Libo

説一切有部倶舎論 巻第八

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第15巻 / 38

然彼器非常,情俱生滅故,

しかるに彼の器は常に非ず、情と倶に生滅するゆえ、

要七火一水,七水火後風。

要して七火一水、七水火の後は風。

論曰:此大三災逼有情類,令捨下地集上天中。初火災興由七日現,次水災起由雨霖淫,後風災生由風相擊。此三災力壞器世間,乃至極微亦無餘在。一類外道執極微常,彼謂爾時餘極微在。何緣彼執猶有餘極微?勿後麁事生無種子故。豈不前說,由諸有情業所生風能為種子。或此即以前災頂風為緣、引生風為種子。又化地部契經中言:風從他方飄種來此。雖爾,不許芽等生時是種等因親所引起。若爾,芽等從何而生?從自分生。如是自分復從自分,展轉乃至最細有分從極微生。於芽等生中,種等有何力?除能引集芽等極微,種等更無生芽等力。何緣定作如是執耶?從異類生定不應理。不應何理?應無定故。功能定故,無不定失。如聲熟變等,從異類定生。德法有殊,實法不爾。現見實法唯從同類生,如藤生枝及縷生衣等。此非應理,非理者何?引不極成為能立故。今此所引何不極成?非許藤枝縷衣別故。即藤縷合,安布不同得枝衣名,如蟻行等。云何知爾?一縷閤中曾不得衣,唯得縷故。有誰為障令不得衣?若一縷中無全衣轉,則應一縷上有衣分無衣。應許全衣唯集諸分,非更別有有分名衣。又如何知衣分異縷?若謂衣要待多所依合,於唯多經合應亦得衣。或應畢竟無得衣理,中及餘邊不對根故。若謂漸次皆可對根,則應眼身唯得諸分,不應說彼得有分衣故,即於諸分漸次了別,總起有分覺,如旋火輪。謂若離縷異色類業,衣色等三不可得故。若錦衣上色等屬衣,則應許實從異類起,一一縷色等無種種異故。或於一分無異色等,邊應不見衣,由彼顯衣故。或即彼分應見異色等,以衣必有異色等相故。彼許有分體唯是一,而有種種色類業殊,審有如斯甚為靈異。又於一火光明界中,遠近不同燒照有異,觸色差別應不得成。各別極微雖越根境,而共聚集可現根證,如彼所宗合能生果,或如眼等合能發識。

論に曰く:此の大三灾は有情の類を逼めて、下地を捨てて上天中に集まらしむ。初め火灾の興るは七日の現ずるに由り、次に水灾の起るは雨の霖淫に由り、後に風灾の生ずるは風の相撃つに由る。此の三灾の力は器世間を壞し、乃至極微もまた余の在る無し。一類の外道は極微は常と執す、彼は爾の時に余の極微の在るを謂う。何の縁に彼は猶お余の極微有りと執するか。後に粗事の生ずるに種子無きを勿るゆえ。豈に前に説かざらんや、諸の有情の業の生ずる所の風は能く種子と為る。あるいは即ち此は前灾の頂の風を縁と為し、引生の風を以て種子と為す。また化地部の契経中に説く:風は他方より種を飄して此に来る。爾りと雖も、芽等の生ずる時は種等の因の親しく引起する所と許さず。もし爾ならば、芽等は何より生ずるか。自分より生ず。かくのごとき自分は復た自分より、展転して乃至最細の有分は極微より生ず。芽等の生中において、種等は何の力か有る。能く芽等の極微を引集するを除きて、種等は更に芽等を生ずる力無し。何の縁に定めてかくの執を作すか。異類より生ずるは定めてまさに理に応ぜざるべし。応ぜざるは何の理か。まさに定無きゆえ。功能は定まるゆえ、不定の失無し。声の熟変等の如く、異類より定めて生ず。徳法は殊有り、実法は然らず。現に実法はただ同類より生ずるを見る、藤の枝を生じおよび縷の衣を生ずる等の如し。此は理に応ぜず、理に非ずとは是れ何ぞ。引くは極成せざるを能立と為すゆえ。今此の引く所は何ぞ極成せざる。許すに藤・枝・縷・衣の別無きゆえ。即ち藤・縷の合にして、安布の同じからざるを枝・衣の名を得、蟻の行く等の如し。如何にしてこの如くを知るか。一縷の合中に曾て衣を得ず、ただ縷を得るゆえ。誰か障と為りて衣を得ざらしむる。もし一縷中に全衣の転ずる無ければ、則ちまさに一縷上に衣の分有りて衣無しとすべし。まさに全衣はただ諸の分を集むと許すべし、更に別に分有るの衣と名づく有るに非ず。また如何にして衣の分は縷に異なるを知るか。もし衣は要して多の依る所の合を待つと謂わば、ただ多の経合においてまさにもまた衣を得べし。あるいはまさに畢竟に衣を得るの理無かるべし、中および余の辺は根に対せざるゆえ。もし漸次に皆根に対すべしと謂わば、則ちまさに眼・身はただ諸の分を得るべく、まさに彼は分有る衣を得る有りと説くべからざるゆえ、即ち諸の分において漸次に了別し、総じて有分の覚を起す、旋火輪の如し。いわゆるもし縷を離れて異なる色・類・業有れば、衣の色等の三は得べからざるゆえ。もし錦衣上の色等は衣に属せば、則ちまさに実は異類より起ると許すべし、一一の縷の色等は種種の異無きゆえ。あるいは一分において異なる色等無ければ、辺はまさに衣を見ざるべし、彼に由りて衣を顕すゆえ。あるいは即ち彼の分はまさに異なる色等を見るべし、衣は必ず異なる色等の相有るを以て。彼は分有りて体はただ一にして、而も種種の色・類・業の殊有るを許す、審らかに斯の如き有りて甚だ是れ霊異なり。また一の火の光明界中において、遠近は同じからずして焼照は異有り、触・色の差別はまさに成ることを得べからず。各別の極微は根境を越ゆると雖も、而も共に聚集せば根証を現ずべし、彼の宗する所の合は能く果を生ずるが如く、あるいは眼等の合の能く識を発するが如し。

又如瞖目視散髮時,若多相隣彼則能見,一一遠住便無見能。極微對根理亦應爾。又即於色等,立極微名故。色等壞時極微亦壞,極微實攝,色等德收,異體不應定俱時滅。此二體別,理必不然。以審觀時非離色等有別地等,故非體別。又彼宗中自許地等眼身所取,寧異色觸?又燒毛㲲紅花等時,彼覺則無,故毛等覺但緣色等差別而起,熟變生時形量等故。猶如行伍記識瓶盆,若不觀形不記識故。誰當採錄愚類狂言?故對彼宗廣諍應止。此三災頂為在何處?第二靜慮為火災頂,此下為火所焚燒故。第三靜慮為水災頂,此下為水所浸爛故。第四靜慮為風災頂,此下為風所飄散故。隨何災上,名彼災頂。何緣下三定遭火水風災?初二三定中,內災等彼故。謂初靜慮尋伺為內災,能燒惱心等,外火災故。第二靜慮喜受為內災,與輕安俱潤,身如水故,遍身麁重由此皆除故,經說苦根第二靜慮滅。第三靜慮動息為內災,息亦是風等,外風災故。若入此靜慮,有如是內災,生此靜慮時,遭是外災壞。何緣不立地亦為災?以器世間即是地故,但可火等與地相違,不可說言地還違地。第四靜慮何為外災?彼無外災,離內災故。由此佛說彼名不動,內外三災所不及故。有說:彼地有淨居天故,彼不遭諸災所壞。由彼不可生無色天,亦復不應更往餘處。若爾,彼地器應是常。不爾,與有情俱生俱滅故。謂彼天處無總地形,但如眾星居處各別。有情於彼生時死時,所住天宮隨起隨滅,是故彼器體亦非常。所說三災云何次第?要先無間起七火災,其次定應一水災起。此後無間復七火災,度七火災還有一水,如是乃至滿七水災。復七火災後風災起,如是總有八七火災、一七水災,一風災起。何緣如是?由彼有情所修定因於上漸勝,故感身壽其量漸長,由是所居亦漸久住。由此善釋《施設足》文遍淨天壽六十四劫。

(論に続けて曰く:)また翳目の散髪を視る時の如く、もし多く相い隣れば彼は則ち見る能く、一一に遠く住せば便ち見るの能無し。極微の根に対する理もまたまさにこの如くあるべし。また即ち色等において、極微の名を立つるゆえ。色等の壞る時は極微もまた壞る、極微は実の摂、色等は徳の収、異体はまさに定めて倶時に滅すべからず。此の二は体別なり、理は必ずこの如くならず。審かに観ずる時に色等を離れて別に地等有るに非ざるを以て、ゆえに体別に非ず。また彼の宗中に自ら地等は眼・身の取る所を許す、寧ぞ色・触に異ならんや。また毛㲲・紅花等を焼く時に、彼の覚は則ち無し、ゆえに毛等の覚は但だ色等の差別に縁りて起る、熟変の生ずる時の形量等なるゆえ。猶お行伍の瓶盆を記識するが如し、もし形を観ざれば記識せざるゆえ。誰かまさに愚類の狂言を採録せん。ゆえに彼の宗に対して広く諍うはまさに止むべし。此の三灾の頂は是れ何の処に在るか。第二静慮を火灾の頂と為す、此以下は火の焚焼する所なるゆえ。第三静慮を水灾の頂と為す、此以下は水の浸爛する所なるゆえ。第四静慮を風灾の頂と為す、此以下は風の飄散する所なるゆえ。何れの灾の上に随いて、彼の灾の頂と名づく。何の縁に下の三定は火・水・風の灾に遭うか。初・二・三の定中は、内灾は彼に等しきゆえ。いわゆる初静慮は尋伺を内灾と為し、能く心を焼悩する等にして、外の火灾と等しきゆえ。第二静慮は喜受を内灾と為し、軽安と倶に潤し、身は水の如きゆえに、遍身の粗重は此に由りて皆除かるるゆえ、経に苦根は第二静慮に滅すと説く。第三静慮は動息を内灾と為し、息もまた是れ風に等しく、外の風灾のゆえ。もし此の静慮に入らば、この如きの内灾有りて、此の静慮に生ずる時に、是の外灾の壞に遭う。何の縁に地を立ててもまた灾と為さざるか。器世間は即ち是れ地なるを以て、但だ火等は地と相違すべく、地は還りて地に違すると説くべからず。第四静慮は何を外灾と為すか。彼は外灾無し、内灾を離るるゆえ。此に由りて仏は彼を不動と名づくと説く、内外の三灾の及ばざる所なるゆえ。ある説に:彼の地に浄居天有るゆえに、彼は諸の灾の壞る所に遭わず。彼より無色天に生ずべからざるに由りて、もまた復たまさに余の処に往くべからず。もし爾ならば、彼の地の器はまさに常なるべし。然らず、有情と倶に生じ倶に滅するゆえ。いわゆる彼の天の処は総の地形無く、但だ衆星の居処の各別なるが如し。有情は彼において生ずる時・死する時に、住する所の天宮は起るに随い滅するに随う、是れを以て彼の器の体もまた常に非ず。説く所の三灾は如何の次第か。要して先ず無間に七の火灾を起し、その次に定めてまさに一の水灾の起るべし。此の後に無間に復た七の火灾、七の火灾を度りて還た一の水有り、かくのごとき乃至七の水灾に満つ。復た七の火灾の後に風灾起る、かくのごとき総じて八七の火灾・一七の水灾・一の風灾の起る有り。何の縁にこの如くか。彼の有情の修する所の定の因は上において漸に勝れるに由りて、ゆえに身寿を感ずることその量は漸に長く、是に由りて居る所もまた漸に久住す。此に由りて『施設足』の文の遍浄天の寿は六十四劫を善く釋す。

説一切有部倶舎論 巻第十二

アビダルマ倶舎論 巻第十三

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別業品第四之一

分別業品 第四之一。

如前所說有情世間及器世間各多差別,如是差別由誰而生?頌曰:

前の説く所の有情世間および器世間は各々多くの差別有り、かくのごとき差別は誰に由りて生ずるか。頌に曰く:

世別由業生,思及思所作,

世の別は業に由りて生ず、思および思の作す所、

思即是意業,所作謂身語。

思は即ち是れ意業、作す所は身・語を謂う。

論曰:非由一主先覺而生,但由有情業差別起。若爾,何故俱從業生?欝金栴檀等甚可愛樂,而內身形等與彼相違。以諸有情業類如是,若造雜業感內身形,於九瘡門常流不淨。為對治彼,感外具生色香味觸甚可愛樂。諸天眾等造純淨業,故彼所招二事俱妙。此所由業其體是何?謂心所思及思所作。故契經說:有二種業,一者思業、二思已業,思已業者謂思所作。如是二業分別為三,謂即有情身、語、意業。如何建立此三業耶?為約所依、為據自性、為就等起?縱爾何違?若約所依應唯一業,以一切業並依身故。若據自性應唯語是業,以三種中唯語即業故。若就等起亦應唯一業,以一切業皆意等起故。毘婆沙師說立三業,如其次第由上三因。然心所思即是意業,思所作業分為身、語二業,是思所等起故。身語二業自性云何?頌曰:

論に曰く:一の主の先覚に由りて生ずるに非ず、但だ有情の業の差別に由りて起る。もし爾ならば、何の故に倶に業より生ずるや。郁金・栴檀等は甚だ可愛楽なるに、而も内の身形等は彼と相違す。諸の有情の業類はこの如きを以て、もし雜業を造れば内の身形を感じて、九の瘡門において常に不浄を流す。彼を対治せんが為に、外の具を感じて色・香・味・触は甚だ可愛楽なり。諸の天衆等は純浄の業を造る、ゆえに彼の招く所の二事は倶に妙なり。此の由る所の業はその体は是れ何ぞ。いわゆる心の思う所および思の作す所。ゆえに契経に説く:二種の業有り、一に思業、二に思已業、思已業とはいわゆる思の作す所、と。かくのごとき二業を分別して三と為す、いわゆる即ち有情の身・語・意業。如何にして此の三業を建立するか。是れ所依に約るか、是れ自性に拠るか、是れ等起に就くか。縦し爾りとも何の違か有らん。もし所依に約ればまさに唯一の業あるべし、一切の業は并びて身に依るを以て。もし自性に拠ればまさにただ語是れ業あるべし、三種中にただ語は即ち業なるを以て。もし等起に就けばもまたまさに唯一の業あるべし、一切の業は皆意の等起なるを以て。毘婆沙師は三業を立つと説く、その次第の如く上の三因に由る。しかるに心の思う所は即ち是れ意業、思の作す所の業は分かちて身・語の二業と為す、是れ思の等起する所なるゆえ。身・語の二業の自性は如何。頌に曰く:

此身語二業,俱表無表性。

此の身・語の二業は、倶に表・無表の性。

論曰:應知如是所說諸業中,身語二業俱表無表性。且身語表其相云何?頌曰:

論に曰く:まさにかくのごとき説く所の諸業中において、身・語の二業は倶に表・無表の性なるを知るべし。且つ身・語の表はその相は如何。頌に曰く:

身表許別形,非行動為體,

身表は別の形を許す、行動を体と為すに非ず、

以諸有為法,有剎那盡故。

諸の有為の法は、刹那尽くる有るを以て。

應無無因故,生因應能滅,

まさに因無き無し、生因はまさに能く滅す、

形亦非實有,應二根取故,

形もまた実有に非ず、まさに二根の取るゆえ、

無別極微故,語表許言聲。

別の極微無きゆえ、語表は言声を許す。

論曰:由思力故,別起如是如是身形,名身表業。有餘部說:動名身表,以身動時由業動故。為破此故,說非行動,以一切有為皆有剎那故。剎那何謂?得體無間滅,有此剎那法,名有剎那,如有杖人名為有杖。諸有為法才得自體,從此無間必滅歸無。若此處生即此處滅,無容從此轉至餘方,故不可言動名身表。若有為法皆有剎那,不至餘方義可成立。諸有為法皆有剎那,其理極成後必盡故,謂有為法滅不待因。所以者何?待因謂果,滅無非果,故不待因。滅既不待因,才生已即滅。若初不滅,後亦應然,以後與初有性等故。既後有盡,知前有滅。若後有異方可滅者,不應即此而名有異。即此相異,理必不然。豈不世間現見薪等,由與火合故致滅無?定無餘量過現量者,故非法滅皆不待因。如何知薪等,由火合故滅?以薪等火合,後便不見故。應共審思,如是薪等,為由火合滅故不見?為前薪等生已自滅,後不更生無故不見,如風手合燈焰鈴聲?故此義成應由比量。何謂比量?謂如前說,滅無非果故不待因。又若待因薪等方滅,應一切滅無不待因,如生待因,無無因者。然世現見覺焰音聲,不待餘因剎那自滅,故薪等滅亦不待因。有執覺聲前因後滅。彼亦非理,二不俱故。疑智苦樂及貪瞋等,自相相違理無俱義。若復有位明瞭覺聲無間便生不明瞭者,如何同類不明瞭法能滅明瞭同類法耶?最後覺聲復由誰滅?有執燈焰滅,以住無為因。有執焰滅時,由法非法力。彼俱非理,無非因故。非法非法為生滅因,以剎那剎那順違相反故。或於一切有為法中,皆可計度有此因義。既爾,本諍便應止息,許不待餘因皆有剎那故。又若薪等滅,火合為因,於熟變生中有下中上,應生因體即成滅因。所以者何?謂由火合能令薪等有熟變生,中上熟生、下中熟滅。或即或似生上中因,即能為因滅下中熟,則生因體應即滅因。

論に曰く:思の力なるゆえに、別にかくのごときかくのごとき身形を起し、身表業と名づく。ある余部の説に:動は身表と名づく、身の動く時に業に由りて動くゆえ、と。此を破らんが為に、行動に非ずと説く、一切の有為は皆刹那有るを以て。刹那とは何を謂うか。体を得て無間に滅す、此の刹那の法有りて、刹那有りと名づく、杖有る人を有杖と名づくる有るが如し。諸の有為の法は纔かに自体を得て、此より無間に必ず滅して無に帰す。もし此の処に生ぜば即ち此の処に滅し、此より余の方に転ずるを容れず、ゆえに動を身表と名づくと説くべからず。もし有為の法は皆刹那有れば、余の方に至らざる義は成立すべし。諸の有為の法は皆刹那有り、その理は極成して後に必ず盡くるゆえ、いわゆる有為の法の滅は因を待たず。所以者何。因を待つは果を謂い、滅は無にして果に非ず、ゆえに因を待たず。滅は既に因を待たず、纔かに生じ已って即ち滅す。もし初めに滅せざれば、後もまたまさにこの如くあるべし、後は初と有性の等しきを以て。既に後に盡くる有れば、前に滅有るを知る。もし後に異有りて方に滅すべきは、まさに即ち此にして而も異有りと名づくべからず。即ち此は相異なり、理は必ずこの如くならず。豈に世間は現に薪等を見て、火と合するに由りて滅無を致すと謂わんや。定めて余の量の現量を過ぐる無し、ゆえに法の滅は皆因を待たざるに非ず。如何にして薪等を知るか、火合に由りて滅するゆえと。薪等の火合を以て後に便ち見ざるゆえ。まさに共に審思すべし、かくのごとき薪等は、是れ火合に由りて滅するゆえに見えざるか。是れ前の薪等は生じ已りて自ら滅し、後に更に生ぜずして無なるゆえに見えざるか、風・手の合の灯焰・鈴声の如くか。ゆえに此の義はまさに比量に由りて成るべし。何を比量と謂うか。いわゆる前の説くが如く、滅は無にして果に非ざるゆえに因を待たず。またもし因を待ちて薪等は方に滅せば、まさに一切の滅は因を待たざる無かるべし、生は因を待つが如く、因無きは無し。しかるに世は現に焰・音声を覚るを見るに、余の因を待たずして刹那に自ら滅す、ゆえに薪等の滅もまた因を待たず。ある執に焰・声は前に因りて後に滅す。彼もまた理に非ず、二は倶ならざるゆえ。疑・智・苦・楽および貪・瞋等は、自ら相い相違して理は倶の義無し。もし復た位有りて明瞭の焰・声は無間に便ち不明瞭を生ずれば、如何にして同類の不明瞭の法は能く明瞭の同類の法を滅せんや。最後の焰・声は復た誰に由りて滅するか。ある執に灯焰の滅は、住無為を因と為す。ある執に焰の滅する時は、法・非法の力に由る。彼は倶に理に非ず、因無きに非ざるゆえ。非法は非法と為して生滅の因と為す、刹那刹那は順違相反するを以て。あるいは一切の有為法中において、皆此の因の義有ると計度すべし。既に爾れば、本の諍は便ちまさに止息すべし、余の因を待たずして皆刹那有るを許すゆえ。またもし薪等の滅は、火合を因と為せば、熟変の生中において下・中・上有りて、まさに生因の体は即ち滅因と成るべし。所以者何。いわゆる火合に由りて能く薪等をして熟変生あらしめ、中・上の熟は生じ、下・中の熟は滅す。あるいは即ちあるいは似て生の上・中の因は、即ち能く因と為りて下・中の熟を滅せば、則ち生因の体はまさに即ち滅因なるべし。

或滅生因應相無別,不應由即此,或似此彼有,彼復由即此,或似此非有。設於火焰差別生中,容計能生能滅因異;於灰雪酢日水地合能令薪等熟變生中,如何計度生滅因異?若爾,現見煎水減盡,火合於中為何所作?由事火合火界力增,由火界增能令水聚於後後位生漸漸微,乃至最微後便不續,是名火合於中所作。故無有因令諸法滅,法自然滅,是壞性故。自然滅故,才生即滅。由才生即滅,剎那滅義成。有剎那故定無行動,然於無間異方生中,如燒草焰行,起行增上慢。既由斯理行動定無,身表是形理得成立。然經部說:形非實有,謂顯色聚一面多生即於其中假立長色,待此長色於餘色聚一面少中假立短色,於四方面並多生中假立方色,於一切處遍滿生中假立圓色,所餘形色隨應當知。如見火㷮於一方面無間速運便謂為長,見彼周旋謂為圓色,故形無實別類色體。若謂實有別類形色,則應一色二根所取,謂於色聚長等差別,眼見身觸俱能了知,由此應成二根取過。理無色處二根所取。然如依觸取長等相,如是依顯能取於形,豈不觸形俱行一聚?故因取觸能憶念形,非於觸中親取形色。如見火色便憶火煖,及嗅花香能念花色,此中二法定不相離,故因取一可得念餘。無觸與形定不相離,如何取觸能定憶形?若觸與形非定同聚,然由取觸能憶念形,顯色亦應因觸定憶,或應形色如顯無定,則取觸位應不了形。而實不然,故不應說因取於觸能憶念形。或錦等中見多形故,便應一處有多實形。理不應然,如眾顯色,是故形色非實有體。又諸所有有對實色,必應有實別類極微。然無極微名為長等,故即多物如是安布差別相中假立長等。若謂即以形色極微如是安布名為長等,此唯朋黨,非極成故。謂若形色有別極微自相極成,可得聚集如是安布以為長等。非諸形色有別極微自相極成猶如顯色,云何得有聚集安布?

(論に続けて曰く:)あるいは滅・生の因はまさに相別無きべく、まさに即ち此に由るべからず、あるいは此に似て彼有り、彼は復た即ち此に由り、あるいは此に似て非有。設ひ火焰の差別の生中において、能生・能滅の因の異なるを計度するを容れんも、灰・雪・酢・日・水・地の合は能く薪等をして熟変生あらしむる中において、如何にして生滅の因の異なるを計度せん。もし爾ならば、現に水を煎じて減盡するを見るに、火合はその中において何の作す所か。事の火合に由りて火界の力は増し、火界の増するに由りて能く水聚をして後後の位において漸々微を生ぜしめ、乃至最微の後に便ち續がず、是れを火合のその中において作す所と名づく。ゆえに因の諸法をして滅せしむる有る無し、法は自然に滅す、是れ壊性なるゆえ。自然に滅するゆえに、纔かに生ぜば即ち滅す。纔かに生じて即ち滅するに由りて、刹那滅の義は成る。刹那有るゆえに定めて行動無し、しかるに無間に異方に生ずる中において、草を焼く焰の行くが如く、行の増上慢を起す。既に斯の理に由りて行動は定めて無ければ、身表は是れ形なる理は成立することを得。しかるに経部は説く:形は実有に非ず、いわゆる顕色の聚は一面に多く生ずれば即ちその中において假に長色を立て、此の長色に待ちて余の色聚の一面に少なき中において假に短色を立て、四面の方において并びて多く生ずる中において假に方色を立て、一切の処に遍満して生ずる中において假に円色を立つ、余の形色はその応ずる所に随い知るべし。火㷮の一方面において無間に速く運ぶを見て便ち長と謂い、彼の周旋するを見て円色と謂うが如く、ゆえに形は実の別類の色体無し。もし実に別類の形色有りと謂わば、則ちまさに一色は二根の取る所なるべし、いわゆる色聚の長等の差別において、眼に見え身に触れて倶に能く了知す、此に由りてまさに二根の取の過を成すべし。理は色処の二根の取る所無し。しかるに触に依りて長等の相を取るが如く、かくのごとき顕に依りて能く形を取る、豈に触・形は倶に一聚に行ぜざらんや。ゆえに触を取るに因りて能く形を憶念す、触中において親しく形色を取るに非ず。火の色を見て便ち火の暖かさを憶し、および花の香を嗅ぎて能く花の色を念ずるが如く、此中の二法は定めて相い離れず、ゆえに一を取るに因りて余を念ずるを得。触と形との定めて相い離れざる無し、如何にして触を取りて能く定めて形を憶せん。もし触と形とは定めて同聚に非ざらば、しかるに触を取るに由りて能く形を憶念せば、顕色もまたまさに触に因りて定めて憶ずべく、あるいはまさに形色は顕の如く定無かるべく、則ち触を取る位においてまさに形を了せざるべし。而も実はこの如くならず、ゆえにまさに触を取るに因りて能く形を憶念すと説くべからず。あるいは錦等中に多くの形を見るゆえに、便ちまさに一処に多くの実形有るべし。理はまさにこの如くあるべからず、衆の顕色の如く、是れを以て形色は実の体有るに非ず。また諸の所有する有対の実色は、必ずまさに実の別類の極微有るべし。しかるに長等と名づく極微無し、ゆえに即ち多物のかくのごとき安布の差別相中において假に長等を立つ。もし即ち形色の極微を以てかくのごとき安布を長等と名づくと謂わば、此はただ是れ朋党、極成に非ざるゆえ。いわゆるもし形色に別の極微の自ら相い極成する有らば、聚集してかくのごとき安布して以て長等と為すを得べし。諸の形色に別の極微の自ら相い極成する有るに非ざるは猶お顕色の如し、如何にして聚集の安布有るを得んや。

豈不現見諸土器等,有顯相同而形相異?為不已辯即於多物安布差別假立長等,如眾蟻等有相不殊,然有行輪安布形別。形依顯等理亦應然。豈不闇中或於遠處觀杌等物了形非顯,寧即顯等安布為形,以闇遠中觀顯不了,是故但起長等分別。如於遠闇觀眾樹人,但了行軍不知別相,理必應爾,以或有時不了顯形唯知總聚。既已遮遣行動及形,汝等經部宗立何為身表?立形為身表,但假而非實。既執但用假為身表,復立何法為身業耶?若業依身立為身業,謂能種種運動身思,依身門行故名身業。語業意業隨其所應,立差別名當知亦爾。若爾,何故契經中說有二種業:一者思業、二思已業。此二何異?謂前加行起思惟思,我當應為如是如是所應作事名為思業。既思惟已起作事思,隨前所思作所作事,動身發語名思已業。若爾,表業則為定無。表業既無,欲無表業亦應非有,便成大過。如是大過有理能遮,謂從如前所說二表,殊勝思故起思差別,名為無表。此有何過?此應名為隨心轉業,如定無表心俱轉故。無如是過,審決勝思、動發勝思所引生故。設許有表,亦待如前所說思力,以性鈍故。毘婆沙師說:形是實故,身表業形色為體,語表業體謂即言聲,無表業相如前已說。經部亦說:此非實有,由先誓限唯不作故。彼亦依過去大種施設,然過去大種體非有故,又諸無表無色相故。毘婆沙說:此亦實有。云何知然?頌曰:

(論に続けて曰く:)豈に現に諸の土器等を見て、顕相同じくして形相の異なる有らざらんや。為に已に弁ぜざらんや、即ち多物において安布の差別に假に長等を立つ、衆の蟻等の相殊ならざる有るが如く、しかるに行輪の安布の形の別有り。形は顕等に依る理もまたまさにこの如くあるべし。豈に暗中あるいは遠処において杌等の物を観て形を了して顕を了せざる、寧ろ即ち顕等の安布を形と為さんや、暗・遠中において顕を観て了せざるを以て、是れを以て但だ長等の分別を起す。遠暗において衆樹・人を観ずるが如く、但だ行軍を了して別相を知らず、理は必ずまさにこの如くあるべし、あるいは時有りて顕形を了せずただ総聚を知るを以て。既に行動および形を遮遣し已りて、汝等の経部宗は何を立てて身表と為すか。形を立てて身表と為す、但だ假にして実に非ず。既に但だ假を用いて身表と為すと執せば、復た何の法を立てて身業と為さんか。もし業は身に依りて身業と立てば、いわゆる能く種種に身を運動する思、身門に依りて行ずるゆえに身業と名づく。語業・意業はその応ずる所に随い、差別の名を立つるはまさに知るべきこともまたこの如し。もし爾ならば、何の故に契経中に二種の業有りと説く:一に思業、二に思已業。此の二は何の異なるか。いわゆる前に加行して思惟の思を起し、我はまさにかくのごときかくのごときのまさに作すべき事を為すべしと名づくるを思業と為す。既に思惟し已りて作事の思を起し、前の思う所に随いて作す所の事を作し、身を動かし語を発するを思已業と名づく。もし爾ならば、表業は則ち定めて無しを為さん。表業は既に無ければ、欲の無表業もまたまさに有るべからず、便ち大過を成さん。かくのごとき大過は理有りて能く遮る、いわゆる前の説く所の如き二表より、殊勝の思なるゆえに思の差別を起して、無表と名づく。此は何の過か有る。此はまさに随心転の業と名づくべし、定の無表は心と倶に転ずるが如きゆえ。かくのごとき過無し、審決の勝思・動発の勝思の引生する所なるゆえ。設ひ表有りを許すとも、もまた前の説く所の如き思の力を待つ、性は鈍なるを以て。毘婆沙師は説く:形は是れ実なるゆえ、身表業は形色を体と為し、語表業の体は即ち言声を謂い、無表業の相は前に已に説くが如し、と。経部もまた説く:此は実有に非ず、先の誓限に由りてただ作さざるを以て。彼もまた過去の大種に依りて施設す、しかるに過去の大種の体は有るに非ざるゆえ、また諸の無表は色相無きゆえ。毘婆沙は説く:此もまた実有。如何にしてこの如くを知るか。頌に曰く:

說三無漏色,增非作等故。

三の無漏の色を説く、増・非作等のゆえ。

論曰:以契經說色有三種,此三為處攝一切色:一者有色有見有對、二者有色無見有對、三者有色無見無對。又契經中說有無漏色,如契經說:無漏法雲何?謂於過去未來現在諸所有色不起愛恚,乃至識亦然。是名無漏法。除無表色,何法名為無見無對及無漏色?又契經說有福增長,如契經言:諸有淨信,若善男子或善女人,成就有依七福業事,若行若住若寐若覺,恆時相續,福業漸增福業續起,無依亦爾。除無表業,若起餘心或無心時,依何法說福業增長?又非自作,但遣他為,若無無表業,不應成業道。以遣他表非彼業道攝,此業未能正作所作故、使作所作已、此性無異故。又契經說:苾芻當知,法謂外處。是十一處所不攝法無見無對,不言無色。若不觀於法處所攝無表色者,此言闕減便成無用。又若無無表,應無八道支,以在定時語等無故。若爾,何故契經中言:彼如是知、彼如是見,修習正見、正思惟、正精進、正念、正定皆至圓滿。正語、業、命先時已得清淨鮮白,此依先時已得世間離染道說,無相違過。又若撥無無表色者,則亦應無有別解脫律儀,非受戒後有戒相續,雖起異緣心而名苾芻等。又契經說:離殺等戒名為隄塘戒,能長時相續堰遏犯戒過故。非無有體可名隄塘。由此等證知,實有無表色。經部師說:此證雖多種種希奇,然不應理。所以然者?所引證中且初經言有三色者,瑜伽師說:修靜慮時定力所生定境界色,非眼根境故名無見、不障處所故名無對。若謂既爾,如何名色釋如是難與無表同?又經所言無漏色者,瑜伽師說:即由定力所生色中,依無漏定者即說為無漏。有餘師言:無學身色及諸外色皆是無漏,非漏依故得無漏名。何故經言有漏法者諸所有眼乃至廣說?此非漏對治故得有漏名,是則此應言有漏亦無漏。若爾,何過?有相雜失。若依此理說為有漏,曾不依此說為無漏。

論に曰く:契経は色に三種有りと説くを以て、此の三は処を為りて一切の色を摂す:一に色有りて見有り対有り、二に色有りて見無く対有り、三に色有りて見無く対無し。また契経中に無漏の色有りと説く、契経の説くが如く:無漏の法は如何。いわゆる過去・未来・現在の諸の所有する色において愛・恚を起さず、乃至識もまたこの如し、是れを無漏法と名づく、と。無表の色を除きて、何の法か見無く対無しおよび無漏の色と名づくるか。また契経に福の増長有りと説く、契経の説くが如く:諸の浄信有る、もし善男子あるいは善女人は、依有る七の福業の事を成就し、もし行きもし住しもし寐もし覚むとも、恒時に相续して、福業は漸に増し福業は続きて起る、依無きもまたこの如し、と。無表業を除きて、もし余の心を起すあるいは無心の時に、何の法に依りて福業の増長を説くか。また自ら作すに非ずして但だ他を遣りて為すは、もし無表業無ければ、まさに業道を成ずべからず。他を遣る表は彼の業道の摂に非ざるを以て、此の業は未だ能く正しく作す所を作さざるゆえ、作す所を作さしめ已って、此の性は異なる無きゆえ。また契経に説く:苾芻まさに知るべし、法とは外処を謂う。是の十一処の摂せざる所の法は見無く対無し、無色と説かず。もし法処の摂する所の無表色を観ざれば、此の言は闕減して便ち無用を成さん。またもし無表無ければ、まさに八の道支無かるべし、定中に在る時は語等無きを以て。もし爾ならば、何の故に契経中に説く:彼はかくのごとく知り、彼はかくのごとく見て、正見・正思惟・正精進・正念・正定を修習して皆円満に至る。正語・業・命は先の時に已に清浄鮮白を得、此は先の時に已に得たる世間の離染の道に依りて説き、相違の過無し、と。またもし無表色無しと撥すれば、則ちもまたまさに別解脱の律儀有るべからず、戒を受けたる後に戒の相续有りて、異縁の心を起すと雖も而も苾芻等と名づくるに非ず。また契経に説く:殺等を離るる戒を堤塘の戒と名づく、能く長時に相续して犯戒の過を堰遏するゆえ。体有る無くして堤塘と名づくべからず。此の等の証に由りて知る、実に無表色有り。経部師は説く:此の証は多く種種希奇なりと雖も、しかるにまさに理に応ぜず。所以はこの如く何ぞ。引く所の証中の且つ初の経の三色有りと説くは、瑜伽師は説く:静慮を修する時に定の力の生ずる所の定境界の色、眼根の境に非ざるゆえに無見と名づき、処所を障えざるゆえに無対と名づく、と。もし既に爾りと謂わば、如何にして色と名づくるか、かくの難を釋するは無表と同じ。また経の言う所の無漏色とは、瑜伽師は説く:即ち定の力の生ずる所の色中に由りて、無漏の定に依るを即ち無漏と説き為す。ある余師の説に:無学の身色および諸の外色は皆是れ無漏、漏の依に非ざるゆえに無漏の名を得、と。何の故に経は有漏の法を説くに諸の所有する眼乃至広説するか。此は漏の対治に非ざるゆえに有漏の名を得、是れ則ち此はまさに有漏にもまた無漏を説くべし。もし爾ならば、何の過か有る。相雑の失有り。もし此の理に依りて有漏と為して説けば、曾て此に依りて無漏と為して説かざるに非ず。

無漏亦然,有何相雜?若色處等一向有漏,此經何緣差別而說?如說有漏有取諸色心栽覆事,聲等亦爾。又經所說福增長言,先軌範師作如是釋:由法爾力福業增長,如如施主所施財物。如是如是受者受用,由諸受者受用施物,功德攝益有差別故。於後施主心雖異緣,而前緣施思所燻習,微細相續漸漸轉變差別而生,由此當來能感多果。故密意說,恆時相續福業漸增福業續起。若謂如何由餘相續德益差別令餘相續心雖異緣而有轉變?釋此疑難與無表同。彼復如何由餘相續德益差別令餘相續別有真實無表法生?若於無依諸福業事如何相續福業增長,亦由數習緣彼思故,乃至夢中亦恆隨轉。無表論者於無依福既無表業,寧有無表?有說:有依諸福業事,亦由數習緣彼境思,故說恆時相續增長。若爾,經說:諸有苾芻具淨屍羅成調善法,受他所施諸飲食已,入無量心定身證具足住。由此因緣應知施主無量福善滋潤相續,無量安樂流注其身。施主爾時福恆增長,豈定常有緣彼勝思?是故所言思所燻習微細相續漸漸轉變差別而生,定為應理。又非自作但遣他為業道如何得成滿者,應如是說:由本加行,使者依教所作成時,法爾能令教者微細相續轉變差別而生,由此當來能感多果。諸有自作事究竟時,當知亦由如是道理。應知即此微細相續轉變差別名為業道,此即於果假立因名,是身語業所引果故。如執別有無表,論宗無表亦名身語業道。然大德說:於取蘊中由三時起思,為殺罪所觸,謂我當殺正殺殺已。非但由此業道究竟,勿自母等實未被害,由謂已害成無間業。然於自造不誤殺事,起如是思,殺罪便觸。若依此說非不應理,何於無表偏懷憎嫉定撥為無,而許所燻微細相續轉變差別?

(論に続けて曰く:)無漏もまたこの如し、何の相雑か有らん。もし色処等は一向に有漏ならば、此の経は何の縁に差別して説くか。有漏は取有る諸色の心栽の覆事を説くが如く、声等もまたこの如し。また経の説く所の福増長の言は、先の軌範師はかくの釋を作す:法爾の力に由りて福業は増長す、施主の施す所の財物の如くの如く。かくのごときかくのごとき受者は受用す、諸の受者の施物を受用するに由りて、功徳の摂益に差別有るゆえ。後において施主の心は異に縁ると雖も、而も前の施に縁ずる思の熏習する所は、微細に相续して漸々に転変し差別して生ず、此に由りて当来に能く多くの果を感ず。ゆえに密意に説く、恒時に相续して福業は漸に増し福業は続きて起る、と。もし如何にして余の相续の徳益の差別に由りて余の相续の心は異に縁ると雖も而も転変有らんと謂わば。此の疑難を釋するは無表と同じ。彼は復た如何にして余の相续の徳益の差別に由りて余の相续に別に真実の無表の法の生ずる有らしむるか。もし依無き諸の福業の事において如何にして相续して福業は増長せんや、もまた数習して彼の思に縁ずるゆえ、乃至夢中にも恒に随転す。無表を論ずるは依無き福において既に表業無く、寧ぞ無表有らんや。ある説に:依有る諸の福業の事も、もまた数習して彼の境の思に縁ずるに由り、ゆえに恒時に相续して増長すと説く。もし爾ならば、経に説く:諸の苾芻有りて浄尸羅を具して調善法を成し、他の施す所の諸の飲食を受け已りて、無量の心定に入りて身に証して具足して住す。此の因縁に由りてまさに施主に無量の福善の滋潤する相续有るを知るべく、無量の安楽はその身に流注す。施主は爾の時に福は恒に増長す、豈に定めて常に彼に縁ずる勝思有らんや。是れを以て言う所の思の熏習する所は微細に相续して漸々に転変し差別して生ずるは、定めてまさに理に応ずべし。また自ら作すに非ずして但だ他を遣りて為すは業道は如何にして成満を得るか、まさにかくの説を作すべし:本の加行に由りて、使者の教に依りて作す所の成ずる時に、法爾に能く教する者に微細に相续して転変し差別して生ぜしむ、此に由りて当来に能く多くの果を感ず。諸の自ら作す事の究竟の時は、まさに知るべしもまたかくのごとき道理に由る。まさに即ち此の微細相续の転変差別を業道と名づくと知るべし、此即ち果において假に因の名を立つ、是れ身・語業の引く所の果なるゆえ。別に無表有りと執するが如く、論の宗は無表もまた身・語業道と名づく。しかるに大徳は説く:蘊を取る中において三時に由りて思を起し、殺罪の触るる所と為る、いわゆる我まさに殺すべし・正に殺す・殺し已り、と。但だ此に由りて業道は究竟するに非ず、自の母等の実に未だ害せられざるを勿れ、已に害せりと謂うに由りて無間業を成す。しかるに自ら造る誤らざる殺の事において、かくのごとき思を起せば、殺罪は便ち触る。もし此の説に依れば理に応ぜざるに非ず、何ぞ無表において偏えに憎嫉を懐きて定めて無と撥し、而も熏する所の微細相续の転変差別を許すや。

然此與彼俱難了知,今於此中無所憎嫉,然許業道是心種類,由身加行事究竟時,離於心身於能教者身中別有無表法生,如是所宗不令生喜。若由此引彼加行生事究竟時,即此由彼相續轉變差別而生,如是所宗可令生喜。但由心等相續轉變差別,能生未來果故。又先已說。先說者何?謂表業既無,寧有無表等。又說法處不言無色,由有如前所說定境無見無對法處攝色。又言道支應無八者,且彼應說正在道時,如何得有正語業命?為於此位有發正言、起正作業求衣等不?不爾,云何由彼獲得如是種類無漏無表,故出觀後由前勢力能起三正不起三邪,以於因中立果名故,於無表立語業命名。若爾,云何不受此義?雖無無表而在道時,獲得如斯意樂依止,故出觀後由前勢力,能起三正不起三邪。以於因中立果名故,可具安立八聖道支。有餘師言:唯說不作邪語等事以為道支,謂在定時由聖道力,便能獲得決定不作。此定不作,依無漏道而得安立,故名無漏,非一切處要依真實別有法體方立名數。如八世法,謂得、不得及與毀、譽、稱、譏、苦、樂。非此不得衣食等事別有實體,此亦應然。別解脫律儀亦應准此,謂由思願力先立要期,能定遮防身語惡業,由斯故建立別解脫律儀。若起異緣心應無律儀者,此難非理,由燻習力欲起過時憶便止故。戒為隄塘義亦應准此,謂先立誓限定不作惡,後數憶念慚愧現前,能自制持令不犯戒。故隄塘義由心受持,若由無表能遮犯戒,應無失念而破戒者。且止此等眾多諍論。毘婆沙師說有實物名無表色,是我所宗。前說無表大種所造性,為表大種造、為有異耶?頌曰:

(論に続けて曰く:)しかるに此と彼とは倶に了知し難し、今此の中において憎嫉する所無し、しかるに業道は心の種類を許す、身の加行に由りて事の究竟する時に、心身を離れて能く教える者の身中において別に無表の法の生ずる有り、かくのごとき宗する所は喜を生ぜしめず。もし此に由りて彼の加行の生ずる事の究竟する時に、即ち此は彼に由りて相续の転変差別して生ずれば、かくのごとき宗する所は喜を生ぜしむべし。但だ心等の相续の転変差別に由りて、能く未来の果を生ずるゆえ。また先に已に説きたり。先に説くとは是れ何ぞ。いわゆる表業は既に無し、寧ぞ無表有らん等。また法処を説きて無色を説かざるは、前の説く所の如き定境の見無く対無しの法処の摂する色有るに由る。また道支を説きてまさに八無かるべきは、且つ彼はまさに説くべし、正に道に在る時に、如何にして正語・業・命有るを得るか。是れ此の位において正言を発し、正作業を起して衣等を求める有るか否や。然らず、如何にして彼に由りてかくのごとき種類の無漏の無表を獲得するか、ゆえに観を出でたる後に前の勢力に由りて能く三正を起して三邪を起さず、因中において果の名を立つるを以て、無表において語業の命の名を立つ。もし爾ならば、如何にして此の義を受けざるか。無表無しと雖も而も道に在る時に、斯の如き意楽の依止を獲得す、ゆえに観を出でたる後に前の勢力に由りて、能く三正を起して三邪を起さず。因中において果の名を立つるを以て、具に八聖道支を安立すべし。ある余師の説に:ただ邪語等の事を作さずと説きて以て道支と為す、いわゆる定中に在る時に聖道の力に由りて、便ち能く決定して作さざるを獲得す。此の定に作さざるは、無漏の道に依りて安立を得、ゆえに無漏と名づく、一切の処に要して真実に別の法体に依りて方に名数を立つるに非ず。八世法の如く、いわゆる得・不得および与に毀・誉・称・譏・苦・楽。此の不得の衣食等の事に別の実体有るに非ず、此もまたまさにこの如くあるべし。別解脱の律儀もまたまさに此に准ずべし、いわゆる思愿の力に由りて先に要期を立て、能く定めて身・語の悪業を遮防す、斯に由るゆえに別解脱の律儀を建立す。もし異縁の心を起せばまさに律儀無かるべきは、此の難は理に非ず、熏習の力に由りて過を起さんと欲すれば憶して便ち止むるゆえ。戒の堤塘の義もまたまさに此に准ずべし、いわゆる先に誓限を立てて定めて悪を作さず、後に数々憶念して慚愧は現前し、能く自ら制持して戒を犯さざらしむ。ゆえに堤塘の義は心に由りて受持す、もし無表に由りて能く戒を犯すを遮らば、まさに念を失して戒を破る無かるべし。且つ此の等の衆多の諍論を止めん。毘婆沙師は実物有りて無表色と名づくと説く、是れ我が宗する所。前に説く無表は大種の造る所の性、是れ表の大種の造か、是れ異有るか。頌に曰く:

此能造大種,異於表所依。

此の能造の大種は、表の依る所に異なり。

論曰:無表與表異大種生。所以者何?從一和合有細麁果,不應理故。如表與大必同時生,無表亦然,為有差別。一切所造色多與大種俱時而生,然現在未來亦有少分依過去者。少分者何?頌曰:

論に曰く:無表は表と異なる大種より生ず。所以者何。一の和合より細・粗の果有るは、理に応ぜざるゆえ。表は大と必ず同時に生ずるが如く、無表もまたこの如し、是れ差別有るが為。一切の造る所の色は多くは大種と倶時に生ず、しかるに現在・未来にもまた少分有りて過去に依る。少分とは是れ何ぞ。頌に曰く:

欲後念無表,依過大種生。

欲の後念の無表は、過去の大種に依りて生ず。

論曰:唯欲界繫初剎那後,所有無表從過大生,此為所依無表得起。現身大種但能為依,為轉隨轉因隨其次第,如輪行於地,手地為依。何地身語業?何地大所造?頌曰:

論に曰く:ただ欲界の繫は初の刹那の後、所有する無表は過去の大より生ず、此を所依と為して無表は起ることを得。現身の大種は但だ能く依と為る、転・随転の因と為りてその次第に随う、輪の地を行くが如く、手・地は依と為る。何の地の身・語業か。何の地の大の造る所か。頌に曰く:

有漏自地依,無漏隨生處。

有漏は自地に依す、無漏は生ずる処に随う。

論曰:欲界所繫身語二業,唯欲界繫大種所造。如是乃至第四靜慮身語二業,唯是彼地大種所造。若身語業是無漏者,隨生此地應起現前,即是此地大種所造,以無漏法不墮界故、必無大種是無漏故、由所依力無漏生故。此表無表其類是何?復是何類大種所造?頌曰:

論に曰く:欲界の繫する所の身・語の二業は、ただ欲界の繫の大種の造る所。かくのごとき乃至第四静慮の身・語の二業は、ただ是れ彼の地の大種の造る所。もし身・語業は是れ無漏ならば、此の地に生ずるに随いまさに現前を起すべく、即ち是れ此の地の大種の造る所、無漏の法は界に堕せざるを以て、必ず大種の是れ無漏有る無きを以て、依る所の力に由りて無漏は生ずるゆえ。此の表・無表はその類は是れ何ぞ。復た是れ何の類の大種の造る所か。頌に曰く:

無表無執受,亦等流情數,

無表は執受無し、もまた等流・情の数、

散依等流性,有受異大生,

散に依るは等流性、受有りて異大の生、

定生依長養,無受無異大,

定生は長養に依る、受無く異大無し、

表唯等流性,屬身有執受。

表はただ等流性、身に属して執受有り。

論曰:今此頌中先辯無表是無執受,無變礙故。亦等流性,亦言顯此有是剎那,謂初無漏。餘皆等流性,謂同類因生。此唯有情,依內起故。於中欲界所有無表,等流有受別異大生。異大生言顯身語七一一是別大種所造,定生無表差別有二。謂諸靜慮無漏律儀。此二俱依定所長養。無受無異大種所生。無異大言顯此無表七支同一具四大種所生。所以者何?所依大種,如心唯一,無差別故。應知有表唯是等流,此若屬身是有執受,餘義皆與散無表同。表業生時為要破壞本身形量、為不爾耶?若爾,何失?若破壞者,異熟色斷應可更續,是則違越毘婆沙宗。若不破壞,如何得有一身處所二形量成?有別新生等流大種,造有表業不破本身。若爾,隨依何身分處起有表業應大於本,新生大種遍增益故。若不遍增益,如何遍生表?身有孔隙,故得相容。已辯業門二三五別。此性界地差別云何?頌曰:

論に曰く:今此の頌中に先ず無表は是れ執受無きを弁ず、変礙無きゆえ。もまた等流性、もとの言は此に是れ刹那有るを顕す、いわゆる初の無漏。余は皆等流性、いわゆる同類の因の生。此はただ有情、内に依りて起るゆえ。其の中の欲界の所有する無表は、等流にして受有りて別異の大の生。異大生の言は身・語の七は一一は別の大種の造る所を顕す、定生の無表は差別に二有り。いわゆる諸の静慮・無漏の律儀。此の二は倶に定の長養する所に依る。受無くして異なる大種の生ずる所無し。異大無しの言は此の無表の七支は同一の具の四大種の生ずる所を顕す。所以者何。依る所の大種は、心の唯一なるが如く、差別無きゆえ。まさに表有りてただ是れ等流と知るべし、此はもし身に属せば是れ執受有り、余の義は皆散の無表と同じ。表業の生ずる時に是れ要して本身の形量を破壊するか、是れこの如くならざるか。もし爾ならば、何の失か。もし破壊せば、異熟の色は断えてまさに更に續ぐべきに、是れ則ち毘婆沙の宗に違越す。もし破壊せざれば、如何にして一身の処所に二の形量の成る有るを得ん。別の新生の等流の大種有りて、表有る業を造りて本身を破せず。もし爾ならば、何の身分の処に依りて随い表有る業を起こすとも、まさに本より大なるべし、新生の大種は遍く增益するゆえ。もし遍く增益せざれば、如何にして遍く表を生ぜん。身に孔隙有り、ゆえに相容るるを得。已に業門の二・三・五の別を弁じたり。此の性・界地の差別は如何。頌に曰く:

無表記餘三,不善唯在欲,

無表・記・余は三、不善はただ欲に在り、

無表遍欲色,表唯有伺二,

無表は欲・色に遍く、表はただ伺有る二、

欲無有覆表,以無等起故。

欲に覆有る表無し、等起無きを以て。

論曰:無表唯通善不善性,無有無記。所以者何?以無記心勢力微劣,不能引發強業令生,可因滅時果仍續起。所言餘者,謂表及思。三謂皆通善、惡、無記。於中不善在欲非餘,已斷不善根無慚無愧故。善及無記諸地皆有,以於頌中不別遮故。欲色二界皆有無表,以無色中無大種故。隨於何處有身語轉,唯是處有身語律儀。若爾,身生欲色二界入無色定應有律儀,如起無漏心有無漏無表。不爾,以彼不墮界故。於無色界若有無表,應有無表非大種生。不可說言有漏無表以別界地大種為依。又背諸色入無色定,故彼定中不能生色,由彼定有伏色想故。毘婆沙師作如是說:為治惡戒故起屍羅。唯欲界中有諸惡戒,無色於欲具四種遠:一所依遠、二行相遠、三所緣遠、四對治遠,故無色中無無表色。表色唯在二有伺地,謂通欲界初靜慮中,非上地中可言有表。有覆無記表,欲界定無,唯於梵世中可得說有。曾聞大梵有誑諂言,謂自眾中為避馬勝所徵問故矯自歎等。上地既無言,何得有聲處?有外大種為因發聲。有餘師言:上三靜慮亦有無覆無記表業,無善無染。所以者何?非上地生能起下地善及染心發身語表,劣故斷故。前說為善。復以何因二定以上都無表業?於欲界中無有有覆無記表業,以無發業等起心故。有尋伺心能發表業,二定以上都無此心。又發表心唯修所斷,見所斷惑內門轉故。以欲界中決定無有有覆無記修所斷惑,是故表業上三地都無。欲界中無有覆無記表,為但由等起令諸法成善不善性等?不爾。云何?由四種因成善性等:一由勝義、二由自性、三由相應、四由等起。何法何性由何因成?頌曰:

論に曰く:無表はただ善・不善の性に通ず、無記の有る無し。所以者何。無記の心は勢力は微劣にして、能く強き業を引发して生ぜしめず、因の滅する時に果は仍りて続き起るべきを以て。言う所の余とは、表および思を謂う。三とは皆善・悪・無記に通ず。その中の不善は欲に在りて余に非ず、已に不善根を断ちて慚無く愧無きゆえ。善および無記は諸の地に皆有り、頌中において別に遮らざるを以て。欲・色の二界は皆無表有り、無色中に大種無きを以て。何の処においてか随い身・語の転ずる有れば、ただ是の処に身・語の律儀有り。もし爾ならば、身は欲・色の二界に生じて無色定に入るはまさに律儀有るべし、無漏心を起すに無漏の無表有るが如く。然らず、彼は界に堕せざるを以て。無色界においてもし無表有らば、まさに大種の生ずるに非ざる無表有るべし。有漏の無表は別界地の大種を以て依と為すと説くべからず。また諸の色に背きて無色定に入る、ゆえに彼の定中は能く色を生ぜず、彼の定は伏色の想有るに由るゆえ。毘婆沙師はかくの説を作す:悪戒を治せんが為に尸羅を起す。ただ欲界中に諸の悪戒有り、無色は欲において具に四種の遠有り:一に所依遠、二に行相遠、三に所縁遠、四に対治遠、ゆえに無色中に無表色無し。表色はただ二の伺有る地に在り、いわゆる欲界・初静慮中に通ず、上地中には表有りと説くべからず。有覆の無記の表は、欲界は定めて無し、ただ梵世中において有りと説くべし。曾て聞く大梵に誑諂の言有り、いわゆる自の衆中において馬勝の征問する所を避けんが為に矯めて自ら歎ずる等。上地は既に言無し、何ぞ声の処有るを得ん。外の大種有りて因と為りて声を発す。ある余師の説に:上の三静慮にもまた無覆の無記の表業有り、善無く染無し。所以者何。上地の生は能く下地の善および染心を起して身・語の表を発するに非ず、劣なるゆえ断ぜられしゆえ。前の説くを善と為す。復た何の因を以て二定より上は都て表業無きか。欲界中には有覆無記の表業の有る無し、発業の等起心無きを以て。尋伺の心有りて能く表業を発す、二定より上は都て此の心無し。また表を発する心はただ修の断ずる所、見の断ずる所の惑は内門に転ずるゆえ。欲界中に決定して有覆無記の修の断ずる所の惑の有ること無きを以て、是れを以て表業は上の三地に都て無し。欲界中に有覆無記の表無きは、是れ但だ等起に由りて諸法をして善・不善性等を成さしむるか。然らず。如何。四種の因に由りて善性等を成す:一に勝義に由り、二に自性に由り、三に相応に由り、四に等起に由る。何の法の何の性か何の因に由りて成るか。頌に曰く:

勝義善解脫,自性慚愧根,

勝義の善は解脱、自性は慚愧の根、

相應彼相應,等起色業等,

相応は彼の相応、等起は色・業等、

翻此名不善,勝無記二常。

此を翻して不善と名づく、勝・無記は二の常。

論曰:勝義善者,謂真解脫,以涅槃中最極安隱、眾苦永寂猶如無病。自性善者,謂慚愧根,以有為中唯慚與愧及無貪等三種善根,不待相應及餘等起,體性是善猶如良藥。相應善者,謂彼相應,以心心所要與慚愧善根相應方成善性,若不與彼慚等相應,善性不成,如雜藥水。等起善者,謂身語業不相應行,以是自性及相應善所等起故,如良藥汁所引生乳。若異類心所起得等,云何成善?此義應思,如說善性四種差別,不善四種與此相違。云何相違?勝義不善,謂生死法。由生死中諸法皆以苦為自性,極不安隱猶如痼疾。自性不善,謂無慚愧三不善根,由有漏中唯無慚愧及貪瞋等三不善根,不待相應及餘等起,體是不善猶如毒藥。相應不善,謂彼相應,由心心所法要與無慚愧不善根相應方成不善性,異則不然,如雜毒水。等起不善,謂身語業不相應行,以是自性相應不善所等起故,如毒藥汁所引生乳。若爾,便無一有漏法是無記或善,皆生死攝故。若據勝義誠如所言,然於此中約異熟說。諸有漏法若不能記異熟果者立無記名,於中若能記愛異熟說名為善,故無有過。勝義無記,謂二無為,以太虛空及非擇滅唯無記性更無異門。於此應思。若等起力令身語業成善不善,則諸大種例亦應然。以作者心本欲起業,非四大種,故不成例。若爾,定心隨轉無表,非正在定作意引生,亦非散心加行引發,不同類故。如何成善?或天眼耳應成善性,於如是義應設劬勞。如上所言,見所斷惑內門轉故不能發表。若爾,何緣契經中說:由邪見故起邪思惟、邪語、邪業及邪命等。此不相違。何以故?頌曰:

論に曰く:勝義の善とは、真の解脱を謂い、涅槃中に於て最極安隱にして、衆苦は永く寂として猶お病無きが如し。自性の善とは、慚愧の根を謂い、有為中に於てただ慚と愧および無貪等の三種の善根は、相応および余の等起を待たずして、体性は是れ善にして猶お良薬の如し。相応の善とは、彼の相応を謂い、心・心所は要して慚愧・善根と相応して方に善性を成すを以て、もし彼の慚等と相応せざれば、善性は成らず、雜する薬水の如し。等起の善とは、身・語の業・不相応の行を謂い、是れ自性および相応の善の等起する所なるを以て、良薬の汁の引生する所の乳の如し。もし異類の心の起す所の得等は、如何にして善を成さん。此の義はまさに思うべし、善性の四種の差別を説くが如く、不善の四種は此と相違す。如何に相違するか。勝義の不善は、生死の法を謂う。生死中の諸法は皆苦を以て自性と為すに由り、極めて安隱ならずして猶お痼疾の如し。自性の不善は、無慚愧・三不善根を謂う、有漏中に於てただ無慚愧および貪・瞋等の三不善根は、相応および余の等起を待たずして、体は是れ不善にして猶お毒薬の如し。相応の不善は、彼の相応を謂う、心・心所の法は要して無慚愧・不善根と相応して方に不善性を成すに由り、異なれば則ち然らず、雜する毒水の如し。等起の不善は、身・語の業・不相応の行を謂う、是れ自性・相応の不善の等起する所なるを以て、毒薬の汁の引生する所の乳の如し。もし爾ならば、便ち一の有漏の法も是れ無記あるいは善なる無し、皆生死の摂なるゆえ。もし勝義に拠れば誠に言うが如し、しかるに此の中においては異熟に約りて説く。諸の有漏の法はもし能く異熟の果を記せざれば無記の名を立て、其の中においてもし能く愛なる異熟を記すれば善と説き名づく、ゆえに過有る無し。勝義の無記は、二の無為を謂う、太虚空および非択滅はただ無記の性にして更に異門無きを以て。此においてまさに思うべし。もし等起の力は身・語業をして善・不善を成さしむれば、則ち諸の大種は例してもまたまさにこの如くあるべし。作する者の心は本は業を起さんと欲す、四大種に非ず、ゆえに例を成さず。もし爾ならば、定心の随転する無表は、正に定に在りて作意の引生するに非ず、もまた散心の加行の引发するに非ず、同類ならざるゆえ。如何にして善を成さん。あるいは天眼・耳はまさに善性を成すべし、かくのごとき義においてまさに劬労を設くべし。上の言う所の如く、見の断ずる所の惑は内門に転ずるゆえに能く表を発せず。もし爾ならば、何の縁に契経中に説く:邪見に由るゆえに邪思惟・邪語・邪業および邪命等を起す、と。此は相違せず。何以故。頌に曰く:

等起有二種,因及彼剎那,

等起に二種有り、因および彼の刹那、

如次第應知,名轉名隨轉。

次第の如くまさに知るべし、転と名づき随転と名づく。

見斷識唯轉,唯隨轉五識,

見断の識はただ転、ただ随転は五識、

修斷意通二,無漏異熟非。

修断の意は二に通ず、無漏・異熟は非ず。

於轉善等性,隨轉各容三,

転において善等の性は、随転は各々三を容れ、

牟尼善必同,無記隨惑善。

牟尼は善は必ず同じ、無記は惑・善に随う。

論曰:表無表業等起有二,謂因等起、剎那等起,在先為因故、彼剎那有故。如次初名轉,第二名隨轉。謂因等起將作業時,能引發故說名為轉。剎那等起正作業時,不相離故名為隨轉。隨轉於業有何功能?雖有先因為能引發,若無隨轉者如死業應無。若爾,無心如何發戒?諸有心者業起分明,故隨轉心於業有用。見所斷識於發表中唯能為轉,於能起表尋伺生中為資糧故不為隨轉,於外門心正起業時此無有故。又見所斷若發表色,此色則應是見所斷。若許見斷,斯有何失?是則違越阿毘達磨,又明無明不相違故。有漏業色非見所斷,如是道理應更成立。若爾大種亦應見斷,俱見斷心力所起故。無如是過失,如非善不善。或復許爾,理亦無違。不應許然,以諸大種定非見斷及非所斷,以一切種不染汙法與明無明不相違故。彼經但據前因等起而作是說,故不相違。若五識身唯作隨轉,無分別故、外門起故。修斷意識通為二種,有分別故、外門起故。一切無漏異熟生心非轉隨轉,唯在定故、不由加行任運轉故。如是即成四句差別。有轉非隨轉,謂見所斷心。有隨轉非轉,謂眼等五識。有轉亦隨轉,謂修所斷三性意識。有非轉隨轉,謂諸無漏異熟生心。轉隨轉心定同性不?此不決定。其事云何?謂前轉心若是善性,後隨轉識通善等三,不善無記隨轉亦爾。唯牟尼尊轉隨轉識,多分同性少有不同。謂轉若善心隨轉亦善,轉心若無記隨轉亦然。而或有時善隨無記轉,曾無無記為善隨轉時。以佛世尊於說法等,心或增長無萎歇故。有餘部說:諸佛世尊常在定故,心唯是善,無無記心。故契經說:

論に曰く:表・無表業の等起に二有り、いわゆる因等起・刹那等起、先に在りて因と為るゆえ、彼の刹那有るゆえ。次第の如く初めは転と名づき、第二は随転と名づく。いわゆる因等起は将に業を作さんとする時に能く引发するゆえに転と説き名づき、刹那等起は正に業を作す時に相い離れざるゆえに随転と名づく。随転は業において何の功能か有る。先の因の能く引发する有ると雖も、もし随転無ければ死せる業の如くまさに無かるべし。もし爾ならば、無心は如何にして戒を発せん。諸の心有るは業の起るは分明なり、ゆえに随転の心は業において用有り。見の断ずる所の識は表を発する中においてただ能く転と為る、表を起こす能くの尋伺の生中において資糧と為るゆえに随転と為らず、外門の心が正に業を起す時に此の有る無きゆえ。また見の断ずる所はもし表色を発せば、此の色は則ちまさに是れ見の断ずる所なるべし。もし見断を許さば、斯に何の失か有らん。是れ則ち阿毘達磨に違越し、また明・無明は相違せざるゆえ。有漏の業色は見の断ずる所に非ず、かくのごとき道理はまさに更に成立すべし。もし爾ならば大種もまたまさに見断なるべし、倶に見断の心の力の起す所なるゆえ。かくのごとき過失無し、非善・不善の如し。あるいは復たこの如くを許すとも、理もまた違無し。まさにこの如くを許すべからず、諸の大種は定めて見断に非ずおよび断ずる所に非ざるを以て、一切種の染污せざる法は明・無明と相違せざるゆえ。彼の経は但だ前の因等起に拠りて是の説を作す、ゆえに相違せず。もし五識身はただ随転を作すは、分別無きゆえ、外門の起なるゆえ。修断の意識は二種と為すに通ず、分別有るゆえ、外門の起なるゆえ。一切の無漏・異熟生の心は転・随転に非ず、ただ定に在るゆえ、加行に由らずして任運に転ずるゆえ。かくのごとき即ち四句の差別を成す。転有りて随転に非ず、いわゆる見の断ずる所の心。随転有りて転に非ず、いわゆる眼等の五識。転有りてもまた随転、いわゆる修の断ずる所の三性の意識。転・随転に非ざる有り、いわゆる諸の無漏・異熟生の心。転・随転の心は定めて同性か否や。此は決定せず。その事は如何。いわゆる前の転の心はもし是れ善性ならば、後の随転の識は善等の三に通ず、不善・無記の随転もまたこの如し。ただ牟尼尊は転・随転の識は、多分は同性にして少なく不同有り。いわゆる転はもし善心ならば随転もまた善、転の心はもし無記ならば随転もまたこの如し。而も或る時有りて善は無記の転に随い、曾て無記の善の随転の時に為る無し。仏世尊は法を説く等において、心あるいは増長して萎歇すること無きを以て。ある余部の説に:諸の仏世尊は常に定に在るゆえに、心はただ是れ善、無記心無し、と。ゆえに契経に説く:

那伽行在定,那伽住在定,

那伽(龍、仏を喩う)は行くも定に在り、那伽は住するも定に在り、

那伽坐在定,那伽臥在定。

那伽は坐するも定に在り、那伽は卧するも定に在り。

毘婆沙師作如是釋:此顯佛意若不樂散心,則於四威儀能常在定,然於餘位非無威儀及異熟生通果心起。諸有表業成善等性,為如轉心、為如隨轉?設爾,何失?若如轉者,則欲界中應有有覆無記表業,身見邊見能為轉故。或應簡別,非一切種見所斷心皆能為轉,若如隨轉惡無記心俱得別解脫表應非善性。於此徵難應設劬勞,應言如轉心表成善等性,然非如彼見斷轉心,修斷轉心為間隔故。若表不由隨轉心力成善等者,則不應言:彼經但據前因等起非據剎那,故欲界中定無有覆無記表業。但應說言:彼經唯據餘心所間因等起說,故見斷心雖能為轉,而於欲界定無有覆無記表業。

(論に続けて曰く:)毘婆沙師はかくの釋を作す:此は仏の意はもし散心を楽わざれば、則ち四威儀において能く常に定に在るを顕す、しかるに余の位において威儀および異熟生・通果の心の起る無きに非ず。諸の表業の善等の性を成すは、是れ転の心の如くか、是れ随転の如くか。設ひ爾りとも、何の失か。もし転の如くならば、則ち欲界中にまさに有覆無記の表業有るべし、身見・辺見は能く転と為るゆえ。あるいはまさに簡別すべし、一切種の見の断ずる所の心は皆能く転と為るに非ず、もし随転の如く悪・無記の心は倶に別解脱の表を得ればまさに善性に非ざるべし。此の征難においてまさに劬労を設くべし、まさに転の心の如く表は善等の性を成すと説くべし、しかるに彼の見断の転心の如くに非ず、修断の転心は間隔を為すゆえ。もし表は随転の心力に由らずして善等を成せば、則ちまさに説くべからず:彼の経は但だ前の因等起に拠りて刹那に拠らず、ゆえに欲界中に定めて有覆無記の表業無し。但だまさに説くべし:彼の経はただ余の心所の間の因等起に拠りて説く、ゆえに見断の心は能く転と為ると雖も、而も欲界において定めて有覆無記の表業無し。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.