Libo

アビダルマ倶舎論 巻第十三

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第18巻 / 38

論曰:欲界一切非色善法,捨由二緣:一斷善根、二生上界。三界一切非色染法捨由一緣,謂彼但由對治道起。若此品類能斷道生,當捨此中所有煩惱及彼助伴,非餘方便。善惡律儀何有情有?頌曰:

論に曰く:欲界の一切の非色の善法は、二縁に由りて捨つ:一に善根を断ず、二に上界に生ず。三界の一切の非色の染法は一縁に由りて捨つ、いわゆる彼は但だ対治の道の起るに由る。もし此の品類の能く断ずる道生ずれば、まさに此中の所有する煩悩および彼の助伴を捨つべく、余の方便に非ず。善悪の律儀は何の有情か有るか。頌に曰く:

惡戒人除北,二黃門二形,

悪戒は人にて北を除く、二の黄門・二形、

律儀亦在天,唯人具三種。

律儀はもまた天に在り、ただ人は三種を具す。

生欲天色界,有靜慮律儀,

欲天・色界に生ずるは、静慮律儀有り、

無漏並無色,除中定無想。

無漏は并びて無色、中定・無想を除く。

論曰:唯於人趣有不律儀,然除北洲唯三方有。於三洲內,復除扇搋及半擇迦具二形者。律儀亦爾,謂於人中除前所除,並天亦有,故於二趣容有律儀。復以何緣知扇搋等所有相續非律儀依?由經律中有誠證故。謂契經說,佛告大名:諸有在家白衣男子男根成就,歸佛法僧起殷淨心發誠諦語,自稱我是鄔波索迦,願尊憶持慈悲護念。齊是名曰鄔波索迦。毘奈耶中亦作是說:汝應除棄此色類人。故知律儀非彼類有。復由何理彼無律儀?由二所依所起煩惱,於一相續俱增上故、於正思擇無堪能故、無有極重慚愧心故。若爾,何故無不律儀?彼於惡中心不定故。又若是處有善律儀,則惡律儀於彼亦有,由此二種相翻立故。北俱盧人無受及定,及無造惡勝阿世耶,是故彼無善戒惡戒。猛利慚愧惡趣中無,故律不律儀於彼亦非有。與勝慚愧相應相違,方有律儀不律儀故。又扇搋等如醎鹵田,故不能生善戒惡戒。世間現見諸醎鹵田,不能滋生嘉苗穢草。若爾,何故契經中言有卵生龍,半月八日每從宮出來至人間,求受八支近住齋戒。此得妙行,非得律儀。是故律儀唯人天有,然唯人具三種律儀,謂別解脫、靜慮、無漏。若生欲天及生色界,皆容得有靜慮律儀,生無色界彼必非有,無漏律儀亦在無色。謂若生在欲界天中及生色界中,除中定無想,皆容得有無漏律儀。生無色中唯得成就,以無色故必不現起。因辯諸業性相不同,當釋經中所摽諸業。且經中說業有三種,善、惡、無記。其相云何?頌曰:

論に曰く:ただ人趣に不律儀有り、しかるに北洲を除きてただ三方に有り。三洲内において、復た扇搋(黄門)および半択迦(不能男)の二形を具するを除く。律儀もまたこの如し、人中において前の除く所を除きて、并びて天にもまた有り、ゆえに二趣において律儀有るを容れん。復た何の縁を以て扇搋等の所有する相续は律儀の依に非ずと知るか。経律中に誠証有るに由るゆえ。契経の説くを謂い、仏は大名に告げたまわく:諸の在家の白衣の男子にして男根を成就する有りて、仏・法・僧に帰し殷浄の心を起して誠諦の語を発し、自ら称して我は是れ鄔波索迦なり、願わくは尊は憶持して慈悲に護念したまえ、是に齊きて名づけて鄔波索迦と曰う。毘奈耶中にも是の説を作す:汝はまさに此の色類の人を除棄すべし。ゆえに律儀は彼の類に有るに非ずと知る。復た何の理に由りて彼は律儀無きか。二の依る所の起す所の煩悩は、一の相续において倶に増上なるゆえ、正しく思択するに堪能無きゆえ、極重の慚愧の心有る無きゆえ。もし爾ならば、何の故に不律儀無きか。彼は悪中において心は定まらざるゆえ。またもし是の処に善の律儀有らば、則ち悪の律儀は彼においてもまた有り、此の二種は相い翻して立つるに由るゆえ。北倶盧人は受および定無く、および悪を造る勝の阿世耶無し、是れを以て彼に善戒・悪戒無し。猛利の慚愧は悪趣中に無し、ゆえに律・不律儀は彼においてもまた有るに非ず。勝の慚愧と相応し相違して、方に律儀・不律儀有るゆえ。また扇搋等は鹹鹵の田の如し、ゆえに能く善戒・悪戒を生ぜず。世間は現に諸の鹹鹵の田を見るに、能く嘉苗・穢草を滋生せず。もし爾ならば、何の故に契経中に卵生の龍有りて、半月の八日ごとに宮より出でて人間に至り、八支の近住斎戒を受けんと求むと説くか。此は妙行を得、律儀を得るに非ず。是れを以て律儀はただ人・天に有り、しかるにただ人は三種の律儀を具す、別解脱・静慮・無漏を謂う。もし欲天に生じおよび色界に生ずれば、皆静慮律儀有るを容るるを得、無色界に生ずれば彼は必ず有るに非ず、無漏律儀もまた無色に在り。いわゆるもし欲界天中に生じおよび色界中に生ずるに、中定・無想を除きて、皆無漏律儀有るを容るるを得。無色中に生ずればただ成就を得、無色なるを以て必ず現起せず。因りて諸業の性相の同じからざるを弁じて、まさに経中の標す所の諸業を釋すべし。且つ経中に業に三種有りと説く、善・悪・無記。その相は如何。頌に曰く:

安不安非業,名善惡無記。

安・不安・非業を、善・悪・無記と名づく。

論曰:如是名為善等業相,謂安隱業說名為善,能得可愛異熟涅槃,暫永二時濟眾苦故。不安隱業名為不善,由此能招非愛異熟,與前安隱性相違故。非前二業立無記名,不可記為善不善故。又經中說:業有三種,福非福等。其相云何?頌曰:

論に曰く:かくのごときを善等の業相と名づく、いわゆる安隱の業は善と説き名づく、能く可愛の異熟・涅槃を得、暫・永の二時に衆苦を済ずるゆえ。不安隱の業は不善と名づく、此に由りて能く愛に非ざる異熟を招き、前の安隱の性と相違するゆえ。前の二業に非ざるを無記の名を立つ、善・不善と記すべからざるゆえ。また経中に説く:業に三種有り、福・非福等。その相は如何。頌に曰く:

福非福不動,欲善業名福,

福・非福・不動、欲界の善業を福と名づく、

不善名非福,上界善不動,

不善を非福と名づく、上界の善は不動、

約自地處所,業果無動故。

自地の処所に約る、業果は動無きゆえ。

論曰:欲界善業說名為福,招可愛果益有情故。諸不善業說名非福,招非愛果損有情故。上二界善說名不動。豈不世尊說下三定皆名有動?聖說此中有尋伺等名為動故。由下三定有尋伺等,災患未息故立動名;不動經中據能感得不動異熟說名不動。如何有動定招無動異熟?雖此定中有災患動,而業對果非如欲界有動轉故,立不動名。謂欲界中餘趣處業,由別緣力異趣處受。以或有業能感外內財位形量色力樂等,於天等中此業應熟;由別緣力所引轉故,於人等中此業便熟。色無色界餘地處業,無容轉令異地處受,業果處定立不動名。又經中說:業有三種,順樂受等。其相云何?頌曰:

論に曰く:欲界の善業は福と説き名づく、可愛の果を招きて有情を益するゆえ。諸の不善業は非福と説き名づく、愛に非ざる果を招きて有情を損ずるゆえ。上の二界の善は不動と説き名づく。豈に世尊は下の三定は皆動有りと名づくと説かざりしや。聖は此中に尋伺等有りて動と名づくと説くゆえ。下の三定に尋伺等有りて、灾患は未だ息まざるゆえに動の名を立つ;不動の経中は能く不動の異熟を感得するに拠りて不動と説き名づく。如何にして動有る定は無動の異熟を招くか。此の定中に灾患の動有ると雖も、而も業は果に対して欲界の如く動転有るに非ざるゆえに、不動の名を立つ。いわゆる欲界中の余の趣処の業は、別縁の力に由りて異なる趣処に受く。あるいは業有りて能く外内の財位・形量・色力・楽等を感ずるを以て、天等中において此の業はまさに熟すべし;別縁の力の引転する所に由りて、人等中において此の業は便ち熟す。色・無色界の余の地処の業は、転じて異なる地処に受けしむるを容れず、業果の処は定まりて不動の名を立つ。また経中に説く:業に三種有り、順楽受等。その相は如何。頌に曰く:

順樂苦非二,善至三順樂,

順楽・苦・非二、善は三に至りて順楽、

諸不善順苦,上善順非二,

諸の不善は順苦、上の善は順非二、

餘說下亦有,由中招異熟。

余は説きて下もまた有り、中に由りて異熟を招くゆえ。

又許此三業,非前後熟故,

また此の三業を許す、前後に熟するに非ざるゆえ、

順受總有五,謂自性相應,

順受は総じて五有り、自性・相応を謂い、

及所緣異熟,現前差別故。

および所縁・異熟、現前の差別なるゆえ。

論曰:諸善業中始從欲界至第三靜慮名順樂受業,以諸樂受唯至此故。諸不善業名順苦受。過三靜慮上地諸善業,說名為順不苦不樂受,此上都無苦樂受故。非此諸業唯感受果,應知亦感彼受資糧,受及資糧此中名受。有餘師說:下諸地中亦有第三順非二業,由中定業招異熟故。若異此者,中間定業應無異熟;或應無業,以無苦樂異熟果故。有餘師說:此業能感根本地中樂根異熟。有說:此業不感受果。二說俱與本論相違。故本論言:頗有業感心受異熟非身耶?曰:有,謂善無尋業。又本論說:頗有三業非前非後受異熟耶?曰:有,謂順樂受業色,順苦受業心心所法,順不苦不樂受業心不相應行,乃至廣說。由此證知,下地亦有順非二業,非離欲界有此三業俱時熟故。此業為善、為不善耶?是善而劣。若爾,便與所說相違,謂善至三名順樂受,得可愛果名為善業。應知彼據多分為言。此業與受體性既殊,如何說為順樂受等?業與樂受體性雖殊,而能為因利益樂受。或復此業是樂所受。彼樂如何能受於業?樂是此業異熟果故。或復彼樂是業所受,由此能受樂異熟故。如順浴散,此亦應然。是故名為順樂受業。順餘二業,應知亦爾。總說順受略有五種:一自性順受,謂一切受,如契經說:受樂受時如實了知受於樂受,乃至廣說。二相應順受,謂一切觸,如契經說:順樂受觸,乃至廣說。三所緣順受,謂一切境,如契經說:眼見色已,唯受於色不受色貪,乃至廣說,由色等是受所緣故。四異熟順受,謂感異熟業,如契經說:順現受業,乃至廣說。五現前順受,謂正現行受,如契經言:受樂受時二受便滅,乃至廣說。非此樂受現在前時有餘受能受此樂受,但據樂受自體現前即說名為受於樂受。此中但說異熟順受,由業能招受異熟故。雖業與受體性有殊,而得名為順樂受等。如是三業有定不定,其相云何?頌曰:

論に曰く:諸の善業中に始めて欲界より第三静慮に至るを順楽受業と名づく、諸の楽受はただ此に至るを以て。諸の不善業は順苦受と名づく。三静慮を過ぎたる上地の諸の善業は、説きて順不苦不楽受と名づく、此の上は都て苦楽の受無きゆえ。此の諸業はただ受の果を感ずるに非ず、まさに知るべしもまた彼の受の資糧を感ず、受および資糧は此中に受と名づく。ある余師の説に:下の諸地中にもまた第三の順非二業有り、中定の業は異熟を招くに由る、と。もし此に異なれば、中間の定業はまさに異熟無かるべし、あるいはまさに業無かるべし、苦楽の異熟の果無きを以て。ある余師の説に:此の業は能く根本地中の楽根の異熟を感ず、と。ある説に:此の業は受の果を感ぜず。二の説は倶に本論と相違す。ゆえに本論に説く:頗ろ業有りて心の受の異熟を感じて身に非ざるや。曰く、有り、いわゆる善の尋無き業、と。また本論に説く:頗ろ三業有りて前に非ず後に非ずして異熟を受くるや。曰く、有り、いわゆる順楽受の業は色、順苦受の業は心・心所法、順不苦不楽受の業は心不相応の行、乃至広説す、と。此の証に由りて知る、下地にもまた順非二業有り、欲界を離れて此の三業倶時に熟する有るに非ざるゆえ。此の業は是れ善か、是れ不善か。是れ善にして劣なり。もし爾ならば、便ち説く所と相違せん、いわゆる善は三に至りて順楽受と名づき、可愛の果を得て善業と名づく。まさに知るべし彼は多分に拠りて言と為す。此の業は受と体性は既に殊なり、如何にして順楽受等と説き為すか。業は楽の受と体性は殊なりと雖も、而も能く因と為りて楽受を利益す。あるいは復た此の業は是れ楽の受ける所。彼の楽は如何にして能く業を受くるか。楽は是れ此の業の異熟の果なるゆえ。あるいは復た彼の楽は是れ業の受ける所、此に由りて能く楽の異熟を受くるゆえ。順浴散の如く、此もまたまさにこの如くあるべし。是れを以て順楽受業と名づく。余の二業に順ずるも、まさに知るべきこともまたこの如し。総じて順受を説きて略して五種有り:一に自性の順受、一切の受を謂う、契経の説くが如く:楽受を受くる時に実の如く楽受を受くるを了知す、乃至広説す。二に相応の順受、一切の触を謂う、契経の説くが如く:楽受に順ずる触、乃至広説す。三に所縁の順受、一切の境を謂う、契経の説くが如く:眼は色を見已りて、ただ色を受けて色の貪を受けず、乃至広説す、色等は是れ受の縁ずる所なるに由るゆえ。四に異熟の順受、異熟を感ずる業を謂う、契経の説くが如く:現に受くるに順ずる業、乃至広説す。五に現前の順受、正に現行する受を謂う、契経の説くが如く:楽受を受くる時に二受は便ち滅す、乃至広説す。此の楽受は現在前する時に余の受有りて能く此の楽受を受くるに非ず、但だ楽受の自体の現前するに拠りて即ち楽受を受くと説き名づく。此中は但だ異熟の順受を説く、業は能く受の異熟を招くに由るゆえ。業と受とは体性に殊有ると雖も、而も順楽受等と名づくるを得。かくのごとき三業に定・不定有り、その相は如何。頌に曰く:

此有定不定,定三順現等,

此に定・不定有り、定は三に順現等、

或說業有五,餘師說四句。

あるいは業に五有りと説く、余師は四句を説く。

論曰:此上所說順樂受等,應知各有定不定異,非定受故立不定名。定復有三:一順現法受、二順次生受、三順後次受。此三定業並前不定總成四種。或有欲令不定受業復有二種,謂於異熟有定不定,並定業三合成五種順現法受者,謂此生造即此生熟。順次生受者,謂此生造第二生熟。順後次受者,謂此生造從第三生後次第熟。有餘師說:順現法受業,餘生亦得熟。隨初熟位建立業名為順現等,勿強力業異熟果少。毘婆沙師不許此義,以或有業果近非勝或有相違。譬如外種經三半月葵便結實,要經六月麥方結實。譬喻者說業有四句:一者有業於時分定、異熟不定,謂順現等三非定得異熟。二者有業於異熟定、時分不定,謂不定業定得異熟。三者有業於二俱定,謂順現等定得異熟。四者有業於二俱不定,謂不定業非定得異熟。彼說諸業總成八種,謂順現受有定不定,乃至不定亦有二種。於此所說業差別中,頌曰:

論に曰く:此の上に説く所の順楽受等は、まさに知るべし各々定・不定の異有り、定めて受くるに非ざるゆえに不定の名を立つ。定は復た三有り:一に順現法受、二に順次生受、三に順後次受。此の三の定業は并せて前の不定は総じて四種を成す。あるいは不定受業に復た二種有らしめんと欲す有り、いわゆる異熟において定・不定有り、并せて定業の三は合して五種を成す。順現法受とは、此の生に造りて即ち此の生に熟すを謂う。順次生受とは、此の生に造りて第二生に熟すを謂う。順後次受とは、此の生に造りて第三生より後に次第に熟すを謂う。ある余師の説に:順現法受の業は、余の生にもまた熟するを得、と。初の熟の位に随いて業名を建立して順現等と為し、強力の業は異熟の果少なからざるを勿れ。毘婆沙師は此の義を許さず、あるいは業果は近くして勝に非ずあるいは相違する有るを以て。譬えば外種は三半月を経て葵は便ち実を結び、要して六月を経て麦は方に実を結ぶが如し。譬喩者は業に四句有りと説く:一には業有りて時分において定まりて異熟は定まらず、いわゆる順現等の三は定めて異熟を得るに非ず。二には業有りて異熟において定まりて時分は定まらず、いわゆる不定業は定めて異熟を得。三には業有りて二において倶に定まる、いわゆる順現等は定めて異熟を得。四には業有りて二において倶に定まらず、いわゆる不定業は定めて異熟を得るに非ず。彼は諸業は総じて八種を成すと説く、いわゆる順現受に定・不定有り、乃至不定にもまた二種有り。此の説く所の業の差別中において、頌に曰く:

四善容俱作,引同分唯三,

四善は倶作を容れ、同分を引くはただ三、

諸處造四種,地獄善除現。

諸の処は四種を造る、地獄の善は現を除く。

堅於離染地,異生不造生,

堅は離染の地において、異生は生を造らず、

聖不造生後,並欲有頂退。

聖は生・後を造らず、并びて欲・有頂の退。

論曰:順現法受等三業,唯定並不定為四。是說為善,此中唯顯時定不定,釋經所說四業相故。頗有四業俱時作耶?容有。云何?遣三使已,自行邪欲俱時究竟。幾業能引眾同分耶?能引唯三,除順現受,現身同分先業引故。何界何趣能造幾業?諸界諸趣或善或惡,隨其所應皆容造四。總開如是,若就別遮,於地獄中善除順現,無愛果故,餘皆得造。不退姓名堅,彼於離染地。若異生類,除順生受可造餘三。聖者雙除順生順後,可造餘二。異生不退,無次更生後還生下,不退聖者必無還生下諸地故。隨所生地容造順現受,造不定業一切處無遮。然諸聖者若於欲界及有頂處已得離染,雖有退墮而亦不造順生後業,從彼退者必退果故。諸退果已必不命終,如後當辯。住中有位亦造業耶?亦造。云何?頌曰:

論に曰く:順現法受等の三業は、ただ定は并せて不定は四と為す。是れ善と為すを説き、此中はただ時の定・不定を顕して、経の説く所の四業の相を釋するゆえ。頗ろ四業は倶時に作るや。容れて有り。如何。三の使を遣わし已りて、自ら邪欲を行じて倶時に究竟す。几つの業か能く衆同分を引くか。能く引くはただ三、順現受を除く、現の身の同分は先の業の引く所なるゆえ。何の界の何の趣か能く几つの業を造るか。諸の界・諸の趣はあるいは善あるいは悪、その該ずる所に随い皆四を造るを容る。総じてかくのごときを開きて、もし別に遮るに就けば、地獄中において善は順現を除く、愛の果無きゆえ、余は皆造るを得。退さざるは堅と姓名づく、彼は離染の地において。もし異生の類は、順生受を除きて余の三を造るべし。聖者は双び順生・順後を除きて、余の二を造るべし。異生は退せざるは、次に更に生じて後に還りて下に生ずる無し、不退の聖者は必ず還りて下の諸地に生ずる無きゆえ。生ずる所の地に随いて順現受を造るを容れ、不定業を造るは一切の処に遮る無し。しかるに諸の聖者はもし欲界および有頂の処において已に離染を得たれば、退堕有ると雖も而も順生・後の業を造らず、彼より退するは必ず果を退するゆえ。諸の果を退じ已りては必ず命終せず、後にまさに弁ずべきが如し。中有の位に住してもまた業を造るか。もまた造る。如何。頌に曰く:

欲中有能造,二十二種業,

欲の中有は能く造る、二十二種の業、

皆順現受攝,類同分一故。

皆順現受の摂、類・同分は一なるゆえ。

論曰:於欲界中住中有位,容有能造二十二業。謂中有位及處胎中、出胎以後各有五位。胎中五者:一羯剌藍、二頞部曇、三閉屍、四鍵南、五缽羅奢佉。胎外五者:一嬰孩、二童子、三少年、四中年、五老年。住中有位能造中有乃至老年定不定業。應知如是中有所造十一種定業,皆順現受攝,由類同分無差別故。謂此中有位與自類十位,一眾同分一業引故。由此不別說順中有受業,即順生等業所引故。諸定受業其相云何?頌曰:

論に曰く:欲界中において中有の位に住して、能く二十二の業を造るを容れて有り。いわゆる中有の位および胎中に処して、胎を出でたる已後に各々五位有り。胎中の五とは:一に羯剌藍、二に頞部曇(疱)、三に閉尸(軟肉)、四に鍵南(堅肉)、五に鉢羅奢佉(支節)。胎外の五とは:一に嬰孩、二に童子、三に少年、四に中年、五に老年。中有の位に住して能く中有乃至老年の定・不定の業を造る。まさに知るべし、かくのごとき中有の造る所の十一種の定業は、皆順現受の摂、類・同分は差別無きに由るゆえ。いわゆる此の中有の位は自類の十位と、一の衆同分は一業の引く所なるゆえ。此に由りて別に順中有受の業を説かず、即ち順生等の業の引く所なるゆえ。諸の定受業はその相は如何。頌に曰く:

由重惑淨心,及是恆所造,

重惑・浄心に由り、および是れ恒の造る所、

於功德田起,害父母業定。

功徳の田において起し、父母を害する業は定。

論曰:若所造業,由重煩惱、或淳淨心、或常所作、或於增上功德田起。功德田者,謂佛法僧,或勝補特伽羅,謂得勝果勝定。於此田所,雖無重惑及淳淨心亦非常行,若善不善所起諸業,或於父母隨輕重心行損害事,如是一切皆定業攝,餘非定受。現法果業其相云何?頌曰:

論に曰く:もし造る所の業は、重き煩悩に由り、あるいは淳浄の心に由り、あるいは常の作する所、あるいは増上の功徳田において起る。功徳田とは、仏・法・僧を謂い、あるいは勝れる補特伽羅、いわゆる勝果・勝定を得たる。此の田の所において、重惑および淳浄の心無しと雖ももまた常行に非ざるとも、もし善・不善の起す所の諸の業、あるいは父母において軽重の心に随い損害の事を行ずれば、かくのごとき一切は皆定業の摂、余は定受に非ず。現法の果の業はその相は如何。頌に曰く:

由田意殊勝,及定招異熟,

田・意の殊勝に由り、および定めて異熟を招く、

得永離地業,定招現法果。

永く地を離るる業を得るは、定めて現法の果を招く。

論曰:由田勝者,聞有苾芻於僧眾中作女人語,彼於現世轉作女人。此等傳聞其類非一。由意勝者,聞有黃門救脫諸牛黃門事故,彼於現世轉作丈夫。此等傳聞事亦非一。或生此地永離此地染,於此地中諸善不善業。於異熟定位不定者,此業必能招現法果。若有餘位順定受業,彼必定無永離染義,必於餘位受異熟果。若於異熟亦不定者,永離染故不受異熟。何田起業定即受耶?頌曰:

論に曰く:田の勝に由るは、聞く苾芻有りて僧衆中において女人の語を作せば、彼は現世において転じて女人と作りき、此等の伝聞はその類は一に非ず。意の勝に由るは、聞く黄門有りて諸の牛の黄門の事を救脱するゆえ、彼は現世において転じて丈夫と作りき、此等の伝聞の事もまた一に非ず。あるいは此の地に生じて永く此地の染を離れ、此の地中の諸の善・不善業は、異熟の定において位の定まらざれば、此の業は必ず能く現法の果を招く。もし余の位の順定受業有らば、彼は必ず定めて永く染を離るるの義無く、必ず余の位において異熟の果を受く。もし異熟においてもまた定まらざれば、永く染を離るるゆえに異熟を受けず。何の田に於て起る業は定めて即ち受くるか。頌に曰く:

於佛上首僧,及滅定無諍,

仏・上首の僧において、および滅定・無諍、

慈見修道出,損益業即受。

慈・見・修道より出づるは、損益の業は即ち受く。

論曰:於如是類功德田中,為善惡業定即受果。功德田者,謂佛上首僧。約補特伽羅差別有五:一從滅定出,謂此定中得心寂靜,此定寂靜似涅槃故。若從此定初起心時,如入涅槃還復出者。二從無諍出,謂此定中有緣無量有情為境,增上利益意樂隨逐。出此定時,有為無量最勝功德所燻修身相續而轉。三從慈定出,謂此定中有緣無量有情為境,增上安樂意樂隨逐。出此定時,有為無量最勝功德所燻修身相續而轉。四從見道出,謂此道中永斷一切見所斷惑得勝轉依,從此出時淨身續起。五從修道出,謂此道中永斷一切修所斷惑得勝轉依,從此出時淨身續起。故說此五名功德田。若有於中為損益業,此業必定能招即果。若從餘定餘果出時,由前所修定非殊勝,修所斷惑未畢竟盡,故彼相續非勝福田。異熟果中受最為勝,今應思擇,於諸業中頗有唯招心受異熟,或招身受非心受耶?亦有。云何?頌曰:

論に曰く:かくのごとき類の功徳田中において、善悪の業を為せば定めて即ち果を受く。功徳田とは、仏・上首の僧を謂う。補特伽羅の差別に約りて五有り:一に滅定より出づ、いわゆる此の定中は心の寂静を得、此の定は寂静にして涅槃に似たるゆえ。もし此の定より初めて心を起す時は、涅槃に入りて還りて復た出づるが如し。二に無諍より出づ、いわゆる此の定中は無量の有情を縁じて境と為す有り、増上の利益の意楽は随逐す。此の定を出づる時に、無量の最勝の功徳の熏修せる所為の身の相续有りて転ず。三に慈定より出づ、いわゆる此の定中は無量の有情を縁じて境と為す有り、増上の安楽の意楽は随逐す。此の定を出づる時に、無量の最勝の功徳の熏修せる所為の身の相续有りて転ず。四に見道より出づ、いわゆる此の道中は永く一切の見の断ずる所の惑を断じて勝の転依を得、此より出づる時に浄き身は続きて起る。五に修道より出づ、いわゆる此の道中は永く一切の修の断ずる所の惑を断じて勝の転依を得、此より出づる時に浄き身は続きて起る。ゆえに此の五を説きて功徳田と名づく。もし其の中において損益の業を為す有らば、此の業は必定に能く即ち果を招く。もし余の定・余の果より出づる時は、前の修する所の定は殊勝に非ず、修の断ずる所の惑は未だ畢竟に盡きざるに由りて、ゆえに彼の相续は勝の福田に非ず。異熟の果中において受は最も勝を為す、今まさに思択すべし、諸業中に於て頗ろただ心受の異熟を招き、あるいは身受を招きて心受に非ざる有るや。もまた有り。如何。頌に曰く:

諸善無尋業,許唯感心受,

諸の善の尋無き業は、ただ心受を感ずと許す、

惡唯感身受,是感受業異。

悪はただ身受を感ず、是れ感受の業の異。

論曰:善無尋業,謂從中定乃至有頂所有善業,於中能招受異熟者,應知但感心受非身,身受必與尋伺俱故。諸不善業能感受者,應知但感身受非心,以不善因苦受為果,心俱苦受。決定名憂,憂非異熟,如前已辯。有情心狂,何識因處?頌曰:

論に曰く:善の尋無き業とは、中定より乃至有頂に至る所有する善業を謂い、其の中に於て能く受の異熟を招くは、まさに知るべし但だ心受を感じて身に非ず、身受は必ず尋伺と倶なるゆえ。諸の不善業の能く受を感ずるは、まさに知るべし但だ身受を感じて心に非ず、不善は因として苦受を以て果と為すを以て、心倶の苦受は、決定して憂と名づく、憂は異熟に非ず、前に已に弁ぜしが如し。有情の心の狂れるは、何の識の因処か。頌に曰く:

心狂唯意識,由業異熟生,

心狂はただ意識、業の異熟生に由り、

及怖害違憂,除北洲在欲。

および怖・害・違・憂、北洲を除きて欲に在り。

論曰:有情心狂唯在意識,若在五識必無心狂,以五識身無分別故。由五因故有情心狂:一由有情業異熟起,謂由彼用藥物呪術令他心狂,或復令他飲非所欲若毒若酒,或現威嚴怖禽獸等,或放猛火焚燒山澤,或作坑穽陷墜眾生,或餘事業令他失念,由此業因,於當來世感別異熟能令心狂。二由驚怖,謂非人等現可怖形來相逼迫,有情見已遂致心狂。三由傷害,謂因事業惱非人等,由彼瞋故傷其支節遂致心狂。四由乖違,謂由身內風熱痰界互相違反,大種乖適故致心狂。五由愁憂,謂因喪失親愛等事,愁毒纏懷心遂發狂,如婆私等。若在意識方有心狂,復許心狂業異熟起,如何心受非異熟耶?不說心狂是業異熟,但言是業異熟所生。謂惡業因感不平等異熟大種,依此大種心便失念,故說為狂。如是心狂對於心亂應作四句,謂有心狂而非心亂,乃至廣說。狂非亂者,謂諸狂者不染汙心。亂非狂者,謂不狂者諸染汙心。狂亦亂者,謂諸狂者諸染汙心。非狂亂者,謂不狂者不染汙心。除北俱盧,所餘欲界諸有情類容有心狂。謂欲天心尚有狂者,況人惡趣得離心狂?地獄恆狂,多苦逼故。謂諸地獄恆為種種異類苦具傷害末摩猛利難忍,苦受所逼尚不自識,況了是非。故地獄中怨心傷歎,猖狂馳叫世傳有文。欲界聖中唯除諸佛,大種乖適容有心狂,無異熟生。若有定業,必應先受後方得聖。若非定業,由得聖故,能令無果亦無驚怖,超五畏故。亦無傷害,以諸聖者無非人等憎嫌事故,亦無愁憂證法性故。又經中說:業有三種,謂曲、穢、濁。其相云何?頌曰:

論に曰く:有情の心狂はただ意識に在り、もし五識に在らば必ず心狂無し、五識身は分別無きを以て。五因に由るゆえに有情は心狂す:一に有情の業の異熟の起るに由る、いわゆる彼は薬物・呪術を用いて他をして心狂せしめ、あるいは復た他をして欲せざる所・もし毒もし酒を飲ましめ、あるいは威厳を現じて禽獣等を怖がらしめ、あるいは猛火を放ちて山沢を焚焼し、あるいは坑穽を作りて衆生を陥墜せしめ、あるいは余の事業は他をして念を失わしむ、此の業因に由りて、当来の世において別の異熟を感じて能く心をして狂せしむ。二に驚怖に由る、いわゆる非人等は可怖の形を現じて来りて相い逼迫す、有情は見已りて遂に心狂に致す。三に傷害に由る、いわゆる事業に因りて非人等を悩まし、彼の瞋に由るゆえにその支節を傷りて遂に心狂に致す。四に乖違に由る、いわゆる身内の風・熱・痰の界は互いに相違反し、大種の乖適するゆえに心狂に致す。五に愁憂に由る、いわゆる親愛等の事を喪失するに因りて、愁毒は懐を纏いて心は遂に狂を発す、婆私(仙人)等の如し。もし意識に在りて方に心狂有れば、復た心狂は業の異熟の起るを許す、如何にして心受は異熟に非ざるか。心狂は是れ業の異熟と説かず、但だ是れ業の異熟の生ずる所と言う。いわゆる悪業の因は不平等の異熟の大種を感じ、此の大種に依りて心は便ち念を失う、ゆえに狂と説き為す。かくのごとき心狂は心乱に対してまさに四句を作すべし、いわゆる心狂有りて心乱に非ず、乃至広説す。狂にして乱に非ざるは、諸の狂者の染污せざる心を謂う。乱にして狂に非ざるは、狂ならざる者の諸の染污の心を謂う。狂にしてもまた乱なるは、諸の狂者の諸の染污の心を謂う。狂乱に非ざるは、狂ならざる者の染污せざる心を謂う。北倶盧を除きて、余の欲界の諸の有情の類は心狂有るを容る。いわゆる欲天の心は尚お狂有り、況んや人・悪趣は心狂を離るるを得んや。地獄は恒に狂し、多くの苦は逼めるゆえ。いわゆる諸の地獄は恒に種種の異類の苦具の末摩を傷害する所為、猛利にして忍び難く、苦受の逼める所は尚お自ら識らず、況んや是非を了せんや。ゆえに地獄中は怨心を傷嘆し、猖狂にして馳叫して世に文有りと伝う。欲界の聖中はただ諸仏を除きて、大種の乖適は心狂有るを容れ、異熟生無し。もし定業有れば、必ずまさに先に受けて後に方に聖を得。もし定業に非ざれば、聖を得るに由るゆえに、能く果無からしめてもまた驚怖無し、五畏を超ゆるゆえ。もまた傷害無し、諸の聖者は非人等の憎嫌する事無きを以て、もまた愁憂無く証発の性なるゆえ。また経中に説く:業に三種有り、曲・穢・濁を謂う。その相は如何。頌に曰く:

說曲穢濁業,依諂瞋貪生。

曲・穢・濁の業を説く、諂・瞋・貪より生ずるに依る。

論曰:身語意三各有三種,謂曲、穢、濁。如其次第,應知依諂、瞋、貪所生。謂依諂生身語意業名為曲業,諂曲類故。若依瞋生身語意業名為穢業,瞋穢類故。若依貪生身語意業名為濁業,貪濁類故。

論に曰く:身・語・意の三は各々三種有り、曲・穢・濁を謂う。その次第の如く、まさに知るべし諂・瞋・貪の生ずる所に依る。いわゆる諂より生ずる身・語・意業に依りて曲業と名づく、諂曲の類なるゆえ。もし瞋より生ずる身・語・意業に依りて穢業と名づく、瞋穢の類なるゆえ。もし貪より生ずる身・語・意業に依りて濁業と名づく、貪濁の類なるゆえ。

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