Libo

説一切有部倶舎論 巻第七

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第9巻 / 38

アビダルマ倶舎論 巻第八

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別世品第三之一

分別世品 第三之一。

已依三界分別心等。今次應說,三界是何?各於其中處別有幾?頌曰:

已に三界に依りて心等を分別し竟えた。今次にまさに説くべし、三界とは何ぞ。各々その中において処別は几つあるか。頌に曰く:

地獄傍生鬼,人及六慾天,

地獄・傍生・鬼、人および六欲天、

名欲界二十,由地獄洲異。

名づけて欲界の二十、地獄・洲の異なるに由る。

此上十七處,名色界於中,

この上に十七処、名づけて色界、その中に、

三靜慮各三,第四靜慮八。

三静慮は各々三、第四静慮は八。

無色界無處,由生有四種,

無色界に処無し、生に由りて四種有り、

依同分及命,令心等相續。

同分および命に依りて、心等をして相续せしむ。

論曰:地獄等四及六慾天並器世間,是名欲界。六慾天者,一、四大王眾天;二、三十三天;三、夜摩天;四、覩史多天;五、樂變化天;六、他化自在天。如是欲界處別有幾?地獄洲異,故成二十。八大地獄,名地獄異。一等活地獄、二黑繩地獄、三眾合地獄、四號叫地獄、五大叫地獄、六炎熱地獄、七大熱地獄、八無間地獄。言洲異者,謂四大洲:一南贍部洲、二東勝身洲、三西牛貨洲、四北俱盧洲。如是十二並六慾天、傍生、餓鬼處成二十。若有情界從自在天至無間獄,若器世界乃至風輪,皆欲界攝。此欲界上處有十七,謂三靜慮處各有三,第四靜慮處獨有八,器及有情總名色界。第一靜慮處有三者,一梵眾天、二梵輔天、三大梵天。第二靜慮處有三者,一少光天、二無量光天、三極光淨天。第三靜慮處有三者,一少淨天、二無量淨天、三遍淨天。第四靜慮處有八者,一無雲天、二福生天、三廣果天、四無煩天、五無熱天、六善現天、七善見天、八色究竟天。迦濕彌羅國諸大論師皆言:色界處但有十六。彼謂:即於梵輔天處有高臺閣,名大梵天,一主所居非有別地,如尊處座四眾圍繞。無色界中都無有處,以無色法無有方所,過去未來無表無色不住方所,理決然故。但異熟生,差別有四:一空無邊處、二識無邊處、三無所有處、四非想非非想處,如是四種名無色界。此四非由處有上下,但由生故勝劣有殊。復如何知彼無方處?謂於是處得彼定者,命終即於是處生故。復從彼沒生欲色時,即於是處中有起故。如有色界一切有情,要依色身心等相續。於無色界受生有情,以何為依心等相續?對法諸師說彼心等依眾同分及與命根而得相續。若爾,有色有情心等,何不但依此二相續?有色界生此二劣故。無色此二因何故強?彼界二從勝定生故,由彼等至能伏色想。若爾,於彼心等相續,但依勝定,何用別依?

論に曰く:地獄等の四および六欲天ならびに器世間、是れを欲界と名づく。六欲天とは:一に四大王衆天、二に三十三天、三に夜摩天(ヤーマ)、四に覩史多天(トゥシタ)、五に楽変化天、六に他化自在天。かくのごとき欲界の処別は几つかある。地獄・洲の異なるによりて二十を成す。八大地獄は地獄の異と名づく。一に等活地獄、二に黒縄地獄、三に衆合地獄、四に号叫地獄、五に大叫地獄、六に炎熱地獄、七に大熱地獄、八に無間地獄。洲の異を説くは、いわゆる四大洲:一に南贍部洲(ジャンブドヴィーパ)、二に東勝身洲、三に西牛貨洲、四に北倶盧洲。かくのごとき十二ならびに六欲天・傍生・餓鬼の処は二十を成す。もし有情界は自在天より無間獄に至り、もし器世界は乃至風輪に至るまで、皆欲界の摂。この欲界の上の処に十七有り、いわゆる三の静慮処は各々三有り、第四の静慮処は独り八有り、器および有情を総じて色界と名づく。第一の静慮処に三有り:一に梵衆天、二に梵輔天、三に大梵天。第二の静慮処に三有り:一に少光天、二に無量光天、三に極光浄天。第三の静慮処に三有り:一に少浄天、二に無量浄天、三に遍浄天。第四の静慮処に八有り:一に無雲天、二に福生天、三に広果天、四に無煩天、五に無熱天、六に善現天、七に善見天、八に色究竟天。迦湿弥羅国の諸の大論師は皆説く:色界の処は但だ十六有りのみ。彼の謂うに:即ち梵輔天の処において高台閣有りて大梵天と名づき、一の主の居する所にして別の地有るに非ず、尊の座に処し四衆の囲遶するが如し。無色界中には都て処有ること無し、無色の法は方所無きを以て、過去・未来・無表・無色は方所に住せず、理の決然たるゆえ。但だ異熟生に差別の四有り:一に空無辺処、二に識無辺処、三に無所有処、四に非想非非想処、かくのごとき四種を無色界と名づく。この四は処によりて上下有るに由らず、但だ生に由りて勝劣の殊有り。復た如何にして彼に方処なきを知るか。いわゆるこの処において彼の定を得れば、命終じて即ちこの処において生ずるゆえ。復た彼より没して欲・色に生ずる時、即ちこの処において中有が起るゆえ。有色界の一切の有情の如く、要して色身に依りて心等は相续す。無色界において受生する有情は、何を以て依と為して心等相续せん。対法の諸師は彼の心等は衆同分および命根に依りて相续を得と説く。もし爾ならば、有色の有情の心等は、何ぞ但だこの二に依りて相续せざる。有色界の生はこの二が劣なるゆえ。無色にこの二は何の因の故に強きか。彼界の二は勝定より生ずるゆえ、彼の等至は能く色想を伏するに由る。もし爾ならば、彼において心等の相续は、但だ勝定に依れ、何ぞ別の依を用いんや。

又今應說,如有色界受生有情同分命根依色而轉,無色此二以何為依?此二更互相依而轉。有色此二何不相依?有色界生此二劣故。無色此二因何故強?彼界此二種,從勝定生故。前說彼定能伏色想,是則還同心相續難。或心心所唯互相依,故經部師說無色界心等相續無別有依。謂若有因未離色愛引起心等,所引心等與色俱生依色而轉。若因於色已得離愛,厭背色故,所引心等非色俱生不依色轉。何故名為欲等三界?能持自相故名為界。或種族義,如前已釋。欲所屬界說名欲界,色所屬界說名色界,略去中言故作是說,如胡椒飲如金剛環。於彼界中色非有故名為無色。所言色者,是變礙義,或示現義。彼體非色立無色名,非彼但用色無為體。無色所屬界,說名無色界,略去中言,喻如前說。又欲之界名為欲界,此界力能任持欲故。色無色界應知亦然。此中欲言為說何法?略說段食婬所引貪。如經頌言:

(論に続けて曰く:)また今まさに説くべし、有色界の受生する有情の同分・命根は色に依りて転ずるが如く、無色においてこの二は何を以て依と為すか。この二は更に互いに相依りて転ず。有色においてこの二は何ぞ相依らざる。有色界の生はこの二が劣なるゆえ。無色にこの二は何の因の故に強きか。彼界のこの二種は勝定より生ずるゆえ。前に彼の定は能く色想を伏すと説く、是則ち還りて心の相续の難と同じ。あるいは心・心所はただ互いに相依る、ゆえに経部師は無色界の心等の相续に別の依無しと説く。いわゆるもし因ありて未だ色愛を離れずして心等を引起せば、引く所の心等は色と俱に生じ色に依りて転ず。もし因は色において已に離愛を得て色を厭背するゆえに、引く所の心等は色と俱に生ぜず色に依らず転ず。何の故に欲等の三界と名づくるか。能く自相を持するゆえに界と名づく。あるいは種族の義、前に已に釋せしが如し。欲の属する所の界を欲界と説き名づき、色の属する所の界を色界と説き名づく、中の言を略し去るゆえに是の説を作す、胡椒の飲の如く金剛の環の如し。彼の界中に於て色は有るに非ざるゆえに無色と名づく。言う所の色とは、是れ変碍の義、あるいは示現の義。彼の体は色に非ざれば無色の名を立つ、彼は但だ色を以て無為の体と為すに非ず。無色の属する所の界を無色界と説き名づく、中の言を略し去る、喩は前の説くが如し。また欲の界を欲界と名づく、この界の力は能く欲を任持するゆえ。色・無色界もまさにこの如く知るべし。此中の欲の言は何の法を説くを為すか。略して説けば段食・淫の引く所の貪。経の頌の説くが如く:

世諸妙境非真欲,真欲謂人分別貪,

世の諸の妙境は真の欲に非ず、真の欲とは人の分別の貪を謂う、

妙境如本住世間,智者於中已除欲。

妙境は本の如く世間に住し、智者はその中に於て已に欲を除く。

邪命外道便詰尊者舍利子言:

邪命の外道は便ち尊者舍利子(シャーリプトラ)に詰して曰く:

若世妙境非真欲,說欲是人分別貪,

もし世の妙境は真の欲に非ず、欲は人の分別の貪と説くならば、

比丘應名受欲人,起惡分別尋思故。

比丘はまさに欲を受くる人と名づくべし、悪しき分別・尋思を起すゆえ。

時舍利子反質彼言:

時に舍利子は反りて彼に質して曰く:

若世妙境是真欲,說欲非人分別貪,

もし世の妙境は是れ真の欲にして、欲は人の分別の貪に非ずと説くならば、

汝師應名受欲人,恆觀可意妙色故。

汝の師はまさに欲を受くる人と名づくべし、恒に可意の妙色を観ずるゆえ。

若法於彼三界現行,此法即說三界繫不?不爾。云何於中隨增三界貪者是三界繫?此中何法名三界貪?謂三界中各隨增者,今此所言同縛馬答。猶如有問縛馬者誰?答言馬主。即彼復問馬主是誰?答言縛者。如是二答皆不令解。今此所言不同彼答,謂於前說欲界諸處未離貪者,貪名欲貪,此所隨增名欲界繫。於前所說色無色中,隨其所應當知亦爾。或不定地貪名欲貪,此所隨增名欲界繫。諸靜慮地貪名色貪,此所隨增名色界繫。諸無色地貪名無色貪,此所隨增名為無色界繫。於欲化心上如何起欲貪?從他所聞,或自退失生愛味故。或觀化者自在勢力,於彼化心生貪愛故。若心能化香味二法,此能化心是欲界繫,色界心不能化作香味故。如是三界唯有一耶?三界無邊如虛空量,故雖無有始起有情,無量無邊佛出於世,一一化度無數有情令證無餘般涅槃界而不窮盡猶若虛空。世界當言云何安住?當言傍住,故契經言:譬如天雨滴如車軸,無間無斷從空下澍。如是東方無間無斷無量世界或壞或成,如於東方,南西北方亦復如是,不說上下。有說亦有上下二方,餘部經中說十方故。色究竟上復有欲界,於欲界下有色究竟。若有離一欲界貪時,諸欲界貪皆得滅離。離色無色應知亦爾。依初靜慮起通慧時,所發神通但能往至自所生界梵世非餘,所餘通慧應知亦爾。已說三界。五趣云何?頌曰:

(論に続けて曰く:)もし法は彼の三界において現行すれば、この法は即ち三界の繫と説かんや否や。然らず。如何にしてその中において随増する三界の貪は是れ三界の繫か。此中の何の法を三界の貪と名づくるか。いわゆる三界中の各々随増する所。今この言う所は縛馬の答に同じ。猶お問有るが如く、馬を縛るは是れ誰ぞ。答えて馬主と曰う。即ち彼は復た問う、馬主は是れ誰ぞ。答えて縛る所と曰う。かくのごとき二答は皆解せしめず。今この言う所は彼の答と同じからず、いわゆる前に説く欲界の諸処に於て未だ貪を離れざるは、貪を欲貪と名づき、これの随増する所を欲界繫と名づく。前の説く所の色・無色中において、その応ずる所に随いてまさにこの如く知るべし。あるいは不定の地の貪を欲貪と名づき、これの随増する所を欲界繫と名づく。諸の静慮地の貪を色貪と名づき、これの随増する所を色界繫と名づく。諸の無色地の貪を無色貪と名づき、これの随増する所を無色界繫と名づく。欲の化心において如何にして欲貪を起さんか。他より聞く所に由り、あるいは自ら退失して愛味を生ずるゆえ。あるいは化するの自在の勢力を観じて、彼の化心において貪愛を生ずるゆえ。もし心は能く香・味の二法を化すれば、この能化の心は欲界の繫、色界の心は能く香・味を化作する能わざるゆえ。このように三界はただ一つのみか。三界は無辺にして虚空の量の如し、ゆえに始めて起こる有情無しと雖も、無量無辺の仏は世に出で、一一に無数の有情を化度して无余の般涅槃界を証せしむるも而も窮尽せず猶お虚空の若し。世界はまさに如何に安住すると説くべきか。まさに傍に住すと説くべし、ゆえに契経に説く:譬えば天の雨の滴は車軸の如く、無間にして断えず空より下りて澍ぐが如し。かくのごとき東方は無間にして断えず無量の世界あるいは壊れあるいは成る、東方におけるが如く、南・西・北方も亦復たこの如し、上下を説かず。ある説にもまた上下の二方有り、余部の経中に十方を説くゆえ。色究竟の上に復た欲界有り、欲界の下に色究竟有り。もし一の欲界の貪を離るる有る時、諸の欲界の貪は皆滅離を得。色・無色を離るるもまさにこの如く知るべし。初静慮に依りて通慧を起す時、発する所の神通は但だ能く自ら生ずる所の界の梵世に往き至りて余に非ず、余の通慧もまさにこの如く知るべし。已に三界を説き竟えた。五趣は如何。頌に曰く:

於中地獄等,自名說五趣,

その中に地獄等、自名に説く五趣、

唯無覆無記,有情非中有。

ただ無覆無記、有情にして中有に非ず。

論曰:於三界中說有五趣,即地獄等如自名說,謂前所說地獄、傍生、鬼及人、天是名五趣。唯於欲界有四趣全,三界各有天趣一分。為有三界非趣所攝,而於界中說有五趣?有,謂善染外器中有,雖是界性而非趣攝。五趣體唯無覆無記,若異此者趣應相雜,於一趣中具有五趣業煩惱故。五趣唯是有情數攝,體非中有。《施設足論》作如是說:四生攝五趣,非五攝四生。不攝者何?所謂中有。《法蘊足論》亦作是言:眼界云何?謂四大種所造淨色是眼,眼根、眼處、眼界。地獄、傍生、鬼、人、天趣,修成中有。契經亦簡中有異趣。是何契經?謂《七有經》。彼說七有,謂地獄有、傍生有、餓鬼有、天有、人有、業有、中有。彼經中說五趣及因並趣方便,故趣唯是無覆無記,其理極成。簡業有因,異諸趣故。迦濕彌羅國誦如是契經:尊者舍利子作是言:具壽!若有地獄諸漏現前故,造作增長順地獄受業,彼身語意曲穢濁故,於㮏落迦中受五蘊異熟,異熟起已名那落迦,除五蘊法,彼那落迦都不可得。故趣唯是無覆無記。若如是者,《品類足論》當云何通?彼說五趣一切隨眠所隨增故。彼說五趣續生心中容有五部一切煩惱趣及入心。總說為趣,無相違失。譬如村落及村落邊總名村落。有說:趣體亦通善染。然《七有經》簡業有者,非別說故,定非彼攝。如五濁中煩惱與見別說為濁,非別說故,彼見定非煩惱所攝。如是業有雖亦是趣,為顯趣因,是故別說。若爾,中有亦應是趣。不爾,趣義不相應故。趣謂所往,不可說言中有是所往,即死處生故。若爾,無色亦應非趣,即於死處而受生故。既爾,中有名中有,故不應名趣。二趣中故名為中有,此若趣攝非中間故,是則不應說名中有。然彼尊者舍利子言異熟起已名地獄者,說異熟起方名地獄,非說地獄唯是異熟。

論に曰く:三界中において五趣有りと説く、即ち地獄等は自名の説くが如く、いわゆる前に説く所の地獄・傍生・鬼および人・天、是れを五趣と名づく。ただ欲界において四趣全く、三界は各々天趣の一分有り。三界有りて趣の摂する所に非ざるか、而も界中において五趣有りと説く。有り、いわゆる善・染・外器・中有は、界性なりと雖も而も趣の摂に非ず。五趣の体はただ無覆無記、もしこれに異ならば趣はまさに相雑すべし、一趣中において具に五趣の業・煩悩有るゆえ。五趣はただ是れ有情数の摂、体は中有に非ず。『施設足論』は是の説を作す:四生は五趣を摂す、五は四生を摂せず、と。摂せざるは是れ何ぞ。いわゆる中有。『法蘊足論』もまた是の説を作す:眼界は如何。いわゆる四大種の造る所の浄色是れ眼・眼根・眼処・眼界。地獄・傍生・鬼・人・天の趣は修成の中有。契経もまた中有と異なる趣を簡ぶ。是れ何の契経ぞ。いわゆる『七有経』。彼は七有を説く、いわゆる地獄有・傍生有・餓鬼有・天有・人有・業有・中有。彼の経中に五趣および因ならびに趣の方便を説く、ゆえに趣はただ是れ無覆無記、その理極めて成れり。業有の因を簡び、諸の趣に異なるゆえ。迦湿弥羅国にかくのごとき契経を誦す:尊者舍利子は是の説を作す:具寿よ!もし地獄の諸漏の現前するゆえに、順地獄受の業を造作し増長し、彼の身・語・意は曲にして穢濁なるゆえに、捺落迦(地獄)中において五蘊の異熟を受く、異熟起り已りて那落迦と名づく、五蘊の法を除きて彼の那落迦は都て得べからず、と。ゆえに趣はただ是れ無覆無記。もしかくのごとくならば、『品類足論』はまさに如何に通ぜん。彼は五趣は一切の随眠の随増する所と説くゆえ。彼は五趣の続生の心中に五部一切の煩悩の趣および入る心有るを容れと説く。総じて趣と説き為す、相違の失なし。譬えば村落および村落の辺を総じて村落と名づくるが如し。ある説に:趣の体はもまた善・染に通ず、と。しかるに『七有経』は業有を簡ぶは、別に説くゆえに、定めて彼の摂に非ず。五濁中において煩悩と見とは別に濁と説くが如く、別に説くゆえに、彼の見は定めて煩悩の摂する所に非ず。かく業有は趣なりと雖も、趣因を顕さんが為、是れを以て別に説く。もし爾ならば、中有もまたまさに是れ趣なるべし。然らず、趣の義に相応せざるゆえ。趣とは往く所を謂う、中有を所往と説くべからず、即ち死の処に生ずるゆえ。もし爾ならば、無色もまたまさに趣に非ざるべし、即ち死の処において受生するゆえ。既に爾れば、中有は中有と名づく、ゆえに趣と名づくべからず。二趣の中なるゆえに中有と名づく、これもし趣の摂ならば中間に非ざるゆえに、是則ちまさに中有と説き名づくべからず。しかるに彼の尊者舍利子の説く異熟起り已りて地獄と名づくるは、異熟の起るを方に地獄と名づくるを説く、地獄はただ是れ異熟と説くに非ず。

然復說言,除五蘊法彼那落迦不可得者,為遮實有能往諸趣補特伽羅故作是說,非遮餘蘊故作是言。毘婆沙師說:趣唯是無覆無記。有說:一向是異熟生。有餘師言:亦通長養。即於三界及五趣中,如其次第識住有七。其七者何?頌曰:

(論に続けて曰く:)しかるに復た説く、五蘊の法を除きて彼の那落迦は得べからずとは、実有の能く諸趣に往く補特伽羅(有情)有るを遮らんが為に是の説を作す、余の蘊を遮るに非ざるゆえに是の説を作す。毘婆沙師説く:趣はただ是れ無覆無記。ある説に:一向是れ異熟生。ある余師の説に:もまた長養に通ず、と。即ち三界および五趣中において、その次第の如く識住に七有り。その七とは是れ何ぞ。頌に曰く:

身異及想異,身異同一想,

身異および想異、身異にして同一の想、

翻此身想一,並無色下三,

これを翻して身・想一、ならびに無色の下三、

故識住有七,餘非有損壞。

ゆえに識住は七有り、余は損壊有るに非ず。

論曰:契經中說,有色有情身異想異,如人一分天,是第一識住。一分天者,謂欲界天及初靜慮,除劫初起。言身異者,謂彼色身種種顯形,狀貌異故。彼由身異,或有異身,故彼有情說名身異。言想異者,謂彼苦樂不苦不樂想差別故。彼由想異,或有異想,故彼有情說名想異。有色有情身異想一,如梵眾天謂劫初起,是第二識住。所以者何?以劫初起,彼諸梵眾起如是想:我等皆是大梵所生。大梵爾時亦起此想:是諸梵眾皆我所生。同想一因故名想一。大梵王身其量高廣,容貌威德言語光明衣冠等事,一一皆與梵眾不同,故名身異。經說:梵眾作是念言:我等曾見如是有情長壽久住,乃至起願:云何當令諸餘有情生我同分?於彼正起此心願時,我等便生彼同分內。梵眾何處曾見梵王?有餘師言:住極光淨,從彼天沒來生此故。云何今時不得第二靜慮,而能憶念彼地宿住事耶?若彼已得第二靜慮,云何緣大梵猶起戒禁取?有餘師說:住中有中,彼住中有中,無長時住義,以於受生無障礙故。如何梵眾可作念言:我等曾見如是有情長壽久住。是故梵眾即住自天,憶念此生前所更事,謂先見彼長壽久住,後重見時起如是念。有色有情身一想異,如極光淨天,是第三識住。此中舉後兼以攝初,應知具攝第二靜慮。若不爾者,彼少光天、無量光天何識住攝?彼天顯形狀貌不異,故名身一。樂非苦樂二想交參,故名想異。傳說彼天厭根本地喜根,已起近分地捨根現前;厭近分地捨根,已起根本地喜根現前。如富貴人厭欲樂已便受法樂,厭法樂已復受欲樂。豈不遍淨想亦應然?非遍淨天曾有厭樂,以樂寂靜曾無厭時;喜則不然,擾動心故。經部師說:有餘契經釋彼天中有想異義,謂極光淨有天新生,未善了知世間成壞。彼見下地火焰洞然,見已便生驚怖厭離:勿彼火焰燒盡梵宮令彼皆空上侵我處。

論に曰く:契経中に説く、色ある有情は身異なり想異なり、人・一分の天の如く、是れ第一の識住。一分の天とは、いわゆる欲界の天および初静慮、劫初の起るを除く。身異を説くは、いわゆる彼の色身の種種の顕形、状貌の異なるゆえ。彼は身異に由り、あるいは異身有るに由りて、ゆえに彼の有情を身異と説き名づく。想異を説くは、いわゆる彼の苦・楽・不苦不楽の想の差別あるゆえ。彼は想異に由り、あるいは異想有るに由りて、ゆえに彼の有情を想異と説き名づく。色ある有情は身異なり想一なり、梵衆天の如くは劫初の起るを謂い、是れ第二の識住。所以者何。劫初の起るを以て、彼の諸の梵衆はかかる想を起す:我等は皆大梵の生ずる所なり、と。大梵も爾の時にこの想を起す:是の諸の梵衆は皆我が生ずる所なり、と。同じく一因を想うゆえに想一と名づく。大梵王の身はその量高広にして、容貌・威徳・言語・光明・衣冠等の事は一一皆梵衆と同じからず、ゆえに身異と名づく。経に説く:梵衆は是の念を作して曰く:我等は曾てかくのごとき有情の長寿にして久しく住するを見たり、乃至願を起す:如何にしてまさに諸の余の有情をして我が同分に生ぜしめん、と。彼において正しくこの心願を起す時に、我等は便ち彼の同分の内に生じたり、と。梵衆は何の処に曾て梵王を見しや。ある余師の説に:極光浄に住せり、彼の天より没して此に生ずるを来たるゆえ、と。如何にして今の時に第二静慮を得ざるに、能く彼の地の宿住の事を憶念するや。もし彼は已に第二静慮を得なば、如何にして大梵に縁りて猶お戒禁取を起さんや。ある余師の説に:中有中に住す、彼は中有中に住して長時住の義無し、受生において障碍なきを以てなり。如何にして梵衆は念を作して可ならん、曰く:我等は曾てかくのごとき有情の長寿にして久しく住するを見たり、と。是れを以て梵衆は即ち自天に住して、此生の前に更えたる事を憶念す、いわゆる先に彼の長寿久住を見、後に重ねて見る時にかくのごとき念を起す。色ある有情は身一なり想異なり、極光浄天の如し、是れ第三の識住。此中に後を挙げて兼ねて以て初を摂す、まさに具に第二静慮を摂すと知るべし。もしこの如くならざれば、彼の少光天・無量光天は何の識住の摂か。彼の天は顕形・状貌は異ならず、ゆえに身一と名づく。楽と非苦楽の二想は交参す、ゆえに想異と名づく。伝説に彼の天は根本地の喜根を厭い、已に近分地の捨根を起して現前し、近分地の捨根を厭い、已に根本地の喜根を起して現前す。富貴の人が欲楽を厭い已って便ち法楽を受け、法楽を厭い已って復た欲楽を受くるが如し。豈に遍浄の想もまたまさにこの如くならんや。遍浄天は曾て楽を厭うこと有らず、楽は寂静にして曾て厭う時なきを以て、喜は則ち然らず、心を扰動するゆえ。経部師説く:余の契経有りて彼の天中の想異の義を釋す、いわゆる極光浄に新生の天有りて、未だ善く世間の成壊を了知せず。彼は下地の火焰の洞然たるを見、見已って便ち驚怖厭離を生ず:彼の火焰が梵宮を焼き盡して彼を皆空しくし上りて我が処を侵さんこと勿れ、と。

彼極光淨有舊生天,已善了知世間成壞,便慰喻彼驚怖天言:淨仙淨仙。勿怖勿怖。昔彼火焰燒盡梵宮,令其皆空即於彼滅。彼於火焰有來不來想及怖不怖想故名想異,非由有樂非苦樂想有交參故得想異名。有色有情身一想一,如遍淨天,是第四識住。唯有樂想故名想一。初靜慮中由染汙想故言想一,第二靜慮由二善想故言想異,第三靜慮由異熟想故言想一,下三無色名別,如經即三識住是名為七。此中何法名為識住?謂彼所繫五蘊四蘊,如其所應是名識住。所餘何故非識住耶?於餘處皆有損壞識法故。餘處者何?謂諸惡處第四靜慮及與有頂。所以者何?由彼處有損壞識法,故非識住。何等名為損壞識法?謂諸惡處有重苦受能損於識,第四靜慮有無想定及無想事,有頂天中有滅盡定能壞於識,令相續斷故非識住。復說:若處餘處有情心樂來止,若至於此不更求出,說名識住。於諸惡處,二義俱無。第四靜慮心恆求出,謂諸異生求入無想,若諸聖者樂入淨居或無色處,若淨居天樂證寂滅,有頂昧劣故非識住。如是分別七識住已。因茲復說九有情居。其九者何?頌曰:

(論に続けて曰く:)彼の極光浄に旧生の天有りて、已に善く世間の成壊を了知し、便ち彼の驚怖する天を慰喩して曰く:浄仙よ浄仙よ。怖るる勿れ怖るる勿れ。昔彼の火焰は梵宮を焼き盡して皆空しからしめて即ち彼において滅せり、と。彼は火焰において来・不来の想および怖・不怖の想有るゆえに想異と名づく、楽・非苦楽の想の交参有るに由りて想異の名を得るに非ず。色ある有情は身一なり想一なり、遍浄天の如し、是れ第四の識住。ただ楽想有るゆえに想一と名づく。初静慮中は染污の想に由りてゆえに想一と説き、第二静慮は二の善想に由りてゆえに想異と説き、第三静慮は異熟の想に由りてゆえに想一と説き、下の三の無色は名の別れ、経の如く即ち三の識住是れを名づけて七と為す。此中の何の法を識住と名づくるか。いわゆる彼の繫する所の五蘊・四蘊、その応ずる所の如く是れを識住と名づく。余は何の故に識住に非ざるか。余の処において皆識を損壊する法有るゆえ。余の処とは是れ何ぞ。いわゆる諸の悪処・第四静慮および有頂。所以者何。彼の処に識を損壊する法有るに由りて、ゆえに識住に非ず。何等を識を損壊する法と名づくるか。いわゆる諸の悪処に重き苦受有りて能く識を損し、第四静慮に無想定および無想事有り、有頂天中に滅尽定有りて能く識を壊して相续を断ぜしむるゆえに識住に非ず。復た説く:もし処に余の処の有情の心が来たり止まるを楽い、もし此に至りて更に出づるを求めざれば、識住と説き名づく。諸の悪処においては二義俱に無し。第四静慮は心は恒に出づるを求む、いわゆる諸の異生は無想に入らんを求め、もし諸の聖者は浄居あるいは無色処に入るを楽い、もし浄居天は寂滅を証するを楽う、有頂は昧劣なるゆえに識住に非ず。このように七識住を分別し已り。これに因りて復た九有情居を説く。その九とは是れ何ぞ。頌に曰く:

應知兼有頂,及無想有情,

まさに有頂を兼ね、および無想の有情を知るべし、

是九有情居,餘非不樂住。

是れ九の有情居、余は住することを楽わざるに非ず。

論曰:前七識住及第一有、無想有情,是名為九,諸有情類唯於此九欣樂住故立有情居。餘處皆非,不樂住故。言餘處者,謂諸惡處,非有情類自樂居中,惡業羅剎逼之令住故。彼如牢獄不立有情居。第四靜慮除無想天,餘非有情居,如識住中釋。前所引經說七識住,復有餘經說四識住。其四者何?頌曰:

論に曰く:前の七識住および第一有・無想有情、是れを名づけて九と為す、諸の有情類はただこの九において欣楽して住するゆえに有情居と立つ。余の処は皆非ず、住することを楽わざるゆえ。余の処を説くは、いわゆる諸の悪処、有情類の自ら居るを楽う中に非ず、悪業・羅刹(ラークシャサ)がこれを逼めて住せしむるゆえ。彼は牢獄の如く有情居と立てず。第四静慮は無想天を除きて、余は有情居に非ず、識住中の釋の如し。前の引く所の経は七識住を説く、復た余の経有りて四識住を説く。その四とは是れ何ぞ。頌に曰く:

四識住當知,四蘊唯自地,

四識住はまさに知るべし、四蘊はただ自地、

說獨識非住,有漏四句攝。

独りの識は住に非ずと説く、有漏の四句の摂。

論曰:如契經言:識隨色住,識隨受住,識隨想住,識隨行住,是名四種。如是四種其體云何?謂隨次第有漏四蘊。又此唯在自地非餘,識所依著,名識住故。非於異地色等蘊中識隨愛力依著於彼。如何不說識為識住?由離能住立所住故。非能住識可名所住,如非即王可名王座。或若有法識所乘御,如人船理說名識住。非識即能乘御自體,是故不說識為識住。毘婆沙師所說如是。若爾,何故餘契經言:於識食中有喜有染,有喜染故識住其中、識所乘御。又如何言前七識住五蘊為體?雖有是說,而於生處所攝蘊中不別分析,總生喜染故。識轉時亦名識住,非獨說識。然色等蘊一一能生種種喜染令識依著,獨識不然,故言非住。是故於此四識住中識非識住,於餘可說。又佛意說,此四識住猶如良田,總說一切有取諸識猶如種子,不可種子立為良田。仰測世尊教意如是。又法與識可俱時生,為識良田可立識住。識蘊不爾,故非識住。如是所說七種四種,識住雖殊而皆有漏。為七攝四、四攝七耶?非遍相攝。可為四句。謂審觀察應知二門體互寬陿得成四句,或有七攝非四攝等。第一句者,謂七中識。第二句者,謂諸惡處、第四靜慮及有頂中,除識餘蘊。第三句者,七中四蘊。第四句者,謂除前相。於前所說諸界趣中,應知其生略有四種。何等為四?何處有何?頌曰:

論に曰く:契経の説くが如く:識は色に随いて住し、識は受に随いて住し、識は想に随いて住し、識は行に随いて住す、是れを四種と名づく、と。かくのごとき四種のその体は如何。いわゆる次第に随いて有漏の四蘊。またこれはただ自地において余に非ず、識の依著する所は識住と名づくゆえ。異地の色等蘊中においては識は愛力に随い依著して彼にせざるに非ず。如何にして識を識住と説かざるか。能住を離れて所住を立つるに由るゆえ。能住の識は所住と名づくべからず、即ち王に非ざるは王座と名づくべからざるが如し。あるいはもし法有りて識の乗御する所ならば、人・船の理の如く識住と説き名づく。識は即ち自の体を乘御すること能わざるに非ず、是れを以て識を識住と説かず。毘婆沙師の説く所はかくのごとし。もし爾ならば、何の故に余の契経に説く:識食中において喜有り染有り、喜染有るゆえに識はその中に住し識の乗御する所、と。また如何にして前の七識住は五蘊を体と為すと説くか。是の説有ると雖も、しかるに生ずる処の摂する蘊中において別々に分析せずして総じて喜染を生ずるゆえ。識の転ずる時にもまた識住と名づく、独り識を説くに非ず。しかるに色等の蘊は一一に能く種種の喜染を生じて識を依著せしむ、独りの識は然らず、ゆえに住に非ずと説く。是れを以てこの四識住中において識は識住に非ず、余においては説くべし。また仏の意の説くは、この四識住は猶お良田のごとく、総じて一切の有取の諸識を説いて猶お種子のごとく、種子を以て良田と立つべからず。仰ぎて世尊の教意はかくのごとしと測る。また法は識と俱時に生ずべく、識の良田と為りて識住と立つべし。識蘊は然らず、ゆえに識住に非ず。かくのごとき説く所の七種・四種は、識住は殊なれど而も皆有漏。七は四を摂し、四は七を摂するか。遍く相摂するに非ず。四句を作すべし。いわゆる審かに観察すればまさに二門の体は互いに寛狭して四句を成るを得ると知るべし、あるいは七は摂して四は摂せず等。第一句とは、いわゆる七中の識。第二句とは、いわゆる諸の悪処・第四静慮および有頂中の識を除く其余の蘊。第三句とは、七中の四蘊。第四句とは、いわゆる前の相を除く。前に説く所の諸の界趣中において、まさにその生は略して四種有ると知るべし。何等を四とするか。何の処に何有るか。頌に曰く:

於中有四生,有情謂卵等,

その中において四生あり、有情は卵等を謂い、

人傍生具四,地獄及諸天,

人・傍生は具に四、地獄および諸の天、

中有唯化生,鬼通胎化二。

中有はただ化生、鬼は胎・化の二に通ず。

論曰:謂有情類卵生、胎生、濕生、化生,是名為四。生謂生類。諸有情中雖餘類雜,而生類等。云何卵生?謂有情類生從卵㲉是名卵生,如鵝孔雀鸚鵡鴈等。云何胎生?謂有情類生從胎藏是名胎生,如象馬牛豬羊驢等。云何濕生?謂有情類生從濕氣是名濕生,如蟲飛蛾蚊蚰蜒等。云何化生?謂有情類生無所託是名化生,如那落迦、天、中有等,具根無缺支分頓生,無而欻有故名為化。人傍生趣各具四種。人卵生者,謂如世羅鄔波世羅生從鶴卵,鹿母所生三十二子,般遮羅王五百子等。人胎生者,如今世人。人濕生者,如曼馱多遮盧鄔波遮盧,鴿鬘菴羅衛等。人化生者,唯劫初人。傍生三種,共所現見。化生如龍揭路荼等。一切地獄、諸天、中有,皆唯化生。鬼趣唯通胎化二種。鬼胎生者,如餓鬼女白目連云:

論に曰く:いわゆる有情類の卵生・胎生・湿生・化生、是れを四と名づく。生とは生類を謂う。諸の有情中は余の類雑なりと雖も、しかるに生類は等し。何を卵生とするか。いわゆる有情類の生は卵殻より出づ、是れを卵生と名づく、鵞・孔雀・鸚鵡・雁等の如し。何を胎生とするか。いわゆる有情類の生は胎蔵より出づ、是れを胎生と名づく、象・馬・牛・猪・羊・驢等の如し。何を湿生とするか。いわゆる有情類の生は湿気より起こる、是れを湿生と名づく、虫・飛蛾・蚊・蚰蜒等の如し。何を化生とするか。いわゆる有情類の生は托する所無し、是れを化生と名づく、那落迦・天・中有等の如く、根を具して支分欠けず頓に生ず、無くして欻に有るゆえに化と名づく。人・傍生の趣は各々四種を具す。人の卵生とは、いわゆる世羅・鄔波世羅の鶴の卵より生ぜしが如く、鹿母の生ぜし三十二子、般遮羅王の五百子等。人の胎生とは、今の日の世人の如し。人の湿生とは、曼馱多・遮盧・鄔波遮盧、鴿鬘・庵羅衛等の如し。人の化生とは、ただ劫初の人。傍生の三種は共に現見する所。化生は龍・掲路荼(ガルダ)等の如し。一切の地獄・諸天・中有は皆ただ化生。鬼趣はただ胎・化の二種に通ず。鬼の胎生とは、餓鬼の女が目連に対して説くが如し:

我夜生五子,隨生皆自食,

我は夜に五子を生み、生ずるに随いて皆自ら食らい、

晝生五亦然,雖盡而無飽。

昼に五を生ずるもまたこの如し、盡くすと雖も而も飽くこと無し。

一切生中何生最勝?應言最勝唯是化生。若爾,何緣後身菩薩得生自在而受胎生?現受胎生有大利故,謂為引導諸大釋種親屬相因令入正法。又引餘類令知菩薩是輪王種生敬慕心,因得捨邪趣於正法。又令所化生增上心:彼既是人,能成大義;我曹亦爾,何為不能因發正勤專修正法?又若不爾,族姓難知,恐疑幻化為天為鬼。如外道論矯設謗言:過百劫後當有大幻出現於世噉食世間。故受胎生息諸疑謗。有餘師說:為留身界故受胎生,令無量人及諸異類一興供養千返生天及證解脫。若受化生無外種故,身才殞逝無復遺形,如滅燈光即無所見。若人信佛有持願通能久留身,此不成釋因論生論。若化生身如滅燈光死無遺者,何故契經說化生揭路荼取化生龍為充所食?以不知故為食取龍,不說充飢。斯有何失?或龍未死暫得充飢,死已還飢。暫食何咎!於四生內何者最多?唯化生。何以故?三趣少分及二趣全、一切中有皆化生故。此中何法說名中有?何緣中有非即名生?頌曰:

(論に続けて曰く:)一切の生中に何の生が最も勝れたるか。まさに最勝はただ化生と説くべし。もし爾ならば、何の縁に後身の菩薩は生において自在を得たるに而も胎生を受くるか。現に胎生を受くるに大いなる利有るゆえ、いわゆる諸の大釈種の親属を引導して相因りて正法に入らしめんが為。また余の類を引きて菩薩は是れ輪王の種と知らしめて敬慕の心を生ぜしめ、因りて邪を捨てて正法に趣くを得せしむ。また化する所をして上の心を増せしむ:彼は既に人にして能く大義を成す、我らもまたこの如し、何をか因りて正勤を発して専ら正法を修すること能わざるや、と。またもし然らずんば、族姓は知り難く、恐らくは幻化して天と為り鬼と為ると疑わん。外道の論の矯め設けて謗る所の説くが如く:百劫を過ぎて後まさに大幻有りて世に出現して世間を啖食せん、と。ゆえに胎生を受けて諸の疑謗を息む。ある余師の説に:身界を留めんが為に胎生を受く、無量の人および諸の異類が一たび供養を興せば千返して天に生じおよび解脱を証せしめんが為、と。もし化生を受けば外種無きゆえに、身は纔かに殞逝すれば復た遺形無し、灯の光の滅すれば即ち見る所無きが如し。もし人は仏に持願の通有りて能く久しく身を留むと信せば、これは釋と成らず因論生論なり。もし化生の身は灯の光の滅するが如く死に遺す無しならば、何の故に契経に化生の掲路荼(ガルダ)が化生の龍を取りて以て食を充たすと説くや。知らざるを以て食の為に龍を取る、飢を充たすを説かず。これに何の失か有らん。あるいは龍は未だ死せず暫く飢を充たすを得、死已って還りて飢ゆ。暫く食う何の咎かあらん。四生の内に於て何者か最も多きか。ただ化生。何以故。三趣の少分および二趣の全、一切の中有は皆化生なるゆえ。此中の何の法を中有と説き名づくるか。何の縁に中有は即ち生と名づかざるか。頌に曰く:

死生二有中,五蘊名中有,

死・生の二有の中に、五蘊を中有と名づく、

未至應至處,故中有非生。

未だ至るべき処に至らざる、ゆえに中有は生に非ず。

論曰:於死有後、在生有前,即彼中間有自體起,為至生處故起此身,二趣中間故名中有。此身已起,何不名生?生謂當來所應至處,依所至義建立生名。此中有身其體雖起而未至彼,故不名生。何謂當來所應至處?所引異熟究竟分明,是謂當來所應至處。有餘部說:從死至生處容間絕,故無中有。此不應許。所以者何?依理教故。理教者何?頌曰:

論に曰く:死有の後に於て、生有の前に在りて、即ち彼の中間に自体の起る有り、生ずる処に至らんが為にこの身を起す、二趣の中間なるゆえに中有と名づく。この身は已に起れり、何ぞ生と名づけざる。生とは当来の至るべき処を謂う、至る所の義に依りて生の名を建立す。この中有の身はその体起ると雖も而も未だ彼に至らず、ゆえに生と名づけず。何を当来の至るべき処と謂うか。引く所の異熟は究竟にして分明、是れを当来の至るべき処と謂う。ある余部の説に:死より生の処に至るに間絶を容る、ゆえに中有無し、と。これはまさに許すべからず。所以者何。理と教に依るゆえ。理教とは是れ何ぞ。頌に曰く:

如穀等相續,處無間續生,

穀等の相续の如く、処は間無く続生し、

像實有不成,不等故非譬。

像は実有成らず、等しからざるゆえに喩に非ず。

一處無二並,非相續二生,

一処に二の并无し、相续に非ずして二生せず、

說有健達縛,及五七經故。

健達縛(ガンダルヴァ)有りと説き、および五七の経のゆえ。

論曰:且依正理中有非無。現見世間相續轉法,要處無間剎那續生。且如世間穀等相續,有情相續理亦應然,剎那續生處必無間。豈不現見有法續生,而於其中處亦有間?如依鏡等從質像生。如是有情死有生有,處雖有間何妨續生?實有諸像理不成故,又非等故為喻不成。謂別色生說名為像,其體實有理所不成。設成非等,故不成喻。言像不成故非喻者,以一處所無二並故。謂於一處鏡色及像並見現前,二色不應同處並有,依異大故。又陿水上兩岸色形,同處一時俱現二像。居兩岸者互見分明,曾無一處並見二色,不應謂此二色俱生。又影與光未嘗同處,然曾見鏡懸置影中,光像顯然現於鏡面,不應於此謂二並生。或言一處無二並者,鏡面月像謂之為二,近遠別見如觀井水,若有並生如何別見?故知諸像於理實無。然諸因緣和合勢力令如是見,以諸法性功能差別難可思議。已辯不成所以非喻。言非等故亦非喻者,以質與像非相續故。謂質與像非一相續,唯依鏡等有像現故,像與本質俱時有故。如死生有是一相續前後無間餘處續生,質像相望無此相續,以不相似故不成喻。又所現像由二生故,謂二緣故諸像得生:一者本質、二者鏡等。二中勝者像依彼生,生有無容由二緣起,唯有死有無別勝依,故所引喻非等於法。亦不可說以外非情精血等緣為勝依性,由化生者空中欻生,於中計何為勝依性?已依正理對破彼宗從死至生處容間絕,是故中有決定非無。次依聖教證有中有,謂契經言:有有七種,即五趣有、業有、中有。若此契經彼部不誦,豈亦不誦《健達縛經》?如契經言:入母胎者要由三事俱現在前,一者母身是時調適、二者父母交愛和合、三健達縛正現在前。除中有身,何健達縛?前蘊已壞,何現在前?若此契經彼亦不誦,復云何釋《掌馬族經》?如彼經言:汝今知不?

論に曰く:且つ正理に依れば中有は無きに非ず。現に世間の相续して転ずる法を見るに、要して処は間無く刹那に続生す。且つ世間の穀等の相续の如く、有情の相续も理もまたまさにこの如くあるべし、刹那の続生は処に必ず間無し。豈に現に法の続生する有りて、而もその中の処にもまた間有るを見ざらんや。鏡等に依りて質より像の生ずるが如し。かく有情の死有・生有は、処に間有ると雖も何ぞ続生を妨げんや。実に諸の像の有る理は成らざるゆえ、また等しからざるゆえに喩と為らず。いわゆる別の色の生ずるを像と説き名づく、その体の実有は理の成ずる所に非ず。設ひ成すとも等しからず、ゆえに喩と成らず。像の成らざるゆえに喩に非ずと説くは、一処所に二の并无きを以てなり。いわゆる一処において鏡の色および像は并びて現前に見ゆ、二色はまさに同じ処に并有るべからず、異なる大に依るゆえ。また狭き水上の両岸の色形は、同じ処にして一時に俱に二像を現す。両岸に居するは互いに分明に見、曾て一処に并びて二色を見る無し、まさにこの二色の俱に生ずと謂うべからず。また影と光とは未だ嘗て同じ処せず、しかるに曾て鏡の影中に懸置せられて、光の像は顕然と鏡面に現ずるを見たり、まさに此において二の并生を謂うべからず。あるいは一処に二の并无しと説くは、鏡面と月の像とをこれを二と謂う、近遠に別々に見るは井水を観ずるが如し、もし并生有らば如何にして別々に見るや。ゆえに諸の像は理において実に無しと知る。しかるに諸の因縁和合の勢力はかくのごとき見をせしむ、諸法の性功能の差別は難くして思議すべからざるを以て。已に成らざるゆえに喩に非ずを弁じたり。等しからざるゆえにも喩に非ずと説くは、質と像とは相续に非ざるを以てなり。いわゆる質と像とは一の相续に非ず、ただ鏡等に依りて像の現ずる有るゆえ、像と本質とは俱時有るゆえ。死・生有は是れ一の相续にして前後間無く余の処に続生するが如く、質像の相い望むにはこの相续無し、相似せざるを以て喩と成らず。また現ずる所の像は二の生ずるに由るゆえ、いわゆる二縁によりて諸の像は生ずるを得:一は本質、二は鏡等。二中の勝なるに像は彼に依りて生ず、生有は二縁に由りて起るを容れず、ただ死有有りて別の勝依無し、ゆえに引く所の喩は法に等しからず。もまた外の非情の精血等の縁を以て勝依の性と為すと説くべからず、化生は空中に欻に生ずるに由りて、その中において何をか勝依の性と計えんや。已に正理に依りて彼の宗の死より生の処に至るに間絶を容るを対破せり、是れを以て中有は決定して無きに非ず。次に聖教に依りて中有有るを証す、いわゆる契経に説く:有は七種有り、即ち五趣有・業有・中有、と。もしこの契経を彼部は誦せざれば、豈にもまた『健達縛経』を誦せざらんや。契経の説くが如く:母胎に入るは要して三事の俱に現前するに由る、一には母身は是の時に調適、二には父母の交愛和合、三は健達縛の正に現前す、と。中有の身を除きて何の健達縛ぞ。前の蘊は已に壞せり、何が現前せんや。もしこの契経を彼もまた誦せざれば、復た如何にして『掌馬族経』を釋せん。彼の経の説くが如く:汝今や知るや不や、と。

此健達縛正現前者,為婆羅門、為剎帝利、為是吠舍、為戍達羅?為東方來、為南西北?前蘊已壞不可言來,此所言來固唯中有。若復不誦如是契經,《五不還經》當云何釋?如契經說:有五不還,一者中般、二者生般、三無行般、四有行般、五者上流。中有若無,何名中般?有餘師執:有天名中,住彼般涅槃,是故名中般。是則應許有生等天;既不許然,故執非善。又經說有七善士趣,謂於前五,中般分三,由處及時近中遠故。譬如札火小星迸時,才起近即滅,初善士亦爾。譬如鐵火小星迸時,起至中乃滅,二善士亦爾。譬如鐵火大星迸時,遠未墮而滅,三善士亦爾。非彼所執別有中天,有此時處三品差別,故彼所執定非應理。有餘復說:或壽量中間、或近天中間,斷餘煩惱成阿羅漢,是名中般。由至界位或想或尋而般涅槃,故有三品:或取色界眾同分已即般涅槃,是名第一。從是次後受天樂已方般涅槃,是名第二。復從此後入天法會乃般涅槃,是名第三。入法會已復經多時方般涅槃,是名生般。或減多壽方般涅槃非創生時,故名生般。如是所說與火星喻皆不相應。所以者何?以彼處行無差別故。又無色界亦應說有中般涅槃,由彼亦有壽量中間般涅槃故。然不說彼有中般者,如嗢拕南伽他中說:

(論に続けて曰く:)この健達縛の正に現前するは、是れ婆羅門(バラモン)か、是れ刹帝利(クシャトリヤ)か、是れ吠舍(ヴァイシャ)か、是れ戍達羅(シュードラ)か。東方より来たるか、南・西・北か。前の蘊は已に壞せり来たると説くべからず、此の言う所の来は固にただ中有なり。もし復たかくのごとき契経を誦せざれば、『五不還経』はまさに如何に釋せん。契経の説くが如く:五の不還有り、一に中般、二に生般、三に無行般、四に有行般、五に上流、と。中有もし無くば、何を中般と名づけん。ある余師の執に:中と名づく天有りて、彼に住して般涅槃す、是れを以て中般と名づく、と。是則ちまさに生等と名づく天有るを許すべし、既にかくを許さざれば、ゆえに執は善に非ず。また経に七善士趣有りと説く、いわゆる前の五において、中般は三に分かつ、処および時の近・中・遠に由るゆえ。譬えば札火の小星の迸るる時、纔かに起りて近く即ち滅するが如し、初の善士もまたこの如し。譬えば鉄火の小星の迸るる時、起りて中に至りて乃ち滅するが如し、二の善士もまたこの如し。譬えば鉄火の大星の迸るる時、遠く未だ堕せずして滅するが如し、三の善士もまたこの如し。彼の執する所の別に中天有るに非ず、この時・処に三品の差別有るゆえに、彼の執する所は定めて理に応ぜず。ある余の説に復た曰く:あるいは寿量の中間、あるいは天に近き中間に、余の煩悩を断じて阿羅漢と成る、是れを中般と名づく、と。界の位に至りてあるいは想あるいは尋に由りて般涅槃するに由りて、ゆえに三品有り:あるいは色界の衆同分を取り已って即ち般涅槃す、是れを第一と名づく。是の次より後に天楽を受け已って方に般涅槃す、是れを第二と名づく。復た此の後より天の法会に入りて乃ち般涅槃す、是れを第三と名づく。法会に入り已りて復た多時を経て方に般涅槃す、是れを生般と名づく。あるいは寿を減じ多くして方に般涅槃するは創て生ずる時に非ず、ゆえに生般と名づく。かくのごとき説く所は火星の喩と皆相応せず。所以者何。彼の処行に差別なきを以て。また無色界にもまたまさに中般涅槃有りと説くべし、彼にもまた寿量の中間に般涅槃する有るゆえ。しかるに彼に中般有りと説かざるは、嗢拕南(ウッダーナ)の伽他の説くが如し:

總集眾聖賢,四靜慮各十,

衆の聖賢を総集し、四静慮は各々十、

三無色各七,唯六謂非想。

三無色は各々七、ただ六は非想を謂う。

故彼所執皆是虛妄。若復不誦如是等經,無上法王久已滅度,諸大法將亦般涅槃,聖教支離已成多部,其於文義異執交馳,取捨任情於今轉盛。哀哉汝等固守愚迷違理拒教,可傷之甚。諸有馮前理教為量,中有於彼實有極成。若爾,云何契經中說造極惡業度使魔羅,現身顛墜無間地獄。此經意說,彼命未捨,地獄猛焰已燒其身,因此命終受彼中有,乘茲乃墮無間地獄。由彼惡業勢力增強,不待命終苦相已至,先受現受、後受生受。何故經說:一類有情於五無間業作及增長已,無間必定生那落迦?此經意遮彼往異趣,及顯彼業定順生受。若但執文,應要具五方生地獄,非隨闕一或餘業因,便成大過。又言:無間生那落迦,應作即生不待身壞。或誰不許中有是生?那落迦名亦通中有,死有無間中有起時亦得名生,生方便故。經言無間生那落迦,不言爾時即是生有。若爾,經頌復云何通?如經頌言:

(論に続けて曰く:)ゆえに彼の執する所は皆是れ虚妄。もし復たかくのごとき等の経を誦せざれば、無上の法王は久しく已に滅度し、諸の大法将もまた般涅槃し、聖教は支離にして已に多部と成り、その文義において異執は交馳し、取舍は情に任せて今に於て転盛んなり。哀しいかな汝らは固く愚迷を守りて理に違い教を拒む、傷むべきの甚だしきなり。諸の前の理教を憑みて量と為す有りては、中有は彼において実に有ること極成す。もし爾ならば、如何にして契経中に極悪の業を造りて魔羅(マーラ)に使われて度ると説き、現の身は顛墜して無間地獄に入るや。この経の意の説くは、彼は命未だ捨てざるに、地獄の猛焰は已にその身を焼き、これに因りて命終じて彼の中有を受け、これに乘じて乃ち無間地獄に堕つ。彼の悪業の勢力の増強するに由りて、命終を待たずして苦相已に至り、先に現受を受け、後に生受を受く。何の故に経に説く:一類の有情は五無間業を作しおよび増長し已りて、無間に必定に那落迦に生ず、と。この経の意は彼の異趣に往くを遮り、および彼の業は定めて順生受なるを顕す。もし但だ文を執せば、まさに五を具して方に地獄に生ずるを要し、随って一を闕きあるいは余の業因あれば、便ち大過と成らん。もまた説く:無間に那落迦に生ずるは、まさに即ち生じて身の壞るるを待たざると作すべし、と。あるいは誰か中有は是れ生なるを許さざらん。那落迦の名もまた中有に通ず、死有の無間に中有の起る時にもまた生の名を得、生の方便なるゆえ。経は無間に那落迦に生ずと説く、爾の時に即ち是れ生有と説かず。もし爾ならば、経の頌は復た如何に通ぜん。経の頌の説くが如く:

再生汝今過盛位,至衰將近琰魔王,

再び生ずる汝は今盛位を過ぎ、衰に至りて将に琰魔王(ヤマ)に近づかんとす、

欲往前路無資糧,求住中間無所止。

前の路に往かんと欲すれど資糧無く、中間に住せんを求むるも止まる所無し。

若有中有,如何世尊言彼中間無有所止?此頌意顯彼於人中速歸磨滅無暫停義。或彼中有為至所生亦無暫停,行無礙故。寧知經意如此非餘?汝復焉知如餘非此?二責既等,何乃偏徵?二釋於經並無違害,如何偏證中有是無。凡引證言理無異趣,此有異趣為證不成。

(論に続けて曰く:)もし中有有らば、如何にして世尊は彼の中間に止まる所無しと説くや。この頌の意は彼が人において速やかに磨滅に帰して暫停の義無きを顕す。あるいは彼の中有は生ずる所に至らんと為しても暫停無し、行に碍げ無きゆえ。寧ぞ経の意はかくのごとくにして余に非ざるを知らんや。汝は復た焉んぞ余の此に非ざるが如くを知らんや。二の責め既に等し、何ぞ乃ち偏に征せんや。二の釋は経において並びて違害無し、如何にして偏に中有は是れ無しと証せんや。凡そ証を引きて理に異趣無きを言う、これに異趣有れば証と為りて成らず。

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