説一切有部倶舎論 巻第二十五
論曰:本善等至分為二類:一者有漏、二者無漏。往上名順,還下名逆。同類名均,異類名間。相隣名次,越一名超。謂觀行者修超定時,先於有漏八地等至順逆均次現前數習,次於無漏七地等至順逆均次現前數習,次於有漏無漏等至順逆間次現前數習,次於有漏順逆均超現前數習,次於無漏順逆均超現前數習,是名修習超加行滿。後於有漏無漏等至順逆間超,名超定成。此中超者唯能超一,遠故無能超入第四。修超等至唯人三洲、不時解脫諸阿羅漢,定自在故、無煩惱故。時解脫者雖無煩惱定不自在,諸見至者雖定自在有餘煩惱,故皆不能修超等至。此諸等至依何身起?頌曰:
論に曰く:本の善等至は分かれて二類と為す。一者は有漏、二者は無漏。上に往くを名づけて順、還って下るを名づけて逆。同類を名づけて均、異類を名づけて間。相い隣なるを名づけて次、一を越ゆるを名づけて超。いわゆる観行の者の超定を修する時、先ず有漏の八地の等至を順・逆・均・次に現前にして数習し、次に無漏の七地の等至を順・逆・均・次に現前にして数習し、次に有漏・無漏の等至を順・逆・間・次に現前にして数習し、次に有漏を順・逆・均・超に現前にして数習し、次に無漏を順・逆・均・超に現前にして数習す。是れを名づけて超の加行を修習して満つ。後に有漏・無漏の等至に於いて順・逆・間・超せば、名づけて超定の成。此の中の超はただ能く一を超ゆ。遠きがゆえに能く超えて第四に入ること無し。超等至を修するはただ人の三洲・不時解脱の諸の阿羅漢。定自在なるがゆえ、煩悩無きがゆえに。時解脱なるは煩悩無しと雖も定自在ならず、諸の見至なるは定自在なりと雖も其余の煩悩有り。ゆえに皆能く超等至を修せず。此の諸の等至は何の身に依ってか起るか。頌に曰く、
諸定依自下,非上無用故,
諸の定は自・下に依る。上に非ず、用無きがゆえに。
唯生有頂聖,起下盡餘惑。
ただ有頂に生ずる聖は、下を起して其余の惑を尽くす。
論曰:諸等至起依自下身。依上地身無容起下,上地起下無所用故、自有勝定故、下勢力劣故、已棄捨故、可厭毀故。總相雖然,若委細說聖生有頂必起無漏無所有處,為盡自地所餘煩惱、自無聖道欣樂起故、唯無所有最隣近故,起彼現前盡餘煩惱。此諸等至緣何境生?頌曰:
論に曰く:諸の等至の起るは自・下の身に依る。上地の身に依っては下を起すを容れず。上地は下を起すに用いる所無きがゆえ、自ら勝定有るがゆえ、下は勢力劣れるがゆえ、已に棄捨せるがゆえ、厭毀すべきがゆえに。総相は然りと雖も、もし委細に説かば、聖の有頂に生ずるは必ず無漏の無所有処を起す。為に自地の其余の煩悩を尽くさんとし、自ら聖道の欣楽して起す無きがゆえ、ただ無所有は最も隣近なるがゆえに、彼を起して現前して其余の煩悩を尽くす。此の諸の等至は何の境に縁じてか生ずるか。頌に曰く、
味定緣自繫,淨無漏遍緣,
味定は自の繋に縁じ、浄・無漏は遍く縁ず。
根本善無色,不緣下有漏。
根本の善の無色は、下の有漏に縁ぜず。
論曰:味定但緣自地有漏,必無緣下,已離染故。亦不緣上,愛地別故。不緣無漏,應成善故。淨及無漏俱能遍緣自上下地有為無為,皆為境故。有差別者,無記無為非無漏境。根本地攝善無色定,不緣下地諸有漏法,自上地法無不能緣。雖亦能緣下地無漏,緣類智品道,不緣法智品,亦不能緣下地法滅。無色近分亦緣下地,彼無間道必緣下故。味淨無漏三等至中,何等力能斷諸煩惱?頌曰:
論に曰く:味定は但だ自地の有漏に縁ず。必ず下に縁ずること無し。已に染を離れたるがゆえに。もまた上に縁ぜず。愛する地の別なるがゆえに。無漏に縁ぜず。応に善を成ずべきがゆえに。浄および無漏は俱に能く遍く自・上下の地の有為・無為に縁ず。皆境と為るがゆえに。差別有るは、無記・無為は無漏の境に非ず。根本地の摂する善の無色定は、下の地の諸の有漏法に縁ぜず。自・上の地の法は能く縁ぜざる無し。能く下の地の無漏に縁ずると雖も、類智品の道に縁じて、法智品に縁ぜず。もまた能く下の地の法の滅に縁ぜず。無色の近分もまた下の地に縁ず。彼の無間道は必ず下に縁ずるがゆえに。味・浄・無漏の三等至の中に、何等の力か能く諸の煩悩を断ずるか。頌に曰く、
無漏能斷惑,及諸淨近分。
無漏は能く惑を断じ、および諸の浄の近分。
論曰:諸無漏定皆能斷惑,本淨尚無能,況諸染能斷。不能斷下,已離染故。不能斷自,自所縛故。不能斷上,以勝己故。若淨近分亦能斷惑,以皆能斷次下地故。中間攝淨亦不能斷。近分有幾;何受相應;於味等三為皆具不;頌曰:
論に曰く:諸の無漏定は皆能く惑を断ず。本の浄はなお能无きに、況んや諸の染の能く断ぜんや。能く下を断ぜず。已に染を離れたるがゆえに。能く自を断ぜず。自の縛する所なるがゆえに。能く上を断ぜず。己に勝るを以て。もし浄の近分もまた能く惑を断ずるは、皆能く次の下の地を断ずるを以て。中間の摂する浄もまた能く断ぜず。近分は幾有るか。何の受に相応するか。味等の三に於いて為に皆具か否や。頌に曰く、
近分八捨淨,初亦聖或三。
近分は八、捨・浄。初もまた聖或いは三。
論曰:諸近分定亦有八種,與八根本為入門故。一切唯一捨受相應,作功用轉故、未離下怖故。此八近分皆淨定攝,唯初近分亦通無漏。皆無有味,離染道故。雖近分心有結生染,而遮定染故作是說。有說:未至定亦有味相應,未起根本亦貪此故,由此未至具有三種。中間靜慮與諸近分為無別義、為亦有殊?義亦有殊,謂諸近分為離下染是入初因,中定不然。復有別義,頌曰:
論に曰く:諸の近分定もまた八種有り。八根本と入門と為るがゆえに。一切は唯一の捨受に相応す。功を作りて用いて転ずるがゆえ、未だ下の怖を離れざるがゆえに。此の八近分は皆浄定の摂。ただ初の近分もまた無漏に通ず。皆味有ること無し。離染の道なるがゆえに。近分の心に結生の染有りと雖も、而も定の染を遮るがゆえに是の説を作す。ある説に、未至定もまた味の相応有り。未だ根本を起さずとも此れを貪するがゆえに。此に由って未至は具に三種有り。中間の静慮は諸の近分と為に別義無きか、為にもまた殊有るか。義もまた殊有り。いわゆる諸の近分は為に下の染を離るる是れ初の因に入る。中定は此のようにはあらず。復た別義有り。頌に曰く、
中靜慮無尋,具三唯捨受。
中の静慮は尋無し。具に三、ただ捨受。
論曰:初本近分尋伺相應,上七定中皆無尋伺,唯中靜慮有伺無尋,故彼勝初未及第二,依此義故立中間名。由此上無中間靜慮,一地升降無如此故。此定具有味等三種,以有勝德可愛味故。同諸近分唯捨相應,非喜相應功用轉故。由此說是苦通行攝。此定能招大梵處果,多修習者為大梵故。已說等至。云何等持?經說等持總有三種:一有尋有伺、二無尋唯伺、三無尋無伺。其相云何?頌曰:
論に曰く:初の本・近分は尋・伺に相応し、上の七定の中は皆尋・伺無し。ただ中の静慮は伺有りて尋無し。ゆえに彼は初の未至および第二に勝れり。此の義に依るがゆえに中間の名を立つ。此に由って上は中間の静慮無し。一地の昇降は此のよう無きがゆえに。此の定は具に味等の三種有り。勝徳有りて愛味すべきを以て。諸の近分と同じくただ捨に相応す。喜に相応せず、功用に転ずるがゆえに。此に由って是れ苦通行の摂と説く。此の定は能く大梵の処の果を招く。多く修習するは大梵と為るがゆえに。已に等至を説けり。如何にして等持か。経に等持は総じて三種有りと説く。一は有尋有伺、二は無尋唯伺、三は無尋無伺。其の相は如何。頌に曰く、
初下有尋伺,中唯伺上無。
初・下は尋・伺有り。中はただ伺、上は無し。
論曰:有尋有伺三摩地者,謂與尋伺相應等持,此初靜慮及未至攝。無尋唯伺三摩地者,謂唯與伺相應等持,此即靜慮中間地攝。無尋無伺三摩地者,謂非尋伺相應等持,此從第二靜慮近分乃至非想非非想攝。契經復說三種等持:一空、二無願、三無相。其相云何?頌曰:
論に曰く:有尋有伺の三摩地とは、いわゆる尋・伺と相応する等持。此れは初静慮および未至の摂。無尋唯伺の三摩地とは、いわゆるただ伺と相応する等持。此れ即ち静慮の中間地の摂。無尋無伺の三摩地とは、いわゆる尋・伺と相応するに非ざる等持。此れは第二静慮の近分より乃至非想非非想の摂。契経は復た三種の等持を説く。一は空、二は無願、三は無相。其の相は如何。頌に曰く、
空謂空非我,無相謂滅四,
空とは空・非我。無相とは滅の四。
無願謂餘十,諦行相相應,
無願とは其余の十。諦の行相に相応す。
此通淨無漏,無漏三脫門。
此れは浄・無漏に通ず。無漏は三解脱門。
論曰:空三摩地,謂空、非我二種行相相應等持。無相三摩地,謂緣滅諦四種行相相應等持。涅槃離十相,故名無相,緣彼三摩地得無相名。十相者何?謂色等五、男女二種、三有為相。無願三摩地,謂緣餘諦十種行相相應等持,非常苦因可厭患故,道如船筏必應捨故。能緣彼定得無願名,皆為超過現所對故。空非我相非所厭捨,以與涅槃相相似故。此三各二種,謂淨及無漏,世出世間等持別故。世間攝者通十一地,出世攝者唯通九地。於中無漏者名三解脫門,能與涅槃為入門故。契經復說三重等持:一空空、二無願無願、三無相無相。其相云何?頌曰:
論に曰く:空三摩地とは、いわゆる空・非我の二種の行相に相応する等持。無相三摩地とは、いわゆる滅諦に縁ずる四種の行相に相応する等持。涅槃は十相を離るるがゆえに名づけて無相。彼に縁ずる三摩地は無相の名を得。十相とは何ぞ。いわゆる色等の五・男女の二種・三有為の相。無願三摩地とは、いわゆる其余の諦の十種の行相に縁ずる相応する等持。非常・苦・因は厭患すべきがゆえ、道は船筏のごとく必ず応に捨つべきがゆえに。能く彼に縁ずる定は無願の名を得。皆現の対する所を超過せんと為すがゆえに。空・非我の相は厭捨する所に非ず。涅槃の相と相似するを以て。此の三は各々二種。いわゆる浄および無漏。世・出世間の等持の別なるがゆえに。世間の摂するは十一地に通じ、出世の摂するはただ九地に通ず。中に於いて無漏なるは名づけて三解脱門。能く涅槃と入門と為るがゆえに。契経は復た三重の等持を説く。一は空空、二は無願無願、三は無相無相。其の相は如何。頌に曰く、
重二緣無學,取空非常相,
重ねたる二は無学に縁じ、空・非常の相を取り、
後緣無相定,非擇滅為靜,
後は無相の定に縁じ、択滅に非ざるを以て静と為す。
有漏人不時,離上七近分。
有漏は人・不時。上の七近分を離る。
論曰:此三等持,緣前空等取空等相,故立空空等名。空空等持緣前無學空三摩地取彼空相,空相順厭勝非我故。無願無願緣前無學無願等持取非常相,不取苦因等,非無漏相故,不取道等,為厭捨故。無相無相即緣無學無相三摩地非擇滅為境,以無漏法無擇滅故,但取靜相非滅妙離,濫非常滅故、是無記性故、非離繫果故。此三等持唯是有漏,厭聖道故。無漏不然,唯三洲人不時解脫能起如是重三摩地。依十一地,除七近分,謂欲未至八本中間。契經復說四修等持:一為住現法樂、二為得勝知見、三為得分別慧、四為諸漏永盡修三摩地。其相云何?頌曰:
論に曰く:此の三等持は、前の空等に縁じて空等の相を取るがゆえに空空等の名を立つ。空空等持は前の無学の空三摩地に縁じて彼の空相を取る。空相は厭に順じて非我に勝れるがゆえに。無願無願は前の無学の無願等持に縁じて非常の相を取る。苦・因等を取らず。無漏の相に非ざるがゆえに。道等を取らず。為に厭捨するがゆえに。無相無相は即ち無学の無相三摩地に縁じて択滅に非ざるを以て境と為す。無漏の法は択滅無きを以て。但だ静相を取りて滅・妙・離に非ず。非常の滅に濫るがゆえ、是れ無記性なるがゆえ、離繋の果に非ざるがゆえに。此の三等持はただ是れ有漏。聖道を厭うがゆえに。無漏は此のようにはあらず。ただ三洲の人・不時解脱は能く此のようの重ねたる三摩地を起す。十一地に依りて、七近分を除く。いわゆる欲・未至・八本・中間。契経は復た四修の等持を説く。一は為に現法の楽に住せんが為、二は為に勝なる知見を得んが為、三は為に分別の慧を得んが為、四は為に諸漏の永尽を修すの三摩地。其の相は如何。頌に曰く、
為得現法樂,修諸善靜慮;
為に現法の楽を得んとして、諸の善静慮を修し、
為得勝知見,修淨天眼通;
為に勝なる知見を得んとして、浄の天眼通を修し、
為得分別慧,修諸加行善;
為に分別の慧を得んとして、諸の加行の善を修し、
為得諸漏盡,脩金剛喻定。
為に諸漏の尽を得んとして、金剛喩定を修す。
論曰:如契經說:有修等持若習若修若多所作得現樂住,乃至廣說。善言通攝淨及無漏。修諸善靜慮得住現法樂,而經但說初靜慮者,舉初顯後,理實通餘。不言為住後法樂者,以後法樂非定住故,謂或退墮、或上受生、或般涅槃便不住故。若依諸定修天眼通,便能獲得殊勝知見。若修三界諸加行善及無漏善,得分別慧。若脩金剛喻定,便得諸漏永盡。理實修此通依諸地,而契經但說第四靜慮者,傳說世尊依自說故。
論に曰く:契経の説くがごとく:修する等持有りてもし習いもし修しもし多く作する所は現の楽住を得、乃至広く説く。善の言は浄および無漏を通じて摂す。諸の善静慮を修して現法の楽に住することを得。而も経は但だ初静慮を説くは、初を挙げて後を顕す。理実は其余に通ず。為に後法の楽に住せんとして説かざるは、後法の楽は定住に非ざるがゆえに。いわゆる或いは退堕し、或いは上に生を受け、或いは般涅槃すれば便ち住せざるがゆえに。もし諸定に依って天眼通を修せば、便ち能く殊勝の知見を獲得す。もし三界の諸の加行の善および無漏の善を修せば、分別の慧を得。もし金剛喩定を修せば、便ち諸漏の永尽を得。理実は此を修するは諸地に依るに通ずるも、而も契経は但だ第四静慮を説くは、伝え聞く世尊は自に依って説くがゆえに。
説一切有部倶舎論 巻第二十八
アビダルマ倶舎論 巻第二十九 尊者世親造
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。
分別定品第八之二
分別定品 第八之二
如是已說所依止定,當辯依定所起功德。諸功德中先辯無量。頌曰:
此のようの已に依止する所の定を説ければ、当に定に依って起す所の功徳を弁ずべし。諸の功徳の中に先ず無量を弁ず。頌に曰く、
無量有四種,對治瞋等故,
無量に四種有り。瞋等を対治するがゆえに。
慈悲無瞋性,喜喜捨無貪。
慈・悲は無瞋の性。喜は喜、捨は無貪。
此行相如次,與樂及拔苦,
此の行相は次第のごとく、楽を与えおよび苦を抜き、
欣慰有情等,緣欲界有情。
欣慰・有情の等。欲界の有情に縁ず。
喜初二靜慮,餘六或五十,
喜は初・二の静慮。其余は六或いは五・十。
不能斷諸惑,人起定成三。
能く諸惑を断ぜず。人は起り定めて三を成ず。
論曰:無量有四,一慈、二悲、三喜、四捨。言無量者,無量有情為所緣故、引無量福故、感無量果故。此何緣故唯有四種?對治四種多行障故。何謂四障?謂諸瞋害、不欣慰、欲貪、瞋。治此如次,建立慈等。不淨與捨俱治欲貪,斯有何別?毘婆沙說:欲貪有二,一色、二婬,不淨與捨如次能治。理實不淨能治婬貪,餘親友貪捨能對治。四中初二體是無瞋,理實應言悲是不害,喜即喜受,捨即無貪,若並眷屬五蘊為體。若捨無貪性,如何能治瞋?此所治瞋,貪所引故,理實應用二法為體。此四無量行相別者,云何當令諸有情類得如是樂?如是思惟入慈等至。云何當令諸有情類離如是苦?如是思惟入悲等至。諸有情類得樂離苦豈不快哉!如是思惟入喜等至。諸有情類平等平等無有親怨。如是思惟入捨等至。此四無量不能令他實得樂等,寧非顛倒?願欲令彼得樂等故,或阿世耶無顛倒故,與勝解想相應起故。設是顛倒,復有何失?若應非善,理則不然,此與善根相應起故。若應引惡,理亦不然,由此力能治瞋等故。此緣欲界一切有情,能治緣彼瞋等障故。然契經說:修習慈等,思惟一方一切世界。此經舉器以顯器中。第三但依初二靜慮,喜受攝故,餘定地無。所餘三種通依六地,謂四靜慮、未至、中間。或有欲令唯依五地,謂除未至,是容豫德,已離欲者方能起故。或有欲令此四無量隨其所應通依十地,謂欲四本近分中間,此意欲令定不定地根本加行皆無量攝。前雖說此能治四障,而不能令諸惑得斷,有漏根本靜慮攝故、勝解作意相應起故、遍緣一切有情境故。此加行位制伏瞋等,或此能令已斷更遠故。前說此能治四障,謂欲未至亦有慈等,似所修成根本無量。由此制伏瞋等障已,引斷道生能斷諸惑,諸惑斷已離染位中,方得根本四種無量。於此後位雖遇強緣,而非瞋等之所蔽伏。初習業位云何修慈?
論に曰く:無量に四有り。一は慈、二は悲、三は喜、四は捨。無量と言うは、無量の有情を所縁と為すがゆえ、無量の福を引くがゆえ、無量の果を感ずるがゆえに。此れは何の縁に由ってかただ四種有るのみか。四種の多行の障を対治するがゆえに。何谓をか四障とするか。いわゆる諸の瞋害・不欣慰・欲貪・瞋。此を治するは次第のごとく、慈等を建立す。不浄と捨とは俱に欲貪を治す。斯に何の別有るか。毘婆沙の説く:欲貪に二有り。一は色、二は淫。不浄と捨とは次第のごとく能く治す。理実は不浄は能く淫貪を治し、其余の親友の貪は捨は能く対治す。四の中の初の二の体は是れ無瞋。理実は応に説くべし悲は是れ不害、喜は即ち喜受、捨は即ち無貪。もし眷属を并せば五蘊を以て体と為す。もし捨は無貪性ならば、如何にして能く瞋を治せんか。此の治する所の瞋は、貪の引く所なるがゆえに、理実は応に二法を用いて体と為すべし。此の四無量の行相の別なるは、如何にして当に諸の有情類をして此のようの楽を得しめんか。此のようの思惟は慈等至に入る。如何にして当に諸の有情類をして此のようの苦を離れしめんか。此のようの思惟は悲等至に入る。諸の有情類は楽を得て苦を離れて豈に快ならずや。此のようの思惟は喜等至に入る。諸の有情類は平等平等にして親怨無し。此のようの思惟は捨等至に入る。此の四無量は能く他をして実に楽等を得しめず。寧ろ顛倒に非ずや。願は彼をして楽等を得しめんと欲するがゆえ、或いは阿世耶は顛倒無きがゆえ、勝解の想と相応して起るがゆえに。設い是れ顛倒ならば、復た何の失有らん。もし応に善に非ざれば、理は則ち此のようにはあらず。此れは善根と相応して起るがゆえに。もし応に悪を引けば、理もまた此のようにはあらず。此の力に由って能く瞋等を治するがゆえに。此れは欲界の一切の有情に縁ず。彼に縁ずる瞋等の障を能く治するがゆえに。然而契経に説く:慈等を修習して、一方の一切世界を思惟す。此の経は器を挙げて以て器の中を顕す。第三は但だ初・二の静慮に依る。喜受の摂なるがゆえに。其余の定地は無し。其余の三種は六地に依るに通ず。いわゆる四静慮・未至・中間。或いはただ五地に依らしめんと欲する有り。いわゆる未至を除く。是れ容そ預るの徳。已に欲を離れたるは方に能く起すがゆえに。或いは此の四無量を其の該る所に随って十地に依るに通ぜしめんと欲する有り。いわゆる欲・四本・近分・中間。此の意は定・不定地の根本・加行をして皆無量の摂せしめんと欲す。前は此れは能く四障を治すと説くと雖も、而も能く諸惑をして断を得せしめず。有漏の根本静慮の摂なるがゆえ、勝解の作意に相応して起るがゆえ、遍く一切の有情の境に縁ずるがゆえに。此れは加行の位に瞋等を制伏し、或いは此れは能く已に断ぜるを更に遠からしむるがゆえに。前に此れは能く四障を治すと説けるは、いわゆる欲・未至にもまた慈等有りて、修成する所の根本の無量に似たり。此に由って瞋等の障を制伏し已りて、断の道を引きて生ぜしめて能く諸惑を断じ、諸惑を断じ已りて離染の位の中に、方に根本の四種の無量を得。此の後の位に於いては強縁に遇うと雖も、而も瞋等の蔽伏する所に非ず。初め業を習う位は如何にして慈を修するか。
謂先思惟自所受樂,或聞說佛菩薩聲聞及獨覺等所受快樂,便作是念:願諸有情一切等受如是快樂。若彼本來煩惱增盛,不能如是平等運心,應於有情分為三品,所謂親友、處中、怨讐。親復分三,謂上、中、下;中品唯一;怨亦分三,謂下、中、上,總成七品。分品別已,先於上親發起真誠與樂勝解。此願成已,於中下親亦漸次修如是勝解。於親三品得平等已,次於中品、下中上怨亦漸次修如是勝解,由數習力能於上怨起與樂願與上親等。修此勝解既得無退,次於所緣漸修令廣,謂漸運想思惟一邑一國一方一切世界,與樂行相無不遍滿,是為修習慈無量成。若於有情樂求德者能修慈定令速疾成,非於有情樂求失者,以斷善者有德可錄,麟喻獨覺有失可取,先福罪果現可見故。修悲喜法准此應知。謂觀有情沒眾苦海,便願令彼皆得解脫,及想有情得樂離苦,便深欣慰實為樂哉。修捨最初從處中起,漸次乃至能於上親起平等心與處中等。此四無量人起非餘,隨得一時必成三種。生第三定等,唯不成喜故。已辯無量,次辯解脫。頌曰:
(論に引き続き曰く:)いわゆる先ず自ら受くる所の楽を思惟し、或いは仏・菩薩・声聞および独覚等の受くる所の快楽を説くを聞きて、便ち是の念を作す:願くは諸の有情は一切等しく此のようの快楽を受けんと。もし彼は本来煩悩増盛にして、能く此のよう平等に心を運ぶこと能わざれば、応に有情に於いて分かちて三品と為すべし。いわゆる親友・処中・怨讐。親は復た三に分かつ。いわゆる上・中・下。中品は唯一。怨もまた三に分かつ。いわゆる下・中・上。総じて七品を成す。品を分かちて別れ已りて、先ず上親に於いて真誠の楽を与うるの勝解を発起す。此の願成じ已りて、中・下の親に於いてもまた漸次に此のようの勝解を修す。親の三品に於いて平等を得已りて、次に中品・下・中・上の怨に於いてもまた漸次に此のようの勝解を修し、数習の力に由って能く上怨に於いて楽を与うるの願を起して上親と等しからしむ。此の勝解を修してすでに退無きを得れば、次に所縁に於いて漸く修して広からしめ、いわゆる漸く想を運びて一邑・一国・一方の一切世界を思惟して、楽を与うるの行相は遍満せざる無し。是れを慈無量を修習して成ずと為す。もし有情に於いて徳を求めるを楽うは能く慈定を修して速疾に成らしめ、有情に於いて失を求めるを楽うに非ず。断善なるは徳の録すべき有り、麟喩・独覚は失の取るべき有るを以て、先の福・罪の果は現に見るべきがゆえに。悲・喜の法を修するは此に准じて応に知るべし。いわゆる有情の衆苦の海に没するを観じて、便ち彼をして皆解脱を得しめんことを願い、および有情の楽を得て苦を離るるを想いて、便ち深く欣慰して実に楽しきかなとす。捨を修するは最初に処中より起り、漸次に乃至能く上親に於いて平等の心を起して処中と等しからしむ。此の四無量は人は起すも其余に非ず。得る所の一時に随って必ず三種を成ず。第三定等に生ずれば、ただ喜を成ぜざるがゆえに。已に無量を弁じたれば、次に解脱を弁ず。頌に曰く、
解脫有八種,前三無貪性,
解脱に八種有り。前の三は無貪性。
二二一一定,四無色定善,
二・二・一、一・一定。四は無色定の善。
滅受想解脫,微微無間生,
滅受想の解脱は、微微の無間に生ず。
由自地淨心,及下無漏出,
自地の浄心に由り、および下の無漏より出づ。
三境欲可見,四境類品道,
三は境に欲の見るべき。四は境に類品の道、
自上苦集滅,非擇滅虛空。
自・上の苦・集・滅、択滅に非ず・虚空。
論曰:解脫有八:一內有色想觀外色解脫、二內無色想觀外色解脫、三淨解脫身作證具足住、四無色定為次四解脫、滅受想定為第八解脫。八中前三無貪為性,近治貪故。然契經中說想觀者,想觀增故。三中初二不淨相轉,作青瘀等諸行相故。第三解脫清淨相轉,作淨光鮮行相轉故。三並助伴皆五蘊性。初二解脫,一一通依初二靜慮,能治欲界初靜慮中顯色貪故。第三解脫依後靜慮,離八災患心澄淨故。餘地亦有相似解脫而不建立,非增上故。次四解脫如其次第,以四無色定善為性。非無記染,非解脫故。亦非散善,性微劣故。彼散善者,如命終心。有說:餘時亦有散善。近分解脫道,亦得解脫名。無間不然,以緣下故。彼要背下地,方名解脫故。然於餘處多分唯說彼根本地名解脫者,以近分中非全分故。第八解脫即滅盡定,彼自性等如先已說。厭背受想而起此故,或總厭背有所緣故,此滅盡定得解脫名。有說:由此解脫定障,微微心後此定現前。前對想心已名微細,此更微細故曰微微。次如是心入滅盡定,從滅定出,或起有頂淨定心,或即能起無所有處無漏心。如是入心唯是有漏,通從有漏無漏心出。八中前三唯以欲界色處為境。有差別者,二境可憎、一境可愛。次四解脫各以自上苦集滅諦,及一切地類智品道,彼非擇滅及與虛空為所緣境。第三靜慮寧無解脫?第三定中無色貪故,自地妙樂所動亂故。行者何緣修淨解脫?為欲令心暫欣悅故。前不淨觀令心沈慼,今修淨觀策發令欣。或為審知自堪能故,謂前所修不淨解脫為成不成?若觀淨相煩惱不起,彼方成故。由二緣故,諸瑜伽師修解脫等,一為諸惑已斷更遠;二為於定得勝自在,故能引起無諍等德及聖神通,由此便能轉變諸事起留捨等種種作用。何故經中第三第八說身作證,非餘六邪?以於八中此二勝故,於二界中各在邊故。已辯解脫,次辯勝處。
論に曰く:解脱に八有り。一は内に色想有りて外色を観ずる解脱、二は内に色想無くして外色を観ずる解脱、三は浄解脱の身に作証して具足に住す、四の無色定を以て次の四解脱と為し、受想を滅する定を第八解脱と為す。八の中の前の三は無貪を以て性と為す。近く貪を治するがゆえに。然而契経の中に想観と説くは、想観の増するがゆえに。三の中の初の二は不浄の相に転ず。青瘀等の諸の行相を作すがゆえに。第三解脱は清浄の相に転ず。浄光の鮮なる行相に転ずるを作すがゆえに。三は并びに助伴も皆五蘊性。初・二の解脱は一一に初・二の静慮に依るに通ず。能く欲界・初静慮の中の顕色の貪を治するがゆえに。第三解脱は後の静慮に依る。八の災患を離れて心は澄浄なるがゆえに。其余の地にもまた相似の解脱有りて而も建立せず。増上に非ざるがゆえに。次の四解脱は次第のごとく、四無色定の善を以て性と為す。無記・染に非ず。解脱に非ざるがゆえに。もまた散善に非ず。性微劣なるがゆえに。彼の散善なるは、命終の心のごとし。ある説に、其余の時にもまた散善有り。近分の解脱道もまた解脱の名を得。無間は此のようにはあらず。下に縁ずるを以て。彼は要ずるに下地に背きて方に名づけて解脱なるがゆえに。然而其余の処に於いて多分はただ彼の根本地を説いて名づけて解脱と為す。近分の中は全分に非ざるを以て。第八解脱は即ち滅尽定。彼の自性等は先に已に説けり。受想に厭背して起るがゆえに、或いは総じて縁有る所に厭背するがゆえに、此の滅尽定は解脱の名を得。ある説に、此に由って定障を解脱して、微微心の後に此の定は現前す。前に想心に対して已に微細と名づく、此れは更に微細なるがゆえに微微と曰う。次に此のようの心は滅尽定に入り、滅定より出づるは、或いは有頂の浄定の心を起し、或いは即ち能く無所有処の無漏の心を起す。此のようの心に入るはただ是れ有漏、有漏・無漏の心より出づるに通ず。八の中の前の三はただ欲界の色処を以て境と為す。差別有るは、二の境は憎むべく、一の境は愛すべし。次の四解脱は各々自・上の苦・集・滅の諦、および一切の地の類智品の道、彼の択滅に非ざるおよび虚空を以て所縁の境と為す。第三静慮は寧ろ解脱無きか。第三定の中は色貪無きがゆえ、自地の妙楽の動乱する所なるがゆえに。行の者は何の縁にか浄解脱を修するか。為に心をして暫く欣悦せしめんと欲するがゆえに。前の不浄観は心をして沈戚せしめ、今浄観を修して策発して欣らしむ。或いは為に自ら堪能を審らかに知るがゆえに。いわゆる前の修する所の不浄解脱は為に成るか成らざるか。もし浄相を観じて煩悩起さざれば、彼は方に成るがゆえに。二の縁に由るがゆえに、諸の瑜伽師は解脱等を修す。一は為に諸惑は已に断じて更に遠からんが為、二は為に定に於いて勝自在を得んが為。ゆえに能く無諍等の徳および聖の神通を引起して、此に由って便ち能く諸の事を転変して留・捨等の種種の作用を起す。何の故にか経の中に第三・第八は身作証と説きて、其余の六に非ざるか。八の中に於いて此の二は勝れるを以て、二界の中に於いて各々辺に在るを以て。已に解脱を弁じたれば、次に勝処を弁ず。
頌曰:
頌に曰く、
勝處有八種,二如初解脫,
勝処に八種有り。二は初解脱のごとく、
次二如第二,後四如第三。
次の二は第二のごとく、後の四は第三のごとし。
論曰:勝處有八:一內有色想觀外色少、二內有色想觀外色多、三內無色想觀外色少、四內無色想觀外色多、內無色想觀外青黃赤白為四,足前成八。八中初二如初解脫,次二如第二解脫,後四如第三解脫。若爾,八勝處何殊三解脫?前修解脫唯能棄背,後修勝處能制所緣,隨所樂觀惑終不起。已辯勝處,次辯遍處。頌曰:
論に曰く:勝処に八有り。一は内に色想有りて外色の少を観じ、二は内に色想有りて外色の多を観じ、三は内に色想無くして外色の少を観じ、四は内に色想無くして外色の多を観じ、内に色想無くして外の青・黄・赤・白を観ずるを以て四と為し、前を足して八を成す。八の中の初の二は初解脱のごとく、次の二は第二解脱のごとく、後の四は第三解脱のごとし。もしそうならば、八勝処は三解脱と何の殊有るか。前に解脱を修するはただ能く棄背するのみ、後に勝処を修するは能く所縁を制して、楽観する所に随って惑は終に起さず。已に勝処を弁じたれば、次に遍処を弁ず。頌に曰く、
遍處有十種,八如淨解脫,
遍処に十種有り。八は浄解脱のごとく、
後二淨無色,緣自地四蘊。
後の二は浄の無色。自地の四蘊に縁ず。
論曰:遍處有十,謂周遍觀地、水、火、風、青、黃、赤、白及空與識二無邊處。於一切處周遍觀察無有間隙,故名遍處。十中前八如淨解脫,謂八自性皆是無貪;若並助伴五蘊為性,依第四靜慮,緣欲可見色。有餘師說:唯風遍處緣所觸中風界為境,後二遍處如次空識二淨無色為其自性,各緣自地四蘊為境。應知此中修觀行者,從諸解脫入諸勝處,從諸勝處入諸遍處,以後後起勝前前故。此解脫等三門功德,為由何得?依何身起?頌曰:
論に曰く:遍処に十有り。いわゆる周遍に地・水・火・風・青・黄・赤・白および空と識の二無辺処を観ず。一切の処に於いて周遍に観察して間隙有ること無し。ゆえに名づけて遍処。十の中の前の八は浄解脱のごとし。いわゆる八の自性は皆是れ無貪。もし助伴を并せば五蘊を以て性と為す。第四静慮に依りて、欲の見るべき色に縁ず。其余の師有りて説く:ただ風の遍処は触する所の中の風界に縁じて境と為す。後の二遍処は次第のごとく空・識の二浄無色を以て其の自性と為し、各々自地の四蘊に縁じて境と為す。応に知るべし此の中に観行を修するは、諸の解脱より諸の勝処に入り、諸の勝処より諸の遍処に入る。後後は前前に勝れるを以て。此の解脱等の三門の功徳は、為に何に由ってか得るか。何の身に依ってか起るか。頌に曰く、
滅定如先辯,餘皆通二得,
滅定は先に弁ずるがごとし。其余は皆二得に通ず。
無色依三界,餘唯人趣起。
無色は三界に依る。其余はただ人趣に起る。
論曰:第八解脫如先已辯,以即是前滅盡定故。餘解脫等通由二得,謂由離染及加行得,以有曾習未曾習故。四無色解脫、二無色遍處,一一通依三界身起,餘唯人起。由教力故,異生及聖皆能現起。諸有生在色無色界起靜慮無色,由何等別緣?頌曰:
論に曰く:第八解脱は先に已に弁ずるがごとし。即ち是れ前の滅尽定なるを以て。其余の解脱等は二得に由るに通ず。いわゆる染を離るるに由りおよび加行の得。曾習・未曾習有るを以て。四無色解脱・二無色遍処は、一一に三界の身に依って起るに通ず。其余はただ人に起る。教の力に由るがゆえに、異生および聖は皆能く現起す。諸の色・無色界に生じて静慮・無色を起す有るは、何等の別の縁に由るか。頌に曰く、
二界由因業,能起無色定,
二界は因・業に由りて、能く無色定を起す。
色界起靜慮,亦由法爾力。
色界は静慮を起すも、また法尔の力に由る。
論曰:生上二界總由三緣,能進引生色無色定:一由因力,謂於先時近及數修為起因故。二由業力,謂先曾造感上地生順後受業,彼業異熟將起現前,勢力能令進起彼定。以若未離下地煩惱,必定無容生上地故。三法爾力,謂器世界將欲壞時,下地有情法爾能起上地靜慮。以於此位所有善法,由法爾力皆增盛故。諸有生在上二界中起無色定,由因業力,非法爾力,無雲等天不為三災之所壞故。生在色界起靜慮時,由上二緣及法爾力。若生欲界起上定時,一一應知皆由教力。前來分別種種法門,皆為弘持世尊正法。何謂正法?當住幾時?頌曰:
論に曰く:上の二界に生ずるは総じて三縁に由りて、能く進みて色・無色定を引生す。一は因力に由る。いわゆる先の時に於いて近くおよび数習して修して起るの因と為るがゆえに。二は業力に由る。いわゆる先に曾て上地の生を感ずる順後受の業を造り、彼の業の異熟は将に現前を起さんとして、勢力は能く彼の定を進起せしむ。もし未だ下の地の煩悩を離れざれば、必定上の地に生ずるを容れざるを以て。三は法尔力。いわゆる器世界の将に壊れんと欲する時、下の地の有情は法尔に能く上の地の静慮を起す。此の位に於いて所有の善法は法尔の力に由って皆増盛するを以て。諸の上の二界の中に生じて無色定を起す有るは、因・業の力に由る。法尔の力に非ず。雲等の天無くして三の災の壊する所と為らざるがゆえに。色界に生じて静慮を起す時は、上の二縁および法尔力に由る。もし欲界に生じて上の定を起す時は、一一に応に知るべし皆教の力に由る。前来種種の法門を分別するは、皆為に世尊の正法を弘持せんとす。何谓をか正法とするか。当に幾時か住すべきか。頌に曰く、
佛正法有二,謂教證為體,
仏の正法に二有り。いわゆる教・証を以て体と為す。
