説一切有部倶舎論 巻第二十一
入出息隨身,依二差別轉,
入出息は身に随う。二に依って差別に転ず。
情數非執受,等流非下緣。
情数にして執受に非ず。等流にして下縁に非ず。
論曰:隨身生地,息彼地攝,以息是身一分攝故。此入出息轉依身心差別,以生無色界及羯剌藍等併入無心定及第四定等,此息於彼皆不轉故。謂要身中有諸孔隙,入出息地心正現前,息於爾時方得轉故。出第四定等及初生時息最先入,入第四定等及後死時息最後出。息有情數攝,有情身分故。非有執受,與根相離故。是等流性,同類因生故。非所長養,身增長時彼損減故。非異熟生,斷已後時更相續故、餘異熟色無如是故。唯自上地心之所緣,非下地威儀,通果心境故。
論に曰く:身の生地に随いて、息は彼の地の摂。息は是れ身の一分の摂する所なるを以て。此の入出息は身心の差別に依って転ず。生じて無色界および羯剌藍等、并びに無心定および第四定等に入るは、此の息は彼に於いて皆転ぜざるがゆえに。いわゆる要ずるに身の中に諸の孔隙有りて、入出息の地の心の正に現前するに、息は爾の時に方に転ずるを得るがゆえに。第四定等を出づるおよび初めて生ずる時は息は最も先に入り、第四定等に入るおよび後に死する時は息は最も後に出づ。息は有情数の摂。有情の身の分なるがゆえに。有執受に非ず。根と相離れたるがゆえに。是れ等流の性。同類の因に生ずるがゆえに。長養する所に非ず。身の増長する時は彼は損減するがゆえに。異熟生に非ず。断じ已りて後時に更に相続するがゆえ、其余の異熟の色に此のようの無きがゆえに。ただ自・上地の心の縁ずる所。下地の威儀にあらず、通果の心境なるがゆえに。
説一切有部倶舎論 巻第二十二
アビダルマ倶舎論 巻第二十三 尊者世親造
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。
分別賢聖品第六之二
分別賢聖品 第六之二
如是已說入修二門,由此二門心便得定。心得定已復何所修?頌曰:
此のようの已に修に入る二門を説けり。此の二門に由って心は便ち定を得。心は定を得已りて復た何をか修する所か。頌に曰く、
依已修成止,為觀修念住,
已に修成せる止に依って、観の為に念住を修す。
以自相共相,觀身受心法。
自相・共相を以て、身・受・心・法を観ず。
自性聞等慧,餘相雜所緣,
自性は聞等の慧、其余は相雑・所縁。
說次第隨生,治倒故唯四。
次第を説くは生に随う。倒を治するがゆえにただ四。
論曰:依已修成滿勝奢摩他,為毘缽舍那修四念住。如何修習四念住耶?謂以自共相觀身、受、心、法。身受心法各別自性名為自相。一切有為皆非常性、一切有漏皆是苦性及一切法空非我性名為共相。身自性者,大種造色。受心自性,如自名顯。法自性者,除三餘法。傳說在定以極微剎那各別觀身,名身念住滿,餘三滿相如應當知。何等名為四念住體?此四念住體各有三,自性、相雜、所緣別故。自性念住以慧為體,此慧有三種,謂聞等所成,即此亦名三種念住。相雜念住以慧、所餘俱有為體。所緣念住以慧所緣諸法為體。寧知自性是慧非餘?經說:於身住循身觀名身念住。餘三亦然。諸循觀名唯目慧體,非慧無有循觀用故。何緣於慧立念住名?毘婆沙師說:此品念增故。是念力持慧得轉義,如斧破木由楔力持。理實應言慧令念住,是故於慧立念住名,隨慧所觀能明記故,由此無滅作如是言:若有能於身住循身觀,緣身念得住,乃至廣說。世尊亦說:若有於身住循身觀者,念便住不謬。然有經言:此四念住由何故集?由何故滅?食觸名色作意集故,如次令身受心法集。食觸名色作意滅故,如次令身受心法滅。應知彼說所緣念住,以念於彼得安住故。又念住別名隨所緣緣自他俱相續異故。一一念住各有三種,此四念住說次隨生。生復何緣?次第如是。隨境麁者應先觀故,或諸欲貪於身處轉,故四念住觀身在初。然貪於身由欣樂受,欣樂於受由心不調,心之不調由惑未斷,故觀受等如是次第。此四念住如次治彼淨、樂、常、我四種顛倒,故唯有四不增不減。四中三種唯不雜緣,第四所緣通雜不雜。若唯觀法名不雜緣,若於身等二三或四總而觀察名為雜緣。如是熟修雜緣身等法念住已,復何所修?頌曰:
論に曰く:已に修成せる満勝の奢摩他に依って、毘鉢舎那の為に四念住を修す。如何にして四念住を修習するか。いわゆる自・共相を以て身・受・心・法を観ず。身・受・心・法は各別の自性を名づけて自相と為す。一切有為は皆非常の性、一切有漏は皆是れ苦の性、および一切法は空・非我の性を名づけて共相と為す。身の自性とは、大種の造色。受・心の自性は、自名の顕すがごとし。法の自性とは、三を除く其余の法。伝説に定に在りて極微・刹那を以て各別に身を観ずるを、名づけて身念住の満。その余の三の満の相は応ずるがごとく当に知るべし。何等を四念住の体と名づくるか。此の四念住の体は各々三有り。自性・相雑・所縁の別あるがゆえに。自性の念住は慧を以て体と為す。此の慧に三種有り。いわゆる聞等の成ずる所。すなわち此れもまた名づけて三種の念住。相雑の念住は慧・其余の俱有を以て体と為す。所縁の念住は慧の縁ずる所の諸法を以て体と為す。寧んぞ自性は是れ慧にして其余に非ざるを知らんや。経に説く:身に於いて循身観に住するを名づけて身念住。その余の三もまた此のよう。諸の循観の名はただ慧体に目す。慧にあらざれば循観の用有ること無きがゆえに。何の縁にか慧に於いて念住の名を立つるか。毘婆沙師の説く:此の品は念増するがゆえに。是れ念の力に持せられて慧は転ずるの義を得。斧の木を破るは楔の力の持するに由るがごとし。理実は応に説くべし、慧は念をして住せしむ。此のゆえに慧に於いて念住の名を立つ。慧の観ずる所に随って能く明記するがゆえに。此に由って無滅は此の説を作して曰く:もし有りて能く身に於いて循身観に住せば、身に縁ずる念は住することを得、乃至広く説く。世尊もまた説きたまう:もし身に於いて循身観に住する有れば、念は便ち住して謬らず。しかし経有りて説く:此の四念住は何の故にか集まるか。何の故にか滅するか。食・触・名色・作意の集まるがゆえに、次第のごとく身・受・心・法をして集まらしむ。食・触・名色・作意の滅するがゆえに、次第のごとく身・受・心・法をして滅せしむ。応に知るべし彼は所縁の念住を説く。念は彼に於いて安住を得るがゆえに。また念住の別名は所縁の縁に随い自他・俱・相続の異なるがゆえに。一一の念住は各々三種有り。此の四念住は説次は生に随う。生は復た何の縁か。次第此のよう。境の麁なるに随って応に先ず観ずべきがゆえに。或いは諸の欲貪は身の処に於いて転ず。ゆえに四念住は身を観ずるを初と為す。しかし身に於ける貪は楽受を欣うに由り、受を欣楽するは心の調わざるに由り、心の不調は惑の未だ断ぜざるに由る。ゆえに受等を観ずるは此のようの次第。此の四念住は次第のごとく彼の浄・楽・常・我の四種の顛倒を治す。ゆえにただ四有るのみにして増せず減ぜず。四の中の三種はただ雑縁せず。第四の所縁は雑・不雑に通ず。もしただ法を観ずれば不雑縁と名づく。もし身等の二・三或いは四に於いて総じて観察すれば雑縁と名づく。此のようの熟修の雑縁の身等の法念住已りて、復た何をか修する所か。頌に曰く、
彼居法念住,總觀四所緣,
彼は法念住に居り、総じて四の所縁を観じて、
修非常及苦,空非我行相。
非常および苦・空・非我の行相を修す。
論曰:彼觀行者居緣總雜法念住中,總觀所緣身等四境修四行相,所謂非常、苦、空、非我。修此觀已生何善根?頌曰:
論に曰く:彼の観行の者は縁を総じて雑える法念住の中に居りて、総じて所縁の身等の四境を観じて四の行相を修す。いわゆる非常・苦・空・非我。此の観を修し已りて何の善根を生ずるか。頌に曰く、
從此生煖法,具觀四聖諦,
此より煖法を生ず。具に四聖諦を観じて、
修十六行相,次生頂亦然,
十六の行相を修し、次に頂を生ずるもまた此のよう。
如是二善根,皆初法後四。
此のようの二善根は、皆初は法・後は四。
次忍唯法念,下中品同頂,
次に忍はただ法念。下・中品は頂に同じく、
上唯觀欲苦,一行一剎那,
上はただ欲の苦を観じ、一行・一刹那。
世第一亦然,皆慧五除得
世第一もまた此のよう。皆慧、五は得を除く。
論曰:修習總緣共相法念住,漸次成熟乃至上上品。從此念住後,有順決擇分初善根生,名為煖法。此法如煖立煖法名,是能燒惑薪聖道火前相,如火前相故名為煖。此煖善根分位長故,能具觀察四聖諦境,及能具修十六行相。觀苦聖諦修四行相:一非常、二苦、三空、四非我。觀集聖諦修四行相:一因、二集、三生、四緣。觀滅聖諦修四行相:一滅、二靜、三妙、四離。觀道聖諦修四行相:一道、二如、三行、四出。此相差別如後當辯。此煖善根下中上品漸次增長至成滿時有善根生,名為頂法,此轉勝故更立異名。動善根中此法最勝,如人頂故,名為頂法。或由此是進退兩際,如山頂故,說名為頂。此亦如煖具觀四諦,及能具修十六行相。如是煖頂二種善根,初安足時唯法念住。以何義故名初安足?謂隨何善根以十六行相最初遊踐四聖諦跡,後增進時具四念住。諸先所得後不現前,於彼不生欽重心故。此頂善根下中上品漸次增長,至成滿時有善根生名為忍法,於四諦理能忍可中此最勝故。又此位忍無退墮故名為忍法。此忍善根安足增進皆法念住,與前有別。然此忍法有下中上,下中二品與頂法同,謂具觀察四聖諦境及能具修十六行相;上品有異,唯觀欲苦,與世第一相隣接故。由此義準,煖等善根皆能具緣三界苦等義已成立,無簡別故。謂瑜伽師於色無色對治道等一一聖諦行相所緣漸減漸略,乃至但有二唸作意思惟欲界苦聖諦境,齊此以前名中忍位。從此位無間起勝善根一行一剎那名上品忍,此善根起不相續故。上品忍無間生世第一法。如上品忍緣欲苦諦修一行相唯一剎那,此有漏故名為世間,是最勝故名為第一。此有漏法世間中勝,是故名為世第一法。有士用力,離同類因,引聖道生,故名最勝。如是煖等四種善根,念住性故皆慧為體,若並助伴皆五蘊性。然除彼得,勿諸聖者煖等善根重現前故。
論に曰く:総じて共相に縁ずる法念住を修習して、漸次に成熟して乃至上上品に至る。此の念住の後より、順決択分の初の善根の生ずる有りて、名づけて煖法と為す。此の法は煖のごときに煖法の名を立つ。能く惑薪を焼く聖道の火の前相なるがゆえに。火の前相のごときがゆえに煖と名づく。此の煖善根は分位長きがゆえに、能く具に四聖諦の境を観察し、および能く具に十六の行相を修す。苦聖諦を観じて四の行相を修す:一は非常、二は苦、三は空、四は非我。集聖諦を観じて四の行相を修す:一は因、二は集、三は生、四は縁。滅聖諦を観じて四の行相を修す:一は滅、二は静、三は妙、四は離。道聖諦を観じて四の行相を修す:一は道、二は如、三は行、四は出。此の相の差別は後に当に辯ずるがごとし。此の煖善根は下・中・上品に漸次に増長して成満に至る時に善根の生ずる有りて、名づけて頂法。此れ転じて勝れるがゆえに更に異名を立つ。動の善根の中に此の法は最も勝れり。人の頂のごときがゆえに、名づけて頂法。或いは此に由って是れ進退の両際。山の頂のごときがゆえに、説いて頂と名づく。此れもまた煖のごとく具に四諦を観じ、および能く具に十六の行相を修す。此のようの煖・頂の二種の善根は、初めて足を安ずる時はただ法念住。何の義を以てか初安足と名づくるか。いわゆる何の善根にか随って十六の行相を以て最初に四聖諦の跡に游践する。後に増進する時は四念住を具す。諸の先の得る所は後に現前せず。彼に於いて欽重の心を生ぜざるがゆえに。此の頂善根は下・中・上品に漸次に増長し、成満に至る時に善根の生ずる有りて名づけて忍法。四諦の理に於いて能く忍可する中に此れ最勝なるがゆえに。また此の位の忍は退堕無きがゆえに忍法と名づく。此の忍善根は安足・増進に皆法念住。前と別有り。しかし此の忍法に下・中・上有り。下・中の二品は頂法と同じ。いわゆる具に四聖諦の境を観察しおよび能く具に十六の行相を修す。上品は異有り。ただ欲の苦を観ず。世第一と相隣接するがゆえに。此の義に由って准ずれば、煖等の善根は皆能く具に三界の苦等に縁ずるの義已に成り立てり。簡別無きがゆえに。いわゆる瑜伽師は色・無色の対治の道等の一一の聖諦の行相の所縁を漸減・漸略し、乃至但だ二念の作意有りて欲界の苦聖諦の境を思惟するに至る。此に斉く以前を名づけて中忍の位。此の位より無間に勝善根を起す一行・一刹那を名づけて上品忍。此の善根の起るは相続せざるがゆえに。上品忍は無間に世第一法を生ず。上品忍の欲の苦諦に縁じて一行相を修するがごとくただ一刹那。此れ有漏なるがゆえに世間と名づく。是れ最勝なるがゆえに第一と名づく。此の有漏の法は世間の中に勝れり。此のゆえに名づけて世第一法。有士の力を用い、同類の因を離れ、聖道を引きて生ぜしむるがゆえに、名づけて最勝。此のようの煖等の四種の善根は、念住の性なるがゆえに皆慧を以て体と為す。もし助伴を并せば皆五蘊の性。しかし彼の得を除く。諸の聖者の煖等の善根の重ねて現前するを致さざらんがため。
此中煖法初安足時,緣三諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來四。緣滅諦法念住現在修未來一,隨一行相現在修未來四。由此種性先未曾得,要同分者方能修故。後增進時緣三諦,隨一念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六。緣滅諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六,由此種性先已曾得,不同分者亦能修故。頂初安足,緣四諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六。後增進時,緣三諦隨一念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六。緣滅諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六。忍初安足及後增進,緣四諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來十六。然於增進略所緣時,隨略彼所緣,不修彼行相。世第一法,緣欲苦諦法念住現在修未來四,隨一行相現在修未來四,無異分故、似見道故。已辯所生善根相體,今次應辯此差別義。頌曰:
(論は続けて曰く:)此の中の煖法は初安足の時、三諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の四を修す。滅諦に縁ずる法念住は現在にして未来の一を修し、一行相に随って現在にして未来の四を修す。此の種性は先に未だ曾て得ざるに由って、要ずるに同分の方に能く修するがゆえに。後に増進する時は三諦に縁じ、一念住に随って現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。滅諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。此の種性は先に已に曾て得たるに由って、同分ならざるも能く修するがゆえに。頂の初安足は、四諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。後に増進する時は、三諦に縁じて一念住に随って現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。滅諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。忍の初安足および後の増進は、四諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の十六を修す。しかし増進に於いて所縁を略する時は、彼の所縁を略するに随って、彼の行相を修せず。世第一法は、欲の苦諦に縁ずる法念住は現在にして未来の四を修し、一行相に随って現在にして未来の四を修す。異分無きがゆえ、見道に似たるがゆえに。已に生ずる所の善根の相体を辯したり。今次に応に此の差別の義を辯ずべし。頌に曰く、
此順決擇分,四皆修所成,
此の順決択分は、四は皆修の成ずる所。
六地二或七,依欲界身九,
六地・二或いは七、欲界の身に依りて九。
三女男得二,第四女亦爾。
三は女・男に二を得、第四は女もまた此のよう。
聖由失地捨,異生由命終,
聖は地を失うに由って捨て、異生は命終に由る。
初二亦退捨,依本必見諦,
初の二もまた退に由って捨つ。本に依れば必ず諦を見る。
捨已得非先,二捨性非得。
捨て已りて得るは先にあらず。二の捨は性は非得。
論曰:此煖、頂、忍、世第一法四殊勝善根名順決擇分。依何義建立順決擇分名?決謂決斷,擇謂簡擇。決斷簡擇謂諸聖道,以諸聖道能斷疑故,及能分別四諦相故。分謂分段,此言意顯所順唯是見道一分,決擇之分故得決擇分名。此四為緣引決擇分,順益彼故得順彼名,故此名為順決擇分。如是四種皆修所成,非聞思所成,唯等引地故。四中前二是下品攝,以俱可動猶可退故。忍中品攝,勝前二故、有世第一為其上故。世第一法獨是上品。此四善根皆依六地,謂四靜慮、未至、中間。欲界中無,闕等引故。餘上地亦無,見道眷屬故。又無色界心不緣欲界故,欲界先應遍知斷故。此四善根能感色界五蘊異熟為圓滿因,不能牽引,憎背有故。或聲為顯二有異說,謂煖、頂二。尊者妙音說:依前六及欲七地,此四善根依欲身起,人天九處除北俱盧,前三善根三洲初起,後生天處亦續現前。第四善根天處亦起,此無初後一剎那故。此四善根唯依男女,前三男女俱通得二,第四女身亦得二種。依男唯得男身善根,已得女身非擇滅故。聖依此地得此善根,失此地時善根方捨,失地言顯遷生上地。異生於地若失不失,但失眾同分,必捨此善根。初二善根亦由退捨,由死退捨唯異生非聖,由失地捨唯聖非異生。忍及世第一,異生亦無退。依根本地起煖等善根,彼於此生必定得見諦,厭生死心極猛利故。若先捨已後重得時,所得必非先之所捨。如捨已重得別解脫律儀,以未曾熟修大功用成故。若先已得煖等善根,經生故捨。遇了分位善說法師便生頂等,若不遇者還從本修。失退二捨非得為性,退必起過,失不必然。得此善根有何勝利?頌曰:
論に曰く:此の煖・頂・忍・世第一法の四の殊勝の善根を名づけて順決択分。何の義に依って順決択分の名を建立するか。決とは決断を謂い、択とは簡択を謂う。決断・簡択とは諸の聖道を謂う。諸の聖道は能く疑を断ずるがゆえ、および能く四諦の相を分別するがゆえに。分とは分段を謂う。此の言の意は順ずる所はただ見道の一分なるを顕す。決択の分なるがゆえに決択分の名を得。此の四は縁と為りて決択分を引き、彼に順益するがゆえに彼に順ずの名を得。ゆえに此れを名づけて順決択分と為す。此のようの四種は皆修の成ずる所。聞・思の成ずる所に非ず。ただ等引地なるがゆえに。四の中の前の二は下品の摂。俱に動くべくなお退くべきがゆえに。忍は中品の摂。前の二に勝れるがゆえ、世第一有りて其の上と為るがゆえに。世第一法は独り是れ上品。此の四善根は皆六地に依る。いわゆる四静慮・未至・中間。欲界の中に無し。等引を闕くがゆえに。其余の上地もまた無し。見道の眷属なるがゆえに。また無色界の心は欲界に縁ぜざるがゆえ、欲界は先に応に遍知断すべきがゆえに。此の四善根は能く色界の五蘊の異熟を感じて円満の因と為る。牽引すること能わず。有を憎背するがゆえに。或いは声は二の異説有るを顕さんが為。いわゆる煖・頂の二。尊者妙音の説く、前の六および欲の七地に依る、と。此の四善根は欲身に依って起る。人・天の九処にして北俱盧を除く。前三の善根は三洲に於いて初めて起り、後に天処に生じてもまた続いて現前す。第四の善根は天処にもまた起る。此れ初・後一刹那無きがゆえに。此の四善根はただ男・女に依る。前三は男・女に俱に二を得るに通ず。第四は女身もまた二種を得。男に依ってはただ男身の善根を得。已に女身を得たるは択滅に非ざるがゆえに。聖は此の地に依って此の善根を得。此の地を失う時に善根乃ち捨つ。失地の言は上地に遷生するを顕す。異生は地に於いてもし失わんも失わざるも、但だ衆同分を失えば、必ず此の善根を捨つ。初二の善根もまた退に由って捨つ。死に由って退捨するはただ異生にして聖に非ず。失地に由って捨つるはただ聖にして異生に非ず。忍および世第一は、異生もまた退無し。根本地に依って煖等の善根を起せば、彼は此の生に於いて必定して諦を見るを得。生死を厭う心の極めて猛利なるがゆえに。もし先に捨て已りて後に重ねて得る時、得る所は必ず先の捨てし所に非ず。捨て已りて重ねて別解脱律儀を得るがごとし。未だ曾て熟修せず大いなる功用を以て成ずるがゆえに。もし先に已に煖等の善根を得たるは、生を経るがゆえに捨つ。分位に了る善説法師に遇えば便ち頂等を生ず。もし遇わざれば還た本に従って修す。失・退の二捨は非得を以て性と為す。退は必ず過を起し、失は必ずしも然らず。此の善根を得るは何の勝利か有るか。頌に曰く、
煖必至涅槃,頂終不斷善,
煖は必ず涅槃に至り、頂は終に善を断たず、
忍不墮惡趣,第一入離生。
忍は悪趣に堕ちず、第一は離生に入る。
論曰:四善根中若得煖法,雖有退斷善根造無間業墮惡趣等,而無久流轉,必至涅槃故。若爾,何殊順解脫分?若無障礙,去見諦近,此與見道行相同故。若得頂法,雖有退等,而增畢竟不斷善根。若得忍時,雖命終捨住異生位,而增無退,不造無間,不墮惡趣。然頌但說不墮惡趣言,義準已知不造無間業,造無間業者必墮惡趣故。忍位無退,如前已辯。此位不墮諸惡趣者,已遠趣彼業煩惱故。若至忍位,於少趣生處身有惑中得不生法故。趣謂諸惡趣。生謂卵濕生。處謂無想、北俱盧、大梵處。身謂扇搋、半擇迦、二形身。有謂第八等有。惑謂見所斷惑。此於下上位,隨所應而得,謂於下忍得惡趣不生,所餘不生至上忍方得。得世第一法,雖住異生位,而能趣入正性離生。頌雖不言離命終捨,既無間入正性離生,義準已成無命終捨。何緣唯此能入離生?已得異生非擇滅故,能如無間道捨異生性故。此四善根各有三品,由聲聞等種性別故。隨何種性善根已生,彼可移轉向餘乘不?頌曰:
論に曰く:四善根の中にもし煖法を得ば、退して善根を断じ無間の業を造り悪趣に堕つる等有りと雖も、しかも久しく流転すること無く、必ず涅槃に至るがゆえに。もしそうならば、何の順解脱分に殊なるか。もし障碍無ければ、諦を見るに去ること近し。此れ見道と行相を同じくするがゆえに。もし頂法を得ば、退等有りと雖も、しかも増して畢竟に善根を断たず。もし忍を得る時、命終して異生の位に住すを捨つと雖も、しかも増して退無し。無間を造らず、悪趣に堕ちず。しかし頌は但だ悪趣に堕ちずと説くのみ。義は准じて已に知る、無間の業を造らざるを。無間の業を造るは必ず悪趣に堕つるがゆえに。忍位は退無きは前に已に辯ぜしがごとし。此の位は諸の悪趣に堕ちざるは、已に彼に趣く業・煩悩を遠離せるがゆえに。もし忍位に至れば、少なき趣・生・処・身・有・惑の中に於いて不生の法を得るがゆえに。趣とは諸の悪趣を謂う。生とは卵・湿生を謂う。処とは無想・北俱盧・大梵の処を謂う。身とは扇搋・半択迦・二形の身を謂う。有とは第八等の有を謂う。惑とは見所断の惑を謂う。此れは下・上の位に於いて、その応ずる所に随って得。いわゆる下忍に於いて悪趣の不生を得、其余の不生は上忍に至りて方に得。世第一法を得れば、異生の位に住すと雖も、しかも能く正性離生に趣入す。頌は離れて命終の捨を説かざると雖も、すでに無間に正性離生に入れば、義は准じて已に成ず、命終の捨無きを。何の縁にかただ此れのみ能く離生に入るか。已に異生の非択滅を得たるがゆえに、能く無間道のごとく異生性を捨つるがゆえに。此の四善根は各々三品有り。声聞等の種性の別に由るがゆえに。何の種性の善根にか随って已に生ぜば、彼は移転して其余の乗に向わしむべきか否か。頌に曰く、
轉聲聞種性,二成佛三餘,
声聞の種性を転ずれば、二は仏を成し三は其余。
麟角佛無轉,一坐成覺故。
麟角・仏は転ずること無し。一坐にして覚を成ずるがゆえに。
論曰:聲聞種性煖頂已生,容可轉成無上正覺,彼若得忍無成佛理,謂於惡趣已超越故。菩提薩埵利物為懷,為化有情必往惡趣,彼忍種性不可迴轉,是故定無得成佛義。聲聞種性煖頂忍三,皆有可轉成獨覺義,在佛乘外故說為餘。麟角佛言顯麟角喻及無上覺。煖等善根並無移轉向餘乘義,皆以第四靜慮為依,一坐便成自乘覺故。第四靜慮是不傾動最極明利三摩地故,堪為麟角喻無上覺所依。此中覺言顯盡、無生智,後當辯,此是菩提性故。言一坐者,從煖善根乃至菩提,不起於座。有餘師說:從不淨觀不起於座乃至菩提。有餘獨覺異麟角喻,起彼種性初二善根,轉向餘乘,理無遮礙。頗有此生創修此行,即此生引起順決擇分耶?不爾。云何?頌曰:
論に曰く:声聞の種性の煖・頂は已に生ぜば、容そ転じて無上の正覚を成ずべし。彼はもし忍を得ば仏を成ずるの理無し。いわゆる悪趣に於いて已に超越せるがゆえに。菩提薩埵(菩薩)は物を利することを懐と為し、有情を化せんが為に必ず悪趣に往く。彼の忍の種性は回転すべからず。此のゆえに定めて仏を成るを得るの義無し。声聞の種性の煖・頂・忍の三は、皆転じて独覚を成ずべきの義有り。仏乗の外に在るがゆえに説いて其余と為す。麟角の仏の言は麟角喻および無上覚を顕す。煖等の善根は并びに移転して其余の乗に向かうの義無し。皆第四静慮を以て依と為し、一坐にして便ち自乗の覚を成ずるがゆえに。第四静慮は是れ傾動せざる最極の明利の三摩地なるがゆえに、堪えて麟角喻・無上観の依る所と為る。此の中の覚の言は尽・无生の智を顕す。後に当に辯ずべし。此れ菩提の性なるがゆえに。一坐と言うは、煖善根より乃至菩提に至るまで座を起たず。其余の師有りて説く:不浄観より座を起たず乃至菩提。其余の独覚有りて麟角喻に異なれば、彼の種性の初二の善根を起して、其余の乗に転向す。理は遮碍無し。頗る此の生に創めて此の行を修して、すなわち此の生に順決択分を引き起すか。そうにはあらず。如何。頌に曰く、
前順解脫分,速三生解脫,
前に順解脱分、速やかに三生にして解脱す。
聞思成三業,殖在人三洲。
聞・思の成、三業を為り、殖ゆるは人の三洲。
論曰:順決擇分今生起者,必前生起順解脫分。諸有創殖順解脫分,極速三生方得解脫。謂初生起順解脫分,第二生起順決擇分,第三生入聖乃至得解脫。譬如下種、苗成、結實,三位不同。身入法性、成熟、解脫,三位亦爾。傳說如是順解脫分唯聞思所成,通三業為體。雖就最勝唯是意業,而此思願攝起身語亦得名為順解脫分。有施一食持一戒等深樂解脫,願力所持便名種殖順解脫分。殖順解脫分唯人三洲,餘厭離般若,如應無故,遇佛出世殖此善根。有餘師言:亦遇獨覺。已因便說順解脫分,入觀次第是正所論。於中已明諸加行道,世第一法為其後邊,應說從斯復生何道?頌曰:
論に曰く:順決択分の今生に起るは、必ず前の生に順解脱分を起せり。諸の創めて順解脱分を殖ゆる有りて、極速なりと雖も三生にして方に解脱を得。いわゆる初の生に順解脱分を起し、第二の生に順決択分を起し、第三の生に聖に入り乃至解脱を得るに至る。譬えば種を下し、苗成り、実を結ぶのごとく、三位同じからず。身の法性に入り、成熟し、解脱するは、三位もまた此のよう。伝説に此のようの順解脱分はただ聞・思の成ずる所、三業に通じて体と為す。最勝に就いてはただ意業なると雖も、しかし此の思願は身語を摂して起すもまた順解脱分と名づくるを得。或いは一食を施し一戒を持つ等して深く解脱を楽う有りて、願力の持する所に便ち名づけて順解脱分を種殖す。順解脱分を殖ゆるはただ人の三洲。其余は厭離・般若のごとき、応ずるがごとく無きがゆえに、仏の出世に遇って此の善根を殖ゆ。其余の師有りて説く:もまた独覚に遇う。已に因りて便ち順解脱分を説けり。観に入るの次第は是れ正しく論ずる所。中に於いて已に諸の加行道を明かしたり。世第一法を其の後辺と為す。応に説くべし、斯に従って復た何の道を生ずるか。頌に曰く、
世第一無間,即緣欲界苦,
世第一の無間に、すなわち欲界の苦に縁じて、
生無漏法忍,忍次生法智,
無漏の法忍を生じ、忍は次に法智を生じ、
次緣餘界苦,生類忍類智,
次に其余の界の苦に縁じて、類忍・類智を生ず。
緣集滅道諦,各生四亦然,
集・滅・道諦に縁じて、各々四を生ずるもまた此のよう。
如是十六心,名聖諦現觀,
此のようの十六心を、名づけて聖諦現観と為す。
此總有三種,謂見緣事別。
此れ総じて三種あり。いわゆる見・縁・事に別有り。
論曰:從世第一善根無間,即緣欲界苦聖諦境,有無漏攝法智忍生,此忍名為苦法智忍,為顯此忍是無漏故,舉後等流以為標別。此能生法智,是法智因,得法智忍名,如花果樹。即此名入正性離生,亦復名入正性決定。由此是初入正性離生,亦是初入正性決定故。經說正性,所謂涅槃。或正性言,因諸聖道。生謂煩惱,或根未熟。聖道能越,故名離生,能決趣涅槃,或決了諦相故。諸聖道得決定名,至此位中說名為入。此忍生已得聖者名,此在未來捨異生性。謂許此忍未來生時有此用非餘,如燈及生相。有餘師說:世第一法捨異生性,此義不然,彼此同名世間法故、性相違故。亦無有失,如上怨肩能害怨命。有餘師說:此二共捨,如無間道解脫道故。此忍無間即緣欲苦有法智生,名苦法智。應知此智亦無漏攝,前無漏言遍流後故。如緣欲界苦聖諦境,有苦法忍、苦法智生。如是復於法智無間總緣餘界苦聖諦境,有類智忍生,名苦類智忍。此忍無間即緣此境有類智生,名苦類智。最初證知諸法真理故名法智,此後境智與前相似故得類名,以後隨前而證境故。如緣苦諦欲界及餘,生法類忍、法類智四,緣餘三諦各四亦然。謂復於前苦類智後,次緣欲界集聖諦境有法智忍生,名集法智忍。此忍無間即緣欲集有法智生,名集法智。次緣餘界集聖諦境有類智忍生,名集類智忍。此忍無間即緣此境有類智生,名集類智。次緣欲界滅聖諦境有法智忍生,名滅法智忍。此忍無間即緣欲滅有法智生,名滅法智。次緣餘界滅聖諦境有類智忍生,名滅類智忍。此忍無間即緣此境有類智生,名滅類智。次緣欲界道聖諦境有法智忍生,名道法智忍。此忍無間即緣欲道有法智生,名道法智。次緣餘界道聖諦境有類智忍生,名道類智忍。此忍無間即緣此境有類智生,名道類智。如是次第有十六心,總說名為聖諦現觀。
論に曰く:世第一の善根より無間に、すなわち欲界の苦聖諦の境に縁じて、無漏の摂する法智忍の生ずる有り。此の忍を名づけて苦法智忍。此の忍は是れ無漏なるを顕さんが為に、後の等流を挙げて以て標別と為す。此れは能く法智を生ず。是れ法智の因。法智忍の名を得。花果の樹のごとし。すなわち此れを名づけて正性離生に入る。もまた復た名づけて正性決定に入る。此に由って是れ初めて正性離生に入る。もまた是れ初めて正性決定に入るがゆえに。経の説く正性とは、いわゆる涅槃。或いは正性の言は諸の聖道に因る。生とは煩悩を謂い、或いは根の未熟。聖道は能く越ゆ。ゆえに名づけて離生。能く決して涅槃に趣き、或いは決して諦相を了すがゆえに。諸の聖道は決定の名を得。此の位の中に至りて説いて入と名づく。此の忍は生じ已りて聖者の名を得。此れは未来に於いて異生性を捨つ。いわゆる此の忍の未来に生ずる時に此の用有りて其余に非ずと許す。燈および生相のごとし。其余の師有りて説く:世第一法は異生性を捨つ。此の義は此のようにはあらず。彼此同じく世間法と名づくるがゆえ、性相違するがゆえに。もまた失無し。上の怨肩の能く怨命を害するがごとし。其余の師有りて説く:此の二は共に捨つ。無間道・解脱道のごとし。此の忍は無間にすなわち欲の苦に縁じて法智の生ずる有りて、名づけて苦法智。応に知るべし此の智もまた無漏の摂。前の無漏の言は遍く後に流るるがゆえに。欲界の苦聖諦の境に縁ずるがごとく、苦法忍・苦法智の生ずる有り。此のようの復た法智の無間に於いて総じて其余の界の苦聖諦の境に縁じて、類智忍の生ずる有りて、名づけて苦類智忍。此の忍は無間にすなわち此の境に縁じて類智の生ずる有りて、名づけて苦類智。最初に諸法の真理を証知するがゆえに法智と名づく。此の後の境智は前と相似なるがゆえに類の名を得。後を以て前に随いて境を証するがゆえに。苦諦に縁ずるがごとく欲界および其余、法・類の忍・法・類智の四を生ず。其余の三諦に縁じて各々四もまた此のよう。いわゆる復た前の苦類智の後に於いて、次に欲界の集聖諦の境に縁じて法智忍の生ずる有りて、名づけて集法智忍。此の忍は無間にすなわち欲の集に縁じて法智の生ずる有りて、名づけて集法智。次に其余の界の集聖諦の境に縁じて類智忍の生ずる有りて、名づけて集類智忍。此の忍は無間にすなわち此の境に縁じて類智の生ずる有りて、名づけて集類智。次に欲界の滅聖諦の境に縁じて法智忍の生ずる有りて、名づけて滅法智忍。此の忍は無間にすなわち欲の滅に縁じて法智の生ずる有りて、名づけて滅法智。次に其余の界の滅聖諦の境に縁じて類智忍の生ずる有りて、名づけて滅類智忍。此の忍は無間にすなわち此の境に縁じて類智の生ずる有りて、名づけて滅類智。次に欲界の道聖諦の境に縁じて法智忍の生ずる有りて、名づけて道法智忍。此の忍は無間にすなわち欲の道に縁じて法智の生ずる有りて、名づけて道法智。次に其余の界の道聖諦の境に縁じて類智忍の生ずる有りて、名づけて道類智忍。此の忍は無間にすなわち此の境に縁じて類智の生ずる有りて、名づけて道類智。此のようの次第に十六心有り。総じて説いて名づけて聖諦現観と為す。
此中餘部有作是言:於諸諦中唯頓現觀。然彼意趣應更推尋,彼現觀言無差別故。詳諸現觀總有三種,謂見、緣、事有差別故。唯無漏慧於諸諦境現見分明名見現觀,此無漏慧並餘相應同一所緣名緣現觀,此諸能緣並餘俱有戒生相等不相應法同一事業名事現觀。見苦諦時於苦聖諦具三現觀,於餘三諦唯事現觀,謂斷證修。若諸諦中約見現觀說頓現觀,理必不然,以諸諦中行相別故。若言以一無我行相總見諸諦,則不應用苦等行相見苦諦等,如是便與契經相違。如契經言:諸聖弟子以苦行相思惟於苦,以集行相思惟於集,以滅行相思惟於滅,以道行相思惟於道,無漏作意相應擇法。若言此經說修道位,此亦不然,如見修故。若彼復謂見一諦時,於餘諦中得自在故說頓現觀,理亦無失。然於如是現觀中間有起不起,別應思擇。若彼復謂於見苦時即能斷集證滅修道說頓現觀,理亦無失,由先已說見苦諦時於餘三諦中有事現觀故。依見現觀,於契經中見有誠文,說漸現觀。如契經說:佛告長者:於四聖諦非頓現觀,必漸現觀,乃至廣說。如是等有三經,一一經有別喻。若謂有經作如是說,但於苦諦無惑無疑,於佛亦無,故頓現觀。此亦非證,依定不行。或必當斷,密意說故。已辯現觀具十六心,此十六心為依何地?頌曰:
(論は続けて曰く:)此の中に其余の部は此の言を作す有り:諸の諦の中に於いてただ頓に現観す。しかし彼の意趣は応に更に推尋すべし。彼の現観の言は差別無きがゆえに。詳らかに諸の現観は総じて三種あり。いわゆる見・縁・事に差別有るがゆえに。ただ無漏慧は諸の諦境に於いて現見・分明なるを名づけて見現観。此の無漏慧并びに其余の相応する同一の所縁を名づけて縁現観。此の諸の能縁并びに其余の俱有の戒・生相等の不相応の法の同一の事業を名づけて事現観。苦諦を見る時は苦聖諦に於いて具に三の現観。其余の三諦に於いてはただ事現観。いわゆる断・証・修。もし諸の諦の中に於いて見現観に約して頓現観を説かば、理は必ず此のようにはあらず。諸の諦の中に行相の別あるがゆえに。もし一の無我の行相を以て総じて諸の諦を見ると言わば、則ち応に苦等の行相を用いて苦諦等を見るべからず。此のようには便ち契経と相違す。契経に説くがごとく:諸の聖弟子は苦の行相を以て苦を思惟し、集の行相を以て集を思惟し、滅の行相を以て滅を思惟し、道の行相を以て道を思惟す。無漏の作意と相応して法を択す。もし此の経は修道の位を説くと言わば、此れもまた此のようにはあらず。見・修のごときがゆえに。もし彼復た謂わば、一諦を見る時に於いて、其余の諦の中に於いて自在を得るがゆえに頓現観を説くと、理もまた失無し。しかし此のようの現観の中間に於いて起る・起らざる有りて、別に応に思択すべし。もし彼復た謂わば、苦を見る時にすなわち能く集を断じ滅を証し道を修して頓現観を説くと、理もまた失無し。先に已に説くに由る、苦諦を見る時に其余の三諦の中に於いて事現観有るを。見現観に依って、契経の中に於いて誠文有るを見る。漸現観を説けり。契経に説くがごとく:仏は長者に告げたまう、四聖諦に於いて頓の現観に非ず、必ず漸の現観、乃至広く説く、と。此のようの等に三経有り。一一の経に別喻有り。もし経有りて此の説を作すと謂わば、但だ苦諦に於いて惑無く疑無く、仏に於いてもまた無し。ゆえに頓現観。此れもまた証に非ず。定に依って行ぜず。或いは必ず当に断ずべし。密意の説く所なるがゆえに。已に現観は十六心を具えるを辯したり。此の十六心は何の地に依るか。頌に曰く、
皆與世第一,同依於一地。
皆世第一と、同じく一地に依る。
論曰:隨世第一所依諸地,應知即此十六心依。彼依六地,如先已說。何緣必有如是忍智前後次第間雜而起?頌曰:
論に曰く:世第一の依る所の諸地に随って、応に知るべしすなわち此の十六心の依る所。彼は六地に依る。先に已に説けしがごとし。何の縁にか必ず此のようの忍智の前後の次第の間雑して起る有るか。頌に曰く、
忍智如次第,無間解脫道。
忍・智は次第のごとく、無間・解脱の道。
論曰:十六心中忍是無間道,約斷惑得,無能隔礙故。智是解脫道,已解脫惑得,與離繫得俱時起故。具二次第理定應然,猶如世間驅賊閉戶。若謂第二唯無間道與離繫得俱時而生,則此位中於彼彼境應定不起已斷疑智;若謂見位唯忍斷惑,則與本論說九結聚相違。此難不然,諸忍皆是智眷屬故,如王眷屬所作事業名王所作。此十六心皆見諦理,一切可說見道攝耶?不爾。云何?頌曰:
論に曰く:十六心の中、忍は是れ無間道。惑の得を断ずるに約して、能く隔碍する無きがゆえに。智は是れ解脱道。已に惑の得を解脱し、離系の得と俱時に起るがゆえに。二の次第を具えるは理定めて応に此のようであるべし。猶お世間の賊を駆りて戸を閉づるがごとし。もし第二はただ無間道の離系の得と俱時に生ずると謂わば、則ち此の位の中に於いて彼彼の境に於いて応に已断の疑智を起さざるべからず。もし見位はただ忍の惑を断ずと謂わば、則ち本論の説く九結聚と相違す。此の難は此のようにはあらず。諸の忍は皆智の眷属なるがゆえに。王の眷属の作す所の事業を名づけて王の作す所と為すがごとし。此の十六心は皆諦理を見る。一切は説いて見道の摂と為すべきか。そうにはあらず。如何。頌に曰く、
前十五見道,見未曾見故。
前の十五は見道。未だ曾て見ざるを見るがゆえに。
論曰:苦法智忍為初,道類智忍為後,其中總有十五剎那,皆見道所攝,見未見諦故。至第十六道類智時,無一諦理未見今見,如習曾見,故修道攝。豈不爾時觀道類忍是道諦理未見今見?此中約諦不約剎那。非一剎那未見今見可名今見未見諦理,如刈畦稻唯餘一科,不可名為此畦未刈。又道類智是果攝故、頓修八智十六行故、捨前道故、相續起故,如餘修道,非見道攝。然道類智必不退者,任持見道所斷斷故,即由此故應見道攝。此難不然,太過失故。何緣七智亦見道攝?見諸諦理未究竟故,謂未周遍見諸諦理中間起故,亦見道攝。已說見修二道生異,當依此道分位差別建立眾聖補特伽羅。且依見道十五心位建立眾聖有差別者,頌曰:
論に曰く:苦法智忍を初と為し、道類智忍を後と為して、その中に総じて十五刹那有りて、皆見道の摂する所。未だ見ざる諦を見るがゆえに。第十六の道類智の時に至れば、一諦の理も未だ見ずして今見る無し。曾て見しを習うがごとし。ゆえに修道の摂。豈に爾の時に道類忍を観ずるは道諦の理の未だ見ずして今見るにあらずや。此の中は諦に約して刹那に約せず。一刹那の未だ見ずして今見るを名づけて今見る未見の諦理と為すべからず。畦の稲を刈りてただ一科を余すがごとき、名づくべからず此の畦は未だ刈らずと。また道類智は是れ果の摂なるがゆえ、頓に八智・十六行を修するがゆえ、前の道を捨つるがゆえ、相続して起るがゆえに。其余の修道のごとく、見道の摂に非ず。しかし道類智は必ず退せざるは、見道の断ぜし所の断を任持するがゆえに。すなわち此に由って応に見道の摂なるべし。此の難は此のようにはあらず。過失太だ多きがゆえに。何の縁にか七智もまた見道の摂か。諸の諦理を見るに未だ究竟せざるがゆえに。いわゆる未だ周遍して諸の諦理を見るに中間に起るがゆえに、もまた見道の摂。已に見・修の二道の生の異を説けり。当に此の道の分位の差別に依って衆聖の補特伽羅を建立すべし。且つ見道の十五心の位に依って衆聖の差別有るを建立すれば、頌に曰く、
名隨信法行,由根鈍利別,
名づけて随信・法行。根の鈍・利の別に由る。
具修惑斷一,至五向初果,
具に惑を修して一を断じ、乃至五は初果に向かう。
斷次三向二,離八地向三。
次の三を断じて二に向かい、八地を離れて三に向かう。
論曰:見道位中聖者有二,一隨信行、二隨法行,由根鈍利別立二名,諸鈍根名隨信行者,諸利根名隨法行者。由信隨行名隨信行,彼有隨信行,名隨信行者,或由串習此隨信行以成其性,故名隨信行者,彼先信他隨行義故。准此應釋隨法行者,彼於先時由自披閱契經等法隨行義故。即二聖者,由於修惑具斷有殊立為三向,謂彼二聖若於先時未以世道斷修斷惑名為具縛,或先已斷欲界一品乃至五品,至此位中名初果向,趣初果故。言初果者,謂預流果,此於一切沙門果中必初得故。若先已斷欲界六品或七八品,至此位中名第二果向,趣第二果故。第二果者,謂一來果,遍得果中此第二故。若先已離欲界九品,或先已斷初定一品,乃至具離無所有處,至此位中名第三果向,趣第三果故。第三果者,謂不還果,數準前釋。次依修道道類智時建立眾聖有差別者,頌曰:
論に曰く:見道の位の中、聖者に二あり。一は随信行、二は随法行。根の鈍・利の別に由って二名を立つ。諸の鈍根を名づけて随信行と為し、諸の利根を名づけて随法行と為す。信に由って随行するを名づけて随信行。彼は随信行有りて、名づけて随信行と為す。或いは串習するに由って此の随信行を以て其の性を成ず。ゆえに名づけて随信行。彼は先に他を信じて随行の義と為すがゆえに。此に准じて応に随法行を釋すべし。彼は先時に於いて自ら契経等の法を披閲するに由って随行の義と為すがゆえに。すなわち二の聖者は、修惑に於いて断の具・殊に由って立てて三向と為す。いわゆる彼の二聖はもし先時に於いて未だ世道を以て修断の惑を断ぜざれば名づけて具縛。或いは先に已に欲界の一品乃至五品を断ぜば、此の位の中に至りて名づけて初果の向。初果に趣くがゆえに。初果と言うは、いわゆる預流果。此れは一切の沙門果の中に必ず初めて得るがゆえに。もし先に已に欲界の六品或いは七・八品を断ぜば、此の位の中に至りて名づけて第二果の向。第二果に趣くがゆえに。第二果とは、いわゆる一来果。遍く果を得る中に此れ第二なるがゆえに。もし先に已に欲界の九品を離れ、或いは先に已に初定の一品を断じ、乃至具に無所有処を離るるに至れば、此の位の中に至りて名づけて第三果の向。第三果に趣くがゆえに。第三果とは、いわゆる不還果。数は前の釋に准ず。次に修道の道類智の時に依って衆聖の差別有るを建立すれば、頌に曰く:
至第十六心,隨三向住果,
第十六心に至るに、三向に随って果に住し、
名信解見至,亦由鈍利別。
名づけて信解・見至。もまた鈍・利の別に由る。
論曰:即前隨信隨法行者,至第十六道類智心名為住果,不復名向。隨前三向今住三果,謂前預流向今住預流果,前一來向今住一來果,前不還向今住不還果。阿羅漢果必無初得,見道無容斷修惑故,世道無容離有頂故。至住果位捨得二名,謂不復名隨信法行,轉得信解、見至二名,此亦由根鈍利差別。諸鈍根者先名隨信行今名信解,諸利根者先名隨法行今名見至。此二聖者信慧互增,故標信解、見至名別。何緣先斷欲界修惑一至五等,至第十六道類智心但說名為預流果等,非後果向?頌曰:
論に曰く:すなわち前の随信・随法行なる、第十六の道類智心に至りて名づけて住果。復た向と名づけず。前三向に随って今三果に住す。いわゆる前の預流向は今預流果に住し、前の一来向は今一来果に住し、前の不還向は今不還果に住す。阿羅漢果は必ず初得無し。見道は修惑を断ずるを容れざるがゆえ、世道は有頂を離るるを容れざるがゆえに。住果の位に至りて二名を捨て得す。いわゆる復た随信・法行と名づけず、転じて信解・見至の二名を得。此れもまた根の鈍利の差別に由る。諸の鈍根なるは先に随信行と名づけ、今は信解と名づく。諸の利根なるは先に随法行と名づけ、今は見至と名づく。此の二聖者は信・慧互いに増す。ゆえに信解・見至の名を標して別と為す。何の縁にか先に欲界の修惑を断じて一乃至五等、第十六の道類智心に至りて但だ説いて名づけて預流果等と為して、後の果の向にあらざるか。頌に曰く、
諸得果位中,未得勝果道,
諸の果を得る位の中に、未だ勝果の道を得ず、
