Libo

説一切有部倶舎論 巻第二十一

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第29巻 / 38

故未起勝道,名住果非向。

ゆえに未だ勝道を起さざれば、名づけて住果にして向に非ず。

論曰:諸得果時於勝果道必定未得,故住果者乃至未起勝果道時,但名住果,不名後向。然諸先斷欲界修惑一至五等,至得果時,此生必定起勝果道。由此先離三靜慮染後依下地入見道者,彼得果已於現生中必能引生後勝果道。若異此者,聖生上地應不可說定成樂根。如是已依先具、倍離及全離欲入見諦者十六心位立眾聖別,當約修惑辯漸次生能對治道分位差別。頌曰:

論に曰く:諸の果を得る時に勝果の道に於いて必定して未だ得ず。ゆえに果に住するは乃至未だ勝果の道を起さざる時、但だ名づけて住果、後の向と名づけず。しかし諸の先に欲界の修惑を断じて一乃至五等なるは、果を得る時に至りて、此の生に必定して勝果の道を起す。此に由って先に三静慮の染を離れて後に下地に依って見道に入るは、彼は果を得已りて現生の中に於いて必ず能く後の勝果の道を引き生ず。もし此に異ならば、聖の上地に生ずるは応に説くべからず定めて楽根を成ずと。此のようの已に先の具・倍離および全離欲に依って見諦に入るの十六心の位に依って衆聖の別を立てり。当に修惑に約して漸次生の能对治の道の分位の差別を辯ずべし。頌に曰く、

地地失德九,下中上各三。

地地に失・徳は九、下・中・上は各々三。

論曰:失謂過失,即所治障。德謂功德,即能治道。如先已辯欲修斷惑九品差別,如是上地乃至有頂例亦應爾。如所斷障一一地中各有九品,諸能治道無間解脫九品亦然。失德如何各分九品?謂根本品有下中上,此三各分下中上別,由此失德各分九品,謂下下、下中、下上,中下、中中、中上,上下、上中、上上品。應知此中下下品道勢力能斷上上品障,如是乃至上上品道勢力能斷下下品障。上上品等諸能治德初未有故,此德有時上上品等失已無故。如浣衣位麁垢先除,於後後時漸除細垢。又如麁闇小明能滅,要以大明方滅細闇。失德相對,理亦應然。白法力強、黑法力劣,故剎那頃劣道現行,無始時來展轉增益上品諸惑能令頓斷。如經久時所集眾病,服少良藥能令頓愈。又如長時所集大闇,一剎那頃小燈能滅。已辯失德差別九品,次當依彼立聖者別。且諸有學修道位中總亦名為信解、見至,隨位復有多種差別,先應建立都未斷者。頌曰:

論に曰く:失とは過失を謂う。すなわち治する所の障。徳とは功徳を謂う。すなわち能治の道。先に已に欲の修断の惑の九品の差別を辯ぜしがごとく、此のようの上地は乃至有頂に至るまで例して応に此のようであるべし。断ずる所の障のごとく一一の地の中に各々九品有れば、諸の能治の道の無間・解脱の九品もまた此のよう。失・徳は如何にして各々九品に分かれるか。いわゆる根本の品に下・中・上有り、此の三は各々下・中・上の別に分かつ。此に由って失・徳は各々九品に分かれて、いわゆる下下・下中・下上、中下・中中・中上、上下・上中・上上品。応に知るべし此の中の下下品の道の勢力は能く上上品の障を断じ、此のようの乃至上上品の道の勢力は能く下下品の障を断ず。上上品等の諸の能治の徳は初め未だ有ることあらざるがゆえに、此の徳の有る時は上上品等の失は已に無きがゆえに。衣を浣う位のごとく麁垢は先に除き、後後の時に於いて漸く細垢を除く。また麁暗は小明に能く滅せられ、要ずるに大明を以て方に細暗を滅すがごとし。失・徳の相対するは、理もまた応に此のようであるべし。白法の力は強く、黒法の力は劣れり。ゆえに刹那の頃に劣道が現行して、無始の時来より展転に增益せる上品の諸惑を能くして頓断せしむ。久しい時を経て集めたる衆病のごとく、少しき良薬を服して能くして頓愈せしむ。また長き時に集めたる大暗のごとく、一刹那の頃の小灯は能く滅す。已に失・徳の差別の九品を辯したり。次に当に彼に依って聖者の別を立つべし。且つ諸の有学の修道の位の中は総じてもまた名づけて信解・見至。位に随って復た多種の差別有り。先ず応に都だ未だ断ぜざるを建立すべし。頌に曰く、

未斷修斷失,住果極七返。

未だ修断の失を断ぜざれば、果に住して極めて七返。

論曰:諸住果者於一切地修所斷失都未斷時名為預流,生極七返。七返言顯七往返生,是人天中各七生義。極言為顯受生最多,非諸預流皆受七返故。契經說極七返生,是彼最多七返生義。諸無漏道總名為流,由此為因趣涅槃故。預言為顯最初至得,彼預流故說名預流。此預流名為目何義?若初得道名為預流,則預流名應目第八。若初得果名為預流,則倍離欲全離欲者至道類智應名預流。此預流名目初得果,然依遍得一切果者初所得果建立此名。一來、不還非定初得,此定初得,故名預流。何緣此名不目第八?以要至得道類智時具得向果無漏道故、具得見修無漏道故。於現觀流遍至得故名預流者,第八不然,故預流名不目第八。彼從此後別於人中,極多結七中有生有,天中亦然,總二十八,皆七等故說極七生,如七處善及七葉樹。毘婆沙師所說如是。若爾,何故契經中言無處無容見圓滿者更可有受第八有義?此契經意約一趣說,若如言執,中有應無。若爾,上流極有頂者,亦應一趣無第八生。依欲界說故無此過。此何為證?為教為理?以何證彼於人天中各受七生、非合受七?以契經說天七及人。飲光部經分明別說於人天處各受七生,由是此中不應固執。若於人趣得預流果,彼還人趣得般涅槃;於天趣得,還於天趣。何緣彼無受第八有?相續齊此必成熟故,聖道種類法應如是。如七步蛇、第四日瘧。又彼有餘七結在故,謂二下分、五上分結,中間雖有聖道現前,餘業力持不證圓寂。至第七有逢無佛法時,彼在居家得阿羅漢果。既得果已必不住家,法爾自得苾芻形相。有言:彼往餘道出家。云何彼名無退墮法?以不生長退墮業故、違彼生長業與果故、強盛善根鎮彼身故、加行意樂俱清淨故。諸有決定墮惡趣業尚不起忍,況得預流。故有頌言:

論に曰く:諸の果に住するは一切地の修所断の失を都だ未だ断ぜざる時を名づけて預流。生は極めて七返。七返の言は七返の往生を顕す。是れ人・天の中に各々七生の義。極の言は為に受生の最も多きを顕さんとす。諸の預流は皆七返を受くるにあらざるがゆえに。契経に極七返生を説くは、是れ彼の最も多きは七返生の義。諸の無漏道は総じて名づけて流。此を因と為して涅槃に趣くがゆえに。預の言は為に最初の至得を顕さんとす。彼は流に預るがゆえに名づけて預流。此の預流の名は何の義を目するか。もし初めて道を得るを名づけて預流と為せば、則ち預流の名は応に第八を目すべし。もし初めて果を得るを名づけて預流と為せば、則ち倍離欲・全離欲なるの道類智に至るは応に預流と名づくべし。此の預流の名は初得の果を目す。しかし遍く一切の果を得るの初の所得の果に依って此の名を建立す。一来・不還は定めて初得に非ず。此れは定めて初得。ゆえに名づけて預流。何の縁にか此の名は第八を目さざるか。要ずるに道類智を得る時に至りて具に向果の無漏道を得るがゆえ、具に見・修の無漏道を得るがゆえに。現観の流に於いて遍く至得するがゆえに預流と名づくるに、第八は此のようにはあらず。ゆえに預流の名は第八を目さず。彼は此より後に別に人の中に於いて、極めて多くは七の中有・生有を結し、天の中もまた此のよう。総じて二十八。皆七に等しきがゆえに説いて極七生と為す。七処善および七葉樹のごとし。毘婆沙師の説く所は此のよう。もしそうならば、何の故にか契経の中に説く、処無く容なくして見の円満なるは更に第八有を受くるの義有るべからずと。此の契経の意は一趣に約して説く。もし言のごとく執せば、中有は応に無かるべし。もしそうならば、上流の極めて有頂なるも、応に一趣に第八の生無かるべし。欲界に依って説くがゆえに此の過無し。此れは何を証と為すか。教か理か。何を以てか彼の人・天の中に於いて各々七生を受けて、合して七を受くるに非ざるを証せんか。契経に天七および人を説くを以て。飲光部の経は分明に別に人・天の処に於いて各々七生を受くるを説く。是に由って此の中に応に固執すべからず。もし人趣に於いて預流果を得れば、彼は還た人趣に於いて般涅槃を得。天趣に於いて得れば、還た天趣に於いて得す。何の縁にか彼は第八有を受くること無きか。相続は此に斉く必ず成熟するがゆえに、聖道の種類は法応に此のようであるべし。七歩の蛇・第四日の瘧のごとし。また彼に其余の七結の在る有るがゆえに。いわゆる二の下分・五の上分の結。中間に聖道の現前有りと雖も、其余の業力の持して圆寂を証せざるがゆえに。第七の有に至りて仏法無き時に逢えば、彼は居家に在りて阿羅漢果を得。すでに果を得已りて必ず家に住せず。法爾に自ら苾芻の形相を得。ある人の説に、彼は其余の道に往きて出家す。如何にして彼は名づけて退堕の法無きか。退堕の業を生長せざるを以て、彼の生長の業と果に違するを以て、強盛の善根は彼の身を鎮するを以て、加行・意楽は俱に清浄なるを以て。諸の決定して悪趣に堕つる業はなお忍を起さず。況んや預流を得るをや。ゆえに頌有りて曰く:

愚作罪小亦墮惡,智為罪大亦脫苦,

愚は罪を作して小なりとも悪に堕ち、智は罪を為して大なりとも苦を脱す。

如團鐵小亦瀋水,為缽鐵大亦能浮。

団鉄の小なりとも水に沈むがごとく、鉢を為す鉄は大なりとも能く浮かぶ。

經說預流作苦邊際,依何義立苦邊際名?依齊此生後更無苦,是令後苦不相續義。或苦邊際所謂涅槃,如何涅槃可是所作?除彼得障,故說作言。如言作空,謂毀臺觀。餘位亦有極七返生,然非決定,是故不說。

(論は続けて曰く:)経に預流は苦の辺際を作すと説くは、何の義に依って苦辺際の名を立つるか。此の生に斉くより後は更に苦無きに依る。是れ後苦をして相続せざらしむるの義。或いは苦辺際とはいわゆる涅槃。如何にして涅槃は是れ作す所たるべきか。彼の得の障を除くがゆえに説いて作の言を為す。作空と言うがごとく、いわゆる台観を毀す。其余の位にもまた極七返生有り。しかし決定に非ず。此のゆえに説かず。

説一切有部倶舎論 巻第二十三

アビダルマ倶舎論 巻第二十四 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別賢聖品第六之三

分別賢聖品 第六之三

已辯住果未斷修惑名為預流,生極七返。今次應辯斷位眾聖,且應建立一來向果。頌曰:

已に果に住して未だ修惑を断ぜざるを名づけて預流と為り、生は極めて七返なるを辯したり。今次に応に断位の衆聖を辯ずべし。且つ応に一来の向果を建立すべし。頌に曰く、

斷欲三四品,三二生家家,

欲の三・四品を断ぜば、三・二生して家家。

斷至五二向,斷六一來果。

断じて五に至れば二に向かい、六を断ぜば一来果。

論曰:即預流者進斷修惑,若三緣具轉名家家:一由斷惑,斷欲修斷三四品故。二由成根,得能治彼無漏根故。三由受生,更受欲有三二生故。頌中但說初後緣者,預流果後說進斷惑,成能治彼諸無漏根。義準已成,故不具說。然復應說三二生者,以有增進,於所受生或少或無或過此故。何緣此無斷五品者?以斷第五必斷第六,非一品惑能障得果,猶如一間未越界故。應知總有二種家家:一天家家,謂欲天趣生三二家而證圓寂,或一天處或二或三。二人家家,謂於人趣生三二家而證圓寂,或一洲處或二或三。即預流者進斷欲界一品修惑乃至五品,應知轉名一來果向,若斷第六成一來果,彼往天上一來人間而般涅槃名一來果,過此以後更無生故。此或名曰薄貪瞋痴,唯餘下品貪瞋痴故。已辯一來向果差別,次應建立不還向果。頌曰:

論に曰く:すなわち預流なるの進みて修惑を断ずるに、もし三縁具われば転じて名づけて家家。一は断惑に由る。欲の修断の三・四品を断ずるがゆえに。二は根を成ずるに由る。能く彼を治する無漏の根を得るがゆえに。三は生を受くるに由る。更に欲有の三・二生を受くるがゆえに。頌の中は但だ初・後の縁を説く。預流果の後に進みて惑を断じて彼を治すること能くする諸の無漏根を成ずるを説くは、義は准じて已に成ず。ゆえに具に説かず。しかし復た応に三・二生を説くべし。増進有りて、受くる所の生に於いて或いは少なく或いは無く或いは此を過ぐる有るを以て。何の縁にか此に五品を断ずる無きか。第五を断ぜば必ず第六を断ずるを以て。一品の惑は能く果を得るを障せざるに非ず。猶お一間の未だ界を越えざるがごときがゆえに。応に知るべし総じて二種の家家有り。一は天の家家。いわゆる欲の天趣に於いて三・二の家に生じて圆寂を証す。或いは一天処或いは二或いは三。二は人の家家。いわゆる人趣に於いて三・二の家に生じて圆寂を証す。或いは一洲処或いは二或いは三。すなわち預流なるの進みて欲界の一品の修惑乃至五品を断ぜば、応に知るべし転じて名づけて一来果の向。もし第六を断ぜば一来果を成ず。彼は天上に往きて一来して人間にして般涅槃すれば名づけて一来果。此を過ぎ已りて更に生無きがゆえに。此れ或いは名づけて薄貪瞋痴。ただ下品の貪瞋痴を余すがゆえに。已に一来の向果の差別を辯したり。次に応に不還の向果を建立すべし。頌に曰く、

斷七或八品,一生名一間,

七或いは八品を断ぜば、一生して名づけて一間。

此即第三向,斷九不還果。

此れすなわち第三向。九を断ぜば不還果。

論曰:即一來者進斷餘惑,若三緣具轉名一間:一由斷惑,斷欲修斷七八品故。二由成根,得能治彼無漏根故。三由受生,更受欲有餘一生故。頌中但說初後二緣,不說成根,義如前釋。如何一品惑障得不還果?由彼若斷便越界故。前說三時業極為障,應知煩惱亦與業同,越彼等流異熟地故。間謂間隔,彼餘一生為間隔故,不證圓寂。或餘一品欲修所斷惑為間隔故,不得不還果。有一間者說名一間,即斷修惑七八品者,應知亦名不還果向。先斷三四七八品惑入見諦者,後得果時乃至未修後勝果道,仍不名曰家家一間,未成治彼無漏根故。若斷第九成不還果,必不還來生欲界故。此或名曰五下結斷,雖必先斷或二或三,然於此時總集斷故。依不還位,諸契經中以種種門建立差別,今次應辯彼差別相。頌曰:

論に曰く:すなわち一来なるの進みて其余の惑を断ずるに、もし三縁具われば転じて名づけて一間。一は断惑に由る。欲の修断の七・八品を断ずるがゆえに。二は根を成ずるに由る。能く彼を治する無漏の根を得るがゆえに。三は生を受くるに由る。更に欲有の其余の一生を受くるがゆえに。頌の中は但だ初・後の二縁を説き、根を成ずるを説かざるは、義は前の釋のごとし。如何にして一品の惑は不還果を得るを障するか。彼はもし断ぜば便ち界を越ゆるに由るがゆえに。前に三時の業の極めて障と為るを説けしは、応に知るべし煩悩もまた業と同じ。彼の等流・異熟の地を越ゆるがゆえに。間とは間隔を謂う。彼は其余の一生を間隔と為すがゆえに、圆寂を証せず。或いは其余の一品の欲の修所断の惑を間隔と為すがゆえに、不還果を得ず。一間有るを説いて名づけて一間。すなわち修惑の七・八品を断ずるは、応に知るべしもまた名づけて不還果の向。先に三・四・七・八品の惑を断じて見諦に入るは、後に果を得る時乃至未だ後の勝果の道を修せざるまで、仍お名づけず家家・一間。未だ彼を治する無漏根を成ぜざるがゆえに。もし第九を断ぜば不還果を成ず。必ず還りて来たりて欲界に生ぜざるがゆえに。此れ或いは名づけて五下結断。必ず先に或いは二或いは三を断ずると雖も、しかし此の時に於いて総じて集めて断ずるがゆえに。不還の位に依って、諸の契経の中に種種の門を以て差別を建立せり。今次に応に彼の差別の相を辯ずべし。頌に曰く、

此中生有行,無行般涅槃,

此の中に生有行・無行の般涅槃、

上流若雜修,能往色究竟,

上流はもし雑修せば、能く色究竟に往き、

超半超遍歿,餘能往有頂,

超・半超・遍殁し、其余は能く有頂に往く。

行無色有四,住此般涅槃。

無色に行くは四有り。此に住して般涅槃す。

論曰:此不還者總說有七,且行色界差別有五:一中般涅槃、二生般涅槃、三有行般涅槃、四無行般涅槃、五者上流。此於中間般涅槃故,說此名曰中般涅槃。如是應知,此於生已,此由有行此由無行般涅槃故,名生般等。此上流故,名為上流。言中般者,謂往色界住中有位便般涅槃。言生般者,謂往色界生已不久便般涅槃,以具勤修速進道故。此中所說般涅槃者,謂有餘依。有餘師說:亦無餘依。此不應理,彼於捨壽無自在故。有行般者,謂往色界生已,長時加行不息,由多功用方般涅槃,此唯有勤修無速進道故。無行般者,謂往色界生已經久,加行懈息不多功用便般涅槃,以闕勤修速進道故。有說:此二有差別者,由緣有為無為聖道,如其次第得涅槃故。此說非理,太過失故。然契經中先說無行、後說有行般涅槃者,如是次第與理相應。有速進道、無速進道,無行有行而成辦故,不由功用得。由功用得故,生般涅槃得最速進最上品道,隨眠最劣故生不久便般涅槃。言上流者是上行義,以流與行其義一故。謂欲界歿往色界生,未即於中能證圓寂,要轉生上方般涅槃。即此上流差別有二,由因及果有差別故。因差別者,此於靜慮由有雜修無雜修故。果差別者,色究竟天及有頂天為極處故。謂若於靜慮有雜修者,能往色究竟方般涅槃。即此復有三種差別,全超、半超、遍歿異故。言全超者,謂在欲界於四靜慮已具雜修,遇緣退失上三靜慮,以初靜慮愛味為緣,命終上生梵眾天處。由於先世串習勢力,復能雜修第四靜慮,從彼處歿生色究竟,最初處歿生最後天,頓越中間是全超義。言半超者,從彼漸次生下淨居,乃至中間能越一處生色究竟,超非全故名為半超。聖必不生大梵天處,僻見處故、一導師故。言遍歿者,從彼漸次於一切處皆遍受生,最後方能生色究竟,一切處死故名遍歿。

論に曰く:此の不還なるは総じて説いて七有り。且つ色界に行くの差別は五有り。一は中般涅槃、二は生般涅槃、三は有行般涅槃、四は無行般涅槃、五は上流。此れは中間に於いて般涅槃するがゆえに、此を説いて名づけて中般涅槃。此のようの応に知るべし、此れは生じ已りて、此れは有行に由り此れは無行に由って般涅槃するがゆえに、名づけて生般等。此れは上流するがゆえに、名づけて上流。中般と言うは、いわゆる色界に往きて中有の位に住して便ち般涅槃す。生般と言うは、いわゆる色界に往きて生じ已りて久しからずして便ち般涅槃す。具に勤修・速進の道有るを以て。此の中の説く所の般涅槃とは、いわゆる有余依。其余の師有りて説く:もまた無余依。此れは応に理にあらず。彼は寿を捨つるに自在無きがゆえに。有行般とは、いわゆる色界に往きて生じ已りて、長時に加行して息まず、多くの功用に由って方に般涅槃す。此れはただ勤修有りて速進の道無きがゆえに。無行般とは、いわゆる色界に往きて生じて已に久しく、加行は懈息して多くの功用なくして便ち般涅槃す。勤修・速進の道を闕くを以て。ある説に、此の二に差別有るは、有為・無為の聖道に縁ずるに由って、次第のごとく涅槃を得るがゆえに。此の説は理に非ず。過失太だ多きがゆえに。しかし契経の中に先ず無行を説き、後に有行の般涅槃を説くは、此のようの次第は理と相応す。速進の道有り・速進の道無し、無行・有行にして成辦するがゆえに。功用に由って得るにあらず。功用に由って得るがゆえに、生般涅槃は最も速進・最上品の道を得、随眠は最も劣れるがゆえに生じて久しからずして便ち般涅槃す。上流と言うは是れ上行の義。流と行とは其の義一なるを以て。いわゆる欲界に殁して色界に往きて生じ、未だ即ち中に於いて能く圆寂を証せず。要ずるに転生して上に方に般涅槃す。すなわち此の上流の差別に二有り。因および果に差別有るに由るがゆえに。因の差別とは、此れは静慮に於いて雑修有り・雑修無きに由るがゆえに。果の差別とは、色究竟天および有頂天を極処と為すがゆえに。いわゆるもし静慮に於いて雑修有れば、能く色究竟に往きて方に般涅槃す。すなわち此れは復た三種の差別有り。全超・半超・遍殁の異あるがゆえに。全超と言うは、いわゆる欲界に在りて四静慮に於いて已に具に雑修し、縁に遇って上の三静慮を退失し、初静慮の愛味を以て縁と為し、命終して上に梵衆天の処に生ず。先世の串習の勢力に由って、復た能く第四静慮を雑修し、彼の処より殁して色究竟に生ず。最初の処に殁して最後の天に生ず。頓じて中間を越ゆるは是れ全超の義。半超と言うは、彼より漸次に下の浄居に生じ、乃至中間に於いて能く一処を越えて色究竟に生ず。超えて全ならざるがゆえに名づけて半超。聖は必ず大梵天の処に生ぜず。僻見の処なるがゆえ、一の導師なるがゆえに。遍殁と言うは、彼より漸次に一切の処に於いて皆遍く受生し、最後に方に能く色究竟に生ず。一切の処に死するがゆえに名づけて遍殁。

無不還者,於已生處受第二生,由彼於生容求勝進,非等劣故。即由此故不還義滿,必不還生曾生處故。尚不生本處,況有生於下。應知此謂二上流中由有雜修靜慮因故往色究竟般涅槃者,餘於靜慮無雜修者能往有頂方般涅槃,謂彼先無雜修靜慮,由於諸定愛味為緣,此歿遍生色界諸處,唯不能往五淨居天。色界命終於三無色次第生已,後生有頂方般涅槃。二上流中前是觀行、後是止行,樂慧樂定有差別故。二上流者於下地中得般涅槃見不違理,而言此往色究竟天及有頂天為極處者,由此過彼無行處故,如預流者極七返生。此五名為行色界者。行無色者差別有四,謂在欲界離色界貪,從此命終生於無色。此中差別唯有四種,由生般涅槃有差別故,此並前五成六不還。復有不行色無色界,即住於此能般涅槃,名現般涅槃,並前六為七。於行色界五不還中,復有異門顯其差別。頌曰:

(論は続けて曰く:)不還なるは、已に生じたる処に於いて第二の生を受くること無し。彼は生に於いて勝進を求むるを容れ、等しき劣るに非ざるがゆえに。すなわち此に由って不還の義は満つ。必ず還りて曾て生じたる処に生ぜざるがゆえに。なお本処に生ぜず、況んや下に生ずるの有るをや。応に知るべし此れは二上流の中に雑修の静慮の因有るに由って色究竟に往きて般涅槃するを謂う。其余の静慮に於いて雑修無きは能く有頂に往きて方に般涅槃す。いわゆる彼は先に雑修の静慮無くして、諸の定の愛味に由って縁と為し、此れ殁して遍く色界の諸処に生ず。ただ五浄居天に往くこと能わず。色界に命終して三無色に次第に生じ已りて、後に有頂に生じて方に般涅槃す。二上流の中、前は是れ観行、後は是れ止行。慧を楽い定を楽うに差別有るがゆえに。二上流なるの下地の中に於いて般涅槃を得るは見て理に違せず。而も此れは色究竟天および有頂天に往くを極処と為すと説くは、此れ彼を過ぎて行く処無きに由るがゆえに。預流なるの極七返生のごとし。此の五は名づけて色界に行く者。無色に行くの差別は四有り。いわゆる欲界に在りて色界の貪を離れ、此より命終して無色に生ず。此の中の差別はただ四種有り。生般の涅槃に差別有るに由るがゆえに。此れは前の五を并せて六の不還を成ず。復た色・無色界に行かざる有りて、すなわち此に住して能く般涅槃す。名づけて現般涅槃。前の六を并せて七と為す。色界に行く五の不還の中に於いて、復た異門有りて其の差別を顕す。頌に曰く、

行色界有九,謂三各分三,

色界に行くは九有り。いわゆる三は各々三に分かつ。

業惑根有殊,故成三九別。

業・惑・根に殊有るがゆえに、三九の別を成す。

論曰:即行色界五種不還總立為三,各分三種故成九種。何等為三?中生上流有差別故。云何三種各分為三?且中般涅槃分為三種,速、非速、經久得般涅槃,由三火星喻所顯故。生般涅槃亦分三種,生有行等般涅槃故。此皆生已得般涅槃,是故並應名為生般。於上流中亦分三種,超、半超等有差別故。然諸三種一切皆由速、非速、經久得般涅槃故,更互相望無雜亂失。如是三種九種不還,由業惑根有差別故,有速、非速、經久不同,且總成三,由造增長順起生後業差別故。如其次第下中上品煩惱現行有差別故,及上中下根差別故,此三一一如其所應。亦業惑根有差別故,各有三別故成九種。謂初二三由惑根別各成三種,非由業異;後三亦由順後受業有差別故分成三種,故說如是行色不還業惑根殊成三九別。若爾,何故諸契經中,佛唯說有七善士趣?頌曰:

論に曰く:すなわち色界に行く五種の不還は総じて立てて三と為し、各々三種に分かつがゆえに九種を成ず。何等をか三と為すか。中・生・上流に差別有るがゆえに。如何にして三種は各々三に分かれるか。且つ中般涅槃は三種に分かれて、速・非速・経久して般涅槃を得。三の火星の喻の顕す所に由るがゆえに。生般涅槃もまた三種に分かれて、生・有行等の般涅槃有るがゆえに。此れ皆生じ已りて般涅槃を得。此のゆえに并せて応に名づけて生般。上流の中にもまた三種に分かれて、超・半超等の差別有るがゆえに。しかし諸の三種は一切皆速・非速・経久して般涅槃を得るに由るがゆえに、更互に相望みて雑乱の失無し。此のようの三種・九種の不還は、業・惑・根に差別有るに由るがゆえに、速・非速・経久の不同有り。且つ総じて三を成ず。造増長の順起・生・後の業の差別有るに由るがゆえに。次第のごとく下・中・上品の煩悩の現行に差別有るがゆえ、および上・中・下根の差別有るがゆえに、此の三は一一に其の応ずる所のごとし。もまた業・惑・根に差別有るがゆえに、各々三の別有りて九種を成ず。いわゆる初・二・三は惑・根の別に由って各々三種を成し、業の異に由るに非ず。後の三もまた順後受の業に差別有るに由って分かれて三種を成ず。ゆえに此のようの色に行く不還は業・惑・根の殊にして三九の別を成すと説く。もしそうならば、何の故にか諸の契経の中に、仏はただ七善士趣有りと説きたまうか。頌に曰く、

立七善士趣,由上流無別,

七善士趣を立つるは、上流に別無きに由る。

善惡行不行,有往無還故。

善・悪の行の行・不行、往きて還らざる有るがゆえに。

論曰:中、生各三,上流為一,經依此立七善士趣。有上流法故名上流,由此義同且立為一。何獨依此立善士趣,不依所餘有學聖者?趣是行義,所餘有學皆行善業無差別故。唯此七種皆行善業不行惡業,餘則不然。又唯七種行往上界不復還來,餘則不爾。故獨依此立善士趣。若爾,何故契經中言:云何善士?謂若成就有學正見,乃至廣說。諸餘有學若就異門,亦可說為有善士性,以諸有學於五種惡皆獲得畢竟不作律儀故,不善煩惱多已斷故。立善士趣不就異門,約唯行善不行惡故,唯託勝因往上界故。諸在聖位曾經生者,亦有此等差別相耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:中・生は各々三、上流は一と為す。経は此に依って七善士趣を立つ。上流の法有るがゆえに上流と名づく。此の義は同じくして且つ立てて一と為す。何ぞ独り此に依って善士趣を立てて、其余の有学の聖者に依らざるか。趣は是れ行の義。其余の有学は皆善の業を行じて差別無きがゆえに。ただ此の七種は皆善の業を行じて悪の業を行ぜず。其余は則ち此のようにはあらず。またただ七種は行きて上界に往きて復た還り来たらず。其余は則ち此のようにはあらず。ゆえに独り此に依って善士趣を立つ。もしそうならば、何の故にか契経の中に説く、如何にして善士か、いわゆるもし有学の正見を成就せば、乃至広く説く、と。諸の其余の有学もし異門に就かば、もまた説いて有善士の性と為すべし。諸の有学は五種の悪に於いて皆畢竟の不作の律儀を獲得するを以て、不善の煩悩は多く已に断ぜるがゆえに。善士趣を立つるは異門に就かず。ただ善を行じて悪を行ぜざるに約するがゆえ、ただ勝因に托して上界に往くがゆえに。諸の聖位に在りて曾て生を経たるは、もまた此の等の差別の相有るか。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

經欲界生聖,不往餘界生,

欲界の生を経たる聖は、其余の界の生に往かず。

此及往上生,無練根並退。

此れおよび上の生に往くは、練根ならびに退無し。

論曰:若在聖位經欲界生,必不往生色無色界,由彼證得不還果已,定於現身般涅槃故。若於色界經生聖者,容有上生無色界義,如行色界極有頂者。然天帝釋作如是言:曾聞有天名色究竟,我後退落當生於彼。毘婆沙師作如是釋:彼由不了對法相故、為令喜故,佛亦不遮。即此已經欲界生者及已從此往上界生諸聖,必無練根並退。何緣不許經欲界生及上生聖者有練根並退?以必無故。何緣必無?經生習根極成熟故,及得殊勝所依止故。何緣有學未離欲貪無中有中般涅槃者?以彼聖道未淳熟故、未易能令現在前故、所有隨眠非極劣故。毘婆沙者作如是釋:諸欲界法極難越故、彼尚有餘多所作故,謂應進斷不善無記二煩惱故,及應進得若二若三沙門果故,並應總越三界法故,住中有位無如是能。前說上流雜修靜慮為因能往色究竟天,先應雜修何等靜慮?由何等位知雜修成?復為何緣雜修靜慮?頌曰:

論に曰く:もし聖位に在りて欲界の生を経れば、必ず色・無色界に往生せず。彼は不還果を証得し已りて、定めて現の身に般涅槃するに由るがゆえに。もし色界に於いて生を経たる聖者は、容そ上生して無色界の義有り。色界に行きて極めて有頂なるがごとし。しかし天帝釈は此の説を作して曰く、曾て聞く天有りて名づけて色究竟、我は後に退落して当に彼に生ずべしと。毘婆沙師は此の釋を作す:彼は対法の相を了せざるに由り、喜ばしめんが為。仏もまた遮らず。すなわち此の已に欲界の生を経たるおよび已に此より上界の生に往きたる諸の聖は、必ず練根ならびに退無し。何の縁にか欲界の生を経たるおよび上生の聖者に練根ならびに退有るを許さざるか。必ず無きを以て。何の縁にか必ず無きか。生を経て根を習するに極めて成熟せるがゆえ、および殊勝の依止する所を得るがゆえに。何の縁にか有学の未だ欲貪を離れざるは中有の中般涅槃の無きか。彼の聖道は未だ淳熟せざるを以て、未だ易くして能く現前せしめざるを以て、所有の随眠は極劣に非ざるを以て。毘婆沙者は此の釋を作す:諸の欲界の法は極めて越え難きがゆえ、彼はなお其余の多くの作す所有り。いわゆる応に進みて不善・無記の二煩悩を断ずべきがゆえ、および応に進みて若しくは二若しくは三の沙門果を得べきがゆえ、并びに応に総じて三界の法を越ゆべきがゆえに、中有の位に住して此のようの能無し。前に上流は雑修の静慮を因と為して能く色究竟天に往くを説けり。先ず応に何等の静慮を雑修すべきか。何等の位に由って雑修の成ずるを知るか。復た何の縁の為にか雑修の静慮を為すか。頌に曰く、

先雜修第四,成由一念雜,

先ず第四を雑修す。成ずるは一念の雑に由る。

為受生現樂,及遮煩惱退。

生を受け現に楽う為、および煩悩の退を遮る為。

論曰:諸欲雜修四靜慮者,必先雜修第四靜慮,以彼等持最堪能故、諸樂行中彼最勝故。如是雜修諸靜慮者,是阿羅漢或是不還,彼必先入第四靜慮,多念無漏相續現前,從此引生多念有漏,後復多念無漏現前,如是旋還後後漸減,乃至最後二念無漏,次引二念有漏現前,無間復生二念無漏,名雜修定加行成滿。次後唯從一念無漏引起一念有漏現前,無間復生一念無漏,如是有漏中間剎那前後剎那無漏雜故,名雜修定根本圓成。前二剎那似無間道,第三剎那似解脫道。如是雜修第四定已,乘此勢力隨其所應,亦能雜修下三靜慮。先於欲界人趣三洲如是雜修諸靜慮已,後若退失生色界中,亦能如前雜修靜慮。雜修靜慮為三種緣:一為受生、二為現樂、三為遮止起煩惱退。謂不還中諸利根者,為現法樂及生淨居。諸鈍根者亦為遮退,彼畏退故。如是雜修令味相應等持遠故。諸阿羅漢,若利根者為現法樂,若鈍根者亦為遮防起煩惱退,雜修靜慮為生淨居。何緣淨居處唯有五?頌曰:

論に曰く:諸の四静慮を雑修せんと欲するは、必ず先ず第四静慮を雑修す。彼の等持は最も堪能有るを以て、諸の楽行の中に彼は最勝なるを以て。此のようの諸の静慮を雑修するは、是れ阿羅漢或いは是れ不還。彼は必ず先ず第四静慮に入りて、多念の無漏の相続して現前し、此より多念の有漏を引き生じ、後に復た多念の無漏を現前せしめ、此のようの旋還して後後に漸減し、乃至最後の二念の無漏に至りて、次に二念の有漏を引きて現前せしめ、無間に復た二念の無漏を生ず。名づけて雑修定の加行の成満。次の後にただ一念の無漏より一念の有漏を引き起して現前せしめ、無間に復た一念の無漏を生ず。此のようの有漏の中間の刹那に前後の刹那は無漏雑なるがゆえに、名づけて雑修定の根本の円成。前の二刹那は無間道に似て、第三の刹那は解脱道に似たり。此のようの第四定を雑修し已りて、此の勢力に乗じて其の応ずる所に随って、もまた能く下の三静慮を雑修す。先に欲界の人趣の三洲に於いて此のようの諸の静慮を雑修し已りて、後にもし退失して色界の中に生ずるも、もまた能く前のごとく静慮を雑修す。静慮を雑修するは三種の縁と為す。一は為に生を受けんと、二は為に現に楽わんと、三は為に煩悩の退を起すを遮止せんと。いわゆる不還の中の諸の利根なるは、為に現法の楽および浄居に生ぜんと。諸の鈍根なるもまた為に退を遮らんと。彼は退を畏れるがゆえに。此のようの雑修は味相応の等持をして遠からしむるがゆえに。諸の阿羅漢は、もし利根なるは為に現法の楽、もし鈍根なるもまた為に煩悩の退を起すを遮防せんとして、静慮を雑修して浄居に生ずるを為す。何の縁にか浄居の処はただ五有るか。頌に曰く、

由雜修五品,生有五淨居。

雑修の五品に由って、生じて五浄居有り。

論曰:由雜燻修第四靜慮有五品故,淨居唯五。何謂五品?謂下、中、上、上勝、上極品差別故。此中初品,三心現前便得成滿,謂初無漏,次起有漏,後起無漏。第二品六,第三品九,第四品十二,第五品十五。如是五品雜修靜慮,如其次第感五淨居。應知此中無漏勢力燻修有漏令感淨居。有餘師言:由信等五次第增上感五淨居。經說不還有名身證。依何勝德立身證名?頌曰:

論に曰く:第四静慮を雑熏修するに五品有るに由るがゆえに、浄居はただ五。何谓をか五品とするか。いわゆる下・中・上・上勝・上極の品の差別あるがゆえに。此の中の初品は、三心現前して便ち成満を得。いわゆる初は無漏、次に有漏を起し、後に無漏を起す。第二品は六、第三品は九、第四品は十二、第五品は十五。此のようの五品の雑修の静慮は、次第のごとく五浄居を感ず。応に知るべし此の中は無漏の勢力が有漏を熏修して浄居を感ぜしむ。其余の師有りて説く:信等の五の次第に増上するに由って五浄居を感ず。経に不還有りて名づけて身証と説く。何の勝徳に依って身証の名を立つるか。頌に曰く、

得滅定不還,轉名為身證。

滅定を得たる不還は、転じて名づけて身証。

論曰:有滅定得名得滅定,即不還者若於身中有滅定得轉名身證。謂不還者由身證得似涅槃法故名身證。如何說彼但名身證?以心無故、依身生故。理實應言,彼從滅定起,得先未得,有識身寂靜,便作是思:此滅盡定最為寂靜、極似涅槃。如是證得身之寂靜,故名身證。由得及智現前證得身寂靜故,契經說有十八有學。何緣於中不說身證?依因無故。何謂依因?謂諸無漏三學及果,依彼差別立有學故。滅定非學亦非學果,故不約成彼說有學差別。不還差別麁相如是,若細分析數成多千。其義云何?且如中般約根建立便成三種,下中上根有差別故。約地建立則成四種,往初定等有差別故。約種性建立則成六種,退法種性等有差別故。約處建立成十六種,梵眾天等處差別故。約地離染成三十六,色界具縛乃至已離第四靜慮八品染故。約處、種性、離染、根建立總成二千五百九十二。云何如是?且於一處種性有六,一一種性約離染門差別成九,謂隨何地具縛為初乃至已離八品為後,如是六九成五十四,以十六處乘五十四成八百六十四,以根乘之復成三倍故總成二千五百九十二。諸離下地九品染者,即說名為上地具縛,為成一一地離染數等故。如是乃至上流亦爾。總計五種,積數合成一萬二千九百六十。已辯第三向果差別,次應建立第四向果。頌曰:

論に曰く:滅定の得有りて名づけて滅定を得。すなわち不還なるはもし身の中に於いて滅定の得有れば転じて名づけて身証。いわゆる不還なるは身に由って涅槃に似たる法を証得するがゆえに名づけて身証。如何にして彼を説いて但だ身証と名づくるか。心無きを以て、身に依って生ずるを以て。理実は応に説くべし。彼は滅定より起りて、先に未だ得ざりしを得、識有る身の寂静を、便ち此の思を作す:此の滅尽定は最も寂静にして極めて涅槃に似たり。此のようの身の寂静を証得す。ゆえに名づけて身証。得および智の現前して身の寂静を証得するに由るがゆえに、契経に十八の有学有りと説く。何の縁にか中に於いて身証を説かざるか。依因無きに由るがゆえに。何谓をか依因とするか。いわゆる諸の無漏の三学および果、彼の差別に依って有学を立つるがゆえに。滅定は学に非ずもまた学の果に非ず。ゆえに彼を成ずるに約して有学の差別を説かず。不還の差別の麁相は此のよう。もし細かに分析せば数は多千を成す。其の義は如何。且つ中般のごときは根に約して建立すれば便ち三種を成す。下・中・上根の差別有るがゆえに。地に約して建立すれば則ち四種を成す。初定等に往くの差別有るがゆえに。種性に約して建立すれば則ち六種を成す。退法の種性等の差別有るがゆえに。処に約して建立すれば十六種を成す。梵衆天等の処の差別有るがゆえに。地の離染に約すれば三十六を成す。色界の具縛より乃至已に第四静慮の八品の染を離るるがゆえに。処・種性・離染・根に約して建立すれば総じて二千五百九十二を成す。如何にして此のようか。且つ一処に於いて種性に六有り。一一の種性は離染の門に約して差別して九を成す。いわゆる何の地にか随いて具縛を初と為し乃至已に八品を離るるを後と為す。此のようの六九は五十四を成し、十六処を以て五十四に乗じて八百六十四を成し、根を以て之に乗ずれば復た三倍を成すがゆえに総じて二千五百九十二を成す。諸の下地の九品の染を離れたるは、すなわち説いて名づけて上地の具縛。一一の地の離染の数を等しゅう成さんが為。此のようの乃至上流もまた此のよう。総じて五種を計りて、数を積み合して一万二千九百六十を成す。已に第三の向果の差別を辯したり。次に応に第四の向果を建立すべし。頌に曰く、

上界修惑中,斷初定一品,

上界の修惑の中、初定の一品を断ずるより、

至有頂八品,皆阿羅漢向。

有頂の八品に至るまで、皆阿羅漢向。

第九無間道,名金剛喻定,

第九の無間道を、名づけて金剛喩定。

盡得俱盡智,成無學應果。

尽得と俱なる尽智、無学の応果を成ず。

論曰:即不還者進斷色界及無色界修所斷惑,從斷初定一品為初,至斷有頂八品為後,應知轉名阿羅漢向。即此所說阿羅漢向中,斷有頂惑第九無間道亦說名為金剛喻定,一切隨眠皆能破故、先已破故。不破一切實有,能破一切功能。諸能斷惑無間道中,此定相應最為勝故。金剛喻定說有多種,謂斷有頂第九品惑無間道生,通依九地故說此定智行緣別,未至地攝有五十二,謂苦集類智緣有頂苦集各有四行相應有八,滅道法智各有四行相應有八,滅類智緣八地滅一一各有四行相應合三十二,道類智緣八地道總有四行相應有四,以治八地類智品道同類相因必總緣故。如未至攝有五十二,中四靜慮應知亦爾。空處二十八,識處二十四,無所有處二十,以依無色無有法智及緣下滅滅類智故。然緣下地對治道者,以同品道互為因故。有說:此定智行緣別。未至地攝有八十種,謂道類智緣八地道亦各別有四行相應,由此於前增二十八。如未至攝有八十種,中四靜慮應知亦爾。空處四十,識處三十二,無所有處二十四。復有欲令金剛喻定智行緣別,未至地攝總有一百六十四種,謂滅類智緣八地滅有別有總各四行相應,由此於初增百一十二。如未至攝百六十四,中四靜慮應知亦然。空處五十二,識處三十六,無所有處二十四。若就種性根等分別,更成多種,如理應思。此定既能斷有頂地第九品惑,能引此惑盡得俱行盡智令起。金剛喻定是斷惑中最後無間道所生,盡智是斷惑中最後解脫道,由此解脫道與諸漏盡得最初俱生故名盡智。如是盡智至已生時便成無學阿羅漢果,已得無學應果法故。為得別果所應修學,此無有故,得無學名。即此唯應作他事故、諸有染者所應供故,依此義立阿羅漢名。義準已成。前來所辯四向三果皆名有學,何緣前七得有學名?為得漏盡,常樂學故。學要有三:一增上戒、二增上心、三增上慧。

論に曰く:すなわち不還なるの進みて色界および無色界の修所断の惑を断ずるは、初定の一品を断ずるを初と為し、有頂の八品を断ずるを後と為すに至る。応に知るべし転じて名づけて阿羅漢向。すなわち此の説く所の阿羅漢向の中、有頂の惑を断ずる第九の無間道もまた説いて名づけて金剛喩定。一切の随眠は皆能く破るがゆえ、先に已に破れるがゆえに。一切の実有を破らずして、能く一切の功能を破る。諸の能く惑を断ずる無間道の中に、此の定の相応するは最も勝れるがゆえに。金剛喩定は説いて多種有り。いわゆる有頂の第九品の惑を断ずる無間道の生ずるは、通じて九地に依るがゆえに此の定の智・行・縁の別を説く。未至地の摂に五十二有り。いわゆる苦・集の類智は有頂の苦・集に縁じて各々四行の相応有りて八有り、滅・道の法智は各々四行の相応有りて八有り、滅の類智は八地の滅に縁じて一一に各々四行の相応有りて合して三十二、道の類智は八地の道に縁じて総じて四行の相応有りて四有り。八地を治する類智品の道は同類に相因すれば必ず総縁するを以て。未至の摂に五十二有るがごとく、中の四静慮は応に知るべしもまた此のよう。空処は二十八、識処は二十四、無所有処は二十。無色に依って法智および下の滅に縁ずる滅類智無きを以て。しかし下の地の対治の道に縁ずるは、同品の道は互いに因と為るを以て。ある説に、此の定は智・行・縁に別有り。未至地の摂に八十種有り。いわゆる道類智は八地の道に縁じてもまた各別に四行の相応有り。此に由って前に於いて二十八を増す。未至の摂に八十種有るがごとく、中の四静慮は応に知るべしもまた此のよう。空処は四十、識処は三十二、無所有処は二十四。復た金剛喩定をして智・行・縁に別あらしめんと欲する有りて、未至地の摂に総じて百六十四種有り。いわゆる滅類智は八地の滅に縁じて別有り総有りて各々四行の相応有り。此に由って初に於いて百十二を増す。未至の摂の百六十四のごとく、中の四静慮は応に知るべしもまた此のよう。空処は五十二、識処は三十六、無所有処は二十四。もし種性・根等に就いて分別せば、更に多種を成す。理のごとく応に思うべし。此の定はすでに能く有頂地の第九品の惑を断ずれば、能く此の惑の尽得と俱行の尽智を引きて起さしむ。金剛喩定は是れ惑を断ずる中の最後の無間道の生ずる所。尽智は是れ惑を断ずる中の最後の解脱道。此の解脱道は諸の漏尽の得と最初に俱に生ずるに由るがゆえに名づけて尽智。此のようの尽智は已生の時に至れば便ち無学の阿羅漢果を成ず。已に無学の応果の法を得たるがゆえに。別果を得んが為の学ぶべき所は、此れ無きがゆえに、無学の名を得。すなわち此れはただ応に他の事を作すべきがゆえ、諸の染有るの供養すべき所なるがゆえに、此の義に依って阿羅漢の名を立つ。義は准じて已に成ず。前来の辯ぜし所の四向・三果は皆名づけて有学。何の縁にか前の七は有学の名を得るか。為に漏尽を得んとして、常に学を楽うがゆえに。学の要は三有り。一は増上戒、二は増上心、三は増上慧。

以戒定慧為三自體。若爾,異生應名有學。不爾,未如實見知諦理故、彼容後時失正學故,由此善逝再說學言。如契經中佛告憺怕:學所應學、學所應學,我唯說此名有學者。為令了知學正所學無有退失名有學者故,薄伽梵重說學言。聖者住本性,如何名有學?學意未滿故。如行者暫息,或學法得常隨逐故。學法雲何?謂有學者無漏有為法。無學法雲何?謂無學者無漏有為法。云何涅槃不名為學?無學異生亦成就故。此復何緣不名無學?有學異生亦成就故。如是有學及無學者,總成八聖補特伽羅,行向住果各有四故。謂為證得預流果向乃至所證阿羅漢果,名雖有八事唯有五,謂住四果及初果向,以後三果向不離前果故。此依漸次得果者說。若倍離欲、全離欲者住見道中,名為一來、不還果向,非前果攝,如前所說修道二種,有漏、無漏有差別故。由何等道離何地染?頌曰:

(論は続けて曰く:)戒・定・慧を以て三の自体と為す。もしそうならば、異生は応に有学と名づくべし。そうにはあらず。未だ如実に諦理を見知せざるがゆえ、彼は容そ後時に正学を失うがゆえに。此に由って善逝は学の言を重ねて説く。契経の中のごとく仏は憺怕(比丘の名)に告げたまう:学の学ぶべき所、学の学ぶべき所、我はただ此れを説いて名づけて有学と為す、と。学の正しく学ぶ所の退失無きを名づけて有学と為すを了知せしめんが為に、薄伽梵は学の言を重ねて説きたまえり。聖者は本性に住す。如何にして名づけて有学か。学の意の未だ満たざるがゆえに。行くの暫く息むがごとし。或いは学の法の得は常に随逐するがゆえに。学の法は如何。いわゆる有学の無漏の有為法。無学の法は如何。いわゆる無学の無漏の有為法。如何にして涅槃は名づけて学と為さざるか。無学・異生もまた成就するがゆえに。此れは復た何の縁にか名づけて無学と為さざるか。有学・異生もまた成就するがゆえに。此のようの有学および無学なるは、総じて八聖の補特伽羅を成す。向に行き果に住するに各々四有るがゆえに。いわゆる為に預流果の向乃至証する所の阿羅漢果を証得せんとす。名は八有りと雖も事はただ五有り。いわゆる四果に住するおよび初果の向。後の三果の向は前の果を離れざるがゆえに。此れは漸次に果を得るに依って説く。もし倍離欲・全離欲なるの見道の中に住するは、名づけて一来・不還果の向。前の果の摂に非ず。前の説く所の修道の二種のごとく、有漏・無漏に差別有るがゆえに。何等の道に由ってか何の地の染を離るるか。頌に曰く、

有頂由無漏,餘由二離染。

有頂は無漏に由り、其余は二に由って染を離る。

論曰:唯無漏道離有頂染,非有漏道。所以者何?此上更無世俗道故、自地不能治自地故、自地煩惱所隨增故。若彼煩惱於此隨增,此必不能治彼煩惱。若此力能對治於彼,則彼於此必不隨增,故自地道不治自地。離餘八地通由二道,世出世道俱能離故。既通由二離八地染,各有幾種離繫得耶?頌曰:

論に曰く:ただ無漏道は有頂の染を離る。有漏道に非ず。所以は何ぞや。此の上に更に世俗道無きがゆえ、自地は能く自地を治せざるがゆえ、自地の煩悩の随増する所なるがゆえに。もし彼の煩悩は此に於いて随増せば、此れは必ず能く彼の煩悩を治せず。もし此の力は能く彼に対治せば、則ち彼は此に於いて必ず随増せず。ゆえに自地の道は自地を治せず。其余の八地を離るるは通じて二道に由る。世・出世の道は俱に能く離るるがゆえに。すでに通じて二に由って八地の染を離るれば、各々幾種の離系の得有るか。頌に曰く、

聖二離八修,各二離繫得。

聖は二に由り八を修して離れ、各々二の離系の得。

論曰:諸有學聖用有漏道離下八地修斷染時,能具引生二離繫得。用無漏道離彼亦然,由二種道同所作故。有餘師釋:以無漏道離彼染時,何緣證知亦生有漏離繫得者,有捨無漏得,煩惱不成故。謂有學聖以無漏道離彼染時,若不引生同治有漏離繫得者,則以聖道具離八地,後依靜慮得轉根時,頓捨先來諸鈍聖道,唯得靜慮利果聖道,上惑離繫應皆不成,是則還應成彼煩惱。此證非理。所以者何?彼聖設無有漏斷得,亦不成就上地煩惱。如分離有頂得轉根時及異生上生不成惑故。謂如分離有頂地染,後依靜慮得轉根時,無漏斷得既已頓捨,彼地離繫無有漏得,而彼地惑亦不成就。又如異生生二定等,雖捨欲界等煩惱斷得,而不成就欲界等煩惱,此亦應然。故不成證。既說聖者二離八修各能引生二離繫得,義準異生用有漏道唯能引起有漏斷得,並諸聖者用無漏道離見斷惑及有頂修唯能引生無漏斷得。由何地道離何地染?頌曰:

論に曰く:諸の有学の聖は有漏道を用いて下の八地の修断の染を離るる時、能く具に二の離系の得を引き生ず。無漏道を用いて彼を離るるもまた此のよう。二種の道の作す所を同じくするに由るがゆえに。其余の師有りて釋す:無漏道を以て彼の染を離るる時、何の縁にかもまた有漏の離系の得を生ずるを証知するか。無漏の得を捨つる有りて、煩悩は成ぜざるがゆえに。いわゆる有学の聖は無漏道を以て彼の染を離るる時、もし同治の有漏の離系の得を引き生ぜざれば、則ち聖道を以て具に八地を離れ、後に静慮に依って転根を得る時に、頓じて先来の諸の鈍の聖道を捨て、ただ静慮の利果の聖道を得れば、上の惑の離系は応に皆成ぜざるべし。是れ則ち還た応に彼の煩悩を成ずべし。此の証は理に非ず。所以は何ぞや。彼の聖は設い有漏の断得無くとも、もまた上地の煩悩を成就せず。有頂を分離して転根を得る時および異生の上生は惑を成ぜざるがごときがゆえに。いわゆる有頂地の染を分離するがごとく、後に静慮に依って転根を得る時に、無漏の断得はすでに頓じて捨てられ、彼の地の離系に有漏の得無くして、しかも彼の地の惑もまた成就せず。また異生の二定等に生ずるがごとく、欲界等の煩悩の断得を捨つると雖も、しかも欲界等の煩悩を成就せず。此れもまた応に此のようであるべし。ゆえに証を成ぜず。すでに聖者は二に由り八を修して離れ、各々能く二の離系の得を引き生ずと説けり。義は准じて異生は有漏道を用いてただ能く有漏の断得を引き起し、并びに諸の聖者は無漏道を用いて見断の惑および有頂の修を離るるはただ能く無漏の断得を引き生ず。何の地道に由ってか何の地の染を離るるか。頌に曰く、

無漏未至道,能離一切地,

無漏の未至道は、能く一切地を離る。

餘八離自上,有漏離次下。

其余の八は自・上を離れ、有漏は次下を離る。

論曰:諸無漏道若未至攝,能離欲界乃至有頂。靜慮中間及四靜慮三無色攝,隨其所應各能離自及上地染。不離下,已離故。諸有漏道一切唯能離次下地,非自地等,自地煩惱所隨增故、勢劣故、已離故。諸依近分離下地染。如無間道皆近分攝,諸解脫道亦近分耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:諸の無漏道はもし未至の摂なれば、能く欲界乃至有頂を離る。静慮の中間および四静慮・三無色の摂は、其の応ずる所に随って各々能く自および上地の染を離る。下を離れず。已に離れたるがゆえに。諸の有漏道は一切ただ能く次下の地を離る。自地等に非ず。自地の煩悩の随増する所なるがゆえ、勢劣れるがゆえ、已に離れたるがゆえに。諸の近分に依って下地の染を離る。無間道のごとく皆近分の摂なれば、諸の解脱道もまた近分か。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

近分離下染,初三後解脫,

近分は下の染を離れ、初三の後の解脱は、

根本或近分,上地唯根本。

根本或いは近分、上地はただ根本。

論曰:諸道所依近分有八,謂四靜慮、無色下邊。所離有九,謂欲、八定。初三近分離下三染,第九解脫現在前時,或入根本或即近分。上五近分各離下染,第九解脫現在前時,必入根本非即近分,近分根本等捨根故、下三靜慮近分根本受根異故。有不能入,轉入異受少艱難故、離下染時必欣上故。若受無異,必入根本。諸出世道無間解脫前既已說,緣四諦境十六行相義準自成。世道緣何作何行相?頌曰:

論に曰く:諸の道の依る所の近分に八有り。いわゆる四静慮・無色の下辺。離るる所に九有り。いわゆる欲・八定。初の三の近分は下の三染を離れ、第九の解脱の現前する時、或いは根本に入り或いは即ち近分。上の五の近分は各々下の染を離れ、第九の解脱の現前する時、必ず根本に入りて即ち近分に非ず。近分・根本は等しく捨根なるがゆえ、下の三静慮は近分・根本の受根の異なるがゆえに。入ること能わざる有りて、転じて異受に入ること少々艱難なるがゆえ、下の染を離るる時に必ず上を欣うがゆえに。もし受に異無ければ、必ず根本に入る。諸の出世道の無間・解脱は前にすでに説けり。四諦の境に縁ずる十六の行相は義は准じて自ずから成ず。世道は何に縁じて何の行相を作すか。頌に曰く、

世無間解脫,如次緣下上,

世の無間・解脱は、次第のごとく下・上に縁じて、

作麁苦障行,及靜妙離三。

麁・苦・障の行を作し、および静・妙・離の三。

論曰:世俗無間及解脫道,如次能緣下地上地,為麁苦障及靜妙離。謂諸無間道緣自次下地諸有漏法,作麁苦等三行相中隨一行相。若諸解脫道緣彼次上地諸有漏法,作靜妙等三行相中隨一行相。非寂靜故說名為麁,由大劬勞方能越故、非美妙故。說名為苦,由多麁重能違害故、非出離故。說名為障,由此能礙越自地故,如獄厚壁能障出離。靜妙離三翻此應釋。傍論已了,應辯本義。盡智無間有何智生?頌曰:

論に曰く:世俗の無間および解脱の道は、次第のごとく能く下地・上地に縁じて、麁・苦・障および静・妙・離と為す。いわゆる諸の無間道は自の次下の地の諸の有漏法に縁じて、麁・苦等の三行相の中に一の行相に随って作す。もし諸の解脱道は彼の次上の地の諸の有漏法に縁じて、静・妙等の三行相の中に一の行相に随って作す。寂静に非ざるがゆえに説いて名づけて麁。大いなる劬労に由って方に能く越ゆるがゆえ、美妙に非ざるがゆえに。名づけて苦と説く。多くの麁重に由って能く違害するがゆえ、出离に非ざるがゆえに。名づけて障と説く。此に由って能く自地を越ゆるを碍ぐがゆえに。獄の厚き壁の能く出离を障するがごとし。静・妙・離の三は此を翻して応に釋すべし。傍論已に了わり。応に本義を辯ずべし。尽智の無間に何の智の生ずる有るか。頌に曰く、

不動盡智後,必起無生智,

不動の尽智の後に、必ず無生智を起し、

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