説一切有部倶舎論 巻第二十一
アビダルマ倶舎論 巻第二十二
尊者世親造
尊者世親造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。
分別賢聖品第六之一
分別賢聖品 第六之一
如是已說煩惱等斷於九勝位得遍知名。然斷必由道力故得,此所由道其相云何?頌曰:
此のようの已に煩悩等の断は九勝位に於いて遍知の名を得るを説けり。しかし断ずるは必ず道の力に由って得るがゆえに、此の由る所の道はその相如何。頌に曰く、
已說煩惱斷,由見諦修故,
已に煩悩の断ずるを説けり、諦を見修するに由る。
見道唯無漏,修道通二種。
見道はただ無漏、修道は二種に通ず。
論曰:前已廣說諸煩惱斷,由見諦道及修道故。道唯無漏亦有漏耶?見道應知唯是無漏,修道通二。所以者何?見道速能治三界故。頓斷九品見所斷故,非世間道有此堪能,故見位中道唯無漏。修道有異故通二種,如向所言由見諦故。此所見諦其相云何?頌曰:
論に曰く:前に已に広く諸の煩悩の断ずるを説けり、諦を見る道および修道に由るがゆえに。道はただ無漏か、有漏をも有るか。見道は応に知るべしただ是れ無漏、修道は二に通ず。そもそもどうしてか。見道は速やかに能く三界を治するがゆえに。頓に九品の見所断を断ずるがゆえに、世間の道に此の堪能あるにあらざれば、見位の中に於いて道はただ無漏。修道は異有るがゆえに二種に通ず。向の言う所の諦を見るに由るがごとし。此の見る所の諦はその相如何。頌に曰く、
諦四先已說,謂苦集滅道,
諦は四、先に已に説けり。いわゆる苦・集・滅・道。
彼自體亦然,次第隨現觀。
彼の自体もまた此のよう。次第は現観に随う。
論曰:諦有四種,名先已說。於何處說?謂初品中分別有漏無漏法處。彼如何說?謂彼頌言:無漏謂聖道,此說道諦。擇滅謂離繫,此說滅諦。及苦集世間,此說苦集諦。四諦次第如彼說耶?不爾。云何?如今所列:一苦、二集、三滅、四道。四諦自體亦有異耶?不爾。云何?如先所辯,為顯體同彼,故說亦然聲。四諦何緣如是次第?隨現觀位先後而說,謂現觀中先所觀者便在先說,若異此者應先說因後方說果。然或有法說次隨生,如念住等。或復有法說次隨便,如正勝等。謂此中無決定理趣起如是欲,先斷已生、後遮未生,但隨言便。今說四諦,隨瑜伽師現觀位中先後次第。何緣現觀次第必然?加行位中如是觀故。何緣加行必如是觀?謂若有法是愛著處能作逼惱,為求脫因,此法理應最初觀察,故修行者加行位中最初觀苦,苦即苦諦。次復觀苦以誰為因?便觀苦因,因即集諦。次復觀苦以誰為滅?便觀苦滅,滅即滅諦。後觀苦滅以誰為道?便觀滅道,道即道諦。如見病已,次尋病因,續思病癒,後求良藥。契經亦說諦次第喻。何契經說?謂《良醫經》。如彼經言:夫醫王者,謂具四德能拔毒箭:一善知病狀、二善知病因、三善知病癒、四善知良藥。如來亦爾,為大醫王,如實了知苦集滅道。故加行位如是次觀,現觀位中次第亦爾,由加行力所引發故,如已觀地縱馬奔馳。此現觀名為目何義?應知此目現等覺義。何緣說此唯是無漏?對向涅槃正覺境故,此覺真淨故得正名。應知此中果性取蘊名為苦諦,因性取蘊名為集諦,是能集故。由此苦集因果性分,名雖有殊非物有異。滅道二諦物亦有殊,何義經中說為聖諦?是聖者諦故得聖名。於非聖者此豈成妄?於一切是諦,性無顛倒故。然唯聖者實見非餘,是故經中但名聖諦。非非聖諦,顛倒見故。如有頌言:聖者說是樂,非聖說為苦;聖者說為苦,非聖說是樂。
論に曰く:諦に四種あり。名は先に已に説けり。何れの処にか説きたるか。いわゆる初品の中に有漏・無漏の法を分別する処。彼は如何に説けるか。いわゆる彼の頌に説く:無漏とは聖道を謂う、此れは道諦を説く。択滅とは離系を謂う、此れは滅諦を説く。および苦・集の世間、此れは苦集諦を説く、と。四諦の次第は彼の説くがごときか。そうにはあらず。如何。今列ねる所のごとく:一は苦、二は集、三は滅、四は道。四諦の自体もまた異あるか。そうにはあらず。如何。先の辯ぜしがごとく、体は彼と同じなるを顕さんが為に、ゆえに説いてもまた此のようの声と為す。四諦は何の縁にか此のようの次第なるか。現観の位の先後に随いて説く。いわゆる現観の中に於いて先に観ずる所は便ち先に説く。もし此に異ならば応に先ず因を説きて後に方に果を説くべし。しかし或いは法有りて説次は生に随う。念住等のごとし。或いは復た法有りて説次は便に随う。正勝等のごとし。いわゆる此の中に決定の理趣無くして此のようの欲を起す。先ず已生を断じ、後に未生を遮る。但だ言の便に随う。今四諦を説くは、瑜伽師の現観の位の中の先後の次第に随う。何の縁にか現観の次第は必ずしかあるか。加行の位の中に此のようの観ずるがゆえに。何の縁にか加行は必ず此のようの観ずるか。いわゆるもし法有りて是れ愛着の処にして能く逼惱を作す。脱を求むるの因と為るに此の法は理応に最初に観察すべし。ゆえに修行の加行の位の中に於いて最初に苦を観ず。苦はすなわち苦諦。次に復た苦を観じて誰をか因と為すや。便ち苦因を観ず。因はすなわち集諦。次に復た苦を観じて誰をか滅と為すや。便ち苦滅を観ず。滅はすなわち滅諦。後に苦滅を観じて誰をか道と為すや。便ち滅道を観ず。道はすなわち道諦。病を見已りてのごとく、次に病因を尋ね、続いて病愈を思い、後に良薬を求む。契経にもまた諦の次第の譬を説けり。何の契経にか説くか。いわゆる《良医経》。彼の経に説くがごとく:夫れ医王とは、いわゆる四徳を具えて能く毒箭を抜く。一は善く病状を知り、二は善く病因を知り、三は善く病愈を知り、四は善く良薬を知る。如来もまた此のよう、大医王と為りて、如実に苦・集・滅・道を了知したまえり。ゆえに加行の位は此のようの次に観じ、現観の位の中の次第もまた此のよう。加行の力の引発する所に由るがゆえに。已に地を観じて馬を縦りて奔馳せしむるがごとし。此の現観は名づけて何の義に目するか。応に知るべし此れは現等観の義に目す。何の縁にか此れを説いてただ無漏と為すか。涅槃の正覚の境に対向するがゆえに、此の覚は真浄なるがゆえに正の名を得。応に知るべし、此の中に果性の取蘊を苦諦と名づけ、因性の取蘊を集諦と名づく。能集する所なるがゆえに。此に由って苦集は因果の性に分かつ。名は殊有ると雖も物に異有るに非ず。滅・道の二諦は物にもまた殊有り。何の義にか経の中に聖諦と説くか。是れ聖者の諦なるがゆえに聖の名を得。非聖者に於いて此れ豈に妄と成らんや。一切に於いて是れ諦にして性は顛倒せざるがゆえに。しかしただ聖者は実に見る、其余にあらざるがゆえに、此のゆえに経の中に但だ聖諦と名づく。非聖諦にあらざるにあらず、顛倒の見なるがゆえに。頌有りて説くがごとく:聖者は是れ楽と説き、非聖は是れ苦と為す。聖者は是れ苦と説き、非聖は是れ楽と説す。
有餘師說:二唯聖諦,餘二通是聖非聖諦。唯受一分是苦自體,所餘並非。如何可言諸有漏行皆是苦諦?頌曰:
其余の師有りて説く:二はただ聖諦、其余の二は是れ聖・非聖の諦に通ず。ただ受の一分は苦の自体、その余は併せてあらず。如何にして諸の有漏の行は皆苦諦と説くべきか。頌に曰く、
苦由三苦合,如所應一切,
苦は三苦に合すに由り、その応ずる所の一切の、
可意非可意,餘有漏行法。
可意・非可意、その余の有漏の行法。
論曰:有三苦性,一苦苦性、二行苦性、三壞苦性。諸有漏行如其所應,與此三種苦性合故,皆是苦諦亦無有失。此中可意有漏行法,與壞苦合故名為苦。諸非可意有漏行法,與苦苦合故名為苦。除此所餘有漏行法,與行苦合故名為苦。何謂為可意非可意餘?謂樂等三受如其次第,由三受力令順樂受等諸有漏行得可意等名。所以者何?若諸樂受由壞成苦性。如契經言。諸樂受生時樂住時樂壞時苦,若諸苦受由體成苦性。如契經言:諸苦受生時苦、住時苦。不苦不樂受由行成苦性,眾緣造故。如契經言:若非常即是苦。如受順受,諸行亦然。有餘師釋:苦即苦性名苦苦性,如是乃至行即苦性名行苦性。應知此中說可意非可意為壞苦苦苦者,由不共故。理實一切行苦故苦,此唯聖者所能觀見。故有頌言:
論に曰く:三苦の性有り。一は苦苦の性、二は行苦の性、三は壊苦の性。諸の有漏の行はその応ずる所のごとく、此の三種の苦性と合するがゆえに、皆是れ苦諦にして失なし。此の中の可意の有漏行法は、壊苦と合するがゆえに苦と名づく。諸の非可意の有漏行法は、苦苦と合するがゆえに苦と名づく。此を除くその余の有漏行法は、行苦と合するがゆえに苦と名づく。何をか可意・非可意・其余と為すか。いわゆる楽等の三受は次第のごとく、三受の力に由って楽受等に順ずる諸の有漏行をして可意等の名を得せしむ。そもそもどうしてか。もし諸の楽受は壊に由って苦性を成す。契経に説くがごとく:諸の楽受は生ずる時は楽、住する時は楽、壊する時は苦。もし諸の苦受は体に由って苦性を成す。契経に説くがごとく:諸の苦受は生ずる時は苦、住する時は苦。不苦不楽受は行に由って苦性を成す。衆縁の造する所なるがゆえに。契経に説くがごとく:もし非常なればすなわち是れ苦。受に順ずるがごとく、諸行もまた此のよう。其余の師有りて釋す:苦はすなわち苦性、名づけて苦苦性。此のよう乃至行はすなわち苦性、名づけて行苦性。応に知るべし此の中に可意・非可意を説いて壊苦・苦苦と為すは、不共なるに由るがゆえに。理実は一切の行は苦なるがゆえに苦。此れはただ聖者のみ能く観見する所。ゆえに頌有りて説く:
如以一睫毛,置掌人不覺,
一の睫毛を以て、掌に置けば人は覚えざるがごとく、
若置眼睛上,為損及不安。
もし眼睛の上に置かば、損および不安と為る。
愚夫如手掌,不覺行苦睫,
愚夫は手掌のごとく、行苦の睫を覚えず、
智者如眼睛,緣極生厭怖。
智者は眼睛のごとく、縁して極めて厭怖を生ず。
以諸愚夫於無間獄受劇苦蘊生苦怖心,不如眾聖於有頂蘊。道諦亦應是行苦攝,有為性故。道諦非苦,違逆聖心是行苦相。非聖道起違逆聖心,由此能引眾苦盡故。若觀諸有為涅槃寂靜者,亦由先見彼法是苦、後觀彼滅以為寂靜,故有為言唯顯有漏。若諸法中亦許有樂,何緣但說苦為聖諦?有一類釋:由樂少故。如置綠豆烏豆聚中,以少從多名烏豆聚。誰有智者瀝水澆癰有少樂生,計癰為樂?有餘於此以頌釋言:
(論は続けて曰く:)諸の愚夫は無間獄に於いて劇苦の蘊を受けて苦を怖るる心を生ずるが、衆聖の有頂蘊に於けるに如かず。道諦もまた応に行苦の摂なるべし。有為の性なるがゆえに。道諦は苦にあらず。聖心に違逆するは行苦の相。聖道の起るは聖心に違逆するに非ず。此に由って能く衆苦の尽きるを引くがゆえに。もし諸の有為を観ずるに涅槃寂静なれば、もまた先に彼の法は苦と見て、後に彼の滅を観じて寂静と為すに由る。ゆえに有為の言はただ有漏を顕す。もし諸法の中にも楽有るを許さば、何の縁にか但だ苦を説いて聖諦と為すか。一類の釋あり:楽少なきに由る。緑豆を烏豆の聚の中に置くがごとく、少を以て多に従いて烏豆聚と名づく。誰か智者有りて水を注ぎて癰に澆して少楽を生じ、癰を計りて楽と為さん。其余有りて此に於いて頌を以て釋して曰く:
能為苦因故,能集眾苦故,
能く苦の因と為るがゆえ、衆苦を集むるがゆえ、
有苦希彼故,說樂亦名苦。
苦あるは彼を希うがゆえに、楽を説いてもまた苦と名づく。
理實應言,聖者觀察諸有及樂體皆是苦,以就行苦同一味故,由此立苦為諦非樂。如何亦觀樂受為苦?由性非常違聖心故。如以苦相觀色等時,非彼苦相一如苦受。有謂樂受是苦因故。諸聖亦觀彼為苦者,此釋非理,能為苦因是集行相,豈關於苦?又諸聖者生色無色,緣彼如何有苦想轉?非彼諸蘊為苦受因。又經復說行苦何用?若由非常觀樂為苦,非常苦觀行相何別?生滅法故觀為非常,違聖心故觀之為苦。但見非常知違聖心,故非常行相能引苦行相。有餘部師作如是執:定無實樂,受唯是苦。云何知然?由教、理故。云何由教?如世尊言:諸所有受無非是苦。又契經言:汝應以苦觀於樂受。又契經言:於苦謂樂名為顛倒。云何由理?以諸樂因皆不定故。謂諸所有衣服飲食冷煖等事,諸有情類許為樂因,此若非時過量受用便能生苦,復成苦因不應樂因。於增盛位或雖平等,但由非時,便成苦因能生於苦。故知衣等本是苦因,苦增盛時其相方顯。威儀易脫理亦應然。又治苦時方起樂覺,及苦易脫樂覺乃生。謂若未遭飢渴寒熱疲欲等苦所逼迫時,不於樂因生於樂覺。故於對治重苦因中,愚夫妄計此能生樂,實無決定能生樂因。苦易脫中愚夫謂樂,如荷重擔暫易肩等。故受唯苦,定無實樂。對法諸師言樂實有,此言應理。云何知然?且應反徵撥無樂者何名為苦?若謂逼迫既有適悅,有樂應成。若謂損害既有饒益,有樂應成。若謂非愛既有可愛,有樂應成。若謂可愛體非成實,以諸聖者於離染時,可愛復成非可愛故。不爾。可愛聖離染時,由異門觀為非愛故。謂若有受自相可愛,此受未常成非可愛。然諸聖者於離染時,以餘行相厭患此受,謂觀此受是放逸處,要由廣大功力所成變壞無常故非可愛,非彼自相是非愛法。若彼自體是非可愛,不應於中有起愛者。
(論は続けて曰く:)理実は応に説くべし。聖者は諸の有および楽の体は皆是れ苦と観察す。行苦に就いて同一味なるを以て。此に由って苦を立てて諦と為し、楽にあらず。如何にしてもまた楽受を観じて苦と為すか。性は常にあらずして聖心に違するがゆえに。苦相を以て色等を観ずる時のごとく、彼の苦相は苦受のごとく一ならず。あるは楽受は是れ苦の因と謂う。諸の聖もまた彼を観じて苦と為す。此の釋は理に非ず。能く苦の因と為るは集の行相。豈に苦に関わらんや。また諸の聖者は色・無色に生じて、彼に縁じて如何にして苦の想の転ずる有らん。彼の諸蘊は苦受の因にあらざるがゆえに。また経に復た行苦を説いて何の用かある。もし非常に由って楽を観じて苦と為せば、非常の苦観の行相は何の別かある。生滅の法なるがゆえに観じて非常と為し、聖心に違するがゆえにこれを観じて苦と為す。但だ非常を見て聖心に違するを知れば、ゆえに非常の行相は能く苦の行相を引く。其余の部師有りて此の執を作す:定めて実楽無し。受はただ是れ苦。如何にして此のようの知るか。教・理に由るがゆえに。如何にして教に由るか。世尊の説きたまえるがごとく:諸の所有の受は非ずとも皆苦。また契経に説く:汝は応に苦を以て楽受を観ずべし。また契経に説く:苦に於いて楽と謂うを名づけて顛倒と為す。如何にして理に由るか。諸の楽因は皆不定なるを以て。いわゆる諸の所有の衣服・飲食・冷・暖等の事は、諸の有情類は楽因と許す。此れもし時に非ず過量に受用すれば便ち能く苦を生じ、復た苦因と成って応に楽因と為るべからず。増盛の位に於いて或いは平等なりと雖も、但だ非時に由って、便ち苦因と成って能く苦を生ず。ゆえに衣等は本是れ苦因と知る。苦の増盛する時にその相乃ち顕る。威儀の易脱も理は応に此のようであるべし。また苦を治する時に方に楽覚を起し、および苦の易脱に於いて楽覚乃ち生ず。いわゆるもし未だ飢渇・寒熱・疲・欲等の苦に逼迫せらるるを遭わざる時は、楽因に於いて楽覚を生ぜず。ゆえに重苦の対治の因の中に於いて、愚夫は妄りに此れ能く楽を生ずと計る。実に能く楽を生ずる決定の因無し。苦の易脱の中に於いて愚夫は楽と謂う。重荷を荷うに暫く肩を易うる等のごとし。ゆえに受はただ苦にして、定めて実楽無し。対法の諸師は楽は実有と説く。此の言は理に該当す。如何にして此のようの知るか。且つ応に反征すべし。楽無しと撥するは何をか苦と名づくるか。もし逼迫と謂わば、すでに適悦有れば、楽有るは応に成ずべし。もし損害と謂わば、すでに饒益有れば、楽有るは応に成ずべし。もし非愛と謂わば、すでに可愛有れば、楽有るは応に成ずべし。もし可愛の体は成実にあらずと謂わば、諸の聖者の離染する時に於いて、可愛は復た非可愛と成るがゆえに。そうにはあらず。可愛は聖の離染する時、異門に由って観じて非愛と為すがゆえに。いわゆるもし受有りて自相は可愛なれば、此の受は未だ嘗て非可愛と成らず。しかし諸の聖者は離染する時に於いて、其余の行相を以て此の受を厭患す。いわゆる此の受を観じて是れ放逸の処、要ずるに広大の功力の成ずる所にして変壊・無常なるがゆえに非可愛。彼の自相は非愛の法に非ざるがゆえに。もし彼の自体は是れ非可愛ならば、応に中に於いて愛を起す有るべからず。
若不起愛,於離染時聖者不應以餘行相觀察樂受深生厭患,故由自相有實樂受。然世尊言諸所有受無非苦者,佛自釋通。如契經言:佛告慶喜:我依諸行皆是無常,及諸有為皆是變壞,密作是說。諸所有受無非是苦,故知此經不依苦苦作如是說。若由自相說受皆苦,何緣慶喜作是問言:佛於餘經說有三受,謂樂及苦、不苦不樂。依何密意此經復言諸所有受無非是苦?慶喜但應作如是問:依何密意說有三受?世尊亦應但作是答:我依此密意,故說有三受。經中既無如是問答,故由自相實有三受。世尊既言我密意說諸所有受無非是苦,即已顯示此所說經依別意說非真了義。又契經言,汝應以苦觀樂受者,應知此經意顯樂受有二種性:一有樂性,謂此樂受依自相門是可愛故;二有苦性,謂依異門亦是無常變壞法故。然觀樂時能為繫縛,諸有貪者噉此味故。若觀苦時能令解脫,如是觀者得離貪故。佛以觀苦能令解脫,故勸有情觀樂為苦。如何知此自相是樂?如有頌言:
(論は続けて曰く:)もし愛を起さざれば、離染の時に於いて聖者は応に其余の行相を以て楽受を観察して深く厭患を生ずべからず。ゆえに自相に由って実の楽受有り。然而世尊は諸の所有の受は非ずとも皆苦と説きたまえり、仏は自ら釋通せり。契経に説くがごとく:仏は慶喜に告げたまう、我は諸行は皆無常にして、および諸の有為は皆是れ変壊に依って、密かに是の説を作す。諸の所有の受は非ずとも皆苦と。ゆえに此の経は苦苦に依らずして此の説を作せるを知る。もし自相に由って受は皆苦と説かば、何の縁にか慶喜は是の問説を作す:仏は其余の経に三受有りと説きたまえり、いわゆる楽および苦・不苦不楽。何の密意に依ってか此の経は復た諸の所有の受は非ずとも皆苦と説くか。慶喜は但だ応に此のようの問を作すべし:何の密意に依ってか三受有りと説くか。世尊もまた応に但だ是の答を作すべし:我は此の密意に依って、ゆえに三受有りと説く、と。経の中にはすでに此のようの問答無し。ゆえに自相に由って実に三受有り。世尊はすでに我は密意に説く諸の所有の受は非ずとも皆苦と説きたまえば、即ち已に此の説く所の経は別意に依って説いて真の了義に非ずを顯示せり。また契経に説く、汝は応に苦を以て楽受を観ずべしとは、応に知るべし此の経の意は楽受に二種の性有るを顯す:一は楽性有り。いわゆる此の楽受は自相の門に依って是れ可愛なるがゆえに。二は苦性有り。いわゆる異門に依っても又是れ無常・変壊の法なるがゆえに。然而楽を観ずる時は能く繋縛と為る。諸の貪有る者は此の味を啖うがゆえに。もし苦を観ずる時は能く解脱せしむ。此のようの観ずる者は離貪を得るがゆえに。仏は苦を観ずる能く解脱せしむるを以て、ゆえに有情を勧めて楽を観じて苦と為さしむ。如何にして此の自相は是れ楽と知るか。頌有りて説くがごとく:
諸佛正遍覺,知諸行非常,
諸仏の正遍覚は、諸行の非常を知り、
及有為變壞,故說受皆苦。
および有為の変壊を、ゆえに受は皆苦と説く。
又契經言於苦謂樂名顛倒者,此別意說,以諸世間於諸樂受妙欲諸有一分樂中一向計樂故成顛倒。謂諸樂受若依異門亦有苦性,然諸世間唯觀為樂故成顛倒。諸妙欲境樂少苦多,唯觀為樂故成顛倒。諸有亦然,故不由此能證樂受無實理成。若受自相實皆苦者,佛說三受有何勝利?若謂世尊隨俗說者,不應正理。以世尊言我密說受無非苦故。又於觀五受說如實言故。謂契經說:所有樂根、所有喜根,應知此二皆是樂受,乃至廣說。復作是說:若以正慧如實觀見如是五根三結永斷,乃至廣說。又佛如何於一苦受,隨順世俗分別說三?若謂世間於下上中苦,如其次第起樂等三覺,佛隨順彼說樂等三。理亦不然,樂亦三故,應於下等三苦唯起上等樂覺。又受殊勝香味觸等所生樂時,有何下苦而世於中起樂受覺?若許爾時有下苦者,如是下苦已滅未生,世應爾時有極樂覺,此位眾苦都無有故。受欲樂時徵問亦爾。又下品受現在前時,許受分明猛利可取,許中品受現在前時,與此相違,如何應理?又下三定說有樂故,應有下苦;以上諸地說有捨故,應有中苦。定勝苦增,豈應正理?故不應依下等三苦如次建立樂等三受。又契經說:佛告大名:若色一向是苦非樂,非樂所隨,乃至廣說。故知定有少分實樂。如是且辯彼所引教,顯無實樂為證不成,所立理言亦不成證。且以諸樂因皆不定故者,此非正理,迷因義故。謂觀所依分位差別,諸外境界方為樂因或為苦因,非唯外境。若此外境至此所依如是分位能為樂因,未嘗至此不為樂因,是故樂因非不決定。如世間火,觀所煮炙分位差別,為美熟因或為違因,非唯彼火。若此火至此所煮炙如是分位為美熟因,未嘗至此非美熟因,故美熟因非不決定。樂因亦爾,決定理成。又三靜慮中樂因豈不定?彼因無時能生苦故。又彼所說要治苦時起樂覺者,準前已破。
(論は続けて曰く:)また契経に説く、苦に於いて楽と謂うを名づけて顛倒と為すとは、此れ別意の説。諸の世間は諸の楽受・妙欲・諸有の一分の楽の中に於いて一向に楽と計るがゆえに顛倒を成ずるを以て。いわゆる諸の楽受はもし異門に依ればもまた苦性有り。しかし諸の世間はただ観じて楽と為すがゆえに顛倒を成ず。諸の妙欲の境は楽少なく苦多し。ただ観じて楽と為すがゆえに顛倒を成ず。諸の有もまた此のよう。ゆえに此に由って楽受の実無の理成を証すること能わず。もし受の自相は実に皆苦なれば、仏の三受を説きたまえるは何の勝利か有らん。もし世尊は俗に随って説きたまえると謂わば、応に正理にあらず。世尊は我が密に受は非ずとも皆苦と説くと説きたまえるを以て。また五受を観ずるに於いて如実の言を説くがゆえに。いわゆる契経に説く:所有の楽根・所有の喜根は、応に知るべし此の二は皆是れ楽受、乃至広く説く。復た此の説を作す:もし正慧を以て如実に此のようの五根を観見せば三結は永断す、乃至広く説く。また仏は如何にして一の苦受に於いて、世俗に随順して分別して三と説きたまえるか。もし世間は下・上・中の苦に於いて、次第のごとく楽等の三覚を起し、仏は彼に随順して楽等の三を説きたまうと謂わば、理もまた此のようにはあらず。楽もまた三あるがゆえに、応に下等の三苦に於いてただ上等の楽覚を起すべし。また殊勝の香・味・触等の生ずる所の楽を受くる時、何の下苦有りて而も世間は中に於いて楽受の覚を起さん。もし爾の時に下苦有りと許さば、此のようの下苦は已に滅し未だ生ぜず。世は応に爾の時に極楽の覚有るべし。此の位は衆苦ことごとく無きがゆえに。欲楽を受くる時の征問もまた此のよう。また下品の受の現前する時は、受は分明・猛利にして取るべきを許す。中品の受の現前する時は此と相違するを許す。如何にして理に該当せん。また下の三定は楽有りと説くがゆえに、応に下苦有るべし。已上の諸地は捨有りと説くがゆえに、応に中苦有るべし。定は勝れ苦は増す、豈に応に正理ならんや。ゆえに応に下等の三苦に依って次第のごとく楽等の三受を建立すべからず。また契経に説く:仏は大名に告げたまう、もし色は一向に是れ苦にして非楽、楽の随う所にあらざれば、乃至広く説く、と。ゆえに定めて少分の実楽有るを知る。此のようの且つ彼の引く所の教を辯じて、実楽無しを顕して証を成ぜざれば、立てる所の理言もまた証を成ぜず。且つ諸の楽因は皆不定なるがゆえにとは、此れ正理に非ず。因の義に迷えるがゆえに。いわゆる所依の分位の差別を観ずれば、諸の外境界は方に楽因と為り或いは苦因と為る。外境のみにあらず。もし此の外境は此の所依の此のようの分位に至りて能く楽因と為れば、未だ嘗て此に至らずして楽因と為らざるは、此のゆえに楽因は不決定に非ず。世間の火のごとく、煮炙する所の分位の差別を観ずれば、美熟の因と為り或いは違の因と為る。彼の火のみにあらず。もし此の火は此の煮炙する所の此のようの分位に至りて美熟の因と為れば、未だ嘗て此に至らずして美熟の因に非ず。ゆえに美熟の因は不決定に非ず。楽因もまた此のよう。決定の理成す。また三静慮の中の楽因は豈に不定ならんや。彼の因に生苦の時無きがゆえに。また彼の説く所、要ずるに苦を治する時に楽覚を起すとは、前に准じて已に破れり。
謂受殊勝香味觸等所生樂時,對治何苦而世於中起於樂覺?設許爾時治麁苦者,此能治苦已滅未生,爾時轉應生極樂覺。又靜慮樂治何故生?如是等破準前應說。又彼所說苦易脫中樂覺乃生如易肩者,此身分位實能生樂,乃至身如是分位未滅前必有樂生,滅則不爾。若異此者,此位後時樂應轉增,苦漸微故。如是易脫身四威儀生樂解勞應知亦爾。若先無苦,於最後時何為欻然生於苦覺?由身變易分位別故,如酒等後時有甘醋味起,是故樂受實有理成。由此定知,諸有漏行三苦合故如應名苦。即苦行體亦名集諦,此說必定違越契經,契經唯說愛為集故。經就勝故說愛為集,理實所餘亦是集諦。如是理趣由何證知?餘契經中亦說餘故。如薄伽梵伽他中言:
(論は続けて曰く:)いわゆる殊勝の香・味・触等の生ずる所の楽を受くる時、何の苦を対治して而も世間は中に於いて楽の覚を起さん。設い爾の時に麁苦を治するを許すも、此の治する能の苦は已に滅し未だ生ぜず。爾の時は転じて応に極楽の覚を生ずべし。また静慮の楽は何の故にか生ずる。此のようの等の破は前に准じて説くべし。また彼の説く所、苦の易脱の中に楽覚乃ち生ず、肩を易うるがごとしとは、此の身の分位は実に能く楽を生ず。乃至身の此のようの分位は未だ滅せざる前は必ず楽の生ずる有り。滅せば則ちこのようにはあらず。もし此に異ならば、此の位の後時に楽は応に転じて増すべし。苦は漸く微なるがゆえに。此のようの易脱の身の四威儀は楽を生じ労を解すは応に知るべしもまた此のよう。もし先に苦無ければ、最後の時に於いて何が為めに欻然として苦の覚を生ずるか。身の変易の分位の別に由るがゆえに。酒等の後時に甘醋の味の起るがごとし。此のゆえに楽受は実有の理成す。此に由って定めて知る、諸の有漏行は三苦と合するがゆえに応ずるがごとく苦と名づく。すなわち苦の行体もまた集諦と名づくるは、此の説は必定して契経に違越す。契経はただ愛を説いて集と為すがゆえに。経は勝に就いて愛を説いて集と為すがゆえに、理実はその余も又是れ集諦。此のようの理趣は何に由ってか証知するか。其余の契経の中にもまたその余を説くがゆえに。薄伽梵の伽他の中に説くがごとく:
業愛及無明,為因招後行,
業・愛および無明は、因と為りて後行を招き、
令諸有相續,名補特伽羅。
諸の有をして相続せしむるを、補特伽羅と名づく。
又契經說五種種子,此即別名說有取識。又彼經說置地界中,此即別名說四識住。故經所說是密意言,阿毘達磨依法相說。然經中說愛為集者,偏說起因。伽他中說業愛無明皆為因者,具說生起及彼因因。云何知爾?業為生因、愛為起因,經所說故。又彼經中次第顯示後行業有因有緣有緒故。為別建立種子及田,說有取識及四識住,故非唯愛為集諦體。何法名生?何法名起?界趣生等品類差別自體出現,說名為生。若無差別後有相續,說名為起。業與有愛如其次第為彼二因,譬如種子與穀麥等別種類芽為能生因、水與一切無差別芽為能起因,業及有愛為生起因應知亦爾。愛為起因何理為證?離愛後有必不起故。謂有愛離愛二俱命終,唯見有愛者後有更起。由此理證愛為起因,起有起無定隨愛故。又由愛故相續趣後,現見若於是處有愛,則心相續數趣於彼。由此比知,以有愛故能令相續馳趣後有。又取後身,更無有法封執堅著如貪愛者,如蓽豆屑於澡浴時和水塗身,至乾燥位著身難離,餘無以加。如是無有餘為因法,執取後身如我愛者,由此理證愛為起因。如是世尊說諦有四。餘經復說:諦有二種,一世俗諦、二勝義諦。如是二諦,其相云何?頌曰:
(論は続けて曰く:)また契経に五種の種子を説く。此れすなわち別名に取有るの識を説く。また彼の経に地界の中に置くと説く。此れすなわち別名に四識住を説く。ゆえに経の説く所は是れ密意の言。阿毘達磨は法相に依って説く。しかし経の中に愛を説いて集と為すは、偏えに起因を説く。伽他の中に業・愛・無明を説いて皆因と為すは、具に生・起および彼の因因を説く。如何にして此のようの知るか。業は生因、愛は起因と為るは、経の説く所なるがゆえに。また彼の経の中に次第に後行の業は因有り縁有り緒有るを顕示するがゆえに。別に種子および田を建立せんが為に、取有るの識および四識住を説く。ゆえにただ愛のみを集諦の体と為すにあらず。何の法をか生と名づくるか。何の法をか起と名づくるか。界・趣・生等の品類の差別の自体の出現するを、説いて生と名づく。もし差別無き後有の相続するを、説いて起と名づく。業と有愛とは次第のごとく彼の二因と為る。譬えば種子は穀麦等の別種類の芽に対して能生の因と為り、水は一切の差別無き芽に対して能起の因と為るがごとし。業および有愛は生・起の因と為るは応に知るべしもまた此のよう。愛は起因と為るは何の理を以てか証と為すか。愛を離れたる後有は必ず起らざるがゆえに。いわゆる愛有る・愛を離るると二俱に命終すと雖も、ただ愛有るの後有の更に起るを見るのみ。此の理に由って愛は起因と証す。有の起るに起るに定まりなく愛に随うがゆえに。また愛に由って相続して後に趣く。現に見る、もし是の処に於いて愛有れば、則ち心の相続は数々彼に趣くを。此に由って比知す。愛有るを以て能く相続をして後有に馳趣せしむ。また後身を取るに、更に法有りて封執・堅着すること貪愛のごとき無し。蓽豆の屑の澡浴する時に水と和して身に塗り、乾燥の位に至りて身に着して離れ難きがごとし。其余は以て加うる無し。此のようの其余の因と為る法無くして、後身を執取すること我愛のごときは、此の理に由って愛は起因と証す。此のようの世尊は諦に四有りと説きたまえり。其余の経に復た説く、諦に二種有り。一は世俗諦、二は勝義諦。此のようの二諦、その相は如何。頌に曰く、
彼覺破便無,慧析餘亦爾,
彼の覚は破れば便ち無く、慧は其余を析すればもまた此のよう。
如瓶水世俗,異此名勝義。
瓶・水のごときは世俗、此に異なるは勝義と名づく。
論曰:若彼物覺彼破便無,彼物應知名世俗諦。如瓶被破為碎凡時瓶覺則無,衣等亦爾。又若有物以慧析餘彼覺便無亦是世俗,如水被慧析色等時水覺則無,火等亦爾。即於彼物未破析時,以世想名施設為彼,施設有故名為世俗。依世俗理說有瓶等是實非虛,名世俗諦。若物異此,名勝義諦。謂彼物覺彼破不無,及慧析餘彼覺仍有,應知彼物名勝義諦。如色等物碎至極微,或以勝慧析除味等,彼覺恆有,受等亦然,此真實有故名勝義。依勝義理說有色等是實非虛,名勝義諦。先軌範師作如是說:如出世智及此後得世間正智所取諸法名勝義諦,如此餘智所取諸法名世俗諦。已辯諸諦,應說云何方便勤修趣見諦道。頌曰:
論に曰く:もし彼の物の覚は彼の破らるれば便ち無ければ、彼の物は応に知るべし名づけて世俗諦。瓶の破られて碎瓦と為る時は瓶の覚は則ち無きがごとし。衣等もまた此のよう。またもし物有りて慧を以て其余を析れば彼の覚は便ち無きも又是れ世俗。水の慧に析られて色等と為る時は水の覚は則ち無きがごとし。火等もまた此のよう。すなわち彼の物の未だ破析せざる時に於いて、世想の名を以て施設して彼と為す。施設有るがゆえに世俗と名づく。世俗の理に依って瓶等有り是れ実にして虚にあらずと説くを、世俗諦と名づく。もし物は此に異なれば、勝義諦と名づく。いわゆる彼の物の覚は彼の破らるるも無からず、および慧は其余を析するも彼の覚は仍お有れば、応に知るべし彼の物は名づけて勝義諦。色等の物の碎けて極微に至り、或いは勝慧を以て味等を析除するも、彼の覚は恒に有るがごとし。受等もまた此のよう。此れ真実の有なるがゆえに勝義と名づく。勝義の理に依って色等有り是れ実にして虚にあらずと説くを、勝義諦と名づく。先の軌範師は此の説を作して曰く、出世の智および此の後の得たる世間の正智の取る所の諸法を勝義諦と名づく。此のごとき其余の智の取る所の諸法を世俗諦と名づく、と。已に諸諦を辯したり。応に如何なる方便にて勤修して諦を見るの道に趣くかを説くべし。頌に曰く、
將趣見諦道,應住戒勤修,
将に諦を見る道に趣かんとするは、応に戒に住して勤めて修すべし。
聞思修所成,謂名俱義境。
聞・思・修の成ずる所、いわゆる名・義を俱にする境。
論曰:諸有發心將趣見諦,應先安住清淨屍羅,然後勤修聞所成等。謂先攝受順見諦聞,聞已勤求所聞法義,聞法義已無倒思惟,思已方能依定修習。行者如是住戒勤修,依聞所成慧起思所成慧,依思所成慧起修所成慧。此三慧相差別云何?毘婆沙師謂三慧相緣名俱義如次有別:聞所成慧唯緣名境,未能捨文而觀義故。思所成慧緣名義境,有時由文引義、有時由義引文,未全捨文而觀義故。修所成慧唯緣義境,已能捨文唯觀義故。譬若有人浮深駛水,曾未學者不捨所依,曾學未成或捨或執,曾善學者不待所依自力浮渡。三慧亦爾。有言:若爾,思慧不成。謂此既通緣名緣義,如次應是聞修所成。今詳三相無過別者,謂修行者依聞至教所生勝慧名聞所成,依思正理所生勝慧名思所成,依修等持所生勝慧名修所成。說所成言顯三勝慧是聞思等三因所成,猶如世間於命牛等如次說是食草所成。諸有欲於修精勤學者,如何淨身器令修速成?頌曰:
論に曰く:諸の心を発して将に諦を見んと趣かんとする有りては、応に先ず清浄の尸羅に安住し、然る後に勤めて聞の成ずる所等を修すべし。いわゆる先ず諦を見るに順ずる聞を摂受し、聞き已りて勤めて聞く所の法義を求め、法義を聞き已りて倒れず思惟し、思し已りて方に能く定に依って修習す。行者は此のようの戒に住して勤めて修し、聞の成ずる所の慧に依って思の成ずる所の慧を起し、思の成ずる所の慧に依って修の成ずる所の慧を起す。此の三慧の相の差別は如何。毘婆沙師は謂う、三慧の相は名・義を俱に縁ずるに次第のごとく別有り。聞の成ずる所の慧はただ名の境に縁ず。未だ文を捨てて義を観ずること能わざるがゆえに。思の成ずる所の慧は名・義の境に縁ず。或いは時に文に由って義を引き、或いは時に義に由って文を引く。未だ全く文を捨てて義を観ずること能わざるがゆえに。修の成ずる所の慧はただ義の境に縁ず。已に能く文を捨ててただ義を観ずるがゆえに。譬えば人の深き駛水に浮かぶに、曾て学ばざるは依る所を捨てず、曾て学びて未だ成ぜざるは或いは捨て或いは執し、曾て善く学びたるは依る所を待たずして自力にて浮渡するがごとし。三慧もまた此のよう。ある人の説に、もしそうならば思慧は成ぜず。いわゆる此れはすでに名に縁じ義に縁ずるに通ずれば、次第のごとく応に是れ聞・修の成ずる所なるべし。今詳らかに三相は過なき別有り。いわゆる修行の、聞の至教に依って生ずる所の勝慧を名づけて聞の成ずる所と為し、思の正理に依って生ずる所の勝慧を名づけて思の成ずる所と為し、修の等持に依って生ずる所の勝慧を名づけて修の成ずる所と為す。所成と説く言は三の勝慧は聞・思等の三因の成ずる所なるを顕す。猶お世間の命・牛等に於いて次第のごとく是れ食・草の成ずる所と説くがごとし。諸の修に於いて精勤して学ばんと欲する有りては、如何にして身器を浄めて修をして速成せしめんか。頌に曰く、
具身心遠離,無不足大欲,
身心の遠離を具え、不足なし・大欲なし、
謂已得未得,多求名所無。
いわゆる已得・未得に、多く求むるを名づけて無しと為す所。
治相違界三,無漏無貪性,
相違を治す。界は三。無漏・無貪を性と為す。
四聖種亦爾,前三唯喜足。
四聖種もまた此のよう。前三はただ喜足。
三生具後業,為治四愛生,
三生は具・後は業と為す。四愛生を治せんが為に、
我所我事欲,暫息永除故。
我所・我事の欲を、暫く息め永く除くがゆえに。
論曰:身器清淨略由三因。何等謂三因?一身心遠離、二喜足少欲、三住四聖種。身遠離者,離相雜住。心遠離者,離不善尋。此二易可成,由喜足少欲。言喜足者無不喜足,少欲者無大欲。所無二種差別云何?對法諸師鹹作是說:於已得妙衣服等更多求名不喜足,於未得妙衣等多希求名大欲。豈不更求亦緣未得,此二差別便應不成?是故此中應作是說:於所已得不妙不多悵望不歡名不喜足,於所未得衣服等事求妙求多名為大欲。喜足少欲能治此故,與此相違應知差別。喜足少欲通三界無漏,所治二種唯欲界所繫。喜足少欲體是無貪,所治二種欲貪為性。能生眾聖故名聖種。四聖種體亦是無貪,四中前三體唯喜足,謂於衣服飲食臥具隨所得中皆生喜足,第四聖種謂樂斷修,如何亦用無貪為體?以能棄捨有欲貪故。為顯何義立四聖種?以諸弟子捨俗生具及俗事業,為求解脫歸佛出家。法主世尊愍彼安立助道二事:一者生具、二者事業。前三即是助道生具,最後即是助道事業。汝等若能依前生具作後事業,解脫非久。何故安立如是二事?為欲對治四種愛生,故契經言:苾芻諦聽!愛因衣服應生時生、應住時住、應執時執。如是愛因飲食臥具及有無有,皆如是說。為治此四說四聖種。即依此義更異門說,謂佛為欲暫息永除我所我事欲,故說四聖種。我所事者謂衣服等,我事者謂自身,緣彼貪名為欲。為暫止息前三貪故說前三聖種,為永滅除四種貪故說第四聖種。如是已說修所依器。由何門故能正入修?頌曰:
論に曰く:身器の清浄は略して三因に由る。何等をか三因と謂うか。一は身心の遠離、二は喜足・少欲、三は四聖種に住す。身の遠離とは、相雑の住を離る。心の遠離とは、不善の尋を離る。此の二は成ずること易し。喜足・少欲に由る。喜足と言うは喜足せざる無し。少欲と言うは大欲無し。無しの所の二種の差別は如何。対法の諸師は咸く此の説を作して曰く、已に得たる妙の衣服等に於いて更に多く求むるを名づけて不喜足と為し、未だ得ざる妙の衣等に於いて多く希求するを名づけて大欲と為す、と。豈に更に求むるもまた未得に縁ぜざらんや。此の二の差別は便ち応に成らざるべし。此のゆえに此の中に応に此の説を作すべし。已に得たる所に於いて妙ならず多からざるを悵望して歓ばざるを名づけて不喜足と為し、未だ得ざる所の衣服等の事に於いて妙を求め多を求むるを名づけて大欲と為す。喜足・少欲は能く此を治するがゆえに、此と相違するは応に知るべし差別有り。喜足・少欲は三界・無漏に通ず。治する所の二種はただ欲界の繋する所。喜足・少欲の体は是れ無貪。治する所の二種は欲貪を以て性と為す。能く衆聖を生ずるがゆえに聖種と名づく。四聖種の体も又是れ無貪。四の中の前三の体はただ是れ喜足。いわゆる衣服・飲食・臥具の得る所に随いて中に於いて皆喜足を生ず。第四の聖種とはいわゆる断修を楽う。如何にしてもまた無貪を以て体と為すか。能く欲の貪を棄捨するを以て。何の義を顕さんが為に四聖種を立つるか。諸の弟子が俗の生具および俗の事業を捨てて、解脱を求めて仏に帰して出家するを以て。法主世尊は彼を愍れみて助道の二事を安立したまえり。一は生具、二は事業。前三はすなわち是れ助道の生具。最後はすなわち是れ助道の事業。汝等もし能く前の生具に依って後の事業を作さば、解脱は久しからざらん。何故此のようの二事を安立するか。四種の愛生に対治せんと欲するが為に。ゆえに契経に説く:苾芻諦に聴け。愛は衣服に因りて生ずべき時に生じ、住すべき時に住し、執すべき時に執す。此のようの愛は飲食・臥具および有・無有に因りて、皆此のように説く。此の四を治せんが為に四聖種を説く。すなわち此の義に依って更に異門に説く。いわゆる仏は我所・我事の欲を暫く息め永く除かんと欲するが為に、ゆえに四聖種を説きたまえり。我所の事とは衣服等を謂い、我の事とは自身を謂う。彼に縁ずる貪を名づけて欲と為す。前三の貪を暫く止息せんが為に前三の聖種を説き、四種の貪を永く滅除せんが為に第四の聖種を説く。此のようの已に修の依る所の器を説けり。何の門に由ってか能く正しく修に入るか。頌に曰く、
入修要二門,不淨觀息念,
修に入るに要するは二門、不浄観・息念。
貪尋增上者,如次第應修。
貪・尋の増上なるは、次第のごとく応に修すべし。
論曰:正入修門要者有二,一不淨觀、二持息念。誰於何門能正入修?如次應知。貪尋增者,謂貪猛盛數現在前,如是有情名貪行者,彼觀不淨能正入修。尋多亂心名尋行者,彼依息念能正入修。有餘師言:此持息念非多緣故能止亂尋,不淨多緣顯形差別引多尋故治彼無能。有餘復言:此持息念內門轉故能止亂尋,不淨多於外門轉故,猶如眼識治彼無能。此中先應辯不淨觀。如是觀相云何?頌曰:
論に曰く:正しく修の門に入るに要するは二有り。一は不浄観、二は持息念。誰か何の門に於いて能く正しく修に入るか。次第のごとく応に知るべし。貪尋の増せるとは、いわゆる貪の猛盛にして数々現前する。此のようの有情を名づけて貪行と為す。彼は不浄を観じて能く正しく修に入る。尋の多くして心を乱すを名づけて尋行と為す。彼は息念に依って能く正しく修に入る。其余の師有りて説く:此の持息念は縁ずること多からざるがゆえに能く乱尋を止む。不浄は縁ずること多く顕形の差別に由って多くの尋を引くがゆえに、彼を治するに能なし。其余の復た説く:此の持息念は内門に転ずるがゆえに能く乱尋を止む。不浄は多く外門に転ずるがゆえに、猶お眼識のごとき、彼を治するに能なし。此の中に先ず応に不浄観を辯ずべし。此のようの観の相は如何。頌に曰く、
為通治四貪,且辯觀骨鎖,
通じて四貪を治せんが為に、且つ骨鎖を観ずるを辯ず。
廣至海復略,名初習業位,
広く海に至りて復た略す。名づけて初めて業を習うの位。
除足至頭半,名為已熟修,
足を除きて頭の半に至るを、名づけて已に熟修と為す。
繫心在眉間,名超作意位。
心を眉間に繋ぐるを、名づけて作意を超ゆるの位。
論曰:修不淨觀正為治貪,然貪差別略有四種:一顯色貪、二形色貪、三妙觸貪、四供奉貪。緣青瘀等修不淨觀治第一貪,緣被食等修不淨觀治第二貪,緣蟲蛆等修不淨觀治第三貪,緣屍不動修不淨觀治第四貪。若緣骨鎖修不淨觀,通能對治如是四貪,以骨鎖中無四貪境,故應且辯修骨鎖觀。此唯勝解作意攝故、少分緣故,不斷煩惱,唯能制伏令不現行。然瑜伽師修骨鎖觀總有三位:一初習業、二已熟修、三超作意。謂觀行者欲修如是不淨觀時,應先繫心於自身分,或於足指或額或餘,隨所樂處心得住已,依勝解力於自身分假想思惟,皮肉爛墮漸令骨淨,乃至具觀全身骨鎖。見一具已復觀第二,如是漸次廣至一房一寺一園一村一國,乃至遍地以海為邊,於其中間骨鎖充滿,為令勝解得增長故。於所廣事漸略而觀,乃至唯觀一具骨鎖,齊此漸略不淨觀成,名瑜伽師初習業位。為令略觀勝解力增,於一具中先除足骨思惟餘骨繫心而住,漸次乃至除頭半骨思惟半骨繫心而住,齊此轉略不淨觀成,名瑜伽師已熟修位。為令略觀勝解自在,除半頭骨繫心眉間,專注一緣湛然而住,齊此極略不淨觀成,名瑜伽師超作意位。有不淨觀由所緣小非自在小,應作四句,此由作意已熟未熟未熟已熟,及由所緣自身至海有差別故。此不淨觀何性?幾地?緣何境?何處生?何行相?緣何世?為有漏、為無漏?為離染得、為加行得?頌曰:
論に曰く:不浄観を修するは正しく貪を治せんが為。しかし貪の差別は略して四種あり。一は顕色の貪、二は形色の貪、三は妙触の貪、四は供奉の貪。青瘀等に縁じて不浄観を修して第一の貪を治し、食せらるる等に縁じて不浄観を修して第二の貪を治し、虫蛆等に縁じて不浄観を修して第三の貪を治し、尸の動かざるに縁じて不浄観を修して第四の貪を治す。もし骨鎖に縁じて不浄観を修せば、通じて能く此のようの四貪を対治す。骨鎖の中に四貪の境無きを以て。ゆえに応に且つ骨鎖観を修するを辯ずべし。此れはただ勝解の作意の摂する所なるがゆえ、少分の縁なるがゆえに、煩悩を断ぜず。ただ能く制伏して現行せざらしむ。しかし瑜伽師の骨鎖観を修するは総じて三位あり。一は初めて業を習う、二は已に熟修、三は作意を超ゆ。いわゆる観行の此のようの不浄観を修せんと欲する時、応に先ず心を自身の分に繫ぎ、或いは足指に於いて或いは額或いは其余に於いて、楽う所に随って心の住するを得已りて、勝解の力に依って自身の分に於いて假想に思惟して、皮肉の爛堕して漸く骨をして浄からしめ、乃至具に全身の骨鎖を観ず。一具を見已りて復た第二を観じ、此のようの漸次に広く一房・一寺・一園・一村・一国に至り、乃至遍く地に海を以て辺と為すに至るまで、その中間に骨鎖の充満するを観ず。勝解をして増長を得せしむるが為。広げる所の事に於いて漸く略して観じ、乃至ただ一具の骨鎖を観ず。此に斉く漸く略すれば不浄観は成ず。名づけて瑜伽師の初めて業を習うの位。略観の勝解の力をして増さしむるが為に、一具の中に於いて先ず足骨を除きて其余の骨を思惟して心を繫いで住す。漸次に乃至頭の半骨を除きて半骨を思惟して心を繫いで住すに至る。此に斉く転じて略すれば不浄観は成ず。名づけて瑜伽師の已に熟修の位。略観の勝解をして自在せしむるが為に、半頭骨を除きて心を眉間に繫ぎ、一縁に専注して湛然として住す。此に斉く極めて略すれば不浄観は成ず。名づけて瑜伽師の作意を超ゆるの位。不浄観有りて所縁の小に由って自在の小にあらず。応に四句を作すべし。此れは作意の已熟・未熟・未熟・已熟に由り、および所縁の自身より海に至るに差別有るに由るがゆえに。此の不浄観は何の性か。幾地か。何の境に縁ずるか。何の処にか生ずるか。何の行相か。何の世に縁ずるか。有漏か、無漏か。離染得か、加行得か。頌に曰く、
無貪性十地,緣欲色人生,
無貪を性とし十地。欲の色に縁じ人生ず。
不淨自世緣,有漏通二得。
不浄は自世の縁。有漏は二得に通ず。
論曰:如先所問今次第答。謂此觀以無貪為性通依十地,謂四靜慮及四近分中間欲界,唯緣欲界所見色境。所見者何?謂顯形色。緣義為境,由此已成。唯人趣生,三洲除北,尚非餘趣況餘界生。既立不淨名,唯不淨行相。隨在何世緣自世境,若不生法通緣三世。既唯勝解作意相應,此觀理應唯是有漏。通離染得及加行得,由有曾得未曾得故。說不淨觀相差別已,次應辯持息念。此差別相云何?頌曰:
論に曰く:先の問う所のごとく今次第に答う。いわゆる此の観は無貪を以て性と為し十地に通じて依る。いわゆる四静慮および四近分・中間・欲界。ただ欲界の見る所の色境に縁ず。見る所とは何ぞ。いわゆる顕・形色。義を縁じて境と為す。此に由って已に成ず。ただ人趣に生ず。三洲にして北を除く。なおその余の趣に非ず、況んやその余の界の生ずるをや。すでに不浄の名を立つれば、ただ不浄の行相。何の世に在るに随いても自世の境に縁ず。もし不生の法は通じて三世に縁ず。すでにただ勝解の作意と相応すれば、此の観は理応にただ是れ有漏。離染得および加行得に通ず。曾得・未曾得有るに由るがゆえに。不浄観の相の差別を説き已りて、次に応に持息念を辯ずべし。此の差別の相は如何。頌に曰く、
息念慧五地,緣風依欲身,
息念は慧、五地。風に縁じ欲身に依る。
二得實外無,有六謂數等。
二得、実は外に無し。六有り、いわゆる数等。
論曰:言息念者,即契經中所說阿那阿波那念。言阿那者,謂持息入,是引外風令入身義。阿波那者,謂持息出,是引內風令出身義。慧由念力觀此為境,故名阿那阿波那念。以慧為性而說念者,念力持故,於境分明所作事成,如念住故。通於五地,謂初二三靜慮近分中間欲界,此念唯與捨相應故。謂苦樂受能順引尋,此念治尋故不俱起。喜樂二受能違專注,此念於境專注故成。由此相違,故不俱起。有說:根本下三靜慮中亦有捨受。彼說依八地,上定現前息無有故。此定緣風,依欲身起。唯人天趣,除北俱盧。通離染得及加行得,唯與真實作意相應。正法有情方能修習,外道無有,無說者故、自不能覺微細法故。此相圓滿由具六因:一數、二隨、三止、四觀、五轉、六淨。數謂繫心緣入出息不作加行,放捨身心唯念憶持入出息數,從一至十不減不增,恐心於現極聚散故。然於此中容有三失:一數減失,於二謂一。二數增失,於一謂二。三雜亂失,於入謂出、於出謂入。若離如是三種過失,名為正數。若十中間心散亂者,復應從一次第數之,終而復始乃至得定。隨謂繫心緣入出息,不作加行隨息而行,念息入出時各遠至何所。謂念息入,為行遍身、為行一分?隨彼息入,行至喉心臍髖髀脛乃至足指,念恆隨逐。若念息出,離身為至一磔一尋,隨所至方念恆隨逐。有餘師說:息出極遠,乃至風輪或吠嵐婆。此不應理,此念真實作意俱故。止謂繫念唯在鼻端,或在眉間乃至足指,隨所樂處安止其心。觀息住身如珠中縷,為冷為煖、為損為益。觀謂觀察此息風已,兼觀息俱大種造色及依色住心及心所,具觀五蘊以為境界。轉謂移轉,緣息風覺安置後後勝善根中乃至世間第一法位。淨謂昇進入見道等。有餘師說:念住為初,金剛喻定為後名轉,盡智等方名淨,為攝六相故說頌言:
論に曰く:息念と言うは、すなわち契経の中に説く所の阿那阿波那念(あなあぱなねん)。阿那と言うは、いわゆる息を持して入る。是れ外の風を引きて身に入らしむるの義。阿波那とは、いわゆる息を持して出づ。是れ内の風を引きて身を出づるの義。慧は念の力に由って此を観じて境と為す。ゆえに名づけて阿那阿波那念。慧を以て性と為して念と説くは、念の力の持するがゆえに。境に於いて分明にして作す所の事成ず。念住のごときがゆえに。五地に通ず。いわゆる初・二・三の静慮・近分・中間・欲界。此の念はただ捨と相応するがゆえに。いわゆる苦・楽の受は能く尋を順引す。此の念は尋を治するがゆえに俱に起らず。喜・楽の二受は能く専注に違す。此の念は境に於いて専注するがゆえに成ず。此の相違に由って、ゆえに俱に起らず。ある説に、根本の下三静慮の中にもまた捨受有り。彼の説は八地に依る。上定の現前するは息の有ること無きがゆえに。此の定は風に縁じ、欲身に依って起る。ただ人・天の趣、北俱盧を除く。離染得および加行得に通ず。ただ真実の作意と相応す。正法の有情のみ方に能く修習す。外道には無し。説く無きがゆえ、自ら能く微細の法を覚えざるがゆえに。此の相の円満は六因を具えるに由る。一は数、二は随、三は止、四は観、五は転、六は浄。数とは心を繫いで入出の息に縁じて加行を作さず、身心を放捨してただ入出息の数を念憶して持す。一より十に至るまで減ぜず増せず。心の現に於いて極めて聚散するを恐るるがゆえに。しかし此の中に於いて三失有るを容る。一は数減の失、二に於いて一と謂う。二は数増の失、一に於いて二と謂う。三は雑乱の失、入に於いて出と謂い、出に於いて入と謂う。もし此のようの三種の過失を離れば、名づけて正数。もし十の中間に心の散乱するは、復た応に一より次第に之を数え、終わりて復た始まり乃至定を得るに至る。随とは心を繫いで入出の息に縁じ、加行を作さずして息に随いて行く。息の入出する時に各々遠く何の所にか至るを念ず。いわゆる息の入るを念ずるは、行きて遍く身か、行きて一分か。彼の息の入るに随いて、行きて喉・心・臍・髋・髀・脛乃至足指に至るまで、念は恒に随逐す。もし息の出づるを念ぜば、身を離れて為に一磔・一尋に至るまで、至る所の方に随って念は恒に随逐す。其余の師有りて説く:息の出づるは極めて遠く、乃至風輪或いは吠嵐婆(猛風の名)に至る。此れは応に理にあらず。此の念は真実の作意と俱なるがゆえに。止とは念を繫ぐるにただ鼻端に在り、或いは眉間に在り乃至足指、楽う所に随って其の心を安止す。息の身に住するを観ずること珠の中の縷のごとく、冷か暖か、損か益か。観とは此の息の風を観察し已りて、兼ねて息と俱なる大種の造色および色に依って住する心および心所を観じ、具に五蘊を観じて以て境界と為す。転とは移転を謂う。息風の覚に縁じて後後の勝善根の中に安置して乃至世間第一法の位に至る。浄とは升進して見道等に入るを謂う。其余の師有りて説く:念住を以て初と為し、金剛喻定を以て後と為すを名づけて転。尽智等は方に浄と名づく。六相を摂せんが為に頌を説いて曰く:
持息念應知,有六種異相,
持息念は応に知るべし、六種の異相有り。
謂數隨止觀、轉淨相差別。
いわゆる数・随・止・観、転・浄の相の差別。
息相差別云何應知?頌曰:
息の相の差別は如何に応に知るべきか。頌に曰く、
