Libo

説一切有部倶舎論 巻第八

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第11巻 / 38

餘復釋言:餘契經說,非理作意為無明因,無明復生非理作意,非理作意說在觸時,故餘經說:眼色為緣生痴,所生染濁作意,此於受位必引無明故。餘經言:由無明觸所生諸受為緣生愛。是故觸時非理作意與受俱轉,無明為緣。由此無明,無無因過,亦不須立餘緣起支。又緣起支無無窮失,非理作意從痴生故。如契經說:眼色為緣生痴,所生染濁作意。餘經雖有如是誠言,然此經中應更須說。不須更說。如何證知?由理證知。何等為理?非離無明受能為愛緣,以阿羅漢受不生愛故。又非無倒觸能為染受緣,亦非離無明觸可成顛倒,阿羅漢觸非顛倒故。由如是理為證故知。若爾,便應有太過失。諸由正理可得證知,一切皆應不須更說,故彼所說不成釋難。然上所言,經不別說老死有果、無明有因,生死便成有終始者,此難非理,經意別故。亦非所說理不圓滿。所以者何?此經但欲除所化者三際愚故。由所化者唯生是疑:云何有情三世連續,謂從前世今世得生,今世復能生於後世。如來但為除彼疑情,說十二支如前已辯,謂前後中際為遣他愚惑。如世尊告諸苾芻言:吾當為汝說緣起法、緣已生法。此二何異?且本論文此二無別,以俱言攝一切法故。如何未來未已起法,可同過現說緣已生?云何未來未已作法,得同過現說名有為?由能作思力已造故。若爾,無漏如何有為?彼亦善思力已造故。若爾,就得涅槃應然。理實應言依種類說,如未變壞亦得色名,由種類同所說無失。然今正釋契經意者,頌曰:

(論に続けて曰く:)余は復た釋して説く:余の契経に説く、非理作意は無明の因と為り、無明は復た非理作意を生ず、非理作意は触の時に説く、ゆえに余の経に説く:眼・色を縁として痴を生じ、生ずる所の染濁の作意は、これは受の位において必ず無明を引くゆえ。余の経に説く:無明の触の生ずる所の諸の受を縁として愛を生ず、と。是れを以て触の時の非理作意は受と俱に転じ、無明を縁と為す。此の無明に由りて、無因の過無し、もまた余の縁起の支を立てるを須いず。また縁起の支は無窮の失無し、非理作意は痴より生ずるゆえ。契経の説くが如く:眼・色を縁として痴を生じ、生ずる所の染濁の作意、と。余の経はかくのごとき誠言有ると雖も、しかるにこの経中においてまさに更に説くを須うべし。更に説くを須いず。如何にして証知するか。理に由りて証知す。何等を理と為すか。無明を離れて受は能く愛の縁と為るに非ず、阿羅漢の受は愛を生ぜざるを以て。また無倒の触に非ざれば能く染受の縁と為るに非ず、もまた無明の触を離れて顛倒と成すべからず、阿羅漢の触は顛倒に非ざるゆえ。かくのごとき理を証と為すに由りてゆえに知る。もし爾ならば、便ちまさに太過の失有るべし。諸の正理に由りて証知を得べきは、一切は皆まさに更に説くを須いざるべし、ゆえに彼の説く所は釋難と成らず。しかるに上の言う所は、経は別に老死の果有り・無明の因有りを説かざれば生死は便ち終始有りと成る、此の難は理に非ず、経の意は別なるゆえ。もまた説く所の理は円満ならざるに非ず。所以者何。この経は但だ所化の三際の愚を除かんと欲すゆえ。所化は但だ是の疑を生ずに由りて:如何にして有情は三世連続せんや、いわゆる前世より今世に生ずるを得、今世は復た能く後世を生ず。如来は但だ彼の疑情を除かんが為に、十二支を説くは前に已に弁ずるが如く、いわゆる前・後・中際は他の愚惑を遣らんが為。世尊の諸の苾芻に告げて説くが如く:吾はまさに汝の為に縁起の法・縁已生の法を説かん、と。此の二は何の異なるか。且つ本の論文は此の二は別無し、俱の言は一切法を摂するを以て。如何にして未来の未だ已に起らざる法は、過・現に同じく縁已生と説きうるか。如何にして未来の未だ已に作らざる法は、過・現に同じく有為と説き名づくを得るか。能作の思の力は已に造るに由るゆえ。もし爾ならば、無漏は如何にして有為か。彼もまた善の思の力は已に造るゆえ。もし爾ならば、涅槃を得ればまさにこの如くあるべし。理実はまさに種類に依りて説くべし、未だ変壞せざるももまた色の名を得るが如く、種類同なるに由りて説く所は失なし。しかるに今正に契経の意を釋するは、頌に曰く:

此中意正說,因起果已生。

此中意は正に説く、因は起り果は已生と。

論曰:諸支因分說名緣起,由此為緣能起果故。諸支果分說緣已生,由此皆從緣所生故。如是一切二義俱成,諸支皆有因果性故。若爾安立,應不俱成。不爾,所觀有差別故。謂若觀此名緣已生,非即觀斯復名緣起,猶如因果父子等名。尊者望滿意謂:諸法有是緣起非緣已生,應作四句。第一句者,謂未來法。第二句者,謂阿羅漢最後心位過現諸法。第三句者,餘過現法。第四句者,諸無為法。經部諸師作如是白:此中所說為述己情、為是經義?若是經義,經義不然。所以者何?且前所說分位緣起,十二五蘊為十二支,違背契經,經異說故。如契經說:云何為無明?謂前際無智乃至廣說。此了義說,不可抑令成不了義。故前所說分位緣起,經義相違。非一切經皆了義說,亦有隨勝說。如《象跡喻經》:云何內地界?謂髮毛爪等。雖彼非無餘色等法,而就勝說。此亦應爾。所引非證,非彼經中欲以地界辯髮毛等成非具說,然彼經中以髮毛等分別地界,非有地界越髮毛等,故彼契經是具足說。此經所說無明等支,亦應如彼成具足說,除所說外無復有餘。豈不地界越髮毛等洟淚等中其體亦有,洟等皆亦說在彼經。如說復有身中餘物,設復同彼有餘無明,今應顯示;若引異類置無明中,此有何益?雖於諸位皆有五蘊,然隨此有無,彼定有無者可立此法為彼法支。或有五蘊而無有行——隨福、非福、不動行——、識乃至愛等,是故經義即如所說。所說四句理亦不然。若未來諸法非緣已生者,便違契經。經說:云何緣已生法?謂無明行至生老死。或應不許二在未來,是則壞前所立三際。有說:緣起是無為法,以契經言:如來出世若不出世,如是緣起法性常住。由如是意理則可然,若由別意理則不然。云何如是意?云何為別意?而說可然及不可然。

論に曰く:諸支の因の分は縁起と説き名づく、此に由りて縁と為りて能く果を起すゆえ。諸支の果の分は縁已生と説き名づく、此に由りて皆縁の生ずる所よりするゆえ。かくのごとき一切は二義俱に成る、諸支は皆因果の性有るゆえ。もし爾の安立なれば、まさに俱に成らざるべし。然らず、観る所に差別有るゆえ。いわゆるもし此を観じて縁已生と名づくれば、即ち斯を観じて復た縁起と名づくに非ず、猶お因・果・父・子等の名のごとし。尊者望満の意の謂う:諸法に是れ縁起にして縁已生に非ざる有り、まさに四句を作すべし。第一句とは、いわゆる未来の法。第二句とは、いわゆる阿羅漢の最後の心の位の過・現の諸法。第三句とは、余の過・現の法。第四句とは、諸の無為の法。経部の諸師はかくのごとき白を作す:此中の説く所は是れ己の情を述ぶるか、是れ経の義か。もし経の義ならば、経の義は然らず。所以者何。且つ前の説く所の分位の縁起は、十二の五蘊を十二支と為す、契経に違背す、経は異に説くゆえ。契経の説くが如く:何を無明とするか。いわゆる前際の無智、乃至広説。これは了義の説、抑して了義に成らざらしむべからず。ゆえに前の説く所の分位の縁起は、経の義に相違す。一切の経は皆了義の説に非ず、もまた随勝の説有り。『象跡喩経』の如く:何を内の地界とするか。いわゆる髮・毛・爪等。彼に余の色等の法無きに非ずと雖も、而も勝に就きて説く。此もまたまさにこの如くあるべし。引く所は証に非ず、彼の経中は地界を以て髮毛等を弁じて具説に非ざると成さんと欲するに非ず、しかるに彼の経中は髮毛等を以て地界を分別す、地界有りて髮毛等を越ゆるに非ず、ゆえに彼の契経は是れ具足の説。この経の説く所の無明等の支も、またまさに彼の如く具足の説と成るべし、説く所の外には復た余有る無し。豈に地界は髮毛等を越えて洟・涙等中にもその体有るや、洟等は皆もまた彼の経に説けり。復た身中の余の物有りと説くが如く、設ひ復た彼に同じく余の無明有らばも、今まさに顕示すべし、もし異類を引きて無明中に置かば、此に何の益か有らん。諸の位において皆五蘊有ると雖も、しかるに此の有無に随い、彼は定めて有無するを以て此法を彼の法の支と立つべし。あるいは五蘊有りて而行無し——福・非福・不動の行に随い——、識乃至愛等、是れを以て経の義は即ち説く所の如し。説く所の四句の理もまた然らず。もし未来の諸法は縁已生に非ざれば、便ち契経に違す。経に説く:何を縁已生の法とするか。いわゆる無明・行より生・老死に至る。あるいはまさに二の未来に在るを許さざるべく、是則ち前の立つ所の三際を壞す。ある説に:縁起は是れ無為の法、契経に説くを以て:如来は出世すとも若し出世せずとも、かくのごとき縁起の法性は常住なり、と。この意に由りて理は則ち可なり、もし別の意に由れば理は則ち然らず。如何にしてこの意か。如何にして別の意か。而も説いて可なりおよび不可なり。

謂若意說,如來出世若不出世,行等常緣無明等起非緣餘法,或復無緣故言常住。如是意說,理則可然。若謂意說有別法體名為緣起湛然常住,此別意說,理則不然。所以者何?生起俱是有為相故。非別常法為無常相可應正理。又起必應依起者立,此常住法彼無明等何相關預,而說此法依彼而立為彼緣起?又名緣起而謂目常,如是句義無相應理。此中緣起是何句義?缽剌底是至義,醫底界是行義。由先助力界義轉變,故行由至轉變成緣。參是和合義,嗢是上升義,缽地界是有義。有藉合升轉變成起,由此有法至於緣已和合升起,是緣起義。如是句義理不應然。所以者何?依一作者有二作用。於前作用應有已言,如有一人浴已方食。無少行法有在起前,先至於緣後時方起,非無作者可有作用。故說頌曰:

(論に続けて曰く:)いわゆるもし意の説くは、如来の出世も若し出世せざるとも、行等は常に無明等に縁りて起りて余の法に縁らず、あるいは復た縁無きゆえに常住と説く。かくのごとき意の説は、理は則ち可なり。もし意の説くは別に法体有りて縁起と名づき湛然として常住と謂わば、この別の意の説は、理は則ち然らず。所以者何。生・起は俱に是れ有為の相なるゆえ。別の常法は無常の相と為るは正理に応ずべからざるに非ず。また起は必ずまさに起に依りて立つべし、この常住の法は彼の無明等と何の関預かあらん、而もこの法を彼に依りて立ちて彼の縁起と為すと説くや。また縁起と名づきて而も常を目すと謂う、かくのごとき句義は相応の理無し。此中の縁起は是れ何の句義ぞ。鉢剌底(プラティ)は是れ至の義、医底(イティ)の界は是れ行の義。先の助力に由りて界の義は転変し、ゆえに行は至に由りて転変して縁と成る。参(サン)は是れ和合の義、嗢(ウッ)は是れ上升の義、鉢地(パッディ)の界は是れ有の義。有は合升に藉りて転変して起と成る、此に由りて法有りて縁に至り已に和合して升起す、是れ縁起の義。かくのごとき句義は理はまさにこの如くあるべからず。所以者何。一の作者に依りて二の作用有り。前の作用においてまさに已の言有るべし、一人の浴し已りて方に食する有るが如し。少しの行法も起の前に在有る無く、先に縁に至りて後の時に方に起る、作者無しにして作用有るべからざるに非ず。ゆえに頌に説く:

至緣若起先,非有不應理,

縁に至りてもし起先ならば、有に非ずして理に応ぜず、

若俱便壞已,彼應先說故。

もし俱ならば便ち已に壞る、彼はまさに先に説くゆえ。

無如是過。且應反詰聲論諸師:法何時起?為在現在、為在未來?設爾何失?起若現在,起非已生,如何成現?現是已生,復如何起?已生復起,便致無窮。起若未來,爾時未有,何成作者?作者既無,何有作用?故於起位即亦至緣。起位者何?謂未來世諸行正起,即於此位亦說至緣。又聲論師妄所安立作者作用,理實不成。有是作者,起是作用,非於此中見有作者。異起作用真實可得,故此義言於俗無謬。此緣起義,即是所說依此有彼有、此生故彼生,故應引彼釋緣起義。故說頌言:

(論に続けて曰く:)この如きの過無し。且つまさに反りて声論の諸師に詰すべし:法は何の時に起るか。是れ現在か、是れ未来か。設ひ爾らば何の失か有らん。起はもし現在ならば、起は已生に非ず、如何にして現と成るか。現は是れ已生、復た如何にして起らん。已生にして復た起れば、便ち無窮に致らん。起はもし未来ならば、爾の時は未だ有らず、何ぞ作者と成らんや。作者既に無ければ、何ぞ作用有らんや。ゆえに起の位において即ちもまた縁に至る。起の位とは是れ何ぞ。いわゆる未来世の諸行の正に起こる、即ちこの位においてもまた縁に至ると説く。もまた声論師の妄に安立する所の作者・作用は、理は実に成らず。有は是れ作者、起は是れ作用、此の中において作者有るを見るに非ず。起の作用に異なりて真実に得べく、ゆえにこの義は俗において説くは謬無し。この縁起の義は、即ち説く所の此の有に依りて彼有り、此の生ずるゆえに彼生ず、ゆえにまさに彼を引きて縁起の義を釋すべし。ゆえに頌に説く:

如非有而起,至緣應亦然,

非有にして起るが如く、縁に至るはまさにもまたこの如し、

生已起無窮,或先有非有,

生已って起れば無窮、あるいは先有すれば非有なり、

俱亦有言已,闇至已燈滅,

俱ならばもまた已の言有り、暗は至り已りて灯は滅せりと、

及開口已眠,若後眠應閉。

および口を開き已りて眠る、もし後に眠らばまさに閉ずべし。

有執:更以餘義釋難。缽剌底是種種義,醫底界是不住義。不住由種種,助故變成緣。參是聚集義,嗢是上升義,缽地界是行義。由嗢為先,行變成起。此說種種緣和合已,令諸行法聚集昇起,是緣起義。

(論に続けて曰く:)ある執に:更に余の義を以て難を釋す。鉢剌底は是れ種種の義、医底の界は是れ不住の義。不住は種種に由りて、助するゆえに変じて縁と成る。参は是れ聚集の義、嗢は是れ上升の義、鉢地の界は是れ行の義。嗢を先と為すに由りて、行は変じて起と成る。此の説くは種種の縁和合し已りて、諸の行法をして聚集して升起せしむ、是れ縁起の義、と。

如是所釋,於此可然。眼色各為緣,起於眼識等。此中種種聚集豈成?何故世尊說前二句,謂依此有彼有及此生故彼生。為於緣起知決定故。如餘處說,依無明有諸行得有,非離無明可有諸行。又為顯示諸支傳生,謂依此支有彼支得有,由彼支生故餘支得生。又為顯示三際傳生,謂依前際有中際得有,由中際生故後際得生。又為顯示親傳二緣,謂有無明無間生行,或展轉力諸行方生。有餘師釋:如是二句為破無因、常因二論,謂非無因諸行可有,亦非由常自性我等無生因故諸行得生。若爾,便成前句無用,但由後句此生故彼生,能具破前無因常因故。然或有執有我為依行等得有,由無明等因分生故行等得生。是故世尊為除彼執,決判果有即由生因。若此生故彼生,即依此有彼有,非謂果有別依餘因。謂無明緣行,乃至如是純大苦蘊集。軌範諸師釋此二句,為顯因果不斷及生,謂依無明不斷諸行不斷,即由無明生故諸行得生。如是展轉皆應廣說。有釋:為顯因果住生,謂乃至因相續有果相續亦有,及即由因分生故諸果分亦生。此欲辯生,何緣說住?又佛何故破次第說,先說住已而後說生?復有釋言:依此有彼有者,依果有因有滅。此生故彼生者,恐疑果無因生,是故復言由因生故果方得起,非謂無因。經義若然,應作是說,依此有彼滅無。又應先言因生故果生,已後乃可說依果有因滅無,如是次第方名善說。若異此者,欲辯緣起,依何次第先說因滅?故彼所釋非此經義。

(論に続けて曰く:)かくのごとき釋する所は、此において可なり。眼・色は各々縁と為りて、眼識等を起こす。此中の種種の聚集は豈に成らんや。何の故に世尊は前の二句を説くや、いわゆる此に依りて彼有りおよび此の生ずるゆえに彼生ず。縁起において決定を知るを為すゆえ。余の処の説くが如く、無明に依りて諸行の得有ること有り、無明を離れて諸行有るべからず。また諸支の伝生を顕示せんが為、いわゆる此の支に依りて彼の支の得有ること有り、彼の支の生ずるに由りて余の支の生ずるを得。また三際の伝生を顕示せんが為、いわゆる前際に依りて中際の得有ること有り、中際の生ずるに由りて後際の生ずるを得。また親伝の二縁を顕示せんが為、いわゆる無明有りて無間に行を生じ、あるいは展転の力に由りて諸行方に生ず。ある余師の釋に:かくのごとき二句は無因・常因の二論を破らんが為、いわゆる無因に非ずして諸行の有る可く、もまた常の自性・我等の無生の因に由らずして諸行の生ずるを得るに非ず、と。もし爾ならば、便ち前句は無用と成らん、但だ後句の此の生ずるゆえに彼生ずに由りて、能く具に前の無因・常因を破るゆえ。しかるに或るは執して我を依と為して有りて行等の得を有り、無明等の因の分の生ずるに由りて行等の生ずるを得。是れを以て世尊は彼の執を除かんが為に、果の有は即ち生因に由ると決判す。もし此の生ずるゆえに彼生ずれば、即ち此に依りて彼有りなり、果に別に余の因に依る有るを謂うに非ず。いわゆる無明は行に縁し、乃至かくのごとき純大苦蘊の集。軌範の諸師はこの二句を釋して、因果の断えずおよび生ずるを顕さんが為と為す、いわゆる無明に依りて断えざれば諸行断えず、即ち無明の生ずるに由りて諸行の生ずるを得。かくのごとき展転は皆まさに広説すべし。ある釋に:因果の住・生を顕さんが為、いわゆる乃至因の相续有れば果の相续もまた有り、および即ち因の分の生ずるに由りて諸の果の分もまた生ず、と。此は生を弁ぜんと欲す、何の縁に住を説くか。また仏は何の故に次第を破りて説き、先に住を説き已りて而も後に生を説くや。復た釈に説く:此に依りて彼有りとは、果に依りて因の滅無の有るを依る。此の生ずるゆえに彼生ずとは、果は因無くして生ずと疑わんことを恐れ、是れを以て復た説く、因の生ずるに由りて果方に起るを得、無因を謂うに非ず、と。経の義もしこの如くならば、まさに是の説を作すべし、此に依りて彼の滅無有り、と。またまさに先に因の生ずるゆえに果生ずを説き、已って後に乃ち果に依りて因の滅無有りと説くべし、かくのごとき次第方に善説と名づく。もし此に異ならば、縁起を弁ぜんと欲して、何の次第に依りて先に因の滅を説くか。ゆえに彼の釋する所は此の経の義に非ず。

復次云何無明緣行,廣說乃至生緣老死?我今略顯符順經義。謂諸愚夫於緣生法不知唯行,妄起我見及我慢執,為自受樂非苦樂故,造作身等各三種業,謂為自身受當樂故造諸福業,受當來樂非苦樂故造不動業,受現樂故造非福業。如是名為無明緣行。由引業力識相續流如火焰行,往彼彼趣憑附中有,馳赴所生結生有身,名行緣識。若作此釋善順契經分別識支通於六識,識為先故。於此趣中有名色生,具足五蘊展轉相續遍一期生,於《大因緣》、《辯緣起》等諸經皆有如是說故。如是名色漸成熟時,具眼等根說為六處,次與境合便有識生,三和故有順樂等觸。依此便生樂等三受,從此三受引生三愛,謂由苦逼有於樂受發生欲愛,或有於樂非苦樂受發生色愛,或有唯於非苦樂受生無色愛。從欣受愛,起欲等取。此中欲者謂五妙欲。見謂六十二見,如《梵網經》廣說。戒謂遠離惡戒。禁謂狗牛等禁。如諸離繫及婆羅門,播輸缽多般利、伐羅勺迦等異類外道,受持種種露形拔髮、披烏鹿皮、持髻塗灰、執三杖、剪鬚髮等無義苦行。我語謂內身依之說我故。有餘師說:我見我慢名為我語。云何此二獨名我語?由此二種說有我故,我非有故說名我語。如契經說:苾芻當知,愚昧無聞諸異生類,隨假言說起於我執,於中實無我及我所。於前四種,取謂欲貪。故薄伽梵諸經中釋,云何為取?所謂欲貪。由取為緣,積集種種招後有業,說名為有。如世尊告阿難陀言:招後有業說名為有,有為緣故。識相續流趣未來生,如前道理具足五蘊說名為生。以生為緣便有老死,其相差別廣說如經。如是純言,顯唯有行無我我所。大苦蘊言顯苦積集無初無後。集言為顯諸苦蘊生。毘婆沙宗如前已說。

(論に続けて曰く:)復た次に如何にして無明は行に縁し、広説して乃至生は老死に縁するか。我は今略して経の義に符順するを顕す。いわゆる諸の愚夫は縁生の法においてただ行なるを知らずして、妄に我見および我慢の執を起し、自ら楽・非苦楽を受けんが為に、身等各の三種の業を造作す、いわゆる自身に当の楽を受けしめんが為に諸の福業を造り、当来の楽・非苦楽を受けんが為に不動業を造り、現の楽を受けんが為に非福業を造る。かくのごときを無明は行に縁すと名づく。業を引く力に由りて識は相续の流れは火焰の行くが如く、彼彼の趣に往きて中有に憑附し、生ずる所に馳赴きて結生して身有るを、行は識に縁すと名づく。もしこの釋を作さば善く契経に順い識の支を分別して六識に通ず、識を先と為すゆえ。この趣中において名色生じ、具足して五蘊展転相续して一期生に遍し、『大因縁』・『弁縁起』等の諸経に皆かくのごとき説有るゆえ。かくのごとき名色は漸に成熟する時、眼等の根を具して六処と説き、次に境と合して便ち識の生有り、三和のゆえに順楽等の触有り。此に依りて便ち楽等の三受を生じ、此の三受より三愛を引生す、いわゆる苦の逼に由りて楽受において欲愛を発生する有り、あるいは楽・非苦楽の受において色愛を発生する有り、あるいはただ非苦楽の受において無色愛を生ずる有り。欣受の愛より、欲等の取を起こす。此中の欲とは五妙欲を謂う。見とは六十二見を謂う、『梵網経』に広説するが如し。戒とは悪戒を遠離するを謂う。禁とは狗・牛等の禁を謂う。諸の離系および婆羅門、播輸鉢多般利・伐羅勺迦等の異類の外道の如く、種種の露形・拔髮・披烏鹿皮・持髻・塗灰・執三杖・剪鬚髮等の無義の苦行を受持す。我語とは内身に依りて我を説くゆえ。ある余師の説に:我見・我慢を我語と名づく、と。如何にしてこの二は独り我語と名づくか。此の二種に由りて我有りと説くゆえ、我は有るに非ざるゆえに我語と説き名づく。契経の説くが如く:苾芻まさに知るべし、愚昧にして聞無き諸の異生類は、假の言説に随いて我執を起こし、その中に実に我および我所無し、と。前の四种において、取とは欲貪を謂う。ゆえに薄伽梵の諸経中の釋す、何を取とするか。いわゆる欲貪。取を縁と為すに由りて、種種の後有を招く業を積集し、有と説き名づく。世尊の阿難陀に告げて説くが如く:後有を招く業は有と説き名づく、有の縁と為すゆえ、と。識の相续の流れは未来の生に趣き、前の道理の如く具足して五蘊は生と説き名づく。生を縁と為すを以て便ち老死有り、その相の差別は広説は経の如し。かくのごとき純の言は、ただ行有りて我・我所無きを顕す。大苦蘊の言は苦の積集は初無く後無きを顕す。集の言は諸の苦蘊の生ずるを顕さんが為。毘婆沙の宗は前に已に説くが如し。

説一切有部倶舎論 巻第九

アビダルマ倶舎論 巻第十 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別世品第三之三

分別世品 第三之三。

無明何義?謂體非明。若爾,無明應是眼等。既爾,此義應謂明無。若爾,無明體應非有。為顯有體義不濫餘,頌曰:

無明は何の義か。いわゆる体は明に非ず。もし爾ならば、無明はまさに眼等なるべし。既に爾れば、この義はまさに明無と謂うべし。もし爾ならば、無明の体はまさに有に非ざるべし。体の有る義を顕して余に濫らざらんが為、頌に曰く:

明所治無明,如非親實等。

明の治する所の無明、非親・実等の如し。

論曰:如諸親友所對怨敵,親友相違名非親友,非異親友、非親友無。諦語名實,此所對治虛誑言論名為非實,非異於實、亦非實無。等言為顯非法非義,非事等性非異非無。如是無明別有實體,是明所治,非異非無。云何知然?說行緣故。復有誠證。頌曰:

論に曰く:諸の親友の対する所の怨敵の如く、親友に相違するを非親友と名づく、親友に異ならず、親友無きに非ず。諦の語を実と名づき、此の対治する所の虚誑の言論を非実と名づく、実に異なるに非ず、もまた実無きに非ず。等の言は非法・非義を顕さんが為、非事等の性にして異に非ず無きに非ず。かくのごとき無明は別に実体有りて、是れ明の治する所、異に非ず無きに非ず。如何にしてこの如くを知るか。行の縁と為すを説くゆえ。復た誠の証有り。頌に曰く:

說為結等故,非惡慧見故,

結等と為すを説くゆえ、悪慧に非ず見有るゆえ、

與見相應故,說能染慧故。

見と相応するゆえ、能く慧を染むと説くゆえ。

論曰:經說無明以為結縛、隨眠及漏、軛、瀑、流等,非餘眼等及體全無可得說為結縛等事,故有別法說名無明。如惡妻子名無妻子,如是惡慧應名無明,彼非無明有是見故。諸染汙慧名為惡慧,於中有見故非無明。若爾,非見慧應許是無明。不爾,無明見相應故。無明若是慧,應見不相應,無二慧體共相應故。又說無明能染慧故,如契經言:貪欲染心令不解脫,無明染慧令不清淨,非慧還能染於慧體。如貪異類能染於心。無明亦應異慧能染,如何不許?諸染汙慧間雜善慧令不清淨說為能染,如貪染心令不解脫,豈必現起與心相應方說能染?然由貪力損縛於心令不解脫,後轉滅彼貪燻習時心便解脫。如是無明染汙於慧令不清淨,非慧相應,但由無明損濁於慧。如是分別何理相違,誰復能遮自所分別。然異慧類別有無明,如貪異心,此說為善。有執煩惱皆是無明,此亦應同前理遮遣。若諸煩惱皆是無明,於結等中不應別說,亦不應與見等相應,見等不應自相應故。或亦應說無明染心,若謂此中就差別說,應於染慧不說總名。既許無明別法為體,應說此體其相云何。謂不了知諦實業果。未測何相名不了知?為異了知、為此非有?二俱有過,如無明說。此謂了知所治別法。此復難測,其相是何?此類法爾應如是說。如餘處言:云何為眼?謂清淨色眼識所依。無明亦然,唯可辯用。大德法救說此無明是諸有情恃我類性,異於我慢。類體是何?經言:我今如是知已、如是見已,諸所有愛、諸所有見、諸所有類性、諸我我所執、我慢執、隨眠,斷遍知故無影寂滅,故知類性異於我慢。寧知類性即是無明?不可說為餘煩惱故。豈不可說為餘慢等?若更於此巨細研尋,言論繁雜故應且止。名色何義?色如先辯,今唯辯名。頌曰:

論に曰く:経は無明を以て結縛・随眠および漏・軛・瀑・流等と為すと説く、余の眼等および体全く無くして得べからざるを結縛等の事と説くに非ず、ゆえに別の法有りて無明と説き名づく。悪き妻子を無妻子と名づくるが如く、かくのごとき悪慧はまさに無明と名づくべし、彼は無明に非ずして見の有るゆえ。諸の染污の慧を悪慧と名づく、その中に見有るゆえに無明に非ず。もし爾ならば、見に非ざる慧はまさに是れ無明と許すべし。然らず、無明は見と相応するゆえ。無明もし是れ慧ならば、まさに見と相応せざるべし、二の慧の体の共に相応する無きゆえ。また無明は能く慧を染むと説くゆえ、契経の説くが如く:貪欲は心を染めて解脱せしめず、無明は慧を染めて清浄ならしめず、慧は還りて慧の体を染むる能わざるに非ず、と。貪の異類の能く心を染むるが如し。無明もまたまさに慧に異なりて能く染むべし、如何にして許さざるか。諸の染污の慧は善慧に間雑して清浄ならざらしめて能染と説く、貪の心を染めて解脱せしめざるが如く、豈に必ず現起して心と相応して方に能染と説かんや。しかるに貪の力に由りて心を損縛して解脱せしめず、後に彼の貪の熏習を轉滅する時に心は便ち解脱す。かくのごとき無明は慧を染污して清浄ならしめず、慧に相応するに非ず、但だ無明の慧を損濁するに由る。このように分別するは何の理にか相違する、誰か復た能く自ら分別する所を遮らん。しかるに慧の類に異なりて別に無明有り、貪の心に異なるが如く、此の説を善と為す。ある執に煩悩は皆是れ無明、此もまたまさに前の理に同じく遮遣すべし。もし諸の煩悩は皆是れ無明ならば、結等の中においてまさに別に説くべからず、もまたまさに見等と相応すべからず、見等はまさに自ら相応すべからざるゆえ。あるいはもまたまさに無明は心を染むと説くべく、もし此中に就きて差別を説くと謂わば、まさに慧を染むるにおいて総名を説かざるべし。既に無明は別法を体と為すを許せば、まさに此の体のその相如何を説くべし。いわゆる諦・実・業・果を了知せず。未だ何の相を了知せずと名づくるかを測らず、是れ了知に異なるか、是れ非有か。二は俱に過有り、無明の説くが如し。此は了知の治する所の別法を謂う。此は復た測り難し、その相は是れ何ぞ。此の類の法爾はまさにこの如く説くべし。余の処の説くが如く:何を眼とするか。いわゆる清浄の色は眼識の依る所。無明もまたこの如し、ただ用を弁ずべきのみ。大徳法救(ダルマトラータ)はこの無明を説いて是れ諸の有情の我を恃む類の性、我慢に異なり、と。類の体とは是れ何ぞ。経に説く:我は今かくのごとく知り已り、かくのごとく見已り、諸の所有する愛、諸の所有する見、諸の所有する類性、諸の我・我所の執、我慢の執、随眠を断遍知するゆえに影無く寂滅す、ゆえに類性は我慢に異なるを知る、と。寧ぞ類性は即ち是れ無明と知らんや。余の煩悩と為すと説くべからざるゆえ。豈に余の慢等と為すと説くべからざらんや。もし更に此において巨細に研尋せば、言論は繁雑なるゆえにまさに且く止むべし。名色は何の義か。色は先に弁ずるが如く、今ただ名を弁ず。頌に曰く:

名無色四蘊。

名は無色の四蘊。

論曰:無色四蘊何故稱名?隨所立名根境勢力於義轉變,故說為名。云何隨名勢力轉變?謂隨種種世共立名,於彼彼義轉變詮表,即如牛馬色味等名。此復何緣標以名稱?於彼彼境轉變而緣。又類似名,隨名顯故。有餘師說:四無色蘊,捨此身已轉趣餘生,轉變如名,故標名稱。觸何為義?頌曰:

論に曰く:無色の四蘊は何の故に名と称するか。立つる所の名・根・境の勢力に随い義において転変するゆえに、ゆえに名と説く。如何にして名の勢力に随い転変するか。いわゆる種種の世に共に立つる名に随い、彼彼の義において転変して詮表す、即ち牛・馬・色・味等の名の如し。此は復た何の縁に名称を以て標するか。彼彼の境において転変して縁ず。また類は名に似る、名に随い顕るゆえ。ある余師の説に:四の無色蘊は此の身を捨て已って余の生に転趣し、転変すること名の如し、ゆえに名称を標す、と。触は何を義と為すか。頌に曰く:

觸六三和生。

触は六、三和の生。

論曰:觸有六種,所謂眼觸乃至意觸。此復是何?三和所生,謂根、境、識三和合故有別觸生。且五觸生可三和合,許根境識俱時起故。意根過去、法或未來、意識現在,如何和合?此即名和合,謂因果義成。或同一果故名和合,謂根境識三同順生觸故。諸師於此覺慧不同。有說:三和即名為觸。彼引經證。如契經言:如是三法聚集和合說名為觸。有說:別法與心相應,三和所生說名為觸。彼引經證。經言:云何六六法門?一、六內處;二、六外處;三、六識身;四、六觸身;五、六受身;六、六愛身。此契經中根境識外別說六觸,故觸別有。說即三和名為觸者,釋後所引六六經言,非由別說便有別體。勿受及愛非法處攝無如是失,離愛受觸別有所餘法處體故。汝宗離觸無別有三,可觸及三差別而說,雖有根境不發於識,而無有識不託根境。故已說三,更別說觸便成無用。有餘救言:非諸眼色皆諸眼識因,非諸眼識皆諸眼色果。非因果者別說為三,因果所收總立為觸。說離三和有別觸者,釋前所引如是三法聚集和合名觸。經言我部所誦經文異此,或於因上假說果名,如說諸佛出現樂等。如是展轉更相難釋,言論煩多故應且止。然對法者說有別觸,即前六觸復合為二。頌曰:

論に曰く:触は六種有り、いわゆる眼触乃至意触。此は復た是れ何ぞ。三和の生ずる所、いわゆる根・境・識の三の和合するゆえに別の触生有り。且つ五の触の生は三和合可なり、根・境・識の俱時に起るを許すゆえ。意根は過去、法はあるいは未来、意識は現在、如何にして和合せん。此即ち和合と名づく、いわゆる因果の義成れるを謂う。あるいは同一の果なるゆえに和合と名づく、いわゆる根・境・識の三は同じく順じて触を生ずるゆえ。諸師は此において覚慧同じからず。ある説に:三和は即ち触と名づく。彼は経を引きて証す。契経の説くが如く:かくのごとき三法は聚集和合して触と説き名づく、と。ある説に:別の法有りて心と相応し、三和の生ずる所を触と説き名づく、と。彼は経を引きて証す。経に説く:何を六六の法門とするか。一に六内処、二に六外処、三に六識身、四に六触身、五に六受身、六に六愛身、と。この契経中に根・境・識の外に別に六触を説く、ゆえに触は別有り。即ち三和を触と名づくと説くは、後の引く所の六六経の説を釋す、別に説くに由りて便ち別体有るに由らず。受および愛は法処の摂に非ざるかとの勿れこの如きの失なし、愛・受・触を離れて別に余の法処の体有るゆえ。汝の宗は触を離れて別の三無し、触る可きおよび三の差別にして説けば、根・境有ると雖も識を発せず、而も識有りて根・境に托せざる無し。ゆえに已に三を説いて、更に触を説けば便ち無用と成る。ある余の救いに説く:諸の眼・色は皆諸の眼識の因に非ず、諸の眼識は皆諸の眼・色の果に非ず。因果に非ざるを別説して三と為し、因果の収むる所を総じて触と立つ、と。三和を離れて別の触有りと説くは、前の引く所のかくのごとき三法の聚集和合して触と名づくを釋す。経に説く我が部の誦する経文は此に異なり、あるいは因上において假に果の名を説く、諸仏の出現の楽等を説くが如し、と。かくのごとき展転に更に相い難釋し、言論煩多なるゆえにまさに且く止むべし。しかるに対法は別の触有りと説く、即ち前の六触を復た合して二と成す。頌に曰く:

五相應有對,第六俱增語。

五は相応して有対、第六は倶に増語。

論曰:眼等五觸說名有對,以有對根為所依故。第六意觸說名增語。所以然者,增語謂名,名是意觸所緣長境,故偏就此名增語觸。如說眼識但能了青不了是青,意識了青亦了是青,故名為長。故有對觸名從所依,增語觸名就所緣立。有說:意識語為增上方於境轉,五識不然,是故意識獨名增語,與此相應名增語觸。故有對觸名從所依,增語觸名就相應立。即前六觸隨別相應復成八種。頌曰:

論に曰く:眼等の五触は有対と説き名づく、有対の根を所依と為すを以て。第六の意触は増語と説き名づく。かくのごとき所以は、増語は名を謂い、名は意触の縁ずる所の長の境、ゆえに偏に此に就きて増語触と名づく。眼識は但だ青を了して是れ青を了せず、意識は青を了しもまた是れ青を了すと説くが如く、ゆえに長と名づく。ゆえに有対の触の名は所依に従い、増語の触の名は所縁に就きて立つ。ある説に:意識は語を増上と為して方に境において転ず、五識は然らず、是れを以て意識は独り増語と名づき、此と相応するを増語触と名づく、と。ゆえに有対の触の名は所依に従い、増語の触の名は相応に就きて立つ。即ち前の六触は別の相応に随い復た八種と成る。頌に曰く:

明無明非二,無漏染汙餘,

明・無明・非の二、無漏・染污・其余、

愛恚二相應,樂等順三受。

愛・恚の二の相応、楽等の順する三受。

論曰:明無明等相應成三,一明觸、二無明觸、三非明非無明觸。此三如次,應知即是無漏染汙餘相應觸。餘謂無漏及染汙餘,即有漏善、無覆無記。無明觸中一分數起,依彼復立愛恚二觸,愛恚隨眠共相應故。總攝一切復成三觸:一順樂受觸、二順苦受觸、三順不苦不樂受觸。此三能引樂等受故,或是樂等受所領故,或能為受行相依故,名為順受。如何觸為受所領行?相依行相極似觸,依觸而生故。如是合成十六種觸。受何為義?頌曰:

論に曰く:明・無明等の相応して三を成す、一に明触、二に無明触、三に非明非無明触。此の三は次第の如く、まさに即ち是れ無漏・染污・其余の相応の触と知るべし。其余とは無漏および染污の余を謂い、即ち有漏の善・無覆無記。無明触の中に一分数起有り、彼に依りて復た愛・恚の二触を立つ、愛・恚の随眠と共に相応するゆえ。総じて一切を摂して復た三触と成す:一に順楽受触、二に順苦受触、三に順不苦不楽受触。此の三は能く楽等の受を引くゆえ、あるいは是れ楽等の受の領する所なるゆえ、あるいは能く受の行相の依と為るゆえに、順受と名づく。如何にして触は受の領する所の行か。相の依の行相は極めて触に似る、触に依りて生ずるゆえ。かくのごとき合して十六種の触を成す。受は何を義と為すか。頌に曰く:

從此生六受,五屬身餘心。

此より六受を生じ、五は身に属し余は心。

論曰:從前六觸生於六受,謂眼觸所生受至意觸所生受。六中前五說為身受,依色根故。意觸所生說為心受,但依心故。受生與觸,為後、為俱?毘婆沙師說俱時起,觸受展轉俱有因故。云何二法俱時而生?能生所生義可成立。如何不立?無功能故,於已生法餘法無能。此與立宗義意無別,如言二法俱時而生,能生所生義不成立;於已生法餘法無能,義意同前,重說何用?若爾,便有互相生失。許故非失。我宗許二為俱有因,亦互為果。仁雖許爾,而契經中不許此二互為因果。契經但說:眼觸為緣生眼觸所生受。曾無經說,眼受為緣生眼受所生觸。又此義非理,越能生法故。若法極成能生彼法,此法與彼時別極成。如先種後芽、先乳後酪、先擊後聲、先意後識等,先因後果非不極成。亦有極成同時因果,如眼識等,眼色等俱。四大種俱有所造色,此中亦許前根境緣能發後識。前大造聚生後造色,何理能遮?如影與身,豈非俱有。有說:觸後方有受生,根境為先,次有識起,此三合故即名為觸,第三剎那緣觸生受。若爾,應識非皆有受,諸識亦應非皆是觸。無如是失。因前位觸故,後觸位受生,故諸觸時皆悉有受,所有識體無非是觸。此不應理。何理相違?謂或有時二觸境別,因前受位觸生後觸位受。如何異境受從異境觸生?或應許受此心相應,非與此心同緣一境。既爾,若許有成觸,識是觸無受。於此位前有識有受而體非觸,緣差故然。斯有何過?若爾,便壞十大地法,彼定一切心品恆俱。彼定恆俱依何教立?依本論立。我等但以契經為量,本論非量,壞之何咎?故世尊言:當依經量。或大地法義非要遍諸心。若爾,何名大地法義?謂有三地:一有尋有伺地、二無尋唯伺地、三無尋無伺地。復有三地:一善地、二不善地、三無記地。復有三地:一學地、二無學地、三非學非無學地。

論に曰く:前の六触より六受を生ず、いわゆる眼触の生ずる所の受より意触の生ずる所の受に至る。六中の前の五は身受と説く、色根に依るゆえ。意触の生ずる所は心受と説く、但だ心に依るゆえ。受の生と触とは、是れ後か、是れ俱か。毘婆沙師は俱時に起ると説く、触・受は展転に俱有の因なるゆえ。如何にして二法は俱時に生ずるか。能生・所生の義は成立すべし。如何にして立てざるか。功能無きゆえ、已生の法において余の法は能無し。此は立宗と義意別無きが如し、二法は俱時に生ずると説くが如く、能生・所生の義は成立せず、已生の法において余の法は能無し、義意は前と同じ、重ねて説きて何の用かあらん。もし爾ならば、便ち互いに生ずるの失有らん。許すゆえに失に非ず。我が宗は二を俱有の因と為すを許し、もまた互いに果と為す。仁はかくを許すと雖も、而も契経中には此の二の互いに因果と為るを許さず。契経は但だ説く:眼触を縁と為して眼触の生ずる所の受を生ず。曾て経の説有らず、眼受を縁と為して眼受の生ずる所の触を生ず、と。またこの義は非理、能生の法を越ゆるゆえ。もし法は極成して能く彼の法を生ぜば、この法と彼とは時の別極成す。先に種にして後に芽、先に乳にして後に酪、先に撃にして後に声、先に意にして後に識等の如く、先の因・後の果は極成せざるに非ず。もまた極成の同時因果有り、眼識等の如く、眼・色等は俱なり。四大種は倶に造る所の色有り、此中にもまた前の根・境の縁は能く後の識を発すと許す。前の大造の聚は後の造色を生ず、何の理か能く遮らん。影と身との如く、豈に倶有に非ざらんや。ある説に:触の後に方に受の生有り、根・境を先と為し、次に識の起る有り、此の三の合するゆえに即ち触と名づき、第三の刹那は触に縁りて受を生ず、と。もし爾ならば、まさに識は皆受有るに非ざるを識すべし、諸の識もまたまさに皆是れ触に非ざるべし。この如きの失無し。前位の触を因するゆえに、後の触の位に受を生ず、ゆえに諸の触の時は皆悉く受有り、所有する識の体は触に非ざる無し。此はまさに理に応ぜざるべし。何の理にか相違する。いわゆるあるいは時有りて二の触は境別なり、前の受位の触に因りて後の触位の受を生ず。如何にして異境の受は異境の触より生ずるか。あるいはまさに受は此の心に相応するを許すべく、此の心と同じく一境に縁するに非ず。既に爾れば、もし成る触有るを許せば、識は是れ触にして受無し。此の位の前に識有り受有りて而も体は触に非ず、縁の差するゆえにこの如し。これに何の過か有らん。もし爾ならば、便ち十大の地法を壞す、彼は定めて一切の心品と恒に俱なり。彼の定めて恒に俱なるは何の教に依りて立つか。本論に依りて立つ。我等は但だ契経を以て量と為す、本論は量に非ず、これを壞す何の咎かあらん。ゆえに世尊説く:まさに経の量に依るべし、と。あるいは大地法の義は必ずしも諸の心に遍するを要せず。もし爾ならば、何を大地法の義と名づくるか。いわゆる三の地有り:一に有尋有伺地、二に無尋唯伺地、三に無尋無伺地。復た三の地有り:一に善地、二に不善地、三に無記地。復た三の地有り:一に学地、二に無学地、三に非学非無学地。

若法於前諸地皆有,名大地法。若法唯於諸善地中有,名大善地法。若法唯於諸染地中有,名大煩惱地法。如是等法各隨所應更代而生,非皆並起。餘說如是大不善地法,因誦引來,是今所增益,非本所誦。若於觸後方有受生,經云何釋?如契經說:眼及色為緣生於眼識,三和合觸俱起受想思。但言俱起不說觸俱,此於我宗何違須釋?又於無間亦有俱聲,如契經說:與慈俱行修念覺支。故彼非證。若爾,何故契經中言:是受是想是思是識,如是諸法相雜不離,故無有識離於受等。今應審思,相雜何義?此經復說:諸所受即所思,諸所思即所想,諸所想即所識。未了於此,為約所緣、為約剎那作如是說?於壽與煖俱時起中,亦有如斯相雜言故,例知此說定約剎那。又契經言三和合觸,如何有識而非三和?或是三和而不名觸?故應定許一切識俱悉皆有觸,諸所有觸無不皆與受等俱生。傍論已終,應辯本義。頌曰:

(論に続けて曰く:)もし法は前の諸の地に皆有れば、大地法と名づく。もし法はただ諸の善地中に有れば、大善地法と名づく。もし法はただ諸の染地中に有れば、大煩悩地法と名づく。かくのごとき等の法は各々その応ずる所に随い更代して生ず、皆并びて起るに非ず。余の説はかくのごとき大不善地法は誦を因りて引来り、是れ今の增益する所、本の誦する所に非ず。もし触の後に方に受の生有らば、経は如何に釋せん。契経の説くが如く:眼および色を縁と為して眼識を生じ、三和合の触は倶に受・想・思を起す。但だ倶起を説いて既に触と俱を説かず、此は我が宗において何の違するかあらん、釋を須いんや。また無間においてもまた倶の声有り、契経の説くが如く:慈と倶に行じて念の覚支を修す、と。ゆえに彼は証に非ず。もし爾ならば、何の故に契経中に説く:是れ受是れ想是れ思是れ識、かくのごとき諸法は相雑にして離れず、ゆえに識の受等を離るる有ること無し、と。今まさに審かに思うべし、相雑とは何の義か。この経は復た説く:諸の受くる所は即ち思う所、諸の思う所は即ち想う所、諸の想う所は即ち識する所、と。未だ此において了せず、是れ所縁に約りてか、是れ刹那に約りてかくの説を作すか。寿と暖との倶時に起る中においても、もまた斯の如き相雑の言有るゆえに、例して此の説は定めて刹那に約るを知る。また契経に三和合の触を説く、如何にして識有りて而も三和に非ざらん、あるいは是れ三和にして而も触と名づけざらん。ゆえにまさに定めて一切の識は俱に悉く皆触有りと許すべし、諸の所有する触は受等と倶に生ぜざる無し。傍論已に終る、まさに本義を弁ずべし。頌に曰く:

此復成十八,由意近行異。

此は復た十八と成る、意の近行の異なるに由る。

論曰:於前略說一心受中,由意近行異,復分成十八。應知此復聲,顯乘前起後。此意近行十八云何?謂喜、憂、捨各六近行。此復何緣立為十八?若由自性應但有三,喜憂捨三自性異故。若由相應應唯有一,一切皆與意相應故。若由所緣應但有六,色等六境為所緣故。此成十八,具足由三。於中十五色等近行名不雜緣,境各別故。三法近行皆通二種。意近行名為目何義?傳說喜等意為近緣,於諸境中數遊行故。有說喜等能為近緣,令意於境數遊行故。如何身受非意近行?非唯依意故不名近,由無分別故亦非行。第三靜慮意地樂根,意近行中何故不攝?傳說初界意識相應無樂根故,又無所對苦根所攝意近行故。若唯意地,何故經言:眼見色已,於順喜色起喜近行,廣說如經。依五識身所引意地喜等近行,故作是說。如依眼識引不淨觀,此不淨觀唯意地攝。又彼經言眼見色已乃至廣說,故不應難。若雖非見,乃至觸已而起喜憂捨,亦是意近行。若異此者,在欲界中應無緣色界色等意近行。又在色界應無緣欲香味觸境諸意近行。見色等言隨明瞭說,見色等已於聲等中起喜憂捨亦意近行,隨無雜亂故作是說,於中建立根境定故。為有色等於喜等三,唯能順生一近行不?有就相續非約所緣。諸意近行中幾欲界繫?欲界意近行幾何所緣?色無色界為問亦爾。頌曰:

論に曰く:前に略説せし一心の受中において、意の近行の異なるに由りて、復た分かちて十八を成す。まさに此の復の声は前に乘じて後を起すを顕すと知るべし。この意の近行の十八は如何。いわゆる喜・憂・捨の各々六の近行。此は復た何の縁に十八と立つるか。もし自性に由ればまさに但だ三有るべし、喜・憂・捨の三は自性の異なるゆえ。もし相応に由ればまさにただ一有るべし、一切は皆意と相応するゆえ。もし所縁に由ればまさに但だ六有るべし、色等の六境を所縁と為すゆえ。此が十八を成すは、具足して三に由る。その中の十五の色等の近行は不雑縁と名づく、境の各々別なるゆえ。三の法の近行は皆二種に通ず。意の近行の名は何の義を目すか。伝説に喜等は意の近縁と為りて、諸の境中において数々游行するゆえ。ある説に喜等は能く近縁と為りて、意をして境において数々游行せしむるゆえ。如何にして身受は意の近行に非ざるか。ただ意に依るに非ざるゆえに近と名づけず、分別無きに由るゆえにもまた行に非ず。第三静慮の意地の楽根は、意の近行中において何の故に摂せざるか。伝説に初界の意識の相応に楽根無きゆえ、また対する所の苦根の摂する意の近行無きゆえ。もしただ意地ならば、何の故に経に説く:眼の色を見已りて、喜に順ずる色において喜の近行を起す、広説は経の如し、と。五識身の引く所の意地の喜等の近行に依りて、ゆえに是の説を作す。眼識に依りて不浄観を引くが如く、この不浄観はただ意地の摂。また彼の経の説く眼の色を見已りて乃至広説は、ゆえにまさに難ずべからず。もし見に非ずと雖も、乃至触れ已りて喜・憂・捨を起すも、もまた是れ意の近行。もし此に異ならば、欲界中においてまさに色界の色等に縁ずる意の近行無かるべし。また色界においてまさに欲界の香・味・触の境に縁ずる諸の意近行無かるべし。色等を見るの言は明了に随いて説く、色等を見已りて声等の中において喜・憂・捨を起すもまた意の近行、雑乱無きに随うゆえに是の説を作し、其の中に根・境の定を建立するゆえ。為に色等は喜等の三において、ただ能く一の近行を順生するのみか否や。有りて相续に就きて所縁に約らず。諸の意近行中に几つかは欲界の繫か。欲界の意近行は几何の所縁か。色・無色界も為に問うこともまたこの如し。頌に曰く:

欲緣欲十八,色十二上三,

欲は欲に縁する十八、色は十二、上は三、

二緣欲十二,八自二無色,

二は欲に縁する十二、八は自、二は無色に縁し、

後二緣欲六,四自一上緣,

後の二は欲に縁する六、四は自、一は上に縁す、

初無色近分,緣色四自一,

初の無色の近分は、色に縁する四、自は一、

四本及三邊,唯一緣自境。

四本および三の辺は、ただ一は自境に縁す。

論曰:欲界所繫具有十八,緣欲界境其數亦然。緣色界境唯有十二,除香味六,彼無境故。緣無色境唯得有三,彼無色等五所緣故。說欲界繫已,當說色界繫。初二靜慮唯有十二,謂除六憂。緣欲界境亦有十二,除香味四,餘八自緣,二緣無色,謂法近行。三四靜慮唯六,謂捨緣欲界,境亦得有六。除香味二,餘四自緣,一緣無色,謂法近行。說色界繫已,當說無色繫。空處近分唯有四種,謂捨但緣色、聲、觸、法。緣第四靜慮,亦具有四種,此就許有別緣者說;若執彼地唯總緣下,但有雜緣法意近行。緣無色界唯一,謂法四根,本地及上三邊唯一,謂法但緣自境,無色根本不緣下故,彼上三邊不緣色故。不緣下義如後當辯。此意近行,通無漏耶?頌曰:

論に曰く:欲界の繫する所は具に十八有り、欲界の境に縁ずるその数もまたこの如し。色界の境に縁ずればただ十二有るのみ、香・味の六を除く、彼に境無きゆえ。無色の境に縁ずればただ三を得るのみ、彼に色等の五の所縁無きゆえ。欲界の繫を説き已って、まさに色界の繫を説くべし。初・二の静慮はただ十二有るのみ、いわゆる六の憂を除く。欲界の境に縁ずるもまた十二有り、香・味の四を除き、余の八は自ら縁し、二は無色に縁す、いわゆる法の近行。三・四の静慮はただ六のみ、いわゆる捨は欲界に縁し、境にもまた六有るを得。香・味の二を除き、余の四は自ら縁し、一は無色に縁す、いわゆる法の近行。色界の繫を説き已って、まさに無色の繫を説くべし。空処の近分はただ四種有るのみ、いわゆる捨は但だ色・声・触・法に縁す。第四静慮に縁するも、もまた具に四種有り、此は別の縁有るを許す説に就く、もし彼の地はただ総じて下に縁すと執せば、但だ雑縁の法の意近行有るのみ。無色界に縁ずるはただ一のみ、法の四根を謂い、本地および上の三辺はただ一のみ、法を謂い但だ自境に縁す、無色の根本は下に縁せざるゆえ、彼の上の三辺は色に縁せざるゆえ。下に縁せざる義は後にまさに弁ずべし。此の意近行は無漏に通ずるか。頌に曰く:

十八唯有漏。

十八はただ有漏。

論曰:無意近行通無漏者,故言十八唯是有漏。誰成就幾意近行耶?謂生欲界,若未獲得色界善心,成欲一切;初二定八,三四定四;無色界一。所成上界皆不下緣,唯染汙故。若已獲得色界善心未離欲貪,成欲一切;初靜慮十,餘說如前。初靜慮中唯成四喜,染不緣下香味境故。捨具成六,未至定中善心得緣香味境故。餘隨此理,如應當知。若生色界,唯成欲界一捨法近行,謂通果心俱。有說如是諸意近行,毘婆沙師隨義而立。然我所見經義有殊。所以者何?非於此地已得離染,可緣此境起意近行,故非有漏喜憂捨三皆近行攝。唯雜染者與意相牽數行所緣是意近行。云何與意相牽數行?或愛或憎、或不擇捨。為對治彼說六恆住,謂見色已不喜不憂,心恆住捨具念正智,廣說乃至知法亦爾。非阿羅漢無有世間緣善法喜,但為遮止雜染近行故作是說。又即喜等為三十六師句,謂為耽嗜出離依別。此句差別,大師說故。耽嗜依者,謂諸染受。出離依者,謂諸善受。如是所說受,有支中應知。義門無量差別,何緣不說所餘有支?頌曰:

論に曰く:意の近行の無漏に通ずる無し、ゆえに十八はただ是れ有漏と説く。誰か几つの意近行を成就するか。いわゆる欲界に生ぜば、もし未だ色界の善心を獲得せざれば、欲の一切を成じ、初・二の定は八、三・四の定は四、無色界は一。成ずる所の上界は皆下に縁せず、ただ染污なるゆえ。もし已に色界の善心を獲得して未だ欲貪を離れざれば、欲の一切を成じ、初静慮は十、余は説いて前の如し。初静慮中にただ四の喜を成ず、染は下の香・味の境に縁せざるゆえ。捨は具に六を成ず、未至定中の善心は香・味の境に縁ずるを得るゆえ。余は此の理に随い、その応ずる所の如く知るべし。もし色界に生ぜば、ただ欲界の一の捨の法近行を成ず、いわゆる通果の心と倶。ある説にかくのごとき諸の意近行は毘婆沙師の義に随いて立つる所。しかるに我が見る所の経の義は殊有り。所以者何。此の地において已に染を離るるを得て、此の境に縁じて意の近行を起すべからず、ゆえに有漏の喜・憂・捨の三は皆近行の摂に非ず。ただ雑染なるは意と相牽して数々所縁に行ずる是れ意の近行。如何にして意と相牽して数々行ずるか。あるいは愛しあるいは憎み、あるいは択せずして捨す。彼を対治せんが為に六の恒住を説く、いわゆる色を見已りて喜ばず憂えず、心は恒に捨に住して念を具し正智す、広説して乃至法を知るもまたこの如し。阿羅漢に世間の善法を縁ずる喜無きに非ず、但だ雑染の近行を遮止せんが為に是の説を作す。また即ち喜等を三十六の師句と為す、いわゆる耽嗜・出離の依の別を為す。この句の差別は大師の説くゆえ。耽嗜の依とは、いわゆる諸の染受。出離の依とは、いわゆる諸の善受。かくのごとき説く所の受は、有支中において知るべし。義門は無量の差別、何の縁に余の有支を説かざるか。頌に曰く:

餘已說當說。

余は已に説き、まさに説かんとす。

論曰:所餘有支,或有已說、或有當說,故此不論。此中識支如先已說,識謂各了別,此即名意處等。其六處支如先已說,彼識依淨色,名眼等五根等。行有二支,業品當說。愛取二支,隨眠品當說。此諸緣起略立為三,謂煩惱、業、異熟果事。應寄外喻,顯別功能。頌曰:

論に曰く:余の有支は、あるいは已に説き、あるいはまさに説かんとす、ゆえに此において論ぜず。此中の識の支は先に已に説くが如く、識とは各々了別を謂い、此即ち意処等と名づく。その六処の支は先に已に説くが如く、彼の識は浄色に依りて、眼等の五根等と名づく。行・有の二支は業品にまさに説かんとす。愛・取の二支は随眠品にまさに説かんとす。此の諸の縁起は略して三と立つ、いわゆる煩悩・業・異熟の果の事。まさに外の喩に寄せて、別の功能を顕すべし。頌に曰く:

此中說煩惱,如種復如龍,

此中に煩悩を説くは、種の如く復た龍の如し、

如草根樹莖,及如糠裹米;

草の根・樹の茎の如く、および糠の米を裹むが如し、

業如有糠米,如草藥如花;

業は糠有る米の如く、草薬の如く花の如し、

諸異熟果事,如成熟飲食。

諸の異熟の果の事は、成熟の飲食の如し。

論曰:如何此三種等相似,如從種子芽葉等生?從煩惱生煩惱業事,如龍鎮池水恆不竭。煩惱鎮業生續無窮,如草根未拔苗剪剪還生。未拔煩惱根趣滅滅還起,如從樹莖頻生枝花果。從諸煩惱數起惑業事,如糠裹米能生芽等,非獨能生。或得裹業能感餘生,非獨能感。惑如種等應如是知。如米有糠能生芽等,業有煩惱能招異熟。如諸草藥果熟為後邊,業果熟已更不招異熟。如花於果為生近因,業為近因能生異熟。業如米等,應如是知。如熟飲食但應受用,不可復轉成餘飲食。異熟果事既成熟已,不能更招餘生異熟。若諸異熟復感餘生,餘復感餘應無解脫。事如飲食,應如是知。如是緣起煩惱業事,生生相續不過四有:中、生、本、死,如前已釋。染不染義三界有無,今當略辯。頌曰:

論に曰く:如何にして此の三種の等しき相似なるか、種子より芽・葉等の生ずるが如くか。煩悩より煩悩・業・事を生ず、龍が池を鎮めて水は恒に竭きざるが如し。煩悩が業生を鎮めて続きて窮まり無し、草の根の未だ拔かれずして苗は剪々として還りて生ずるが如し。未だ煩悩の根を拔かざれば趣は滅して還りて起る、樹の茎より頻りに枝・花・果を生ずるが如し。諸の煩悩より数々惑・業・事を起こす、糠の米を裹むが如く能く芽等を生ず、独り能く生ずるに非ず。あるいは裹むの業を得て能く余の生を感ず、独り能く感ずるに非ず。惑は種等の如くまさにこの如く知るべし。米の糠有りて能く芽等を生ずるが如く、業は煩悩有りて能く異熟を招く。諸の草薬の果の熟するを後辺と為すが如く、業の果は熟し已りて更に異熟を招かず。花の果において生ずるの近因と為るが如く、業は近因と為りて能く異熟を生ず。業は米等の如し、まさにこの如く知るべし。熟したる飲食の但だ受用すべくして、復た転じて余の飲食と成るべからざるが如し。異熟の果の事は既に成熟し已りて、能く更に余の生の異熟を招かず。もし諸の異熟は復た余の生を感ぜば、余は復た余を感じてまさに解脱無かるべし。事は飲食の如し、まさにこの如く知るべし。かくのごとき縁起の煩悩・業・事は、生々相续して四有を過ぎず:中・生・本・死、前に已に釋せしが如し。染・不染の義と三界の有無と、今まさに略して弁ずべし。頌に曰く:

於四種有中,生有唯染汙,

四種の有中において、生有はただ染污、

由自地煩惱,餘三無色三。

自地の煩悩に由り、余の三は無色は三。

論曰:於四有中生有唯染。由何煩惱?自地諸惑。謂此地生,此地一切煩惱染汙此地生有。故對法者鹹作是言:諸煩惱中無一煩惱於結生位無潤功能。然諸結生唯煩惱力,非由自力現起纏垢。雖此位中心身昧劣,而由數起或近現行引發力故,煩惱現起。應知中有初續剎那亦必染汙,猶如生有。然餘三有一一通三,謂本、死、中三,各善染無記。於無色界除中有三,非彼界中有處隔別,為往餘處可立中有。頌中不說欲色二界,故知於中許具四有。有情緣起已廣分別,是諸有情由何而住?頌曰:

論に曰く:四有中において生有はただ染なり。何の煩悩に由るか。自地の諸の惑。いわゆる此の地に生ずれば、此の地の一切の煩悩は此の地の生有を染污す。ゆえに対法は咸く是の説を作す:諸の煩悩中に一の煩悩も結生の位において潤するの功能無き無し、と。しかるに諸の結生はただ煩悩の力、自ら現起する纏垢に由るに非ず。此の位中に心身は昧劣なりと雖も、而も数起あるいは近き現行の引発の力に由るゆえに、煩悩は現起す。まさに中有の初の続く刹那も必ず染污せりと知るべし、猶お生有のごとし。しかるに余の三有は一一に三に通ず、いわゆる本・死・中の三、各々善・染・無記。無色界においては中有の三を除く、彼界に中有の処の隔別有るに非ず、余の処に往かんが為に中有を立つべからざるを以て。頌中に欲・色の二界を説かざるは、ゆえにその中において具に四有を許すを知る。有情の縁起は已に広く分別し竟えた、是の諸の有情は何に由りて住するか。頌に曰く:

有情由食住,段欲體唯三,

有情は食に由りて住す、段・欲の体はただ三、

非色不能益,自根解脫故。

色は能く益せざるに非ず、自根・解脱するゆえ。

觸思識三食,有漏通三界,

触・思・識の三食は、有漏にして三界に通ず、

意成及求生,食香中有起。

意成および求生と、香を食する中有の起。

前二益此世,所依及能依,

前の二は此の世を益す、所依および能依を、

後二於當有,引及起如次。

後の二は当有において、引きおよび起こすを次第の如く。

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