説一切有部倶舎論 巻第十五
感愛果涅槃,聖道善如次。
愛果・涅槃・聖道の善を感ず。次第のごとし。
論曰:言順福分者,謂感世間可愛果善。順解脫分者,謂定能感涅槃果善。此善生已,令彼有情名為身中有涅槃法。若有聞說生死有過、諸法無我、涅槃有德,身毛為竪悲泣墮淚,當知彼已殖順解脫分善。如見得雨場有芽生,知其穴中先有種子。順決擇分者,謂近能感聖道果善,即煖等四,後當廣說。如世間所說書、印、算、文、數,此五自體云何應知?頌曰:
論に曰く:順福分と言うは、いわゆる世間の可愛の果を感ずる善。順解脱分と言うは、いわゆる定めて能く涅槃の果を感ずる善。この善生じ已りて、彼の有情をして名づけて身の中に涅槃の法あると為さしむ。もし聞きて生死に過あり・諸法無我・涅槃に徳ありと説くに、身の毛竖を為し悲泣して涙を堕さば、当知るべし彼は已に順解脱分の善を殖えたり。雨の場に芽の生ずるを見て、その穴の中に先に種子あるを知るがごとし。順決択分とは、いわゆる近く能く聖道の果を感ずる善。すなわち煖等の四、後に当に広く説くべし。世間の説く所の書・印・算・文・数のごとき、この五の自体は如何に応に知るべきか。頌に曰く、
諸如理所起,三業並能發,
諸の理のごとく起る所、三業ならびに能発は、
如次為書印、算文數自體。
次第のごとく書・印・算・文・数の自体と為る。
論曰:如理起者,正加行生。三業,應知即身語意。能發,即是能起此三,如其所應受想等法。此中書印以前身業及彼能發五蘊為體,次算及文以前語業及彼能發五蘊為體,後數應知以前意業及彼能發四蘊為體,但由意思能數法故。今應略辯諸法異名。頌曰:
論に曰く:理のごとく起るとは、正しく加行して生ず。三業とは、応に知るべしすなわち身・語・意。能発とは、すなわち能くこの三を起す、その応ずる所の受・想等の法。この中に書・印は前の身業および彼の能発の五蘊を以て体と為し、次に算および文は前の語業および彼の能発の五蘊を以て体と為し、後の数は応に知るべし前の意業および彼の能発の四蘊を以て体と為す。但だ意思に由って能く法を数うるがゆえに。今応に略して諸法の異名を辯ずべし。頌に曰く、
善無漏名妙,染有罪覆劣,
善・無漏を妙と名づく。染は有罪・有覆・劣なり。
善有為應習,解脫名無上。
善の有為は応に習うべし。解脱を無上と名づく。
論曰:善無漏法亦名為妙。諸染汙法亦名有罪有覆及劣。准此妙劣,餘中已成,故頌不辯。諸有為善亦名應習,餘非應習義準已成。何故無為不名應習?不可數習令增長故。又習為果,此無果故。解脫涅槃亦名無上,以無一法能勝涅槃,是善是常超眾法故。餘法有上,義準已成。
論に曰く:善・無漏の法はもまた妙と名づく。諸の染污の法はもまた有罪・有覆および劣と名づく。これに准じて妙・劣なれば、その余の中は已に成ず。ゆえに頌は辯ぜず。諸の有為の善はもまた応に習うべしと名づく。その余の応に習うべからざるの義は准じて已に成ず。何故無為は応に習うべしと名づけざるか。数々習いて増長せしむべからざるがゆえに。また習は果を為す。これは果なきがゆえに。解脱・涅槃はもまた無上と名づく。一法も能く涅槃に勝ることなきを以て。是れ善にして是れ常にして衆法を超ゆるがゆえに。その余の法は上あり。義は准じて已に成ず。
説一切有部倶舎論 巻第十八
アビダルマ倶舎論 巻第十九
尊者世親造
尊者世親造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。
分別隨眠品第五之一
分別随眠品 第五之一
前言世別皆由業生,業由隨眠方得生長,離隨眠業無感有能。所以者何?隨眠有幾?頌曰:
前に言う、世の別は皆業に由って生じ、業は随眠に由って方に生長を得、随眠を離れて業は有を感ずる能なし。そもそもどうしてか。随眠は幾つかある。頌に曰く、
隨眠諸有本,此差別有六,
随眠は諸有の本。これに差別あって六あり。
謂貪瞋亦慢,無明見及疑。
いわゆる貪・瞋・慢・無明・見および疑。
論曰:由此隨眠是諸有本,故業離此無感有能。何故隨眠能為有本?以諸煩惱現起能為十種事故,一堅根本、二立相續、三治自田、四引等流、五發業有、六攝自具、七迷所緣、八導識流、九越善品、十廣縛義,令不能越自界地故。由此隨眠能為有本,故業因此有感有能。此略應知差別有六,謂貪、瞋、慢、無明、見、疑。頌說亦言,意顯慢等亦由貪力於境隨增,由貪隨增義如後辯。及聲顯六體各不同。若諸隨眠體唯有六,何緣經說有七隨眠?頌曰:
論に曰く:この随眠に由って是れ諸有の本たるがゆえに、業はこれを離れて有を感ずる能なし。何故随眠は能く有の本と為るか。諸の煩悩の現起するは能く十種の事を為すがゆえに。一は根本を堅くし、二は相続を立て、三は自田を治め、四は等流を引き、五は業有を発し、六は自具を摂し、七は所縁を迷わし、八は識流を導き、九は善品を越え、十は広く縛の義を成して、自界地を越えざらしむるがゆえに。この随眠に由って能く有の本と為る。ゆえに業はこれに因って有を感ずる能あり。これを略して応に知るべし、差別あって六あり。いわゆる貪・瞋・慢・無明・見・疑。頌にもまた言う、意は慢等もまた貪の力に由って境に於いて随増するを顕さんとす。貪の随増の義は後に辯ずるがごとし。「及び」の声は六体の各々同じからざるを顕す。もし諸の随眠の体はただ六のみならば、何の縁にか経は七随眠を説くか。頌に曰く、
六由貪異七,有貪上二界,
六は貪に由って異なりて七。有貪は上の二界。
於內門轉故,為遮解脫想。
内門に於いて転ずるがゆえに、解脱の想を遮らんがために。
論曰:即前所說六隨眠中分貪為二,故經說七。何等為七?一欲貪隨眠、二瞋隨眠、三有貪隨眠、四慢隨眠、五無明隨眠、六見隨眠、七疑隨眠。欲貪隨眠依何義釋?為欲貪體即是隨眠?為是欲貪之隨眠義?於餘六義徵問亦爾。若爾何失?二俱有過。若欲貪體即是隨眠,便違契經。如契經說:若有一類,非於多時為欲貪纏纏心而住,設心暫爾起欲貪纏,尋如實知出離方便,彼由此故於欲貪纏能正遣除並隨眠斷。若是欲貪之隨眠義,隨眠應是心不相應,便違對法。如本論說:欲貪隨眠三根相應。毘婆沙師作如是說:欲貪等體即是隨眠。豈不違經?無違經失,並隨眠者並隨縛故。或經於得假說隨眠,如火等中立苦等想。阿毘達磨依實相說,即諸煩惱說名隨眠,由此隨眠是相應法。何理為證知定相應?以諸隨眠染惱心故、覆障心故、能違善故,謂隨眠力能染惱心。未生善不生、已生善退失,故隨眠體非不相應。若不相應能為此事,則諸善法應無起時,以不相應恆現前故。既諸善法容有起時,故知隨眠是相應法。此皆非證。所以者何?若許隨眠非相應者,不許上三事是隨眠所為。然經部師所說最善。經部於此所說如何?彼說欲貪之隨眠義,然隨眠體非心相應非不相應,無別物故,煩惱睡位說名隨眠,於覺位中即名纏故。何名為睡?謂不現行種子隨逐。何名為覺?謂諸煩惱現起纏心。何等名為煩惱種子?謂自體上差別功能,從煩惱生能生煩惱。如念種子是證智生,能生當念功能差別。又如芽等有前果生,能生後果功能差別。若執煩惱別有隨眠心不相應名煩惱種,應許念種非但功能別有不相應能引生後念。此既不爾,彼云何然?差別因緣不可得故。若爾,六六契經相違,經說於樂受有貪隨眠故。經但說有,不言爾時即有隨眠。何所違害?於何時有?於彼睡時,或假於因立隨眠想。傍論且止,應辯正論。
論に曰く:すなわち前に説く所の六随眠の中に貪を分かちて二と為す。ゆえに経は七を説く。何等か七と為すか。一は欲貪随眠、二は瞋随眠、三は有貪随眠、四は慢随眠、五は無明随眠、六は見随眠、七は疑随眠。欲貪随眠は何の義に依って釈するか。欲貪の体がすなわち随眠なるか。是れ欲貪の随眠の義なるか。その余の六義に於いても征問はこのよう。もしそうならば何の失かある。二つとも過あり。もし欲貪の体がすなわち随眠ならば、便ち契経に違す。契経に説くがごとく:もし一類ありて、多時に於いて欲貪の纏の心を纏めて住せず、設い心に暫くこのように欲貪の纏を起さば、尋いで如実に出離の方便を知り、彼はこれに由って欲貪の纏に於いて能く正しく遣除し併せて随眠を断ず、と。もし是れ欲貪の随眠の義ならば、随眠は応に心不相応なるべし。便ち対法に違す。本論に説くがごとく:欲貪随眠は三根に相応す、と。毘婆沙師はこの説を作して曰く、欲貪等の体はすなわち随眠なり、と。豈に経に違せざらんや。経に違するの失なし。併せて随眠の併せて随縛するがゆえに。或いは経は得に於いて仮に随眠を説く。火等の中に苦等の想を立つるがごとし。阿毘達磨は実相に依って説く。すなわち諸の煩悩を説いて随眠と名づく。この随眠に由って是れ相応の法。何の理を以てか定めて相応なるを証知するか。諸の随眠は心を染惱するがゆえ、心を覆障するがゆえ、能く善に違するがゆえに。いわゆる随眠の力は能く心を染惱す。未生の善は生ぜず、已生の善は退失す。ゆえに随眠の体は不相応にあらず。もし不相応にして能くこの事を為さば、則ち諸の善法は応に起る時なきべし。不相応は恒に現前するがゆえに。すでに諸の善法に起る時あるを容るれば、ゆえに随眠は相応の法と知る。これ皆証にあらず。そもそもどうしてか。もし随眠は非相応と許さば、上の三事は随眠の為す所と許さざるべし。しかし経部師の説く所は最も善し。経部はこれに於いて説く所いかなるか。彼は説く、欲貪の随眠の義なり。しかし随眠の体は心相応に非ず不相応に非ず。別の物なきがゆえに。煩悩の睡る位を説いて随眠と名づけ、覚の位の中に於いてすなわち纏と名づくがゆえに。何を睡と名づくか。いわゆる現行せざる種子の随逐する。何を覚と名づくか。いわゆる諸の煩悩の現起して心を纏める。何等を煩悩の種子と名づくか。いわゆる自体の上の差別の功能、煩悩より生じて能く煩悩を生ず。念の種子のごときは是れ証智の生ずる、能く当念を生ずる功能の差別。また芽等のごとく前果の生ずるあり、能く後の果を生ずる功能の差別。もし煩悩に別に随眠の心不相応ありて煩悩の種と名づくと執せば、応に許すべし、念の種もまた但だ功能のみにあらずして別に不相応ありて能く後念を引生せしむるを。これすでにこのようにはあらざれば、彼はどうしてこのようか。差別の因縁は得べからざるがゆえに。もしそうならば、六六の契経に相違す。経は楽受に於いて貪の随眠ありと説くがゆえに。経は但だ有りと説く、爾の時にすなわち随眠あると説かず。何の違害する所かある。どの時に於いて有るか。彼の睡る時に於いて、或いは仮に因に於いて随眠の想を立つ。傍論は且く止め、正論を辯ずべし。
言貪分二,謂欲、有貪。此中有貪以何為體?謂色無色二界中貪。此名何因唯於彼立?彼貪多託內門轉故。謂彼二界多起定貪,一切定貪於內門轉,故唯於彼立有貪名。又由有人於上二界起解脫想,為遮彼故,謂於上界立有貪名,顯彼所緣非真解脫,此中自體立以有名。彼諸有情多於等至及所依止深生味著,故說彼唯味著自體;非味著境,離欲貪故,由此唯彼立有貪名。既說有貪在上二界,義準欲界貪名欲貪,故於頌中不別顯示。即上所說六種隨眠,於本論中復分為十。如何成十?頌曰:
(論は続けて曰く:)貪を分かちて二と為すと言うは、いわゆる欲・有貪。この中に有貪は何を以て体と為すか。いわゆる色・無色の二界の中の貪。この名は何の因にかただ彼に於いて立つるか。彼の貪は多く内門に託して転ずるがゆえに。いわゆる彼の二界は多く定貪を起し、一切の定貪は内門に於いて転ず。ゆえにただ彼に於いて有貪の名を立つ。また人ありて上の二界に於いて解脱の想を起すに由って、彼を遮らんがため。いわゆる上界に於いて有貪の名を立つ。彼の縁ずる所は真の解脱にあらざるを顕し、ここに自体は有の名を以て立つ。彼の諸の有情は多く等至および依止する所に深く味着を生ず。ゆえに彼を説いてただ自体を味着すと為す。境を味着するにあらず。欲貪を離れたるがゆえに。これに由ってただ彼に有貪の名を立つ。すでに有貪は上の二界に在りと説けば、義は准じて欲界の貪を欲貪と名づく。ゆえに頌の中に別に顕示せず。すなわち上に説く所の六種の随眠は、本論の中に於いて復た十に分かつ。どうして十を成すか。頌に曰く、
六由見異十,異謂有身見,
六は見に由って異なりて十。異とはいわゆる有身見、
邊執見邪見,見取戒禁取。
辺執見・邪見・見取・戒禁取。
論曰:六隨眠中見行異為五,餘非見五,積數總成十,故於十中五是見性:一有身見、二邊執見、三邪見、四見取、五戒禁取。五非見性:一貪、二瞋、三慢、四無明、五疑。又即所說六種隨眠,於本論中說九十八。依何義說九十八耶?頌曰:
論に曰く:六随眠の中、見の行の異なるを五と為し、其余の非見は五。積数して総じて十を成す。ゆえに十の中、五は見の性:一は有身見、二は辺執見、三は邪見、四は見取、五は戒禁取。五は非見の性:一は貪、二は瞋、三は慢、四は無明、五は疑。またすなわち説く所の六種の随眠は、本論の中に於いて九十八と説く。何の義に依って九十八と説くか。頌に曰く、
六行部界異,故成九十八,
六は行・部・界の異なるに由って、ゆえに九十八を成す。
欲見苦等斷,十七七八四,
欲界の見苦等の断ずる所は、十七・七・八・四。
謂如次具離,三二見見疑,
いわゆる次第のごとく具に離るるは、三・二・見・見・疑。
色無色除瞋,餘等如欲說。
色・無色は瞋を除き、その余は等しく欲のごとく説く。
論曰:六種隨眠由行、部、界有差別,故成九十八。謂於六中由見行異分別為十,如前已辯。即此所辯十種隨眠,部、界不同成九十八。部謂見四諦、修所斷五部。界謂欲色無色三界。且於欲界五部不同,乘十隨眠成三十六。謂見苦諦至修所斷,如次有十七七八四。即上五部,於十隨眠一二一一如其次第,具離三見二見見疑。謂見苦諦所斷具十;見集滅諦所斷各七,離有身見、邊見、戒取;見道諦所斷八,離有身見及邊執見。修所斷四,離見及疑,如是合成三十六種。前三十二名見所斷,才見諦時彼則斷故;最後有四名修所斷,見四諦已後後時中數數習道彼方斷故。如是已顯十隨眠中薩迦耶見唯在一部,謂見苦所斷。邊執見亦爾。戒禁取通在二部,謂見苦、見道所斷。邪見通四部,謂見苦、集、滅、道所斷,見取疑亦爾。餘貪等四各通五部,謂見四諦及修所斷。此中何相見苦所斷?乃至何相是修所斷?若緣見此所斷為境名見此所斷,餘名修所斷。如是六中見分十二、疑分為四、餘四各五,故欲界中有三十六。色無色界五部各除瞋,餘與欲同,故各三十一。由是本論以六隨眠行、部、界殊說九十八。於此所辯九十八中,八十八見所斷,忍所害故。十隨眠修所斷,智所害故。如是所說見、修所斷,為決定爾?不爾。云何?頌曰:
論に曰く:六種の随眠は行・部・界に差別あるに由って、ゆえに九十八を成す。いわゆる六の中に於いて見の行の異なるに由って分別して十と為す。前に已に辯ぜしがごとし。すなわちこの辯ぜし所の十種の随眠は、部・界同じからずして九十八を成す。部とはいわゆる四諦を見る・修の断ずべき五部。界とはいわゆる欲・色・無色の三界。且つ欲界に於いて五部同じからず、十随眠に乗じて三十六を成す。いわゆる苦諦を見て断ずるより修所断に至るまで、次第のごとく十七・七・八・四あり。すなわち上の五部は、十随眠に於いて一・二・一・一にその次第のごとく、具に三見・二見・見・疑を離る。いわゆる苦諦を見て断ずべきは具に十あり。集・滅諦を見て断ずべきは各々七、有身見・辺見・戒取を離る。道諦を見て断ずべきは八、有身見および辺執見を離る。修所断は四、見および疑を離る。このように合して三十六種を成す。前の三十二は見所断と名づく。纔かに諦を見る時、彼は則ち断ぜらるるがゆえに。最後に四ありて修所断と名づく。四諦を見已りて後後の時の中に於いて数々道を習いて彼は方に断ぜらるるがゆえに。このように已に十随眠の中に薩迦耶見はただ一部に在るを顕せり。いわゆる見苦の断ずる所。辺執見もまたこのよう。戒禁取は二部に通ず。いわゆる見苦・見道の断ずる所。邪見は四部に通ず。いわゆる見苦・集・滅・道の断ずる所。見取・疑もまたこのよう。その余の貪等の四は各々五部に通ず。いわゆる四諦を見るおよび修の断ずる所。この中にどの相を見苦の断ずる所とするか。乃至どの相を修所断とするか。もしこれ見る所の断ずるを境と為して縁ずれば見所断と名づく。その余は修所断と名づく。このように六の中に見は十二に分かれ、疑は四に分かれ、その余の四は各々五。ゆえに欲界の中に三十六あり。色・無色界は五部各々瞋を除き、その余は欲と同じ。ゆえに各々三十一。これに由って本論は六随眠の行・部・界の殊を以て九十八を説く。ここに辯ぜし所の九十八の中、八十八は見所断。忍の害する所なるがゆえに。十の随眠は修所断。智の害する所なるがゆえに。このように説く所の見・修の断ずる所は、決定してこのようか。そうにはあらず。どうか。頌に曰く、
忍所害隨眠,有頂唯見斷,
忍の害する所の随眠は、有頂はただ見断。
餘通見修斷,智所害唯修。
その余は見・修断に通ず。智の害する所はただ修断。
論曰:忍聲通說法類智忍。於忍所害諸隨眠中有頂地攝唯見所斷,唯類智忍方能斷故。餘八地攝通見修斷,謂聖者斷唯見非修,法類智忍如應斷故。若異生斷唯修非見,數習世俗智所斷故。智所害諸隨眠一切地攝,唯修所斷,以諸聖者及諸異生如其所應,皆由數習無漏世俗智所斷故。有餘師說:外道諸仙不能伏斷見所斷惑。如《大分別諸業契經》說:離欲貪諸外道類,有緣欲界邪見現行。及《梵網經》亦說:彼類有緣欲界諸見現行。謂於前際分別論者,有執全常、有執一分、有執諸法無因生等。非色界惑緣欲界生,於欲界境已離貪故,定是欲界諸見未斷。毘婆沙師釋彼經義:起見時暫退,如提婆達多。由行有殊分見為五,名先已列,自體如何?頌曰:
論に曰く:忍の声は通じて法・類智の忍を説く。忍の害する所の諸の随眠の中、有頂地の摂するはただ見所断。ただ類智の忍のみ方に能く断ずるがゆえに。その余の八地の摂するは見・修断に通ず。いわゆる聖者の断ずるはただ見にして修にあらず。法・類智の忍の応じて断ずるがゆえに。もし異生の断ずるはただ修にして見にあらず。数習の世俗智の断ずる所なるがゆえに。智の害する所の諸の随眠は一切地の摂して、ただ修所断。諸の聖者および諸の異生、その応ずるごとく、皆数習の無漏・世俗智の断ずる所に由るがゆえに。その余の師の説に、外道の諸仙は見所断の惑を伏断すること能わず。《大分別諸業契経》に説くがごとく:欲貪を離れたる諸の外道類に、欲界に縁ずる邪見の現行あり、と。および《梵網経》にもまた説く:彼の類に欲界の諸見に縁ずる現行あり、と。いわゆる前際の分別論に於いて、或いは全常を執し、或いは一分を執し、或いは諸法の因なき生を執する等。色界の惑が欲界に縁じて生ずるにあらず。欲界の境に於いて已に貪を離れたるがゆえに、定めて是れ欲界の諸見の未だ断ぜざる。毘婆沙師は彼の経の義を釋す:見を起す時は暫く退す。提婆達多(調達)のごとし、と。行に殊あるに由って見を分かちて五と為す。名は先に已に列せり。自体はいかなるか。頌に曰く、
我我所斷常,撥無劣謂勝,
我・我所・断・常、無を撥し劣を勝と謂い、
非因道妄謂,是五見自體。
因・道にあらざるを妄りに謂う。是れ五見の自体。
論曰:執我及我所,是薩迦耶見。壞故名薩,聚謂迦耶,即是無常和合蘊義,迦耶即薩名薩迦耶。此薩迦耶即五取蘊,為遮常一想故立此名,要此想為先方執我故。毘婆沙者作如是釋:有故名薩,身義如前。勿無所緣計我我所,故說此見緣於有身。緣薩迦耶而起此見,故標此見名薩迦耶。諸見但緣有漏法者,皆應標以薩迦耶名。然佛但於我我所執摽此名者,令知此見緣薩迦耶非我我所,以我我所畢竟無故。如契經說:苾芻當知,世間沙門婆羅門等,諸有執我等,隨觀見一切,唯於五取蘊起。即於所執我我所事執斷執常,名邊執見,以妄執取斷常邊故。於實有體苦等諦中起見撥無,名為邪見。一切妄見皆顛倒轉並應名邪,而但撥無名邪見者,以過甚故。如說臭酥惡執惡等,此唯損減,餘增益故。於劣謂勝,名為見取。有漏名劣,聖所斷故。執劣為勝總名見取,理實應立見等取名,略去等言但名見取。於非因道謂因道見,一切總說名戒禁取。如大自在生主,或餘非世間因,妄起因執。投水火等種種邪行,非生天因,妄起因執,唯受持戒禁,數相應智等,非解脫道妄起道執,理實應立戒禁等取名,略去等言但名戒禁取。是謂五見自體應知。若於非因起是因見,此見何故非見集斷?頌曰:
論に曰く:我および我所を執するは、是れ薩迦耶見。壊のゆえに薩と名づく。聚は迦耶を謂う。すなわち是れ無常・和合の蘊の義。迦耶はすなわち薩なり、名づけて薩迦耶。この薩迦耶はすなわち五取蘊。常一の想を遮らんがためにこの名を立つ。要ずるにこの想を先と為して方に我を執するがゆえに。毘婆沙者はこの釋を作して曰く、有るがゆえに薩と名づく。身の義は前のごとし。縁ずる所なきに於いて我・我所を計ること勿れ。ゆえにこの見は有身に縁ずと説く。薩迦耶に縁じてこの見を起すがゆえに、この見を標して薩迦耶と名づく。諸の見の但だ有漏法に縁ずるは、皆応に薩迦耶の名を以て標すべし。しかし仏は但だ我・我所の執に於いてこの名を標したまうは、此の見が薩迦耶に縁じて我・我所にあらざるを知らしめんがため。我・我所は畢竟に無きを以て。契経に説くがごとく:苾芻当に知るべし、世間の沙門・婆羅門等の諸の我を執する等有りて、観見する所に随い一切は、ただ五取蘊に於いて起る、と。すなわち執する所の我・我所の事に於いて断を執し常を執するを、辺執見と名づく。妄りに断・常の辺を執取するがゆえに。実有の体の苦等の諦の中に於いて見を起して無と撥するを、邪見と名づく。一切の妄見は皆顛倒して転じて併せて応に邪と名づくべきに、しかし但だ無を撥するを邪見と名づくるは、過甚なるを以て。臭酥・悪執・悪等と説くがごとし。これはただ損減、その余は增益するがゆえに。劣に於いて勝と謂うを、見取と名づく。有漏を劣と名づく。聖の断ずる所なるがゆえに。劣を執して勝と為すを総じて見取と名づく。理実は応に見等取の名を立つべし。等の言を略して但だ見取と名づく。因・道に非ざるに於いて因・道と謂う見を、一切総じて説いて戒禁取と名づく。大自在・生主のごとき、或いはその余の世間の因にあらざるを、妄りに因の執を起す。水・火に投ずる等の種種の邪行は、生天の因にあらざるに、妄りに因の執を起す。但だ戒禁を受持するのみ、数々相応する智等は、解脱の道にあらざるに妄りに道の執を起す。理実は応に戒禁等取の名を立つべし。等の言を略して但だ戒禁取と名づく。是を五見の自体と謂う、応に知るべし。もし因に非ざるに於いて是れ因との見を起せば、この見は何故見集断にあらざるか。頌に曰く、
於大自在等,非因妄執因,
大自在等に於いて、因に非ざるを妄りに因と執すは、
從常我倒生,故唯見苦斷。
常・我の倒より生ず。ゆえにただ見苦の断。
論曰:執大自在生主或餘為世間因生世間者,必先計度彼體是常一我作者方起因執。才見苦時,於自在等常執我執永斷無餘,故彼所生因執亦斷。若爾,有執投水火等種種邪行是生天因,或執但由受持戒禁等便得清淨,不應見苦斷。然本論說有諸外道起如是見立如是論,若有士夫補特伽羅受持牛戒鹿戒狗戒,便得清淨解脫出離,永超眾苦樂至超苦樂處。如是等類非因執因,一切應知。是戒禁取見苦所斷,如彼廣說。此復何因是見苦斷?迷苦諦故有太過失,緣有漏惑皆迷苦故。復有何相別戒禁取,可說彼為見道所斷?諸緣見道所斷法生,彼亦應名迷苦諦故。又緣道諦邪見及疑,若撥若疑無解脫道,如何即執此能得永清淨?若彼撥無真解脫道,妄執別有餘清淨因,是則執餘能得清淨,非邪見等。此緣見道所斷諸法,理亦不成。又若有緣見集滅諦所斷邪見等執為清淨因,此復何因非見彼斷?故所執義應更思擇。如前所說,常我倒生,為但有斯二種顛倒。應知顛倒總有四種:一於無常執常顛倒、二於諸苦執樂顛倒、三於不淨執淨顛倒、四於無我執我顛倒。如是四倒其體云何?頌曰:
論に曰く:大自在・生主或いはその余を執して世間の因として世間を生ずと為すは、必ず先に彼の体は常にして一にして我にして作る者と計度して方に因の執を起す。纔かに苦を見る時、自在等の常執・我執は永く断じてその余なし。ゆえに彼の生ずる所の因執もまた断ず。もしそうならば、或いは水・火に投ずる等の種種の邪行を執して是れ生天の因と為し、或いは但だ戒禁等を受持するに由って便ち清浄を得と執するは、応に見苦断にあらざるべし。しかし本論に説く、諸の外道ありてこのような見を起しこのような論を立てて曰く、もし士夫・補特伽羅ありて牛戒・鹿戒・狗戒を受持せば、便ち清浄・解脱・出離を得、永く衆苦楽を超えて苦楽を超ゆる処に至らん、と。このようの等類は因に非ざるを因と執するは、一切応に知るべし。是れ戒禁取、見苦の断ずる所。彼に広く説くがごとし。これ復た何の因にか是れ見苦断なるか。苦諦に迷えるがゆえに太だ過失あり。有漏の惑に縁ずるは皆苦諦に迷えるがゆえに。復た何の相ありて別の戒禁取として、彼を説いて見道の断ずる所と為しうるか。諸の見道の断ずる所の法に縁じて生ずるは、彼もまた応に苦諦に迷えると名づくべきがゆえに。また道諦の邪見および疑に縁ずる、もし撥し若し疑えば解脱の道なしとせば、どうしてすなわちこれを執して能く永の清浄を得と為さん。もし彼が真の解脱道を無と撥して、妄りに別にその余の清浄の因ありと執すれば、是れ則ちその余を執して能く清浄を得と為す。邪見等にあらず。これは見道の断ずる所の諸法に縁ずるに、理もまた成ぜず。またもし見集・滅諦の断ずる所の邪見等に縁ずるを執して清浄の因と為せば、これ復た何の因にか彼を見て断ずるにあらざるか。ゆえに執する所の義は応に更に思択すべし。前に説く所のごとき、常・我の倒より生ずるは、但だこの二種の顛倒のみあるか。応に知るべし、顛倒は総じて四種あり。一は無常に於いて常と執する顛倒、二は諸苦に於いて楽と執する顛倒、三は不浄に於いて浄と執する顛倒、四は無我に於いて我と執する顛倒。このようの四倒、その体はいかなるか。頌に曰く、
四顛倒自體,謂從於三見,
四顛倒の自体は、いわゆる三見より従り、
唯倒推增故,想心隨見力。
ただ倒・推・増するがゆえに、想・心は見の力に随う。
論曰:從於三見立四倒體,謂邊見中唯取常見以為常倒,諸見取中取計樂淨為樂淨倒,有身見中唯取我見以為我倒。有說:我倒攝身見全。我倒如何攝我所見?如何不攝?由倒纏故。諸有計我,於彼事中有自在力,是我所見。此即我見由二門轉:是我、屬我。若是別見由我為我,見亦應別。何故餘惑非顛倒體?要具三因,勝者成倒。言三因者,一向倒故、推度性故、妄增益故。謂戒禁取非一向倒,緣少淨故。斷見邪見非妄增益,無門轉故。所餘煩惱不能推度,非見性故。由具三因,勝者成倒,是故餘惑非顛倒體。若爾,何故契經中言:於無常計常,有想心見倒。於苦、不淨、無我亦然。理實應知唯見是倒,想心隨見亦立倒名,與見相應行相同故。若爾,何故不說受等?彼於世間不極成故。謂心想倒世間極成,受等不然,故經不說。如是諸倒預流已斷,見及相應見所斷故。有餘部說:倒有十二,謂於無常計常倒中有想、心、見三種顛倒,乃至於無我計我倒亦爾。於中八唯見斷。四通見修斷,謂樂淨想心。若謂不然,未離欲聖離樂淨想,寧起欲貪?毘婆沙師不許此義。若有樂淨想心現行,便許聖者有樂淨倒;聖者亦起有情想心,是則亦應許有我倒。非於女等及於自身離有情想心有起欲貪故。由契經說:若有多聞諸聖弟子,於苦聖諦如實見知,乃至爾時彼聖弟子無常計常想心見倒皆已永斷,乃至廣說。故知想心唯取見倒相應力起是倒非餘。然聖有時暫迷亂故,率爾於境欲貪現前。如於旋火輪畫藥叉迷亂。若爾,何故尊者慶喜告彼尊者辯自在言:
論に曰く:三見より従って四倒の体を立つ。いわゆる辺見の中、ただ常見を取って以て常倒と為し、諸の見取の中、楽・浄と計るを取って以て楽・浄の倒と為し、有身見の中、ただ我見を取って以て我倒と為す。ある説に、我倒は身見の全を摂す、と。我倒はどうして我所見を摂するか。どうして摂せざるか。倒纏するがゆえに。諸の我を計る有るは、彼の事の中に於いて自在の力ありて是れ我所見。これすなわち我見は二門に由って転ず。是れ我・我に属す。もし別見ありて我に由って我と為せば、見もまた応に別なるべし。何故その余の惑は顛倒の体にあらざるか。要ずるに三因を具えて、勝れる者は倒を成ず。三因と言うは、一向に倒なるがゆえ、推度の性なるがゆえ、妄りに增益するがゆえに。いわゆる戒禁取は一向の倒にあらず。少浄に縁ずるがゆえに。断見・邪見は妄りに增益するにあらず。門に転ぜざるがゆえに。その余の煩悩は能く推度せず。見の性にあらざるがゆえに。三因を具えるに由って、勝れる者は倒を成ず。このゆえにその余の惑は顛倒の体にあらず。もしそうならば、何故契経の中に説く、無常に於いて常と計るに想・心・見の倒あり。苦・不浄・無我に於いてもまたこのよう、と。理実は応に知るべし、ただ見のみ是れ倒。想・心は見に随いてもまた倒の名を立つ。見と相応して行相は同じきがゆえに。もしそうならば、何故受等を説かざるか。彼は世間に於いて極成せざるがゆえに。いわゆる心・想の倒は世間に極成し、受等はこのようにはあらず。ゆえに経は説かず。このようの諸倒は預流に已に断ぜられたり。見および相応は見の断ずる所なるがゆえに。その余の部の説に、倒に十二あり。いわゆる無常に於いて常と計る倒の中に想・心・見の三種の顛倒あり、乃至無我に於いて我と計る倒もまたこのよう。その中の八はただ見断。四は見・修断に通ず。いわゆる楽・浄の想・心。もしこのようにはあらずと謂わば、未だ欲を離れざる聖は楽・浄の想を離れて、寧ろ欲貪を起さんや。毘婆沙師はこの義を許さず。もし楽・浄の想・心の現行あれば、便ち聖者に楽・浄の倒あるを許すべし。聖者もまた有情の想・心を起す。是れ則ちもまた応に我倒あるを許すべし。女等に於いておよび自身に於いて有情の想・心を離れて欲貪を起すことあらざるがゆえに。契経に説くに由る:もし多聞の諸の聖弟子ありて、苦聖諦に於いて如実に見知せば、乃至爾の時彼の聖弟子の無常に於いて常と計る想・心・見の倒は皆已に永く断ぜられたり、乃至広く説く、と。ゆえに想・心はただ見倒の相応する力に取って起るは是れ倒にしてその余にあらざるを知る。しかし聖にも時ありて暫く迷乱するがゆえに、率爾に境に於いて欲貪現前す。旋火輪の画ける薬叉に於いて迷乱するがごとし。もしそうならば、何故尊者慶喜は彼の尊者辯自在に告げて説き曰く、
由有想亂倒,故汝心燋熱,
想の乱倒あるに由って、ゆえになんじの心は焦熱す。
遠離彼想已,貪息心便淨。
彼の想を遠離し已りて、貪息まりて心は便ち浄し。
故有餘師復作是說:八想心倒,學未全斷。如是八種,纏由如實見知聖諦方得永斷,離此無餘永斷方便,故此所說不違彼經。為唯見隨眠有多差別、為餘亦有?慢亦有。云何?頌曰:
(論は続けて曰く:)このゆえにその余の師ありて復たこの説を作して曰く、八の想・心の倒は、学は未だ全く断ぜず、と。このようの八種は、纏は如実に聖諦を見知するに由って方に永断を得。これを離れて永断のその余の方便なし。ゆえにここに説く所は彼の経に違せず。ただ見の随眠のみ多くの差別あるか、その余にもまたあるか。慢にもまたあり。どうか。頌に曰く、
慢七九從三,皆通見脩斷,
慢は七・九、三より従る。皆見・修断に通ず。
聖如殺纏等,有脩斷不行。
聖は殺の纏等のごとき、修断にして行ぜざるあり。
論曰:且慢隨眠差別有七,一慢、二過慢、三慢過慢、四我慢、五增上慢、六卑慢、七邪慢。令心高舉總立慢名,行轉不同故分七種。於劣於等如其次第謂己為勝、謂己為等,令心高舉總說為慢。於等於勝如其次第謂勝謂等總名過慢。於勝謂勝名慢過慢。於五取蘊執我我,所令心高舉名為我慢。於未證得殊勝德中謂已證得名增上慢。於多分勝謂己少劣名為卑慢。於無德中謂己有德名為邪慢。然本論說慢類有九:一我勝慢類、二我等慢類、三我劣慢類、四有勝我慢類、五有等我慢類、六有劣我慢類、七無勝我慢類、八無等我慢類、九無劣我慢類。如是九種,從前七慢三中離出。從三者何?謂從前慢、過慢、卑慢如是三慢,若依見生行次有殊成三三類。初三如次,即過慢、慢、卑慢。中三如次,即卑慢、慢、過慢。後三如次,即慢、過慢、卑慢。於多分勝謂己少劣,卑慢可成,有高處故。無劣我慢高處是何?謂於如是自所愛樂勝有情聚,雖於己身知極下劣而自尊重。如是且依《發智論》釋。依《品類足》釋慢類者,且我勝慢從三慢出,謂慢、過慢、慢過慢三。由觀劣等勝境別故。如是七慢何所斷耶?一切皆通見修所斷。諸脩所斷,聖未斷時為可現行?此不決定,謂有脩所斷而聖定不行,如殺生纏是脩所斷,而諸聖者必不現行。殺生纏者,顯由此惑發起故思斷眾生命。等言為顯盜、婬、誑纏,無有愛全、有愛一分。無有名何法?謂三界無常,於此貪求,名無有愛。有愛一分,謂願當為藹羅筏拏大龍王等。此諸纏愛一切皆緣脩所斷故,唯脩所斷。已說慢類等,有是脩所斷,何緣聖者未斷不起?頌曰:
論に曰く:且つ慢の随眠は差別あって七あり。一は慢、二は過慢、三は慢過慢、四は我慢、五は増上慢、六は卑慢、七は邪慢。心をして高擧せしむるを総じて慢の名を立つ。行の転ずる同じからざるがゆえに七種に分かつ。劣に於いて等に於いて、その次第のごとく己を勝と謂い、己を等と謂い、心をして高擧せしむるを総じて説いて慢と為す。等に於いて勝に於いて、その次第のごとく勝と謂い等と謂うを総じて過慢と名づく。勝に於いて勝と謂うを慢過慢と名づく。五取蘊に於いて我・我所を執して心をして高擧せしむるを我慢と名づく。未だ証得せざる殊勝の徳の中に於いて已に証得したりと謂うを増上慢と名づく。多分の勝に於いて己を少劣と謂うを卑慢と名づく。徳なき中に於いて己に徳ありと謂うを邪慢と名づく。しかし本論は慢類に九あると説く。一は我勝慢類、二は我等慢類、三は我劣慢類、四は有勝我慢類、五は有等我慢類、六は有劣我慢類、七は無勝我慢類、八は無等我慢類、九は無劣我慢類。このようの九種は前の七慢の中の三より離れ出づ。三より従るとは何ぞ。いわゆる前の慢・過慢・卑慢のこのようの三慢より、もし見の生ずる行の次に殊あるに依って三三の類を成ず。初の三は次第のごとくすなわち過慢・慢・卑慢。中の三は次第のごとくすなわち卑慢・慢・過慢。後の三は次第のごとくすなわち慢・過慢・卑慢。多分の勝に於いて己を少劣と謂うは卑慢成すべし。高き処あるがゆえに。無劣我慢の高き処は何ぞ。いわゆるこのようの自ら愛楽する所の勝れる有情聚に於いて、己身に於いて極めて下劣なるを知ると雖も、しかし自ら尊重す。このように且つ《発智論》に依って釋す。《品類足》に依って慢類を釋すれば、且つ我勝慢は三慢より出づ。いわゆる慢・過慢・慢過慢の三。劣・等・勝の境の別を観ずるに由るがゆえに。このようの七慢は何の断ずる所か。一切皆見・修の断ずる所に通ず。諸の修所断は、聖の未だ断ぜざる時、現行すべきか。これは決定せず。いわゆる修所断にして聖は定めて行ぜざるあり。殺生の纏のごときは是れ修所断にして、諸の聖者は必ず現行せず。殺生の纏とは、明かにこの惑に由って故思を発起して衆生の命を断ず。等の言は盗・淫・誑の纏、無有愛の全・有愛の一分を顕さんがため。無有とは何の法を名づくか。いわゆる三界の無常。これに於いて貪求すれば、無有愛と名づく。有愛の一分とは、いわゆる願いて当に藹羅筏拏(帝釈の白象)・大龍王等と為らんとす。これらの諸の纏・愛は一切皆修所断に縁ずるがゆえに、ただ修所断。已に慢類等を説いたり。修所断なる有りて、何の縁にか聖者は未だ断ぜずして起さざるか。頌に曰く、
慢類等我慢,惡作中不善,
慢類等の我慢、惡作の中の不善は、
聖有而不起,見疑所增故。
聖に有れども起さず。見・疑の増する所なるがゆえに。
論曰:等言為顯殺等諸纏,無有愛全、有愛一分。此慢類等我慢惡悔,是見及疑親所增長。雖脩所斷,而由見疑背已折故,聖不能起。謂慢類我慢有身見所增,殺生等纏邪見所增,諸無有愛斷見所增,有愛一分常見所增,不善惡作是疑所增,故聖身中皆定不起。九十八隨眠中,幾是遍行、幾非遍行?頌曰:
論に曰く:等の言は殺等の諸の纏、無有愛の全・有愛の一分を顕さんがため。この慢類等の我慢・惡悔は、是れ見および疑の親しく増長する所。修所断なりと雖も、しかし見・疑に由って已に折背せられたるがゆえに、聖は起すこと能わず。いわゆる慢類・我慢は有身見の増す所、殺生等の纏は邪見の増す所、諸の無有愛は断見の増す所、有愛の一分は常見の増す所、不善の惡作は是れ疑の増す所。ゆえに聖の身の中には皆定めて起さず。九十八随眠の中、幾つかは遍行、幾つかは遍行に非ずか。頌に曰く、
見苦集所斷,諸見疑相應,
苦・集を見て断ずる所の諸の見・疑に相応する、
及不共無明,遍行自界地,
および不共の無明は、自界地を遍行す。
於中除二見,餘九能上緣,
その中に二見を除き、その余の九は能く上に縁ず。
除得餘隨行,亦是遍行攝。
得を除きてその余の随行は、もまた遍行の摂。
論曰:唯見苦集所斷見疑,及彼相應不共無明,力能遍行自界地五部故,此十一皆得遍行名,謂七見、二疑、二無明十一。如是十一,於自界地五部諸法遍緣,隨眠為因遍生五部染法。依此三義立遍行名。此中所言遍緣五部,為約漸次、為約頓緣?若漸次緣,餘亦應遍。若頓緣者,誰復普於欲界諸法頓計為勝能得清淨或世間因?不說頓緣自界地一切,然說有力能頓緣五部。雖爾,遍行亦非唯此,以於是處有我見行,是處必應起我愛慢。若於是處淨勝見行,是處必應希求高舉,是則愛慢應亦遍行。若爾,頓緣見脩斷故,應言此二何所斷耶?應言脩所斷,雜緣境故。或應見所斷,見力引故。毘婆沙師作如是說:此二煩惱自相非共,無頓緣力,故非遍行。是故遍行唯此十一,餘非,准此不說自成。於十一中除身邊見,所餘九種亦能上緣。上言正明上界上地,兼顯無有緣下隨眠。此九雖能通緣自上,然理無有自上頓緣。於緣上中且約界說,或唯緣一或二合緣。故本論言:有諸隨眠是欲界繫、緣色界繫,有諸隨眠是欲界繫、緣無色界繫,有諸隨眠是欲界繫、緣色無色界繫,有諸隨眠是色界繫、緣無色界繫。約地分別,準界應思。生在欲界,若緣大梵起有情見或起常見,如何身邊見不緣上界地?不執彼為我我所故、邊見必由身見起故。若爾,計彼為有情常,是何見攝?對法者言:此二非見,是邪智攝。何緣所餘緣彼是見,此亦緣彼而非見耶?以宗為量,故作是說。為遍行體唯是隨眠?不爾。云何?並隨行法。謂上所說十一隨眠並彼隨行皆遍行攝,然除彼得,非一果故。由此故有作是問言:諸遍行隨眠,皆遍行因不?答言:於此應作四句。第一句者,謂未來世遍行隨眠。第二句者,謂過現世彼俱有法。第三第四如理應辯。九十八隨眠中,幾緣有漏、幾緣無漏?頌曰:
論に曰く:ただ苦・集を見て断ずる所の見・疑、および彼に相応する不共の無明は、力能く自界地の五部を遍行するがゆえに、この十一は皆遍行の名を得。いわゆる七見・二疑・二無明の十一。このようの十一は、自界地の五部の諸法を遍く縁じ、随眠を因と為して遍く五部の染法を生ず。この三義に依って遍行の名を立つ。ここに説く所の遍く五部に縁ずるは、漸次に約するか、頓縁に約するか。もし漸次に縁ずれば、その余もまた応に遍くべし。もし頓縁ならば、誰か復た普く欲界の諸法に於いて頓に勝と計りて能く清浄を得或いは世間の因と為さん。頓に自界地の一切に縁ずるとは説かず、しかし力能く頓に五部に縁ずると説く。このようなりと雖も、遍行もまたただこれのみにあらず。是の処に於いて我見の行あらば、是の処に必ず応に我愛・慢を起すべきがゆえに。もし是の処に於いて浄勝の見の行あらば、是の処に必ず応に希求・高擧すべし。是れ則ち愛・慢もまた応に遍行なるべし。もしそうならば、頓に見・修断に縁ずるがゆえに、応に説くべしこの二は何の断ずる所ぞ。応に説くべし修所断。境を雑縁するがゆえに。或いは応に見所断。見の力の引くがゆえに。毘婆沙師はこの説を作して曰く、この二の煩悩は自相にして共にあらず、頓縁の力なし。ゆえに遍行にあらず、と。このゆえに遍行はただこの十一、その余は非ず。これに准じて説かずして自ずから成ず。十一の中、身・辺見を除きて、その余の九種もまた能く上に縁ず。上の言は正しく上界・上地を明かし、兼ねて下に縁ずる随眠なきを顕す。この九は能く通じて自・上に縁ずると雖も、しかし理は自・上を頓縁する有ることなし。上に縁ずる中に於いて且つ界に約して説く。或いはただ一に縁じ或いは二を合せて縁ず。ゆえに本論に説く:諸の随眠ありて是れ欲界繋にして色界繋に縁じ、諸の随眠ありて是れ欲界繋にして無色界繋に縁じ、諸の随眠ありて是れ欲界繋にして色・無色界繋に縁じ、諸の随眠ありて是れ色界繋にして無色界繋に縁ず、と。地に約して分別すれば、界に准じて思うべし。欲界に生じて、もし大梵に縁じて有情見を起し或いは常見を起さば、どうして身・辺見は上界地に縁ぜざるか。彼を執して我・我所と為さざるがゆえ、辺見は必ず身見に由って起るがゆえに。もしそうならば、彼を計りて有情・常と為すは、何の見の摂する所か。対法者の説に、この二は見にあらず、是れ邪智の摂、と。何の縁にかその余の彼に縁ずるは見にして、これもまた彼に縁じて見にあらざるか。宗を以て量と為す。ゆえにこの説を作す。遍行の体はただ随眠のみなるか。そうにはあらず。どうか。併せて随行の法。いわゆる上に説く所の十一随眠は併せて彼の随行も皆遍行の摂。しかし彼の得を除く。一果にあらざるがゆえに。これに由ってこの問を作す有りて説く:諸の遍行随眠は皆遍行因か。答えて説く:これに於いて応に四句を作すべし。第一句はいわゆる未来世の遍行随眠。第二句はいわゆる過・現世の彼に俱なる有法。第三・第四は理のごとく辯ずべし。九十八随眠の中、幾つかは有漏に縁じ、幾つかは無漏に縁ずるか。頌に曰く:
見滅道所斷,邪見疑相應,
滅・道を見て断ずる所、邪見・疑に相応する、
及不共無明,六能緣無漏。
および不共の無明は、六は能く無漏に縁ず。
於中緣滅者,唯緣自地滅,
その中に滅に縁ずるは、ただ自地の滅に縁じ、
緣道六九地,由別治相因。
道に縁ずるは六・九地、別対治・相同の因に由る。
貪瞋慢二取,並非無漏緣,
貪・瞋・慢・二取は、併せて無漏の縁にあらず、
應離境非怨,靜淨勝性故。
応に離れる境にして怨にあらず、静・浄・勝の性なるがゆえに。
論曰:唯見滅道所斷邪見、疑,彼相應不共無明,各三成六,能緣無漏。餘緣有漏,准此自成。於此六中緣滅諦者,各以自地滅為所緣,滅互相望非因果故。謂欲界繫三種隨眠,唯緣欲界諸行擇滅。乃至有頂三種隨眠,唯緣有頂諸行擇滅。緣道諦者緣六九地,謂欲界繫三種隨眠,唯緣六地法智品道,若治欲界、若能治餘,皆彼所緣,以類同故。色無色界八地各有三種隨眠,一一唯能通緣九地類智品道,若治自地、若能治餘,皆彼所緣,以類同故。何故緣滅自地非餘?緣道便通六九同類,以諸地道互相因故。雖法類品亦互相因,而類智品不治欲界,故類智品道非欲三所緣。法智品既能治色無色,應為彼八地各三所緣。非此皆能治色無色,苦集法智品非彼對治故。亦非全能治色無色,不能治彼見所斷故。二初無故,非彼所緣。即由此因,顯遍行惑有緣苦集諸地無遮,境互為緣因,非能對治故。何緣貪瞋慢戒禁取見取,見無漏斷非無漏緣?以貪隨眠應捨離故,若緣無漏便非過失,如善法欲不應捨離。緣怨害事起瞋隨眠,滅道非怨故非瞋境。緣麁動事起慢隨眠,滅道寂靜故非慢境。於非淨法執為淨因名戒禁取,滅道真淨,故不應為戒禁取境。於非勝法執為最勝名為見取,滅道真勝,故亦不應為見取境。是故貪等不緣無漏。九十八隨眠中,幾由所緣故隨增、幾由相應故隨增?頌曰:
論に曰く:ただ滅・道を見て断ずる所の邪見・疑、彼に相応する不共の無明は、各々三にして六を成し、能く無漏に縁ず。その余は有漏に縁ず。これに准じて自ずから成ず。この六の中、滅諦に縁ずるは、各々自地の滅を以て所縁と為す。滅は互いに相望めて因果にあらざるがゆえに。いわゆる欲界繋の三種の随眠は、ただ欲界の諸行の択滅に縁ず。乃至有頂の三種の随眠は、ただ有頂の諸行の択滅に縁ず。道諦に縁ずるは六・九地に縁ず。いわゆる欲界繋の三種の随眠は、ただ六地の法智品の道に縁ず。もし欲界を治め、もし能くその余を治すれば、皆彼の所縁。類を同じくするがゆえに。色・無色界の八地に各々三種の随眠ありて、一一はただ能く九地の類智品の道に通じて縁ず。もし自地を治め、もし能くその余を治すれば、皆彼の所縁。類を同じくするがゆえに。何故滅に縁ずるは自地にしてその余にあらざるか。道に縁ずれば便ち六・九の同類に通ず。諸の地道は互いに因たるがゆえに。法・類品もまた互いに因なると雖も、しかし類智品は欲界を治せず。ゆえに類智品の道は欲の三の縁ずる所にあらず。法智品はすでに能く色・無色を治するは、応に彼の八地各々三の縁ずる所と為るべし。これ皆能く色・無色を治するにあらず。苦・集の法智品は彼の対治にあらざるがゆえに。もまた全能く色・無色を治するにあらず。彼の見所断を治すること能わざるがゆえに。二は初めに由るなきがゆえに、彼の縁ずる所にあらず。すなわちこの因に由って、遍行の惑に苦・集の諸地に縁ずるありて遮なきを顕す。境は互いに縁因たり、能く対治するにあらざるがゆえに。何の縁にか貪・瞋・慢・戒禁取・見取は、無漏を見て断ずるに無漏の縁にあらざるか。貪随眠は応に捨離すべきがゆえに。もし無漏に縁ぜば便ち過失にあらず。善法欲の応に捨離すべからざるがごとし。怨害の事に縁じて瞋随眠を起す。滅・道は怨にあらざるがゆえに瞋の境にあらず。麁動の事に縁じて慢随眠を起す。滅・道は寂静なるがゆえに慢の境にあらず。非浄の法に於いて浄因と執するを戒禁取と名づく。滅・道は真浄なるがゆえに、応に戒禁取の境と為るべからず。非勝の法に於いて最勝と執するを見取と名づく。滅・道は真の勝なるがゆえに、もまた応に見取の境と為るべからず。このゆえに貪等は無漏に縁ぜず。九十八随眠の中、幾つかは所縁に由って随増し、幾つかは相応に由って随増するか。頌に曰く、
