説一切有部倶舎論 巻第十五
アビダルマ倶舎論 巻第十六 尊者世親造
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。
分別業品第四之四
分別業品 第四之四
又經中說,業有四種,謂或有業黑黑異熟、或復有業白白異熟、或復有業黑白黑白異熟、或復有業非黑非白無異熟能盡諸業。其相云何?頌曰:
また経の中に説く、業には四種ある。あるいは業が黒黒異熟、あるいは業が白白異熟、あるいは業が黒白黒白異熟、あるいは業が非黒非白で異熟なくして諸の業を尽くしうるもの。その相はいかなるか。頌に曰く、
依黑黑等殊,所說四種業,
黒黒等の殊に依りて、説かれる四種の業は、
惡色慾界善,能盡彼無漏,
悪と色界・欲界の善と、彼を尽くしうる無漏とが、
應知如次第,名黑白俱非。
知るべきことに、次第のごとく、黒・白・俱・非と名づく。
論曰:佛依業果性類不同,所治能治殊,說黑黑等四。諸不善業一向名黑,染汙性故,異熟亦黑,不可意故。色界善業一向名白,不雜惡故,異熟亦白,是可意故。何故不言無色界善?傳說若處有二異熟謂中生有,具三種業謂身語意,則說非餘,然契經中有處亦說。欲界善業名為黑白,惡所雜故,異熟亦黑白,非愛果雜故。此黑白名依相續立,非據自性。所以者何?以無一業及一異熟是黑亦白,互相違故。豈不惡業果善業果雜故,是則亦應名為白黑。不善業果非必應為善業果雜,欲善業果必定應為惡業果雜,以欲界中惡勝善故。諸無漏業能永斷盡前三業者名為非黑,不染汙故,亦名非白,以不能招白異熟故。此非白言是密意說,以佛於彼《大空經》中告阿難陀:諸無學法純善純白一向無罪。本論亦言:云何白法?謂諸善法無覆無記無異熟者,不墮界故、與流轉法性相違故。諸無漏業為皆能盡前三業不?不爾。云何?頌曰:
論に曰く:仏は業果の性類が同じからざること、所治と能治が殊なることに依りて、黒黒等の四を説かれた。諸の不善業は一向に黒と名づく。染污の性であるがゆえに、その異熟もまた黒である。意に適わないがゆえである。色界の善業は一向に白と名づく。悪に雑せられないがゆえに、その異熟もまた白である。意に適うがゆえである。なぜ無色界の善を説かないか。伝説に、もしある処に二つの異熟(中有と生有)があり、三種の業(身・語・意)を具えるならば説くのであって、その余については説かないが、しかし契経の中にも説く処がある。欲界の善業は黒白と名づく。悪に雑せられるがゆえに、その異熟もまた黒白である。愛すべからざる果が雑じるがゆえである。この黒白の名は相続に依って立てられたのであって、自性に拠るのではない。そもそもどうしてか。一つの業も一つの異熟も黒でありかつ白であることはなく、互いに相違するがゆえである。むしろ悪業の果が善業の果に雑するのではないか。そうであれば白黒と名づけるべきではないか。不善業の果は必ずしも善業の果に雑するとは限らないが、欲界の善業の果は必ず悪業の果に雑する。欲界の中では悪が善に勝るがゆえである。諸の無漏業は前の三業を永く断尽しうるので非黒と名づく。染污しないがゆえである。また非白とも名づく。白い異熟を招くことができないがゆえである。この「非白」の言は密意の説であって、仏があの《大空経》の中で阿難陀に告げて曰く、諸の無学の法は純善・純白で一向に罪なきものである、と。本論にも説く、何を白法とするか。諸の善法、無覆無記にして異熟なきものを謂う。界に堕せず、流転の法性と相違するがゆえである。諸の無漏業は皆前の三業を尽くしうるか。そうではない。どうか。頌に曰く、
四法忍離欲,前八無間俱,
四法・忍・離欲、前の八無間に俱にして、
十二無漏思,唯盡純黑業,
十二の無漏の思は、ただ純黒の業を尽くし、
離欲四靜慮,第九無間思,
欲を離れた四静慮、第九無間の思は、
一盡雜純黑,四令純白盡。
一は雑・純黒を尽くし、四は純白を尽くさせる。
論曰:於見道中四法智忍及於修道離欲染位前八無間聖道俱行有十二思唯盡純黑,離欲界染第九無間聖道俱行一無漏思,雙令黑白及純黑盡,此時總斷欲界善故,亦斷第九不善業故。離四靜慮一一地染,第九無間道俱行無漏思,此四唯令純白業盡。何緣諸地有漏善法唯最後道能斷非餘?以諸善法非自性斷,已斷有容現在前故。然由緣彼煩惱盡時方說名為斷彼善法,爾時善法得離繫故。由此乃至緣彼煩惱餘一品在,斷義不成,善法爾時未離繫故。頌曰:
論に曰く:見道における四法智忍および修道の離欲染位における前八無間の聖道に俱に行われる十二の思は、ただ純黒を尽くす。欲界の染を離れた第九無間の聖道に俱に行われる一つの無漏の思は、黒白および純黒を併せて尽くさせる。この時、欲界の善を総じて断ずるがゆえに、第九品の不善業をも断ずるがゆえである。四静慮の一一地の染を離れるそれぞれの第九無間道に俱に行われる無漏の思、この四つはただ純白の業を尽くさせる。どの縁によって諸地の有漏の善法は最後の道のみが断じてその余は断じないか。諸の善法は自性断ではなく、すでに断ぜられたものがなお現前しうるがゆえである。しかし彼に縁する煩悩が尽きた時に初めて彼の善法を断じたと名づける。その時、善法は離系を得るがゆえである。このゆえに、彼に縁する煩悩の残余の一品があれば断の義は成せない。その時善法は未だ離系しないがゆえである。頌に曰く、
有說地獄受,餘欲業黑雜,
ある説に、地獄の受は純黒、その余の欲界の業は黒雑。
有說欲見滅,餘欲業黑俱。
ある説に、欲界の見所断は黒、その余の欲界の業は黒俱。
論曰:有餘師說:順地獄受及欲界中順餘受業,如次名為純黑雜業。謂地獄異熟唯不善業感,故順彼受名純黑業。唯除地獄,餘欲界中異熟皆通善惡業感,故順彼受名黑白業。有餘師說:欲見所斷及欲界中所有餘業,如次名為純黑俱業。謂見所斷無善雜故名純黑業,欲修所斷有善不善故名俱業。又經中說有三牟尼,又經中言有三清淨,俱身語意。相各云何?頌曰:
論に曰く:その余の師の説に、地獄に順じて受ける業と欲界の中のその余に順じて受ける業とを、次第のごとく純黒・雑業と名づける。いわゆる地獄の異熟はただ不善業のみが感ずるので、彼に順じて受けるを純黒業と名づける。ただ地獄を除き、その余の欲界の中の異熟はみな善・悪業が感じることを通ずるので、彼に順じて受けるを黒白業と名づける。またその余の師の説に、欲界の見所断と欲界の中のすべてのその余の業とを、次第のごとく純黒・俱業と名づける。いわゆる見所断は善の雑するがないゆえに純黒業と名づく。欲界の修所断は善・不善あるゆえに俱業と名づく。また経の中に三牟尼を説き、また経の中に三清浄を説く。ともに身・語・意である。その相は各々いかなるか。頌に曰く、
無學身語業,即意三牟尼,
無学の身・語の業と、すなわち意とは三牟尼。
三清淨應知,即諸三妙行。
三清浄は知るべし、すなわち諸の三妙行。
論曰:無學身語業,名身語牟尼,意牟尼即無學意非意業。所以者何?勝義牟尼唯心為體,謂由身語二業比知。又身語業是遠離體,意業不然,無無表故。由遠離義建立牟尼,是故即心由身語業能有所離,故名牟尼。何故牟尼唯在無學?以阿羅漢是實牟尼,諸煩惱言永寂靜故。諸身語意三種妙行,名身語意三種清淨。暫永遠離一切惡行煩惱垢故名為清淨。說此二者為息有情計邪牟尼,邪清淨故。又經中說有三惡行,又經中言有三妙行,俱身語意。相各云何?頌曰:
論に曰く:無学の身・語の業を身・語牟尼と名づく。意牟尼はすなわち無学の意であって意業ではない。そもそもどうしてか。勝義の牟尼はただ心のみを体とし、身・語の二業によってこれを比知するのである。また身・語の業は遠離の体であるが、意業はそうではない。無表がないがゆえである。遠離の義によって牟尼を建立する。このゆえにすなわち心が身・語の業によって離すべきところを有しうるので、牟尼と名づける。なぜ牟尼は無学のみにあるか。阿羅漢は実の牟尼であるがゆえに、諸の煩悩の言が永く寂静なるがゆえである。諸の身・語・意の三種の妙行を身・語・意の三種の清浄と名づく。暫く・永く一切の悪行・煩悩の垢を離れるがゆえに清浄と名づく。この二者を説くのは、有情が邪牟尼・邪清浄を計るを息まんがためである。また経の中に三悪行を説き、また経の中に三妙行を説く。ともに身・語・意である。その相は各々いかなるか。頌に曰く、
惡身語意業,說名三惡行,
悪の身・語・意の業を、説いて三悪行と名づく。
及貪瞋邪見,三妙行翻此。
および貪・瞋・邪見をも。三妙行はこれを翻す。
論曰:一切不善身語意業,如次名身語意惡行。然意惡行復有三種,謂非意業貪、瞋、邪見,貪等離思別有體故。譬喻者言:貪瞋邪見即是意業,故《思經》中說此三種為意業故。若爾,則應業與煩惱合成一體。許有煩惱即是意業,斯有何失?毘婆沙師說彼非理。若許爾者,便與眾多理教相違,成大過失。然契經說是意業者,顯思以彼為門轉故、由此能感非愛果故、是聰慧者所訶厭故。此行即惡,故名惡行。三妙行者,翻此應知。謂身語意一切善業。非業無貪、無瞋、正見。正見邪見既無故思欲益他損他,如何成善惡?能與損益為根本故。又經中言:有十業道,或善或惡。其相云何?頌曰:
論に曰く:一切の不善の身・語・意の業を、次第のごとく身・語・意の悪行と名づく。しかし意の悪行にはさらに三種ある。いわゆる意業にあらざる貪・瞋・邪見である。貪等は思を離れて別に体あるがゆえである。譬喩者の説に、貪・瞋・邪見はすなわち意業である。《思経》の中にこの三種を意業として説くがゆえである。もしそうならば業と煩悩とが一体を成すことになる。煩悩があればすなわち意業だと許すこと、これに何の失かあるか。毘婆沙師は彼は理にあらずと説く。もしそうを許さば、すなわち众多の理教に相違して大過失を成す。しかし契経に意業と説くのは、思が彼を門として転ずるを顕すがゆえ、これによって愛すべからざる果を感じうるがゆえ、聡慧なる者の訶厭するところなるがゆえである。この行はすなわち悪なり。ゆえに悪行と名づく。三妙行はこれを翻して知るべし。いわゆる身・語・意の一切の善業、および業にあらざる無貪・無瞋・正見である。正見・邪見はすでに益他・損他を欲する思がないのに、どうして善悪を成すか。損益を与えるの根本となりうるがゆえである。また経の中に説く、十業道があり、あるいは善あるいは悪である。その相はいかなるか。頌に曰く、
所說十業道,攝惡妙行中,
説かれる十業道は、悪行・妙行の中に摂され、
麁品為其性,如應成善惡。
麁品をその性とし、応じたように善悪を成す。
論曰:於前所說惡妙行中,若麁顯易知,攝為十業道。如應若善攝前妙行,不善業道攝前惡行。不攝何等惡妙行耶?且不善中身惡業道,於身惡行不攝一分,謂加行後起餘不善身業,即飲諸酒執打縛等,以加行等非麁顯故。若身惡行令他有情失命失財失妻妾等,說為業道,令遠離故。語惡業道於語惡行,不攝加行後起及輕。意惡業道於意惡行,不攝惡思及輕貪等。善業道中身善業道,於身妙行不攝一分,謂加行後起及餘善身業,即離飲酒施供養等。語善業道於語妙行不攝一分,謂愛語等。意善業道於意妙行不攝一分,謂諸善思。十業道中前七業道為皆定有表無表耶?不爾。云何?頌曰:
論に曰く:前に説いた悪行・妙行の中で、麁にして顕われ知りやすきものを摂して十業道とする。応じたように善であれば前の妙行に摂され、不善の業道は前の悪行に摂される。どのような悪行・妙行を摂しないか。まず不善の中で身の悪業道は身の悪行の一部を摂しない。いわゆる加行・後起およびその余の不善の身業、すなわち諸の酒を飲み、執打・縛等である。加行等は麁顕にあらざるがゆえである。もし身の悪行が他の有情に命・財・妻妾等を失わしむるとき、業道と説く。離脱せしめるがゆえである。語の悪業道は語の悪行のうち加行・後起および軽きものを摂しない。意の悪業道は意の悪行のうち悪思および軽き貪等を摂しない。善業道の中で身の善業道は身の妙行の一部を摂しない。いわゆる加行・後起およびその余の善の身業、すなわち飲酒を離れ、施・供養等である。語の善業道は語の妙行の一部を摂しない。いわゆる愛語等である。意の善業道は意の妙行の一部を摂しない。いわゆる諸の善思である。十業道の中で前の七業道は皆定めて表・無表を有するか。そうではない。どうか。頌に曰く、
惡六定無表,彼自作婬二,
悪の六は定めて無表あり。彼を自作し・淫は二。
善七受生二,定生唯無表。
善の七は受生より二、定生はただ無表のみ。
論曰:七惡業道中,六定有無表,謂殺生、不與取、虛誑語、離間語、麁惡語、雜穢語。如是六種若遣他為,根本成時自表無故。若有自作彼六業道,則六皆有表無表二,謂起表時彼便死等;後方死等與遣使同,根本成時唯無表故。唯欲邪行必具二種,要是自身所究竟故,非遣他作,如自生喜。七善業道若從受生,必皆具二,謂表、無表,受生屍羅必依表故。靜慮無漏所攝律儀名為定生,此唯無表,但依心力而得生故。加行後起如根本耶?不爾。云何?頌曰:
論に曰く:七つの悪業道の中で、六は定めて無表あり。いわゆる殺生・不與取・虚誑語・離間語・麁悪語・雑穢語である。この六種はもし他を遣って為さしめば、根本が成ずる時、自ら表がないがゆえである。もし自ら作して彼の六業道を為せば、六は皆表・無表の二を有する。いわゆる表を起す時に彼は便ち死ぬ等である。後に死ぬ等は遣使と同じく、根本が成ずる時ただ無表のみあるがゆえである。ただ欲邪行のみ必ず二種を具える。要するに自身の究竟するところなるがゆえ、他を遣って作すにあらず。自ら喜を生ずるがごとし。七つの善業道はもし受生より起れば、必ず皆二を具える。いわゆる表・無表である。受生の尸羅は必ず表に依るがゆえである。静慮・無漏の摂する律儀は定生と名づく。これはただ無表のみ、ただ心力に依って生ずることを得るがゆえである。加行・後起は根本のごとくか。そうではない。どうか。頌に曰く、
加行定有表,無表或有無,
加行は定めて表あり、無表はあるいは有りあるいは無し。
後起此相違。
後起はこれに相違す。
論曰:業道加行必定有表,此位無表或有或無。若猛利纏淳淨心起則有無表,異此則無。後起翻前,定有無表,此位表業或有或無。謂若後時起隨前業則有表業,異此便無。於此義中如何建立加行根本後起位耶?且不善中最初殺業,如屠羊者將行殺時,先發殺心從床而起,執持價直趣賣羊廛,㨊觸羊身酬價捉取,牽還養飯將入屠坊,手執杖刀若打若刺,或一或再至命未終,如是皆名殺生加行。隨此表業彼正命終,此剎那頃表無表業,是謂殺生根本業道。由二緣故,令諸有情根本業道殺罪所觸:一由加行、二由果滿。此剎那後殺無表業隨轉不絕,名殺後起。及於後時剝截治洗,若稱若賣或煮,或食讚述其美表業剎那,如是亦名殺生後起。餘六業道隨其所應三分不同,準例應說。貪瞋邪見才現在前,即說名為根本業道,故無加行後起差別。此中應說。為所殺生住死有時,能殺生者彼剎那頃表無表業即成業道?為死後耶?若爾何失?二俱有過。若所殺生正住死有,能殺生者業道即成,即能殺者與所殺生,俱時命終應成業道。然宗不許彼業道成。若所殺生命終以後,能殺生者業道方成,是則不應先作是說:隨此表業彼正命終。此剎那頃表無表業,是謂殺生根本業道。又應違害毘婆沙師釋本論中加行未息,謂本論說:頗有已害生殺生未滅耶?曰:有,如已斷生命彼加行未息。毘婆沙者釋此文言:此中於後起,以加行聲說。應言於根本說加行聲,許命終後根本未息故。如無有過此中應說。此中說何名為無過?謂於根本說加行聲。若爾,於時所有表業如何可成根本業道?何為不成?以無用故。無表於此有何用耶?故業道成非由有用,但由加行果圓滿時,此二俱成根本業道。又諸業道展轉相望,容有互為加行後起。今且應說殺生業道以十業道為起加行。
論に曰く:業道の加行は必ず表あり。この位において無表はあるいは有りあるいは無し。もし猛利な纏・淳淨の心を起せば無表あり、これに異なれば無し。後起は前に翻して、定めて無表あり。この位において表業はあるいは有りあるいは無し。いわゆるもし後の時に前の業に随って起れば表業あり、これに異なれば便ち無し。この義の中でどのように加行・根本・後起の位を建立するか。まず不善の中で最初の殺業、たとえば羊を屠る者がまさに殺を行ぜんとする時、先ず殺心を発して床より起ち、価値を執持して羊を売る廛に趣き、羊の身を捫触して価を酬いて捉取し、牽き還して養い飯え、まさに屠坊に入らんとし、手に杖刀を執りて或いは打ち或いは刺し、或いは一或いは再び、命未だ終らざるに至る。このようは皆殺生の加行と名づく。この表業に随って彼が正しく命終する、この刹那の頃の表・無表業、これを殺生の根本業道と謂う。二つの縁によって、諸の有情をして根本業道の殺罪に触れしむ:一は加行による、二は果満による。この刹那の後、殺の無表業は随転して絶えず、殺の後起と名づく。また後の時に剥截・治洗し、或いは称し或いは売り、或いは煮或いは食い、その美を讃述する表業の刹那、このようもまた殺生の後起と名づく。その余の六業道は随ってその応じた三分の不同あり、例に准じて説くべし。貪・瞋・邪見は纔かに現前するや、すなわち根本業道と名づくと説く。ゆえに加行・後起の差別なし。ここに説くべし。殺さるべき生が死有に住する時、殺しうる者の彼の刹那の頃の表・無表業はすなわち業道を成ずるか。死後か。もしそうならば何の失かある。二つとも過あり。もし殺さるべき生が正しく死有に住し、殺しうる者の業道がすなわち成ずれば、すなわち殺しうる者と殺さるべき生とが俱の時に命終して業道を成ずべし。しかし宗は彼の業道の成を許さない。もし殺さるべき生の命終以後に殺しうる者の業道が初めて成ずれば、これは先に作した説に該わない:「この表業に随って彼が正しく命終する、この刹那の頃の表・無表業、これを殺生の根本業道と謂う」と。まだ毘婆沙師が本論を釋するに「加行未だ息まず」と害すべし。本論に説く、頗る已に生を害して殺生未だ滅せざるありや。曰く、あり。已に生命を断ずるも彼の加行未だ息まざるがごとし、と。毘婆沙者はこの文を釋して曰く、ここに後起において加行の声を以て説く、と。根本において加行の声を説くとすべし。命終の後も根本未だ息まざるを許すがゆえである。もし過あるがごときはここに説くべし。この中で何を説いて無過と名づくか。いわゆる根本において加行の声を説く。もしそうならば、その時の所有の表業はどうして根本業道を成ずべきか。何の成ぜざるか。用なきがゆえである。無表はこれに何の用かある。業道の成ずるは用あるに由るにあらず。ただ加行の果の円満する時、この二つは俱に根本業道を成ずる。また諸の業は……
謂如有人慾害怨敵,設諸謀計合搆殺緣,或殺眾生祈請助力,或盜他物以資殺事,或婬彼婦令殺其夫,或為乖離彼親友故起語四過令生猜阻。設有勢力無救護心,或於彼財心生貪著,或即於彼起瞋恚心,或起邪見長養殺業然後方殺,如是名為以十業道為殺加行。殺怨敵已,復於後時誅其所親,收其財物婬彼所愛,乃至復起貪瞋邪見次第現前,此十名為殺生後起。所餘業道如應當知。貪等不應能為加行,非唯心起加行即成,唯起心時未作事故。又經中說:苾芻當知,殺有三種:一從貪生、二從瞋生、三從痴生。乃至邪見有三亦爾。此中應說:何相殺生?名從貪生。問餘亦爾。非諸業道一切皆由三根究竟,然其加行不與彼同。云何不同?頌曰:
(論は続けて曰く:)いわゆるたとえば人ありて怨敵を害せんと欲し、諸の謀計を設けて殺縁を合構し、或いは衆生を殺して助力を祈請し、或いは他物を盗みて以て殺事に資り、或いは彼の婦を淫してその夫を殺さしめ、或いは彼の親友を乖離せんがために語の四過を起して猜阻を生ぜしむ。勢力あるも救護の心なく、或いは彼の財に対して心に貪着を生じ、或いはすなわち彼に対して瞋恚の心を起し、或いは邪見を起して殺業を長養して然る後に殺す。このようは十業道を以て殺の加行と為すと名づく。怨敵を殺し已りて、また後の時にその親しきを誅し、その財物を収め、彼の愛するを淫し、乃至また貪・瞋・邪見を起して次第に現前せしむ。この十を殺生の後起と名づく。その余の業道は応じて知るべし。貪等は加行を為しうるに該わない。ただ心に起るだけでは加行すなわち成とはせず。ただ心を起す時は未だ事を作さざるがゆえである。また経の中に説く、苾芻は知るべし、殺には三種あり。一は貪より生じ、二は瞋より生じ、三は癡より生ず。乃至邪見にも三ありてもまたこのよう。ここに説くべし。どの相の殺生を貪より生ずと名づくか。問う、その余もまたこのよう。諸の業道は一切皆三根に由って究竟するにあらず、しかしその加行は彼と同じからず。どのように同じからざるか。頌に曰く、
加行三根起,彼無間生故,
加行は三根より起る。彼は無間に生ずるがゆえに、
貪等三根生。
貪等は三根より生ず。
論曰:不善業道加行生時,一一由三不善根起,依先等起故作是說。殺生加行由貪起者,如有為欲得彼身分、或為得財、或為戲樂、或為拔濟親友自身,從貪引起殺生加行。從瞋起者,如為除怨,發憤恚心起殺加行。從痴起者,如有祠中謂是法心起殺加行,又諸王等依世法律誅戮怨敵除剪兇徒,謂成大福起殺加行。又波剌私作如是說:父母老病,若令命終得免困苦便生勝福。又諸外道有作是言:蛇蠍蜂等為人毒害,若能殺者便生勝福。羊鹿水牛及餘禽獸,本擬供食故殺無罪。又因邪見殺害眾生,此等加行皆從痴起。偷盜加行從貪起者,謂隨所須起盜加行、或為別利恭敬名譽、或為救拔自身親友,從貪引起偷盜加行。從瞋起者,謂為除怨,發憤恚心起盜加行。從痴起者,謂諸王等依世法律奪惡人財,謂法應爾無偷盜罪。又婆羅門作如是說:世間財物於劫初時,大梵天王施諸梵志,於後梵志勢力微劣,為諸卑族侵奪受用。今諸梵志於世他財若奪若偷,充衣充食或充餘用或轉施他,皆用己財無偷盜罪。然彼取時有他物想,又因邪見盜他財物,皆名從痴起盜加行。邪婬加行從貪起者,謂於他妻等起染著心、或為求他財名位恭敬、或為救拔自身他身,從貪著心起婬加行。從瞋生者,謂為除怨,發憤恚心起婬加行。從痴生者,如波剌私讚於母等行非梵行。又諸梵志讚牛祠中有諸女男受持牛禁,吸水齧草或住或行,不簡親踈隨遇隨合。又諸外道作如是言:一切女人如臼花果熟食階隥道路橋船,世間眾人應共受用。此等加行從痴所生。虛誑語等語四業道從貪瞋生,類前應說。然虛誑語所有加行從痴生者,如外論言:
論に曰く:不善業道の加行の生ずる時、一一は皆三不善根に由って起る。先の等起に依ってこの説を作す。殺生の加行が貪より起るは、たとえばあるもの彼の身分を得んと欲し、或いは財を得んがため、或いは戯楽のため、或いは親友・自身を抜済せんがため、貪より引き起して殺生の加行を為す。瞋より起るは、たとえば怨を除かんがために憤恚の心を発して殺の加行を起す。癡より起るは、たとえば祠中にありて是れ法の心なるを謂いて殺の加行を起す。また諸の王等が世の法律に依って怨敵を誅戮し凶徒を除剪して、大福を成ずと謂いて殺の加行を起す。また波剌私(波斯)がこの説を作して曰く、父母が老病なれば、もし命終せしめば困苦を免れて勝福を生ぜん、と。また諸の外道にこの説を作す者ありて曰く、蛇・蝎・蜂等は人の毒害を為す、もし殺しうれば便ち勝福を生ぜん、と。羊・鹿・水牛およびその余の禽獣は、本より供食に擬するがゆえに殺して罪なし、と。また邪見に因って衆生を殺害する、これらの加行は皆癡より起る。偸盗の加行が貪より起るは、いわゆる随うところの須に応じて盗の加行を起し、或いは別利・恭敬・名誉のため、或いは自身・親友を救抜せんがため、貪より引き起して偸盗の加行を為す。瞋より起るは、いわゆる怨を除かんがために憤恚の心を発して盗の加行を起す。癡より起るは、いわゆる諸の王等が世の法律に依って悪人の財を奪い、法は応に斯くのごとくにして偸盗の罪なしと謂う。また婆羅門がこの説を作して曰く、世間の財物は劫初の時に大梵天王が諸の梵志に施したまいし、後に梵志の勢力微劣にして諸の卑族のために侵奪され受用せられたり。今の諸の梵志が世の他財を或いは奪い或いは偸み、衣に充て食に充て或いはその余の用に充て或いは転て他に施すも、皆己の財を用うるにして偸盗の罪なし、と。しかし彼の取る時に他物の想あり。また邪見に因って他の財物を盗むも、皆癡より起る盗の加行と名づく。邪淫の加行が貪より起るは、いわゆる他の妻等に対して染着の心を起し、或いは他の財・名位・恭敬を求めんがため、或いは自身・他身を救抜せんがため、貪着の心より淫の加行を起す。瞋より生ずるは、いわゆる怨を除かんがために憤恚の心を発して淫の加行を起す。癡より生ずるは、波剌私が母等に対して非梵行を行ずるを讃ずるがごとし。また諸の梵志が牛祠中に諸の女男ありて牛禁を受持し、水を吸い草を啮み或いは住し或いは行き、親疎を簡ばず随遇隨合するを讃ず。また諸の外道がこの説を作して曰く、一切の女人は臼・花・果・熟食・階磴・道路・橋・船のごとく、世間の衆人は応に共に受用すべし、と。これらの加行は癡の生ずるところ。虚誑語等の語の四業道は貪・瞋より生ず、前に類して説くべし。しかし虚誑語の所有の加行が癡より生ずるは、外論に説くがごとし:
若人因戲笑,嫁娶對女王,
もし人ありて戯笑により、嫁娶に女王に対い、
及救命救財,虛誑語無罪。
および命を救い財を救うに、虚誑語は罪なし。
又因邪見起虛誑語、離間語等所有加行,當知一切從痴所生。又諸吠陀及餘邪論,皆雜穢語攝,加行從痴生。貪瞋等三既無加行,如何可說從貪等生?以從三根無間生故,可說貪等從三根生。謂或有時從貪無間生貪業道,從二亦然。瞋及邪見從三亦爾。已說不善從三根生。善復云何?頌曰:
また邪見に因って虚誑語・離間語等の所有の加行を起すは、知るべし、一切皆癡の生ずるところ。また諸の吠陀およびその余の邪論は皆雑穢語の摂、その加行は癡より生ず。貪・瞋等の三はすでに加行なきに、どうして貪等より生ずと説きうるか。三根より無間に生ずるがゆえに、貪等は三根より生ずと説きうる。いわゆる或いは時ありて貪より無間に貪の業道を生じ、二よりもまたこのよう。瞋および邪見は三よりもまたこのよう。已に不善が三根より生ずるを説いた。善はまたいかなるか。頌に曰く、
善於三位中,皆三善根起。
善は三位の中で、皆三善根より起る。
論曰:諸善業道所有加行根本後起,皆從無貪無瞋無痴善根所起,以善三位皆是善心所等起故、善心必與三種善根共相應故。此善三位其相云何?謂遠離前不善三位離惡加行即善加行,離惡根本即善根本,離惡後起即善後起。且如勤策受具戒時,來入戒壇禮苾芻眾,至誠發語請親教師,乃至一白二羯磨等,皆名為善業道加行。第三羯磨竟一剎那中,表無表業名根本業道。從此以後至說四依,及餘依前相續隨轉表無表業,皆名後起。如先所說,非諸業道一切皆由三根究竟,何根究竟何業道耶?頌曰:
論に曰く:諸の善業道の所有の加行・根本・後起は、皆無貪・無瞋・無癡の善根の起すところより生ず。善の三位は皆善心所の等起するがゆえ、善心は必ず三種の善根と共に相応するがゆえである。この善の三位、その相はいかなるか。いわゆる前の不善の三位を離るるを。悪の加行を離るればすなわち善の加行、悪の根本を離るればすなわち善の根本、悪の後起を離るればすなわち善の後起。たとえば勤策が具戒を受くる時、戒壇に来入りて苾芻衆を礼し、至誠に語を発して親教師を請い、乃至一白・二羯磨等は皆善業道の加行と名づく。第三羯磨竟る一刹那の中に、表・無表業は根本業道と名づく。此より後、四依を説くに至り、およびその余の前に依って相続随転する表・無表業は皆後起と名づく。先に説いたがごとく、諸の業道は一切皆三根に由って究竟するにあらず。どの根が究竟しどの業道か。頌に曰く、
殺麁語瞋恚,究竟皆由瞋,
殺・麁語・瞋恚は、究竟は皆瞋に由り、
盜邪行及貪,皆由貪究竟,
盗・邪行および貪は、皆貪に由って究竟し、
邪見痴究竟,許所餘由三。
邪見は癡に究竟す。その余は三に由ると許す。
論曰:惡業道中殺生、麁語、瞋恚業道,由瞋究竟,要無所顧極麁惡心現在前時此三成故。諸不與取、欲邪行、貪,此三業道由貪究竟,要有所顧極染汙心現在前時此三成故。邪見究竟要由愚痴,由上品痴現前成故。虛誑、離間、雜穢語三,許一一由三根究竟,以貪瞋等現在前時一一能令此三成故。諸惡業道何處起耶?頌曰:
論に曰く:悪業道の中で殺生・麁語・瞋恚の業道は瞋に由って究竟す。要するに顧るところなき極麁悪の心の現前する時にこの三は成ずるがゆえである。諸の不與取・欲邪行・貪、この三業道は貪に由って究竟す。要するに顧るところある極染污の心の現前する時にこの三は成ずるがゆえである。邪見の究竟は要するに愚癡に由る。上品の癡が現前して成ずるがゆえである。虚誑・離間・雑穢語の三は、一一が三根に由って究竟すと許す。貪・瞋等の現前する時、一一がこの三を成ぜしめうるがゆえである。諸の悪業道はどの処に起るか。頌に曰く、
有情具名色,名身等處起。
有情・具・名色・名身等の処に起る。
論曰:如前所說四節業道,三三一三隨其次第於有情等四處而生。謂殺等三有情處起,偷盜等三眾具處起,唯邪見一名色處起,虛誑語等三名身等處起。有起加行定欲殺他,而與所殺生俱死或前死,亦得根本業道罪耶?頌曰:
論に曰く:前に説いた四節の業道のごとく、三・三・一・三がその次第に随って有情等の四処に生ず。いわゆる殺等の三は有情処に起り、偸盗等の三は衆具処に起り、ただ邪見の一は名色処に起り、虚誑語等の三は名身等の処に起る。もし起して加行して定めて他を殺さんと欲するも、殺さるべき生と俱に死す或いは前に死すれば、根本業道の罪を得るか。頌に曰く、
俱死及前死,無根依別故。
俱死および前死は、根なし。別の依あるがゆえに。
論曰:若能殺者與所殺生俱時命終、或在前死,彼定不得根本業道。故有問言:頗有殺者起殺加行及令果滿,而彼不為殺罪觸耶?曰:有。云何?謂能殺者與所殺生俱死、前死。何緣如是?以所殺生其命猶存,不可令彼能殺生者成殺罪故。非能殺者其命已終可得殺罪,別依生故。謂殺加行所依止身今已斷滅,雖有別類身同分生,非罪依止。此曾未起殺生加行,成殺業道理不應然。若有多人集為軍眾欲殺怨敵、或獵獸等,於中隨有一殺生時,何人得成殺生業道?頌曰:
論に曰く:もし殺しうる者と殺さるべき生とが俱の時に命終し、或いは前に死すれば、彼は定めて根本業道を得ず。このゆえに問いて説く、頗る殺者ありて殺の加行を起しおよび果を満ぜしむるも、彼は殺罪に触れざるか。曰く、あり。いかなるか。いわゆる殺しうる者と殺さるべき生とが俱に死し前に死す。どの縁によってこのようか。殺さるべき生、その命なお存して、彼の殺しうる者をして殺罪を成ぜしむべからざるがゆえである。殺しうる者、その命已に終らば殺罪を得べからず。別の依に生ずるがゆえである。いわゆる殺の加行の依止する身は今已に断滅し、別類の身同分の生ありと雖も、罪の依止にあらず。これ曽て殺生の加行を起さざれば、殺業道の理は応に斯くのごとからず。もし多人ありて集りて軍衆と為して怨敵を殺さんと欲し、或いは獣等を猟すれば、その中に随って一ありて生を殺する時、何人が殺生業道を成ずるを得るか。頌に曰く、
軍等若同事,皆成如作者。
軍等もし事を同じくせば、皆成ず。作者のごとく。
論曰:於軍等中若隨有一作殺生事,如自作者,一切皆成殺生業道,由彼同許為一事故。如為一事展轉相教,故一殺生餘皆得罪。若有他力逼入此中,因即同心亦成殺罪。唯除若有立誓自要救自命緣亦不行殺,雖由他力逼在此中,而無殺心故無殺罪。今次應辯成業道相。謂齊何量名曰殺生?乃至齊何名為邪見?且先分別殺生相者,頌曰:
論に曰く:軍等の中でもし随って一ありて殺生の事を作せば、自ら作するがごとく、一切皆殺生業道を成ず。彼が同じく許して一事と為すがゆえである。一事と為して展転に相教うがゆえに、一が生を殺せばその余皆罪を得る。もし他力ありて逼してこの中に入るも、因すなわち心を同じくしてもまた殺罪を成ず。ただ除く、もし誓を立て自ら要して自命を救うの縁にもまた殺を行ぜざる者は、他力に由ってこの中に逼せらると雖も、殺心なきがゆえに殺罪なし。今次に業道を成ずるの相を辯ずべし。いわゆる何の量を斎して殺生と名づけるか。乃至何を斎して邪見と名づくか。まず殺生の相を分別するに、頌に曰く、
殺生由故思,他想不誤殺。
殺生は故思に由り、他想にて誤らずして殺す。
論曰:要由先發欲殺故思,於他有情他有情想,作殺加行不誤而殺。謂唯殺彼不漫殺餘,齊此名為殺生業道。有猶豫殺亦成殺生,謂彼先於所欲殺境心懷猶豫為生非生?設復是生為彼非彼?後起決志,若是若非我定當殺。由心無顧,若殺有情亦成業道。於剎那滅蘊,如何成殺生?息風名生,依身心轉,若有令斷不更續生,如滅燈光、鈴聲名殺。或復生者即是命根,若有令斷不續名殺。謂以惡心隔斷他命,乃至一念應生不生,唯此非餘,殺罪所觸。此所斷命為屬於誰?謂命若無彼便死者,既標第六,非我而誰?破我論中當廣思擇。故薄伽梵所說頌言:
論に曰く:要するに先に殺さんと欲する故思を発し、他の有情に於いて他の有情の想を為し、殺の加行を作して誤らずして殺す。いわゆるただ彼を殺して漫然にその余を殺さざるは、これを斎して殺生業道と名づく。猶豫の殺ありてもまた殺生を成ず。いわゆる彼が先ず殺さんと欲する境に於いて心に猶豫を懐き、生か非生か、設い復た是れ生なりとも彼か彼にあらざるかとし、後に決志を起して、是なりとも非なりとも我は定めて当に殺すべしとす。心に顧みるなきに由って、もし有情を殺せばもまた業道を成ず。刹那滅の蘊に於いて、どうして殺生を成すか。息風を生と名づく。身・心に依って転ず。もし断ぜしめて更に続けて生ぜざれば、灯光・鈴声を滅するがごときを殺と名づく。或いは復た生とはすなわち命根、もし断ぜしめて続がざれば殺と名づく。いわゆる悪心を以て他の命を隔断し、乃至一念に生ずべきを生ぜしめざるは、ただこれにあってその余にあらざるが殺罪の触れるところ。この断ぜらるる命は誰に属するか。いわゆる命なきならば彼は便ち死するを。すでに第六を標すれば、我にあらずして誰か。破我論の中に当に広く思択すべし。薄伽梵の説きたまえる頌に曰く、
壽煖及與識,三法捨身時,
寿・暖および識、三法が身を捨つる時、
所捨身僵仆,如木無思覺。
捨てられたる身は僵仆し、木のごとく思覚なし。
故有根身名有命者,無根名死其理決然。離繫者言,不思而殺亦得殺罪。猶如觸火,設不先思亦被燒害。若爾汝等遇見他妻,或誤觸身亦應有罪。又善心者拔離繫髮,或師慈心勸修苦行,或因施主宿食不消,此等皆應獲苦他罪。又胎與母互為苦因,應母與胎有苦他罪。又所殺者既與殺合,亦應如火能燒自依,不應但令能殺得罪。又遣他殺,殺罪應無,如火不燒教觸火者。又諸木等應為罪觸,如舍等崩亦害生故。又非但喻,立義可成。已分別殺生。當辯不與取。頌曰:
(論は続けて曰く:)このゆえに根ある身を有命と名づけ、根なきを死と名づく。その理は决然たり。離系者の説に、思わずして殺すも殺罪を得、と。たとえば火に触るるがごとし。設い先に思わざるも被て焼害せらる。もしそうならば、なんじら他の妻に遇い或いは誤って身に触るるも罪あるべし。また善心の者が離系の髪を拔き、或いは師が慈心に苦行を修せんを勧め、或いは施主に因って宿食消えざる等は、皆苦他の罪を獲すべし。また胎と母と互いに苦因と為る。応に母と胎と苦他の罪あるべし。また殺さるる者はすでに殺と合すれば、もまた火のごとく自依を焼きうるべく、ただ殺しうる者をして罪を得しむるのみならざるべし。また他を遣わして殺せば殺罪は無かるべし。火は教えて火に触れしむる者を焼かざるがごとし。また諸の木等は罪に触れるべし。舎等の崩れてもまた生を害するがゆえに。また但し喩のみにあらず、義を立てて成すべし。已に殺生を分別したり。当に不與取を辯すべし。頌に曰く、
不與取他物,力竊取屬己。
不與取とは他の物、力に或いは窃み取りて己に属せしむ。
論曰:前不誤等如其所應,流至後門故不重說。謂要先發欲盜故思,於他物中起他物想,或力或竊起盜加行,不誤而取令屬己身,齊此名為不與取罪。若有盜取窣堵波物,彼於如來得偷盜罪,以佛臨欲入涅槃時,哀愍世間總受所施。有餘師說:望守護者。若有掘取無主伏藏,於國主邊得偷盜罪。若有盜取諸迴轉物,已作羯磨於界內僧、若羯磨未成,普於佛弟子得偷盜罪。餘例應思。已辯不與取。當辯欲邪行。頌曰:
論に曰く:前の不誤等はその応ずるがごとく、後門に流るるがゆえに重ねて説かず。いわゆる要ずるに先に盗まんと欲する故思を発し、他の物の中に於いて他の物の想を起し、或いは力或いは窃みて盗の加行を起し、誤らずして取りて己の身に属せしむるを、これを斎して不與取の罪と名づく。もし窣堵波(塔)の物を盗取する者あれば、彼は如来に於いて偸盗の罪を得る。仏がまさに涅槃に入らんと欲する時、世間を哀愍して総て施せらるるを受けたまえばなり。その余の師の説に、守護者を望む、と。もし主なき伏蔵を掘取すれば、国主の辺に於いて偸盗の罪を得る。もし諸の回転物を盗取し、已に羯磨を作して界内の僧に於いて、或いは羯磨未だ成らざれば、普く仏弟子に於いて偸盗の罪を得る。その余は例して思うべし。已に不與取を辯したり。当に欲邪行を辯すべし。頌に曰く、
欲邪行四種,行所不應行。
欲邪行は四種。行ずべからざるを行ずればなり。
論曰:總有四種行不應行,皆得名為欲邪行罪:一於非境行不應行,謂行於他所攝妻妾或母或父或父母親乃至或王所守護境。二於非道行不應行,謂於自妻口及餘道。三於非處行不應行,謂於寺中制多逈處。四於非時行不應行。非時者何?謂懷胎時、飲兒乳時、受齋戒時。設自妻妾亦犯邪行。有說:若夫許受齋戒而有所犯方謂非時。既不誤言,亦流至此。若於他婦謂是己妻,或於己妻謂為他婦,道非道等但有誤心,雖有所行而非業道。若於此他婦作餘他婦想,行非梵行成業道耶?有說亦成,以於他婦起婬加行及受用故。有說不成,如殺業道於此起加行,於餘究竟故。於苾芻尼行非梵行,為從何處得業道耶?此從國王不忍許故。於自妻妾受齋戒時尚不應行,況出家者。若於童女行非梵行,為從何處得業道耶?若已許他,於所許處;未許他者,於能護人;此及所餘,皆於王得。已辯欲邪行。當辯虛誑語。頌曰:
論に曰く:総じて四種の行ずべからざるを行ずるは、皆欲邪行の罪と名づくるを得。一は非境に於いて行ずべからざるを行ず。いわゆる他の摂する所の妻妾、或いは母或いは父或いは父母の親、乃至或いは王の守護する境に行ず。二は非道に於いて行ずべからざるを行ず。いわゆる自らの妻の口およびその余の道に於いて。三は非処に於いて行ずべからざるを行ず。いわゆる寺中・制多・迥処に於いて。四は非時に於いて行ずべからざるを行ず。非時とは何か。いわゆる怀胎の時・児に乳を飲ましむる時・斎戒を受くる時。設い自らの妻妾なりとも邪行を犯す。ある説に、もし夫が斎戒を受くるを許して犯すところあれば初めて非時と謂う、と。すでに誤らずの言はまたここに流る。もし他の婦に於いて是れ己の妻と謂い、或いは己の妻に於いて他の婦と為す等、但し誤心あらば、行ずるところありと雖も業道にあらず。もしこの他の婦に於いてその余の他婦の想を作して非梵行を行ずれば業道を成ずるか。ある説にもまた成ずと。他の婦に於いて淫の加行および受用を起すを以てなり。ある説に成ぜずと。殺業道がこれに於いて加行を起してその余に於いて究竟するがごときがゆえに。苾芻尼に於いて非梵行を行ずれば、どの処より業道を得るか。これは国王の忍許せざるがゆえに。自らの妻妾に於いて斎戒を受くる時もなお行ずべからざるに、況んや出家の者をや。もし童女に於いて非梵行を行ずれば、どの処より業道を得るか。もし已に他に許さば許すところの処に於いて、未だ他に許さざれば護りうる人に於いて。これおよびその余は皆王に於いて得。已に欲邪行を辯したり。当に虚誑語を辯すべし。頌に曰く、
染異想發言,解義虛誑語。
染して異想に言を発し、義を解せしめば虚誑語。
論曰:於所說義異想發言,及所誑者解所說義,染心不誤成虛誑語。若所誑者未解言義,此言是何?是雜穢語。既虛誑語是所發言,有多字成言,何時成業道?與最後字俱生表聲及無表業成此業道。或隨何時所誑解義,表無表業成此業道。前字俱行皆此加行,所言解義定據何時?為據已聞正解名解?為據正聞能解名解?若爾何失?若據已聞正解名解,言所詮義意識所知,語表耳識俱時滅故,應此業道唯無表成。若據正聞能解名解,雖無有失然未了知,如何正聞可名能解?善言義者無迷亂緣,耳識已生名為能解,如無失者應取為宗。經說諸言略有十六,謂於不見不聞不覺不知事中言實見等,或於所見所聞所覺所知事中言不見等,如是八種名非聖言。若於不見乃至不知言不見等,或於所見乃至所知言實見等,如是八種名為聖言。何等名為所見等相?頌曰:
論に曰く:説かんとする義に於いて異想に言を発し、および誑かさるべき者が説かるる義を解し、染心に誤らざれば虚誑語を成ず。もし誑かさるべき者が未だ言義を解せざれば、この言は何ぞ。是れ雑穢語。すでに虚誑語は発せらるる言にして、多字ありて言を成す。いつの時に業道を成ずか。最後の字と俱に生ずる表声および無表業がこの業道を成ず。或いは随って誑かすところが義を解する時に、表・無表業がこの業道を成ず。前の字の俱行は皆これ加行なり。言うところの義を解するは定めて何の時に拠るか。已に聞きて正解するを解と名づけるに拠るか。正に聞きて能く解するを解と名づけるに拠るか。もしそうならば何の失かある。もし已に聞きて正解を解と名づくるに拠らば、言の詮ずる義は意識の知るところ、語の表は耳識と俱の時に滅するがゆえに、応にこの業道はただ無表を以て成ずべし。もし正に聞きて能く解するを解と名づくるに拠らば、失あることなきと雖も、しかし未だ了知せず、どうして正聞を能解と名づけうるか。言義に善き者は迷乱の縁なきに、耳識已に生ぜれば能解と名づく。失なきがごときを取って宗と為すべし。経に説く、諸の言は略して十六あり。いわゆる見ず聞かず覚らず知らざる事に於いて実に見たり等と言い、或いは見たり聞いたり覚たり知ったりする事に於いて見ざり等と言う。このような八種を非聖言と名づく。もし見ざる乃至知らざるに於いて見ざり等と言い、或いは見たり乃至知ったりするに於いて実に見たり等と言えば、このような八種を聖言と名づく。何等を見等の相と名づくるか。頌に曰く、
