説一切有部倶舎論 巻第十五
論曰:言逆次者,自後向前。謂於第三無數劫滿所逢事佛名為勝觀,第二劫滿所逢事佛名曰然燈,第一劫滿所逢事佛名為寶髻,最初發心位逢釋迦牟尼。謂我世尊昔菩薩位最初逢一佛號釋迦牟尼,遂對其前發弘誓願:願我當作佛,一如今世尊。彼佛亦於末劫出世,滅後正法亦住千年。故今如來一一同彼。我釋迦菩薩於何位中何波羅蜜多修習圓滿?頌曰:
論に曰く:逆次と言うは、後より前に向かう。いわゆる第三の無数劫の満ずるに逢い事えし仏は名づけて勝観と曰い、第二の劫満ずるに逢い事えし仏は名づけて然燈と曰い、第一の劫満ずるに逢い事えし仏は名づけて宝髻と曰い、最初に心を発す位に釈迦牟尼に逢えり。いわゆる我が世尊は昔の菩薩の位に最初に一仏に逢い、号を釈迦牟尼と曰いて、遂にその前に対して弘誓願を発し:願わくは我まさに仏を作さん、一に今の世尊のごとく、と。彼の仏もまた末劫に出世し、滅後正法もまた千年住せり。ゆえに今の如来は一一同じく彼なり。我が釈迦菩薩はどの位の中に於いてどの波羅蜜多を修習円満せしか。頌に曰く、
但由悲普施,被析身無忿,
但だ悲に由って普く施し、身を析られても忿なし。
讚歎底沙佛,次無上菩提,
底沙仏を讃歎し、次に無上菩提、
六波羅蜜多,於如是四位,
六波羅蜜多は、このような四位に於いて、
一二又一二,如次修圓滿。
一・二・また一・二、次第のごとく修習円溿。
論曰:若時菩薩普於一切能施一切乃至眼髓,所行惠捨但由悲心,非自希求勝生差別,齊此佈施波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩被析身支,雖未離欲貪而心無少忿,齊此戒忍波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩勇猛精進因行,遇見底沙如來坐寶龕中入火界定威光赫奕特異於常,專誠瞻仰忘下一足,經七晝夜無怠,淨心以妙伽他讚彼佛曰:
論に曰く:もし時に菩薩が普く一切に於いて能く一切を施す乃至眼髓に及ぶまで、行う所の恵捨は但だ悲心に由って、自ら勝生の差別を希求するにあらざるは、これを斎して布施波羅蜜多の修習円満と為す。もし時に菩薩が身支を析られて、未だ欲貪を離れざると雖も心に少しの忿なきは、これを斎して戒・忍波羅蜜多の修習円満と為す。もし時に菩薩が勇猛精進して因を行ずるに、底沙如来に遇い見るに宝龕の中に坐して火界定に入りて威光赫奕として常に殊異なり。専誠に瞻仰して一足を下すを忘れ、七昼夜を経て怠らず。浄心を以て妙なる伽他を以て彼の仏を讃えて説き曰く:
天地此界多聞室,逝宮天處十方無,
天地この界の多聞室、逝く宮の天処十方に無く、
丈夫牛王大沙門,尋地山林遍無等。
丈夫牛王の大沙門、地・山・林を尋ぬるに遍く等しきなし。
如是讚已便超九劫,齊此精進波羅蜜多修習圓滿。若時菩薩處金剛座,將登無上正等菩提,次無上覺前住金剛喻定,齊此定慧波羅蜜多修習圓滿。能到自所往圓德彼岸,故此六名曰波羅蜜多。契經說:有三福業事,一施類福業事、二戒類福業事、三修類福業事。此云何立福業事名?頌曰:
(論は続けて曰く:)このように讃え已りて便ち九劫を超ゆ。これを斎して精進波羅蜜多の修習円満と為す。もし時に菩薩が金剛座に処り、まさに無上正等菩提に登らんとして、無上覚に次ぐ前に金剛喩定に住するを、これを斎して定・慧波羅蜜多の修習円満と為す。能く自ら往く所の円徳の彼岸に到るがゆえに、この六を波羅蜜多と名づく。契経に説く:三福業事あり。一は施類の福業事、二は戒類の福業事、三は修類の福業事。これどうして福業事の名を立つるか。頌に曰く、
施戒修三類,各隨其所應,
施・戒・修の三類は、各々その応ずる所に随って、
受福業事名,差別如業道。
福・業・事の名を受く。差別は業道のごとし。
論曰:三類皆福,或業或事,隨其所應如業道說。謂如分別十業道中,有業亦道有道非業,此中有福亦業亦事、有福業非事、有福事非業、有唯是福非業非事。且施類中身語二業具福業事三種義名,彼等起思唯名福業,思俱有法唯受福名,戒類既唯身語業性故皆具受福業事名。修類中慈唯名福事,業之事故。慈相應思,以慈為門而造作故,慈俱思戒唯名福業,餘俱有法唯受福名。或福業名顯作福義,謂福加行事顯所依,謂施戒修是福業之事,為成彼三起福加行故。有說:唯思是真福業。福業之事謂施戒修,以三為門福業轉故。何法名施?施招何果?頌曰:
論に曰く:三類は皆福なり。或いは業或いは事。随うところに応じて業道の説くがごとし。いわゆる分別十業道の中に於いて、業にしてもまた道あるあり、道にして業にあらざるあるがごとく、この中に於いて福にしてもまた業にしてもまた事あるあり、福業にして事にあらざるあり、福事にして業にあらざるあり、ただ福のみにして業にもあらず事にもあらざるあり。且つ施類の中、身・語の二業は具に福・業・事の三種の義名を有す。彼の等起の思はただ福業と名づく。思に俱なる有法はただ福の名を受く。戒類はすでにただ身語の業の性なるがゆえに皆具に福・業・事の名を受く。修類の中、慈はただ福事と名づく。業の事なるがゆえに。慈に相応する思は、慈を以て門と為して造作するがゆえに。慈に俱なる思・戒はただ福業と名づく。その余の俱なる有法はただ福の名を受く。或いは福業の名は福を作すの義を顕す。いわゆる福の加行の事は依る所を顕す。いわゆる施・戒・修は福業の事なり。彼の三を成ずるがために福の加行を起すがゆえに。ある説に、ただ思は真の福業。福業の事とはいわゆる施・戒・修。三を以て門と為して福業転ずるがゆえに、と。何の法を施と名づくか。施は何の果を招くか。頌に曰く、
由此捨名施,謂為供為益,
これに由って具を捨つを施と名づく。いわゆる供のため益のため。
身語及能發,此招大富果。
身・語および能発。これ大富の果を招く。
論曰:雖所捨物亦得施名,而於此中捨具名施,謂由此具捨事得成,故捨所由是真施體。或由怖畏希求貪等捨事亦成,非此意說,簡彼故說為供益言。謂為於他供養饒益而有所捨,此具名施。具名何謂?謂身語業及此能發。能發謂何?謂無貪俱能起此聚。如有頌曰:
論に曰く:捨てらるる所の物もまた施の名を得ると雖も、しかしこの中に於いて具を捨つるを施と名づく。いわゆるこの具に由って捨事成ずるを得るがゆえに、ゆえに捨の由る所は真の施体なり。或いは怖畏・希求・貪等に由っても捨事成ずと雖も、ここに意は説かず。彼を簡ぶがゆえに供・益の言を説く。いわゆる他に於いて供供養・饒益せんがために捨てるところあるは、この具を施と名づく。具とは何を謂うか。いわゆる身・語の業およびこれを能発する。能発とは何を謂うか。いわゆる無貪と俱に能くこの聚を起す。頌有りて説くがごとし:
若人以淨心,輟己而行施,
もし人、浄心を以て己の分を輟めて施を行ぜば、
此剎那善蘊,總立以施名。
この刹那の善蘊を、総じて施の名を以て立つ。
應知如是施類福業事,能招當現大財富為果。言施類福者,顯施為體義,如葉類器草類舍等。戒修類言准此應釋。為何所益而行施耶?頌曰:
(論は続けて曰く:)応に知るべし、このような施類の福業事は、能く当来・現世の大財富を招いて果と為す。施類福と言うは、施を体とする義を顕す。葉類の器・草類の舎等のごとし。戒・修の類の言はこれに准じて釈すべし。何を益せんがために施を行ずるか。頌に曰く、
為益自他俱,不為二行施。
自・他・俱を益せんがため、二のためにあらずして施を行ず。
論曰:此中一切未離欲貪及離欲貪諸異生類,持己所有奉施制多,此施名為唯為自益,非他由此有獲益故。若諸聖者已離欲貪,施諸有情除順現受,此施名曰唯為益他,以他由此獲饒益故,非為自益,超果地故。若彼一切未離欲貪及離欲貪諸異生類,持己所有施諸有情,此施名為為二俱益。若彼聖者已離欲貪,奉施制多除順現受,此施名曰不為益二,以此唯為恭敬報恩。前已總明施招大富,今次當辯施果別因。頌曰:
論に曰く:この中に一切の未だ欲貪を離れざるおよび欲貪を離れたる諸の異生類が、己の所有を持ちて制多に奉施する。この施はただ自を益するのみと名づく。他がこれに由って獲益することなきがゆえに。もし諸の聖者の已に欲貪を離れたるが、諸の有情に施して順現受を除く。この施はただ他を益するのみと名づく。他がこれに由って饒益を獲るがゆえに、自を益するがためのにあらず。果地を超ゆるがゆえに。もし彼の一切の未だ欲貪を離れざるおよび欲貪を離れたる諸の異生類が、己の所有を持ちて諸の有情に施すれば、この施は二を俱に益すと名づく。もし彼の聖者の已に欲貪を離れたるが、制多に奉施して順現受を除く。この施は二を益するがためならずと名づく。これはただ恭敬・報恩のためのみなるを以て。前に已に総じて施が大富を招くを明かしたり。今次に当に施果の別因を辯ずべし。頌に曰く、
由主財田異,故施果差別。
主・財・田の異なるに由って、施の果に差別あり。
論曰:施有差別,由三種因,謂主、財、田有差別故,施差別故,果有差別。且由施主差別云何?頌曰:
論に曰く:施に差別あるは、三種の因に由る。いわゆる主・財・田に差別あるがゆえに、施に差別あり、果に差別あり。且つ施主の差別に由るはいかなるか。頌に曰く、
主異由信等,行敬重等施,
主の異なるは信等に由り、敬重等の施を行じて、
得尊重廣愛,應時難奪果。
尊重・広愛・応時・難奪の果を得。
論曰:由施主成信、戒、聞等差別功德,故名主異;由主異故,施成差別;由施差別,與果有異。諸有施主具如是德,能如法行敬重等四施,如次便得尊重等四果。謂若施主行敬重施,便感常為他所尊重。若自手施,便能感得於廣大財愛樂受用。若應時施,感應時財,所須應時不過時故。若無損施,便感資財,不為他侵及火等壞。由所施財差別云何?頌曰:
論に曰く:施主が信・戒・聞等の差別の功徳を成ずるに由って、主の異なると名づく。主の異なるがゆえに施は差別を成じ、施の差別に由って果に異あり。諸の施主ありてこのような徳を具え、能く法のごとく敬重等の四施を行ぜば、次第のごとく尊重等の四果を得。いわゆるもし施主が敬重の施を行ぜば、便ち常に他の尊重する所となるを感ず。もし自ら手を以て施せば、便ち広大の財に於いて愛楽し受用するを感得す。もし応時に施せば、応時の財を感ず。須うところ時に応じて時を過ぎざるがゆえに。もし損なき施をなせば、便ち資財を感じて他に侵されずおよび火等に壊られざるを。施する所の財の差別に由るはいかなるか。頌に曰く、
財異由色等,得妙色好名,
財の異なるは色等に由り、妙色・好名を得、
眾愛柔軟身,有隨時樂觸。
衆に愛される柔軟の身、時に随う楽触あるを。
論曰:由所施財或闕或具色香味觸,如次便得或闕或具妙色等果。謂所施財色具足故便感妙色。香具足故便感好名,如香芬馥遍諸方故。味具足故便感眾愛,如味美妙眾所愛故。觸具足故感柔軟身及有隨時生樂受觸,如女寶等。果有減者,由因闕故,如是亦由具色香等故名財異。由財異故,施體及果皆有差別。由所施田差別云何?頌曰:
論に曰く:施する所の財が或いは缺け或いは色・香・味・触を具えるに由って、次第のごとく或いは缺け或いは具える妙色等の果を得。いわゆる施する所の財に色具足するがゆえに便ち妙色を感ず。香具足するがゆえに便ち好名を感ず。香の芬馥として諸方に遍きがごときがゆえに。味具足するがゆえに便ち衆の愛するを感ず。味の美妙にして衆の愛する所のごときがゆえに。触具足するがゆえに柔軟の身および時に随って生ずる楽受の触あるを感ず。女宝等のごとし。果に減あるは、因の缺けるに由るがゆえに。このようにもまた色・香等を具えるがゆえに財の異なると名づく。財の異なるがゆえに、施体および果は皆差別あり。施する所の田の差別に由るはいかなるか。頌に曰く、
田異由趣苦,恩德有差別。
田の異なるは趣・苦・恩・徳に差別あるに由る。
論曰:由所施田趣、苦、恩德各有差別,故名田異,由田異故施果有殊。由趣別者,如世尊說:若施傍生受百倍果,施犯戒人受千倍果。由苦別者,如七有依福業事中,先說應施客行病侍、園林常食及寒風熱隨時食等。復說若有具足淨信男子女人,成此所說七種有依福業事者,所獲福德不可取量。由恩別者,如父母、師及餘有恩。如熊鹿等,《本生經》說諸有恩類。由德別者,如契經言:若施持戒人,受億倍果等。於諸施福最勝者何?頌曰:
論に曰く:施する所の田に趣・苦・恩・徳各々差別あるに由って、田の異なると名づく。田の異なるがゆえに施果に殊あり。趣の別に由るは、世尊の説きたまえるがごとく:もし傍生に施せば百倍の果を受け、戒を犯す人に施せば千倍の果を受く、と。苦の別に由るは、七有依福業事の中に於いて、先ず説く、応に客行・病侍・園林の常食および寒・風・熱に時に随う食等を施すべし、と。復た説く、もし具足の浄信ある男子・女人ありて、ここに説く所の七種の有依福業事を成ずれば、獲る所の福徳は取量すべからず、と。恩の別に由るは、父母・師およびその余の恩あるがごとし。熊・鹿等のごとく、《本生経》は諸の恩ある類を説く。徳の別に由るは、契経に説くがごとく:もし戒を持つ人に施せば、億倍の果を受く等、と。諸の施福の中で最勝なるは何ぞ。頌に曰く、
脫於勝菩薩,第八施最勝。
脱する者が勝れる菩薩に施す、第八の施は最勝なり。
論曰:薄伽梵說:若離染者,於離染者施諸資財,於財施中此為最勝。若諸菩薩所行惠施,是普利樂諸有情因。雖不名為脫施於脫,而於施福亦為最勝。除此更有八種施中,第八施福亦為最勝。八施者何?一隨至施、二怖畏施、三報恩施、四求報施、五習先施、六希天施、七要名施、八為莊嚴心為資助心為資瑜伽為得上義而行惠施。隨至施者,宿舊師言:隨近己至方能施與。怖畏施者,謂見此財壞相現前,寧施不失。習先施者,謂習先人父祖家法而行惠施。餘施易了,故不別釋。如契經說:施預流向其果無量,施預流果果量更增,乃至廣說。頗有施非聖果亦無量耶?頌曰:
論に曰く:薄伽梵は説きたまう:もし染を離れたる者が、染を離れたるに対して諸の資財を施すは、財施の中に於いてこれ最勝と為す、と。もし諸の菩薩の行ずる所の恵施は、是れ普く諸の有情を利楽する因なり。脱する者が脱する者に施すと名づけざると雖も、しかし施福に於いてもまた最勝と為す。これを除きて更に八種の施の中、第八の施福もまた最勝と為す。八施とは何ぞ。一は随至施、二は怖畏施、三は報恩施、四は求報施、五は習先施、六は希天施、七は要名施、八は心を荘厳するため心に資せんがため瑜伽に資せんがため上義を得んがために恵施を行ず。随至施とは、宿旧の師の説に、近く己に至るに随って方に能く施与す、と。怖畏施とは、いわゆるこの財の壊る相の現前するを見て、寧ろ施して失わざらんとす。習先施とは、いわゆる先人・父祖の家法に習いて恵施を行ず。其余の施は了し易し。ゆえに別に釈せず。契経に説くがごとく:預流向に施せばその果無量、預流果に施せば果量更に増す、乃至広く説く、と。頗る施して聖果にあらずとも果無量なるや。頌に曰く、
父母病法師,最後生菩薩,
父母・病・法師、最後生の菩薩、
設非證聖者,施果亦無量。
設い聖者を証せずとも、施果もまた無量なり。
論曰:如是五種設是異生,但施亦能招無量果。住最後有,名最後生。法師四田中,是何田所攝?是恩田攝。所以者何?為諸世間大善友故、無明所盲者能施慧眼故、開示世間安危事故、令有情生起無漏法身故。以要說者,善說法師乃至能為佛所作事故,於彼行施便招無量果。欲知諸業輕重相者,應知輕重略由六因。其六者何?頌曰:
論に曰く:このようの五種は設い是れ異生なりとも、但だ施するも能く無量の果を招く。最後の有に住するを、最後生と名づく。法師は四田の中、どの田の摂する所か。是れ恩田の摂。そもそもどうしてか。諸の世間の大善友たるがゆえ、無明の盲える所に能く慧眼を施すがゆえ、世間に安・危の事を開示するがゆえ、有情をして無漏の法身を生ぜしむるがゆえに。要を以て之を説けば、善説の法師は乃至能く仏の作す所の事を為すがゆえに、彼に於いて施を行ぜば便ち無量の果を招く。諸の業の軽重の相を知らんと欲せば、応に知るべし、軽重は略して六因に由る。その六とは何ぞ。頌に曰く、
後起田根本,加行思意樂,
後起・田・根本・加行・思・意楽、
由此下上故,業成下上品。
これに由って下上あるがゆえに、業は下上品を成ず。
論曰:後起者,謂作已隨作。田,謂於彼作損作益。根本者,謂根本業道。加行者,謂引彼身語。思,謂由彼業道究竟。意樂者,謂所有意趣,我應造作如是如是、我當造作如是如是。或有諸業唯由後起所攝受故得成重品,定安立彼異熟果故。或有諸業由田成重,或有於田由根本力成重非餘,如父母田行殺罪重,非盜等業由餘成重。例此應思。若有六因皆是上品,此業最重。翻此最輕,除此中間非最輕重。如契經說:有二種業,一造作業、二增長業。何因說業名增長耶?由五種因。何等為五?頌曰:
論に曰く:後起とは、いわゆる作已にして随いて作す。田とは、いわゆる彼に於いて損を作し益を作す。根本とは、いわゆる根本業道。加行とは、いわゆる彼の身語を引く。思とは、いわゆる彼の業道に由って究竟す。意楽とは、いわゆる所有の意趣、我は応に斯く斯くを造作すべし、我は当に斯く斯くを造作すべし。或いは諸の業ありてただ後起の摂受する所に由って重品を成ずるを得。定めて彼の異熟果を安立するがゆえに。或いは諸の業ありて田に由って重を成じ、或いは田に於いて根本の力に由って重を成じてその余にあらず。父母の田に於いて殺を行ずる罪重きがごとし。盗等の業のその余に由って重を成すにあらざるに非ず。これに例して思うべし。もし六因皆上品ならば、この業は最も重し。これを翻せば最も軽し。これを除く中間は最軽重にあらず。契経に説くがごとく:二種の業あり。一は造作业、二は増長業。何の因にか業を増長と名づくと説くか。五種の因に由る。何等か五と為すか。頌に曰く、
由審思圓滿,無惡作對治,
審思・円満・悪作の対治なき・伴ある・異熟なるに由って、
有伴異熟故,此業名增長。
この業を増長と名づく。
論曰:由審思故者,謂彼所作業,非先全不思、非率爾思作。由圓滿故者,謂諸有情中,或由一惡行便墮惡趣,或乃至三;或由一業道便墮惡趣,或乃至十。此中若有齊此量業應墮惡趣,未圓滿時但名造作不名增長,若此已圓滿亦得增長名。由無惡作對治故者,謂無追悔無對治業。由有伴故者,謂作不善業,不善為助伴。由異熟故者,謂定與異熟,善翻此應知。異此諸業唯名造作,如前所明。未離欲等持己所有奉施制多,此施名為唯為自益。既無受者,福如何成?頌曰:
論に曰く:審思するがゆえとは、いわゆる彼の作す所の業は、先に全く思わざるにあらず、率爾に思いて作すにあらず。円満するがゆえとは、いわゆる諸の有情の中、或いは一の悪行に由って便ち悪趣に堕ち、或いは乃至三。或いは一の業道に由って便ち悪趣に堕ち、或いは乃至十。この中にもしこの量を斎する業あれば応に悪趣に堕すべし。未だ円満せざる時は但だ造作と名づけて増長と名づけず。もしこれ已に円満せばもまた増長の名を得。悪作の対治なきがゆえとは、いわゆる追悔なく対治の業なし。伴あるがゆえとは、いわゆる不善業を作すに不善を助伴と為す。異熟あるがゆえとは、いわゆる定めて異熟を与う。善はこれを翻して知るべし。これに異なる諸の業はただ造作と名づく。前に明かせしがごとし。未だ欲を離れざる等が己の所有を持ちて制多に奉施する、この施はただ自を益するのみと名づく。すでに受者なきに、福はどうして成ずか。頌に曰く、
制多捨類福,如慈等無受。
制多は捨類の福。慈等の受なきがごとし。
論曰:福有二類,一捨、二受。捨類福者,謂由善心但捨資財施福便起。受類福者,謂所施田受用施物施福方起。於制多所奉施供具,雖無受類,有捨類福。彼既不受,福由何生?復以何因知福生者要由彼受不受不生?不受於他,無攝益故。此非定證,若福要由攝益他成,則修慈等及正見等應不生福。是故應許供養制多有多福生,如修慈等。謂如有一修慈等定,雖無受者及攝益他,而從自心生無量福。如是有德者,雖已滅過去,而追伸敬養,福由自心生。豈不唐捐此施敬業?不爾,發業心方勝故。謂如有一欲害怨家,彼命雖終猶懷怨想,發起種種惡身語業,生多非福非但起心。如是大師雖已過去,追伸敬養起身語業,方生多福非但起心。若於善田殖施業種可招愛果,若於惡田雖施但應招非愛果。此不應爾。所以者何?頌曰:
論に曰く:福に二類あり。一は捨、二は受。捨類の福とは、いわゆる善心に由って但だ資財を捨てれば施福便ち起る。受類の福とは、いわゆる施する所の田が施物を受用して施福乃ち起る。制多の所に供具を奉施するは、受類なきと雖も、捨類の福あり。彼はすでに受けざれば、福は何に由って生ずか。復た何の因を以てか福の生ずるは要ずるに彼の受に由り、受けざれば生ぜざると知るか。他に於いて受けざれば、摂益なきがゆえに。これ定の証にあらず。もし福が要ずるに他を摂益するに由って成ぜば、則ち慈等および正見等を修するも応に福を生ぜざるべし。このゆえに応に許すべし、制多を供養するに多くの福生ずるを。慈等を修するがごとし。いわゆるたとえば一ありて慈等の定を修するに、受者および他を摂益するなきと雖も、しかし自心より無量の福を生ず。このように徳ある者は、已に過去に滅したると雖も、しかし追って敬養を伸べれば、福は自心より生ず。豈にこの施敬の業は唐捐ならんや。そうにはあらず。業を発する心方に勝れるがゆえに。いわゆるたとえば一ありて怨家を害せんと欲するに、彼の命已に終ると雖もなお怨の想を懐き、種種の悪の身語業を発起して多くの非福を生ず。但だ心を起すのみにあらず。このように大師は已に過去せりと雖も、追って敬養を伸べて身語業を起さば、方に多くの福を生ず。但だ心を起すのみにあらず。もし善田に於いて施業の種を殖えば愛果を招くべく、もし悪田に於いては施すと雖も応に非愛果を招くべし。これ応にこのようにはあらず。そもそもどうしてか。頌に曰く、
惡田有愛果,種果無倒故。
悪田にも愛果あり。種果に倒なきがゆえに。
論曰:現見田中種果無倒,從末度迦種末度迦果生,其味極美。從賃婆種賃婆果生,其味極苦。非由田力,種果有倒。如是施主雖於惡田,而益他心殖諸施種,但招愛果不招非愛。然由田過,令所殖種或生果少或果全無。施類福業事傍論已了,今次應辯戒類福業事。頌曰:
論に曰く:現に見る、田の中に種果に倒なし。末度迦(甜果)の種より末度迦の果生じ、その味極めて美なり。賃婆(苦果)の種より賃婆の果生じ、その味極めて苦なり。田の力に由るにあらずして種果に倒あるを。このように施主は悪田に於いてすと雖も、しかし他を益する心にて諸の施種を殖えば、但だ愛果を招いて非愛を招かず。しかし田の過に由って、殖える所の種をして或いは果少なく生ぜしめ或いは果全く無からしむ。施類の福業事の傍論已に了り。今次に応に戒類の福業事を辯ずべし。頌に曰く、
離犯戒及遮,名戒各有二,
戒を犯することおよび遮を離るるを、戒と名づく。各々二あり。
非犯戒因壞,依治滅淨等。
戒を犯す因の壊るるに非ず。治・滅・浄等に依る。
論曰:諸不善色名為犯戒,此中性罪立犯戒名。遮謂所遮非時食等,雖非性罪而佛為護法及有情別意遮止,受戒者犯亦名犯戒,簡性罪故但立遮名。離性及遮,俱說名戒。此各有二,謂表、無表,以身語業為自性故。已略辯戒自性差別。若具四德得清淨名,與此相違名不清淨。言四德者,一者不為犯戒所壞,犯戒謂前諸不善色。二者不為彼因所壞,彼因謂貪等煩惱隨煩惱。三者依治,謂依念住等,此能對治犯戒及因故。四者依滅,謂依涅槃迴向涅槃非勝生故。等言為顯復有異說。有說:戒淨由五種因,一根本淨、二眷屬淨、三非尋害、四念攝受、五迴向寂。有餘師說:戒有四種,一怖畏戒,謂怖不活、惡名、治罰、惡趣畏故,受護屍羅。二希望戒,謂貪諸有勝位、多財、恭敬、稱譽受持淨戒。三順覺支戒,謂為求解脫及正見等受持淨戒。四清淨戒,謂無漏戒,彼能永離業惑垢故。已辯戒類,修類當辯。頌曰:
論に曰く:諸の不善の色を犯戒と名づく。この中に性罪は犯戒の名を立つ。遮とは遮らるる所の非時食等を謂う。性罪にあらざると雖も、しかし仏は法および有情のために別意に遮止したまえり。戒を受くるの犯もまた犯戒と名づく。性罪を簡ぶがゆえに但だ遮の名を立つ。性および遮を離るるを、俱に説いて戒と名づく。これ各々二あり。いわゆる表・無表。身語の業を以て自性と為すがゆえに。已に略して戒の自性の差別を辯したり。もし四徳を具えば清浄の名を得。これと相違すれば不清浄と名づく。四徳と言うは、一は犯戒の壊る所と為らざる。犯戒とは前の諸の不善色を謂う。二は彼の因の壊る所と為らざる。彼の因とは貪等の煩悩・随煩悩を謂う。三は治に依る。いわゆる念住等に依る。これは能く犯戒および因に対治するがゆえに。四は滅に依る。いわゆる涅槃に依り涅槃に回向して勝生にあらざるがゆえに。等の言は復た異説あるを顕さんがため。ある説に、戒の浄は五種の因に由る。一は根本浄、二は眷属浄、三は尋害に非ず、四は念の摂受、五は寂への回向。その余の師の説に、戒に四種あり。一は怖畏戒、いわゆる不活・悪名・治罰・悪趣を怖れ畏るるがゆえに尸羅を受護す。二は希望戒、いわゆる諸有の勝位・多財・恭敬・称誉を貪りて浄戒を受持す。三は順覚支戒、いわゆる解脱および正見等を求めんがために浄戒を受持す。四は清浄戒、いわゆる無漏戒。彼は能く永く業惑の垢を離るるがゆえに。已に戒類を辯したり。修類は当に辯ずべし。頌に曰く、
等引善名修,極能燻心故。
等引の善を修と名づく。極めて能く心を熏るがゆえに。
論曰:言等引善,其體是何?謂三摩地,自性俱有。脩名何義?謂燻習心,以定地善於心相續極能燻習令成德類,如花燻苣蕂。是故獨名修。前辯施福能招大富,戒修二類所感云何?頌曰:
論に曰く:等引の善と言う、その体は何ぞ。いわゆる三摩地、自性・俱有。修の名は何の義か。いわゆる心を熏習す。定地の善は心の相続に於いて極めて能く熏習して徳類を成ぜしむるを以て。花が苣蕂を熏ずるがごとし。このゆえに独り修と名づく。前に施福の能く大富を招くを辯したり。戒・修の二類の感ずる所はいかなるか。頌に曰く、
戒修勝如次,感生天解脫。
戒・修の勝れるは次第のごとく、生天・解脱を感ず。
論曰:戒感生天,修感解脫。勝言為顯就勝為言,謂施亦能感生天果,就勝說戒。持戒亦能感離繫果,就勝說修。經說四人能生梵福:一為供養如來䭾都建窣堵波於未曾處,二為供養四方僧伽造寺施園四事供給,三佛弟子破已能和,四於有情普修慈等。如是梵福其量云何?頌曰:
論に曰く:戒は生天を感じ、修は解脱を感ず。勝の言は勝に就いて言を為すを顕さんがため。いわゆる施もまた能く生天の果を感ずるも、勝に就いて戒を説く。戒を持つもまた能く離系の果を感ずるも、勝に就いて修を説く。経に説く、四人は能く梵福を生ず。一は如来の䭾都(舎利)を供養せんがため曽てなき処に窣堵波を建て、二は四方の僧伽を供養せんがため寺を造り園を施し四事を供給し、三は仏弟子の破れ已りて能く和せしめ、四は有情に於いて普く慈等を修す。このようの梵福、その量はいかなるか。頌に曰く、
感劫生天等,為一梵福量。
一劫生天等を感ずるを、一の梵福量と為す。
論曰:先軌範師作如是說:隨福能感一劫生天受諸快樂是一福量,由彼所感受快樂時同梵輔天一劫壽故。以於餘部有伽他言:
論に曰く:先の軌範師はこの説を作して曰く、福に随って能く一劫生天して諸の快楽を受くるを感ずるは一の福量と為す。彼の受く所の快楽の時は梵輔天の一劫の寿に同じきがゆえに、その余の部に於いて伽他ありて説くを以て:
有信正見人,修十勝行者,
信あり正見の人、十の勝行を修する者は、
便為生梵福,感劫天樂故。
便ち梵福を生ずと為る。劫の天楽を感ずるがゆえに。
毘婆沙師作如是說:即於分別妙相業中,所辯福量此即同彼。等言為顯如是異說。財施已說。法施云何?頌曰:
(論は続けて曰く:)毘婆沙師はこの説を作して曰く、すなわち妙相の業を分別する中に於いて辯ぜし所の福量、これすなわち彼に同じ、と。等の言はこのような異説を顕さんがため。財施は已に説いたり。法施はいかなるか。頌に曰く、
法施謂如實,無染辯經等。
法施とはいわゆる如実に、染なきにて経等を辯ず。
論曰:若能如實為諸有情以無染心辯契經等令生正解,名為法施。故有顛倒或染汙心求利名譽恭敬辯者,是人便損自他大福。前已別釋三福業事,今釋經中順三分善。頌曰:
論に曰く:もし能く如実に諸の有情のために染なき心を以て契経等を辯じて正解を生ぜしむれば、法施と名づく。このゆえに顛倒或いは染污の心にて利・名・誉・恭敬を求めて辯ずる有れば、是の人は便ち自他の大福を損す。前に已に別々に三福業事を釋したり。今経の中の順三分の善を釋す。頌に曰く、
順福順解脫,順決擇分三,
順福・順解脱・順決択の分の三は、
