Libo

アビダルマ倶舎論 巻第一

唐 · 世亲造,玄奘译 · 第3巻 / 38

觸界中有二,餘九色所造,

触界中に二あり、其余の九色は所造、

法一分亦然,十色可積集。

法の一分もまたしかり、十色は可積集。

論曰:觸界通二,謂大種及所造。大種有四,謂堅性等。所造有七,謂滑性等,依大種生故名所造。餘九色界唯是所造,謂五色根、色等四境。法界一分無表業色亦唯所造。餘七心界法界一分,除無表色俱非二種。尊者覺天作如是說:十種色處唯大種性。彼說不然,契經唯說堅等四相為大種故。此四大種唯觸攝故,非堅濕等眼等所取,非色聲等身根所覺,是故彼說理定不然。又契經說:苾芻當知,眼謂內處四大種所造淨色,有色無見有對,乃至身處廣說亦爾。苾芻當知,色謂外處四大種所造,有色有見有對。聲謂外處四大種所造,有色無見有對。香味二處,廣說亦爾。觸謂外處,是四大種及四大種所造,有色無見有對。如是經中唯說觸處攝四大種,分明顯示餘有色處皆非大種。若爾,何故契經中言謂於眼肉團中若內各別堅性堅類,乃至廣說。彼說不離眼根肉團有堅性等,無相違過。《入胎經》中唯說六界為士夫者,為顯能成士夫本事,非唯爾所,彼經復說六觸處故。又諸心所應非有故,亦不應執心所即心,以契經言想受等心所法依止心故。又亦說有貪心等故。由此如前所說諸界大種所造,差別義成。如是已說大種性等。十八界中,五根、五境十有色界是可積集,極微聚故。義準餘八非可積集,非極微故。如是已說可積集等。十八界中,幾能斫、幾所斫?幾能燒、幾所燒?幾能稱、幾所稱?頌曰:

論に曰く:触界は二に通ず、いわゆる大種および所造。大種に四あり、いわゆる堅性等。所造に七あり、いわゆる滑性等、大種に依りて生ずるゆえに所造と名づく。其余の九色界はただ所造、いわゆる五色根・色等の四境。法界一分の無表業色もまたただ所造。其余の七心界・法界一分は、無表色を除き皆二種に非ず。尊者覚天(ブッダデーヴァ)はかく説く:十種の色処はただ大種性、と。彼らの説は然らず、契経はただ堅等の四相を大種と説くゆえ。この四大種はただ触の所摂なるゆえ、堅・湿等は眼等の取る所に非ず、色・声等は身根の覚ずる所に非ず。ゆえに彼らの説は理に定めて然らず。また契経に説く:比丘よ、眼とはいわゆる内処、四大種所造の浄色、有色・無見・有対、乃至身処も広説かくの如しと知るべし。比丘よ、色とはいわゆる外処、四大種所造、有色・有見・有対。声はいわゆる外処、四大種所造、有色・無見・有対。香・味の二処も広説かくの如し。触はいわゆる外処、これ四大種および四大種所造、有色・無見・有対。このように経中はただ触処が四大種を摂すると説くのみで、分明に其余の有色処は皆大種に非ずと顕示す。もしそうなら、なぜ契経中に「いわゆる眼の肉団中に、もし内に各別の堅性・堅類あらば」と乃至広く説くか。あれは眼根の肉団を離れて堅性等あると説くに非ず、相違の過なし。『入胎経』中にただ六界を士夫と説くは、能く士夫の本事を成ずるを顕さんがため、これらのみに限るに非ず。あの経はまた六触処を説くゆえ。また諸の心所は有に非ざるべきゆえ、また心所をすなわち心と執するもべからず。契経に想・受等の心所法は心に依止すと説くゆえ。また貪心等有りとも説くゆえ。これによって前の説くが如く、諸界は大種所造の差別の義成り。このように大種性等を説いた。十八界中、五根・五境の十有色界は可積集、極微の聚なるゆえ。義に準じて其余の八は非可積集、極微に非ざるゆえ。このように可積集等を説いた。十八界中、いくつが能斫、いくつが所斫か。いくつが能焼、いくつが所焼か。いくつが能称、いくつが所称か。頌に曰く:

謂唯外四界,能斫及所斫,

いわゆるただ外の四界が、能斫および所斫、

亦所燒能稱,能燒所稱諍。

また所焼・能称、能焼・所称には諍あり。

論曰:色香味觸成斧薪等,此即名為能斫所斫。何法名斫?薪等色聚相逼續生,斧等分隔令各續起,此法名斫。身等色根不名所斫,非可全斷令成二故。非身根等可成二分,支分離身則無根故。又身根等亦非能斫,以淨妙故如珠寶光。如能斫所斫體唯外四界,所燒能稱其體亦爾,謂唯外四界名所燒能稱。身等色根亦非二事,以淨妙故如珠寶光。聲界總非,不相續故。能燒所稱有異諍論,謂或有說:能燒所稱體亦如前,唯外四界。或復有說:唯有火界可名能燒,所稱唯重。如是已說能所斫等。十八界中幾異熟生、幾所長養、幾等流性、幾有實事、幾一剎那?頌曰:

論に曰く:色・香・味・触が斧・薪等を成ず、このをすなわち能斫・所斫と名づく。何の法を斫と名づけるか。薪等の色聚が相逼して続生するを、斧等が分隔して各々に続起せしむ、この法を斫と名づく。身等の色根は所斫と名づけず、全く断じて二と成さしむべからざるゆえ。身根等は二分と成すべからざるゆえ、支が身を分離すればすなわち根なきゆえ。また身根等も能斫に非ず、浄妙なるをもって珠宝の光の如し。能斫・所斫の体はただ外の四界なるが如く、所焼・能称の体もまたこの如し。いわゆるただ外の四界を所焼・能称と名づく。身等の色根もまた二事に非ず、浄妙なるをもって珠宝の光の如し。声界は総じて非ず、相続せざるゆえ。能焼・所称には異なる諍論あり。いわゆるあるいは説く:能焼・所称の体もまた前の如くただ外の四界、と。あるいはまた説く:ただ火界のみ能焼と名づくべく、所称はただ重のみ、と。このように能・所の斫等を説いた。十八界中、いくつが異熟生、いくつが所長養、いくつが等流性、いくつが有実事、いくつが一刹那か。頌に曰く:

內五有熟養,聲無異熟生,

内の五には熟・養あり、声に異熟生なく、

八無礙等流,亦異熟生性,

八は無礙で等流、また異熟生の性、

餘三實唯法,剎那唯後三。

其余は三、実はただ法界、刹那はただ後の三。

論曰:內五即是眼等五界。有異熟生及所長養無等流者,離異熟生及所長養,無別性故。異熟因所生名異熟生,如牛所駕車名曰牛車,略去中言故作是說。或所造業至得果時變而能熟,故名異熟。果從彼生,名異熟生。彼所得果與因別類,而是所熟,故名異熟。或於因上假立果名,如於果上假立因名。如契經說:今六觸處,應知即是昔所造業。飲食資助眠睡等持勝緣所益,名所長養。有說:梵行亦能長養。此唯無損,非別有益。長養相續常能護持異熟相續,猶如外郭防援內城。聲有等流及所長養無異熟生。所以者何?隨欲轉故。若爾,不應《施設論》說善修遠離麁惡語故,感得大士梵音聲相。有說:聲屬第三傳故,雖由彼生而非異熟。謂從彼業生諸大種,從諸大種緣擊發聲。有說:聲屬第五傳故,雖由彼生而非異熟。謂彼業生異熟大種,從此傳生長養大種,此復傳生等流大種此乃生聲。若爾,身受從業所生大種生故,應非異熟。若受如聲,便違正理。八無礙者,七心法界此有等流異熟生性。同類遍行因所生者是等流性,若異熟因所引生者名異熟生,諸無礙法無積集故非所長養。餘謂餘四:色、香、味、觸,皆通三種,有異熟生、有所長養、有等流性。實唯法者,實謂無為,以堅實故。此法界攝故,唯法界獨名有實。意、法、意識名為後三,於六三中最後說故。唯此三界有一剎那,謂初無漏苦法忍品,非等流故名一剎那。此說究竟非等流者,餘有為法無非等流。苦法忍相應心名意界、意識界,餘俱起法名為法界。如是已說異熟生等。今應思擇,若有眼界先不成就今得成就亦眼識耶?若眼識界先不成就今得成就亦眼界耶?如是等問,今應略答。頌曰:

論に曰く:内の五とはすなわち眼等の五界。異熟生および所長養あって等流なきとは、異熟生および所長養を離れて別の性なきゆえ。異熟因の生ずる所を異熟生と名づく。牛の駕する車を牛車と名づくるが如く、中間の語を略してかく説く。あるいは造じた業が果を得る時に至って変じて能く熟するゆえに異熟と名づく。果は彼より生ず、異熟生と名づく。彼の得たる果は因と別類にしてしかも熟する所、ゆえに異熟と名づく。あるいは因上に仮に果名を立つる、果上に仮に因名を立つるが如し。契経に説く如く:今の六触処は、すなわち昔の造じた業と知るべし、と。飲食の資助・眠睡・等持の勝縁に益せらるるを所長養と名づく。ある人の説に:梵行もまた能く長養す、と。これはただ損なきのみ、別に益あるに非ず。長養の相続は常に異熟の相続を護持しうる、外郭が内城を防援するが如し。声には等流および所長養ありて異熟生なし。なぜか。欲に随って転ずるゆえ。もしそうなら、『施設論』が「善く遠離の粗悪語を修するゆえに、大士の梵音声の相を感得す」と説くに違すべし。ある人の説に:声は第三伝に属するゆえ、彼によりて生ずと雖も異熟に非ず、と。いわゆるあの業より諸大種を生じ、諸大種より縁撃して声を発す。ある人の説に:声は第五伝に属するゆえ、彼によりて生ずと雖も異熟に非ず、と。いわゆるあの業が異熟の大種を生じ、これより伝じて長養の大種を生じ、これがまた伝じて等流の大種を生じてここに始めて声を生ず。もしそうなら、身受は業の生ずる所の大種より生ずるゆえに、異熟に非ざるべし。受が声の如くならば便ち正理に違す。八の無礙とは、七心・法界、これに等流・異熟生の性あり。同類・遍行の因の生ずる所は等流性、もし異熟因の引生する所を異熟生と名づく。諸の無礙法は積集なきゆえに所長養に非ず。余とはいわゆる其余の四:色・香・味・触、皆三種に通ず、異熟生あり・所長養あり・等流性あり。実はただ法とは、実とはいわゆる無為、堅実なるをもってなり。これは法界の所摂なるゆえに、ただ法界のみ独り有実と名づく。意・法・意識を後三と名づく、六三の中に最後に説くゆえ。ただこの三界のみ一刹那あり、いわゆる初の無漏の苦法忍の品、等流に非ざるゆえに一刹那と名づく。これは究竟の非等流を説くなり、其余の有為法に等流ならざるは無し。苦法忍の相応心を意界・意識界と名づけ、其余の俱起の法を法界と名づく。このように異熟生等を説いた。今思択すべし:もし眼界が先に不成就にして今成就を得る時、また眼識なりや。もし眼識界が先に不成就にして今成就を得る時、また眼界なりや。この如き等の問に、今略して答うべし。頌に曰く:

眼與眼識界,獨俱得非等。

眼と眼識界は、独得・俱得・非等なり。

論曰:獨得者,謂或有眼界先不成就今得成就非眼識,謂生欲界漸得眼根,及無色沒生二三四靜慮地時。或有眼識先不成就今得成就非眼界,謂生二三四靜慮地眼識現起,及從彼沒生下地時。俱得者,謂或有二界先不成就今得成就,謂無色沒生於欲界及梵世時。非者俱非,謂除前相。等謂若有成就眼界亦眼識耶?應作四句。第一句者,謂生二三四靜慮地眼識不起。第二句者,謂生欲界未得眼根及得已失。第三句者,謂生欲界得眼不失,及生梵世若生二三四靜慮地正見色時。第四句者,謂除前相。如是眼界與色界。眼識與色界得成就等如理應思,為攝如是所未說義,是故頌中總復言等。如是已說得成就等。十八界中幾內、幾外?頌曰:

論に曰く:独得とは、いわゆるあるいは眼界が先に不成就にして今成就を得るも眼識に非ず、いわゆる欲界に生じて漸く眼根を得、および無色に没して二・三・四の静慮地に生ずる時。あるいは眼識が先に不成就にして今成就を得るも眼界に非ず、いわゆる二・三・四の静慮地に生じて眼識が現起し、および彼より没して下地に生ずる時。俱得とは、いわゆるあるいは二界が先に不成就にして今成就を得る、いわゆる無色に没して欲界および梵世に生ずる時。非とは俱に非ず、いわゆる前の相を除く。等とはいわゆるもし眼界を成就せばまた眼識なりや。四句を作すべし。第一句とは、いわゆる二・三・四の静慮地に生じて眼識起こらず。第二句とは、いわゆる欲界に生じて未だ眼根を得ずおよび得て已に失う。第三句とは、いわゆる欲界に生じて眼を得て失わず、および梵世に生じ、もし二・三・四の静慮地に生じて正しく色を見る時。第四句とは、いわゆる前の相を除く。このように眼界と色界、眼識と色界の得・成就等は理の如く思うべし。この如く未説の義を摂さんがため、ゆえに頌中に総じてまた等と説く。このように得・成就等を説いた。十八界中、いくつが内、いくつが外か。頌に曰く:

內十二眼等,色等六為外。

内は十二の眼等、色等の六を外とす。

論曰:六根、六識十二名內,外謂所餘色等六境。我依名內,外謂此餘。我體既無,內外何有?我執依止故,假說心為我。故契經說:

論に曰く:六根・六識の十二を内と名づけ、外とはいわゆる其余の色等の六境。我の依を内と名づけ、外とはいわゆるこれの余。我の体既に無し、内外いずくんぞ有らん。我執の依止なるゆえに、仮に心を説いて我と為す。ゆえに契経に説く:

由善調伏我,智者得生天。

善く我を調伏するにより、智者は天に生ずるを得。

世尊餘處說調伏心,如契經言:

(論に続けて曰く:)世尊は余処において心の調伏を説く、契経に説くが如し:

應善調伏心,心調能引樂。

心を善く調伏すべし、心調らば能く楽を引く。

故但於心假說為我。眼等為此所依親近,故說名內。色等為此所緣踈遠,故說名外。若爾,六識應不名內,未至意位非心依故。至意位時不失六識界,未至意位亦非越意相。若異此者,意界唯應在過去世,六識唯在現在未來,便違自宗許十八界皆通三世。又若未來現在六識無意界相,過去意界亦應不立,相於三世無改易故。已說內外。十八界中幾是同分、幾彼同分?頌曰:

(論に続けて曰く:)ゆえにただ心において仮に我と説く。眼等はこれの所依にして親近なるゆえに内と説いて名づく。色等はこれの所縁にして疎遠なるゆえに外と説いて名づく。もしそうなら、六識は内と名づくべからず、未だ意位に至らざるは心の依に非ざるゆえ、と。意位に至る時は六識界を失わず、未だ意位に至らざるもまた意の相に越ゆるに非ず。もしこれに異ならば、意界はただ過去世に在るべく、六識はただ現在・未来に在るべくして、便ち自宗の十八界は皆三世に通ずと許すに違せん。また未来・現在の六識に意界の相無からば、過去の意界もまた立つべからず、相は三世において改易なきゆえ。内外を説いた。十八界中、いくつが同分、いくつが彼同分か。頌に曰く:

法同分餘二,作不作自業。

法界は同分、其余は二、作・不作の業なり。

論曰:法同分者,謂一法界唯是同分。若境與識定為所緣,識於其中已生生法,此所緣境說名同分。無一法界不於其中已正當生無邊意識,由諸聖者決定生心,觀一切法皆為無我。彼除自體及俱有法,餘一切法皆為所緣。如是所除亦第二念心所緣境,此二念心緣一切境無不周遍,是故法界恆名同分。餘二者,謂餘十七界皆有同分及彼同分。何名同分、彼同分耶?謂作自業、不作自業。若作自業名為同分,不作自業名彼同分。此中眼界於有見色已正當見名同分眼,如是廣說,乃至意界各於自境應說自用。迦濕彌羅國毘婆沙師說:彼同分眼但有四種,謂不見色已正當滅及不生法。西方諸師說有五種:謂不生法復開為二,一有識屬、二無識屬,乃至身界應知亦然。意彼同分唯不生法。色界為眼已正當見名同分色,彼同分色亦有四種,謂非眼見已正當滅及不生法,廣說乃至觸界亦爾。各對自根應說自用,應知同分及彼同分。眼若於一是同分,於餘一切亦同分。彼同分亦如是,廣說乃至意界亦爾。色即不然,於見者是同分,於不見者是彼同分。所以者何?色有是事,謂一所見亦多所見,如觀月舞相撲等色。眼無是事,謂一眼根二能見色,眼不共故,依一相續建立同分及彼同分。色是共故,依多相續建立同分及彼同分。如說色界,聲香味觸應知亦爾。聲可如色。香味觸三至根方取,是不共故,一取非餘。理應如眼等,不應如色說。雖有是理而容有共。所以者何?香等三界於一及餘,皆有可生鼻等識義。眼等不然,故如色說。眼等六識同分彼同分生不生法故,如意界說。云何同分、彼同分義?根境識三更相交涉故名為分,或復分者是已作用,或復分者是所生觸,同有此分故名同分。與此相違名彼同分,由非同分與彼同分種類分同,名彼同分。已說同分及彼同分。十八界中幾見所斷、幾修所斷、幾非所斷?頌曰:

論に曰く:法の同分とは、いわゆる一法界はただ同分のみ。もし境と識とが定めて所縁となり、識がその中に已生・正生の法ならば、この所縁境を同分と説いて名づく。一法界としてその中に已・正・当に生ぜんとする無辺の意識ならざるなし、諸の聖者が決定して心を生じ、一切法を観じて皆無我と為すゆえ。それらは自体および俱有法を除くの余、一切の法を皆所縁と為す。このように除かるる所もまた第二念心の所縁境なり、この二念の心は一切境に縁じて遍せざるなし。ゆえに法界は恒に同分と名づく。其余の二とは、いわゆる其余の十七界は皆同分および彼同分あり。何を同分・彼同分と名づくるか。いわゆる作業を作る・作業を作さざる。もし作業を作すを同分と名づけ、作業を作さざるを彼同分と名づく。ここで眼界は見るべき色を已・正・当に見るを同分眼と名づく。このように広く説き、乃至意界も各々自境において自用を説くべし。迦湿弥羅国の毘婆沙師の説に:彼同分の眼はただ四種あり、いわゆる色を見ずして已・正・当に滅す、および不生の法、と。西方の諸師は五種と説く:いわゆる不生法をまた開きて二とす、一は識属あり、二は識属なし。乃至身界もまたこの如くと知るべし。意の彼同分はただ不生法のみ。色界は眼に已・正・当に見らるるを同分色と名づく。彼同分色もまた四種あり、いわゆる眼の見る所に非ずして已・正・当に滅す、および不生法。広く説き乃至触界もまたこの如し。各々自根に対して自用を説き、同分および彼同分と知るべし。眼はもし一において同分ならば、其余の一切においても同分なり。彼同分もまたこの如し、広く説き乃至意界もまたこの如し。色は然らず、見る者においては同分、見ざる者においては彼同分。なぜか。色にこの事あり、いわゆる一の見る所にして多の見る所なり、月・舞・相撲等の色を観ずるが如し。眼にこの事無し、いわゆる一の眼根は二の能く色を見る者なり。眼は共に非ざるゆえ、一相続に依って同分および彼同分を建立す。色は共なるゆえ、多相続に依って同分および彼同分を建立す。色界を説くが如く、声・香・味・触もまたこの如くと知るべし。声は色の如くすべし。香・味・触の三は根に至りて才に取る、不共なるゆえ、一は取りて其余に非ず。理は眼等の如くあるべく、色の如く説くべからず。この理あると雖も而も共あるを容る。なぜか。香等の三界は一においても其余においても、皆鼻等の識を生ずべき義あるゆえ。眼等は然らず、ゆえに色の如く説く。眼等の六識は同分・彼同分に生・不生の法あるゆえ、意界の如く説く。どうして同分・彼同分の義か。根・境・識の三が更互に相交渉するゆえに分と名づく。あるいはまた分とは已に作用せしこと、あるいはまた分とは生ずる所の触、同じくこの分を有するゆえに同分と名づく。これに相違するを彼同分と名づく、非同分にして彼同分の種類の分に同じきゆえに彼同分と名づく。同分および彼同分を説いた。十八界中、いくつが見所断、いくつが修所断、いくつが非所断か。頌に曰く:

十五唯修斷,後三界通三,

十五はただ修断、後の三界は三に通ず、

不染非六生,色定非見斷。

不染・非六生・色は、定めて見断に非ず。

論曰:十五界者,謂十色界及五識界。唯修斷者,此十五界唯修所斷。後三界者,意界、法界及意識界。通三者,謂此後三界各通三種。八十八隨眠及彼俱有法並隨行得,皆見所斷,諸餘有漏皆修所斷,一切無漏皆非所斷。豈不更有見所斷法,謂異生性及招惡趣身語業等,此與聖道極相違故。雖爾,此法非見所斷,略說彼相,謂不染法非六生色,定非見斷。其異生性是不染汙,無記性攝,已離欲者斷善根者猶成就故。此異生性若見所斷,苦法忍位應是異生。六謂意處,異此而生名非六生,是從眼等五根生義,即五識等。色謂一切身語業等。前及此色,定非見斷。所以者何?非迷諦理親發起故。如是已說見所斷等。十八界中幾是見、幾非見?頌曰:

論に曰く:十五界とは、いわゆる十色界および五識界。ただ修断とは、この十五界はただ修の所断なり。後の三界とは、意界・法界および意識界。三に通ずとは、いわゆるこの後の三界は各々三種に通ず。八十八の随眠および彼の俱有法ならびに随行の得は皆見所断、諸の其余の有漏は皆修所断、一切の無漏は皆非所断。さてまた見所断の法あるか、いわゆる異生性および悪趣を招く身語業等、これは聖道と極めて相違するゆえ、と。然りと雖も、この法は見所断に非ず。略して彼の相を説けば、いわゆる不染法・非六生・色は、定めて見断に非ず。その異生性は不染污にして無記性の所摂、已に欲を離れ善根を断じたるもなお成就するゆえ。この異生性もし見所断ならば、苦法忍の位は異生ならん。六とはいわゆる意処、これに異なりて生ずるを非六生と名づく、これ眼等の五根より生ずる義なり、すなわち五識等。色とはいわゆる一切の身語業等。前およびこの色は、定めて見断に非ず。なぜか。諦理に迷ひて親しく発起するに非ざるゆえ。このように見所断等を説いた。十八界中、いくつが見、いくつが非見か。頌に曰く:

眼法界一分,八種說名見,

眼・法界一分、八種を見と説いて名づく、

五識俱生慧,非見不度故。

五識の俱生の慧は見に非ず、度せざるゆえ。

眼見色同分,非彼能依識,

眼の色を見るは同分、あの能依の識に非ず、

傳說不能觀,彼障諸色故。

伝説に観ること能わず、彼に障せらるる諸色なるゆえ。

論曰:眼全是見,法界一分八種是見,餘皆非見。何等為八?謂身見等五染汙見、世間正見、有學正見、無學正見。於法界中此八是見,所餘非見。身見等五,隨眠品中時至當說。世間正見,謂意識相應善有漏慧。有學正見,謂有學身中諸無漏見。無學正見,謂無學身中諸無漏見。譬如夜分晝分有雲無云,覩眾色像明昧有異,如是世間諸見有染無染。學無學見,觀察法相明昧不同。何故?世間正見唯意識相應,以五識俱生慧不能決度故,審慮為先決度名見。五識俱慧無如是能,以無分別是故非見。准此,所餘染無染慧及諸餘法非見應知。若爾,眼根不能決度,云何名見?以能明利觀照諸色故亦名見。若眼見者,餘識行時亦應名見。非一切眼皆能現見。誰能現見?謂同分眼與識合位能見非餘。若爾,則應彼能依識見色非眼。不爾,眼識定非能見。所以者何?傳說,不能觀障色故,現見壁等所障諸色則不能觀。若識見者,識無對故,壁等不礙應見障色。於被障色眼識不生,識既不生如何當見?眼識於彼何故不生?許眼見者眼有對故,於彼障色無見功能。識與所依一境轉故,可言於彼眼識不生。許識見者何緣不起?眼豈如身根境合方取而言有對故不見彼耶?又頗胝迦、瑠璃、雲母、水等所障云何得見?是故不由眼有對故,於彼障色無見功能。若爾,所執眼識云何?若於是處光明無隔,於彼障色眼識亦生。若於是處光明有隔,於彼障色眼識不生。識既不生,故不能見。然經說眼能見色者,是見所依,故說能見。如彼經言:意能識法。非意能識,以過去故。何者能識?謂是意識。意是識依,故說能識。或就所依說能依業,如世間說床座言聲。又如經言:眼所識色可愛可樂。然實非此可愛樂色是眼所識。又如經說:梵志當知,以眼為門唯為見色。故知眼識依眼門見。亦不應言門即是見,豈容經說以眼為見唯為見色?

論に曰く:眼は全きは見、法界一分の八種は見、其余は皆非見。いずれが八か。いわゆる身見等の五染污見・世間正見・有学正見・無学正見。法界中においてこの八は見、其余は非見。身見等の五は随眠品の中に时至りて説くべし。世間正見とは、いわゆる意識相応の善有漏慧。有学正見とは、いわゆる有学の身中の諸の無漏見。無学正見とは、いわゆる無学の身中の諸の無漏見。譬えば夜分・昼分に雲あり雲なきに、衆色の像を睹るに明昧異なるが如く、このように世間の諸見に染あり無染あり、学・無学の見は法相を観察するに明昧同じからず。なぜか。世間正見はただ意識に相応、五識の俱生の慧は決度し能わざるゆえ、審慮を先として決度するを見と名づく。五識の俱慧にかかる能なし、無分別をもってゆえに非見。これに準じ、其余の染・無染の慧および諸の其余の法は非見と知るべし。もしそうなら、眼根は決度し能わず、どうして見と名づくるか。能く明利に諸色を観照するをもってゆえにまた見と名づく。もし眼の見る所ならば、其余の識の行ずる時もまた見と名づくべし。一切の眼皆能く現見するに非ず。誰が能く現見するか。いわゆる同分の眼と識と合する位に能く見る、其余に非ず。もしそうなら、あの能依の識が色を見るにして眼に非ずとすべし。そうではない、眼識は定めて能見に非ず。なぜか。伝説に、障せらるる色を観ること能わざるゆえ。現に壁等に障せらるる諸色を見れば則ち観る能わず。もし識の見る所ならば、識は無対なるゆえ、壁等は礙せざれば障色を見るべし。障せられたる色において眼識生ぜず、識既に生ぜざればどうして当に見ん。眼識は彼においてなぜ生ぜざるか。眼の見るを許すは眼の有対なるゆえ、彼の障色において見の功能なし。識と所依と一境に転ずるゆえに、彼において眼識生ぜずと説きうべし。識の見るを許すは何の縁か起こらざる。眼は豈に身根の如く境合して才に取ると説いて有対なるゆえに彼を見ざるか。また頗胝迦・瑠璃・雲母・水等の障する所はどうして見るを得るか。ゆえに眼の有対によるに由らず、彼の障色において見の功能なし。もしそうなら、所執の眼識はいかに。もしこの処において光明隔たりなければ、彼の障色においても眼識また生ず。もしこの処において光明隔たりあれば、彼の障色において眼識生ぜず。識既に生ぜざれば、ゆえに見る能わず。しかるに経の説く眼の能く色を見るは、見の所依を説くなり、ゆえに能見と説く。あの経の説くが如し:意は能く法を識す、と。意の能く識するに非ず、過去なるをもってなり。何者か能く識する。いわゆるこれ意識。意は識の依なり、ゆえに能識と説く。あるいは所依に就いて能依の業を説く、世間に床座が声を言うと説くが如し。また経の説くが如く:眼の識する所の色は可愛可楽、と。しかるに実にはこの可愛可楽の色は眼の識する所に非ず。また経の説くが如く:梵志は知るべし、眼をもって門と為してただ色を見るのみ、と。ゆえに眼識は眼門に依りて見ると知る。門をすなわち見と説くべからず、豈に経の「眼をもって見と為し、ただ色を見るのみ」と説くを容れんや。

若識能見誰復了別?見與了別二用何異?以即見色名了色故,譬如少分慧名能見亦能簡擇。如是少分識名能見亦能了別。有餘難言:若眼能見,眼是見者,誰是見用?此言非難,如共許識是能了別,然無了者。了用不同,見亦應爾。有餘復言:眼識能見,是見所依故,眼亦名能見。如鳴所依故,亦說鍾能鳴。若爾,眼根識所依,故應名能識。無如是失。世間同許眼識是見,由彼生時說能見色,不言識色。毘婆沙中亦作是說:若眼所得、眼識所受說名所見。是故但說眼名能見,不名能識。唯識現前說能識色,譬如說日名能作晝。經部諸師有作是說:如何共聚楂掣虛空眼色等緣生於眼識?此等於見孰為能所?唯法因果實無作用,為順世情假興言說,眼名能見、識名能了,智者於中不應封著。如世尊說:方域言詞不應堅執,世俗名想不應固求。然迦濕彌羅國毘婆沙宗,說眼能見、耳能聞、鼻能嗅、舌能嘗、身能覺、意能了。於見色時,為一眼見、為二眼見?此無定準。頌曰:

もし識が能く見れば誰か了別する。見と了別との二用は何の異なるか。すなわち色を見るをもって色を了と名づくるを以てなり。譬えば少分の慧を能見と名づけまた能く簡択す。このように少分の識を能見と名づけまた能く了別す。あるいは余に難じて説く:もし眼が能く見れば、眼は見者にして、誰か見用なる、と。この言は難に非ず。共に識は能了別と許すが如く、しかるに了者無し。了用は同じからず、見もまたしかるべし。あるいは余にまた説く:眼識は能く見る、見の所依なるゆえに、眼をもまた能見と名づく。鳴る所依なるゆえに鐘も能く鳴らすと説くが如し。もしそうなら、眼根は識の所依なるゆえに能識と名づくべし。かかる失なし。世間は同じく眼識を見と許し、彼より生ずる時に能く色を見ると説き、識の色とは説かず。毘婆沙中にもまたかく説く:もし眼の得る所・眼識の受くる所は見る所と説いて名づく、と。ゆえにただ眼のみ能見と名づけて能識と名づけず。ただ識の現前を説いて能く色を識すとす、譬えば日を説いて能く昼を作すと名づくるが如し。経部の諸師にかく説く者あり:どうして虚空を楂掣して共に聚まり、眼・色等の縁が眼識を生ぜん。これらは見において孰れか能・孰れか所。ただ法の因果のみ実には作用無し。世情に順ぜんがため仮に言説を興す。眼は能見と名づけ、識は能了と名づく。智者はその中において封著すべからず。世尊の説くが如し:方域の言詞は堅執すべからず、世俗の名想は固く求むべからず、と。しかるに迦湿弥羅国の毘婆沙宗は、眼は能見・耳は能聞・鼻は能嗅・舌は能嘗・身は能覚・意は能了と説く。色を見る時において、一眼の見るか、二眼の見るか。これに定準なし。頌に曰く:

或二眼俱時,見色分明故。

あるいは二眼同時に、色を見ること分明なるゆえ。

論曰:阿毘達磨諸大論師鹹言:或時二眼俱見,以開二眼見色分明,開一眼時不分明故。又開一眼觸一眼時,便於現前見二月等,閉一觸一此事則無,是故或時二眼俱見。非所依別識成二分,住無方故不同礙色。若此宗說眼見耳聞乃至意了,彼所取境根正取時,為至不至?頌曰:

論に曰く:アビダルマの諸の大論師は皆説く:あるいは時に二眼が俱に見る、二眼を開きて色を見れば分明なり、一眼を開く時は分明ならざるゆえ、と。また一眼を開きて一眼に触るる時、便ち現前に二月等を見る。一を閉じ一に触れればこの事は無し。ゆえに或時は二眼俱に見る。所依別れて識が二分と成るに非ず、方に住せざるをもって礙色に同じからざるゆえ。もしこの宗が眼の見・耳の聞乃至意の了を説かば、彼の取る所の境に根が正に取る時、これ至るか至らざるか。頌に曰く:

眼耳意根境,不至三相違。

眼・耳・意の根の境は至らず、三はこれに相違す。

論曰:眼耳意根取非至境,謂眼能見遠處諸色,眼中藥等則不能觀。耳亦能聞遠處聲響,逼耳根者則不能聞。若眼耳根唯取至境,則修定者應不修生天眼、耳根,如鼻根等。若眼能見不至色者,何故不能普見一切遠有障等不至諸色?如何磁石吸不至鐵,非吸一切不至鐵耶?執見至境亦同此難。何故不能普見一切眼藥籌等至眼諸色?又如鼻等能取至境,然不能取一切與根俱有香等。如是眼根雖見不至而非一切,耳根亦爾。意無色故,非能有至。有執:耳根通取至境及不至境,自耳中聲亦能聞故。所餘鼻等三有色根,與上相違唯取至境。如何知鼻唯取至香?由斷息時不嗅香故。云何名至?謂無間生。又諸極微為相觸不?迦濕彌羅國毘婆沙師說不相觸。所以者何?若諸極微遍體相觸,即有實物體相雜過。若觸一分,成有分失,然諸極微更無細分。若爾,何故相擊發聲?但由極微無間生故。若許相觸,擊石拊手體應相糅。不相觸者,聚色相擊云何不散?風界攝持故令不散。或有風界能有壞散,如劫壞時。或有風界能有成攝,如劫成時。云何三根由無間生名取至境?即由無間名取至境,謂於中間都無片物。又和合色許有分故,相觸無失。由許此理,毘婆沙文義善成立。故彼問言:諸是觸物為是觸為因故生?為非觸為因故生?諸非觸物為問亦爾。彼就此理為不定答,有時是觸為因生於非觸,謂和合物正離散時。有時非觸為因生於是觸,謂離散物正和合時。有時是觸為因生於是觸,謂和合物復和合時。有時非觸為因生於非觸,謂向遊塵同類相續。尊者世友說:諸極微相觸即應住至後念。然大德說:一切極微實不相觸,但由無間假立觸名。此大德意應可愛樂。若異此者,是諸極微應有間隙。中間既空,誰障其行許為有對?又離極微無和合色,和合相觸即觸極微。如可變礙,此亦應爾。又許極微若有方分,觸與不觸皆應有分。

論に曰く:眼・耳・意の根は不至の境を取る。いわゆる眼は遠処の諸色を見うるが、眼中の薬等は観ること能わず。耳もまた遠処の声響を聞きうるが、耳根に逼るは聞くこと能わず。もし眼・耳の根がただ至境のみを取るならば、定を修する者は天眼・耳根を修生すべきでない、鼻根等の如く。もし眼が不至の色を見うるなら、なぜ一切の遠く障りある等の不至の諸色を普く見ること能わざるか。磁石が不至の鉄を吸うが、一切の不至の鉄を吸わざるは如何。見は至境を執するもまたこの難に同じ。なぜ一切の眼薬・籌等の至眼の諸色を普く見ること能わざるか。また鼻等の如く至境を取り能うとも、一切の根と俱有の香等を取ること能わず。このように眼根は不至を見ると雖も一切に非ず、耳根もまたこの如し。意は色無きゆえに、至を有し能わず。ある執に:耳根は至境および不至境を通じて取る、自耳中の声もまた聞きうるゆえ、と。其余の鼻等の三有色根は上に相違してただ至境を取る。どうして鼻はただ至香を取ると知るか。息を断ずる時は香を嗅がざるゆえ。何を至と名づくるか。いわゆる無間に生ずる。また諸の極微は相触するや否や。迦湿弥羅国の毘婆沙師は相触せずと説く。なぜか。もし諸の極微が遍体に相触すれば、すなわち実物の体が相雑するの過あり。もし一分に触れれば、有分の失を成ず、しかるに諸の極微は更に細分化なし。もしそうなら、なぜ相撃して声を発するか。ただ極微が無間に生ずるによるゆえ。もし相触を許さば、石を撃ち手を拊すに体は相糅すべし。相触せざるなら、聚色が相撃す時どうして散ぜざるか。風界が摂持して散ぜしめざるゆえ。あるいは風界に能く壊散するあり、劫の壊する時の如し。あるいは風界に能く成摂するあり、劫の成ずる時の如し。どうして三根は無間に生ずるによって至境を取ると名づくるか。すなわち無間によるをもって至境を取ると名づく、いわゆる中間に片物も無きがゆえ。また和合色は分あるを許すゆえに、相触しても失なし。この理を許すにより、毘婆沙の文義は善く成立す。ゆえにあの問に曰く:諸の触物は触を因として生ずるか、それとも非触を因として生ずるか。諸の非触物についての問もまたこの如し。あれらはこの理に就いて不定の答を為す。ある時は触を因として非触に生ず、いわゆる和合物が正に离散する時。ある時は非触を因として触に生ず、いわゆる离散物が正に和合する時。ある時は触を因として触に生ず、いわゆる和合物がまた和合する時。ある時は非触を因として非触に生ず、いわゆる向遊塵が同類に相続する如し。尊者世友(ヴァスミトラ)が説く:諸の極微が相触すればすなわち後念に至るまで住すべし、と。しかるに大徳の説く:一切の極微は実には相触せず、ただ無間によりて仮に触の名を立つ、と。この大徳の意はこそ愛楽すべきなれ。もしこれに異ならば、あの諸の極微は間隙あるべし。中間既に空なれば、誰かその行を障して有対と許さん。また極微を離れて和合色無し、和合相触すればすなわち極微に触れん。変碍しうる如く、これもまたしかるべし。また極微もし方分あらばと許すなら、触と不触と皆分あるべし。

若無方分,設許相觸亦無斯過。又眼等根,為於自境唯取等量,速疾轉故,如旋火輪見大山等?為於自境通取等量不等量耶?頌曰:

もし方分無からば、設ひ相触を許すともこの過無し。また眼等の根は、自境においてただ等量のみを取るか、速疾に転ずるゆえ、旋火輪の大山等を見るが如くか。それとも自境において等量・不等量を通じて取るか。頌に曰く:

應知鼻等三,唯取等量境。

鼻等の三はただ等量の境を取ると知るべし。

論曰:前說至境鼻等三根,應知唯能取等量境。如根微量,境微亦然,相稱合生鼻等識故。眼耳不定,謂眼於色有時取小如見毛端,有時取大如暫開目見大山等,有時取等如見蒲桃。如是耳根,聽蚊雷等所發種種小大音聲,隨其所應小大等量。意無質礙,不可辯其形量差別。云何眼等諸根極微安布差別?眼根極微在眼星上傍布而住,如香荾花清澈映覆令無分散。有說:重累如丸而住,體清澈故,如頗胝迦不相障礙。耳根極微居耳穴內旋環而住,如卷樺皮。鼻根極微居鼻頞內背上面下,如雙爪甲。此初三根橫作行度處無高下,如冠花鬘。舌根極微布在舌上,形如半月。傳說:舌中如毛端量,非為舌根極微所遍。身根極微遍住身分,如身形量。女根極微形如鼓𣞙,男根極微形如指𩎽。眼根極微有時一切皆是同分,有時一切皆彼同分,有時一分是彼同分餘是同分。乃至舌根極微亦爾。身根極微定無一切皆是同分,乃至極熱捺落迦中猛焰纏身,猶有無量身根極微是彼同分。傳說:身根設遍發識身應散壞,以無根境各一極微為所依緣能發身識。五識決定積集多微,方成所依所緣性故。即由此理亦說極微名無見體,不可見故。如前所說識有六種,謂眼識界乃至意識,為如五識唯緣現在意識通緣三世非世,如是諸識依亦爾耶?不爾,云何?頌曰:

論に曰く:前に説いた至境の鼻等三根は、ただ等量の境のみを取ると知るべし。根の微量の如く境の微もまたこの如し、相称合して鼻等の識を生ずるゆえ。眼・耳は定まらず。いわゆる眼は色においてある時は小を取り、毛端を見るが如く、ある時は大を取り、暫く目を開いて大山等を見、ある時は等を取り、蒲桃を見るが如し。このように耳根は、蚊・雷等の発する種種の小大の音声を聴き、その応ずる所に随って小大等量なり。意は質礙なし、その形量の差別を弁ずべからず。どうして眼等の諸根の極微の安布の差別か。眼根の極微は眼星の上に傍布して住す、香荾花が清澈に映覆して分散なからしむるが如し。ある人の説に:重累して丸の如く住す、体の清澈なるゆえ、頗胝迦の相障碍せざるが如し、と。耳根の極微は耳穴の内に居り旋環して住す、巻きたる樺皮の如し。鼻根の極微は鼻頞の内に居り背は上面は下、双爪甲の如し。この初三根は横に行度を作し処に高下なし、冠の花鬘の如し。舌根の極微は舌上に布く、形は半月の如し。伝説に:舌中に毛端量の如きあり、舌根の極微の遍する所に非ず、と。身根の極微は遍く身の分に住す、身形の量の如し。女根の極微の形は鼓𣞙の如く、男根の極微の形は指𩎽の如し。眼根の極微はある時は一切皆是同分、ある時は一切皆是彼同分、ある時は一分は彼同分にして其余は同分。乃至舌根の極微もまたこの如し。身根の極微は定めて一切都是同分無し、乃至極熱の捺落迦(地獄)中に猛焰が身に纏うとも、なお無量の身根極微は彼同分なり。伝説に:身根もし遍く識を発せば身は散壊すべし、無根の境各々一極微を所依・所縁と為して能く身識を発するを以てなり、と。五識は決定して多微を積集してこそ所依・所縁の性を成ずるゆえ。すなわちこの理によりてまた極微を無見体と名づくと説く、見るべからざるゆえ。前の説くが如く識に六種あり、いわゆる眼識界乃至意識。このごとく五識はただ現在に縁じ、意識は三世・非世に通じて縁ずるが如く、これらの諸識の依もまたこの如くか。そうではない。どうか。頌に曰く:

後依唯過去,五識依或俱。

後の依はただ過去、五識の依はあるいは俱なり。

論曰:意識唯依無間滅意,眼等五識所依或俱,或言表此亦依過去。眼是眼識俱生所依,如是乃至身是身識俱生所依,同現世故。無間滅意是過去依。此五識身所依各二,謂眼等五是別所依,意根為五通所依性,故如是說。若是眼識所依性者,即是眼識等無間緣耶?設是眼識等無間緣者,復是眼識所依性耶?應作四句。第一句,謂俱生眼根。第二句,謂無間滅心所法界。第三句,謂過去意根。第四句,謂除所說法。乃至身識亦爾,各各應說自根。意識應作順前句答,謂是意識所依性者,定是意識等無間緣。有是意識等無間緣,非與意識為所依性,謂無間滅心所法界。何因識起俱託二緣,得所依名在根非境?頌曰:

論に曰く:意識はただ無間滅の意に依り、眼等の五識の所依はあるいは俱なり。「或」の字はこれもまた過去に依るを表す。眼は眼識の俱生の所依、このように乃至身は身識の俱生の所依、同じく現世的ゆえ。無間滅の意は過去の依。この五識身の所依は各々二あり、いわゆる眼等の五は別の所依、意根は五の通所依性と為す。ゆえにかく説く。もし眼識の所依性なるものは、すなわち眼識等の無間縁か。設ひ眼識等の無間縁なるものは、また眼識の所依性か。四句を作すべし。第一句、いわゆる俱生の眼根。第二句、いわゆる無間滅の心所法界。第三句、いわゆる過去の意根。第四句、いわゆる説く所を除く。乃至身識もまたこの如し、各々自根を説くべし。意識は順前句の答を作すべし、いわゆるこれ意識の所依性なるは、定めて意識等の無間縁なり。意識等の無間縁なるも意識に所依性と為さざるあり、いわゆる無間滅の心所法界。何の因に識の起るは俱に二縁に托するに、所依の名は根に在りて境に非ず。頌に曰く:

隨根變識異,故眼等名依。

根の変に随い識が異なるゆえに、眼等を依と名づく。

論曰:眼等即是眼等六界,由眼等根有轉變故。諸識轉異,隨根增損識明昧故。非色等變令識有異,以識隨根不隨境故。依名唯在眼等非餘。何緣色等正是所識而名眼識,乃至意識不名色識乃至法識?頌曰:

論に曰く:眼等とはすなわち眼等の六界、眼等の根に転変あるゆえに諸識が転じて異なる。根の増損に随って識に明昧あるゆえ。色等の変が識を異ならしむるに非ず、識は根に随いて境に随わざるを以てなり。依の名はただ眼等に在りて其余に非ず。何の縁にか色等は正しく識せらるる所なるに、眼識と名づけ乃至意識は色識と名づけず乃至法識と名づけざるか。頌に曰く:

彼及不共因,故隨根說識。

彼および不共の因なるゆえに、根に随いて識を説く。

論曰:彼謂前說眼等名依,根是依故隨根說識。及不共者,謂眼唯自眼識所依,色亦通為他身眼識及通自他意識所取,乃至身觸應知亦爾,由所依勝及不共因故識得名。隨根非境,如名鼓聲及麥牙等。隨身所住眼見色時,身眼色識地為同不?應言此四或異或同,謂生欲界,若以自地眼見自地色,四皆自地。若以初靜慮眼見欲界色,身色慾界、眼識初定。見初定色,身屬欲界、三屬初定。若以二靜慮眼見欲界色,身色慾界、眼屬二定、識屬初定。見初定色,身屬欲界、眼屬二定、色識初定。見二定色,身屬欲界、眼色二定、識屬初定。如是若以三四靜慮地眼見下地色或自地色,如理應思。生初靜慮,若以自地眼見自地色,四皆同地見欲界色,三屬初定、色屬欲界。若以二靜慮眼見初定色,三屬初定、眼屬二定。見欲界色,身識初定、色屬欲界、眼屬二定。見二定色,身識初定、眼色二定。如是若以三四靜慮地眼見自地色或下上色,如理應思。如是生二三四靜慮,以自他地眼見自他地色,如理應思。餘界亦應如是分別。今當略辯此決定相。頌曰:

論に曰く:「彼」とはいわゆる前に説く眼等を依と名づけたる、根は依なるゆえに根に随いて識を説く。および不共とは、いわゆる眼はただ自の眼識の所依、色はまた通じて他身の眼識および通じて自他の意識の取る所。乃至身・触もまたこの如くと知るべし。所依の勝および不共の因によるゆえに識は名を得る。根に随いて境に随わず、鼓声および麦芽等を名づくるが如し。身に随い住する所の眼が色を見る時、身・眼・色・識の地は同じか同じからざるか。まさにこの四はあるいは異なりあるいは同じと説くべし。いわゆる欲界に生じて、もし自地の眼を以て自地の色を見れば、四は皆自地。もし初静慮の眼を以て欲界の色を見れば、身・色は欲界、眼・識は初定。初定の色を見れば、身は欲界に属し、三は初定に属す。もし二静慮の眼を以て欲界の色を見れば、身・色は欲界、眼は二定に属し、識は初定に属す。初定の色を見れば、身は欲界に属し、眼は二定に属し、色・識は初定。二定の色を見れば、身は欲界に属し、眼・色は二定、識は初定。このようにもし三・四の静慮地の眼を以て下地の色あるいは自地の色を見るは、理の如く思うべし。初静慮に生じて、もし自地の眼を以て自地の色を見れば、四は皆同地。欲界の色を見れば、三は初定に属し、色は欲界に属す。もし二静慮の眼を以て初定の色を見れば、三は初定に属し、眼は二定に属す。欲界の色を見れば、身・識は初定、色は欲界に属し、眼は二定に属す。二定の色を見れば、身・識は初定、眼・色は二定。このようにもし三・四の静慮地の眼を以て自地の色あるいは下・上の色を見るは、理の如く思うべし。このように二・三・四の静慮に生じて、自他地の眼を以て自他地の色を見るは、理の如く思うべし。其余の界もまたこの如く分別すべし。今略してこの決定の相を弁ずべし。頌に曰く:

眼不下於身,色識非上眼,

眼は身に下らず、色・識は眼に上らず、

色於識一切,二於身亦然。

色は識において一切、二は身においてもまたこの如し。

如眼耳亦然,次三皆自地,

眼の如く耳もまたこの如し、次の三は皆自地、

身識自下地,意不定應知。

身識は自・下地、意は定まらずと知るべし。

論曰:身眼色三皆通五地,謂在欲界四靜慮中,眼識唯在欲界初定。此中眼根望身生地,或等或上終不居下。色識望眼等下非上,下眼不能見上色故、上識不依下地眼故。色望於識通等上下,色識於身如色於識。廣說耳界應知如眼,謂耳不下於身,聲識非上耳,聲於識一切。二於身亦然,隨其所應廣如眼釋。鼻舌身三總皆自地,於中別者,謂身與觸其地必同。識望觸身或自或下,自謂若生欲界初定,生上三定謂之為下。應知意界四事不定,謂意有時與身識法四皆同地,有時上下。身唯五地,三通一切。於遊等至及受生時,隨其所應或同或異,如後定品當廣分別。為捨繁文故今未辯,前後再述用少功多。傍論已周,應辯正論。今當思擇,十八界中誰六識內幾識所識?幾常、幾無常?幾根、幾非根?頌曰。

論に曰く:身・眼・色の三は皆五地に通ず、いわゆる欲界および四静慮中に在り、眼識はただ欲界・初定に在り。ここで眼根は身の生ずる地に望んで、あるいは等しくあるいは上なるも終に下に居らず。色・識は眼に望んで等しくか下なるも上に非ず、下の眼は上の色を見る能わざるゆえ、上の識は下地の眼に依らざるゆえ。色は識に望んで等・上下に通ず、色・識が身においては色が識におけるが如し。広く耳界を説くも眼の如く知るべし、いわゆる耳は身に下らず、声・識は耳に上らず、声は識において一切。二は身においてもまたこの如し。その応ずる所に随い、広く眼の釈の如し。鼻・舌・身の三は総じて皆自地。その中の分別とは、いわゆる身と触とはその地必ず同じ。識は触・身に望み、あるいは自、あるいは下。自とはいわゆるもし欲界・初定に生ぜば、上の三定に生ずるをこれ下と謂う。意界は四事定まらずと知るべし。いわゆる意はある時は身・識・法と四が皆同地、ある時は上下。身はただ五地、三は一切に通ず。等至に遊ぶ時および受生の時、その応ずる所に随いあるいは同じくあるいは異なり、後の定品において広く分別すべきが如し。繁文を捨てんがためのゆえに今未だ弁ぜず、前後に再び述べるは用少なく功多し。傍論已に周らん、正論を弁ずべし。今思択すべし:十八界中、誰か六識の内、いくつの識の識する所か。いくつが常、いくつが无常か。いくつが根、いくつが非根か。頌に曰く:

五外二所識,常法界無為,

五は外の二の識する所、常は法界の無為、

法一分是根,並內界十二。

法の一分は根、ならびに内界の十二。

論曰:十八界中色等五界,如其次第眼等五識各一所識,又總皆是意識所識。如是五界各六識中二識所識。由此準知,餘十三界一切唯是意識所識,非五識身所緣境故。十八界中無有一界全是常者,唯法一分無為是常,義準無常法餘餘界。又經中說二十二根,謂眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根、女根、男根、命根、樂根、苦根、喜根、憂根、捨根、信根、勤根、念根、定根、慧根、未知當知根、已知根、具知根。阿毘達磨諸大論師,皆越經中六處次第,於命根後方說意根,有所緣故。如是所說二十二根,十八界中內十二界法一分攝。法一分者,命等十一、後三一分,法界攝故。內十二者,眼等五根如自名攝,意根通是七心界攝,後三一分意意識攝,女根、男根即是身界一分所攝。如後當辯。義準所餘,色等五界法界一分皆體非根。

論に曰く:十八界中の色等の五界は、この次第によって眼等の五識の各々一の識する所、また総じて皆意識の識する所。このように五界は各々六識中の二識の識する所。これによって其余の十三界は一切ただ意識の識する所と準知すべし、五識身の縁ずる境に非ざるゆえ。十八界中に全き常なる一界なし、ただ法界一分の無為は常なり。義に準じて無常の法は其余、其余の界。また経中に二十二根を説く。いわゆる眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根・女根・男根・命根・楽根・苦根・喜根・憂根・捨根・信根・勤根・念根・定根・慧根・未知当知根・已知根・具知根。アビダルマの諸の大論師は皆経中の六処の次第を越え、命根の後に意根を説く、有所縁なるゆえ。このように説く二十二根は十八界中、内の十二界・法の一分の所摂。法の一分とは、命等の十一・後三の一分、法界の所摂なるゆえ。内の十二とは、眼等の五根は自名の如く摂せられ、意根は通じて七心界の所摂、後三の一分は意・意識の所摂、女根・男根はすなわち身界一分の所摂、後に弁ずべきが如し。義に準じて其余の、色等の五界・法界一分は皆体は根に非ず。

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