Libo

説一切有部倶舎論 巻第二十五

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第35巻 / 38

他心修生呪,又加占相成,

他心は修・生・呪、また占相の成を加ふ。

三修生業成,除修皆三性,

三は修・生・業の成。修を除きて皆三性。

人唯無生得,地獄初能知。

人はただ生得無し。地獄の初めは能く知る。

論曰:神境智類總有五種:一修得、二生得、三呪成、四藥成、五業成。曼馱多王及中有等諸神境智是業成攝。他心智類總有四種,前三如上,加占相成。餘三各三,謂修、生、業。除修所得,皆通善等。非定果故不得通名。人中都無生所得者,餘皆容有。隨其所應本性生念業所成攝。於地獄趣初受生時,唯以生得他心、宿住,知他心等及過去生,苦受逼已更無知義。若生餘趣,如應當知。

論に曰く:神境智の類は総じて五種有り。一は修得、二は生得、三は呪成、四は薬成、五は業成。曼駄多王(転輪王の名)および中有等の諸の神境智は是れ業成の摂。他心智の類は総じて四種有り。前の三は上のごとく、占相の成を加ふ。其余の三は各々三。いわゆる修・生・業。修の得る所を除きて、皆善等に通ず。定果に非ざるがゆえに通の名を得ず。人の中は生得の得る所は都て無し。其余は皆容そ有り。其の該る所に随って本性の生・念・業の成ずる所の摂。地獄の趣に於いて初めて生を受くる時は、ただ生得の他心・宿住を以て、他の心等および過去の生を知る。苦受に逼せられ已りて更に知るの義無し。もし其余の趣に生ぜば、該るごとく当に知るべし。

説一切有部倶舎論 巻第二十七

アビダルマ倶舎論 巻第二十八

尊者世親造

尊者世親造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別定品第八之一

分別定品 第八之一

已說諸智所成功德,餘性功德今次當辯,於中先辯所依止定。且諸定內靜慮云何?頌曰:

已に諸智の成ずる所の功徳を説けり。其余の性の功徳は今次に当に弁ずべし。中に於いて先に依止する所の定を弁ず。且つ諸の定の内の静慮は如何。頌に曰く、

靜慮四各二,於中生已說,

静慮は四、各々二。中生は已に説けり。

定謂善一境,並伴五蘊性,

定とは善の一境。伴を并せて五蘊性。

初具伺喜樂,後漸離前支。

初は具に伺・喜・楽。後は漸く前支を離る。

論曰:一切功德多依靜慮,故應先辯靜慮差別。此總有四種,謂初二三四,四各有二,謂定及生。生靜慮體世品已說,謂第四八,前三各三。定靜慮體總而言之是善性攝心一境性,以善等持為自性故;若並助伴,五蘊為性。何名一境性?謂專一所緣。若爾,即心專一境位,依之建立三摩地名,不應別有餘心所法。別法令心於一境轉名三摩地,非體即心。豈不諸心剎那滅故皆一境轉,何用等持?若謂令心於第二念不散亂故須有等持,則於相應等持無用。又由此故三摩地成。寧不即由斯心於一境轉?又三摩地是大地法,應一切心皆一境轉。不爾,餘品等持劣故。有餘師說:即心一境相續轉時名三摩地,契經說此為增上心學故,心清淨最勝即四靜慮故。依何義故立靜慮名?由此寂靜能審慮故。審慮即是實了知義,如說心在定,能如實了知,審慮義中置地界故。此宗審慮以慧為體。若爾,諸等持皆應名靜慮。不爾,唯勝方立此名。如世間言發光名日,非螢燭等亦得日名。靜慮如何獨名為勝?諸等持內唯此攝支,止觀均行最能審慮,得現法樂住及樂通行名,故此等持獨名靜慮。若爾,染汙寧得此名?由彼亦能邪審慮故,是則應有太過之失。無太過失,要相似中方立名故,如敗種等。世尊亦說有惡靜慮。若一境性是靜慮體,依何相立初二三四?具伺喜樂建立為初,由此已明亦具尋義,必俱行故,如煙與火。非伺有喜樂,而不與尋俱。漸離前支立二三四,離伺有二,離二有樂,具離三種。如其次第,故一境性分為四種。已辯靜慮。無色云何?頌曰:

論に曰く:一切の功徳は多く静慮に依る。ゆえに応に先に静慮の差別を弁ずべし。此れは総じて四種有り。いわゆる初・二・三・四。四は各々二有り。いわゆる定および生。生静慮の体は世品に已に説けり。いわゆる第四は八、前の三は各々三。定静慮の体は総じて言えば是れ善性の摂する心の一境性。善の等持を以て自性と為すがゆえに。もし助伴を并せば、五蘊を以て性と為す。何をか一境性と名づくるか。いわゆる専ら所縁を一にす。もしそうならば、即ち心の一境に専なる位に、之に依って三摩地の名を建立す。応に別に其余の心所法有るべからず。別法は心をして一境に転ぜしめて名づけて三摩地。体即ち心に非ず。豈に諸心は刹那滅するがゆえに皆一境に転ずるにあらずや。何ぞ等持を用いん。もし謂わば心をして第二念に散乱ならしめざるがゆえに須らく等持あるべしと。則ち相応する等持に於いて用無し。また此に由って三摩地成るがゆえに。寧ろ即ち斯の心に由って一境に転一境に転ぜざらんや。また三摩地は是れ大地法。応に一切の心は皆一境に転ずべし。そうにはあらず。其余の品は等持劣れるがゆえに。其余の師有りて説く:即ち心は一境に相続して転ずる時を名づけて三摩地。契経は此を増上心学と説くがゆえ、心の清浄の最勝は即ち四静慮なるがゆえに。何の義に依ってか静慮の名を立つるか。此に由って寂静にして能く審慮するがゆえに。審慮は即ち是れ実に了知するの義。説くがごとく心は定に在れば能く如実に了知すと。審慮の義の中に地界を置くがゆえに。此の宗は審慮は慧を以て体と為す。もしそうならば、諸の等持は皆応に名づけて静慮なり。そうにはあらず。ただ勝のみ方に此の名を立つ。世間の発光を名づけて日と言うがごとく、螢・燭等もまた日の名を得るに非ず。静慮は如何にして独り名づけて勝か。諸の等持の内にただ此れは支を摂し、止観は均しく行して最も能く審慮し、現法楽住および楽通行の名を得。ゆえに此の等持は独り名づけて静慮。もしそうならば、染汚は寧ろ此の名を得んや。彼もまた能く邪審慮するに由るがゆえに、是れ則ち応に太過の失有るべし。太過の失無し。要ずるに相似なる中に於いて方に名を立つるがゆえに。敗種等のごとし。世尊もまた悪の静慮有りと説きたまえり。もし一境性は静慮の体ならば、何の相に依ってか初・二・三・四を立つるか。具に伺・喜・楽を建立して初と為す。此に由って已に尋の義を具するを明かす。必ず俱に行ずるがゆえに。煙と火とのごとし。伺有りて喜・楽有りて、而も尋と俱ならざるに非ず。漸く前支を離れて二・三・四を立つ。伺を離れて二有り、二を離れて楽有り、具に三種を離る。次第のごとく、ゆえに一境性は分かれて四種と為す。已に静慮を弁じたれば。無色は如何。頌に曰く、

無色亦如是,四蘊離下地,

無色もまた此のよう。四蘊は下の地を離れ、

並上三近分,總名除色想,

上の三近分を并せて、総じて色想を除くと名づく。

無色謂無色,後色起從心。

無色とは色無きを謂う。後の色の起るは心よりす。

空無邊等三,名從加行立,

空・無辺等の三は、名は加行より立つ。

非想非非想,昧劣故立名。

非想・非非想は、昧劣なるがゆえに名を立つ。

論曰:此與靜慮數自性同,謂四各二。生如前說,即世品說由生有四。定無色體,總而言之亦善性攝心一境性。依此故說亦如是言。然助伴中此除色蘊,無色無有隨轉色故。雖一境性體相無差,離下地生故分四種。謂若已離第四靜慮生立空無邊處,乃至已離無所有處生立非想非非想處。離名何義?謂由此道解脫下地惑,是離下染義。即此四根本並上三近分,總說名為除去色想。空處近分未得此名,緣下地色起色想故。皆無色故立無色名,此因不成,許有色故。若爾,何故立無色名?由彼色微故名無色,如微黃物亦名無黃。許彼界中色有何相?若彼唯有身語律儀。身語既無,律儀寧有?又無大種,何有造色?若謂如有無漏律儀。不爾,無漏依有漏大種故,又彼定中亦遮有故。若許於彼有色根身,如何可言彼色微少?若謂於彼身量小故,水細蟲極微亦應名無色,亦身量小不可見故。若謂彼身極清妙故,中有色界應名無色。若謂彼身清妙中極,應唯有頂得無色名。如定生身有勝劣故,又生靜慮所有色身非下地根所能取故,與彼何異不名無色?若謂欲色隨義立名,無色不然。此有何理?若謂經說壽煖合故,又說名色與識相依如二蘆束相依住故,又說名色識為緣故,又遮離色乃至離行識有來有去故,由此無色有色理成。此證不成,應審思故。謂所引教應共審思,且契經言壽煖合者,為約一切界、為約欲界說?名色與識相依住者,為約一切界、為約欲色說?所說名色識為緣者,為說一切識皆為名色緣、為說名色生無不緣於識?遮離色至行識有來去者,為遮隨離一、為遮離一切?若謂契經言無簡別,不應於此更致審思。此說不然,太過失故。謂應外煖亦與壽合。又應外名色依識識為緣。又說四食如四識住,色無色界應有段食。

論に曰く:此れは静慮と数・自性同じ。いわゆる四各々二。生は前の説くがごとく、即ち世品に生に由って四有りと説けり。定の無色の体は、総じて言えばもまた善性の摂する心の一境性。此に依って説くもまた此のようの言。しかし助伴の中に此れは色蘊を除く。無色は随転の色有ること無きがゆえに。一境性の体相は差無しと雖も、下の地の生を離るるがゆえに四種に分かつ。いわゆるもし已に第四静慮の生を離れたれば空無辺処を立て、乃至已に無所有処の生を離れたれば非想非非想処を立つ。離の名は何の義か。いわゆる此の道に由って下の地の惑を解脱す。是れ下の染を離るるの義。即ち此の四根本并びに上の三近分は、総じて説いて名づけて色想を除去す。空処の近分は未だ此の名を得ず。下の地の色に縁じて色想を起すがゆえに。皆色無きがゆえに無色の名を立つるは、此の因は成らず。色有るを許すがゆえに。もしそうならば、何の故にか無色の名を立つるか。彼の色微なるに由るがゆえに名づけて無色。微黄の物もまた名づけて無黄とするがごとし。彼の界の中に色有るを許せば何の相か。もし彼はただ身・語の律儀有らば。身・語すでに無ければ、律儀は寧ろ有らんや。また大種無ければ、何ぞ造色有らん。もし謂わば無漏の律儀有るがごとく。そうにはあらず。無漏は有漏の大種に依るがゆえ、また彼の定の中もまた有るを遮るがゆえに。もし彼に於いて色の根身有るを許さば、如何にして彼の色微少と説くべきか。もし謂わば彼に於いて身量小なるがゆえに。水の細虫・極微もまた応に名づけて無色なり。もまた身量小にして見るべからざるがゆえに。もし謂わば彼の身は極めて清妙なるがゆえに。中有・色界は応に名づけて無色なり。もし謂わば彼の身は清妙の中の極。応にただ有頂のみ無色の名を得べし。定生の身に勝劣有るがごとく、また静慮に生ずる所有の色身は下の地の根の取る能くする所に非ざるがゆえに、彼と何の異なりて無色と名づけざるか。もし謂わば欲・色は義に随って名を立て、無色は此のようにはあらずと。此れに何の理有るか。もし謂わば経に寿・煖は合すと説くがゆえ、また名色と識とは相依ること二つの蘆束の相依りて住するがごとしと説くがゆえ、また名色は識を縁と為すと説くがゆえ、また色を離れ乃至行を離れて識の往来有るを遮るがゆえに、此に由って無色に色有りの理成ず。此の証は成らず。応に審らかに思うべきがゆえに。いわゆる引く所の教は応に共に審思すべし。且つ契経に寿・煖は合すと説くは、為に一切界に約するか、為に欲界に約して説くか。名色と識と相依りて住するは、為に一切界に約するか、為に欲・色に約して説くか。説く所の名色は識を縁と為すは、為に一切の識は皆名色の縁と為すと説くか、為に名色の生は識に縁せざる無しと説くか。色を離れ行に至る識の往来有るを遮るは、為に一に離るるに随うを遮るか、為に一切を離るるを遮るか。もし謂わば契経は簡別無しと説く。応に此に於いて更に審思を致すべからず。此の説は此のようにはあらず。太過の失あるがゆえに。いわゆる応に外の煖もまた寿と合すべし。また応に外の名色は識に依り識を縁と為すべし。また四食を説いて四識住のごとくせば、色・無色界は応に段食有るべし。

若謂經說有一類天超段食故,又說彼天喜為食故,無斯過者,則無色界不應有色,契經說彼出離色故。又契經言:無色解脫最為寂靜,超諸色故。又契經說:無色有情,一切色想皆超越故。若無色界實有色者,定應彼色自相可知,如何可言超色想等?若謂觀下麁色故說,則於段食亦應許然。又諸靜慮超下麁色,亦應可說出離色言,是則亦應名無色界。又亦應說出離受等,彼亦超下麁受等故。經既不說,知無色中遍超色類,非超受等。由此定知,彼界無色。然契經中說有不出有者,於自地有不能出故,非遍出故、非永出故。又薄伽梵於靜慮中說有色類乃至識類,於無色中說有受類乃至識類,不說有色。若無色中實有色者,何不如靜慮說有色類言?故所立因無不成過。在彼多劫色相續斷,後歿生下色從何生?此從心生,非從色起。謂昔所起色異熟因燻習在心,功能今熟,是故今色從彼心生。彼無色身心依何轉?離身何不轉?下曾不見故。色界無段食,身復依何轉?下亦不見身離段食轉故。又先說彼心轉所依,已釋總名,空無邊等從緣空等得別名耶?不爾。云何?下三無色,如其次第修加行時,思無邊空及無邊識、無所有故建立三名。立第四名由想昧劣,謂無明勝想得非想名,有昧劣想故名非非想。雖加行時亦作是念:諸想如病如箭如癰。若想全無便同痴闇,唯有非想非非想中與上相違寂靜美妙,而不就此加行立名。以若詰言何緣加行作如是念?必應答言以於彼處想昧劣故。由此昧劣故,是立名正因。已辯無色。云何等至?頌曰:

(論に引き続き曰く:)もし謂わば経に一類の天有りて段食を超ゆと説くがゆえ、また彼の天は喜を食と為すと説くがゆえ、斯の過無しと。則ち無色界は応に色有るべからず。契経に彼は色を出離すと説くがゆえに。また契経に説く:無色の解脱は最も寂静にして、諸の色を超ゆるがゆえに。また契経に説く:無色の有情は、一切の色想は皆超越せるがゆえに。もし無色界に実に色有らば、定めて彼の色は自相可知なるべし。如何にして色想等を超ゆと説くべきか。もし謂わば下の粗色を観ずるがゆえに説くと。則ち段食に於いてもまた応に此のようを許すべし。また諸の静慮は下の粗色を超ゆ。応にもまた色を出離すの言を説くべし。是れ則ち応にもまた名づけて無色界なり。また応にもまた受等を出離すと説くべし。彼もまた下の粗受等を超ゆるがゆえに。経すでに説かざれば、無色の中は遍く色の類を超えて、受等を超ゆるに非ずと知る。此に由って定めて知る、彼の界は色無し。しかし契経の中に出づる有るを説かざるは、自地の有に於いて能く出づることなきがゆえに。遍く出づるに非ざるがゆえ、永く出づるに非ざるがゆえに。また薄伽梵は静慮の中に於いて色類有り乃至識類と説き、無色の中に於いて受類有り乃至識類と説きて、色有りと説かず。もし無色の中に実に色有らば、何ぞ静慮のごとく色類有りの言を説かざるか。ゆえに立てる所の因は不成の過無し。彼に於いて多劫に色の相続は断え、後に歿して下に生ずるは色は何より生ずるか。此れは心より生じ、色より起るに非ず。いわゆる昔の起したる所の色の異熟因は心に熏習し、功能は今熟す。此のゆえに今の色は彼の心より生ず。彼の無色の身・心は何に依ってか転ずるか。身を離れて何ぞ転転ぜざらんや。下は曾て見ざるがゆえに。色界は段食無くして、身は復た何に依ってか転ずるか。下もまた身は段食を離れて転ずるを見ざるがゆえに。また先に彼の心の転ずる依る所を説けり。已に総名を釋せり。空・無辺等は空等に縁ずるより別名を得るか。そうにはあらず。如何。下の三無色は、次第のごとく加行を修する時、無辺の空および無辺の識・無所有を思うがゆえに三名を建立す。第四の名を立つるは想の昧劣なるに由る。いわゆる明の勝れる想無きを以て非想の名を得。昧劣の想有るがゆえに名づけて非非想。加行の時にもまた是の念を作すと雖も:諸の想は病のごとく箭のごとく癰のごとし。もし想は全く無ければ便ち癡暗に同じ。ただ非想非非想の中のみ上と相違して寂静美妙なり。而も此の加行に就いて名を立てず。もし詰えば何の縁にか加行は此のようの念を作すか、必ず応に答えて彼の処に於いて想の昧劣なるを以てと説くべきがゆえに。此の昧劣なるに由るがゆえに、是れ名を立つる正因。已に無色を弁じたれば。等至は如何。頌に曰く、

此本等至八,前七各有三,

此の根本の等至は八。前の七は各々三有り。

謂味淨無漏,後味淨二種,

いわゆる味・浄・無漏。後は味・浄の二種。

味謂愛相應,淨謂世間善,

味とは愛に相応するを謂い、浄とは世間の善を謂う。

此即所味著,無漏謂出世。

此れ即ち味着する所。無漏とは出世を謂う。

論曰:此上所辯靜慮無色。根本等至總有八種,於中前七各具有三,有頂等至唯有二種,此地昧劣無無漏故。初味等至,謂愛相應,愛能味著故名為味,彼相應故此得味名。淨等至名目世善定,與無貪等諸白淨法相應起故,此得淨名。即味相應所味著境,此無間滅彼味定生。緣過去淨深生味著,爾時雖名出所味定,於能味定得名為入。無漏定者,謂出世定,愛不緣故非所味著。如是所說八等至中靜慮攝支,非諸無色。於四靜慮各有幾支?頌曰:

論に曰く:此の上の弁ずる所の静慮・無色は、根本の等至は総じて八種有り。中に於いて前の七は各々具に三、有頂の等至はただ二種有り。此の地は昧劣にして無漏無きがゆえに。初めの味等至とは、いわゆる愛に相応する。愛は能く味着するがゆえに名づけて味。彼に相応するがゆえに此れ味の名を得。浄等至の名は目して世の善定。無貪等の諸の白浄の法と相応して起るがゆえに、此れ浄の名を得。即ち味に相応する味着する所の境は、此れ無間に滅して彼の味定は生ず。過去の浄に縁じて深く味着を生ずるは、爾の時は名づけて味する所の定を出出づると雖も、能く味する定に於いて名づけて入を得。無漏定とは、いわゆる出世の定。愛は縁ぜざるがゆえに味着する所に非ず。此のようの説く所の八等至の中に静慮は支を摂す。諸の無色に非ず。四静慮に於いて各々幾支有るか。頌に曰く、

靜慮初五支,尋伺喜樂定;

静慮の初めは五支。尋・伺・喜・楽・定。

第二有四支,內淨喜樂定;

第二に四支有り。内浄・喜・楽・定。

第三具五支,捨念慧樂定;

第三は具に五支。捨・念・慧・楽・定。

第四有四支,捨念中受定。

第四に四支有り。捨・念・中受・定。

論曰:唯淨無漏四靜慮中初具五支:一尋、二伺、三喜、四樂、五等持。此中等持頌說為定,等持與定名異體同,故契經說心定等定名正等持。此亦名為心一境性,義如前釋。傳說唯定是靜慮亦靜慮支,餘四支是靜慮支非靜慮。如實義者,如四支軍,餘靜慮支應知亦爾。第二靜慮唯有四支:一內等淨、二喜、三樂、四等持。第三靜慮具有五支:一行捨、二正念、三正慧、四受樂、五等持。第四靜慮唯有四支:一行捨清淨、二念清淨、三非苦樂受、四等持。靜慮支名既有十八,於中實事總有幾種?頌曰:

論に曰く:ただ浄・無漏の四静慮の中に初は具に五支。一は尋、二は伺、三は喜、四は楽、五は等持。此の中の等持は頌に定と説く。等持と定とは名異なりて体同じ。ゆえに契経に心・定・等定を説いて名づけて正等持。此れもまた名づけて心一境性。義は前の釋のごとし。伝え聞くただ定のみ是れ静慮にしてもまた静慮支。其余の四支は是れ静慮支にして静慮に非ず。実義のごときは、四支の軍のごとし。其余の静慮支は応に知るべしもまた此のよう。第二静慮はただ四支有り。一は内等浄、二は喜、三は楽、四は等持。第三静慮は具に五支有り。一は行捨、二は正念、三は正慧、四は受楽、五は等持。第四静慮はただ四支有り。一は行捨清浄、二は念清浄、三は非苦楽受、四は等持。静慮支の名はすでに十八有れば、中に於いて実事は総じて幾種有るか。頌に曰く、

此實事十一,初二樂輕安,

此の実事は十一。初・二の楽は軽安。

內淨即信根,喜即是喜受。

内浄は即ち信根。喜は即ち是れ喜受。

論曰:此支實事唯有十一,謂初五支即五實事。第二靜慮三支如前,增內淨支足前為六。第三靜慮等持如前,增餘四支足前為十。第四靜慮三支如前,增非苦樂支足前為十一。由此故說,有是初支非第二支,應作四句。第一句謂尋伺。第二句謂內淨。第三句謂喜、樂、等持。第四句。謂除前餘法。餘支相對,如理應思。何故第三說增樂受?由初二樂,輕安攝故。何理為證知是輕安?初二定中無樂根故。非初二定有身受樂,正在定中無五識故。亦無心受樂,以說有喜故。喜即喜受,無一心中二受俱行,故無樂受。不可喜樂更互現前,說具五支及四支故。有說:無有心受樂根,三靜慮中說樂支者,皆是身受所攝樂根。若爾,何故有契經說:云何樂根?謂順樂觸力所引生身心樂受。有餘於此增益心言,諸部經中唯說身故。又第三定所立樂支,契經自說為身所受樂故。若謂於此說意為身,此說身名為有何德?又第四定輕安倍增,而不說彼有樂支故。若謂輕安要順樂受方名為樂,第三靜慮輕安順樂應是樂支。若謂彼輕安為行捨所損。不爾,行捨增輕安故。又彼輕安勝前二故。又契經說:若於爾時諸聖弟子於離生喜身作證具足住,彼於爾時已斷五法,修習五法皆得圓滿,廣說乃至何等名為所修五法?一歡、二喜、三輕安、四樂、五三摩地。此經輕安與樂別說,故初二樂非即輕安。若言定中寧有身識?有亦無失,許在定中有輕安風勝定所起,順生樂受遍觸身故。若謂外散故應失壞定者,無如是失,此輕安風從勝定生,引內身樂還能順起三摩地故。若謂起身識應名出定者,此難不然,由前因故。若謂依止欲界身根不應得生色界觸識,緣輕安識,許生無過。若爾,正在無漏定中觸及身識應成無漏。勿所立支少分有漏、少分無漏,成違理失。無違理失。所以者何?許說身輕安是覺支攝故。若謂順彼故說覺支,無漏亦應許如是說。

論に曰く:此の支の実事はただ十一有り。いわゆる初の五支は即ち五の実事。第二静慮は三支は前のごとく、内浄支を増して前を足して六と為す。第三静慮は等持は前のごとく、其余の四支を増して前を足して十と為す。第四静慮は三支は前のごとく、非苦楽支を増して前を足して十一と為す。此に由って説くがゆえに、是れ初支にして第二支に非ざる有り、応に四句を作すべし。第一句とは尋・伺を謂う。第二句とは内浄を謂う。第三句とは喜・楽・等持を謂う。第四句とは、前を除く其余の法を謂う。其余の支の相対は、理のごとく応に思うべし。何の故にか第三に増す楽受を説くか。初・二の楽に由る、軽安の摂なるがゆえに。何の理を以て証して是れ軽安を知るか。初・二の定の中に楽根無きがゆえに。初・二の定に身受の楽有るに非ず。正しく定の中に五識無きがゆえに。もまた心受の楽無し。喜有りと説くを以て。喜は即ち喜受。一心の中に二受の俱に行ずる無し。ゆえに楽受無し。喜・楽の更互に現前すべからず。具に五支および四支を説くがゆえに。ある説に、心受の楽根有ること無し。三静慮の中に楽支を説くは、皆是れ身受の摂する所の楽根。もしそうならば、何の故にか契経有りて説く:何をか楽根とするか。いわゆる楽に順ずる触の力の引生する所の身心の楽受。其余有りて此に於いて心の言を增益す。諸部の経の中は但だ身を説くがゆえに。また第三定の立てる所の楽支は、契経が自ら身の受くる所の楽と説くがゆえに。もし謂わば此に於いて意を説いて身と為す。此の身を説く名は為に何の徳有るか。また第四定は軽安は倍増すれど、而も彼に楽支有りと説かざるがゆえに。もし謂わば軽安は要ずるに楽受に順ぜて方に名づけて楽。第三静慮の軽安は楽に順ずれば応に是れ楽支なり。もし謂わば彼の軽安は行捨の損ずる所と為す。そうにはあらず。行捨は軽安を増すがゆえに。また彼の軽安は前の二に勝れるがゆえに。また契経に説く:もし爾の時に於いて諸の聖弟子は生を離るるの喜を身に作証して具足に住せば、彼は爾の時に於いて已に五法を断じ、五法を修習して皆円満を得。広く説き乃至何等をか名づけて修する所の五法とするか。一は歓、二は喜、三は軽安、四は楽、五は三摩地。此の経は軽安と楽と別に説く。ゆえに初・二の楽は即ち軽安に非ず。もし説かば定の中に寧ろ身識有らんや。有るもまた失無し。定の中に軽安の風の勝定の起す所有りて、楽受を順生して遍く身に触るるを許すがゆえに。もし謂わば外に散ずるがゆえに応に定を失壊すべしと。此のようの失無し。此の軽安の風は勝定より生じ、内の身楽を引きて還って能く三摩地を順起するがゆえに。もし謂わば身識を起すは応に名づけて定を出づると。此の難は此のようにはあらず。前の因に由るがゆえに。もし謂わば欲界の身根に依止して応に色界の触識の生ずるを得べからず、軽安に縁ずる識は、生ずるを許して過無し。もしそうならば、正しく無漏定の中の触および身識は応に無漏を成ずべし。立てる所の支に少分は有漏・少分は無漏と為るは、理に違するの失を成ぜんこと勿れ。理に違するの失無し。所以は何ぞや。身の軽安は是れ覚支の摂なるを説くを許すがゆえに。もし謂わば彼に順ずるがゆえに覚支を説く。無漏もまた応に此のようの説を許すべし。

若謂許說,便違契經。如契經言:諸所有眼乃至廣說。此經中說十五界全皆有漏故,無違經過,此約餘觸及餘身識密意說故。如何無漏靜慮現前,少支有漏、少支無漏?起不俱時,斯有何失。若謂喜樂不俱起故,應無五支及四支理。此亦無過,約容有說有喜樂支,如有尋伺。若謂尋伺亦許俱起,於不俱起為喻不成。此非不成,心之麁細互相違故不應俱起。又於不俱起不能說過故。由此可說,依初五支減二三四立第二等,即由此理初說五支,擬漸離前、建立後故。無漸減故,不說想等。或應說何故初唯立五支?若謂此五資初定勝故立為支。此不應理,念慧能資勝尋伺故。雖有一類作如是說,然非古昔諸軌範師共施設故,應審思擇。應說何法名內等淨?此定遠離尋伺鼓動,相續清淨轉,名為內等淨。若有尋伺鼓動,相續不清淨轉,如河有浪。若爾,此應無有別體,如何許有十一實事?是故應說此即信根。謂若證得第二靜慮,則於定地亦可離中有深信生,名內等淨。信是淨相,故立淨名。離外均流,故名內等。淨而內等,故立內等淨名。有餘師言:此內等淨等持尋伺皆無別體。若無別體,心所應不成,心分位殊亦得名心所。雖有此理,非我所宗。如上所言,喜即喜受。以何為證知決定然?汝等豈言喜非喜受,如餘部許,我亦許然。餘部云何許非喜受?謂別有喜是心所法,三定中樂皆是喜受,故喜、喜受其體各異。非三定樂可名喜受,二阿笈摩分明證故。如辯顛倒契經中說:漸無餘滅憂等五根,第三定中無餘滅喜,於第四定無餘滅樂。又餘經說:第四靜慮斷樂斷苦先喜憂沒。故第三定必無喜根,由此喜受是喜非樂。如是所說諸靜慮支,染靜慮中為皆有不?不爾。云何?頌曰:

(論に引き続き曰く:)もし謂わば説を許さば、便ち契経に違す。契経の説くがごとく:諸の所有の眼乃至広く説く。此の経の中に十五界は全く皆有漏と説くがゆえに、経に違するの過無し。此れは其余の触および其余の身識に約して密意に説くがゆえに。如何にして無漏の静慮の現前に、少支は有漏・少支は無漏か。起りは俱時ならざれば、斯に何の失有らん。もし謂わば喜・楽は俱に起さざるがゆえに、応に五支および四支の理無きべしと。此れもまた過無し。容そ有りと約して喜・楽の支有りと説く。尋・伺有るがごとし。もし謂わば尋・伺もまた俱起を許さば、俱に起さざるに於いて喩と為って成らず。此れは成らざるに非ず。心の粗細は互相違するがゆえに応に俱に起すべからず。また俱に起さざるに於いて能く過を説くこと能わざるがゆえに。此に由って説くべし、初の五支に依って二・三・四を減じて第二等を立つ。即ち此の理に由って初に五支を説く。漸く前を離れ、後を建立せんと擬するがゆえに。漸減無きがゆえに、想等を説かず。或いは応に説くべし何の故にか初にただ五支を立つるか。もし謂わば此の五は初定に資して勝れるがゆえに立てて支と為す。此れは理に該当せず。念・慧は能く資して尋・伺に勝れるがゆえに。一類有りて此の説を作すと雖も、然而古昔の諸の軌範師の共に施設する所に非ざるがゆえに、応に審らかに思択すべし。応に説くべし何の法をか名づけて内等浄か。此の定は尋・伺の鼓動を遠離して、相続は清浄に転ず。名づけて内等浄。もし尋・伺の鼓動有れば、相続は清浄に転ぜず。河の浪有るがごとし。もしそうならば、此れは応に別体有ること無きべし。如何にして十一の実事有るを許すか。此のゆえに応に説くべし此れ即ち信根。いわゆるもし第二静慮を証得せば、則ち定地に於いてもまた離るべき中に深い信を生ず。名づけて内等浄。信は是れ浄相。ゆえに浄の名を立つ。外の均流を離るるがゆえに名づけて内等。浄にして内等。ゆえに内等浄の名を立つ。其余の師有りて説く:此の内等浄・等持・尋・伺は皆別体無し。もし別体無ければ、心所は応に成らざるべし。心の分位の殊にもまた名づけて心所を得。此の理有ると雖も、我が宗する所に非ず。上の言う所のごとく、喜は即ち喜受。何を以て証して知る決定此のようか。汝等は豈に喜は喜受に非ずと説かんか。其余の部の許すがごとく、我もまた此のようを許す。其余の部は如何にして喜受に非ずを許すか。いわゆる別に喜有りて是れ心所法、三定の中の楽は皆是れ喜受。ゆえに喜・喜受は其の体は各異なり。三定の楽は名づけて喜受と為すべきに非ず。二の阿笈摩(阿含)に分明の証あるがゆえに。顛倒を弁ずる契経の中に説くがごとく:漸く憂等の五根を余無く滅し、第三定の中に喜を余無く滅し、第四定に於いて楽を余無く滅す。また其余の経に説く:第四静慮は楽を断じ苦を断じ先に喜・憂は没す。ゆえに第三定は必ず喜根無し。此に由って喜受は是れ喜にして楽に非ず。此のようの説く所の諸の静慮支は、染の静慮の中に為に皆有不や。そうにはあらず。如何。頌に曰く:

染如次從初,無喜樂內淨,

染は次第のごとく初より、喜・楽・内浄無く、

正念慧捨念,餘說無安捨。

正念・慧・捨・念。其余は安・捨無しと説く。

論曰:如上所說諸靜慮支,染靜慮中非皆具有。且有一類隨相說言:初染中無離生喜樂,非離煩惱而得生故。第二染中無內等淨,彼為煩惱所擾濁故。第三染中無正念慧,彼為染樂所迷亂故。第四染中無捨念淨,彼為煩惱所染汙故。有餘師說:初二染中但無輕安,後二染中但無行捨,大善攝故。契經中說:三定有動,第四不動。依何義說?頌曰:

論に曰く:上の説く所のごとく諸の静慮支は、染の静慮の中は皆具に有るに非ず。且つ一類有りて相に随って説いて言う:初めの染の中に離生の喜楽無し。煩悩を離れずして生ずるを得るに非ざるがゆえに。第二の染の中に内等浄無し。彼は煩悩の擾濁する所なるがゆえに。第三の染の中に正念・慧無し。彼は染楽の迷乱する所なるがゆえに。第四の染の中に捨・念の浄無し。彼は煩悩の染汚する所なるがゆえに。其余の師有りて説く:初・二の染の中は但だ軽安無く、後の二の染の中は但だ行捨無し。大善の摂なるがゆえに。契経の中に説く:三定に動有り、第四は不動。何の義に依ってか説くか。頌に曰く、

第四名不動,離八災患故,

第四は名づけて不動。八の災患を離るるがゆえに。

八者謂尋伺,四受入出息。

八とはいわゆる尋・伺、四受・入出息。

論曰:下三靜慮名有動者,有災患故。第四靜慮名不動者,無災患故。災患有八,其八者何?尋、伺、四受、入息、出息。此八災患第四都無,故佛世尊說為不動。然契經說:第四靜慮不為尋伺喜樂所動。有餘師說:第四靜慮如密室燈照而無動。如定靜慮,所有諸受生亦爾不?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:下の三静慮は名づけて動有り。災患有るがゆえに。第四静慮は名づけて不動。災患無きがゆえに。災患に八有り。其の八とは何ぞ。尋・伺・四受・入息・出息。此の八の災患は第四に都て無し。ゆえに仏世尊は説いて不動と為す。しかし契経に説く:第四静慮は尋・伺・喜・楽の動する所と為さず。其余の師有りて説く:第四静慮は密室の灯の照らして動無きがごとし。定の静慮のごとく、所有の諸の受の生もまた此のようか否や。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

生靜慮從初,有喜樂捨受,

生静慮は初より、喜・楽・捨の受有り、

及喜捨樂捨,唯捨受如次。

および喜・捨・楽・捨、ただ捨受、次第のごとく。

論曰:生靜慮中初有三受:一喜受,意識相應;二樂受,三識相應;三捨受,四識相應。第二有二,謂喜與捨,意識相應無有樂受,無餘識故、心悅麁故。第三有二,謂樂與捨,意識相應。第四有一,謂唯捨受,意識相應。是謂定生受有差別。上三靜慮無三識身及無尋伺,如何生彼能見聞觸及起表業?非生彼地無眼識等,但非彼繫。所以者何?頌曰:

論に曰く:生静慮の中の初に三受有り。一は喜受、意識に相応す。二は楽受、三識に相応す。三は捨受、四識に相応す。第二に二有り。いわゆる喜と捨。意識に相応して楽受有ること無し。其余の識無きがゆえ、心の悦は粗なるがゆえに。第三に二有り。いわゆる楽と捨。意識に相応す。第四に一有り。いわゆるただ捨受、意識に相応す。是れを定・生の受の差別有りと謂う。上の三静慮は三識身無くおよび尋・伺無きに、如何にして彼に生じて能く見・聞・触および表業を起すか。彼の地に生ずるは眼識等無きに非ず。但だ彼の繋に非ず。所以は何ぞや。頌に曰く、

生上三靜慮,起三識表心,

上の三静慮に生じて、三識・表の心を起すは、

皆初靜慮攝,唯無覆無記。

皆初静慮の摂。ただ無覆の無記。

論曰:生上三地起三識身及發表心皆初定繫。生上起下如起化心,故能見聞觸及發表,此四唯是無覆無記。不起下染,已離染故。不起下善,以下劣故。如是別釋靜慮事已。淨等等至初得云何?頌曰:

論に曰く:上の三地に生じて三識身および発表の心を起すは皆初定の繋。上に生じて下を起すは化心を起すがごとし。ゆえに能く見・聞・触および発表す。此の四はただ是れ無覆の無記。下の染を起さず。已に染を離れたるがゆえに。下の善を起さず。下劣なるを以て。此のようの別に静慮の事を釋し已りて。浄等の等至の初得は如何。頌に曰く:

全不成而得,淨由離染生,

全く成らずして得るは、浄は染を離るるに由って生ず。

無漏由離染,染由生及退。

無漏は染を離るるに由り、染は生および退に由る。

論曰:八本等至隨其所應,若全不成而獲得者,淨由離染及由受生,謂在下地離下地染,及從上地生自地時。下七皆然。有頂不爾,唯由離染無由生故。遮何故說全不成言?為遮已成更得少分,如由加行得順決擇分等,及由退得順退分定。即依此義作是問言:頗有淨定由離染得?由離染捨、由退由生,為問亦爾。曰:有,謂順退分。且初靜慮順退分攝,離欲染時得,離自染時捨,退離自染得,退離欲染捨。從上生自得,從自生下捨。餘地所攝,應如理思。無漏但由離染故得,謂聖離下染,得上地無漏。此亦但據全不成者,若先已成,餘時亦得,謂盡智位得無學道,於練根時得學無學。餘加行及退,皆如理應思。豈不由入正性離生,亦名初得無漏等至?此非決定。以次第者,爾時未得根本定故。此中但論決定得者,染由受生及退故得。謂上地沒生下地時得下地染,及於此地離染退時得此地染。何等至後生幾等至?頌曰:

論に曰く:八の本等至は其の該る所に随い、もし全く成らずして獲得するは、浄は染を離るるに由りおよび生を受くるに由る。いわゆる下の地に在りて下の地の染を離るる時、および上の地より自地に生ずる時。下の七は皆此のよう。有頂は此のようにはあらず。ただ染を離るるに由るのみ、生に由る無きがゆえに。遮るに何の故にか全く成らずの言を説くか。為に已に成れるの更に少分を得るを遮らんとす。加行に由って順決択分等を得るがごとく、および退に由って順退分の定を得。即ち此の義に依って是の問を作して曰く:頗る浄定有りて染を離るるに由って得るか。染を離るるに由って捨て、退に由り生に由る、問と為すもまた此のよう。答に曰く:有り。いわゆる順退分。且つ初静慮の順退分の摂は、欲の染を離るる時に得、自の染を離るる時に捨て、自の染を退離して得、欲の染を退離して捨つ。上より自に生じて得、自より下に生じて捨つ。其余の地の摂する所は、応に理のごとく思うべし。無漏は但だ染を離るるに由るがゆえに得。いわゆる聖は下の染を離れて、上の地の無漏を得。此れもまた但だ全く成らざるに拠る。もし先に已に成らば、其余の時にもまた得。いわゆる尽智の位に無学道を得、練根の時に於いて学・無学を得。其余の加行および退は、皆理のごとく応に思うべし。豈に正性離生に入るに由らずして、もまた名づけて初めて無漏の等至を得るとせんか。此れは決定に非ず。次第なるを以て、爾の時は未だ根本定を得ざるがゆえに。此の中は但だ決定の得を論ず。染は生を受くるおよび退に由るがゆえに得。いわゆる上の地に歿して下の地に生ずる時に下の地の染を得、および此の地に於いて染を離れて退する時に此の地の染を得。何の等至の後に幾等至を生ずるか。頌に曰く、

無漏次生善,上下至第三,

無漏は次に善を生じ、上・下は第三に至る。

淨次生亦然,兼生自地染。

浄の次生もまた此のよう。兼ねて自地の染を生ず。

染生自淨染,並下一地淨,

染は自・浄・染を生じ、并びに下の一地の浄。

死淨生一切,染生自下染。

死・浄は一切を生じ、染は自・下の染を生ず。

論曰:無漏次生自上下善,善言具攝淨及無漏。然於上下各至第三,遠故無能超生第四。故於無漏七等至中,從初靜慮無間生六,謂自二三各淨無漏。無所有處無間生七,謂自下六上地唯淨。第二靜慮無間生八,謂自上六並下地二。識無邊處無間生九,謂自下六並上地三。第三四空無間生十,謂上下八並自地二。類智無間能生無色。法智不然,依緣下故。從淨等至所生亦然,而各兼生自地染汙故。有頂淨無間生六,謂自淨染、下淨無漏。從初靜慮無間生七。無所有八,第二定九,識處生十,餘生十一。從染等至生自淨染並生次下一地淨定。謂為自地煩惱所逼,於下淨定亦生尊重,故有從染生次下淨。若於染淨能正了知,可能從染轉生下淨;非諸染汙能正了知,如何彼能從染生淨?先願力故。謂先願言:寧得下淨不須上染。先願勢力隨相續轉,故後從染生下淨定。如先立願方趣睡眠,至所期時便能覺寤。無漏與染必不相生,淨俱相生故三有別。如是所說淨染生染,但約在定淨及染說。若生淨染,生染不然,謂命終時從生得淨,一一無間生一切染。若從生染,一一無間能生自地一切下染,不生上者未離下故。所言從淨生無漏者,為一切種皆能生耶?不爾。云何?頌曰:

論に曰く:無漏は次に自・上下の善を生ず。善の言は具に浄および無漏を摂す。然而上下に於いて各々第三に至る。遠きがゆえに能く第四を超えて生ずる無し。ゆえに無漏の七等至の中に於いて、初静慮より無間に六を生ず。いわゆる自・二・三の各々浄・無漏。無所有処は無間に七を生ず。いわゆる自・下の六、上の地はただ浄。第二静慮は無間に八を生ず。いわゆる自・上の六并びに下の地の二。識無辺処は無間に九を生ず。いわゆる自・下の六并びに上の地の三。第三・四の空は無間に十を生ず。いわゆる上・下の八并びに自地の二。類智は無間に能く無色を生ず。法智は此のようにはあらず。下に依り縁ずるがゆえに。浄等至の生ずる所よりもまた此のよう。而も各々兼ねて自地の染汚を生ずるがゆえに。有頂の浄は無間に六を生ず。いわゆる自の浄・染、下の浄・無漏。初静慮より無間に七を生ず。無所有は八、第二定は九、識処は十を生じ、其余は十一を生ず。染等至より自の浄・染を生じ并びに次の下の一地の浄定を生ず。いわゆる為に自地の煩悩の逼める所と為りて、下の浄定に於いてもまた尊重を生ずるがゆえに。ゆえに染より次の下の浄を生ずる有り。もし染・浄を能く正しく了知せば、能く染より転じて下の浄を生ずべきか。諸の染汚は能く正しく了知するに非ざれば、如何にして彼は能く染より浄を生ぜんか。先の愿力あるがゆえに。いわゆる先に願して曰く:寧ろ下の浄を得て上の染を須いじと。先の願の勢力は相続に随って転ずるがゆえに、ゆえに後に染より下の浄定を生ず。先に願を立てて方に睡眠に趣きて、期する所の時に至れば便ち能く覚寤するがごとし。無漏と染とは必ず相生ぜず。浄は俱に相生ずるがゆえに三の別有り。此のようの説く所の浄・染の染を生ずるは、但だ定の浄および染に約して説く。もし生の浄・染は、生の染は此のようにはあらず。いわゆる命終の時に生得の浄より、一一に無間に一切の染を生ず。もし生の染よりは、一一に無間に能く自地の一切の下染を生じ、上を生ぜず。未だ下を離れざるがゆえに。言う所の浄より無漏を生ずるは、為に一切種は皆能く生ずるか。そうにはあらず。如何。頌に曰く、

淨定有四種,謂即順退分,

浄定に四種有り。いわゆる即ち順退分、

順住順勝進,順決擇分攝。

順住・順勝進、順決択分の摂。

如次順煩惱,自上地無漏,

次第のごとく煩悩・自・上の地・無漏に順ず。

互相望如次,生二三三一。

互いに相望みて次第のごとく、二・三・三・一を生ず。

論曰:諸淨等至總有四種:一順退分攝、二順住分攝、三順勝進分攝、四順決擇分攝。地各有四,有頂唯三,由彼更無上地可趣故,彼地無有順勝進分攝。於此四中唯第四分能生無漏。所以者何?由此四種有如是相,順退分能順煩惱,順住分能順自地,順勝進分能順上地,順決擇分能順無漏,故諸無漏唯從此生。此四相望互相生者,初能生二,謂順退住。第二生三,除順決擇。第三生三,除順退分。第四生一,謂自非餘。如上所言淨及無漏,皆能上下超至第三。行者如何修超等至?頌曰:

論に曰く:諸の浄等至は総じて四種有り。一は順退分の摂、二は順住分の摂、三は順勝進分の摂、四は順決択分の摂。地は各々四有り。有頂はただ三。彼は更に上地の趣くべき無きに由るがゆえに、彼の地には順勝進分の摂有ること無し。此の四の中に於いてただ第四分は能く無漏を生ず。所以は何ぞや。此の四種に此のようの相有るに由る。順退分は能く煩悩に順じ、順住分は能く自地に順じ、順勝進分は能く上地に順じ、順決択分は能く無漏に順ず。ゆえに諸の無漏はただ此より生ず。此の四の相望みて互いに生ずるは、初は能く二を生ず。いわゆる順退・住。第二は三を生ず。順決択を除く。第三は三を生ず。順退分を除く。第四は一を生ず。いわゆる自にして其余に非ず。上の言う所のごとく浄および無漏は、皆能く上下に超えて第三に至る。行の者は如何にして超等至を修するか。頌に曰く、

二類定順逆,均間次及超,

二類の定は順・逆、均・間・次および超。

至間超為成,三洲利無學。

間超に至りて成と為す。三洲の利の無学。

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