アビダルマ倶舎論 巻第一
論曰:如五識界別有眼等五界為依,第六意識無別所依,為成此依故說意界。如是所依能依境界,應知各六界成十八。若爾,無學最後念心應非意界,此無間滅後識不生,非意界故。不爾,此已住意性故、闕餘緣故,後識不生。此中蘊攝一切有為,取蘊唯攝一切有漏,處界總攝一切法盡。別攝如是,總攝云何?頌曰:
論に曰く:五識界に別に眼等の五界を依とするがある如く、第六意識には別の所依なし。ゆえにこの依を成ぜんがために意界を説く。このように所依・能依・境界は、各六界をもって十八となると知るべし。もしそうなら、無学の最後念の心は意界ではないはず、この心は無間に滅して後の識を生ぜざるゆえ、意界でないゆえ、と。そうではない。これは已に意性に住するゆえ、其余の縁を欠くゆえに後の識が生じないのである。ここで蘊は一切有為を摂し、取蘊はただ一切有漏を摂し、処界は総じて一切法を摂し尽くす。別摂はこの如し、総摂はいかに。頌に曰く:
總攝一切法,由一蘊處界,
一切法を総摂するは、一蘊・一処・一界による。
攝自性非餘,以離他性故。
自性を摂す、其余ではない。他性を離れるがゆえに。
論曰:由一色蘊意處法界,應知總攝一切法盡。謂於諸處就勝義說,唯攝自性不攝他性。所以者何?法與他性恆相離故。此離於彼而言攝者,其理不然。且如眼根,唯攝色蘊眼處眼界苦集諦等,是彼性故不攝餘蘊餘處界等,離彼性故。若於諸處就世俗說,應知亦以餘法攝餘。如四攝事攝徒眾等,眼耳鼻三處各有二,何緣界體非二十一?此難非理。所以者何?頌曰:
論に曰く:一色蘊・意処・法界によって、一切法を総摂し尽くすと知るべし。いわゆる諸処において勝義に就いて説けば、ただ自性を摂して他性を摂しない。なぜか。法は他性と恒に相離れるゆえである。離れて彼を説くことを摂とする理は然らず。たとえば眼根は、ただ色蘊・眼処・眼界・苦集諦等を摂するのみで、あの性であるゆえに其余の蘊・其余の処界等を摂しない。あの性を離れるゆえである。もし諸処において世俗に就いて説けば、其余の法をもって其余を摂するとも知るべし。四摂事が徒衆等を摂するが如し。眼・耳・鼻の三処は各々二あり、いかなる縁で界の体が二十一とならないのか。この難は理に非ず。なぜか。頌に曰く:
類境識同故,雖二界體一。
類・境・識が同じゆえ、二と雖も界の体は一。
論曰:類同者,謂二處同是眼自性故。境同者,謂二處同用色為境故。識同者,謂二處同為眼識依故。由此眼界雖二而一。耳鼻亦應如是安立。若爾,何緣生依二處?頌曰:
論に曰く:類が同じとは、いわゆる二処がともに眼の自性なるゆえ。境が同じとは、いわゆる二処がともに色を境とするゆえ。識が同じとは、いわゆる二処がともに眼識の依と為るゆえ。これによって眼界は二と雖も一である。耳・鼻もまたこの如く安立すべし。もしそうなら、いかなる縁で生の依を二処とするか。頌に曰く:
然為令端嚴,眼等各生二。
ただ端厳ならしめんがために、眼等は各々二を生ず。
論曰:為所依身相端嚴故,界體雖一而兩處生。若眼耳根處唯生一,鼻無二穴身不端嚴。此釋不然。若本來爾,誰言醜陋?又貓鵄等雖生二處,有何端嚴?若爾,三根何緣生二?為所發識明瞭端嚴。現見世間閉一目等,了別色等便不分明,是故三根各生二處。已說諸蘊及處界攝,當說其義。此蘊處界別義云何?頌曰:
論に曰く:所依の身の相を端厳ならしめるゆえに、界の体は一と雖も両処に生ず。もし眼・耳の根処がただ一を生ぜば、鼻に二穴なく身が端厳ならない。この釈は然らず。もし本来そうなら、誰が醜陋と説くのか。また猫・鴟等は二処を生ずと雖も、いかなる端厳があるか。もしそうなら、三根はいかなる縁で二を生ずるか。所発の識を明了端厳ならしめるためである。現に世間に見る如く一目を閉づれば、色等を了別するに分明ならない。ゆえに三根は各々二処を生ず。諸蘊および処界の摂を説いたので、その義を説くべきである。この蘊・処・界の別の義はいかに。頌に曰く:
聚生門種族,是蘊處界義。
聚・生門・種族が、蘊・処・界の義である。
論曰:諸有為法和合聚義是蘊義,如契經言:諸所有色,若過去若未來若現在、若內若外、若麁若細、若劣若勝、若遠若近,如是一切略為一聚,說名色蘊。由此聚義,蘊義得成。於此經中,無常已滅名過去、若未已生名未來、已生未謝名現在,自身名內、所餘名外。或約處辯,有對名麁、無對名細。或相待立。若言相待,麁細不成。此難不然,所待異故。待彼為麁未嘗為細、待彼為細未嘗為麁,猶如父子苦集諦等,染汙名劣、不染名勝,去來名遠、現在名近,乃至識蘊應知亦然。而有差別,謂依五根名麁,唯依意根名細。或約地辯,毘婆沙師所說如是。大德法救復作是言:五根所取名麁色,所餘名細色。非可意者名劣色,所餘名勝色。不可見處名遠色,在可見處名近色。過去等色如自名顯,受等亦然,隨所依力,應知遠近麁細同前。心心所法,生長門義是處義。訓釋詞者,謂能生長心心所法故名為處,是能生長彼作用義。法種族義是界義,如一山中有多銅鐵金銀等族,說名多界。如是一身或一相續,有十八類諸法種族,名十八界。此中種族是生本義。如是眼等誰之生本?謂自種類同類因故。若爾,無為應不名界,心心所法生之本故。有說:界聲表種類義,謂十八法種類自性各別不同,名十八界。若言聚義是蘊義者,蘊應假有,多實積集共所成故,如聚如我。此難不然,一實極微亦名蘊故。若爾,不應言聚義是蘊義,非一實物有聚義故。有說:能荷重擔義是蘊義,由此世間說肩名蘊,物所聚故。或有說者:可分段義是蘊義,故世有言:汝三蘊還,我當與汝。此釋越經,經說聚義是蘊義故,如契經言:諸所有色若過去等。廣說如前。若謂此經顯過去等一一色等各別名蘊,是故一切過去色等一一實物各各名蘊。此執非理,故彼經言:如是一切略為一聚說名蘊故,是故如聚,蘊定假有。
論に曰く:諸有為法の和合聚の義が蘊の義である。契経に説く如く:諸の所有の色は、若し過去・若し未来・若し現在、若し内・若し外、若し粗・若し細、若し劣・若し勝、若し遠・若し近、このように一切を略して一聚と為して、色蘊と名づくと説く、と。この聚の義によって蘊の義が成就する。この経において、無常已滅を過去と名づけ、未だ已生ならざるを未来と名づけ、已に生じて未だ謝せざるを現在と名づく。自身を内と名づけ、其余を外と名づく。あるいは処に約して弁ずれば、有対を粗と名づけ、無対を細と名づく。あるいは相待して立つ。相待と説けば粗细は成らないというが、この難は然らず、待する所が異なるゆえである。彼を待って粗と為して未だかつて細と為さず、彼を待って細と為して未だかつて粗と為さず。父子・苦集諦等の如し。染污を劣と名づけ、不染を勝と名づけ、去来を遠と名づけ、現在を近と名づく。乃至識蘊もまたこの如くと知るべし。但し差別あり、いわゆる五根に依るを粗と名づけ、ただ意根に依るを細と名づく。あるいは地に約して弁ず。毘婆沙師の説く所かくの如し。大徳法救はまたかく説く:五根の取る所を粗色と名づけ、其余を細色と名づく。可意ならざるを劣色と名づけ、其余を勝色と名づく。見るべからざる処を遠色と名づけ、見るべき処に在るを近色と名づく。過去等の色は自名に顕れたる如く、受等もまたこの如し。所依の力に随って、遠近・粗細が前に同じと知るべし。心・心所法の生長門の義が処の義である。詞の訓釈は、いわゆる能く心・心所法を生長するゆえに処と名づけ、能く彼の作用を生長する義である。法の種族の義が界の義である。一山中に銅・鉄・金・銀等の多族あるが如く、多界と名づくと説く。このように一身あるいは一相続に、十八類の諸法種族あるを十八界と名づく。ここで種族は生の本の義である。このように眼等は誰の生の本か。いわゆる自種類の同類因なるゆえ。もしそうなら、無為は界と名づくべきではない、心・心所法の生の本なりというゆえに。ある人の説に:界の声は種類の義を表す、いわゆる十八法の種類・自性が各別不同なるを十八界と名づく、と。聚義を蘊義と説けば、蘊は假有であるべし。多実の積集が共に成ずる所なるゆえ、聚や我の如し、というが、この難は然らず、一実の極微もまた蘊と名づくゆえである。もしそうなら、聚義を蘊義と説くべきでない、一実物に聚義あるに非ざるゆえ、と。ある人の説に:能く重い担を荷う義を蘊義とす、これによって世間に肩を蘊と名づく、物の聚る所なるゆえ、と。あるいは説く:分段しうる義を蘊義とす、ゆえに世に言あり:「汝は三蘊を還せ、我は当に汝に与えん」と。この釈は経に越す。経は聚義を蘊義と説くゆえ、契経に説く如く「諸の所有の色は若し過去等」と。広く前の如く説く。もしこの経は過去等の一一の色等が各別に蘊と名づくを顕すと説くなら、一切過去の色等の一一の実物が各々蘊と名づくはめになる。この執は理に非ず。あの経が説くゆえ:「このように一切を略して一聚と為して蘊と名づく」と説くゆえに、聚の如く、蘊は定めて假有である。
若爾,應許諸有色處亦是假有,眼等極微要多積聚成生門故。此難非理,多積聚中一一極微有因用故。若不爾者,根境相助共生識等應非別處,是則應無十二處別。然毘婆沙作如是說。對法諸師若觀假蘊,彼說極微一界一處一蘊少分;若不觀者,彼說極微即是一界一處一蘊。此應於分,假謂有分,如燒少衣亦說燒衣。何故世尊於所知境,由蘊等門作三種說?頌曰:
もしそうなら、諸の有色処もまた假有と許すべきである。眼等の極微は多く積聚して生門を成ずるゆえ、と。この難は理に非ず。多く積聚する中で一一の極微に因の用あるゆえである。そうでなければ、根境が相助けて共に識等を生ずるも別処に非ざるはめになり、このように便ち十二処の分別なきはめになる。しかるに毘婆沙はかく説く。対法の諸師が假蘊を観ずるならば、彼らは極微を一界・一処・一蘊の少分と説き、観ざらざれば極微をすなわち一界・一処・一蘊と説く。このは分においてしかり、假とは有分を謂う。少衣を焼くも衣を焼くと説くが如し。なぜ世尊は所知の境において蘊等の門によって三種の説をなしたのか。頌に曰く:
愚根樂三故,說蘊處界三。
愚・根・楽が三種なるゆえに、蘊・処・界の三を説く。
論曰:所化有情有三品故,世尊為說蘊等三門。傳說:有情愚有三種,或愚心所總執為我,或唯愚色、或愚色心。根亦有三,謂利、中、鈍。樂亦三種,謂樂、略、中,及廣文故。如其次第,世尊為說蘊處界三。何緣世尊說餘心所總置行蘊,別分受想為二蘊耶?頌曰:
論に曰く:所化の有情に三品あるゆえに、世尊は蘊等の三門を説く。伝説に:有情の愚に三種あり。あるいは心所を愚にして総じて我と執し、あるいはただ色を愚にし、あるいは色・心を愚にする。根にも三あり、いわゆる利・中・鈍。楽にも三種あり、いわゆる略・中および広文を楽うゆえ。この次第によって世尊は蘊・処・界の三を説く。いかなる縁で世尊は其余の心所を総じて行蘊に置き、別に受・想を分けて二蘊と為すか。頌に曰く:
諍根生死因,及次第因故,
諍の根・生死の因、および次第の因なるゆえに、
於諸心所法,受想別為蘊。
諸の心所法において、受・想を別に蘊と為す。
論曰:諍根有二,謂著諸欲及著諸見。此二受想,如其次第為最勝因,味受力故貪著諸欲,倒想力故貪著諸見。又生死法以受及想為最勝因,由耽著受起倒想故生死輪迴。由此二因及後當說次第因故,應知別立受想為蘊。其次第因,隣次當辯。何故無為說在處界,非蘊攝耶?頌曰:
論に曰く:諍の根に二あり、いわゆる諸欲に著することおよび諸見に著すること。この二の受・想がこの次第によって最勝の因と為る。受の力に味するゆえに諸欲を貪著し、倒想の力のゆえに諸見を貪著する。また生死の法は受および想を最勝の因とし、受に耽著して倒想を起すゆえに生死が輪廻する。この二因および後文に説くべき次第の因のゆえに、別に受・想を蘊に立てると知るべし。その次第の因は隣次に弁ずべし。なぜ無為は処界に説いて蘊の所摂としないのか。頌に曰く:
蘊不攝無為,義不相應故。
蘊は無為を摂さない、義が相応しないゆえに。
論曰:三無為法不可說在色等蘊中,與色等義不相應故。謂體非色乃至非識,亦不可說為第六蘊,彼與蘊義不相應故。聚義是蘊,如前具說。謂無為法,非如色等有過去等品類差別,可略一聚名無為蘊。又言取蘊為顯染依,染淨二依蘊言所顯。無為於此二義都無,義不相應故不立蘊。有說:如瓶破非瓶,如是蘊息應非蘊,彼於處界例應成失。如是已說諸蘊廢立,當說次第。頌曰:
論に曰く:三無為法は色等の蘊中に説くべからず、色等の義に相応しないゆえである。いわゆる体は色に非ず乃至識に非ず、また第六蘊と為すとも説くべからず、それらは蘊の義に相応しないゆえである。聚義が蘊なり、前に具説の如し。いわゆる無為法は、色等の如く過去等の品類差別あって、略して一聚と為して無為蘊と名づけうるものではない。また取蘊は染依を顕すと説き、染・浄の二依は蘊の言に顕れる所。無為はこの二義ともに無く、義に相応しないゆえに蘊に立てない。ある人の説に:瓶が破れれば瓶に非ざる如く、蘊が息めば蘊に非ざるべし、それらは処界において例して成失となるべし、と。このように諸蘊の廃立を説いたので、次第を説くべきである。頌に曰く:
隨麁染器等,界別次第立。
粗・染・器等に随い、界別に次第立つ。
論曰:色有對故諸蘊中麁,無色中麁唯受行相,故世說我手等痛言。待二想麁,男女等想易了知故。行麁過識,貪瞋等行易了知故。識最為細,總取境相難分別故。由此隨麁立蘊次第。或從無始生死已來,男女於色更相愛樂,此由耽著樂受味故,耽受復因倒想生故,此倒想生由煩惱故,如是煩惱依識而生。此及前三皆染汙識,由此隨染立蘊次第。或色如器、受類飲食、想同助味、行似廚人、識喻食者,故隨器等立蘊次第。或隨界別立蘊次第,謂欲界中有諸妙欲,色相顯了。色界靜慮有勝喜等,受相顯了。三無色中取空等相,想相顯了。第一有中思最為勝,行相顯了。此即識住,識住其中顯似世間田種次第。是故諸蘊次第如是。由此五蘊無增減過,即由如是諸次第因,離行別立受想二蘊,謂受與想於諸行中相麁生染、類食同助,二界中強故別立蘊。處界門中應先辨說六根次第,由斯境識次第可知。頌曰:
論に曰く:色は有対なるゆえに諸蘊中に粗なり。無色中の粗はただ受の行相なり、ゆえに世に「我が手等痛し」と言う。二に待って想は粗なり、男女等の想は了知し易いゆえ。行は識に過りて粗なり、貪・瞋等の行は了知し易いゆえ。識は最も細なり、総じて境の相を取って分別し難いゆえ。これによって粗に随いて蘊の次第を立つ。あるいは無始の生死より来り、男女は色において更互に愛楽す。これは楽受の味に耽著するゆえ、受に耽るはまた倒想に因りて生ずるゆえ、この倒想の生は煩悩によるゆえ、このように煩悩は識に依りて生ず。これおよび前の三はともに識を染污す。これによって染に随いて蘊の次第を立つ。あるいは色は器の如く、受は飲食に類し、想は助味に同じく、行は厨人に似て、識は食者に喩う。ゆえに器等に随いて蘊の次第を立つ。あるいは界別に随いて蘊の次第を立つ。いわゆる欲界中に諸の妙欲あって色の相が顕了、色界の静慮に勝喜等あって受の相が顕了、三無色中に空等の相を取って想の相が顕了、第一有中に思を最勝と為して行の相が顕了。これはすなわち識住、識がその中に住して世間の田種の次第に顕似す。ゆえに諸蘊の次第はこの如し。これによって五蘊に増減の過なし。すなわちこのような諸次第の因によって、行を離れて別に受・想の二蘊を立てる。いわゆる受と想は諸行中において相の粗にして染を生じ、食に類し助に同じ、二界中において強なり、ゆえに別に蘊を立つ。処界門中においてまず六根の次第を弁説すべし。これによって境・識の次第が知りうるゆえである。頌に曰く:
前五境唯現,四境唯所造,
前の五の境はただ現在、四の境はただ所造、
餘用遠速明,或隨處次第。
其余は遠・速・明を用い、あるいは処に随う次第。
論曰:於六根中,眼等前五唯取現境,是故先說。意境不定,三世無為,或唯取一或二三四。所言四境唯所造者,前流至此。五中前四境唯所造,是故先說。身境不定,或取大種、或取造色、或二俱取,餘謂前四。如其所應用遠速明,是故先說。謂眼耳根取遠境故,在二先說。二中眼用遠故先說,遠見山河不聞聲故。又眼用速,先遠見人撞擊鍾鼓後聞聲故。鼻舌兩根用俱非遠。先說鼻者,由速明故。如對香美諸飲食時,鼻先嗅香、舌後甞味。或於身中隨所依處上下差別說根次第,謂眼所依最居其上,次耳鼻舌身多居下,意無方處。有即依止諸根生者,故最後說。何緣十處皆色蘊攝,唯於一種立色處名?又十二處體皆是法,唯於一種立法處名?頌曰:
論に曰く:六根の中、眼等の前五はただ現境を取るゆえにまず説く。意の境は定まらず、三世・無為、あるいはただ一を取り、あるいは二・三・四を取る。「四境はただ所造」と説くのは、前に流れて此処に至る。五中の前四の境はただ所造なり、ゆえにまず説く。身の境は定まらず、あるいは大種を取り、あるいは造色を取り、あるいは二つを俱に取る。「余」とはいわゆる前の四。用うる所の遠・速・明の如く、ゆえにまず説く。いわゆる眼・耳の根は遠境を取るゆえに、二中にまず説く。二中で眼は用が遠なるゆえにまず説く。遠く山河を見て声を聞かざるゆえ。また眼の用は速なり。先に遠く人が鐘鼓を撞撃するを見て後に声を聞くゆえ。鼻・舌の両根は用ともに遠に非ず。まず鼻を説くは、速く明なるゆえ。香美なる諸の飲食に対する時、鼻は先に香を嗅ぎ、舌は後に味を嘗むるが如し。あるいは身中に依る所の処の上下差別に随いて根の次第を説く。いわゆる眼の依る所は最も上に居り、次いで耳・鼻・舌・身は多く下に居る。意は方処なし。あるいはすなわち諸根の生に依止するゆえに、最後に説く。いかなる縁で十処はともに色蘊の所摂なるに、ただ一種に色処の名を立てるか。また十二処の体はともに法なるに、ただ一種に法処の名を立てるか。頌に曰く:
為差別最勝,攝多增上法,
差別・最勝・多法摂・増上法のため、
故一處名色,一名為法處。
ゆえに一処を色と名づけ、一を法処と名づく。
論曰:為差別者,為令了知境有境性種種差別,故於色蘊就差別相建立十處不總為一。若無眼等差別想名,而體是色立名色處,此為眼等名所簡別,雖標總稱而即別名。又諸色中色處最勝,故立通名。由有對故,手等觸時即便變壞。及有見故,可示在此在彼差別。又諸世間唯於此處同說為色,非於眼等。又為差別立一法處,非於一切,如色應知。又於此中攝受想等眾多法故,應立通名。又增上法,所謂涅槃,此中攝故獨立為法。有餘師說:色處中有二十種色最麁顯故,肉、天、聖慧三眼境故,獨立色名。法處中有諸法名故、諸法智故,獨立法名。諸契經中,有餘種種蘊及處界,名想可得。為即此攝?為離此耶?彼皆此攝,如應當知。且辯攝餘諸蘊名想。頌曰:
論に曰く:「差別のため」とは、境・有境の性の種種の差別を了知せしめんがため、ゆえに色蘊において差別の相に就いて十処を建立して総じて一と為さず。もし眼等の差別の想名なく、体は色なるに立てて色処と名づけば、これは眼等の名に簡別せられて、総称を標すと雖もすなわち別名となる。また諸色中に色処は最勝なり、ゆえに通名を立つ。有対なるゆえ、手等が触るる時すなわち変壞し、および有見なるゆえ、此処彼処に在る差別を示すべし。また諸の世間はただこの処において同じく色と説き、眼等においてはせず。また差別のために一法処を立てて一切においてせず、色の如く知るべし。またこの中に受・想等の衆多の法を摂するゆえに通名を立てるべし。また増上法とはいわゆる涅槃、この中の所摂なるゆえに独り法と立つ。ある師の説に:色処中に二十種の色は最も粗顕なるゆえ、肉・天・聖慧の三眼の境なるゆえに独り色名を立つ。法処中に諸法の名あるゆえ、諸法の智あるゆえに独り法名を立つ、と。諸の契経中に、其余の種種の蘊および処界の名想は得るべきか。これはすなわちこの所摂か、それともこのを離れるか。それらは皆この所摂なり、応ずる如く知るべし。暫く其余の諸蘊の名想の摂を弁ず。頌に曰く:
牟尼說法蘊,數有八十千,
牟尼が説く法蘊は、数に八十千あり、
彼體語或名,此色行蘊攝。
その体は語あるいは名、これ色・行蘊の所摂。
論曰:諸說佛教語為體者,彼說法蘊皆色蘊攝。諸說佛教名為體者,彼說法蘊皆行蘊攝。此諸法蘊其量云何?頌曰:
論に曰く:仏教は語を体とすると説く諸師は、法蘊は皆色蘊の所摂と説く。仏教は名を体とすると説く諸師は、法蘊は皆行蘊の所摂と説く。これらの諸法蘊、その量はいかに。頌に曰く:
有言諸法蘊,量如彼論說;
ある人は諸法蘊を説く、量はあの論の説くが如し、
或隨蘊等言,如實行對治。
あるいは蘊等の言に随い、如実には行に対治する。
論曰:有諸師言:八萬法蘊一一量等《法蘊足論》,謂彼一一有六千頌,如對法中《法蘊足》說。或說:法蘊隨蘊等言一一差別數有八萬,謂蘊、處、界、緣起、諦、食、靜慮、無量、無色、解脫、勝處、遍處、覺品、神通、無諍、願智、無礙解等,一一教門名一法蘊。如實說者,所化有情有貪瞋等八萬行別,為對治彼八萬行故,世尊宣說八萬法蘊。如彼所說八萬法蘊皆此五中二蘊所攝,如是餘處諸蘊處界類亦應然。頌曰:
論に曰く:ある諸師の説に:八万の法蘊の一一の量は『法蘊足論』に等しく、いわゆるあの一一に六千頌ある、対法中の『法蘊足』の説くが如し、と。あるいは説く:法蘊は蘊等の言に随って一一差別の数が八万あり、いわゆる蘊・処・界・縁起・諦・食・静慮・無量・無色・解脱・勝処・遍処・覚品・神通・無諍・願智・無礙解等で、一一の教門を一法蘊と名づく、と。如実に説けば、所化の有情に貪・瞋等の八万の行の別あるゆえ、あの八万の行に対治するために世尊は八万の法蘊を宣説した。あの説く所の八万の法蘊はみなこの五中の二蘊の所摂なり。このように其余処の諸蘊・処・界の類もまたこの如しと知るべし。頌に曰く:
如是餘蘊等,各隨其所應,
このように其余の蘊等は、各々その応ずる所に随い、
攝在前說中,應審觀自相。
前の説く所に摂さる。審らかに自相を観ずべし。
論曰:餘契經中諸蘊處界,隨應攝在前所說中,如此論中所說蘊等,應審觀彼一一自相。且諸經中說餘五蘊,謂戒、定、慧、解脫、解脫智見五蘊,彼中戒蘊此色蘊攝,彼餘四蘊此行蘊攝。又諸經說十遍處等,前八遍處無貪性故,此法處攝;若兼助伴五蘊性故,即此意處法處所攝。攝八勝處應知亦爾。空、識遍處、空無邊等四無色處,四蘊性故,即此意處、法處所攝。五解脫處,慧為性故,此法處攝;若兼助伴,即此聲意法處所攝。復有二處,謂無想有情天處及非想非非想處,初處即此十處所攝,無香味故;後處即此意法處攝,四蘊性故。又《多界經》說界差別有六十二,隨其所應當知皆此十八界攝。且彼經中所說六界,地水火風四界已說,空識二界未說其相。為即虛空名為空界、為一切識名識界耶?不爾,云何?頌曰:
論に曰く:其余の契経中の諸蘊・処・界は、応ずるに随って前の説く所に摂さる。この論中に説く蘊等の如く、あれらの一一の自相を審らかに観ずべし。暫く諸経中に説く其余の五蘊、いわゆる戒・定・慧・解脱・解脱智見の五蘊について。あれらの中、戒蘊はこの色蘊の所摂、あの其余の四蘊はこの行蘊の所摂。また諸経に説く十遍処等、前の八遍処は無貪を性とするゆえにこの法処の所摂、もし助伴を兼ぬれば五蘊を性とするゆえにすなわちこの意処・法処の所摂。八勝処を摂することもまたこの如くと知るべし。空・識の遍処・空無辺等の四無色処は、四蘊を性とするゆえにすなわちこの意処・法処の所摂。五解脱処は慧を性とするゆえにこの法処の所摂、もし助伴を兼ぬればすなわちこの声・意・法処の所摂。また二処あり、いわゆる無想有情天処および非想非非想処。初の処はすなわちこの十処の所摂、香・味なきゆえ。後の処はすなわちこの意・法処の所摂、四蘊を性とするゆえ。また『多界経』は界の差別に六十二あると説く。その応ずるに随って、皆この十八界の所摂と知るべし。暫くあの経中に説く六界について。地・水・火・風の四界は已に説いたが、空・識の二界は未だその相を説かない。すなわち虚空を空界と名づけ、一切識を識界と名づくのか。そうではない。どうか。頌に曰く:
空界謂竅隙,傳說是明闇;
空界とはいわゆる竅隙で、伝説にこれ明暗とす、
識界有漏識,有情生所依。
識界は有漏の識、有情の生の所依なり。
論曰:諸有門窓及口鼻等內外竅隙,名為空界。如是竅隙云何應知?傳說:竅隙即是明闇,非離明闇竅隙可取,故說空界明闇為體。應知此體不離晝夜,即此說名隣阿伽色。傳說:阿伽謂積集色,極能為礙故名阿伽。此空界色與彼相隣,是故說名隣阿伽色。有說:阿伽即空界色,此中無礙故名阿伽。即阿伽色餘礙相隣,是故說名隣阿伽色。諸有漏識名為識界,云何不說諸無漏識為識界耶?由許六界是諸有情生所依故,如是諸界從續生心至命終心恆持生故。諸無漏法則不如是。彼六界中,前四即此觸界所攝,第五即此色界所攝,第六即此七心界攝。彼經餘界如其所應,皆即此中十八界攝。
論に曰く:諸の門窓および口鼻等の内外の竅隙を空界と名づく。このような竅隙をどう知るか。伝説に:竅隙とはすなわち明暗で、明暗を離れて竅隙は取るべからず、ゆえに空界は明暗を体とすと説く。この体は昼夜を離れざると知るべし、これをすなわち隣阿伽色(積集の礙色に隣り合う色)と名づくと説く。伝説に:阿伽とはいわゆる積集色、極めて能く礙となるゆえに阿伽と名づく。この空界色はあれらと相隣るゆえに隣阿伽色と名づくと説く。ある人の説に:阿伽はすなわち空界色、この中礙なきゆえに阿伽と名づく。すなわち阿伽色の余礙に相隣るゆえに隣阿伽色と名づくと説く、と。諸の有漏識を識界と名づく。なぜ諸の無漏識を識界と説かないのか。六界は諸有情の生の所依と許すゆえ、このように諸界は続生心より命終心に至るまで恒に生を持するゆえである。諸の無漏法はそうではない。あの六界中、前の四はすなわちこの触界の所摂、第五はすなわちこの色界の所摂、第六はすなわちこの七心界の所摂。あの経の其余の界はその応ずるが如く、皆この中の十八界の所摂なり。
説一切有部倶舎論 巻第一
アビダルマ倶舎論 巻第二 尊者世親造
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。
分別界品第一之二
分別界品 第一之二。
復次於前所說十八界中,幾有見、幾無見?幾有對、幾無對?幾善、幾不善、幾無記?頌曰:
さて前に説いた十八界の中、いくつが有見で、いくつが無見か。いくつが有対で、いくつが無対か。いくつが善で、いくつが不善、いくつが無記か。頌に曰く:
一有見謂色,十有色有對,
一の有見はいわゆる色、十の有色は有対、
此除色聲八,無記餘三種。
ここで色・声を除く八は無記、其余は三種。
論曰:十八界中色界有見,以可示現此彼差別。由此義準,說餘無見。如是已說有見無見。唯色蘊攝十界有對,對是礙義。此復三種:障礙、境界、所緣異故。障礙有對,謂十色界。自於他處被礙不生,如手礙手或石礙石或二相礙。境界有對,謂十二界法界一分諸有境法於色等境,故《施設論》作如是言:有眼於水有礙非陸,如魚等眼。有眼於陸有礙非水,從多分說,如人等眼。有眼俱礙,如畢舍遮、室獸摩羅及捕魚人、蝦蟇等眼。有俱非礙,謂除前相。有眼於夜有礙非晝,如諸蝙蝠鵂鶹等眼。有眼於晝有礙非夜,從多分說,如人等眼。有眼俱礙,如狗野幹馬豹豺狼貓狸等眼。有俱非礙,謂除前相。此等名為境界有對。所緣有對,謂心心所於自所緣。境界、所緣復有何別?若於彼法此有功能,即說彼為此法境界。心心所法執彼而起,彼於心等名為所緣。云何眼等於自境界所緣轉時說名有礙?越彼於餘此不轉故。或復礙者是和會義,謂眼等法於自境界及自所緣和會轉故。應知此中唯就障礙有對而說,故但言十有色有對,更相障故。由此義準說餘無對。若法境界有對,亦障礙有對耶?應作四句。謂七心界法界一分諸相應法是第一句。色等五境是第二句。眼等五根是第三句。法界一分非相應法是第四句。若法境界有對,亦所緣有對耶?應順後句,謂若所緣有對,定是境界有對。有雖境界有對而非所緣有對,謂眼等五根。此中大德鳩摩邏多作如是說:
論に曰く:十八界中、色界は有見なり。此処彼処の差別を示現しうるゆえ。この義に準じて其余を無見と説く。このように有見・無見を説いた。ただ色蘊の所摂の十界は有対なり。対は礙の義である。これにまた三種あり、障碍・境界・所縁の異なるゆえ。障碍の有対とは、いわゆる十色界。自が他処において礙せられて生ぜず、手が手を礙し、あるいは石が石を礙し、あるいは二が相礙するが如し。境界の有対とは、いわゆる十二界・法界一分の諸有境法が色等の境において礙なること。ゆえに『施設論』にかく説く:ある眼は水において礙ありて陸に非ず、魚等の眼の如し。ある眼は陸において礙ありて水に非ず、多分に就いて説けば人等の眼の如し。ある眼は俱に礙あり、畢舍遮・室獣摩羅および捕魚の人・蝦蟆等の眼の如し。ある眼は俱に礙に非ず、いわゆる前の相を除く。ある眼は夜において礙ありて昼に非ず、諸の蝙蝠・鵂鶹等の眼の如し。ある眼は昼において礙ありて夜に非ず、多分に就いて説けば人等の眼の如し。ある眼は俱に礙あり、狗・野干・馬・豹・豺狼・猫狸等の眼の如し。ある眼は俱に礙に非ず、いわゆる前の相を除く。これらを境界有対と名づく。所縁有対とは、いわゆる心・心所が自所縁において礙なること。境界と所縁とまたいかなる分別があるか。その法においてこれに功能あれば、すなわち彼をこの法の境界と説く。心・心所法が彼を執して起これば、彼は心等において所縁と名づく。どうして眼等が自境界・自所縁において転ずる時、礙ありと名づくと説くのか。彼を越えて其余においてはこれ転ぜざるゆえ。あるいはまた礙とは和会の義で、いわゆる眼等の法が自境界および自所縁において和会して転ずるゆえ。ここではただ障碍有対に就いて説くと知るべく、ゆえにただ十有色は有対と説くのみ、更互に相障するゆえ。この義に準じて其余を無対と説く。もし法が境界有対なら、また障碍有対か。四句を作すべし。いわゆる七心界・法界一分の諸相応法は第一句。色等の五境は第二句。眼等の五根は第三句。法界一分の非相応法は第四句。もし法が境界有対なら、また所縁有対か。順後句に作すべし。いわゆる若し所縁有対ならば、定めて境界有対なり。境界有対なるも所縁有対ならざるあり、いわゆる眼等の五根。ここで大徳鳩摩邏多(クマーララータ)はかく説く:
是處心欲生,他礙令不起,
ここの処に心が生ぜんと欲するに、他が礙して起こらしめざるを、
應知是有對,無對此相違。
有対と知るべし、無対はこれに相違す。
此是所許。如是已說有對無對。於此所說十有對中,除色及聲餘八無記,謂五色根、香、味、觸境,不可記為善不善性,故名無記。有說:不能記異熟果故名無記。若爾,無漏應唯無記。其餘十界通善等三,謂七心界與無貪等相應名善,貪等相應名為不善,餘名無記。法界若是無貪等性相應等起擇滅名善,若貪等性相應等起名為不善,餘名無記。色界聲界若善不善心力等起身語表攝,是善不善,餘是無記。已說善等。十八界中幾欲界繫、幾色界繫、幾無色界繫?頌曰:
(論に続けて曰く:)これは許す所なり。このように有対・無対を説いた。ここに説く十有対の中、色および声を除き、其余の八は無記なり。いわゆる五色根・香・味・触境は、善・不善の性と記すべからざるゆえに無記と名づく。ある人の説に:異熟果を記し得ざるゆえに無記と名づく、と。もしそうなら、無漏はただ無記のみとなるべし。其余の十界は善等の三に通ず、いわゆる七心界は無貪等と相応すれば善と名づけ、貪等と相応すれば不善と名づけ、其余を無記と名づく。法界はもし無貪等の性・相応等起・択滅ならば善と名づけ、貪等の性・相応等起ならば不善と名づけ、其余を無記と名づく。色界・声界はもし善・不善の心力による等起の身語表の所摂ならば、これ善・不善なり、其余は無記なり。善等を説いた。十八界中、いくつが欲界繋、いくつが色界繋、いくつが無色界繋か。頌に曰く:
欲界繫十八,色界繫十四,
欲界繋は十八、色界繋は十四、
除香味二識,無色繫後三。
香・味の二識を除き、無色繋は後の三。
論曰:繫謂繫屬,即被縛義。欲界所繫具足十八,色界所繫唯十四種,除香味境及鼻舌識。除香味者,段食性故,離段食慾方得生彼。除鼻舌識,無所緣故。若爾,觸界於彼應無,如香味境段食性故,彼所有觸非段食性。若爾,香味類亦應然,香味離食無別受用,觸有別用持根衣等,彼離食慾香味無用,有根衣等故觸非無。有餘師說:住此依彼靜慮等至見色聞聲,輕安俱起有殊勝觸攝益於身,是故此三生彼靜慮猶相隨逐,香味不爾,故在彼無。若爾,鼻舌彼應非有,如香味境彼無用故。不爾,二根於彼有用,謂起言說及莊嚴身。若為嚴身及起說用,但須依處,何用二根?如無男根亦無依處,二根無者依處亦無。於彼可無男根依處,彼無用故。鼻舌依處彼有用故,離根應有。有雖無用而有根生,如處胞胎定當死者。有雖無用而非無因,彼從何因得有根起?於根有愛發殊勝業。若離境愛,於根定然,彼離境貪應無鼻舌。或應許彼男根亦生,若謂不生由醜陋者,陰藏隱密何容醜陋?又諸根生非由有用,若有因力無用亦生。男根於彼雖為醜陋,設許有因於彼應起,男根非有,鼻舌應無。若爾,便違契經所說:彼無支缺,不減諸根。隨彼諸根應可有者,說為不減。何所相違?若不許然男根應有。如是說者,鼻舌二根於彼非無,但無香味,以六根愛依內身生,非依境界而得現起。其男根愛依婬觸生,婬觸彼無,男根非有,故於色界十八界中,唯十四種理得成立。無色界繫唯有後三,所謂意、法及意識界,要離色慾於彼得生,故無色中無十色界。依緣無故五識亦無,故唯後三無色界繫。已說界繫,十八界中幾有漏、幾無漏?頌曰:
論に曰く:繋とはいわゆる繋属、すなわち縛せらるる義である。欲界の所繋は具足して十八、色界の所繋はただ十四種、香・味の境および鼻・舌の識を除く。香・味を除くは、段食の性なるゆえ、段食の欲を離れて彼に生を得る。鼻・舌の識を除くは、縁ずる所なきゆえ。もしそうなら、触界は彼において無かるべし、香・味境が段食性なるが如く、彼の所有の触は段食の性に非ざるゆえ、と。もしそうなら、香・味の類もまたしかるべし。香・味は食を離れて別の受用なく、触には別の用ありて根・衣等を持す。彼は食欲を離れて香・味に用なく、根・衣等あるゆえに触は無に非ず。ある師の説に:此に住して彼の静慮等至に依って色を見声を聞く時、軽安と俱に起こる殊勝の触ありて身を摂益す。ゆえにこの三は彼に生ずるも静慮がなお相随逐す。香・味はそうに非ざるゆえに彼において無し、と。もしそうなら、鼻・舌は彼において有に非ざるべし、香・味境が彼に用なきが如く。そうではない。二根は彼において用あり、いわゆる言説を起しおよび身を荘厳す。もし身を厳し説を起す用ならば、ただ依処を須うのみ、何ぞ二根を用いん。男根なきも依処なきが無きが如く、二根なければその依処もなし。彼において男根の依処は無くて可なり、彼に用なきゆえ。鼻・舌の依処は彼に用あるゆえに、根を離れて有るべし。あるは用なくして根の生ある、胞胎の処にて定めて当に死すべき者の如し。あるは用なくして無因に非ず、彼は何の因よりか根の起を得たるか。根に愛ありて殊勝の業を発す。もし境の愛を離れて、根においては定然として、彼は境の貪を離れたれば鼻・舌なきべし。あるいは彼に男根もまた生ずと許すべし。もし生ぜざるは醜陋によると説かば、陰藏は隠密にしていかに醜陋を容れん。また諸根の生は有用によるに非ず、もし因力あれば用なくも生ず。男根は彼において醜陋と為すと雖も、設ひ因有りと許さば彼において起るべし。男根有に非ずんば鼻・舌も無かるべし。もしそうなら便ち契経の説に違す:「彼は支缺なく、諸根を減ぜず」と。彼の諸根に随い有るべきを、減ぜずと説く。何の相違かあらん。もしこの如く許さざれば男根は有るべし。このように説くは、鼻・舌の二根は彼において無きに非ず、ただ香・味のみ無し。六根の愛は内身に依りて生じ、境界に依りて現起せざるをもってなり。その男根の愛は淫触に依りて生ず、淫触は彼に無し、男根有に非ず。ゆえに色界の十八界中、ただ十四種のみ理得て成立す。無色界繫はただ後の三のみ、いわゆる意・法および意識界。色欲を離れて彼に生を得るゆえ、無色中に十色界なし。依・縁無きゆえに五識もまたなし。ゆえにただ後の三のみ無色界繫なり。界繫を説いた。十八界中、いくつが有漏、いくつが無漏か。頌に曰く:
意法意識通,所餘唯有漏。
意・法・意識は通ず、其余はただ有漏。
論曰:意及意識道諦攝者,名為無漏,餘名有漏。法界若是道諦無為,名為無漏,餘名有漏。餘十五界唯名有漏。如是已說有漏無漏。十八界中幾有尋有伺、幾無尋唯伺、幾無尋無伺?頌曰:
論に曰く:意および意識は道諦の所摂なるを無漏と名づけ、其余を有漏と名づく。法界はもし道諦・無為ならば無漏と名づけ、其余を有漏と名づく。其余の十五界はただ有漏と名づく。このように有漏・無漏を説いた。十八界中、いくつが有尋有伺、いくつが無尋唯伺、いくつが無尋無伺か。頌に曰く:
五識唯尋伺,後三三餘無。
五識はただ尋伺、後の三は三、其余は無し。
論曰:眼等五識有尋有伺,由與尋伺恆共相應,以行相麁外門轉故、顯義決定,故說唯言。後三謂是意、法、意識,根、境、識中各居後故。此後三界皆通三品,意界、意識界及相應法界,除尋與伺。若在欲界初靜慮中有尋有伺,靜慮中間無尋唯伺,第二靜慮以上諸地乃至有頂無尋無伺。法界所攝非相應法,靜慮中間伺亦如是。尋一切時無尋唯伺,無第二尋故、但伺相應故。伺在欲界初靜慮中三品不收,應名何等?此應名曰無伺唯尋,無第二伺故、但尋相應故。由此故言有尋伺地有四品法:一有尋有伺,謂除尋伺餘相應法。二無尋唯伺,謂即是尋。三無尋無伺,謂即一切非相應法。四無伺唯尋,謂即是伺。餘十色界尋伺俱無,常與尋伺不相應故。若五識身有尋有伺,如何得說無分別耶?頌曰:
論に曰く:眼等の五識は有尋有伺なり、尋伺と恒に共に相応するによる。行相の粗にして外門に転ずるゆえ、顕義を決定するゆえに「唯」の字を説く。後の三とはいわゆる意・法・意識、根・境・識中に各々後に居るゆえ。この後の三界は皆三品に通ず、意界・意識界および相応の法界、尋と伺を除きて。もし欲界・初静慮中にあれば有尋有伺、静慮中間には無尋唯伺、第二静慮以の諸地乃至有頂には無尋無伺。法界の所摂の非相応法は、静慮中間には伺もまたしかり。尋は一切時に無尋唯伺、第二の尋なきゆえ、ただ伺と相応するゆえ。伺は欲界・初静慮中において三品の収むる所に非ず、何と名づくべきか。これを無伺唯尋と名づくべし、第二の伺なきゆえ、ただ尋と相応するゆえ。これによって尋伺の地に四品の法あると説く。一有尋有伺、いわゆる尋・伺を除く其余の相応法。二無尋唯伺、いわゆるすなわち尋。三無尋無伺、いわゆるすなわち一切の非相応法。四無伺唯尋、いわゆるすなわち伺。其余の十色界は尋伺ともに無し、常に尋伺と相応せざるゆえ。もし五識身が有尋有伺なら、どうして無分別と説き得るか。頌に曰く:
說五無分別,由計度隨念,
五を無分別と説くは、計度・随念により、
以意地散慧,意諸念為體。
意地の散慧・意の諸念を体とするによる。
論曰:傳說,分別略有三種:一自性分別、二計度分別、三隨念分別。由五識身雖有自性而無餘二,說無分別,如一足馬名為無足。自性分別體唯是尋,後心所中自當辯釋。餘二分別如其次第。意地散慧諸念為體,散謂非定。意識相應散慧,名為計度分別。若定若散意識相應諸念,名為隨念分別。如是已說有尋伺等。十八界中幾有所緣、幾無所緣?幾有執受、幾無執受?頌曰:
論に曰く:伝説に、分別は略して三種あり。一自性分別、二計度分別、三随念分別。五識身は自性分別あるも其余の二無きがゆえに無分別と説く、一足の馬を無足と名づくるが如し。自性分別の体はただ尋のみ、後の心所中に自ずから弁釈すべし。其余の二分別はこの次第による。意地の散慧・諸念を体とす。散とはいわゆる定に非ず。意識に相応する散慧を計度分別と名づく。もし定もしくは散の意識に相応する諸念を随念分別と名づく。このように有尋伺等を説いた。十八界中、いくつが有所縁、いくつが無所縁か。いくつが有執受、いくつが無執受か。頌に曰く:
七心法界半,有所緣餘無,
七心・法界の半は有所縁、其余は無し、
前八界及聲,無執受餘二。
前の八界および声は無執受、其余は二。
論曰:六識意界及法界攝諸心所法,名有所緣,能取境故。餘十色界及法界攝不相應法,名無所緣,義準成故。如是已說有所緣等。十八界中九無執受,前七心界及法界全,此八及聲皆無執受。所餘九界各通二門,謂有執受、無執受故。眼等五根住現在世名有執受,過去未來名無執受。色香味觸住現在世不離五根名有執受,若住現在非不離根過去未來名無執受。如在身內除與根合,髮毛爪齒大小便利洟唾血等,及在身外地水等中色香味觸,雖在現世而無執受。有執受者,此言何義?心心所法共所執持攝為依處名有執受,損益展轉更相隨故。即諸世間說有覺觸,眾緣所觸覺樂等故。與此相違名無執受。如是已說有執受等。十八界中幾大種性、幾所造性?幾可積集、幾非積集?頌曰:
論に曰く:六識・意界および法界の所摂の諸心所法を有所縁と名づく、能く境を取るゆえ。其余の十色界および法界の所摂の不相応法を無所縁と名づく、義に準じて成るゆえ。このように有所縁等を説いた。十八界中、九は無執受、前の七心界および法界の全、この八および声はともに無執受。其余の九界は各々二門に通ず、いわゆる有執受・無執受あるゆえ。眼等の五根は現在世に住するを有執受と名づけ、過去・未来を無執受と名づく。色・香・味・触は現在世に住して五根を離れざるを有執受と名づけ、もし現在に住すれども根を離れざるに非ざる、および過去・未来を無執受と名づく。身内において根と合するを除く、髪・毛・爪・歯・大小便利・洟・唾・血等の如く、および身外の地水等中の色・香・味・触は、現世に在ると雖も無執受なり。有執受とはこの言いかなる義か。心・心所法が共に執持して依処と摂するを有執受と名づく、損益展転に更互に相随うゆえ。すなわち諸の世間の説く有覚触、衆縁の触るる所に覚の楽等あるゆえ。これに相違するを無執受と名づく。このように有執受等を説いた。十八界中、いくつが大種性、いくつが所造性か。いくつが可積集、いくつが非積集か。頌に曰く:
