嘗君の相位を恢復し、秦國は韓を伐って連なりて六十一城を下した。
癸酉 齊秦約稱東西帝,復罷。 甲戌 齊孟嘗君謝病。秦昭襄王巡漢中及上郡、河北,拔魏新垣及曲陽。 乙亥 齊滅宋,至於泗上,十二諸侯、鄒魯之君皆稱臣。南取楚之淮北,西侵韓、趙、魏。魏獻秦安邑。秦伐魏之河內,攻韓之夏山。
癸酉年(紀元前二八八年)、齊・秦は相約して竝びに東帝・西帝と稱したが、諸侯の服せざるに因って、やがてまた皆帝號を取消した。甲戌年(紀元前二八七年)、齊國の孟嘗君は病と稱して位を去った。秦昭襄王は漢中および上郡・河北を巡視して、魏國の新垣と曲陽を攻下した。乙亥年(紀元前二八六年)、齊國は宋國を滅して、勢力を泗水の一帶に伸展し、泗上の十二の諸侯および鄒・魯の君は皆齊に稱臣した。齊國はまた南して楚國の淮北を取り、西に韓・趙・魏を侵して、國勢は極盛にして衆怨竝び起こった。魏國は安邑を秦國に獻し、秦國は魏國の河內を進攻し、また韓國の夏山を攻めた。
丙子 齊孟嘗君以薛屬魏。秦昭襄王會楚頃襄王於宛,會趙惠文王於中陽,伐齊,拔九城。 丁丑 燕樂毅會秦、楚、韓、魏五國之師伐齊,大敗齊師於濟西,遂入臨淄,拔城七十,拜樂毅上卿,封昌國君,留圍齊即墨及莒。齊湣王保莒,楚使淖齒救齊,殺齊湣王於莒。莒人立其子法章,是謂襄王。荀卿行祭酒。
丙子年(紀元前二八五年)、孟嘗君は封地の薛邑を帶いて魏國に歸附した。秦昭襄王は宛の地にて楚頃襄王に會見し、中、中陽にて趙惠文王に會見し、また兵を出して齊を伐って九城を攻下した。丁丑年(紀元前二八四年)、燕將の樂毅は秦・楚・韓・魏の五國の師を聯合して齊を伐ち、濟水の西にて齊軍を大敗し、直に齊都の臨淄に入り、前後して七十餘城を攻下した。燕昭王は樂毅を拜して上卿と為して昌國君に封じ、兵を留めて僅かに存する即墨と莒の兩城を圍困せしめた。齊湣王は莒城に逃奔して自保し、楚國は淖齒を派して名として齊を救うと為したが、卻って莒城にて齊湣王を殺した。莒人は湣公の子の法章を擁立して君と為した。すなわち齊襄王である。荀卿は齊國の稷下學宮にて祭酒を任じて學政を主持した。
戊寅 楚頃襄王會秦昭襄王於鄢。秦穰侯伐魏,至於國。 己卯 秦昭襄王會韓釐王於新城,會魏昭王於新名,伐趙,拔二城;伐韓,取六邑。 庚辰 楚會魏、趙伐秦。秦伐楚,魏冉復相。趙使藺相如入秦獻璧。 辛巳 楚割上庸及漢中,請和於秦。秦白起拔趙二城,司馬錯拔楚上庸。燕昭王卒。子惠王繼,以騎劫代樂毅。樂毅奔趙。趙惠文王與秦昭襄王會於澠池,藺相如相。
戊寅年(紀元前二八三年)、楚頃襄王は鄢の地にて秦昭襄王に會見し、秦相の穰侯魏冉は魏を伐って一路魏國の都城の下に打ち至った。己卯年(紀元前二八二年)、秦昭襄王は新城にて韓釐王に會見し、新名にて魏昭王に會見し、また趙を伐って二城を攻下し、韓を伐って六邑を取った。庚辰年(紀元前二八一年)、楚國は魏・趙と聯合して秦を伐ち、秦國は反って楚を伐ち、魏冉は再度相と為った。趙國は藺相如を派して和氏璧を攜えて秦に入りて交涉せしめて、終に璧を完くして趙に歸らしめた。辛巳年(紀元前二八〇年)、楚國は上庸と漢中を割讓して秦に和を請い、秦將の白起は趙國の二城を攻下し、司馬錯は楚國の上庸を攻下した。燕昭王は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち燕惠王で、齊人の反間の計に中って、改めて騎劫を用いて樂毅に取代わらしめ、樂毅は趙國に出奔した。趙惠文王は秦昭襄王と澠池に相會して、藺相如は隨行して折衝し、事後に相と任ぜられた。
壬午 齊田單大敗燕君於即墨,獲將騎劫,復城七十,迎襄王自莒入臨淄。封田單安平君。秦白起拔楚西陵。 癸未 楚頃襄王出奔陳,郢陷於秦。大良造白起破楚入郢,燒夷陵,以郢為南郡。封起武安君。 甲申 秦拔楚巫及黔中,作黔中郡。魏昭王卒,子安釐王繼。
壬午年(紀元前二七九年)、齊將の田単は即墨にて火牛陣を用いて燕軍を大敗し、燕將の騎劫を斬殺して、一擧に七十餘城を收復し、莒城より齊襄王を迎還して入りて臨淄を主と為さしめ、齊國は田単を封じて安平君と為した。秦將の白起は楚國の西陵を攻下した。癸未年(紀元前二七八年)、楚頃襄王は陳城に出奔し、郢都は陷落した。大良造の白起は楚を破って郢に入り、楚國の先王の陵墓の在る所の夷陵を焚燒して、郢の地を改めて南郡と設け、秦は功に因って白起を封じて武安君と為した。屈原は郢都の失守を聞いて、汨羅江に自沈した。正にこの時である。甲申年(紀元前二七七年)、秦國は楚國の巫の地と黔中とを攻取して黔中郡を設置し、魏昭王は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち魏安釐王である。
乙酉 楚東取江旁十五邑以扞秦。魏拔秦二城,封無忌信陵君。 丙戌 秦兵圍大梁,魏入溫請和。秦以穰侯為相國。韓暴鳶救魏不利。趙廉頗拔魏房子、安陽。 丁亥 魏芒卯攻韓,不利。秦師救韓,敗趙、魏之師十五萬於華陽。魏入南陽請和,以其地為南陽郡。
乙酉年(紀元前二七六年)、楚國は東して長江の沿岸の十五邑を收取して以って秦軍を抵禦し、魏國は秦國の二城を攻下して、公子無忌を封じて信陵君と為した。丙戌年(紀元前二七五年)、秦軍は魏都の大梁を圍攻し、魏國は温の地を獻出して和を請い、秦國は穰侯魏冉をもって相國と為し、韓將の暴鳶は魏を救って失利し、趙將の廉頗は魏國の房子と安陽を攻下した。丁亥年(紀元前二七四年)、魏將の芒卯は韓を攻めて失利し、秦軍は韓を救うを名として兵を出して、華陽にて趙・魏の聯軍十五萬を大敗し、魏國は南陽を獻出して和を請い、秦國はこの片の土地を設けて南陽郡と為した。
戊子 韓釐王卒,子桓惠王繼。趙取東胡地。 己丑 楚黃歇奉太子完入秦為質,求平,又取韓。魏伐燕,田單拔燕中陽。秦會楚、韓、趙、魏伐燕。燕惠王卒,子武成王繼。趙藺相如伐齊。 庚寅 秦穰侯伐齊,取剛壽,以廣陶邑。范雎自魏入秦。 辛卯 秦師伐韓以逼周。 壬辰 秦中更胡傷攻趙閼與,趙奢擊之,有功,封馬服君,與廉頗同位。秦人為之少懼。 癸巳 秦拔魏懷義。
戊子年(紀元前二七三年)、韓釐王は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち韓桓惠王である。趙國は東胡の地を奪取した。己丑年(紀元前二七二年)、楚國の黄歇は太子完に陪同して秦に入りて質と為って和を求め、楚國はまた韓の地を攻取した。魏國は燕を伐ち、田単は燕國の中陽を攻下した。秦國は楚・韓・趙・魏と聯合して燕を伐ち、燕惠王は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち燕武成王である。趙國の藺相如は兵を領して齊を伐った。庚寅年(紀元前二七一年)、秦相の穰侯魏冉は齊を伐って剛・壽の兩地を奪取して、用いて己の封邑の陶を擴充した。范雎は魏國より秦國に逃入りて、後に昭王に「遠くに交わり近くに攻む」の策を進めた。辛卯年(紀元前二七〇年)、秦軍は韓を伐って、以って周室に逼近した。壬辰年(紀元前二六九年)、秦國の中更胡傷は趙國の閼與を進攻し、趙奢は軍を率いて馳援して秦軍を大破し、功に因って馬服君に封ぜられて、地位は廉頗と相當し、秦人はここから趙に對して稍や畏懼あり。癸巳年(紀元前二六八年)、秦國は魏國の懷義を攻下した。
經世之巳二千二百二十六
甲午 周赧王四十八年,秦太子卒於魏。 乙未 秦拔魏郪邱,罷穰侯相國及宣太后權,以客卿范雎為相,封應侯。魏冉就國。趙惠文王卒,子丹繼,是謂孝成王,太后專政。 丙申 齊襄王卒,子建繼。田單攻趙。秦以安國君為太子,宣太后卒。拔趙三城,進圍邯鄲。趙出長安君,為質於齊,求救趙。勝為相,封平原君。
甲午年は周赧王四十八年、すなわち紀元前二六七年で、本「世」はここより起算す。魏國に質と在る秦國の太子は魏に死した。乙未年(紀元前二六六年)、秦國は魏國の郪丘を攻下し、秦昭襄王は范雎の謀を採納して、穰侯魏冉の相國の位を罷免し、宣太后の權柄を收回して、改めて客卿の范雎を用いて相と為して應侯に封じ、魏冉は封地に遣還された。秦國の政柄はここから國君の手に歸した。趙惠文王は去世し、その子の丹が位を繼いだ。すなわち趙孝成王で、趙太后は朝に臨んで政を執った。丙申年(紀元前二六五年)、齊襄王は去世し、その子の建が位を繼いだ。田単は兵を領して趙を攻めた。秦國は安國君を立てて太子と為し、宣太后は去世した。秦軍は趙國の三城を攻下して、進んで邯鄲を圍んだ。趙國は幼子の長安君を齊國に送って質と為して以って救兵を換取した。觸龍が趙太后を説いたはすなわちこの事である。趙勝は國相に出て平原君に封ぜられた。
丁酉 齊用田單為相。秦白起伐韓,拔九城。 戊戌 楚頃襄王卒,太子完自秦亡歸繼,是謂考烈王。以左徒黃歇為令尹,號春申君,封於吳。食淮北地。秦白起拔韓南郡。 己亥 楚獻地於秦,乞和。秦五大夫賁伐韓,拔十五城,以絕太行路。韓馮亭以上黨入於趙,趙受韓上黨,廉頗軍長平。
丁酉年(紀元前二六四年)、齊國は田単を任用して相と為し、秦將の白起は韓を伐って九城を攻下した。戊戌年(紀元前二六三年)、楚頃襄王は去世し、太子完は秦國より逃歸して位を繼いだ。すなわち楚考烈王で、左徒の黄歇を任じて令尹と為して春申君と號し、呉の地に封じて淮北の賦を食せしめた。秦將の白起は韓國の南郡を攻下した。己亥年(紀元前二六二年)、楚國は地を秦に獻して和を乞い、秦國の五大夫嬴賁は韓を伐って十五城を攻下して、太行山の通道を切斷した。韓國の上黨守の馮亭は秦に降るを願わず、上黨を趙國に獻し、趙國は接納して、廉頗を派して長平に駐軍せしめた。秦趙の長平の大の大戰の導火線は就中ここに點燃した。
庚子 楚伐魯,取徐州。秦白起攻趙長平。 辛丑 秦武安君大敗趙軍於長平,進圍邯鄲。趙以趙括代廉頗將,長平遂陷,兵四十萬為秦所坑。 壬寅 秦分軍為三,罷武安君白起將,以王齕代,攻趙,拔趙武安及皮牢。司馬梗北定上黨。趙使蘇代使秦。
庚子年(紀元前二六一年)、楚國は魯を伐って徐州を奪取し、秦將の白起は趙國の長平を進攻した。辛丑年(紀元前二六〇年)、武安君の白起は長平にて趙軍を大敗して、進んで邯鄲を圍困した。趙孝成王は秦人の反間計に中って、ただ紙上談兵の趙括を用いて老將の廉頗に取代わらしめ、長平の防線は因って崩潰し、四十萬の降卒は秦軍に坑殺されて、趙國の元氣は喪い盡きた。壬寅年(紀元前二五九年)、秦國は軍隊を分かちて三路と為し、武安君白起の兵權を撤下して、改めて王齕を用いて將と為して趙を攻めて、趙國の武安と皮牢を攻下し、司馬梗は北上して上黨を平定した。趙國は蘇代を派して秦國に至って范雎を游説して、秦に兵を罷むを請わしめた。
癸卯 秦加范雎相國,王齕圍邯鄲,張唐攻魏。燕武成王卒,子孝王繼。趙平原君求救於楚、魏。 甲辰 楚春申君、魏信陵君救趙。秦起武安君白起。不克,殺之於杜郵。 乙巳 周赧王會齊、韓、趙、魏兵,出伊闕攻秦。不利,西奔秦。秦昭王滅周,盡入其地三十六城,徙其王於憚狐。楚滅魯,以齊荀卿為蘭陵令。
癸卯年(紀元前二五八年)、秦國は范雎を加封して相國と為し、王齕は邯鄲を圍攻し、張唐は魏を攻めた。燕武成王は去世し、その子が位を繼いだ。すなわち燕孝王である。趙國の平原君は分頭して楚・魏に向かって救を求め、毛遂が自薦して隨行したはすなわちこの時である。甲辰年(紀元前二五七年)、楚國の春申君と魏國の信陵君とは先後して兵を出して趙を救い、信陵君は符を竊んで軍を奪い、秦軍は邯鄲の城下にて大敗した。秦王は再度武安君白起を起用したが、白起は病と稱して行を肯んぜず、杜郵に賜死された。乙巳年(紀元前二五六年)、周赧王は齊・韓・趙・魏の兵を合わせて、伊闕を出でて秦を攻めて失利して、止むを得ず西行して秦に入りて罪を謝した。秦昭王はここに於て周室を滅して、その地の三十六城を盡く收めて、赧王を憚狐に遷した。國を立つこと八百年の周朝はここに至って覆亡した。楚國は魯國を滅し、齊國の荀卿は任ぜられて楚國の蘭陵令と為った。
丙午 秦徙周民及九鼎於咸陽,蔡澤自燕入秦,代范雎相。燕孝王卒,子喜繼。 丁未 楚、齊、韓、燕、趙皆服於秦。魏獨後,秦使將軍樛伐之,取吳城。 戊申 秦郊上帝於雍邱。趙徙都鉅鹿。 己酉 趙平原君卒。 庚戌 秦昭襄王卒,太子安國繼,是謂孝王。立三日,又卒,子楚立,是謂莊襄王,以華陽夫人為後,子政為太子,呂不韋為丞相,封文信侯,食河南十萬戶。楚春申君入吊於秦。燕將栗腹攻趙,不利。趙廉頗破燕軍於鄗,封信平侯。
丙午年(紀元前二五五年)、秦國は周室の遺民と王權を象徴する九鼎とを咸陽に遷し、蔡澤は燕國より秦に入りて范雎に取代わって相と為った。燕孝王は去世し、その子の喜が位を繼いだ。丁未年(紀元前二五四年)、楚・齊・韓・燕・趙の五國は皆秦に屈服したが、唯獨魏國は遲遲として從わず、秦國は將軍樛を派して討伐せしめて吳城を奪取した。戊申年(紀元前二五三年)、秦國は雍の地にて上帝を郊祀し、趙國は巨鹿に遷都した。己酉年(紀元前二五二年)、趙國の平原君は去世した。庚戌年(紀元前二五一年)、秦昭襄王は去世し、太子の安國君が位を繼いだ。すなわち秦孝文王で、即位三日にしてまた死し、その子の子楚が位を繼いだ。すなわち秦莊襄王で、華陽夫人を立てて后と為し、嬴政を立てて太子と為し、吕不韋を用いて丞相と為して文信侯に封じて河南の十萬戶を食せしめた。楚國の春申君は秦に入りて喪を吊った。燕將の栗腹は趙を攻めて失利し、趙將の廉頗は鄗の地にて燕軍を大破し、功に因って信平侯に封ぜられた。
辛亥 東周君會諸侯攻秦,不利,沒於秦。秦丞相呂不韋平東周,盡入其地,置三川郡,徙其君於陽人。趙廉頗伐燕,圍其國。 壬子 秦蒙驁拔趙太原,拔韓滎陽及成皋。 癸丑 秦蒙驁拔魏高都,又舉趙三十城。楚、齊、魏、韓、燕、趙攻秦,不利。
辛亥年(紀元前二五〇年)、東周君は諸侯と聯合して秦を攻めて失利して、秦に竝ばれた。秦丞相の吕不韋は東周を平定して、その地を盡く收めて三川郡を設置し、東周君を陽人聚に遷した。周室の最後の一點の殘餘はここに至って斷絶した。趙將の廉頗は燕を伐って燕國の都城を圍困した。壬子年(紀元前二四九年)、秦將の蒙驁は趙國の太原を攻下し、また韓國の滎陽と成皋を攻下した。癸丑年(紀元前二四八年)、蒙驁は魏國の高都を攻下し、また趙國の三十城を拔取し、楚・齊・魏・韓・燕・趙の六國は兵を合わせて秦を攻めたが、勝を得る能わず。
甲寅 秦莊襄王卒,太子政繼,是謂始皇帝。以呂不韋為相國,號仲父,同太后專政。李斯為舍人。齊田單屠聊城。魏無忌自趙歸國,率楚、齊、韓、趙、燕五國之師,敗秦軍於河外,走蒙驁,追至函谷。 乙卯 秦蒙驁平晉陽。 丙辰 趙孝成王卒,子偃繼,是謂悼襄王,以樂乘代廉頗將。頗奔魏。
甲寅年(紀元前二四七年)、秦莊襄王は去世し、太子の嬴政が位を繼いだ。すなわち後日の秦始皇である。吕不韋をもって相國と為して「仲父」と尊號し、太后と共同して朝政を把持した。李斯はこの時はただ吕不韋の門下の舍人にすぎなかった。齊將の田単は聊城を屠った。魏公子の無忌、すなわち信陵君は、趙國より本國に返回して、楚・齊・韓・趙・燕の五國の師を統率して、黄河以南にて秦軍を大敗して、蒙驁を逼退せしめ、一路函谷關に追い至った。これは六國の合縱が最後に勝を得たことである。乙卯年(紀元前二四六年)、秦將の蒙驁は晉陽を平定した。丙辰年(紀元前二四五年)、趙孝成王は去世し、その子の偃が位を繼いだ。すなわち趙悼襄王で、改めて樂乘を用いて廉頗に取代わらしめて將と為して、廉頗は憤って魏國に出奔した。
丁巳 秦蒙驁攻魏,拔二城;攻韓,拔十二城。 戊午 魏釐王卒,子景愍王卒,信陵君亦卒。趙將李牧取燕二城。 己未 秦拔魏二十城,置東郡。趙伐燕,獲將劇辛。 庚申 楚考烈王會齊、韓、趙、魏、燕五國之兵伐秦,至於函谷,不利,東徙都壽春。春申君就國於吳。 辛酉 秦拔魏之汲,趙拔魏之鄴。 壬戌 秦封嫪毐長信侯,關政於內。韓桓惠王卒,子安繼。 癸亥 長信侯嫪毐作難,攻鄿年宮,不克,伏誅。徙太后於雍,流蜀者四千家。楚考烈王卒,子幽王悍繼。
丁巳年(紀元前二四四年)、秦將の蒙驁は魏を攻めて二城を取り、韓を攻めて十二城を取った。戊午年(紀元前二四三年)、魏釐王は去世し、その子の景愍王が位を繼いだ。底本はここに「卒」と作りて、しかして後文の癸酉年にまた景愍王卒と記す。當に字の誤りならん。信陵君の魏無忌もまたこの年に郁郁として終わった。趙將の李牧は燕國の二城を奪取した。己未年(紀元前二四二年)、秦國は魏國の二十城を攻下して、東郡を設置し、ここから三晉と齊・楚とを隔斷した。趙國は燕を伐って燕將の劇辛を俘獲した。庚申年(紀元前二四一年)、楚考烈王は齊・韓・趙・魏・燕の五國の兵を合わせて秦を伐ち、進んで函谷關に抵って失利して、隨即國都を壽春に東遷した。春申君は呉の地の封國に回った。辛酉年(紀元前二四〇年)、秦國は魏國の汲を攻下し、趙國は魏國の鄴を攻下した。壬戌年(紀元前二三九年)、秦國は嫪毐を封じて長信侯と為して、彼に宮禁の政を掌管せしめた。韓桓惠王は去世し、その子の安が位を繼いだ。癸亥年(紀元前二三八年)、長信侯の嫪毐は兵を起こして亂を作し、蘄年宮を攻打して失敗して、處死された。秦王は太后を雍城に遷往して幽居せしめ、この案に因って蜀の地に流されたは四千餘家であった。楚考烈王は去世し、その子の悍が位を繼いだ。すなわち楚幽王である。
