Libo

説一切有部倶舎論 巻第十五

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第21巻 / 38

染業不應作,有說亦壞軌,

染業は応に作すべからず。ある説にもまた軌を壊る。

應作業翻此,俱相違第三。

応作業はこれを翻す。俱に相違するが第三。

論曰:有說染業名不應作,以從非理作意所生。有餘師言:諸壞軌則身語意業亦不應作,謂諸所有應如是行、應如是住、應如是說、應如是著衣、應如是食等,若不如是名不應作,由彼不合世俗禮儀;與此相翻名應作業。有說善業名為應作,以從如理作意所生。有餘師言:諸合軌則身語意業亦名應作,俱違前二名為第三,隨其所應二說差別。為由一業但引一生、為引多生?又為一生但一業引、為多業引?頌曰:

論に曰く:ある説に染業を不応作と名づく。非理の作意より生ずるを以て。あるその余の師の説に、諸の軌則を壊る身・語・意の業もまた応に作すべからず。いわゆる諸の所有の応に斯く行ずべし、応に斯く住すべし、応に斯く説くべし、応に斯く衣を着すべし、応に斯く食すべし等、もしこのようにならざれば不応作と名づく。彼が世俗の礼儀に合せざるに由る。これと相翻するを応作業と名づく。ある説に善業を応作と名づく。如理の作意より生ずるを以て。あるその余の師の説に、諸の軌則に合する身・語・意の業もまた応作と名づく。前の二に俱に違するを第三と名づく。随うところに応じて二説の差別あり。一業に由って但だ一生を引くか、多くの生を引くか。また一生には但だ一業の引くか、多くの業の引くか。頌に曰く、

一業引一生,多業能圓滿。

一業は一生を引き、多業は能く円満す。

論曰:依我所宗應作是說:但由一業唯引一生,此一生言顯一同分,以得同分方說名生。若爾,何緣尊者無滅自言:我憶昔於一時於殊勝福田一施食異熟,便得七返生三十三天,七生人中為轉輪聖帝,最後生在大釋迦家豐足珍財多受快樂。彼由一業感一生中大貴多財及宿生智,乘斯更造感餘生福,如是展轉至最後身生富貴家得究竟果,顯由初力故作是言。譬如有人持金錢一,展轉貿易得千金錢。唱如是言:我本由有一金錢故獲大富樂。復有說者:彼於昔時一施食為依,起多勝思願,有感天上、有感人中,剎那不同熟有先後,故非一業能引多生,亦無一生多業所引。勿眾同分分分差別。雖但一業引一同分,而彼圓滿許由多業。譬如畫師先以一色圖其形狀後填眾彩。是故雖有同稟人身,而於其中有具支體諸根形量色力莊嚴,或有於前多缺減者,非唯業力能引滿生。一切不善善有漏法有異熟故皆容引滿,以業勝故但標業名。然於其中業俱有者能引能滿,隨業勝故。若不與業為俱有者,能滿非引,勢力劣故。如是二類其體是何?頌曰:

論に曰く:我が宗に依って応にこの説を作すべし。但だ一業に由ってただ一生を引く。この一生の言は一同分を顕す。同分を得て乃ち生と説くを以て。もしそうならば、どの縁によって尊者無滅は自ら説く:我は昔に於いて一時に殊勝の福田に於いて一の施食の異熟に、便ち七返して三十三天に生じ、七たび人の中に生じて転輪聖帝と為り、最後に大釈迦家に生じて珍財豊足にして多く快楽を受く、と。彼は一業に由って一生の中の大貴・多財および宿生の智を感じ、このに乗じて更にその余生を感ずる福を造り、このように展転して最後の身に富貴の家に生じて究竟の果を得たり。初の力に由るを顕すがゆえにこの言を作す。たとえば人ありて一金銭を持ちて、展転に貿易して千金銭を得。この言を唱えて曰く、我本より一金銭あるに由って大富楽を獲たり、と。復た説く有り:彼は昔時に於いて一の施食を依と為して多くの勝思願を起し、天上に感ずるあり、人の中に感ずるあり。刹那同じからずして熟に先後あり。ゆえに一業は能く多くの生を引くにあらず、もまた一生も多業の引く所にあらず。衆同分の分々に差別あることなかれ。但だ一業は一同分を引くと雖も、しかし彼の円満は多業に由るを許す。たとえば画師が先ず一色を以てその形状を図り、後に衆彩を填むがごとし。このゆえに同じく人身を禀くると雖も、その中に於いて或いは支体・諸根・形量・色力・荘厳を具え、或いは前に於いて多く缺減するあるは、ただ业力の能く生を引き満たすのみにあらず。一切の不善・善の有漏法は異熟あるがゆえに皆引き満たすを容る。業勝るるを以て但だ業名を標す。しかしその中に於いて業と俱有のものは能く引き能く満たす。業勝るる所に随うがゆえに。もし業と俱有と為さざるは、能く満たし引くにあらず。勢力劣なるがゆえに。このようの二類、その体は何ぞ。頌に曰く、

二無心定得,不能引餘通。

二の無心定と得とは、能くその余を引かず。通ず。

論曰:二無心定雖有異熟,而無勢力引眾同分,以與諸業非俱有故。得亦無力引眾同分,以與諸業非一果故。所餘一切皆通引滿。薄伽梵說:重障有三,謂業障、煩惱障、異熟障。如是三障其體是何?頌曰:

論に曰く:二の無心定は異熟あると雖も、しかし衆同分を引く勢力なし。諸の業と俱有にあらざるを以て。得もまた衆同分を引く力なし。諸の業と一果にあらざるを以て。その余の一切は皆引・満に通ず。薄伽梵は説きたまう:重障に三あり。いわゆる業障・煩悩障・異熟障。このようの三障、その体は何ぞ。頌に曰く、

三障無間業,及數行煩惱,

三障は無間業、および数行の煩悩、

並一切惡趣,北洲無想天。

ならびに一切の悪趣、北洲・無想天。

論曰:言無間業者,謂五無間業。其五者何?一者害母、二者害父、三者害阿羅漢、四者破和合僧、五者惡心出佛身血。如是五種名為業障。煩惱有二:一者數行,謂恆起煩惱。二者猛利,謂上品煩惱。應知此中唯數行者名煩惱障。如扇搋等,煩惱數行難可伏除,故說為障。上品煩惱雖復猛利,非恆起故易可伏除。於下品中數行煩惱雖非猛利而難伏除,由彼恆行難得便故。謂從下品為緣生中,中品為緣復生上品,令伏除道無便得生。故煩惱中隨品上下,但數行者名煩惱障。全三惡趣、人趣、北洲及無想天名異熟障。此障何法?謂障聖道及障聖道加行善根。又業障中理亦應說餘決定業,謂餘一切定感惡趣卵生濕生及女人身第八有等。然若有業,由五因緣易見易知,此中偏說,謂處、趣、生、果及補特伽羅。於諸業中唯五無間,具此五種易見易知,餘業不然故此不說。餘障廢立如應當知。此三障中煩惱與業二障皆重,以有此者第二生內亦不可治。毘婆沙師作如是釋:由前能引後,故後輕於前。此無間名為目何義?約異熟果決定更無餘業餘生能為間隔,故此唯目無間隔義。或造此業補特伽羅,從此命終定墮地獄中無間隔,故名無間。彼有無間,得無間名。與無間法合故名無間,如與沙門合故名沙門。三障應知何趣中有?頌曰:

論に曰く:無間業と言うは、いわゆる五無間業。その五とは何か。一は母を害し、二は父を害し、三は阿羅漢を害し、四は和合僧を破り、五は悪心にて仏身より血を出す。このようの五種を業障と名障と名づく。煩悩に二あり。一は数行、いわゆる恒に起る煩悩。二は猛利、いわゆる上品の煩悩。応に知るべし、この中に於いてただ数行のを煩悩障と名づく。扇搋等のごとく、煩悩の数行は伏除し難し。ゆえに障と説く。上品の煩悩は復た猛利なると雖も、恒に起るにあらざるがゆえに伏除し易し。下品の中に於いて数行の煩悩は猛利にあらざると雖も、しかし伏除し難し。彼が恒に行ぜられて便を得難きに由る。いわゆる下品より縁に中品を生じ、中品を縁に復た上品を生ぜしめ、伏除の道をして便を得て生ぜしめざるならしむ。ゆえに煩悩の中に於いて品の上下に随うも、但だ数行のを煩悩障と名づく。全の三悪趣、人趣の北洲および無想天を異熟障と名づく。この障は何の法を障るか。いわゆる聖道および聖道の加行の善根を障る。また業障の中に理は応にもまたその余の決定の業を説くべし。いわゆるその余の一切の定めて悪趣・卵生・湿生および女人の身・第八有等を感ずるを。しかしもし業ありて、五つの因縁に由って見易く知り易きは、ここに偏えて説く。いわゆる処・趣・生・果および補特伽羅。諸業の中に於いてただ五無間のみ、具にこの五種の見易く知り易きを有す。その余の業はこのようにはあらざるがゆえにここに説かず。その余の障の廃立は応じて知るべし。この三障の中、煩悩と業との二障は皆重し。これあるの第二の生の内に於いてもまた治すべからざるを以て。毘婆沙師はこの釋を作して曰く、前は能く後を引くがゆえに、後は前に輕し、と。この無間の名は何の義を目するか。異熟果の決定に於いて更にその余の業・その余の生の間隔を為しうることなきに約す。ゆえにこれはただ間隔なきの義を目す。或いはこの業を造る補特伽羅は、此より命終して定めて地獄の中に堕ちて間隔なし。ゆえに無間と名づく。彼は無間ありて無間の名を得。無間の法と合するがゆえに無間と名づく。沙門と合するがゆえに沙門と名づくるがごとし。三障は応に知るべし、どの趣の中に有るか。頌に曰く、

三洲有無間,非餘扇搋等,

三洲に無間あり。扇搋等はなし。

少恩少羞恥,餘障通五趣。

恩少なく羞恥少なし。その余の障は五趣に通ず。

論曰:且無間業唯人三洲,非北俱盧餘趣餘界。於三洲內,唯女及男造無間業,非扇搋等。所以者何?即前所說彼無斷善不律儀因,即是此中無逆所以。又彼父母及彼己身,如次少恩少羞恥故。謂彼父母於彼少恩,為彼缺身增上緣故、又由於彼少愛念故。彼於父母慚愧心微,以無現前增上慚愧可言壞故觸無間罪。由此已釋,鬼及傍生雖害母等而非無間。然大德說:若覺分明亦成無間,如聰慧馬。若有人害非人父母不成逆罪,心境劣故。已辯業障唯人三洲,餘障應知五趣皆有。然於人趣唯北俱盧,在天趣中唯無想處。

論に曰く:且つ無間業はただ人三洲。北俱盧のその余の趣・その余の界にあらず。三洲の内に於いて、ただ女および男は無間業を造る。扇搋等はあらず。そもそもどうしてか。すなわち前に説いた彼は断善・不律儀の因なきを、すなわちこの中に逆なきがゆえに。また彼の父母および彼の己身は、次第のごとく恩少なく羞恥少なきがゆえに。いわゆる彼の父母は彼に於いて恩少なし。彼の身に缺たる増上縁を為すがゆえ、また彼に於いて愛念少なきがゆえに。彼は父母に於いて慚愧の心微なり。現前の増上の慚愧の言うべき壊るる所なきを以て無間の罪に触る。これに由って已に釋したり、鬼および傍生は母等を害すと雖も無間にあらず、と。しかし大徳は説く:もし覚分明ならばもまた無間を成ず。聡慧の馬のごとし、と。もし人有りて人にあらざる父母を害せば逆罪を成ぜず。心境劣れるがゆえに。已に業障はただ人三洲なるを辯したり。その余の障は応に知るべし、五趣皆あり。しかし人趣に於いてはただ北俱盧、天趣の中に於いてはただ無想の処。

説一切有部倶舎論 巻第十七

アビダルマ倶舎論 巻第十八 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別業品第四之六

分別業品 第四之六

於前所辯三重障中,說五無間為業障體。五無間業其體是何?頌曰:

前に辯ぜし三重障の中に於いて、五無間を説いて業障の体と為す。五無間業、その体は何ぞ。頌に曰く、

此五無間中,四身一語業,

この五無間の中、四は身業一は語業、

三殺一誑語,一殺生加行。

三は殺一は誑語、一は殺生の加行。

論曰:五無間中四是身業、一是語業、三是殺生、一虛誑語根本業道、一是殺生業道加行,以如來身不可害故。破僧無間是虛誑語。既是虛誑語,何緣名破僧?因受果名,或能破故。若爾,僧破其體是何?能所破人誰所成就?頌曰:

論に曰く:五無間の中、四は身業、一は語業、三は殺生、一は虚誑語の根本業道、一は殺生業道の加行。如来の身は害すべからざるがゆえに。僧を破る無間は虚誑語。すでに虚誑語なり、どの縁によって破僧と名づくか。果を受けて名を因とす、或いは能く破るがゆえに。もしそうならば、僧破その体は何ぞ。能破・所破の人は誰の成就する所か。頌に曰く、

僧破不和合,心不相應行,

僧破は不和合、心不相応の行、

無覆無記性,所破僧所成。

無覆無記の性、破らるる所の僧の成ずる所。

論曰:僧破體是不和合性,無覆無記心不相應行蘊所攝,豈成無間?如是僧破因誑語生,故說破僧是無間果。非能破者成此僧破,但是所破僧眾所成。此能破人何所成就?破僧異熟何處幾時?頌曰:

論に曰く:僧破の体は不和合の性にして、無覆無記の心不相応行蘊の摂する所。豈に無間を成さんや。このような僧破は誑語に因って生ず。ゆえに僧を破るは無間の果と説く。能く破る者がこの僧破を成ずるにあらず、但だ破らるる所の僧衆の成ずる所。この能破の人は何の成就する所か。僧を破る異熟はどの処に於いて幾時か。頌に曰く、

能破者唯成,此虛誑語罪,

能破の者はただこの虚誑語の罪を成じ、

無間一劫熟,隨罪增苦增。

無間に一劫に熟し、罪増すに随って苦増す。

論曰:能破僧人成破僧罪,此破僧罪誑語為性,即僧破俱生語表無表業,此必無間大地獄中經一中劫受極重苦。餘逆不必生於無間,若作多逆罪皆於次生熟,如何多逆同感一生?隨彼罪增苦還增劇,謂由多逆感地獄中大柔軟身多猛苦具,受二三四五倍重苦。誰於何處能破於誰?破在何時?經幾時破?頌曰:

論に曰く:能く僧を破る人は破僧の罪を成ず。この破僧の罪は誑語を性と為す。すなわち僧破と俱に生ずる語の表・無表業。これは必ず無間の大地獄の中に於いて一中劫を経て極重の苦を受く。その余の逆は必ずしも無間に生ぜず。もし多くの逆罪を作せば皆次生に於いて熟す。どうして多くの逆が同じく一生を感ずるか。彼の罪の増すに随って苦も還って増劇す。いわゆる多くの逆に由って地獄の中の大柔軟の身・多くの猛苦の具を感じ、二・三・四・五倍の重苦を受く。誰がどの処に於いて誰を破りうるか。破るはどの時に在るか。幾時を経て破るか。頌に曰く、

苾芻見淨行,破異處愚夫,

苾芻・見・浄行にて、異処の愚夫を破り、

忍異師道時,名破不經宿。

異師・異道を忍する時、破と名づく。宿を経ず。

論曰:能破僧者要大苾芻,必非在家、苾芻尼等。唯見行者,非愛行人。住淨行人,非犯戒者,以犯戒者言無威故。要異處破,非對大師,以諸如來不可輕逼,言詞威肅對必無能。唯破異生非破聖者,以諸聖者證法性故。有說:得忍亦不可破。為含二義說愚夫言,要所破僧忍師異佛,忍異佛說有餘聖道。應說僧破在如是時,此夜必和不經宿住。如是名曰破法輪僧,能障聖道輪、壞僧和合故。何洲人幾破法輪僧?破羯磨僧何洲人幾?頌曰:

論に曰く:能く僧を破るは要ずるに大苾芻。必ず在家・苾芻尼等にあらず。ただ見行の者、愛行の人にあらず。浄行に住する人、戒を犯す者にあらず。戒を犯す者は言に威なきがゆえに。要ずるに異処に於いて破る。大師に対するにあらず。諸の如来は軽逼すべからざるがゆえに。言詞威粛にして対せば必ず能なし。ただ異生を破り聖者を破るにあらず。諸の聖者は証発の性なるがゆえに。ある説に、忍を得るもまた破るべからず、と。二義を含むがために愚夫の言を説く。要ずるに破らるる所の僧は師が仏に異なるを忍し、異なる仏の説くその余の聖道ありを忍す。応に説くべし、僧破はこのような時に在り、この夜に必ず和して宿住を経ず。このようを破法輪僧と名づく。能く聖道の輪を障り、僧の和合を壊るがゆえに。どの洲の人幾ばくが法輪僧を破るか。羯磨僧を破るはどの洲の人幾ばくか。頌に曰く、

贍部洲九等,方破法輪僧;

贍部洲に九等なれば、乃ち法輪僧を破る。

唯破羯磨僧,通三洲八等。

ただ羯磨僧を破るは、三洲に通じて八等。

論曰:唯贍部洲,人少至九或復過此,能破法輪。非於餘洲,以無佛故。有世尊處方有異師。要八苾芻分為二眾,以為所破,能破第九,故眾極少猶須九人。等言為明過此無限。唯破羯磨通在三洲,極少八人,多亦無限。通三洲者,有聖教故。要一界中僧分二部別作羯磨,故須八人,過此無遮故亦言等。於何時分無破法輪?頌曰:

論に曰く:ただ贍部洲に於いて、人少なくとも九、或いは復た此に過ぐれば、能く法輪を破る。その余の洲に於いてはあらず。仏なきがゆえに。世尊の処あるに方に異師あり。要ずるに八苾芻を分かちて二衆と為し、以て破らるる所と為し、能破は第九。ゆえに衆極めて少くともなお九人を須う。等の言は此に過ぐる無限なるを明かさんがため。ただ羯磨を破るは三洲に通ず。極少は八人、多きもまた無限。三洲に通ずるは、聖教あるがゆえに。要ずるに一界の中に僧が二部に分かれて別々に羯磨を作す。ゆえに八人を須う。此に過ぐれば遮ることなきがゆえに等をも説く。どの時分に於いて法輪を破ることなきか。頌に曰く、

初後皰雙前,佛滅未結界,

初・後・疱・双前・仏滅・未だ界を結ばざる、

於如是六位,無破法輪僧。

このような六位に於いて、法輪僧を破ることなし。

論曰:初謂世尊轉法輪未久,後謂善逝將般涅槃時,此二時中僧一味故。於正戒見皰未起時,要二皰生方可破故。未立止觀第一雙時,法爾由彼速還合故。佛滅後時,無真大師為敵對故。未結界時,無一界中分二部故。於此六位無破法輪。非破法輪諸佛皆有,必依宿業有此事故。且止傍論,應辯逆緣。頌曰:

論に曰く:初とはいわゆる世尊の法輪を転ぜしめて未だ久しからざる時、後とはいわゆる善逝のまさに般涅槃せんとする時。この二時の中は僧一味なるがゆえに。正戒・見の疱未だ起らざる時は、要ずるに二疱生じて方に破るべきがゆえに。未だ止観の第一双を立てざる時は、法爾に彼に由って速やかに還りて合するがゆえに。仏滅後の時は、真の大師の敵対と為る者なきがゆえに。未だ界を結ばざる時は、一界の中に二部に分かつことなきがゆえに。この六位に於いては法輪を破ることなし。法輪を破るは諸仏皆あるにあらず。必ず宿業に依ってこの事あるがゆえに。且く傍論を止め、応に逆縁を辯すべし。頌に曰く、

棄壞恩德田,轉形亦成逆,

恩田を棄て徳田を壊る。形転じても逆を成ず。

母謂因彼血,誤等無或有,

母とは彼の血に因るを謂う。誤等は無し或いは有り。

打心出佛血,害後無學無。

打心にて仏の血を出す。後を害するは無学なし。

論曰:何緣害母等成無間非餘?由棄恩田、壞德田故。謂害父母是棄恩田。如何有恩?身生本故。如何棄彼?謂捨彼恩。德田謂餘阿羅漢等,具諸勝德及能生故。壞德所依,故成逆罪。父母形轉殺成逆耶?逆罪亦成,依止一故。由如是義,故有問言:頗有令男離命根,非父阿羅漢,而為無間罪觸不?曰:有,謂母轉形。頗有令女離命根,非母阿羅漢,而為無間罪觸不?曰:有,謂父轉形。設有女人羯剌藍墮,餘女收取置產門中生子。殺,何成害母逆?因彼血者身生本故。諸有所作應諮後母,能飲能養能長成故。若於父母起殺加行,誤殺餘人無無間罪。於非父母起殺加行,誤殺父母亦不成逆。如子執杖擊父身蚊,母隱在床謂餘而殺。若一加行害母及餘,二無表生,表唯逆罪,以無間業勢力強故。尊者妙音說有二表,表是積集極微成故。若害阿羅漢無阿羅漢想,於彼依止起定殺心,無簡別故亦成逆罪。若有害父,父是阿羅漢,得一逆罪,以依止一故。若爾,喻說當云何通?佛告始欠持:汝已造二逆,所謂害父、殺阿羅漢。彼顯一逆由二緣成,或以二門訶責彼罪。若於佛所惡心出血,一切皆得無間罪耶?要以殺心方成逆罪,打心出血無間則無。若殺加行時,彼非阿羅漢,將死方得阿羅漢果,能殺彼者有逆罪耶?無,於無學身無殺加行故。若造無間加行不可轉,為有離染及得聖果耶?頌曰:

論に曰く:どの縁によって母等を害するは無間を成じてその余にあらざるか。恩田を棄て徳田を壊るがゆえに。いわゆる父母を害するは恩田を棄つ。どうして恩あるか。身の生まるる本なるがゆえに。どうして彼を棄つるか。いわゆる彼の恩を捨つ。徳田とはその余の阿羅漢等を謂う。諸の勝徳を具えおよび能く生ずるがゆえに。徳の依る所を壊る。ゆえに逆罪を成ず。父母の形転ずれば殺して逆を成ずるか。逆罪もまた成ず。依止一なるがゆえに。このようの義に由って、問うて説く有り、頗る男をして命根を離れしめ、父・阿羅漢にあらざるに、無間の罪に触れしむるや。曰く、有り。いわゆる母の形転ぜるを。頗る女をして命根を離れしめ、母・阿羅漢にあらざるに、無間の罪に触れしむるや。曰く、有り。いわゆる父の形転ぜるを。設い女人ありて羯剌藍を堕し、その余の女が収取して産門の中に置きて子を生む。これを殺さば、何を以てか母を害する逆を成ぜん。彼の血に因るを以て、身の生まるる本なるがゆえに。諸の作すところ有るは応に後の母に咨るべし。能く飲ましめ能く養い能く長成するがゆえに。もし父母に於いて殺の加行を起して誤ってその余の人を殺せば無間の罪なし。父母にあらざるに於いて殺の加行を起して誤って父母を殺すもまた逆を成ぜず。子の杖を執りて父の身の蚊を撃ち、母の床に隠れてその余と謂いて殺すがごとし。もし一の加行にて母およびその余を害せば、二の無表生じ、表はただ逆罪。無間業の勢力強きを以て。尊者妙音は説いて二表あり。表は積集極微の成ずる所なるがゆえに、と。もし阿羅漢を害するに阿羅漢の想なく、彼に於いて依止して定の殺心を起せば、簡別なきがゆえにもまた逆罪を成ず。もし父を害するありて、父は阿羅漢ならば、一の逆罪を得。依止一なるがゆえに。もしそうならば、喩説は当にどう通ずべきか。仏は始欠持(人名)に告げて曰く、なんじ已に二逆を造れり。いわゆる父を害し、阿羅漢を殺す、と。彼は一逆が二縁に由って成ずるを顕し、或いは二門を以て彼の罪を訶責す。もし仏の所に於いて悪心にて血を出さば、一切皆無間の罪を得るか。要ずるに殺心を以て方に逆罪を成ず。打心にて血を出すは無間は則ち無し。もし殺の加行の時、彼は阿羅漢にあらざりしが、まさに死せんとして方に阿羅漢果を得れば、彼を殺しうるは逆罪あるか。無し。無学の身に於いて殺の加行なきがゆえに。もし無間の加行を造りて転ずべからざれば、離染および聖果を得る有るか。頌に曰く、

造逆定加行,無離染得果。

逆を造るは定めて加行なり。離染・果を得ることなし。

論曰:無間加行若必定成,中間決無離染得果。餘惡業道加行中間,若聖道生,業道不起,依止與彼定相違故。於諸惡行無間業中何罪最重?於諸妙行世善業中何最大果?頌曰:

論に曰く:無間の加行はもし必定に成ぜば、中間に決して離染・果を得ることなし。その余の悪業道の加行の中間には、もし聖道生ぜば業道は起らず。依止は彼と定めて相違するがゆえに。諸の悪行・無間業の中に於いてどの罪か最重なるか。諸の妙行・世善業の中に於いてどれか最大の果なるか。頌に曰く、

破僧虛誑語,於罪中最大;

僧を破る虚誑語は、罪の中に於いて最大。

感第一有思,世善中大果。

第一有を感ずる思は、世善の中の大果。

論曰:雖了法非法,為欲破僧而起虛誑語顛倒顯示,此無間中為最大罪,由此傷毀佛法身故、障世生天解脫道故。謂僧已破乃至未合,一切世間入聖得果離染盡漏皆悉被遮,習定溫誦思等業息,大千世界法輪不轉,天人龍等身心擾亂,故招無間一劫異熟。由此破僧罪為最重,餘無間罪如其次第,第五三一後後漸輕。第二最輕,恩等少故。若爾,何故三罰業中,佛說意罰為最大罪,又說罪中邪見最大?據五無間說破僧重,約三罰業說意罪大,就五僻見說邪見重。或依大果害多有情斷諸善根,如次說重。感第一有異熟果思,於世善中為最大果,感八萬大劫極靜異熟故。約異熟果故說此言。據離繫果,則金剛喻定相應思能得大果,諸結永斷為此果故。為簡此故,說世善言。為唯無間罪定生地獄、諸無間同類亦定生彼?有餘師說:非無間生。同類者何?頌曰:

論に曰く:法と非法とを了すると雖も、僧を破らんと欲して虚誑語を起して顛倒して顕示すれば、この無間の中に最大の罪と為す。これに由って仏法の身を傷毀するがゆえ、世に生天・解脱の道を障るがゆえに。いわゆる僧已に破られ乃至未だ合せざるに、一切の世間の聖に入り果を得・染を離れ・漏を尽くすは皆悉く遮られ、定を習い経を温誦する思等の業は息み、大千世界に法輪転ぜず、天・人・龍等の身心擾乱す。ゆえに無間一劫の異熟を招く。これに由って僧を破る罪は最も重し。その余の無間の罪はその次第のごとく、第五・三・一と後々漸々輕し。第二は最も輕し。恩等少なきがゆえに。もしそうならば、何故三罰業の中に、仏は意罰を最大の罪と説き、また罪の中に邪見を最大と説くか。五無間に拠って僧破を重しと説き、三罰業に約して意罪を大と説き、五僻見に就いて邪見を重しと説く。或いは大果・多くの有情を害し・諸の善根を断ずるに依って、次第のごとく重しと説く。第一有の異熟果を感ずる思は、世善の中に於いて最大の果と為す。八万大劫の極静の異熟を感ずるがゆえに。異熟果に約してこの言を説く。離系果に拠れば、則ち金剛喩定に相応する思は能く大果を得。諸結永断せられてこの果と為すがゆえに。これを簡ぶがゆえに、世善の言を説く。ただ無間の罪のみ定めて地獄に生ずるか、諸の無間の同類もまた定めて彼に生ずるか。その余の師の説に、無間に生ぜるにあらず、と。同類とは何ぞ。頌に曰く、

汙母無學尼,殺住定菩薩,

母・無学尼を污し、住定の菩薩を殺し、

及有學聖者,奪僧和合緣,

および有学の聖者を殺し、僧の和合の縁を奪い、

破壞窣堵波,是無間同類。

窣堵波を破壊する、是れ無間の同類。

論曰:如是五種隨其次第,是五無間同類業體。謂有於母阿羅漢尼行極汙染謂非梵行,或有殺害住定菩薩,或殺學聖者,或奪僧合緣,或破窣堵波,是五逆同類。有異熟業於三時中極能為障。言三時者,頌曰:

論に曰く:このようの五種はその次第に随って、五無間の同類の業の体。いわゆる或いは母・阿羅漢尼に於いて極污染を行じて非梵行と謂い、或いは住定の菩薩を殺害し、或いは学の聖者を殺し、或いは僧の合する縁を奪い、或いは窣堵波を破る、是れ五逆の同類。異熟の業ありて三時の中に於いて極めて能く障と為る。三時と言うは、頌に曰く、

將得忍不還,無學業為障。

まさに忍を得んとして還らず、無学の業を障と為す。

論曰:若從頂位將得忍時,感惡趣業皆極為障,以忍超彼異熟地故。如人將離本所居國,一切債主皆極為障。若有將得不還果時,欲界繫業皆極為障,唯除隨順現法受業。若有將得無學果時,色無色業皆極為障,亦除順現。二喻如前。如上所言住定菩薩,為從何位得住定名?彼復於何說名為定?頌曰:

論に曰く:もし頂位よりまさに忍を得んとする時、悪趣を感ずる業は皆極めて障と為る。忍は彼の異熟の地を超ゆるがゆえに。人のまさに本の居る国を離れんとするに、一切の債主が皆極めて障と為るがごとし。もし有りてまさに不還果を得んとする時、欲界繋の業は皆極めて障と為る。ただ現法に順じて受ける業を除く。もし有りてまさに無学果を得んとする時、色・無色の業は皆極めて障と為る。もまた順現を除く。二喩は前のごとし。上に説く所のごとき住定の菩薩は、どの位より住定の名を得たるか。彼は復た何に於いて定と名づくと説かるるか。頌に曰く、

從修妙相業,菩薩得定名,

妙相の業を修するより、菩薩は定の名を得、

生善趣貴家,具男念堅故。

善趣・貴家に生じ、男・念・堅を具するがゆえに。

論曰:從修能感妙三十二大丈夫相異熟果業,菩薩方得立住定名,以從此時乃至成佛常生善趣及貴家等。生善趣者,謂生人天,趣妙可稱故名善趣。於善趣內常生貴家,謂婆羅門或剎帝利、鉅富長者大婆羅家。於貴家中根有具缺,然彼菩薩恆具勝根,恆受男身尚不為女,何況有受扇搋等身。生生常能憶念宿命,所作善事常無退屈。謂於利樂有情事中,眾苦逼身皆能堪忍。雖他種種惡行違逆,而彼菩薩心無厭倦。如世傳有無價䭾娑,當知此言目彼菩薩。由彼大士雖已成就一切殊勝圓滿功德,而由久習無緣大悲,任運恆時繫屬他故。普於一切有情類中,以無慢心皆攝同己。或常觀己如彼僕使,故於一切難求事中皆能堪忍,及於一切勞迫事中皆能荷負。修妙相業其相云何?頌曰:

論に曰く:能く妙なる三十二大丈夫相の異熟果を感ずる業を修するより、菩薩は方に住定の名を立てることを得。これ時より乃至仏を成ずるに至るまで常に善趣および貴家等に生ずるがゆえに。善趣に生ずるは、いわゆる人・天に生ず。趣妙にして称すべきがゆえに善趣と名づく。善趣の内に於いて常に貴家に生ず。いわゆる婆羅門、或いは刹帝利、巨富の長者・大婆羅家。貴家の中に於いて根に具・缺あり。しかし彼の菩薩は恒に勝根を具え、恒に男身を受けてなお女と為らず。況んや扇搋等の身を受くるをや。生々常に能く宿命を憶念し、作す所の善事は常に退屈なし。いわゆる有情を利楽する事に於いて、衆苦の身を逼めるを皆能く堪忍す。他の種種の悪行の違逆すると雖も、しかし彼の菩薩の心は厭倦なし。世に伝えて無価䭾娑(奴僕)あるがごとし。当知るべし、此の言は彼の菩薩を目す。彼の大士は已に一切の殊勝円満の功徳を成就すと雖も、しかし久習の無縁大悲に由って、任運に恒の時他に系属するがゆえに。普く一切の有情類の中に於いて、慢なき心を以て皆己に同じく摂す。或いは常に己を観じて彼の僕使のごとくす。ゆえに一切の求め難き事に於いて皆能く堪忍し、および一切の労迫する事に於いて皆能く荷負す。妙相の業を修する、その相はいかなるか。頌に曰く、

贍部男對佛,佛思思所成,

贍部の男子、仏に対して、仏を思う思の成ずる所、

餘百劫方修,各百福嚴飾。

ただその余の百劫に修し、各々百福にて厳飾す。

論曰:菩薩要在贍部洲中,方能造修引妙相業,此洲覺慧最明利故。唯是男子非女等身,爾時已超女等位故。唯現對佛,緣佛起思是思所成,非聞修類。唯餘百劫造修非多,諸佛因中法應如是。唯薄伽梵釋迦牟尼,精進熾然能超九劫,九十一劫妙相業成。是故如來告聚落主:我憶九十一劫以來,不見一家因施我食有少傷損,唯成大利。從此自性恆憶宿生,是故但言九十一劫。宿舊師說:菩薩出初無數劫來,離四過失、得二功德。如前所辯,一一妙相百福莊嚴,何等名為一一福量?有說:唯除近佛菩薩,所餘一切有情所修富樂果業名一福量。有說:世界將欲成時,一切有情感大千土業增上力為一福量。有說:此量唯佛乃知。今我大師,昔菩薩位於三無數劫供養幾佛耶?頌曰:

論に曰く:菩薩は要ずるに贍部洲の中に於いて、方に能く妙相を引く業を造修す。この洲は覚慧最も明利なるがゆえに。ただ男子にして女等の身にあらず。爾の時已に女等の位を超ゆるがゆえに。ただ現に仏に対し、仏に縁りて思を起す。是れ思の成ずる所にして、聞・修の類にあらず。ただその余の百劫に造修して多くあらず。諸仏の因の中法は応にこのよう。ただ薄伽梵釈迦牟尼は、精進熾然にして能く九劫を超ゆ。九十一劫に妙相の業成ず。このゆえに如来は聚落主に告げて曰く、我は九十一劫以来、一家の我に食を施すに因りて少しの傷損あるを見ず。ただ大利を成ず、と。此より自性恒に宿生を憶えり。このゆえに但だ九十一劫を説く。宿旧の師は説く:菩薩は初の無数劫より出でて来りて、四の過失を離れ、二の功徳を得、と。前に辯ぜしがごとく、一一の妙相は百福の荘厳。何等を一一の福量と名づくるか。ある説に、ただ近仏の菩薩を除き、その余の一切の有情の修する所の富楽の果業を一福量と名づく、と。ある説に、世界まさに成らんと欲する時、一切の有情の大千の土を感ずる業の増上力を一福量と為す、と。ある説に、この量はただ仏のみ乃ち知る、と。今、我が大師は昔の菩薩の位に於いて三無数劫に於いて幾佛かを供養したるか。頌に曰く、

於三無數劫,各供養七萬,

三無数劫に於いて、各々七万を供養し、

又如次供養,五六七千佛。

また次第のごとく供養す、五・六・七千仏。

論曰:初無數劫中供養七萬五千佛,次無數劫中供養七萬六千佛,後無數劫中供養七萬七千佛。三無數劫一一滿時,及初發心,各逢何佛?頌曰:

論に曰く:初の無数劫の中に七万五千仏を供養し、次の無数劫の中に七万六千仏を供養し、後の無数劫の中に七万七千仏を供養す。三無数劫の一一満ずる時、および初めて心を発す、各々どの仏に逢えるか。頌に曰く、

三無數劫滿,逆次逢勝觀,

三無数劫の満ずるに、逆次に勝観に逢い、

然燈寶髻佛,初釋迦牟尼。

然燈・宝髻の仏。初は釈迦牟尼。

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