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説一切有部倶舎論 巻第二十五

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第38巻 / 38

色差別因尚為難了,況心心所諸無色法因緣差別可易了知?一類外道作如是執,諸心生時皆從於我。前之二難於彼最切。若諸心生皆從我者,何緣後識不恆似前,及不定次生,如芽莖葉等。若謂由待意合差別有異識生,理定不然,我與餘合非極成故,又二物合有分限故。謂彼自類釋合相言,非至為先、後至名合。我與意合應有分限,意移轉故我應移轉,或應與意俱有壞滅。若謂一分合,理定不然,於一我體中無別分故。設許有合,我體既常,意無別異,合寧有別?若待別覺,為難亦同。謂覺因何得有差別?若待行別,我意合者,則應但心待行差別能生異識,何用我為?我於識生都無有用,而言諸識皆從我生。如藥事成能除痼疾,誑醫矯說普莎訶言。若謂此二由我故有,此但有言,無理為證。若謂此二我為所依,如誰與誰為所依義?非心與行如畫如果,我為能持如壁如器,如是便有更相礙失,及有或時別住失故。非如壁器,我為彼依。若爾如何?此但如地,能為香等四物所依。彼如是言,證成無我,故我於此深生喜慰。如世間地不離香等,我亦應爾,非離心行。誰能了地離於香等?但於香等聚集差別,世俗流佈立以地名。我亦應然,但於心等諸蘊差別,假立我名。若離香等無別有地,如何說言地有香等?為顯地體有香等別,故即於地說有香等,令他了達是此非餘,如世間言木像身等。又若有我待行差別,何不俱時生一切智?若時此行功用最強,此能遮餘令不生果。寧從強者果不恒生?答此如前修力道理,許行非常漸變異故。若爾,計我則為唐捐,行力令心差別生故。彼行此修體無異故,必定應信我體實有,以有念等德句義故,德必依止實句義故,念等依餘理不成故。此證非理,不極成故。謂說念等德句義攝體皆非實,義不極成,許有別體皆名實故。經說六實物,名沙門果故。彼依實我,理亦不成。

色の差別の因はなお了し難きを尚うす。況んや心・心所の諸の無色法の因縁の差別は易く了知すべきか。一類の外道は此の執を作して、諸心の生ずる時は皆我よりすと。前の二難は彼に於いて最も切なり。もし諸心の生ずるは皆我に従うは、何の縁にか後の識は恒に前に似ず、および定めて次生せざるか。芽・茎・葉等のごとし。もし謂わば意との合の差別を待つに由って異識を生ずと。理は定めて此のようにはあらず。我と其余との合は極成に非ざるがゆえ、また二物の合は分限有るがゆえに。いわゆる彼の自類は合相の言を釋して、至るを以て先と為し・後に至るを名づけて合に非ず。我と意との合は応に分限有るべし。意は移転するがゆえに我は応に移転すべし。或いは応に意と俱に壊滅有るべし。もし謂わば一分の合。理は定めて此のようにはあらず。一の我体の中に別分無きがゆえに。設い合有るを許すも、我体はすでに常、意は別異無くして、合は寧ろ別有らんか。もし別の覚を待たば、為の難もまた同じ。いわゆる覚は何に因ってか差別有るを得るか。もし行の別を待たば、我・意の合するに、則ち応に但だ心は行の差別を待ちて能く異識を生ずべし。何ぞ我を用いんか。我は識の生ずるに於いて都て用有ること無くして、而も諸の識は皆我より生ずと説く。薬事の成ぜる能く痼疾を除くがごとく、医を誑かして矯めて普莎訶(呪の尾の詞)の言を説く。もし謂わば此の二は我に由るがゆえに有ると。此れは但だ言有りて、理の証と為る無し。もし謂わば此の二は我は依る所と為すと。誰と誰とが依る所と為るの義のごとし。心と行とが画・果のごときに非ず。我は能く持する壁・器のごとき。此のようの便ち更相の礙の失有り、および或る時の別住の失有るがゆえに。壁・器のごときに非ざれば、我は彼の依と為さず。もしそうならば如何。此れは但だ地のごとし。能く香等の四物の依る所と為る。彼は此の説のごとく、無我を証成す。ゆえに我は此に於いて深く喜慰を生ず。世間の地は香等を離れざるがごとく、我もまた応に此のよう。心・行を離るるに非ず。誰か能く地は香等を離るるを了せんか。但だ香等の聚集・差別に於いて、世俗の流布は名を立てて以て地と為す。我もまた応に此のよう。但だ心等の諸蘊の差別に於いて、仮に我の名を立つ。もし香等を離れて別に地無ければ、如何にして地は香等有りと説き言わんか。為に地体は香等の別有るを顕さんと、ゆえに即ち地に於いて香等有りと説いて、他をして是れ此にして其余に非ずを了達せしむ。世間の木像の身等と言うがごとし。またもし我有りて行の差別を待たば、何ぞ俱時に一切智を生ぜざるか。もし時に此の行の功用最強なれば、此れは能く其余を遮りて果を生ぜしめず。寧ろ強きよりの果は恒生ぜざらんや。此に答うるは前の修力の道理のごとく、行は非常にして漸く変異するを許すがゆえに。もしそうならば、我を計るは則ち為に唐捐。行の力は心の差別を生ぜしむるがゆえに。彼の行と此の修とは体の異無きがゆえに、必定応に信ずべし我体は実有。念等の徳句義(勝論の徳句)有るを以て、徳は必ず実句義(勝論の実句)に依止するがゆえ、念等は其余に依るの理成らざるがゆえに。此の証は理に非ず。極成せざるがゆえに。いわゆる念等は徳句義の摂する体は皆実に非ずと説くは、義は極成せず。別体有りて皆名づけて実と許すがゆえに。経に六の実物を説いて名づけて沙門果と為すがゆえに。彼は実我に依るも、理もまた成らず。

依義如前已遮遣故,由此所立但有虛言。若我實無,為何造業?為我當受苦樂果故。我體是何?謂我執境。何名我執境?謂諸蘊相續。云何知然?貪愛彼故。與白等覺同處起故。謂世有言:我白我黑。我老我少。我瘦我肥。現見世間緣白等覺,與計我執同處而生,非所計我有此差別,故知我執但緣諸蘊。以身於我有防護恩,故亦於身假說為我,如言臣等即是我身。於有恩中實假說我,而諸我執所取不然。若許緣身亦起我執,寧無我執緣他身起,他與我執不相屬故。謂若身若心與我執相屬,此我執起緣彼非餘,無始時來如是習故。相屬謂何?謂因果性。若無我體,誰之我執?此前已釋,寧復重來。謂我於前已作是說,為依何義說第六聲,乃至辨因為果所屬。若爾,我執以何為因?謂無始來我執燻習,緣自相續有垢染心。我體若無誰有苦樂?若依於此有苦樂生,即說名為此有苦樂,如林有果及樹有花。苦樂依何?謂內六處,隨其所起說為彼依。若我實無,誰能作業?誰能受果?作受何義?作謂能作,受謂受者。此但易名,未顯其義。辯法相者釋此相言:能自在為,名為作者。能領業果,得受者名。現見世間,於此事業若得自在,名為能作。如見天授於浴食行得自在故,名浴等者。此中汝等說何天授?若說實我,喻不極成;說蘊便非自在作者。業有三種,謂身、語、意。且起身業必依身心,身心各依自因緣轉,因緣展轉依自因緣,於中無一自在起者,一切有為屬因緣故。汝所執我,不待因緣亦無所作,故非自在。由此彼說能自在為名作者相,求不可得。然於諸法生因緣中,若有勝用假名作者,非所執我,見有少用故定不應名為作者。能生身業勝因者何?謂從憶念引生樂欲,樂欲生尋伺,尋伺生勤勇,勤勇生風,風起身業。汝所執我,此中何用?故於身業,我非作者。語意業起,類此應思。我復云何能領業果?

(論に引き続き曰く:)義に依るは前に已に遮遣せるがゆえに、此に由って立てる所は但だ虚言有り。もし我は実に無ければ、為に何ぞ業を造るか。為に我当に苦・楽の果を受けんがゆえに。我体とは是れ何ぞ。いわゆる我執の境。何をか我執の境と名づくるか。いわゆる諸蘊の相続。如何にして此のようを知るか。彼を貪愛するがゆえ、白等の覚と同じ処に起るがゆえに。いわゆる世に言有り:我は白し我は黒し。我は老い我は少し。我は痩せ我は肥えり。現に世間の白等の覚に縁ずるを見て、計する我執と同じ処に生ず。計する所の我に此の差別有るに非ず。ゆえに我執は但だ諸蘊に縁ずるを知る。身は我に於いて防護の恩有るを以て、ゆえにもまた身に於いて仮に我と説く。臣等は即ち是れ我が身と言うがごとし。恩有るの中に於いて実に仮に我と説くも、而も諸の我執の取る所は此のようにはあらず。もし身に縁じてもまた我執を起すを許さば、寧ろ他の身に縁じて我執の起る無からんや。他は我執と相属せざるがゆえに。いわゆるもし身もし心は我執と相属すれば、此の我執の起るは彼に縁じて其余に非ず。无始の時より来りて此のように習うがゆえに。相属とは何を謂うか。いわゆる因果性。もし我体無ければ、誰の我執か。此れは前に已に釋せり。寧ろ復た重ねて来らんや。いわゆる我は前に已に是の説を作せり、為に何の義に依ってか第六声を説く、乃至因を弁じて果の属する所と為すを。もしそうならば、我執は何を以て因と為すか。いわゆる无始より来りて我執は熏習して、自の相続の垢染の心有りに縁ず。我体もし無ければ誰か苦・楽有るか。もし此に依って苦・楽の生ずる有れば、即ち説いて名づけて此は苦・楽有り。林の果有りおよび樹の花有るがごとし。苦・楽は何に依るか。いわゆる内の六処。其の起る所に随って説いて彼の依と為す。もし我は実に無ければ、誰か能く業を作さんか。誰か能く果を受くるか。作・受は何の義か。作とは能く作るを謂い、受とは受くる者を謂う。此れは但だ名を易う、未だ其の義を顕さず。法相を弁ずる者は此の相を釋して言う:能く自在に為すを、名づけて作る者。能く業の果を領すを、受くる者の名を得。現に世間を見る、此の事業に於いてもし自在を得れば、名づけて能作。天授の浴・食・行に於いて自在を得るを見るがごとく、名づけて浴等の者。此の中に汝等は何の天授を説くか。もし実我を説かば、喩は極成せず。蘊を説かば便ち自在の作る者に非ず。業に三種有り。いわゆる身・語・意。且つ身業を起すは必ず身・心に依り、身・心は各々自の因縁に依って転じ、因縁は展転に自の因縁に依る。中に於いて一の自在に起る無し。一切の有為は因縁に属するがゆえに。汝の執する所の我は、因縁を待たずもまた作する所無し。ゆえに自在に非ず。此に由って彼の説く能く自在に為すを名づけて作る者の相は、求めて得るべからず。然而諸法の生ずる因縁の中に於いて、もし勝用有れば仮に作者と名づく。執する所の我に非ず。少しの用有るを見るがゆえに定めて応に名づけて作る者と為すべからず。能く身業を生ずるの勝因とは何ぞ。いわゆる憶念より樂欲を引生し、樂欲は尋・伺を生じ、尋・伺は勤勇を生じ、勤勇は風を生じ、風は身業を起す。汝の執する所の我は、此の中に何の用有るか。ゆえに身業に於いて、我は作る者に非ず。語・意の業の起るは、此に類して応に思うべし。我は復た如何にして能く業の果を領せんか。

若謂於果我能了別,此定不然,我於了別都無有用,於前分別生識因中已遮遣故。若實無我,如何不依諸非情處罪福生長?彼非愛等所依止故,唯內六處是彼所依。我非彼依,如前已說。若實無我,業已滅壞,云何復能生未來果?設有實我,業已滅壞,復云何能生未來果?從依止我,法非法生。如誰依誰,此前已破,故法非法不應依我。然聖教中不作是說,從已壞業未來果生。若爾,從何?從業相續轉變差別,如種生果。如世間說,果從種生。然果不從已壞種起,亦非從種無間即生。若爾,從何?從種相續轉變差別果方得生,謂種次生芽莖葉等,花為最後方引果生。若爾,何言從種生果?由種展轉引起花中生果功能,故作是說。若此花內生果功能非種為先所引起者,所生果相應與種別。如是雖言從業生果,而非從彼已壞業生,亦非從業無間生果,但從業相續轉變差別生。何名相續轉變差別?謂業為先,後色心起,中無間斷,名為相續。即此相續,後後剎那異前前生,名為轉變。即此轉變,於最後時有勝功能無間生果,勝餘轉變,故名差別。如有取識正命終時,雖帶眾多感後有業所引燻習,而重近起數習所引明瞭非餘。如有頌言:

(論に引き続き曰く:)もし謂わば果に於いて我は能く了別すと。此れは定めて此のようにはあらず。我は了別に於いて都て用有ること無し。前の分別に識の因を生ずる中に於いて已に遮遣せるがゆえに。もし実に我無ければ、如何にして諸の情有らざる処に依らずして罪・福は生長せんか。彼は愛等の依止する所に非ざるがゆえに、ただ内の六処は是れ彼の依る所。我は彼の依に非ず。前に已に説けり。もし実に我無ければ、業は已に滅壊して、如何にして復た能く未来の果を生ぜんか。設い実の我有りと雖も、業は已に滅壊して、復た如何にして能く未来の果を生ぜんか。我に依止するより、法・非法は生ず。誰が誰に依るがごときは、此れは前に已に破りたり。ゆえに法・非法は応に我に依るべからず。然而聖教の中には是の説を作さず、已に壞れたる業より未来の果は生ずと。もしそうならば、何よりすか。業の相続の転変・差別より。種の果を生ずるがごとし。世間の説くがごとく、果は種より生ず。然而果は已に壞れたる種より起らず、もまた種より無間に即ち生ぜず。もしそうならば、何よりすか。種の相続の転変・差別より果は方に生ずるを得。いわゆる種は次に芽・茎・葉等を生じ、花を以て最後と為して方に果の生ずるを引く。もしそうならば、何をか種より果を生ずと言うか。種の展転に引き起す花の中の果を生ずるの功能に由るがゆえに、ゆえに是の説を作す。もし此の花の内の果を生ずるの功能は種を先と為して引き起す所に非ざれば、生ずる所の果の相は応に種と別なるべし。此のようの業より果を生ずと説くと雖も、而も彼の已に壞れたる業より生ずるに非ず、もまた業より無間に果を生ずるに非ず。但だ業の相続の転変・差別より生ず。何をか相続・転変・差別と名づくるか。いわゆる業を先と為して、後に色・心は起り、中に間断無くして、名づけて相続。即ち此の相続は、後後の刹那は前前に異なりて生ずるを、名づけて転変。即ち此の転変は、最後の時に於いて勝なる功能有りて無間に果を生じ、其余の転変に勝るるがゆえに、名づけて差別。取識有りて正に命終する時に、衆多の後有を感ずる業の引く所の熏習を帯ぶと雖も、而も重く近く起りて数習の引く所の明了は其余に非ず。頌有りて説くがごとく:

業極重近起,數習先所作,

業は極めて重く近く起る、数習の先の作する所は、

前前前後熟,輪轉於生死。

前前・後後に熟して、生死に輪転す。

於此義中有差別者,異熟因所引與異熟果功能,與異熟果已即便謝滅。同類因所引與等流果功能,若染汙者對治起時即便謝滅,不染汙者般涅槃時方永謝滅,以色心相續爾時永滅故。何緣異熟果不能招異熟,如從種果有別果生。且非譬喻,是法皆等。然從種果無別果生。若爾,從何生於後果?從後熟變差別所生。謂於後時即前種果遇水土等諸熟變緣,便能引生熟變差別。正生芽位方得種名,未熟變時從當名說,或似種故世說為種。此亦如是,即前異熟遇聞正邪等諸起善惡緣,便能引生諸善有漏及諸不善有異熟心,從此引生相續轉變,展轉能引轉變差別,從此差別後異熟生,非從餘生。故喻同法。或由別法類此可知,如拘櫞花塗紫礦汁,相續轉變差別為因,後果生時瓤便色赤,從此赤色更不生餘。如是應知,從業異熟更不能引餘異熟生。前來且隨自覺慧境,於諸業果略顯麁相。其間異類差別功能,諸業所燻相續轉變,至彼彼位彼彼果生,唯佛證知非餘境界。依如是義,故有頌言:

此の義の中に差別有るは、異熟因の引く所の異熟果を与うるの功能は、異熟果を与え已りて便ち謝滅す。同類因の引く所の等流果を与うるの功能は、もし染汚なるは対治の起る時に便ち謝滅し、染汚ならざるは般涅槃の時に方に永く謝滅す。色・心の相続は爾の時に永滅するを以て。何の縁にか異熟果は能く異熟を招かざるか。種の果より別の果を生ずるがごとし。且つ譬喩に非ず、是の法は皆等し。然而種の果よりは別の果を生ずること無し。もしそうならば、何より後の果を生ずるか。後の熟変の差別の生ずる所よりす。いわゆる後の時に於いて即ち前の種果は水・土等の諸の熟変の縁に遇えば、便ち能く熟変の差別を引生す。正しく芽を生ずる位に方に種の名を得。未だ熟変せざる時は当の名より説き、或いは種に似たるがゆえに世は説いて種と為す。此れもまた此のよう。即ち前の異熟は正・邪等を聞くの諸の善・悪を起すの縁に遇えば、便ち能く諸の善の有漏および諸の不善の異熟の心有りを引生し、此より相続の転変を引生し、展転に能く転変の差別を引き、此の差別より後の異熟は生じ、其余より生ずるに非ず。ゆえに喩は法に同じ。或いは別の法に由って此に類して知るべし。拘橼の花に紫礦の汁を塗るがごとく、相続の転変・差別を因と為して、後の果の生ずる時に瓤は便ち色は赤し。此の赤色より更に其余を生ぜず。此のようの応に知るべし、業の異熟より更に能く其余の異熟の生を引かざるを。前来且つ自覚の慧の境に随って、諸の業果に於いて略して粗相を顕せり。其の間の異類の差別の功能は、諸の業の熏ずる所の相続の転変にして、彼彼の位に至りて彼彼の果を生ずるは、ただ佛のみ証知して其余の境界に非ず。此のようの義に依るがゆえに、頌有りて説く:

此業此燻習,至此時與果,

此の業・此の熏習は、此の時に至りて果を与うるは、

一切種定理,離佛無能知。

一切種の定めたる理は、佛を離れて能く知る無し。

已善說此淨因道,謂佛至言真法性,

已に此の浄因の道を善く説けり。いわゆる佛の至言・真の法性、

應捨闇盲諸外執,惡見所為求慧眼。

応に暗盲の諸の外執を捨て、慧眼を求める惡見の為する所を。

此涅槃宮一廣道,千聖所遊無我性,

此の涅槃の宮の一の広道は、千聖の遊ぶ所・我性無くして、

諸佛日言光所照,雖開殊眼不能覩。

諸仏の日言の光の照らす所。開きたる殊眼と雖も覩ること能わず。

於此方隅已略說,為開智者慧毒門,

此の方隅に於いて已に略説せり。為に智者の慧の毒門を開かんと、

庶各隨己力堪能,遍悟所知成勝業。

庶い各々己の力の堪能に随い、遍く所知を悟りて勝業を成らんことを。

説一切有部倶舎論 巻第三十

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