Libo

説一切有部倶舎論 巻第八

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第10巻 / 38

アビダルマ倶舎論 巻第九 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別世品第三之二

分別世品 第三之二。

當往何趣,所起中有形狀如何?頌曰:

まさに何の趣に往かんとするに、起る所の中有の形状は如何。頌に曰く:

此一業引故,如當本有形,

これは一の業の引くゆえ、当に来る本有の形の如し、

本有謂死前,居生剎那後。

本有とは死の前を謂い、生の刹那の後に居す。

論曰:若業能引當所往趣,彼業即招能往中有。故此中有若往彼趣,即如所趣當本有形。若爾,於一狗等腹中容有五趣中有頓起。既有地獄中有現前,如何不能焚燒母腹?彼居本有亦不恆燒?如暫遊園,況在中有。設許能燒,如不可見亦不可觸,以中有身極微細故,所難非理。諸趣中有雖居一腹,非互觸燒,業所遮故。欲中有量雖如小兒年五六歲而根明利;菩薩中有如盛年時形量周圓具諸相好,故住中有將入胎時照百俱胝四大洲等。若爾,何故菩薩母夢中見白象子來入己右脇?此吉瑞相,非關中有。菩薩久捨傍生趣故,如訖栗枳王夢所見十事:

論に曰く:もし業は能く当に往く所の趣を引けば、彼の業は即ち能く往く中有を招く。ゆえにこの中有はもし彼の趣に往かば、即ち趣く所の当に来る本有の形の如し。もし爾ならば、一の狗等の腹中において五趣の中有の頓に起るを容れん。既に地獄の中有現前せば、如何にして母腹を焚焼すること能わざらんや。彼の本有に居るもまた恒に焼かざらんや。暫く園に遊ぶが如く、況んや中有に在るにおいてをや。設ひ能く焼くを許すとも、見るべからざるが如く触るべからず、中有の身は極めて微細なるを以て、難ずる所は理に非ず。諸趣の中有は一腹に居ると雖も、互いに触焼するに非ず、業の遮る所なるゆえ。欲の中有の量は小児の年五六歳の如しと雖も而も根は明利なり。菩薩の中有は盛年の時の如く形量は周円にして諸の相好を具す、ゆえに中有に住して将に胎に入らんとする時に百倶胝の四大洲等を照らす。もし爾ならば、何の故に菩薩の母は夢中に白象の子の来たりて己の右脇に入るを見るや。これは吉瑞の相、中有に関らず。菩薩は久しく傍生趣を捨てたるゆえ、訖栗枳王の夢に見る所の十事の如し:

謂大象井麨,栴檀妙園林,

いわゆる大象・井・麨、栴檀の妙なる園林、

小象二獼猴,廣堅衣鬪諍。

小象・二の猕猴、広く堅き衣の鬥諍。

如是所夢,但表當來餘事先兆,非如所見。又諸中有從生門入,非破母腹而得入胎,故雙生者前小後大。法善現說復云何通?

(論に続けて曰く:)かく夢見る所は、但だ当来の余の事の先兆を表す、見る所の如くに非ず。また諸の中有は生門より入る、母腹を破りて胎に入るを得るに非ず、ゆえに双生は前は小にして後は大なり。法善の現に説くは復た如何に通ぜん:

白象相端嚴,具六牙四足,

白象の相は端厳にして、六牙四足を具し、

正知入母腹,寢如仙隱林。

正しく知りて母腹に入り、寝ること仙の林に隠るるが如し。

不必須通,非三藏故。諸諷頌言,或過實故。若必須通,如菩薩母所見夢相,造頌無失。色界中有量,圓滿如本有。與衣俱生,慚愧增故,菩薩中有亦與衣俱。鮮白苾芻尼由本願力故,彼於世世有自然衣,恆不離身隨時改變,乃至最後般涅槃時,即以此衣纏屍焚葬。所餘欲界中有無衣,由皆增長無慚愧故。所似本有其體是何?謂死有前、生有後蘊,總說有體是五取蘊。於中位別分析為四:一者中有,義如前說。二者生有,謂於諸趣結生剎那。三者本有,除生剎那死前餘位。四者死有,謂最後念。次中有前,有色有情具足四有,若在無色中闕具三。已說形量,餘義當辯。頌曰:

(論に続けて曰く:)必ずしも通ずるを須いず、三蔵に非ざるゆえ。諸の諷頌の説は、あるいは実に過ぎるゆえ。もし必ず通ずべければ、菩薩の母の見る所の夢相の如く頌を造りて失なし。色界の中有の量は、円満にして本有の如し。衣と俱に生ず、慚愧増するゆえ、菩薩の中有もまた衣と俱なり。鮮白の苾芻尼は本願の力に由るゆえに、彼は世世において自然の衣有りて、恒に身を離れず時に随いて改変し、乃至最後に般涅槃する時に、即ちこの衣を以て屍を纏い焚葬す。余の欲界の中有は衣無し、皆無慚愧を増長するに由るゆえ。似る所の本有のその体は是れ何ぞ。いわゆる死有の前・生有の後の蘊、総じて体有りと説くは是れ五取蘊。その中の位の別に分析して四と為す:一は中有、義は前の説くが如し。二は生有、いわゆる諸趣において結生する刹那。三は本有、生の刹那・死の前を除く其余の位。四は死有、いわゆる最後の念。次に中有の前に、色ある有情は具に四有を足し、もし無色中においては具に三を闕く。已に形量を説き、余の義はまさに弁ずべし。頌に曰く:

同淨天眼見,業通疾具根,

同類および浄天眼の見る所、業の通は疾く根を具し、

無對不可轉,食香非久住。

対無くして転ずべからず、香を食らい久しく住せず。

倒心趣欲境,濕化染香處,

倒心は欲境に趣り、湿・化は香処に染む、

天首上三橫,地獄頭歸下。

天の首は上り、三は横に、地獄は頭は下に帰す。

論曰:此中有身同類相見,若有修得極淨天眼亦能得見,諸生得眼皆不能觀,以極細故。有餘師說:天中有眼具足能見。五趣中有,人、鬼、傍生、地獄中有見四三二一,謂自下除上。一切通中業通最疾,𣣋虛自在是謂通義,通由業得名為業通,此通勢用速故名疾。中有具得最疾業通,上至世尊無能遮抑,以業勢力最強盛故。一切中有皆具五根,對謂對礙,此金剛等所不能遮,故名無對。曾聞析破炎赤鐵團,見於其中有蟲生故,應往彼趣中有已生,一切種力皆不能轉,謂不可令人中有沒餘中有起,餘類亦然。為往彼趣中有已起,但應往彼,定不往餘。欲中有身資段食不?雖資段食,然細非麁。其細者何?謂唯香氣,由斯故得健達縛名。諸字界中義非一故,而音短者如設建途及羯建途,略故無過。諸少福者唯食惡香,其多福者好香為食。如是中有為住幾時?大德說言:此無定限。生緣未閤中有恆存,由彼命根非別業引,與所趣人等眾同分一故。若異此者,中有命根最後滅時應立死有。設有肉聚等妙高山,至夏雨時變成蟲聚。應言諸中有漸待此時?為說從何方頓來至此?雖無經論誠文判釋,然依正理應作是言:有雜類生數無邊際,貪著香味壽量短促,彼諸有情因嗅此氣,貪香味故俱時命終,由愛覺先感蟲身業,同時於此受細蟲身。或多有情應俱生此,多緣未合住中有中,今遇多緣方頓生此。應俱生者定不異時,如有能招轉輪王業,要至人壽八萬歲時或過此時方頓與果,非於餘位。此亦應然。故世尊言:諸有情類業果差別不可思議。尊者世友言:此極多七日,若生緣未合,便數死數生。有餘師言:極七七日。毘婆沙說:此住少時,以中有中樂求生有故非久住,速往結生。其有生緣未即和合,若定此處此類應生,業力即令此緣和合。若非定託此和合緣,便即寄生餘處餘類,有說轉受相似類生。

論に曰く:この中有の身は同類は相見す、もし修得の極めて浄なる天眼もまた能く見るを得、諸の生得の眼は皆観ずる能わず、極めて細なるを以て。ある余師の説に:天の中有の眼は具足して能く見る、と。五趣の中有は、人・鬼・傍生・地獄の中有は四・三・二・一を見、いわゆる下より上を除く。一切の通中において業通は最も疾し、虚空を陵し自在なる是れを通の義と謂う、通は業に由りて得るを業通と名づき、この通の勢用は速きゆえに疾と名づく。中有は具に最も疾き業通を得、上は世尊に至るまで能く遮抑する無し、業の勢力は最も強盛なるを以て。一切の中有は皆五根を具す、対とは対礙を謂う、これは金剛等の遮る能わざる所、ゆえに無対と名づく。曾て炎赤の鉄団を析破してその中に虫の生ずる有るを見るを聞く、まさに彼の趣に往く中有已に生ずれば、一切種の力も皆転ずる能わざるべし、いわゆる人の中有をして没して余の中有を起さしむべからず、余の類もまたこの如し。彼の趣に往かんが為に中有已に起らば、但だまさに彼に往くべし、定めて余に往かず。欲の中有の身は段食に資るか否や。段食に資ると雖も、しかるに細にして粗に非ず。その細なるは是れ何ぞ。いわゆるただ香気のみ、これに由るゆえに健達縛(ガンダルヴァ、香を食する者)の名を得。諸の字界中に義は一に非ざるゆえ、而も音の短きは設建途および羯建途の如く、略するゆえに過なし。諸の少福なるはただ悪香を食し、その多福なるは好香を食と為す。かくのごとき中有は是れ几時か住するか。大徳説く:これに定限無し。生縁未だ合せざれば中有は恒に存す、彼の命根は別の業の引くに非ざるに由りて、趣く所の人等と衆同分一なるゆえ。もしこれに異ならば、中有の命根は最後に滅する時にまさに死有を立つべし。設ひ肉聚等の妙高山有りて、夏雨の時に至りて虫聚に変成せん。まさに諸の中有は漸にこの時を待つと説くか。是れ何の方より頓に来たりて此に至ると説くか。経論の誠文の判釋無しと雖も、しかるに正理に依りてまさに是の説を作すべし:雑類の生有りて数は辺際無く、香味に貪着して寿量は短促、彼の諸の有情は因りてこの気を嗅ぎ、香味を貪ずるゆえに俱時に命終し、愛覚に由りて先に虫身の業を感じ、同時に此において細虫の身を受く。あるいは多くの有情まさに俱に此に生ずべく、多縁未だ合せずして中有中に住し、今多縁に遇いて方に頓に此に生ず。まさに俱に生ずべきは定めて時を異にせず、能く転輪王の業を招く有るが如く、要して人の寿八万歳の時に至りあるいはこの時を過ぎて方に頓に果を与う、余の位においてに非ず。これもまたまさにこの如し。ゆえに世尊説く:諸の有情類の業果の差別は不可思議なり、と。尊者世友説く:これは極めて多くとも七日、もし生縁未だ合せざれば、便ち数えて死し数えて生ず、と。ある余師の説に:極めて七七日、と。毘婆沙に説く:これは少時住す、中有中において生有を求むるを楽うゆえに久住せず、速やかに往きて結生す。その生縁有りて未だ即ち和合せざるも、もし定めてこの処・この類まさに生ずべければ、業力は即ちこの縁をして和合せしむ。もし定めてこの和合の縁に托するに非ざれば、便ち即ち余の処・余の類に寄りて生ず、ある説に転じて相似の類生を受くと曰う。

且如家牛及狗熊馬,欲增次屬夏秋冬春,野牛野幹羆驢無定。前四中有若不遇時,如次轉生後四同類。豈不中有必無與生眾同分別,一業引故。如何可言轉受相似?

(論に続けて曰く:)且つ家牛および狗・熊・馬の如く、欲の増するの次は夏・秋・冬・春に属し、野牛・野干・罴・驢は定まり無し。前の四の中有はもし時に遇わざれば、次の如く転じて後の四の同類に生ず。豈に中有は必ず生ずる所と衆同分の別無からんや、一の業の引くゆえ。如何にして転じて相似を受くと説きうるか。

如是中有為至所生,先起倒心馳趣欲境,彼由業力所起眼根雖住遠方,能見生處父母交會而起倒心,若男緣母起於男欲、若女緣父起於女欲,翻此緣二俱起瞋心。故《施設論》有如是說:時健達縛於二心中隨一現行,謂愛或恚。彼由起此二種倒心,便謂己身與所愛合。所憎不淨洩至胎時,謂是己有便生喜慰,從茲蘊厚中有便沒,生有起已名已結生。若男處胎依母右脇向背蹲坐,若女處胎依母左脇向腹而住。若非男女住母胎時,隨所起貪如應而住。必無中有非女非男,以中有身必具根故。由處中有或女或男,故入母胎隨應而住,後胎增長或作不男。於此義中復應思擇,為由業力精血大種即成根依?為業別生根依大種依精血住?有言:精血即成根依,謂前無根中有俱滅,後有根者無間續生,如種與芽滅生道理。由斯初位名羯剌藍,亦妙順成此經文句:父母不淨生羯剌藍。又告苾芻:汝等長夜執受血滴增羯吒私。有餘師言:別生大種。如依葉糞別有蟲生,不淨聚中生羯剌藍,故說父母不淨生羯剌藍。故與彼經無相違失。如是且說胎卵二生,餘隨所應今次當說。若濕生者染香故生,謂遠嗅知生處香氣便生愛染往彼受生,隨業所應香有淨穢。若化生者染處故生,謂遠觀知當所生處,便生愛染往彼受生,隨業所應處有淨穢。豈於地獄亦生愛染?由心倒故起染無失。謂彼中有,或見自身冷雨寒風之所逼切,見熱地獄火焰熾然,情欣煖觸投身於彼。或見自身熱風盛火之所逼害,見寒地獄,心欲清涼投身於彼。先舊諸師作如是說:由見先造,感彼業時己身伴類馳往赴彼。又天中有首正上升如從坐起,人鬼傍生中有行相還如人等。地獄中有頭下足上顛墜其中。故伽他說:

(論に続けて曰く:)かくのごとき中有は生ずる所に至らんが為、先に倒心を起して欲境に馳趣す、彼は業力の起す所の眼根に由りて遠方に住すと雖も、能く生ずる処の父母の交会を見て倒心を起す、もし男ならば母に縁りて男の欲を起し、もし女ならば父に縁りて女の欲を起し、これを翻して二には俱に瞋心を起す。ゆえに『施設論』にかくの説有り:時に健達縛は二心中において随って一に現行す、いわゆる愛あるいは恚、と。彼はこの二種の倒心を起すに由りて、便ち己が身は愛する所と合すと謂う。憎む所の不浄の泄れて胎に至る時に、是れ己の有と謂い便ち喜慰を生じ、ここより蘊厚くして中有は便ち没し、生有起り已りて已に結生せりと名づく。もし男は胎に処すれば母の右脇に依りて背に向かい蹲坐し、もし女は胎に処すれば母の左脇に依りて腹に向かいて住す。もし男女に非ざれば母胎に住する時、起す所の貪に随いて応の如くして住す。必ず中有の女に非ず男に非ざる無し、中有の身は必ず根を具するゆえ。中有に処してあるいは女あるいは男なるに由りて、ゆえに母胎に入りて応に随いて住し、後に胎の増長してあるいは不男と作る。この義中において復たまさに思択すべし、是れ業力に由りて精血の大種が即ち根の依と成るか、是れ業が別に根依の大種を生じて精血に依りて住するか。ある説に:精血は即ち根依と成る、いわゆる前の根無きは中有と俱に滅し、後の根有るは無間に続生す、種と牙との滅生の道理の如し。これに由りて初の位を羯剌藍(かつらん)と名づく、もまた妙にこの経の文句を順成す:父母の不浄は羯剌藍を生ず、と。また苾芻に告ぐ:汝らは長夜に血滴の羯咤私を増すを執受す、と。ある余師の説に:別に大種を生ず、と。葉の糞に依りて別に虫の生ずるが如く、不浨の聚中に羯剌藍を生ず、ゆえに父母の不浨は羯剌藍を生ずと説く。ゆえに彼の経と相違の失なし。かくのごとき且つ胎・卵の二生を説く、余はその応ずる所に随い今次にまさに説くべし。もし湿生は香に染するゆえに生ず、いわゆる遠く嗅ぎて生ずる処の香気を知りて便ち愛染を生じ彼に往きて受生す、業の応ずる所に随い香に浄・穢有り。もし化生は処に染するゆえに生ず、いわゆる遠く観てまさに生ずべき処を知り、便ち愛染を生じ彼に往きて受生す、業の応ずる所に随い処に浄・穢有り。豈に地獄においてもまた愛染を生ぜんや。心の倒れるに由るゆえに染を起して失なし。いわゆる彼の中有は、あるいは自身の冷雨・寒風の逼切する所を見て、熱地獄の火焰の熾然たるを見て、情は暖触に欣じて彼に投身す。あるいは自身の熱風・盛火の逼害する所を見て、寒地獄を見て、心は清涼を欲して彼に投身す。先の旧き諸師は是の説を作す:先に造りし彼の業を感ずる時に己が身の伴類を見て彼に馳往すに由る、と。また天の中有は首は正しく上昇して坐より起つが如く、人・鬼・傍生の中有の行相は還りて人等の如し。地獄の中有は頭を下にし足を上にして顛墜してその中に入る。ゆえに伽他に説く:

顛墜於地獄,足上頭歸下,

地獄に顛墜して、足は上に頭は下に帰す、

由毀謗諸仙,樂寂修苦行。

諸の仙を毀謗したるに由りて、寂を楽い苦行を修すと雖も。

前說倒心入母胎藏,一切中有皆定爾耶?不爾。經言:入胎有四。其四者何?頌曰:

(論に続けて曰く:)前に倒心を以て母の胎蔵に入ると説く、一切の中有は皆定めてこの如くか。然らず。経に説く:胎に入るに四有り。その四とは是れ何ぞ。頌に曰く:

一於入正知,二三兼住出,

一は入において正知、二・三は兼ねて住・出、

四於一切位,及卵恆無知。

四は一切の位において、および卵は恒に無知。

前三種入胎,謂輪王二佛,

前の三種の入胎は、輪王・二仏を謂い、

業智俱勝故,如次四餘生。

業・智俱に勝れるゆえ、次の如く四は余の生。

論曰:有諸有情多集福業勤修念慧,故死生時念力所持正知無亂,於中或有正知入胎,或有正知住胎兼入,或正知出兼知入住。兼言為顯後必帶前。有諸有情福智俱少,入住出位皆不正知,入不正知住出必爾,順結頌法故逆說四。諸卵生者入胎等位皆恆無知。如何卵生?從卵而出。言入胎藏,以卵生者先必入胎。或據當來名卵生者,如契經說:造作有為。世間亦言:煮飯磨麨。故說卵生入胎無失。云何三位正不正知?且諸有情若福微薄,入母胎位起倒想解,見大風雨毒熱嚴寒,或大軍眾聲威亂逼,遂見自入密草稠林葉窟茅廬投樹牆下,住時見已住在此中,出位見身從此處出。若福增多入母胎位起倒想解,自見己身入妙園林升花臺殿居勝床等,住出如前。是謂三時不正知者。若於三位皆能正知,於入等時無倒想解,謂入胎位知自入胎,住出胎時自知住出。又別顯示四入胎者,且前三種謂轉輪王、獨覺、大覺,如其次第。初入胎者,謂轉輪王,入位正知,非住非出。二入胎者,謂獨勝覺,入住正知,非於出位。三入胎者,謂無上覺,入住出位皆能正知。此初三人以當名顯。何緣如是三品不同?由業智俱如次勝故。第一業勝,謂轉輪王宿世曾修廣大福故。第二智勝,謂獨勝覺久習多聞勝思擇故。第三俱勝,謂無上覺曠劫修行勝福智故。除前三種,餘胎卵生福智俱劣,合成第四。此中外道執我者言:若許有情轉趣餘世,即我所執有我義成。今為遮彼,頌曰:

論に曰く:諸の有情有りて多く福業を集め勤しく念慧を修す、ゆえに死生の時に念力の持する所にして正知して乱れず、その中に或るは正知して胎に入り、或るは正知して胎に住し兼ねて入り、或るは正知して出づ兼ねて入住を知る。兼の言は後に必ず前を帯ぶを顕さんが為。諸の有情有りて福智俱に少なく、入・住・出の位皆正知せず、入は正知せずして住・出は必ずこの如し、頌法を結ぶに順ざるゆえに逆に四を説く。諸の卵生は入胎等の位皆恒に知無し。如何にして卵生か。卵より出づ。胎蔵に入ると説くは、卵生は先に必ず胎に入るを以て。あるいは当来に拠りて卵生と名づく、契経の説く造作・有為の如し。世間もまた説く:飯を煮て麨を磨る、と。ゆえに卵生は胎に入ると説きて失なし。如何にして三位に正・不正知有るか。且つ諸の有情はもし福は微薄なれば、母胎に入る位に倒れし想解を起し、大風雨・毒熱・厳寒を見、あるいは大軍衆の声威の乱逼を見て、遂に自から密草・稠林・葉窟・茅庐に入りて樹・墙の下に投ずるを見、住する時に已にこの中に住せるを見、出づる位に身がこの処より出づるを見る。もし福は増多なれば母胎に入る位に倒れし想解を起し、自ら己が身の妙なる園林に入り華の台殿に升り勝れたる床等に居るを見、住・出は前の如し。是れを三時の不正知なると謂う。もし三位において皆能く正知せば、入等の時において倒れし想解無し、いわゆる胎に入る位に自ら胎に入るを知り、胎に住し出づる時に自ら住・出を知る。また別に四の入胎を顕示せば、且つ前の三種は転輪王・独覚・大覚を謂う、その次第の如し。初の入胎とは、いわゆる転輪王、入の位は正知して住・出に非ず。二の入胎とは、いわゆる独勝覚、入・住は正知して出の位に於て非ず。三の入胎とは、いわゆる無上覚、入・住・出の位皆能く正知す。この初の三人は当名を以て顕す。何の縁にこの如く三品不同なるか。業・智の俱に次第の如く勝れたるに由るゆえ。第一は業勝、いわゆる転輪王は宿世に曾て広大の福を修したるゆえ。第二は智勝、いわゆる独勝覚は久しく多聞・勝思択を習いたるゆえ。第三は俱勝、いわゆる無上覚は曠劫に修行の勝福・智なるゆえ。前の三種を除きて、余の胎・卵生は福智俱に劣り、合して第四を成す。此中の外道の我を執する説に曰く:もし有情の余の世に転趣するを許さば、即ち我が執する所の我有る義成れり、と。今彼を遮らんが為、頌に曰く:

無我唯諸蘊,煩惱業所為,

我無くしてただ諸蘊のみ、煩悩・業の為す所にして、

由中有相續,入胎如燈焰,

中有の相续に由りて、胎に入ること灯焰の如し、

如引次第增,相續由惑業,

引かれて次第に増するが如く、相续は惑業に由り、

更趣於餘世,故有輪無初。

更に余の世に趣く、ゆえに輪有りて初無し。

論曰:汝等所執我為何相?能捨此蘊、能續餘蘊,內用士夫此定非有,如色眼等不可得故。世尊亦言:有業有異熟,作者不可得。謂能捨此蘊及能續餘蘊,唯除法假。法假謂何?依此有彼有,此生故彼生,廣說緣起。若爾,何等我非所遮?唯有諸蘊,謂唯於蘊假立我名,非所遮遣。若爾,應許諸蘊即能從此世間轉至餘世。蘊剎那滅,於輪轉無能,數習煩惱業所為故,令中有蘊相續入胎。譬如燈焰雖剎那滅,而能相續轉至餘方。諸蘊亦然,名轉無失,故雖無我而由惑業諸蘊相續入胎義成。如業所引次第轉增諸蘊相續,復由煩惱業力所為轉趣餘世,謂非一切所引諸蘊增長相續脩促量齊,引壽業因有差別故。隨能引業勢力增徵,齊爾所時次第增長。云何次第?如聖說言:

論に曰く:汝らの執する所の我は是れ何の相ぞ。能くこの蘊を捨て、能く余の蘊を続く、内用の士夫はこれ定めて有るに非ず、色・眼等の得べからざるが如きゆえ。世尊もまた説く:業有りて異熟有り、作者は得べからず、と。いわゆる能くこの蘊を捨ておよび能く余の蘊を続くは、ただ法の假を除く。法假とは何を謂うか。此の有に依りて彼有り、此の生ずるゆえに彼生ず、広く縁起を説く。もし爾ならば、何等の我か遮る所に非ざる。ただ諸蘊有るのみ、いわゆるただ蘊において假に我名を立つ、遮遣する所に非ず。もし爾ならば、まさに諸蘊は即ち能くこの世間より余の世に転ずと許すべきか。蘊は刹那に滅し、輪転において能無し、数々煩悩・業の為す所を習うゆえに、中有の蘊をして相续して胎に入らしむ。譬えば灯焰は刹那に滅すると雖も、而も能く相续して余の方に転ず。諸の蘊もまたこの如し、転ずと名づけて失なし、ゆえに我無しと雖も而も惑業に由りて諸蘊の相续して胎に入る義成れり。業の引く所の如く次第に転増して諸蘊は相续し、復た煩悩・業の力の為す所に由りて余の世に転趣す、いわゆる一切の引く所の諸蘊の増長・相续にして修促の量斉しからざるに非ず、寿を引く業因に差別有るゆえ。能引の業の勢力の増微に随い、爾の時に齊らぎて次第に増長す。如何にして次第するか。聖の説くが如し:

最初羯剌藍,次生頞部曇,

最初は羯剌藍(かつらん)、次生は頞部曇(あつぶだん)、

從此生閉屍,閉屍生鍵南,

此より閉尸(へいし)を生じ、閉尸は鍵南(けんなん)を生じ、

次缽羅奢佉,後髮毛爪等,

次に鉢羅奢佉(はつらしゃきゃ)、後に髮・毛・爪等を発し、

及色根形相,漸次而轉增。

および色・根・形相、漸次にして転増す。

謂母腹中分位有五:一羯剌藍位、二頞部曇位、三閉尸位、四鍵南位、五缽羅奢佉位。此胎中箭漸次轉增,乃至色根形相滿位,由業所起異熟風力轉胎中箭令趣產門。如強糞團過量閟澁,從此轉墮劇苦難任。其母或時威儀飲食執作過分,或由其子宿罪業力死於胎內。時有女人或諸醫者,妙通產法善養嬰兒,溫以酥油睒末梨汁用塗其手執小利刀。內如糞坑最極猥賤雜穢充塞,黑闇所居無量千蟲之所依止,常流惡汁恆須對治,精血垢膩潰爛臭滑,不淨流溢鄙穢叵觀,穿漏薄皮以覆其上。宿業所引,身瘡孔中分解支節牽出於外。然此胎子乘宿所為,順後受業所趣難了。或復無難安隱得生,體如新瘡細軟難觸。或母愛子或餘女人,以如刀灰麁澁兩手,執取洗拭而安處之。次含清酥飲以母乳,漸令習受細麁飲食,次第轉增至根熟位,復起煩惱積集諸業。由此身壞,復有如前中有相續更趣餘世。如是惑業為因故生,生復為因起於惑業,從此惑業更復有生,故知有輪旋環無始。若執有始,始應無因;始既無因,餘應自起。現見芽等因種等生,由處及時俱決定故。又由火等熟變等生,由此定無無因起法。說常因論,如前已遣。是故生死決定無初,然有後邊由因盡故。生依因故,因滅壞時生果必亡,理定應爾。如種滅壞芽必不生。如是蘊相續,說三生為位。頌曰:

(論に続けて曰く:)いわゆる母腹中の分位は五有り:一に羯剌藍位、二に頞部曇位、三に閉尸位、四に鍵南位、五に鉢羅奢佉位。この胎中の箭は漸次に転増して、乃至色・根・形相の満位に至り、業の起す所の異熟の風力に由りて胎中の箭を転じて産門に趣かしむ。強き糞団の量を過ぎて悶渋するが如く、此より転堕して劇苦にして堪え難し。その母は或る時に威儀・飲食・執作の分を過ぎ、あるいはその子の宿罪の業力に由りて胎内に死す。時に女人あるいは諸の医有りて、妙に産法に通じ善く嬰児を養い、温なる酥油・睒末梨の汁を以てその手を塗り小なる利刀を執る。内は糞坑の如く最極猥賎にして雑穢充塞し、黒暗の居する所にして無量千虫の依止する所、常に悪汁を流して恒に対治を須い、精血は垢膩にして潰爛臭滑し、不浄は流溢して鄙穢にして見難し、穿漏の薄皮を以てその上を覆う。宿業の引く所にして、身の瘡孔中に支節を分解して外に牽出す。しかるにこの胎子は宿の為す所に乘じ、順後受の業の趣く所は了い難し。或るは復た難無く安隠にして生ずるを得、体は新瘡の如く細軟にして触れ難し。或るは母の子を愛するあるいは余の女人、刀の灰の如く粗渋なる両手を以て、執取して洗拭し而もこれを安処す。次に清き酥を含ませ母乳を以て飲ましめ、漸く細粗の飲食を習受せしめ、次第に転増して根熟の位に至り、復た煩悩を起して諸業を積集す。これに由りて身は壊れ、復た前の如き中有相续して更に余の世に趣く。かくのごとき惑業を因と為すゆえに生、生は復た因と為りて惑業を起こし、此より惑業は更に復た生有り、ゆえに輪の旋環するは始無きを知る。もし始有りと執せば、始はまさに因無かるべし、始は既に因無ければ、余はまさに自ら起るべし。現に芽等は種等を因りて生ずるを見る、処および時の俱に決定せるに由るゆえ。また火等に由りて熟変等は生ず、このに由りて定めて因無きの起法無し。常因の論を説くは、前に已に遣りたるが如し。是れを以て生死は決定して初無し、しかるに後辺有りて因の尽くるに由るゆえ。生は因に依るゆえに、因の滅壞する時に生の果は必ず亡ぶ、理は定めてまさにこの如くあるべし。種の滅壞すれば芽は必ず生生ぜざるが如し。かくのごとき蘊の相续は、三生を位と為すと説く。頌に曰く:

如是諸緣起,十二支三際,

かくのごとき諸の縁起、十二支・三際、

前後際各二,中八據圓滿。

前後際は各々二、中は八は円満に拠る。

論曰:十二支者,一、無明;二、行;三、識;四、名色;五、六處;六、觸;七、受;八、愛;九、取;十、有;十一、生;十二、老死。言三際者,一前際、二後際、三中際,即是過未及現三生。云何十二支於三際建立?謂前後際各立二支,中際八支,故成十二。無明行在前際,生老死在後際,所餘八在中際。此中際八,一切有情此一生中皆具有不?非皆具有。若爾,何故說有八支?據圓滿者。此中意說,補特伽羅歷一切位名圓滿者,非諸中夭及色無色,但據欲界補特伽羅。《大緣起經》說具有故。彼說,佛告阿難陀言:識若不入胎,得增廣大不?不也。世尊!乃至廣說。有時但說二分緣起,一前際攝、二後際攝。前七支前際攝,謂無明乃至受;後五支後際攝,謂從愛至老死,前後因果二分攝故。無明等支何法為體?頌曰:

論に曰く:十二支とは:一に無明、二に行、三に識、四に名色、五に六処、六に触、七に受、八に愛、九に取、十に有、十一に生、十二に老死。三際を説くは:一に前際、二に後際、三に中際、即ち是れ過・未および現の三生。如何にして十二支を三際において建立するか。いわゆる前後際は各々二支を立て、中際は八支、ゆえに十二を成す。無明・行は前際に在り、生・老死は後際に在り、余の八は中際に在り。この中際の八は、一切の有情はこの一生中に皆具すや否や。皆具するに非ず。もし爾ならば、何の故に八支有りと説くか。円満なるに拠る。此中意の説くは、補特伽羅は一切の位を歴るを円満なると名名づく、諸の中夭および色・無色に非ず、但だ欲界の補特伽羅に拠る。『大縁起経』は具有りと説くゆえ。彼の説くに、仏は阿難陀に告げて曰く:識はもし胎に入らざれば、増広を得るか否や。不なり世尊、と、乃至広説。或る時には但だ二分の縁起を説く、一は前際の摂、二は後際の摂。前の七支は前際の摂、いわゆる無明乃至受、後の五支は後際の摂、いわゆる愛より老死に至る、前後の因果は二分の摂するゆえ。無明等の支は何の法を以て体と為すか。頌に曰く:

宿惑位無明,宿諸業名行,

宿の惑の位は無明、宿の諸業を行と名づく、

識正結生蘊,六處前名色,

識は正に結生する蘊、六処の前は名色、

從生眼等根,三和前六處,

眼等の根を生ずるより、三和の前は六処、

於三受因異,未了知名觸,

三の受因を異にして、未だ了知せざるは触と名づく、

在婬愛前受,貪資具婬愛,

淫愛の前に在るは受、資具・淫愛を貪る、

為得諸境界,遍馳求名取,

諸の境界を得んが為、遍く馳求するを取と名づく、

有謂正能造,牽當有果業,

有とは正に能く造り、当の果有る業を牽く、

結當有名生,至當受老死。

当の有を結ぶを生と名づき、当の受に至るを老死。

論曰:於宿生中諸煩惱位,至今果熟,總謂無明,彼與無明俱時行故。由無明力,彼現行故。如說王行,非無導從,王俱勝故總謂王行。於宿生中福等業位,至今果熟,總得行名。初句位言流至老死。於母胎等正結生時,一剎那位,五蘊名識。結生識後、六處生前,中間諸位總稱名色。此中應說四處生前,而言六者,據滿立故。眼等已生,至根境識未和合位,得六處名。已至三和,未了三受因差別位,總名為觸。已了三受因差別相,未起婬貪,此位名受。貪妙資具婬愛現行,未廣追求,此位名愛。為得種種上妙境界,周遍馳求,此位名取。因馳求故,積集能牽當有果業,此位名有。由是業力從此捨命,正結當有,此位名生。當有生支,即如今識生剎那後漸增,乃至當來受位,總名老死。如是老死,即如今世名色、六處、觸、受四支。辯十二支體別如是。又諸緣起差別說四:一者剎那、二者連縛、三者分位、四者遠續。云何剎那?謂剎那頃由貪行殺具十二支,痴謂無明,思即是行,於諸境事了別名識,識俱三蘊總稱名色,住名色根說為六處,六處對餘和合有觸,領觸名受,貪即是愛,與此相應諸纏名取,所起身語二業名有,如是諸法起即名生,熟變名老滅壞名死。復有說者,剎那、連縛如《品類足》,俱遍有為。十二支位所有五蘊皆分位攝。即此懸遠相續無始說名遠續。世尊於此意說者何?頌曰:

論に曰く:宿生中において諸の煩悩の位は、今の果の熟するに至りて、総じて無明と謂う、彼は無明と俱時に行するゆえ。無明の力に由りて、彼は現行するゆえ。王の行を説くが如く、導従無きに非ず、王の俱に勝れるゆえに総じて王行と謂う。宿生中において福等の業の位は、今の果の熟するに至りて、総じて行の名を得。初句の位の言は老死に至るまで流る。母胎等において正に結生する時の一刹那の位は、五蘊を識と名づく。結生の識の後・六処の生の前の中間の諸位を総じて名色と称す。此中にはまさに四処の生の前を説くべく、而も六を説くは、満に拠りて立てるゆえ。眼等は已に生じ、根・境・識の未だ和合せざる位に至りて、六処の名を得。已に三和に至り、未だ三受の因の差別を了知せざる位を、総じて触と名づく。已に三受の因の差別の相を了知し、未だ淫貪を起さざる、この位を受と名づく。妙なる資具・淫愛を貪りて現行し、未だ広く追求せざる、この位を愛と名づく。種種の上妙の境界を得んが為に、周遍に馳求す、この位を取と名づく。馳求するゆえに因りて、能く当の果有る業を牽くを積集す、この位を有と名づく。この業力に由りて此より命を捨て、正に当の有を結ぶ、この位を生と名づく。当に有るべき生の支は、即ち今の識の生の刹那の後に漸増するが如く、乃至当来の受の位に至るまで、総じて老死と名づく。かくのごとき老死は、即ち今世の名色・六処・触・受の四支。十二支の体の別を弁ずることかくのごとし。また諸の縁起の差別は四を説く:一に刹那、二に連縛、三に分位、四に遠続。何を刹那とするか。いわゆる刹那の頃に貪を由りて殺を行ずれば十二支を具す、痴は無明を謂い、思は即ち是れ行、諸の境事を了別するを識と名づき、識と俱の三蘊を総じて名色と称し、名色に住する根を六処と説き為し、六処は余と対して和合して触有り、触を領するを受と名づき、貪は即ち是れ愛、これと相応する諸の纏を取と名づき、起る所の身・語の二業を有と名づき、かくのごとき諸法の起るは即ち生と名づき、熟変を老と名づき滅壞を死と名づく。復た説く有り、刹那・連縛は『品類足』の如く俱に遍く有為なり。十二支の位の所有する五蘊は皆分位の摂。即ちこの懸遠の相续の始無きを遠続と説き名づく。世尊は此において意の説くは是れ何ぞ。頌に曰く:

傳許約位說,從勝立支名。

伝えて許す、位に約りて説き、勝に従りて支の名を立つ、と。

論曰:傳許世尊唯約分位說諸緣起有十二支。若支支中皆具五蘊,何緣但立無明等名?以諸位中無明等勝故。就勝立無明等名,謂若位中無明最勝,此位五蘊總名無明。乃至位中老死最勝,此位五蘊總名老死。故體雖總,名別無失。何緣經說此十二支與《品類足》所說有異?如彼論說:云何為緣起?謂一切有為乃至廣說。素怛纜言因別意趣,阿毘達磨依法相說,如是宣說。分位、剎那、遠續、連縛,唯有情數。情非情等是謂差別。契經何故唯說有情?頌曰:

論に曰く:伝えて世尊はただ分位に約りて諸の縁起は十二支有りと説くを許す。もし支支中に皆五蘊を具せば、何の縁に但だ無明等の名を立つるか。諸の位中において無明等の勝れるを以て。勝に就きて無明等の名を立つ、いわゆるもし位中に無明の最も勝れたる、この位の五蘊を総じて無明と名づく。乃至位中に老死の最も勝れたる、この位の五蘊を総じて老死と名づく。ゆえに体は総なれども、名の別あるは失なし。何の縁に経の説くこの十二支は『品類足』の説く所と異有るか。彼の論の説くが如く:何を縁起とするか。いわゆる一切の有為、乃至広説、と。素怛纜の言は別の意趣に因り、阿毘達磨は法相に依りて説く、かく宣説す。分位・刹那・遠続・連縛は、ただ情数のみ。情・非情等是れを差別と謂う。契経は何の故にただ有情を説くか。頌に曰く:

於前後中際,為遣他愚惑。

前・後・中際において、他の愚惑を遣らんが為。

論曰:為三際中遣他愚惑?三際差別唯在有情。如何有情前際愚惑?謂於前際生如是疑:我於過去世為曾有非有?何等我曾有?云何我曾有?如何有情後際愚惑?謂於後際生如是疑:我於未來世為當有非有?何等我當有?云何我當有?如何有情中際愚惑?謂於中際生如是疑:何等是我?此我云何?我誰所有?我當有誰?為除如是三際愚惑,故經唯說有情緣起,如其次第說無明行及生老死並識至有。所以者何?以契經說:苾芻諦聽!若有苾芻,於諸緣起緣已生法,能以如實正慧觀見,彼必不於三際愚惑,謂我於過去世為曾有非有等。有餘師說:愛取有三亦為除他後際愚惑,此三皆是後際因故。又應知此說緣起門雖有十二支,而三二為性,三謂惑業事,二謂果與因。其義云何?頌曰:

論に曰く:三際中において他の愚惑を遣らんが為か。三際の差別はただ有情において有り。如何にして有情は前際に愚惑するか。いわゆる前際においてかくのごとき疑を生ず:我は過去世において曾て有りしか非有りしか。何をもって我は曾て有りしか。如何にして我は曾て有りしか。如何にして有情は後際に愚惑するか。いわゆる後際においてかくのごとき疑を生ず:我は未来世においてまさに有らんや非有らんや。何をもって我はまさに有らんか。如何にして我はまさに有らんか。如何にして有情は中際に愚惑するか。いわゆる中際においてかくのごとき疑を生ず:何等か是れ我。此の我は如何。我は誰の所有。我はまさに誰有らんか。かくのごとき三際の愚惑を除かんが為に、ゆえに経はただ有情の縁起を説く、その次第の如く無明・行および生・老死ならびに識より有に至るを説く。所以者何。契経に説くを以て:苾芻諦に聴け!もし苾芻は諸の縁起・縁已生の法において、能く如実の正慧を以て観見せば、彼は必ず三際において愚惑せず、いわゆる我は過去世において曾て有りしか非有りしか等、と。ある余師の説に:愛・取・有の三もまた他の後際の愚惑を除かんが為、此の三は皆是れ後際の因なるゆえ。またまさにこの縁起の門の説くは十二支有ると雖も、而も三・二を性と為すと知るべし、三は惑・業・事を謂い、二は果と因とを謂う。その義如何。頌に曰く:

三煩惱二業,七事亦名果,

三は煩悩、二は業、七の事もまた果と名づき、

略果及略因,由中可比二。

果を略しおよび因を略す、中に由りて二を比す可し。

論曰:無明愛取煩惱為性,行及有支以業為性,餘識等七以事為性,是煩惱業所依事故。如是七事即亦名果,義準餘五即亦名因,以煩惱業為自性故。何緣中際廣說果因?開事為五、惑為二故。後際略果,事唯二故。前際略因,惑唯一故。由中際廣可以比度前後二際,廣義已成故不別說,說便無用。若緣起支唯十二者,不說老死果,生死應有終;不說無明因,生死應有始。或應更立餘緣起支,餘復有餘,成無窮失,不應更立。然無前過,此中世尊由義已顯。云何已顯?頌曰:

論に曰く:無明・愛・取は煩悩を性と為し、行および有の支は業を以て性と為し、余の識等の七は事を以て性と為す、是れ煩悩・業の依る所の事なるゆえ。かくのごとき七の事は即ちもまた果と名づく、義は余の五に準じて即ちもまた因と名づく、煩悩・業を以て自性と為すゆえ。何の縁に中際は果因を広説するか。事を開きて五と為し惑を二と為すゆえ。後際は果を略す、事はただ二なるゆえ。前際は因を略す、惑はただ一なるゆえ。中際の広くに由りて以て前後の二際を比度すべし、広義は已成れるゆえに別に説かず、説けば便ち用無し。もし縁起の支はただ十二のみなれば、老死の果を説かざれば生死はまさに終有るべし、無明の因を説かざれば生死はまさに始有るべし。あるいはまさに更に余の縁起の支を立つべく、余は復た余有りて無窮の失と成らん、まさに更に立つべからず。しかるに前の過無し、此中意は世尊は義に由りて已に顕したり。如何にして已に顕したるか。頌に曰く:

從惑生惑業,從業生於事,

惑より惑・業を生じ、業より事を生ずるに於て、

從事事惑生,有支理唯此。

事より事・惑を生ず、有支の理はただ此のみ。

論曰:從惑生惑謂愛生取,從惑生業謂取生有、無明生行,從業生事謂行生識及有生生,從事生事謂從識支生於名色,乃至從觸生於受支,及從生支生於老死。從事生惑謂受生愛,由立有支其理唯此。已顯老死為事惑因,及顯無明為事惑果,無明老死事惑性故,豈假更立餘緣起支?故經言:如是純大苦蘊集。若不爾者,此言何用?

論に曰く:惑より惑を生ずは愛の取を生ずるを謂い、惑より業を生ずは取の有を生じ、無明の行を生ずるを謂い、業より事を生ずは行の識を生じおよび有の生を生ずるを謂い、事より事を生ずは識の支より名色を生ずるを謂い、乃至触より受の支を生じ、および生の支より老死を生ず。事より惑を生ずは受の愛を生ずるを謂う、有支を立つるに由りてその理はただ此のみ。已に老死は事・惑の因と為るを顕し、および無明は事・惑の果と為るを顕す、無明・老死は事・惑を性と為すゆえ、豈に假りて更に余の縁起の支を立てんや。ゆえに経に説く:かくのごとき純大苦蘊の集、と。もしこの如くならざれば、この言は何の用か有らん。

有餘釋言:餘契經說,非理作意為無明因,無明復生非理作意。非理作意亦取支攝,故亦說在此契經中。此非理作意如何取支攝?若言由此與彼相應,則愛無明亦應彼攝。設許彼攝,云何能證非理作意為無明因?若但彼攝即證因果,愛與無明亦彼攝故,應不別立為緣起支。

(論に続けて曰く:)ある余の釋に説く:余の契経に説く、非理作意は無明の因と為り、無明は復た非理作意を生ず。非理作意もまた取支の摂、ゆえにもまたこの契経中に説く。この非理作意は如何にして取支の摂か。もし此に由りて彼と相応すと説かば、則ち愛・無明もまたまさに彼の摂なるべし。設ひ彼の摂を許すとも、如何にして能く非理作意は無明の因と為るを証せん。もし但だ彼の摂なれば即ち因果を証せば、愛と無明ともまた彼の摂なるゆえに、まさに別に縁起の支と為して立てざるべし。

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