Libo

説一切有部倶舎論 巻第二十五

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第37巻 / 38

有持說行者,此便住世間。

持・説・行する者有れば、此れ便ち世間に住す。

論曰:世尊正法體有二種,一教、二證。教謂契經、調伏、對法,證謂三乘菩提分法。有能受持及正說者,佛正教法便住世間。有能依教正修行者,佛正證法便住世間。故隨三人住世時量,應知正法住爾所時。聖教總言唯住千載,有釋證法唯住千年,教法住時復過於此。此論依攝阿毘達磨,為依何理釋對法耶?頌曰:

論に曰く:世尊の正法は体に二種有り。一は教、二は証。教とは契経・調伏・対法を謂い、証とは三乗の菩提分法を謂う。能く受持および正説する者有れば、仏の正教法は便ち世間に住す。能く教に依って正修行する者有れば、仏の正証法は便ち世間に住す。ゆえに三人の世に住する時量に随って、応に知るべし正法は爾所の時住すと。聖教は総じて言えばただ千載住す。証法はただ千年住すと釋する有り。教法の住する時は復た此れに過ぐ。此の論は阿毘達磨を依摂す。為に何の理に依ってか対法を釋するか。頌に曰く、

迦濕彌羅議理成,我多依彼釋對法,

迦湿弥羅の議理成る。我多く彼に依って対法を釋す。

少有貶量為我失,判法正理在牟尼。

少しの貶量有るは我が失。法を判ずる正理は牟尼に在り。

論曰:迦濕彌羅國毘婆沙師議阿毘達磨理善成立,我多依彼釋對法宗,少有貶量為我過失。判法正理唯在世尊,及諸如來大聖弟子。

論に曰く:迦湿弥羅国の毘婆沙師の議する阿毘達磨の理は善く成立す。我は多く彼に依って対法の宗を釋す。少しの貶量有るは我が過失と為す。法を判ずる正理はただ世尊に在り、および諸の如来の大聖弟子に在り。

大師世眼久已閉,堪為證者多散滅,

大師世の眼は久しく已に閉じ、堪えて証と為る者は多く散滅し、

不見真理無制人,由鄙尋思亂聖教。

真理を見ずして制する無き人は、鄙なる尋思に由って聖教を乱る。

自覺已歸勝寂靜,持彼教者多隨滅,

自覚は已に勝の寂静に帰し、彼の教を持つ者は多く滅に随い、

世無依怙喪眾德,無鉤制惑隨意轉。

世は依怙無くして衆徳を喪い、鈎無く惑を制して意に随って転ず。

既知如來正法壽,漸次淪亡如至喉,

すでに如来の正法の寿が、漸次に淪亡して喉に至るがごとしと知り、

是諸煩惱力增時,應求解脫勿放逸。

是れ諸の煩悩の力の増する時なれば、応に解脱を求めて放逸すること勿れ。

破執我品第九之一

破執我品 第九之一

越此依餘,豈無解脫?理必無有。所以者何?虛妄我執所迷亂故。謂此法外諸所執我,非即於蘊相續假立執有真實離蘊我故。由我執力諸煩惱生,三有輪迴無容解脫。以何為證?知諸我名,唯召蘊相續,非別目我體。於彼所計離蘊我中,無有真實現比量故。謂若我體別有實物,如餘有法。若無障緣,應現量得如六境意,或比量得如五色根。言五色根比量得者,如世現見,雖有眾緣,由闕別緣,果便非有,不闕便有,如種生芽。如是亦見,雖有現境作意等緣,而諸盲聾不盲聾等識不起起,定知別緣有闕不闕。此別緣者即眼等根,如是名為色根比量。於離蘊我二量都無,由此證知無真我體。然犢子部執有補特伽羅,其體與蘊不一不異。此應思擇,為實為假。實有假有相別云何?別有事物是實有相,如色聲等。但有聚集是假有相,如乳酪等。許實許假各有何失?體若是實應與蘊異,有別性故,如別別蘊。又有實體必應有因,或應是無為,便同外道見。又應無用,徒執實有。體若是假,便同我說。非我所立補特伽羅,如仁所徵實有假有?但可依內現在世攝有執受諸蘊立補特伽羅。如是謬言,於義未顯。我猶不了,如何名依?若攬諸蘊是此依義,既攬諸蘊成補特伽羅,則補特伽羅應成假有,如乳酪等攬色等成。若因諸蘊是此依義,既因諸蘊立補特伽羅,則補特伽羅亦同此失,不如是立。所立云何?此如世間依薪立火,如何立火可說依薪?謂非離薪可立有火,而薪與火非異非一。若火異薪,薪應不熱。若火與薪一,所燒即能燒。如是不離蘊立補特伽羅。然補特伽羅與蘊非異一,若與蘊異體應是常,若與蘊一體應成斷。仁今於此且應定說,何者為火?何者為薪?令我了知火依薪義。何所應說?若說應言所燒是薪、能燒是火。此復應說何者所燒、何者能燒、名薪名火?且世共了。諸不炎熾所然之物,名所燒薪。

此を越えて其余に依って、豈に解脱無からんか。理は必ず有ること無し。所以は何ぞや。虚妄の我執の迷乱する所なるがゆえに。いわゆる此の法の外の諸の執する所の我は、即ち蘊の相続に於いて仮に立てて真実の離蘊の我有りと執するに非ざるがゆえに。我執の力に由って諸の煩悩は生じ、三有の輪廻は解脱を容るる無し。何を以て証と為すか。諸の我の名は、ただ蘊の相続を召して、別に我の体を目するに非ずと知る。彼の計する所の離蘊の我の中に於いて、真実の現・比の量有ること無きがゆえに。いわゆるもし我の体は別に実物有るは、其余の有法のごとし。もし障の縁無ければ、応に現量にて得ること六境の意のごとく、或いは比量にて得ること五色根のごとし。五色根は比量にて得と言うは、世の現に見るがごとく、衆緑有りと雖も、別縁の闕けるに由って果は便ち有ること非ず、闕けざれば便ち有り。種の芽を生ずるがごとし。此のようもまた見る、現境・作意等の縁有りと雖も、而も諸の盲・聾は識を起さず盲聾ならざる等は起す。定めて知る別縁に闕け・闕けず有りと。此の別縁は即ち眼等の根。此のようを名づけて色根の比量。離蘊の我に於いて二量は都て無し。此に由って真の我体無しを証知す。然而犢子部(部派の名)は補特伽羅有りと執す。其の体は蘊と一ならず異ならず。此れは応に思択すべし。為に実か為に仮か。実有・仮有の相の別は如何。別に事物有るは是れ実有の相。色・声等のごとし。但だ聚集有るは是れ仮有の相。乳・酪等のごとし。実を許し仮を許すは各々何の失有るか。体もし実ならば応に蘊と異なるべし。別性有るがゆえに。別別の蘊のごとし。また実体有れば必ず応に因有るべし。或いは応に無為ならば、便ち外道の見に同じ。また応に用無きべし。徒らに実有を執す。体もし仮ならば、便ち我が説に同じ。我が立てる所に非ざる補特伽羅は、仁の徴するがごとき実有・仮有か。但だ内の現在の世の摂する執受有る諸蘊に依って補特伽羅を立つべし。此のようの謬る言は、義に於いて未だ顕れず。我は猶お了せず。如何にして依と名づくるか。もし諸蘊を摬るは此の依の義ならば、すでに諸蘊を摬りて補特伽羅を成ずれば、則ち補特伽羅は応に仮有を成ずべし。乳・酪等は色等を摬りて成ずるがごとし。もし諸蘊に因るは此の依の義ならば、すでに諸蘊に因って補特伽羅を立てれば、則ち補特伽羅もまた此の失に同じ。此のようには立てず。立てる所は如何。此れは世間の薪に依って火を立つるがごとし。如何にして火を立てて薪に依ると説くべきか。いわゆる薪を離れては火有りと立つべからず。而も薪と火とは異ならず一ならず。もし火は薪に異ならば、薪は応に熱ならざるべし。もし火と薪と一ならば、焼く所は即ち能く焼くなり。此のようの蘊を離れずして補特伽羅を立つ。然而補特伽羅は蘊と異一に非ず。もし蘊と異ならば体は応に是れ常なるべし。もし蘊と一ならば体は応に断を成ずべし。仁今此に於いて且つ応に定めて説くべし。何者をか火と為すか。何者をか薪と為すか。我をして火は薪に依るの義を了知せしめよ。何をか応に説くべきか。もし説かば応に言うべし焼く所は薪・能く焼くは火と。此れは復た応に説くべし何者が焼く所・何者が能く焼くか、薪と名づけ火と名づくるを。且つ世は共に了す。諸の炎熾せざる然ゆる所の物は、名づけて焼く所の薪。

諸有光明極熱炎熾能然之物,名能燒火。此能燒然彼物相續,令其後後異前前故。此彼雖俱八事為體,而緣薪故火方得生,如緣乳酒生於酪酢,故世共說依薪有火。若依此理火則異薪,後火前薪時各別故。若汝所計補特伽羅,如火依薪依諸蘊者,則定應說緣蘊而生,體異諸蘊,成無常住。若謂即於炎熾木等煖觸名火,餘事名薪,是則火薪俱時而起,應成異體,相有異故。應說依義,此既俱生,如何可言依薪立火?謂非此火用薪為因,各從自因俱時生故。亦非此火名因薪立,以立火名因煖觸故。若謂所說火依薪言,為顯俱生或依止義,是則應許補特伽羅與蘊俱生或依止蘊。已分明許體與蘊異,理則應許。若許蘊無,補特伽羅體亦非有,如薪非有火體亦無。而不許然,故釋非理。然彼於此自設難言:若火異薪,薪應不熱。彼應定說熱體謂何?若彼釋言熱謂煖觸,則薪非熱,體相異故。若復釋言熱謂煖合,則應異體亦得熱名,以實火名唯目煖觸,餘與煖合皆得熱名。是則分明許薪名熱。雖薪火異而過不成,如何此中舉以為難?若謂木等遍炎熾時說名為薪亦名為火,是則應說依義謂何?補特伽羅與色等蘊定應是一,無理能遮。故彼所言如依薪立火,如是依蘊立補特伽羅,進退推徵,理不成立。又彼若許補特伽羅與蘊一異俱不可說,則彼所許三世無為及不可說五種爾焰亦應不可說,以補特伽羅不可說第五及非第五故。又彼施設補特伽羅,應更礭陳為何所託?若言託蘊假義已成,以施設補特伽羅不託補特伽羅故。若言此施設託補特伽羅,如何上言依諸蘊立理,則但應說依補特伽羅。既不許然,故唯託蘊。若謂有蘊此則可知,故我上言此依蘊立。是則諸色有眼等緣方可了知,故應言依眼等。又且應說,補特伽羅是六識中何識所識?六識所識。所以者何?

(論に引き続き曰く:)諸の光明有りて極熱に炎熾し能く然するの物は、名づけて能く焼く火。此れは能く彼の物の相続を焼き然して、其の後後をして前前に異ならしむるがゆえに。此れと彼れは俱に八事を以て体と為すと雖も、而も薪に縁ずるがゆえに火は方に生ずるを得。乳・酒に縁じて酪・醋を生ずるがごとし。ゆえに世は共に薪に依って火有りと説く。もし此の理に依れば火は則ち薪に異なり。後の火・前の薪は時各別なるがゆえに。もし汝の計する所の補特伽羅は、火の薪に依るがごとく諸蘊に依るならば、則ち定めて応に蘊に縁じて生ずと説くべし。体は諸蘊に異なりて、常住ならずを成ず。もし謂わば即ち炎熾の木等の煖触に於いて名づけて火、其余の事を名づけて薪。是れ則ち火・薪は俱時に起りて、応に異体を成ずべし。相の異なる有るがゆえに。応に依の義を説くべし。此れすでに俱に生ずれば、如何にして薪に依って火を立つと説くべきか。いわゆる此の火は薪を用いて因と為すに非ず。各々自の因より俱時に生ずるがゆえに。もまた此の火の名は薪に因って立つに非ず。火の名を立つるは煖触に因るを以て。もし謂わば説く所の火は薪に依るの言は、為に俱生或いは依止の義を顕さんと。是れ則ち応に許すべし補特伽羅は蘊と俱に生じ或いは蘊に依止すと。已に分明に体は蘊と異なるを許せば、理は則ち応に許すべし。もし蘊無きを許さば、補特伽羅の体もまた有るに非ず。薪有るに非ざれば火の体も無きがごとし。而も此のようを許さず。ゆえに釋は理に非ず。然而彼は此に於いて自ら難を設けて説く:もし火は薪に異ならば、薪は応に熱ならざるべしと。彼は応に定めて説くべし熱の体は何を謂うか。もし彼は釋して説く熱は煖触を謂うと。則ち薪は熱に非ず。体相異なるがゆえに。もし復た釋して説く熱は煖の合を謂うと。則ち応に異体もまた熱の名を得べし。実の火の名はただ煖触を目するを以て、其余の煖と合するは皆熱の名を得。是れ則ち分明に薪を名づけて熱と許す。薪・火は異なりと雖も而も過は成らず。如何にして此の中に挙げて以て難と為すか。もし謂わば木等は遍く炎熾する時に説いて名づけて薪もまた名づけて火と。是れ則ち応に説くべし依の義は何を謂うか。補特伽羅と色等の蘊とは定めて応に是れ一なるべし。理無くして能く遮る無し。ゆえに彼の言う所の薪に依って火を立つるがごとく、此のようの蘊に依って補特伽羅を立つるは、進退に推徴すれば理は成立せず。また彼はもし補特伽羅と蘊とは一・異ともに説くべからずを許さば、則ち彼の許す所の三世・無為および説くべからざる五種の爾焔(所知)もまた応に説くべからざるべし。補特伽羅は第五および第五に非ずと説くべからざるを以て。また彼は補特伽羅を施設するは、応に更に確かに陳して何の托する所と為すかを説くべし。もし蘊に托すと説かば仮の義は已に成ず。補特伽羅を施設するは補特伽羅に托せざるを以て。もし此の施設は補特伽羅に托すと説かば、如何にして上に諸蘊に依って立つの理と言うか。則ち但だ応に補特伽羅に依ると説くべし。すでに此のようを許さず。ゆえにただ蘊に托す。もし謂わば蘊有れば此れ則ち知るべしと。ゆえに我上に此れは蘊に依って立つと言えり。是れ則ち諸の色は眼等の縁有りて方に了知すべきがゆえに、ゆえに応に説くべし眼等に依ると。また且つ応に説くべし、補特伽羅は六識の中の何の識の識する所か。六識の識する所。所以は何ぞや。

若於一時眼識識色,因茲知有補特伽羅,說此名為眼識所識,而不可說與色一異。乃至一時意識識法,因茲知有補特伽羅,說此名為意識所識,而不可說與法一異。若爾,所計補特伽羅應同乳等唯假施設。謂如眼識識諸色時,因此若能知有乳等,便說乳等眼識所識,而不可說與色一異。乃至身識說諸觸時,因此若能知有乳等,便說乳等身識所識,而不可說與觸一異。勿乳等成四或非四所成。由此應成總依諸蘊假施設有補特伽羅,猶如世間總依色等施設乳等,是假非實。又彼所說,若於一時眼識識色,因茲知有補特伽羅。此言何義?為說諸色是了補特伽羅因?為了色時補特伽羅亦可了?若說諸色是了此因,然不可言此異色者,是則諸色以眼及明作意等緣為了因故,應不可說色異眼等。若了色時此亦可了,為色能了即了此耶?為於此中別有能了?若色能了即能了此,則應許此體即是色,或唯於色假立於此。或不應有如是分別,如是類是色、如是類是此。若無如是二種分別,如何立有色、有補特伽羅,有情必由分別立故。若於此中別有能了,了時別故此應異色,如黃異青前異後等。乃至於法徵難亦然。若彼救言:如此與色不可定說是一是異,二種能了相望亦然,能了不應是有為攝。若許爾者,便壞自宗。又若實有補特伽羅,而不可說色非色者,世尊何故作如是言:色乃至識皆無有我。又彼既許補特伽羅眼識所得,如是眼識於色此俱為緣何起?若緣色起,則不應說眼識能了補特伽羅,此非眼識緣,如聲處等故。謂若有識緣此境起,即用此境為所緣緣,補特伽羅非眼識緣者,如何可說為眼識所緣?故此定非眼識所了。若眼識起緣此或俱,便違經說。以契經中定判識起由二緣故。又契經說:苾芻當知,眼因色緣能生眼識。諸所有眼識皆緣眼色故。又若爾者,補特伽羅應是無常,契經說故。

(論に引き続き曰く:)もし一時に於いて眼識は色を識り、此に因って補特伽羅有りと知れば、此れを説いて名づけて眼識の識する所。而も色と一・異とは説くべからず。乃至一時に意識は法を識り、此に因って補特伽羅有りと知れば、此れを説いて名づけて意識の識する所。而も法と一・異とは説くべからず。もしそうならば、計する所の補特伽羅は応に乳等に同じくただ仮の施設なり。いわゆる眼識が諸の色を識る時、此に因ってもし能く乳等有りと知らば、便ち乳等は眼識の識する所と説く。而も色と一・異とは説くべからず。乃至身識が諸の触を説く時、此に因ってもし能く乳等有りと知らば、便ち乳等は身識の識する所と説く。而も触と一・異とは説くべからず。乳等の四を成ずる或いは四の成ずる所に非ざるを説くこと勿れ。此に由って応に成ずべし総じて諸蘊に依って仮に施設して補特伽羅有りと。猶お世間の総じて色等に依って乳等を施設するがごとし。是れ仮にして実に非ず。また彼の説く所、もし一時に於いて眼識は色を識り、此に因って補特伽羅有りと知る。此の言は何の義か。為に諸の色は是れ補特伽羅を了するの因と説くか。為に色を了する時に補特伽羅もまた了すべきか。もし諸の色は是れ此を了するの因と説かば、然而此れは色に異なると言うべからざれば、是れ則ち諸の色は眼および明・作意等の縁を以て了する因と為すがゆえに、応に説くべからず色は眼等に異なりと。もし色を了する時に此れもまた了すべきは、為に色は能く了する即ち此を了するか。為に此の中に別に能く了する有るか。もし色は能く了する即ち能く此を了せば、則ち応に許すべし此の体は即ち是れ色、或いはただ色に於いて仮に此に立つと。或いは応に此のようの分別有るべからず、此のようの類は是れ色、此のようの類は是れ此と。もし此のようの二種の分別無ければ、如何にして色有り・補特伽羅有りを立てんか。有情は必ず分別に由って立つるがゆえに。もし此の中に於いて別に能く了する有れば、了する時の別なるがゆえに此れは応に色に異なるべし。黄の青に異なり前の後に異なる等のごとし。乃至法に於いて徴難するもまた此のよう。もし彼は救い説かば:此れと色とは定めて是れ一か是れ異かと説くべからず、二種の能了の相望むもまた此のよう、能了は応に有為の摂なるべからずと。もし此のようを許さば、便ち自宗を壊す。またもし実に補特伽羅有りて、而も色・非色と説くべからざるは、世尊は何の故にか此の説を作して曰く:色乃至識は皆我無しと。また彼すでに補特伽羅は眼識の得る所と許せば、此のようの眼識は色・此と俱に為に縁して何に起るか。もし色に縁じて起らば、則ち応に説くべからず眼識は能く補特伽羅を了すと。此れは眼識の縁に非ず。声処等のごときがゆえに。いわゆるもし識有りて此の境に縁じて起らば、即ち此の境を用いて所縁縁と為す。補特伽羅は眼識の縁に非ざれば、如何にして眼識の縁ずる所と説くべきか。ゆえに此れは定めて眼識の了する所に非ず。もし眼識の起るは此に縁じ或いは俱なれば、便ち経の説に違す。契経の中に定めて識の起るは二縁に由ると判ずるを以て。また契経に説く:苾芻当に知るべし、眼は色の縁に因って能く眼識を生ず。諸の所有の眼識は皆眼・色に縁ずるがゆえに。またもし此のようの、補特伽羅は応に是れ無常なるべし。契経の説く所なるがゆえに。

謂契經說:諸因諸緣能生識者皆無常性。若彼遂謂補特伽羅非識所緣,應非所識,若非所識應非所知,若非所知如何立有?若不立有便壞自宗。又若許為六識所識,眼識識故應異聲等,猶如色,耳識識故,應異色等,譬如聲。餘識所識,為難准此。又立此為六識所識,便違經說。如契經言:梵志當知,五根行處境界各別,各唯受用自所行處及自境界,非有異根亦能受用異根行處及異境界。五根謂眼耳鼻舌身,意兼受用五根行處及彼境界,彼依意故。或不應執補特伽羅是五根境,如是便非五識所識,有違宗過。若爾,意根境亦應別。如六生喻契經中言:如是六根行處境界各有差別,各別樂求自所行處及自境界。非此中說眼等六根,眼等五根及所生識無有勢力樂見等故。但說眼等增上勢力所引意識名眼等根,獨行意根增上勢力所引意識,不能樂求眼等五根所行境界。故此經義無違前失。又世尊說:苾芻當知,吾今為汝具足演說一切所達所知法門。其體是何?謂諸眼色眼識眼觸,眼觸為緣內所生受,或樂或苦不苦不樂。廣說乃至。意觸為緣內所生受,或樂、或苦、不苦不樂,是名一切所達所知。由此經文,決判一切所達知法唯有爾所,此中無有補特伽羅,故補特伽羅亦應非所識,以慧與識境必同故。諸謂眼見補特伽羅,應知眼根見此所有,於見非我謂見我故,彼便蹎墜惡見深坑。故佛經中自決此義,謂唯於諸蘊說補特伽羅。如人契經作如是說:眼及色為緣生於眼識,三和合觸俱起受想思。於中後四是無色蘊,初眼及色名為色蘊,唯由此量說名為人。即於此中隨義差別假立名想,或謂有情不悅意生儒童、養者、命者、生者、補特伽羅,亦自稱言我眼見色。復隨世俗說,此具壽有如是名、如是種族、如是姓類、如是飲食、如是受樂、如是受苦、如是長壽、如是久住、如是壽際。

(論に引き続き曰く:)いわゆる契経に説く:諸の因・諸の縁の能く識を生ずるは皆無常性。もし彼は遂に謂わば補特伽羅は識の縁ずる所に非ずと。応に識する所に非ず。もし識する所に非ざれば応に知る所に非ず。もし知る所に非ざれば如何にして有りと立てんか。もし有りと立てざれば便ち自宗を壊す。またもし六識の識する所と為すを許さば、眼識の識するがゆえに応に声等に異なるべし。猶お色のごとし。耳識の識するがゆえに、応に色等に異なるべし。譬えば声のごとし。其余の識の識する所は、為の難は此に准ず。また此を立てて六識の識する所と為せば、便ち経の説に違す。契経の説くがごとく:梵志当に知るべし、五根の行処・境界は各々別なり。各々ただ自の行く所の処および自の境界を受用す。異根有りてもまた能く異根の行処および異境界を受用するに非ず。五根とは眼・耳・鼻・舌・身を謂う。意は兼ねて五根の行処および彼の境界を受用す。彼は意に依るがゆえに。或いは応に執すべからず補特伽羅は是れ五根の境と。此のようの便ち五識の識する所に非ず。宗に違するの過有り。もしそうならば、意根の境もまた応に別なるべし。六生の喩の契経の中に説くがごとく:此のようの六根の行処・境界は各々差別有り。各別に自の行く所の処および自の境界を楽求す。此の中に眼等の六根を説くに非ず。眼等の五根および生ずる所の識は見等を楽うの勢力有ること無きがゆえに。但だ眼等の増上の勢力の引く所の意識を説いて名づけて眼等の根。独り行く意根の増上の勢力の引く所の意識は、能く眼等の五根の行く所の境界を楽求せず。ゆえに此の経の義は前の失に違せず。また世尊は説きたまう:苾芻当に知るべし、吾今汝の為に具足に一切の達する所・知る所の法門を演説せん。其の体は是れ何ぞ。いわゆる諸の眼・色・眼識・眼触、眼触を縁と為して内に生ずる所の受、或いは楽或いは苦・不苦不楽。広く説き乃至。意触を縁と為して内に生ずる所の受、或いは楽・或いは苦・不苦不楽。是れを名づけて一切の達する所・知る所。此の経文に由って、一切の達知の法はただ爾所有りと決判す。此の中に補特伽羅有ること無し。ゆえに補特伽羅もまた応に識する所に非ず。慧と識とは境必ず同じきを以て。諸の眼は補特伽羅を見ると謂うは、応に知るべし眼根は此の所有を見て、我に非ざるを見て我を見ると謂うがゆえに、彼は便ち悪見の深坑に顛墜す。ゆえに仏経の中に自ら此の義を決して、いわゆるただ諸蘊に於いて補特伽羅を説く。人の契経の此の説を作すがごとく:眼および色を縁と為して眼識に生ず。三和合の触は俱に受・想・思を起す。中に於いて後の四は是れ無色蘊。初の眼および色は名づけて色蘊。ただ此の量に由って説いて名づけて人。即ち此の中に於いて義の差別に随って仮に名想を立つ。或いは有情・不悦意・生儒童・養者・命者・生者・補特伽羅と謂い、もまた自ら称して我が眼は色を見ると説く。復た世俗に随って説く、此の具寿は此のようの名有り、此のようの種族、此のようの姓類、此のようの飲食、此のようの楽を受け、此のようの苦を受け、此のようの長寿、此のようの久住、此のようの寿際と。

苾芻當知,此唯名想,此唯自稱,但隨世俗假施設有。如是一切無常有為,從眾緣生、由思所造。世尊恆勅依了義經,此經了義,不應異釋。又薄伽梵告梵志言:我說一切有唯是十二處。若數取趣非是處攝,無體理成。若是處攝,則不應言是不可說。彼部所誦契經亦言:諸所有眼、諸所有色,廣說乃至苾芻當知,如來齊此施設一切建立一切有自體法。此中無有補特伽羅,如何可說此有實體。頻毘婆羅契經亦說:諸有愚昧無聞異生,隨逐假名計為我者,此中無有我我所性,唯有一切眾苦法體將正已生,乃至廣說。有阿羅漢苾芻尼名世羅,為魔王說:

(論に引き続き曰く:)苾芻当に知るべし、此れはただ名想、此れはただ自称。但だ世俗に随って仮に施設して有り。此のようの一切の無常・有為は、衆縁より生じ、思の造る所に由る。世尊は恒に敕して了義の経に依れと。此の経は了義。応に異釈すべからず。また薄伽梵は梵志に告げて説きたまう:我は一切有はただ十二処と説くと。もし数取趣(補特伽羅)は処の摂に非ざれば、体無しの理成ず。もし是れ処の摂ならば、則ち応に説くべからず是れ説くべからずと。彼の部の誦する所の契経もまた説く:諸の所有の眼・諸の所有の色、広く説き乃至苾芻当に知るべし、如来は此を斉えて施設して一切を建立す一切の自体法有りと。此の中に補特伽羅有ること無し。如何にして此れは実体有りと説くべきか。頻毘婆羅(王の名)の契経もまた説く:諸の愚昧・無聞の異生は、仮名に随逐して我と計するは、此の中に我・我所の性有ること無し。ただ一切の衆苦の法体は将に正しく已に生ぜんとす有り。乃至広く説く。阿羅漢の苾芻尼有りて名づけて世羅(比丘尼の名)。魔王の為に説いて曰く:

汝墮惡見趣,於空行聚中,

汝は悪見の趣に堕ち、空行の聚の中に於いて、

妄執有有情,智者達非有。

妄りに有情有りと執す。智者は達して非有を知る。

如即攬眾分,假想立為車,

即ち衆分を摬るがごとく、仮想に車を立つ。

世俗立有情,應知攬諸蘊。

世俗は有情を立つ。応に知るべし諸蘊を摬るを。

世尊於《雜阿笈摩》中為婆羅門婆拕梨說:

世尊は《雑阿笈摩》の中に於いて婆羅門の婆拕梨(婆羅門の名)の為に説きたまう:

婆拕梨諦聽,能解諸結法,

婆拕梨よ諦らかに聴け、能く諸の結の法を解くは、

謂依心故染,亦依心故淨。

いわゆる心に依るがゆえに染、もまた心に依るがゆえに浄。

我實無我性,顛倒故執有,

我は実に我性無し。顛倒なるがゆえに有りと執す。

無有情無我,唯有有因法。

有情・我無し。ただ因の法有るのみ。

謂十二有支,所攝蘊處界,

いわゆる十二の有支、摂する所の蘊・処・界。

審思此一切,無補特伽羅,

此の一切を審思すれば、補特伽羅無し。

既觀內是空,觀外空亦爾,

すでに内を観じて是れ空、外を観じて空もまた此のよう。

能修空觀者,亦都不可得。

能く空を観修するも、もまた得るべからず。

經說:執我有五種失,謂起我見及有情見墮惡見趣,同諸外道越路而行,於空性中心不悟入、不能淨信、不能安住、不得解脫,聖法於彼不能清淨。此皆非量。所以者何?於我部中曾不誦故。汝宗許是量,為部為佛言?若部是量,佛非汝師、汝非釋子。若佛言者,此皆佛言,如何非量。彼謂:此說皆非真佛言。所以者何?我部不誦故。此極非理。非理者何?如是經文諸部皆誦,不違法性及餘契經,而敢於中輒興誹撥,我不誦故非真佛言。唯縱兇狂,故極非理。又於彼部豈無此經,謂一切法皆非我性。若彼意謂補特伽羅與所依法不一不異,故說一切法皆非我。既爾,應非意識所識,二緣生識經決判故。又於餘經如何會釋?謂契經說:非我計我此中具有想心見倒。計我成倒,說於非我,不言於我,何煩會釋。非我者何?謂蘊處界。便違前說補特伽羅與色等蘊不一不異。又餘經說:苾芻當知,一切沙門婆羅門等諸有執我等隨觀見,一切唯於五取蘊起。故無依我起於我見,但於非我法妄分別為我。又餘經言:諸有已憶正憶當憶種種宿住,一切唯於五取蘊起,故定無有補特伽羅。若爾,何緣此經復說我於過去世有如是色等?此經為顯能憶宿生一相續中有種種事。若見實有補特伽羅於過去生能有色等,如何非墮起身見失?或應誹撥言無此經,是故此經依總假我,言有色等如聚如流。若爾,世尊應非一切智,無心心所能知一切法剎那剎那異生滅故。若許有我可能遍知,補特伽羅則應常住,許心滅時此不滅故,如是便越汝所許宗。我等不言佛於一切能頓遍知故名一切智者,但約相續有堪能故,謂得佛名諸蘊相續成就如是殊勝堪能,才作意時於所欲知境無倒智起故名一切智,非於一念能頓遍知。故於此中有如是頌:

経に説く:我を執するに五種の失有り。いわゆる我見および有情見を起して悪見の趣に堕ち、諸の外道と同じく路を越えて行き、空性の中に於いて心は悟入せず、能く浄信せず、能く安住せず、解脱を得ず、聖法は彼に於いて能く清浄ならず。此れは皆量に非ず。所以は何ぞや。我が部の中に於いて曾て誦せざるがゆえに。汝の宗は是れ量と許すは、為に部か為に仏の言か。もし部は量ならば、仏は汝が師に非ず、汝は釋子に非ず。もし仏の言なれば、此れは皆仏の言。如何にして量に非ざらんか。彼は謂う:此の説は皆真の仏言に非ず。所以は何ぞや。我が部は誦せざるがゆえに。此れは極めて理に非ず。理に非ざるは何ぞや。此のようの経文は諸部皆誦し、法性および其余の契経に違せざるに、而も敢えて中に於いて輙く謗撥を興して、我は誦せざるがゆえに真の仏言に非ずと。ただ凶狂を縦にするのみ。ゆえに極めて理に非ず。また彼の部に於いて豈に此の経無からんか、いわゆる一切の法は皆我性に非ず。もし彼の意は補特伽羅と依る所の法とは一ならず異ならずと謂い、ゆえに一切法は皆我に非ずと説く。すでに然らば、応に意識の識する所に非ざるべし。二縁に識を生ずる経は決判するがゆえに。また其余の経に於いて如何にして会釋するか。いわゆる契経に説く:我に非ざるを我と計る此の中に想・心・見の倒を具に有りと。我を計りて倒を成ずるは、非我に於いて説いて、我に於いて説かず。何ぞ会釋を煩わさん。非我とは何ぞ。いわゆる蘊・処・界。便ち前の補特伽羅は色等の蘊と一ならず異ならずの説に違す。また其余の経に説く:苾芻当に知るべし、一切の沙門・婆羅門等の諸の我を執する等の随い観見するは、一切ただ五取蘊に於いて起ると。ゆえに依る我無くして我見に起るは、但だ非我の法に於いて妄りに分別して我と為す。また其余の経に説く:諸の已に憶い・正に憶い・当に憶う種種の宿住は、一切ただ五取蘊に於いて起ると。ゆえに定めて補特伽羅有ること無し。もしそうならば、何の縁にか此の経は復た我は過去の世に此のようの色等有りと説くか。此の経は為に能く宿生を憶う一相続の中に種種の事有るを顕さんとす。もし実に補特伽羅有りて過去の生に於いて能く色等有るを見るは、如何にして身見の失を起して堕するに非ざらんか。或いは応に謗撥して此の経無しと説くべし。此のゆえに此の経は総の仮の我に依って、色等有りと説くこと聚のごとく流のごとし。もしそうならば、世尊は応に一切智に非ざるべし。心・心所は能く一切法の刹那刹那に異に生滅するを知る無きがゆえに。もし我有るを許せば能く遍知すべし。補特伽羅は則ち応に常住なるべし。心の滅する時に此れは滅せざるを許すがゆえに。此のようの便ち汝の許す所の宗を越ゆ。我等は佛は一切に於いて能く頓に遍知するがゆえに名づけて一切智と説かず。但だ相続に堪能有るに約るがゆえに。いわゆる佛の名を得たる諸蘊の相続は此のようの殊勝の堪能を成就して、才めて作意する時に欲知する所の境に於いて倒なきの智を起すがゆえに名づけて一切智。一念に於いて能く頓に遍知するに非ず。ゆえに此に於いて此のようの頌有り:

由相續有能,如火食一切,

相続に能有るに由る。火の一切を食するがごとし。

如是一切智,非由頓遍知。

此のようの一切智は、頓遍知に由るに非ず。

如何得知約相續說知一切法,非我遍知?說佛世尊有三世故。於何處說?如有頌言:

如何にして知る相続に約して一切法を知ると説いて、我の遍知に非ざるを。佛世尊に三世有ると説くを以て。何の処に於いてか説くか。頌有りて説くがごとく:

若過去諸佛,若未來諸佛,

もし過去の諸仏、もし未来の諸仏、

若現在諸佛,皆滅眾生憂。

もし現在の諸仏、皆衆生の憂を滅す。

汝宗唯許蘊有三世,非數取趣,故定應爾。

汝の宗はただ蘊に三世有るを許し、数取趣に非ず。ゆえに定めて応に此のよう。

説一切有部倶舎論 巻第二十九

アビダルマ倶舎論 巻第三十 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

破執我品第九之二

破執我品 第九之二

若唯五取蘊名補特伽羅,何故世尊作如是說:吾今為汝說諸重擔、取捨重擔、荷重擔者。何緣於此佛不應說?不應重擔即名能荷。所以者何?曾未見故。不可說事亦不應說。所以者何?亦未見故。又取重擔應非蘊攝,重擔自取,曾未見故。然經說愛名取擔者,既即蘊攝,荷者應然,即於諸蘊立數取趣。然恐謂此補特伽羅是不可說常住實有,故此經後佛自釋言:但隨世俗,說此具壽有如是名,乃至廣說。如上所引人經文句,為令了此補特伽羅,可說無常非實有性。即五取蘊自相逼害得重擔名。前前剎那引後後故名為荷者,故非實有補特伽羅。補特伽羅定應實有,以契經說諸有撥無化生有情邪見攝故。誰言無有化生有情?如佛所言:我說有故。謂蘊相續能往後世,不由胎卵濕名化生有情。撥此為無,故邪見攝。化生諸蘊,理實有故。又許此邪見謗補特伽羅。汝等應言,是何所斷?見修所斷。理並不然,補特伽羅非諦攝故,邪見不應修所斷故。若謂經說有一補特伽羅生在世間,應非蘊者,亦不應理,此於總中假說一故,如世間說一麻一米一聚一言。或補特伽羅應許有為攝,以契經說生世間故。非此言生如蘊新起,依何義說生在世間?依此今時取別蘊義,如世間說能祠者生、記論者生,取明論故。又如世說有苾芻生、有外道生,取儀式故。或如世說有老者生,有病者生,取別位故。佛已遮故,此救不成。如勝義空契經中說:有業有異熟,作者不可得。謂能捨此蘊,及能續餘蘊,唯除法假。故佛已遮。頗勒具那契經亦說:我終不說有能取者。故定無一補特伽羅能於世間取捨諸蘊。又汝所引祠者等生,其體是何而能喻此?若執是我,彼不極成。若心心所,彼念念滅、新新生故,取捨不成。若許是身,亦如心等。又如明等與身有異,蘊亦應異補特伽羅。老病二身各與前別,數論轉變如前已遣,故彼所引為喻不成。

もしただ五取蘊を名づけて補特伽羅ならば、何の故にか世尊は此の説を作して曰く:吾今汝の為に諸の重担・取捨の重担・荷なう重担の者を説かん。何の縁にか此に於いて佛は説くべからざるか。応に重担を即ち名づけて能く荷なうべからず。所以は何ぞや。曾て未だ見ざるがゆえに。説くべからざる事もまた説くべからず。所以は何ぞや。もまた未だ見ざるがゆえに。また重担を取るは応に蘊の摂に非ざるべし。重担は自ら取る。曾て未だ見ざるがゆえに。然而経に愛を名づけて取担と説くは、すでに即ち蘊の摂。荷なう者は応に此のよう。即ち諸蘊に於いて数取趣を立つ。然而恐るらくは此の補特伽羅は是れ説くべからざる常住・実有と謂わんことを、ゆえに此の経の後に佛自ら釋して説く:但だ世俗に随って、此の具寿は此のようの名有りと説く、乃至広く説く。上の引く所の人の経文の句のごとく、為に此の補特伽羅は説くべし無常にして実有の性に非ずと了せしめんと。即ち五取蘊は自ら相い逼害して重担の名を得。前前の刹那は後後を引くがゆえに名づけて荷なう者。ゆえに実有の補特伽羅に非ず。補特伽羅は定めて応に実有なるべし。契経に諸の化生の有情を無しと撥するは邪見の摂と説くを以て。誰か化生の有情無しと説くか。佛の言う所のごとく:我は有りと説くがゆえに。いわゆる蘊の相続は能く後の世に往くは、胎・卵・湿に由らずして名づけて化生の有情。此を撥して無しと為す。ゆえに邪見の摂。化生の諸蘊は理実は有るがゆえに。また此の邪見は補特伽羅を謗ると許す。汝等は応に説くべし、是れ何の断ずる所か。見・修の断ずる所。理は并びに此のようにはあらず。補特伽羅は諦の摂に非ざるがゆえ、邪見は応に修の断ずる所に非ざるがゆえに。もし謂わば経に一の補特伽羅は世間に生ずと説くは、応に蘊に非ざると。もまた理に該当せず。此れは総の中に於いて仮に一を説くがゆえに。世間の一麻・一米・一聚・一言を説くがごとし。或いは補特伽羅は応に有為の摂と許すべし。契経に世間に生ずと説くを以て。此の言の生は蘊の新たに起るがごときに非ず。何の義に依ってか世間に生ずと説くか。此の今の時に別の蘊を取るの義に依る。世間の能祠の者の生・記論の者の生を説くがごとく、明論を取るがゆえに。また世の苾芻の生有り・外道の生有りと説くがごとく、儀式を取るがゆえに。或いは世の老者の生有り・病者の生有りと説くがごとく、別の位を取るがゆえに。佛は已に遮りたまえり。ゆえに此の救は成らず。勝義空の契経の中に説くがごとく:業有りて異熟有り。作る者は得るべからず。いわゆる能く此の蘊を捨て、および能く其余の蘊を続ぐは、ただ法の仮を除く。ゆえに佛は已に遮りたまえり。頗勒具那(経の名)の契経もまた説く:我は終に能く取る者有りと説かずと。ゆえに定めて一の補特伽羅は能く世間に於いて諸蘊を取捨する無し。また汝の引く所の祠者等の生は、其の体は是れ何ぞにして能く此に喩えんか。もし是れ我と執さば、彼は極成せず。もし心・心所ならば、彼は念々に滅して新新に生ずるがゆえに、取捨は成らず。もし是れ身と許さば、もまた心等のごとし。また明等は身と異有るがごとく、蘊もまた応に補特伽羅に異なるべし。老・病の二身は各々前と別なり。数論の転変は前に已に遣りたるがゆえに、ゆえに彼の引く所は喩と為って成らず。

又許蘊生非數取趣,則定許此異蘊及常。又此唯一,蘊體有五,寧不說此與蘊有異?大種有四,造色唯一,寧言造色不異大種?是彼宗過。何謂彼宗?諸計造色即大種論。設如彼見,應作是質:如諸造色即四大種,亦應即五蘊立補特伽羅。若補特伽羅即諸蘊者,世尊何不記命者即身?觀能問者阿世耶故。問者執一內用士夫體實非虛名為命者,依此問佛與身一異。此都無故,一異不成,如何與身可記一異?如不可記龜毛䩕軟,古昔諸師已解斯結。昔有大德名曰龍軍,三明六通具八解脫。於時有一畢隣陀王,至大德所作如是說:我今來意欲請所疑。然諸沙門性好多語,尊能直答,我當請問。大德受請。王即問言:命者與身為一為異?大德答言:此不應記。王言:豈不先有要耶?今何異言不答所問?大德質曰:我欲問疑。然諸國王性好多語,王能直答,我當發問。王便受教。大德問言:大王宮中諸菴羅樹所生果味為酢為甘。王言:宮中本無此樹。大德復責:先無要耶?今何異言不答所問。王言:宮內此樹既無,寧可答言果味甘酢?大德誨曰:命者亦無,如何可言與身一異?佛何不說命者都無?亦觀問者阿世耶故。問者或於諸蘊相續謂為命者,依之發問。世尊若答命者都無,彼墮邪見,故佛不說。彼未能了緣起理故,非受正法器,不為說假有。理必應爾,世尊說故。如世尊告阿難陀言:有姓筏蹉出家外道,來至我所作是問言:我於世間為有非有?我不為記。所以者何?若記為有,違法真理,以一切法皆無我故。若記為無,增彼愚惑,彼便謂我先有今無。對執有愚,此愚更甚,謂執有我則墮常邊,若執無我便墮斷邊。此二輕重,如經廣說。依如是義,故有頌曰:

(論に引き続き曰く:)また蘊の生は数取趣に非ずと許さば、則ち定めて此れは蘊に異なりおよび常と許すべし。また此れは唯一、蘊の体は五。寧ろ此れは蘊と異有りと説かざらんや。大種に四有り、造色は唯一。寧ろ造色は大種に異ならずと言わんや。是れ彼の宗の過。何谓をか彼の宗とするか。諸の造色は即ち大種と計る論。設い彼の見のごときは、応に是の質を作すべし:諸の造色は即ち四大種のごとく、もまた応に即ち五蘊に依って補特伽羅を立つべし。もし補特伽羅は即ち諸蘊ならば、世尊は何ぞ命者は即ち身と記せざるか。能く問うの阿世耶を観ずるがゆえに。問うは一の内用の士夫の体は実にして虚名に非ざるを執して命者と為し、此に依って佛と身と一か異かを問う。此れは都て無し。一・異は成らず。如何にして身と一・異を記すべきか。亀の毛の軟硬を記すべからざるがごとし。古昔の諸師は已に斯の結を解けり。昔に大徳有りて名づけて龍軍(論師の名)。三明・六通に具に八解脱。時に一の畢鄰陀王(国王の名)有りて、大徳に至りて此の説を作して曰く:我今来りて意は疑う所を請わんと欲す。然而諸の沙門は性は多く語を好む。尊は能く直に答えよ、我当に請問せん。大徳は請を受く。王は即ち問うて説く:命者と身とは一と為すか異と為すか。大徳は答えて説く:此れは記すべからず。王は説く:豈に先に要有りしに非ずや。今何ぞ異言して問う所に答えざるか。大徳は質して曰く:我は疑いを問わんと欲す。然而諸の国王は性は多く語を好む。王は能く直に答えよ、我当に問を発せん。王は便ち教を受く。大徳は問うて説く:大王の宮中の諸の菴羅(芒果)の樹の生ずる所の果の味は酢か甘か。王は説く:宮中は本より此の樹無し。大徳は復た責む:先に要無かりしか。今何ぞ異言して問う所に答えざるか。王は説く:宮内の此の樹はすでに無し。寧ろ果の味は甘・酢と答えて説くべきか。大徳は教えて曰く:命者もまた無し。如何にして身と一・異と説くべきか。佛は何ぞ命者は都て無しと説かざるか。もまた問うの阿世耶を観ずるがゆえに。問うは或いは諸蘊の相続に於いて命者と為し、之に依って問を発す。世尊もし命者は都て無しと答えば、彼は邪見に堕す。ゆえに佛は説かず。彼は未だ縁起の理を了する能わざるがゆえに、正法を受くるの器に非ず。假有を説く為さず。理は必ず応に此のよう。世尊の説くがゆえに。世尊は阿難陀に告げて説くがごとく:姓の筏蹉(外道の名)の出家の外道有りて、来りて我に至りて此のようの問説を作す:我は世間に於いて有りと為すか有りに非ずと為すか。我は記を為さず。所以は何ぞや。もし有りと記せば、法の真理に違す。一切法は皆我無きを以て。もし無しと記せば、彼の愚惑を増し、彼は便ち謂わん我先に有りて今無しと。有りと執するの愚に対して、此の愚は更に甚だし。いわゆる我有りと執すれば則ち常の辺に堕し、もし我無しと執すれば便ち断の辺に堕す。此の二の軽重は、経に広く説くがごとし。此のようの義に依るがゆえに、頌有りて説く:

觀為見所傷,及壞諸善業,

観じて見の傷うる所と為り、および諸の善業を壊るを、

故佛說正法,如牝虎銜子。

ゆえに佛は正法を説くこと、牝虎の子を銜えるがごとし。

執真我為有,則為見牙傷,

真の我を執して有りと為せば、則ち見の牙の傷うる所と為り、

撥俗我為無,便壞善業子。

俗の我を撥して無しと為せば、便ち善業の子を壊る。

復說頌曰:

復た頌を説いて曰く:

由實命者無,佛不言一異,

実の命者無きに由って、佛は一・異を言わず、

恐撥無假我,亦不說都無。

仮の我を無しと撥せんことを恐れて、もまた都て無しと説かず。

謂蘊相續中,有業果命者,

いわゆる蘊の相続の中に、業・果・命者有り。

若說無命者,彼撥此為無。

もし命者無しと説かば、彼は此を無しと撥せん。

不說諸蘊中,有假名命者,

諸蘊の中に、仮名の命者有りと説かずは、

由觀發問者,無力解真空。

問を発するに力無くして真空を解せざるを観ずるに由る。

如是觀筏蹉,意樂差別故,

此のようの筏蹉を観ずるは、意楽の差別あるがゆえに、

彼問有無我,佛不答有無。

彼の我の有無を問うに、佛は有・無を答えず。

何緣不記世間常等?亦觀問者阿世耶故。問者若執我為世間,我體都無故,四記皆非理。若執生死皆名世間,佛四種記亦皆非理。謂若常者,無得涅槃。若是非常,便自斷滅,不由功力鹹得涅槃。若記為常亦非常者,定應一分無得涅槃,一分有情自證圓寂。若記非常非非常者,則非得涅槃,非不得涅槃。決定相違,便成戲論。然依聖道可般涅槃,故四定記皆不應理。如離繫子問雀死生,佛知彼心不為定記。有邊等四亦不記者,以同常等皆有失故。寧知此四義同常等?以有外道名嗢底迦,先問世間有邊等四,復設方便矯問世尊:為諸世間皆由聖道能得出離、為一分耶?尊者阿難因告彼曰:汝以此事已問世尊,今復何緣改名重問?故知後四,義與前同。復以何緣世尊不記如來死後有等四耶?亦觀問者阿世耶故,問者妄計已解脫我名為如來而發問故。今應詰問計有我者,佛何緣記有現補特伽羅,不記如來死後亦有?彼言恐有墮常失故。若爾,何緣佛記慈氏汝於來世當得作佛,及記弟子身壞命終,某甲今時已生某處。此豈非有墮常過失?若佛先見補特伽羅,彼涅槃已便不復見,以不知故不記有者,則撥大師具一切智。或應許不記,由我體都無。若謂世尊見而不說,則有離蘊及常住過。若見非見俱不可說,則應漸言,不可說佛是一切智非一切智。若謂實有補特伽羅,以契經言諦故住故,定執無我者墮惡見處故。此不成證,彼經亦說定執有我者墮惡見處故。阿毘達磨諸論師言:執我有無俱邊見攝,如次墮在常斷邊故。彼師所說深為應理,以執有我則墮常邊,若執無我便墮斷邊。前《筏蹉經》分明說故。若定無有補特伽羅,為說阿誰流轉生死?不應生死自流轉故。然薄伽梵於契經中,說諸有情無明所覆、貪愛所繫馳流生死,故應定有補特伽羅。此復如何流轉生死?由捨前蘊取後蘊故。如是義宗前已徵遣。

何の縁にか世間の常等を記せざるか。もまた問うの阿世耶を観ずるがゆえに。問うはもし我を執して世間と為せば、我の体は都て無きがゆえに、四記は皆理に非ず。もし生死を執して皆名づけて世間と為せば、佛の四種の記もまた皆理に非ず。いわゆるもし常ならば、涅槃を得る無し。もし常に非ざれば、便ち自ら断滅して、功力に由らずして咸く涅槃を得。もし常および常に非ずと記せば、定めて応に一分は涅槃を得ず、一分の有情は自ら円寂を証すべし。もし非常・非非常と記せば、則ち涅槃を得ず、涅槃を得ざるに非ず。決定して相違す。便ち戯論を成ず。然而聖道に依って般涅槃すべし。ゆえに四の定記は皆理に該当せず。離繫の子の雀の死生を問うがごとく、佛は彼の心を知りて定記を為さず。有辺等の四もまた記せざるは、常等と同じく皆失有るを以て。寧ろ此の四は義は常等に同じきを知らんや。外道有りて名て名づけて嗢底迦(外道の名)を以て、先に世間の有辺等の四を問い、復た方便を設けて矯めて世尊に問う:為に諸の世間は皆聖道に由って能く出離を得るか、為に一分か。尊者阿難は因って彼に告げて曰く:汝は此の事を以て已に世尊に問えり。今復た何の縁にか名を改めて重ねて問うか。ゆえに後の四は義は前と同じと知る。復た何の縁を以てか世尊は如来の死後の有等の四を記せざるか。もまた問うの阿世耶を観ずるがゆえに。問うは妄りに已に解脱せる我を計して名づけて如来として問を発するがゆえに。今応に我を有りと計るに詰問すべし、佛は何の縁にか現の補特伽羅を記して、如来の死後もまた有りを記せざるか。彼は恐らくは常に堕するの失有るを説くがゆえに。もしそうならば、何の縁にか佛は慈氏は汝は来の世に於いて当に作佛を得べしと記し、および弟子の身壊・命終して某甲は今時に已に某の処に生ずと記するか。此れは豈に常に堕するの過失有るに非ずや。もし佛は先に補特伽羅を見て、彼は涅槃已りて便ち復た見ず、知らざるを以て有りを記せざるは、則ち大師の一切智を具するを撥す。或いは応に記せざるを許すべし、我の体は都て無きに由る。もし謂わば世尊は見て而も説かざれば、則ち蘊を離れるおよび常住の過有り。もし見・非見は俱に説くべからざれば、則ち応に漸の言。説くべからず佛は是れ一切智にして一切智に非ずと。もし謂わば実に補特伽羅有りて、契経に諦を説くがゆえ・住るがゆえに説くを以て、定めて我無しを執するは悪見の処に堕するがゆえに。此れは証を成さず。彼の経もまた定めて我有りを執するは悪見の処に堕すると説くがゆえに。阿毘達磨の諸の論師は説く:我を有・無と執するは俱に辺見の摂。次第のごとく常・断の辺に堕在するがゆえに。彼の師の説く所は深く理に該当す。我を有りと執すれば則ち常の辺に堕し、もし我を無しと執すれば便ち断の辺に堕するを以て。前の《筏蹉経》は分明に説くがゆえに。もし定めて補特伽羅有ること無ければ、為に阿誰を説いて生死を流転するか。応に生死は自ら流転すと説くべからざるがゆえに。然而薄伽梵は契経の中に於いて、諸の有情は無明の覆う所・貪愛の繋ぐ所にして生死に馳流すと説く。ゆえに応に定めて補特伽羅有るべし。此れは復た如何にして生死を流転するか。前の蘊を捨てて後の蘊を取るに由るがゆえに。此のようの義宗は前に已に征め遣りたり。

如燎原火雖剎那滅,而由相續說有流轉。如是蘊聚假說有情,愛取為緣流轉生死。若唯有蘊,何故世尊作如是說:今我於昔為世導師名為妙眼。此說何咎?蘊各異故。若爾,是何物謂補特伽羅?昔我即今,體應常住,故說今我昔為師言,顯昔與今是一相續,如言此火曾燒彼事。若謂決定有真實我,則應唯佛能明瞭觀,觀已應生堅固我執,從斯我執我所執生,從此應生我我所愛。故薄伽梵作如是言:若執有我便執我所,執我所故於諸蘊中便復發生我我所愛薩迦耶見,我愛所縛則為謗佛,去解脫遠。若謂於我不起我愛,此言無義。所以者何?於非我中橫計為我,容起我愛。非實我中,如是所言無理為證,故彼於佛真聖教中無有因緣起見瘡皰。如是一類執有不可說補特伽羅。復有一類總撥一切法體皆非有。外道執有別真我性,此等一切見不如理,皆不能免無解脫過。若一切類我體都無,剎那滅心於曾所受久相似境何能憶知?如是憶知,從相續內念境想類心差別生。且初憶念為從何等心差別無間生?從有緣彼作意相似相屬想等,不為依止差別愁憂散亂等緣損壞功德心差別起。雖有如是作意等緣,若無彼類心差別者,則無堪能修此憶念。雖有彼類心差別因,若無如是緣,亦無能修理,要具二種方可能修。諸憶念生但由於此,不見離此有功能故。如何異心見,後異心能憶。非天授心曾所見境,後祠授心有憶念理。此難非理,不相屬故。謂彼二心互不相屬,非如一相續有因果性故。我等不言異心見境異心能憶,相續一故。然從過去緣彼境心,引起今時能憶念識。謂如前說相續轉變差別力故生念何失?由此憶念力,有後記知生。我體既無,孰為能憶?能憶是何義?由念能取境。此取境豈異念?雖不異念,但由作者,作者即是前說念因,謂彼類心差別。然世間所言制怛羅能憶,此於蘊相續立制怛羅名。

(論に引き続き曰く:)燎原の火の刹那に滅すと雖も、而も相続に由って流転有りと説くがごとし。此のようの蘊の聚は仮に有情と説き、愛・取を縁と為して生死を流転す。もしただ蘊有りならば、何の故にか世尊は此の説を作して曰く:今の我は昔に於いて世の導師と為りて名づけて妙眼。此の説は何の咎有るか。蘊は各異なるがゆえに。もしそうならば、是れ何の物か補特伽羅と謂うか。昔の我は即ち今。体は応に常住なるべし。ゆえに今の我は昔に師と為るの言を説くは、昔と今とは一相続を顕す。此の火は曾て彼の事を焼きしと言うがごとし。もし謂わば決定して真実の我有りと。則ち応にただ佛のみ能く明了に観ずべし。観じ已りては応に堅固の我執を生ずべし。斯の我執より我所の執を生じ、此より応に我・我所の愛を生ずべし。ゆえに薄伽梵は此の説を作して曰く:もし我有りを執すれば便ち我所を執し、我所を執するがゆえに諸蘊の中に於いて便ち復た我・我所の愛の薩迦耶見を発生し、我愛の縛る所と為れば則ち佛を謗りて、解脱を去ること遠し。もし謂わば我に於いて我愛を起さずと。此の言は義無し。所以は何ぞや。非我の中に於いて横に我と計るは、容そ我愛を起す。実我の中に於いて、此のようの言う所は理の証と為る無し。ゆえに彼は佛の真の聖教の中に於いて因縁無くして見の瘡疱を起さず。此のようの一類は説くべからざる補特伽羅有りを執す。復た一類有りて総じて一切の法体は皆有るに非ずと撥す。外道は別に真の我性有りと執す。此の等の一切の見は理のごとくあらず。皆能く解脱無きの過を免れず。もし一切類は我体は都て無ければ、刹那滅の心は曾て受くる所の久しく相似の境に於いて何ぞ能く憶知せんか。此のようの憶知は、相続の内の念・境の想類の心差別より生ず。且つ初めの憶念は為に何等の心差別の無間に生ずるか。縁有りて彼に作意する相似・相属の想等より、依止する差別の愁・憂・散・乱等の縁の功徳を損壊する所と為らざる心差別より起る。此のようの作意等の縁有ると雖も、もし彼の類の心差別無ければ、則ち此の憶念を修するの堪能無し。彼の類の心差別の因有ると雖も、もし此のようの縁無ければ、もまた修するの理無し。要ずるに二種を具して方に能く修すべし。諸の憶念の生ずるは但だ此に由る。此を離れて功能有るを見ざるがゆえに。如何にして異心は見て、後の異心は能く憶うか。天授(人の名)の心の曾て見る所の境に非ざるに、後の祠授(人の名)の心に憶念の理有り。此の難は理に非ず。相属せざるがゆえに。いわゆる彼の二心は互いに相属せず。一相続の因果性有るがごときに非ざるがゆえに。我等は異心は境を見て異心は能く憶うと説かず。相続は一なるがゆえに。然而過去の彼の境に縁ずる心より、今の時の能く憶念する識を引起す。いわゆる前の説くがごとき相続の転変・差別の力に由って念を生ずるは何の失有るか。此の憶念の力に由って、後の記知の生有り。我体すでに無ければ、孰をか能憶と為すか。能憶とは是れ何の義か。念に由って能く境を取る。此の境を取るは豈に念に異ならんか。念に異ならずと雖も、但だ作る者に由る。作る者は即ち是れ前の説く念の因。いわゆる彼の類の心差別。然而世間の言う所の制怛羅(人の名)の能憶は、此れは蘊の相続に於いて制怛羅の名を立つ。

從先見心後憶念起,依如是理說彼能憶。我體若無,是誰之念?為依何義說第六聲?此第六聲依屬主義,如何物屬何主?此如牛等屬制怛羅。彼如何為牛主?謂依彼彼所乘所搆所役等中彼得自在。欲於何所驅役於念,而勤方便尋求念主?於所念境驅役於念。役念為何?謂令念起。奇哉自在起無理言,寧為此生而驅役此?又我於念如何驅役?為令念起、為令念行?念無行故,但應念起。則因名主,果名能屬。由因增上令果得生,故因名主。果於生時是因所有,故名能屬。即生念因足為念主,何勞立我為念主耶?即諸行聚一類相續,世共施設制怛羅牛,立制怛羅名為牛主。是牛相續於異方生,變異生因故名為主。此中無一實制怛羅亦無實牛,但假施設,故言牛主,亦不離因。憶念既爾,記知亦然。如辯憶知,熟為能了誰之識等,亦應例釋。且識因緣與前別者,謂根境等,如應當知。有作是言:決定有我,事用必待事用者故。謂諸事用待事用者,如天授行必待天授。行是事用天授名者,如是識等所有事用,必待所依能了等者。今應詰彼:天授謂何?若是實我,此如先破。若假士夫,體非一物,於諸行相續假立此名故。如天授能行,識能了亦爾。依何理說天授能行?謂於剎那生滅諸行不異相續立天授名,愚夫於中執為一體,為自相續異處生因。異處生名行,因即名行者。依此理說天授能行。如焰及聲異處相續,世依此說焰聲能行。如是天授身能為識因故,世間亦謂天授能了。然諸聖者為順世間言說理故,亦作是說。經說諸識能了所緣,識於所緣為何所作?都無所作,但以境生。如果酬因,雖無所作而似因起,說名酬因。如是識生,雖無所作而似境,故說名了境。如何似境?謂帶彼相。是故諸識雖亦託根生,不名了根,但名為了境。或識於境相續生時,前識為因引後識起,說識能了亦無有失,世間於因說作者故。

(論に引き続き曰く:)先の見る心より後の憶念は起る。此のようの理に依って彼は能憶と説く。我体もし無ければ、是れ誰の念か。為に何の義に依ってか第六声を説くか。此の第六声は属主の義に依る。如何なる物か何の主に属するか。此れは牛等の制怛羅に属するがごとし。彼は如何にして牛の主と為るか。いわゆる彼彼に依る所の乗・構・役等の中に於いて彼は自在を得るに依る。何の所に於いてか念を駆役して、而も勤めて方便に念の主を尋求せんと欲するか。念ずる所の境に於いて念を駆役す。念を役するは何と為るか。いわゆる念をして起さしめんとす。奇なるかな自在に理無きの言を起す。寧ろ此を生ぜしめんが為に此を駆役するか。また我は念に於いて如何にして駆役するか。為に念をして起らしめんとするか、為に念をして行かしめんとするか。念は行無きがゆえに、但だ応に念を起す。則ち因を名づけて主、果を名づけて能属。因の増上に由って果をして生ずるを得しむがゆえに、ゆえに因を名づけて主。果は生ずる時に因の所有なるがゆえに、名づけて能属。即ち念を生ずるの因は足りて念の主と為る。何ぞ労して我を立てて念の主と為さんか。即ち諸行の聚の一類の相続は、世は共に制怛羅の牛を施設して、制怛羅の名を立てて牛の主と為す。是の牛の相続は異方に於いて生ずるは、変異の生因なるがゆえに名づけて主。此の中に一の実の制怛羅無くもまた実の牛無し。但だ仮の施設。ゆえに牛の主と説くもまた因を離れず。憶念はすでに此のよう、記知もまた此のよう。憶知を弁ずるがごとく、孰れをか能了と為し誰の識等と為すか、もまた応に例して釋すべし。且つ識の因縁は前と別なり。いわゆる根・境等。応に知るべきがごとし。是の言を作す者有り:決定して我有り。事用は必ず事用の者を待つがゆえに。いわゆる諸の事用は事用の者を待つ。天授の行は必ず天授を待つがごとし。行は是れ事用、天授は名づけて者。此のようの識等の所有の事用は、必ず依る所の能了等の者を待つ。今応に彼に詰えり:天授とは何を謂うか。もし是れ実我ならば、此れは先に破りたるがごとし。もし仮の士夫ならば、体は一物に非ず。諸行の相続に於いて仮に此の名を立つるがゆえに。天授の能く行くがごとく、識の能く了するもまた此のよう。何の理に依ってか天授は能く行くと説くか。いわゆる刹那生滅の諸行の異ならざる相続に於いて天授の名を立て、愚夫は中に於いて一体と執し、自の相続の異処に生ずるの因と為す。異処に生ずるを名づけて行。因は即ち名づけて行く者。此の理に依って天授は能く行くと説く。焰および声の異処に相続するがごとく、世は此に依って焰・声は能く行くと説く。此のようの天授の身は能く識の因と為るがゆえに、世間もまた天授は能く了すと謂う。然而諸の聖者は為に世間の言説の理に順うがゆえに、もまた是の説を作す。経に諸の識は能く所縁を了すと説く。識は所縁に於いて為に何の作する所か。都て作する所無し。但だ境に由って生ず。果の因に酬うるがごとく、作する所無しと雖も而も因に似て起る。説いて名づけて因に酬う。此のようの識の生ずるは、作する所無しと雖も而も境に似たり。ゆえに説いて名づけて境を了す。如何にして境に似たるか。いわゆる彼の相を帯ぶ。此のゆえに諸の識はもまた根に托して生ずると雖も、名づけて根を了すと為さず。但だ名づけて境を了す。或いは識は境に於いて相続して生ずる時、前の識を因と為して後の識を引きて起す。識は能く了すと説いてもまた失有ること無し。世間は因に於いて作る者と説くがゆえに。

如世間說鍾鼓能鳴,或如燈能行,識能了亦爾。為依何理說燈能行?焰相續中假立燈號,燈於異處相續生時說為燈行,無別行者。如是心相續假立識名,於異境生時說名能了。或如色有色生色住,此中無別有生住者。說識能了,理亦應然。若後識生,從識非我。何緣從識?不恆似前,及不定次生,如芽莖葉等,有為皆有住異相故。謂諸有為自性法爾,微細相續後必異前。若異此者,縱意入定,身心相續相似而生,後念與初無差別故,不應最後念自然從定出。諸心相續亦有定次,若此心次彼心應生,於此心後彼必生故。亦有少分行相等心方能相生,種性別故。如女心無間起嚴汙身心,或起彼夫彼子心等。後時從此諸心相續轉變差別還生女心。如是女心於後所起嚴汙心等有生功能,異此無功能,由種性別故。女心無間容起多心,然多心中若先數起、明瞭近起,先起非餘。由如是心修力強故,唯除將起位身外緣差別。諸有修力最強盛者,寧不恆時生於自果?由此心有住異相故,此住異相於別修果相續生中最隨順故。諸心品類次第相生因緣方隅我已略說,委悉了達唯在世尊,一切法中智自在故。依如是義故,有頌言:

(論に引き続き曰く:)世間の鐘・鼓は能く鳴らすと説くがごとく、或いは灯の能く行くがごとく、識の能く了するもまた此のよう。為に何の理に依ってか灯は能く行くと説くか。焰の相続の中に仮に灯の号を立て、灯は異処に於いて相続して生ずる時に説いて灯の行と為す。別に行く者無し。此のようの心の相続は仮に識の名を立て、異境に於いて生ずる時に説いて名づけて能了。或いは色は色生・色住有るがごとく、此の中に別に生・住する者無し。識は能く了すと説くも、理もまた応に此のよう。もし後の識の生ずるは、識に従うも我に非ず。何の縁にか識に従うか。恒に前に似ず、および定めて次生せず。芽・茎・葉等のごとし。有為は皆住異の相有るがゆえに。いわゆる諸の有為は自性は法尔に微細に相続して後は必ず前に異なり。もし此に異ならば、意を縱にして定に入りて、身心は相続して相似にして生じ、後念は初と差別無きがゆえに、応に最後の念は自然に定より出づべからず。諸心の相続もまた定次有り。もし此の心の次に彼の心は応に生ずべし。此の心の後に於いて彼は必ず生ずるがゆえに。もまた少分の行相の等しき心は方に能く相生ず。種性の別なるがゆえに。女心の無間に厳・汚の身心を起し、或いは彼の夫・彼の子の心等を起すがごとし。後の時に此の諸心の相続は転変・差別して還って女心を生ず。此のようの女心は後の起す所の厳・汚の心等に於いて生ずるの功能有り。此に異なるは功能無し。種性の別なるに由るがゆえに。女心は無間に容そ多くの心を起すと雖も、然而多くの心の中にもし先に数起し・明了に近く起るは、先に起りて其余に非ず。此のようの心は修力強きに由るがゆえに。ただ将に起る位の身外の縁の差別を除く。諸の修力の最も強盛なるは、寧ろ恒の時に自果を生ぜざらんか。此の心は住異の相有るに由るがゆえに。此の住異の相は別修の果の相続して生ずる中に於いて最も随順するがゆえに。諸心の品類の次第に相生ずる因縁の方隅は我已に略説せり。委悉に了達するはただ世尊に在り。一切法の中に智自在なるがゆえに。此のようの義に依るがゆえに、頌有りて説く:

於一孔雀輪,一切種因相,

一の孔雀の輪に於いて、一切種の因の相は、

非餘智境界,唯一切智知。

其余の智の境界に非ず。ただ一切智のみ知る。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.