Libo

説一切有部倶舎論 巻第二十五

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第32巻 / 38

アビダルマ倶舎論 巻第二十六

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別智品第七之一

分別智品 第七之一

前品初說諸忍諸智,於後復說正見正智。為有忍非智耶?為有智非見耶?頌曰:

前の品の初めに諸の忍・諸の智を説き、後に於いて復た正見・正智を説けり。為に忍有りて智に非ざるか。為に智有りて見に非ざるか。頌に曰く、

聖慧忍非智,盡無生非見,

聖慧の忍は智に非ず。尽・无生は見に非ず。

餘二有漏慧,皆智六見性。

其余の二・有漏の慧は、皆智・六は見性。

論曰:慧有二種,有漏、無漏,唯無漏慧立以聖名。此聖慧中八忍非智性,自所斷疑未已斷故。可見性攝,推度性故。盡與無生二智非見性,已息求心不推度故。所餘皆通智見二性,已斷自疑、推度性故。諸有漏慧皆智性攝,於中唯六亦是見性,謂五染汙見、世正見為六。如是所說聖有漏慧,皆擇法故並慧性攝。智有幾種?相別云何?頌曰:

論に曰く:慧に二種有り。有漏・無漏。ただ無漏の慧は聖の名を以て立つ。此の聖慧の中の八忍は智性に非ず。自ら断ずる所の疑は未だ已に断ぜざるがゆえに。見性の摂するべし。推度の性なるがゆえに。尽と无生の二智は見性に非ず。已に求心を息めて推度せざるがゆえに。其余は皆智・見の二性に通ず。已に自疑を断じ、推度の性なるがゆえに。諸の有漏の慧は皆智性の摂。中に於いてただ六はもまた見性。いわゆる五の染汚見・世の正見を以て六と為す。此のようの説く所の聖・有漏の慧は、皆法を択ずるがゆえに并せて慧性の摂。智に幾種有るか。相別は如何。頌に曰く、

智十總有二,有漏無漏別,

智の十は総じて二有り。有漏・無漏の別。

有漏稱世俗,無漏名法類。

有漏は世俗と称し、無漏を名づけて法・類。

世俗遍為境,法智及類智,

世俗は遍く境と為し、法智および類智は、

如次欲上界,苦等諦為境。

次第のごとく欲・上界の苦等の諦を境と為す。

論曰:智有十種攝一切智:一世俗智、二法智、三類智、四苦智、五集智、六滅智、七道智、八他心智、九盡智、十無生智。如是十智總唯二種,有漏、無漏性差別故。如是二智相別有三,謂世俗智、法智、類智。前有漏智總名世俗,多取瓶等世俗境故。後無漏智分法、類別。三中世俗遍,以一切有為無為為所緣境。法類二種如其次第,以欲上界四諦為境。即於如是二種智中,頌曰:

論に曰く:智に十種有りて一切智を摂す。一は世俗智、二は法智、三は類智、四は苦智、五は集智、六は滅智、七は道智、八は他心智、九は尽智、十は无生智。此のようの十智は総じてただ二種。有漏・無漏の性の差別あるがゆえに。此のようの二智の相別に三有り。いわゆる世俗智・法智・類智。前の有漏智は総じて名づけて世俗。多く瓶等の世俗の境を取るがゆえに。後の無漏智は法・類の別に分かつ。三の中の世俗は遍く、一切の有為・無為を以て所縁の境と為す。法・類の二種は次第のごとく、欲・上界の四諦を以て境と為す。すなわち此のようの二種の智の中に於いて、頌に曰く、

法類由境別,立苦等四名,

法・類は境の別に由りて、苦等の四名を立つ。

皆通盡無生,初唯苦集類。

皆尽・无生に通じ、初はただ苦・集の類。

論曰:法智、類智由境差別分為苦、集、滅、道四智。如是六智若無學攝,非見性者名盡、無生。此二初生唯苦、集類,以緣苦、集六種行相觀有頂蘊為境界故。金剛喻定境同此耶?緣苦、集因,緣滅、道異。於前所說九種智中,頌曰:

論に曰く:法智・類智は境の差別に由って分かれて苦・集・滅・道の四智と為す。此のようの六智はもし無学の摂なれば、見性に非ざるを名づけて尽・无生。此の二は初の生はただ苦・集の類。苦・集に縁ずる六種の行相を以て有頂蘊を観じて境界と為すがゆえに。金剛喩定の境は此と同じか。苦・集に縁ずるは因、滅・道に縁ずるは異。前の説く所の九種の智の中に於いて、頌に曰く、

法類道世俗,有成他心智,

法・類・道・世俗に、他心智を成ずる有り。

於勝地根位,去來世不知,

勝の地・根・位に於いて、去・来の世を知らず。

法類不相知,聲聞麟喻佛,

法・類は相知らず。声聞・麟喩・仏は、

如次知見道,二三念一切。

次第のごとく見道を知るに、二・三念・一切。

論曰:有法類道及世俗智成他心智,餘則不然。此智於境有決定相,謂不知勝及去來心。勝心有三,謂地、根、位。地謂下地智不知上地心。根謂信解時解脫根智不知見至不時解脫心。位謂不還聲聞應果、獨覺大覺。前前位智不知後後勝位者心,此智不知去來心者唯以現在他相續中能緣心等為境界故。又法類品不互相知,謂法智攝諸他心智不知類品,類智所攝諸他心智不知法品,由法類智以欲上界全分對治為所緣故。此他心智見道中無,總觀諦理極速轉故,然皆容作此智所緣。若諸有情將入見道,聲聞獨覺預修加行,為欲知彼見道位心。彼諸有情入見道位,聲聞法分加行若滿,知彼見道初二念心。若為更知類分心故,別修加行至加行滿,彼已度至第十六心,雖知此心非知見道。麟喻法分加行若滿,知彼見道初二念心。若為更知類分心故,別修加行至加行滿,知彼第八集類智心。以此但由下加行故。有說:知初二及第十五心,世尊欲知不由加行,於彼見道一切能知。盡、無生智二相何別?頌曰:

論に曰く:法・類・道および世俗智有りて他心智を成ず。其余は則ち此のようにはあらず。此の智は境に於いて決定の相有り。いわゆる勝および去来の心を知らず。勝心に三有り。いわゆる地・根・位。地とは下地の智は上地の心を知らざるを謂う。根とは信解・時解脱の根の智は見至・不時解脱の心を知らざるを謂う。位とは不還・声聞・応果・独覚・大覚。前前の位の智は後後の勝位の心を知らず。此の智の去来の心を知らざるは、ただ現在の他の相続の中の能緣の心等を以て境界と為すがゆえに。また法・類の品は相てらかに知らず。いわゆる法智の摂する諸の他心智は類品を知らず、類智の摂する所の諸の他心智は法品を知らず。法・類智は欲・上界の全分の対治を以て所縁と為すに由るがゆえに。此の他心智は見道の中に無し。総じて諦理を観じて極速に転ずるがゆえに。然而皆容そ此の智の所縁を作す。もし諸の有情は将に見道に入らんとして、声聞・独覚は加行を預修す。為に彼の見道の位の心を知らんと欲す。彼の諸の有情は見道の位に入る。声聞は法分の加行はもし満たれば、彼の見道の初・二念の心を知る。もし為に更に類分の心を知らんとして、別に加行を修して加行の満に至れば、彼は已に度りて第十六心に至る。此の心を知ると雖も見道を知るに非ず。麟喩は法分の加行はもし満たれば、彼の見道の初・二念の心を知る。もし為に更に類分の心を知らんとして、別に加行を修して加行の満に至れば、彼の第八の集類智心を知る。此れは但だ下加行に由るがゆえに。ある説に、初・二および第十五心を知る。世尊は知らんと欲せば加行に由らず。彼の見道に於いて一切能く知る。尽・无生智の二相は何の別か。頌に曰く、

智於四聖諦,知我已知等,

智は四聖諦に於いて、我已に知れり等を知り、

不應更知等,如次盡無生。

応に更に知るべからず等、次第のごとく尽・无生。

論曰:如本論說:云何盡智?謂無學位若正自知:我已知苦、我已斷集、我已證滅、我已修道,由此所有智、見、明、覺、解、慧、光、觀,是名盡智。云何無生智?謂正自知:我已知苦,不應更知,廣說乃至我已修道,不應更修,由此所有廣說乃至是名無生智。如何無漏智可作如是知?迦濕彌羅諸論師說:從二智出後得智中作如是知,故無有失。由此後得二智別故,表前觀中二智差別。有說:無漏智亦作如是知,然說見言乘言便故,或於諦理現照轉故。由此本論亦作是言。且諸智亦是見。如是十智相攝云何?謂世俗智攝一全一少分,法類智各攝一全七少分,苦集滅智各攝一全四少分,道智攝一全五少分,他心智攝一全四少分,盡無生智各攝一全六少分。何緣二智建立為十?頌曰:

論に曰く:本論の説くがごとく:何をか尽智とするか。いわゆる無学の位にもし正しく自ら知る:我已に苦を知れり、我已に集を断ぜり、我已に滅を証せり、我已に道を修せり。此に由って所有の智・見・明・覚・解・慧・光・観は、是れを名づけて尽智。何をか无生智とするか。いわゆる正しく自ら知る:我已に苦を知れり、応に更に知るべからず、広く説き乃至我已に道を修せり、応に更に修すべからず。此に由って所有の広説乃至是れを名づけて无生智。如何にして無漏智は此のようの知を作すべきか。迦湿弥羅の諸の論師の説く:二智より出づる後得の智の中に此のようの知を作す。ゆえに失有ること無し。此の後得は二智と別なるに由るがゆえに、前の観の中の二智の差別を表す。ある説に、無漏智もまた此のようの知を作す。しかし見の言を説くは言の便に乗ずるがゆえ、或いは諦理に於いて現に照らして転ずるがゆえに。此に由って本論もまた是の言を作す。且つ諸の智もまた是れ見。此のようの十智の相摂は如何。いわゆる世俗智は一全・一少分を摂し、法・類智は各々一全・七少分を摂し、苦・集・滅智は各々一全・四少分を摂し、道智は一全・五少分を摂し、他心智は一全・四少分を摂し、尽・无生智は各々一全・六少分を摂す。何の縁にか二智を建立して十と為すか。頌に曰く、

由自性對治,行相行相境,

自性・対治、行相・行相の境、

加行辦因圓,故建立十智。

加行・事弁・因円に由り、ゆえに十智を建立す。

論曰:由七緣故立二為十:一自性故立世俗智,非勝義智為自性故。二對治故立法類智,全能對治欲上界故。三行相故立苦集智,此二智境體無別故。四行相境故立滅道智,此二行相境俱有別故。五加行故立他心智,非此不知他心所法,本修加行為知他心,雖成滿時亦知心所,而約加行故立他心智名。六事辦故建立盡智,事辦身中最初生故。七因圓故立無生智,一切聖道為因生故。如上所言法智類智,全能對治欲上界法,為有少分治上欲耶?頌曰:

論に曰く:七縁に由って二を立てて十と為す。一は自性に由って世俗智を立つ。勝義智に非ざるを自性と為すがゆえに。二は対治に由って法・類智を立つ。全く能く欲・上界を対治するがゆえに。三は行相に由って苦・集智を立つ。此の二智の境の体に別無きがゆえに。四は行相・境に由って滅・道智を立つ。此の二は行相・境俱に別有るがゆえに。五は加行に由って他心智を立つ。此れは他の心所法を知らざるに非ず。本の修の加行は他心を知らんと為すがゆえ、成満の時にもまた心所を知ると雖も、而も加行に約して他心智の名を立つるがゆえに。六は事弁に由って尽智を建立す。事弁の身の中の最初の生ずる所なるがゆえに。七は因円に由って无生智を立つ。一切の聖道を因として生ずるがゆえに。上の言う所のごとく法智・類智は、全く能く欲・上界の法を対治す。為に少分の上欲を治する有るか。頌に曰く、

緣滅道法智,於修道位中,

滅・道の法智に縁ずるは、修道の位の中に於いて、

兼治上修斷,類無能治欲。

兼ねて上の修断を治す。類は能く欲を治する無し。

論曰:修道所攝滅道法智,兼能對治上界修斷,欲之滅道勝上界故,已除自怨能兼他故。由此類智無能治欲。於此十智中誰有何行相?頌曰:

論に曰く:修道の摂する所の滅・道の法智は、兼ねて能く上界の修断を対治す。欲の滅・道は上界に勝れるがゆえ、已に自怨を除きて能く兼ねて他するがゆえに。此に由って類智は能く欲を治する無し。此の十智の中に於いて誰か何の行相有るか。頌に曰く:

法智及類智,行相俱十六,

法智および類智は、行相俱に十六。

世俗此及餘,四諦智各四。

世俗は此および其余、四諦の智は各々四。

他心智無漏,唯四謂緣道,

他心智の無漏は、ただ四、いわゆる道に縁ず。

有漏自相緣,俱但緣一事。

有漏は自相に縁す。俱に但だ一事に縁ず。

盡無生十四,謂離空非我。

尽・无生は十四。いわゆる空・非我を離る。

論曰:法智、類智一一具有非常、苦等十六行相,十六行相後當廣釋。世智有此及更有餘,能緣一切法自共相等故。苦等四智一一各有緣自諦境四種行相。他心智中,若無漏者唯有緣道四種行相,由此即是道智攝故;若有漏者取自所緣心心所法自相境故。如境自相行相亦爾,故此非前十六所攝。如是二種於一切時一念但緣一事為境,謂緣心時不緣心所,緣受等時不緣想等。若爾,何故薄伽梵說:如實了知有貪心等。非俱時取貪等及心,如不俱時取衣及垢。有貪心者,二義有貪:一貪相應、二貪所繫。貪相應心具由二義,餘有漏心唯貪所繫。有說:經言有貪心者,唯說第一貪相應心。離貪心者,謂治貪心。若貪不相應名離貪心者,餘惑相應者應得離貪名。若爾,有心非貪對治不染汙性,應許此心非有貪心離貪心等。是故應許餘師所說,為貪所繫名有貪心,乃至有痴離痴亦爾。毘婆沙師作如是說:聚心者謂善心,此於所緣不馳散故。散心者謂染心,此與散動相應起故。西方諸師作如是說:眠相應者名為聚心,餘染汙心說名為散。此不應理,諸染汙心若與眠相應,應通聚散故。又應違害本論所言:如實知聚心,具足有四智,謂法智、類智、世俗智、道智。沈心者謂染心,此與懈怠相應起故。策心者謂善心,此與正勤相應起故。小心者謂染心,少淨品者所好習故。大心者謂善心,多淨品者所好習故。或由根價眷屬隨轉力用少多故名小大,染心根少,極二相應故;善心根多,恆三相應故。染心價少,非功用成故;善心價多,大資糧成故。染心眷屬少,無未來修故;善心眷屬多,有未來修故。染心隨轉少,唯三蘊故;善心隨轉多,通四蘊故。染心力用少,所斷善根必還續故;善心力用多,忍必永斷諸隨眠故。由此染善得小大名。掉心者謂染心,掉舉相應故。不掉心者謂善心,能治彼故。不靜靜心應知亦爾。

論に曰く:法智・類智は一一に非常・苦等の十六行相を具す。十六行相は後に当に広く釋すべし。世智は此れ有りておよび更に其余有り。能く一切の法の自・共相等に縁ずるがゆえに。苦等の四智は一一に各々自諦の境に縁ずる四種の行相有り。他心智の中に、もし無漏はただ道に縁ずる四種の行相有り。此に由って即ち是れ道智の摂なるがゆえに。もし有漏は自ら縁ずる所の心・心所法の自相の境を取るがゆえに。境の自相の行相のごときもまた此のよう。ゆえに此れは前の十六の摂する所に非ず。此のようの二種は一切の時に於いて一念に但だ一事を縁じて境と為す。いわゆる心に縁ずる時は心所に縁ぜず、受等に縁ずる時は想等に縁ぜず。もしそうならば、何の故にか薄伽梵は説きたまえる:如実に有貪の心等を了知すと。俱時に貪等および心を取るに非ず。俱時に衣および垢を取らざるがごとし。有貪の心とは、二の義に貪有り。一は貪の相応、二は貪の繋する所。貪の相応する心は具に二義に由り、其余の有漏心はただ貪の繋する所。ある説に、経の有貪の心を説くは、ただ第一の貪相応の心を説く。離貪の心とは、いわゆる貪心を治する。もし貪に相応せざるを名づけて離貪の心ならば、其余の惑の相応するも応に離貪の名を得べし。もしそうならば、心有りて貪の対治に非ず染汚性に非ざるは、応に此の心は有貪心・離貪心等に非ざるを許すべし。此のゆえに応に其余の師の説く所を許すべし。貪の繋する所を為るを名づけて有貪心、乃至有癡・離癡もまた此のよう。毘婆沙師は此の説を作して曰く:聚心とは善心を謂う。此れは所縁に於いて馳散せざるがゆえに。散心とは染心を謂う。此れは散動と相応して起るがゆえに。西方の諸師は此の説を作して曰く:眠に相応するを名づけて聚心、其余の染汚心を説いて名づけて散。此れは理に該当せず。諸の染汚心はもし眠と相応せば、応に聚・散に通ずべきがゆえに。また応に本論の言う所に違害す:如実に聚心を知るは、具に四智有りて足る。いわゆる法智・類智・世俗智・道智。沈心とは染心を謂う。此れは懈怠と相応して起るがゆえに。策心とは善心を謂う。此れは正勤と相応して起るがゆえに。小心とは染心を謂う。少しきの浄品の好習する所なるがゆえに。大心とは善心を謂う。多くの浄品の好習する所なるがゆえに。或いは根・価・眷属・随転の力用の少多に由って名づけて小大。染心は根少なし。極めて二の相応あるがゆえに。善心は根多し。恒に三の相応あるがゆえに。染心は価少なし。功用に成るに非ざるがゆえに。善心は価多し。大きの資糧に成るがゆえに。染心は眷属少なし。未来の修無きがゆえに。善心は眷属多し。未来の修有るがゆえに。染心は随転少なし。ただ三蘊なるがゆえに。善心は随転多し。四蘊に通ずるがゆえに。染心は力用少なし。断ずる所の善根は必ず還って続くがゆえに。善心は力用多し。忍は必ず永く諸の随眠を断ずるがゆえに。此に由って染・善に小大の名を得。掉心とは染心を謂う。掉挙に相応するがゆえに。不掉心とは善心を謂う。能く彼を治するがゆえに。静ならず静ならずの心もまた応に知るべし此のよう。

不定心者謂染心,散動相應故;定心者謂善心,能治彼故。不修心者謂染心,得修習修俱不攝故;修心者謂善心,容有二修故。不解脫心者謂染心,自性相續不解脫故;解脫心者謂善心,自性相續容解脫故。如是所釋不順契經,亦不能辯諸句別義。如何此釋不順契經?經言:此心云何內聚?謂心若與惛眠俱行,或內相應有止無觀。云何外散?謂心遊涉五妙欲境隨散隨流,或內相應有觀無止。豈不前說染心眠俱便有一心通聚散過?雖說,非理,不許眠俱諸染汙心是散心故。豈不又說本論相違?寧違論文,勿違經說。如何不辯諸句別義?謂依此釋不能辯了散等聚等八異相故。依我所釋非不能辯此契經中八句別義,謂雖散等同是染心,而為顯其過失差別,及雖聚等同是善心,而為顯其功德差別,故依八義別立八名。既不能通所違經說,所辯句義理亦不成。又若沈心即掉心者,經不應說若於爾時心沈,恐沈修安定捨三覺支者名非時修。若於爾時心掉,恐掉修擇進喜名非時修。豈修覺支有散別理?此據作意欲脩名修,非現前修,故無有失。豈不我說亦不違經?雖諸染心皆名沈掉,懈怠增者經說沈心,掉舉增者經說掉心,據恆相應我說體一,隨自意語誰復能遮?然實此經意不如是。前說一切貪所繫心皆名有貪心。貪繫是何義?若貪得隨故,有學無漏心應名有貪,貪得隨故。若貪所緣故,無學有漏心應名有貪,貪所緣故。若不許彼為貪所緣,云何彼心可成有漏?若謂由為共相惑緣應名有痴,痴所緣故。然他心智不緣貪得,亦不可說緣緣心貪。寧知他心是有貪等?故非貪繫名有貪心。若爾,云何?今詳經意,貪相應故名有貪心,貪不相應名離貪等。若爾,何故餘契經言:離貪瞋痴心,不還墮三有。依離得說,故無有過。豈不於前已破此說?餘惑相應者,應得離貪名,彼亦與貪不相應故。若依此意,許亦無違。

(論に引き続き曰く:)不定心とは染心を謂う。散動に相応するがゆえに。定心とは善心を謂う。能く彼を治するがゆえに。不修の心とは染心を謂う。得修・習修に俱に摂せざるがゆえに。修心とは善心を謂う。容そ二修有るがゆえに。不解脱の心とは染心を謂う。自性の相続は解脱せざるがゆえに。解脱の心とは善心を謂う。自性の相続は容そ解脱するがゆえに。此のようの釋する所は契経に順ぜず、もまた能く諸の句の別義を弁せず。如何にして此の釋は契経に順ぜざるか。経に説く:此の心は如何にして内に聚するか。いわゆる心はもし惛眠と俱に行じ、或いは内に相応して止有りて観無し。如何にして外に散ずか。いわゆる心は五妙の欲境に游渉して散に随い流に随い、或いは内に相応して観有りて止無し。豈に前の説ける染心は眠と俱にして便ち一心の聚・散に通ずるの過有らざらんか。説くと雖も、理に非ず。眠と俱なる諸の染汚心は是れ散心なるを許さざるがゆえに。豈にまた本論に相違すと説かざらんか。寧ろ論の文に違すとも、経の説に違する勿れ。如何にして諸の句の別義を弁ぜざるか。いわゆる此の釋に依っては能く散等・聚等の八の異相を弁了せざるがゆえに。我が釋する所に依れば此の契経の中の八句の別義を弁ずるに能なきに非ず。いわゆる散等は同じく是れ染心なりと雖も、而も為に其の過失の差別を顕さんとし、および聚等は同じく是れ善心なりと雖も、為に其の功徳の差別を顕さんとす。ゆえに八義に依って別に八名を立つ。すでに能く違する所の経の説に通ぜざれば、弁ずる所の句義の理もまた成らず。またもし沈心が即ち掉心ならば、経は応に説かざるべし:もし爾の時に於いて心沈すれば、沈を恐れて安・定・捨の三覚支を修するを名づけて時に非ずの修。もし爾の時に於いて心掉すれば、掉を恐れて択・進・喜を修するを名づけて時に非ずの修。豈に覚支を修するに散別の理有らんか。此れは修せんと作意するを修と名づくるに拠り、現前の修に非ず。ゆえに失有ること無し。豈に我が説もまた経に違せざらんか。諸の染心は皆名づけて沈掉なりと雖も、懈怠の増するは経に沈心と説き、掉挙の増するは経に掉心と説く。恒の相応に拠って我は体一と説く。自意の語に随うは誰か復た能く遮らん。しかし実には此の経の意は此のようにはあらず。前に一切の貪の繋する所の心は皆名づけて有貪心と説けり。貪の繋とは是れ何の義か。もし貪の得の随うがゆえならば、有学の無漏心は応に名づけて有貪なり。貪の得の随うがゆえに。もし貪の縁ずる所がゆえならば、無学の有漏心は応に名づけて有貪なり。貪の縁ずる所がゆえに。もし彼は貪の縁ずる所と為るを許さざれば、如何にして彼の心は有漏を成ずべきか。もし謂わば共相の惑の縁と為るに由って応に名づけて有癡。癡の縁ずる所がゆえに。しかし他心智は貪の得に縁ぜず、もまた説くべからず縁ずる心の貪に縁ずと。寧んぞ他の心は是れ有貪等を知らんや。ゆえに貪の繋に非ざるを名づけて有貪心。もしそうならば、如何。今経の意を詳ならかにするに、貪に相応するがゆえに名づけて有貪心、貪に相応せざるを名づけて離貪等。もしそうならば、何の故にか其余の契経に説く:貪・瞋・癡の心を離れて、還って三有に堕ちずと。離得に依って説く。ゆえに過有ること無し。豈に前に於いて已に此の説を破らざりしか。其余の惑の相応するも、応に離貪の名を得べし。彼もまた貪と相応せざるがゆえに。もし此の意に依れば、許すもまた違なし。

然不說為離貪心者,彼屬有瞋有痴等故。且止傍論,應述本宗。此所明他心智,為亦能取他心所緣,及亦取他心能緣行相不?俱不能取,知彼心時不觀彼所緣能緣行相故。謂但知彼有染等心,不知彼心所染色等,亦不知彼能緣行相。不爾,他心智應亦緣色等,又亦應有能自緣失。諸他心智有決定相,謂唯能取欲色界繫及非所繫他相續中現在同類心心所法一實自相為所緣境。空無相不相應,盡無生所不攝,不在見道無間道中,餘所不遮如應容有。盡無生智除空非我,各具有餘十四行相,由此二智雖勝義攝,而涉於世俗欲離空非我。謂由彼力於出觀時作如是言:我生已盡、梵行已立、所作已辦、不受後有。為有無漏越此十六更是所餘行相攝不?頌曰:

(論に引き続き曰く:)しかし離貪の心と為すと説かざるは、彼は有瞋・有癡等に属するがゆえに。且く傍論を止め、応に本宗を述べん。此の明かす所の他心智は、為にもまた能く他の心の所縁を取り、およびもまた他の心の能緣の行相を取るや否や。俱に能く取らず。彼の心を知る時に彼の所縁・能緣の行相を観ぜざるがゆえに。いわゆる但だ彼の染等の心有るを知って、彼の心の染ずる所の色等を知らず、もまた彼の能緣の行相を知らず。此のようにはあらざれば、他心智は応にもまた色等に縁ずべし。また応に能く自縁するの失有るべし。諸の他心智に決定の相有り。いわゆるただ能く欲・色界の繋および繋する所に非ざる他の相続の中の現在の同類の心・心所法の一実の自相を取りて所縁の境と為す。空・無相と相応せず、尽・无生の摂する所に非ず、見道・無間道の中に在らず。其余の遮らざる所は応に容そ有るがごとし。尽・无生の智は空・非我を除きて、各々其余の十四行相を具す。此の二智は勝義の摂なりと雖も、而も世俗に渉りて空・非我を離れんと欲す由るに。いわゆる彼の力に由って観を出づる時に此の説を作して曰く:我が生は已に尽き、梵行は已に立ち、作す所は已に弁じ、後有を受けずと。為に無漏有りて此の十六を越えて更に是れ其余の行相の摂するか否や。頌に曰く、

淨無越十六,餘說有論故。

浄は十六を越える無し。其余に説有り。論に由るがゆえに。

論曰:迦濕彌羅國諸論師言:無無漏行相越此十六。外國師說:更有所餘無漏行相越於十六。云何知然?由本論故。如本論說:頗有不繫心能了別欲界繫法耶?曰:能了別,謂非常故、苦故、空故、非我故、因故、集故、生故、緣故,有是處、有是事,如理所引了別。若謂彼文不為顯示不繫心了別欲界繫法時,除前所明八行相外,別有有是處、有是事行相,但為顯示作八行相斯有是處、斯有是事。此釋不然,餘不說故。謂若彼論依此意說,應於餘處亦說此言,然彼餘文但作是說:頗有見斷心能了別欲界繫法耶?曰:能了別,謂我故、我所故、斷故、常故、無因故、無作故、損減故、尊故、勝故、上故、第一故、能清淨故、能解脫故、能出離故、惑故、疑故、猶豫故、貪故、瞋故、慢故、痴故,不如理所引了別。此等亦應說有是處等言,既無此言,故釋非理。十六行相實事有幾?何謂行相能行所行?頌曰:

論に曰く:迦湿弥羅国の諸の論師の説く:無漏の行相の此の十六を越ゆる無し。外国師の説く:更に其余の無漏の行相有りて十六に於いて越ゆ。如何にして知る此のようか。本論に由るがゆえに。本論の説くがごとく:頗る不繋の心有りて能く欲界繫の法を了別するか。答に曰く:能く了別す。いわゆる非常なるがゆえ、苦なるがゆえ、空なるがゆえ、非我なるがゆえ、因なるがゆえ、集なるがゆえ、生なるがゆえ、縁なるがゆえに、是の処有り・是の事有りて、理のごとく引く所の了別。もし謂わば彼の文は為に不繫の心の欲界繫の法を了別する時を顕さんとするに非ざれば、前の明かす所の八行相を除くの外、別に是の処有り・是の事有りの行相有り。但だ為に八行相を作るを顕さんとして斯に是の処有り・斯に是の事有り。此の釋は此のようにはあらず。其余は説かざるがゆえに。いわゆるもし彼の論は此の意に依って説かば、応に其余の処に於いてもまた此の言を説くべし。しかし彼の其余の文は但だ是の説を作す:頗る見断の心有りて能く欲界繫の法を了別するか。答に曰く:能く了別す。いわゆる我なるがゆえ、我所なるがゆえ、断なるがゆえ、常なるがゆえ、無因なるがゆえ、無作なるがゆえ、損減なるがゆえ、尊なるがゆえ、勝なるがゆえ、上なるがゆえ、第一なるがゆえ、能く清浄なるがゆえ、能く解脱なるがゆえ、能く出離なるがゆえ、惑なるがゆえ、疑なるがゆえ、猶豫なるがゆえ、貪なるがゆえ、瞋なるがゆえ、慢なるがゆえ、癡なるがゆえに、理のごとからず引く所の了別。此の等もまた応に是の処等の言有るを説くべし。すでに此の言無ければ、ゆえに釋は理に非ず。十六行相の実事は幾有るか。何谓をか行相・能行・所行とするか。頌に曰く、

行相實十六,此體唯是慧,

行相は実に十六。此の体はただ是れ慧。

能行有所緣,所行諸有法。

能行は所縁有り。所行は諸の有法。

論曰:有餘師說:十六行相名雖十六實事唯七,謂緣苦諦名實俱四,緣餘三諦名四實一。如是說者實亦十六,謂苦聖諦有四相:一非常、二苦、三空、四非我,待緣故非常,逼迫性故苦,違我所見故空,違我見故非我。集聖諦有四相:一因、二集、三生、四緣,如種理故因,等現理故集,相續理故生,成辦理故緣,譬如泥團輪繩水等眾緣和合成辦瓶等。滅聖諦有四相:一滅、二靜、三妙、四離,諸蘊盡故滅,三火息故靜,無眾患故妙,脫眾災故離。道聖諦有四相:一道、二如、三行、四出,通行義故道,契正理故如,正趣向故行,能永超故出。又非究竟故非常,如荷重擔故苦,內離士夫故空,不自在故非我。牽引義故因,出現義故集,滋產義故生,為依義故緣。不續相續斷故滅,離三有為相故靜,勝義善故妙,極安隱故離。治邪道故道,治不如故如,趣入涅槃宮故行,棄捨一切有故出。如是古釋既非一門,故隨所樂更為別釋。生滅故非常,違聖心故苦,於此無我故空,自非我故非我。因集生緣如經所釋,謂五取蘊以欲為根、以欲為集、以欲為類、以欲為生,唯此生聲應在後說,與論為異。此四體相差別云何?由隨位別四欲有異:一執現總我起總自體欲、二執當總我起總後有欲、三執當別我起別後有欲、四執續生我起續生時欲。或執造業我起造業時欲,第一於苦是初因,故說名為因,如種子於果。第二於苦等招集,故說名為集,如芽等於果。第三於苦為別緣,故說名為緣,如田等於果,謂由田水糞等力故令果味勢熟德別生。第四於苦能近生,故說名為生,如華蘂於果。或如契經說:有二五二四愛行為四種欲。執現總我有五種異:一執我現決定有、二執我現如是有、三執我現變異有、四執我現有、五執我現無。執當總我亦有五異:一執我當決定有、二執我當如是有、三執我當變異有、四執我當有、五執我當無。

論に曰く:其余の師有りて説く:十六行相は名は十六なりと雖も実事はただ七。いわゆる苦諦に縁ずるは名・実俱に四、其余の三諦に縁ずるは名は四にして実は一。此のようの説くは実もまた十六。いわゆる苦聖諦に四相有り。一は非常、二は苦、三は空、四は非我。縁を待つがゆえに非常。逼迫の性なるがゆえに苦。我所の見に違するがゆえに空。我見に違するがゆえに非我。集聖諦に四相有り。一は因、二は集、三は生、四は縁。種の理のごときがゆえに因。等現の理なるがゆえに集。相続の理なるがゆえに生。成弁の理なるがゆえに縁。譬えば泥団・輪・繩・水等の衆縁の和合して瓶等を成弁するがごとし。滅聖諦に四相有り。一は滅、二は静、三は妙、四は離。諸蘊の尽きるがゆえに滅。三火の息むがゆえに静。衆患無きがゆえに妙。衆災を脱するがゆえに離。道聖諦に四相有り。一は道、二は如、三は行、四は出。通行の義なるがゆえに道。正理に契するがゆえに如。正しく趣向するがゆえに行。能く永く超ゆるがゆえに出。また究竟に非ざるがゆえに非常。重荷を荷うがごときがゆえに苦。内に士夫を離るるがゆえに空。自在ならざるがゆえに非我。牽引の義なるがゆえに因。出現の義なるがゆえに集。滋産の義なるがゆえに生。依と為るの義なるがゆえに縁。続かざる相続の断ずるがゆえに滅。三有為の相を離るるがゆえに静。勝義の善なるがゆえに妙。極めて安穏なるがゆえに離。邪道を治するがゆえに道。不如を治するがゆえに如。涅槃の宮に趣入するがゆえに行。一切有を棄捨するがゆえに出。此のようの古釋はすでに一門に非ざれば、ゆえに楽む所に随って更に別釋を為す。生滅するがゆえに非常。聖心に違するがゆえに苦。此に於いて我無きがゆえに空。自ら我に非ざるがゆえに非我。因・集・生・縁は経の釋するがごとし。いわゆる五取蘊は欲を以て根と為し、欲を以て集と為し、欲を以て類と為し、欲を以て生と為す。ただ此生の声は応に後に説くべし。論と異と為す。此の四の体相の差別は如何。位の別に随って四欲に異有るに由る。一は現の総我を執して総自体の欲を起し、二は当の総我を執して総後有の欲を起し、三は当の別我を執して別後有の欲を起し、四は続生の我を執して続生の時の欲を起す。或いは造業の我を執して造業の時の欲を起す。第一は苦に於いて是れ初の因。ゆえに名づけて因と説く。種子の果に於けるがごとし。第二は苦に於いて招集を等しくす。ゆえに名づけて集と説く。芽等の果に於けるがごとし。第三は苦に於いて別縁と為す。ゆえに名づけて縁と説く。田等の果に於けるがごとし。いわゆる田・水・糞等の力に由って果の味・勢・熟・徳をして別に生ぜしむるがゆえに。第四は苦に於いて能く近く生ず。ゆえに名づけて生と説く。花蕊の果に於けるがごとし。或いは契経の説くがごとく:二五・二四の愛行有りて四種の欲と為す。現の総我を執するに五種の異有り。一は我の現に決定して有りと執し、二は我の現に此のよう有りと執し、三は我の現に変異して有りと執し、四は我の現に有りと執し、五は我の現に無しと執す。当の総我を執するもまた五の異有り。一は我の当に決定して有るべしと執し、二は我の当に此のよう有るべしと執し、三は我の当に変異して有るべしと執し、四は我の当に有るべしと執し、五は我の当に無からんと執す。

執當別我有四種異:一執我當別有、二執我當決定別有、三執我當如是別有、四執我當變異別有。執續生我等亦有四種異:一執我亦當有、二執我亦當決定有、三執我亦當如是有、四執我亦當變異有。流轉斷故滅,眾苦息故靜。如說苾芻諸行皆苦,唯有涅槃最為寂靜,更無上故妙,不退轉故離。如正道故道,如實轉故如,定能趣故行。如說此道能至清淨,餘見必無至清淨理,永離有故出。又為治常樂我所我見故修非常苦空非我行相,為治無因一因變因知先因見,故修因、集、生、緣行相。為治解脫是無見,故修滅行相。為治解脫是苦見,故修靜行相。為治靜慮及等至樂是妙見,故修妙行相。為治解脫是數退墮非永見,故修離行相。為治無道邪道餘道退道見,故修道、如、行、出行相。如是行相以慧為體。若爾,慧應非有行相,以慧與慧不相應故。由此應言諸心心所取境類別皆名行相,慧及諸餘心心所法有所緣故皆是能行,一切有法皆是所行。由此三門體有寬陿,慧通行相、能行、所行,餘心心所唯能所行,諸餘有法唯是所行。已辨十智行相差別,當辨性攝依他依身。頌曰:

(論に引き続き曰く:)当の別我を執するに四種の異有り。一は我の当に別に有るべしと執し、二は我の当に決定して別に有るべしと執し、三は我の当に此のよう別に有るべしと執し、四は我の当に変異して別に有るべしと執す。続生の我等を執するもまた四種の異有り。一は我もまた当に有るべしと執し、二は我もまた当に決定して有るべしと執し、三は我もまた当に此のよう有るべしと執し、四は我もまた当に変異して有るべしと執す。流転の断ずるがゆえに滅。衆苦の息むがゆえに静。説くがごとく苾芻、諸行は皆苦、ただ涅槃のみ最も寂静なり。更に上無きがゆえに妙。退転せざるがゆえに離。正道のごときがゆえに道。如実に転ずるがゆえに如。定めて能く趣くがゆえに行。説くがごとく此の道は能く清浄に至り、其余の見は必ず清浄に至るの理無し。永く有を離るるがゆえに出。また為に常・楽・我・我所の見を治せんとして非常・苦・空・非我の行相を修す。為に無因・一因・変因・知先の因の見を治せんとして因・集・生・縁の行相を修す。為に解脱は是れ無の見を治せんとして滅の行相を修す。為に解脱は是れ苦の見を治せんとして静の行相を修す。為に静慮および等至の楽は是れ妙の見を治せんとして妙の行相を修す。為に解脱は是れ数退堕して永に非ずの見を治せんとして離の行相を修す。為に無道・邪道・其余の道・退道の見を治せんとして道・如・行・出の行相を修す。此のようの行相は慧を以て体と為す。もしそうならば、慧は応に行相有るに非ざるべし。慧は慧と相応せざるを以て。此に由って応に説くべし、諸の心・心所の境を取るの類別は皆名づけて行相。慧および其余の心・心所法は所縁有るがゆえに皆是れ能行。一切の有法は皆是れ所行。此に由って三門の体に寛狭有り。慧は行相・能行・所行に通じ、其余の心・心所はただ能・所行、諸の其余の有法はただ是れ所行。已に十智の行相の差別を弁じたれば、当に性摂・依他・依身を弁ずべし。頌に曰く、

性俗三九善,依地俗一切,

性は俗は三、九は善。地に依るは俗は一切。

他心智唯四,法六餘十九,

他心智はただ四。法は六、其余は十・九。

現起所依身,他心依欲色,

現起の依る所の身は、他心は欲・色に依り、

法智但依欲,餘八通三界。

法智は但だ欲に依る。其余の八は三界に通ず。

論曰:如是十智三性攝者,謂世俗通三性,餘九智唯是善。依地別者,謂世俗智通依欲界乃至有頂,他心智唯依四根本靜慮,法智依此四及未至、中間,餘依此六地及下三無色。依身別者,謂他心智依欲色界俱可現前,法智但依欲界現起,餘八智現起通依三界身。已辯性地身,當辯念住攝。頌曰:

論に曰く:此のようの十智の三性の摂するは、いわゆる世俗は三性に通じ、其余の九智はただ是れ善。地の別に依るは、いわゆる世俗智は欲界より乃至有頂に依るに通じ、他心智はただ四根本の静慮に依り、法智は此の四および未至・中間に依り、其余は此の六地および下の三無色に依る。身の別に依るは、いわゆる他心智は欲・色界に依って俱に現前すべく、法智は但だ欲界に依って現起し、其余の八智の現起は三界の身に依るに通ず。已に性・地・身を弁じたれば、当に念住の摂を弁ずべし。頌に曰く、

諸智念住攝,滅智唯最後,

諸の智の念住の摂は、滅智はただ最後。

他心智後三,餘八智通四。

他心智は後の三。其余の八智は四に通ず。

論曰:滅智攝在法念住中,他心智後三攝,所餘八皆通四。如是十智展轉相望,一一當言幾智為境?頌曰:

論に曰く:滅智は法念住の中に摂せられ、他心智は後の三に摂せられ、其余の八は皆四に通ず。此のようの十智は展転に相望めて、一一に当に言うべし幾智を境と為すか。頌に曰く、

諸智互相緣,法類道各九,

諸の智は互いに縁ず。法・類・道は各々九。

苦集智各二,四皆十滅非。

苦・集の智は各々二。四は皆十、滅は非ず。

論曰:法智能緣九智為境,除類智。類智能緣九智為境,除法智。道智能緣九智為境,除世俗智,非道攝故。苦集二智一一能緣二智為境,謂俗、他心。世俗、他心、盡、無生智皆緣十智為境。滅智不緣諸智為境,唯以擇滅為所緣故。十智所緣總有幾法?何智幾法為所緣境?頌曰:

論に曰く:法智は能く九智を縁じて境と為す。類智を除く。類智は能く九智を縁じて境と為す。法智を除く。道智は能く九智を縁じて境と為す。世俗智を除く。道の摂に非ざるがゆえに。苦・集の二智は一一に能く二智を縁じて境と為す。いわゆる俗・他心。世俗・他心・尽・无生の智は皆十智を縁じて境と為す。滅智は諸の智を縁じて境と為さず。ただ択滅を以て所縁と為すがゆえに。十智の縁ずる所は総じて幾法有るか。何の智か幾法を所縁の境と為すか。頌に曰く、

所緣總有十,謂三界無漏,

所縁は総じて十有り。いわゆる三界・無漏。

無為各有二,俗緣十法五,

無為は各々二有り。俗は十法を縁じ、五。

類七苦集六,滅緣一道二,

類は七、苦・集は六。滅は一を縁じ、道は二。

他心智緣三,盡無生各九。

他心智は三を縁ず。尽・无生は各々九。

論曰:十智所緣總有十法,謂有為法分為八種,三界所繫無漏有為各有相應不相應故。無為分二種,善、無記別故。俗智總緣十法為境。法智緣五,謂欲界二、無漏道二及善無為。類智緣七,謂色無色無漏道六及善無為。苦集智各緣三界所繫六。滅智緣一,謂善無為。道智緣二,謂無漏道。他心智緣欲色無漏三相應法。盡無生智緣有為八及善無為。頗有一念智緣一切法不?不爾。豈不非我觀智知一切法皆非我耶?此亦不能緣一切法。不緣何法?此體是何?頌曰:

論に曰く:十智の縁ずる所は総じて十法有り。いわゆる有為法は分かれて八種と為す。三界の繋する所・無漏の有為は各々相応・不相応有るがゆえに。無為は二種に分かつ。善・無記の別なるがゆえに。俗智は総じて十法を縁じて境と為す。法智は五を縁ず。いわゆる欲界の二・無漏道の二および善の無為。類智は七を縁ず。いわゆる色・無色・無漏道の六および善の無為。苦・集智は各々三界の繋する所の六を縁ず。滅智は一を縁ず。いわゆる善の無為。道智は二を縁ず。いわゆる無漏道。他心智は欲・色・無漏の三の相応法を縁ず。尽・无生智は有為の八および善の無為を縁ず。頗る一念の智有りて一切の法を縁ずるか否や。そうにはあらず。豈に非我観の智は一切の法は皆非我と知るにあらずや。此れもまた能く一切の法を縁ぜず。何の法を縁ぜざるか。此の体は是れ何ぞ。頌に曰く、

俗智除自品,總緣一切法,

俗智は自品を除き、総じて一切の法を縁じて、

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