Libo

説一切有部倶舎論 巻第十五

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第24巻 / 38

未斷遍隨眠,於自地一切,

未断の遍・随眠は、自地の一切に於いて、

非遍於自部,所緣故隨增,

遍にあらざるは自部に於いて、所縁に由って随増す。

非無漏上緣,無攝有違故,

無漏・上の縁にあらざるは、摂・有に違するがゆえに、

隨於相應法,相應故隨增。

相応の法に随いて、相応に由って随増す。

論曰:遍行隨眠普於自地五部諸法所緣隨增,以能遍緣自地法故。所餘五部非遍隨眠,所緣隨增唯於自部,唯以自部為所緣故。此據總說。別分別者,六無漏緣、九上緣惑,於所緣境無隨增義。所以者何?無漏上境非所攝受及相違故。謂若有法為此地中身見及愛攝為己有,可有為此身見愛地中所有隨眠所緣隨增理,如衣潤濕埃塵隨住。非諸無漏及上地法,為諸下身見愛攝為己有,故緣彼下惑,非所緣隨增。住下地心求上地等,是善法欲,非謂隨眠。聖道涅槃及上地法與能緣彼下惑相違故,彼二亦無所緣隨增理,如於炎石足不隨住。有說:隨眠是隨順義,非無漏上境,順諸下隨眠,故雖是所緣而無隨增理。如風病者服乾澁藥,病者於藥非所隨增。已約所緣辯隨增義。今次應辯相應隨增。謂隨何隨眠於自相應法,由相應故於彼隨增。諸說隨增,謂至未斷,故初頌首標未斷言。頗有隨眠不緣無漏、不緣上界,而彼隨增但於相應非所緣不?有,謂緣上地諸遍行隨眠。九十八隨眠中,幾不善、幾無記?頌曰:

論に曰く:遍行随眠は普く自地の五部の諸法に於いて所縁随増す。能く遍く自地の法に縁ずるがゆえに。その余の五部は遍随眠にあらず、所縁随増はただ自部に於いてす。ただ自部を以て所縁と為すがゆえに。これは総説に拠る。別に分別すれば、六の無漏縁・九の上縁の惑は、所縁境に於いて随増の義なし。そもそもどうしてか。無漏・上の境は摂受する所にあらずおよび相違するがゆえに。いわゆるもし法ありてこの地の中の身見および愛に摂せられて己が有と為さば、可にこの身見・愛の地の中の所有の随眠の所縁随増の理あるべし。衣の湿いて埃塵の随いて住するがごとし。諸の無漏および上地の法は、諸の下の身見・愛に摂せられて己が有と為るにあらざるがゆえに、彼に縁ずる下惑は所縁随増にあらず。下地の心に住して上地等を求むるは、是れ善法欲なり、随眠を謂うにあらず。聖道・涅槃および上地の法は、能く彼に縁ずる下惑と相違するがゆえに、彼の二もまた所縁随増の理なし。炎石に於いて足の随いて住せざるがごとし。ある人の説に、随眠は是れ随順の義なり。無漏・上の境にあらずして諸の下随眠に順ずれば、ゆえに是れ所縁なりと雖も随増の理なし。風病の者の乾渋の薬を服するがごとき、病者は薬に於いて随増する所にあらず、と。已に所縁に約して随増の義を辯したり。今次に応に相応随増を辯ずべし。いわゆる何の随眠にか随って自ら相応する法に於いて、相応に由って彼に随増す。諸の随増を説くは、至る未断を謂うがゆえに、初の頌の首に未断の言を標す。頗る随眠ありて無漏に縁ぜず上界に縁ぜずして、しかるに彼の随増は但だ相応に於いてして所縁に於いてせざるや。有り。いわゆる上地に縁ずる諸の遍行随眠。九十八随眠の中、幾つかは不善、幾つかは無記か。頌に曰く、

上二界隨眠,及欲身邊見,

上の二界の随眠、および欲の身・辺見は、

彼俱痴無記,此餘皆不善。

彼に俱なる痴は無記、これとその余は皆不善。

論曰:色無色界一切隨眠唯無記性,以染汙法若是不善有苦異熟,苦異熟果上二界無,他逼惱因彼定無故。身邊二見及相應痴,欲界繫者亦無記性。所以者何?此與施等不相違故,為我當樂現在勤脩施戒等故。執斷邊見能順解脫,故世尊說:於諸外道諸見趣中此見最勝,謂我不有、我所亦不有。我當不有、我所當不有。又此二見迷自事故、非欲逼害他有情故。若爾,貪求天上快樂及起我慢,例亦應然。先軌範師作如是說:俱生身見是無記性,如禽獸等身見現行。若分別生是不善性。餘欲界繫一切隨眠,與上相違皆不善性。於上所說不善惑中,幾是不善根、幾非不善根?頌曰:

論に曰く:色・無色界の一切随眠はただ無記の性。染污の法もし不善なれば苦の異熟ありて、苦の異熟果は上の二界に無く、他を逼惱する因は彼に定めて無きがゆえに。身・辺の二見および相応の痴は、欲界繋なるも無記の性。そもそもどうしてか。これ施等と相違せざるがゆえ、我と為して当に楽あらんと現在勤めて施・戒等を修するがゆえに。断辺見を執するは能く解脱に順ずるがゆえに、世尊は説きたまう:諸の外道の諸の見趣の中に於いてこの見は最勝なり。いわゆる我は有らず、我所有もまた有らず。我当に有らず、我所も当に有らず、と。またこの二見は自事に迷うがゆえ、他の有情を逼害せんと欲するにあらざるがゆえに。もしそうならば、天上の快楽を貪求しおよび我慢を起すは、例して応にこのようであるべし。先の軌範師はこの説を作して曰く、俱生の身見は是れ無記の性。禽獣等の身見の現行するがごとし。もし分別に生ずれば是れ不善の性。その余の欲界繋の一切随眠は、上と相違して皆不善の性。上に説く所の不善の惑の中、幾つかは不善根、幾つかは不善根にあらざるか。頌に曰く、

不善根欲界,貪瞋不善痴。

不善根は欲界の、貪・瞋・不善の痴。

論曰:唯欲界繫一切貪瞋及不善痴不善根攝。如其次第,世尊說為貪瞋痴三不善根。性唯不善煩惱,為不善法根立不善根。餘則不爾,所餘煩惱非不善根,義準已成,故頌不說。於上所說無記惑中,幾是無記根、幾非無記根?頌曰:

論に曰く:ただ欲界繋の一切の貪・瞋および不善の痴は不善根の摂。その次第のごとく、世尊は説いて貪・瞋・痴の三不善根と為したまえり。性はただ不善の煩悩、不善法の根と為すに由って不善根を立つ。その余は則ちこのようにはあらず。その余の煩悩は不善根にあらず、義は准じて已に成ず。ゆえに頌は説かず。上に説く所の無記の惑の中、幾つかは無記根、幾つかは無記根にあらざるか。頌に曰く、

無記根有三,無記愛痴慧,

無記根に三あり。無記の愛・痴・慧、

非餘二高故,外方立四種,

その余の二は高転ずるがゆえに非ず。外方は四種を立つ。

中愛見慢痴,三定皆痴故。

中に愛・見・慢・痴、三の定は皆痴に由るがゆえに。

論曰:迦濕彌羅國諸毘婆沙師說無記根亦有三種,謂諸無記愛、痴、慧三,下至異熟生亦無記根攝。何緣疑、慢非無記根?疑二趣轉,慢高轉故。彼師謂疑二趣相轉,性動搖故,不應立根。慢於所緣高舉相轉,異根法故,亦不立根。為根必應堅住下轉,世間共了,故彼非根。外方諸師立此有四,謂諸無記愛、見、慢、痴。無記名中遮善惡故,何緣此四立無記根?以諸愚夫脩上定者,不過依託愛見慢三,此三皆依無明力轉,故立此四為無記根。諸契經中說十四無記事,彼亦是此無記攝耶?不爾。云何?彼經但約應捨置問立無記名,謂問記門總有四種。何等為四?頌曰:

論に曰く:迦湿弥羅国の諸の毘婆沙師は説く、無記根もまた三種あり。いわゆる諸の無記の愛・痴・慧の三、下は異熟生に至るまでもまた無記根の摂。何の縁にか疑・慢は無記根にあらざるか。疑は二趣に転じ、慢は高く転ずるがゆえに。彼の師は謂う、疑は二趣の相に転ずるがゆえに性は動揺す。ゆえに応に根を立つべからず。慢は所縁に於いて高擧の相に転じ、根の法に異なるがゆえに、もまた根を立てず。根と為るは必ず応に堅く住して下に転ずべし。世間に共に了とす。ゆえに彼は根にあらず、と。外方の諸師はこれを立てて四あり。いわゆる諸の無記の愛・見・慢・痴。無記の名の中に善悪を遮るがゆえに、何の縁にかこの四を立てて無記根と為すか。諸の愚夫の上定を修するは、愛・見・慢の三に依托するを過ぎず、この三は皆無明の力に依って転ずるがゆえに、この四を立てて無記根と為す。諸の契経の中に説く十四の無記事、彼もまたこの無記の摂なるか。そうにはあらず。どうか。彼の経は但だ応に捨置すべき問に約して無記の名を立つ。いわゆる問記の門は総じて四種あり。何等か四と為すか。頌に曰く、

應一向分別,反詰捨置記,

応に一向・分別・反詰・捨置して記すべし。

如死生殊勝,我蘊一異等。

死・生・殊勝・我・蘊の一・異等のごとし。

論曰:且問四者,一應一向記、二應分別記、三應反詰記、四應捨置記。此四如次。如有問者,問死生勝我一異等。記有四者,謂答四問。若作是問:一切有情皆當死不?應一向記一切有情皆定當死。若作是問:一切死者皆當生不?應分別記:有煩惱者當生非餘。若作是問:人為勝劣?應反詰記:為何所方?若言方天,應記人劣;若言方下,應記人勝。若作是問:蘊與有情為一為異?應捨置記:有情無實故,一異性不成,如石女兒白黑等性。如何捨置而立記名?以記彼問言,此不應記故。有作是說:彼第二問,亦應一向記,非一切當生。然問者言:一切死者皆當生不?理應分別記彼所問總答不成,雖令總知仍未解故。又作是說:彼第三問亦應一向記,人亦勝亦劣,所待異故,如識果因。然彼問者一向為問,非一向記故,應成分別記。但此應詰問意所方,故此名為應反詰記。又作是說:彼第四問既全不記蘊與有情若異若一,云何名記?然彼所問,理應捨置。記言應捨置,如何不名記?對法諸師作如是說:一向記者,若有問言:世尊是如來、應、正等覺耶?所說法要是善說耶?諸弟子眾行妙行耶?色乃至識皆無常耶?苦乃至道善施設耶?應一向記,契實義故。分別記者,若有直心請言:願尊為我說法。應為分別:法有眾多,謂去來今,欲說何者?若言為我說過去法。應復分別:過去法中亦有眾多,色乃至識。若請說色,應分別言:色中有三,善、惡、無記。若請說善,應分別言:善中有七,謂離殺生,廣說乃至離雜穢語。若彼復請說離殺生,應分別言:此有三種,謂無貪、瞋、痴三善根所發。若彼請說無貪發者,應分別言:此復有二,謂表、無表,欲說何者?反詰記者,若有諂心請言:願尊為我說法。應反詰彼:法有眾多,欲說何者?不應分別。乃至令彼默然而住,或令自記無便求非。

論に曰く:且つ問に四あり。一は応に一向に記すべし、二は応に分別して記すべし、三は応に反詰して記すべし、四は応に捨置して記すべし。この四は次第のごとし。問有るがごときは、死・生・勝・我の一・異等を問う。記に四有るは、いわゆる四問に答う。もしこの問を作さば、一切有情は皆当に死せんや。応に一向に記すべし、一切有情は皆定めて当に死せん、と。もしこの問を作さば、一切の死者は皆当に生せんや。応に分別して記すべし、煩悩あるは当に生じ、その余にあらず、と。もしこの問を作さば、人は勝か劣か。応に反詰して記すべし、何の所にか方せんや。もし天に方すと説かば、応に人は劣と記すべし。もし下に方すと説かば、応に人は勝と記すべし。もしこの問を作さば、蘊と有情とは一か異か。応に捨置して記すべし、有情は実なきがゆえに、一・異の性は成ぜず。石女の児の白・黒等の性のごとし。どうして捨置して記の名を立つるか。彼の問に記して説く、これは応に記すべからず、と言うがゆえに。あるはこの説を作して曰く、彼の第二の問もまた応に一向に記すべし。一切が当に生ずるにあらざるがゆえに。しかし問者の説く、一切の死者は皆当に生せんや。理は応に分別して彼の問う所に記すべし、総答は成ぜざるがゆえに。総じて知らしむると雖もなお未だ解せざるがゆえに。またこの説を作して曰く、彼の第三の問もまた応に一向に記すべし。人もまた勝なり劣なり、待つ所の異なるがゆえに。識・果・因のごとし。しかし彼の問者は一向を以て問と為す。一向の記にあらざるがゆえに、応に分別記を成ずべし。但だこれは応に問意の方る所を詰るべし。ゆえにこれを名づけて応に反詰して記すべしと為す。またこの説を作して曰く、彼の第四の問はすでに全く蘊と有情の若しは異若しは一を記せず、どうして記と名づくか。しかし彼の問う所は、理は応に捨置すべし。記言は応に捨置すべし、どうして記と名づけざらんや。対法の諸師はこの説を作して曰く、一向に記すべきは、もし問う有りて説かば、世尊は是れ如来・応・正等覚か。説法の要是れ善説か。諸の弟子衆は妙行を行ずるか。色乃至識は皆無常か。苦乃至道は善く施設するか。応に一向に記すべし。実義に契うがゆえに。分別記すべきは、もし直心に請して説かば、願わくは尊、我が為に法を説きたまえ。応に分別すべし、法に众多あり。いわゆる去・来・今、何れを説かんと欲するか。もし我が為に過去の法を説けと説かば、応に復た分別すべし。過去の法の中にもまた众多あり。色乃至識。もし色を説かんと請わば、応に分別して説くべし、色の中に三あり。善・悪・無記。もし善を説かんと請わば、応に分別して説くべし、善の中に七あり。いわゆる殺生を離る、広く説いて乃至雑穢語を離るるに至る。もし彼復た殺生を離るるを説かんと請わば、応に分別して説くべし、これに三種あり。いわゆる無貪・瞋・痴の三善根の発する所。もし彼が無貪の発するを説かんと請わば、応に分別して説くべし、これ復た二あり。いわゆる表・無表、何れを説かんと欲するか、と。反詰記すべきは、もし諂心を以て請して説かば、願わくは尊、我が為に法を説きたまえ。応に彼に反詰すべし、法に众多あり、何れを説かんと欲するか。応に分別すべからず。乃至彼をして黙然として住せしめ、或いは自ら記せざるをして便ち非を求めしむ。

豈不二中都無有問,唯有請說,亦無有記唯反詰言欲說何者,如何此二成問記耶?如有請言為我說道,豈非問道?即由反詰記彼所問,豈非記道?若爾,應俱是反詰記。不爾,問意直諂有殊,記有分別無分別故。捨置記者,若有問言:世為有邊、為無邊等?此應捨置不應為說。今依契經辯問記相。如大眾部契經中言:苾芻當知,問記有四。何等為四?謂或有問應一向記,乃至有問但應捨置。云何有問應一向記?謂問:諸行皆無常耶?此問名為應一向記。云何有問應分別記?謂若有問:諸有故思造作業已為受何果?此問名為應分別記。云何有問應反詰記?謂若有問:士夫想與我為一為異耶?應反詰言:汝依何我作如是問?若言依麁我,應記與想異。此問名為應反詰記。云何有問但應捨置?謂若有問:世為常、無常、亦常亦無常、非常非無常?世為有邊、無邊、亦有邊亦無邊、非有邊非無邊?如來死後為有、非有、亦有亦非有、非有非非有?為命者即身、為命者異身。此問名為但應捨置。

(論は続けて曰く:)豈に二つの中に問有ることなく、ただ請説あるのみ、また記有らずしてただ反詰して何れを説かんと欲するかと言うのみ、どうしてこの二は問記を成さんや。もし請う有りて我が為に道を説けと説かば、豈に道を問うにあらずや。すなわち反詰に由って彼の問う所に記すれば、豈に道に記するにあらずや。もしそうならば、応に俱に是れ反詰記なるべし。そうにはあらず。問意の直・諂に殊あり、記に分別・無分別あるがゆえに。捨置記すべきは、もし問う有りて説かば、世は辺ありや、辺なきや等。これは応に捨置すべし、応に為に説くべからず。今契経に依って問記の相を辯ず。大衆部の契経の中に説くがごとく:苾芻当に知るべし、問記に四あり。何等か四と為すか。いわゆる或いは問ありて応に一向に記すべし、乃至問ありて但だ応に捨置すべし。どうして問ありて応に一向に記すべきか。いわゆる問う、諸行は皆無常か。此の問を名づけて応に一向に記すべしと為す。どうして問ありて応に分別して記すべきか。いわゆるもし問う有り、諸の故思の造作業は已に何の果を受くるや。此の問を名づけて応に分別して記すべしと為す。どうして問ありて応に反詰して記すべきか。いわゆるもし問う有り、士夫の想と我とは一か異か。応に反詰して説くべし、汝は何の我に依ってかこの問を作す。もし麁我に依ると説かば、応に想と異なると記すべし。此の問を名づけて応に反詰して記すべしと為す。どうして問ありて但だ応に捨置すべきか。いわゆるもし問う有り、世は常か、無常か、亦た常にして亦た無常か、非常にして非無常か。世は辺ありか、辺なしか、亦た辺ありて亦た辺なしか、非有辺にして非無辺か。如来は死後に有りか、非有か、亦た有りて亦た非有か、非有にして非非有か。命者は即ち身か、命者は身に異なるか。此の問を名づけて但だ応に捨置すべしと為す。

説一切有部倶舎論 巻第十九

アビダルマ倶舎論 巻第二十 尊者世親造

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す。

分別隨眠品第五之二

分別随眠品 第五之二

諸有情類於此事中隨眠隨增,名繫此事。應說過去現在未來何等隨眠能繫何事?頌曰:

諸の有情類はこの事の中に於いて随眠随増するを、名づけてこの事に繋すと為す。応に説くべし、過去・現在・未来に何等の随眠か能く何事を繋するか。頌に曰く、

若於此事中,未斷貪瞋慢,

もしこの事の中に於いて、未だ断ぜざる貪・瞋・慢、

過現若已起,未來意遍行,

過・現はもし已に起らば、未来の意は遍行し、

五可生自世,不生亦遍行,

五識は自世を生ずべく、生ぜざるもまた遍行し、

餘過未遍行,現正緣能繫。

その余は過・未に遍行し、現は正に縁じて能く繋す。

論曰:且諸隨眠總有二種:一者自相,謂貪、瞋、慢;二者共相,謂見、疑、痴。事雖有多,此說所繫。如應未斷,流至後門。若此事中有貪瞋慢,於過去世已生未斷,現在已生能繫此事。以貪瞋慢是自相惑,非諸有情定遍起故。若未來世意識相應貪瞋慢三遍於三世,乃至未斷皆能繫縛。未來五識相應貪瞋,若未斷可生,唯繫未來世。未來五識相應貪瞋,若未斷不生,亦能繫三世。所餘一切見疑無明,去來未斷遍縛三世。由此三種是共相惑,一切有情俱遍縛故。若現在世正緣境時,隨其所應能繫此事。應辯諸事過去未來,為實有無方可說繫。若實是有,則一切行恆時有故應說為常;若實是無,如何可說有能所繫及離繫耶?毘婆沙師定立實有,然彼諸行不名為常,由與有為諸相合故。為此所立決定增明,應略標宗顯其理趣。頌曰:

論に曰く:且つ諸の随眠は総じて二種あり。一は自相、いわゆる貪・瞋・慢。二は共相、いわゆる見・疑・痴。事は多しと雖も、これは繋する所を説く。応に未だ断ぜざるがごとく、後門に流る。もしこの事の中に貪・瞋・慢ありて、過去世に於いて已に生じて未だ断ぜず、現在已に生じて能くこの事を繋す。貪・瞋・慢は是れ自相の惑にして、諸の有情は定めて遍く起るにあらざるがゆえに。もし未来世の意識に相応する貪・瞋・慢は三世に遍して、乃至未だ断ぜざるは皆能く繋縛す。未来の五識に相応する貪・瞋は、もし未だ断ぜずして生ずべきならば、ただ未来世を繋す。未来の五識に相応する貪・瞋は、もし未だ断ぜずして生ぜざれば、もまた能く三世を繋す。その余の一切の見・疑・無明は、去・来に未だ断ぜざれば遍く三世を縛す。この三種に由って是れ共相の惑にして、一切有情は俱に遍く縛せらるるがゆえに。もし現在世に正に境に縁ずる時は、その応ずる所に随って能くこの事を繋す。応に諸の事の過去・未来を辯ずべし、実に有無の方あらば乃ち繋を説くべし。もし実に是れ有ならば、則ち一切の行は恒に時あるがゆえに応に常と説くべし。もし実に是れ無ならば、どうして能繋・所繋および離繋あると説くべきか。毘婆沙師は定めて実有を立つ。しかし彼の諸行は常と名づけず。有為の諸相と合するに由るがゆえに。この為に立てる所は決定して増明なり。応に略して宗を標してその理趣を顕すべし。頌に曰く、

三世有由說,二有境果故,

三世有は説くに由り、二は境・果あるがゆえに、

說三世有故,許說一切有。

三世有を説くがゆえに、説一切有を許す。

論曰:三世實有。所以者何?由契經中世尊說故。謂世尊說:苾芻當知,若過去色非有,不應多聞聖弟子眾於過去色勤脩厭捨。以過去色是有故,應多聞聖弟子眾於過去色勤脩厭捨。若未來色非有,不應多聞聖弟子眾於未來色勤斷欣求。以未來色是有故,應多聞聖弟子眾於未來色勤斷欣求。又具二緣識方生故,謂契經說:識二緣生。其二者何?謂眼及色。廣說乃至意及諸法。若去來世非實有者,能緣彼識應闕二緣。已依聖教證去來有,當依正理證有去來,以識起時必有境故。謂必有境,識乃得生,無則不生,其理決定。若去來世境體實無,是則應有無所緣識,所緣無故識亦應無。又已謝業有當果故,謂若實無過去體者,善惡二業當果應無,非果生時有現因在。由此教理,毘婆沙師定立去來二世實有。若自謂是說一切有宗,決定應許實有去來世,以說三世皆定實有故,許是說一切有宗。謂若有人說三世實有,方許彼是說一切有宗。若人唯說有現在世及過去世未與果業,說無未來及過去世已與果業,彼可許為分別說部,非此部攝。今此部中差別有幾?誰所立世最善可依?頌曰:

論に曰く:三世は実有。そもそもどうしてか。契経の中に世尊の説きたまえるに由るがゆえに。いわゆる世尊は説きたまう:苾芻当に知るべし、もし過去の色は有にあらざれば、応に多聞の聖弟子衆は過去の色に於いて勤めて厭捨を修せざるべし。過去の色は有なるがゆえに、応に多聞の聖弟子衆は過去の色に於いて勤めて厭捨を修す。もし未来の色は有にあらざれば、応に多聞の聖弟子衆は未来の色に於いて勤めて欣求を断ぜざるべし。未来の色は有なるがゆえに、応に多聞の聖弟子衆は未来の色に於いて勤めて欣求を断ず。また二縁を具えて識乃ち生ずるがゆえに。いわゆる契経に説く、識は二縁に由って生ず。その二とは何ぞ。いわゆる眼および色。広く説いて乃至意および諸の法に至る。もし去・来世は実有にあらざれば、彼に縁ずる能縁の識は応に二縁を缺くべし。已に聖教に依って去・来有るを証したり。当に正理に依って去・来有るを証すべし。識の起る時は必ず境あるがゆえに。いわゆる必ず境ありて識乃ち生ずるを得、無ければ生ぜず。その理は決定す。もし去・来世の境の体は実に無ならば、是れ則ち応に所縁なき識有るべし。所縁無きがゆえに識もまた応に無かるべし。また已謝の業は当果あるがゆえに。いわゆるもし実に過去の体無ければ、善・悪の二業の当果は応に無かるべし。果の生ずる時に現因在るにあらざるがゆえに。この教理に由って、毘婆沙師は定めて去・来の二世は実有と立つ。もし自ら是れ説一切有宗と謂わば、決定して応に実有の去・来世を許すべし。三世皆定めて実有と説くがゆえに、許して是れ説一切有宗と為す。いわゆるもし人ありて三世実有と説かば、方に彼を許して是れ説一切有宗と為す。もし人ただ現在世および過去世の未だ果を与えざる業有りと説き、未来および過去世の已に果を与えたる業は無と説かば、彼は許して分別説部と為すべし。此の部の摂にあらず。今此の部の中、差別に幾らか有るか。誰の立てる所の世か最も善くして依るべきか。頌に曰く、

此中有四種,類相位待異,

此の中に四種あり。類・相・位・待に異あり。

第三約作用,立世最為善。

第三は作用に約し、世を立てる最も善なり。

論曰:尊者法救作如是說:由類不同,三世有異。彼謂諸法行於世時,由類有殊非體有異。如破金器作餘物時,形雖有殊而體無異。又如乳變成於酪時,捨味勢等,非捨顯色。如是諸法行於世時,從未來至現在、從現在入過去,唯捨得類,非捨得體。尊者妙音作如是說:由相不同,三世有異。彼謂諸法行於世時,過去正與過去相合,而不名為離現未相。未來正與未來相合,而不名為離過現相。現在正與現在相合,而不名為離過未相。如人正染一妻室時,於餘姬媵不名離染。尊者世友作如是說:由位不同,三世有異。彼謂諸法行於世時,至位位中作異異說,由位有別非體有異。如運一籌,置一名一、置百名百、置千名千。尊者覺天作如是說:由待有別,三世有異。彼謂諸法行於世時,前後相待立名有異,如一女人名母名女。此四種說一切有中,第一執法有轉變故,應置數論外道朋中。第二所立世相雜亂,三世皆有三世相故。人於妻室貪現行時,於餘境貪唯有成就。現無貪起,何義為同?第四所立前後相待,一世法中應有三世。謂過去世前後剎那應名去來,中為現在。未來現在類亦應然。故此四中第三最善,以約作用位有差別,由位不同立世有異。彼謂諸法作用未有名為未來,有作用時名為現在,作用已滅名為過去,非體有殊。此已具知。彼應復說,若去來世體亦實有,應名現在,何謂去來?豈不前言約作用立。若爾,現在有眼等根,彼同分攝有何作用?彼豈不能取果與果?是則過去同類因等既能與果,應有作用。有半作用,世相應雜。已略推徵,次當廣破。頌曰:

論に曰く:尊者法救はこの説を作して曰く、類の同じからざるに由って、三世に異あり。彼は謂う、諸法は世に行ずる時、類に殊あるに由って体に異あるに非ず。金の器を破りてその余の物を作る時、形は殊あると雖も体に異なきがごとし。また乳が変じて酪と為る時、味・勢等を捨てて顕色を捨てざるがごとし。このように諸法は世に行ずる時、未来より現在に至り、現在より過去に入るに、ただ類を捨得す、体を捨得するに非ず。尊者妙音はこの説を作して曰く、相の同じからざるに由って三世に異あり。彼は謂う、諸法は世に行ずる時、過去は正に過去の相と合するも、現・未の相を離ると名づけず。未来は正に未来の相と合するも、過・現の相を離ると名づけず。現在は正に現在の相と合するも、過・未の相を離ると名づけず。人が正に一の妻室を染ずる時、その余の姫媵に於いて染を離ると名づけざるがごとし。尊者世友はこの説を作して曰く、位の同じからざるに由って三世に異あり。彼は謂う、諸法は世に行ずる時、位の中に至りて異異の説を作す。位の別あるに由って体に異あるに非ず。一の筹を運らすがごとき、一に置けば一と名づき、百に置けば百と名づき、千に置けば千と名づく。尊者覚天はこの説を作して曰く、待に別あるに由って三世に異あり。彼は謂う、諸法は世に行ずる時、前後相待して名を立てて異あり。一の女人が母と名づき女と名づくがごとし。此の四種の説一切有の中、第一は法に転変あるを執するがゆえに、応に数論外道の朋の中に置くべし。第二の立てる所の世相は雑乱す。三世皆三世の相あるがゆえに。人が妻室に於いて貪現行する時、その余の境に於いて貪はただ成就あるのみ。現に貪の起ること無きに、何の義を以てか同じと為さん。第四の立てる所は前後相待す。一世の法の中に応に三世あるべし。いわゆる過去世の前後の刹那は応に去・来と名づくべし。中は現在。未来・現在の類もまた応にこのようであるべし。ゆえに此の四の中、第三は最も善なり。作用に約して位に差別あり、位の同じからざるに由って世を立てて異あるを以て。彼は謂う、諸法の作用未だ有らざるを未来と名づけ、作用ある時を現在と名づけ、作用已に滅するを過去と名づく。体に殊あるに非ず。これ已に具に知れたり。彼は応に復た説くべし、もし去・来世の体もまた実有ならば、応に現在と名づくべし。何を去・来と謂うか。豈に前に言わずや、作用に約して立つと。もしそうならば、現在に眼等の根有りて、彼の同分の摂するは何の作用かある。彼は豈に果を取り果を与うること能わざるか。是れ則ち過去の同類因等はすでに能く果を与うるは、応に作用あるべし。半作用有れば、世相は応に雑なるべし。已に略して推征したり。次に当に広く破るべし。頌に曰く、

何礙用云何?無異世便壞,

何がか碍げる、用は如何。異なくば世は便ち壊れ、

有誰未生滅?此法性甚深。

誰がか未だ生せず滅せざらん。此の法性は甚だ深し。

論曰:應說若法自體恆有,應一切時能起作用,以何礙力令此法體所起作用時有時無?若謂眾緣不和合者,此救非理,許常有故。又此作用云何得說為去來今?豈作用中而得更立有餘作用?若此作用非去來今而復說言作用是有,則無為故應常非無,故不應言作用已滅,及此未有法名去來。若許作用異法體者,可有此失,然無有異,故不應言有此過失。若爾,所立世義便壞,謂若作用即是法體,體既恆有用亦應然。何得有時名為過未?故彼所立世義不成。何為不成?以有為法未已生名未來,若已生未已滅名現在,若已滅名過去。彼復應說,若如現在法體實有,去來亦然,誰未已生?誰復已滅?謂有為法體實恆有,如何可得成,未已生已滅。先何所闕?彼未有故,名未已生。後復闕何?彼已無故,名為已滅。故不許法本無今有、有已還無,則三世義應一切種皆不成立。然彼所說,恆與有為諸相合故。行非常者,此但有虛言,生滅理無故。許體恆有說性非常,如是義言所未曾有。依如是義,故有頌言:

論に曰く:応に説くべし、もし法の自体は恒に有なれば、応に一切の時に能く作用を起すべし。何の碍力を以てか此の法体の起す所の作用をして時有り時無からしむるか。もし衆縁の和合せざると謂わば、此の救は理にあらず。常有を許すがゆえに。また此の作用はどうして去・来・今と説くことを得ん。豈に作用の中に於いて更にその余の作用有りと立つることを得んや。もし此の作用は去・来・今にあらずして復た説いて作用は有りと言わば、則ち無為のゆえに応に常にして無ならず。ゆえに応に説くべからず、作用已に滅したり、および此の未だ有らざる法を去・来と名づく、と。もし作用は法体に異なると許さば、此の失有るべし。しかし異有ることなし。ゆえに応に此の過失有りと説くべからず。もしそうならば、立てる所の世義は便ち壊る。いわゆるもし作用はすなわち法体なれば、体はすでに恒に有なるは用もまた応にこのようであるべし。何を以てか時有りて過・未と名づくことを得ん。ゆえに彼の立てる所の世義は成ぜず。何を以てか成ぜざる。有為の法は未だ已に生ぜざるを未来と名づけ、もし已に生じて未だ已に滅せざるを現在と名づけ、もし已に滅したるを過去と名づくるを以て。彼は復た応に説くべし、もし現在の法の体の実有なるがごとく、去・来もまたこのようには、誰がか未だ已に生ぜざらん。誰か復た已に滅せり。いわゆる有為の法の体は実に恒に有なれば、どうして未だ已に生ぜず已に滅せずと成ることを得ん。先に何を缺くか。彼の未だ有らざるがゆえに、未だ已に生ぜずと名づく。後に復た何を缺くか。彼の已に無なるがゆえに、已に滅せりと名づく。ゆえに法は本無くして今有り、有りて已に還た無と許さざれば、則ち三世の義は応に一切種に皆成り立たざるべし。しかし彼の説く所、恒に有為の諸相と合するがゆえに、行は常に非ず。これは但だ虚言あるのみ。生滅の理無きがゆえに。体の恒有を許して性の非常を説く、此のようの義言は未だ曾て有らざるなり。此のようの義に依って、ゆえに頌有りて説く:

許法體恆有,而說性非常,

法体の恒有を許し、しかも性の非常を説き、

性體復無別,此真自在作。

性・体は復た別なきは、此れ真に自在の作なり。

又彼所言,世尊說故去來二世體實有者,我等亦說有去來世。謂過去世曾有名有,未來當有,有果因故。依如是義說有去來,非謂去來如現實有。誰言彼有如現在世?非如現世彼有云何?彼有去來二世自性。此復應詰:若俱是有,如何可言是去來性故說彼有?但據曾當因果二性,非體實有。世尊為遮謗因果見,據曾當義說有去來,有聲通顯有無法故。如世間說,有燈先無、有燈後無。又如有言:有燈已滅,非我今滅。說有去來,其義亦應爾。若不爾者,去來性不成。若爾,何緣世尊依彼杖髻外道說業過去盡滅變壞而猶是有。豈彼不許業曾有性?而今世尊重為說有,依彼所引現相續中與果功能密說為有。若不爾者,彼過去業現實有性,過去豈成?理必應爾。以薄伽梵於勝義空契經中說:眼根生位無所從來,眼根滅時無所造集。本無今有、有已還無。去來眼根若實有者,經不應說本無等言。若謂此言依現世說,此救非理,以現世性與彼眼根體無別故。若許現世本無今有、有已還無,是則眼根去來無體義已成立。又彼所說,要具二緣識方生故。去來二世體實有者,應共尋思,意法為緣生意識者,為法如意作能生緣?為法但能作所緣境?若法如意作能生緣,如何未來百千劫後當有彼法?或當亦無為能生緣生今時識。又涅槃性違一切生,立為能生,不應正理。若法但能為所緣境,我說過未亦是所緣,若無如何成所緣境?我說彼有,如成所緣。如何成所緣?謂曾有、當有。非憶過去色受等時,如現分明觀彼為有,但追憶彼曾有之相;逆觀未來當有亦爾,謂如曾現在所領色相,如是追憶過去為有,亦如當現在所領色相,如是逆觀未來為有。若如現有應成現世。若體現無,則應許有緣無境識,其理自成。若謂去來極微散亂有而非現,理亦不然,取彼相時非散亂故。又若彼色有同現在,唯有極微散亂為異,則極微色其體應常。

(論は続けて曰く:)また彼の説く所、世尊の説きたまえるがゆえに去・来の二世の体は実有とせば、我等もまた去・来世有りと説く。いわゆる過去世は曾て有りと名づき、未来は当に有らん。果・因有るがゆえに。此のようの義に依って去・来有りと説く。去・来は現のごとく実有を謂うに非ず。誰か彼の現在の世のごとく有りと説くか。現世のごとくあらざれば彼の有は如何。彼は去・来二世の自性有り。これ復た応に詰るべし、もし俱に是れ有なれば、どうして是れ去・来の性と説くべきか。ゆえに彼の有を説くや。但だ曾・当の因果の二性に拠るのみ、体の実有に非ず。世尊は因果を謗ずる見を遮らんが為に、曾・当の義に拠って去・来有りと説く。有の声は有無の法を通じて顕すがゆえに。世間の説くがごとく、燈先ず無き有り、燈後に無き有り。また言有るがごとく、燈已に滅す有り、我が今滅するに非ず。去・来有りと説く、その義もまた応にこのようであるべし。もしこのようにはあらざれば、去・来の性は成ぜず。もしそうならば、何の縁にか世尊は彼の杖髻外道(外道論師の名)に依って業は過去に尽き滅し変壊せりと雖もなお是れ有りと説きたまえるか。豈に彼は業の曾有の性を許さざらんや。而も世尊は重ねて為に有りと説く。彼の引く所の現の相続の中の果を与うる功能に依って密に有と説く。もしこのようにはあらざれば、彼の過去の業は現に実有の性なり、過去豈に成らんや。理は必ず応にこのようであるべし。薄伽梵が勝義空契経の中に説きたまえるを以て:眼根は生ずる位に於いて来る所無く、眼根は滅する時に造集する所無し。本無くして今有り、有りて已に還た無。去・来の眼根もし実有ならば、経は応に本無等の言を説かざるべし。もし此の言は現世に依って説くと謂わば、此の救は理に非ず。現世の性と彼の眼根の体と別無きがゆえに。もし現世は本無くして今有り、有りて已に還た無を許さば、是れ則ち眼根の去・来は体無きの義已に成り立てり。また彼の説く所、要ずるに二縁を具えて識乃ち生ずるがゆえに、去・来二世の体は実有とせば、応に共に尋思すべし。意・法を縁として意識を生ずれば、法は意のごとく能生の縁を作すか。法は但だ能く所縁境を作すか。もし法は意のごとく能生の縁を作せば、如何にして未来の百千劫の後に当に彼の法有らん。或いは当にも無為は能生の縁にして今時の識を生ぜしめん。また涅槃の性は一切の生に違す。能生と立つるは、応に正理にあらず。もし法は但だ能く所縁境と為るのみなれば、我は過・未もまた所縁と説く。無なれば如何にして所縁境と成らん。我は彼の有を説く、成る所縁のごとし。如何にして所縁と成るか。いわゆる曾有・当有。過去の色・受等を憶うる時に、現の分明なるがごとく彼を観じて有と為すに非ず。但だ彼の曾有の相を追憶す。未来を逆観して当有なるもまたこのよう。いわゆる曾て現在所領の色相のごとく、此のように追憶して過去を有と為す。また当に現在に所領の色相のごとく、此のように逆観して未来を有と為す。もし現有のごときは応に現世を成ずべし。もし体は現無なれば、則ち応に無境に縁ずる識有りと許すべし。その理もまた自ずから成ず。もし去・来は極微の散乱して有りて現に非ずと謂わば、理もまたこのようにはあらず。彼の相を取る時は散乱に非ざるがゆえに。またもし彼の色は現在と同じく、ただ極微の散乱を以て異と為さば、則ち極微の色はその体は応に常なるべし。

又色唯應極微聚散,竟無少分可名生滅。是則遵崇邪命者論,棄背善逝所說契經。如契經說:眼根生位無所從來,乃至廣說,又非受等極微集成。如何可言去來散亂?然於受等追憶逆觀,亦如未滅已生時相。若如現有體應是常,若體現無,還應許有緣無境識,理亦自成。若體全無是所緣者,第十三處應是所緣,諸有達無第十三處。此能緣識為何所緣?若謂即緣彼名為境,是則應撥彼名為無。又若緣聲先非有者,此能緣識為何所緣?若謂即緣彼聲為境,求聲無者應更發聲。若謂聲無住未來位,未來實有如何謂無?若謂去來無現世者,此亦非理,其體一故。若有少分體差別者,本無今有其理自成。故識通緣有非有境。然菩薩說,世間所無我知我見無是處者,意說他人懷增上慢,亦於非有現相謂有,我唯於有方觀為有。若異此者,則一切覺皆有所緣,何緣於境得有猶豫或有差別。理必應然。以薄伽梵於餘處說:善來苾芻!汝等若能為我弟子,無諂無誑有信有勤,我旦教汝令暮獲勝,我暮教汝令旦獲勝。便知有是有、非有是非有、有上是有上、無上是無上。由此彼說,識有境故有去來者,亦不成因。又彼所言,業有果故有去來者,理亦不然。非經部師作如是說,即過去業能生當果,然業為先所引相續,轉變差別令當果生。彼我品中當廣顯示。若執實有過去未來,則一切時果體常有,業於彼果有何功能?若謂能生,則所生果本無今有,其理自成。若一切法一切時有,誰於誰有能生功能?又應顯成雨眾外道所黨邪論。彼作是說:有必常有,無必常無。無必不生,有必不滅。若謂能令果成現在,如何令果成現在耶?若謂引令至餘方所,則所引果其體應常。又無色法當如何引?又此所引應體本無。若謂但令體有差別,本無今有其理自成。是故此說一切有部,若說實有過去未來,於聖教中非為善說。

(論は続けて曰く:)また色はただ応に極微の聚散のみ、竟て少分も生滅と名づくべきなし。是れ則ち邪命者の論を遵崇して、善逝の説きたまえる契経を棄背す。契経に説くがごとく:眼根は生ずる位に於いて来る所無し、乃至広く説く。また受等も極微の集成に非ず。如何にして去・来の散乱と説くべきか。しかし受等に於いて追憶・逆観するも、また未だ滅せず已に生じたる時の相のごとし。もし現有のごときは体は応に是れ常なるべし。もし体は現無なれば、還た応に無境に縁ずる識有りと許すべし。理もまた自ずから成ず。もし体は全く無き是れ所縁ならば、第十三処は応に所縁なるべし。諸の無に達するは第十三処。此の能縁の識は何をか縁ずる所と為さん。もしすなわち彼の名を縁じて境と為すと謂わば、是れ則ち応に彼の名を無と撥すべし。またもし声は先に非有を縁ずれば、此の能縁の識は何をか縁ずる所と為さん。もしすなわち彼の声を縁じて境と為すと謂わば、声の無を求むるは応に更に声を発すべし。もし声は無にして未来の位に住すと謂わば、未来は実有なれば如何にして無と謂わん。もし去・来は現世の無と謂わば、これもまた理に非ず。その体は一なるがゆえに。もし少分の体の差別有れば、本無くして今有るの理は自ずから成ず。ゆえに識は通じて有・非有の境に縁ず。しかし菩薩の説く所、世間の無き所は我は知り我は見る、是の処無しとするは、意は他人の増上慢を懐きて、もまた非有の現相に於いて有と謂うを説く。我はただ有る方に於いて観じて有と為す。もし此に異ならば、則ち一切の覚は皆縁する所有り。何の縁にか境に於いて猶予有り或いは差別有るを得ん。理は必ず応にこのようであるべし。薄伽梵がその余の処に説きたまえるを以て:善来苾芻、汝等もし能く我が弟子と為らば、諂なく誑なく信あり勤あらば、我は旦に汝を教えて暮に勝を獲せしめ、我は暮に汝を教えて旦に勝を獲せしめん。便ち有は是れ有、非有は是れ非有、上有るは是れ上有り、無上は是れ無上と知らん。此に由って彼の説く、識は境有るがゆえに去・来有りとは、もまた因を成ぜず。また彼の説く所、業は果有るがゆえに去・来有りとは、理もまたこのようにはあらず。経部師の此の説を作すに非ず、すなわち過去の業は能く当果を生ず。しかし業は先の引く所の相続を為りて、転変・差別して当果を生ぜしむ。彼の我品の中に当に広く顕示すべし。もし実有の過去・未来を執せば、則ち一切の時に果の体は常有なり。業は彼の果に於いて何の功能か有らん。もし能生と謂わば、則ち生ずる所の果は本無くして今有り。その理は自ずから成ず。もし一切法は一切時に有れば、誰が誰に対して能生の功能有らん。また応に雨衆外道(数論)の党せる邪論を顕成すべし。彼は此の説を作して曰く、有は必ず常有、無は必ず常無。無は必ず生ぜず、有は必ず滅せず。もし能く果をして現在を成ぜしむと謂わば、如何にして果をして現在を成ぜしむるか。もし引きてその余の方所に至らしむと謂わば、則ち引く所の果はその体は応に常なるべし。また無色の法は当に如何にして引かん。また此の引く所は応に体は本無なるべし。もし但だ体に差別有らしむと謂わば、本無くして今有るの理は自ずから成ず。このゆえに此の説一切有部は、もし実有の過去・未来を説かば、聖教の中に於いて善説と為らず。

若欲善說一切有者,應如契經所說而說。經如何說?如契經言:梵志當知,一切有者,唯十二處或唯三世。如其所有而說有言。若去來無,如何可說有能所繫及離繫耶?彼所生因,隨眠有故,說有去來能繫煩惱。緣彼煩惱隨眠有故,說有去來所繫縛事。若隨眠斷,得離繫名。毘婆沙師作如是說:如現實有過去未來。所有於中不能通釋,諸自愛者應如是知,法性甚深非尋思境,豈不能釋便撥為無?有異門故此生此滅,謂色等生即色等滅。有異門故異生異滅,謂未來生現在世滅。有異門故即世名生,以正生時世所攝故。有異門故說世有生,未來世有多剎那故。傍論已了,今應思擇,諸事已斷彼離繫耶?設事離繫彼已斷耶?若事離繫彼必已斷,有事已斷而非離繫。斷非離繫其事云何?頌曰:

(論は続けて曰く:)もし善く一切有を説かんと欲せば、応に契経の説く所のごとくして説くべし。経は如何に説くか。契経に説くがごとく:梵志当に知るべし、一切有とは、ただ十二処或いはただ三世。其有る所のごとくにして有の言を説く。もし去・来無ければ、如何にして能繋・所繋および離繋有りと説くべきか。彼の生ずる所の因は、随眠有るがゆえに、去・来の能繋の煩悩有りと説く。彼の煩悩に縁ずる随眠有るがゆえに、去・来の繋縛する所の事有りと説く。もし随眠断ぜば、離繋の名を得。毘婆沙師は此の説を作して曰く、現の実有のごとく過去・未来あり。所有に於いて中に通釈すること能わざるは、諸の自愛の者は応に此のようの知るべし。法性は甚だ深くして尋思の境に非ず。豈に釈すること能わざれば便ち無と撥さんや。異門有るがゆえに此生じ此滅す。いわゆる色等の生ずるは即ち色等の滅す。異門有るがゆえに異に生じ異に滅す。いわゆる未来に生じ現在世に滅す。異門有るがゆえに即ち世を名づけて生と為す。正に生ずる時は世の摂する所なるを以て。異門有るがゆえに世を説いて生有りと為す。未来世に多くの刹那有るがゆえに。傍論は已に了り、今応に思択すべし。諸の事は已に断ぜれば彼は離繋か。設い事は離繋なれば彼は已に断ぜしや。もし事は離繋なれば彼は必ず已に断ぜり。事ありて已に断ぜりと雖も離繋にあらず。断じて離繋にあらざるはその事如何。頌に曰く、

於見苦已斷,餘遍行隨眠,

見苦に於いて已に断ぜるも、その余の遍行随眠は、

及前品已斷,餘緣此猶繫。

および前品の已に断ぜるに、その余の此に縁ずるはなお繋す。

論曰:且見道位苦智已生、集智未生,見苦所斷諸事已斷,見集所斷遍行隨眠若未永斷,能緣此者於此猶繫。及脩道位隨何道生?九品事中前品已斷,餘未斷品所有隨眠,能緣此者於此猶繫。斷非離繫,如是應知。何事有幾隨眠隨增?若隨事別答,便費多言論,是故應造略毘婆沙,由此雖勞少少功力,而能越渡大大問流。謂法雖多,略為十六種,即三界、五部及無漏法。能緣彼識名數亦然。但應了知何法何識境,易思何事何隨眠隨增。此中且應知,何法何識境?頌曰:

論に曰く:且つ見道の位に於いて苦智は已に生じ集智は未だ生ぜざれば、見苦の断ずる所の諸の事は已に断ぜり。見集の断ずる所の遍行随眠はもし未だ永断せざれば、此に縁ずるは此に於いてなお繋す。および修道の位に於いて何の道にか随って生ずや。九品の事の中、前品は已に断ぜり。其余の未だ断ぜざる品の所有の随眠は、此に縁ずるは此に於いてなお繋す。断じて離繋にあらざるは、此のように応に知るべし。何事に幾らの随眠か随増するか。もし事に随って別に答えば、便ち多くの言論を費やさん。このゆえに応に略毘婆沙を造るべし。此に由って少々の功力を労すと雖も、しかも能く大大の問流を越渡せん。いわゆる法は多しと雖も、略して十六種と為す。すなわち三界・五部および無漏法。彼に縁ずる能縁の識の名数もまた此のよう。但だ応に何の法か何の識の境かを了知して、何事に何の随眠か随増するかを思すれば易し。此の中に且つ応に知るべし、何の法か何の識の境か。頌に曰く、

見苦集脩斷,若欲界所繫,

見苦・集・修の断ずる、もし欲界の繋するは、

自界三色一,無漏識所行,

自界三・色一・無漏の識の行く所。

色自下各三,上一淨識境,

色は自・下各々三、上一・浄識の境。

無色通三界,各三淨識緣,

無色は三界に通じ、各々三・浄識の縁。

見滅道所斷,皆增自識行,

見滅・道の断ずる所は、皆自識の行を増す。

無漏三界中,後三淨識境。

無漏は三界の中、後の三・浄識の境。

論曰:若欲界繫見苦見集脩所斷法,各五識緣,謂自界三即如前說,及色界一即脩所斷,無漏第五,皆容緣故。若色界繫,即前所說三部諸法,各八識緣,謂自下三皆如前說,及上界一即脩所斷,無漏第八,皆容緣故。若無色繫,即前所說三部諸法,各十識緣,謂三界三皆如前說,無漏第十,皆容緣故。見滅見道所斷諸法,應知一一增自識緣。此復云何?謂欲界繫見滅所斷為六識緣,五即如前,增見滅斷。見道所斷為六識緣,五亦如前,增見道斷。色無色界見滅道斷,隨應為九十一識緣。若無漏法為十識緣,謂三界中各後三部,即見滅道脩所斷識,無漏第十,皆容緣故。為攝前義,復說頌言:

論に曰く:もし欲界繋の見苦・見集・修所断の法は、各々五識の縁。いわゆる自界の三はすなわち前の説くがごとく、および色界の一はすなわち修所断、無漏は第五。皆縁ずるを容るるがゆえに。もし色界繋なれば、すなわち前に説く所の三部の諸法は各々八識の縁。いわゆる自・下の三は皆前の説くがごとく、および上界の一はすなわち修所断、無漏は第八。皆縁ずるを容るるがゆえに。もし無色繋なれば、すなわち前に説く所の三部の諸法は各々十識の縁。いわゆる三界の三は皆前の説くがごとく、無漏は第十。皆縁ずるを容るるがゆえに。見滅・見道の断ずる所の諸法は、応に知るべし一一は自識の縁を増す。此れ復た如何。いわゆる欲界繋の見滅所断は六識の縁と為る。五はすなわち前のごとく、見滅断を増す。見道所断は六識の縁と為る。五もまた前のごとく、見道断を増す。色・無色界の見滅・道断は、その応ずるに随って九・十一識の縁と為る。もし無漏法は十識の縁と為る。いわゆる三界の中に各々後の三部、すなわち見滅・道・修の断ずる所の識、無漏は第十。皆縁ずるを容るるがゆえに。前の義を摂せんが為に、復た頌を説いて曰く:

見苦集脩斷,欲色無色繫,

見苦・集・修の断ずる、欲・色・無色の繋は、

應知如次第,五八十識緣。

応に知るべし次第のごとく、五・八・十の識縁。

見滅道所斷,各增自識緣,

見滅・道の断ずる所は、各々自識の縁を増し、

無漏法應知,能為十識境。

無漏法は応に知るべし、能く十識の境と為るを。

如是了知十六種法為十六識所緣境已,今應思何事何隨眠隨增。若別疏條恐文煩廣,故我於此略示方隅。且有問言:所繫事內樂根有幾隨眠隨增?應觀樂根總有七種,謂欲界一即脩所斷,色界五部,無漏第七。一切無漏非諸隨眠之所隨增,如前已說。此中前六隨其所應欲脩所斷及諸遍行色界一切隨眠隨增。若有問言:緣樂根識復有幾種隨眠隨增?應觀此識總有十二,謂欲界四除見滅斷,色界五部,無色界二即見道諦及脩所斷,無漏第十二,皆能緣樂根。此隨所應欲界四部,色界有為緣,無色界二部,及諸遍行隨眠隨增。若復有問言:緣緣樂根識復有幾種隨眠隨增?應觀此識總有十四,於前十二更加二種,即無色界見苦集斷。如是十四識能緣緣樂根,此隨所應欲色如上,無色四部隨眠隨增。准此方隅,餘應思擇。若心由彼名有隨眠,彼於此心定隨增不?此不決定,或有隨眠,謂與心相應,及緣心未斷相應已斷則不隨增。依此義門應作是說。頌曰:

(論は続けて曰く:)此のようの了知する十六種の法が十六識の縁ずる所の境たる已りて、今応に何事に何の随眠か随増するかを思すべし。もし別々に疏条すれば恐らく文は煩広ならん。ゆえに我は此に於いて略して方隅を示す。且つ問有りて説く、繋する所の事の内、楽根に幾らの随眠か随増するや。応に観ずべし、楽根は総じて七種あり。いわゆる欲界一はすなわち修所断、色界は五部、無漏は第七。一切の無漏は諸の随眠の随増する所にあらざるは、前に已に説けり。此の中の前の六はその応ずる所に随って欲の修所断および諸の遍行、色界の一切随眠の随増す。もし問有りて説かば、楽根に縁ずる識は復た幾種の随眠か随増するや。応に観ずべし、此の識は総じて十二あり。いわゆる欲界四は見滅断を除き、色界は五部、無色界二はすなわち道諦を見るおよび修所断、無漏は第十二。皆能く楽根に縁ず。此れその応ずる所に随って欲界四部、色界は有為縁、無色界二部、および諸の遍行随眠の随増す。もし復た問有りて説かば、楽根に縁ずる識に縁ずるは復た幾種の随眠か随増するや。応に観ずべし、此の識は総じて十四あり。前の十二に於いて更に二種を加う。すなわち無色界の見苦・集断。此のようの十四識は能く楽根に縁ずるに縁ず。此れその応ずる所に随って欲・色は上のごとく、無色の四部随眠の随増す。此の方隅に准じて、その余は応に思択すべし。もし心は彼に由って随眠有りと名づけば、彼は此の心に於いて定めて随増するか否か。此れ決定せず。或いは随眠有りて、いわゆる心と相応し、および心に縁じて未だ断ぜざるは、相応已に断ぜれば則ち随増せず。なお随眠有りと説く。恒に相応するを以て。もし無染なるは、ただ随増に局る。此に縁ずる随眠は必ず未だ永断せざるがゆえに。此れはただ随増に拠って随眠有りと名づくるがゆえに。上に説く所の十種の随眠の次第に生ずる時、誰が前で誰が後か。頌に曰く、

有隨眠心二,謂有染無染,

随眠する心有りて二。いわゆる有染・無染、

有染心通二,無染局隨增。

有染の心は二に通じ、無染は随増に局る。

論曰:有隨眠心總有二種,有染、無染心差別故。於中有染或有隨增,謂相應緣隨眠未斷,相應已斷則不隨增,仍說有隨眠,以恆相應故。若無染者,唯局隨增。緣此隨眠必未永斷,此唯據隨增名有隨眠故。如上所說十種隨眠次第生時,誰前誰後?頌曰:

論に曰く:随眠する心有りて総じて二種。有染・無染の心の差別あるがゆえに。その中に有染は或いは随増し、いわゆる相応・所縁の随眠は未だ断ぜざれば、相応は已に断ぜば則ち随増せず、なお随眠有りと説く。恒に相応するを以て。もし無染ならば、ただ随増に局る。此の随眠に縁ずるは必ず未だ永断せざれば、此れはただ随増に拠って随眠有りと名づくるがゆえに。上の説く所のごとき十種の随眠は次第に生ずる時、誰が前で誰が後か。頌に曰く:

無明疑邪身,邊見戒見取,

無明・疑・邪・身、辺見・戒・見取、

貪慢瞋如次,由前引後生。

貪・慢・瞋は次第のごとく、前に由って後を引き生ず。

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