アビダルマ倶舎論 巻第十三
近住餘亦有,不受三歸無。
近住は余にもまた有り、三帰を受けざれば無し。
論曰:諸有未受近事律儀,一晝夜中歸依三寶,說三歸已受近住戒,彼亦受得近住律儀。異此則無,除不知者。如契經說:佛告大名:諸有在家白衣男子男根成就,歸佛法僧起殷淨心,發誠諦語自稱我是鄔波索迦,願尊憶持慈悲護念,齊是名曰鄔波索迦。為但受三歸即成近事?外國諸師說:唯此即成。迦濕彌羅國諸論師言:離近事律儀則非近事。若爾,應與此經相違。此不相違,已發戒故。何時發戒?頌曰:
論に曰く:諸の未だ近事律儀を受けざる有るも、一昼夜中に三宝に帰依して、三帰を説き已りて近住戒を受くれば、彼もまた近住律儀を受得す。此に異なれば則ち無し、知らざるを除く。契経の説くが如く:仏は大名に告げたまわく:諸の在家の白衣の男子にして男根を成就する有りて、仏・法・僧に帰し殷浄の心を起し、誠諦の語を発して自ら称して我は是れ鄔波索迦(近事男)なり、願わくは尊は憶持して慈悲に護念したまえと、是に齊きて名づけて鄔波索迦と曰う、と。是れ但だ三帰を受くれば即ち近事を成すか。外国の諸師は説く:ただ此にして即ち成す。迦湿弥羅国の諸の論師は説く:近事律儀を離るれば則ち近事に非ず。もし爾ならば、まさに此の経と相違すべし。此は相違せず、已に戒を発したるゆえ。何れの時に戒を発するか。頌に曰く:
稱近事發戒,說如苾芻等。
近事と称して戒を発す、苾芻等の如く説く。
論曰:起殷淨心發誠諦語,自稱我是鄔波索迦,願尊憶持慈悲護念。爾時即發近事律儀。稱近事等言,便發律儀故。以經復說:我從今時乃至命終捨生言故。此經意說捨殺生等,略去殺等但說捨生,故於前時已得五戒。彼雖已得近事律儀,為令了知所應學處故,復為說離殺生等五種戒相令識堅持。如得苾芻具足戒已,說重學處令識堅持。勤策亦然。此亦應爾,是故近事必具律儀。頌曰:
論に曰く:殷浄の心を起して誠諦の語を発し、自ら称して我は是れ鄔波索迦なり、願わくは尊は憶持して慈悲に護念したまえと。爾の時に即ち近事律儀を発す。近事等の言を称すれば、便ち律儀を発するゆえ。経に復た説くを以て:我は今の時より乃至命終に至るまで生を捨てるの言を説くゆえ。此の経の意は殺生等を捨つるを説きて、殺等を略去して但だ生を捨つと説く、ゆえに前の時において已に五戒を得たり。彼は已に近事律儀を得たりと雖も、学ぶべき所の処を了知せしめんが為に、復た為に殺生を離るる等の五種の戒相を説きて識りて堅持せしむ。苾芻の具足戒を得已りて、重き学処を説きて識りて堅持せしむるが如し。勤策もまたこの如し。此もまたまさにこの如くあるべし、是れを以て近事は必ず律儀を具す。頌に曰く:
若皆具律儀,何言一分等?
もし皆律儀を具せば、何ぞ一分等と言うや。
謂約能持說。
いわゆる能持に約りて説く。
論曰:若諸近事皆具律儀,何緣世尊言有四種:一能學一分、二能學少分、三能學多分、四能學滿分?謂約能持故作是說。能持先所受,故說能學言。不爾,應言受一分等。理實約受等具律儀,以具律儀故名近事。如是所執違越契經。如何違經?謂無經說自稱我是近事等言便發五戒,此經不說我從今者乃至命終捨生言故。經如何說?如《大名經》。唯此經中說近事相,餘經不爾,故違越經。然餘經說:我從今時乃至命終捨生歸淨,是歸三寶發誠信言。此中顯示以見諦者,由得證淨舉命自要,表於正法深懷愛重,乃至為救自生命緣,終不捨於如來正法。非彼為欲說近事相故說如是捨生等言,設說亦非分明理教。誰能准此不明瞭文,便信前時已發五戒?又約持犯戒說學一分等尚不應問,況應為答。誰有已解近事律儀必具五支,而不能解於所學處持一非餘,乃至具持名一分等?由彼未解近事律儀受量少多,故應請問:凡有幾種鄔波索迦能學學處?答言:有四鄔波索迦,謂能學一分等。猶未能了。復問何名能學一分?乃至廣說,若闕律儀得名近事。苾芻勤策,闕亦應成。彼既不成,此亦應爾。何緣近事乃至苾芻,所受律儀支量定爾?由佛教力施設故然。若爾,何緣不許由佛教力施設,雖闕律儀而名近事非苾芻等?迦濕彌羅國毘婆沙師,不許闕律儀得成近事。此近事等一切律儀,由何得成下中上品?頌曰:
論に曰く:もし諸の近事は皆律儀を具せば、何の縁に世尊は四種有りと説く:一に能く一分を学ぶ、二に能く少分を学ぶ、三に能く多分を学ぶ、四に能く満分を学ぶ。いわゆる能持に約りて是の説を作す。先の受けたる所を能く持つ、ゆえに能学の言を説く。然らざれば、まさに一分等を受くと説くべし。理は実に受等に約りて具に律儀す、具に律儀するを以て近事と名づく。かくのごとき執する所は契経に違越す。如何にして経に違するか。いわゆる自ら称して我は是れ近事等の言と説きて便ち五戒を発する経無し、此の経は我は今より乃至命終に至るまで生を捨てるの言を説かざるゆえ。経は如何に説くか。『大名経』の如し。ただ此の経中に近事の相を説きて、余の経は然らず、ゆえに経に違越す。しかるに余の経に説く:我は今の時より乃至命終に至るまで生を捨て浄に帰すとは、是れ三宝に帰して誠信の言を発す。此中に顕示するは見諦を以て、証浄を得て命を挙げて自ら要するに由り、正法において深く愛重を懐くを表し、乃至自らの生命の縁を救わんが為にも、終に如来の正法を捨てず。彼は近事の相を説かんと欲するが為にかくのごとき生を捨つる等の言を説くに非ず、設ひ説くとももまた分明の理教に非ず。誰か能く此の不明了の文に准じて、便ち前の時に已に五戒を発したりと信ぜん。もまた持・犯戒に約りて学の一分等を説くは尚お問うべからず、況んや答と為すべからんや。誰か已に近事律儀は必ず五支を具すと解して、而も学ぶ所の処において一を持して余に非ず、乃至具に持して一分等と名づくるを解せざる有らん。彼は未だ近事律儀の受量の少多を解せざるに由りて、ゆえにまさに請問すべし:凡そ几種の鄔波索迦か能く学処を学ぶか。答えて説く:四の鄔波索迦有り、いわゆる能く一分等を学ぶ。猶お未だ了せず。復た問う、何を能く一分を学ぶと名づくるか。乃至広説す、もし律儀を缺きて近事の名を得れば、苾芻・勤策も缺きてもまたまさに成るべし。彼は既に成らざれば、此もまたまさにこの如くあるべし。何の縁に近事乃至苾芻に至るは、受くる所の律儀の支量は定めてこの如くか。仏教の力の施設する所なるゆえにこの如し。もし爾ならば、何の縁に仏教の力の施設に由るを許さざるか、律儀を缺くと雖も而も近事と名づきて苾芻等に非ざるを。迦湿弥羅国の毘婆沙師は、律儀を缺きて近事を成ずるを得るを許さず。此の近事等の一切の律儀は、何に由りて下・中・上の品を成すか。頌に曰く:
下中上隨心。
下・中・上は心に随う。
論曰:八眾所受別解脫律儀,皆隨受心有下中上品。由如是理,諸阿羅漢或有成就下品律儀,然諸異生或成上品。為有但受近事律儀不受三歸成近事不?不成近事,除有不知。諸有歸依佛法僧者,為歸何等?頌曰:
論に曰く:八衆の受くる所の別解脱律儀は、皆受ける心に随いて下・中・上の品有り。かくのごとき理に由りて、諸の阿羅漢はあるいは下品の律儀を成就し、しかるに諸の異生はあるいは上品を成ず。是れ但だ近事律儀を受けて三帰を受けざるは近事を成ずや否や有りか。近事を成ぜず、知らざる有るを除く。諸の仏・法・僧に帰依するは、是れ何等に帰するか。頌に曰く:
歸依成佛僧,無學二種法,
帰依は仏を成ずる僧、無学の二種の法、
及涅槃擇滅,是說具三歸。
および涅槃の択滅、是れ具に三帰を説く。
論曰:歸依佛者,謂但歸依能成佛無學法,由彼勝故身得佛名,或由得彼法佛能覺一切。何等名為佛無學法?謂盡智等及彼隨行。非色等身,前後等故。為歸一佛、一切佛耶?理實應言歸一切佛,以諸佛道相無異故。歸依僧者,謂通歸依諸能成僧學無學法,由得彼故僧成八種補特伽羅,不可破故。為歸一佛僧、一切佛僧耶?理實通歸一切佛僧,以諸僧道相無異故。然契經說,當來有僧汝應歸者,彼經但為顯示當來現見僧寶。歸依法者,謂歸涅槃。此涅槃言唯顯擇滅自他相續煩惱及苦,寂滅一相,故通歸依。若唯無學法即是佛者,如何於佛所惡心出血,但損生身成無間罪?毘婆沙者作是釋言:壞彼所依,彼隨壞故。然尋本論,不見有言唯無學法即名為佛,但言無學法能成於佛。既不遮佛體亦攝依身,故於此中不容前難。若異此者,應佛與僧住世俗心非僧非佛。又應唯執成苾芻戒即是苾芻。然如有欲供養苾芻者,彼唯供養成苾芻屍羅。如是有欲歸依佛者,亦應但歸成佛無學法。有餘師說:歸依佛者,總歸依如來十八不共法。此能歸依何法為體?語表為體。如是歸依以何為義?救濟為義。由彼為依,能永解脫一切苦故。如世尊言:
論に曰く:仏に帰依するとは、ただ能く仏を成ずる無学の法に帰依するを謂い、彼の勝れるに由りて身は仏の名を得、あるいは彼の法を得るに由りて仏は能く一切を覚る。何等を仏の無学法と名づくるか。いわゆる盡智等および彼の随行。色等の身に非ず、前後は等しきゆえ。是れ一仏に帰するか、一切仏か。理実にまさに一切仏に帰すと説くべし、諸仏の道の相は異なる無きを以て。僧に帰依するとは、通じて諸の能く僧を成ずる学・無学の法に帰依するを謂い、彼を得るに由りて僧は八種の補特伽羅を成じて、破るべからざるゆえ。是れ一仏僧に帰するか、一切仏僧か。理実に通じて一切の仏僧に帰す、諸僧の道の相は異なる無きを以て。しかるに契経に説く、当来に僧有りて汝はまさに帰すべしとは、彼の経は但だ当来の現見の僧宝を顕示せんが為。法に帰依するとは、涅槃に帰するを謂う。此の涅槃の言はただ自他の相续の煩悩および苦を択滅す、寂滅の一相を顕す、ゆえに通じて帰依す。もしただ無学法は即ち是れ仏ならば、如何にして仏の所において悪心を起して血を出さしめて、但だ生身を損して無間罪を成ずるか。毘婆沙者は是の釋を作して説く:彼の依る所を壞れば、彼は随いて壞るるゆえ。しかるに本論を尋るに、ただ無学法は即ち仏と名づくの言有るを見ず、但だ無学法は能く仏を成ずと説く。既に仏体はもまた依身を摂するを遮らざれば、ゆえに此の中において前の難を容れず。もし此に異なれば、まさに仏と僧と世俗の心に住して僧に非ず仏に非ざるべし。またまさにただ苾芻戒を成ずるを執して即ち是れ苾芻とすべし。しかるに苾芻を供養せんと欲する有るが如く、彼はただ苾芻を成ずる尸羅を供養す。かくのごとき仏に帰依せんと欲する有るも、もまたまさに但だ仏を成ずる無学法に帰すべし。ある余師の説に:仏に帰依するとは、総じて如来の十八不共法に帰依す、と。此の能く帰依するは何の法を以て体と為すか。語表を体と為す。かくのごとき帰依は何を以て義と為すか。済を救うを以て義と為す。彼を以て依と為すに由りて、能く永く一切の苦を解脱するゆえ。世尊の説くが如く:
眾人怖所逼,多歸依諸山,
衆人は怖に逼められて、多く諸の山に帰依し、
園苑及叢林,孤樹制多等。
園苑および叢林、孤樹・制多(塔廟)等。
此歸依非勝,此歸依非尊,
此の帰依は勝に非ず、此の帰依は尊に非ず、
不因此歸依,能解脫眾苦。
此の帰依に因らずして、能く衆苦を解脱せず。
諸有歸依佛,及歸依法僧,
諸の仏に帰依する有り、および法・僧に帰依して、
於四聖諦中,恆以慧觀察。
四聖諦中において、恒に慧を以て観察す。
知苦知苦集,知永超眾苦,
苦を知り苦の集を知り、永く衆苦を超ゆるを知り、
知八支聖道,趣安隱涅槃。
八支の聖道を知り、安隱の涅槃に趣く。
此歸依最勝,此歸依最尊,
此の帰依は最勝、此の帰依は最尊、
必因此歸依,能解脫眾苦。
必ず此の帰依に因りて、能く衆苦を解脱す。
是故歸依,普於一切受律儀處為方便門。何緣世尊於餘律儀處立離非梵行為其所學?唯於近事一律儀中但制令其離欲邪行。頌曰:
是れを以て帰依は、普く一切の律儀を受くる処において方便門と為す。何の縁に世尊は余の律儀の処において非梵行を離るるを立ててその学ぶ所と為すに、ただ近事の一律儀中において但だ彼をして欲の邪行を離れしむるを制すか。頌に曰く:
邪行最可訶,易離得不作。
邪行は最も訶すべし、易く離れて不作を得。
論曰:唯欲邪行世極訶責,以能侵毀他妻等故、感惡趣故非非梵行,又欲邪行易遠離故。諸在家者耽著欲故,離非梵行難可受持,觀彼不能長時修學,故不制彼離非梵行。又諸聖者於欲邪行一切定得不作律儀,經生聖者亦不行故。離非梵行則不如是,故於近事所受律儀,但為制立離欲邪行。勿經生聖者犯近事律儀。不作律儀謂定不作,諸有先受近事律儀後娶妻妾,於彼妻妾先受戒時得律儀不?理實應得。勿但於一分得別解律儀。若爾,云何後非犯戒?頌曰:
論に曰く:ただ欲の邪行は世は極めて訶責す、能く他の妻等を侵毀するを以て、悪趣を感ずるゆえに非梵行に非ず、また欲の邪行は易く遠離するゆえ。諸の在家は欲に耽着するゆえに、非梵行を離るるは受け持ち難し、彼は能く長時に修学せざるを観じて、ゆえに彼に非梵行を離るるを制せず。また諸の聖者は欲の邪行において一切は定めて不作の律儀を得、生を経る聖者もまた行わざるゆえ。非梵行を離るるは則ち然らず、ゆえに近事の受くる所の律儀において、但だ為に欲の邪行を離るるを制立す。生を経る聖者は近事律儀を犯すを勿れ。不作の律儀とは定めて作さずを謂う、諸の先に近事律儀を受けて後に妻妾を娶る有りて、彼の妻妾において先に戒を受くる時に律儀を得るか否や。理実にまさに得べし。但だ一分において別解律儀を得るを勿れ。もし爾ならば、如何にして後に犯戒に非ざるか。頌に曰く:
得律儀如誓,非總於相續。
律儀を得るは誓の如し、総じて相续においてに非ず。
論曰:如本受誓而得律儀。本受誓云何?謂離欲邪行。非於一切有情相續言我皆當離非梵行,由此普於有情相續唯得離欲邪行戒。非離非梵行律儀故,後納妻妾非毀犯前戒。何緣但制離虛誑語?非離間語等為近事律儀,亦由前說三種因故。謂虛誑語最可訶故,諸在家者易遠離故,一切聖者得不作故。復有別因,頌曰:
論に曰く:本に誓を受くるが如くして律儀を得。本に誓を受くるは如何。いわゆる欲の邪行を離るる。一切の有情の相续において我は皆まさに非梵行を離るべしと説くに非ず、此に由りて普く有情の相续においてただ欲の邪行を離るる戒を得。非梵行を離るる律儀に非ざるゆえ、後に妻妾を納るるは前の戒を毀犯するに非ず。何の縁に但だ虚誑語を離るるを制するか。間語等を離るるは近事律儀を為すに非ざるは、もまた前の説く所の三種の因に由るゆえ。いわゆる虚誑語は最も訶すべきゆえ、諸の在家は易く遠離するゆえ、一切の聖者は不作を得るゆえ。復た別の因有り、頌に曰く:
以開虛誑語,便越諸學處。
虚誑語を開くを以て、便ち諸の学処を越ゆ。
論曰:越諸學處被檢問時,若開虛誑語,便言我不作,因斯於戒多所違越。故佛為欲令彼堅持,於一切律儀制離虛誑語。云何令彼若犯戒時便自發露能防後犯?復以何緣不於遠離遮罪建立近事律儀?誰言此中不離遮罪。離何遮罪?謂離飲酒。何緣於彼諸遮罪中不制離餘,唯遮飲酒?頌曰:
論に曰く:諸の学処を越えて検問せらるる時に、もし虚誑語を開かば、便ち我は作さずと説き、斯に因りて戒において多く違越する所有り。ゆえに仏は彼をして堅持せしめんと欲して、一切の律儀において虚誑語を離るるを制す。如何にして彼をしてもし戒を犯す時に便ち自ら発露して能く後の犯を防がしめん。復た何の縁を以て遠離の遮罪において近事律儀を建立せざるか。誰か此の中に遮罪を離れざると説く。何の遮罪を離るるか。いわゆる飲酒を離るる。何の縁に彼の諸の遮罪中において余を離るるを制せずして、ただ飲酒を遮るか。頌に曰く:
遮中唯離酒,為護餘律儀。
遮中にはただ酒を離る、余の律儀を護るが為。
論曰:諸飲酒者心多縱逸,不能守護諸餘律儀,故為護餘令離飲酒。寧知飲酒遮罪攝耶?由此中無性罪相故,以諸性罪唯染心行。為療病時雖飲諸酒,不為醉亂能無染心。豈不先知酒能醉亂,而故欲飲即是染心。此非染心由自知量,為療病故分限而飲,不令醉亂故非染心。諸持律者言:飲酒是性罪。如彼尊者鄔波離言:我當如何供給病者?世尊告曰:唯除性罪,餘隨所應皆可供給。然有染疾釋種須酒,世尊不開彼飲酒故。又契經說:諸有苾芻稱我為師不應飲酒,乃至極少如一茅端所霑酒量亦不應飲。故知飲酒是性罪攝。又諸聖者雖易多生亦不犯故,如殺生等。又經說是身惡行故。對法諸師言非性罪,然為病者總開遮戒。復於異時遮飲酒者,為防因此犯性罪故。又令醉亂量無定限,故遮乃至飲茅端所霑量。又一切聖皆不飲者,以諸聖者具慚羞故,飲酒能令失正念故。乃至少分亦不飲者,以如毒藥量無定故。又經說是身惡行者,酒是一切放逸處故。由是獨立放逸處名,餘不立此名,皆是性罪故。然說數習墮惡趣者,顯數飲酒能令身中諸不善法相續轉故,又能引發惡趣業故,或能令彼轉增盛故。如契經說:窣羅、迷麗耶、末陀放逸處。依何義說?醞食成酒名為窣羅,醞餘物所成名迷麗耶酒。即前二酒未熟已壞,不能令醉不名末陀,若令醉時名末陀酒。簡無用位重立此名。然以檳榔及稗子等亦能令醉,為簡彼故,須說窣羅、迷麗耶酒。雖是遮罪,而令放逸廣造眾惡,為令殷重遮斷故說。放逸處言,酒是放逸所依處故。
論に曰く:諸の酒を飲むの心は多く縦逸して、能く諸の余の律儀を守護せず、ゆえに余を護らんが為に飲酒を離れしむ。寧ぞ飲酒は遮罪の摂なるを知らんや。此の中に性罪の相無きに由るゆえ、諸の性罪はただ染心の行なるを以て。病を療する為の時に諸の酒を飲むと雖も、醉乱せざるを為さば能く染心無し。豈に先に酒の能く醉乱せしむるを知らずして、而も故に飲まんと欲するは即ち是れ染心ならんや。此は染心に非ず、自ら量を知るに由り、病を療するが為に分限に依りて飲み、醉乱せしめざるゆえに染心に非ず。諸の律を持する者は説く:飲酒は是れ性罪、と。彼の尊者鄔波離(律を持する第一)の説くが如く:我はまさに如何にして病者に供給すべきか。世尊は告げたまわく:ただ性罪を除きて、余はその該ずる所に随い皆供給すべし、と。しかるに染疾の釋種有りて酒を須うも、世尊は彼に酒を飲むを開かざるゆえ。また契経に説く:諸の苾芻は我を師と称するは酒を飲むべからず、乃至極少にして一茅の端の沾う所の酒量ももまた飲むべからず、と。ゆえに飲酒は是れ性罪の摂なるを知る。また諸の聖者は多生を易ると雖ももまた犯さざるゆえ、殺生等の如し。また経に是れ身の悪行と説くゆえ。対法の諸師は性罪に非ずと説く、しかるに病者の為には遮戒を総じて開く。復た異なる時に於て飲酒を遮るは、此に因りて性罪を犯すを防ぐが為。また醉乱せしむる量は定限無し、ゆえに乃至茅端の沾う所の量を飲むを遮る。また一切の聖は皆飲まざるは、諸の聖者は慚羞を具するを以て、飲酒は能く正念を失はしむるゆえ。乃至少分ももまた飲まざるは、毒薬の如く量の定ある無きを以て。また経に是れ身の悪行と説くは、酒は一切の放逸の処なるゆえ。是に由りて独立して放逸処の名を立て、余は此の名を立てず、皆是れ性罪なるゆえ。しかるに数習は悪趣に堕つと説くは、数々酒を飲みて能く身中の諸の不善法をして相续して転ぜしむるを顕すゆえ、もまた能く悪趣の業を引发するゆえ、あるいは能く彼をして転じて増盛せしむるゆえ。契経の説くが如く:窣羅・迷麗耶・末陀は放逸の処。何の義に依りて説くか。食を醞して酒を成すを窣羅と名づけ、余の物を醞して成す所を迷麗耶酒と名づく。即ち前の二酒は未だ熟せずして已に壞れ、能く醉わせずして末陀と名づけず、もし醉わしむる時に末陀酒と名づく。無用の位を簡びて重ねて此の名を立つ。しかるに檳榔および稗子等を以てももまた能く醉わしむ、彼を簡ぶが為に、須ち窣羅・迷麗耶酒を説く。遮罪なりと雖も、而も放逸せしめて広く衆悪を造る、殷重に遮断せしめんが為に説く。放逸処の言は、酒は放逸の依る所の処なるゆえ。
説一切有部倶舎論 巻第十四
アビダルマ倶舎論 巻第十五 尊者世親造
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。
分別業品第四之三
分別業品 第四之三
此別解脫、靜慮、無漏三種律儀,從彼得一亦餘二不?不爾。云何?頌曰:
此の別解脱・静慮・無漏の三種の律儀は、彼より一を得ばもまた余の二を得るか否や。然らず。如何。頌に曰く:
從一切二現,得欲界律儀,
一切・二・現より、欲界の律儀を得、
從根本恆時,得靜慮無漏。
根本・恒時より、静慮・無漏を得。
論曰:欲界律儀謂別解脫,此從一切根本業道及從加行後起而得。從二得者,謂從二類,即情非情、性罪遮罪。從現得者,謂從現世蘊處界得,非從去來。由此律儀有情處轉,去來非是有情處故。若得靜慮無漏律儀,應知但從根本業道。尚不從彼加行後起得此律儀,況從遮罪。從恆時者,謂從過去現在未來蘊處界得。由此差別應作四句,有蘊處界從彼唯得別解律儀非餘二等。第一句者,謂從現世加行後起及諸遮罪。第二句者,謂從去來根本業道。第三句者,謂從現世根本業道。第四句者,謂從去來加行後起。非於正得善律儀時可有現世惡業道等,是故應言從現處得。理應但說防護未來,定不應言防護過現。諸有獲得律不律儀,從一切有情支因有異不?此定有異。相云何?頌曰:
論に曰く:欲界の律儀とは別解脱を謂い、此は一切の根本業道および加行・後起より得。二より得るとは、いわゆる二類より、即ち情・非情、性罪・遮罪。現より得るとは、いわゆる現世の蘊・処・界より得、去来よりに非ず。此の律儀は有情の処に転ずるに由り、去来は是れ有情の処に非ざるゆえ。もし静慮・無漏の律儀を得れば、まさに知るべし但だ根本業道より。尚お彼の加行・後起より此の律儀を得ず、況んや遮罪よりをや。恒時よりとは、いわゆる過去・現在・未来の蘊・処・界より得。此の差別に由りてまさに四句を作すべし、蘊・処・界有りて彼よりただ別解律儀を得て余の二に非ず等。第一句とは、いわゆる現世の加行・後起および諸の遮罪より。第二句とは、いわゆる去来の根本業道より。第三句とは、いわゆる現世の根本業道より。第四句とは、いわゆる去来の加行・後起より。正に善律儀を得る時に現世の悪業道等の有るべからず、是れを以てまさに現処より得と説くべし。理はまさに但だ未来を防護すと説くべく、定めて過・現を防護すと説くべからず。諸の律・不律儀を獲得する有るは、一切の有情・支・因より異有るか否や。此は定めて異有り。相は如何。頌に曰く:
律從諸有情,支因說不定,
律は諸の有情より、支・因は説きて定めず、
不律從一切,有情支非因。
不律は一切より、有情・支は因に非ず。
論曰:律儀定從一切有情得。無少分理,支因說不定。支不定者,有從一切得,謂苾芻律儀。有從四支得,謂所餘律儀,唯根本業道名律儀支故。因不定者,謂或有義從一切因,或約餘義唯許從一。從一切者,謂從無貪瞋痴,必俱起故。唯從一者,謂從下中上心,不俱起故。此中且就後三因說。或有一類住律儀者,於一切有情得律儀,非一切支非一切因,謂以下心或中或上受近事勤策戒。或有一類住律儀者,於一切有情得律儀,由一切支非一切因,謂以下心或中或上受苾芻戒。或有一類住律儀者,於一切有情得律儀,由一切支及一切因,謂以三心受近事勤策苾芻戒。或有一類住律儀者,於一切有情得律儀,由一切因非一切支,謂以三心受近事近住勤策戒。無有不遍於諸有情得律儀者,以於一切諸有情所住善意樂方得律儀,異則不然,以惡意樂不全息故。若人不作五種定限,方可受得別解律儀,謂有情、支、處、時、緣定。有情定者,念我唯於某類有情當離殺等。言支定者,念我唯於某律儀支當持不犯。言處定者,念我唯住某類方域當離殺等。言時定者,念我唯於一月等時能離殺等。言緣定者,念我唯除鬪戰等緣能離殺等。如是受者不得律儀,但得律儀相似妙行。於非所能境,如何得律儀?由普於有情發起增上不損命意樂,故得律儀。毘婆沙師有作是說:若謂一向於所能境方可受得別解律儀,則此律儀應有增減,以所能境與非所能二類有情有轉易故,如是便有別解律儀離得捨緣有得捨過。彼說不然。如生草等先無後起或起已枯,於彼律儀無增無減。能不能境所得律儀,境轉易時例亦應爾。彼言不爾。所以者何?以諸有情前後性等、草等前後性不同故。若爾,有情般涅槃已,如前性類今時既無,於彼律儀如何無減?故如是釋,於理不然。前所說因於理為善。
論に曰く:律儀は定めて一切の有情より得。少分の理無し、支・因は説きて定まらず。支の定まらざるは、一切より得る有り、いわゆる苾芻律儀。四支より得る有り、いわゆる余の律儀、ただ根本業道を律儀支と名づくるゆえ。因の定まらざるは、あるいは義に由りて一切の因より、あるいは余の義に約りてただ一より許す。一切よりとは、いわゆる無貪・瞋・痴より、必ず倶に起るゆえ。ただ一よりとは、いわゆる下・中・上の心より、倶に起らざるゆえ。此中は且つ後の三因に就きて説く。あるいは一類の律儀に住する有りて、一切の有情において律儀を得、一切支に非ず一切因に非ず、いわゆる下心あるいは中あるいは上を以て近事・勤策の戒を受く。あるいは一類の律儀に住する有りて、一切の有情において律儀を得、一切支に由りて一切因に非ず、いわゆる下心あるいは中あるいは上を以て苾芻の戒を受く。あるいは一類の律儀に住する有りて、一切の有情において律儀を得、一切支および一切因に由りて、いわゆる三心を以て近事・勤策・苾芻の戒を受く。あるいは一類の律儀に住する有りて、一切の有情において律儀を得、一切因に由りて一切支に非ず、いわゆる三心を以て近事・近住・勤策の戒を受く。諸の有情に遍かざるに於て律儀を得る有る無し、一切の諸の有情の所において善の意楽に住して方に律儀を得るを以て、異なれば則ち然らず、悪意楽は全き息ならざるを以て。もし人は五種の定限を作さざれば、方に別解律儀を受得すべし、いわゆる有情・支・処・時・縁の定。有情の定とは、我はただ某の類の有情においてまさに殺等を離るべしと念ず。支の定と言うは、我はただ某の律儀の支においてまさに持して犯さざるべしと念ず。処の定と言うは、我はただ某の類の方域に住してまさに殺等を離るべしと念ず。時の定と言うは、我はただ一月等の時において能く殺等を離るべしと念ず。縁の定と言うは、我はただ闘戦等の縁を除きて能く殺等を離るべしと念ず。かくのごとき受くるは律儀を得ず、但だ律儀に相似たる妙行を得。能くする所に非ざる境において、如何にして律儀を得るか。普く有情において増上の命を損せざる意楽を発起するに由りて、ゆえに律儀を得。毘婆沙師に是の説を作す有り:もし一向に能くする所の境において方に別解律儀を受得すべしと謂わば、則ち此の律儀はまさに増減有るべし、能くする所の境と能くする所に非ざる二類の有情に転易有るを以て、かくのごとき便ち別解律儀は得・捨の縁を離れて得・捨の過有らん。彼は然らずと説く。生ずる草等の先に無くして後に起りあるいは起り已りて枯るるが如く、彼の律儀において増無く減無し。能・不能の境の得る所の律儀は、境の転易する時は例してもまたまさにこの如くあるべし。彼は然らずと言う。所以者何。諸の有情の前後は性等しく、草等の前後は性は同じからざるを以て。もし爾ならば、有情は般涅槃し已りて、前の如き性類は今の時に既に無し、彼の律儀において如何にして減無からん。かくの釋する所以は、理において然らず。前の説く所の因は理において善を為す。
若爾,前佛及所度生已涅槃者,後佛於彼既不發得別解律儀,如何屍羅無減前過?以一切佛別解律儀,皆從一切有情處得。設彼有情今猶在者,後佛從彼亦得律儀,故後屍羅無減前過。已說從彼得諸律儀。得不律儀定從一切有情業道,無少分境及不具支不律儀者。此定無有,由一切因下品等心無俱起故。若有一類由下品心得不律儀,後於異時由上品心斷眾生命,彼但成就下不律儀,亦成殺生上品表等。中品上品例此應知。此中何名不律儀者,謂諸屠羊屠鷄屠豬捕鳥捕魚、獵獸劫盜魁膾典獄、縛龍煮狗及罝弶等。等言類顯王典刑罰及餘聽察斷罪等人,但恆有害心。名不律儀者,由彼一類住不律儀。或有不律儀名不律儀者,言屠羊者,謂為活命要期盡壽恆欲害羊。餘隨所應當知亦爾。遍於有情界得諸律儀,其理可爾,由普欲利樂勝阿世耶而受得故,非屠羊等不律儀人於己至親有損害意,乃至為救自身命緣亦不欲殺,如何可說普於一切得不律儀?由彼至親若為羊等,於彼亦可有損害心。既知至親現非羊等,如何於彼可有害心?又聖必無作羊等理,如何於彼得不律儀?若觀未來羊等自體,於現相續得不律儀。是則羊等於未來世,亦有至親及聖自體,於彼決定無損害心。是則應觀未來自體,不於現在得不律儀。於羊等現身既有害意,如何不於彼得不律儀?於母等現身既無害意,如何亦於彼得不律儀?於等事中應求異理。又屠羊等不律儀人,於一生中不與不取,於己妻妾住知足心,瘂不能言無語四過,如何彼亦得具支不律儀?彼遍損善阿世耶故。雖瘂不言,而身表語所欲說義,故得具支。若爾,彼人或時先受二三學處,後但受殺,於餘不損善阿世耶,如何具發七支惡戒?毘婆沙者作如是言:必無缺支及餘一分可得名住不律儀人。經部諸師作如是說:隨所期限支具不具及全分一分皆得不律儀。
(論に続けて曰く:)もし爾ならば、前の仏および度する所の生は已に涅槃せしは、後の仏は彼において既に別解律儀を発得せざれば、如何にして尸羅は前の過を減ずる無きか。一切の仏の別解律儀は、皆一切の有情の処より得るを以て。設ひ彼の有情は今猶お在れば、後の仏は彼よりもまた律儀を得、ゆえに後の尸羅は前の過を減ずる無し。已に彼より諸の律儀を得るを説きたり。不律儀を得るは定めて一切の有情の業道より、少分の境および支を具せざる不律儀の有る無し。此は定めて有る無し、一切の因に由りて下品等の心は倶に起らざるゆえ。もし一類有りて下品の心に由りて不律儀を得て、後に異時に於て上品の心に由りて衆生の命を断てば、彼は但だ下の不律儀を成就し、もまた殺生の上品の表等を成ず。中品・上品は此に例してまさに知るべし。此中に何を不律儀と名づくるか、いわゆる諸の屠羊・屠鶏・屠猪・捕鳥・捕魚、獣を猟し・劫盗・魁膾・典獄、竜を縛り・狗を煮るおよび罝弶等。等の言は王の刑罰を典するおよび余の聴察して罪を断ずる等の人を類顕す、但だ恒に害心有り。不律儀と名づくるは、彼の一類は不律儀に住するに由る。あるいは不律儀有りて不律儀と名づく、屠羊と言うは、命を活す為に寿を盡くすを要期して恒に羊を害せんと欲するを謂う。余はその該ずる所に随いまさに知るべきこともまたこの如し。遍く有情界において諸の律儀を得るは、その理はこの如く可なり、普く利楽せんと欲する勝の阿世耶に由りて受得するゆえ、屠羊等の不律儀の人は己の至親において損害の意有るに非ざれば、乃至己の身命の縁を救わんが為にも殺さんと欲せず、如何にして普く一切において不律儀を得と説くべきか。彼の至親はもし羊等ならば、彼においてもまた損害の心有るべきに由る。既に至親は現に羊等に非ずと知れば、如何にして彼において害心有るべきか。また聖は必ず羊等を作すの理無し、如何にして彼において不律儀を得るか。もし未来の羊等の自体を観ずれば、現の相续において不律儀を得。是れ則ち羊等は未来世において、もまた至親および聖の自体有りて、彼において決定して損害の心無し。是れ則ちまさに未来の自体を観ずべく、現在において不律儀を得ず。羊等の現の身において既に害意有れば、如何にして彼において不律儀を得ざらん。母等の現の身において既に害意無ければ、如何にしてもまた彼において不律儀を得るか。等の事においてまさに異の理を求むべし。もまた屠羊等の不律儀の人は、一生中に与えずして取らず、己の妻妾において知足の心に住し、唖にして言う能わずして語の四過無し、如何にして彼もまた具支の不律儀を得るか。彼は遍く善の阿世耶を損ずるゆえ。唖にして言わずと雖も、而も身は語の欲す所の義を表す、ゆえに具支を得。もし爾ならば、彼の人はあるいは時に先に二三の学処を受けて、後に但だ殺を受け、余において善の阿世耶を損せざれば、如何にして具に七支の悪戒を発するか。毘婆沙者はかくの説を作す:必ず支を缺きおよび余の一分有るは住不律儀の人と名づくるを得べからず。経部の諸師はかくの説を作す:期限する所の支の具不具および全分・一分に随い皆不律儀を得、と。
律儀亦然,唯除八戒,由隨彼量善惡屍羅性相相違互相遮故。已說從彼得不律儀。得不律儀及餘無表,如何方便未說當說。頌曰:
律儀もまたこの如し、ただ八戒を除く、随いて彼の量の善悪の尸羅は性相は相違して互いに相遮るゆえ。已に彼より不律儀を得るを説きたり。不律儀および余の無表を得るは如何の方便か未だ説かず、まさに説かん。頌に曰く:
諸得不律儀,由作及誓受,
諸の不律儀を得るは、作および誓受に由り、
得所餘無表,由田受重行。
余の無表を得るは、田・受・重行に由る。
論曰:諸不律儀,由二因得:一者生在不律儀家,由初現行殺等加行;二者雖復生在餘家,由初要期受殺等事,謂我當作如是事業,以求財物養活自身,當於爾時便發惡戒。得餘無表由三種因:一者由田,謂於如是諸福田所施園林等,彼善無表初施便生,如說有依諸福業事。二者由受,謂自誓言:若未禮佛不先食等。或作誓限:於齋日月半月及年常施食等。三由重行,謂起如是殷重作意行善行惡。由此三因起餘無表。如是已說得律儀等,捨律儀等未說當說。且云何捨別解律儀?頌曰:
論に曰く:諸の不律儀は、二因に由りて得:一には不律儀の家に生まれて、初めに殺等の加行を現行するに由り、二には復た余の家に生ずると雖も、初めに殺等の事を受くるを要期するに由り、いわゆる我はまさにかくのごとき事業を作して、以て財物を求めて自身を養活せん、まさに爾の時に於て便ち悪戒を発す。余の無表を得るは三種の因に由る:一には田に由る、いわゆるかくのごとき諸の福田の所に園林等を施す、彼の善の無表は初めに施せば便ち生ず、依有る諸の福業の事を説くが如し。二には受に由る、いわゆる自ら誓う言に:もし未だ仏を礼せざれば先に食さざる等。あるいは誓限を作す:斎日・月半月および年に常に食等を施さんと。三に重行に由る、いわゆるかくのごとき殷重の作意を起して善行し悪行す。此の三因に由りて余の無表を起す。かくのごとき已に律儀等を得るを説きたり、律儀等を捨つるは未だ説かず、まさに説かん。且つ如何にして別解律儀を捨つるか。頌に曰く:
捨別解調伏,由故捨命終,
別解の調伏を捨つるは、故に捨て命終すに由り、
及二形俱生,斷善根夜盡。
および二形の倶に生ず、善根を断じ夜盡くる。
有說由犯重,餘說由法滅,
ある説に重を犯すに由り、余の説に法の滅するに由る、
迦濕彌羅說,犯二如負財。
迦湿弥羅は説く、二を犯すは財を負うが如し。
論曰:言調伏者,意顯律儀,由此能令根調伏故。唯除近住,所餘七種別解律儀,由四緣捨:一由意樂對有解人發有表業捨學處故、二由棄捨眾同分故、三由二形俱時生故、四由所因善根斷故。捨近住戒由前四緣及由夜盡,是故總說別解律儀由五緣捨。何緣捨戒由此五緣?與受相違表業生故、所依捨故、所依變故、所因斷故、過期限故。有餘部說:於四極重感墮罪中若隨犯一,亦捨勤策苾芻律儀。有餘部言:由正法滅亦能令捨別解律儀,以法滅時一切學處結界羯磨皆止息故。迦濕彌羅國毘婆沙師言:犯根本罪時,不捨出家戒。所以然者,非犯一邊一切律儀應遍捨故,非犯餘罪有斷屍羅。然有二名,謂持犯戒。如有財者負他債時,名為富人及負債者。若於所犯發露悔除,名具屍羅不名犯戒,如還債已但名富人。若爾,何緣薄伽梵說犯四重者不名苾芻、不名沙門非釋迦子?破苾芻體、害沙門性,壞滅墮落立他勝名。依勝義苾芻,密意作是說。此言兇勃。兇勃者何?謂於世尊了義所說,以別義釋令成不了,與多煩惱者為犯重罪緣。寧知此言是了義說。由律自釋有四苾芻:一名想苾芻、二自稱苾芻、三乞匃苾芻、四破惑苾芻。此義中言非苾芻者,謂非白四羯磨受具足戒苾芻。非此苾芻先是勝義,後由犯重成非苾芻,故知此言是了義說。然彼所說,非犯一邊一切律儀應遍捨者,彼言便是徵詰大師。大師此中立如是喻,如多羅樹若被斷頭必不復能生長廣大,諸苾芻等犯重亦然。大師此中喻顯何義?意顯於戒隨犯一邊根本重罪,令餘所受必不復能生長廣大。謂彼毀犯諸重罪時,違越苾芻根本行故、與極猛利無慚無愧共相應故。行根既斷,理應遍捨一切律儀。又犯重人,世尊不許食僧祇食下至一摶、踐毘訶羅一足跟地,擯出一切苾芻事業。
論に曰く:調伏と言うは、意は律儀を顕す、此に由りて能く根をして調伏せしむるゆえ。ただ近住を除きて、余の七類の別解律儀は、四縁に由りて捨つ:一に意楽に由りて解ある人に対して表有る業を発して学処を捨つるゆえ、二に衆同分を棄捨するゆえ、三に二形の倶時に生ずるゆえ、四に因と為す所の善根の断ずるゆえ。近住戒を捨つるは前の四縁および夜盡くるに由る、是れを以て総じて別解律儀は五縁に由りて捨つと説く。何の縁に戒を捨つるは此の五縁に由るか。受と相違する表業の生ずるゆえ、依る所を捨つるゆえ、依る所の変ずるゆえ、因と為す所の断ずるゆえ、期限を過ぐるゆえ。ある余部の説に:四の極重の感堕の罪中においてもし一に随い犯せば、もまた勤策・苾芻の律儀を捨つ、と。ある余部の説に:正法の滅するに由りてもまた能く別解律儀を捨てしむ、法の滅する時に一切の学処・結界・羯磨(僧団の作法)は皆止息するを以て。迦湿弥羅国の毘婆沙師は説く:根本の罪を犯す時は、出家の戒を捨てず。所以はこの如し、一辺を犯すに一切の律儀はまさに遍く捨つべきに非ざるゆえ、余の罪を犯すに尸羅を断ずる有るに非ず。しかるに二名有り、持・犯戒を謂う。財有る者の他の債を負う時に、富人および債を負う者と名づくるが如し。もし犯す所において発露して悔い除かば、尸羅を具すと名づきて犯戒と名づけず、債を還し已りて但だ富人と名づくるが如し。もし爾ならば、何の縁に薄伽梵は四重を犯すは苾芻と名づけず、沙門と名づけず釋迦の子に非ずと説くか。苾芻の体を破し、沙門の性を害し、壊滅して堕落して他勝の名を立つ。勝義の苾芻に依りて、密意に是の説を作す。此の言は凶勃。凶勃とは是れ何ぞ。世尊の了義の説く所において、別の義を以て釋して成らざらしむるを謂い、煩悩多き者と為して重罪の縁を犯す。寧ぞ此の言は是れ了義の説なるを知らんや。律に自ら四苾芻有りと釋す:一に名想苾芻、二に自称苾芻、三に乞討苾芻、四に破惑苾芻。此の義中に苾芻に非ずと言うは、白四羯磨に非ずして具足戒を受けたる苾芻を謂うに非ず。此の苾芻は先に是れ勝義にして、後に重を犯すに由りて非苾芻を成すに非ず、ゆえに此の言は是れ了義の説なるを知る。しかるに彼の説く所の、一辺を犯すに一切の律儀はまさに遍く捨つべきに非ずとは、彼の言は便ち大師を征詰す。大師は此中にかくの喩を立つ:多羅樹はもし頭を断たれれば必ず復た能く生長して広大ならず、諸の苾芻等の重を犯すもまたこの如し。大師は此中に喩して何の義を顕すか。意は戒において一辺の根本重罪を犯すに随いて、余の受けたる所をして必ず復た能く生長して広大ならざらしむるを顕す。彼の諸の重罪を毀犯する時に、苾芻の根本の行に違越するゆえ、極めて猛利の無慚無愧と共に相応するを謂うゆえ。行の根は既に断えば、理はまさに遍く一切の律儀を捨つべし。また重を犯す人は、世尊は僧祇の食を食すること下一抟に至るまで許さず、毘訶羅(寺院)の一足跟の地を践まるを許さず、一切の苾芻の事業より摈出す。
大師依彼說如是言:應速拔除稻禾稗莠,應速簡棄腐朽棟梁,應速簸颺種中穅秕,如是應速驅擯眾中實非苾芻稱苾芻者。彼苾芻體其相如何,隨相是何體必應有。以世尊說,準陀當知有四沙門,更無第五。所言四者:一勝道沙門、二示道沙門、三命道沙門、四汙道沙門。雖有此說,而彼唯有餘沙門相,故名沙門。如被燒材假鸚鵡𭪿涸池敗種火輪死人。若犯重人非苾芻者,則應無有授學苾芻。不說犯重人,皆成他勝罪;但成他勝罪,定說非苾芻。謂或有人相續殊勝,雖犯極重戒而非他勝罪,由彼無有一念覆心。法主世尊制立如是,若犯他勝便非苾芻。何不重令出家受戒?由彼相續已為極重無慚愧懷,無力能發出家律儀,如焦種故;非觀彼有苾芻律儀,故不重令出家受戒。所以然者,設彼後時謂是苾芻更捨所學,亦不許彼重出家故。於此無義,苦救何為?若如是人猶有苾芻性,應自歸禮如是類苾芻。正法滅時雖無一切結界羯磨及毘奈耶,未得律儀無新得理,而先得者無有捨義。靜慮、無漏二律儀等,云何當捨?頌曰:
(論に続けて曰く:)大師は彼に依りてかくの言を説く:まさに速やかに稲禾の稗莠を拔除すべし、まさに速やかに腐朽の棟梁を簡棄すべし、まさに速やかに種中の糠秕を簸揚すべし、かくのごときまさに速やかに衆中の実に苾芻に非ずして苾芻と称するを駆摈すべし。彼の苾芻の体はその相は如何、相に随うは是れ何の体か必ずまさに有るべし。世尊の説くを以て、準陀まさに知るべし四沙門有りて、更に第五無し。言う所の四とは:一に勝道沙門、二に示道沙門、三に命道沙門、四に污道沙門。此の説有ると雖も、而も彼はただ余の沙門の相有る、ゆえに沙門と名づく。焼かれたる材・假の鸚鵡の喙・涸れたる池・敗れたる種・火輪・死んだ人の如し。もし重を犯す人は苾芻に非ざれば、則ちまさに学を授くる苾芻有る無かるべし。重を犯す人を説かず、皆他勝の罪を成す;但だ他勝の罪を成ずれば、定めて苾芻に非ずと説く。いわゆるあるいは人有りて相续は殊勝にして、極重の戒を犯すと雖も而も他勝の罪に非ず、彼に一念の覆心有る無きに由る。法主世尊はかくのごときを制立す、もし他勝を犯せば便ち苾芻に非ず。何ぞ重ねて出家して戒を受けしめざるか。彼の相续は已に極重の無慚愧に懷かれて、力は能く出家の律儀を発する無し、焦げたる種の如きゆえ。彼に苾芻の律儀有るを観ぜざるに非ず、ゆえに重ねて出家して戒を受けしめず。所以はこの如し、設ひ彼は後時に是れ苾芻と謂いて更に学ぶ所を捨てんとも、もまた彼に重ねて出家することを許さざるゆえ。此において義無きは、苦しんで救うは何の為か。もしかくのごとき人は猶お苾芻の性有らば、まさに自らかくのごとき類の苾芻に帰礼すべし。正法の滅する時は一切の結界・羯磨および毘奈耶無しと雖も、未だ律儀を得ざるは新たに得の理無く、而も先の得たるは捨の義有る無し。静慮・無漏の二律儀等は、如何にしてまさに捨てんとするか。頌に曰く:
捨定生善法,由易地退等,
定生の善法を捨つるは、地を易え退する等に由り、
捨聖由得果,練根及退失。
聖を捨つるは果を得、根を練るおよび退失に由る。
論曰:諸靜慮地所繫善法,由二緣捨:一由易地,謂從下地生上地時,或上地沒來生下地;二由得退,謂從已獲勝定功德還退失時。等言為顯捨眾同分亦捨少分殊勝善根,如色界中所有善法由易地退捨,無色界亦然,唯無律儀與色界異。無漏善法由三緣捨:一由得果,謂得果時捨前向道及果道故;二由練根,謂練根位由得利道捨鈍道故;三由退失,謂得退時退失果道勝果道故。如是已說捨諸律儀。不律儀云何捨?頌曰:
論に曰く:諸の静慮地の繫する所の善法は、二縁に由りて捨つ:一に地を易るに由り、いわゆる下地より上地に生ずる時、あるいは上地に没して下地に生ず;二に得退に由り、いわゆる已に勝定の功徳を獲たるより還りて退失する時。等の言は是れ衆同分を捨つるもまた少分の殊勝の善根を捨つるを顕さんが為、色界中の所有する善法は地を易え退して捨つるが如く、無色界もまたこの如し、ただ律儀無きは色界と異なり。無漏の善法は三縁に由りて捨つ:一に果を得るに由り、いわゆる果を得る時に前の向道および果道を捨つるゆえ;二に根を練るに由り、いわゆる根を練る位は利道を得るに由りて鈍道を捨つるゆえ;三に退失に由り、いわゆる退を得る時に果道を退失し勝果道を退失するゆえ。かくのごとき已に諸の律儀を捨つるを説きたり。不律儀は如何にして捨つるか。頌に曰く:
捨惡戒由死,得戒二形生。
悪戒を捨つるは死に由り、戒を得二形の生ず。
論曰:諸不律儀,由三緣捨:一者由死捨所依故。二由得戒,謂若受得別解律儀,或由獲得靜慮律儀,惡戒便捨。由因緣力得律儀時,諸不律儀一切皆斷,以善惡戒其性相違,善戒於中勢力強故。三由相續二形俱生,以於爾時所依變故。住惡戒者,雖或有時起不作思捨刀網等,若不受得諸善律儀,諸不律儀無容棄捨。譬如雖避發病因緣,不服良藥病終難愈。不律儀者受近住戒,至夜盡位捨律儀時,為得不律儀、為名處中者?有餘師說:得不律儀,惡阿世耶非永捨故,如停熱鐵赤滅青生。有餘師言:若不更作,無緣令彼得不律儀,以不律儀依表得故。處中無表捨復云何?頌曰:
論に曰く:諸の不律儀は、三縁に由りて捨つ:一には死に由りて依る所を捨つるゆえ。二に戒を得るに由り、いわゆるもし別解律儀を受得し、あるいは静慮律儀を獲得するに由りて、悪戒は便ち捨つ。因縁の力に由りて律儀を得る時に、諸の不律儀は一切は皆断たる、善悪の戒はその性は相違し、善戒は其の中に於て勢力は強きを以て。三に相续して二形倶に生ずるに由り、爾の時に於て依る所の変ずるを以て。悪戒に住するは、あるいは時に不作の思を起して刀網等を捨つる有ると雖も、もし諸の善律儀を受得せざれば、諸の不律儀は棄捨するを容れず。譬えば病を発する因縁を避くると雖も、良薬を服せざれば病は終に愈え難きが如し。不律儀の者は近住戒を受けて、夜の盡くる位に至りて律儀を捨つる時に、是れ不律儀を得るか、是れ中に処すると名づくるか。ある余師の説に:不律儀を得、悪の阿世耶は永く捨つるに非ざるゆえ、熱き鐵を停むれば赤は滅して青生ずるが如し。ある余師の説に:もし更に作さざれば、彼をして不律儀を得せしむる縁無し、不律儀は表に依りて得るを以て。中に処する無表を捨つるは復た如何。頌に曰く:
捨中由受勢,作事壽根斷。
中を捨つるは受・勢に由り、事を作し寿・根の断ず。
論曰:處中無表,捨由六緣:一由受心斷壞故捨,謂捨所受,作是念言:我從今時棄先所受。二由勢力斷壞故捨,謂由淨信煩惱勢力所引無表,彼二限勢若斷壞時無表便捨,如所放箭及陶家輪,弦等勢力盡時便止。三由作業斷壞故捨,謂如所受後更不作。四由事物斷壞故捨。事物者何?謂所捨施寺舍敷具制多園林,及所施為罝網等事。五由壽命斷壞故捨,謂所依止有轉易故。六由善根斷壞故捨,謂起加行斷善根時,便捨善根所引無表欲非色善,及餘一切非色染法。捨復云何?頌曰:
論に曰く:中に処する無表は、六縁に由りて捨つ:一に受の心の断壞するに由りて捨つ、いわゆる受けたる所を捨て、是の念を作して説く:我は今の時より先の受けたる所を棄てんと。二に勢力の断壞するに由りて捨つ、いわゆる浄信・煩悩の勢力の引く所の無表は、彼の二の限勢はもし断壞する時に無表は便ち捨つ、放つ所の箭および陶家の輪の如く、弦等の勢力の盡くる時に便ち止む。三に作業の断壞するに由りて捨つ、いわゆる受けたる所の如く後に更に作さず。四に事物の断壞するに由りて捨つ。事物とは是れ何ぞ。捨つる所の施したる寺舎・敷具・制多・園林、および施したる罝網等の事を為す所を謂う。五に寿命の断壞するに由りて捨つ、いわゆる依止する所に転易有るゆえ。六に善根の断壞するに由りて捨つ、いわゆる加行を起して善根を断ずる時に、便ち善根の引く所の無表・欲の非色の善、および余の一切の非色の染法を捨つ。捨は復た如何。頌に曰く:
捨欲非色善,由根斷上生,
欲の非色の善を捨つるは、根断・上生に由り、
由對治道生,捨諸非色染。
対治の道の生ずるに由りて、諸の非色の染を捨つ。
