アビダルマ倶舎論 巻第一
アビダルマ倶舎論 巻第二 尊者世親造
仏家典籍
短いものは心経・金剛経・四十二章経・壇経から読み始められる。浄土は阿弥陀経・無量寿経・観経を見る。大乗の叙事と禅を見るなら、法華・維摩・楞厳・円覚・地蔵へ進む。
尊者世親造
尊者世親(ヴァスバンドゥ)造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。
分別界品第一
分別界品 第一
諸一切種諸冥滅,拔眾生出生死泥,
あらゆる種類の無明を滅尽し、衆生を生死の泥から引き抜かれた方、
敬禮如是如理師,對法藏論我當說。
かかる如理の師を私は敬礼し、対法蔵の論を説くべきである。
論曰:今欲造論,為顯自師其體尊高超諸聖眾,故先讚德方申敬禮。諸言所表謂佛世尊,此能破闇故稱冥滅。言一切種諸冥滅者,謂滅諸境一切品冥。以諸無知能覆實義及障真見,故說為冥。唯佛世尊得永對治,於一切境一切種冥,證不生法故稱為滅。聲聞獨覺雖滅諸冥,以染無知畢竟斷,故非一切種。所以者何?由於佛法極遠時處及諸義類無邊差別,不染無知猶未斷故。已讚世尊自利德滿,次當讚佛利他德圓。拔眾生出生死泥者,由彼生死是諸眾生沈溺處故,難可出故,所以譬泥。眾生於中淪沒無救,世尊哀愍隨授所應,正法教手拔濟令出。已讚佛德,次申敬禮。敬禮如是如理師者,稽首接足故稱敬禮。諸有具前自他利德,故云如是。如實無倒教授誡勗,名如理師。如理師言顯利他德,能方便說如理正教,從生死泥拔眾生出,不由威力與願神通。禮如理師欲何所作?對法藏論我當說者,教誡學徒故稱為論。其論者何?謂對法藏。何謂對法?頌曰:
論に曰く:これから論を造るにあたり、自らの師の体が尊く高く、諸の聖衆を超えていることを顕すため、まず徳を讃えてから敬礼を申す。「諸」の字が表すのはいわゆる仏世尊で、この方が暗闇を破るゆえに冥滅と称する。「一切種の諸冥を滅する」とは、いわゆる諸境の一切品の冥を滅することである。諸の無知が実義を覆い、真の見を障するゆえに冥と説く。ただ仏世尊のみが永遠の対治を得て、一切境・一切種の冥について不生の法を証したゆえに滅と称する。声聞・独覚も諸の冥を滅するが、染汚の無知は畢竟に断じられても、不染の無知はなお断ぜられていないゆえに、一切種ではない。なぜか。仏法が極めて遠い時処に及び、諸の義類に無辺の差別があるゆえ、不染の無知はなお断じられていないのである。すでに世尊の自利の徳の満ちたことを讃えたので、次に仏の利他の徳の円満なることを讃ずべきである。「衆生を拔きて生死の泥を出す」とは、あの生死は諸衆生の沈溺する処で、出ることが難いゆえに泥に譬える。衆生はその中に淪没して救いなく、世尊は哀愍して随宜に正法の教という手を授けて拔済し出さしめる。仏徳を讃えたので、次に敬礼を申す。「かくのごとき如理師を敬礼す」とは、頭を地に稽えて足に接するゆえに敬礼と称す。自利・利他の前の徳を具えるゆえに「かくのごとき」と称す。如実に・顛倒なく教授し誡励する者を如理師と名づける。「如理師」の語は利他の徳を顕し、よく方便して如理の正教を説き、威力や願神通によるのでなく生死の泥から衆生を拔き出すのである。如理師を礼して何をなすか。「対法蔵論を私は説かん」とは、学徒を教誡するゆえに論と称す。その論とは何か。いわゆる対法蔵である。対法とは何か。頌に曰く:
淨慧隨行名對法,及能得此諸慧論。
清浄なる慧とその随行とが対法と名づけられ、またこれを得る諸の慧と論と。
論曰:慧謂擇法,淨謂無漏,淨慧眷屬名曰隨行。如是總說無漏五蘊名為對法,此則勝義阿毘達磨。若說世俗阿毘達磨,即能得此諸慧及論。慧謂得此有漏修慧、思聞生得慧及隨行。論謂傳生無漏慧教。此諸慧論是彼資糧,故亦得名阿毘達磨。釋此名者,能持自相故名為法。若勝義法唯是涅槃,若法相法通四聖諦,此能對向或能對觀,故稱對法。已釋對法。何故此論名對法藏?頌曰:
論に曰く:慧とはいわゆる択法(法を簡択すること)で、浄とはいわゆる無漏であり、浄慧の眷属を随行と名づける。このように総じて無漏の五蘊を対法と名づけ、これが勝義のアビダルマ(対法:四諦に対して観察・択択する法)である。世俗のアビダルマを説くならば、これを得る諸の慧および論である。慧とは、これを得る有漏の修慧・思慧・聞慧・生得慧および随行である。論とは、無漏慧を伝え生ぜしめる教である。これらの慧と論はあの対法の資糧であるゆえに、またアビダルマの名を得る。この名を釈すれば:自相を持するゆえに法と名づく。勝義法はただ涅槃のみ、法相の法で通じれば四聖諦であり、これに対向しまたは対観しうるゆえに対法と称する。対法を釈した。なぜこの論を対法蔵と名づけるか。頌に曰く:
攝彼勝義依彼故,此立對法俱舍名。
あの勝義を摂し、あれに依るゆえに、ここに対法倶舎の名を立てる。
論曰:由彼對法論中勝義入此攝故,此得藏名。或此依彼、從彼引生,是彼所藏,故亦名藏。是故此論名對法藏。何因說彼阿毘達磨?誰復先說阿毘達磨,而今造論恭敬解釋?頌曰:
論に曰く:あの対法論中の勝義がこの中に摂せられるゆえに、これは蔵の名を得る。あるいはこれが彼に依り、彼から引き生じて、彼の蔵するところであるゆえに、また蔵と名づく。それゆえこの論を対法蔵と名づける。いかなる因縁であのアビダルマを説くのか。誰が先にアビダルマを説き、今論を造って恭敬してこれを解釈するのか。頌に曰く:
若離擇法定無餘,能滅諸惑勝方便,
択法を離れては、決して他に諸惑を滅する殊勝の方便はなく、
由惑世間漂有海,因此傳佛說對法。
惑によって世間は有の海を漂流する。ゆえに展転に伝えて仏は対法を説いた。
論曰:若離擇法,無勝方便能滅諸惑。諸惑能令世間漂轉生死大海,因此傳佛說彼對法,欲令世間得擇法故。離說對法,弟子不能於諸法相如理簡擇。然佛世尊處處散說阿毘達磨,大德迦多衍尼子等諸大聲聞結集安置。猶如大德法救所集無常品等鄔拕南頌,毘婆沙師傳說如此。何法名為彼所簡擇,因此傳佛說對法耶?頌曰:
論に曰く:択法を離れれば、諸惑を滅する殊勝の方便はない。諸惑は世間をして生死の大海に漂転せしめるゆえに、展転に伝えて仏はあの対法を説いた。世間に択法を得せしめんがためである。対法の説を離れては、弟子は諸法の相を如理に簡択することができない。しかるに仏世尊は処々に散説し、大徳迦多衍尼子(カーヤーニプトラ)等の諸の大声聞が結集して安置した。ちょうど大徳法救(ダルマトラータ)が集めた無常品等のウダーナ頌の如く、毘婆沙師はかく伝える。いかなる法があの簡択する所と名づけられ、これによって展転に伝えて仏が対法を説いたのか。頌に曰く:
有漏無漏法,除道餘有為,
有漏・無漏の法とは、道諦を除いたその余の有為で、
於彼漏隨增,故說名有漏。
それらにおいて漏が随増するゆえに、有漏と説く。
無漏謂道諦,及三種無為,
無漏とは道諦および三種の無為、
謂虛空二滅,此中空無礙。
いわゆる虚空と二滅であり、ここで空は無礙である。
擇滅謂離繫,隨繫事各別,
択滅とは離系で、繋がれる事に随って各別であり、
畢竟礙當生,別得非擇滅。
当生を畢竟に障するものは別に非択滅を得る。
論曰:說一切法略有二種,謂有漏、無漏。有漏法雲何?謂除道諦,餘有為法。所以者何?諸漏於中等隨增故。緣滅道諦,諸漏雖生而不隨增,故非有漏。不隨增義,隨眠品中自當顯說。已辯有漏。無漏云何?謂道聖諦及三無為。何等為三?虛空、二滅。二滅者何?擇、非擇滅。此虛空等三種無為及道聖諦,名無漏法。所以者何?諸漏於中不隨增故。於略所說三無為中,虛空但以無礙為性,由無障故色於中行。擇滅即以離繫為性,諸有漏法遠離繫縛證得解脫,名為擇滅。擇謂簡擇,即慧差別,各別簡擇四聖諦故。擇力所得滅名為擇滅,如牛所駕車名曰牛車,略去中言故作是說。一切有漏法同一擇滅耶?不爾。云何?隨繫事別。謂隨繫事量,離繫事亦爾。若不爾者,於證見苦所斷煩惱滅時,應證一切所斷諸煩惱滅。若如是者,修餘對治則為無用。依何義說滅無同類?依滅自無同類因義亦不與他,故作是說,非無同類。已說擇滅。永礙當生得非擇滅,謂能永礙未來法生。得滅異前,名非擇滅。得不因擇,但由闕緣。如眼與意專一色時,餘色聲香味觸等謝。緣彼境界五識身等住未來世畢竟不生,由彼不能緣過去境,緣不具故得非擇滅。於法得滅應作四句。或於諸法唯得擇滅,謂諸有漏過現生法。或於諸法唯非擇滅,謂不生法無漏有為。或於諸法俱得二滅,謂彼不生諸有漏法。或於諸法不得二滅,謂諸無漏過現生法。如是已說三種無為。前說除道,餘有為法是名有漏。何謂有為?頌曰:
論に曰く:一切法を説けば略して二種あり、いわゆる有漏と無漏である。有漏法とは何か。いわゆる道諦を除き、その余の有為法である。なぜか。諸漏がその中で等しく随増するゆえである。滅・道諦に縁ずるとき、諸漏は生ずるとも随増しないゆえに有漏ではない。随増しない義は随眠品で自ずから顕説すべきである。有漏を弁えた。無漏とは何か。いわゆる道聖諦および三種の無為である。三種とは何か。虚空と二滅である。二滅とは何か。択滅と非択滅である。この虚空等の三種の無為および道聖諦を無漏法と名づける。なぜか。諸漏がその中で随増しないゆえである。略説した三無為の中で、虚空はただ無礙を性とし、障がないゆえに色がその中を行く。択滅は離系を性とし、諸の有漏法が繋縛を離れて解脱を証するのを択滅と名づける。択とは簡択で、慧の差別であり、各別に四聖諦を簡択するゆえである。択の力によって得た滅を択滅と名づける。牛の駕する車を牛車と名づけるように、中間の語を略してかく説く。一切の有漏法は同一の択滅か。そうではない。どうか。繋がれる事に随って各別である。いわゆる繋がれる事の量に随い、離系の事もまたしかり。もしそうでなければ、苦を見て断ずべき煩悩の滅を証する時、一切の断ずべき煩悩の滅を証するはめになる。もしそうなら、其余の対治を修することは無用となる。いかなる義で滅に同類なしと説くか。滅は自ら同類因がなく、また他にも与えない義によるのであって、同類がないのではない。択滅を説いた。永く当生を礙することを非択滅を得るといい、いわゆる永く未来法の生を礙しうるものである。得る滅が前と異なるゆえに非択滅と名づく。得るに択によらず、ただ縁の欠けるによる。たとえば眼と意が一色に専らなる時、其余の色・声・香・味・触等は謝する。それらの境界に縁ずる五識身等は未来世に住して畢竟に生ぜず、それらは過去境を縁ずることができず、縁が具わらないゆえに非択滅を得る。法に対して滅を得ることに四句を作すべきである。あるいは諸法に対してただ択滅を得る、いわゆる諸の有漏の過去・現在の生法。あるいは諸法に対してただ非択滅、いわゆる不生の法の無漏有為。あるいは諸法に対して俱に二滅を得る、いわゆるあの不生の諸有漏法。あるいは諸法に対して二滅を得ない、いわゆる諸の無漏の過去・現在の生法。このように三種の無為を説いた。前に「道を除きその余の有為法を有漏と名づく」と説いた。有為とは何か。頌に曰く:
又諸有為法,謂色等五蘊,
また諸の有為法とは、いわゆる色等の五蘊で、
亦世路言依,有離有事等。
また世路・言依とも名づけ、有離・有事等とする。
論曰:色等五蘊,謂初色蘊乃至識蘊。如是五法具攝有為,眾緣聚集共所作故。無有少法一緣所生,是彼類故。未來無妨,如乳如薪。此有為法亦名世路,已行正行當行性故,或為無常所吞食故。或名言依,言謂語言,此所依者即名俱義。如是言依具攝一切有為諸法。若不爾者,應違《品類足論》所說。彼說言依十八界攝。或名有離,離謂永離,即是涅槃,一切有為有彼離故。或名有事,以有因故,事是因義。毘婆沙師傳說如此。如是等類是有為法差別眾名,於此所說有為法中。頌曰:
論に曰く:色等の五蘊とは、いわゆる初の色蘊から識蘊に至るまで。この五法は有為を具攝する。衆縁が聚集して共同で作すゆえ、また少法も一縁から生ずることなく、あの類であるゆえである。未来も妨げない、乳や薪の如く。この有為法はまた世路と名づく。已行・正行・当行の性であるゆえ、あるいは無常に吞食されるゆえである。あるいは言依と名づく。言とはいわゆる言語で、その依とする所は名と俱の義である。このように言依は一切有為諸法を具攝する。そうでなければ『品類足論』の説に違するはめになる。あの論は言依を十八界の所摂と説く。あるいは有離と名づく。離とはいわゆる永離で、すなわち涅槃であり、一切有為はあの離を有するゆえである。あるいは有事と名づく。因有するがゆえであり、事は因の義である。毘婆沙師はかく伝える。このような等類は有為法の差別の衆名で、この中に説く有為法についてのものである。頌に曰く:
有漏名取蘊,亦說為有諍,
有漏は取蘊と名づけ、また有諍とも説き、
及苦集世間,見處三有等。
および苦・集・世間、見処・三有等とする。
論曰:此何所立?謂立取蘊亦名為蘊。或有唯蘊而非取蘊,謂無漏行。煩惱名取,蘊從取生故名取蘊,如草穅火。或蘊屬取故名取蘊,如帝王臣。或蘊生取故名取蘊,如花果樹。此有漏法亦名有諍,煩惱名諍,觸動善品故、損害自他故、諍隨增故,名為有諍。猶如有漏亦名為苦,違聖心故。亦名為集,能招苦故。亦名世間,可毀壞故、有對治故。亦名見處,見住其中隨增眠故。亦名三有,有因有依三有攝故。如是等類是有漏法。隨義別名,如上所言。色等五蘊名有為法。色蘊者何?頌曰:
論に曰く:ここに何を立てるか。いわゆる取蘊を立ててまた蘊とも名づける。あるいはただ蘊であって取蘊ではないものがある、いわゆる無漏の行である。煩悩を取と名づけ、蘊が取から生ずるゆえに取蘊と名づく。草糠の火の如し。あるいは蘊が取に属するゆえに取蘊と名づく。帝王の臣の如し。あるいは蘊が取を生ずるゆえに取蘊と名づく。花果の樹の如し。この有漏法はまた有諍と名づく。煩悩を諍と名づけ、善品に触動するゆえ、自他を損害するゆえ、諍が随増するゆえに有諍と名づく。ちょうど有漏がまた苦と名づくように、聖心に違するゆえである。また集と名づく。苦を招きうるゆえである。また世間と名づく。毀壊しうるゆえ、対治あるゆえである。また見処と名づく。見がその中に住して随眠するゆえである。また三有と名づく。因有り依有り三有の所摂なるゆえである。このような等類は有漏法の義に随う別名である。如上に言える色等の五蘊を有為法と名づく。色蘊とは何か。頌に曰く:
色者唯五根,五境及無表。
色はただ五根・五境および無表である。
論曰:言五根者,所謂眼、耳、鼻、舌、身根。言五境者,即是眼等五根境界,所謂色、聲、香、味、所觸。及無表者,謂無表色。唯依此量立色蘊名。此中先應說五根相。頌曰:
論に曰く:五根を説くとは、いわゆる眼・耳・鼻・舌・身の根。五境を説くとは、眼等の五根の境界、いわゆる色・声・香・味・所触。および無表とは、いわゆる無表色(表示して他に知らしめる色ではないもの)。ただこの量に依って色蘊の名を立てる。ここでまず五根の相を説くべきである。頌に曰く:
彼識依淨色,名眼等五根。
あの識の依とする所の浄色を、眼等の五根と名づける。
論曰:彼謂前說色等五境,識即色、聲、香、味、觸識。彼識所依五種淨色,如其次第,應知即是眼等五根。如世尊說:苾芻當知,眼謂內處,四大所造淨色為性。如是廣說。或復彼者,謂前所說眼等五根,識即眼、耳、鼻、舌、身識。彼識所依五種淨色,名眼等根,是眼等識所依止義。如是便順《品類足論》。如彼論說:云何眼根?眼識所依淨色為性。如是廣說。已說五根。次說五境。頌曰:
論に曰く:「彼」とはいわゆる前に説いた色等の五境で、識とは色・声・香・味・触の識である。あの識の依とする五種の浄色が、この次第によって眼等の五根と知られるべきである。世尊が説く如く:比丘よ、眼とはいわゆる内処で、四大所造の浄色を性とすることを知るべし、と。このように広く説く。あるいはまた「彼」とは、いわゆる前に説いた眼等の五根で、識とは眼・耳・鼻・舌・身の識である。あの識の依とする五種の浄色を眼等の根と名づけ、眼等の識の依止とする義である。これは『品類足論』に順じる。あの論に説く如く:眼根とは何か。眼識の依とする浄色を性とする、と。このように広く説く。五根を説いた。次に五境を説く。頌に曰く:
色二或二十,聲唯有八種,
色は二または二十、声はただ八種、
味六香四種,觸十一為性。
味は六・香は四種、触は十一を性とする。
論曰:言色二者,一顯、二形。顯色有四:青、黃、赤、白,餘顯是此四色差別。形色有八,謂長為初不正為後。或二十者,即此色處復說二十,謂青、黃、赤、白、長、短、方、圓、高、下、正、不正、雲、煙、塵、霧、影、光、明、闇。有餘師說,空一顯色,第二十一。此中正者謂形平等,形不平等名為不正,地水氣騰說之為霧,日焰名光,月星火藥寶珠電等諸焰名明,障光明生於中餘色可見名影,翻此為闇。餘色易了故今不釋。或有色處有顯無形,謂青、黃、赤、白、影、光、明、闇。或有色處有形無顯。謂長等一分身表業性。或有色處有顯有形,謂所餘色。有餘師說:唯光明色有顯無形,現見世間青等色處有長等故。如何一事具有顯形?由於此中俱可知故。此中有者是有智義,非有境義。若爾,身表中亦應有顯智。已說色處,當說聲處。聲唯八種,謂有執受或無執受大種為因,及有情名、非有情名差別為四,此復可意及不可意差別成八。執受大種為因聲者,謂言手等所發音聲。風林河等所發音聲,名無執受大種為因。有情名聲謂語表業,餘聲則是非有情名。有說:有聲通有執受及無執受大種為因,如手鼓等合所生聲。如不許一顯色極微二四大造,聲亦應爾。已說聲處,當說味處。味有六種,甘、醋、醎、辛、苦、淡別故。已說味處,當說香處。香有四種:好香、惡香、等不等香,有差別故。本論中說香有三種:好香、惡香及平等香。已說香處,當說觸處。觸有十一,謂四大種、滑性、澁性、重性、輕性及冷、飢、渴。此中大種後當廣說。柔軟名滑。麁強為澁。可稱名重。翻此為輕。煖欲名冷。食慾名飢。飲欲名渴。此三於因立果名故,作如是說。如有頌言:
論に曰く:色が二と説くのは、一に顕、二に形である。顕色に四あり:青・黄・赤・白、其余の顕はこの四色の差別である。形色に八あり、いわゆる長を初めとし、不正を後とする。あるいは二十とは、この色処をまた二十と説く。いわゆる青・黄・赤・白・長・短・方・円・高・下・正・不正・雲・煙・塵・霧・影・光・明・暗である。其余の師の説に、空一の顕色を加えて第二十一とする。ここで正とはいわゆる形の平等で、形が平等でないのを不正と名づく。地・水・気の騰るを霧と説き、日の焔を光と名づけ、月・星・火薬・宝珠・電等の諸の焔を明と名づく。光明を障して生じ、その中で其余の色が見えるのを影と名づけ、これに翻るを暗とする。其余の色は了り易いゆえに今釈しない。あるいは色処に顕あって形なく、いわゆる青・黄・赤・白・影・光・明・暗。あるいは色処に形あって顕なく、いわゆる長等の一分の身表業の性。あるいは色処に顕あり形あり、いわゆる其余の色。ある師の説に:ただ光・明の色のみ顕あって形なく、現に世間の青等の色処に長等あるを見るゆえ、と。どうして一事に顕形を具えるのか。ここではともに知りうるゆえである。ここで「有」は有智の義で、有境の義ではない。もしそうなら、身表の中にもまた顕智があるはめになる。色処を説いたので、声処を説くべきである。声はただ八種。いわゆる有執受または無執受の大種を因とし、および有情名・非有情名の差別をもって四とし、これにまた可意および不可意の差別をもって八とする。執受大種を因とする声とは、いわゆる言・手等の発する音声である。風・林・河等の発する音声を無執受大種を因と名づく。有情名の声とはいわゆる語表業で、其余の声はすなわち非有情名である。ある人の説に:声は有執受および無執受の大種を因に通ずる、手・鼓等が合して生ずる声の如し、と。一つの顕色の極微が二の四大によって造られるを許さないように、声もまたしかるべきである。声処を説いたので、味処を説くべきである。味に六種あり、甘・醋・鹹・辛・苦・淡を分別するゆえである。味処を説いたので、香処を説くべきである。香に四種あり:好香・悪香・等香・不等香で、差別あるゆえである。本論の中では香に三種を説く:好香・悪香および平等香。香処を説いたので、触処を説くべきである。触に十一あり、いわゆる四大種・滑性・澁性・重性・軽性および冷・飢・渇である。ここで大種は後の文で広く説くべきである。柔軟を滑と名づく。粗強を澁とする。称り得るを重と名づく。これに翻るを軽とする。暖を欲するを冷と名づく。食を欲するを飢と名づく。飲を欲するを渇と名づく。この三は因において果の名を立てるゆえにかく説く。ある頌に説く如く:
諸佛出現樂,演說正法樂,
諸仏の出現は楽、正法を演説するは楽、
僧眾和合樂,同修勇進樂。
僧衆の和合は楽、共に修め勇進するは楽。
於色界中無飢渴觸,有所餘觸。彼界衣服,別不可稱,聚則可稱。冷煖於彼雖無能損而有能益。傳說如此。此中已說多種色處。有時眼識緣一事生,謂於爾時各別了別。有時眼識緣多事生,謂於爾時不別了別,如遠觀察軍眾山林、無量顯形珠寶聚等。應知耳等諸識亦爾。有餘師說:身識極多緣五觸起,謂四大種,滑等隨一。有說:極多總緣一切十一觸起。若爾,五識總緣境故,應五識身取共相境非自相境。約處自相,許五識身取自相境非事自相,斯有何失?今應思擇,身舌二根兩境俱至,何識先起?隨境強盛彼識先生;境若均平舌識先起,食飲引身令相續故。已說根境及取境相,無表色相今次當說。頌曰:
(論に続けて曰く:)色界の中には飢渇の触なく、其余の触あり。あの界の衣服は、分別すれば称るべからず、聚すれば称り得る。冷煖はそれらにおいて能損なしと雖も能益あり。伝説かくの如し。ここですでに多種の色処を説いた。ある時は眼識が一事に縁じて生ず、いわゆるその時は各別に了別する。ある時は眼識が多事に縁じて生ず、いわゆるその時は了別せず、遠く軍衆・山林・無量の顕形・珠宝の聚等を観察するが如し。耳等の諸識もまたこの如くと知るべし。ある師の説に:身識は極めて多く五触に縁じて起きる、いわゆる四大種・滑等の随一、と。ある人の説に:極めて多く総じて一切の十一触に縁じて起きる、と。もしそうなら、五識は総じて境に縁ずるゆえに、五識身は共相境を取って自相境を取らないはめになる。処の自相に約して、五識身は自相境を取って事の自相を取らないと許せば、これにいかなる過失があるか。今思択すべきである:身・舌の二根に両境が俱に至るとき、いずれの識が先に起きるか。境の強盛に随ってあの識が先生じ、境が均平ならば舌識が先に起きる。食飲が身を引いて相続せしめるゆえである。根境および取境の相を説いたので、無表の色相を今次に説くべきである。頌に曰く:
亂心無心等,隨流淨不淨,
乱心・无心等に随流する浄・不浄の、
大種所造性,由此說無表。
大種所造の性を、これによって無表と説く。
論曰:亂心者,謂此餘心。無心者,謂入無想及滅盡定。等,言顯示不亂有心。相似相續說名隨流。善與不善名淨不淨。為簡諸得相似相續,是故復言大種所造。毘婆沙說:造是因義,謂作生等五種因故。顯立名因,故言由此。無表雖以色業為性如有表業,而非表示令他了知,故名無表。說者顯此是師宗言,略說表業及定所生善不善色名為無表。既言無表大種所造,大種云何?頌曰:
論に曰く:乱心とは、いわゆるこの余の心。无心とは、いわゆる無想および滅尽定に入るもの。「等」の語は不乱の有心を顕す。相似相続を随流と名づく。善と不善とを浄・不浄と名づく。諸の得の相似相続を簡ぶがゆえに、また大種所造と説く。毘婆沙に曰く:造は因の義で、いわゆる生等の五種の因を作すゆえ、と。立名の因を顕すゆえに「由此」と説く。無表は色業を性とし有表業の如しと雖も、他に知らしめる表示ではないゆえに無表と名づく。「説」の字はこれが師の宗の言なるを顕す。略して表業および定所生の善・不善の色を無表と名づく。無表は大種所造と既に説いた。大種とは何か。頌に曰く:
大種謂四界,即地水火風,
大種とはいわゆる四界、すなわち地・水・火・風で、
能成持等業,堅濕煖動性。
持等の業を成じ、堅・湿・煖・動を性とする。
論曰:地、水、火、風能持自相及所造色,故名為界,如是四界亦名大種,一切餘色所依性故、體寬廣故。或於地等增盛聚中形相大故,或起種種大事用故。此四大種能成何業?如其次第能成持、攝、熟、長四業,地界能持,水界能攝,火界能熟,風界能長。長謂增盛或復流引。業用既爾,自性云何?如其次第即用堅、濕、煖、動為性,地界堅性,水界濕性,火界煖性,風界動性。由此能引大種造色,令其相續生至餘方,如吹燈光,故名為動。《品類足論》及契經言:云何名風界?謂輕等動性。復說輕性為所造色,故應風界動為自性,舉業顯體故亦言輕。云何地等?地等界別。頌曰:
論に曰く:地・水・火・風は自相および所造色を持しうるゆえに界と名づき、このように四界をまた大種と名づく。一切の其余の色の依とする性なるゆえ、体が広大なるゆえである。あるいは地等の増盛の聚中に形相が大なるゆえ、あるいは種種の大事の用を起すゆえである。この四大種はいかなる業を成じるか。この次第によって持・摂・熟・長の四業を成じ、地界は能持、水界は能摂、火界は能熟、風界は能長。長とはいわゆる増盛、あるいはまた流引である。業用既にこの如し、自性はいかに。この次第に堅・湿・煖・動を用いて性とし、地界は堅性、水界は湿性、火界は煖性、風界は動性。これによって大種が造色を引き、相続して余方に生ぜしめる、灯の光を吹くが如し、ゆえに動と名づく。『品類足論』および契経に説く:何を風界と名づけるか。いわゆる軽等の動性、と。また軽性を所造色と説くゆえに、風界は動を自性とすべく、業を挙げて体を顕すゆえにまた軽とも説く。地等とは何か。地等界を分別すれば。頌に曰く:
地謂顯形色,隨世想立名;
地とはいわゆる顕形色で、世間の想に随って名を立て、
水火亦復然,風即界亦爾。
水・火もまたこの如く、風はすなわち界にしてもまたしかり。
論曰:地謂顯形,色處為體,隨世間想假立此名。由諸世間相示地者,以顯形色而相示故。水火亦然。風即風界,世間於動立風名故。或如地等隨世想名,風亦顯形,故言亦爾。如世間說黑風團風,此用顯形表示風故。何故此蘊無表為後說為色耶?由變壞故。如世尊說:苾芻當知,由變壞故名色取蘊。誰能變壞?謂手觸故即便變壞。乃至廣說。變壞即是可惱壞義,故義品中作如是說:
論に曰く:地とはいわゆる顕形で、色処を体とし、世間の想に随って仮にこの名を立てる。諸の世間が地を示す相が、顕形色をもって相示するゆえである。水・火もこの如し。風はすなわち風界で、世間が動において風の名を立てるゆえである。あるいは地等の如く世間の想に随う名で、風もまた顕形なり、ゆえに「亦爾」と説く。世間が黒風・団風と説くが如く、これは顕形をもって風を表示するゆえである。なぜこの蘊は無表をもって後とし色と説くか。変壞するゆえである。世尊が説く如く:比丘よ、変壞するゆえに色取蘊と名づくと知るべし、と。誰が変壞するか。いわゆる手に触れればすなわち変壞する、乃至広く説く。変壞はすなわち悩壞しうる義ゆえに、義品の中にかく説く:
趣求諸欲人,常起於希望,
諸欲に趣求する人は、常に希望を起こし、
諸欲若不遂,惱壞如箭中。
諸欲が遂げられなければ、悩壊すること矢に中てられるが如し。
色復云何?欲所惱壞,欲所擾惱變壞生故。有說:變礙故名為色。若爾,極微應不名色,無變礙故。此難不然。無一極微各處而住,眾微聚集變礙義成。過去未來應不名色,此亦曾當有變礙故;及彼類故,如所燒薪,諸無表色應不名色。有釋:表色有變礙故,無表隨彼亦受色名。譬如樹動影亦隨動。此釋不然,無變礙故。又表滅時無表應滅,如樹滅時影必隨滅。有釋:所依大種變礙,故無表業亦得色名。若爾,所依有變礙故,眼識等五應亦名色。此難不齊。無表依止大種轉時,如影依樹光依珠寶。眼等五識依眼等時則不如是,唯能為作助生緣故。此影依樹光依寶言,且非符順毘婆沙義。彼宗影等顯色極微,各自依止四大種故。設許影光依止樹寶,而無表色不同彼依,彼許所依大種雖滅,而無表色不隨滅故。是故所言未為釋難。復有別釋彼所難言:眼識等五所依不定,或有變礙謂眼等根,或無變礙謂無間意,無表所依則不如是,故前所難定為不齊,變礙名色理得成就。頌曰:
(論に続けて曰く:)色とはまた何か。欲に悩壊せられる、すなわち欲に擾悩されて変壊が生ずるゆえである。ある人の説に:変礙するゆえに色と名づく、と。もしそうなら、極微は変礙がないゆえに色と名づけられるべきではない。この難は然らず。一つの極微も各処に住するものではなく、衆微が聚集して変礙の義が成ずる。過去・未来は色と名づけられるべきではないと言うが、これもかつて変礙があったゆえ、およびあの類であるゆえである。焼かれる薪の如し。諸の無表色は色と名づけられるべきではないと言うが、ある人の釈に:表色は変礙あるゆえ、無表はそれらに随って色の名を受ける、と。譬えば樹が動けば影も随って動く。この釈は然らず、変礙がないゆえである。また表が滅する時、無表も滅すべきである。樹が滅する時に影が必ず随って滅する如く。ある人の釈に:所依の大種が変礙するゆえに、無表業もまた色の名を得る、と。もしそうなら、所依に変礙あるゆえに眼識等の五も色と名づくべきである。この難は斉しくない。無表は大種に依止して転ずる時、影が樹に依り、光が珠宝に依るが如し。眼等の五識が眼等に依る時はそうではなく、ただ助生の縁を為すのみであるゆえ。この「影は樹に依り、光は宝に依る」の説は、また毘婆沙の義に符順しない。あの宗では影等の顕色極微は各自四大種に依止するゆえである。仮に影・光が樹・宝に依止すると許しても、無表色はあの依に同じからず、あの許す所依の大種が滅するとも無表色は随って滅しないゆえである。ゆえにその言は未だ難を釈したことにならない。また別の釈があの難に対して曰く:眼識等の五は所依が定まらず、あるいは変礙ある眼等の根、あるいは変礙なき無間の意、であるのに対し、無表の所依はそうではない。ゆえに前の難は定めて斉しくなく、変礙をもって色と名づける理が成就する。頌に曰く:
此中根與境,許即十處界。
ここで根と境とは、すなわち十処・十界と許す。
論曰:此前所說色蘊性中,許即根境為十處界,謂於處門立為十處。眼處色處廣說乃至身處觸處。若於界門立為十界,眼界色界廣說乃至身界觸界。已說色蘊並立處界,當說受等三蘊處界。頌曰:
論に曰く:この前に説いた色蘊の性の中、すなわち根と境が十処界と許される。いわゆる処門において十処と立てる。眼処・色処、広く説き乃至身処・触処。界門において立てれば十界、眼界・色界、広く説き乃至身界・触界。色蘊を説きあわせて処界を立てたので、受等の三蘊の処界を説くべきである。頌に曰く:
受領納隨觸,想取像為體,
受は触に随う領納をもってし、想は像を取るをもって体とし、
四餘名行蘊,如是受等三,
四蘊の余を行蘊と名づける。このように受等の三と、
及無表無為,名法處法界。
および無表・無為を法処・法界と名づける。
論曰:受蘊謂三,領納隨觸,即樂及苦、不苦不樂。此復分別成六受身,謂眼觸所生受乃至意觸所生受。想蘊謂能取像為體,即能執取青黃長短、男女怨親、苦樂等相。此復分別成六想身,應如受說。除前及後色、受、想、識,餘一切行名為行蘊。然薄伽梵於契經中說六思身為行蘊者,由最勝故。所以者何?行名造作,思是業性造作義強,故為最勝。是故佛說若能造作有漏有為名行取蘊。若不爾者,餘心所法及不相應,非蘊攝故應非苦集,則不可為應知應斷。如世尊說:若於一法未達未知,我說不能作苦邊際。未斷未滅說亦如是。是故定應許除四蘊餘有為行皆行蘊攝。即此所說受、想、行、蘊,及無表色、三種無為,如是七法於處門中立為法處,於界門中立為法界。已說受等三蘊處界,當說識蘊並立處界。頌曰:
論に曰く:受蘊とはいわゆる三で、触に随う領納、すなわち楽および苦・不苦不楽である。これをまた分別して六受身とする、いわゆる眼触所生の受から意触所生の受に至るまで。想蘊とはいわゆる能く像を取るを体とし、すなわち能く青・黄・長・短、男・女・怨・親、苦・楽等の相を執取するものである。これをまた分別して六想身とし、受の如く説くべし。前および後の色・受・想・識を除く其余一切の行を行蘊と名づく。しかるに薄伽梵(世尊)が契経の中で六思身を行蘊と説いたのは、最勝なるゆえである。なぜか。行は造作と名づけ、思は業性の造作の義が強いゆえに最勝となる。ゆえに仏は「能く有漏有為を造作する者を行取蘊と名づく」と説いた。そうでなければ、其余の心所法および不相応は蘊の所摂でないゆえに苦集でないはめになり、応知応断と為し得ない。世尊が説く如く:若し一法において未達・未知ならば、私は苦の辺際を作ること能わずと説く、と。未断・未滅についての説もまたこの如し。ゆえに必ず四蘊を除く其余の有為行はみな行蘊の所摂と許すべきである。すなわちここに説く受・想・行蘊、および無表色・三種無為、このような七法は処門において法処と立て、界門において法界と立てる。受等の三蘊の処界を説いたので、識蘊を説きあわせて処界を立てるべきである。頌に曰く:
識謂各了別,此即名意處,
識とはそれぞれの了別であり、これをすなわち意処と名づけ、
及七界應知,六識轉為意。
および七界はすなわち六識の転じて意となると知るべし。
論曰:各各了別彼彼境界,總取境相故名識蘊。此復差別有六識身,謂眼識身至意識身。應知如是所說識蘊,於處門中立為意處。於界門中立為七界,謂眼識界至意識界,即此六識轉為意界。如是此中所說五蘊,即十二處並十八界,謂除無表,諸餘色蘊即名十處,亦名十界。受想行蘊、無表、無為總名法處,亦名法界。應知識蘊即名意處,亦名七界,謂六識界及與意界。豈不識蘊唯六識身,異此說何復為意界?更無異法。即於此中頌曰:
論に曰く:各々に彼彼の境界を了別し、総じて境の相を取るゆえに識蘊と名づく。これにまた差別ありて六識身あり、いわゆる眼識身から意識身に至る。このように説く識蘊は処門において意処と立てると知るべし。界門においては七界と立て、いわゆる眼識界から意識界に至るまでで、すなわちこの六識が転じて意界となる。このようにここに説く五蘊は、すなわち十二処並びに十八界である。いわゆる無表を除く諸の其余の色蘊はすなわち十処と名づけ、また十界とも名づく。受・想・行蘊・無表・無為は総じて法処と名づけ、また法界とも名づく。識蘊はすなわち意処と名づけ、また七界とも名づく、いわゆる六識界および意界と知るべし。さて識蘊はただ六識身のみか、これに異なりて何を説いてまた意界と為すか。更に異法なし。すなわちこの中に頌に曰く:
由即六識身,無間滅為意。
すなわち六識身が、無間に滅して意と為るによる。
論曰:即六識身無間滅已,能生後識故名意界,謂如此子即名餘父,又如此果即名餘種。若爾實界應唯十七或唯十二,六識與意更相攝故,何緣得立十八界耶?頌曰:
論に曰く:すなわち六識身が無間に滅して已に、後の識を生ぜしめうるゆえに意界と名づく。いわゆるこの子はすなわち彼の父と名づけ、この果はすなわち彼の種と名づくが如し。もしそうなら、実の界はただ十七またはただ十二であるはずで、六識と意は更互に摂し合うゆえ、いかなる縁で十八界を立てるか。頌に曰く:
成第六依故,十八界應知。
第六の所依を成ぜんがためのゆえ、十八界を立てると知るべし。
