Libo

説一切有部倶舎論 巻第二十一

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第30巻 / 38

餘盡或正見,此應果皆有。

其余は尽或いは正見。此れは応果は皆有り。

論曰:不動種性諸阿羅漢,盡智無間起無生智,非更有盡智無學正見生。除不動法餘阿羅漢,盡智無間有盡智生,或即引生無學正見非無生智,後容退故。前不動種性無正見生耶?有正見生,而不說者,一切應果皆有此故。謂不動法無生智後有無生智起,或無學正見。前說四果是誰果耶?此四應知是沙門果。何謂沙門性?此果體是何?果位差別總有幾種?頌曰:

論に曰く:不動の種性の諸の阿羅漢は、尽智の無間に無生智を起す。更に尽智・無学の正見の生ずる有るに非ず。不動法を除く其余の阿羅漢は、尽智の無間に尽智の生ずる有り、或いは即ち無学の正見を引き生じて無生智に非ず。後に退するを容るるがゆえに。前の不動の種性は正見の生ずる無きか。正見の生ずる有りて、而も説かざるは、一切の応果は皆此れ有るがゆえに。いわゆる不動法は無生智の後に無生智の起る有り、或いは無学の正見。前に説ける四果は是れ誰の果か。此の四は応に知るべし是れ沙門果。何谓をか沙門性とするか。此の果の体は是れ何ぞ。果位の差別は総じて幾種有るか。頌に曰く、

淨道沙門性,有為無為果,

浄道は沙門性。有為・無為の果は、

此有八十九,解脫道及滅。

此れ八十九有り。解脱道および滅。

論曰:諸無漏道是沙門性,懷此道者名曰沙門,以能勤勞息煩惱故。如契經說:以能勤勞息除種種惡不善法,廣說乃至故名沙門。異生不能無異究竟趣涅槃故,非真沙門。有為無為是沙門果。契經說此差別有四,理實就位有八十九,皆解脫道擇滅為性。謂為永斷見所斷惑有八無間八解脫道,及為永斷修所斷惑有八十一無間八十一解脫道。諸無間道唯沙門性,諸解脫道亦是沙門有為果體,是彼等流、士用果故。一一擇滅唯是沙門無為果體,是彼離繫、士用果故。如是合成八十九種。若爾,世尊何不具說?果雖有多而不說者,頌曰:

論に曰く:諸の無漏道は是れ沙門性。此の道を懐くを名づけて沙門。能く勤労して煩悩を息めるを以て。契経に説くがごとく:能く勤労して種種の悪不善法を息除するを以て、広く説き乃至ゆえに名づけて沙門。異生は能く異究竟に涅槃に趣くこと無きがゆえに、真の沙門に非ず。有為・無為は是れ沙門果。契経は此の差別に四有りと説く。理実は位に就いて八十九有り。皆解脱道・択滅を以て性と為す。いわゆる為に見所断の惑を永断せんとするに八無間・八解脱道有り、および為に修所断の惑を永断せんとするに八十一無間・八十一解脱道有り。諸の無間道はただ沙門性。諸の解脱道もまた是れ沙門の有為の果体。是れ彼の等流・士用の果なるがゆえに。一一の択滅はただ是れ沙門の無為の果体。是れ彼の離系・士用の果なるがゆえに。此のようの合して八十九種を成ず。もしそうならば、世尊は何ぞ具に説かざるか。果は多しと雖も而も説かざるは、頌に曰く、

五因立四果,捨曾得勝道,

五因に依って四果を立つ。曾ての道・勝道を捨て、

集斷得八智,頓修十六行。

集めて断得・八智を得、頓じて十六行を修す。

論曰:若斷道位具足五因,佛於經中建立為果。言五因者,一捨曾道,謂捨先得果向道故。二得勝道,謂得果攝殊勝道故。三總集斷,謂總一得得諸斷故。四得八智,謂得四法四類智故。五能頓修十六行相,謂能頓修無常等故。於四果位皆具五因,餘位不然,故佛不說。若唯淨道是沙門性,有漏道力所得二果,如何亦是沙門果攝?頌曰:

論に曰く:もし道を断ずる位に五因を具足せば、仏は経の中に於いて建立して果と為したまえり。五因と言うは、一は曾道を捨つ。いわゆる先に得たる果向の道を捨つるがゆえに。二は勝道を得。いわゆる果の摂する殊勝の道を得るがゆえに。三は総じて集断。いわゆる総じて一得にて諸の断を得るがゆえに。四は八智を得。いわゆる四法・四類の智を得るがゆえに。五は能く頓じて十六行相を修す。いわゆる能く頓じて無常等を修するがゆえに。四果の位に於いて皆五因を具え、其余の位は此のようにはあらず。ゆえに仏は説かず。もしただ浄道のみ是れ沙門性ならば、有漏道の力の得る所の二果は、如何にしてもまた是れ沙門果の摂か。頌に曰く、

世道所得斷,聖所得雜故,

世道の得る所の断は、聖の得る所と雑なるがゆえ、

無漏得持故,亦名沙門果。

無漏の得の持するがゆえに、もまた名づけて沙門果。

論曰:以世俗道得二果時,此果非唯以世俗道所得擇滅為斷果性,兼以見道所得擇滅於中相雜總成一果,同一果道得所得故。由此契經言:云何一來果?謂斷三結薄貪瞋痴。云何不還果?謂斷五下結。又世俗道所得擇滅,無漏斷得所任持故,由此力所持退不命終故,亦得名為沙門果體。此沙門性有異名耶?亦有。云何?頌曰:

論に曰く:世俗道を以て二果を得る時、此の果はただ世俗道の得る所の択滅を以て断果の性と為すに非ず。兼ねて見道の得る所の択滅を以て中に於いて相雑して総じて一果を成ず。同一の果道の得の得る所なるがゆえに。此に由って契経に説く:何をか一来果とするか。いわゆる三結を断じて貪瞋痴を薄めたるを。何をか不還果とするか。いわゆる五下結を断ぜるを。また世俗道の得る所の択滅は、無漏の断得の任持する所なるがゆえに、此の力の持する所に由って退しても命終せざるがゆえに、もまた名づけて沙門果の体を得。此の沙門性に異名有るか。もまた有り。如何。頌に曰く、

所說沙門性,亦名婆羅門,

説く所の沙門性は、もまた名づけて婆羅門。

亦名為梵輪,真梵所轉故。

もまた名づけて梵輪。真梵の転ずる所なるがゆえに。

於中唯見道,說名為法輪,

中に於いてただ見道を、説いて名づけて法輪。

由速等似輪,或具輻等故。

速等の輪に似たるに由り、或いは輻等を具えるがゆえに。

論曰:即前所說真沙門性,經亦說名婆羅門性,以能遣除諸煩惱故。即此亦說名為梵輪,是真梵王力所轉故。佛與無上梵德相應,是故世尊獨應名梵。由契經說佛亦名梵、亦名寂靜、亦名清涼。即於此中唯依見道,世尊有處說名法輪。如世間輪有速等相,見道似彼故名法輪。見道如何與彼相似?由速行等似彼輪故。謂見諦道速疾行故、有捨取故、降未伏故、鎮已伏故、上下轉故,具此五相似世間輪。尊者妙音作如是說:如世間輪有輻等相,八支聖道似彼名輪。謂正見、正思惟、正勤、正念似世輪輻,正語、正業、正命似轂,正定似輞,故名法輪。寧知法輪唯是見道?憍陳那等見道生時,說名已轉正法輪故。云何三轉十二行相?此苦聖諦,此應遍知,此已遍知,是名三轉。即於如是一一轉時,別別發生眼智明覺,說此名曰十二行相。如是三轉十二行相諦諦皆有,然數等故但說三轉十二行相,如說二法七處善等。由此三轉如次顯示見道、修道、無學道三。毘婆沙師所說如是。若爾,三轉十二行相非唯見道,如何可說唯於見道立法輪名?是故唯應即此三轉十二行相所有法門名為法輪,可應正理。如何三轉?三週轉故。如何具足十二行相?三週循歷四聖諦故。謂此是苦、此是集、此是滅、此是道,此應遍知、此應永斷、此應作證、此應修習,此已遍知、此已永斷、此已作證、此已修習。云何名轉?由此法門往他相續令解義故。或諸聖道皆是法輪,於所化生身中轉故。於他相續見道生時,已至轉初故名已轉。何沙門果依何界得?頌曰:

論に曰く:すなわち前の説く所の真の沙門性は、経もまた説いて名づけて婆羅門性。能く諸の煩悩を遣除するを以て。すなわち此れもまた説いて名づけて梵輪。是れ真の梵王の力の転ずる所なるがゆえに。仏は無上の梵徳と相応す。此のゆえに世尊は独り応に名づけて梵と為す。契経の説くに由って仏もまた名づけて梵、もまた名づけて寂静、もまた名づけて清凉。すなわち此の中に於いてただ見道に依って、世尊は処有りて説いて名づけて法輪。世間の輪の速等の相有るがごとく、見道は彼に似たるがゆえに名づけて法輪。見道は如何にして彼と相似するか。速行等に由って彼の輪に似たるがゆえに。いわゆる諦を見る道は速疾に行ずるがゆえ、捨・取有るがゆえ、未伏を降すがゆえ、已伏を鎮むるがゆえ、上下に転ずるがゆえに、此の五相を具えて世間の輪に似たり。尊者妙音は此の説を作して曰く:世間の輪の輻等の相有るがごとく、八支の聖道は彼に似たり名づけて輪。いわゆる正見・正思惟・正勤・正念は世の輪の輻に似て、正語・正業・正命は轂に似て、正定は輞に似たり。ゆえに名づけて法輪。寧んぞ法輪はただ是れ見道を知らんや。憍陳那(五比丘の一)等の見道の生ずる時、説いて名づけて已に正法輪を転ぜりと為すがゆえに。如何にして三転・十二行相か。此れ苦聖諦、此れ応に遍知すべし、此れ已に遍知せり。是れを名づけて三転。すなわち此のようの一一の転ずる時に於いて、別別に眼・智・明・覚を発生す。此を説いて名づけて十二行相。此のようの三転・十二行相は諦々に皆有り。しかし数等しきがゆえに但だ三転・十二行相を説く。二法・七処善等を説くがごとし。此の三転に由って次第のごとく見道・修道・無学道の三を顕示す。毘婆沙師の説く所は此のよう。もしそうならば、三転・十二行相はただ見道に非ず。如何にして説くべきかただ見道に於いて法輪の名を立つと。此のゆえにただ応に即ち此の三転・十二行相の所有の法門を名づけて法輪と為すは、応に正理に該当すべし。如何にして三転か。三周の転ずるがゆえに。如何にして具足の十二行相か。三周に循歴して四聖諦を遍すがゆえに。いわゆる此れ是れ苦、此れ是れ集、此れ是れ滅、此れ是れ道。此れ応に遍知すべし、此れ応に永断すべし、此れ応に作証すべし、此れ応に修習すべし。此れ已に遍知せり、此れ已に永断せり、此れ已に作証せり、此れ已に修習せり。如何にして名づけて転か。此の法門に由って他の相続に往きて義を解せしむるがゆえに。或いは諸の聖道は皆是れ法輪。化する所の生身の中に於いて転ずるがゆえに。他の相続に於いて見道の生ずる時、已に転の初に至れるがゆえに名づけて已転。何の沙門果は何の界に依ってか得るか。頌に曰く、

三依欲後三,由上無見道,

三は欲に依り後の三は、上に見道無きに由る。

無聞無緣下,無厭及經故。

聞無く下に縁ぜず、厭および経無きがゆえに。

論曰:前三但依欲界身得,得阿羅漢依三界身。前之二果未離欲故,非依上得理且可然,第三云何非依上得?由理教故。且理云何?依上界身無見道故,非離見道已離欲者可有超證不還果義。何緣上界必無見道?且無色中無正聞故。又彼界中不緣下故,色界異生著勝定樂。又無苦受不生厭故,非無有厭能得見道。教復云何?由經說故。經言:有五補特伽羅,此處通達彼處究竟,所謂中般乃至上流。此通達言唯目見道,是證圓寂初加行故。由此見道上界定無。

論に曰く:前の三は但だ欲界の身に依って得。阿羅漢を得るは三界の身に依る。前の二果は未だ欲を離れざるがゆえに、上に依って得るに非ざるは理且つ此のようのべし。第三は如何にして上に依って得るに非ざるか。理・教に由るがゆえに。且つ理は如何。上界の身に依っては見道無きがゆえに。見道を離れて已に欲を離れたるの超証して不還果の義有るべきに非ず。何の縁にか上界は必ず見道無きか。且つ無色の中に正聞無きがゆえに。また彼の界の中に下に縁ぜざるがゆえに、色界の異生は勝定の楽に著す。また苦受無くして厭を生ぜざるがゆえに、厭有る無くして見道を得る能わず。教は復た如何。経の説く所に由るがゆえに。経に説く:五補特伽羅有りて、此の処に通達し彼の処に究竟す。いわゆる中般乃至上流。此の通達の言はただ見道を目す。是れ圆寂を証する初の加行なるがゆえに。此に由って見道は上界に定めて無し。

説一切有部倶舎論 巻第二十四

アビダルマ倶舎論 巻第二十五 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別賢聖品第六之四

分別賢聖品 第六之四

如前所說,不動應果初盡智後起無生智。諸阿羅漢如預流等有差別不?亦有。云何?頌曰:

前の説く所のごとく、不動の応果は初めて尽智の後に無生智を起す。諸の阿羅漢は預流等のごとく差別有るか否か。もまた有り。如何。頌に曰く、

阿羅漢有六,謂退至不動,

阿羅漢に六有り。いわゆる退より不動に至る。

前五信解生,總名時解脫,

前の五は信解より生じ、総じて名づけて時解脱。

後不時解脫,從前見至生。

後は不時解脱。前の見至より生ず。

論曰:於契經中說阿羅漢由種性異故有六種,一者退法、二者思法、三者護法、四安住法、五堪達法、六不動法。於此六中前之五種,從先學位信解性生,即此總名時愛心解脫,恆時愛護及心解脫故。亦說名為時解脫者,以要待時及解脫故。略初言故,如言酥瓶。由此待時方能入定,謂待資具無病處等勝緣合時方入定故。不動法性說名為後,即此名為不動心解脫,以無退動及心解脫故。亦說名為不時解脫,以不待時及解脫故。謂三摩地隨欲現前,不待勝緣和合時故。或依暫時、畢竟解脫,建立時解脫、不時解脫名,容有退墮時、無退墮時故,此從學位見至性生。如是所明六阿羅漢所有種性,為是先有、為後方得?不定。云何?頌曰:

論に曰く:契経の中に於いて阿羅漢は種性の異なるに由って六種有りと説く。一者は退法、二者は思法、三者は護法、四は安住法、五は堪達法、六は不動法。此の六の中に於いて前の五種は、先の学位の信解の性より生ず。すなわち此れを総じて名づけて時愛心解脱。恒時に愛護しおよび心の解脱するがゆえに。もまた説いて名づけて時解脱。要ずるに時を待ちおよび解脱するを以て。初の言を略するがゆえに。酥瓶と言うがごとし。此に由って時を待って方に能く定に入る。いわゆる資具・無病の処等の勝縁の合する時を待って方に定に入るがゆえに。不動の法性は説いて名づけて後。すなわち此れを名づけて不動心解脱。退動無くおよび心の解脱するを以て。もまた説いて名づけて不時解脱。時を待たずおよび解脱するを以て。いわゆる三摩地は欲に随って現前し、勝縁の和合の時を待たざるがゆえに。或いは暫時・畢竟の解脱に依って、時解脱・不時解脱の名を建立す。退堕の時有るを容れ、退堕の時無きがゆえに。此れは学位の見至の性より生ず。此のようの明かす所の六阿羅漢の所有の種性は、為に是れ先に有るか、為に後に方に得るか。定まらず。如何。頌に曰く、

有是先種性,有後練根得。

有るは是れ先の種性、有るは後に練根して得。

論曰:退法種性必是先有,思法等五亦有後得。謂有先來是思法性,有先退法性後練根成思,乃至不動隨應當說。言退法者,謂遇少緣便退所得,非思法等。言思法者,謂懼退失恆思自害。言護法者,謂於所得喜自防護。安住法者,離勝退緣雖不自防亦能不退,離勝加行亦不增進。堪達法者,彼性堪能好修練根速達不動。不動法者,彼必無退。此六種性,先學位中初二闕恆時及尊重加行,由根有異故有差別。第三唯有恆時加行,第四唯有尊重加行,第五具二而是鈍根,第六利根具二加行。退法種性非必定退,乃至堪達非必能達,但約容有建立此名,故六阿羅漢通三界皆有。若執退者必定應退,乃至堪達必能達者,彼執欲界具足有六,色無色界中唯安住、不動,彼無退失、自害、自防及修練根故唯有二。如是六種阿羅漢中,誰從何退?為性為果?頌曰:

論に曰く:退法の種性は必ず是れ先有り。思法等の五もまた後に得る有り。いわゆる先来は是れ思法の性有り、先の退法性にして後に練根して思を成ずる有り、乃至不動は其の応ずるに随って当に説くべし。退法と言うは、いわゆる少しきの縁に遇えば便ち得る所を退す。思法等に非ず。思法と言うは、いわゆる退失を惧れて恒に自害を思う。護法と言うは、いわゆる得る所に於いて自ら防護を喜ぶ。安住法とは、勝退の縁を離るると雖も自ら防がずとも能く退せず、勝加行を離るるもまた増進せず。堪達法とは、彼の性は堪能して好く根を修練して速やかに不動に達す。不動法とは、彼は必ず退無し。此の六種性は、先の学位の中に初二は恒時および尊重の加行を闕き、根に異有るに由って差別有る。第三はただ恒時の加行有り、第四はただ尊重の加行有り、第五は二を具えて而も是れ鈍根、第六は利根にして二加行を具す。退法の種性は必ず定めて退するに非ず。乃至堪達は必ず能く達するに非ず。但だ容そ有るに約して此の名を建立す。ゆえに六阿羅漢は三界に通じて皆有り。もし退なるは必定して応に退すべしと執し、乃至堪達は必ず能く達すべしとすれば、彼の執は欲界は具足して六有り、色・無色界の中はただ安住・不動。彼は退失・自害・自防および修練根無きがゆえにただ二有るのみ。此のようの六種の阿羅漢の中、誰か何より退するか。性か果か。頌に曰く、

四從種性退,五從果非先。

四は種性より退し、五は果より先に非ず。

論曰:不動種性必無退理。前之五種皆有退義,於中後四有從性退,退法一種無退性理,由此種性最居下故。五種皆有從果退義,雖俱有退然並非先。謂諸無學先學位中所住種性,彼從此性必無退理,學無學道所成堅故。若諸有學先凡位中所住種性,彼從此性亦無退理,世出世道所成堅故。若住此位後修練根所得思等四種種性,彼從此性容有退理。二先位中住思等性,必亦無退此所得果,唯先退法有退果義。又亦無退先所得果,後所得果容有退義,是故定無退預流果。由此應果退法有三:一增進根、二退住學、三住自位而般涅槃。思法有四,三如前說,更加一種退住退性。餘三如次有五六七,應知後後一一增故。思法等四退住學位,時還住退非餘。若異此者,得勝種性故,應是進非退。何緣定無退先果者?以見所斷依無事故。謂有身見依我處轉,見所斷惑此見為根,我體既無名依無事,以無事故必無退理。若爾,應說此惑緣無,非此緣無,諦為境故。然於諦境不如實緣,諸煩惱中誰不如是?雖皆如是而有差別,以修斷惑各有別事,即是可意不可意等,於所緣境此相非無。見所斷惑計有我等,非諸諦境有我等相,以無事故與修斷別。謂於色等所緣境中,我見妄增作者受者自在而轉,非實我性。邊執見等隨此而生,故並說為依無事惑。若修所斷貪瞋慢痴,色等境中唯起染著增背高舉不了行轉,故並說為依有事惑。又見斷惑於諦理中執我我所斷常見等,非諦中有少我等事。見斷貪等緣此而生,是故皆名依無事惑。修所斷惑於色等中謂好醜等,然色等境非無少分好醜等別,是故可名依有事惑。又見斷惑迷諦理起名依無事,修所斷惑迷麁事生名依有事。諦理真實,揩定可依。聖慧已證必無退理,事相浮偽無定可依,斷迷彼惑有失念退。或修斷惑非審慮生,昧鈍性故。見所斷惑由審慮生,推度性故。

論に曰く:不動の種性は必ず退の理無し。前の五種は皆退の義有り。中に於いて後の四は性より退する有り。退法の一種は性を退するの理無し。此の種性は最も下に居るに由るがゆえに。五種は皆果より退するの義有り。俱に退有りと雖も然し而も先に并非ず。いわゆる諸の無学は先の学位の中に住せし所の種性は、彼は此の性より必ず退の理無し。学・無学の道の成ずる所堅なるがゆえに。もし諸の有学は先の凡位の中に住せし所の種性は、彼は此の性よりもまた退の理無し。世・出世の道の成ずる所堅なるがゆえに。もし此の位に住して後に練根を修して得たる思等の四種の種性は、彼は此の性より容そ退の理有り。二の先位の中に思等の性に住せば、必ずもまた此の得る所の果を退せず。ただ先の退法に果を退するの義有り。またもまた先の得る所の果を退する無し。後の得る所の果は容そ退の義有り。此のゆえに定めて預流果を退すること無し。此に由って応果の退法に三有り。一は進みて根を増す、二は退して学に住す、三は自位に住して而も般涅槃す。思法に四有り。三は前の説くがごとく、更加えて一種の退して退性に住すを。其余の三は次第のごとく五・六・七有り。応に知るべし後後は一一に増すがゆえに。思法等の四は退して学位に住するも、時は還た退に住して其余に非ず。もし此に異ならば、勝の種性を得るがゆえに、応に是れ進にして退に非ざるべし。何の縁にか定めて先果を退する無きか。見所断は事無きに依るを以て。いわゆる有身見は我の処に依って転ず。見所断の惑は此の見を以て根と為す。我の体はすでに無ければ名づけて事無きに依る。事無きを以て必ず退の理無し。もしそうならば、応に説くべし此の惑は無に縁ず。此れは無に縁ずるに非ず。諦を以て境と為すがゆえに。しかし諦境に於いて如実に縁ぜざるは、諸の煩悩の中に誰か此のようにはあらざらん。皆此のようなると雖も而も差別有り。修断の惑は各々別の事有るを以て。すなわち是れ可意・不可意等。縁ずる所の境に於いて此の相は無きに非ず。見所断の惑は我等有りと計る。諸の諦境に我等の相有るに非ず。事無きを以て修断と別なり。いわゆる色等の縁ずる所の境の中に於いて、我見は妄りに作者・受者を増して自在に転ず。実我の性に非ず。辺執見等は此に随って生ず。ゆえに并せて説いて事無きに依る惑と為す。もし修所断の貪瞋慢癡は、色等の境の中に於いてただ染着・増背・高挙・不了の行の転を起す。ゆえに并せて説いて事有るに依る惑と為す。また見断の惑は諦理の中に於いて我・我所・断・常の見等を執す。諦の中に少しきの我等の事有るに非ず。見断の貪等は此に縁じて生ず。此のゆえに皆名づけて事無きに依る惑。修所断の惑は色等の中に於いて好・醜等を謂う。然るに色等の境は少分の好・醜等の別無きに非ず。此のゆえに名づくべし事有るに依る惑。また見断の惑は諦理に迷うて起るを名づけて事無きに依る。修所断の惑は麁事に迷うて生ずるを名づけて事有るに依る。諦理は真実にして、揩定して依るべし。聖慧は已に証して必ず退の理無し。事相は浮偽にして定めて依るべき無し。彼の惑に迷えるを断ずるは失念の退有り。或いは修断の惑は審慮に生ずるに非ず。昧鈍の性なるがゆえに。見所断の惑は審慮に由って生ず。推度の性なるがゆえに。

聖不審慮於麁事中失念或生,審慮不爾,如於繩等率爾謂蛇。故修斷惑聖有退起,非由率爾可起見惑。聖若審慮便見諦理,故聖見斷定無退義。經部師說:從阿羅漢亦無退義。彼說應理。云何知然?由教理故。知何由教?經言:苾芻!聖慧斷惑名為實斷。又契經言:我說有學應不放逸,非阿羅漢。雖有經言:佛告慶喜:我說利養等亦障阿羅漢,而不說退阿羅漢果,但說退失現法樂住。經言:不動心解脫身作證,我定說無因緣從此退故。若謂有退,由經說有時愛解脫,我亦許然。但應觀察彼之所退,為應果性、為靜慮等?然彼根本靜慮等持,要待時現前,故名時解脫。彼為獲得現法樂住,數希現前故名為愛。有說:此定是所愛味,諸阿羅漢果性解脫恆隨逐故不應名時,更不欣求故不名愛。若應果性容有退者,如何世尊但說所證現法樂住有可退理。由此證知,諸阿羅漢果性解脫必是不動。然由利等擾亂過失,有於所得現法樂住退去自在,謂諸鈍根;若諸利根則無退失。故於所得現法樂住有退無退,故名退不退法。如是思等如理應思。不退、安住、不動何別?非練根得名為不退,練根所得名為不動。此二所起殊勝等至,設遇退緣亦無退理。安住法者,但於已住諸勝德中能無退失,不能更引餘勝德生,設復引生從彼可退。是不退等三種差別。然喬底迦昔在學位,於時解脫極噉味故,又鈍根故數數退失,深自厭責執刀自害。由於身命無所戀惜,臨命終時得阿羅漢便般涅槃,故喬底迦亦非退失阿羅漢果。又增十經作如是說:一法應起,謂時愛心解脫。一法應證,謂不動心解脫。若應果性名為時愛心解脫者,何故於此增十經中再說應果?又曾無處說阿羅漢果名為應起,但說名應證。又說鈍根所攝應果名為應起,為顯何義?若為顯彼能起現前,則餘利根最應能起。若為顯彼應起現前,亦餘利根最所應起。故時解脫非應果性。

(論は続けて曰く:)聖は審慮せずして麁事の中に於いて失念或いは生ず。審慮は此のようにはあらず。縄等に於いて率爾に蛇と謂うがごとし。ゆえに修断の惑は聖に退起有り。率爾に由って見惑を起すべきに非ず。聖はもし審慮せば便ち諦理を見る。ゆえに聖の見断は定めて退の義無し。経部師の説く:阿羅漢よりもまた退の義無し。彼の説は理に該当す。如何にして此のようの知るか。教理に由るがゆえに。何をか教に由って知るか。経に説く:苾芻、聖慧の惑を断ずるを名づけて実断。また契経に説く:我は有学は応に放逸すべからずと説く。阿羅漢に非ず。経有りて説くと雖も:仏は慶喜に告げたまう、我は利養等もまた阿羅漢を障すると説く、而も阿羅漢果を退すると説かず。但だ現法の楽住を退失すると説くのみ。経に説く:不動心解脱は身に作証す。我は定めて説く、此より退するの因縁無しと。ゆえにもし退有りと謂わば、経に時愛解脱有りと説くに由って、我もまた此のようを許す。但だ応に彼の退する所を観察すべし。応果の性か、静慮等か。しかし彼の根本の静慮の等持は、要ずるに時を待ちて現前す。ゆえに名づけて時解脱。彼は現法の楽住を獲得せんが為に、数々現前を希うがゆえに名づけて愛。ある説に、此の定は是れ愛味する所。諸の阿羅漢は果性の解脱は恒に随逐するがゆえに応に時と名づくべからず。更に欣求せざるがゆえに愛と名づけず。もし応果の性は容そ退有れば、如何にして世尊は但だ証する所の現法楽住に退すべきの理有りと説くのみか。此に由って証知す。諸の阿羅漢は果性の解脱は必ず是れ不動。しかし利等の扰乱の過失に由って、得る所の現法楽住に於いて退去の自在有りて、いわゆる諸の鈍根。もし諸の利根は則ち退失無し。ゆえに得る所の現法楽住に於いて退・不退有り。ゆえに名づけて退・不退法。此のようの思等は理のごとく応に思うべし。不退・安住・不動は何の別か。練根の得に非ざるを名づけて不退。練根の得る所を名づけて不動。此の二の起す所の殊勝の等至は、設い退縁に遇うとも退の理無し。安住法とは、但だ已に住する諸の勝徳の中に於いて能く退失無し。更に其余の勝徳を引きて生ぜしむること能わず。設い復た引き生ずとも彼より退すべし。是れ不退等の三種の差別。しかし喬底迦(比丘の名)は昔学位に在りて、時解脱に於いて極めて味を啖むを以て、また鈍根なるを以て数々退失し、深く自ら厭責して刀を執りて自害せり。身命に於いて恋惜する所無きに由って、命終に臨みて阿羅漢を得て便ち般涅槃せり。ゆえに喬底迦もまた阿羅漢果を退失するに非ず。また増十経は此の説を作して曰く:一法は応に起すべし。いわゆる時愛心解脱。一法は応に証すべし。いわゆる不動心解脱。もし応果の性を名づけて時愛心解脱と為せば、何故此の増十経の中に於いて復た応果を説くか。また曾て処なくして阿羅漢果を名づけて応に起すべしと説かず。但だ名づけて応に証すべしと説くのみ。また鈍根の摂する所の応果を名づけて応に起すべしと説くは、為に何の義を顕さんか。もし為に彼の能く現前を起すを顕さば、則ち其余の利根は最も応に能く起すべし。もし為に彼の応に現前を起すべきを顕さば、もまた其余の利根は最も起すべき所。ゆえに時解脱は応果の性に非ず。

若爾,何故說時解脫應果?謂有應果根性鈍故,要待時故定方現前。若與彼相違,名不時解脫。阿毘達磨亦作是言:欲貪隨眠由三處起,一欲貪隨眠未斷遍知故、二順彼經法正現在前故、三於彼正起非理作意故。若謂彼據具因生說,復有何法因不具生?是名由教。如何由理?若阿羅漢有令煩惱畢竟不起治道已生,是則不應退起煩惱。若阿羅漢此道未生,未能永拔煩惱種故,應非漏盡。若非漏盡,寧說為應?是名由理。若爾,應釋炭喻契經。如說:多聞諸聖弟子若行若住,有處有時失念故生惡不善覺。此經唯說阿羅漢果,由此經言:彼聖弟子心於長夜隨順遠離,廣說乃至臨入涅槃。餘契經中有即說此順遠離等名應果力。又此經說:彼於一切順漏已能永吐、已得清涼。由此定知是阿羅漢。實後所說是阿羅漢,然彼乃至於行住時未善通達,容有此事。謂有學者於行住時,由失念故容起煩惱,後成無學則無起義。前依學位,故說無失。毘婆沙師定作是說:阿羅漢果亦有退義。唯阿羅漢種性有六,為餘亦有六種性耶?設有皆能修練根不?頌曰:

(論は続けて曰く:)もしそうならば、何の故にか時解脱の応果を説くか。いわゆる応果有りて根性の鈍なるがゆえに、要ずるに時を待って方に定は現前するがゆえに。もし彼と相違せば、名づけて不時解脱。阿毘達磨もまた是の言を作す:欲貪の随眠は三処に由って起る。一は欲貪の随眠は未だ断じて遍知せざるがゆえ、二は彼に順ずる経の法は正に現前するがゆえ、三は彼に於いて正に非理の作意を起すがゆえに。もし彼は因具わりて生ずるに据えて説くと謂わば、復た何の法か因具わらずして生ずるか。是れを名づけて教に由る。如何にして理に由るか。もし阿羅漢は煩悩をして畢竟に起らざらしむる治道の已に生ぜる有れば、是れ則ち応に煩悩を退起すべからず。もし阿羅漢は此の道の未だ生ぜざれば、未だ能く煩悩の種を永く抜かざるがゆえに、応に漏尽に非ざるべし。もし漏尽に非ざれば、寧んぞ説いて応と為さんや。是れを名づけて理に由る。もしそうならば、応に炭喻の契経を釋すべし。説くがごとく:多聞の諸の聖弟子はもし行きもし住すれば、処有り時有りて失念のゆえに悪不善の覚を生ず。此の経はただ阿羅漢果を説く。此の経の説くに由る:彼の聖弟子の心は長夜に遠離に随順し、広く説き乃至涅槃に入らんと臨むと。また契経の中に即ち此の遠離に順ずる等を説いて名づけて応果の力。また此の経に説く:彼は一切の漏に順ずるを已に能く永く吐き、已に清凉を得たり。此に由って定めて知る是れ阿羅漢。実には後の説く所は是れ阿羅漢。しかし彼は乃至行・住の時に於いて未だ善く通達せず、容そ此の事有り。いわゆる有学なるは行・住の時に於いて、失念に由って容そ煩悩を起し、後に無学と成れば則ち起の義無し。前は学位に依る。ゆえに説いて失無し。毘婆沙師は定めて是の説を作す:阿羅漢果もまた退の義有り。ただ阿羅漢の種性に六有り。為に其余もまた六種性有るか。設い皆能く練根を修するか否か。頌に曰く:

學異生亦六,練根非見道。

学・異生もまた六。練根は見道に非ず。

論曰:有學異生種性亦六,六種應果彼為先故。然見道位必無練根,此位無容起加行故。唯於信解異生位中,能修練根如無學位。如契經說:我說由斯所證四種增上心所現法樂住隨一有退,所得不動心解脫身作證,我決定說無因緣從此退。如何不動法退現法樂住?頌曰:

論に曰く:有学・異生の種性もまた六。六種の応果は彼を先と為すがゆえに。しかし見道の位は必ず練根無し。此の位は加行を起すを容れざるがゆえに。ただ信解・異生の位の中に於いて、能く練根を修するは無学の位のごとし。契経に説くがごとく:我は説く、斯に由って証する所の四種の増上心の所の現法楽住に随一の退有り、得る所の不動心解脱は身に作証す、我は決定して説く此より退するの因縁無しと。如何にして不動法は現法楽住を退するか。頌に曰く、

應知退有三,已未得受用,

応に知るべし退に三有り。已・未得・受用。

佛唯有最後,利中後鈍三。

仏はただ最後有り。利は中・後、鈍は三。

論曰:應知諸退總有三種:一已得退,謂退已得殊勝功德。二未得退,謂未能得殊勝功德。三受用退,謂諸已得殊勝功德不現在前。於此三中,世尊唯有一受用退,以具眾德,無容一時頓現前故。餘不動法具有受用及未得退,亦於勝己殊勝功德猶未得故。餘五種性容具有三,亦容退失已得德故。約受用退,說不動法退現法樂,無相違過。無退論者作如是說:諸無漏解脫皆名不動。然別立第六不動法者,如前釋通,不應為難。諸阿羅漢既許退果,為更生不?諸住果時所不作事退時作不?不爾。何緣?頌曰:

論に曰く:応に知るべし諸の退は総じて三種有り。一は已得の退。いわゆる已に得たる殊勝の功徳を退す。二は未得の退。いわゆる未だ殊勝の功徳を得る能わざる。三は受用の退。いわゆる諸の已に得たる殊勝の功徳の現前せざる。此の三の中に於いて、世尊はただ一の受用の退有り。衆徳を具えて、一時に頓じて現前するを容れざるがゆえに。其余の不動法は具に受用および未得の退有り。もまた勝己の殊勝の功徳に於いて猶お未だ得ざるがゆえに。其余の五種性は容そ具に三有り。もまた容そ已得の徳を退失するがゆえに。受用の退に約して、不動法は現法の楽を退すと説くは、相違の過無し。退無しの論は此の説を作して曰く:諸の無漏の解脱は皆名づけて不動。しかし別に第六の不動法を立つるは、前の釋の通ずるがごとく、応に難と為すべからず。諸の阿羅漢はすでに果を退するを許せば、為に更に生ずるや否や。諸の果に住する時の作さざる所の事を、退する時に作すや否や。そうにはあらず。何の縁か。頌に曰く、

一切從果退,必得不命終,

一切は果より退すとも、必ず得て命終せず、

住果所不為,慚增故不作。

果に住して為さざる所は、慚が増するがゆえに作さず。

論曰:無從果退中間命終,退已須臾必還得故。如契經說:苾芻當知,如是多聞諸聖弟子退失正念,速復還能令所退起盡沒滅離。若謂不然,修梵行果應非安隱可委信處。又住果位所不應為違果事業,由慚增故於暫退時亦必不造,譬如壯士雖蹶不僕。如上所言,有練根得無學有學,正練根時各幾無間、幾解脫道?何性攝?何所依?頌曰:

論に曰く:果より退して中間に命終する無し。退し已りて須臾に必ず還得するがゆえに。契経に説くがごとく:苾芻当知れ、此のようの多聞の諸の聖弟子は正念を退失しても、速やかに復た能く退する所をして起りて尽没滅離せしむ。もし此のようにはあらずと謂わば、梵行を修する果は応に安穏にして信を委くべき処に非ざるべし。また果位に住して応に為すべからざる果に違する事業は、慚の増するに由って暫退の時に於いても必ず造らず。譬えば壮士の蹶くと雖も仆れざるがごとし。上の言う所のごとく、練根して無学・有学を得る有りて、正しく練根する時に各々幾無間・幾解脱道か。何の性の摂か。何に依る所か。頌に曰く、

練根無學位,九無間解脫,

練根の無学の位は、九の無間・解脱。

久習故學一,無漏依人三,

久しく習したるがゆえに学は一。無漏は人の三に依る。

無學依九地,有學但依六,

無学は九地に依り、有学は但だ六に依る。

捨果勝果道,唯得果道故。

果・勝果の道を捨て、ただ果の道を得るがゆえに。

論曰:求勝種性修練根者,無學位中轉一一性各九無間、九解脫道,如得應果。所以者何?彼鈍根性由久串習,非少功力可能令轉,學無學道所成堅故。有學位中轉一一性,各一無間、一解脫道,如得初果,上相違故。彼加行道諸位各一。如是無間及解脫道,一切唯是無漏性攝。聖者必無用有漏道而轉根理,非增上故。依謂身地,此所依身唯人三洲,餘無退故。此所依地,無學通九,謂未至、中間、四定、三無色。有學唯六,謂除後三。所以者何?夫轉根者,容有捨果及勝果道,所得唯果非向道故。無有學果無色地攝,故學練根但依六地。諸無學位補特伽羅,總有幾種?由何差別?頌曰:

論に曰く:勝種性を求めて練根を修するは、無学の位の中に於いて一一の種性を転ずるに各々九の無間・九の解脱道有り。応果を得るがごとし。所以は何ぞや。彼の鈍根の性は久しく串習せるに由って、少しきの功力にては能くして転ぜしめんこと能わず。学・無学の道の成ずる所堅なるがゆえに。有学の位の中に於いて一一の種性を転ずるは、各々一の無間・一の解脱道。初果を得るがごとし。上に相違するがゆえに。彼の加行道の諸位は各々一。此のようの無間および解脱道は、一切ただ是れ無漏性の摂。聖者は必ず有漏道を用いて而も根を転ずるの理無し。増上に非ざるがゆえに。依とは身地を謂う。此の依る所の身はただ人の三洲。其余は退無きがゆえに。此の依る所の地は、無学は九に通ず。いわゆる未至・中間・四定・三無色。有学はただ六。いわゆる後の三を除く。所以は何ぞや。凡そ根を転ずるは、容そ果および勝果の道を捨て、得る所はただ果にして向道に非ざるがゆえに。有学の果の無色地の摂有ること無し。ゆえに学の練根は但だ六地に依る。諸の無学の位の補特伽羅は、総じて幾種有るか。何に由ってか差別するか。頌に曰く、

七聲聞二佛,差別由九根。

七声聞・二仏。差別は九根に由る。

論曰:居無學位聖者有九,謂七聲聞及二覺者。退法等五不動分二,後先別故,名七聲聞。獨覺、大覺名二覺者。由下下等九品根異,令無學聖成九差別。學無學位有七聖者,一切聖者皆此中攝:一隨信行、二隨法行、三信解、四見至、五身證、六慧解脫、七俱解脫。依何立七?事別有幾?頌曰:

論に曰く:無学の位に居る聖者に九有り。いわゆる七声聞および二の覚者。退法等の五は不動を分かちて二と為し、後・先の別あるがゆえに、名づけて七声聞。独覚・大覚を名づけて二覚者。下下等の九品の根の異なるに由って、無学の聖をして九の差別を成さしむ。学・無学の位に七聖者有りて、一切の聖者は皆此の中に摂す。一は随信行、二は随法行、三は信解、四は見至、五は身証、六は慧解脱、七は俱解脱。何に依ってか七を立つるか。事の別は幾有るか。頌に曰く、

加行根滅定,解脫故成七,

加行・根・滅定、解脱のゆえに七を成ず。

此事別唯六,三道各二故。

此の事の別はただ六。三道は各々二なるがゆえに。

論曰:依加行異立初二種,謂依先時隨他及法於所求義修加行故,立隨信行、隨法行名。依根不同立次二種,謂依鈍利信慧根增,如次名為信解、見至。依得滅定立身證名,由身證得滅盡定故。依解脫異立後二種,謂依唯慧離煩惱障者立慧解脫,依兼得定離解脫障者立俱解脫。此名雖七事別唯六,謂見道中有二聖者,一隨信行、二隨法行,此至修道別立二名,一信解、二見至,此至無學復立二名,謂時解脫、不時解脫。應知此中一隨信行根故成三,謂下中上;性故成五,謂退法等;道故成十五,謂八忍七智?離染故成七十三,謂具縛離八地染;依身故成九,謂三洲、欲天。若根、性、道、離染、依身相乘,合成一億四萬七千八百二十五種。隨法行等如理應思。何等名俱及慧解脫?頌曰:

論に曰く:加行の異なるに依って初の二種を立つ。いわゆる先時に於いて他および法に随って求むる所の義に於いて加行を修するに依るがゆえに、随信行・随法行の名を立つ。根の同じからざるに依って次の二種を立つ。いわゆる鈍・利の信・慧の根の増するに依って、次第のごとく名づけて信解・見至。滅定を得るに依って身証の名を立つ。身に由って滅尽定を証得するがゆえに。解脱の異なるに依って後の二種を立つ。いわゆるただ慧に依って煩悩障を離れたるに依って慧解脱を立て、兼ねて定を得て解脱障を離れたるに依って俱解脱を立つ。此の名は七有りと雖も事の別はただ六。いわゆる見道の中に二聖者有り。一は随信行、二は随法行。此れ修道に至りて別に二名を立つ。一は信解、二は見至。此れ無学に至りて復た二名を立つ。いわゆる時解脱・不時解脱。応に知るべし此の中の一の随信行は、根を以て三を成す。いわゆる下・中・上。性を以て五を成す。いわゆる退法等。道を以て十五を成す。いわゆる八忍・七智。離染を以て七十三を成す。いわゆる具縛・八地の染を離るる。依身を以て九を成す。いわゆる三洲・欲天。もし根・性・道・離染・依身を相乗ずれば、合して一億四万七千八百二十五种を成す。随法行等は理のごとく応に思うべし。何等を名づけて俱および慧解脱か。頌に曰く、

俱由得滅定,餘名慧解脫。

俱は滅定を得るに由り、其余を名づけて慧解脱。

論曰:諸阿羅漢得滅定者名俱解脫,由慧定力解脫煩惱解脫障故。所餘未得滅盡定者名慧解脫,但由慧力於煩惱障得解脫故。如世尊說:五煩惱斷不可牽引未名滿學。學無學位各由幾因於等位中獨稱為滿?頌曰:

論に曰く:諸の阿羅漢は滅定を得たるを名づけて俱解脱。慧・定の力に由って煩悩・解脱の障を解脱するがゆえに。其余の未だ滅尽定を得ざるを名づけて慧解脱。但だ慧の力に由って煩悩障に於いて解脱を得るがゆえに。世尊の説きたまえるがごとく:五煩悩の断は引くべからず、未だ満学と名づけず。学・無学の位は各々幾因に由ってか等位の中に於いて独り満と称するか。頌に曰く、

有學名為滿,由根果定三;

有学は名づけて満、根・果・定の三に由る。

無學得滿名,但由根定二。

無学は満の名を得るに、但だ根・定の二に由る。

論曰:學於學位獨得滿名,具由三因,謂根、果、定。有有學者但由根故亦得滿名,謂諸見至未離欲染。有有學者但由果故亦得滿名,謂信解不還未得滅盡定。有有學者由根果故亦得滿名,謂見至不還未得滅盡定。有有學者由果定故亦得滿名,謂諸信解得滅盡定。有有學者具由三故獨得滿名,謂諸見至得滅盡定。無有學者但由定故及根定故亦得滿名。諸無學者於無學位由根定二獨得滿名,無學位中無非果滿,故無由果亦立滿名。有但由根亦名為滿,謂不時解脫未得滅盡定。有但由定亦名為滿,謂時解脫得滅盡定。有具由二獨名為滿,謂不時解脫已得滅盡定。廣說諸道差別無量,謂世出世見修道等。略說幾道能遍攝耶?頌曰:

論に曰く:学は学位に於いて独り満の名を得。具に三因に由る。いわゆる根・果・定。有学有りて但だ根に由ってもまた満の名を得。いわゆる諸の見至の未だ欲染を離れざる。有学有りて但だ果に由ってもまた満の名を得。いわゆる信解の不還の未だ滅尽定を得ざる。有学有りて根・果に由ってもまた満の名を得。いわゆる見至の不還の未だ滅尽定を得ざる。有学有りて果・定に由ってもまた満の名を得。いわゆる諸の信解の滅尽定を得たる。有学有りて具に三に由って独り満の名を得。いわゆる諸の見至の滅尽定を得たる。有学有りて但だ定に由りおよび根・定に由ってもまた満の名を得。諸の無学なるは無学の位に於いて根・定の二に由って独り満の名を得。無学の位の中に果満に非ざる無きがゆえに、果に由ってもまた満の名を立つること無し。但だ根に由ってもまた名づけて満と為す有り。いわゆる不時解脱の未だ滅尽定を得ざる。但だ定に由ってもまた名づけて満と為す有り。いわゆる時解脱の滅尽定を得たる。具に二に由って独り名づけて満と為す有り。いわゆる不時解脱の已に滅尽定を得たる。広く諸の道の差別は無量を説く。いわゆる世・出世・見・修の道等。略していくつの道を説いて能く遍く摂せんか。頌に曰く、

應知一切道,略說唯有四,

応に知るべし一切の道は、略して説いてただ四有り。

謂加行無間,解脫勝進道。

いわゆる加行・無間、解脱・勝進の道。

論曰:加行道者,謂從此後無間道生。無間道者,謂此能斷所應斷障。解脫道者,謂已解脫所應斷障最初所生。勝進道者,謂三餘道。道義云何?謂涅槃路,乘此能往涅槃城故。或復道者,謂求所依,依此尋求涅槃果故。解脫、勝進如何名道?與道類同,轉上品故,或前前力至後後故、或能趣入無餘依故。道於餘處立通行名,以能通達趣涅槃故。此有幾種?依何建立?頌曰:

論に曰く:加行道とは、いわゆる此より後に無間道の生ず。無間道とは、いわゆる此れは能く断ずべき所の障を断ず。解脱道とは、いわゆる已に断ずべき所の障を解脱して最初の生ずる所。勝進道とは、いわゆる三の其余の道。道の義は如何。いわゆる涅槃の路。此に乗じて能く涅槃の城に往くがゆえに。或いは復た道とは、いわゆる求むる所の依。此に依って涅槃の果を尋求するがゆえに。解脱・勝進は如何にして道と名づくるか。道と類を同じくし、転じて上品なるがゆえに。或いは前前の力は後後に至るがゆえ、或いは能く無余依に趣入するがゆえに。道は其余の処に於いて通行の名を立つ。能く通達して涅槃に趣くを以て。此れに幾種有るか。何に依ってか建立するか。頌に曰く、

通行有四種,樂依本靜慮,

通行に四種有り。楽は本の静慮に依り、

苦依所餘地,遲速鈍利根。

苦は其余の地に依る。遅・速は鈍・利の根。

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