説一切有部倶舎論 巻第八
論曰:經說:世尊自悟一法正覺正說,謂諸有情一切無非由食而住。何等為食?食有四種:一段、二觸、三思、四識。段有二種,謂細及麁。細謂中有食,香為食故。及天劫初食,無變穢故,如油沃砂散入支故。或細汙蟲嬰兒等食說名為細,翻此為麁。如是段食唯在欲界,離段食貪生上界故。唯欲界繫。香味觸三,一切皆為段食自體,可成段別而飲噉故,謂以口鼻分分受之。光影炎涼如何成食?傳說此語從多為論。又雖非飲噉,而能持身,亦細食所攝,如塗洗等。色亦可成段別飲噉,何緣非食?此不能益自所對根,解脫者故。夫名食者,必先資益自根大種,後乃及餘。飲噉色時,於自根大尚不為益,況能及餘,由彼諸根境各別故。有時見色生喜樂者,緣色觸生,是食非色。又不還者及阿羅漢解脫食貪,雖見種種上妙飲食而無益故。觸謂三和所生諸觸,思謂意業,識謂識蘊,此三唯有漏,通三界皆有。如何食體不通無漏?毘婆沙師作如是釋:能資諸有是其食義,無漏修生為滅諸有。又契經說:食有四種,能令部多有情安住,及能資益諸求生者。無漏不然,故非食體。言部多者,顯已生義,諸趣生已皆謂已生。復說求生為何所目?此目中有,由佛世尊以五種名說中有故。何等為五?一者意成,從意生故,非精血等所有外緣合所成故。二者求生,常喜尋察當生處故。三者食香,身資香食往生處故。四者中有,二趣中間所有蘊故。五者名起,對向當生暫時起故。如契經說:有壞自體起,有壞世間生。起謂中有。又經說:有補特伽羅已斷起結、未斷生結。於此經中廣說四句:離二界貪諸上流者為第一句,中般涅槃為第二句,諸阿羅漢為第三句,除前諸相為第四句。又部多者謂阿羅漢,餘有愛者說名求生。幾食能令部多安住?幾食資益求生有情?毘婆沙師說皆具四。
論に曰く:経に説く:世尊は自ら一法を悟りて正覚し正説せり、いわゆる諸の有情は一切に食に由るに非ざれば住すること莫し、と。何等を食とするか。食に四種有り:一に段、二に触、三に思、四に識。段に二種有り、いわゆる細および粗。細とは中有の食を謂う、香を食と為すゆえ。および天・劫初の食、変穢無きゆえ、油の砂に沃ぎて支に散入するが如きゆえ。あるいは細污の虫・嬰児等の食を細と説き名づく、此を翻して粗と為す。かくのごとき段食はただ欲界において有り、段食の貪を離れて上界に生ずるゆえ。ただ欲界の繫。香・味・触の三は、一切は皆段食の自体と為る、段別を成して飲啖すべきゆえ、いわゆる口・鼻を以て分分にこれを受く。光・影・炎・涼は如何にして食と成らん。伝説に此の語は多に従りて論ず、と。また飲啖に非ずと雖も、而も能く身を持す、もまた細食の摂する所、塗・洗等の如し。色もまた段別を成して飲啖すべく、何の縁に食に非ざるか。此は能く自ら対する所の根を益すること能わず、解脱するゆえに。夫れ食と名づくるは、必ず先に自根・大種を資益して、後に乃ち余に及ぼす。色を飲啖する時に、自根の大において尚お益と為さず、況んや能く余に及ぼさんや、彼の諸の根境は各別なるに由るゆえ。或る時に色を見て喜楽を生ずるは、色触の生ずるに縁る、是れ食にして色に非ず。また不還および阿羅漢は食貪を解脱せり、種種の上妙の飲食を見ると雖も而も益無きゆえ。触とは三和の生ずる所の諸の触を謂い、思とは意業を謂い、識とは識蘊を謂う、此の三はただ有漏、三界に通じて皆有り。如何にして食の体は無漏に通ぜざるか。毘婆沙師はかくの釋を作す:能く諸の有を資する是れその食の義、無漏の修生は諸の有を滅せんと為す、と。また契経に説く:食は四種有り、能く部多(ブータ、生まれた有情)の有情をして安住せしめ、および能く求生する諸の者を資益す、と。無漏は然らず、ゆえに食の体に非ず。部多を説くは、已生の義を顕す、諸趣に生じ已って皆已生と謂うゆえ。復た求生を説くは何を目するか。此は中有を目す、仏世尊は五種の名を以て中有を説くに由るゆえ。何等を五とするか。一に意成、意より生ずるゆえ、精血等の所有する外縁の合する所成に非ざるゆえ。二に求生、常にまさに生ぜんとする処を尋察することを喜ぶゆえ。三に食香、身は香の食を資りて生ずる処に往くゆえ。四に中有、二趣の中間の所有する蘊なるゆえ。五に起と名づく、当の生に対向して暫時起るゆえ。契経の説くが如く:壊れて自体の起る有り、壊れて世間の生ずる有り、と。起とは中有を謂う。また経に説く:補特伽羅有りて已に起結を断じて未だ生結を断ぜず、と。此の経中において広く四句を説く:二界の貪を離れたる諸の上流を第一句と為し、中般涅槃を第二句と為し、諸の阿羅漢を第三句と為し、前の諸相を除くを第四句と為す。また部多とは阿羅漢を謂い、余の愛有るは求生と説き名づく。几つの食か能く部多をして安住せしむる。几つの食か求生の有情を資益する。毘婆沙師は皆具に四と説く。
諸有愛者亦由段食為緣資益令招後有,以世尊說四食皆為病癰箭根老死緣故。亦見思食安住現身。世傳有言:昔有一父,時遭飢饉,欲造他方。自既飢羸,二子嬰稚,意欲攜去力所不任,以囊盛灰掛於壁上,慰喻二子云是麨囊。二子希望多時延命,後有人至取囊為開,子見是灰望絕便死。又於大海有諸商人,遭難敗船飲食俱失,遙瞻積沫疑為海岸,意望速至命得延時,至觸知非望絕便死。《集異門足》說:大海中有大眾生,登岸生卵埋於砂內還入海中,母若常思卵便不壞,如其失念卵即敗亡。此不應然,違食義故。豈他思食能持自身?理實應言卵常思母得不爛壞,忘則命終。起念母思在於觸位,諸有漏法皆滋長有。如何世尊說食唯四?雖爾就勝說四無失。謂初二食能益此身所依能依,後之二食能引當有能起當有。言所依者,謂有根身,段食於彼能為資益。言能依者,謂心心所,觸食於彼能為資益。如是二食於已生有資益功能最為殊勝。言當有者,謂未來生,於彼當生思食能引。思食引已,從業所燻識種子力後有得起。如是二食於未生有引起功能最為殊勝。故雖有漏皆滋長有,而就勝能唯說四食。前二如養母,養已生故;後二如生母,生未生故。諸所有段皆是食耶?有段非食,應作四句。第一句者,謂所飲噉為緣損壞諸根大種。第二句者,謂餘三食。第三句者,謂所飲噉為緣資益諸根大種。第四句者,除前諸相。如是觸等隨其所應,一一當知皆有四句。頗有觸等為緣,資益諸根大種而非食耶?有,謂異地無漏觸等。諸有食已捐食者身亦名為食,初資益故。毘婆沙說:食於二時能為食事,俱得名食:一、初食時能除飢渴;二、消化已資根及大。何趣何生各具幾食?五趣四生皆具四食。如何地獄有段食耶?鐵丸洋銅豈非段食?若能為害亦是食者,則與前說四句相違。又《品類足》言:云何為段食?
(論に続けて曰く:)諸の愛有るもまた段食を縁と為して資益して後有を招かしむ、世尊は四食は皆病・癰・箭・老・死の縁と為すと説くを以て。また思食の現身を安住するを見る。世に伝えて説有り:昔一の父有りて、時に飢饉に遭い、他方に造らんと欲す。自は既に飢えて羸え、二子は嬰稚にして、意は携え去らんと欲すれども力は任する所に非ず、嚢を以て灰を盛りて壁上に挂け、二子を慰喩して是れ麨の嚢と説く。二子は希望して多時に命を延ばし、後に人至りて嚢を取りて開かんと為し、子は是れ灰と見て望み絶えて便ち死す、と。また大海において諸の商人有りて、難に遭いて船敗れて飲食俱に失い、遥かに積沫を瞻りて海岸と疑い、意は速かに至らんと望みて命は時を延ぶるを得、至りて触れて非なりを知りて望み絶えて便ち死す、と。『集異門足』に説く:大海中に大衆生有りて、岸に登りて卵を生みて砂内に埋めて還りて海中に入る、母はもし常に思えば卵は便ち壞れず、その如く念を失せば卵は即ち敗亡す、と。此はまさにこの如くあるべからず、食の義に違するゆえ。豈に他の思の食は能く自身を持せんや。理は実にまさに説くべし、卵は常に母を思いて爛壊せざるを得、忘れれば則ち命終す。念を起して母を思うは触の位に在り、諸の有漏の法は皆滋長して有有り。如何にして世尊は食はただ四と説くや。爾りと雖も勝に就きて四を説きて失なし。いわゆる初の二食は能く此の身の所依・能依を益し、後の二食は能く当有を引き能く当有を起こす。所依を説くは、いわゆる根有る身、段食は彼において能く資益と為る。能依を説くは、いわゆる心・心所、触食は彼において能く資益と為る。かくのごとき二食は已生の有において資益の功能は最も殊勝なり。当有を説くは、いわゆる未来の生、彼の当に生ぜんとするにおいて思食は能く引く。思食は引き已りて、業の熏ずる所の識の種子の力より後有の起るを得。かくのごとき二食は未生の有において引起の功能は最も殊勝なり。ゆえに有漏は皆滋長して有有ると雖も、而も勝能に就きてただ四食を説く。前の二は養母の如し、已生を養うゆえ、後の二は生母の如し、未生を生ずるゆえ。諸の所有する段は皆是れ食か。段有りて食に非ず、まさに四句を作すべし。第一句とは、いわゆる飲啖する所は縁と為りて諸の根・大種を損壞す。第二句とは、いわゆる余の三食。第三句とは、いわゆる飲啖する所は縁と為りて諸の根・大種を資益す。第四句とは、前の諸相を除く。かくのごとき触等はその応ずる所に随い、一一にまさに皆四句有るを知るべし。頗る触等を縁と為して、諸の根・大種を資益して而も食に非ざる有るか。有り、いわゆる異地の無漏の触等。諸の食有りて已に食を捐ぬるの身もまた食と名づく、初めに資益するゆえ。毘婆沙に説く:食は二時において能く食事と為る、俱に食の名を得:一に初めの食の時に能く飢渇を除き、二に消化し已りて根および大を資す、と。何の趣の何の生か各々几つの食を具するか。五趣・四生は皆四食を具す。如何にして地獄に段食有らんや。鉄丸・洋銅は豈に段食に非ざらんや。もし能く害と為るもまた是れ食ならば、則ち前の説く四句と相違す。また『品類足』に説く:何を段食とするか、と。
謂能資益諸根大種,廣說乃至識食亦爾。彼說且依能資益者說名為食,故不相違。然地獄中熱鐵丸等,雖於食已能為損害,而能暫時解除飢渴,得食相故亦名為食。又孤地獄段食如人。故五趣中皆有四食。世尊所說:有人能施一百外道離欲仙食,若能施一贍部林中異生者食,其果勝彼。何謂贍部林中異生?有作是釋:所有一切住贍部洲諸有腹者。彼釋非理,說一言故。又於此中有施無量異生者食,理勝以食施少外道離欲仙人,何足為奇挍量歎勝?有言:彼是近佛菩薩。理亦不然,施彼獲福,勝施俱胝阿羅漢故。毘婆沙者說:此異生是已獲得順決擇分。此名與義亦不相應,曾無契經或本論說,得順決擇分居贍部林中,當知彼唯自所分別。後身菩薩居贍部林名彼異生。此說應理,爾時菩薩同離欲仙,故對彼仙挍量歎勝,雖施菩薩福勝無邊。乘前挍量且言勝百,理必應爾。由後世尊除彼異生,還將外道對預流向挍量勝劣。若不爾者,世尊則應將彼異生對預流向。已說有情緣起及住。如先所說壽盡死等,今應正辯。何識現前何受相應有死生等?頌曰:
(論に続けて曰く:)いわゆる能く諸の根・大種を資益する、広説して乃至識食もまたこの如し。彼の説くは且つ能く資益するに依りて食と名づけて説く、ゆえに相違せず。しかるに地獄中の熱鉄の丸等は、食已において能く損害と為ると雖も、而も能く暫時に飢渇を解除し、食の相を得るゆえにもまた食と名づく。また孤地獄の段食は人の如し。ゆえに五趣中に皆四食有り。世尊の説く所:人有りて能く一百の外道の欲を離れたる仙の食を施すとも、もし能く一の贍部林中の異生の食を施せば、その果は彼に勝れり、と。何を贍部林中の異生と謂うか。有りて是の釋を作す:所有する一切の贍部洲に住する諸の腹有る者。彼の釋は理に非ず、一の言を説くゆえ。また此の中において無量の異生の食を施す有りて、理は勝れて食を以て少なき外道の欲を離れたる仙人に施す、何ぞ足らん校量して勝を歎ずるを為さんや。ある説に:彼は是れ近仏の菩薩、と。理もまた然らず、彼に施して福を獲るは、倶胝の阿羅漢に施すに勝れるゆえ。毘婆沙の説:此の異生は是れ已に順決択分を獲得せる者。此の名は義とも相応せず、曾て契経あるいは本論の説く、順決択分を得て贍部林中に居る、無し、まさに彼はただ自ら分別する所を知るべし。後身の菩薩は贍部林に居りて彼の異生と名づく。此の説はまさに理に応ずべし、爾の時に菩薩は欲を離れたる仙に同じ、ゆえに彼の仙に対して校量して勝を歎ず、菩薩に施すと雖も福は勝れて無辺なり。前の校量に乘じて且つ百に勝ると説く、理は必ずまさにこの如くあるべし。後に世尊は彼の異生を除きて、還りて外道を将ちて預流向に対して勝劣を校量す。もしこの如くならざれば、世尊は則ちまさに彼の異生を将ちて預流向に対すべし。已に有情の縁起および住を説き竟えた。先の説く所の寿尽の死等の如く、今まさに正しく弁ずべし。何の識か現前して何の受か相応して死生等有るか。頌に曰く:
斷善根與續,離染退死生,
善根を断つと続くと、染を離れ退り死・生は、
許唯意識中,死生唯捨受,
ただ意識中において許す、死・生はただ捨の受、
非定無心二,二無記涅槃。
定に非ざる・無心の二、二は無記・涅槃。
漸死足臍心,最後意識滅,
漸に死するは足・臍・心、最後に意識は滅し、
下人天不生,斷末摩水等。
下は人・天に生ぜず、末摩・水等を断ず。
論曰:斷善續善離界地染,從離染退命終受生,於此六位法爾唯許意識非餘。所說生言應知亦攝初結中有。死生唯許捨受相應,捨相應心不明利故,餘受明利不順死生。又此二時唯散非定,要有心位必非無心。非在定心有死生義,界地別故、加行生故、能攝益故。亦非無心有死生義,以無心位命必無損。若所依身將欲變壞,必定還起屬所依心然後命終,更無餘理。又無心者不能受生,以無因故,離起煩惱無受生故。雖說死有通三性心,然入涅槃唯二無記。若說欲界有捨異熟,彼說欲界入涅槃心亦具威儀異熟無記。若說欲界無捨異熟,彼說欲界入涅槃心但有威儀而無異熟。何故唯無記得入涅槃?無記勢力微順心斷故。於命終位何身分中識最後滅?頓命終者意識身根欻然總滅,若漸死者往下人天。於足齊心如次識滅,謂墮惡趣說名往下,彼識最後於足處滅;若往人趣識滅於臍,若往生天識滅心處。諸阿羅漢說名不生,彼最後心亦心處滅。有餘師說:彼滅在頂,正命終時於足等處身根滅故意識隨滅。臨命終時身根漸滅,至足等處欻然都滅。如以少水置炎石上,漸減漸消一處都盡。又漸命終者,臨命終時多為斷末摩苦受所逼。無有別物名為末摩,然於身中有異支節觸便致死,是謂末摩。若水火風隨一增盛,如利刀刃觸彼末摩,因此便生增上苦受,從斯不久遂致命終。非如斬薪說名為斷,如斷無覺故得斷名。地界何緣無斯斷用?以無第四內災患故。內三災患,謂風熱淡水火風增隨所應起。有說:此似外器三災。此斷末摩天中非有,然諸天子將命終時,先有五種小衰相現:一者衣服嚴具出非愛聲;二者自身光明忽然昧劣;三者於沐浴位水渧著身;四者本性囂馳今滯一境;五者眼本凝寂今數瞬動。此五相現非定當死。復有五種大衰相現:一者衣染埃塵;二者花鬘萎悴;三者兩腋汗出;四者臭氣入身;五者不樂本座。
論に曰く:善根を断じ善を続き界地の染を離れ、染を離れて退り命終じて生を受くるに、此の六位において法爾にただ意識を許し余に非ず。説く所の生の言は初めて結ぶ中有を摂すと知るべし。死・生はただ捨受の相応するを許す、捨に相応する心は明利ならざるゆえ、余の受は明利にして死・生に順ぜず。また此の二時はただ散にして定に非ず、要して心の位有りて必ず無心に非ず。定の心に在りて死生の義有るに非ず、界地の別なるゆえ、加行の生なるゆえ、能く摂益するゆえ。もまた無心に在りて死生の義有るに非ず、無心の位において命は必ず損無きを以て。もし依る所の身は将に変壊せんと欲すれば、必定に還りて所依に属する心を起して然る後に命終す、更に余の理無し。もまた無心は能く生を受けず、因無きを以て、煩悩を起すを離れて生を受くる無きゆえ。死有は三性の心に通ずと説くと雖も、しかるに涅槃に入るはただ二の無記。もし欲界に捨の異熟有りと説かば、彼は欲界の涅槃に入る心もまた具に威儀・異熟の無記を説く。もし欲界に捨の異熟無しと説かば、彼は欲界の涅槃に入る心は但だ威儀有りて異熟無しと説く。何の故にただ無記は涅槃に入るを得るか。無記は勢力微にして心の断に順ずるゆえ。命終の位において何の身分中に識は最後に滅するか。頓に命終するは意識と身根とは欻然として総じて滅す、もし漸に死するは人・天に往き下る。足・臍・心において次第の如く識は滅す、いわゆる悪趣に堕することを下に往くと説き名づき、彼の識は最後に足の処において滅す、もし人趣に往かば識は臍において滅し、もし天に生ぜんと往かば識は心の処に滅す。諸の阿羅漢は不生と説き名づく、彼の最後の心もまた心の処に滅す。ある余師の説に:彼の滅は頂に在り、正しく命終する時に足等の処において身根の滅するゆえに意識は随って滅す、と。命終に臨む時に身根は漸に滅し、足等の処に至りて欻然として都て滅す。少しの水を以て炎石に置くが如く、漸減じ漸消えて一処に都て盡く。また漸に命終するは、命終に臨む時に多くは末摩を断つの苦受に逼めらる。別の物有りて末摩と名づく有る無し、しかるに身中において異なる支節有りて触るれば便ち死に致る、是れを末摩と謂う。もし水・火・風は一に随い増盛せば、利刀の刃の彼の末摩に触るるが如く、此に因りて便ち増上の苦受を生じ、斯より久しからずして遂に命終を致す。薪を斬るが如く断と説き名づくるに非ず、覚無きを断ずるが如きゆえに断の名を得。地界は何の縁に此の断の用無きか。第四の内の灾患無きを以て。内の三の灾患とは、いわゆる風・熱・淡は水・火・風の増するに随いその応ずる所に起る。ある説に:此は外器の三灾に似たり、と。此の末摩を断つは天中には有るに非ず、しかるに諸の天子は将に命終せんとする時に、先に五種の小衰相の現ずる有り:一には衣服・厳具は愛ならざる声を出し、二には自身の光明は忽然として昧劣し、三には沐浴の位において水滴は身に着き、四には本性は嚣馳なるを今は一境に滞り、五には眼は本は凝寂なるを今は数々瞬動す。此の五相現ずるも定めて死すべきに非ず。復た五種の大衰相の現ずる有り:一には衣は埃塵に染まり、二には花鬘は萎悴し、三には両腋に汗は出で、四には臭気は身に入り、五には本座を楽わず。
此五相現必定當死。世尊於此有情世間生住沒中建立三聚。何謂三聚?頌曰:
(論に続けて曰く:)此の五相現ずれば必定まさに死すべし。世尊は此において有情の世間の生・住・没の中に三聚を建立したまえり。何を三聚と謂うか。頌に曰く:
正邪不定聚,聖造無間餘。
正・邪・不定の聚、聖は無間を造る余。
論曰:一正性定聚、二邪性定聚、三不定性聚。何名正性?謂契經言:貪無餘斷,瞋無餘斷,痴無餘斷。一切煩惱皆無餘斷,是名正性。定者謂聖,聖謂已有無漏道生,遠諸惡法故名為聖,獲得畢竟離繫得故。定盡煩惱,故名正定。諸已獲得順解脫分者,亦定得涅槃,何非正定?彼後或墮邪定聚故。又得涅槃時未定故,非如預流者極七返有等。又彼未能捨邪性故,不名正定。何名邪性?謂諸地獄、傍生、餓鬼,是名邪性。定謂無間,造無間者必墮地獄,故名邪定。正邪定餘,名不定性。彼待二緣,可成二故。
論に曰く:一に正性定聚、二に邪性定聚、三に不定性聚。何を正性と名づくるか。いわゆる契経に説く:貪は无余に断ち、瞋は无余に断ち、痴は无余に断つ。一切の煩悩は皆无余に断つ、是れを正性と名づく、と。定とは聖を謂い、聖とは已に無漏の道の生ずる有るを謂い、諸の悪法を遠くするゆえに聖と名づき、畢竟の離繫の得を獲得するゆえ。定めて煩悩を尽す、ゆえに正定と名づく。諸の已に順解脱分を獲得せるも、もまた定めて涅槃を得、何ぞ正定に非ざらん。彼は後にあるいは邪定聚に堕するゆえ。もまた涅槃を得る時は未だ定まらざるゆえ、預流の極めて七返有等の如くに非ず。また彼は未だ能く邪性を捨てざるゆえ、正定と名づけず。何を邪性と名づくるか。いわゆる諸の地獄・傍生・餓鬼、是れを邪性と名づく。定とは無間を謂い、無間を造るは必ず地獄に堕つ、ゆえに邪定と名づく。正・邪の定の余を、不定性と名づく。彼は二の縁を待ちて、二を成すべきゆえ。
説一切有部倶舎論 巻第十
アビダルマ倶舎論 巻第十一 尊者世親造
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。
分別世品第三之四
分別世品 第三之四。
如是已說有情世間。器世間今當說。頌曰:
かくのごとき已に有情の世間を説き竟えた。器世間は今まさに説くべし。頌に曰く:
安立器世間,風輪最居下,
器世間を安立す、風輪は最も下に居り、
其量廣無數,厚十六洛叉,
その量は広くして数無く、厚さは十六洛叉(ラクシャ、億)、
次上水輪深,十一億二萬,
次の上の水輪は深く、十一億二万、
下八洛叉水,餘凝結成金,
下の八洛叉は水、其余は凝結して金を成す、
此水金輪廣,徑十二洛叉,
此の水・金の輪の広さ、径は十二洛叉、
三千四百半,周圍此三倍。
三千四百半、周囲は此の三倍。
論曰:許此三千大千世界如是安立形量不同。謂諸有情業增上力,先於最下依止虛空有風輪生,廣無數、厚十六億踰繕那。如是風輪其體堅密,假設有一大諾健那,以金剛輪奮威懸擊,金剛有碎風輪無損。又諸有情業增上力,起大雲雨澍風輪上,滴如車軸積水成輪。如是水輪於未凝結位,深十一億二萬踰繕那。如何水輪不傍流散?有餘師說:一切有情業力所持令不流散。如所飲食未熟變時,終不流移墮於熟藏。有餘部說:由風所持令不流散,如篅持穀。有情業力感別風起,搏擊此水上結成金,如熟乳停上凝成膜,故水輪減唯厚八洛叉,餘轉成金,厚三億二萬。二輪廣量其數是同,謂徑十二億三千四百半。周圍其邊數成三倍,謂周圍量成三十六億一萬三百五十踰繕那。頌曰:
論に曰く:此の三千大千世界のかくのごとき安立の形量の不同なるを許す。いわゆる諸の有情の業の増上の力に先ず最下において虚空に依止して風輪の生ずる有り、広さは数無く、厚さは十六億逾繕那(ヨージャナ)。かくのごとき風輪はその体は堅密にして、仮設して一の大諾健那(力士)有りて、金剛輪を以て威を奮い懸けて撃たば、金剛は碎くる有りて風輪は損無し。また諸の有情の業の増上の力に由りて、大きなる雲雨を起して風輪の上に澍ぎ、滴は車軸の如く水を積みて輪を成す。かくのごとき水輪は未だ凝結せざる位において、深さ十一億二万逾繕那。如何にして水輪は傍に流散せざるか。ある余師の説に:一切の有情の業力の持する所にして流散せざらしむ。飲食する所の未だ熟変せざる時に、終に流移して熟藏に堕せざるが如し。ある余部の説に:風の持する所に由りて流散せざらしむ、篅(し)の穀を持するが如し。有情の業力は別の風を感じて起り、此の水を搏撃して上に結して金を成す、熟乳の停まりて上に凝して膜を成すが如く、ゆえに水輪は減じてただ厚さ八洛叉、其余は転じて金と成り、厚さ三億二万。二輪の広量はその数は是同なり、いわゆる径は十二億三千四百半。その辺の周囲は数は三倍を成す、いわゆる周囲の量は三十六億一万三百五十逾繕那を成す。頌に曰く:
蘇迷盧處中,次踰健達羅,
蘇迷盧(スメル)は中に処し、次に逾健達羅(ユガンダラ)、
伊沙馱羅山,朅地洛迦山,
伊沙馱羅山(イーシャーダラ)、朅地洛迦山(カーディラカ)、
蘇達梨舍那,頞濕縛羯拏,
蘇達梨舍那(スダルシャナ)、頞湿縛羯拏(アシュヴァカルナ)、
毘那怛迦山,尼民達羅山,
毘那怛迦山(ヴィナタカ)、尼民達羅山(ニミンダラ)、
於大洲等外,有鐵輪圍山,
大洲等の外において、鉄の輪圍山有り、
前七金所成,蘇迷盧四寶,
前の七は金の成す所、蘇迷盧は四宝、
入水皆八萬,妙高出亦然,
水に入るは皆八万、妙高の出づるもまたこの如し、
餘八半半下,廣皆等高量。
余の八は半半に下り、広さは皆出たる量に等し。
論曰:於金輪上有九大山,妙高山王處中而住,餘八週匝繞妙高山。於八山中前七名內,第七山外有大洲等。此外復有鐵輪圍山,周匝如輪圍一世界。持雙等七唯金所成。妙高山王四寶為體,謂如次四面北、東、南、西,金、銀、吠琉璃、頗胝迦寶。隨寶威德色顯於空,故贍部洲空似吠琉璃色。如是寶等從何而生?亦諸有情業增上力。復大雲起雨金輪上滴如車軸,積水奔濤,其水即為眾寶種藏。由具種種威德猛風鑽擊變生眾寶類等。如是變水生寶等時,因滅果生,體不俱有,非如數論轉變所成。數論云何執轉變義?謂執有法自性常存,有餘法生、有餘法滅。如是轉變何理相違?謂必無容有法常住,可執別有法滅法生。誰言法外別有有法?唯即此法於轉變時異相所依名為有法。此亦非理。非理者何?即是此物而不如此,如是言義曾所未聞。如是變生金寶等已,復由業力引起別風,簡別寶等攝令聚集成山成洲,分水甘醎令別成立內海外海。如是九山住金輪上,入水量皆等八萬踰繕那,蘇迷盧山出水亦爾。餘八出水半半漸卑,謂初持雙出水四萬,乃至最後鐵輪圍山出水三百一十二半。如是九山一一廣量,各各與自出水量同。頌曰:
論に曰く:金輪の上に九の大山有り、妙高の山王は中に処して住し、余の八は周匝に妙高山を遶る。八山中において前の七は内と名づき、第七の山の外に大洲等有り。此の外に復た鉄の輪圍山有りて、周匝に輪の如く一世界を圍す。持双等の七はただ金の成す所。妙高の山王は四宝を体と為す、いわゆる次第の如く四面は北・東・南・西にして、金・銀・吠瑠璃(ヴァイドゥーリヤ)・頗胝迦(スパティカ)の宝。宝の威徳に随い色は空に顕れ、ゆえに贍部洲の空は吠瑠璃の色に似たり。かくのごとき宝等は何より生ずるか。もまた諸の有情の業の増上の力。復た大きなる雲起りて金輪の上に雨りて滴は車軸の如く、水を積みて奔濤し、その水は即ち衆宝の種蔵と為る。具に種種の威徳の猛風に由りて鑽撃して衆宝の類等を変生す。かくのごとき水を変じて宝等を生ずる時、因は滅して果は生じ、体は俱に有らず、数論の転変の成す所の如くに非ず。数論は如何にして転変の義を執するか。いわゆる有法の自性は常に存し、余の法の生ずる有り、余の法の滅する有りと執す。かくのごとき転変は何の理にか相違する。いわゆる必ず有法の常住を容れず、別に法の滅し法の生ずる有るを執すべからず。誰か法の外に別に有法有りと説く。ただ即ち此の法が転変の時において異相の依る所を有法と名づく。此もまた理に非ず。理に非ずとは是れ何ぞ。即ち是れ此の物にして而もこの如くならざる、かくのごとき言義は曾て聞かざる所。かくのごとき金宝等を変生し已りて、復た業力に由りて別の風を引起し、宝等を簡別して攝して聚集せしめて山を成し洲を成し、水を分けて甘・鹹と為して別に内海・外海を成立せしむ。かくのごとき九山は金輪の上に住し、水に入る量は皆八万逾繕那に等しく、蘇迷盧山の水を出づるもまたこの如し。余の八の水を出づるは半半に漸に卑し、いわゆる初の持双は水を出づる四万、乃至最後の鉄輪圍山は水を出づる三百十二半。かくのごとき九山の一一の広量は、各々自ら水を出づる量と同じ。頌に曰く:
山間有八海,前七名為內,
山の間に八海有り、前の七は内と名づき、
最初廣八萬,四邊各三倍,
最初は広さ八万、四辺は各々三倍、
餘六半半陿,第八名為外,
余の六は半半に狭く、第八は外と名づき、
三洛叉二萬,二千踰繕那。
三洛叉二万、二千逾繕那。
論曰:妙高為初、輪圍最後,中間八海,前七名內。七中皆具八功德水:一甘、二冷、三軟、四輕、五清淨、六不臭、七飲時不損喉、八飲已不傷腹。如是七海初廣八萬,約持雙山內邊周量,於其四面數各三倍,謂各成二億四萬踰繕那。其餘六海量半半陿,謂第二海量廣四萬,乃至第七量廣一千二百五十。此等不說周圍量者,以煩多故。第八名外,醎水盈滿,量廣三億二萬二千。頌曰:
論に曰く:妙高を初と為し、輪圍を最後と為し、中間に八海有り、前の七は内と名づく。七中に皆八功德の水を具す:一に甘、二に冷、三に軟、四に軽、五に清浄、六に臭からず、七に飲む時に喉を損せず、八に飲み已って腹を傷らず。かくのごとき七海の初は広さ八万、持双の山の内辺の周量に約り、その四面において数は各々三倍、いわゆる各々二億四万逾繕那を成す。余の六の海の量は半半に狭し、いわゆる第二の海の量の広さは四万、乃至第七は量の広さは一千二百五十。此等は周囲の量を説かざるは、煩多を以てなり。第八は外と名づき、鹹水は盈満し、量の広さは三億二万二千。頌に曰く:
於中大洲相,南贍部如車,
その中の大洲の相、南の贍部は車の如し、
三邊各二千,南邊有三半;
三辺は各々二千、南辺は三半有り、
東毘提訶洲,其相如半月,
東の毘提訶洲(ヴィデーハ)、その相は半月の如く、
三邊如贍部,東邊三百半;
三辺は贍部の如く、東辺は三百半、
西瞿陀尼洲,其相圓無缺,
西の瞿陀尼洲(ゴーダーニヤ)、その相は円にして欠け無し、
徑二千五百,周圍此三倍;
径は二千五百、周囲は此の三倍、
北俱盧畟方,面各二千等,
北の倶盧は方を畟め、面は各々二千等し、
中洲復有八,四洲邊各二。
中洲は復た八有り、四洲の辺に各々二。
論曰:於外海中大洲有四,謂於四面對妙高山。南贍部洲北廣南陿,三邊量等,其相如車。南邊唯廣三踰繕那半,三邊各有二千踰繕那。唯此洲中有金剛座,上窮地際下據金輪,一切菩薩將登正覺皆坐此座上起金剛喻定,以無餘依及餘處所有堅固力能持此故。東勝身洲東陿西廣,三邊量等,形如半月。東三百五十,三邊各二千。西牛貨洲圓如滿月,徑二千五百,周圍七千半。北俱盧洲形如方座,四邊量等,面各二千。等言為明無少增減。隨其洲相人面亦然。復有八中洲,是大洲眷屬,謂四大洲側各有二中洲。贍部洲邊二中洲者,一遮末羅洲、二筏羅遮末羅洲。勝身洲邊二中洲者,一提訶洲、二毘提訶洲。牛貨洲邊二中洲者,一舍搋洲、二嗢怛羅漫怛裡拏洲。俱盧洲邊二中洲者,一矩拉婆洲、二憍拉婆洲。此一切洲皆人所住。有說:唯一邏剎娑居。頌曰:
論に曰く:外海中において大洲は四有り、いわゆる四面において妙高山に対す。南の贍部洲は北は広く南は狭く、三辺の量は等しく、その相は車の如し。南辺はただ広さ三逾繕那半、三辺は各々二千逾繕那有り。ただ此の洲中に金剛座有り、上は地際に窮まり下は金輪に拠り、一切の菩薩は将に正覚に登らんとする時皆此の座上に坐して金剛喩の定を起す、余の依および余の処の所有する堅固の力は能く此を持する無きを以て。東の勝身洲は東は狭く西は広く、三辺の量は等しく、形は半月の如し。東は三百五十、三辺は各々二千。西の牛貨洲は円かにして満月の如く、径は二千五百、周囲は七千半。北の倶盧洲は形は方座の如く、四辺の量は等しく、面は各々二千。等の言は少しの増減無きを明らかに為さんが為。その洲の相に随いて人面もまたこの如し。復た八の中洲有りて、是れ大洲の眷属、いわゆる四大洲の側に各々二の中洲有り。贍部洲の辺の二中洲とは:一に遮末羅洲、二に筏羅遮末羅洲。勝身洲の辺の二中洲とは:一に提訶洲、二に毘提訶洲。牛貨洲の辺の二中洲とは:一に舍搋洲、二に嗢怛羅漫怛里拏洲。倶盧洲の辺の二中洲とは:一に矩拉婆洲、二に憍拉婆洲。此の一切の洲は皆人の住する所。ある説に:ただ一の邏刹娑(ラークシャサ)の居るのみ、と。頌に曰く:
此北九黑山,雪香醉山內,
此の北に九の黒山、雪・香醉山の内に、
無熱池縱廣,五十踰繕那。
無熱の池の縦広は、五十逾繕那。
論曰:此贍部洲從中向北,三處各有三重黑山。有大雪山在黑山北,大雪山北有香醉山。雪北香南有大池水,名無熱惱,出四大河:一殑伽河、二信度河、三徙多河、四縛芻河。無熱惱池縱廣正等,面各五十踰繕那量,八功德水盈滿其中,非得通人無由能至。於此池側有贍部林,樹形高大其果甘美,依此林故名贍部洲,或依此果以立洲號。復於何處置㮈落迦、大㮈落迦?何量有幾?頌曰:
論に曰く:此の贍部洲は中より北に向かい、三処に各々三重の黒山有り。大雪山有りて黒山の北に在り、大雪山の北に香醉山有り。雪の北・香の南に大池の水有りて、無熱悩と名づき、四の大河を出す:一に殑伽河(ガンガー)、二に信度河(シンド)、三に徙多河(シーター)、四に縛芻河(ヴァクシュ)。無熱悩の池は縦広正しく等しく、面は各々五十逾繕那の量、八功德の水はその中に盈満し、通を得るに非ざれば至る能う由無し。此の池の側に贍部林有りて、樹の形は高大にしてその果は甘美なり、此の林に依るゆえに贍部洲と名づく、あるいは此の果に依りて以て洲の号を立つ。復た何の処に捺落迦・大捺落迦(地獄)を置くか。何の量に几つ有るか。頌に曰く:
此下過二萬,無間深廣同,
此の下に二万を過ぎて、無間は深広同じく、
上七㮈落迦,八增皆十六。
上に七の捺落迦、八の増は皆十六。
謂煻煨屍糞,鋒刃烈河增,
いわゆる煻煨・尸糞、鋒刃・烈河の増、
各住彼四方,餘八寒地獄。
各々彼の四方に住し、余は八の寒地獄。
論曰:此贍部洲下過二萬,有阿鼻旨大㮈落迦。深廣同前,謂各二萬故。彼底去此四萬踰繕那。以於其中受苦無間,非如餘七大㮈落迦受苦非恆,故名無間。且如等活㮈落迦中,諸有情身雖被種種斫刺磨擣,而彼暫遇涼風所吹還活如本,由斯理故立等活名。阿鼻旨中無如是事。有餘師說:阿鼻旨中無樂間苦故名無間,餘地獄中有樂間起,雖無異熟而有等流。七㮈落迦在無間上重累而住。其七者何?一者極熱、二者炎熱、三者大叫、四者號叫、五者眾合、六者黑繩、七者等活。有說:此七在無間傍。八㮈落迦增各十六,故薄伽梵說此頌言:
論に曰く:此の贍部洲の下に二万を過ぎて、阿鼻旨(無間)の大捺落迦有り。深広は前と同じく、いわゆる各々二万なるゆえ。彼の底は此を去る四万逾繕那。その中において苦を受けて間無きを以て、余の七大捺落迦の苦を受くるは恒に非ざるが如くに非ず、ゆえに無間と名づく。且つ等活の捺落迦中の如く、諸の有情の身は種種の斫刺・磨擣を被ると雖も、而も彼は暫く涼風の吹く所に遇い還りて本の如く活す、此の理に由るゆえに等活の名を立つ。阿鼻旨中にはこの如き事無し。ある余師の説に:阿鼻旨中に楽の苦を間ずる無きゆえに無間と名づく、余の地獄中には楽の間起有り、異熟無しと雖も而も等流有り、と。七の捺落迦は無間の上に重累して住す。その七とは是れ何ぞ。一に極熱、二に炎熱、三に大叫、四に号叫、五に衆合、六に黒縄、七に等活。ある説に:此の七は無間の傍に在り、と。八の捺落迦の増は各々十六、ゆえに薄伽梵は此の頌を説きて曰く:
此八㮈落迦,我說甚難越,
此の八の捺落迦、我は甚だ越え難しと説く、
以熱鐵為地,周匝有鐵牆,
熱鉄を以て地と為し、周匝に鉄の墙有り、
四面有四門,關閉以鐵扇,
四面に四門有り、関閉して鉄扇を以てし、
巧安布分量,各有十六增,
巧みに分量を安布し、各々十六の增有り、
多百踰繕那,滿中造惡者,
多くの百逾繕那、中に満てて悪を造るを、
周遍焰交徹,猛火恆洞然。
周遍に焰は交徹し、猛火は恒に洞然たり。
十六增者,八㮈落迦四面門外各有四所:一煻煨增,謂此增內煻煨沒膝,有情遊彼才下足時,皮肉與血俱燋爛墜,舉足還生平復如本。二屍糞增,謂此增內屍糞泥滿,於中多有娘矩吒蟲,𭪿利如針身白頭黑,有情遊彼皆為此蟲鑽皮破骨𠯗食其髓。三鋒刃增,謂此增內復有三種:一刀刃路,謂於此中仰布刀刃以為大道,有情遊彼才下足時,皮肉與血俱斷碎墜,舉足還生平復如本。二劍葉林,謂此林上純以銛利劍刃為葉,有情遊彼風吹葉墜,斬刺支體骨肉零落,有烏駁狗摣掣食之。三鐵刺林,謂此林上有利鐵刺長十六指,有情被逼上下樹時,其刺銛鋒下上鑱刺,有鐵𭪿鳥探啄有情眼睛心肝爭競而食。刀刃路等三種雖殊,而鐵杖同故一增攝。四烈河增,謂此增量廣,滿中熱醎水,有情入中或浮或沒,或逆或順或橫或轉,被蒸被煮骨肉糜爛。如大鑊中滿盛灰汁置麻米等,猛火下燃,麻等於中上下迴轉舉體糜爛,有情亦然。設欲逃亡,於兩岸上有諸獄卒,手執刀槍禦捍令迴,無由得出。此河如塹,前三似園,四面各四增,故言皆十六。此是增上被刑害所,故說名增,本地獄中適被害已重遭害故。有說:有情從地獄出更遭此苦,故說為增。今於此中因論生論。諸地獄卒是有情不?有說:非情。如何動作?有情業力,如成劫風。若爾,云何通彼大德法善現說?如彼頌言:
(論に続けて曰く:)十六の増とは、八の捺落迦の四面の門外に各々四所有り:一に煻煨の増、いわゆる此の増内は煻煨は膝に没し、有情は彼に遊びて纔かに足を下す時、皮肉と血とは俱に焦爛して墜ち、足を挙げて還りて平かに復た本の如し。二に尸糞の増、いわゆる此の増内は尸糞の泥満ち、その中に多く娘矩咤の虫有りて、喙は針の如く利く身は白く頭は黒し、有情は彼に遊びて皆此の虫に皮を鑽り骨を破られ髄を唼食せらる。三に鋒刃の増、いわゆる此の増内に復た三種有り:一に刀の刃の路、いわゆる此の中において刀刃を仰ぎ布きて以て大道と為し、有情は彼に遊びて纔かに足を下す時、皮肉と血とは俱に断碎して墜ち、足を挙げて還りて平かに復た本の如し。二に剣葉の林、いわゆる此の林の上は純に銛利な劍刃を以て葉と為し、有情は彼に遊びて風は吹き葉は墜ちて、支体を斬刺して骨肉は零落し、烏・駮狗有りて摣掣してこれを食う。三に鉄刺の林、いわゆる此の林の上に利き鉄刺有りて長さ十六指、有情は逼められて樹に上下する時、その刺の銛鋒は下上に鑵刺し、鉄喙の鳥有りて有情の眼睛・心肝を探啄して争競して食う。刀刃の路等の三種は殊なれども、而も鉄杖は同じゆえに一の増に摂す。四に烈河の増、いわゆる此の増は量広く、中に熱き鹹水満ち、有情は中に入りてあるいは浮かびあるいは没し、あるいは逆らいあるいは順いあるいは横たわりあるいは転じ、蒸され煮られて骨肉は糜爛す。大きなる鑊中に灰汁を満て盛りて麻・米等を置き、猛火は下に燃ゆ、その中において上下に回転して挙体糜爛するが如く、有情もまたこの如し。設ひ逃亡せんと欲すとも、両岸上に諸の獄卒有りて、手に刀槍を執りて御捍して回らしめ、出づるに由無し。此の河は塹の如く、前の三は園に似たり、四面に各々四の増、ゆえに皆十六と説く。此は是れ増上に刑害せられる所、ゆえに増と説き名づく、本地獄中において適に害せられ已りて重ねて害に遭うゆえ。ある説に:有情は地獄より出でて更に此の苦に遭う、ゆえに増と為すと説く、と。今此の中において論に因りて論を生ず。諸の地獄の卒は是れ有情か否や。ある説に:情に非ず。如何にして動作する。有情の業力、成劫の風の如し。もし爾ならば、如何にして彼の大徳法善の現に説くに通ずるか。彼の頌の説くが如く:
